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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(9)

慶応期の一揆・騒動(1)


(今回の教科書は岩波講座「日本歴史13」所収の 佐々木潤之助著「幕末の社会情勢と世直し」です。)

 百姓一揆の発生件数のグラフは1833(天保4)年、 1836(天保7)年に大きな山を描いているが、次の さらに大きな山が1866(慶応2)年に現れている。 そして1866(慶応2)年と1868(慶応4・明治元)年の打ちこわ しを戦術とする激しい一揆多発の間(1867年)には、 「ええじゃないか」騒動が展開されている。 幕藩体制の崩壊を決定づけたこれらの民衆闘争 の前哨戦ともいうべき画期的な国訴が1865(慶応 元)年に行われているが、その国訴からみていこう。

 百姓一揆が非合法の直接行動であるのに対して、 国訴は合法的な民衆運動である。各代官所支配 所村々や郡中村々の範囲ごとに訴願の代表者 (頼惣代)を取り決め、その代表者を通して 要求を訴え出る訴訟型民衆運動である。

 1865(慶応元)年は4月に第2次長州戦争の出兵命令が 下され、緊迫した状勢下にあった。農民にはその 戦争のための御用金・助郷の過重な負担を課せら れた。
 5月、摂津・河内両国1263ヵ村が国訴を起こす。 その国訴は「菜種売捌手挟につき難渋」をめぐって 争われ、ほぼ農民側の要求が通って終った。 この国訴は、三つの点で重要な意味をもっていた。


 農民の側には、「小作人出入問題」をはじめと する内部矛盾を強めつつあったにもかか わらず、村役人=豪農層が国訴の代表として行動を 起こさざるを得なかった。

 農民側の主張によって、最後の幕府権力=特権商人 による統制商品であった菜種についても、その統 制が事実上、解消した。つまり、幕府権力の統制 の最終的な解体と、それ故に国訴の解体をも意味 した。

 その結果、菜種の値段は「天然之相場」となって、 種油値段と菜種値段の高騰がいちじるしくなった。 これは、生産者(農民)と需要者(都市民)との 間の物価問題をめぐる対立をさらに際立たせる ことになった。

 この国訴は、その存在要因の重要な基盤である 身分制的連帯性の動揺に脅かされていた村役人= 豪農層にとっては、その危機への対処として 新たな共同体的連帯を模索するという性格を 持っている。また、幕藩制的市場支配に対する 正面からの対決が幕藩制国家の解体を用意してい ったという性格も随伴している。つまり、畿内で のこの国訴 が1866年の社会情勢展開の基点となっている。 次に、1866年5月からの騒動・一揆のうねりをみてみ よう。

町・宿場での打ちこわし

★大坂の周辺都市・宿場での騒動
 5月1日、摂津西宮での米安売り要求運動
 8日、兵庫湊川の豪商・米商への打ちこわし。 勢一万余と言われている。
 10日、今津への打ちこわし

 1万両の施金と白米1升400文の売払いを実現させ、 さらに1升200文迄の安値払いを実現させた。 (相場は1升500~600文ぐらいか。)

★難波から大坂市中での打ちこわし
 14日に起こっている。被害家数885軒にのぼる大規 模なものであった。難波新地の米屋をおそい、さ らに「弐百文にて米壱升売候」という申触れをし て人びとを動員し、西横堀・道頓堀・上町・天満 ・船場の米屋への打ちこわしを行った。

 この大坂の打ちこわしの主体は、初めは難波新 地等の米商人から食用米を買っていた難波・木津 周辺の畑作農村の農民を中心に、被差別民や大坂 下層民が加わったものであるが、後には絞油業・ 搗米屋・酒屋をはじめとする諸手工業の日雇的な 出稼型奉公人・労務者が中心になっていたものと 考えられている。

 この大坂打ちこわしは一日で鎮まったが、同様の 騒動はさらに西成郡・石川郡の村むらや、 堺・大津・貝塚・佐野と紀州近くにまで多発的 に波及しれいる。

★江戸の周辺都市・宿場での騒動

 5月18日、武蔵荏原郡八幡塚村で「困窮難渋人」が 徒党を組み、村役人層から施金と100文につき二合の米 安売りを獲得している。
 23日、「川崎宿借家人共」が名主に打ちこわし の制裁で強要し、各町の町人と町役人から施金と、 100文につき三合の米安売り(相場は一合八勺) の約束をとりつけている。
 24日、府中新宿の「裏店借家人」らの徒党が 「本町角屋茂七、米買入候而横浜江送ル由〔中略〕 右二付米払底ニ相成、追々高価難義ニ相成候間、 角屋打毀し申すべく相談」し、米価引き下げを要求 している。
 28日、品川宿に同宿の「下男」「店借」「無宿」 らが二ヵ所に分かれて蜂起。質・酒・米屋など 30軒の打ちこわしを行なった。この打ちこわしは、その町並み続きの芝から 赤坂・四谷・鮫ヶ橋での打ちこわしに拡がり、 さらに6月上旬にかけて牛込・神田・本所の各所で も打ちこわしがおこった。

 これらの打ちこわしの主体は各町での一般的な 下層民であり、米一揆的性格が読みとれるが、 打ちこわしの対象が「物持居宅」 「横浜商いたし候者」「米店其外富有」の者という ように有力町人であるところから、棒手振・日雇 などの下層民(=都市前期プロレタリア)が主体 となり、それに下層職人・小商人が加わって、 町会所体制を否定する方向の打ちこわしに発展し ていったものと考えられる。

 この打ちこわしの過程では、「御政事売切申候」 という張札が江戸城門外に張り出されている。 これは都市民が公儀への期待を見限っていたことを 示している。

 以上の1866年5月という時期における江戸・大坂 の打ちこわしの特徴をまとめると


 出稼・日雇的下層民が主体となって展開した。

 一面では物価引き下げ・米金施与という 現実的な欲求に基づいて展開した。

 他面では都市手工業の内部解体の可能性 を強める方向に展開した。

 さらに、混乱によって都市機能を麻挿させた。

 しかし、都市商業・手工業の内部解体は可能性 として萌芽的にあったにすぎなかったし、公儀 への見限りも自ら新たな政治主体を創出するとこ ろまでは深化しえないまま、新たな政治的状況へ の期待にとどまった。それ故にここでもなお、 騒動の物価引き下げの要求が、 都市民(打ちこわしの主体)と 農民(生産者)との対立を持続させる契機となる ほかなかった。

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