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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(15)

慶応4年~明治初年の一揆・騒動(1)


 1867年から1868年にかけて、幕藩体制の崩壊は 急テンポに進展していった。その緊迫した政治情 勢を年表で追ってみる。

1867(慶応3)年
  6月22日 京で薩土盟約成立。
 ( 8月    ええじゃないか踊りが流行し始める。)
 10月 9日 岩倉具視、王政復古の意見書を密奏。
 10月14日 徳川慶喜大政奉還を上奏。
 10月14日 長州藩に倒幕の密勅が下る。
 10月24日 徳川慶喜、将軍職辞表提出。
 10月25日 江戸薩摩藩邸、焼き討ち。
 11月12日 島津忠義、兵を率い京へ向う。
 (11月12日 京都町奉行、ええじゃないかを禁止。)
 11月25日 萩藩家老毛利内匠、兵を率いて京に向う。
 12月 9日 王政復古の大号令。幕府廃絶。
 12月25日 三田薩摩藩邸、焼き討ち。

1868(慶応4・明治元)年
 1月 1日 徳川慶喜、諸藩に討薩の出兵を命じる。
 1月 2日 幕府諸藩連合軍1万5千、大坂を出発し 京都へ向かう。
      薩摩藩船平運丸を幕府軍開陽丸・ 蟠龍丸が砲撃。
      幕府諸藩連合軍、伏見に到着。薩長軍と対峙。
      幕府軍別働隊と薩長軍が鳥羽で衝突。戊辰戦争が始まる。
 1月 4日 嘉彰親王が薩長軍本営に入り、事実上 の官軍となる。鳥羽・伏見激戦。
 1月 5日 淀藩、官軍方へ付く。
 1月 6日 津藩、官軍方へ付く。
      徳川軍大坂へ退却。
 1月 7日 徳川慶喜、江戸へ向けて密かに出港。
      新政府、徳川慶喜追討令。
 1月 9日 明治天皇即位。
 1月10日 新政府、徳川慶喜以下の官位を奪い、 幕府領を直轄領と決定。
 1月17日 仙台藩に会津藩追討の勅命。
 1月25日 英米仏蘭伊普6カ国が、日本内戦に対 し局外中立を宣言。
 2月 2日 新政府、徳川慶喜親征の詔を発布。
 2月 6日 新政府、西国22藩に従軍令を発す。
 2月22日 彰義隊、上野山を占拠。
 2月 6日 大総督府、江戸城総攻撃を指令。
 2月12日 高輪薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟、 江戸開城交渉。
 2月14日 西郷隆盛、江戸総攻撃を中止。
 2月14日 天皇、五箇条の誓文を宣言。
 4月 4日 東海道先鋒軍、江戸城に入る。
 4月 7日 徳川慶喜、勅命奉承の奉答。
 4月21日 東征大総督府、江戸入城。


 1868年1月から始まった戊辰戦争は69年10月にま で及ぶ約一年半の内戦であった。この状況のもと で、大規模な農民闘争の口火を切ったのは、上州 の半プロレタリア層であった。

上州野州騒動

 2月、上野緑野郡吉井宿の打ちこわしに始まった 騒動は、拡大するとともに新たな騒動発火点を生 み出しつつ、上州一円に展開した。4月には下野に も波及する。

 吉井宿打ちこわしの直接の契機は、関東取締出 役の農兵隊取立用金令にたいする反対であった。 しかし、騒動の主題は打ちこわし直後から、村役 人・豪農商の不正利得追及と、質地証文借金証文 の破棄、質地質物の返還、米価引き下げ、窮民救 済に移っている。この要求主題の転換が、 この騒動を全上州的規模に展開させる重要な要因 であった。そしてまた、その転換は、騒動の主体 が半プロレタリア層であることによって、可能で あったのである。

 この騒動でも、焼き打ちを手段とする動員強制 が村ごとに行なわれ、その動員と打ちこわしと金 品強請とを正当化する論拠としての「世直し大明 神」が登場する。そしてまた、騒動そのものが、 米価を初めとする異常な物価騰貴によっており、 その物価騰貴が直接に貿易の展開と結びつけられ ていた。つまり、この騒動も排外的な性格を色濃 くもっていた。

 この騒動は、諸藩兵や草莽隊によって鎮圧され たが、4月2日からは下野宇都宮周辺に、4日から真 岡周辺に騒動が始まった。宇都宮周辺の騒動は、 助郷課役の減免要求を機にしているが、上州の場 合と全く同様の要求を主題とし、困窮者救済のた めの「世直し」として動員強制・強請・打ちこわ しを展開した。この騒動で、打ちこわされた岩原 村家主ら6人は、打ちこわしの農民は近村の百姓 であって「組合近所」の者ではないとしている。 ここにも、上州の場合と同様に村外農民による打 ちこわし・強請が示されている。

 また、上州の場合もそのように推定されるが、 下野でははっきりと、騒動の頭取に博徒態の者が 登場している。ところが、それらの頭取は最後の 段階で「一揆仲間」に打ちころされている。それ は頭取が「不正」に強請をして私腹を肥やしたと いうことが露顕したからであった。いったん 質物・借金証文を提出したことで話しがついた 豪農のところへ、頭取がさらに金策強請を行なっ たことは騒動の掟に背くというものであった。 西上州の騒動が、中途から「愛憎ニ寄打潰」に なってしまったといわれるのも、同様な事情であ たためだろうと考えられる。

 頭取打殺という悲劇で終った下野の騒動は、 続いて小前騒動を惹きおこしている。下南摩村 の騒動では村内での米金の施与と質地借金の半金 免除を要求し、下沢村の騒動でも質地・質物・借 金問題等をめぐる要求が出されて、何れも1868 (慶応4)年、栃木陣屋・宇都宮出役に迄出訴さ れている。

 これらの上野・下野の農民たちの生産 活動は貿易と深く結びついていただけに、 貿易に基因する経済的影響が大きかった。67年か ら68年にかけて、生糸輸出量は1.6倍に増えた。 その輸出の増大が、却って半プロレタリア層を 窮乏に陥入れていくような商品生産の構造を、 幕末期の輸出向産業はもっていたのである。

隠岐騒動

 上野・下野の騒動の前、3月に、同様に農 兵取り立て令とその中止とに端を発して、 隠岐騒動が起こった。この騒動では、郡代を 退去させ、尊攘派の儒者の指導のもとに、神官・ 村役人らの「自治機関」によって、80日にわたる 「自治」を行なっている。

 隠岐は、1865(慶応元)年に打ちこわし騒動を 経験していたが、それは米価と高利の引き下げを 求めて、隠岐の中心地西郷の町や郷方を襲ったも のであった。それに対して、この68年の隠岐騒動 では、これらの半プロレタリア層の闘争の他に、 「既ニ徳川謀反ノ色顕然」という判断にたった豪 農層の松江藩支配に対する拒否と、民衆の 「就中外夷日々に切迫」しているという危機感や 山陰遺鎮撫使の「年貢半減令」への期待感が絡 みあっていた。ちなみに、新政府は、1月12日に 「年貢半減令」を出している。

 この隠岐の「自治」の担い手であった「同志」 たちが求めていたものは、「国民ノ動揺ヲ取鎮置 〔中略〕御地頭ノ儀ハ、恐れ乍ら朝議を相待ち奉 り候ヨリ外他念御座無く」という言葉に示されて いるように、豪農層と半プロレタリア層の矛盾の 激化の下で、豪農層が連繋し、「天朝」への 期待を頼りに領主と対抗していったものであった。

大和生駒部矢野騒動

 4月、年貢諸役の減免と救銀の給与を求めて 大和生駒部矢野騒動が起こっている。ここでも、 その基底には、「郷中の為沸騰致せし一揆乱妨様 之申立」があり、豪農-半プロレタリア層の対立 に根ざした騒動であった。

美作竜野鶴田藩の騒動

 5月、美作竜野鶴田藩の騒動も強訴から始まった。 ここでも、庄屋層と小前層は完全な乖離状態に あり、その小前層の主体は半プロレタリア層と 考えられる。さらにこの騒動でも、被差別民との 連繋が成立していた。

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