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不定期便991 《「真説・古代史」拾遺編》(10)

偽装「大化の改新」(2) ― 年号「大化」について


 明治以前には多くの研究者が九州年号について 論議を交わしていた。次のような関連文献が残さ れている。

『和漢年代記』『皇代記』『二中歴』 『麗気記私抄』『海東諸国記』『如是院年代記』 『春秋暦略』『塩尻』『万葉緯』『衝口発』 『和漢年契』『古代年号』『襲国偽僣考』 『清白士集』『紀元通略』『茅窓漫録』

 なのに明治維新以後、九州年号の研究は激減した。 その理由は言わずとも明らかだろう。要するに、 天皇神格化の上に権力を確立しようともくろんだ 明治藩閥政府にとって、近畿天皇家以外に元号を 持つ者などあってはならなかった。九州年号は 封印された。しかし、真実は必ず解き明かされる。

 ところで、 真説・古代史(72) ― 九州年号(1) で掲載した九州年号表は『襲国偽僣考』によるも のだったが、その後の諸研究の結果、『二中歴』が 九州年号の原型であるとされている。それに従って これからは『二中歴』を用いることにする。

 さて、確かにヤマト王権の年号である「大宝」 以前の年号で日本書記に現れる年号は「大化」 「白雉」「朱鳥」の三つだけである。

大化元年(645)~5年
白雉元年(650)~5年
ずっと飛んで
朱鳥元年(686)(元年だけで終わる)
また飛んで
大宝元年(701)

同じ時期の『二中歴』の年号との対比表を作っ てみた。

西暦セイレキ 九州キュウシュウ年号ネンゴウ 九州キュウシュウ王朝オウチョウ事件ジケン 日本ニッポン書記ショキ ヤマトの大王ダイオウレキ ヤマト王権オウケンナイ事件ジケン
640 命長1     641~皇極コウギョク  
645     大化1 孝徳コウトク 蘇我氏ソガシ滅亡メツボウ       大化タイカ改新カイシン
646         改新カイシンミコトノリ
647 常色1     孝徳コウトク  
650     白雉1 孝徳コウトク  
652 白雉1     孝徳コウトク  
654       孝徳コウトク10 孝徳コウトクボツ
655       斉明サイメイ(皇極コウギョクチョウ祚)  
661 白鳳1     天智テンジ(ショウセイ)1  
663   ハクムラタタカ      
668         天智テンチ即位ソクイ
671       弘文コウブン  
672       天武テンム 壬申ジンシンラン
673         天武テンム即位ソクイ
684 朱雀1     天武テンム12  
686 朱鳥1   朱鳥1 持統ジトウ(ショウセイ)1 天武テンムボツ
695 大化1     持統ジトウ  
697       文武モンム  
701 大化タイカ 九州キュウシュウ王朝オウチョウ滅亡メツボウ 大宝タイホウ 文武モンム 大宝タイホウ律令リツリョウ
 「大化」、「白雉」「朱鳥」が九州王朝の 年号の盗用であることが一目瞭然である。

 余談ながら、私は高校時代に日本史を学んだと き、「白鳳文化」の「白鳳」の意味が分からな かった。「飛鳥文化」は飛鳥に都が置かれた 時代の文化であり、「天平文化」は「天平」という 年号で表される時代の文化と納得できるが、 「白鳳」という地名も年号もない。なぜ「白鳳文 化」なのだろう?教科書も教師も説明してくれな かった。

 いま改めてウィキペディアで調べてみたら、 「白鳳とは日本書紀に現れない元号 (逸元号や私年号という)の一つ」と説明して いる。「逸元号」なのに今に残っているなんておか しくない?年号は支配王朝の専売品、「私年号」 なんて許されるわけがないでしょう? いわゆる「定説」なのだろうが、私には全く納得 できない説明だ。

 いまはすっかり納得できた。なんだ、「白鳳」も 九州年号の盗用だったのだ。

 さて、九州年号と比べて「白雉」は2年ずれている。 また「朱鳥」は1年だけで終わっている。この二つの ちょっとした手違いのような違いに対して、大化は どうだろう。50年もずれている。同じ盗用でもここには 大きな意図があるようだ。

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《「真説・古代史」拾遺編》(9)

偽装「大化の改新」(1) ― 「郡評」論争


 今朝の東京新聞に「入鹿邸の倉庫、塀跡か 蘇我氏滅亡  7世紀半ば解体 奈良で発見」という記事があった。 その書き出しは「 大化の改新(乙巳<いっし>の変、六四五年)で中大兄皇 子らに暗殺された飛鳥時代の大豪族、蘇我入鹿 ……」

 もちろん記事の内容にも興味があるが、今日私が 問題にしたいのは大化の改新の年代である。この記 事で、長らく懸案になっていたこの問題を思い出し たというわけだ。

(以下、教科書は古田武彦著『法隆寺の中の九州王朝』、 『古代史の未来』、『日本古代新史』です。)

 「大化の改新は645年」。学校でこのように教えら れた。これが定説。大化の改新を取り上げている 全ての書物・記事はこの定説に従って叙述されて きた。この定説には何の疑問もたれなかったのか。 いや、大きな問題があったのだった。

 すでに1929~1931(昭和4~6)年頃、津田左右吉 が大化の改新詔の信憑性を疑って、天智以後の手が 加わっていると主張していた。これに反応した学者 は坂本太郎一人だけだった。他の学者たちはこの 津田の研究を無視した。坂本は津田の論点の一つ一つを 批判して日本書記の無謬性を論じた。

 1951(昭和26)年、坂本の弟子の井上光貞が、論点を 「郡」問題に絞った形で「大化の改新詔の信憑性」 を再度問題提起した。その要旨は次の通りである。

 大化改新以降、次々と出された詔勅、ことに「改 新之詔」(大化2年正月)と呼ばれるものに、「郡 司」という官名が書かれている。その前後にも 「郡領」「国郡」といったように、すべて「郡」 という行政単位で詔勅が出され、記事が書かれて いる。

 しかし、実際は、金石文その他、確かな史料に よる限り、当時(七世紀後半)の行政単位は「郡」 ではなく、「評」であったことが確認される。し たがって、「大化改新詔」などは、原詔通りでは なく、後代(おそらく「大宝令」)の立場からす る改変が加えられている。よって、そのまま確実 な史料として使用することは危険である。


 もちろん、これに対して坂本が反論をしたが、今 回は多くの学者が論戦に加わり、論の精緻を競い 議論百出し、学会を二分する大論争となった。 これを「郡評論争」という。古田さんはその論戦 の論文・著書・紀要類を渉猟して、その厖大なこ とに「一驚し、三歎せざるをえなかった。」と述 べている。

 多くの学者を巻き込んでのこの大論争は、1968 (昭和43)年あっけなく幕切れとなった。藤原宮跡 から出土した木簡・浜松市伊場出土の木簡がはっ きりと「評」を記録していて、井上説に軍配を上 げた。つまり古代の行政区画制度には 「7世紀末までは評制度、8世紀初頭から郡制度」 という大変化があったことになる。

 しかし、郡評問題はまだ真に「決着」したとは 言えないと、古田さんは言う。

 しかしこれは、真の「結着」ではない、なぜな ら、次の問いが不可避だからである。

「真の行政区画は『評』であったのに、日本書紀は なぜそれを隠し、『郡』と書き変えたのか?」 (孝徳・斉明・天智・天武・持統の間)

 この問いに対し、的確に答えた研究者はいまだ 誰一人いない。これに対し、私の立場からは明快 に答え得る。

「『評』は九州王朝下の行政区画であり、八世紀 以来の新王朝(近畿天皇家)は、これを〝消し去 った″歴史を『新造』した。それが日本書紀作製 の主目的の一つである」と。

 一つの行政制度を「消す」ことは、それを発布 し、施行していた権力(王朝)の痕跡を「消す」 行為なのである。その証明をのべよう。

A 評の統率者は「評督」である。「評督」の上の 最高統率者は、「都督」である。なぜなら宋書な どのしめすところ、倭王は「都督」の称号を与え られている(五世紀)。この「都督」という用語 を原点として「評督」という称号(金石文等に出 現)が〝新造″された。そのように見なす他ない からである(「評督」は七世紀後半)。

B 「都督」の統轄する中心官庁は「都督府」であ る。

C 日本列島に「都督府」の存在した痕跡は、文献 的(日本書紀の天智紀)にも伝承的(太宰府の都 府樓跡)にも、筑紫にしかない。

D すなわち、「評制」は筑紫の都督府なる倭王 (筑紫の君)を原点として発布し、施行された行 政区画である。

従来の歴史学者は「一元主義の枠」の中に縛られ ているため、右の問題に対し、有効な対案を提出 しえないのである。したがって「応答拒否」をつ づけてきた。


 ヤマト王権一元主義に呪縛されている学会が 「応答拒否」を決め込んでも、多くの市井の研究 者たちによって「真の古代史」は発展深化続けて いる。たくさんある研究の中から、「古田史学の 会」の発起人・世話人であった中村幸雄さんの 論文集 に今懸案の問題の論考が多く納められているので、 これを教科書として追加する。中村さんは1996年に 亡くなられている。合掌。

今日の話題

五木の子守唄(3)


(2) おどま、かんじんかんじん、あん人たちぁ、 よか衆、
よか衆よか帯、よか着物。


 「かんじん」とは、文字後り勧進ヒジリである。 聖なる遊行者としての勧進である。それ以外の意味 はない。勧進を物乞い、乞食という意味で用いる 場合でも、それは乞食一般ではなく、出家姿の物 乞いであり、かなり新しい時代での用法である。 「ひろめよう人権」サイトの「かんじん」=「農 奴」という解釈は成り立たない。

 「あん人たち」とは定住の常民のことであり、そ れを「よか衆」というのは決して貧困者のそねみで はない。遊行流民の勧進者の悲哀をにじませながらも、 そこには定住の常民の精神に侵犯し、彼らを精神的 に支配する神人としての視線から湧出した言葉である。 そして、その「よか衆」の「よか帯、よか着物」は 勧進ヒジリによってもたらされる物だったのだ。 自由に諸国を往来する遊行勧進は経済流通の役目も 果していた。ヒジリは交易を媒介する流浪商人でも あった。

(1)
おどま盆ぎり盆ぎり盆から先ぁ、おらんと
盆が早よ来りゃ早よ戻る。


 そうした遊行漂泊の勧進ヒジリは、祖霊が里に 戻り再び山へと帰って行く盆がすぎれば、勧進ヒ ジリの仕事も終る。祖霊を背負う神人毛坊主が 山と里との間を去来するのは、春秋ではなく、 盆であった。

(3)
おどま、かんじん、かんじん、ぐわんがら打って さろこ、
ちょかで飲炊(ち)ぁてどうにねる。


 「さろく」は「あるきまわる」という意であり、 「ぐわんがら打って」とは、鉢叩き、鉦打 ち、磐叩きのことである。下の句の「ちょか」は 「どびん」、「どうにねる」は「洞に寝る」であ る。つまり、この歌詞は「がんがらを打ちながら 遊行し、どびんで飯を炊いては洞に寝る」という、 まさに遊行勧進の漂泊そのものを唄っている。

(4)
おどんがおればこそ世ん中もめる。
おどんがはってけば、花が咲く。


(5)
花は咲いたてちゃ 毒な花咲かん。
手足かゝじるいげの花。


 「かかじる」は「ひっかく」、「いげの花」は 「ばらの花」。この二つの歌詞は寓意を秘めてい るだろう。米村さんの解読をそのまま引用する。

 遊行漂泊の民と土着常民との葛藤と緊張がここ には唄われている。遊行漂泊の毛坊主はこの世の 法によって生きない。それはまさしく「鳥が自由 に屍体をついばみ得る者」に身をなしてのアウト ロー=法外人としての生である。この世を絶対と せず、この世を乗りこえた法によって生きようと する毛坊主が、自塞した土着常民の法を笑ってい る。



(6)
おどんがとっちゃんなあ、あの山おらす、
おらすと思えば行こごたる


 「とっちゃあん」は「父っあん」なのだが、こ の場合の「父っあん」は仏を意味する。父が仏の 意味を指すことについては、米村さんは別のとこ ろで詳しくふれているが、ここでは簡単に「この場合の 仏とは先祖、祖霊という水準の上での仏である」 ことを確認するにとどめる。

 つまりこの唄には遊行ヒジリ(毛坊主)が 等しく共有している「山と祖霊の山中他界観」、 さらには「祖霊の循環去来説」そのものが表象さ れている。

 以上から、米村さんは「五木の子守唄」の 出自と性格を次のようにまとめている。

 (下降型毛坊主として)すでに村落のはずれに土 着し、あるいは自分たちだけの村落を形成してしま った遊行漂泊の民が、猶も漂泊への想い捨て難く、 遊行への想いを祖霊のいます山へとはせる。その情 念の村落のなかでの立ち登り、それが五木の子守唄で ある。

 貧なるが故に生まれた唄だとする俗説は、それこ そ差別である。祖霊のいます山、まさしく球磨の山 々を軸にしての浮遊と土着の回帰がこの唄を作った ものと思われる。球磨(クマ)という地名のクマと は神の意味であることは、私から言うほどの事でも ない。五木をも含めて人吉盆地を取巻く球磨の山 村こそは、人神毛坊主(カンジンヒジリ)が浮遊し 土着する、その繰返しの聖なる場処であった。



 最後に熊本県知事選挙と相良村村長選挙の結果を 書きとめておきます。

熊本県知事の当選した蒲島郁夫氏は「川辺川ダム」 問題については、マニフェストで次のように述べて いる。

「知事就任後直ちに有識者会議を立ち上げます。 有識者会議は、気象学・河川工学・行政学・行政 法学といった分野における研究者で構成し、ダム 建設の費用対効果について、科学的・客観的そし て行財政の視点も加えた分析を行います。ダムを つくるということの環境的・社会的影響のみなら ず、熊本県がダム建設に対して賛成もしくは反対 を表明した場合、各々について、熊本県の短期的 ・長期的負担額はいくらになるのかをも緻密に計 算します。中止となった場合の、県としての代替 治水案の科学的検討、五木・相良村の更なる振興 策も検討せねばなりません。(後略)」

 たいへん慎重な姿勢を示していますが、 工事続行に疑問的であるニュアンスが私には読め ますが、どうでしょうか。

 相良村村長選は「川辺川ダム」問題では住民投票 を実施して決めると公約した中立的スタンスの徳田 正臣氏が当選。得票数は

中立の徳田正臣氏   1725票
反対派の田口道夫氏  1623票
推進派の堀川金泰氏   191票

 現段階ではっきりと工事推進を支持した村民は 5.4%にすぎないが、はたしてどのような決着を見る でしょうか。つい最近、岩国が防衛省の陰湿で卑劣 な見せ金作戦に敗北した例がある。国土交通省も同じ 穴の狢。まだ予断はできない。

今日の話題

五木の子守唄(2)


 「五木の子守歌」の祖型がいつ頃成ったのかは 分からないが、その祖型に後代だんだんと新しい 歌詞が付け加えられていったと考えられる。祖型 と思われる歌詞を取り出してみる。

(1)
おどま盆ぎり盆ぎり盆から先ぁ、おらんと
盆が早よ来りゃ早よ戻る。

(2)
おどま、かんじんかんじん、あん人たちぁ、
よか衆、よか衆よか帯、よか着物。

(3)
おどま、かんじん、かんじん、ぐわんがら打ってさろこ、
ちょかで飲炊(ち)ぁてどうにねる。

(4)
おどんがおればこそ世ん中もめる。
おどんがはってけば、花が咲く。

(5)
花は咲いたてちゃ毒な花咲かん。
手足かゝじるいげの花。

(6)
おどんがとっちゃんなあ、あの山おらす、
おらすと思えば行こごたる。


(蛇足の注)
 歌詞に頻繁に出てくる人称代名詞について、 試みに『全国方言辞典』を調べた。「おどん」= 「私」とあって、これは問題ないが、「おどま」 という言葉はなかった。「おども」=「己ら、我々」 というのがあったが、これのなまりか。


 歌詞の意味から言えば、これらは明らかに 「守り子唄」ではない。特に(3)~(5)はまったく 意味不明の歌詞になってしまう。だからか、 これらの歌詞は一般に流布されているものからは 取りこぼされている。ほとんど埋もれてしまって いると言ってよい。

 (6)は「五木村ホームページ」に掲載されている。

おどんがお父っつあんは あん山(やみゃ)おらす
 おらすともえば いこごたる

 「おどん」を「子守娘」として「私の父は遠く に見えるあの山で仕事をしているだろう。又あの 山の裾に古里があり早く帰りたい気持ちが増々大 きくなる。」と解釈している。この解釈も無理が ある。歌詞を「忠実に咀嚼」すれば、「おどん」 が「いこごたる」と痛切な望郷の念を差し向けて いるのは「山の裾」ではなく、あくまでの「山」 である。「お父っつあん」が「おらす」のもあくま でも「山」である。この歌詞もやはり、あまり意味 がはっきりしない。

 「五木村ホームページ」がほかに掲載している 歌詞は次のようである。

(7)
おどんが打っ死(ち)んだちゅうて だいが泣いてくりゅうか うらの松山蝉が鳴く
(8)
おどんが打っ死(ち)んだら 住環(みち) ばちゃ 埋(い)けろ 通るひと毎(ご)ち 花あぐる

(9)
花はなんの花 ツンツン椿 水は天からもらい水

(10)
おどまいやいや 泣く子の守にゃ 泣くと言われて憎まれる

(11)
ねんねした子の 可愛さむぞさ  おきて泣く子のつらにくさ

 (10)、(11)は典型的な「守り子唄」であるが、全体 から見ると、この歌詞のほうこそ異質である。 また、(11)の「おきて泣く子のつらにくさ」などは 「中国地方の子守唄」の盗用ではないだろうか。 あるいは逆かな。いずれにしても、後代に付け加え られたものと考えられる。ちなみに、 私はこの歌詞を初めて知った。

 「ひろげよう人権」サイトが掲載している (1)~(11)以外の歌詞は次の通りである。

(12)
蝉じゃござらぬ 妹でござる 妹なくなよ 気にかかる

 (7)―(12)、(8)―(9)は同じ系統の歌詞だ。これらは 一番愛唱されている歌詞ではないだろうか。 私もよく知っていた。意味に不明な点 はない。「五木村ホームページ」も 「ひろげよう人権」サイトも、「おどん」を「身寄 りといえば妹だけの貧しく哀れな守り子娘」という 設定で解釈している。それでも不都合はないが、 逆に「おどん」が「守り子娘」でなくとも不都合 はない。

 さて、それでは本来「五木の子守歌」は何の歌だったのだろ うか。(1)~(6)を祖型と考えて、米村さんの読みを 紹介しよう。

 ここからは、いわば『続・大日本帝国の痼疾』 (23)~(27)の補足ないし補充に当たります。 予備知識として以下の記事を参考にしてください。

「毛坊主」とは何か。(1)

「毛坊主」とは何か。(2)

「毛坊主」とは何か。(3)

毛坊主・山田伝助

毛坊主・高沢徳右衛門


 さて、毛坊主・伝助のなまえである。 伝とは、移ろう、転ずる、という意 味である。伝助とは遊行漂泊者つまり神人・ヒジリ を意味している。その伝助が遊行漂泊する山々の中に 「五 木の子守唄」の里がある。米村さんは「本来、 この唄は飢えと流浪の絡みのなかで、御霊信仰を 背負うた遊行神人の宗教歌である」と言う。 以下(1)~(6)の歌詞の米村さんによる分析をたどっ てみよう。

今日の話題

五木の子守唄(1)


 今日、投票が行われている熊本県知事選と相良村 村長選の争点の一つとして「川辺川ダム計画」問題 がある。五木村頭地地区がこのダムの水没予定地に なっている。相良村・五木村といえは 『続・大日本帝国の痼疾』(23)~(27)で取り上げた「毛坊主」の 舞台だった。東京新聞『こちら特報部』(3月16日) がこの問題を取り上げていたのを、少なからぬ関心を 持って読んだ。利権が絡む大規模工事の 御多分に洩れず、静かに地道な人生を紡ぎ、この 社会を根底で支え生きている人たちが翻弄され 蹂躙されていく。(以下、記事の要約)

 五木村の水没予定地に一軒だけ残り農業を続ける 老夫婦がおられる。尾方茂さん80歳、妻チユキさん 75歳。

「子どもがないし、ここで出ても 農地はなく、生活のメドがたたんです。できれば、こ こで一生を終えたい。」

「ダムはないほうがいいけど、それよりも、造るか 造らないかを早く決めてほしかです。」

 代替地に移住して高級木造住宅に住むようになっ た人もいる。ダム関連工事で生計を立てる村民もいる。 水没地の対象から外れ、何の恩恵も受けることなく、 苦しい生活を続ける人もいる。ダム計画は村民の間に 深い亀裂を生んでいる。ダム問題はタブーになってい く。

 頭地地区から代替地に移った主婦は「生活が 良くなり、村民から白い目で見られている気が する。早くダムができて、『自分の選択が役に 立った』と思いたい」と静かに語る。

 黒木さん(取材記者を案内した土地の人)もあから さまには「ダム反対」とは言わないが、その思いを 次のように語っている。

「ダム計画で人は減り、村は寂れた。森林を整備し たほうが、治水や観光にも役立つ。川辺川にたくさん 砂防ダムはできたけど、水質は悪くなるばかり。 ダムはお金の使い方を間違っている気がするのよね」

 国交省に試算によるとダム建設の総工費は 3,300億円。代替地への移転や付け替え道路整備な ど、計画の9割以上が終わっていて、すでに国と県 合わせてすでに2,040億円が支出されているという。 今後必要となる事業費の大半は本体のダム建設費。 もし工事を続行すれば県の支出も250億円以上増え る見通し。熊本県は現在1兆2,000億円の借金を抱 えている。それでも、「すでに投じた巨費がムダ になる」として、本体着工を求める声も依然とし てある。

 ダムの地元に住む黒木さん。
「五木村の有権者は全体のほんのわずか。だから、 ダムが争点と言われても距離があるように感じる のよね。」

 「こちら特報部」は次のように記事を結んでいる。

 夜の五木村。闇夜を静寂が支配する。
「おどま盆ぎり盆ぎり盆からさきゃおらんと」
 黒木さんが「五木の子守唄」を歌っていた。 哀愁に満ちた旋律が胸に迫る。ダムについて多く を語らない黒木さん。子守唄は、ダム湖に沈む五 木村を思い描いたレクイエムなのか、五木の里を 今に残したい叫びにも似た願いなのか。それは、 本人しか分からない。


 ずいぶん長い枕になってしまった。選挙 の結果とダム建設の帰趨には、もちろん強い関 心を持っているが、実は私にはもう一つの関心事 がある。「五木の子守歌」である。

 独身時代に、ギターを弾きながら(といっても、 メロディーをかなでるだけ)よくひとり口ずさんだ歌だ。 その時に私が使っていた本を調べたら、楽譜の下に 音符に合わせて歌詞が書かれていて、1番と2番だけ だった。いつおぼえたのか、あと2,3知っている が、とりあえず、その2編を取り上げる。

(1)
おどまぼんぎりぼんぎり ぼんからさきゃおらんと  ぼんがはよくりゃはよもどる

(2)
おどまかんじんかんじん あんひとたちゃよかし  よかしゃよかおび よかきもん

 「ぼん」が「盆」であり、「おび」は「帯」、 「きもん」は「着物」であるとは推測できるが、 いまいち意味が良くわからなかった。 「かんじん」の意味がかんじんかなめなのだが、 この「かんじん」の意味がわからない。 たいだい、これは果たして子守歌なのか、はなは だ疑問だった。

 最近知ったのだが、「守り子唄」という分類があり、 「子守唄」と区別されている。「子守唄」は幼児 を寝かしつけるための歌であり、「守り子唄」は子守 娘の労働歌である。

 「五木の子守歌」の代表的な解釈を二つ取り出して みた。一つは五木村のホームページから。ここでは 「子守歌」と位置づけている。もう一つは「ひろげ よう人権」というサイトから。こちらでははっきりと 「守り子唄」と言う言葉を使っている。

《五木村ホームページ》の場合
 その昔、山深い五木の里の暮らしは厳しく、娘たち は幼いころから家を助ける為子守奉公に出されました。 娘たちは奉公の辛さや父母を思う気持ちを口ずさみ、 それがいつしか哀調を帯びた「五木の子守唄」になっ たのです。全国に名高い「五木の子守唄」には、この ようなエピソードが秘められています。

おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よ くりゃ早よもどる
(子守奉公も盆で年季が明け 恋しい父母がいる 古里に帰れる日が待ち遠しい。)


 歌詞の解釈は、上の外に6編の解釈が掲示されてい るが、(2)は取り上げていない。最も広く流布されている 歌詞の一つのはずだが、どうしたことだろう。 たぶん、解釈できず、困っているのだと思う。 「五木の子守歌」の本来の意味は時間の底に埋もれてしまい、 今に伝承されていない。本来の意味を知って歌っている人は はたしているのだろうか。

《ひろげよう人権》の場合
 日本の民謡の中には、被差別者の境遇や生活を 唄ったものがあります。皆さん良くご存知の熊本 県の有名な民謡で「五木の子守歌」というのがあ りますが、この民謡は「子守唄」とはなっていま すが、赤ちゃんをあやす唄ではなく、子守娘の気 持ちを唄った「守り子唄」と言われています。

(中略)

 五木は、熊本県人吉市から西北へ25キロ入った 山間の村、五木村のことです。

 昔、源平の戦いに敗れた平家の一族が五木村の 隣の五家荘村に定着したので、源氏は梶原・土肥 の武者を送って五木村に住まわせ、平家の動向を 監視させたと伝えられています。

 その後、これらの源氏の子孫を主として、三十 三人衆と呼ばれる地主(よか衆とよばれる檀那階 級)ができました。この他は「勧進(かんじん)」 といわれる、いわゆる小作人で、この小作人は田 畑は勿論のこと、家・屋敷から農機具に至るまで を「よか衆」から借り受け、「農奴」として最低 の生活に甘んじ、被差別者としての苦しみを続け ていました。

 娘たちも10歳位になると、よか衆の家や他の村 へわずかの賃金で子守奉公に出されていました。 その悲しい子守娘の諦めの気持ちと、よか衆に対 する小さな抵抗を唄ったものがこの子守唄です。

“おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ヤおらんど  盆が早よ来りヤ 早よもどる”
『私は、盆までの約束で、この家へ奉公に来てい るのです。盆が来りや、家に戻れれるのです。 早く盆よ、来てくれ』と家へ帰れる日を待つ気 持ちを言ったもの。

“おどまかんじんかんじん  あん人達アよか衆 よか衆よか帯 よか着物”
『自分は、身分の低い勧進生まれで貧乏な娘です。 それに比べてあの人達はよか衆の家に生まれたも んだから、よい着物を着て立派な帯を締めて、幸 せだなあ』と羨む気持ちを言ったもの。

*「かんじん」とは、「勧進」であり、社寺・仏像 の建立・修繕などのために人に勧めてお金や品物 を募ること。またその人。(後に転じて「物乞い」 と同意に使われるようになった。)


 上記の外に3編の歌詞を取り上げている。いかにも人権擁護を掲げるサイトの解釈だが、 いささか牽強付会に過ぎよう。五家荘村が平家の 落人の部落だというのは聞いたことがあるが、 「よか衆」が「檀那階級」で、「勧進」が「小作 人」というのは無茶だ。

 実は、米村さんが『殉教と民衆』で「五木の子 守歌」を取り上げていて、次のように「子守歌」 に対する対し方の基本姿勢を述べている。

 子守歌の類は近代の知識人好みにこねまわして、 貧困から生まれた唄などという擬似福祉的擬態は ひけらかさない方がいい。子守唄はあくまでも文 句に忠実に咀嚼していくべきである。



 論証抜きの推測や都合による付会、勝手な原文改竄 はしない、あくまでも表記のルールに従って解読す る、という古田さんの『記紀』に対する基本姿勢と 同じスタンスである。それでは米村さんは 「五木の子守歌」をどう解釈しているだろうか。

『続・大日本帝国の痼疾』(46)

中江兆民と透谷(2)


 『三酔人』のうち、洋学紳士、豪傑君がそれぞれ 透谷が言う「交通の勢力」、「過去の勢力」である ことは言うまでもないが、それでは南海先生を「創 造的勢力」に比定するのは妥当だろうか。

 蘇峰が、日本の将来が平民主義の政体となるのは 「天下ノ大勢」であると、未来を楽観したのと全 く同様に、洋学紳士は民権は「進化神」の望むと ころ、つまり歴史の必然であると未来を楽観して いる。これに対して 南海先生は次のように洋学紳士の楽天をたしなめ ている。

 紳士君の論は全国人民が同心協力するに非れば 施す可らずして、皆恐くは架空の言たるを免れず。

 且つ紳士君は力を極て進化神の霊威を唱説する も、夫の神の行路は迂曲羊腸にして、或は登り或 は降り或は左し或は右し或は舟し或は車し或は往 くが如くにして反り或は反るが如くにして往き、 紳士君の言の如く決(けつし)て吾儕人類の幾何学 に定めたる直線に循(したが)ふ者に非ず。

(中略)

 是に知る、凡そ古今既に行ふことを得たる事業 は皆進化神の好む所なることを。然ば則ち進化神 の悪む所は何ぞや。其時と其地とに於て必ず行ふ ことを得可らざる所を行はんと欲すること即ち是 れのみ。紳士君、君の言ふ所は今の時に於て斯 地(このち)に於て必ず行ふことを得可き所と為さ ん乎、将(は)た必ず行ふことを得可らざる所と為 さん乎。


 これはまさに透谷の「国民の元気は一朝一夕に 於て轉移すべきものにあらず」という言葉と符合 する。透谷は兆民の中に「創造的勢力」の根幹を 垣間見て、ひそかに近親の情を持ったに違いない。 だからこそ、国会に「無血 虫」の弾劾状を叩きつけたあと、あらぬ方へと曲 折していった兆民に対して、透谷は『兆民居士安 くにかある』と嘆かずにはいられなかった。

 多くの仏学者中に於てルーソー、ボルテールの 深刻なる思想を咀嚼し、之を我が邦人に伝へたる もの兆民居士を以て最とす。「民約篇」の飜訳は 彼の手に因りて完成せられ、而して仏国の狂暴に して欝怏(うつおう)たる精神も亦た、彼に因りて 明治の思想の巨籠中に投げられたり。彼は思想界 の一漁師として漁獲多からざるにあらず、社会は 彼を以て一部の思想の代表者と指目せしに、何事 ぞ、北海に遊商して、遠く世外に超脱するとは。

 世、兆民居士を棄てたるか、兆民居士、世を棄 てたるか、抑(そもそ)も亦た仏国思想は遂に其の 根基を我邦土の上に打建つるに及ばざるか。居士 が議会を捨てたるは宜(むべ)なり、居士が自由党 を捨てたるも亦た宜なり、居士は政治家にあらず、 居士は政党員たるべき人にあらず、然れども何が 故に、居士は一個の哲学者たるを得ざるか。何が 故に、此の溷濁(こんだく)なる社会を憤り、此の 紛擾(ふんじょう)たる小人島騒動に激し、以て痛 切なる声を思想界の一方に放つことを得ざるか。

 吾人居士を識らず、然れども竊(ひそ)かに居士の 高風を遠羨(ゑんせん)せしことあるものなり、而 して今や居士在らず、徒(いたづ)らに半仙半商の 中江篤介、怯懦(きょうだ)にして世を避けたる、 驕慢にして世を擲(な)げたる中江篤介あるを聞く のみ。バイロンの所謂(いはゆる)暴野なるルーソ ー、理想美の夢想家遂に我邦に縁なくして、英国 想の代表者、健全なる共和思想の先達なる民友子 をして、仏学者安(いづ)くにあると嘲らしむ、時 勢の変遷、豈に鑑(かんが)みざるべけんや。


 この激しい非難の言葉にもかかわらず、自分(透谷) と同じく欠如の国民を凝視していたであろう兆民へ の深い哀惜の念と無念を、私は感じ取る。

 「徒らに半仙半商の中江篤介、怯懦にして世を 避けたる、驕慢にして世を擲げたる中江篤介」を、 色川さんも「最高級の、正真正銘の思想家」と賞 賛を惜しまない。


 この後、兆民のたどった道は、「余も亦(外交 上の)神経病者の一人なり」(兆民)という、大 井憲太郎らの陥っていった国権の道への傾斜であ り、反面、あくまでも民権に執着し、「理義」に 就くための、小政治からの逃避の試行であった。

 彼の演じた多くの奇行や、彼にふさわしからぬ 「虚業」「実業」での多くの失敗、逸脱は、透谷 が「兆民居士安くにかある」で、蘇峰に遠慮し、 幾分酷に批評しているが、この兆民の挫折感の、 深い内的モチーフを考慮にいれないでは理解でき ない。私はこの人もまた、思想の独創的な閃めき とその展開の方向を示しながら、世に容れられず、 時代の限界に挑戦して孤立した悲劇の人であった とみなしている。

 中江兆民こそ近代日本における最高級の、正真 正銘の「思想家」であった。「吾人居士を識らず、 然れども窺かに居士の高風を遠羨せしことあるも のなり」と透谷が讃えたように。


 ちなみに、兆民は1901(明治34)年に亡くなって いる。享年54歳。蘇峰は、三叉竹越と同じように、 大日本帝国の滅亡を目の当たりにしている。1957 (昭和32)年没で、94歳いう長寿であった。50台か ら書き始めた『近世日本国民史』は全百巻という 途方もないもの。また敗戦後も達者で、私は未見 だが、憲法九条や朝鮮戦争なども論じていると いう。

『続・大日本帝国の痼疾』(45)

中江兆民と透谷(1)


(追加教科書、色川大吉『北村透谷』)

 一般に、一人の頭脳に宿る思想は一枚のレッテル を貼って済むほど単純ではない。 「過去の勢力」の中に「交通の勢力」が入り込ん だり、「交通の勢力」に「過去の勢力」が残存した りするだろう。陸羯南があらゆる「主義」を折衷 させてみせるのも怪しむにたりない。しかし、ひと たび現実のシビアな社会的あるいは政治的事象に 対するとき、その「折衷」された猥雑な衣 装に覆われていた思想の根幹は隠しようもなく 明らかになる。例えば、1889(明治22)年に発布され た欽定憲法に対する反応にそれは表徴されている。 次の文は、羯南らが発刊していた新聞『日本』の 憲法発布直後の社説である。

 日本の皇室は建国以来日本臣民の奉戴せる皇室 なれば、日本臣民たるものは万世不易に之を奉戴 するの懿徳(いとく)を守らざるべからず。日本の 臣民は皆な建国以来皇室に忠愛なる臣民の子孫な れば、日本の皇室は現在及将来に向て此の臣民を 扶養し一視同仁決して恩仇の別を為すべからず。 日本の政府は万世一系の天皇の勅命を奉じ万世 自由の人民の委信を受けて存立すべきものなれば、 民望を利用して皇権を蔑如すべからざると同時に、 皇威を壇仮して民権を軽侵すべからず。此等は皆 な日本の国民精神より自然に出づべき政義にして、 帝国憲法の本文如何に拘はらず朝野共に確遵すべ きの大綱なり。日本の立憲政体を扶持して鞏固な らしめんには、必ず此大綱を明にせざるべからざ るなり。

 神話的な天皇神秘化を明確に打ち出した欽定憲法を手 放しで賞賛している。まさに「過去の勢力」以外の 何ものでもない。そしてここでも、万世一系の皇 室に帰属する臣民・政府と、それとは矛盾する 「万世自由の人民」「民権」とが、何の媒介もなく めでたく融合されている。羯南ら「国民論派」 が期待する「自由政体」は絶対主義的桎梏内に限 定されてのみ存立するしろものである。 「国民論派」の国民も、蘇峰の場合と同様、幻想 の国民であり、あるのは臣民ばかりである。この 「過去の勢力」の立ち位置と、次のような中江兆 民の立ち位置との落差は、そのどちらに驚くべき だろうか。

 明治22年春、憲法発布せらるゝ、先生嘆じて曰 く、吾人賜与の憲法果して玉耶(か)将(は)た瓦耶、 未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ、 我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此(かくのごと) くなるやと。…
憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯 (た)だ苦笑する耳(のみ)
(幸徳秋水『兆民先生』より)

 兆民は憲法の何に苦笑したのだろうか。兆民は 『三酔人経綸問答』で南海先生に次のように言わ せている。

 世の所謂民権なる者は自ら二種有り。英仏の民 権は恢復的の民権なり。下より進みて之を取りし 者なり。世又一種恩賜的の民権と称す可き者有り。 上より恵みて之を与ふる者なり。恢復的の民権は下 より進取するが故に其分量の多寡は我れの随意に 定むる所なり。恩賜的の民権は上より恵与するが 故に其分量の多寡は我れの得て定むる所に非ざる なり。若し恩賜的の民権を得て直に変じて恢復的 の民権と為さんと欲するが如きは豈事理の序 (ついで)ならん哉。

 臣民に下賜された「恩賜的民権」に苦笑したとき、 兆民は当然、その「恩賜的民権」を「恢復的民権」 に変革する道筋を考え始めたに違いない。 兆民はその突破口を国会に求めていった。

 明治23年2月13日、兆民は大井憲太郎、新井章吾、 石坂昌孝(北村透谷の義父となった)らと「自由 党」を再興したが、その「党議草案」には、国会 に上請して憲法を点閲すべしと、議会に弾劾権を あたえよとの要求が明記されていた。また、その 闘いの保障として兆民は、言論出版集会の自由権 の拡大、行政裁判所の設置による官吏の横暴の掣 肘、警視庁の廃止、知事・郡長らの民選等を「地 租軽減」の経済要求とともに重大項目として列挙 したのである。

 この時点での中江兆民の姿勢は、洋学紳士の急 進論をいさめた南海先生よりはるかに急進的(ラ デイカル)である。それは『経綸問答』から三年 後の政治情勢の変化と、兆民自身の現実認識の修 正にもよろうが、彼が政治家、思想家としての生 命を、この一点(憲法点閲、国会の弾劾権、自由 権の確保による恩賜的民権の切返し)に賭けてい たことを物語る。

 しかるに、第一回国会は、この兆民らの期待を 完全に裏切った。憲法点閲問題は議題にもとり あげられなかった。それどころか、兆民の要求は、 かつての自由民権の同志たちからさえ、「詭 激の言」としてしりぞけられ、予算削減をめぐる 政府と一部民党議員との妥協によってむくいら れた。こうした事態に兆民の憤激と絶望は極点に 達し、「無血虫の陳列場」の弾劾文を叩きつけ て、国会議員を辞職してしまった。


 衆議院彼れは腰を抜かして尻餅を搗きたり。 総理大臣の演説に震懾(しんしょう)し解散の風 説に畏怖し、両度まで否決したる即ち幽霊とも いふべき動議を大多数にて可決したり。衆議院 の予算決議案を以て、予め政府の同意を求めて、 乃ち政府の同意を哀救して、その鼻息を伺ふて、 しかる後に唯々諾々この命これ聴くこととなれり。 議一期の議会にして同一事を三度まで議決して、 乃ち竜頭蛇尾の文章を書き前後矛盾の論理を述べ、 信を天下後世に失することとなれり。無血虫の陳 列場・・・已みなん、已みなん。

『続・大日本帝国の痼疾』(44)

陸羯南の思想


 透谷が「国民のヂニアス(genius)は、退守と共に 退かず、進歩と共に進まず…」と言うとき、「進歩」 とは蘇峰が体現している「交通の勢力」、欧化主義 的進歩幻想を指している。とすると、「退守」と は欧化主義と対照の国粋主義に依拠する「過去の勢 力」を指していよう。しかし例えば、陸羯南 (くがかつなん)は自らの思想的立場を、「復古的な 国粋主義」とは厳密に区別して、「国民論派」として 規定している。羯南の思想を瞥見しておこう。

 羯南は『近時政論考』で次のように書いている。


 國民的精神、この言葉を絶叫するや、世人は視 てもってかの鎖國的精神またはかの攘夷的精神の 再来なりとなせり。偏見にして固陋なる者は舊精 神の再興として喜びてこれを迎え、淺識にして輕 薄なる者は古精神の復活として嘲りてこれを排し たり。常時吾輩が国民論派を唱道するや、淺識者、 輕薄子の嘲りを憂えずして、むしろかの偏見者、 固陋徒の喜びを憂う。何となれば國民論派の大旨 はむしろ軽薄子の輕忽に認むるかの博愛主義に近 きところあるも、反りて固陋徒の抱懐する排外的 思想には遠ざかるをもつてなり。

 羯南は「交通の勢力」を浅識者・軽薄子と切り捨て、 返す刀で「過去の勢力」を偏見者・固陋徒と 切り捨てる。それでは羯南が唱える「国民論派」 は透谷が言うところの「創造的勢力」だと言うのだろうか。 少し長いが、北川さんの論考をそのまま引用する。

 羯南の、《國民論派》は、《排外的論派》では なくて《博愛的論派》であり、《保守的論派》で はなくて、《進歩的論派》であるという、近代性 の強調は、むろん、一定の政治的な対抗関係に規 定されていただろう。わたしたちは、それらを帝 国憲法制定を通じて天皇の大権を維新革命の政治 的な標識として、国民統合の中心に据えようとす る政治的支配の強力な試み、それに呼応して、欧 化主義の反動から伝統的な国民道徳、儒教的な社 会規範を求める復古的な《世論》形成、そして、 それらが元田永孚(もとだ ながざね)を中心に進め られた教育勅語制定に収斂されていく体制政治の うちにみることができる。

 こうして羯南は、近代的な国粋主義とも言える、 その《国民主義》の根拠を次のようなところに置 いたのである。

 国民天賦の任務は世界の文明に力を致すにあり とすれば、この任務を竭(つく)さんがために國民 たるものその固有の勢力とその特有の 能力とを勉めて保存しおよび發達せざるべか らず
(『近時政論 考』・太字強調は北川さんによるもの)

 この《世界の文明に力を致す》ために、《固有 の勢力》と《特有の能力》という、民族的契機を 保存し、発展させるという発想が彼ら独自のもの であった。こうして《世界の文明に力を致す》た めに、その民族固有の勢力と民族特有の能力を結 集し、《国民全軆の力》をもって内部の富強進歩 を計らなければならない、そのために外に対して は《國民の特立》、内においては《國民の統一》 がすべてに優先して要請されることになる。

 ここには欧米列強の外圧に対して、まず、国家 の独立を課題としなければならなかった明治知識 人の共通の姿勢があるだろう。しかし、それが至 上の《國民の任務》とされたために《國民的》の 概念が、《帝室のごとき、政府のごとき、法制の ごとき、裁判のごとき、兵馬のごとき、租税のご とき、およそこれらの事物はみな國民全軆に属す べきもの》であるから、《國民的にする》という、 超階級的な幻想を生みだしてしまった。そのため に、《國民的》諸権利にしても、それはたたかい とられるべきものではなく、あらかじめ《國家の 權力》と〈調和〉すべき範囲に置かれることにな ってしまったのである。

 こうして、【國民論派】の、《國民的》な統一 と調和のための見取図である〈内政旨義〉は次の ように描かれた。

自由主義
は個人の賦能を發達して國民實力の進歩を圖るに 必要なり、

平等主義
は國家の安寧を保持して國民多数の志望を充たす に必要なり、……(略)……

専制の要素
は國家の綜収および活動に必要なり、ゆえに國民 論派は天皇の大權を固くせんことを期す。

共和の要素
は權力の濫用を防ぐに必要なり、ゆえに國民論派 は内閣の責任を明らかにせんことを期す。

貴族主義
は國家の秩序を保つに必要なり、ゆえに國民論派 は華族および貴族院の存立に異議を抱かず。

平民主義
は權力の享有を遍(あまね)くするに必要なり、ゆ えに国民論派は衆議院の完全なる機制および選擧 權の擴張を期す。

個人の力を用ゐてあたわざるものには 干渉もとよ り必要なり、國家の權を施して反りて害あるもの には自治もとより 必要なり。……(略)……國民論派は個人と国家 とを并立してはじめて國家の統一および教育を得 るものとなせり。

(『近時政論考』・赤字強調は管理人が付した。行分けも。)

 ちょうど徳富蘇峰が、《交通の勢力》の側から、 国権と民権をどんな矛盾もないように円環させ たとすれば、陸羯南は《過去の勢力》の側から、 そこにどんな分裂も対立もあらわれないようにそ れを調和させたのである。

羯南の〈国民〉の定立は、あたかも透谷の 《創造的勢力》の位相で行われているように見え たが、しかし、羯南に決定的に欠けていたのは、 透谷の欠如としての〈国民〉のモティーフだった。 その欠如の運動域がないために、天皇と臣民との 合同という、巨視的には政治的支配層の掌の中で、 〈国民〉像の定立をはかることになってしまった のである。そして、この自由主義から、平等主義、 専制主義、共和主義、貴族主義、平民主義、個人 主義、国家主義までのすべてを折衷させた、いいこ とずくめの将来の日本に対する〈見取図〉は、 そこにこの天皇と臣民との合同という《國民的観 念》、いいかえれば歴史的観念としての民族共同 体の優位意識に媒介されることによってこそ、可 能となっているのである。

 わたしは陸羯南のリベラリズムと国家主義と の結合を、近代政治学のように必ずしも楽天的に 評価できない。そこには羯南自身が『近時政論考』 で引用している19世紀末のヨーロッパにおけるナ ショナリズム運動を《進歩》の規範にしている 政論家の貌つきはあっても、民権運動敗退以後、 《深く地層の下》に潜勢してしまった《國民の元 気》にまで降りていこうとする思想者の貌は視え ないのである。

 羯南の政治思想も、透谷によって批判されるま でもなく《軽業師の理論》にほかならなかっただ ろう。その《軽業師の理論》の宿命によって、羯 南の〈見取図〉も、やがて20年代の後半から、 30年代にかけての現実政治の進行によって崩壊し ていく。そこで彼が〈社会ファシズム論〉に傾斜 していく問題は、ここではなお未定ではあるとし ても、このような近代ナショナリズムの性格を抜 きにしては起りえなかっただろう。



『続・大日本帝国の痼疾』(43)

透谷と蘇峰(2)


 蘇峰が『将来之日本』を上梓したとき、透谷は 18歳であった。前年、透谷は懊悩の末、激化して いく自由民権運動から離脱している。この年は、 脳病を患い「暗黒の一年」のさなかであった。 蘇峰の『将来之日本』は多くの青年の心を捉えた。 透谷もそのときの蘇峰に近親感をもった一人だっ たろう。しかし、思想の根底のところでは異和が あり、やがては二人は対極的な位置に対峙するこ とになる。

 前回、最後に引用した透谷の文章は次の文に続く ものだった。

 國民の鞏固なる勢力は、必らず一致したる心性 の活動の上に宿るものなり。此點より観察すれば、 國民の生命を證するものは、實に其制度に於て、 能く國民を一致せしむる舞臺あると否とに存せり。

 何を以て、國民に心性上の結合を與へん。如何 なる主義を以て、此の目的に適ひたるものとせん。 如何なる信條を以て、此の目的に合ひたるものと せん。吾人は多言を須(もち)ひずして知る、尤 も多く並等(びょうどう)を教ふるもの、尤も多く 最多数の幸福を圖るもの、尤も多くヒユーマニチ ーを發育するもの、尤も多く人間の運命を示すも の、即ち、此目的に適合する事尤も多き者なるを。

 斯の如く余はインヂビジユアリズムの信者なり、 デモクラシーの敬愛者なり。 然れども、 國民の元気は一朝一夕に於て転移すべきものにあらず。 其の源泉は……


 透谷が持っていた蘇峰に対する異和は思想の根底 に関わるものであった。蘇峰には民権運動に対する 「懊悩」はない。民権運動の敗退を痛恨とは思っていない。 蘇峰は『将来之日本』の緒言で言う。

今日ノ門出ハ絶望ノ門出ニアラズシテ希望ノ門出 ナリ。

 『将来之日本』の主張は、蘇峰自らの要約を 引用すれば、次のようである。

 而シテ世界ノ境遇ハ實ニ生産的ノ境遇ナルコト ヲ發明セリ。續デ之ヲ天下ノ大勢ニ質シタルニ。 天下ノ大勢ハ實ニ平民主義ノ大勢ナルコトヲ發明 セリ。吾人ハ更ニ眼孔ヲ我邦ノ一局部ニ轉ジテ 観察シタルニ。實ニ我邦現今ノ境遇ハ尤モ生産的 ノ境遇ニ適シ。我邦現今ノ形勢ハ尤モ平民主義 ノ大勢ナルコトヲ發明セリ。即チ我邦現今ノ状勢 ハ此等ノ境遇勢力ノ重圍ノ中ニ陥リタルコトヲ 發明セリ。

 19世紀の近代ブルジョア政治経済理論を借用し て、日本は将来、生産主義、平民主義の社会にな るという未来像を描いている。そして、この未来 像は「天下ノ大勢」であり必然の成り行きだと言 う。この楽天的にして建設的な言説と透谷の屈 折した言説との違いの核心を、北川さんは次のよ うに分析している。

蘇峰にとって《国民の元気》などあらためて問う までもないことであった。蘇峰には、透谷にある 《余はインヂビジユアリズムの信者なり、デモク ラシーの敬愛者なり。然れども……》の、《然れ ども》という逆接の接続詞の決定的な屈折がなか ったのである。一方、それあるが故に、透谷はな お暗黒に眼を押し開いて、深く地層の下に潜勢し ている《国民の元気》を凝視せざるを得なかった。

 もし仮に、この《然れども》がなかったら、 《国民の元気は一朝一夕に於て轉移すべきものに あらず》の重要な次行への路を欠くことになり、 インジビジュアリズムやデモクラシーの信者とし て、蘇峰の亜流になり終っていただろう。そして、 逆に、蘇峰の思想は、その接続詞を欠いていたが 故に、《我将来ノ日本》の〈見取図〉を楽天的に、 あるいは建設的に描ききることができたといえる のである。


 さらに、蘇峰は『将来之日本』を次のように結 んでいる。

 吾人ハ我カ皇室ノ尊榮ト安寧トヲ保チ玉ハンコ トヲ欲シ。我國家ノ隆盛ナランコトヲ欲シ。我政 府ノ鞏保ナランコトヲ欲スルモノナリ。之ヲ欲ス ルノ至情二至リテハ敢テ天下人士ノ後ニアラザル コトヲ信ズ。

 然レトモ國民ナルモノハ實ニ茅屋ノ中ニ住スル 者ニ存シ。若シ此國民ニシテ安寧ト自由ト幸福ト ヲ得ザル時ニ於テハ國家ハ一日モ存在スル能ハザ ルヲ信ズルナリ。而シテ我ガ茅屋ノ中ニ住スル人 民ヲシテ此ノ恩澤二浴セシムルハ實ニ我ガ社會ヲ シテ生産的ノ社會タラシメ。其必然ノ結果タル平 民的ノ社會タラシムルニアルコトヲ信ズルナリ。


 これは一人蘇峰に限ることではなく、この時期の 大方の知識人や民権派の活動家が共有していたもの であるが、 「議会開設」によってこれまでの藩閥専制政治が 改められ、より民主的な「立憲君主制」の「平民的 ノ社会」へと変革できることを未だに信じ ている。これについて、北川さんは次のように論じ ている。

 むろん、わたしたちは今日の常識で、皇室の尊 栄と国家の隆盛と政府の鞏保と国民の幸福が、言 いかえれば、国権の拡張と民権の拡張が、何の矛 盾もなく同位に円環を結んでいることを笑うこと はできない。なぜなら、維新革命は王制復古とし て行われたのであり、藩閥政府の出自は同時に革 命政府でもあったからである。

 《大衆的な「ナショナリズム」にとって、ある いは支配層の国権意識にとって、これがどんな虫 のいい、めでたし、めでたし主義にみえようとも、 明治初期の知識人にとって、矛盾や分裂があらわ れないという意味で、おそらく多数を象徴する進 歩思想であった》という吉本隆明の水準の確定は おそらく正確である。しかし、明治26年の時点で、 すでに〈国民〉が魔の支配力として倒立して映っ ている透谷の眼には、この無葛藤な折衷理論が、 それがどんなに《多数を象徴する進歩思想》であ っても、《軽業師の理論》としてしか視えなかっ たのは当然であった。


 北川さんは『国民と思想』から、さらに次の文 を引いて論を進めている。

 デモクラシー(共和制)を以て、我国民に適用し、 根本の改革をなさんとするが如きは、極めて雄壮な る思想上の大事業なり、吾人は其の成功と不成功を 論(あげつ)らはず、唯だ世人が如何に冷淡に比の 題目を看過するかを怪訝(かいが)しつゝあるもの なり。吾人は寧ろ進歩的思想に與するものなり、 然りと雖、進歩も自然の順序を履まざる可からず、 進歩は轉化と異なれり、若し進歩の一語の裡に極 めて危険なる分子を含めることを知らは、世の思 想家たる者、何ぞ相戒めて、如何に眞正の進歩を 得べきやを講究せざる。国民のヂニアスは、退守 と共に退かず、進歩と共に進まず、その根本の生 命と共に、深く且つ牢(かた)き基礎を有せり、進 歩も若し此れに協はざるものならは進歩にあらず、 退守も若し此れに合ざるものならは退守にあらず。

 デモクラシーは雄壮な思想上の事業であり、自 分はむしろ進歩的思想に加担するものだが……と いつものようにそこで発語を逆接せざるを得ない 透谷は闇を噛んで苦い。しかし、進歩は転化では ない、と言い切ったとき、むしろ進歩的思想に加 担するものだと言いながら、ことばとは逆にデモ クラシーを以て根本の改革をなさんことを打ちあ げている蘇峰の対極にはじきだされたと言えない だろうか。

 丸山真男は《政府の上からの欧化主義に対して、 蘇峰は下からの欧化主義の主張》をしている、と 位置づけているが、しかし、《全体の国民》を欧 化さるべき客体、つまり啓蒙の対象としている点 では、やはり、政府とは別な意味でこれも《上か らの欧化主義》であると言えるだろう。後に蘇峰 が対外的な危機を契機として、民権論から国権論 へ変節したといわれる問題も、別に突然変異的に 起ったのではなく、こうしたむしろ《上からの欧 化主義》としての啓蒙的な思想の体質そのものに 胚胎していたとみるべきだろう。

 むろん、その《上から》は、政府の《上から》 とは対抗関係をもって、ともかく一時代の〈進歩〉 を代表していたのだから、そこに混同は避けるべ きだろう。透谷自体は、蘇峰に代表される《常に 人世の境域にのみ心を注(あつ)め、社界を改良す と曰ひ、国家の福利を増すと曰ひ、民衆の意向を 率ゆと曰ひ、極て尨雑なる目的と希望の中に働ら きつゝ》ある思想を指して《地平線的思想》とい う名称を与えたのであった。

 〈進歩〉にしても、〈退守〉にしても、《国 民のヂニアス》《根本の生命》に触れないかぎり は、ほんとうの意味で力を持ちえない。〈進歩〉 を語り、〈退守〉を語る、いいかえれば、欧化主 義を唱え、国粋主義を唱える《地平線的思想》に、 透谷はやはり《國民の元気》や《その根本の生命》 を対置するほかないのである。



『続・大日本帝国の痼疾』(42)

透谷と蘇峰(1)


 「民権」という「吾国の歴史に於て空前絶 後なる一主義」は「国権」に蹂躙されて敗れ去っ たが、それは「沈静にあらずして潜伏なりき。」 と、透谷は言う。その地層深く潜伏した「国民の 元気」を掘り当てる苦闘の途次、透谷は自死する。 1894(明治27)年、透谷25歳であった。

一方、三叉竹越は「国民の元気」の潜伏を余儀な くさせていった国家権力の側に取り込まれていっ た。

 この二人とはまた違った「敗北」の道を進んだ 同世代の青年をもう一人取り上げよう。先に、徳富蘇峰の父・徳富一敬が横井小楠の弟 子であったことを指摘した。その蘇峰は「平民主 義」を旗幟に掲げて論壇に登場する。『将来之日本』、 1886(明治19)年、蘇峰24歳のときである。しかし、 小楠の衣鉢を継ぐかにみえた蘇峰は、小楠とは 正反対の所へと転回していってしまう。しばし、この 蘇峰の思想の軌跡をたどってみようと思う。

(私は蘇峰の著書も、単独に蘇峰を論じた書物 も持っていない。北川透著『北村透谷試論Ⅱ』 に透谷と対比しながら蘇峰を論じている部分がある ので、それを教科書とする。)

 透谷は『国民と思想』を次のように書き始めて いる。

 一國民の心性上の活動を支配する者三あり、 曰く過去の勢力、曰く創造的勢力、曰く交通の 勢力。

 「過去の勢力」=「国粋思想あるいは東洋思想」、 「交通の勢力」=「外来思想あるいは欧化思想」 と考えてよいだろう。「叨(みだ)りに東洋の思 想に執着するも愚なり、叨りに西洋思想に心酔す るも癡(おろか)なり」として、この二つに対して 「創造的勢力」が必須であることを説いている。しかし、 「今の思想界を見廻せば、創造的勢力は未だ其の 弦(つる)を張つて箭(や)を交ふに至らず、 却(かへ)つて過去の勢力と、外来の勢力とが、 勢を較して、陣前馬頻(しき)りに嘶(いなゝ) くの声を聞く、戦士の意気甚だ昂揚して、而して 民衆は就く所を失へるが如き観なきにあらず。」 と現状を憂えいている。

 また竹越も、維新以来、三つの思潮が「三分鼎 立」してきたと言う。そのうち二つは「国家主義」 と「平民主義」であり、第三を「精神的の進歩思 想」と呼んでいる。そして「各個思想は、その終 に至れるまで、相対峙せり。ただその一脚たる精 神的の進歩思想は、その一半平民主義によりて代 表せられたるのみにして、社会実際の生活に於て、 なおいまだ大勢力となり能わざるものあり。」と 言う。

 竹越が言う三分鼎立している三つの思潮はそれぞれ 透谷の「過去の勢力」「交通の勢力」「創造的勢 力」と対応していると考えてよいだろう。

 明治20年代の言論・思想界は大きく二つの勢力 が二分していた。

(1)「過去の勢力」、「国家主義」
 『日本人』と新聞『日本』を拠点に活躍した 三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南らの「政教杜」。

(2)「交通の勢力」、「平民主義」
 『国民之友』と『国民新聞』拠点に活躍した 徳富蘇峰、山路愛山らの「民友杜」。

 第三の勢力はいまだ潮流をなすほどに成長 していない。「一半平民主義によりて代表せら れ」ているが、透谷はその勢力(2)に手厳しい。 暗に(2)を念頭に置いて言う。

 國民の元気は一朝一夕に於て転移すべきもの にあらず。其の源泉は隠れて深山幽谷の中に有 り、之を索(もと)むれば更に深く地層の下に あり、砥(と)の如き山、之を穿つ可からず、安 (いづ)くんぞ国民の元気を攫取(かくしゅ)し て之を転移することを得んや。思想あり、思想 の思想あり、而して又た思想の思想を支配しつ べきものあり、一國民は必らず國民を成すべき 丈の精神を有すべきなり、之に加ふるに藪医術 を以てし、之を率ゆるに軽業師の理論を以てす るとも、国民は頑として之に従ふべからざるなり。

『続・大日本帝国の痼疾』(41)

北村透谷の天皇観


 「旧組織の遺物なる忠君愛国」をかかげて復古 的国家を形成していった明治維新を「革命にあら ず、移動なり。」と喝破した透谷の天皇観はどん なだったのだろうか。

(今回の教科書は「文学・1994春」所収の色川大吉 『透谷の政治意識』です。透谷からの引用文は岩波書 店版『透谷全集』による。)

 透谷に『哀願書』という手記(父親へ の手紙の草稿とされている)がある。1884~5 (明治17~8)年ころのものと言われているから、 透谷15~6歳ころの文章である。

 豚兒門太郎(透谷の本名)謹ンデ一篇ノ哀願書ヲ 以テ大人ノ坐下ニ捧グ、兒、曾テ經國ノ志ヲ抱イ テヨリ日夜寝食ヲ安フセズ。單(ひと)へニ三千五 百萬ノ同胞及ビ連聯皇統ノ安危ヲ以テ一身ノ任ト ナシ、且ツヤ、又タ世界ノ大道ヲ看破スルニ、弱 肉強食ノ状ヲ憂ヒテ、此弊根ヲ掃除スルヲ以テ男 子ノ事業ト定メタリキ。然ルニ世運遂二傾頽シ、 惜ヒ乎、人心未ダ以テ吾生ノ志業ヲ成スニ當ラザ ルヲ感ズル矣。鳴呼本邦ノ中央盲目ノ輩ニ向ツテ、 咄々(とつとつ)又タ何ヲカ説カンヤ。兒ノ胸中独 リ自ラ企ツル所、指ヲ屈スルニ暇アラズ。是レヲ 施シ、是レヲ就サントスルニ、世運遂ニ奈何トモ スルナキヲ知ル。鳴呼、奈何ナル豪傑丈夫ノ士ト 雖、何ゾ能ク世運ノ二字ニ、

 「連聯皇統ノ安危ヲ以テ一身ノ任トナシ」と、 維新期の圧倒的支配思潮の洗礼を受けて、常識的(当時 の)な枠内の信条を吐露している。それにしても 何という早熟ぶりだろう。私のような平凡人と比べ るのも愚かと言うべきだろうが、15歳頃の私はまだ ガキ大将として遊びまくっていた。

 透谷が書き残したものの中に直接天皇制に触れ たものは少ないが、その一つ、1892(明治25)年、透谷23歳の時に 発表された『一種の攘夷思想』には次の一節がある。

 われは心酔せる生う歐化思想を抱けるものに あらず、我國固有の思想なる三千年来の長江は、 我輕舸(けいか)を載せて奔(はし)らしむ るに宜しきを知るは、世に所謂(いはゆる)國粋 論者なる者に譲るところなきを信ず、然るも彼の 舶載せるものと云へばいかなる者をも排斥し盡 さんと計るものには、同情を呈する事能(あた) はず、況(いわ)んや、気宇甕(かめ)の如く窄(せ ま)き攘夷思想の一流と感を共にする事、余輩の 斷じて為すこと能はざるところなり。

 余輩は綿々たる我皇統を歴史上に於て倨負(き よふ)するの念なきにあらず、然れども滔々たる 世界の共和思想の逆流に立つて、どこまでも舊来 の面目を新にする勿(なか)らん事を、熱望するも のにはあらず、要するに世界の進歩の巨渦に遡 (さから)つて吾運命を形(かたちづ)くる事は、 人力の為す可からざるところなるが故に、吾人は 思想上に於て苟くも世界の大勢に驅らるゝ事ある 時には、甘んじて其流勢に随はんと欲するものな り。


 ここでは心情的攘夷論とはきっぱりと袂を分か っている。また、「我皇統」への通り一遍の理解を表明して はいるが、「然れども滔々たる世界の共和思想の」 「流勢に随はん」と言い切っている。さらに1893 (明治26)年、透谷24歳の時の『明治文学管見』には、 先に引用したように、次の文言がある。

 明治文学は斯の如き大革命に伴ひて起れり、其変 化は著るし、其希望や大なり、精神の自由を欲求す るは人性の大法にして、最後に到着すべきところは、 各個人の自由にあるのみ、政治上の組織に於ては、 今日未だ此目的の半を得たるのみ、然れども思想 界には制抑なし、之より日本人民の往かんと欲す る希望いづれにかある、愚なるかな、今日に於て旧 組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷ふ学者、 請ふ刮目して百年の後を見ん。

 詩においてばかりではなく、政治思想において も、透谷は明らかに時代の強固な枠組みを突き抜けた高大な 地点にいた。色川氏の透谷評を聞いてみよう。

 実際に明治26年の透谷はいっそう明瞭に皇 室離れ、「国体」離れを示し、「内部生命」を 欠いた道徳を説く「教育勅語」を批判したり、 「今日に於て旧組織の遺物なる忠君愛国の岐路 に迷ふ学者、請ふ刮目して百年の後を見ん」 と愚弄したのである。

 この「忠君愛国の岐路に迷ふ学者」に天皇神権 説や家制国家を説く穂積八束や「教育勅語」の権 威をかざしてキリスト教などを圧迫した井上哲次 郎らがふくまれでいることはまちがいないと思う。 ただ、透谷の「井上博士と基督教徒」(明治26・ 5・2)は帝大教授という国家の雇人の立場に同情 を示したもので、井上の思想に対する批判を行な っていないが、そのことは彼が井上の考えに同調 していたことを意味しない。

 穂積八束は
「祖先ヲ崇拝スルノ教ハ即民族ノ宗家タル皇室ヲ尊 敬スルノ念」(「家制及国体」明治25)
だといって、「家制」「族長制」の上に天皇神話 を結びつけて、日本固有の祖先教なるものを唱え、 同祖同族という欺瞞による民族一体の共同体的国家 論を押しだしたが、透谷の考えはこれと真向から対 立していた。

 彼は神話を史実だと思っていない。 したがって天照大神を民族の遠祖だとも、皇室を 宗家とも思っていない。だいいち天皇の神聖を信じ ていない。天孫降臨も三種の神器も、ただのお話で、 「旧組織の遺物」の一つにすぎない。

 透谷は「古事記」や「日本書紀」に興味を寄せ たが、それは天皇兄弟が骨肉あい喰む殺し合いを やったり、その陰謀と抗争の犠牲となって后や皇 女が殉死してゆく悲劇を創作の材料にしたかった からに他ならない。透谷は垂仁天皇の皇后で叛逆 した兄との板ばさみになって死んだ狭穂姫(さほひ め)を作品化して『国民之友』に発表しようとした こともある。

「透谷子把(と)って小説と為す、一篇悲観的の文 字、悽槍人を愁殺す。(中略)読者、彼女が戦 (おのの)く繊(せん)手に皇子を抱きて、身を稲城 の火中に没するを看よ」(明治25・12・23)

という『国民之友』の予告は面白い。

 明治25年7月13日の日記、

「狭穂彦の乱に付で皇后とインセストなど面白き こと限りなかるぺし」

などには「不敬」の匂いがする。インセストとは 近親相姦だからである。

 3月16日の日記にも

「行いて日本の歴史を読め、悲惨限りなき者何処 にかある。日本の歴史には朝廷の……あるのみ、 然れども貧民……説明する者なきなり」

にも同様なものが感じられる。この点線の空白は 透谷によるものか、日記(「透谷子漫録摘集」) の編者の星野天知によるもの かは分らないが、どちらによるものにしても 「不敬」の畏れからの抹消であろう。透谷は敗退 期の民権家であっただけに権力による言論弾圧に は敏感だったのである。

 それはともかく彼が族長制的国家像を拒否し、 それにつらなるイデオロギーに敵対しないわけ にはゆかなかったところに、彼のラジカリズム の政治性があった。彼は天皇や国家や民族などに 拘禁されない人間個々人の「精神の自由」の実現 をひたすら願ったが、1890年代の日本で、それは 不可能に近かった。しかし、なお、それを 希求しつづける以上、彼は戦いを止めるわけには ゆかなかったのである。

 上記引用文中の「狭穂姫」については

第840回 8月1日:《「真説・古代史」補充編》『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(1)
第841回 8月2日:《「真説・古代史」補充編》『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(2)
第842回 8月3日:《「真説・古代史」補充編》『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(3)

を参照してください。

 なお、色川氏が引用している透谷の3月16日の 日記は岩波書店版「透谷全集」では確認できなかった。

また、透谷の「教育勅語」批判の文章も確認できないが、 あるいは『内部生命論』中の次の一節だろうか。

 彼等は忠孝を説けり、然れども彼等の忠孝は、 寧ろ忠孝の教理あるが故に忠孝あるを説きしのみ、 今日の僻論家が敕語(ちよくご)あるが故に忠孝 を説かんとすると大差なきなり、彼等は人間の根 本の生命よりして忠孝を説くこと能はざりしなり。 彼等は節義を説けり、善悪を説けり、然れども彼 等の節義も、彼等の善悪も、寧ろ人形を并(なら) べたるものにして、人間の根本の生命の絃に触れ たる者にあらざるなり。

 そして、ここで言う「僻論家」とは井上哲次 郎を指しているのかも知れないと思った。

『続・大日本帝国の痼疾』(40)

三叉竹越の天皇観


 天皇の神秘化や、「君」と「民」の障壁となる 貴族制度には批判的だった竹越であったが、 「一君万民」というイデオロギーを清算すること はついにできなかった。もっとも、維新政府が打 ち出した人民差別と疎外の枠組みをトータルに認 識し得た知識人は、明治初期にはほとんどいなか ったであろう。

 竹越は
『大革命は勤王のために成就せられたるにあらず して、皇位の崇高、威厳、美麗こそ、かえって大 革命のために発揮せられたるなり。勤王は大革命 の原因にあらず、かえって国民の活力たる大革命 より流れ流出せる結果なるなり。』
と、明治維新の原動力を正しく把握していた。そして その「皇位」のあり方としては、維新の勝利者の「国家 最強、最多数の思想」の専有物であってはならず、 「少数者、微弱者、敗北者」あるいは「異種異分子」 をも網羅した社会すべての分子」を包容した「国家 最善、最美、最上なる意志の発表せらるるの座」 であり、「一視同仁の地」でなければならないと 言う。

 では、明治維新は実際は竹越の理想を体現した だろうか。「一君万民」というイデオロギーに呪 縛された目には、当然に天皇制の闇を見透すこと はできない。もちろん、大日本帝国憲法もありが たく押し頂くことになる。竹越は維新における宗 教問題を取り上げて次のように言っている。

 試みに回顧せよ。維新の当年に於て、宗教の一 点よりいわば、皇位は実に神道の意見を代表せる にあらずや。然れども仏教のその勢力を回復する や、実にこの二教を竜車の両輪として進まんとす るの傾ありしなり。もし宗教社会に於て、更らに 他の一分子を増加せざりしならば、皇位は長く両 教を以て前駆とすること、中世の皇位のごとくに してテムポラルの権と共にスピリチュアルの権 とを併有せしならん。

 然るに基督教が突として波涛の勢を以て入り来 るや、両教をして意外の勁敵(けいてき)を得せし めたると共に信仰、不信仰は人の自由たるべきの 論盛に唱えらる。もしこの時に方って皇位にして なお両教に意を傾けしむるあらば、これ皇位は一 視同仁の地に立つものにあらず、少数ながらも進 歩思想を有する人民を以て、皇敵となすものにし て、決して皇位本来の性質にあらず。

 ここに於いてか、基督教及び自由思想の勢を得 ると共に、宗教上に於ける皇位の性質また一変し、 皇室と宗教と全然分離し、一視同仁、共覆、斉庇 (せいひ)、中立、超然、彼を是とせず、之を非と せず、多数なる旧教の上に立つと共に、少数なる 新教の上にも親臨し、独り信仰のみならずまた不 信仰者の上にも君臨するに至れり。憲法第28条こ れなり。


憲法28条
日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ 背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

 憲法公布の時点において、「安寧秩 序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」 という文言の猛毒(「良心の自由」とは何か Ⅲ を参照)に気づかなかったことを責めるの 酷であろう。

第29条
日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及 結社ノ自由ヲ有ス

 もちろん、これも絵に描いた餅であった。

 続いて竹越は「教育勅語」についても手放しで 賞賛する。

 その他道徳の主義に於て、甲是乙非、あるいは 儒教によらんとし、あるいは基督教に頼らんとし、 天下の衆論帰着する所なきや、明治二十三年十月、 左の勅語を発して衆多の意見を調和せるがごとき、 また以て皇位が国民の中、最慧、最良、最善の思 想を代表し、強者に偏せず、弱者を捨てず、中立 の地となりしを証すべきなり。


 竹越は、1898(明治31)年に第3次伊藤内閣の文相・西園 寺公望の秘書兼勅任参事官に起用されたのを機に 現実政治に深く関わるようになる。

1902(明治35)年 衆議院議員に当選
1922(大正11)年 貴族院勅撰議員
1940(昭和15)年 枢密顧問官に任命される。

 軍部が言論に強く容喙するようになったとき、 竹越もその旧著の発売を禁止され、政治的圧 迫を受けている。

 竹越は1950(昭和25)年に没している。大日本帝 国が滅亡したとき、竹越は政治的責任を痛感して 一切の公職から引退したという。明治維新に劣ら ぬ 大激変を再び経験して、竹越の天皇観はどうだっ たろうか。何か変化があっただろうか。 あるいは何ら変わることはなかっただろうか。

『続・大日本帝国の痼疾』(39)

明治維新の明暗(6)


 竹越も、1884(明治17)年に公布された「華 族令」をもって、「御一新」の「大目的」は失敗し たと慨嘆している。

 大名を廃して世禄(せいろく)を没官(もっかん) し、門閥を滅して人才を取り、自由平等の大義を 実行し来りし明治政府は、明治十七年七月を以て 華族令を発し、二千五百年来いまだかつてあらざ る貴族制度を立て、公俟伯子男(こうこうはくしだ ん)の区別を定めたり。これ伊藤外遊の大効果な り! ここに於てか政府が政治上に於ては貴族的保守 主義の政略を執り、社会上に於ては貴族的急進主 義を執ること明白となれり。

 維新改革の大目的は実に自由平等の大義を実行 すると、皇室と人民とを近よらしむるにありき。 これ当時の人心に印したる一大譜牒なりしなり。 ここに於てか華族なるものは早晩廃せざるべから ずと信ぜられたるに、ここに至って華族を区別し、 更らに新華族を設けて、皇室の藩屏(はんぺい)と 称し、以て人民と皇室との間を遠ざからしめたれ は、維新以来十有八年にしてその大目的遂に失敗 す。

 而して新華族となりたるものは、多く在朝の 高官にして、在野の元老は大隈と板垣と後藤と勝 の四人のみ伯爵となる。板垣はもとより自由主義に反するものと してこれを固辞せり。その友人もまたこれを辞すべ きを勧告せり。然れども天皇の命辞すべからずし て遂にこれを受く。


 華族令や欽定憲法での天皇神秘化は、 伊藤博文がドイツをモデルに政体を構想した結果 であった(「良心の自由」とは何か Ⅲ を参照)。 これに対し、竹越はイタリアをモデルにすべきであったという 持論を開陳している。

 今やこの冷算政治家(伊藤のこと)は、如何なる 政体を以て国民と相見(あいまみえ)んか。彼は 苦心せり、沈吟せり。而してその部下の談話によ りて独逸(ドイツ)大帝国を作為し、政党の争を以 て自家の地と為すビスマークの業を知れり。ここ に於てか日耳曼(ゲルマン)に入り、世界が驚嘆、讃 美、憎悪する老雄ビスマークと親しく相見て、 その政策の秘密を聞けり。ここに於てか彼は政党以外に超然として立つの 内閣、また決して難きにあらざるを見たり。而し て政党以外の内閣は国民に遠(とおざか)って帝室 に近よらざるべからず。独立内閣の秘密は独り帝 室にあるを見たり。

 ここに於てかその帰るや自ら宮内卿となり、十 七年四月制度取調局を立てて政制を一変するの端を 開けり。而して取調局は実に宮廷の中に設けられた り。ここに於てか漸(よう)やく政治に遠かりし宮 廷、また政治と連結し来る。これより宮廷の高官 は悉く伊藤の友を以て充たされたり。

 もし国情相似たるを以てその事情を参考するの 心あらは、以大利(イタリー)の形勢こそ実にわが 国民の観察すべき所なり。彼は自由都府の小侯国 より一躍して欧州の強国となれり。彼の国民は小 侯の圧抑より脱して自由人民となれり。その政治 家は卑賤の書生より一飛して台閣の上に上れり。 彼は実に鑑(かんが)むべき鏡なりしなり。


 竹越は1865年生まれであり、伊藤は1841生まれ。 『新日本史・上巻』は1891年に刊行されている。 このとき竹越は26歳、伊藤は50歳。伊藤は二度目 の枢密院議長に就任していた。そして、翌年には 二度目の内閣総理大臣に就任している。権勢をほ しいままにしていたこの伊藤を、竹越は「冷算政 治家」と評している。同時代を生きていた青年竹 越の伊藤観は実に辛辣である。本題からいささか 外れるが、竹越の伊藤観を紹介しよう。憲法調査 のヨーロッパ視察に出かける前の伊藤を論じて 竹越は言う。

 彼は大隈の退朝以来、井上馨と共に政府の二人 男たり。浮華(ふか)巧妙なる政策は、常に二人の 手によりて成されたり。然れども彼れただ機に応 じ、変に臨みてその敏腕を用ゆるのみ、いまだ一 定の政論あらざるなり。

 その資性は保守的貴族的にして懐古の情に富み、 自由平等の大理想に向って身を棒ぐるの血性ある なければ、勿論当時のいわゆる改革軍に対しては、 初より抵抗せり。然れども如何なる政体に向って 明治政府を運転せんか、いまだ一定の思想あらざ りしなり。

 彼は時としてはメッテルニッヒ(オーストリアの 宰相)のごとく、李斯(りし 秦の丞相)のごとく、 非常の圧抑を試みんと欲したることなきにあらず。 然れども彼の胆力はその夢想と伴わざるなり。彼 は英仏政治家の跡を追い一大政府党を作り、自ら これを麾(さしまね)きて民間党と決戦せんと欲し たることなきにあらず、否な彼はこれを帝政党に 於て実行せり。

 然れども政党の戦争は古代の戦争 のごとく、その首領自ら陣頭に進みて決戦するの 勇気なかるべからず。彼はこの野蛮の兵士たるべ き勇気を欠けり。彼は宮廷の猫なり。帷幄(いあく) の内に画策し、密室の中に陰謀する策士なり。 彼はあまりに慧眼(けいがん)なり。物の利害あま りに多く彼に見え過ぎたり。多くの勇気と多くの 執着力と、多くの信仰と、多くの野蛮的勇気に少 量の智恵を加味したる政党の首領は、彼に適当の 業にあらず。彼は甘味を好み、甘味と共に一点の 辛酸をも嘗(なめ)るを好まざるなり。 世にもし治平の照代には大将軍となり、 車轔々(りんりん)、馬瀟々(しょうしょう)、 日比谷の練兵場に入り、俯仰顧俛(?)、意気昂然 として英風一世を蓋(おお)うも、一旦不利なる戦 に赴くべしとの命を承るや、官を解きて走るいわ ゆる観兵式の大将軍あらば、伊藤は実にその人な り。

 彼はあまりに聡慧(そうけい)なり。あまりに万 全を好み、暗黒中に大胆なる飛躍を為す能わざる なり。彼は実に明治大革新の反動波中より出でた る冷脳政治家の模型なり。


『続・大日本帝国の痼疾』(38)

明治維新の明暗(5)


 言論弾圧と貴族制度の制定について、『新日本史』 の記述をいま少し引用する。

 昭和の15年戦争中に激しく振り下ろされた居丈高な 言論弾圧の原型は、既に1882年~1883年のころに認 められる。

 1882年(明治15)年に大隈重信が改進党を結成した 時の様子が次のように描かれている。市井氏が『民 権を保障するものとして「一君万民」思想をとらえ る態度が、自由民権派によって果敢な抵抗をともな って活きていた』と言っているが、それを裏付ける 記述である。

 彼ら(自由党、改進党など。三叉竹越はこれら自由 民権派の政党を総称して「民間党」と呼んでいる。) は言論の自由を有せざるなり。然れども法律を破 り、刑罰を以て自由を買えり。彼らは集会の自由を 得ざるなり。然れども事に託して政治的の集会をなし、 以てその目的を貫けり。ここに於てか明治政府もま たこれに応じて、防戦を試むるに至れり。

 この時の政府は、殆んどマホメット宗徒のごとく なりき。彼らは右には大久保以後の慣用政略により、 警察を厳にして、以て人民に臨み、言論、集会、少 しく政府を攻撃するものあれば、直ちにこれを停止 し、罰金を科し、これを解散せり。

 これが為めには日本政府といわず、単に理論上に 於て圧政政府は顛覆すべLと述ぶるや、解散せられた る集会あり。暴君汚吏は人民の敵なりと論ずるの新 聞紙は、暗に明治政府を指したるものとして停止罰 金を蒙りたるものあり。

 これ必しも中央政府の意にあらざりしなるべし。 然れども政令は物の中天より落つるがごとく、一 歩一歩、圧力を加え来れば、内閣に於て厳粛の政策 を取れと令すれば、地方官に至ては圧抑となり、 地方官の令を奉じてこれを実行する警部巡査に至 っては、暴戻(ぽうれい)となるは免れざるの数な り。

 かつこの時に方ってや官吏中に幾多の行険(こう けん)者を出し、政府の意民間党を抑ゆるにあるを 見るや、陰私百方、これを妨げて以て自家進官の 階梯となすものあり。香取某なる警察官は演説会 場に臨むや、必らず弁士の隙に乗じてその欠点を 捉えてこれを解散せしめり。ここに於てか彼は解 散警察官の名を負うて、一躍して奏任官となれり。

 ここに於てか官吏の中、靡然(びぜん)として行 検の風を生じ来り、あるいは学校の教員を利用し て民間党を攻撃し、あるいは宗教を籍(か)りて不 平を鎮め、福岡県令渡辺清のごときは真宗の僧侶、 大洲鉄然を延(ひ)きて管内を巡遊し、妄(みだり) に政府に抵抗するの悪事たるを説教せしめたり。


 1883(明治16)年、「新聞紙条例改正」によって 言論弾圧はいよいよ狂気じみてきた。


 これよりさき保守党(1882年に作られた帝政党。 明治政府の御用政党)と民間党との間には主権の 所在につきて一場の論戦を開けり。 曰く「憲法制定の日、国会開設の後、主権は何人 の手に存すべき乎」と。

 保守党は曰く、日本の人民は歴史あって以来天 皇の臣民たり。その土地は天皇の所有たり。憲法 の制定国会の開設もまた天皇の権内にあれは、主 権は天皇の手中に存せざるべからずと。

 民間党は曰く、君主専制の世は巳に去れり。い やしくも君主専制の世に返るにあらずんぱ、主権は 君民の間に存せざるべからず。君民の間は即ち国会 にして、天皇と人民との権によりて成る国会の上に 主権を存せしめは、これ即ち立憲君主制の名に適う ものなりと。交戦数十日なりし。

 我国民は政体に関しては如何なる思想を有するか、 明白にこれを発露せしめたる事あるなし。この主権 論のごときは実に人民の政体思想を発露するに最も 適当の機会なりしも、行政司法官の監督厳にして、 言論少しく皇室に及ぶや、直ちにこれを停止するがご ときことあり。

 厳重なる法律をこの頃よりして更らに厳重ならし め(「新聞紙条例改正」のこと)、『新潟日々新聞』 の投書家は、崇峻帝は無智幼弱の婦女子を立つと 論ずるや、三十四代の天皇推古に対して不敬を加 えたるものとして論告したる捏なりしかば、民間 党は実に困難なる地位に立てり。

(中略)

 当時保守党の方には政府の宣告書あり、迷信家 の白刃(板倉退助暗殺未遂事件)ありしかぱ、民間党は甚だ 苦戦の地に立てり。