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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(8)

天保という時代


 これまでみてきたように、村方騒動や百姓一揆は いかに大規模で激しいものであっても、幕藩支配体 制の枠内での闘争であって、要求が通ったにせよ徹 底的に弾圧されたにせよ、一揆の終息とともに、 一揆の担い手たちは幕藩支配体制を底辺で支える 存在に戻っていった。これに対し,世直し一揆は 幕藩支配体制そのものを否定して、直接の 支配権力である代官所や直接の収奪者である特権 商人・村役人を攻撃対象としている一揆である。 そうした世直し一揆は天保期にその萌芽が育まれ ている。

 天保期(1830-44)をもって明治維新の起点と する論があるようだが、その当否はさておき、 天保期に全国的な商品経済の変動や農民の身分地位 の分解再編など、社会経済面での画期的な転換があ ったことは確かだろう。そしてその社会経済面での 変動とあいまって起こった大飢饉が、民衆の政治社 会意識にも大きな変化をもたらしたと想定できる。 天保期の幕藩制社会の変動と、その変動にともなっ て百姓一揆が世直し一揆へと変貌していく過程を みていきたい。

(今回の教科書は岩波講座「日本歴史12」所収の 大口勇次郎「天保期の性格」です。)

天保期の前提としての社会経済的情況

 まず、一揆が世直し一揆へと変貌していく背景に ある社会経済的情況を簡単に追ってみよう。
 19世紀初頭において、全国各地で高度な発展を遂 げていた農村における商品生産は、農村を中心とし た国内市場の拡大に基礎をおいていたが、それは都 市の需要に大きく制約されていたゆえ、究極的には 都市部の問屋商人に収斂する閉鎖的な流通構造の 下におかれていた。つまり、商品生産者たちは流通 過程から遮断されたまま、製品市場は外部の都市商 人によって支配されていった。

 このような状態での貨幣経済の進展は、農村内の 高利貸金融としての貸地小作関係を促進し、富農 と貧農への農民分解に拍車をかけることとなった。 それが貧農層による世直し一揆の基礎を形成した といってよいだろう。ちなみに1607年と1841年の 本百姓の階層分布を比べると次のようである。 (第一学習社「日本史図表」による。)

       1607年  1841年
大地主(豪農) 3.0%  2.2%
富農      9.1%  10.8%
中農      72.7%  15.2%
貧農      15.2%  60.9%

 こうした社会経済の変動・展開を背景として、すでに 19世紀初頭に、次のような幕藩体制社会の危機を 予想させる事態が生起していた。

 商品生産の展開にもかかわらず、幕府はこの成果 を、年貢という基本的な搾取体系に組み込むことが できなかった。

 流通市場についてみれば、従来中央市 場としての役割を果していた大坂が、その機能を 果しえなくなっていた。

 これまでの長期にわたる低物価時代に終 りをつげ、物価騰貴の傾向が生れていた。

 こうした傾向に、大飢饉が拍車をかけること となった。次に、天保の大飢饉のあらましをみて おこう。

天保の大飢饉

 天保の飢饉は2度にわたって起こっている。

1833(天保4)年
 春先から低温・多雨の気候がつづき、六月には 出羽地方の大洪水、八月には関東の暴風雨などの 災害が重なり、東日本を中心として大凶作をまね いた。この結果、被害のもっとも激しい津軽・秋 田・山形藩等では収穫皆無の村もあって、多数の 餓死者を出したが、東北地方からの廻米に依存す る江戸でも米価の急騰と品不足によって、大きな 社会問題を生じていた。

1836(天保7)年
 気候不順がつづき、前回(1833年)よりも一層 激しくかつ全国的な規模による凶作飢饉となった。 幕領地の総年貢高も、1833年125万石、36年103万 石にとどまり、いずれも1784・86(天明4・6)年 の大飢饉以来の低い数値を示し、その被害の激し さを物語っている。(平年における幕領地の総年 貢高は150万石ぐらいか。)

 自然災害として始まった天保飢饉も、前述の社 会の変貌の過程で、その被害を一層拡大する傾向 にあった。

 商品経済が農村へ浸透し自給農村がしだいに解 体すると、主穀までも購入にたよる農民が着実に 増加し、この結果、下層農民の飢饉にたいする抵 抗力は一層弱くなった。

 領主にとっても主穀の配分が従来にもまして重 要な課題となり、個別領域の利害にもとづいて穀 留などの流通統制が厳重に行われたが、このこと はかえって米穀分配の不平等をまねき、支配錯綜 地では局地的な飢饉を各所に生んでいる。

 全国的にみても、幕府は天明の江戸打毀しの教 訓から江戸の米価安定を重視し、飢饉時にも諸国 に江戸廻米を強制したため、各地の都市で混乱を 呼びおこした。

 幕藩領主はこの飢饉に対して、豪農の財力をも 利用しながらさまざまな救済策を施しているが、飢饉にたいする領主・豪農による救済対策 が充分に機能しない場合には、米穀の流通と分配 の不平等に起因する矛盾対立が一挙に顕在化し、 一揆・打毀しの発生につながっていった。

天保期の一揆・打毀し

 1836年は、春先から米価騰貴のきざしがみえ、 4月には仙台藩渡波町で数百人が終結したのを 初めとして、6月から8月にかけて加賀金沢町、 信濃飯田町、陸前石巻町、越前勝山町、伊豆 下田町、伊勢射和村、相模大磯宿、加賀高浜村・ 小松町、大坂、駿府など全国の農村、在郷町、 城下町で穀商の打毀しが頻発した。

 作柄の不良が明らかとなり米価が急騰を始めた 8月には、甲州郡内地方で数十ヵ村をまきこんだ 騒動が勃発した。郡内地方は畑勝ちの織物生産地 帯として、常時は移入米に頼っていたが、米価 騰貴以来穀留のため著しい食料危機におちいった。 街道の宿駅に集まる交通労働者や、近村の貧農た ちは米穀買占めをはかる穀商の打毀しを始め、や がて街道沿いに西方に波及し、豪農・穀商からの 借米を要求し、米作地帯の甲府盆地に進入し、 各地で豪農の打毀しをつづけ、一揆の本隊は代官 所に向かった。幕府は、代官所や甲府勤番でこれ と対抗したが鎮圧できず、近隣の藩兵の力をかり てようやくこれを抑えている。

 翌9月20日には、三河国加茂郡の山間地帯から 一揆が勃発した。この地域は、畑勝ちの土地であ るうえ、天領と小領主の支配領域が錯綜している ため、飢饉になると領域ごとに行われる穀留に よって、米穀流通は妨げられ、下層の農民の困窮 は甚しく、郡南部の九牛平村に集った貧農たちは、 豪農にたいして米・酒の安売りを訴え、領主には 年貢金納相場の引下げを要求して立上った。 21日に近隣の庄屋宅を打毀すや、つぎつぎと豪農 ・米屋・酒屋を襲い、領域をこえた農民の団結は 三河一帯に波及し、240ヵ村、一万人以上の農民を まきこんだ。この一揆は、旗本の陣屋に要求を認 めさせ、さらに主力は挙母藩城下に向かったが、 ここで尾張・岡崎藩の連合軍の銃火にあい潰滅し た。

 そのごも百姓一揆の勢は衰えず、全国各地に波 及した。なかでも幕領地城での一揆が頻発し、記 録されたものだけでも、この年、加賀・駿河・摂 津・武蔵・越後・羽前・但馬・石見の各地に発生 している。

 郡内や加茂の一揆に代表されるこの時期の 百姓一揆の共通した特徴は次のようである。

 貧農が闘争の中心となり、はじめ豪農や米穀商 への陳情ではじまった運動もやがて実力による打 毀しに発展している。

 支配の入り組んだ地域で発生し、しかも金融や 流通圏の拡大に対応して支配領域をこえて広域化 している。

 これらの一揆は、時期を同じくしていると はいえ、地域が異なればほとんど互いに交流する ことはなく、孤立した事件として終息をみ ている。

 しかし、たとえば加茂一揆において打毀しの農 民が
「今日只今、世直し神々来て現罰を当て給ふ。 観念せよ」
と叫んだといわれるように、「世直し」を標榜し して、未熟ではあるが一種の体制変革幻想の意識を共 有し始めていることが指摘できる。

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