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『続・大日本帝国の痼疾』(19)

「廃藩置県」に寄せた民衆の期待


 貿易商人・甲州屋篠原忠右衛門が、1871 (明治4)年に息子に書き送った手紙には 次のような風聞が書きとめられている。

一、(a)大名方、この度、残らず百姓に下り候旨願い 上げ、御聞き済み、加賀守様を始め、いよいよ、 御高残らず差し上げ、百姓に相成り、其外共一同 の趣。

一、(b)公家様方も、右同様に相成る候由、もっとも、 御役儀も相働き侯程の人才これある候方は、御役 向に御遣いこれあり候、不器用の人は、百姓なり 商人にもなるべき趣

一、右の訳につき、(c)百姓も高持ちの分取りあげ、 村々又は国中人数割り付け相成候由、前風聞これ あり候、右につき、(d)地所高値に質取り候ものこれ あり候はゞ、売り渡し候方、然るべくと見込み居 り候。自然、其の時に至り候ては、誰も買い候も のこれなき事に存じ候。借入金等これあり候上は、 早々、引き渡し置き候方も然るべし。右は、大名 方、右体相成るべきなど、(e)此の前より風聞これあ り候処、左様ニは相成る間敷くなど、諸人申し居 り候えども、当節になり、前評に当り候事候えば、 百姓の分もこれなくとも、申し存じがたく候。 これにより、此の段、内々申し越し候、此の書面 披見の上は、焼き捨て致すべく候。

一、(f)田畑成、又畑成荒地起し候場所、諸国とも、 厳重に御改め相成り候趣、又、田畑の内の家を立 て屋敷同様の取り計らいこれあり候分なども、 御改め相成り候由にこれあり、右については、定 めて当惑もこれあるべし。何れも困り入り候由に これあり。


 質地質物奪還・借金解消・土地の再配分・地主 小作関係の否定など、慶応期の「世直し」一揆 においてみられた土地改革要求の萌芽的形成は、 一般的には、明治初年騒動においても萌芽的形成にとどまり、 明確な土地改革要求には至らなかった。しかし、 野村騒動では、伊予河原淵組の「極々難渋者中」 のものたちから、「不在地主の小作地を藩が買いあ げ、それを貧農に元銀で売り払い、その銀子は 10ヵ年年賦上納にしてほしい」という、有償の 「農地解放」案が提出されるまでにはなってい た。

 つまり、「世直し」一揆のひとつの到達点とし て、騒動の提起した問題の基本的な解決には、土 地改革が必要であるという認識が、半プロレタリ ア・農民の側で自覚されるに至っていたし、それは 世論ともいうべき拡がりをも持っていた。それを示す 資料として佐々木氏は広島県の法令を取り上げてい る。
『そこでは、「徳政平均」「田畠貧富平均」=土 地収公と人別平均による再配分の流言が根強く流 れ、藩・県はその否定に躍起にならねばならなか ったのである。』

 上の忠右衛門の手紙が書かれた年の7月14日に 「廃藩置県の詔書」が出されている。手紙が書き とどめている風聞は、その廃藩置県について のものであり、当時の民衆がそれをどのように受 け取ったかを示している。一般民衆は世直し一揆 で掲げてきた要求を重ねて、「廃藩置県」に期待 を寄せたに違いない。佐々木氏の解説を読んでみ よう。

 (a)は、それを領主的土地所有の解体とうけとっ たことを明示している。

 (b)は、なかんずくその後半部分では、封建的・ 伝統的特権の否定とうけとったことを示している。

 そしてもっとも重要なことは(c)であって、百姓 の所持高=所持地が収公され、「人数割」に再配 賦されるというドラスティックな、土地改革の開 始としてうけとったことを示している。

 そしてそれは、たんなる予想ではなくて、豪農 経営を基礎におく甲州屋にとっては、その危機と して、深刻にうけとられたことであることを、 (d)以下の文章が示しているし、また、そのような 土地改革に至る領主的土地所有解体の風聞が、 早くからあったことを(e)が示している。

 この(c)の風聞にたいして、(d)の処置を息子に 通知し説得しているところに、この期の忠右衛門 の階層的性格と危機感とが示されているのである が、それは別として、ここで重要なことは、この (c)の風聞が、民衆の中にある土地改革への期待と 国家権力の、朝藩体制の危機の克服形態であると もいわれる廃藩置県政策とが結びついて、形成さ れているということである。言いかえれば、この 風聞について、民衆の意識の中に、土地改革への 期待が底流として存在し、強まっていることが確 認されるといってよい。

 「世直し」一揆の土地改革への萌芽的要求とその 期待は、「地租改正」の過程ではっきりと否定され ることとなる。

 半プロレタリアを中核とする「世直し」騒動は、 こうして、71年で終った。武一・福山騒動はその 最後として相応しい騒動であった。はげしい米価 騰貴を背景に、異国人についての流言と旧領主の 引きとめに発したこの騒動は、やがて、「願筋」 のないという騒動の相貌を示して「無分別」の打 ちこわしに展開し、最後には、府中市を中心とす る騒動は「ばんばら踊」に転化してしまったので あった。

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『続・大日本帝国の痼疾』(18)

幕末期の一揆・騒動に現れた民衆の劣情


 生野県の農民騒動には、被差別部落民の解放に 反対するという負の志向をもった要求項目があっ た。これは民衆を分断して支配するという政治権力の常套 手段によって育成定着されてきた民衆の劣情の 発現にほかならない。同じように民衆の劣情の発 現したものとして、ケッタイな要求項目がもう 一つある。1971年武一・福山騒動の「藩主引き 留め」の要求がそれである。これは「異国人に対 する排斥」という項目と一体のものである。

 異国人に対する危機感や恐怖感は、多分に流言・ 風聞がその根拠である。流言・風聞が騒動をまき おこした。福山藩の騒動では、藩主が国元を退去 して「今、我々ガ見放サレナバ、又黒船ガ人々ヲ 取リニ来テモ、防グ事ハ出来ヌゾヤ」という流言 が伝えられている。民衆の中にも、もちろん、日 本の西洋列強による植民地化の強い危機感があっ ただろうが、それは恐怖感にのみ繋がっていた。 同様な例が広島・福山・丹波の他に土佐三郡騒動 (71年12月)でもみられるという。

 この時期、いまだに半植民地化の危機が完全に は払拭されていたわけではない。これらの騒動に 現れた対外国問題について危機意識は、慶応年間 から進んでいないどころか、退歩さえしていた。 この民族間題についての劣情は「世直し」騒動の 負の一面の一つであったが、民衆がこの種の問題 からは排除されていたことの反映でもあったろう。 確かな情報にこと欠く状況では、流言・風聞に左右 されるのも、一面では、いたし方ないことだった。

 今利用している論文「幕末の社会情勢と世直し」 の「はしがき」に、横浜で貿易を営んでいた甲州 屋篠原忠右衛門という商人が、1872(明治5)年に出身地(甲府)の 息子に書き送ったという手紙の一部が紹介されている。

当節当地風聞、(g)日本いよいよフランスへ御渡しに 相成候趣。右につき、江戸御城へフランスの旗た て候由、(h)天子様は五月二十三日、御乗船にて薩州 に御こし、それより外国へ行き候由也。右の段相 違これなきように、人びと申し居り候。(i)当地御支 配村々、地高一筆限り、間数打ち、札たて候義に 候。如何相成るべきや、相判らず、村々役人衆、 心配致し候。 (下線は佐々木氏によるもの。)

 ある意味では時代の最先端にあった横浜という 新開地では、より確かな情報に触れる機会も多か ったと推測できるが、その横浜でもこのような風 聞が流され、半ば信じられている。他の地方にお いては推して知るべしというべきか。

 流言・風聞は単なるデマ・うわさではなく、 民衆の関心・願望の表現という観点からも読み解 くことができる。上の風聞の記述から、当時の民 衆の天皇観や対外国問題(植民地問題)に対する 意識のほどがが、はっきりと読み取れる。 この点については佐々木氏の分析を引用しよう。

 これは全体として、天皇の西国巡回についての 風聞である。ここでもこの巡回の歴史的意義につ いては別のこととしなくてはならない。ただ、 ひと言だけいえば、(h)の記述が、天皇 にたいする何程の感懐をも含んでいないことに注 意しておくべきであろう。それは「民衆の世直し的願望を天 皇に吸いあげ、天皇を解放者・支配者として浸透 させようとした」新政府の「御一新」「王政復古」 イデオロギーによる民心把握が全く成功していな いことを、見事に示しているからである。

 その上でこの風聞について指摘しておかねばな らないことは、この天皇の西国巡回が、民衆の中 に秘められている植民地化の問題と結びつけられ ているということである。しかしながらこのこと が、露わには、植民地化の危機感とは結びつけら れていないということに、さらに注意する必要が あろう。

 或いは、(g)(h)と(i)との関連はそのことを示す のかも知れないが、少なくとも(g)(h)を読む限り では、記述はきわめて淡々としているといえる。 そしてそれは記述のしかたの問題ではなく、風聞 そのものと、それをうけとっている者のうけと り方がそのようなものであることを示しているで あろう。とすると、この風聞は、一面ではすでに、 民衆の間で、植民地化の問題が危機感と切り離さ れて広まっているということをも示していること になる。

 ここにみられる一般民衆の醒めた(というより 私は「健全な」といいたい)天皇観が、どうして 新政府の「王政復古」というイデオロギー(虚偽 意識)に収奪されていったのかという問題が、この稿のテーマの核心 のつもりである。いずれその問題をじかに扱うこ とになるはず…なのですが、どうなることやら、 いまのところ見通しがつきません。

『続・大日本帝国の痼疾』(17)

明治初年一揆・騒動


 1869(明治2)年5月18日 五稜郭開城。戊辰戦争終わる。

 戊辰戦争が鎮静化するとともに、維新政権は、 いまだ不安定ながらもその本質を徐々に明ら かにしていった。それにともなって民衆闘争も 大きく変化していった。1869~71(明治2~4)年 の騒動は数においては漸減しつつあったが、 個々の騒動は激化しつつあり、決して停滞の途を 進んでいたわけではなかった。「殺人・家毎打潰 ・目当次第打ちこわし・火附強盗・無分別の打ち こわし・焼きうち」と表現されるような激しい方 法をとる場合も少なくなかった。次の各地での 騒動が特に激しかったようである。

69年 信州会田・同上田・日向の騒動
70年 信州善光寺・同中野の騒動
71年 三河大浜・福山の騒動

 この騒動の過激化は、推新政権の軍隊出動によ る強圧的鎮圧に対応したものだったことは言うま でもない。

 明治初期の騒動の大きな変化の一つは、新政府 の政策にたいする反対が主題となったことである。 その要求項目は多岐にわたっている。

租税制度反対
 69年 梅村騒動

年貢納入法改善要求
 70年 信州中野騒動・足助騒動
 71年 福島四郡騒動

社倉制度反対
 69年 品川門訴

貨幣問題解決要求
 贋金問題 69年 笠松県、信州、糸魚川の各騒動
      70年 松代騒動
 藩札問題 69年 豊後岡騒動

村役人の廃止・削減
 69年 丹波篠山、信州上田・信州会田の各騒動
 70年 豊後府内騒動

商法会社・商法司政策反対
 69年 豊後岡騒動
 70年 信州松田・中野の各騒動

宗教政策反対
 71年 三河大浜・広島武一騒動

藩主引き留め
 71年 武一・福山騒動

 抵抗の矛先を間違えた情けない騒動もあった。 71年3月に「穢多・非人などの称の禁止令」が出て いるが、71年10月の生野県の農民騒動では、地租改 正反対とともに、「穢多・非人の解放」に反対して いる。

 以下、1869~71(明治2~4)年の騒動を 要求項目別に要約する。

《ほとんど全ての騒動に共通したもの》

年貢減免・救米要求
 69年 笠松県・郡上郡・丹波篠山・摂津三田藩・ 信州上田・豊後岡藩・庄内天狗
 70年 信州松代・同須坂・同中野・三河足助・ 伊予六千石・同野村・豊後府内藩

質地質物受け戻し借金返済の猶予・免除等の要求
 69年 美濃郡上郡・多岐郡養老山下・丹波篠山 ・信州上田・日向・同細島
 70年 伊予野村・同三間・豊後府内藩

米価をはじめ物価引き下げ要求
 69年丹波篠山・信州会田・日向細島・豊後岡藩・ 糸魚川
 70年 豊後府内
 71年 福島四郡騒動。

小作料についての要求
 69年 多芸郡養老山下・丹波篠山藩・摂津東 天川・同三田・同川辺郡・三年信州松代。

《上記以外の要求項目》

高利引き下げ要求
 69年 信州会田・日向細島・伊予野村。

御用金反対
 69年 摂津東天川騒動

村役人入札制要求
 69年 信州上田騒動

町役人罷免・農兵免除要求
 69年 豊後岡藩騒動

村役人不正追及
 69年 摂津東天川・伊予野村騒動

新課税反対
 71年 武一騒動

職人貸銀公定要求
 70年伊予野村騒動

 特異なものとして「異国人に対する排斥運動」 としての騒動がある。
 69年 丹波篠山藩
 71年 武一・福山騒動

『続・大日本帝国の痼疾』(15)

慶応4年~明治初年の一揆・騒動(2)


1868(慶応4)年9月8日、改元されて明治元年となる。

会津五郡騒動

 10月、会津五郡騒動が起こる。大沼→河沼→ 耶摩→南会津郡の順で伝播して、12月まで続いた。この 騒動は「世直し」騒動の代表的事例と言われてい る。

 口火を切ったのは山間地帯の大沼郡滝谷組・野 尻組である。凶作と兵乱によって「小前一統不融 通」となり、「諸家財品々質物等差し出し、当郷 にては取り呉れ候ものこれ無く、余儀なく衣類品 代永井野・高田辺へ持出し、漸く質に入れ、又は 売代になし、飯米買入」れてその日暮しに追われ ていた。一村で53軒のうち「当村五穀迄取続候者」 は7軒にすぎなかったという。10月3日打ちこわ しがはじまる。そのときは既に、出来たばかりの 新政府民政局の支配下にあった。

 この騒動は、年賦金・前々年迄の差引の無勘定、 前年以後の差引の10ヵ年賦、質物の全品返還、 当年の小作立場米の休止という約束を 「有徳のもの」よりとって鎮まった。なお結果と しては、永代地の元金受返し、質地の無金受返し の要求は、「地方出入に相成候ては村々騒動 止む得ざる事」であるからとしてとり下げられ、 一度は成立した差引無勘定も「段々御上納にも 差かかり候処、一統貸滞等相成ざる候ては誠以て 差支難渋」ということで、実現に至っていない。

 こうして、会津世直し騒動は、貸借関係の整理 ・質地取り返し・小作料金免という、半プロレタ リアの小生産者的側面にもとづいて展開した。 それは、この地の農民の大部分が村外の商人・高 利貸によって収奪され、半プロレタリア化してい ることによっていた。そして、この野尻組では、 この騒動の後、11月に入って、民政局に買入米 の高騰を理由に、安石代(周辺国の年貢率の 平均をとって年貢を定める方法)による金納願を 提出している。

 水田地帯河沼郡の騒動ではそれは「欲情相募り、 熟地の田畑、高利の貸金等を以て、一巳の手に入 り村方へ鹿田を相渡し」ていると追及している。 村役人の不正、その不正によって村役人が地主と して成長しいくといったような村落内に おける矛盾の激化が、この騒動の基礎にあった。

 10月19日、猪苗代東西両組の打ちこわし。 この騒動の性格は河沼郡と同様である。

 10月28日、南会津郡下郷一谷(松川・楢原・弥 五島・小出組)の騒動。ここでは「取定」が行な われ、「取定廉書」が作られた。「世直し義一組 切に相足り申候」に始まり、
村役人の「一谷惣立替」(村役人の改選)
村役人関係の帳・証文の取り上げ
郷頭高役の小前同様の負担などの他に、
「質物之儀は、田地は格別、外品は去年より 無利足にて、五ヶ年賦、品物は当辰の内に取戻し 候様相定め、田地一組切に談事次第」
「貸金の儀は当辰の内より無利足十ヶ年賦、但証文の 有無、金高は小書入金に寄らず一様」
とし、最後に、この「一谷御願方」のために、 一組二人ずつ出張することを定めている。 この騒動が封建社会を変革を志向する世直し 一揆としての性格をもっていたことがうかが える。

 なお、この下郷四ヶ組廉書には上記の外に注目 すべき項目として職人手間公定の要求が含まれて いる。それは「一、手間弐割下ケ桶屋」というよ うに、手間賃の引き下げを要求している。これは どういうことなのだろうか。例えば、楢原組のお かれている状況をみてみる。

 「水田村これ無き場所にて〔中略〕宝作と申す事 これ無き所」、「半年は薪ばかり取りて金 子にも相成らず」、「小出、湯の原、大内三ヶ所 へ継ぎ立て仕り〔中略〕人馬相勤め罷り在り」

 つまり、山業によって米を買い入れ、食用と年 貢上納とにあてていた。そして天領時代は役人の 通行も少なく「御年貢の諸入用費等一切御座無」 かったが、弘化年間会津預領となってからは諸入 費が多分になって小前百姓が難渋しているといった 歴史的事情をも持っていた。この状況のもとに、 ここでの世直し騒動は、半プロレタリア的要求を 秘めながらも、なお、自立小農民の維持に基礎を おいていた。その意味で、賃稼ぎ労務者とは対立的な 運動として展開したのだった。

 11月2日から、この一連の会津騒動の最後騒動が 、南会津郡伊南に起こった。村役人の不正追及で始 まり、8日に10項目の要求がまとめられ、農民代表 が22ヵ村の名主や郷頭らと交渉に入り、 「諸証文質物の儀残らず相渡」させ、さらに、 借金返済の低利永年賦、身代金の半分免除、質地 小作料や借金利子の一年間免除、質物利子の一年 間免除、利子の「廿両歩」の協定、等をきめるこ とに成功している。同じ山間地帯であっても、こ こには、よりはっきりと半プロレタリア層の要求 を読みとることができる。

『続・大日本帝国の痼疾』(15)

慶応4年~明治初年の一揆・騒動(1)


 1867年から1868年にかけて、幕藩体制の崩壊は 急テンポに進展していった。その緊迫した政治情 勢を年表で追ってみる。

1867(慶応3)年
  6月22日 京で薩土盟約成立。
 ( 8月    ええじゃないか踊りが流行し始める。)
 10月 9日 岩倉具視、王政復古の意見書を密奏。
 10月14日 徳川慶喜大政奉還を上奏。
 10月14日 長州藩に倒幕の密勅が下る。
 10月24日 徳川慶喜、将軍職辞表提出。
 10月25日 江戸薩摩藩邸、焼き討ち。
 11月12日 島津忠義、兵を率い京へ向う。
 (11月12日 京都町奉行、ええじゃないかを禁止。)
 11月25日 萩藩家老毛利内匠、兵を率いて京に向う。
 12月 9日 王政復古の大号令。幕府廃絶。
 12月25日 三田薩摩藩邸、焼き討ち。

1868(慶応4・明治元)年
 1月 1日 徳川慶喜、諸藩に討薩の出兵を命じる。
 1月 2日 幕府諸藩連合軍1万5千、大坂を出発し 京都へ向かう。
      薩摩藩船平運丸を幕府軍開陽丸・ 蟠龍丸が砲撃。
      幕府諸藩連合軍、伏見に到着。薩長軍と対峙。
      幕府軍別働隊と薩長軍が鳥羽で衝突。戊辰戦争が始まる。
 1月 4日 嘉彰親王が薩長軍本営に入り、事実上 の官軍となる。鳥羽・伏見激戦。
 1月 5日 淀藩、官軍方へ付く。
 1月 6日 津藩、官軍方へ付く。
      徳川軍大坂へ退却。
 1月 7日 徳川慶喜、江戸へ向けて密かに出港。
      新政府、徳川慶喜追討令。
 1月 9日 明治天皇即位。
 1月10日 新政府、徳川慶喜以下の官位を奪い、 幕府領を直轄領と決定。
 1月17日 仙台藩に会津藩追討の勅命。
 1月25日 英米仏蘭伊普6カ国が、日本内戦に対 し局外中立を宣言。
 2月 2日 新政府、徳川慶喜親征の詔を発布。
 2月 6日 新政府、西国22藩に従軍令を発す。
 2月22日 彰義隊、上野山を占拠。
 2月 6日 大総督府、江戸城総攻撃を指令。
 2月12日 高輪薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟、 江戸開城交渉。
 2月14日 西郷隆盛、江戸総攻撃を中止。
 2月14日 天皇、五箇条の誓文を宣言。
 4月 4日 東海道先鋒軍、江戸城に入る。
 4月 7日 徳川慶喜、勅命奉承の奉答。
 4月21日 東征大総督府、江戸入城。


 1868年1月から始まった戊辰戦争は69年10月にま で及ぶ約一年半の内戦であった。この状況のもと で、大規模な農民闘争の口火を切ったのは、上州 の半プロレタリア層であった。

上州野州騒動

 2月、上野緑野郡吉井宿の打ちこわしに始まった 騒動は、拡大するとともに新たな騒動発火点を生 み出しつつ、上州一円に展開した。4月には下野に も波及する。

 吉井宿打ちこわしの直接の契機は、関東取締出 役の農兵隊取立用金令にたいする反対であった。 しかし、騒動の主題は打ちこわし直後から、村役 人・豪農商の不正利得追及と、質地証文借金証文 の破棄、質地質物の返還、米価引き下げ、窮民救 済に移っている。この要求主題の転換が、 この騒動を全上州的規模に展開させる重要な要因 であった。そしてまた、その転換は、騒動の主体 が半プロレタリア層であることによって、可能で あったのである。

 この騒動でも、焼き打ちを手段とする動員強制 が村ごとに行なわれ、その動員と打ちこわしと金 品強請とを正当化する論拠としての「世直し大明 神」が登場する。そしてまた、騒動そのものが、 米価を初めとする異常な物価騰貴によっており、 その物価騰貴が直接に貿易の展開と結びつけられ ていた。つまり、この騒動も排外的な性格を色濃 くもっていた。

 この騒動は、諸藩兵や草莽隊によって鎮圧され たが、4月2日からは下野宇都宮周辺に、4日から真 岡周辺に騒動が始まった。宇都宮周辺の騒動は、 助郷課役の減免要求を機にしているが、上州の場 合と全く同様の要求を主題とし、困窮者救済のた めの「世直し」として動員強制・強請・打ちこわ しを展開した。この騒動で、打ちこわされた岩原 村家主ら6人は、打ちこわしの農民は近村の百姓 であって「組合近所」の者ではないとしている。 ここにも、上州の場合と同様に村外農民による打 ちこわし・強請が示されている。

 また、上州の場合もそのように推定されるが、 下野でははっきりと、騒動の頭取に博徒態の者が 登場している。ところが、それらの頭取は最後の 段階で「一揆仲間」に打ちころされている。それ は頭取が「不正」に強請をして私腹を肥やしたと いうことが露顕したからであった。いったん 質物・借金証文を提出したことで話しがついた 豪農のところへ、頭取がさらに金策強請を行なっ たことは騒動の掟に背くというものであった。 西上州の騒動が、中途から「愛憎ニ寄打潰」に なってしまったといわれるのも、同様な事情であ たためだろうと考えられる。

 頭取打殺という悲劇で終った下野の騒動は、 続いて小前騒動を惹きおこしている。下南摩村 の騒動では村内での米金の施与と質地借金の半金 免除を要求し、下沢村の騒動でも質地・質物・借 金問題等をめぐる要求が出されて、何れも1868 (慶応4)年、栃木陣屋・宇都宮出役に迄出訴さ れている。

 これらの上野・下野の農民たちの生産 活動は貿易と深く結びついていただけに、 貿易に基因する経済的影響が大きかった。67年か ら68年にかけて、生糸輸出量は1.6倍に増えた。 その輸出の増大が、却って半プロレタリア層を 窮乏に陥入れていくような商品生産の構造を、 幕末期の輸出向産業はもっていたのである。

隠岐騒動

 上野・下野の騒動の前、3月に、同様に農 兵取り立て令とその中止とに端を発して、 隠岐騒動が起こった。この騒動では、郡代を 退去させ、尊攘派の儒者の指導のもとに、神官・ 村役人らの「自治機関」によって、80日にわたる 「自治」を行なっている。

 隠岐は、1865(慶応元)年に打ちこわし騒動を 経験していたが、それは米価と高利の引き下げを 求めて、隠岐の中心地西郷の町や郷方を襲ったも のであった。それに対して、この68年の隠岐騒動 では、これらの半プロレタリア層の闘争の他に、 「既ニ徳川謀反ノ色顕然」という判断にたった豪 農層の松江藩支配に対する拒否と、民衆の 「就中外夷日々に切迫」しているという危機感や 山陰遺鎮撫使の「年貢半減令」への期待感が絡 みあっていた。ちなみに、新政府は、1月12日に 「年貢半減令」を出している。

 この隠岐の「自治」の担い手であった「同志」 たちが求めていたものは、「国民ノ動揺ヲ取鎮置 〔中略〕御地頭ノ儀ハ、恐れ乍ら朝議を相待ち奉 り候ヨリ外他念御座無く」という言葉に示されて いるように、豪農層と半プロレタリア層の矛盾の 激化の下で、豪農層が連繋し、「天朝」への 期待を頼りに領主と対抗していったものであった。

大和生駒部矢野騒動

 4月、年貢諸役の減免と救銀の給与を求めて 大和生駒部矢野騒動が起こっている。ここでも、 その基底には、「郷中の為沸騰致せし一揆乱妨様 之申立」があり、豪農-半プロレタリア層の対立 に根ざした騒動であった。

美作竜野鶴田藩の騒動

 5月、美作竜野鶴田藩の騒動も強訴から始まった。 ここでも、庄屋層と小前層は完全な乖離状態に あり、その小前層の主体は半プロレタリア層と 考えられる。さらにこの騒動でも、被差別民との 連繋が成立していた。

『続・大日本帝国の痼疾』(14)

慶応期の一揆・騒動(6)


「ええじゃないか」騒動

 8月4日、三河国宝飯(ほい)郡御油(ごゆ)宿 の「お札ふり」が「ええじゃないか」騒動の初動 と言われている。以後、次の表のように展開され ていった。

ええじゃないか騒動
 これら各地の騒動に共通の運動形態の特徴をまと めると


 神仏の各種の「お札ふり」を契機とし、その 祭りの踊りとして展開した。


 異装・盛装の男女が、それぞれの地方特有の囃 し言葉によって、群をなして踊り歩いた。


 有力豪農商に金品施与を強要した。


 その強要は豪農商家への「おどりこみ」という 制裁の可能性を強くもっていた。

 これらの騒動は、伊勢・京坂以西、とくに山陽筋と四 国では「ええじゃないか」のはやし言葉とともに 展開されたので、「ええじゃないか」騒動と総称さ れているが、美濃以西では「お札祭り」「お札ふり」 「お札様」「おかげ」「チョイトサ踊り」などと 呼ばれている。

 次にこの騒動の内容に立ち入って、その特質 をみてみよう。

(A)
 この騒動は「世直し」あるいは「世直り」観念 とかたく結びついていた。金谷宿をはじめ、 京都・阿波・淡路・伊豆三島等でははっきりと これらの言葉が囃し言葉などに繰り込まれていた。 そして、江戸や広島でも、この騒動は「世直し踊」 「世直り踊」として伝えられている。つまり、 この騒動の急速な拡がりは、「世直し」「世直り」 の観念を、急速に各地に拡げることになった。 そういう意味で、この「ええじゃないか」騒動は 「世直し」運動の一つの形態であると考えられる。

(B)
 しかし、この騒動は単なる願望の祭りや踊りで はない。兵庫津の例をみると

「誠ニ十分之豊作なれバ米価もひたすら安からん ニ、商家の者共利慾二耽り、聊の事を故障申立、 思ふやうに直段安うも相成らざる」

故の騒動であった。ここには、米価は豊凶による のではなく、政治的に、或いは商人の利慾によっ て左右されるのだという、都市打ちこわしの主体者 たちがもっていた政治社会的な理解が引き継がれている。 この理解に「世直し」観念が結びついた思想が、 この騒動の基底をなしている。その意味では、この騒動は、 村方騒動における村落支配体制の改変の希求という 側面と都市打ちこわしがもっていた政治社会的構 造への理解とが結びついた両者の発展形態であるととら えることができる。このことは、この騒動が相対的安定に 入りつつあった時期におこったことと無関係では ないだろう。

(C)
 この「ええじゃないか」騒動は、町・宿方 から起こり、町・宿方を通じて伝播している。 そして、さらに多くは、それらの町・宿から近隣の 農村へと伝播している。しかし、この騒動での要求 は、直接には、富家への米・金の施与の強要で あり、農民的要求はほとんど皆無であった。 つまり、この騒動の主体は下層町民・宿民(都市 前期プロレタリア層)であった。

 以上の特徴を併せ考えれば、この騒動は、相対 的な安定状況において政治的変動から疎外され た町民・宿民を主体とする「世直し」願望の 騒動であるということができる。言い換えると、 この騒動の特色は、農民の諸騒動から切り離され、 かつまた、自ら変革のための指導勢力を生み出し 得なかった都市民による社会運動という点にある と言うことができる。

 幕藩領主の「ええじゃないか」騒動に対する関 心は、もっぱら治安風俗秩序の維持にあった。その 観点からの藩の禁令等によって、騒動の多くは1867 年末迄の間に鎮まっていった。

 しかし、例えば、翌68年1月まで続いた備中井 原・笠岡・倉敷の騒動は、幕府と長州との戦争の 可能性を目前にして、明確に反幕府の政治性をも っていた。とくに内戦の可能性を強 めていたところでは、この騒動は重要な直接の政 治的効果をもっていたのである。

 最後に、「ええじゃないか」騒動には討幕派の 志士の働きかけがあったとし、志士らの謀略説を 説く説もあるようだ。しかし例えば、「お札ま き」の張本人として露見されたものが、摂津有馬 郡では地主の下男であり、丹後加佐郡では小前百 姓でり、名古屋では寺僧であったという。これは、 この騒動の基盤の民衆的広さと深さとを示して いる。自然発生的であったとし ても、志士の働きかけがあったとしても、 やはりその本質は民衆の体制変革の願望から生じた 政治社会的直接行動であった。

『続・大日本帝国の痼疾』(13)

慶応期の一揆・騒動(5)


 出羽村山騒動の後に続いた1866(慶応2)年の 主な一揆・騒動を列記しておく。

8月 木曾騒動
9月 江戸打ちこわし、日光今市宿騒動
11月 伊予大洲島騒動、津山領騒動
12月 播州岩木谷騒動、豊後杵築領騒動

 このうち、津山領騒動は11月24日から翌年2月 まで連鎖的に続いている。

 1867(慶応3)年、いまだ波瀾は含みつつも、 幕藩体制の崩壊は決定的となっていた。しかし、 経済的には、多くの地域で農業生産の相対的な 回復がみられ、相対的な安定状況に入っていた。

 全国的米価変動は、67年春を画期として変化し はじめた。いくつかの地域の米価変動をまとめる と、次のようである。


 武州越ケ谷・江戸・大坂・伊予越智郡の地域で は、米価は低落傾向を見せはじめた。


 広島藩・上州勢多郡などは米価は低落せず、年 末には逆にはっきりといっそうの高騰現象を示し た。このうち、広島藩の米価は、藩が米切手を発 行した67年5月に急騰し、藩札を正金に兌換した 68年6月に急落している。
 しかし、瀬戸内地域の米価変動は、停滞ないし 漸落を示している。


 上州勢多郡の変動は全くの米価高騰を示している。 上州の他の地域においでも、ほぼ同じ傾向である。

 上記のような米価変動に対し、職人・日雇賃銀 は急騰した。江戸大工賃銀は1866年に武州農村の 日雇賃銀は67年に、それぞれ急上昇した。日雇賃銀 の上昇の有無が武州と上州の米価変動の違いに 連動していると思われる。また、武州についてみ れば、日雇賃銀の上昇→その賃 銀水準の上昇をくみこんだ物価の上昇→安定→漸 落という経済的安定効果は、66年における幕府の 米価騰貴にたいする対策の波及効果でもあり、66年 の武州騒動の直接的成果の表れと言えよう。

 66年幕府は米価騰貴にたいする対策として、 大名・商人らの米囲い込みを禁じ、それによ って米流通梗塞を解決するという方針をとった。 この対策によってまず救済されるのは宿・町方で あり、宿・町方の米穀商人と密接に結びついてい た村々であった。幕府にこのような対策をとら せたのは、66年の打ちこわし・騒動に他ならない。

 そして、順調に米価が低落しているという相対的 に安定状況に入りつつあった多くの地方において、 1867年8月から、「ええじゃないか」騒動が始まった 。この騒動にはいくつかの歴史的背景がある。


 「おかげ参り」がその一つであり、これは 「ええじゃないか」とは厳密に区別されねばなら ない。


1865(慶応元)年2月に、大坂・堺に、「残念さん」 への願掛けが流行した。ついで同じ年の5月、東播 州で「稲荷おどり」が流行し、たちまちのうちに 拡がり、男女が異装で踊り廻ったという。この「稲 荷おどり」は「豊年踊り」の変形といわれている。

 『「残念さん」への願掛け』というのは私には 初耳だ。尼崎市のホームページから引用する。

残念さん
 この墓は、長州藩士山本文之助の墓です。 文之助は元治元年(1864)の蛤御門の変のとき、 京都から帰国の途中大物で捕らえられ、自決し ました。死に際に「残念、残念」と叫んだと言 うので、幕府に反感を持つ民衆の同情を受け、 大坂からも墓参りの人が絶えず残念さんと呼ば れるようになりました。

 もう一つ、「青空の底」というサイトに次のような 解説があった。

 この「残念の碑」という呼び方だが、これは幕末 より明治初期にかけて大流行した「残念さん信仰」 によるものと思われる。残念さんとは、奈良吉野 にある天誅組の吉村寅太郎の墓、兵庫尼崎にある 長州藩士山本文之助鑑光の墓、神戸湊川にあった 楠木正成の小祠(後に、この残念さん信仰は明治の 湊川神社の創建により消える)など、無念の最後を 遂げた人々の墓をこう呼び、一願成就の霊験あらた かとされ、多くの人々の参詣を集めた。 森鴎外の小説『堺物語』にも、明治元年にフランス の要求により切腹させられた土佐藩士の墓を 「御残念様」と呼んで、堺に参詣する人が後を断た なかったと書かれている。

 さて、この「残念さん」も「稲荷おどり」も、 当面する政治・社会状況に対する一般民衆の 不安と新たな状況展開への期待との表現である。 そしてその期待を、幕長戦争での長州 の勝利にかけていた。一般民衆の精いっぱいの政 治的変動への関わり方の表現であったといって よいだろう。


 より直接には、この前後の打ちこわし・騒動 の中に、「ええじゃないか」運動に通ずる要素が あった。古くは加茂騒動の始まりが「世直しの祭」 とされていた。また江戸では、9月の「困窮人」 集団運動は、もはや運動としては「ええじゃない か」騒動と紙一重の違いしかなく、むしろ、都市 打ちこわしと「ええじゃないか」騒動とを媒介す る運動だともいってよい。


 1867年の春になると、長州征伐の中止、豊作の 予想、米価の相対的低落という状況のもとで、 平和と経済的安定とを期待・予見した人びとが 踊り囃し始めた。まず京都で、ついで6月6日から 大坂で「豊年おどり」がおこる。この踊りは、 その最初から、「エエジャナイカ」をあいの手と する「エエジャナイカ踊り」でもあった。そして、 これは「エエジャナイカ踊り」として、6月下旬に は、大垣地方にまで伝播したという。 この踊りは、長州軍の上京への期待、それによる 物価引き下げの期待と、抑圧された人間感情を明 らさまな猥語によって吐露する解放感とを、「エ エジャナイカ」という語によって結びつけたもの であった。

 以上のような歴史的諸要素を組み込んで、8月、 「ええじゃないか」騒動が始まる。

今日の話題

「学問のすゝめ」・冒頭の成句について


 古田古代史を学んでみて誤謬に満ちた「定説」 が如何に多いかを知ったが、長い時間をかけて流 布された「誤謬」は容易にはただされ難いことも 知った。

 学問上の問題に限らない。常識といわれる卑近な 知識にも、他人の言説を鵜呑みしたまま正しいと 思い込んだ誤謬が、確かめられることもなく、人か ら人へと伝播していく。それらは通説あるいは俗説 と呼ばれている。私はたくさんの誤った通説・俗説 にまみれていることを何度も思い知らされてきた。

知識上の誤謬をまぬがれる方途はあるだろうか。

「じぶんが手に触れ、確かめたことのない一切を 疑うこと。はんたいに噂、自分が確かめたことのない 一切の言表と、それを流布する者を拒絶すること」 (吉本隆明「言葉からの触手」より)

 すべてを自分ひとりで確かめるなど、私のような非 才にはとてもできない相談である。そこで、 それぞれの分野で出会った「噂、自分が確かめたことのない 一切の言表」を拒絶している信頼すべき人たちの著述 を頼ることになる。

 さて、新聞で次の言表にであった。(1月15日付東京新聞 夕刊、「宇田川民生の 文学碑よこんにちは」)

 天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず

 これは「学問のすゝめ」の序文の言葉で、米国 の独立宣言の一節を引用したもの。

 たぶん、この人口に膾炙した成句についての解説 と同じ知識を持っていて、フンフンと、頷きながら 読む人が多いだろう。あるいは、この説をはじめ て知った人も、その信憑性を疑うことなく、その ままこれを一つの知識として頭の片隅に留め置く ことだろう。そして、時に応じてこれを思い出し、 第三者にこの説を吹聴することがあるかもしれ ない。例えば、通説・俗説はこのこのように 流布していく。

 この成句を福沢諭吉の独創になるものと誤解し ている人も多いだろう。しかし、この成句は 「…といへり」と続けられているので、何かか らの引用文である。諭吉は出典を明らかにしてい ない。しかしまた、宇田川氏が言うように、それは 「米国の独立宣言の一節」ではない。またもうひとつ、 細かいことを言うと、この成句は「「学問のすゝめ」 の序文の言葉」でもない。序文ではなく、初編の 冒頭に置かれた成句である。

 諭吉はアメリカの独立宣言を翻訳している。 その冒頭部分を次のように訳している。

千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ 檄文

 人生已ムヲ得ザルノ時運ニテ、一族ノ人 民、他国ノ政治ヲ離レ、物理天道ノ自然ニ従テ世 界中ノ万国ト同列シ、別ニ一国ヲ建ルノ時ニ至テ ハ、其建国スル所以ノ原因ヲ述ベ、 人心ヲ察シテ之ニ布告セザルヲ得ズ。

  天ノ人ヲ生ズルハ億兆皆同一轍ニテ、 之ニ附与スルニ動カス可カラザルノ通義ヲ以テス。 即チ其通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ 幸福ヲ祈ルノ類ニテ、他ヨリ之ヲ如何トモス可ラ ザルモノナリ。

 諭吉訳の「アメリカ独立宣言」の中にはくだん の成句は見当たらない。そこで、諭吉は 上の青字部分が示す思想の真髄を意訳したのだと いう説が生まれる。ちなみに、諭吉と同時代人の 三叉竹越は次のように言っている。

これ実に仏国革命の大火を起こし、米国独立の大 業を遂げ、十八世紀の光栄を副(そ)えたる万民 同権の理想を、最(い)と平易に日本人の頭脳に 入り易き様いい現わしたるものなりき。

 この説もおかしい。この 「意訳」はもうほとんど独創といってよく、 「…といえり」と付け足すのは不自然だ。やはり、 字句どおりの出典がなければならない。

 そう、字句どおりの出典があるのだった。

「真説・古代史」補充編:『神武東侵』:生き返る挿入歌謡(3) で「和田家文書」という貴重な資料の存在を紹介 した。その「和田家文書」こそあの成句の出典な のだった。以下、古田武彦著「古代史の未来」から 引用する。

 和田家文書が、その「片鱗」を世に現わしたのは、 明治五年のことであった。福沢諭吉の『学問のすゝめ』の冒頭におかれた、 著名の一句がそれである。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、といへり」

 明治・大正・昭和の三代にわたって、この一句は 〝西欧の先進思想″の紹介として理解され、注解さ れてきた。けれども、フランスの「人権宣言」やア メリカの「独立宣言」その他、いずれにも、これと 「同一構文」の文言は存在しない。

 ところが、和田家文書には数多く存在する。

「…よって、わが一族の血には、人の上に人を造 らず、人の下に人を造ることなかりき」 (「安倍安国状」 寛政五年孝季写)

「常にして平等一光の天日に崇め、人をして吾が 一族の生々に人の上に人を造らず、亦人の下に人 を造るべからずといふ祖訓を護ることこそよけれ」 (「祖訓大要」『東日流六郡誌大要』 八幡書店本 安倍国東(くにはる)遺訓。 寛政五年孝季写)

「吾レ学志ナル福沢氏ノ請願ニ耳(ノミ)アラハ バキ(漢字)大要ヲ告ゲケレバ、彼ガ世に著シタ ル一行ニ引用アリ。『学問ノ進メ』ニ題セル筆ニ 『天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ』 ト吾等一族ノ祖訓ヲ記シタル者也」 (「中山秘問帳」 和田末吉、明治20年3月4日)

 これらを一覧するとき、先入観なき人は、次のよ うに考えるであろう。

A
 この特異の成句が、各自独立的に成立し、両者 が偶然に一致した、などということはありえない。 すなわち両者のうち、いずれかが先、他はこれの 引用である。
B
 諭吉の場合、簡明な引用であり、そのため力強 く、いわば〝押しつめられた抽象性″をもつ。 「格言」としての性格だ。
C
 ところが、和田家文書の場合、平安時代から寛 政年間まで、多種多様の文体の中に現われ、それぞ れ各時代各様の時代的意義をになっている。たとえ ば、対大和朝廷、対幕府(朝幕)などだ。
D
 「諭吉から和田家文書へ」という矢印の場合、 あまりにも〝多芸・多能の創作的天才″を前提し なければならぬ。しかし「述懐」の示す末吉、 長作、また喜八郎氏「白文」いずれも、全くそれ と相応しない。
E
 逆に、「和田家文書から諭吉へ」の場合、極めて 単純、かつ可能である。
F
 和田末吉は、和田家文書を諭吉に見せたことを 繰り返し述べている(「述懐」)。最初は『学問 のすゝめ』初巻における「引用」を喜び、後には 結局「諭吉の史観」が従来の歴史像(近畿一元史 観)に終始していることを深く嘆いている。
G
 諭吉の場合、「といへり」とあって、他からの 「引用句」であることは明白であるのに対し、 和田家文書の場合、ほとんど「独立の行文」であ るが、まさに右記「祖訓大要」では「祖訓」の引 用である。

 なお、重要なテーマがある。「人権宣言」や 「独立宣言」の場合、〝神の面前で誓う″形式で のべられていることから明らかなように、その本 質は「キリスト教社会胎内の平等」宣言である。

 一方の和田家文書の場合、「天照大神」中心と 「アラハバキの大神」中心と、二つもしくはそれ 以上の宗教的・政治的・軍事的対立の中で 「それを超えよ」との要請である。この要請こそ、 独自の鋭い文型の真の母体だと私は考える。

『続・大日本帝国の痼疾』(12)

慶応期の一揆・騒動(4)


 1866(慶応2)年の騒動・一揆を続ける。

信達世直し一揆

(念のためインターネット検索で調べた 「信達世直し一揆」の解説と佐々木潤之助著 「幕末の社会情勢と世直し」とでは一揆の日時 に大きな違いがある。ここでは「「幕末の…」 の記述に従っておく。)

  6月15日、全国有数の養蚕地帯である出羽・岩代 の信夫郡・伊達郡で,幕府の蚕種改印令による新課 税反対をきっかけに、物価引き下げ・質利子引き下げ・助郷加重反対 ・名主の不正排除等を要求した騒動が起こった。 最盛時には17万人が参加し、打ちこわしにあった 豪農商は49ヵ村・164戸に及んでいる。

 この打ちこわしはなによりもまず、
「諸品高値の儀は天情と相心得、籾又米穀高直の 処相望居もの」
への制裁であった。
「国家大変見るに忍び兼候儀」「窮民助合のため」
を大義面分とし、 焼打ちという制裁手段を押し出して動員を強制して いる。わらだ廻状(蚕を飼育する「わらだ」の形に似た 一揆連判状〉には
「誠に老若男女手当致し御田地手入安堵の仕度、 左もこれ無く候ては、恐れ乍ら天下の御為に相成 ず」
と記されていた。

 打ちこわしのさいには、頭取は次のように下知 している。

「やあやあ者共火の用心を第一にせよ。 米穀は打ちちらすな。質物へは決して手を懸けま じ。質は万人の物成るぞ、又金銭品物は身につけ るな。此働きは私慾にあらず。是は万人のため成 るぞ。此家の道具は皆悉く打こわせ。猫のわんで も残すな」

 しかし、この頭取の下知に示されている理念も 騒動の展開とともに事実上崩れていった。

「世上の悪党原紛れ込み諸国の浪士或は盗賊かた りざまのたぐひ、又は宿なし乞食非人に至る迄入 交し事成ば悪人原大勢に成り、頭取の申事も 不聞」

 それにもかかわらずこの騒動は農民の要求が 通って終った。
「打こわされる程の家には糸のなき家はなし。 大家には買入の糸、取質の糸五十箇三十箇又は 小家は三箇五箇位は有」「金子紛失致せし事は 七千両五千両二千両又は五百両八百両と身上相 応に盗取られ」
という記録に、打ちこわされた豪農層の資産・蓄 財のほどがよく示されている。

 この騒動は6月20日に終るが、11月には福島藩で 小作料減免要求のわらだ廻状6通が町中に触れら れた。しかし、こちらは未然におさえられている。

出羽村山騒動

7月、天保期以降続いた村方騒動の展開を底流として、 出羽村山郡松前領山内7ヵ村から騒動がおこった。 兵蔵騒動とも呼ばれている。

 信達の騒動の昂揚している有様が伝えられてい る中で、沢渡村組頭兼年寄・与左衛門にたいする 不意の打ちこわしから、騒動は始まった。 与左衛門への打ちこわしを働いた者は、川原子・ 野川・観音寺・関山の農民たちであった。もちろん、 与左衛門にとっては、「悪党共其外見知らざるもの 大勢」であった。

 これを初動に騒動は、米価騰貴を理由に、山間地→平野 部→在町へと五日間にわたって展開する。 「儀兵を超し窮民を救」うための「天下儀士」と いう署名を行い、信達騒動と同様、焼払いの制裁 で動員を強制している。一揆は豪農に施金・施米・ 米価引き下げ等を強要し、これに応じない観音寺 村名主とその分家を打ちこわし、陣屋のある東根 村へと向かう途中で鎮圧された。

 観音寺村はちょうど村方騒動の最中であったが、 そこで打ちこわしを働いたものは、多く川原子・ 沼沢・万善寺・沢渡・関山・観音寺村の農民たち であった。ただし観音寺村の農民たちは名主と異 なる字名に住む者たちである。この三件の打ちこ わしによって名主らは、衣料・道具類を「紛失」 し、また、年貢関係を主とする帳簿類を破却され た。

 この騒動の主体は、仙台などへの他領出稼=出稼 型奉公人・労務者であり、無高・日雇・土方 ・髪結・木挽などを含んでいた。 例えば、関山峠の下にある関山村では、その大部 分が出稼・賃稼に従事しているとみられる205軒の 農民のうち、少なくとも34軒がこの時点に おいて出稼に出て不在であり、逆に、この時点で たまたま出稼や貸稼に出ていない家の93%余が この騒動に参加している。

 この騒動の頭取は兵蔵・沼沢村十吉・川原子 村太助であった。兵蔵は博徒であるといわれ、こ の他に、東根北組の博徒吉蔵も頭取であといわれ ている。騒動の初期においては、明確に「悪党躰 之者三人大勢を引立」とある。 この三人はともに、騒動が鎮圧されてのち出奔 している。兵蔵は消息不明、十吉・太吉は仙台か ら松前や奥羽境へと逃亡したと言われている。

『続・大日本帝国の痼疾』(11)

慶応期の一揆・騒動(3)


(「武州騒動」の続きです。)  一般に、全集もの・講座ものでは配本時の新刊書 に「月報」のようなものが付録されている。岩波講 座「日本歴史」にも「月報」がついていた。購入時、 それは私には積読本だったので、もちろん「月報」も読ん でいない。

 いま、その講座の13巻を利用しているわけだが、 13巻の「月報」の目次をながめていたら、はるか昔 に勤めていた高校の同僚の名前に出会った。日本史 を担当していた森安彦さんという。私はその高校 をまもなく転出したが、その後、森さんも大学の 先生になってその高校を転出したという噂を聞い ていた。「月報」では『「世直し一揆」の虚実』と いう論文を書いている。いま私がやっている学習 と重なるテーマを研究課題にしていおいでだったこ とを知ってうれしくなって、その論文をさっそく 読んでみた。なんと、「武州騒動」についての論文 だった。

 前回、武州騒動について佐々木氏が提出していた 二つの疑念を紹介した。一つはその騒動の性格を 「世直し」とすることであり、もう一つはその騒動 の「頭取」についての記録が不正確で曖昧である点 だった。この二点について森さんはどう考えている のか。後者の頭取の記録の不正確さ・曖昧さを、 森さんは真の頭取を護るための工夫だったのでは ないかという仮説を提出している。それがこの論文 のテーマであった。前者については、テーマ外のこ とでもあるし、「月報」掲載の小論ゆえに、その理 由は述べられていないが、一貫して武州騒動を「世直し 一揆」と呼んでいる。

 森さんは何点か著書を著している。上記の論文 が著書のどれかに収録されているかどうか知る由も ないが、もしもどこにも収録されていない論文ならば、 私にはとても面白かっただけに、埋もれさせておく のはもったいないと思った。全文を紹介しよう。 (古文書から引用部分は、いままでと同じように、 私の判断で読み安いように書き変えている部分が ある。間違いがあれば、全て私の責です。また 森さんが明記している出典の注記は省いた。全て 読みやすさを優先した。)


「世直し一揆」像の虚実  森  安 彦



 一揆はいうまでもなく非合法闘争である。それ故、 民衆は自分たちの一揆の指導者(頭取)やその組織 が、支配者に知られることを警戒し、さまざまな工 夫をこらした。

 慶応2(1866)年6月13日に武蔵国秩父・高麗・多 摩の三郡の山村の一部から連携して、同時蜂起し、 同月19日上武国境ぞいを最後に幕藩連合正規軍・ 農兵などの一斉砲火の前に潰滅する「武州世直し一揆」 は、そのわずか七日間という短期間に、武蔵国14 郡・上野国2郡を席巻し、現在判明するものだけで も、450軒余りの豪農・村役人・代官陣屋などを打 ちこわした。この一揆のほぼ全域にわたる史料調 査によって編集した『武州世直し一揆史料』一巻・ 二巻を繙くと、民衆の抵抗と創意に驚かされるの である。

 秩父郡上名栗村や多摩郡下成木村と共に一揆蜂 起の震源地となった秩父郡吾野谷の坂石町分では、 打ちこわし直後の7月、関東取締出役に提出した 始末書控の末尾につぎの付記がある。

 この「始末書」は坂石町分の名主差添人の貞助 が「案書」を作成したものだが、
「始末不都合且は品により候ハ、近村之難渋ニも 相なる可し、万一事実相吩り候様至り候にては却 って大変之義ニも相成る可き哉之由内々承り候間」
村役人共がよく相談して、内々貞助方へ申入れた ところ、
「全く差障りニ相成候様子之始末書二これ無く」
「決して心配致さず候様ニとの挨拶」
であり、
「全ク前書之通り取巧候始末書差上候事ニ候」
とある。これによって、この種の「始末書」はむし ろ、真相を隠蔽するための手段となっていることが わかる。

 「世直し一揆」の全体像についても民衆の側から する虚像が創られ、それが、また民衆の抵抗でもあ るのである。

 この一揆については、一揆直後から絡繰(からく り)人形や「くどき」節という形式で民衆の間に 一揆像が流布されていった。

 慶応2年8月23日「山口観音ニて打毀し之からくり 見せ候由」
という記録がある。一揆潰滅の二ヵ月後には所沢の 山口観音境内で打ちこわしの顛末が絡繰人形で興行 されているのである。どんな内容のものか知るよし もないが、「くどき」については、さいわい 「新版打こわしくどき」が存在している。この 「くどき」から民衆の間に流布していった「世直し 一揆」像をうかがってみよう。

「こんどサヱめづらしそうどうばなし、国ハむさしの ちゝぶ(秩父)の領に、音ニ聞へし子(ね)の ごんげん(権現)の、下の村々十八 ケ村、其やうちにて其名も高き、なごりやつ(名栗谷) とて大そん(村)なるが、ここに杉山儀左衛門こそ ハ、凡特高八百石よ、ほか にありかね(有金)六千あまり、当時諸色の高直ゆ へニ、村のこんきう(困窮)あわれであれバ、 近所村々ひんきう人へ、しよぢ(所持)の金 ぎんミなほどこして、今ハぜひなく村一同を、 たく(宅)へあつめてそうだん(相談)いたし、 当時しょこくの商人共が、五こくこゑき(五国交易) するとのことよ、これがつのればわれわれ迄が、 すへハうへじに(飢死)することなれハ、いっそ 是より命ニかけて、あまたもの持ミな打こわし、 諸色下直ニいたさんものと、云々そうだんとりき ハまりて、右の杉山そうたいしょう(総大将)で、 先ニたてたる其おゝはたに、わん(椀)としゃくし (杓子)の扨うちちがい、下ニ世直シ大明神と、 書シはたもてミな一よう(一様)に、凡人ずハ三 千計り、寅(慶応二年)の六月十一日ニ、人ず (人数)そろへてミなくり(繰)出す、きかま竹 やり大のこぎりで、われもわれもとさきがけい たし、あがのやつ(吾野谷)へと打いでまする、 おゝめはんのう(青梅・飯能)はじめといたし、 扇まちや(扇町屋)ニくろす(黒須)の村よ、 其やざいざい(在々)なミ打こハすヤンレへ」

 この「打こわしくどき」は、世直し一揆の終焉 した直後に創作されたものと推定できるが、一揆 の発端が杉山儀左衛門に仮托された豪農指導の 一揆譚として構成されているところに特色がある。 これと同じプロットをもつものは「秩父領飢渇一 揆」がある。その一部を比較してみると、

「秩父領あが野名栗谷(や)つの内、成瀬村にて 字(あざな)杉山大じん儀左衛門と云者頭取の由、 持高五千石余の富家にて……儀左衛門は夫(それ) より我が家へ数ヶ所火を付れば、光々焔々と燃上り て、旧来の大家一時の烟りと成たり。……はや此 里に用はなし、疾(と)く出べし」と云ながら… …、どつと一同鯨波(とき)の声を上たり。 時に惣勢六万余人と聞えたり」

 作者は鴻巣宿の寺子屋師匠である北岡仙左衛門 であるといわれているが、物語としては大変面白 くできているが、それだけにフィクションや誇張 が目立つものである。吾野・名栗谷の内には成瀬 村という村は存在しないし、儀左衛門はもとより 架空の人物である。しかし、大事なことは、なぜ このようなフィクションが創られたかということ である。

 この「武州世直し一揆」では、儀左衛門のよう な豪農層こそが、実は一揆勢の攻撃目標であるに も拘らず、むしろ彼らを義民型の一揆指導者に仕 立てているところに民衆とそれに加担する知識人 の痛烈な逆説が秘められているといえないだろう か。事実、打ちこわしの対象となり、施米・施金、 質地・質物の返還を要求されている豪農が一揆の 指導者に仕立てられている場合もあるのである。

「慶応二丙寅夏打毀国乱之始末武州入間郡飯能 在、鳥居大臣と申人、此度米穀諸色格外高直ニして 山方ならび市中在村々民家一同難渋ニ付き、諸人 助之為右鳥居大臣壱人ニて金子二千両施行ニ差 出し、付いては飯能宿ニて二千両借用致し度き由、 右大臣初メ掛合ニ及候処一円取り合わず断ニ相成、 之により一同立腹致し直様引取六月十三日夜九ツ 時螺貝吹立人足相集メ其勢凡五百人余り其夜之内 飯能河原ニ押出し、……」

 この鳥居大臣というのは、実は、一揆発祥地で ある上名栗村組頭鳥居源左衛門のことであり、彼 は世直し騒動の最中、村内の小前農民層から金 5000両の施金を要求され、一揆解体後には「窮民 救出金」として250両を提供したのである。 もちろん、上名栗村の中でももっとも激しく 「打こわし」勢と対立した一人である。その彼を 一揆発端の指導者に仕立てるという意図は一体何 であろうか。むしろこれは、民衆サイドから打ち こわしの真実を隠蔽し、自分らの本当の指導者を 隠すために豪農を利用したのではないだろうか。

 では、真実の一揆の指導者たちは、だれであった のだろうか。

 蜂起発端の上名栗村には、指導者として捕えられ た百姓紋次郎・同豊五郎がいる。紋次郎は大工で、 豊五郎は桶職人であったという。彼らの持高は 紋次郎が一斗六升一合(反別三畝一五歩)、 豊五郎が六升五合一勺(反別二八歩)という極零 細土地保有者層である。慶応3年8月22日の判決文 によると、紋次郎は死罪、豊五郎は遠島となって いるが、すでに両人共牢死していた。多摩郡下成 木村下分の組頭喜左衛門は、多摩郡の指導者とし て活躍したが、捕えられ、慶応2年8月23日には中 追放(実際は人足寄場へ収監)、田畑屋敷は闕所 処分となった。持高一石一斗七升三合三勺 (反別一反八畝一〇歩)であるが、その持高の七 割強が質入地となっていた。

 「世直し一揆」の真実の指導者は決して義民に はならなかった。この一揆を闘った民衆は、幕藩 軍隊や農兵の砲火の前に潰滅していったのである。 引取手のない無惨な死体が転々とし、それは、
「芋ぴつ之ようの穴をほり所々えほりいけ、大悪 人と申せいさつ(制札)を立候由」
という有様であったのである。今でも、多摩の豪 農の屋敷の一隅には、そのいわれも忘れられた小 さな祠があり、その下には義民にならなかった民 衆の屍が横たわっているのである。


『続・大日本帝国の痼疾』(10)

慶応期の一揆・騒動(2)


 都市で火口を切った打ちこわしは同時的多発的に 各地に伝播していった。いくつか拾い出してみる。

武州騒動

 6月13日、武蔵(秩父郡名栗谷・我野谷・成木谷 諸村)で始まった飯能町打ちこわしは、またたく 間に武蔵14郡・上野2郡に拡がり、豪農商450軒を 打ちこわしたが、19日には、諸藩兵と農兵とによって 鎮圧された。武州騒動と呼ばれている。

 武州騒動の主体は、半プロレタリア(日雇取・小作 農民など)を中核に、厄介・召仕・下人、町方の 借家・日雇・職人・無宿・僧侶・神官・浪人等 社会的隷属者たちで構成されていたといわれる。

 いま教科書として利用させてもらっている 佐々木潤之助著「幕末の社会情勢と世直し」は、 この騒動についてのこれまでの研究から留意点を いくつかあげているが、それによると、この騒動の 真相は未だ混沌としている部分があるようだ。 まず確定的に言えることを確認しておこう。


 この騒動は、物価騰貴は横浜貿易がその要因である という判断に基づいて、横浜と横浜と結びついて 貿易流通の脈筋をなしている町・宿と商人に対する 徹底的な打ちこわしを一つの内容としている。

「横浜村商人は大小に限らず、施行に拘わらず、 捨置がたく、打潰し候」


 この騒動は、施金・施米、質物・質地の無償返 還、米穀他の低値放出などを直接の要求としている が、とくに、それらの要求が在町を含む町・宿商人 と周辺農村との関係としてとらえられている。


 この騒動は、領主が暴力的鎮圧にかからない 限り、領主への反抗を主旨としていない。

「凡徒党は窮民救ひのためを趣意とする」

川越藩と対決した時も、
「百姓は百姓だけの趣意にて、世の見せしめに不 仁の者をこらすのみ、敢て人命をそこなふ得物は 持たず、当然の利解に候はゞ、一言の内にも縄を も請て、裁許を待の心得はあれ共、未其人ニ逢は ず、只無法に武器を用ひておどし候共、斯まとま りたる人気、中々以して落入申さず」
と主張している。

 このことは動員令にも貫かれている。

「尤銘々得物之義刀脇差等決して持参 致間敷候、但四ツ子鎌鋸様之もの持参致す可く候」


 この騒動は、そのあとに、各地の村むらに 農民たちの抵抗の芽を生みつけていった。 上名栗村では、15日に帰村した農民たちが、直ち に、施金、質物無償返還、質証文無効、貿流地や 山畑の元金返済による即時返還を求めて村方騒動 を起こしているし、他の村でも同様の動向がひろ まっている。


 この騒動は、前述のように豪農に対する攻撃と ともに、町・宿場への攻撃を一つの目標としている が、その町・宿場においても、下層町人・職人らの 闘争が展開していた。

 さて、最後にこの騒動の性格と頭取につ いての記述だが、この2点についてはその真相は 相当に混沌としている。

 まず、この騒動の性格について、佐々木氏はお およそ次のように記述している。


 この騒動についての現在知りうる記録は四点 ある。それらの記録は、この騒動が「世直し」 関係の旗幟を立てたとしているが、この騒動を 「世直し」一揆とするには疑問がある。その理由は

(1)これらの記録が記す頭取は、すべて不正確ない し誤りである。だから、他の記録もそもままには 受け取れない。
(2)この騒動への農民の参加強制が、「打こわし 一条に付」いての、「打こわし連中」による動員 であるところよりみても、この騒動が「世直し」 を行動規範としたとはいえないものと考えられる。

 上のように述べながらもまた、次のように続けている。

 しかし、同時にこの騒動が、少なくとも、多摩郡 小野路・本宿村や秩父郡大宮郷などでは、「世直し」 としてうけとられていたということも、右の四記 録から明らかである。

 そしてさらに、この騒動を「冷静にみていた者」 (たぶん知識人…管理人注)の多くは「この騒動 を「世直し」とうけとっていた。」として、その 「冷静にみていた者」 たちが記録した文言をいくつは引用している。

「(この騒動は)独り国民ノ罪ト為シ難シ、為政 ノ官吏モ亦罪スル所アラン歟」
「(打ちこわされ た者も)是レ打潰ルへキ悪ノ積ルニ因ルナリ」
「民害ヲ除ヲ以テ政務ト為サハ国家自ラ無事ナル へシ」(伊古田純道)

「鳴呼平常貧民を恤(うれ)えず、一己の利欲を 事とし迷利不仁の奸商共、天道の応報其疾き事芦 葉ニ猛火を嚢(つつみ?)し如く、後来是を以宜 く鑑誡(かんかい)すべし」
「(この騒動は横浜の)奉行所様え罷出国刑を蒙 りたし」
「打毀しいたし候とも食物の外金銀銭は勿論、 外品等決して奪取りまじき、若し相背き候ものは、 仲間内にて斬首致す可きと盟約いたし」 (小島詔斎)

 しかし一方、大方の豪農商にとっては、 一揆が「暴徒」であったことは言うまでもない。 新徴組士でもあった豪農根岸友山は次のように 書き残している。

「(米価は)天の成る所…只今降参いたし村方 のもの先に立って隣村打毀し候節は、後日御公 辺より何様之御咎仰せ付けられ候哉も計り難し、 かつは打毀しいたし候もの共生界之恨後世ニ 至り申伝へニも相成候儀ニ付、是非共防方より 外ニ思案これ無し」
「最早君臣父子上下之差別無き様近かる可き歟 と思われ候」

 次にこの騒動の「頭取」については、先に示した ように佐々木氏は「現在知りうる四点の記録が記す 頭取は、すべて不正確ないし誤りである。」 と言っているが、さらに次のように書いている。


 この騒動の頭取は、名粟村の大工・桶屋である が、諸記録には、この他に諸説がある。この騒動 そのものも多発的多元的であるので、頭取もさま ざまであった。

例えば、上州藤岡に向かった騒動勢には「頭分と 申し候は凡三十人程」であるという。そして、 これらの頭分は、例えば、桶川宿では二人の左官 であり、多摩郡二俣尾村では持高二石で家族十人 を「農間材木伐出し日雇稼」で養なっている百姓 槙太郎らであり、多摩部下成木村では組頭ではあ るが所持する畑四筆のうち三筆を「引当貸地に入 置」いている小作農であった。

(「武州騒動」、次回に続く)

『続・大日本帝国の痼疾』(9)

慶応期の一揆・騒動(1)


(今回の教科書は岩波講座「日本歴史13」所収の 佐々木潤之助著「幕末の社会情勢と世直し」です。)

 百姓一揆の発生件数のグラフは1833(天保4)年、 1836(天保7)年に大きな山を描いているが、次の さらに大きな山が1866(慶応2)年に現れている。 そして1866(慶応2)年と1868(慶応4・明治元)年の打ちこわ しを戦術とする激しい一揆多発の間(1867年)には、 「ええじゃないか」騒動が展開されている。 幕藩体制の崩壊を決定づけたこれらの民衆闘争 の前哨戦ともいうべき画期的な国訴が1865(慶応 元)年に行われているが、その国訴からみていこう。

 百姓一揆が非合法の直接行動であるのに対して、 国訴は合法的な民衆運動である。各代官所支配 所村々や郡中村々の範囲ごとに訴願の代表者 (頼惣代)を取り決め、その代表者を通して 要求を訴え出る訴訟型民衆運動である。

 1865(慶応元)年は4月に第2次長州戦争の出兵命令が 下され、緊迫した状勢下にあった。農民にはその 戦争のための御用金・助郷の過重な負担を課せら れた。
 5月、摂津・河内両国1263ヵ村が国訴を起こす。 その国訴は「菜種売捌手挟につき難渋」をめぐって 争われ、ほぼ農民側の要求が通って終った。 この国訴は、三つの点で重要な意味をもっていた。


 農民の側には、「小作人出入問題」をはじめと する内部矛盾を強めつつあったにもかか わらず、村役人=豪農層が国訴の代表として行動を 起こさざるを得なかった。

 農民側の主張によって、最後の幕府権力=特権商人 による統制商品であった菜種についても、その統 制が事実上、解消した。つまり、幕府権力の統制 の最終的な解体と、それ故に国訴の解体をも意味 した。

 その結果、菜種の値段は「天然之相場」となって、 種油値段と菜種値段の高騰がいちじるしくなった。 これは、生産者(農民)と需要者(都市民)との 間の物価問題をめぐる対立をさらに際立たせる ことになった。

 この国訴は、その存在要因の重要な基盤である 身分制的連帯性の動揺に脅かされていた村役人= 豪農層にとっては、その危機への対処として 新たな共同体的連帯を模索するという性格を 持っている。また、幕藩制的市場支配に対する 正面からの対決が幕藩制国家の解体を用意してい ったという性格も随伴している。つまり、畿内で のこの国訴 が1866年の社会情勢展開の基点となっている。 次に、1866年5月からの騒動・一揆のうねりをみてみ よう。

町・宿場での打ちこわし

★大坂の周辺都市・宿場での騒動
 5月1日、摂津西宮での米安売り要求運動
 8日、兵庫湊川の豪商・米商への打ちこわし。 勢一万余と言われている。
 10日、今津への打ちこわし

 1万両の施金と白米1升400文の売払いを実現させ、 さらに1升200文迄の安値払いを実現させた。 (相場は1升500~600文ぐらいか。)

★難波から大坂市中での打ちこわし
 14日に起こっている。被害家数885軒にのぼる大規 模なものであった。難波新地の米屋をおそい、さ らに「弐百文にて米壱升売候」という申触れをし て人びとを動員し、西横堀・道頓堀・上町・天満 ・船場の米屋への打ちこわしを行った。

 この大坂の打ちこわしの主体は、初めは難波新 地等の米商人から食用米を買っていた難波・木津 周辺の畑作農村の農民を中心に、被差別民や大坂 下層民が加わったものであるが、後には絞油業・ 搗米屋・酒屋をはじめとする諸手工業の日雇的な 出稼型奉公人・労務者が中心になっていたものと 考えられている。

 この大坂打ちこわしは一日で鎮まったが、同様の 騒動はさらに西成郡・石川郡の村むらや、 堺・大津・貝塚・佐野と紀州近くにまで多発的 に波及しれいる。

★江戸の周辺都市・宿場での騒動

 5月18日、武蔵荏原郡八幡塚村で「困窮難渋人」が 徒党を組み、村役人層から施金と100文につき二合の米 安売りを獲得している。
 23日、「川崎宿借家人共」が名主に打ちこわし の制裁で強要し、各町の町人と町役人から施金と、 100文につき三合の米安売り(相場は一合八勺) の約束をとりつけている。
 24日、府中新宿の「裏店借家人」らの徒党が 「本町角屋茂七、米買入候而横浜江送ル由〔中略〕 右二付米払底ニ相成、追々高価難義ニ相成候間、 角屋打毀し申すべく相談」し、米価引き下げを要求 している。
 28日、品川宿に同宿の「下男」「店借」「無宿」 らが二ヵ所に分かれて蜂起。質・酒・米屋など 30軒の打ちこわしを行なった。この打ちこわしは、その町並み続きの芝から 赤坂・四谷・鮫ヶ橋での打ちこわしに拡がり、 さらに6月上旬にかけて牛込・神田・本所の各所で も打ちこわしがおこった。

 これらの打ちこわしの主体は各町での一般的な 下層民であり、米一揆的性格が読みとれるが、 打ちこわしの対象が「物持居宅」 「横浜商いたし候者」「米店其外富有」の者という ように有力町人であるところから、棒手振・日雇 などの下層民(=都市前期プロレタリア)が主体 となり、それに下層職人・小商人が加わって、 町会所体制を否定する方向の打ちこわしに発展し ていったものと考えられる。

 この打ちこわしの過程では、「御政事売切申候」 という張札が江戸城門外に張り出されている。 これは都市民が公儀への期待を見限っていたことを 示している。

 以上の1866年5月という時期における江戸・大坂 の打ちこわしの特徴をまとめると


 出稼・日雇的下層民が主体となって展開した。

 一面では物価引き下げ・米金施与という 現実的な欲求に基づいて展開した。

 他面では都市手工業の内部解体の可能性 を強める方向に展開した。

 さらに、混乱によって都市機能を麻挿させた。

 しかし、都市商業・手工業の内部解体は可能性 として萌芽的にあったにすぎなかったし、公儀 への見限りも自ら新たな政治主体を創出するとこ ろまでは深化しえないまま、新たな政治的状況へ の期待にとどまった。それ故にここでもなお、 騒動の物価引き下げの要求が、 都市民(打ちこわしの主体)と 農民(生産者)との対立を持続させる契機となる ほかなかった。

『続・大日本帝国の痼疾』(8)

天保という時代


 これまでみてきたように、村方騒動や百姓一揆は いかに大規模で激しいものであっても、幕藩支配体 制の枠内での闘争であって、要求が通ったにせよ徹 底的に弾圧されたにせよ、一揆の終息とともに、 一揆の担い手たちは幕藩支配体制を底辺で支える 存在に戻っていった。これに対し,世直し一揆は 幕藩支配体制そのものを否定して、直接の 支配権力である代官所や直接の収奪者である特権 商人・村役人を攻撃対象としている一揆である。 そうした世直し一揆は天保期にその萌芽が育まれ ている。

 天保期(1830-44)をもって明治維新の起点と する論があるようだが、その当否はさておき、 天保期に全国的な商品経済の変動や農民の身分地位 の分解再編など、社会経済面での画期的な転換があ ったことは確かだろう。そしてその社会経済面での 変動とあいまって起こった大飢饉が、民衆の政治社 会意識にも大きな変化をもたらしたと想定できる。 天保期の幕藩制社会の変動と、その変動にともなっ て百姓一揆が世直し一揆へと変貌していく過程を みていきたい。

(今回の教科書は岩波講座「日本歴史12」所収の 大口勇次郎「天保期の性格」です。)

天保期の前提としての社会経済的情況

 まず、一揆が世直し一揆へと変貌していく背景に ある社会経済的情況を簡単に追ってみよう。
 19世紀初頭において、全国各地で高度な発展を遂 げていた農村における商品生産は、農村を中心とし た国内市場の拡大に基礎をおいていたが、それは都 市の需要に大きく制約されていたゆえ、究極的には 都市部の問屋商人に収斂する閉鎖的な流通構造の 下におかれていた。つまり、商品生産者たちは流通 過程から遮断されたまま、製品市場は外部の都市商 人によって支配されていった。

 このような状態での貨幣経済の進展は、農村内の 高利貸金融としての貸地小作関係を促進し、富農 と貧農への農民分解に拍車をかけることとなった。 それが貧農層による世直し一揆の基礎を形成した といってよいだろう。ちなみに1607年と1841年の 本百姓の階層分布を比べると次のようである。 (第一学習社「日本史図表」による。)

       1607年  1841年
大地主(豪農) 3.0%  2.2%
富農      9.1%  10.8%
中農      72.7%  15.2%
貧農      15.2%  60.9%

 こうした社会経済の変動・展開を背景として、すでに 19世紀初頭に、次のような幕藩体制社会の危機を 予想させる事態が生起していた。

 商品生産の展開にもかかわらず、幕府はこの成果 を、年貢という基本的な搾取体系に組み込むことが できなかった。

 流通市場についてみれば、従来中央市 場としての役割を果していた大坂が、その機能を 果しえなくなっていた。

 これまでの長期にわたる低物価時代に終 りをつげ、物価騰貴の傾向が生れていた。

 こうした傾向に、大飢饉が拍車をかけること となった。次に、天保の大飢饉のあらましをみて おこう。

天保の大飢饉

 天保の飢饉は2度にわたって起こっている。

1833(天保4)年
 春先から低温・多雨の気候がつづき、六月には 出羽地方の大洪水、八月には関東の暴風雨などの 災害が重なり、東日本を中心として大凶作をまね いた。この結果、被害のもっとも激しい津軽・秋 田・山形藩等では収穫皆無の村もあって、多数の 餓死者を出したが、東北地方からの廻米に依存す る江戸でも米価の急騰と品不足によって、大きな 社会問題を生じていた。

1836(天保7)年
 気候不順がつづき、前回(1833年)よりも一層 激しくかつ全国的な規模による凶作飢饉となった。 幕領地の総年貢高も、1833年125万石、36年103万 石にとどまり、いずれも1784・86(天明4・6)年 の大飢饉以来の低い数値を示し、その被害の激し さを物語っている。(平年における幕領地の総年 貢高は150万石ぐらいか。)

 自然災害として始まった天保飢饉も、前述の社 会の変貌の過程で、その被害を一層拡大する傾向 にあった。

 商品経済が農村へ浸透し自給農村がしだいに解 体すると、主穀までも購入にたよる農民が着実に 増加し、この結果、下層農民の飢饉にたいする抵 抗力は一層弱くなった。

 領主にとっても主穀の配分が従来にもまして重 要な課題となり、個別領域の利害にもとづいて穀 留などの流通統制が厳重に行われたが、このこと はかえって米穀分配の不平等をまねき、支配錯綜 地では局地的な飢饉を各所に生んでいる。

 全国的にみても、幕府は天明の江戸打毀しの教 訓から江戸の米価安定を重視し、飢饉時にも諸国 に江戸廻米を強制したため、各地の都市で混乱を 呼びおこした。

 幕藩領主はこの飢饉に対して、豪農の財力をも 利用しながらさまざまな救済策を施しているが、飢饉にたいする領主・豪農による救済対策 が充分に機能しない場合には、米穀の流通と分配 の不平等に起因する矛盾対立が一挙に顕在化し、 一揆・打毀しの発生につながっていった。

天保期の一揆・打毀し

 1836年は、春先から米価騰貴のきざしがみえ、 4月には仙台藩渡波町で数百人が終結したのを 初めとして、6月から8月にかけて加賀金沢町、 信濃飯田町、陸前石巻町、越前勝山町、伊豆 下田町、伊勢射和村、相模大磯宿、加賀高浜村・ 小松町、大坂、駿府など全国の農村、在郷町、 城下町で穀商の打毀しが頻発した。

 作柄の不良が明らかとなり米価が急騰を始めた 8月には、甲州郡内地方で数十ヵ村をまきこんだ 騒動が勃発した。郡内地方は畑勝ちの織物生産地 帯として、常時は移入米に頼っていたが、米価 騰貴以来穀留のため著しい食料危機におちいった。 街道の宿駅に集まる交通労働者や、近村の貧農た ちは米穀買占めをはかる穀商の打毀しを始め、や がて街道沿いに西方に波及し、豪農・穀商からの 借米を要求し、米作地帯の甲府盆地に進入し、 各地で豪農の打毀しをつづけ、一揆の本隊は代官 所に向かった。幕府は、代官所や甲府勤番でこれ と対抗したが鎮圧できず、近隣の藩兵の力をかり てようやくこれを抑えている。

 翌9月20日には、三河国加茂郡の山間地帯から 一揆が勃発した。この地域は、畑勝ちの土地であ るうえ、天領と小領主の支配領域が錯綜している ため、飢饉になると領域ごとに行われる穀留に よって、米穀流通は妨げられ、下層の農民の困窮 は甚しく、郡南部の九牛平村に集った貧農たちは、 豪農にたいして米・酒の安売りを訴え、領主には 年貢金納相場の引下げを要求して立上った。 21日に近隣の庄屋宅を打毀すや、つぎつぎと豪農 ・米屋・酒屋を襲い、領域をこえた農民の団結は 三河一帯に波及し、240ヵ村、一万人以上の農民を まきこんだ。この一揆は、旗本の陣屋に要求を認 めさせ、さらに主力は挙母藩城下に向かったが、 ここで尾張・岡崎藩の連合軍の銃火にあい潰滅し た。

 そのごも百姓一揆の勢は衰えず、全国各地に波 及した。なかでも幕領地城での一揆が頻発し、記 録されたものだけでも、この年、加賀・駿河・摂 津・武蔵・越後・羽前・但馬・石見の各地に発生 している。

 郡内や加茂の一揆に代表されるこの時期の 百姓一揆の共通した特徴は次のようである。

 貧農が闘争の中心となり、はじめ豪農や米穀商 への陳情ではじまった運動もやがて実力による打 毀しに発展している。

 支配の入り組んだ地域で発生し、しかも金融や 流通圏の拡大に対応して支配領域をこえて広域化 している。

 これらの一揆は、時期を同じくしていると はいえ、地域が異なればほとんど互いに交流する ことはなく、孤立した事件として終息をみ ている。

 しかし、たとえば加茂一揆において打毀しの農 民が
「今日只今、世直し神々来て現罰を当て給ふ。 観念せよ」
と叫んだといわれるように、「世直し」を標榜し して、未熟ではあるが一種の体制変革幻想の意識を共 有し始めていることが指摘できる。

『続・大日本帝国の痼疾』(7)

村方騒動


 百姓一揆についてはこれほど深入りするつもりはな かったのですが、私の知らなかったことが次々と出て きて関心が高まり、つい長くなってしまいました。 所期のテーマ に入る前の予備知識ということで、あと、村方騒動→ 世直し一揆と進めていきたいと思います。

 幕藩権力との直接的な対立ではなく、一村規模 での農民内部の身分的階層的対立にもとづく闘争 は、一揆とは区別されて村方騒動と呼ばれている。

 百姓一揆には貧農層だけでの蜂起もあったが、 多くは磔・獄門等の極刑を覚悟で「頭取」として 立ち上がった名主庄屋たちの指導によって遂行された。しかし 言うまで もなく、三叉竹越の言葉を借りれば、「牝鶏の翼 もて雛鶏を掩うがごとく」人民を保護するために 「生命財産を擲(なげう)」った名主庄屋は、 全体から見ればごく少数である。圧倒的多数の 名主庄屋は幕藩体制下の末端権力として一 般百姓に相対していた。村方騒動は村役人を介し た村落支配体制の亀裂から噴出した闘争である。

 村方騒動と一揆とは、次の例のように区別さ れにくい闘争である。それは、百姓一揆 には村落レベルの矛盾や対立が根底にあるから であり、時にはその矛盾・対立が一揆の要求項目の 中に明示されることも多かった。

 享保期(18世紀前期)の質地騒動は、領主の政策を 直接の契機にしているが、その対立関係は村方騒 動の性格をもっていた。

 1830(文政13)年宇和島藩一揆の強訴は、 直接には庄屋に対する闘争であった。

 1823(文政6)年紀州藩一揆では、一村内の対立 ではないが、村間の激しい用水争論が、不作と年貢 未納への不安につながり、急速に領主権力に対する 闘争へ転回し、反専売制一揆になっていった。

 さて、村方騒動は、家格・身分をめぐる対立が その土台をなしている。質地地主と小作との関係 や商品流通・金融関係の変化発展などによる農民 階層の分解再編、それにもとづく村内勢力関係の 変動というような経済関係にもとづく矛盾は 村方騒動の基礎ではあるが、多くの場合それは 随伴的現象であって、村方騒動そのものは なによりも村役人の年貢・ 諸役・村入用・村役人特権をめぐる不正・違反に 対する闘争として現われている。

 上のように、村方騒動を第一義的には村請 年貢制と不可分な村役人に対する闘争ととらえる とき、それは村内の騒動ではあっても、同時に幕 藩制国家支配に対する闘争として位置づけること ができる。ただし、農民たちの意識の中にそこまでの 自覚があったがどうかは別問題である。 18世紀後半から19世紀初期の村方騒動を3例みて みよう。それを通して、江戸時代後期の村落構造 をかいま見ることもできよう。

(以下は岩波講座「日本歴史12」所収の岡光夫「農 村の変貌と在郷商人」よりの抜粋です。)

① 備後福山郊外野上村
 山陽筋の綿作地であった福山郊外の野上村では、 身分が低く本百姓と差別されていた「新屋百姓」 が庄屋と対立しいる。

 18世紀中で年代はわからないが、木綿不熟の年 に減免を歎願し、さらに御用捨米の割付け、役目 米の賦課に際しての庄屋の不正、退転百姓の耕地 26町歩余の取扱いの庄屋の不正、井関人足の私的 流用、村入用帳の非公開等を追求し、さらに「古 地百姓」である本百姓と「新屋百姓」の差別撤廃 を要求している。庄屋は最後の点について「新屋百姓」を水呑同 様であるとして、この要求に強く反論しているが、 庄屋の不正を追及する担い手が「新屋百姓」であ り、彼らは差別撤廃を通じて、村政に対する発言 権を確保しようとしている。

 福山周辺においては、18世紀中ごろ(宝暦年間) この種の騒動が多く、支配者側においてもこれを 重要視し、惣百姓あるいは村民の半分が庄屋と争 う場合は、事件が解決しても後に尾を引き、再燃 すれば農業がおろそかとなるから、たとえ無欲な 庄屋であっても庄屋を退役させよと称しており、 騒動側の力に圧倒され後退している。

② 美濃武儀郡山田村
 美濃の村落は農民間に頭百姓と脇百姓の身分階 層が一般的に成立し、しかも身分差別が家格とし て固定し、頭百姓は村役人の地位を独占して、村 落支配をおこない日常的に家作・祭礼・儀式・衣 服における差別を村法として制度化していたが、 18世紀末からの脇百姓の経済的地位の上昇 によって、その村落支配体制に大きな動揺が生じた。

 美濃武儀郡山田村は、郡の南端の水田地帯で、 この村は三家の頭百姓によって支配され、そのう ちの長田家は一般村民と差別される「組下」と称 する十数戸の従属農民を有している。1789(寛政 元)年山田村脇百姓忠兵衛が村役人の年貢勘定を めぐって、第一に帳簿の公開、第二に出作高の賦 課、第三に村政運営の庄屋・年寄の独断専行を批 判し、それを村役人に要求したが拒否されたので、 代官所へ訴訟に及んだが結着つかず、翌年に忠兵 衛は他の14軒の農民と共に「新組」をつくり代官 所の容認により、村落支配は「新組」と「古組」 に分断された。

 このように脇百姓は旧来の村落支配体制をくず し、さらに年貢帳簿の公開も認められることにな った。かかる脇百姓の動きは、身分的に頭百姓に 従属していた家来筋の「組下」農民にも自覚を与 え、1795(寛政7)年、頭百姓の長田家に対して礼 服の着用や「家名」を要求し、さらに1837(天保8) 年には家作の差別廃止をきっかけに、「組下」から の独立を要求し、「新屋敷組」として組頭を立て、 村政に参加することになった。

③ 信濃諏訪郡今井村
 信濃諏訪郡今井村は近世初頭に4軒の役家が名主 2人と年寄2人を交代でつとめ、これを大前百姓と 称し、後に分家を生じ幕末に9軒になった。 これに対し村役人になりえない層を小前百姓と 称していた。

 今井村周辺は18世紀に入り、綿打や製糸、小倉 織の諸産業が勃興することによって、小前百姓が 経済的に上昇し、旧来の階層序列による支配に不 満を抱き、それを打破する小前騒動を起している。

 1794(寛政6)年から翌年にかけて伝馬人足料・ 御薪出役料・年寄入札などを要求し、1800(寛政12) 年には「歩割仕法」の改正要求を出し、当役、古役 と村方85人が対立した。

 1814(文化11)年には年寄 入札に関する村方騒動が起き、年寄跡役にからむ紛 争で村内が東西に分かれ対立し、後には小前方の推 した候補者が名主になることにより、新しい性格の 村役人が輩出してきた。

 1846(弘化3)年には、ついに小前が村役人の被 選挙権を要求したので、大前は反対の口上書を郡 奉行に提出したりしたが、解決は1848(嘉永元) 年まで持越された。小前の要求は全面的に容れら れなかったが、年寄役一名を獲得して村政に参画 することとなった。

『続・大日本帝国の痼疾』(6)

百姓一揆とは何か(3)


 油・蝋・紙・木綿・生糸・藍玉などの農民の副業から生ずる製品は商業資本(商人)の手を通して、藩という支配領域を超えて流通する。従って、藩の流通政策に対する農民の闘争も、藩という支配領域を超えた広域闘争となる必然性を持つとともにさらに、商人(都市部)との軋轢・対立あるいはその反対に都市部の被搾取労働者との共闘という可能性も孕んでいただろう。そのような例をみてみよう。

(1) 1764(明和元)年の伝馬騒動
 助郷制とは、宿駅に常備する人馬では不足する場合に、近郊の村々から人馬を徴発する制度である。この年、朝鮮使節の来訪に備えた高額の国役金が賦課されていた。その上幕府は、翌年の日光東照宮での150回忌の法要を理由に、日光道中と中山道筋の助郷役の増強を強いようとした。板橋から和田宿までの上野(こうずけ)、武蔵、信濃の28宿に石高100石につき人足6人、馬3疋という農民にとっては過酷な徴用である。これに反対する農民が、明和元年12月、その免除を要求して蜂起した。この団結した農民に恐れをなした幕府は増助郷計画を撤回したが、川越周辺の69ヵ村の一揆勢は翌年の正月5日まで打ちこわしを続けていた。 12月から1月にかけて20数万人が参加したと言われている。江戸時代最大の一揆である。打ちこわしが江戸近くまで波及しそうな形勢となり、幕府は鎮圧のために大軍を差し向けた。

 一揆鎮圧後は、例にもれず、多数の農民が処罰されている。武州児玉郡関村の名主兵内は発頭人として獄門にかけられ、他に369人が処罰されたという。領内取締り不行届きのかどで、藩主も山形へ転封となっている。

 この一揆は個別領主の収奪ではなく、公儀役(助郷負担)の強化を契機とし、きわめて激しい打ちこわしをともなった広域の大闘争となったわけだが、それはたんなる労役徴発の増加に対する闘争ではなく、その背景には、代金納化の進行にもとづく商人資本による農民支配の強化という新たな搾取が蓄積されていた。それは次の助郷一揆にも通じている。

1804(文化元)年牛久助郷一揆
 水戸街道の牛久宿問屋の麻屋が助郷村の範囲を拡大する趣旨の願書を幕府に提出したのが契機であった。これに対し指定を受ける側の55ヶ村の農民数千人が結集し、麻屋をはじめ牛久宿の問屋宅や阿見村の村役人宅を次々と打ちこわしていった。弾圧にあたった幕府は多くの農民を逮捕したが、そのうち3人が指導者として江戸小伝馬町の牢へ送られた。3人は、翌年、相次いで獄死している。

(3) 1781(天明元)年上州絹一揆
 この一揆は、買人からの運上金を商人資本と結託して吸収しようとする公儀主導の流通支配政策に対する闘争で、支配領域をこえた広域闘争となった。その広域性は、特産物生産地帯の成立など地域的分業の進行による小商品生産の構造的展開がその背景となっている。ここでは 18世紀前半期にみられたような私領と幕領の収奪方向の差異はなくなっているが、「勝手次第商売」要求を基軸とする反専売制一揆と同質の論理が底流している。

(4) 1814(文化11)年越後栃尾郷打ちこわし
 この一揆は、主穀の流通・価格問題を中心とする闘争である。はじめは小商人・小職人層に主導されていたが、のちにその主導権は日雇層に移っている。つまり、この闘争は都市貧民の闘争としての性格を示し、農民闘争との相互波及関係をもつに至っている。ここでは、新しい分業関係・流通関係の展開と在郷町の成長、プロレタリア的貧農、日雇・雑業層の増大、小商人・小職人の輩出という産業構造の変化が背景になっている。

 新しい産業構造の変化にともなって

東上州における都市商人の江戸愁訴
桐生領農民の越訴
西上州農民の改所設置加担者・賛同者を主要対象とする打ちこわし

というような階層的な広がりとともに、 闘争様式の相違が生じている。

 百姓一揆が、村役人だけではなく、城下町へと押し出して 特権商人の打ちこわしをおこなうことがある。このとき都市は、農民にとって御用特権商人の町として一揆に対立する存在である。しかし、言うまでもないことだが、村方と町方が常に対立関係にあったわけではない。

(5) 1747(延享4)年上山藩一揆
 この一揆は町方の米持打ちこわしから始まった。百姓衆は「御町人中に先を越れ候条、残念なる事の由咄し合」って、15ヶ条の要求を掲げて一揆をおこしている。つまり、町民の蜂起が百姓一揆を誘引したことになる。ただし、一揆が城下町へ打ちいると、「町内の者」と「御百姓衆中」との間に対立が生まれている。

(6) 1750(寛延3)年大洲藩一揆
 この一揆は願書の中で、
「町人中へは近来無体の御用銀申し付けられ、 町方においては当分の借用相い成り難く、百姓 一統困窮」
と抗議している。農民は町方からの借金によって再生産を維持していたため、領主の町方に対する御用金賦課が農民経営にまで打撃を与えたのである。百姓一揆が領主の町方収奪とも対立せざるをえないという関係が生じている。

(7) 1761(宝暦11)年上田藩一揆
 ここでは一揆につづき、「城下町人残らず一同」 になって「町方願拾壱ヶ条」をもって町奉行門前へ おしよせ、「拝借米」を要求している。つまり、 百姓一揆が都市の闘争をひきだしている。

 この一揆では、城下町人だけでなく、「御領分寺院方」「御領内大工ども」「御領分桶屋ども」「御領分穢多共」の訴願闘争をもひきおこしている。

(8)1762(宝暦12)年飯田藩一揆
 藩は財政窮乏を千人講設置による会金収益で解決しようとした。これは在・町をつうじた収奪策であったために、 これに対抗する闘争は百姓・町人の連合一揆となった。 百姓と町人の要求は同一でないが、
「弐万石之百姓一統ニ成り、申様ハ、町人残らず一統ニこれ無くニおゐては、町家残らず打破らん」
という村方の強力な主導によって、村方・町方共同の寄合をもって闘いを進めている。この一揆は藩の千人講政策を廃止させている。