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『続・大日本帝国の痼疾』(37)

明治維新の明暗(4)


 御一新による身分差別撤廃は不十分なものだった とはいえ、さらなる人間の解放への欲求を育んだ。 やがてそれは自由民権運動へと大きく成長していっ た。自由民権運動は、幕末の騒動・一揆で示さ れた民衆の変革へのエネルギーと大弐や小楠が示し た先駆的な思想とを種と肥料にして育った民衆の 側からの「御一新」の試みだったろう。

 1880(明治13)年~1881(明治14)年に、自由 民権運動はその最高揚期を迎える。その状況を 『透谷の政治意識』(色川大吉)は次のように活写 している。

 日本全国に一千社を越す民権結社が結成 され、国会開設の請願運動の大波が底辺か ら湧き起った1880年。それはまさに透 谷のいう「国民の精神」を燃え立たせ、言 論を風発させ、有司専制の非行(北海道の 国有財産をほとんど無償に近い価格で特権 政商に払下げた件)を弾劾して、政府をし て明治14年の政変をひき起すまでに追い つめた。


 この自由民権運動も、1883(明治16)年~1884 (明治17)年には激しく弾圧され、運動の内実を 大きく変貌させていく。それは「一君」が大きく 宗教的神秘的な「一君」へと変貌していく過程と 軌を一にしている。 (次回の学習テー マを「自由民権運動」しようと考えているので、 今は「自由民権運動」についてはこれ以上深入り しない。)

 『思想から』に戻ろう。市井氏は御一新による 身分差別撤廃の成果を評価するとともに、その負 の反面を指摘することも忘れてはいない。

 明治日本では、その身分差別の撤廃におけるみ ごとな高能率が、天皇崇拝によって保障されたの です。幕府時代に、政治権力から長く疎外されて いた天皇をよりどころにして、「一君万民」思想 を説くことは、その状況下では非常な革新思想で ありえました。しかしその天皇に政治大権が復帰 したあとでは、同じ思想が専制政治の源泉へ転化 しうるのです。

 ほぼ明治20年くらいまでは、その転化しうる可 能性にかなり歯どめがかかっていました。民権を 保障するものとして「一君万民」思想をとらえる 態度が、自由民権派によって果敢な抵抗をともな って活きていたからです。

(中略)

 いかなる政治思想も、権力をにぎれば専制政治 に転化しえます。民主主義、マルクス主義も例外 ではありません。「民主主義」権力も、つねに人 民側の覚醒的努力・批判・抵抗にさらされなけれ ば、過去の歴史が数多く示すように、専制政治へ 転化してゆきました。

 しかし「一君万民」政治思想は、いったんその 「一君」つまり天皇を神秘的崇拝の対象としてし まうと、その天皇の名による政治権力に対して、 人民側の批判・抵抗をきわめて困難なものにしま した。

 政治的に高能率であったものは、まさにその故 に危険と表裏一体です。「御一新」の変革をして みごとなものたらしめた楯の反面に、この危険が ひそんでいることを、当の変革をみずからなしと げた人々は意識していた形跡があります。しかし 変革の主体が二代目以降になって、この歯どめが じょじょに失われていったのでした。


 先に市井氏が「この変革(「御一新」、管理人 注)は、それ以後にできる明治国家よりも偉大であ る。」という竹内好の説を引いていた。まさに、 「一君万民」の「一君」という楯が裏返ったとき から、明治国家は取り返しのつかない「痼疾」を 抱え込んでしまった。

民衆の自由な言論の圧殺
 1875(明治8)年新聞紙条例・讒謗律(ざんぼうりつ)公布。
 1883(明治16)年「新聞紙条例改正」

(権力がいう「改正」は、おおかたは「改悪」 ときまっている。)

貴族制度という新たな身分制度の設定
 1884(明治17)年「華族令公布」

などなど、着々と布石を打っていき、

1889(明治22)年大日本帝国憲法公布

でその「痼疾」は決定的なものとなる。 その「痼疾」は大日本帝国の滅亡によってしか 消滅しえなかった。

第一條
大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三條
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス


(「大日本帝国憲法」制定の経緯については 「良心の自由」とは何か Ⅲ を参照してください。)

【補足】
 次の文は「新聞紙条例・讒謗律」制定と同年の 新聞記事である。名目ばかりの「四民同権」 を茶化したり、天皇神秘化の動向を風刺してい る。このころ、人民にとっての 「一君」はいまだなんら政治的に絶対的な権威で もなく、宗教的な存在でもなかったことがはっき りとうかがえる。

皆さん御同前に佐幕から勤王へ仮り住居(すまい) して、やうよう、愛国の籍に入り、永住しますか らは全四民同権無理が通る大通りも無く、道理の 引込む横町も無し、箱根から先にも化物は居らず、 命限り落ぶれても乞食になる事も出来ませぬ。鷹 も朋輩犬も朋輩、君も人間僕も人間、こわいとい ふは(中略)かえされぬ借金の催促ばかりだ。

サア夫(それ)だから銘々の宝物は此日本の 国土より外に無し。是を大切にして銘々の職分を 精出し国土にめり(ママ)の立つ事さへしなけりや、 別段天子様の御髭の塵を取りませうなんかんとお 坐なりを云ふにも及ばぬ。天子様は人民の隊長と 思ふて、夫丈(それだけ)けに敬ふがよい。又天子 様もちんが威張らねば国中はくらやみだなんかん と味噌を御上げ遊ばさずに、人民に親しく御相談 遊ばす筈なるべし。

付いては爰(ここ)に解せぬ事 があります。此開化になりましても天子様の御顔 を写真師に写し申てはならぬ、売り申てほならぬ と厳重の御停止、是はどふいふ理屈やら。人民が 隊長様の御姿を知りましては、なぜ御不都合だろ う。元より人民の御顔向けのならぬ事はあらツし やる筈がなし、知らないでこそ御不都合では御座 らぬ歟(か)。ハヽアわかったわかった 御役人様方の内に、粗末にしては和済まぬと御髭 の塵取り衆があるので御座らふ。だいじのお月様 雲目がかくす、とてもかくすならといふ処まで書 掛けて筆を置き悔しや涙に暮れたり (明治8年『東京日々新開』〔4月2日、975号〕)


 このような反権威・反権力の言論がはびこるこ とに、政府は大きな脅威を感じたことだろう。これが 「新聞紙条例・讒謗律」制定の背景である。

 三叉竹越は、上の新聞記事を引用した上で、 このころの「新聞紙条例・讒謗律」を始めとする 政府の人民への干渉が、その後の国家のあり ようを決したと論じている。

 大久保内閣は先ず新聞紙条例、歳誘律を制定し て、言論の自由を縮め、封建士族殺伐の気を遣る に文明の器具を用ゆるを妨げたり。

 この時までは新聞に記名する編輯人は即ち実際 の編輯人なりしが、この法律によりて言責に任ず る事となるや、その方法に窮したるに、時あたか も『ヘラルド新開』が泰西には藁人形の新聞編輯 あるを論じたるより、遂に現今のごとく記名記者 と匿名記者の別を生ずるに至れり。

 この時に方ってや少しく泰西の智識を有するも のは、皆な政府に衣食したれは、新聞紙に投書し て時政を論議するもの多くは官吏なりき。ここに 於てか政府はまた官吏が新聞に投書して政論を為 すを禁じたり。

 されば新開雑誌の上、寂然として静まりて、民 権の鋭鋒漸やく挫折す。而して一方に向っては百 般の法令を以て人民の事業を勧誘保護、干渉し政 府の力を以て民業を助長せり。政府の干渉に成り たる事業は皆この時に初まる。爾来幾多の 政変ありといえども、内閣の政策、多くはこの大 久保内閣の企図を引くものにして、彼れは実に維 新革命の旋風、回雨中より、明治政府が進むべき 一条の道路を見出して、これをこの時に定めたる もののごとく、後来の政治家、遂にこの轍路を脱 する能わず。


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第977回 2008/02/27(水)

『続・大日本帝国の痼疾』(36)

明治維新の明暗(3)


 「御一新」の理念「一君万民」の実現化に、新政府は 強い実践力を発揮する。「一君万民」の実現化に関連す ることに絞って、その進行を年表風に追ってみる。

 政体書によって設置された公議所は、諸藩割拠 (世襲身分制を併存)を提言するように、未だ古 い意識を払拭できないでいた。変革主体(市井氏 は新政府を担った薩長を中心とする志士たちをこ う呼んでいる。)が内政面でまず心を砕いたのが 諸藩割拠の解体であった。変革主体の工作によって、 まず薩長土肥の4藩の藩主が自発的に版籍奉還を上 表する。それをスタートに、公議所の過半数の反対にもかかわらず、 諸藩割拠の解体は着々と進行していった。

1869(明治2)年
 1月20日 薩長土肥の連署で4藩の版籍奉還の上表を行う。

 6月17日 朝廷、諸藩の版籍奉還を勅許。
      公卿・諸侯を廃止して華族とする。



 ただし、この段階ではまだ土地・人民を名目的に 返しただけで、藩体制そのものは存続そている。 華族という呼称は版籍奉還の代償のようなもので、 古い世襲身分の呼称だけは残す形にした。そして、 諸藩家臣は等しく士族とし、平民と区別した呼称 を制定した。これは「四民平等」化への第一段階 と言えよう。

 その後1・2年の間に全国諸藩で、上土・下士の 身分差によらず才幹による任用、禄高の思いきっ た平均化などを推進させ、藩体制の改革を進めさせ た。

1869(明治3)年
 6月25日 藩知事274人が定まる。
 9月10日 政府、藩制改革の布告を出す。
 9月19日 政府、平民の苗字使用を許可。

1871(明治4)年
 7月 廃藩置県の詔書。


 「藩の垣根をとり去って、郡県制の統一国家体制 が反乱もなくこのとき成就したことは、注目すべ き成果というべきでしょう。」と市井氏は評価して いる。もちろん、新政府の諸施策に対して、農民 などによる騒動・一揆は頻発しているが、ここでは 取り上げない。

 8月9日 散髪・廃刀の自由が認められる。
 8月23日 階級間の結婚が自由化される。
 8月28日 穢多・非人の称が廃止される。


 同年12月には、士族が農・工・商などの職 業を自由に選択することが許される。つまり、 武士は旧幕藩体制下の支配階級の座から退けら れたわけで、法的には「四民平等」へと大きく 踏み出したことになる。

1872(明治5)年
 1月29日 皇族・華族・士族・平民という新身分 制度が確立。
 4月9日 庄屋・名主を廃止して戸長を置く。
 8月3日 学制公布。全人民の平等な義務教育が法的理念となる。
 8月   農民のあいだの身分差別禁止。
      職業の自由が宣言される。
 10月2日 人身売買禁止・娼妓年季奉公廃止令。
 11月28日 全国徴兵の詔書と徴兵告諭が出される。


 皇族・華族・士族・平民という新身分制度が制 定されはしたが、それが幕藩体制下のような身分 差別を意味するものではないことを、「徴兵告諭」 がもっとも明瞭に宣明していると、市井氏は言う。 「徴兵告諭」と、それに対する市井氏の論評を読 んでみよう。

我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の 日、天子之が〔兵の〕元帥となり……固より後世 (幕府時代のこと)の双刀を帯び、武士と称し抗 顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し、官、其罪を 問はざる者の如きに非ず。……然るに太政維新、 列藩版図を奉還し、辛未の歳(明治4年)に及び 遠く郡県の古に復す。世襲坐食の士は其禄を減じ、 刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せし めんとす。是れ上下を平均し、人権を斉一にする 道にして、則ち兵農を合一にする基なり。是に於 て、士は従前の士に非ず、民は従前の民にあらず、 均しく皇国一般の民にして、国に報ずるの道も固 より其別なかるべし…

 当時から百年に近く、武力放棄の憲法をもつに いたった現在からみると、右のような四民平等の 公的宣言が、よりによって徴兵令の告諭のなかで なされたという事実は、まことに皮肉とも感じら れましょう。しかしそれが歴史の現実であり、 「王政復古」が「一君万民」思想を介して、 「四民平等」と深く結びついていたことを確認し ておかねばなりません。

 当時の規準からすれば、「一君万民」というイ デオロギーによって、何百年にわたる封建的身分 差別を、いっきょに撤廃する手がうたれたことは みごとといわざるをえません。国内要因からいえ ば、先行の諸章でのべた吉田松陰、および松門の 変革思想が勝利したのです。たしかに後年明治 17年になってから貴族制度がつくり出され、また 穢多・非人などの法的解放が実効をともなわなか った、といった欠陥を指摘することはやさしいの ですが、19世紀の先進国の規準からしても、その 程度のことは西洋にもあったのです。

 たとえばアメリカで黒人奴隷が法的に解放され たのは明治維新の5年前ですが、そのアメリカで 現在なお黒人差別が重大な政治問題となりつづけ ている、という事実を想起するのもいいでしょう。 あるいはまたイギリスでは、第二次大戦にいたる まで、将来の支配者階層を教育するケンブリッジ、 オクスフォード両大学へは、貴族の子弟以外はほ ぼまったく入学できなかった、という事実を想い 浮かべるのも参考になります。いや、むしろ明治 日本は、階層間の移動の高さでは、西洋をはるか に凌駕するにいたるのです。


『続・大日本帝国の痼疾』(35)

明治維新の明暗(2)


 「王政復古の大号令」で告示された総裁、議定、 参与もメンバーは次の通りである。

総裁
 有栖川宮(ありすがわのみや)

議定
 仁和寺宮(にんなじのみや)
 山階宮(やましなのみや)
 中山前(さきの)大納言
 正親町(おおぎまち)三条前大納言  中御門(なかみかど)中納言
 尾州侯
 越前侯
 安芸侯
 土佐侯
 薩摩侯

参与
 大原重徳(しげとみ)
 万里小路(までのこうじ)右大弁
 長谷三位
 岩倉具視
 橋本少将
 他に尾、越、薩、土、芸の5藩より各藩3人ずつ 推薦

 この人事と同時に、新政府は幕府よりの親王・ 公卿などを徹底的に除外している。また、朝廷では妃嬪(ひひん、身分 の高い女官)が政治問題に容喙する弊があったらし い。妃嬪への諭告も行っている。三叉竹越は次の ように書いている。

 また妃嬪に諭告して、仮にも大政の上を誹り奉 り、あるいは佞人の頼(たのみ)を入れ、故なき事 をも曲げて窃(ひそか)に奏し奉つることのごとき 業あるべからずと令して、官女の陰謀を以て、内 より新政を破るの道を塞ぎ、一方には幕府に親近 せる公卿、大臣、親王、27人の参朝を停めて謹慎 せしめ、…

 以上見てきたように、「王政復古の大号令」は 土佐派(小楠風)の列藩会議(上下議政所)案を利 用して将軍家が実権を温存しようとする思惑に 対して、新政権(薩・長を中心とする指導者) がそれを峻拒することを示したものであった。 しかし、新政府は「大号令」の半年後には小楠風の 政治体制を具体的な方針とすることを打ち出して いる。

1868(明治元)年6月11日 「政体書」公布

 この政体書は立法・行政・司法の三権分立を唱え (実質的には分立になっていない)、議事(議会) 制度の採用、官吏の公選など、中央政府の政体を 示したものだが、小楠の構想がほぼそのまま制定 されている。そして、それは1年ほどの間に次々と 修正が重ねられていった。

中央官制の変遷(第一学習社版「日本史図表」より)
政体の変遷

【注】
立法府は当初は上局と下局があたが、まもなく 上局が廃止され、下局は1867年3月に「公議所」と 名を改めた。現在の意味での立法の権限はなく、 行政府への建議の機関だった。同年7月に「集議 院」と改称されている。


 ところで、土佐派の平和的変革路線ではなく、薩長派 の武力倒幕が強行されたことをどう見るか。この 問題に対して、市井氏は次のように論じている。

 このときもし新政府側が、土佐案どおりに徳川 家の実権を温存させ、上院議政所の議長に旧将軍 をすえて、上院議員たる旧諸侯に政策を立案させ たならば、封建割拠 ― つまり諸藩がそれぞれ 財政・軍事・産業・文化上で大はばな主権をいぜ ん維持するかたち ― が改められることさえ望 めなかったでしょう。

 その証拠に、徳川家が駿府70万石の一大名なみ に格下げが決められ(慶応4年5月)、徳川家の実 力が殺(そ)がれてしまったあとでも、前記の政 体書によってできた公議所では、全国諸藩 から任命された貢士(こうし、議員)は、圧倒的 多数の意見として、郡県制よりも諸藩割拠 (世襲身分制を併存)の方がよい、と上申するし まつでした(明治2年5月)。

 同じ年の1月には、薩・長・土・肥の4藩主が 版籍奉還の上奏をしていることが、ひろく知れわ たっており、しかも榎本武揚らの箱館における最 後の対新政府反抗戦も、瓦解が決した状態での 「公議」がそれだったのです。武力討幕が断固と しておこなわれていなかったとすれば、その状態 で開かれる「公議」がどんなことになったか、想 像にあまりあります。

 もちろんこの戊辰戦争の過程で、悲劇やマキァ ヴェリズムが起こらなかったというつもりはあり ません。相楽総三(小島四郎)がひきいる浪士隊 が東征軍の先鋒隊として農民の年貢半減を布れま わって大功をたてていながら、にせ官軍として処 刑されていった事実などは、銘記されていいこと です。しかしどこの国においても、市民革命はこ の種の下層民擁護運動を圧殺して成立する、とい う通則をも同時に想起する必要があります。

 とまれ奥羽越列藩同盟を結んだ(慶応4年5月) 東北諸藩の方では、輪王寺宮をおし立てて天皇に しようとし、西南雄藩による京都朝廷に対抗して、 同盟側だけで独立国をつくる画策もやったのです が、将来に向けての進歩的なプログラムがあるわ けでなく、まったく受け身の姿勢で能動性に欠け ていました。したがって東北諸藩の同盟が戊辰戦 争によって瓦解せしめられたことは、歴史的に必 然性があったとさえいえるでしょう。


 これまでの戊辰戦争についての私の知識は、 映画や小説などによるいいかげんなものであり、 ともすると官軍の暴虐無道さと幕府側の さまざまな悲劇を対置して、幕府側への一種の 判官びいき的な感情的思い入れが結構強くあ った。しかし、市井氏の冷静で的確な論評には 説得力があり、私は私の戊辰戦争への見方をか なり修正せざるを得ないと思った。

『続・大日本帝国の痼疾』(34)

明治維新の明暗(1)


 前回、『維新20年ほどで維新の大指針「一君万 民」の「一君」は、「合理的一君」から「宗教的 一君」へと大きく方向転回をしてしまう。』と書 いたが、このことについて少し詳しく書きとめて おきたい。

 市井氏も次のように明治10年までの「御一新」 を評価している。

 いくつかの反政府反乱をも含めて、わたしは明 治10年代までの「御一新」の変革に、かなり高い 評価を与えるものです。この変革は、それ以後に できた明治国家よりも偉大である、という竹内好 さんの説に賛成だからです。

 明治7、8年ころまでは政府の布告でも民間人の 文書でも、このめざましい変革を「御一新」と呼 ぶのが普通で、「維新」という言葉が使われるの はむしろ例外だったようだ。以後、とくに明治元年 (9月までは慶応4年)から明治10年頃までの変革 を、「御一新」という言葉で表すことにする。

 御一新は、形式的には、1867(慶応3)年12月9 日の「王政復古の大号令」から始まる。

1867(慶応3)年12月9日

 王政復古の大号令。

 徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退 ノ両条、今般断然聞シ召サレ候。抑(そもそも)癸 丑(きちゅう)以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ 悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ 叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基本立 テサセラレ候間、今自(よ)リ摂関・幕府等廃絶、 即今、総裁、議定、参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハ セラルベク、諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、 縉紳(しんしん)、武弁、堂上、地下(じげ)ノ別無ク、 至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バ サルベキ叡慮ニ付、各勉励旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、 尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。


 公卿たちの中には大宝律令などを持ちだして因 循な復古を考えるものもいた。また2ヶ月ほど前に 大政奉還が行われたが、そこには将軍家を首座とし た諸侯の合議による政体をとって、将軍家に実権を 温存する思惑があった。この大号令は政治体制とし て摂関制も幕府制もとらず、全く新たな政治体制 を布くと宣言している。どんな律令も存在しない 「神武創業ノ始ニ原キ」というのは、起草者たちの 深慮遠謀と考えるのは穿ちすぎだろうか。神武の 時代については確たる政体などなにも伝承されて いない(私たちの真説・古代史では、神武は大和盆 地の一画に拠点を獲得したに過ぎないのだから当然 だ。)のだから、「総裁・議定・参与」の設置でも 大義名分はたつというもの。以後も「神武創業ノ始 ニ原キ」は「黄門様の印籠」の役を果たしていく。

 ちなみに、慶喜が大政奉還を逡巡しているとき、 後藤象二郎が次のように慶喜を説得している。

 後藤は将軍なお惜惋(せきわん=惋惜、 嘆き惜しむ)の情あるを見るや、隠さずこれ に乗じ、一夜、将軍に説きて曰く、

政権奉還は天下の一大美事なり、将軍断じてこれ に出れば必ず天下の耳目を一新せん。幕府衰たり といえどもなお天下諸侯の宗なり。朝廷威を振う といえど、なお幕府を恐る。仮令(たとい)将軍政 権を奉還するも、諸侯が推して以て新政府の首座 となすものは必らず将軍ならん、これ名を捨てて 実を取るものなり

と。この言もし薩長討幕党の口 より出しならば、容易(たや)すく将軍の聴を動か す能わざりLといえども、当時中立せる土佐より 出でたれは、将軍の意遂に決し、……

 ところで、この「大号令」には小楠の建言が取り入 れられていることは間違いない。『新日本史』に、 小楠がどのような政体を構想していたのかを示す 資料があった。「大号令」の1ヶ月ほど前に、小楠 は「新政体」について建言をしているのだった。

 今や幕府の形は存せり、然れどもその精神骨肉 は巳に亡(な)し。ここに於てか如何にしてこの後 を善くせんかとの問題早く巳に政治家の脳中に現 出せり。薩長の二藩はあくまでこれを撃て倒し、 更らに自ら幕府と為る能わざるも、各藩連合の共 和政治を行い、自らその盟主たらんと欲せり。幕 府の中にありてももはやその実権を失したるに気 付きたる者は、共和政治を起して、幕府その盟主 たらんと望むものあり。また一方には横井小楠の 流を汲みて、君主独裁制の下に、米国風の制度 を建てこれを以て天下に号令せんとするものあり。 慶応2年家茂将軍なお世にあるの時 (管理人注:竹越の誤認、正しくは「慶応3年(10月14日) 慶喜大政奉還の時」)、幕府やや悔悟の色あるや、 小楠越前侯に上書して曰く、(管理人注:慶応3年11月3日の こと「新政に付て春嶽に建言」)

幕庭御悔悟、御良心発せられ、誠に恐悦の至なり。 四藩の御方、一日も早く御登京、御誠心一致の御 申談、朝廷輔佐に相成侯へぱ、皇国の治平根本此 に相立申侯。……新政之初、別して御大事にて、 四藩之内御登京之上は、大赦大号令仰せ出だされ たく、但し朝廷も御自反、御自責、遊ばされ、天 下一統、人心洗濯希(ねが)う所なり。……一大変革の御時節なれば、議事院建てられ候 筋、尤も至当なり。上院は公武御一席、下院は広く 天下の人材御挙用……総じて用度は先づ勘定局より出し、外国交易 盛行の時に至れば、諸港の運上交易の商税を以て これに当つべし。この費用莫大なれば貨財運用の 妙は議事院中の人傑必ず能くこれを弁ずるものあ らん。

(中略)

外国公使、奉行並びに諸港鎮台等の御役人、関東 御辞職と難も、諸侯之長にて候へば、其職一人は 旗下の士より選び用に定め、その余は下院中よ り選挙……、記録、布告等は下院にて為すべし。


 時に幕府狼狽の折柄なりければ、この建言を採 って断行する能わざりしといえども、当時速に国 民を一統して外国に対立せんとする識者は、皆な この流を汲みたり。彼らは内に於てはなお皇武合 体の陳腐論に区々として、幕府を撃ってこれを倒 す破天荒の術を試みるの心なく、旧制度を保存す るに汲々たるも、一方には最も急進なる意見を有 して、米国風の制度を入れ、旧制度を遣(おいや) るに新制度の活気を以てし、一兵を殺さず、一矢 を折らず、陰々密々の内に旧日本をして新日本に 移らしめんと欲せり。

 「朝廷も御自反、御自責、遊ばされ」というく だりがいかにも小楠らしい。決して天皇を絶対化・ 神秘化していない。

 さて、「王政復古の大号令」が発せられた同じ日の午後、 小御所(こごしょ)会議で徳川慶喜の辞官納地が決定されている。 12月14日、慶喜は辞官納地を拒否し、事態は悪化に 向かった。この小御所会議は、大政奉還で将軍 家の実権が温存されることを恐れた勢力による陰謀と する見解もある。三叉竹越も次のように書いている。

 この会議は、実に薩長芸の三兵を以て、討幕の 大運動を初めんとせる岩倉具視の陰謀が、僅かに 慶喜の大政奉還に遇うて形を変じて国是会議とな りしものなれば、討幕の精神はあくまでも充満し、 兵力を以て徳川氏を滅する能わざるも、せめては 会議の多数を以てこれを打ち滅さんとするの計画 なりければ、革命党は互に諜じ合する所ありたり き。

 「一兵を殺さず、一矢を折らず、陰々密々の内 に旧日本をして新日本に移らしめん」という小楠た ちの期待はかなわず、新日本の夜明けは武力倒幕と いう内戦(戊辰戦争)を待たなければならなかった。

『続・大日本帝国の痼疾』(33)

横井小楠の思想(2)


  (以下は『殉教』による。)

人君何ノ天職。
天二代リテ百姓ヲ治ム。
天地ノ人ニ非ザルヨリハ、何ヲ以テ天命ニ 愜(かな)ハン。
尭ノ舜ヲ巽ブ所似。是レ真ニ大聖タリ。 迂儒コノ理二暗ク、之ヲ以テ聖人病メリトナス。
嗟呼血統論、是レ豈ニ天理ニ順ナランヤ。


 これは小楠が49歳の折りに創った詩である。

 尭帝は自分の子供に譲位せず、自分の血脈 とは全く無縁の舜に、その人徳をあがめて帝位を 譲った。そして、その舜は理想的な治世を行った という。 この中国の古代説話の尭を、小楠は大聖であると 歌っている。さらに迂儒(世事にうとい学者、実際 の役に立たない学者)はこの理に暗く、「聖人病め り」と言う。血統論、これはまさに、天の道に逆ら っている、と小楠は慨嘆している。

 若い頃の小楠が「天皇をうやまっ」ていたことは あり得るかもしれない。しかしこの詩で見るか ぎり、血脈相承としての天皇あるいは天皇制を うやまってはいなかったことは明らかだろう。つまり小楠 は信仰的尊王論者でも自覚的尊王論者でもない。 司馬遼太郎の言うように「共和国家」を考える思想 的素地は十分にあった。

 小楠は維新直後の明治政府に招聘され、議政官 上局参与という地位についた。議政官上局参与は、 いわば副総理のようなものであり、木戸孝允、小 松帯刀、大久保利通、広沢真臣、後藤象二郎、 福岡孝弟、副島種臣、横井小楠、由利公正の9人 が選ばれている。

 1869(明治2)年、小楠は狂信的攘夷論者に暗殺 される。小楠は開国を進めて日本をキリスト教化 しようとしている、という事実無根の言いがかり がその暗殺の理由だった。しかし、暗殺犯の 裁判の過程で小楠が書いたとする『天道覚明書』 という文書が提出される。この文書は、阿蘇宮司阿蘇 惟治が拝殿に投げこまれていたとして古賀十郎という 政府の巡察官に手渡したものとされている。 この書の内容から、小楠は秘かに皇室転覆を企て た「売国の姦」であると告発される事態も持ち上 がった。

 『天道覚明書』は小楠の作ではなく、小楠をおと しめるために書かれた偽書であるというのが通説の ようだが、小楠の作と断じている人もいる。 米村氏は上記の小楠作の詩を引き合いに出して、 「偽作・真作のいずれにせよ、内容は小楠の思想 を的確に伝えている。」と論じている。ではその 文書はどのようなものか。米村氏が一部を引用して いるので、それを孫引きする。(読みやすくするため 段落をつけた。)

……抑我日本ノ如キ、頑頓固陋、世々帝王血脈相 伝へ、賢慮ノ差別ナク其ノ位ヲ犯シ、其ノ国ヲ私 シテ忌憚無キガ如シ。鳴呼是レ私心浅見ノ甚シキ、 慨嘆ニ勝フ可ケン乎。

 然ルニ或ハ云フ、堂々神州三千年、皇統一系、 万国二卓絶スル国ナリト。其ノ心実ニ愚昧、猥 (みだ)リニ億兆蒼生ノ上ニ居ル而巳(のみ)ナラズ、僅ニ三千年ナ ルモノヲ以テ無窮トシ、後世叉此ノ如シト思フ。 夫レ人生三千年ノ如キハ、天道一瞬目ノ如シ。 焉(いずく)ンゾ三千年ヲ以テ大数トシ、又後世 無窮ト云フ コトヲ得ンヤ。其ノ興廃存亡、大意ヲ以テ計知ル 可ケン乎。

 今日ノ如キハ、実ニ天地開闢以来、興張ノ気運 ナルガ故、海外ノ諸国ニ於テ、天理ニ本ヅキ、解 悟発明、文化ノ域ニ至ラントスルノ国少ナカラズ。 唯日本一国、蕞爾(さいじ)タル孤島ニ拠リ テ、帝王、 代ハラズ汚隆ナキノ国ト思ヒ、暴悪愚昧ノ君ト云 へ共、尭舜湯武ノ禅譲放伐ヲ行フ能ハザレバ、 其ノ亡滅ヲトル必セリ。速ニ固陋積弊ノ大害ヲ 撰除シテ、天道無窮ノ大意ニ本ヅキ、孤見ヲ看破 シ、宇宙第一ノ国トナランコトヲ欲セズンバアル べカラズ。此ノ如キ理ヲ推究シテ、遂ニ大活眼ノ 域ニ至ラシムべシ


 奥付きには「丁卯(明治元年)三月南窓偶著 小楠」 とある。

 堂々たる開明的正論ではないか。ここで表明されている 思想と敵対する思想の持ち主が書いたものとはとても 思えない。偽作だとしても、よほど小楠の思想に精 通していた者による文書と言うべきだろう。

 維新の改革シナリオの大半を描いたのも 日本の議会政治の母型を提供したのも小楠だった といわれている。しかし、維新20年ほどで維新 の大指針「一君万民」の「一君」は、「合理的一君」 から「宗教的一君」へと大きく方向転回をしてしま う。

 小楠が天皇制国家ではない近代国家を目してい たことは明らかである。だが、小楠が単なる学者 であれば事はそれで済んだと思われるが、不幸に も、彼は新政府を担う副総理という政治家であっ た。政治家たる者、批判の極には具体的な実践の 方法を持ってあがなわねばならぬ。ならば、天皇 制をどう処理するか。いかにして日本の君主を擁 立するか。だが小楠にその展望はなかった。具体 的な方策を持たぬまま小楠は暗殺に倒れた。

 ただ、ここで注目すべきは、近代へと開花する 歴史の流れのなかで、突出した横井小楠と時を同 じくして、同じ熊本地方の山深い僻村の名もない 一人の毛坊主が、国家とは全く無縁のところで、 小楠を抜き国家を抜くほどの新体制を、隔絶され た自分の村に確固として築きあげていたという事 実である。

 徳右衛門に限らず、民衆のなかに於ける国家の 形態は埋もれたままに、常に国家を一歩も二歩も 抜いているのかもしれない。

 反逆者・大弐の思想が幕府の目をかいくぐって、 100年を隔てて松蔭に届いたように、小楠の思想も 小楠の死とともに消滅したはずはない。衣鉢を継ぐ 者は必ずいたはずだ。ちなみに、徳富蘇峰・徳富 蘆花兄弟の父・徳富一敬(かずよし)は小楠 の弟子であった。初期の蘇峰は平民主義を掲げて いた。

『続・大日本帝国の痼疾』(32)

横井小楠の思想(1)


 「一君万民」というイデオロギーのもとに、明治 維新は政治・社会制度の「御一新」に向けて歩みを スタートさせた。しかし、強固な身分制度に支えられた幕 藩封建制社会から近代的社会への未曾有の激変を 貫くためには、「一君」という据えものを不可欠 とした歴史的制約があったことは否めないが、 「一君」という呪縛に絡めとられなかった思想は 皆無だったのだろうか。

 米村氏が「毛坊主考」の末尾で横井小楠を 取り上げている。

 幕末の激動の時、名も無き一介の農民毛坊主が 知られざる辺境の山村で信心による開かれた小国 家を着実に築き上げていった同じ時期の、同じ熊 本地方に、而も徳右衛門とほぼ同じ年齢の男が、 徳右衛門と同様の問題を抱えながら国家を背負っ ている。横井小楠である。徳右衛門という無名の 毛坊主が安政3年に51歳で入寂した年、小楠は 49歳である。

 横井小楠(1809~1869)の人となりを三叉竹越は 次のように描写している。(『新日本史』)

 然れども、政治上に、社会上に、国内の罷敞 (ひへい)は如何にしてこれを療(い)やさんか、 如何にして我国民を建設して大国民と為(な)さ んか、紛々(ふんぶん)たる群党はただ目前の事 件に熱して、この問題を忘れたり。この問題に向 って解釈を試みたる者は、即ち勇進的開国党とも 称すべきものにして、その翹首(ぎょうしゅ)た るものは、実に横井平四郎なり。

 横井は小楠と号す熊本の人、度量闊大にして能 く人を容れ、識見遠大にして気宇高邁、思想湧く がごとく最も談論に長じ、識見なきの人これと談 ずるや自家の地位を忘て一個の識見家となり、失 望落胆の人彼と語るや頓(とみ)に生気を生ず。

 小楠夙(つと)に天下の形勢を察する所あり、 鎖国は決して我国祖宗の本意にあらざるを見て、 満々たる天下の潮流に逆(さから)いて、開国の 急務なるを論ず。曰く、

「天地の気運と万国の形勢は、人為を以て私 (わたくし)する事を得ざれは、日本一国の私 を以て鎖閉する事は勿論、たとい交易を開きても 鎖国の見(けん)を以て開く故、開閉共に形の如 き弊害ありて、長久の安全を得がたし。されは天 地の気運に乗じ、万国の事情に随(したが)い、 公共の道を以て天下を経綸せは、万方無碍 (むがい)にして今日の憂る所は総て憂うるに 足らざるに至るべきなり」〔「国是三論」)

と。これ純然たる自由貿易の意見なりしなり。

 理路整然とした開国論と言うべきだろう。 欧米諸国がもし侵略をしてくる場合は、 たとえ国が滅んでも徹底抗戦すべきとも言って いる。

 勝海舟が「おれは今までに天下で恐ろしいもの を二人見た。横井小楠と西郷南洲だ。」といって いる。海舟は坂本龍馬に小楠を紹介して、小楠に 会いに熊本まで行かせている。1864(元治元)年 のことだ。その10年ほど前の1853(嘉永6)年には 吉田松陰も小楠に会いに熊本に行っている。

 『龍馬がいく』で司馬遼太郎は小楠について 次のように書いている。

 横井小楠というひとは、「国家の目的は民を安 んずるにある」という思想のもちぬしで昭和の右 翼思想家のような神聖国家主義者ではない。幕末 にあっては、攘夷志士をあざわらい、開国して大 いに産業をおこし、貿易をさかんにして国を富ま しめ、強力な軍事力をもって外国からのあなどり をふせぐ、といういわば積極的攘夷主義であった。

 その思想が、当時でさえ、というより日本の大 東亜戦争終了までの官製思想からみても危険視さ れるもので、ついには「共和国家」を夢みていた ようなふしもある。 そのくせ、号の「小楠」が示すとおり大桶公の 崇拝者で、天皇をうやまった。

(中略)

 その小楠が、明治2年、ヤソ教徒、共和主義者で ある、として右翼壮士に暗殺された。

 よほどの先覚者といっていい。

 市井氏は、欧米人を理非をわきまえない野蛮人 とみなして、神国日本には寄せ付けるべからず打 ち払うべし、というような攘夷論を「信仰的攘夷 論」と呼び、小楠が説くような国際情勢を見極め た攘夷論を「自覚的攘夷論」と呼んでいる。司馬 遼太郎の「積極的攘夷主義」と同意だろう。しか し、小楠が「天皇をうやまった。」というのは疑 わしい。

 市井氏の命名にならって尊王論も、松蔭のような 宗教的神がかり尊王論を「信仰的尊王論」と呼び、 山県大弐のような合理的な政治理論としての尊王論 を「自覚的尊王論」と呼ぼう。では、小楠の尊王論は このどちらだろうか。

『続・大日本帝国の痼疾』(31)

山県大弐の思想(4)


 松蔭の思想には人民解放への視点がばっさりと 落ちている。そのつまづきの石は「放伐論」である。

 松蔭は「放伐論」は中国では「然り」でも、日本 では「然らざる」と言う。そして、「本邦の帝王 にして或は桀紂の虐あらんも、億兆の民は唯當に 首領を並列し、厥に伏して號哭し、仰で天子の感 悟を祈るのみ。」、つまりどんなに暴虐な天皇でも 我慢してただ反省を祈れと言う。そして、その理 由はというと、皇祖は 「萬世子孫に傳へて天壤と共に窮り無きもの」だ から言っている。日本は「神の国」というわけだ。 このバカげた神がかり理論を未だに信仰している ヤツが結構いるのであきれてしまう。『記紀』の 偽造古代史にキチンと落とし前をつける必要大である。

 大弐が、松蔭と同じく、古代王朝を理想化したの は明らかに幼少の頃の崎門派の師の影響である。 しかし、その理想を神がかりな信仰対象とはせず、 合理的な社会制度論として理念化しえたのは、 二つの契機があると市井氏は指摘している。 一つは、大弐が儒学者・兵学者であるほかに、 天文学や医学にも通じ、法則性・実証性を重んず る科学者的心性をもつていたことであり、 いま一つは、蘐園(けんえん)学派の影響である と言う。

 蘐園学派とは何か。
 蘐園学派とは、三叉竹越のリストには漏れ ていたが、幕府官学の朱子学に対抗して古学派と 総称されたものの一つであり、荻生徂徠(1666~ 1728)を祖とする。蘐園学派は、 朱子など中国宋時代の儒教解釈をとらず、儒教古 典そのものを厳密に古文辞学的に研究し、その古 典を道徳の観点よりはむしろ制度理論の書として 読み、儒学をいわば政治主義的に転回させた。

 大弐は15、6歳以後になって、太宰春台(徂徠の高弟) の弟子・五味釜川(ふせん)に師事している。 大弐は蘐園学派の合理的学風を身につけた。 しかし、大弐の思想は、この蘐園学派ともは っきり異なる独自性を示している。徂徠たちは日 本の古代を美化することはなく、むしろ中国文化に 心酔してした。大弐は日本の古代王朝時代 を理想化していて、その点が蘐園学派と の違いの一つであるが、前々回に示した大弐の思 想の特質(1)において、大弐と蘐園学派は決定的に 異なっている。

 蘐園学派は幕府権力そのものは肯定して いる。それに対して大弐はあらゆる幕府体制を否定し、 当時の江戸幕府権力も武力で倒すべきと主張している。 その大弐が論拠とした思想が、『孟子』の放伐論 であった。

 『孟子』の放伐論については 『大日本帝国の痼疾』(9) で詳しく述べたが、大弐の思想との関連で、孟子の 人民主義的な言説を一つ付け加えておこう。

 孟子曰わく、民を貴しと為し、杜稷(しゃしょく)、 之に次ぎ、君(きみ)を軽しと為す。是の故に丘民 (きゅうみん)に得られて天子と為り、天子に得ら れて諸侯と為る。諸侯に得られて大夫(たいふ)と 為る。諸侯、杜稷を危うくすれば、則ち変え置く。 犠牲、既に成り、粢盛(しせい)、既に(きよ) く、祭祀、時を以てす。然り而(しこう)して旱乾 (かんかん)・水溢(すいいつ)すれば、則ち社稷 を変え置く、と。(「尽心章句下」236)

 孟子が言った。
「国家の中で、人民が最も重要であり、土穀の神 がこれに次ぎ、君主は軽い。だから、人民から歓 迎されて天子となり、天子に歓迎されて諸侯 となる。諸侯の心をつかみ厚遇されると大夫とな る。諸侯が国家に危害を及ぼすと、廃止して別人を 立てる。犠牲の獣類は既に肥え、祭祀の供え物は 清潔であり、祭祀は定期的に行われているが、早害 水災があるなら、土穀の神の祭壇を毀(こぼ)って 更新する」


 このような思想は、当然、松蔭の一君万民論と はまったく相容れないし、権力者からは忌避され る。 幕府官学(朱子学)も水戸学も放伐論を否認している。 まったく在野的な崎門学派でさえ、放伐論をわが 国の国柄にあわないという理由で否認した。 これに対して、蘐園学派は放伐論を肯定している。 しかし、蘐園学派の肯定は、江戸幕府の正当 性を主張するための論拠としての肯定だった。 つまり、朝廷は 民を安んじえなかったゆえに徳川幕府に政権を 移譲せざるをえなかったのだ、というように使った。 大弐の場合はあらゆる武家政治を否定する。

 古代王朝政治を理想化した大弐の理念は、武家 の幕府政治ではそこなわれてしまう。武士が政権 をにぎることに大弐は当然反対する。市井氏の 注釈を引けば「軍人による政治は軍国主義 的なものになり、人民の福祉を阻害するからだめ だ」ということだ。

「文は以て常を守り、武は以て変に処する者たる は、古今の通途にして天下の達道なり。今の如く、 官に文武の別なければ、則ち変に処する者を以て 常を守る、固よりその所に非ざるなり。……計吏 宰官の類の如き、終身武事に与らざる者に至りて も、また皆兵士を以て自ら任じ、一に苛刻の政を 致す」(「正名第一」)。

「政の関東に移るや、鄙人(ひじん 粗野な人間) その威を奮(ふる)い、陪臣その権を専らにす。 爾来五百有余年、人ただ武を尚(とうと)ぶを知 りて、文を尚ぶを知らず。文を尚ばざるの弊は、 礼楽並に壊れ……武を尚ぶの弊は、刑罰孤行し民 はその苛刻に勝(た)えず」(「文武第五」)。

 つまりかれのいう王道政治は、文人(官)が優 位しなければならない政治です。また幕藩体制の ように世襲身分制であってはならず、才能や識見 に応じてどしどし登用し、「天下に遺才なからし むる」政治でなければ、「いずくんぞ以て民を安 んずるの道となさんや」(「勧士第八」)という のです。

 そして、王道理念に反する幕府体制を武力 で倒すことの正当性を、大弐は「民と志を同じう する」ことに求める。同じ放伐論を適用するにし ても、明確な人民主義をその根底に据えている。

 いやしくも 害を天下に為す者は、国君といえども必ずこれを 罰し、克たざれば則ち兵を挙げてこれを伐つ。 ……湯武の放伐は、無道の世にありてなおよく 有道の事を為せば、則ち此は以て君となり、彼は 以て賊となる。たとえその群下にあるも(まった くの庶民であっても)、善くこれ(放伐)を用い てその害(暴君の害)を除き、しかして志その利 (庶民の利)を興すにあれば、則ち放伐もまた以 て仁と為すべし。他なし、民と志を同じうすれば なり」(「利害第十二」)

 市井氏は次のように結んでいる。
 『孟子』にさえ、これほど明確なかたちで放伐論 をのべた箇所は、どこにもありません。とくに、 「民と志を同じうす」るかぎり、「群下」の者で さえ放伐に立ち上がっていいのだ、という主張は それ以前のいかなる放伐論をも超えています。 まさにこの主張において、山県大弐は江戸時代に 類を絶したただー人の思想家、そして実践家だっ たといえましょう。

 20万をこえる農民の大蜂起「伝馬騒動」を目の当たり にした大弐は、団結した農民のそのすざまじいエ ネルギーを幕府「放伐」の戦力とする発想を得て、 かってない「農兵論」を考え出した。農民へ の年貢などの租税を大はばに減らして、余裕ので きた農民たちに学問や武術を教え、体制変革のた めの軍事力に転化させようと考えたのだ。 一世紀ほど後の長州の奇兵隊を彷彿させる構想 だ。

 大弐のその考えは、「伝馬騒動」の中心を担った 助郷村を領内にもつ小幡藩で、 大弐の門人である家老・吉田玄蕃によって実行に 移されている。 玄蕃はその識見によって藩主・織田美濃守信邦(織田信長の直系子 孫だそうだ)の信頼を得、上席家老として 藩政いっさいを任せられていた。まだ30歳を少し こえたばかりだったという。だが、大弐のこの遠大 な計画は、明和事件によって、あえなく潰えてし まったのだった。

『続・大日本帝国の痼疾』(30)

山県大弐の思想(3)


 大弐の師・加賀美桜塢は、崎門学派の三傑の 一人・三宅尚斎の弟子である。つまり、大弐の思 想の源流は闇斎ということになる。水戸学もその 源流は闇斎に求められる。

 山崎闇斎の「垂加神道」は、ごくおおざっぱには、 朱子学と日本の神国思想を合体したものと言ってよ いだろう。前回(2)として示した大弐の思想の特質 は、しかし、崎門派とも水戸派とのはっきりと異な る。大弐は天皇政治をよしとする理由を、神話や 民族イデオロギーによるのではなく、合理的な政治 理論として展開している。市井氏は、このことを 『柳子新論』から次のように読み取っている。

 (大弐は)社会制度や政治的支配関係が出現する 以前の人間の原始状態では、貴賤の差別がないとい う平等性の反面、強者が弱者をしいたげ、奪い、殺 す、という無法がまかり通る、いわば弱肉強食の状 態であるとみるのです。

 ところが群衆のなかから「傑然たる者」が現われ てきて、人々に食料の確保の仕方を教え、身にまと うものを教え、さらに農耕や紡織の技術をも教えて、 物質的な「利用厚生」の成果を上げます。それによ って民衆は、当の「傑然たる者」の支配におのずか ら服するようになったというのです。

 だが物質的な欲望だけを追求するのでは、禽獣と 異なるところがないわけですから、その「傑然たる 者」はさらに民衆のあいだに、人間としてあるべき 「礼」(社会生活のよるべき慣例)をうちたてます。 人間性はほんらい平等ですが、人々には才能や好き 嫌い、性格などのちがいがあり、したがって人為的 な制度を設けることによって、あるべきかたちの 「差等」 ― つまり人々の能力に応じた官制や 職制の区別 ― を生じさせたというのです。

 『論語』や『孟子』には、中国古代の王朝三代 (夏・殷・周)を美化して称える個所がいくつか ありますが、大弐の右にのべた思想は基本的には その儒教古典の線にそいながら、「聖人」という ようないい方をさけて、どのように「傑然たる者」 があるべき政治的支配をうちたてたかを、より整 然と説いています。

 つまり日本では、その「傑然たる者」が天皇と なったのであり、天皇体制がよいとされる理由も、 まさにそのもとであるべき「差等」がおこなわれ、 「安民」(民を安んずること)がもっともよく実 現するからだというのです。天皇が神の後裔だか ら、というような神国思想とはきわめて異なると いわねばなりません。

 「神皇基(もとい)を肇(はじ)め」というよ うな句が、『柳子新論』にもただ一回は出てきま すが、それはたんなることばのあやにすぎず、さ まざまなことを論ずる大弐の態度は、この点で崎 門学派や水戸学といちじるしい対照をなしていま す。

 侍ニッポンという歌謡曲がある。その中の一節 「昨日勤王 明日は佐幕 その日その日の 出来 心」というくだりがある。幕末の政治理論の混迷 ぶりをよく表現している。格好をつけて言えば、 水戸学派を軸として、幕末の政治理論は「幕府主 権論、公武合体論、一君万民論」といった主体抜 きの心情論・技術論に始終していた。

 吉田松陰とて例外ではない。水戸学に大きく影 響されていた頃の吉田松陰は1856(安政3)年にお いても、「幕府へのご忠節は即ち天朝へのご忠節にて二つ これなく候」(兄への書簡)と書いている。 「幕府への忠誠=天朝への忠誠」という理論の枠 内でありうべき国家像を考えていたに過ぎない。

 また、その松蔭の「一君万民論」は次のようなもので あった。

 天下は一人の天下に非ずとは之支那人の語、支 那は則ち然り。州に在ては斷々として然らぎる ものあり。謹んで按ずるに、我大八洲は皇祖の肇 め給ふ處而して萬世子孫に傳へて天壤と共に窮り 無きもの、他人の覬覦(きゆ)すべきに非ず。其 の一人の天下たる亦明かなり。請ふ、必無の事を 設けて以て其の眞に然る處を明にせん。

 本邦の帝王にして或は桀紂の虐あらんも、億兆 の民は唯當に首領を並列し、厥に伏して號哭し、 仰で天子の感悟を祈るのみ。不幸にして天子震怒 し、盡く億兆を誅し給はゞ、四悔の餘民復た孑遺 (げつい)あるなく、而して後州亡ぶ。若し尚 一民の存する有らば、又厥に詣つて死す。是れ 州の民なり。厥に詣つて死せざれば則ち州の民 に非ざるなり。是時に當り湯武の如き者、放伐の 擧に出でなば、其の心仁なりと雖、其の爲すとこ ろ義なりと雖、決して州の人に非るなり

 而して州の民尚何ぞ之に與らんや、故に曰く 天下は一人の天下にして、其の一人の天下に非ず と謂ふは特に支那人の語のみ。普天率土の民皆天 下を以て已が任となし、死を盡して以て天子に仕 へ、貴賤尊卑を以て之を隔限と爲さず、是れ則ち 州の道なり。(「斉藤生の文を評す」)


 大弐の一君万民論とは雲泥の差がある。 大弐のそれはその根源において人民解放という 理念がしっかりと確立しているのに対して、 松蔭のそれは、「貴賤尊卑を以て之を隔限と爲さ ず」と言ってはいるが、それは「死を盡して以て 天子に仕へ」る限りにおいてである。国家は、 抽象的で神秘的な観念形態の中で個人的な倫理の 問題に融解してしまっている。松蔭の目は大弐と は全く逆の方向に向いている。

 ところで、この松蔭に一世紀前の先駆者・大弐の思想が 届けられる。密航に失敗して野山獄に幽囚された 吉田松陰をおとずれ、松蔭と激しい文通のやりと りを行った人物がいた。宇都宮黙林という真宗の 僧侶である。その文通で、黙林は大弐の「柳子新 論」を紹介し、松陰の水戸学的尊王論を徹底的に 批判している。これを受けて松陰は、「茫然自失 し、ああこれまた妄動なりとして絶倒致し候」と 「ついに降参するなり」と書いている。

 大弐の思想に接して、松蔭はようやく水戸学の 軛から脱する思考転換を果たしたのであった。 (このことは後ほど詳しく取り上げる予定です。)

『続・大日本帝国の痼疾』(29)

山県大弐の思想(2)


 山県大弐の思想の独自性を、市井氏は次の二つに まとめている。

(1)
 武士が政治権力をにぎる、ということ自体をよ くないことと考え、したがって鎌倉幕府いらいの すべての幕府体制を否認した上で、当時の徳川幕 府をなぜ倒さねばならないか、という根拠を 『孟子』の放伐論(あとで説明)にもとめ、それ をより明確に人民主義的な革命理論にしていたこ と。

(2)
 幕藩体制のかわりに出現させるべき政治形態と して、封建割拠ではなくて、天皇のもとに全国民 的統一があった古代王朝時代を理想化した体制 (それが大弐のいう「王道」です)を考えていた のですが、日本の古代を理想化するにあたっても、 他の諸学派のように宗教的信仰の対象とするやり 方、つまり宗教的神秘化ではなくて、合理的な理 念化というやり方をとっていたこと。


 天皇を頂点に据える体制を選ばざるを得ない点に 時代的な限界が現れているが、幕藩体制の否定と いい、人民の代表という意味合いの合理的な理念 化された天皇という思想は、18世紀の日本の社会 的状況のもとでは、他に類をみない卓越した革命 思想であったことは言うことができるだろう。

 上の二点について、市井氏は大弐の著書『柳子新 論』を検討しながら論述を進めている。それに従っ て、大弐の思想をいま少し詳しく見てみよう。

 と思ったのだが、またまた寄り道の思いにとらわ れてしまった。一応理由付けをすると、大弐の思想 の位置を見極めるために、江戸時代の政治思想状況 を見ておくことにする。しかし、丸山真男の『日本 政治思想研究史』ではいつ終わるかわからない。 さらっと、概観するだけでいい。三叉竹越の『新日 本史』から引用することにする。(三叉や透谷の漢 文調の文体が好きだ。)

 かくて泰平日己に久しく、四民その土 に安んずるや、文教鬱然として盛んに、社会の事、 漸やく単純より複雑に入るや、学問志想の上に於 ても幾多の分派を生じたり。

 当時、天下の政治は徳川家康の一剣によりて定 められ、秩序己に立ち、慣習巳に定まりたれは、 豪傑の士、更らに一頭地を出すの地なく、ただ僅 かに自由競争の地を余ませしものは、文学の場の みなりき。ここに於てか一代の人才、相率いて文 学界に入り来れり。

 初め家康の天下を一統して文教を起さんとする や、先ずその耳に入りしものは、 藤原惺窩(せいか) の盛名なりしかば、これを延きて以て国学となせり。 而して惺窩が 林羅山 を勧めて自家に代らしむるや、羅山は、 叔孫通(しゅくそんつう)の漢高に於けるがごとく、 古来の制度に通ずる唯一の儒者なりしかは、彼の意 見家康の手を経て制度となるもの少からず、四書五 経皆な羅山によりて新註を施されたり。

ここに於て朝廷、守旧なる公卿の意見を容れその 匹夫にして妄(みだり)に異学を唱うるを罪せんと するや、家康これを遮(さえぎり)て曰く、匹夫に して道を講ず、むしろ嘉賞すべきにあらずやと。 かくて林氏は天下学政の長官となりしほどなれば、 知らず識らず宋の程明通(ていめいどう)、朱晦 庵(しゅかいあん)の学説は幕府の学説となりた るがごとき勢ありき。

この二人は皆な仏僧より転じ来りしものなり。こ れに次で 中江藤樹 は躬行(きゅうこう)の一派を立てて 近江聖人の名高く、 山崎闇斎 は雄凰鬱勃として程朱の学を極めしが、遂に儒者 より一転して神道に入れり。 熊沢蕃山 に至ては三百年間の儒林を一掃する豪傑の資を以 て陽明の学を奉じて以て一代を下瞰(かかん)し、 木下順庵 また独立独行の識を以て宋学の外に一派を立つ、 彼ら期せずしてその鋒(ほこさき)を仏法に向けた りき。これ実に学問の第一期にして儒仏の争なり き。

然るに 伊藤仁斎 、及びその子 東涯 (とうがい)復古の説を掲げて起り、 荻生徂徠 ちょう豪傑、鬱勃たる幕朝の覇気中より蒸出せら れて宋儒を攻撃するや、学問の形勢ここに再変し て儒林相互の攻撃時代となれり。

 この両回学問の変遷によりて程朱の道漸く衰ろ え、天下学制の長官たる林氏の権勢ますます縮少 しければ、幕府は見て以て国安に害ありとなし 柴野栗山尾藤二洲 (びとうにしゅう)らの建議によりここに天下の 学説に対して、また例の統一政略を施行すること となり、程朱以外の学派を名(なづ)けて異学と 為し、異学の徒は幕朝に進仕するを得ざるの制を 定めたり。これぞ今日の官制に於て大学出身の学 生には、試験を要せずして進仕するの特権を付す るものよりも更らに甚しきものなりき。

 殊とに幕府の苦心したるは、京都の儒者 石田勘平手島堵庵 らが王陽明の学説を基として儒学と神道仏典を 混一して建設せる、心学の一派にありき。 その言う所、人間の大本大道は心に存す、心を悟 れば聖人たるべく、仏となるべし、貴人と称すべ し、心を悟らずんば、小人とも、愚人とも、凡夫 とも、賤夫ともいう。天子王侯も、百姓町人と殊 にして尊崇すべきものにあらず。この心巳に万象 の本たれは、神なく仏なく、祭尊もまた無用なり というにあり。

 彼らがこの心学を初むるや、卑言 俗話を以てこれを例解し、殊とに千百年来、儒 者の旧例を破りて、公衆に対して演説すること、 仏僧のごとくなりしかば、その勢一世を傾勤し、 百姓町人、群を為してこれを聴き、士人往々にし てその門に出入するに至れり。幕府がこれを禁圧 するや、他の儒学よりも甚しく、見て以て基利支 丹(キリシタン)邪宗門の徒となし、その講師を 拘引するに至れり。諸侯の藩士にして心学家の門 に出入せるものは、国許に呼び返され、
「江戸に 於て先達(せんだっ)て以来市中の者を師として 神儒仏を相兼候様の学問致修行侯面々も有之趣相 聞へ、此度思召を以て差留候様被仰出、於彼地御 示被仰付候。然に根元学筋(程朱の学)の儀は御 先代様厚き思召をも被仰出候儀、旁(かたがた) 御国に於ても右等の学問屹度差留候様被仰付也」
との訓令を受け、甚しきは禁錮せられたるものあり き。ここに於てか学問の第三変を来たし、今は程朱 と異学との争は、取りも直さず才幹あり独立心ある 学者幕府との争となり、朝野二派の学者互に相論 難して已むときなかりき。

 而してこの学派の争は、各藩中に延びて、政権の 争、復仇の由来、門地の差異と共に相合して、抜く べからざる私党の種子となりたりき。社会の結合力 巳にかくのごとくに一変せるに方って社会は何れの 方向にか転ぜざるべからず。ともかくも一旦瓦解し て新結合を為さざるべからず。何人がその唱首たる も問う所にあらず。何ものがその火口たるも択ぶ 所にあらず。社会それ自身もはや、爛熟したる無 花果のごとく、手に触れて破れんとして待ち構え たるなり。

藤原惺窩(1561~1619)
 江戸初期の儒学者。名は粛、字は斂美。冷泉家 の出身。はじめ相国寺の僧、のちに朱子学を究め る。その俊才は五山の学僧をして瞠目せしめたと いう。33歳で徳川家康に招かれて進講。四書の新 証を攻究し、仏教から儒学の立場に立ったが、排 仏に偏せず、それとの融和を心がけ、また神道と 儒教の一致を主張した。門人に林羅山、松永尺五 ら。著書に『惺窩文集』他。

林羅山(1583~1657)
 江戸初期の幕府の儒官。林家の祖。名は忠・信 勝、僧号は道春。はじめ京都建仁寺の僧であった が、朱子学を志し藤原惺窩の門に入る。1605(慶長10) 年初めて家康に謁し、以来徳川家四代の侍講。大坂 の陣の発端となった方広寺の鐘銘について、以心崇伝 とともに徳川氏のために働いた。昌平黌の起源と なった上野忍ケ岡学問所、先聖殿を建てる。多く の漢籍に訓点(道春点)を加えて刊行する。

宋の程明通、朱晦庵の学説
 理気二元論的な宇宙観と人間社会において気質の 性(気)、本然の性(理)を説き、本然の性に理が そなわるとして性即理の命題を打ち出す朱子学は、 理の自己実現を課題として主張する。理の実現方 法として格物致知・居敬究理・主敬静坐などを説 く教義が、明・清朝の中国、李氏朝鮮、日本の徳 川幕府によって体制教学化された。江戸幕府は官 学として保護し、林羅山を招いて本郷湯島に聖堂 を建て幕臣の子弟を学ばせた。理としての規範や 名分を重んずる教義が身分制的秩序イデオロギー として、体制擁護の実践道徳として評価されたの である。

中江藤樹(1608~1648)
 江戸初期の儒学者、日本陽明学派の祖。名は原。 近江の人。はじめ朱子学を修めたが、王陽明の致 良知説を唱道する。近江聖人と呼ばれた。門人に 熊沢蕃山らがいる。著書に『考経啓蒙』『翁問答』 など。

山崎闇斎(1618~1682)
 江戸前期の儒学者。名は嘉、字は敬義、別号は 垂加(しでます)。谷時中に朱子学を学び京都で 開塾。門弟数千人といわれた。のちに吉川惟足に 神道を学び、垂加(すいか)神道を興した。 皇室守護の立場を打ち出す。著書に『垂加文集』 など。

熊沢蕃山(1619~1691)
 江戸前期の儒学者。名は伯継。京都の人。 中江藤樹に陽明学を学ぶ。岡山藩主池田光政の執政 として藩政改革に尽力する。著書『大学或間』が幕 政批判のかどで常陸古河に幽閉されて死没。一時 大和郡山にも滞在。

木下順庵(1621~1698)
 江戸前期の儒学者。名は貞幹(さだまさ)、 別号は錦里。京都の人。松永尺五に朱子学を学ぶ。 加賀藩侯に仕え、続いて徳川綱吉の侍講。門弟に 新井白石、室鳩巣、雨森芳洲ら。

尾藤二洲(1747~1813)
 江戸後期の儒学者。寛政の三博士の一人。名は 孝肇、伊予の人。片山北海に復古学を学び、 のち朱子学を正学として尊び、昌平黌の教授。

石田勘平(1685~1744)
 江戸中期の思想家、石門心学の祖。号は梅岩。 丹波の農家の次男として生まれる。京都堀川に講 席を開き、当時、卑しめられていた町人も人間で あることを強調し、人間の本性を直接、眼と耳で 捉えその尊厳性を究明することによって、人の道 を見出すことを説いた。また、商人の役割を積極 的に肯定するなど庶民の教化に努めた。著書に 『都鄙問答』『石田梅岩語録』。

手島堵庵(1718~1786)
 江戸中期の心学者。名は信、通称は近江屋嘉左衛門。 京都の商人。石田梅岩に師事し五楽会・修正・明倫など の舎を興し、心学の普及に努め、広く民衆教育に尽 力する。性を本心と言いかえるなど梅岩の説を分か りやすくしたが、同時に卑俗化、保守化し、封建為 政者の歓迎するところとなったことも事実。著書は 『座談随筆』『地心弁疑』など。

『続・大日本帝国の痼疾』(28)

山県大弐の思想(1)


(今回からの教科書は、主として『思想から』です。)

 「伝馬騒動」と呼ばれている1764(明和元)年の 大一揆 (百姓一揆とは何か(3) を参照)を熟視していた人物がいた。その一揆から、 一揆が起こる由縁と一揆が持つ可能性を洞察し、 一揆の「徒労を転じて有効な体制変革の力たらし めようとする、指導理念をきずき上げてた」 山県大弐である。大弐は1759(宝暦9)年、すでに 幕藩体制の打倒を呼びかけたはげしい著述『柳子 新論』を書いている。市井氏はこの山県大弐 を「江戸時代に類を絶したただ一人の思想家」と 高く評価している。

 大弐は明和事件(1767年)で処刑されている。 まず、明和事件のことをざっとみておこう。

 1758(宝暦8)年~1759(宝暦9)年に、 京都朝廷と江戸幕府とのあいだに、宝暦事件と 呼ばれる事件があった。朝権の回復運動をめざし ていた竹内式部という学者が、公卿や天皇に対し てその趣旨に立つ古典の講義をしていた。言うま でもなく幕府はその種の動きをきびしく警戒して いる。幕府の制裁を恐れた上層公卿が京都所司代 へ式部を密告したため、式部は長男とともに京都 より重追放に処せられてた。

 山県大弐は、式部の門人の藤井右門を介して、 式部の運動とも連絡をつけていた。明和元年の ころ、右門は江戸の山県塾に大弐の師範代格とし て住みこみ、式部や京都の公卿たちとのあいだの 連絡役をつとめていた。

 しかし、大弐の思想は式部のたんなる王政復古 とは違う。それゆえ大弐は、さらに同志をひろげ る活動にも力をつくしていた。大弐の弟子には小 幡藩の家老・藩士がいる。また、九州の肥後藩 藩主の細川家にも働きかけていたという。民衆に 対する啓蒙活動も行っている。「それは二年や三年 のちの蜂起を目指した動きではなく、最低十年く らいはかけて一般に教化運動をやり、全国にいく つか中核になる革新諸藩をつくることが、大弐の 実践プランだったようだ」と、市井氏は推測してい る。

 ところが大弐の活動は、山県塾に出入りして いたものによって幕府に密告されてしまう。 1767(明和4)年2月から翌月にかけて、大弐をは じめかれをめぐる人々はぞくぞくと逮捕される。 江戸だけでなく、伊勢にいた竹内式部父子、 大弐の郷里の甲府では大弐の旧師であった加賀美 桜塢(おうう)父子、それから上州小幡藩では 藩主名代や家老の吉田玄蕃を含めた門人たち、 計40名ばかりが捕縛され江戸へ送られた。

 宝暦事件の主犯を含む「容易ならぬ叛逆」とし て、幕府は老中松平輝高、阿部正右(まさすけ) らがじきじきに評定所で詮議した。

山県大弐 斬罪
藤井右門 獄門
竹内式部 遠島。

判決申しわたしの翌日、江戸伝馬町牢獄で大弐は 処刑された。大弐が残した辞世の歌

くもるとも何かうらみん月こよい
   はれを待つべき身にしあらねば

 大弐は、もしもの時に備えて、累が及ばぬよう あらかじめ妻子を離縁している。

 深く覚悟をきめていた先駆者の最期、というべ きでしょう。江戸期の幕府死刑執行人のあいだに、 代々語り伝えられてきた話があります。長い徳川 時代のあいだに、処刑まぎわになってもとり乱さ ず、その態度のみごとさが獄吏をも感銘さ せた死刑囚はたった二名だった、それは山県大弐 と吉田松陰だというのです。

また大弐は、同志たちの犠牲を最小限にとどめる ための手の打っていたという。その効あってか、 旧師の加賀美桜塢や吉田玄蕃は無罪になっている。 あるいは幕府の政治的な思惑もあったかもしれない。 つまり幕府は、大一揆のあった直後のこともあって、 天下の人心に動揺を与えることを恐れ、小事件と いう外見をもたせて処理しそうとした。それゆえ、 小幡藩はとりつぶしにはならず、藩主・織田信邦 (織田信長の直系ということも理由の一つだっ たか)は蟄居、その弟信浮(のぶちか)に跡目 を継がせて奥羽地方へ移封、という裁決で済ん でいる。

『続・大日本帝国の痼疾』(27)

毛坊主・高沢徳右衛門


 高沢村は伝助の山田村とは山伝いにつながる村。 その村に、ナバ山一揆でふれた徳右衝門(1806 (文化3)年~1856(安政3)年)という毛坊主が いた。高沢村では、今日でも毛坊主制度が厳然と して生きているという。しかし、それは世襲制で はない。村人のあいだから徳望の士を毛坊主とし て選び出す制度があり、それは徳右衛門が創った といわれている。

 その制度はコガシラ(講頭)制とトモドリ (頭取)制の二本の制度によって成り立っている。 講頭は宗教を担当し、頭取は現実生活の政治や協 同作業を運営指導する。「真」と「俗」をはっき りと分離をした体制であり、この二つのそれぞれ の役にあるものが混合することは許されない。

 講頭は9人によって編成されているが、こちらは 全部が世襲制度によってその地位を継承している。 つまり、宗教面を取り仕切る「講頭」を一般 の村人が担当することはない。この9人の世襲が何によって決められたかは不明 だが、「この高沢の村は、戸数50の血族社会 だが、きっとこの9人は、この高沢の山奥に居付い て村を開いた時の本家筋の者であろう」と、 米村氏は推定している。

 この9人の講頭が一般村民の中から毛坊主を選 出する。もちろん、信心厚い人格者であり政治臭 のない人に限られる。毛坊主は講頭の頂点に立つ 存在である。しかし、講頭が毛坊主を兼ねること は許されない。つまり、講頭は毛坊主の下部機 関であると同時に、毛坊主を査問する機関でもある。

 頭取は一般村民から選出される。毛坊主と講頭 は頭取制に口出しすることはできない。他の地方 における伝統的な毛坊主の型と違い、政教分離の 原理が厳重に貫かれている。何よりも毛坊主が万 世一系ではないという点がきわだっている。

 この徳右衛門は、「隠れ」という閉鎖性をつき 破るスケールの大きな組織者だった。彼は、自分 の村だけに限らず、真宗が許されている隣藩の肥 後藩にまで真宗の布教を行い、肥後藩の八代・葦 北地方から球磨郡にかけて「肥後相続講」という 講を組織している。講者は1800人にも及んだという。 さらに、体制側の藩重役や藩主の縁戚の者すら信 者として取り込んでいる。
 徳右衛門は信徒取締りの村方の責任者である庄 星や役所勘定衆の家を隠れ家として、日中はその 邸内に潜み、夜になると躍如として闇を羽ばたく 梟の如くに布教伝道に駆け回ったという。徳右衛 門の隠れ家となったのが中原村の庄屋岩崎吾助の 家であり、役所勘定衆庄兵衛の家であったと伝え られる。役所勘定衆とは国郡調査、人口調査、新 田開発計画など勘定奉行の事務を最前線で代行す る官吏である。それらの家を隠れ家とするのは大 胆不敵というべきか、まさに虎穴に入らずんば虎 児を得ずの捨て身であったろう。漂泊を身上とす る毛坊主なればこそである。

(中略)

 これほどの毛坊主である以上、役人が見逃す筈 はない。徳右衛門には幾度も逮捕の手が伸びてい る。高沢説教所に伝わる口伝では、その時、徳右 衛門は逆に役人をおどしたという。
「私を逮捕したらどうなるか。藩の重役やその奥 方たちも同罪になる。それでもいいのか」と。

 もし徳右衛門を捕えたら藩は大混乱に陥ったか もしれない。徳右衝門に開き直られた役人たちは すごすごと引き揚げたという。

(中略)

 徳右衛門がいかなる系譜の毛坊主であるかは不 詳だが、彼はきっと、血のカリスマによって保証 され正当化される宗教のあり方と、それによって 成り立つ村を疑問視していたに違いない。

 あるいは、徳右衛門自身が藩権力の内部にまで 侵入して信徒を組織するという危険な離れ業を犯 すほどの図太い政治性と行動力を持つ者であるだ けに、政治的野望なり意図なりが信心の世界を取 りこんでしまう事の危険性を自らに読みとってい たのかもしれない。毛坊主は絶大な権力を持つだ けに、それが藩権力と癒着し、あるいは結託した 場合、村全体を売ることだって出来るのだ。

 もっとも、閉鎖な村を突きぬけて隣国の肥後藩 の領民までも逆に組織してしまうというグローバ ルな信心家にとっては、血族社会のなかでの、 更なる血の継承という狭く閉ざされた被差別の万 世一系の論理は、無用のものとして破棄すべきも のであったろう。

 はたまた、その「筋」の者だけに凍結された血 の継承によって、身代りを強いられたであろう伝 助一家の殉教のありさまを、徳右衛門は息をこら して見ていたに違いない。

 村の天皇である毛坊主を血脈相承という世襲に よって認めず、独得の擬似共和制によって選び出 すという方法を編み出した徳右衛門は思想家とし ても卓越した人物であったと思われる。

『続・大日本帝国の痼疾』(26)

毛坊主・山田伝助



 隠れ念仏の信徒は想像もつかないほどの彪大な 地下組織を作っていた。その組織は、各部落、各村 の地域ごとの結社として分立している。一見、そう 見える。だが、地域ごとの結合をもって完結させ ず、その組織は部落をこえ、村をこえ、国境をこ えて、真宗という全体的な体系のなかに統合され ていた。その一つに仏飯講と呼ばれるものがある。

 仏飯講の場合、その組織の帯と全貌は、人吉市 北部の山田村(現在の山江村)を中心に、北は、 十四人淵の川辺川を北上し、五木、五ケ荘の山を こえて肥後藩の八代北部、更には下益城、阿蘇に 繋がっていた。それが更に、遙かな京都の本願寺 に繋がるというとてつもない水脈であった。南の 方向に下れば、相良と同様に禁教地であった島津 藩の領域をこえて吉田温泉にまで及ぶものであっ た。

 相良の信徒が三百七十年も隠れのなかにありな がら秘儀化もせずに信仰を守り通せた強みは、こ の広汎な繋がりにあった。

(中略)

 地縁共同体や国境という閉鎖的な世界を突き破 り、まったく別段の次元の共同体を作っていくと ころに、当時の真宗とそれを選び取った民衆の歴 史的意義と特性があった。藩の政治領域とは全く 無縁のところで広がって行く民衆の帯。藩境を瓦 解させるその共同体の存在が藩にとっては反乱の 予備軍と映ったろう。而も、その共同体の頂点に 立つ本願寺に、藩への租税以外に領民が金銭を流 出させる(志納金として)という、別の租税ルー トが敷かれていること、これが藩体制にとっては 耐えられない凌辱であり損失に思えた。

 藩の監視が一層強化されるなかでも、仏飯講は 夜の闇を這うごとくに村人のなかに潜行していく。 この仏飯講の組織者に山田村の伝助という毛坊主 がいた。農業に従事するとはいえ、絶えず流浪し ながら伝道布教を専門にする半僧半俗の身である。
 伝助は「下降型」の毛坊主である。その地位役割 は世襲され、代々伝助を名乗っている。(伝助直系 の家が今も残っている。ただし、明治以来下村姓を 名乗っている。)

 ちなみに、「仏飯講」について、西本願寺人吉別院の署名で 次のような解説がネット上に掲載されている。

 仏飯講は今から約220年前、寶暦年間に山江村山 田の伝助さんによって発起されました。
 当時(念仏禁制の時代)は毎月28日にお念仏を 慶ぶ人々が人目をしのび集まる場所を変えて、命 がけでお念仏を慶び美しく法義を相続していまし た。それ以来、仏飯講には幾多の変遷がありまし たが、常に講員のたゆまざる道念によって今日ま でまもり続けられています。伝助さんが命がけで 残してくださった大切な講です。次の世代へ語り 残していく為に、共々にお念仏のみ教えを慶び、 お味わいさせていただきましょう。


 さて、相良の信徒は、蓄えの粟の一粒もなくな る程のひどい飢饉のときにも、本山への布施(志 納金) を拠出している。もともとヒジリの業務の一つに 「勧進」があった。相良の村には毛坊主の勧進の 歴史と伝統があった。だからこそ、伝助という毛 坊主の媒介によって、飢饉という非常時において も、相良民衆の布施が行われた。

 伝助は集められた上納金を本山に納めるために 上山する。そして、無事に上納を果たして相良に 帰ったとき、伝助は藩に捕縛され、処刑されてい る。米村さんは墓誌や古文書を精査して、計五人 の伝助、つまり五代にわたる伝助の殉教を確認し ている。

1761(宝暦11)年
1782(天明2)年
1796(寛政8)年
1802(享和2)年
1820(文政3)年

 いずれも、飢饉と政情不安の年である。

 この下降型の毛坊主の問題は、差別と被差別の 問題から天皇(制)の問題までにつながっていく。 米村さんの天皇(制)論を聞いてみよう。

 毛坊主とは村の天皇であり、人である。

 村の天皇たる者、この世のものならぬ霊を扱い 霊と交流する異人(シャーマソ)として、村が危 機に瀕する時、村人の身代り、いけにえとして殺 されなければならない。勿論、毛坊主は閉ざされ た一定の血統、万世一系という血のカリスマによ って成り立つ。毛坊主の子として生まれる者、そ の血筋の呪縛から逃れることは許されない。 親、子、孫、曽孫、曽々孫と、五代に亘っての恐 るべき殉教が起ったのも、まさしく、伝助が毛坊 主なるが故であった。

(中略)

 毛坊主が世襲制という血のカリスマによって継 承されるのは何故か。それは霊と交流し霊を扱う が故に、その血はその筋だけの特定のものとして 凍結されなければならない。常民にとっては死は 怖るべき穢れである。その穢れある死霊と交流す る者の血が常民を侵犯してはならない。自分も又、 畢竟、死ななければならぬ宿業に思い至らぬ自塞 の常民は、そういう観念で遊行ヒジリの民を差別 の奈落へ押しこめた。これが万世一系という天皇 制の原理である。

 血の継承をもって永遠不滅のシンボルとする作 為は、差別される側の逆支配が成立した時の裏返 しの論理である。万世一系のイデオロギーは、常 民対異族の葛藤のなかで、異族(遊行漂泊民)が 差別されねほならぬ、まさに、負の価値として成 立しているものに外ならない。

 本願寺教団は、その頂点から全国の各寺に至る まで血脈をもって法脈とするが如き血のカリスマ なる世襲制度をとる。だがこれは、民間呪術の本 旨であり被差別のシンボルを自ら表示しているこ とに外ならない。 伝助は、その血脈のゆえに、親、子、孫、曽孫、 曽々孫と五代に亘って殉教しなければならなかっ た。

 古来、日本人の天皇に対する尊崇の情念は何な のか。それは国民の身代り、いけにえの存在として の崇拝ではないか。だがそれは幻想としての身代り であり、現実に天皇が国民の身代りに立つ事はな い。身代りは国家体制の向こうで逆転する。国民 の側が天皇の身代りとして死ななければならない。

 差別と被差別の逆転。例えば、水俣病患者の坂 上ゆき。この女が脳と肉と骨のすべてを有機水銀に よって冒され廃人として死におもむかんとする時、 突如として「テンノウへイカバンザイ」を叫び君 が代を歌った。これは何なのか。水俣に流れ着き、 水俣病に冒され、水俣病患者として差別され忌避 された狂女の奥深くのマナ識は、水俣なる常民の 世界を突き破り、わが身と等しく差別される者の シンボル、そして今はその被差別が逆転した「正」 の地位につく天皇へと一直線に繋がっていったの ではないか。同じ出自の「正」と「負」のなめず り合い絡み合い。上昇した「神」と、その故に差 別の奈落に封じこめられた同類の神の末裔は常に 底深くでどろどろと絡み合う。断末魔の坂上ゆき、 救いはそこにしかなかったか。

 扨、ここで私は、殊更に吉本隆明を引合いに出 したくはないのだが、吉本は「天皇及び天皇制に ついて」で「出身不明な(異族の)支配者に対す る土着の種族の知恵という考え方が、わたしには 魅力的である」と言っている。吉本は駐留米軍に 対する日本人の態度から言及してくるのだが、こ の場合の土着の種族の知恵というのは、天皇 (毛坊主)なる異族の支配を認め許したこと、 それを日本土着民の知恵と言っているのである。

 これは、実は、その根底に於て差別根性丸出し の思想である。だが、どのようにも差別の観念か ら逃れられない我が身に巣食う差別意識を顕に表 出し検討する時、更には、差別の構造を歴史的に 明らかにする時、毛坊主なるもの、そしてその同 種族である天皇なるもの、更には、その事によっ て起った被差別の累代に亘る殉教というものの真 相を知る事が出来るのである。それは同時に、差 別の観念を瓦解する自然への道に通じる。

 では、その土着民の知恵という猛猛しいものは 何か。遊行漂泊の異族・毛坊主の村落に於ける定 着を許し、彼による村の支配を認める事と引き換 えに、土着常民は、彼が村人の身代りとして殺さ れなければならない犠牲を背負わせていたのでは ないか。 如来の法をこの世に伝えたが故に、世俗の権力を 狂乱させ、ひいては村人を弾圧の恐怖へ落としい れたスケープ・ゴートとして。

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『続・大日本帝国の痼疾』(25)

「毛坊主」とは何か。(3)


 米村氏は、真宗教団成立以後の毛坊主を二つの タイプに分けている。一つは、従来からのヒジリの系譜をひき、遊行 漂泊者から土着民へと「下降」したタイプである。 もう一つは、 在家伝道という真宗の布教活動の中で、村落の 門徒衆のなかから新規に生まれた毛坊主であり、いわば 村落からの「上昇」したタイプである。

 真宗にからめとられた以後の毛坊主はどのような 役割・活動をしたのだろうか。毛坊主は日本全国どこの農村 においても村長以上の権威を有していたという。 江戸時代・飛騨地方の毛坊主についての柳田国男 の記述がる。(柳田は『笈埃(きゅうあい)随筆』 (巻二)の『飛騨里の条』を下敷きにしている。)

 当国に毛坊主とて俗人でありながら村に死亡の 者あれば導師となりて弔ふなり、是を毛坊主と称 す、訳知らぬ者は常の百姓より一階劣りて縁組な どせずといへるは僻事(ひがごと)なり、此者ど も何れの村にても筋目ある長(をさ)百姓にして 田畑の高を持ち、俗人とはいへど出家の役を勤む る身なれば、予め学問もし、経文をも読み、形状 物体筆算までも備わざれは人も帰伏せず勤まり難 し。

 これを受けて、米村氏は次のように補足している。
 豪農にして形状物体筆算までもと言われる如く、 顔立ちも良くなければならぬし万能の才智を備え た人間でなくては毛坊主はつとまらない。而も、 兄弟あれば「兄は名主問屋を勤め、弟は寺役をな すよし」とまで記されている。つまり、村の政治 と祭祀とが兄弟によって両分保有されていると いう古代天皇制に類似する型がここにはある。 と同時に、毛坊主が万能の人間として村の上に君 臨している事実が伝えられている。

 右の引用文のなかに「常の百姓より一階劣りて 縁組などせずといへるは僻事なり」とあるのは、 すくなくとも、土着常民から差別された遊行漂泊 の毛坊主の原型について言っているのであろう。 『笈埃随筆』に於て述べられた毛坊主が、漂泊の 民から定着した「下降型」として、幾世代にも亘 る定着の末に遂に村を支配してしまったものか、 あるいは真宗の伝播以後、長百姓が村のなかから 「上昇」した型であるのかは定かではないが、 おそらく後者であると思われる。

 今日、飛騨、美濃、越前、加賀などの山村に 於ては、依然として、この上昇型の毛坊主の存 在が村を取り仕切っている。龍谷大学の千葉乗隆 教授によれば、岐阜県大野郡清見村に於ては、 村長、県会議員、教員がいずれも毛坊主で占めら れ、地域社会のリーダーとしての地位と伝統を保 有しているという。

 柳田国男は『毛坊主考』に於て「御断りをする 迄もなくヒジリ毛坊主の団体へは新加入者が続々 あった」と言う。これは私の言う「上昇型」に相 当する。更に柳田は「団体としての系統は辿るこ とが出来るが、是から推して血の系統を説くこと は勿論不能である」と断わっている。「下降」 「上昇」のいずれにせよ、あるいはその合一にせ よ、毛坊主が差別のなかに封じこめられなければ ならない理由は何一つない。まさに『笈埃随筆』 の言う通り「僻事なり」である。むしろ逆に、今 日に於ては村人の衆望を担い村を指導し、そのよ うな者でなくては毛坊主にはなれぬのである。

 毛坊主という制度は現代にまで残っているとい う。米村氏は熊本市の正龍寺という真宗の寺に生 まれ、その寺の住職を務めておられる。氏は、 その寺が関わっていた毛坊主のことを次のように 書き留めている。

 私の寺の門徒のなかにも毛坊主はいた。熊本市 の西に聳える金蜂山を超えた向うのもう一つの山 の村である。熊本県飽託郡河内町野出。夏目漱石 の『峠の茶屋』のモデルとなった村である。

 この村は、熊本市中心部の問屋街に在る私の寺 からは余りにも遠い。そこでかつては、村に死人 が出ると、村の毛坊主によって仮の葬式を営み、 後日、当寺に伺い死亡届を出して法名を貰うとい う段取りが慣例であった。毛坊主を仮坊主と言っ たりするのはこの故であろう。この慣例を「届け 詣り」といったりする。

 私が寺を継職する以前の新発意であった当時、 野出の毛坊主は小畑惣次氏であった(昭和30年入 寂)。勿論、村一番の信望厚き教養人であった。 だが、飛騨地方の毛坊主と異なる点は、政治 を卒業し政治とは緑を切った隠居の長百姓である。 小畑氏は毛坊主に就任するに当って、三年間、 私の寺に寺男として住んだ。その間、仏前作法や 経典読誦を修得して、村へ帰った。得度をせぬと はいえ、毛坊主になるに当っては、その道程は 厳重であった。

 小畑氏が亡くなると同時に、日本全国に高度成 長の波が襲って来た。道路が整備され車が普及し た。今ではどんな山奥の村の家でも玄関先まで 車が乗りつけられる。この僻村と当寺とは短時間 のうちに直結出来るようになった。いきおい毛坊 主の存在は必要でなくなる。今日、この村では毛 坊主は滅んだ。小畑惣次氏が最後の毛坊主であっ たということになる。

 現在、葬式や仏事法要には逐一、私の方から出 向くが、その他に、春夏秋冬、年四回村全体の講 に趣く。門徒全員が阿弥陀経や正信偈をあげる。 もはや毛坊主の存在はなくなったが、その役目の 一端は継承されている。例えば、葬式の際、私の 趣くのは本葬の時であり、通夜の席に於ては、こ の村の地域総代が勤行をする慣例である。これは 私が決めた訳ではない。毛坊主以来の伝統が自然 に残っているのである。この役目は上村喜平氏が 勤める。上村氏はかつての農協長であり、現在は、 政治から引退した信望厚き人物である。読経のリ ズムの採り方、音階の採り方は私よりも巧い。

 日本の村、日本の民俗、日本の民衆史を見るに 当っては真宗の風儀は絶対に欠かせない重要な要 素である。ところが民俗学や民衆史を扱う徒輩は 真宗に対してアレルギーを持つ。何よりも柳田国 男がそうであった。これは本願寺がネックになっ ていると思われる。だが、本願寺という上の部分 から見ようとするから拒否反応を起して意図的に 欠落させてしまうのである。謂わゆる教団ドグマ と民衆に於ける真宗とは別ものである。あくまで も民衆の側から真宗を見て行く時、これまで気付 きもしなかった新たな民衆史、民俗学が開かれて くる筈である。 日本の民衆史は即民間信仰史ではない筈であ る。氏神あるいは土俗の神を中心とする村落共同 体が民衆の歴史ではない筈である。真宗を見るか 見ないかは今後の日本民俗学、日本民衆史の存在 そのものに関わっていると言っても過言ではない。

 扨、球磨郡に於ては、今日、毛坊主は世襲制度 ではなく、「上昇」の型である。いずれの村に於 ても、豪農にして教養ある人物、勿論、信心厚き 人物であることが条件として村人の間から互選さ れ、輪番制によって継承されている。勿論、村長 以上の権威と影響力を持つ者が多い。

『続・大日本帝国の痼疾』(24)

「毛坊主」とは何か。(2)


 米村さんは、柳田国男著『毛坊主考』を徹底的に 批判することを通して論を進めている。まず、『毛 坊主考』に底流する柳田の偏見を指摘することから 始めている。

 神主の子である柳田国男は、まさに神主という シャーマンの子としてのコンプレックスと偏見に よって、民衆のなかに於ける「聖」なる流民、そ れは今日に於て「被差別」を不当にも強いられる 人々であるが、鉦打、鉢屋、茶筅、ササラ、地者、 願人、シュク、と呼ばれる人々、それが更に皮革、 竹細工等の手工業者へと分流するのだが、その人 々とその村の所在とを一挙に洗い立ててみせた。 その一環が『毛坊主考』なる一篇である。柳田は 右に掲げた生活技能者をあくまでも蔑視をもって 特殊な賤民としての世界に押しこめる。

 そして、『毛坊主考』の次の一節に着目する。

 東国通鑑に依れば、新羅の第九王伐休尼師今、 姓は昔名は伐休、脱解の子角千仇鄒の子なり。 王風雲を占して預め水旱及び年の豊倹を知り、 又、人の邪正を知る、之に由て観れば、天皇を ヒジリノミカドと申上げたのは、多分は聖天子 などと云う漢語の直訳であって、何れの世にも 天皇を神とこそ申せ、ヒジリと唱へたことは無 かったろう。毛坊主如き者の元祖と共通の名と 云ふは畏れ多いが、要するに上古の文学などは 此ほど迄に平民と没交渉のものであった。

 この悪文には、柳田の戸惑いと怯えのような ものが感知できる。米村氏はそれを次のように 分析している。

 柳田は何を言いたかったのだろうか、右の文章 はまさに支離滅裂、同時に、毛坊主という被差別 者の元祖が天皇と同じであったという言辞を我知 らず吐いてしまって、否、畏れ多いと言っている のである。

 私はここで天皇が被差別者の代表とし ての象徴であるという天皇論を張るつもりはない。 だが、毛坊主とは(真宗教団に搦めとられる以前 の毛坊主とは)天皇と同じ種族のヒジリであった のである。ヒジリには聖の字を宛てるが、元来、 日知りである。ヒジリ(日知)とは、文字通り、 日を知る人であり、日の善し悪し、日の性質を知 り、又は日の性質を変更し、日のように天の下を 治めるシャーマンである。天皇がシャーマンであ るかプリーストであるかを問う必要はない。天皇 はその発生に於て、扱う祭式に於て、明らかなる シャーマンである事は言を俟たない。

 「天皇はその発生に於いて」というときの「天皇」 を、米村氏はヤマト一元主義の枠内で論じている と考えられるが、私(たち)は遙かにアマ国の始原 の王までさかのぼって考えることになる。しかしさ しあたって以後の論考では、九州王朝に取って代わ った律令制国家としてのヤマト王権(日本国)を 想定して差し支えはない。

 さて、米村氏は、柳田の主張に反して、天皇を ヒジリと呼ぶ例をいくつか「上古の文学」から引い たうえで言う。

 「何れの世にも天皇を神とこそ申せ、ヒジリと 唱へたことは無かった」と柳田は言うが、柳田ほ どの文献史料学的学者がこの事を知らない筈はな い。むしろ、柳田はその事実を知っていたからこ そ、
「要するに上古の文学などは此ほど迄に平民と没 交渉のものであった」
と、およそ脈絡のない言辞を突如として弄して回 避した。

 天皇こそヒジリと呼ばれたのである。ヒジリは 常民にとっては不定住の流浪漂泊の異族である。 その、日を知り日を司どる不定住の異族・毛坊主 がいかなる境をも超えて浮遊するという超越的支 配性の故に、国家統合の時点で唯一のものとして 国家の上に上昇し定着させられた。それが天皇で ある。毛坊主は天皇という名称とその地位に一身 に収斂されてしまった。残る毛坊主はその残滓と して漂うたまま、一層、被差別の奈落へと下降し て行く以外にない。

 天皇を頂点とする律令国家体 制の貫徹のなかでは、ヒジリ(=シャーマン)の 地方に於ける存在が国家統一の異物として、更に は淫祀邪教の異端として弾圧されていったことは、 ここで言うまでもない。それ以後、追われる身と して民間に隠れたヒジリ集団が安住の地として漂 着した彼岸こそ外ならぬ仏教であった。仏教の持 つ開かれた汎神思想のゆえに、仏教は毛坊主を汲 み摂った。というより、天皇以外のヒジリは場処 を追われて仏教のなかに紛れ込んだのである。そ れが、ヒジリに対して、毛坊主という新たな名称 を附加させることになった。

 柳田は言う。「ヒジリが仏法を利用して毛坊主 となったので、仏法の普及が新たに此の如き階級 を作ったのでは無い」と。

 毛坊主とは、本来、仏教とは関係のない人神で あった。ヒジリに被慈利(慈恵利益を被る者)、 又は非事吏(世事を離れた寺務吏員)という字を もって当てるようになったのは仏教との接合以後 に於ける作為である。

 柳田の『毛坊主考』を論評したものに、山折哲 雄の『アジアイデオロギーの発掘』がある。その なかの「日本型仏教イデオロギーの扼殺者」なる 章に於て、山折氏は
「神の子孫として、常民とカミの間を媒介する生 活技能者」
だったという定義をヒジリに与えている。人神と しての遊行漂泊のその生活技能者が、弾圧の歴史 の果てに念仏と結びついてしまうのである。阿弥陀 ヒジリと呼ばれる集団に彼等はその身を仮託する。 行基、更には天台の空也上人、あるいは時宗の一 遍上人の遊行念仏、はたまた弘法大師の高野ヒジリ に。

 それらは、今日、猶、不当にも被差別の扱い を受ける鹿杖(かせづえ)鉢叩き、鉦打ち磐叩き (かねうち・けいたたき)として、埋葬と勧進を業務とし、更に はそれが特殊手工業として分岐しながら、日本全 国の村落にジプシーとして下降して行く。 「あるき筋」という別称を当てがわれて。それが 埋葬以下の技能を持つ以上、やがては常民の要請 によって村落のなかに、あるいは村落の境や外れ に土着化を見せることになる。これが毛坊主の種 族である。その種族のなかには卓越した布教と指 導能力によって、村人を服従させる者も多かった ろう。

 この毛坊主に目を付けたのが外ならぬ真宗教団 であった。教団の教線拡大にとってヒジリの持つ 遊行漂泊性、更には村落の「境」を超える治外法 権的行動性が、オルガナイザーとしては打ってつ けのものであった。更には、霊魂に関わる人神と しての村落に於ける定住は、村民を精神的に支配 し犯すという怖れある地位と、それに見合う物質 的富の力を獲得していた者もあったであろう。

 而も、ヒジリの業務とするものは勧進であった。 勧進とは仏の本願の名のもとに、布施(金品)を 差し出させることである。それは、時として土着 常民にとっては「ユスリ」「タカリ」になったで あろう。教団としてはヒジリの抱える「仏の本願」 が所詮は浮遊不明な所在であり、その故にいずれは ヒジリは常民のなかで行詰るであろう事を予見し ていたに違いない。ヒジリ自体としても同じであ ったろう。その「本願」を「本願寺」という定着 したヒエラルキーに転換させれば、毛坊主自体に とっても、それは強力で安定したものとなったに 違いない。真宗教団の民衆の大量組織の成因は、 ひとえにこの俗ヒジリを本願寺へと収斂させる事 にあった。だから、先祖崇拝や祖霊信仰を否定す る等の親鸞の念仏が、毛坊主なる俗ヒジリの吸い 上げによって地方に教団を伝播させる以上、毛坊 主の祖霊信仰の習俗を丸ごと抱えこむことになり、 死者儀礼を始めとする習俗儀式を生活技能とする ことによって教団の基盤が維持されるという 「負」の方向へと自ら転落する事にもなった。 もっとも、これは教学ぬきの一面である事をお 断わりしておく。

『続・大日本帝国の痼疾』(23)

「毛坊主」とは何か。(1)


 たった三日の間に24ケ村から三万人もの動員を 果たしたナバ山一揆の成功は、「村と村、あるいは藩 境をも超えて繋がり合う隠れ念仏という既成の組織 連帯に負うていたからであると思える」と、米村氏 は言う。しかしナバ山一揆には念仏の「ね」の字も 出てこない。何故か。

 一向一揆の頃と違って、幕藩体制のなかでは、 もはや真宗そのものは前面に出てこない。この 頃は既に、中世期と異なり、宗教は宗教、社会は 社会、あるいは、信心は信心、生活は生活とい う、近代主義的な二元論のイデオロギーが確立し ていたのである。

 この頃、隠れ念仏の指導者である、高沢徳右街 門はどうしていたか。

 天保12年のナバ山一揆のその頃、徳右衛門、36歳 の働き盛りである。領内24ヶ村を総動員しての一揆 であってみれば、徳右衛門が参加していない筈は ない。むしろ、先頭の陣営に立っていたと思われ る。

 この「隠れ念仏の指導者」が「毛坊主」である。


 毛坊主とはいかなる者か。

 農民でありながら仏教の伝道を専門に行う俗人 の身。だから、勿論、僧の身分としての得度はし ない。その役割は村の精神的指導にあると、一般 的な定義を施したところで毛坊主を説明したこと にはならない。

 弾圧のなかで仏飯講という真宗念仏の秘密結社 を組織し指導した伝助なる毛坊主とは一体何者な のか。毛坊主とは、本来、仏教とは関係のない存 在である。毛坊主には、古代からのこの日本の、 おどろにも深い神の歴史と、神を扱い神に擬せら れる者の「被差別」の実体が秘されていたのであ る。

 毛坊主とは村の天皇であり、人神である。

 伝助という毛坊主については後に取り上げるか もしれないが、今はおく。まずは、「神人(じん にん・じにん)」をキーワードに、「古代からの この日本の、おどろにも深い神の歴史」を瞥見し ておこう。

(上の引用文で、米村氏は「人神」と表記している が、「神人」の誤りだろう。)

 網野善彦著『日本中世の百姓と職能民』(平凡社 ライブラリー)は、「神人」という語について、 次のように解説している。

 もともと神人の語は『日本霊異記』においては、 「閻羅王」の「門の左右」に「身に鎧(よろい) を著、額に緋の蘰(かずら)を著け」た二人の神 人や、「猴聖(さるひじり)」といわれた尼を嘲 った僧を「空より降り、鉾を以て」突いた神人の ような、神に属する人ならぬ存在をさす語であっ た。しかし『小右記』永祚元年(989)4月14日条 で、吉田祭のさい御幣を授けた神人や、正暦4年 (993)5月9日条の上賀茂社の神人にみられるよう に、十世紀以降は神社に仕える人をさす語となっ ており、以後、この用法がふつうになることはい うまでもない。

 「神人」という語には、「人ならぬ存在」であ る共同幻想としての「神」を指す場合と、「神社 に仕える人」を指す場合と、大きく二つの意味が あるという。いま私(たち)が問題としているの は、もちろん、後者の「神人」である。

 ちなみに、三省堂版「全訳読解古語辞典」は次の ように解説している。

神社に仕えて神事の雑役、社域の警固、領地の管 理などを任務とする下級の神職。本社の神人は黄 衣(こうえ)を、末社の神人は白衣(びゃくえ) を着用した。室町時代を中心に、芸能や商業・手 工業にも従事した。

 ①「神社に仕える人」としての神人と、②「芸能 や商工業の担い手」としての神人のほかに、③「農 民支配のための組織」としての神人という観点も ある。この三視点の関連について、網野氏は 次のように述べている。

 この二つの視点(②と③)自体が物語っている ように、神人を主として非農業的生業に携わる集団 とみるか、上層農民あるいは領主的な存在と考えるかについて、 見解は分かれており、神社と神人の関係についても、 きびしい人身的隷属関係とするか、複数の寺社、 権門に兼属しうる自発性の強い支配関係とみるかに 関しても、さまざまな色合はあれ、見方は分岐して いる。そして神人が一般平民の村落から区別された 特権的な集団であったことは、大方の認めるところ であるとはいえ、その反面、一部に賤視される人々 のあったことも注目されているのである。

 私はときに自ら「神奴」といって憚るところのな かった神人の「神への隷属」のあり方は、奴隷制、 農奴制等々のこれまでの隷属形態に関わる範疇で はとらえきれないものがある、と考えている。 「寺奴」といわれた寺院の寄人(よりうど)、 天皇の供御(くごにん)人とその本質を同じくす るこうした中世の神人のあり方は、古代に遡れば 采女(うねめ)、神賤(しんせん)等の問題につ ながり、降っては近世の被差別民の問題に、少な くともその一部は確実に結びつく。

 網野氏の著書『日本中世の百姓と職能民』は、 この三通りの神人の歴史的な展開・関連を論究 している。もしかしたらまたお世話になるかもし れないが、いまは深入りしない。『殉教と民衆』 に戻ろう。

『続・大日本帝国の痼疾』(22)

一揆の可能性と挫折(3)


 前回、「隠れ念仏」と「毛坊主」について簡単 に触れておこう、と書いた。順序から言うと今回は 「毛坊主」の番なのだが、『殉教』に目を通してい たら、これは「簡単に触れ」て済ますわけにはいか ないと思えた。先に、相良藩ナバ山一揆を取り上 げて、その後で少々詳しく「毛坊主」を取り上げ ることにする。もともといい加減な構想で始めた 稿だけど、次々と気まぐれのように想定していな かった話題に飛んでしまって、表題から 離れていくような感がある。落語のオチじゃないけれども、 最後は表題どおりのオチになるだろうと楽観して、 ともかく気の向くままに進むことにしよう。

1841(天保12)年 相良藩ナバ山一揆

 天保という時代は、飢饉と商品経済の著しい発展 により、藩の力が弱まって行くばかりの時代だった。 この頃、全国諸藩の77%がそうした状況にあった。 相良藩も例外ではなかった。慢性的飢饉の上に度重な る洪水。藩財政は実収額を上回る藩債と藩札を抱えこみ 瀕死の状態であった。文政から天保にかけては、 一石につき四升宛という酷い増税をしている。 町には売米が払底し、方々に餓死者が出る始末だった。

 そのような折、田代政典という人物が家老となり、 藩の危機を救うためにさまざまな方策を打ち出して いった。特に殖産 開墾に力を注ぎ、百姓の救済と新田開発を政治の 眼目としていた。それと同時に、徹底した経済引 締め策を敢行している。農民の楽しみの一つであ る焼酎の醸造禁止もその一つであり、当然これは 農民の反感を買っている。 家中諸士の給料(知行高)の切り下げも断行する。 先代藩主の次男の相良左仲の知行高をも切り下げ てしまうというほどの厳しい処断であった。

 家老は飢饉時の農業対策の一環として、椎茸の 養殖栽培を企業化した。豊後から茸山師(なばや まし)とその技術を導入して山の管理をまかせた。 時あたかも大飢饉、相良の百姓は食するものとて なく、山にはいって葛の根を掘っては生命を繋ぐ という日々である。ところが、ナバ山で葛の根 を掘ったばかりに、権力を嵩にかかるナバ山の職 人が百姓どもを打ち殴った。しかも、ナバ山の労 働に駆り出されるのは、肝心のその百姓である。

 さらにもっと不都合な事に、町人辰右衝門に 椎茸の利権を与え、ナバ山の支配をまかせていた。 利権はナバ山に限らず、紙、麻苧(まちょ)の買 入れにまで及び、その支配を城下町の商人達にま かせた。おそらく、農政改革遂行の資金を城下町 の商人達から導入した見返りであったろう。そして、 ご多分にもれず、見返りの見返りもあったことだろ う。

 商人らに山仕入、紙仕入、麻仕入の利権を与え、 しかもリベートを取るという仕組みは、農民の疎 外と、更なる「百姓潰し」にしかならない。町人 による農業支配はとどまる処を知らぬ搾取へと傾 斜する。百姓救済を眼目として始めた政策が、新 たな収奪体系を農民に強いる結果になった。

 利権を握る商人達は、農民からの、紙、麻苧の 買入れに当って、相場より低い値段でしか買入れ ない。更に、買入れの時は手形である。それが現 金に両替する時は更に2割引というあくどい搾取を 行っている。

 さらに政典は倹約の一環として、死んだ牛馬の 皮を、エタ(毛坊主の種族)と呼ばれる被差別の 人神に剥ぎ取らせる。これまでは土中に埋葬して いた牛馬の屍体の皮を剥ぐという倹約令は、百姓 にとって家族同様であった家畜に対する感情を引 き裂く。ついに一部の農民が憤懣を爆発させ、ナ バ山小屋を焼き払った。だが、ここまではまだ一 揆の気配はなかった。

 ナバ山小屋を焼いた百姓たちを、藩は30日の間、 拘留する。おそらくナバ山での強制労働であった ろう。この処罰が導火線となった。農民たちは遂 に蜂起する。

 一揆の打ちこわしは、藩との間で利権を貪る商 業資本に向けられた。ナバ山支配を始めとする、 紙、麻苧の支配人たち、更には、酒屋、醤油屋、 米屋、反物屋などなど。打ち崩しの始まったのが、 天保12年2月9日。 打ち崩しは昼となく夜となく続けられ、夜は夜で 灯をともして、土蔵を打ち崩し、柱には縄をまい てひき倒した。

 当初わずか1800人ほどだった一揆の集団は、 、一挙に15,000人にふくれあがる。さらにわず か三日の間に、最終的には、30,000人の大集団 となっている。しかもその 大集団は単なる「群集」ではなく、訓練された軍 隊の如くに整然としていた。

 一揆軍は各村の名を記した旗の下に、村ごとに 集結し編成されていたのである。さらに一揆は、 鉄砲を先頭にし、その後に、斧、山刀の軍勢が続 いている。たいていの百姓一揆の場合、藩側の鉄 砲の威嚇によって一瞬にして崩れ去るのが通例だ が、相良の一揆では逆に、鉄砲を楯にし、鉄砲を 合図に行動している。見事に統制のとれた一揆軍 であった事を薩摩藩の横目が記録した秘密文書に 記されている。一揆は2月9日に蜂起し、2日後の11日には 引揚げている。この三日間、一揆弾圧の 藩兵の出動は見られない。

 一揆軍が目指している最終目標は家老田代政典 の首であった。
「家老田代善右衛門(政興)、生首を取不申内は 何様之儀二而も引取間敷抔と徒党之者共、声々ニ 相罵り為申由承申侯」
と記録されている。家老田代政典の生首を取るま では引き取る訳にはいかないというのだ。さらに 一揆は、ナバ山支配の政商・辰右衛門の命も求め ている。

 辰右衛門の消息は次のように記録されている。
「辰右衛門所を初、同人事は可致殺害との事ニ而、 家は勿論、家財等迄も都而(すべて)打崩、然処、 同人ニは迯去行衛不相知由…(略)」

 家老田代政典は永国寺の隠居寺に身を隠す。 だが一揆の波はここにも襲ってくる。政典は山 伝いに寺を忍び出て「山田川を見られ侯処、雲霞 の如く数万の人数群集して、折々鯨波を上ぐるを 見」て逃避行を断念、「脇差を引抜き腹に突立て」 切腹して果てている。

 相良領内24ケ村を動員してなされたこの一揆は 完全に農民側の勝利に終ったが、この一揆の性格 を物語るエピソードやハプニングがいくつか記録 されている。

 打ちこわしは商業資本に向けられたが、それら 商家は一揆が起ると同時に一揆の軍勢に助勢 すれば、打ちこわしから免がれる。
「外ニ酒屋壱軒、店之外壱間掛り打崩し内の方ハ 不崩候付承候処、右酒屋ハ百姓共江酒余多為飲候 よしニ而、是ハ惣而打崩筈之所にて候得共、酒之 礼分ニ少し打崩取止候由」
 打ち崩しのスケジュールのなかにはいっていた 酒屋が、一揆の百姓どもを迎えて存分に酒をふる まってくれたので、その礼として、一揆軍は外の 方を形ばかり崩して、後はそっとしておいてやっ たという。

 これに反して、猪之鹿倉村のうち、一揆に参加 しなかった20軒の家に、引揚げる途中で火をつけ 焼き払ってしまうという制裁を加えている。

 さらに、農民の反感を買ったものに、農政改革 と同時に盗賊方とその手先の者を各村に派遣して 村民を取締るという条令の施行があった。その盗 賊方目明かしのなかには、権力を嵩にきて追剥 強盗をやらかす者がいた。これも当然、一揆軍の 殺すべき対象のなかにはいっている。一揆軍はそ の目明かしを捕え、その妻を柱に縛りつけ、妻の 見ている前で、山刀で切り殺している。

 もうひとつ奇妙なことがある。政典によって知行 を切り下げられていた藩主の叔父の相良左仲が一揆を 扇動・援助しているのだ。左仲は一揆に向かって 「士族の小路にはいってはならぬ。但し町家は勝 手次第に打ちこわせ」とそそのかし、家中藩士に 向かっては、「乱暴致すな」と言い「百姓共につ き、刀、脇差等に手をかけてはならぬ」と申し渡 している。一揆に対しては
「家老田代善右衛門役儀差免、其外改革之規掟 一々引取、本之通仕向可致候付是非引取(うかん むり+火)様」
にと、再三訴えている。
 だが一揆の側は、「家老政典の生首を取る までは引取らぬ」と承服しない。そうするうちに、 左仲から、「田代政典が切腹して果てた」事を知 らされ、一揆は左仲の提案をのんで引揚げ たのだった。

 左仲は田代追い落としに成功した。だがそれも 束の間、一揆を煽動した容疑により、左仲自身も 藩から切腹を命ぜられている。左仲一人を処罰し たことにより、藩は一揆の百姓を誰一人とがめ た様子はない。記録は次の如くに結んでいる。

「右ニ付徒党相企百姓共儀、跡以御咎目ニ而も可 有之哉承合候得共、村々無残程之事ニ而殊ニ改革 方都而(すペて)実引取ニ而銀札も来月朔日限、 都而御取退有之等の由ニ而、何そ御取扱等有之向 二無御座候由」

 手形(銀札)も来月一日限りで、以後は実取引 にすると藩側は譲歩したのである。

 一揆は完全に成功したが、この一揆も所詮、既 存の支配体制の秩序を明らかな前提としており、 そこには民衆独自の自立した構想は見られない。 それが左仲につけ入られる隙でもあった。

『続・大日本帝国の痼疾』(21)

一揆の可能性と挫折(2)


 一揆の諸要求は幕藩権力を震撼せしめはしたが、 幕藩支配体制そのものの否定にまではいたらず、 その既存の支配体制を前提にした村落共同体再編 の要求にとどまった。しかし一揆が、現実の村が もっている支配体制の末端単位としての存在様式 の否定に連動する可能性をもっていたことは否め ない。そして、それが可能性でしかなかったのは、 一揆の担い手たちがありうべき現実的世界像を構 想しえなかったからである。いわば、理論武装が 欠けていた。その理論武装には被支配者の側に立 つ知識人の力が不可欠だったろう。市井氏は、青 木氏の文を引用した後で次のように述べている。

 したがって幕藩体制内部のいわゆる諸矛盾が増 大するにつれて、体制そのものをいかに改めるか という発想と、それを実現するためのイニシャテ ィヴないし指導力とは、前章にのべた山県大弐の ような、直接生産に従事しない知識人 ― 現実 には処士(浪人)、武士、学者、医師、僧侶、等 々の人々 ― にゆだねられざるをえませんでし た。

(中略)

 政治的にその体制の変革をめざすという役割は、 前述の知識人にゆだねられたとはいえ、この種の 農民の抵抗は、いわば自然法則の作用に似た機能 を発揮して、知識人が働きかけるべき社会的土壌 をつくったといえるでしょう。

 さきの引用文で青木氏が、「岩代の信達一揆以 外はモッブ(衝動的暴民)であった」と評された 慶応二年の世直し的大一揆の高まりは、国訴のよ うな合法闘争とはちがって、「モッブ」であるだ けにそのエネルギーの奔流にはすさまじいものが あり、それ自体が意識的政治プログラムをまった くもたないとしても、その時点で旺盛に動き出し ていた意識的倒幕運動にとって、きわめて好都合 な社会的風土をつくり出したことも記憶さるべき でしょう。

(山県大弐の思想については、後に『思想から』を 教科書に学習する予定です。以下は『殉教』 による。)

 市井氏は僧侶を知識人の中に入れているが、半 僧侶ともいうべき指導者がいて、「自分の村に、 独自の構想をもった小国家を作っ」ていた事例があ る。 その指導者は毛坊主と呼ばれる隠れ念仏の布教者 であり、名は高沢徳右衛門という。「村と村、 あるいは藩境をも超えて繋がり合う隠れ念仏」と いうネットワークを創っていた。これは、一揆を 目的に創られた組織ではなく、一種の恒常的な 自治組織であり、いわゆる「桁打」とは違う。 この隠れ念仏のネットワークが、結果として、 一揆の動員に圧倒的な力を発揮したのであった。

 その一揆とは1841(天保12)年の相良藩ナバ山一揆 である。この一揆の「驚くべき真相」を伝える古文書 が見つかったのは、わずか40年ほど前の1966年であっ たという。その古文書は、相良藩の隣藩・島津藩 から相良藩の一揆の実態を探るために送り込まれた 「横目(スパイ)」が記録した秘密文書である。

 詳しい記録文書の発見がわずか40年ほど前なので、 この「江戸時代を通して、もっともユニークな農民 蜂起」の実態は、あまり広くは知られていないよう だ。少し詳しく紹介しようと思う。また、この一揆 に深く関係している「隠れ念仏」とか、そのオルガ ナイザーの「毛坊主」とかも耳なれな言葉だ。一揆 の紹介の前に、これらのことにも簡単に触れておこう。

 まず「隠れ念仏」について米村氏は次のように 述べている。

 ここで言う「隠れ念仏」とは、政治権力の弾圧 に抗して地表から隠れざるを得ない形の「隠れ念 仏」であり、それはあくまでも普遍宗教としての 念仏を正統に継承するものである。これに反して、 禁制がある訳でもないのに、呪術秘儀という土俗 への自らの下降をもって嗜好的に隠れる「隠す 念仏」、つまり、民衆の「負」の部分としての原 始宗教乃至は民衆宗教としての「隠し念仏」とは全 くの別ものであることを申し添えておく。

 ここで言う隠れ念仏について具体的に申せば、 相良藩ならびに島津藩のとった念仏禁制にその発生 を見る。相良ならびに島津は、切支丹と同様に、 中世の終りから江戸時代を通して真宗を禁じた。 その禁制は、1500年代の初めから近代国家の創成に 至る明治10年までの370年間という4世紀もの長き に亘っている。

 この禁制を、相良あるいは薩摩とい う辺境の特殊な事件として見るのは誤っている。 そこには日本歴史の総体が表象されている。更に は、民衆と宗教との関わり合い、縺れ合い、常民 とは違うもう一つ別の民衆の存在、そして民衆と 権力との葛藤の全様相が目くるめくほどに光を 放っている。

 相良藩と島津藩が真宗を禁制にした理由は何か。 江戸時代の歴代の藩主が出している「お触れ」の 類では「代々禁じられてきたから」という理由し か見出されないという。では、その「代々」とは 何時ごろまでさかのぼるのか。米村氏は、「求麻 外史」という相良藩の正史を解読して、1500年~1512年 の間に制定されたと推定している。そしてその禁制の 理由については、その淵源は一向一揆にあると容易に 推定できるが、たしかにそこに禁制の理由があるこ とを、やはり「求麻外史」から引き出している。 そして、次のように論じる。

 真宗の念仏は、人間存在の根元的な罪業を問う。 自らの罪の過ちを自ら知りて自ら改むる図式の人 間絶対主義を、雑毒の善、或いは、さかしらな人 間のはからい(迷い)として排斥する。改めよう にも改められない、謝そうにも謝すことの出来な い、おのれの罪業の深さを思い知れと真宗は教え る。勿論、そのような自らの根元に巣食う罪悪の 覚知と、それの享受は、他力(弥陀如来)を頼む ことによって知らされる。

 真宗という宗教が日本 の地平に開いたものこそ、如来の法の下に於ける 「罪悪の自覚」あるいは「宿業の自覚」であった。 その宿業観は、同時に、百姓であれ領主大名であ れ、その身分のいかんを問わず、人間の存在と営 為のすべてを虚仮なるものとして相対化し破却す る事に通じる。人間の善悪の規準の設定は、人間 の恣意的な迷いによる。善であれ悪であれ、或い は、領主大名であれ百姓であれ、人間は皆、救わ れざる宿業の身であり、煩悩具足の凡夫であると いう仏による絶対平等の地平、そしてそこからの 人間の歩みを説く真宗の念仏であってみれば、儒 教亜流の思想によって身を立てる支配者層と対決 し衝突するのは当然の事である。自らを絶対とし て立てなければならない支配者層にとって、真宗 の念仏は、自分の基盤が音を立てて崩れて行くほ どの怖るべき危険思想であったのである。

(中略)

 もし、民衆がこのような根元的な(出世間の) 思想に染まったらどうなるか。何よりも領主大名 としての権威権力は一朝にして無化される。現実 に加賀では一向一揆も起った。ここで何としてで も真宗を阻止しておかなければならない。封建体 制の「防衛」のためにも真宗の侵入を食い止める 必要がある。そこで相良は未だ一揆の被害は受け ていないが、「防」なる政治を標榜して真宗禁制 に踏み切ったに違いなかった。だが、そこに待っ ていたものは意外にも民衆の死を賭けての抵抗で あった。

『続・大日本帝国の痼疾』(20)

一揆の可能性と挫折(1)


 教科書を追加します。

市井三郎『思想からみた明治維新』(講談社学術文庫)
米村竜治『殉教と民衆』(同朋社)

 以下、それぞれ『思想から』、『殉教』と略称します。


 『思想から』で市井氏が「江戸時代の農民一揆 を徹底的に研究された青木 虹二氏」の『百姓一揆の年次的研究』から引用し ている文章を孫引きする。

 世直し一揆の場合でも、中農層が指導して一定 の綱領を持ち、統制がきちんととれているものに は一揆の段階的な発展がくみとれるが、都市 の米騒動を典型とする職人層・日雇層の行動や、 農村における貧農層のみの蜂起は空想的な叛乱で あって、一時的な緊張の激化にとどまるものであ ったと思う。慶応二年の時点でさえ、岩代の信達 一揆以外はモッブであったわけで、その点に暴動 のはげしさで支配階級を震撼させたとしても、直 接、権力の打倒を指向する方向へ進まないもろさ を持っていたのではなかろうか。

 青木氏は、世直し一揆のほとんどが十分準備さ れたものではなく、その場限りの衝動的暴動(モ ッブ)に終わった「もろさ」を指摘している。 そして、その「もろさ」の要因を適切な指導者を 持たない点に 求め、その故に「空想的な叛乱」に終わらざるを 得なかったとしている。

 そして、青木氏は「中農層が指導して一定の綱 領を持ち、統制が」とれていて「段階的な発展が くみとれる」るものとして、「岩代の信達一揆」を あげている。この一揆は 慶応期の一揆・騒動(4) で取り上げたが、いま改めて見直してみると、この一揆は 突発的衝動的な暴動ではなく、かなりの準備計画 のもとに実行されたことがみてとれる。

 『殉教』で次のような記述に出会った。

 安丸良夫はその著『民衆運動の思想』に於て 「桁打(けたうち)」というオルガナイズに言及 している。例えば、

 寛政5年(1793)の伊予国吉 田藩に一揆にさいして、指導者武左衛門が三年間 に亘って「桁打」となり領内を極秘裡に巡訪して 一揆を組織している。

 安政6年の信州伊那郡の一揆では、指導者猪兵衛 が講談師となって佐倉宗吾の 伝承を語り歩き、闘争資金を集めて一揆軍を組織 している。

 嘉永6年(1853)の南部藩の一揆を起すに当って は、指導者源五兵衛が何と17年間にも亘ってひそ かに組織活動を続けた結果であった。

 一揆の裏には、長い年月に亘って打たれた 「桁打」がある。

 よく準備され、見事な戦略・戦術をもって闘わ れた一揆の例が『思想から』で取り上げられてい る。1754年(宝暦4)年の久留米藩での全藩一揆 である。

 この一揆は、久留米藩が極度の財政難の中、 領民に過酷な人頭税(8歳以上全員への人別銀)を 課したことに端を発する。久留米藩の207ヶ村 の農民が連絡を取り合って、巧みな作戦を練って いる。有能なオルガナイザー(桁打人)が居たの に違いない。以下、『思想から』から引用する。

 (農民たちは)藩主に前もって鹿や猪などの獣 を献上し、こういった獣類が田畑を荒らして困る から、それを退治するために鉄砲を貸し下げてく れるように願い出ました。

 年貢米に眼のくらんでいる藩当局は、何千挺と いう鉄砲や槍を農民に貸し与えたのです。そこで 農民たちは、十何万石にのぼる米を一ヵ所に集め てしまい、屈強の武器をもって八幡川などの堤防 に勢ぞろいし、年貢米増徴への反対書を領主に提 出しました。藩当局側はまんまと欺かれたことが わかっても、時すでにおそく、農民の要求をいれ ざるをえませんでした。

 このときの一揆に参加した久留米藩農民は、 16万8千をこえたといわれますが、このように成 功した一揆においても、強訴の責めを負って18名 の庄屋たちが、甘んじて死刑に処せられてゆきま した。