2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(5)

百姓一揆とは何か(2)


要求項目から見た百姓一揆の種類

(1) 土地に関する要求

 18世紀前半期の一揆に多く見られるが、大きく 2種類の要求に分けられる。

① 土地所持に関する要求
 小規模の農業を営む農民がその経営を維持して いくためには、往々にして土地を質(しち)にして 借金をすることを余儀なくされた。それは年貢納入 資金のためであったり、営業資金であったり、生活 費であったりしただろう。そして、その質地の一般 化が共同体内の年季質入関係の破綻を呼び、借金の 質であった土地が奪われ、農民は自分の質地の小作 人となるという矛盾へと一般化していった。それに対抗して、質取人か ら耕作権を奪いかえし安定的で自立的な小農経営 を実現しようとする闘いがこの時期の一揆であった。 従って、この時期の一揆は質持小農民によって担 われたと言える。

 1718(享保3)年広島藩一揆の「往年売タル山林田 畠取返サントノ事」という要求をかかげている。 1722(享保7)年出羽幕領質地騒動や1723(享保8) 年越後幕領質地騒動も質地=小作関係というよう な状況を基礎にしておこったものである。前者は 名主の不正を追及する村方騒動の性格をもつもの であった。後者は133ヵ村の質置人が質取人に対し て「耕作支配」を回復しようとする耕地確保闘争 であった。

② 所領支配に関する要求
 所領支配に関する要求も18世紀前半期からみられ るが、一般には所替反対闘争として闘われた。 しかしそれは、実際には単純な「私領農民の公儀 領化」要求の闘争ではなかった。

 1710(宝永7)年村上藩一揆のように、公儀領化要 求とみえる場合も、実は幕領の私領分割に際して の私領化反対という意味での公儀領化要求であった。

 また、1726(享保11)年津山藩一揆では、農民が 公儀領化の虚言を広め、それを私領主に対 抗するための戦略とした公儀領化願望であった。

 18世紀後半期以降も、先納金・御用金返還ある いは安石代・定免制要求と結びついた所替反対一 揆が特徴的であって、のちの1853(嘉永6)年盛岡 藩一揆にみられるような、「公義御領に仰付けられ 下され度く」と、直接の公儀領化要求が一般的であ ったわけではない。

(2) 基本年貢増徴という収奪政策の拒否

 18世紀前半期の幕領では、定免制(じょうめん せい 固定税率)とそれと組みあわされた有毛検 見(ありげけみ 標準課税=石盛を無視し、 毎年の出来に比例して課税)法、田方勝手作仕 (田畑において米以外の木綿・煙草・菜種などの 商品作物の栽培すること)法などによって基本年 貢増徴中心の収奪政策が強行されていた。それが 幕領での一揆高揚の要因であった。1729(享保14) 年信達幕領一揆 や1745(延享2)年畿内幕領一揆は そのような事例である。

 信達幕領一揆では、定免制一般が問題になった というよりは、
「豊年御高免五ヶ年平均之上五厘増御定免に仰せ 付けられ」
たことに抗議したように、増米年季定免方式によ る収奪強化策の矛盾が一揆を激化させた。

 私領における定免制反対の一揆は多くなく、 むしろ18世紀後半期以降に、永(永久)定免制 から検見制あるいは増米年季定免制へ移行させる ことで増徴の成果をあげようとする領主権力に対 して、永定免制維持を要求する一揆として闘われ た。前回あげた郡上藩一揆は、藩が、 「永定免」から「立毛見立免」へ移行しようとし たことに対する闘争であった。また、1821(文政4) 年川越藩前橋分領一揆も「永久御定免」から 「検見」への政策変更に対する闘争であった。

(3) 新規の諸付加税(増徴策)の拒否
 1738(元文3)年平藩一揆では、願書第一条 に「歩役金‥‥御免」とあり、第八条には「万掛 物一切御免」「諸商売諸役御免」とある。これは 基本年貢の増徴にもまして、多様な金納形態の歩 役金問題が一揆を激化させる条件になっていた。

 一揆の直前に平藩が設定した賦課や運上金は次 のようである。

賦課
駒立足役・歩役・小名浜三節句役・清酒造役・濁酒 造役・糀室役・紺屋役・鍛冶役・山年貢・郷士与力 役・鍛冶炭役・炭汁払役・四町目および箱板払役・ 見世店役・捧手振役・質屋役
運上金
茶・繰綿・木綿・麻・たばこ・呉服絹

 これに対して、平藩一揆の要求項目は次のように 多岐にわたっている

歩役金・基本年貢率・貯穀・掛物・検見方法・買物 代金・人足日雇代・貨幣・商売役・雑穀問屋・口籾・ 馬売買・城米駄賃

 この一揆は、小農経営集約化によって発展してき た米作以外の無年貢のさまざまな作物・製品(これら は小農民の安定した経営には不可欠の稼ぎで あった)に対して、藩が問屋制や運上制を通じて新規諸付加税を課 して収奪しようとする増徴策に対して、惣百姓が激 しい打ちこわしをともなう全藩的強訴の闘争形態を もって対決したものである。

 外見は基本年貢問題としてのみ現われる一揆に おいでも、上述のような要求の特徴を認めること ができる。1712(正徳2)年大聖寺藩一揆は、 激しい打ちこわしをともなう画期的な惣百姓一揆 であった。免乞(めんごい)強訴と呼ばれるように、 免乞問題として起こっているが、
「串村茶問屋をば何卒御潰し下されませ、此以後 茶の口銭を立させず、私共の勝手次第に茶の売買 仕るやうに致したし」
「大聖寺の紙問屋をば何とぞ御停止に成り下され」
というような要求に対して、「肝煎長百姓」は
「今晩串村に至り、茶問屋を潰すといふ事もいら ざる儀なり。此事は一先づ指留めてよろしからん。 先づ第一が免の一件なり」
と言っていて、一揆内での対立・矛盾をみせてい る。このことは、諸稼部分への新付加税によって より強い打撃をうけるのは「小百姓ども」であり、 それゆえの対立であったろう。

(4) 「勝手次第商売」の要求
 (3)の平藩一揆にみられる流通政策にたいする要 求は、いばわ零細小商品生産者として成長してきた 農民による要求として歴史的必然性がある。この 流通政策にたいする要求は、18世紀中後半における 百姓一揆の画期的な大変化であった。1795(寛政7) 年八戸藩一揆の訴状には
「塩毎々之通、勝手次第商売仰付けられ下され度き 事」
という要求がある。具体的な契機や内容は一揆により 異なるが、このような「勝手次第商売」の要求は 全国的に一般化していく。

 1771(明和8)年唐津藩一揆願書に、
「諸国売買値段(楮)より下値に仰せ付けられ、 難儀至極に存じ奉り候間、持主勝手売に仕候様願 い上げ奉り候」
とある。この場合は、「諸国売買値段」との比較 による「下値」の不利に対する抗議と結びついてい る。「持主勝手売」要求は価格問題と一体であり、 先の「世上一統之通用並」の要求方法が土台にな っている。

 この要求の前提条件は、一方での小商品生産の 展開と、他方での、国益論に支えられた特産物導 入策をともなう殖産・専売政策の展開である。 しかも、それが全国的な規模で個別藩の政策方向 を規定しはじめたことになる。

 1750(寛延3)年大洲藩一揆訴状では
「御用紙御買い成らされ候時、町並に代銀下さる 可く候」
という要求がある。この場合、町と在をつらぬく 地域的な価格(所相場)が一般的に成立する段階 が想定される。 それを抑圧し混乱させる藩の低価格強制買 上げに対する抵抗が一揆につながっていった。

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『続・大日本帝国の痼疾』(4)

百姓一揆とは何か(1)


形態面から見た百姓一揆の種類

逃散(ちょうさん)
 中世から行われていた農民抵抗の一種。江戸時 代初めごろ(17世紀初め)に多くみられた形態は、 村から都市部へ逃れて安い賃金で生活するタイプで ある。

越訴(おっそ)
 17世紀後期にはこのタイプが増えた。手続きを 無視し、代表が直接藩主や幕府に訴えた。要求を 勝ち取っても、その代表者はほとんど死罪となって いる。彼らは義民(ぎみん)としてあがめられてい る。前回あげた例では磔茂左衛門がそれにあたる。 佐倉惣五郎(下総)もよく知られている事例である。

惣(そう)百姓一揆
 17世紀末からこのタイプの一揆が増えた。 全村民による一揆である。時には藩全体にお よぶような大規模なものもあった。この場合も 代表者(指導者)たちは極刑に処された。 前回にあげた例では郡上一揆がそれである。

 これから検討する対象は、主として、この惣 百姓一揆である。一揆は、幕藩領主による諸負 担・諸統制の増強という新たな搾取攻撃に対する 民衆闘争であるが、村落の地域性や農民(町民) 内部の階層性によって、当然その要求内容は多様 であった。しかし、基幹的要求方法をかかげる ことで、 その地域的階層的相違を克服していった。それが、 一揆が一部の農民(町民)による闘いではなく、 「惣」(すべての)百姓一揆に発展していくかな めであった。そうした要求方法で一揆を分類する と次のようになる。

要求方法から見た百姓一揆の種類

(訴状文は漢文調の部分は読み下し文にするなど、読みやすくした。 こまかいところで誤りがあるかも知れませんが、 そのときは、ごめんなさい。)

(1) 旧来に復することを要求
「先規の通り仰せ付けられ候様願い奉り候」 (1718(享保13)年久留米藩一揆訴状)

 「先規」という文言の代わりに、「只今迄の通り」とか 「先の殿様の御代の通り」とか「前々の通り」と いうよう に、さまざまな表現があるが、どれも同じ意味 であり、新規の年貢増政策に対する農民の拒否 の論理根拠を示している。幕藩領主が新たな農民 支配の方式を展開していった幕藩制初期において、 定量的安定的な農業経営を維持しようとする農民 の自立と成長の闘いを意味している。

(2) 公儀(幕府)の基準を要求
「御料所並に仰せ付け下され候様」(1755(宝磨5) 年郡上藩一揆駕寵訴状)

 大名支配を公儀支配と比較して批判する方法である。 幕領(御料所)内においても、個別代官支配に対しては 「他の御領所並に」(1721(享保6)年南山御蔵入 騒動訴状)というように、同じ論理を用いている。 他藩との比較で批判する方法は早くからみられるが、 ここではとくに公儀をひきだすことで個別領主の 支配を批判するという方法に大きな特徴がある。 農民側にとて、それは「黄門様の印籠」の役割を 果たしているわけだ。もちろん、現実の幕領支配を全 面的に是としているわけではない。この藩領農民 の「御料所並」という要求方法が成長するに従って、 幕領農民の闘争が発展しはじめていった。

(3) 全国共通の基準を要求
「世上一統の通用並に」(郡上藩一揆願書)

 ここでの要求は「秤分銅」「元文金」、つまり通貨 に関するものであるが、支配領域をこえた天下(世上 一統)周知の水準、万民相互の道理ある方式を基準に して、現実の支配を批判している。(1)(2)と比べて、 より拡大された普遍的な視点に立つ新しい質の要 求方法へと発展している。

 以上のように、いわば共通のスローガンをかかげて、 地域的階層的な相違を越えた惣百姓一揆が形成されて いったわけだが、次はその要求内容を具体的に みてきたい。(続く)

別件ですが、追記
 「改悪教育基本法の実働化をとめよう!12・22全国集会」 に参加しました。教育への攻撃はますます露骨に広範に 広がってきているということを、改めて知らされました。 その集会の報告と現状分析(らしいこと)をしようと思いましたが、 報告の方はすでに「教育基本法の再改正を求める会」さん が正確簡潔にまとめてくれていますので、それを紹介してお きます。現状分析(らしいこと)の方はそのうちに、 と思っているのですが……

12・22全国集会の簡単な報告

『続・大日本帝国の痼疾』(3)

三叉竹越の明治維新観(2)


 続いて三叉は、徳川幕府250年の支配下における 社会構造の変化や財政の窮迫、それゆえの民衆への 更なる圧政など、封建体制が崩壊へと向かう徴候を 論じた上で次のように続ける。


 封建制度、唯一の関鎖たる威力は巳に冥々の間に 於いて、かくのごとき変化を来たしつつあると共に、 民権の勢力はまた侮るべからざる発達を為さんとし つつありき。もとより幕府の当時に於ては、今日の 意義に於いていう所の民権なる思想は毫も見るべか らざりしといえども、士人の誅求に堪えざるの反動 は、町村都邑の庄屋名主中に幾多平和のハンプデン (注)を出だしたり。そもそも封建制度の下に於いても二 百余年の歳月は自然に一種の地方自治制を生じたり。 これ実に日本国民が水火の圧抑を経てなお今日あ るを得たる大原因なり。


(注)
ジョン・ハムデン(1594-1643)
英国の政治家。クロムウェルの従兄弟。1621年下院 議員に選ばれる。37年、チャールズ一世の議会を 無視した船舶税の課税に反対して投獄される。 42年の内乱では議会軍を指揮。


 吉宗が制定した公事方御定書は1742(寛保2)年 に完成している。それは、農民の反抗以外の罰則を 緩和しているが、農民の反抗に対しては罰則を強化 している。その中に、庄屋・名主と一般農民を分断 するためのあからさまな条文がある。

「地頭に対し強訴其上徒党いたし、逃散の百姓、御 仕置、並に取鎮の事、頭取は死罪、名主は重追放、 組頭田畑取一村々百姓致徒党、騒動強訴或は逃 散の者有之節は名主又は組頭等、押置取鎮候若は 御褒美被下、其身一代帯刀、名字、可為名乗」 (御定書百ヶ条第二十九項)

 名主庄屋をして村民と相干格(かんかく)せしめ んとせるにも係らず、その士人の誅求、代官の暴虐 なるに出逢うや、彼らは牝鶏の翼もて雛鶏を掩うが ごとく、身を以て之に代りて人民を保護するものな りき。(中略)公共のために生命財産を擲(なげう )ちたり。

(中略)

 あるいはいわん人民主的運動はアングロサクソン 人種の歴史のみ、これを以て吾人民の歴史を解釈す べからずと。然れども我歴史より民主の分子を排除 せんと欲するほど大なる誤謬はあらず。

(中略)

 徳川氏の世に至り、二百五十年の泰平打ち続き、民 力漸やく重厚なるを得たれば、気象挙り、覇気鬱勃 (うつぼつ)たるものあり。もし仮すに歳月を以て し、失政いよいよ重なり政府の微弱いよいよ明白な らば、人民豈に久しく黙々たるものならんや。必ら ずや民主的大運動を起こすの日ありしならん。

(中略)

 もしそれ勢究(きわ)まり、情激するに方(あた) っては、豈に一人のグラックスなからんや、豈に またリエンジェたるものなからんや。已に大塩平 八郎を生じたるを以て名誉とする大坂人あり。 封建治下の人民決して愛民家を養うの力なしという べからざりしなり。而してこの反上抗官の事、多く は紀元二千四百年前後に発し、山県大弐、藤井右門 の叛は明和(紀元二千四百二十七年)にあり。有名 なる伏見の文殊九助の控訴、新潟の佐藤佐次兵衛、 五賀野右衛門の強訴、及び溝口元右衛門らの上野 沼田の城主に抗したるもの、皆な天明(紀元二千四 百四十一年)年間にあり。濃州の民が郡上(ぐんじ ょう)の城主に抗したるもの、宝歴年間(紀元二千 四百五十一年)にあれば、慶長五年(紀元二千二百 六十年)、関ケ原の役よりおおよそ百五十年にして、 幕府及び士人の武権衰えて、人民の反抗ここに初ま りしというべき乎。


 ここで三叉竹越が上げている幕藩体制に対する 反権力闘争を改めて年代順に列記してみる。 (三叉は年数を間違っているようだ。あるいは私 があげている事件とは別件だろうか。)

1682(天和2)年 はりつけ茂左衛門
 上州沼田の領主真田信直の極悪非道な暴政で沼田 の領民は、 死を選ぶか夜逃げをするほかないというような惨 状に追い込まれていた。その惨状から領民を救お うと、杉木茂左衛門が江戸に上り、幕府に直訴し た。それは将軍家の取り 上げるところとなり、領主は閉門の上、領地召し上 げとなった。茂左衛門は妻とと もに磔刑に処せられている。また、茂左衛門に頼 まれて訴状を書いた大宝院覚端法印という 僧侶は、すでにそれ以前に、真田信直によって 石子詰という極刑(人を生きながら小石で埋める刑) )に処せられている。

1754(宝暦4)年~ 郡上一揆
 郡上藩(岐阜県)は、藩の財政難を解消するために、 年貢量を増やしたり、情け容赦のない取立てをしようとした。 これに対して、農民たちは団結して一揆を起こした。農民たちの激しい闘いは4年も続いた。この 一揆は、藩主から農民まで、一揆にかかわる人すべ てが処分を受けるという、類のない大事件となった。 百姓一揆が原因で、幕府の首脳部まで処分を受けた のは、江戸時代を通じてこの事件だけである。

1767(明和4)年 明和事件
 山県大弐(やまがただいに)、藤井右門らが、江戸 幕府への謀反の容疑で逮捕・処刑された。この事件に ついては後に詳しく取り上げる予定である。

1768(明和5)年 新潟明和騒動
 越後国新潟町(現新潟県新潟市)において、町民 が藩政に抵抗し、およそ2ヶ月にわたる町民自治を行 なった事件。町人側の代表者の名は涌井藤四郎 (わくいとうしろう)であり、その腹心として須藤 佐次兵衛(すどう さじべえ)という名が残されてい る。この二人は市中引き回しの上斬首されている。
 三叉があげている佐藤佐次兵衛は須藤佐次兵衛 の誤りだろう。また、五賀野右衛門の名は手元の資料にも インターネット上にも見当たらない。

1785(天明5)年 伏見騒動
 伏見元町年寄の文殊九助と丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛 門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛の7 人が、伏見奉行・小堀政方の悪政を直訴した事件。 小堀政方は奉行を罷免されたが、文殊九助ら7人は 獄中で相ついで病死した。

1837(天保6)年 大塩平八郎の乱
 大坂の町奉行所元与力大塩平八郎と門人らが、 天保の大飢饉下の貧民の窮状を救おうとして起 こした江戸幕府に対する叛乱。大塩平八郎は鎮圧 された後、爆薬で自決している。
 この乱後に全国で同様の乱が頻発している。 中でも「生田万の乱」(いくたよろずのらん)が 有名である。生田万が越後国柏崎で貧民救済のた め蜂起した事件である。生田万は柏崎代官所襲撃時 に負傷して自刃。

 三叉があげている「反上抗官の事」は主体者や 本質の違いを考慮していない羅列に終わっているが、 私はこれを大きく、いわゆる「百姓一揆」と 知識人が主導した叛乱とに分けて論を進めようと 思う。どちらの場合も「平民的思想」の発展・深化 の様相を探ることが主とするテーマとなる。

『続・大日本帝国の痼疾』(2)

三叉竹越の明治維新観(1)


 透谷の明治維新観をまとめる。

 明治維新とは何のための維新であったのか。 「維新の革命は政治の現象界に於て旧習を打破し たること、万目の公認するところ」と透谷は言う。 しかし、「最後に到着すべき ところは、各個人の自由にあるのみ」なのだが、 「政治上の組織に於ては、今日未だ此目的の半を 得たるのみ」である。権力を掌握した新たな勢力は 「旧組織の遺物なる忠君愛国」をかかげて復古的 国家を形成していった。『明治文学管見』のあとに 書かれた『漫罵』では「革命にあらず、移動なり。」 と喝破している。そして、「民権といふ名を以て起りたる個人的精神」は、 「革命の成功と共に、一たびは」潜伏しているが、 今後は「如何なる形にて、其動作をあらはすべき や」と、透谷は問う。

 さて、私の目下の関心は維新の結果ではなく、 維新の過程で敗北していったもう一つの可能性 である。その可能性をはらんだ社会的背景や、 推進力となった思想的背景である。それを透谷は どうとらえていたか。

 明治維新を可能にした社会的背景は「封建制度 の衰亡」にあるが、それを加速させたのが西洋列 強の「外交の事」だった。そして、その維新の遂 行は「武士の剣鎗にて」行われたように見えるが、 「平民的思想」がもはや「旧組織の下に黙従する ことを得ざる程に」生長したことがその根幹にあ ると指摘している。そしてさらに、明治の民権の 発源は「革命の主因たりし精神の発動に帰せ」 られると言う。

 「革命の主因たりし精神」=「平民的思想」とは いかなるものか。三叉・竹越与三郎もまたそれを 強調し、その内実を詳しく論じている。透谷は 維新の真の遂行力として「武士の剣鎗」を退けたが、 三叉は勤皇攘夷論こそが維新の動機とする俗論を 強く否定している。

 かくのごとき大変は、何者がその動機たりし乎、 如何にして成就せられたる乎。

 古流なる歴史家は曰く勤王論こそその動機たり。 而してこの勤王論を養成したるものは、頼山陽の 『日本外史』、水戸藩の『大日本史』のごとき皇 室が日本正統の主権者たりしを発揮したる史書に ありと。また或る一派の史家は曰う、外交の一挙、 世界の波涛をして横さまに我国を拍(う)たしめ たるによると。

(中略)

 されば平田篤胤の著書、及び『大日本史』、 『日本外史』等の文書が、勤王の精神を鼓吹した るを以て、革命に与(あずか)って力ありと為す もの、これ実に蛍火を認めて星光となすのみ。 平田の書、その仏教を歴詆(れきてい)して、 以て神道を護るや尽せり、これによりて延いて 天子を尊とむの論ありしは事実なり。また 『大日本史』が、天子は日本唯一の正統の君主な るを示し、『日本外史』が武門の専権を痛論して、 天子の不幸を傷むの情を示したるや事実なり。 然れども活版によりて印行せられたる平田の書は、 博く読まれたりといえども、譟語険論以て人を動 かすに足らず。『大日本史』のごとき、『日本外 史』のごときは、当時にありては博く人に読まる るの機会なく、天下の勢力となるに足らざりしな り。かつ以上勤王の主義を含みたる文書が、博く 天下に読まれたりとするも、天下天子を忘るるや 久し、殆んどその記憶の最底に下りて探るも、王 政の美を回顧するの情を有せず。

(中略)

 維新革命の性質の社会的の変動なること、己に 論じたるがごとくなれば、尊王なり、攘夷なり、 佐幕なり、討幕なり、公武合体なり、ただこれこ の大変革の波涛の上に浮びたる雑木浮草に過ぎず。 これら政治的戦争の闘わるる間に、社会の根底に 於ては、人知らぬ間に、絶大の潮流は混々として 流れつつありしなり。されは、維新革命の主動者 中にありても、その政体、社会が如何に変じ行く べきか、如何に変革せざるべからざるかに関して 確乎たる定見を看したるもの甚だ少なく、定見を 有したるものは僅かに、局外に超然たりし儒生、 学者の一部に過ぎず。当局の主働者はただこの大 変動の高潮に乗って乱拍子を舞う臨機応変党に過 ぎざりしなり。


 それでは維新の真の動機と推進力はなんであっ たのか。

 おおよそ一国の変動、単一の原因のみに由来す るものにあるなし。以上の二者(管理人注:勤皇 論とヨーロッパ列強の外圧)が、この大変動を 助けたるはもとより争うべからすといえども、然 れども決してこの大変動の本原起因なりとはいう べからず。本原の起因は別にこれあり。何ぞや、

(中略)

 顧みてこれを思う我国民は二千五百年間(注1)の 歴史に於て、一点の光明を有したる乎。神武、天 智の世は、茫々として記憶に存せず、中世以後記 憶に新たなる時勢に於ては、ただ天皇は和歌に遊 び、公卿は恋と嫉妬に生涯を委(ゆ)だね、将軍 諸侯は婦人を馭するの天下を馭するよりも難きを 憾(うら)み、諸士はただ平民に対して、その項 (いただき)の高からざらんことを恐るるのみ。 かくのごとき時勢は、我国民背後の光明たるべ き乎。

 更らに一段を退(しりぞ)けば戦国切取の時代、 ただ家を焼き、人を殺ろすの少からんことを恐る るの時、これまた以て我国民の回顧して、天国 とすべきにあらず。さらば、将来の社会に向って、 当時の我国民は如何なる希望光明を有せし乎。 自由民権の説は夢にだもその耳に入らず、人類の 生息すべき社会は、これよりも更らに幸福なるべ きものにあらず、これより幸福なるはただ藐姑射 (はこや)の仙山(注2)、桃原の夢郷にありと 信ぜられしのみ。

 然らば則ち近代大変革の当時人心の趣向また察 すべきのみ。決して回顧にあらず、決して理想に あらず、ただ 現在の社会に不満に、現在身に積り たる痛苦に堪えずして発したる乱世的の革命 たり しや明らかなり。これを引きて勤王の感懐に出で たる復古的の革命と為すは抑(そもそ)も孟浪 (注3)の言のみ。



(注1)
 三叉はもっぱら皇紀を使っている。

(注2)
藐(とお)き姑射の山に神人ありて居る、肌膚 (きふ)は冰雪(ぎょうせつ)のごとく淖 約(しゃくやく)たること処子のごとし。五穀を 食らわず風を吸い露を飲み、雲気に乗じ飛竜に 御して、四海の外に遊ぶ。其の神(しん)凝(こ) れば、物をして疵癘(そこな)わざらしめ年穀を して熟せしむ。(「荘子 逍遥遊篇)

(注3)
孟浪(もうろう):おろかなこと。とりとめのな いこと。


 上記の最後の文言(赤字部分)は、「平民は自 ら生長して思想上に於ては、最早旧組織の下に黙 従することを得ざる程に進み」という透谷の言と 呼応する。維新の真っ只中に生を受け青年となった 二人の、これが共通の認識だった。(つづく)

『続・大日本帝国の痼疾』(1)

透谷の明治維新観


 「英将秘訣」は、国学の「転倒」した天 皇信仰の論理や、封建制維持装置としての 儒学の道徳律を無化する起爆剤を秘めていた。 つまり、その徹底した愚民観にもかかわらず、 大日本帝国がその屋台骨に据えた「祭政一致」 「一君万民」という「過去の亡霊」をのりこえ る可能性をもっていた。

 しかし、明治維新という大変革をもたらした 原動力は、もともと「勤皇論」ではなかったは ずだ。幕藩体制内での社会的変動と、その中で 成長していった民衆の変革力がその真の要因で はなかったか。今回はこの観点から明治維新を 捉えなおしてみたい。

 『「英将秘訣」論』に次の一節があった。

 フランス革命期の「内乱外寇」の情況が、テロ 至上主義を生んだ。ミシュレは、

「かつては恐怖のために人を殺した。
 いまは衛生のために殺すのだ」

と的確に批評しているが、それは「秘訣」的テロ リスムにまさるともおとらないものだろう。しか しそこにはそれがおそるべき二律背反を結果した とはいえ、やはり近代的自由の理念が前提されて いた。北のいうように「自由」と「専制」とは 双面神なのではなく、まったくべつの概念である。 透谷的にいえば、その自由の内実は
「民権といふ名を以て起りたる個人的精神」 (「明治文学管見」)
なのである。そしてこの精神こそ明治維新に可能 性として含まれていたものだった。

「武断と軍国とは自由に反すといふが如き愚論家 あらば、将にロベスピエールによりて自由の名の 下に断頭台に行かざる可らず」
と北がいうのは、維新以後の現実のアジア (日本)の情況に憑きすぎている。なぜなら透谷 のいうようにその精神は
「吾国の歴史に於て空前絶後なる一主義の萌芽」
だったからである。

 むろん北はその「萌芽」とい う理想を現実のむざんな中国革命の動向のなかで 見失っていったのだ。北の能動的ニヒリズムは 「秘訣」のそれと、質的にひじょうに似ている。 天皇=国体信仰と切れていることはその最大の 共通点だが、しかもなお、北の思想には青年将校 と一命をともにしたように倫理があった。

「仏蘭西革命に恥ぢ、維新革命に恥ぢ、而して後 れたる露西亜革命に恥ぢよ」


 あえなくなった明治維新の可能性、「吾国の歴史 に於て空前絶後なる一主義の萌芽」を、透谷をさか のぼって、幕藩体制下の民衆の直接行動の中に探る のが、今回のテーマである。

 さて、『大日本帝国の痼疾』(3)で紹介したように、 『新日本史』の著者竹越与三郎は1865(慶応元)年 生まれで、『新日本史』の上巻は1891(明治 24)年 に刊行されている。与三郎、26歳。
 北村透谷は1868(明治元)年生まれ、与三郎より 三歳年下。『明治文学管見』は1893(明治26)年 に書かれている。透谷縊死の一年前、25歳であった。

 維新の只中に生まれ、20代半ばの若さで独創の 自論を形成して いたこの二人の青年が交差することがあったのか、 あるいは まったく交渉なくすれ違っていったのか、知る由も ないが、この二人の明治維新観からはじめよう。

 『「英将秘訣」論』で引用されている部分も 含めて、透谷の『明治文学管見』より、その明治 維新観を抜き出してみる。


 吾人は此処に於て平民的思想の変遷を 詳論せず、唯だ読者の記憶を請んとする ことは、 斯の如く発達し来りたる平民的思想は、 人間の精神が自由を追求する一表象にして、その 帰着する処は、倫理と言はず放縦と言はず、実用 と言はず快楽と言はず、最後の目的なる精神の自 由を望んで馳せ出たる最始の思想の自由にして、 遂に思想界の大革命を起すに至らざれば止まざる なり。

 維新の革命は政治の現象界に於て旧習を打破し たること、万目の公認するところなり。然れども 吾人は寧ろ思想の内界に於て、遙かに 偉大なる大革命を成し遂げたるものなることを 信ぜんと欲す。武士と平民とを一団の国民となし たるもの、実に此革命なり、長く東洋の社界組織 に附帯せし階級の繩を切りたる者、此革命なり。 而して思想の歴史を攻究する順序より言はゞ、 吾人は、この大革命を以て単に政治上の活動より 生じたるものと認むる能はず、自然の理法は最大 の勢力なり、 平民は自ら生長して思想上に於ては、 最早旧組織の下に黙従することを得ざる程に進み てありたり、明治の革命は武士の剣鎗にて成りた るが如く見ゆれども、其実は思想の自動多きに 居りたるなり。

 明治文学は斯の如き大革命に伴ひて起れり、其変 化は著るし、其希望や大なり、精神の自由を欲求す るは人性の大法にして、最後に到着すべきところは、 各個人の自由にあるのみ、政治上の組織に於ては、 今日未だ此目的の半を得たるのみ、然れども思想 界には制抑なし、之より日本人民の往かん と欲する希望いづれにかある、 愚なるかな、今日 に於て旧組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷 ふ学者、請ふ刮目して百年の後を 見ん。

 徳川氏は封建としては、斯の如く完備したる制 度を建設したり。 故に徳川氏の衰亡は、即ち封建 制度の衰亡ならざるべからず。日本民権は、徳川 氏に於て、すべての封建制度の経験を積みたり、 而して徳川氏の失敗に於て、すべての封建政府の 失敗を見たり、天皇御親政は即ち其の結果なり。  徳川氏の天下に臨むや、法制厳密にし て注意極めて精到、之を以て三百年の政権は殆 (ほとんど)王室の尊厳をさへ奪はんとするばか りなりし、然るに 彼の如くもろく仆れた るものは、好し腐敗の大に中に生じたるも のあるにもせよ、吾人は主として之を外交の事に 帰せざるを得ず。 而して外交の事に就きても、 蓋し国民の元気の之に対して悖(ぼつ)として 興起したることを以て、徳川氏の根蔕を抜きたる 第一因とせざるべからず。

 国民の精神は外交の事によつて覚醒したり。 其結果として尊王攘夷論を天下に瀰漫 せしめたり、多数の浪人をして孤剣三尺東西に 漂遊せしめたり。幕府衰亡の顛末は、 桜痴(あうち)居士(管理人注:福地源一郎)の 精細なる叙事にて其実況を 知悉するに足れり。吾人は之を詳論す るの暇なし、唯だ吾人が読者に確かめ置きたき事 は、 斯の如く覚醒したる国民の精神は、啻(たゞ) に徳川氏を仆したるのみならず、従来の組織を砕 折し、従来の制度を撃破し尽くすにあらざれば、 満足すること能はざること之なり。

 吾人の眼球を一転して、吾国の歴史に於て空前絶 後なる一主義の萌芽を観察せしめよ。 即ち民権といふ名を以て起りたる個人的精神、 是なり。この精神を尋ぬる時は、吾人奇 くも其発源を革命の主因たりし精神の発動に帰せ ざるべからざる数多の理由を見出すなり。 渠(かれ)は革命の成功と共に、一たびは沈静した り、然れども此は沈静にあらずして潜伏なりき。 革命の成るまでは、皇室に対し国家に対して起り たる精神の動作なりき。既に此目的を達したる後 は、如何なる形にて、其動作をあらはすべきや。

《「真説・古代史」拾遺編》(8)

多次元史観 ― 関東王朝(6)


 前回で「関東王朝」を終わる予定だったが、 『日本列島の大王たち』に鉄剣銘文の古田読解の 根拠が詳細に掲載されていたので、それを取り上 げることにする。これによると、定説派論者と古田 さんとの、古代の文物を読解する上での方法論上 の違いが鮮明である。とても参考になる。どちらの読 解が妥当か、私にはもう明らかだが、はたして どうだろうか。(全部読んだ上で記事を書くべきところ、読 みながらの同時進行なので、後から重要事項に気づ くことがある。ご容赦を。)

 定説派論者と古田さんの読解で大きく異なる点を 対比しながら、古田読解の根拠を読んでいこう。 (赤字が古田読解。以下〈フ〉と記す。青字 が定説派論者の読解。〈テ〉略記す。)

(1)
乎の獲居の臣、祖を上(まつ)る。冨比垝 、其の児、多加利足尼と名づく。

オノワケノオミ、上祖名(かみつおやのな)オ オビコ、其の児の名カリノスクネ、

 〈テ〉では「上祖」を「カミツミオヤ」と読んで いるのに対して、〈フ〉では「祖を上る」と読んで いる。

 〈テ〉のように読むと、「乎獲居臣の上祖の名、 意冨比境」にはじまり、「其の児の名」を七回くり かえした上、最後はまた「其の児の名、乎獲居臣」 で終ることになる。つまり、同一人から始まって 同一人に終る文脈が所有格関係で連接されている。 不自然だ。

 〈フ〉では、「平の獲居の臣、祖を上る」と読み、 「意冨比境・其の児、多加利足尼」の〝二祖をまつ る″意としている。

(2)
世々杖刀の人首と為りて奉事来至す。

世々。杖刀人(じょうとうじん)の首 (かしら)と為して奉事(つか)え、今に至る。

 問題点が2点ある。

第一点:「杖刀人首」の読み
 「刀」で区切るか「人」で区切るかの違いだが、 意味は大きく違ってくる。

 〈テ〉ではその後、「杖刀人」を「タチハキ」 と訓じ、「首」を「ヲサ」と訓じている。この場 合の問題点は、何よりもまず、「杖刀人」という 成語は例がないことである。

 ちなみに、古語辞典では「タチハキ」の漢字表記は「帯刀」 であり、「東宮坊を護衛した武者」という意と記さ れている。要するに「門番」である。「門番」でかつ 大王を「左治」する人物とは何者だろう。

 〈フ〉では「杖刀」で区切っている。「杖刀」なら 例があると、古田さんは次のような例をあげている。

羽(関羽)・飛(張飛)、並びに杖刀、立直す。 (山陽公戦記『三国志』萄志、第六巻、裴松之注 引用)

「杖剣」の例はさらに多い。例えば

平(陳平)、身づから間行し、杖剣して亡(に) ぐ。(『史記』陳蒸相世家)

鯨布、杖剣し、以て漢に帰す。(『後漢書』 隗囂(かいごう)伝)

 「杖刀」あるいは「杖剣」とは「刀(剣)を 杖のように突く」ことである。そして上の例では、 いずれも主格は将軍である。門番などではない。

 したがって「杖刀人首」の意味は、「刀を杖の ようについた人首(首長)」、つまり武将のこと である。

第二点:「奉事」とはなにか
 この文言は二回使われている。〈テ〉ではこれを 「大王に事(つか)え奉る」意ととっている。 「獲加多支占(口の中に「九」)」を「ワカタケル」 と読みたいので成り行き上そうせざるを得ない。

 これに対して〈フ〉は、「祖先に事え奉る」意と している。冒頭の「上祖」を「祖を上る」としてい るので、そのような意となるのが自然だ。また、古 田さんは山ノ上碑・金井沢碑(群馬県)の同形式の 碑文

母の為に記し定むる文なり。(山ノ上碑)

七世の父母、現存の父母の為に……是の如く知識 に結びて天地に誓願し仕え奉る石文。(金井沢碑)

をあげて、『ここには〝母をまつり、祖先につか える″という、関東における祭事の伝統が表現さ れているのではあるまいか。』と、一つの仮説を 提出している。

(注:以下、「鹵(口の中に「九」)」という漢字を〈占+九〉 と書くことにする。)

(3)
今、獲(え)て、加多支〈占+九〉大王 ・寺(じ)、斯鬼宮に在り。時に吾左(たす)けて 天下を治(おさ)む。

ワカタケル大王の寺(役所のこと)斯鬼官(しき のみや)に在りし時、吾、天下を左治(さじ)し、

 一番問題のところだ。「獲加多支〈占+九〉大王寺」 を〈テ〉は、「寺」を役所の意に解し、「ワカタケ ル大王の寺」と読んでいる。「獲加多支〈占+九〉」 を「ワカタケル」と読むという結論がまずあって、 他の部分の読解はそれとの整合性に四苦八苦した結果 の観がある。「役所(寺)が宮に在るというのは文脈 上成立しえないのではあるまいか。」というのが 古田さんの批判である。

 〈フ〉の「獲て、加多支〈占+九〉大王・寺」と いう読みの妥当性は何か。

 〈フ〉は、「加多支〈占+九〉」(形代、潟代か)は民族風名 称で「寺」は同一人物の中国風名称と解読している。 そのような形式の名称例をあげている。

烏累単于咸(うるいぜんうかん)(『漢書』匈奴伝下)

 「烏累」は民族風名称、「咸」は中国風名称である。

日十大王年(隅田八幡神社の人物画像鏡)

 古田さんはこれも「日十(ひと)」が民族風名称、 「年」が中国風名称として訓むのが妥当だと言う。

 「寺」については、一案として、「畤」の略画という 説を提出している。意味は「まつりのにわ」=「天 地の神霊を祭る処」。

 さて、ここで取り上げてきたような古代の銘文の 解読は、その銘文の中だけでは、 すべてをキチンと確定できるわけではない。古代史と いう全体の中に置いて、その妥当性が判定されなければ ならない。つづまることろ、その史観が妥当かどうかに 帰着する。ヤマト王権一元史観か多次元史観か。 詭弁・強弁によって構築されてきたヤマト王権一元 史観による古代史のあまたの矛盾・不審・謎が、 多次元史観の観点からはほとんど全てすっきりと 解明されることを、古田古代学によって、私(たち)は縷々と 学んできた。ともに考えたいことが、まだまだ沢山ある。

《「真説・古代史」拾遺編》(7)

多次元史観 ― 関東王朝(5)


第三点
 稲荷山古墳は、下の図のように、粘土槨と礫床 と二つの墓室がある。つまりそこには二人の人物が 埋葬されている。

稲荷山古墳の構造


 定説派論者たちはこの重要な事実をまったく無視 して立論している。初めに結論(しかも誤った結論) ありで立論するとき、必ず詭弁・強弁を弄せざるを 得なくなる。重要な事実を見て見ぬ振りするのも 詭弁の一種だ。こういうような手法で成り立って いる理論は学問ではない。

 さて、中心の位置にある粘土槨の方はすでに盗掘 されていた。これに対し、側にやや斜め向きの位置 にあった礫床の方は盗掘を免れていた。盗掘者は 脇の方にあるもう一つ墓室を見逃していた。問題の金 文字鉄剣はその礫床の方から出土した。

 以上のことは何を物語っているのか。この稲荷山 古墳の「主」は当然中心の位置にある粘土槨の被葬者で あり、脇の方の礫床の被葬者(乎獲居臣)はその 「主」の従属者である。二つの墓の位置関係はそ のような身分関係を語っている。他に考えようは ない。

 するとどういうことになるか。名文の中にあらわ れている現存(鉄剣作製当時)の人物は「X大王」 と「乎獲居臣」の二人だけである。もし「X大王」 を「ワカタケル=雄略」だとすると、「乎獲居臣」 の「主」が名文中にまったくあらわれていないこと になる。肝心の稲荷山古墳の「主」、粘土槨の人 物は宙に浮いてさまよってしまう。銘文の中の 「X大王」こそこの粘土槨に葬られた「主」であると 考えるのが論理のおもむくところだろう。古田さん の次の推論は説得力がある。定説派論者の反論を 聞きたいものだ。

 この稲荷山古墳のような位置関係の意味するとこ ろ、それは次のようだ。

 まず、粘土槨の人物が死んだ。この稲荷山古墳が 作られた。もちろん、通例通り正常な中央部に その遺骸は葬られ、粘土で木棺のまわりはおおわ れた。この人物をAとしよう。もちろん、Aはこの 地帯の権力者であった。

 そのあと、Bが死んだ。Bは生前、Aを慕っていた。 あるいはAを補佐することを己が生涯のつとめとし てきた。周囲も、それをよく承知していた。そこで Bが死んだとき、彼のために、個別の古墳を作るこ とをせず、Aの古墳(稲荷山古墳)の中に副葬する こととした。あるいはBの死のまぎわの遺言だった かもしれぬ。少なくとも、葬る人々にとって、その ような〝葬り方″は自然であり、Bの遺志にかなう もの。そしてAもまた喜びとするところ、そのよう に考えられたのであろう。

 このように、一つの古墳に二つの遺骸という場合、 両者が「夫婦」であったらしい、そういうケースの あることはよく知られている。しかし、これはそれ ではない。Bは男なのである。とすれば、Aは独身の まま若くして死んだのかもしれぬ。もちろん、その ようなことは一個の想像にすぎないけれど、想像で ない、確かなことは、先にしめした位置関係、その 位置関係のしめす生前の両者の身分関係、そして両 者の〝つながりの濃さ″である。何しろ、死後も 〝身をそばに横たえる″ような間がらなのである から。

 もうおわかりであろう。この金文字の語るところ、 鉄剣を書かしめた人物「乎獲居臣」が「大王」と呼 んで敬慕した人、死後も、その鉄剣をにぎりしめて、 あるいは身のそばにピッタリとつけてはなさなかっ た人、その金文字の指さす人、それは、この「粘土 槨の被葬者」をおいては考えられない。もしも、 そう考えないとしたら、遠い大和の権力者(雄略) にあててしまったとしたら、この稲荷山古墳の主 (粘土櫛の人物)は、ポッカリと空白の中にただよ い、鉄剣の中にあるべき位置がなくなってしまうので ある。つまり、金文字と古墳の内部状況とがまった く相矛盾して収拾がつかないのである。

 岸俊男さんも、やがてこの「矛盾」に気づき、 〝今後の課題″として「保留」された。しかし、 「保留」されたまま、その回答は出ぬままに終っ たのである。

 銘文の「誤」読解を主導した一人、故・岸俊男 京大教授も罪なお方だ。その「誤」読解が大手を 振って教科書(参考書)を闊歩している。

 最後にもう一つ、銘文冒頭の「辛亥年」につい てふれておきたい。定説では471年としているが、 それが本当に正しいのだろうか。古田さんは2003年 度の日本思想史学会の報告レジメ「稲荷山鉄剣銘 文の新展開について」で次のように述べている。

 近年、年輪年代測定や14C放射性炭素年代測定によって、 従来の「考古学編年」が少なくとも「約100年前後」、 さかのぼって「訂正」せられねばならぬ状況となって いる。従って25年前(1978)、この鉄剣銘文の「辛亥」 年を以て、「471」年に当て、倭王武の時代(南朝劉 宋の順帝の昇明2年、478頃)に相当する、としてきた、 そしてこれを大和の雄略天皇に当ててきた従来説は、 (新しい14Cや年輪の年代測定に対応させて)学問的 に再考慮・再検討されねばならぬこと、必然である。 然るに、最近(2003年9月27日(土))の埼玉県の県立 さきたま資料館のシンポジウムでも全くこれが顧慮 されていない。これらは学問的な誠実性を公人とし て欠くものではないか。同時に、大学や高校等の学 校教育上においても、「率直に事実に対面すること を回避せよ。」と、若者たちに教えていることにな らないか。不当である。

 「倭王・武=ワカタケル(雄略)」という誤った「定説」 もいまだに大手を振って闊歩しているようだ。

《「真説・古代史」拾遺編》(6)

多次元史観 ― 関東王朝(4)


 さて、鉄剣とともに埋葬された「乎獲居臣」 が仕えた大王とはだれか。「X大王」と呼ぼう。

 定説派論者は「獲加多支鹵」(原文では「鹵」 の「□」の中は「九」)を「ワカタケル」と読ん で雄略天皇と断じた。これがとんでもない誤った 読解であることを古田さんは次の三点から論証し ている。

第一点:X大王の居宮は「斯鬼宮」であること。
第二点:「左治天下」という句の意味。
第三点:稲荷山古墳の出土状況との関係。

第一点
 「定説」派の学者たちは、「X=ワカタケル= 雄略」としたのだから当然「斯鬼宮」はワカタケル の宮殿とせざるを得ない。しかし、そんな記録はどこにも ない。記紀ともにワカタケルを「オオハツセノワカ タケル」と呼称して いるようにその宮殿はハツセの朝倉宮である。

長谷(ハツセ)の朝倉宮(古事記)
泊瀬(ハツセ)の朝倉宮(日本書紀)

 これに対して「定説」派は次のように強弁する。
「この長谷の朝倉は、昔は磯城郡に入っていたの だろう」
 何の根拠もない推測だ。記紀には「シキ」の宮 殿について

師木の水垣宮(崇神天皇)
師木の玉垣宮(垂仁天皇)

とあって、「ハツセの……」と「シキの……」が 別領域であったことをハッキリとしめしている。

 X大王がワカタケルだとすると、「乎獲居臣」は 自らが仕えた大王の「ハツセ」と「ワカタケル」 の分かちがたい結びつきを無視して、「斯鬼の宮 に在り」としるしたことになる。考えられない。

 では「シキの宮」はどこにあったのか。埼玉県 南境に近く志木市がある。この「シキ」は和名抄 当時からの古地名である。その上、もっと稲荷山 古墳に近い「シキ」が見つかった。栃木県藤岡町 の大前(おおまえ)神社の境内の石碑(明治12年 建立)に、「大前神社、其の先、磯城宮と号す」 いう記述がある。

 (大前神社の石碑の文言)を見出したうれしさを、 わたしは忘れることができない。昭和53年12月中旬 のことであった。ここは「字(あざ)」も、「磯城 宮」である(神戸の地名研究家、今井久順さんのお 知らせを受け、前沢輝政氏『下野の古代史』〈上〉 有峰書店、昭和50年刊によって、右の所在を知る)。

 わずかに二十キロほどの地点に、これほど明瞭 な「磯城宮」がある。延喜式に出ているだけでも、 平安期に存在した名社の〝保証付き″とされてい るのに、それ以前にさかのぼる古名というのだか ら、これを無視する〝手″はない。

 第一地元にこれだけ「シキ」があるのだから、 もし、そうではない「大和の磯城郡の宮殿だ」と いいたいのなら簡単だ。当然「夜麻登(ヤマト) の斯鬼宮」と書けばいい。これに反し、当地の著 名な「斯鬼宮」なら、「~の斯鬼宮」はいらない。 ただ「斯鬼宮に在り」でいい。これは自明の道理 ではあるまいか。

 その上、雄略自体「師木の~宮にいた」とは伝 えられていない。それを一種〝こじつけ″て、 「磯城郡に属していた」ことにもしなければなら ぬ。こんな記・紀の改変作業までやらなければ 〝合わせ″られぬとしたら、これはやっぱりおかしい。 そう思うのが通常の人間の理性ではあるまいか。 「東大教授」とか「京大教授」といった肩書きに よらず、ことの道理によって判断できる人、そう いう人ならこの道理を疑うまい。

第二点
 「左治天下」という語句は中国の古典に有名な 成句である。名義上の中心権力者(天子または王) が幼少だったり女性だったりした場合、その叔 父や弟に当る親権者がその統治を補佐する行為を 「佐治」と言っている。

 ところで、「X大王」をワカタケル=雄略とした 場合、どうなるか。雄略は〝幼少か女性″ で実際の統治ができず、「乎獲居臣」が実際 上の「天下の統治」を補佐して行った実力者、 ということになる。もちろん、このような人物は 記紀には影も形もないし、ワカタケル自身強壮に して武断専行の人物であり「佐治」を必要とする とはとてもあり得ないことだ。

 これに対し、次のように解して何の矛盾もない。 つまり、「X大王」は「磯城宮」にいた中 心の大王であり、北関東から関東平野一帯を「天 下」として君臨していた。そして「コノワケノ臣」 は、その大王に仕えた実力ナンバーワンの人物で、 大王を「佐治」していた、と。

《「真説・古代史」拾遺編》(5)

多次元史観 ― 関東王朝(3)


 稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文の定説となっている 読解は果たして正しいか。定説派学者の読解と古田 さんのそれとを対比してみよう。(赤字が古田さん の読解で、青字は現代語訳)


(表)


辛(亥)の年、七月中の記。
辛亥の年、七月中に記した。

辛亥の年の七月中記す。


乎の獲居の臣(「コノカキノオミ」か)、 祖を上(まつ)る。意冨比垝(「イフヒキ」か)、 其の児、多加利足尼(「タカリノソクニ」か)と 名づく。
わたし、乎の獲居の臣は、先祖(二祖)をまつった。 意冨比垝(「いふひき」か)とその児、第二代多加 利足尼(「たかりの足尼」か)がこれである。

オノワケノオミ、上祖名(かみつおやのな)オ オビコ、其の児の名カリノスクネ、


其の児、弖巳加利獲居(「テイカリノカキ」か) と名づく。其の児、多加披次獲居(「タカヒシ ノカキ」か)と名づく。其の児、多沙鬼獲居 (「タサカノカキ」か)と名づく。其の児、 半弖比(「ハテヒ」か)と名づく。
その児は第三代弖巳加利獲居(「ていかりの獲居」 か)、その児は第四代多加披次獲居(「たかひし の獲居」か)、その児は第五代多沙鬼獲居 (「たさきの獲居」か)、その児は第六代半弖比 (「はてひ」か)、

其の児の名テイカリのワケ、其の児の名タカヒシ のワケ、其の児の名タサキワケ、其の児の名ハテ ヒ

(裏)

 其の児、加恙披余(「カサヒヨ」か)と名づく。 其の児、乎の獲居の臣(「コノカキノオミ」か) と名づく。
その児は第七代加恙披余(「かさひよ」か)、そ の児が第八代のわたし、乎の獲居の臣である。

其の児の名カサヒヨ、其の児の名オノワケノオミ。


世々杖刀の人首と為りて奉事来至す。
世々、杖刀の人首として、先祖に仕えてきた。

世々。杖刀人(じょうとうじん)の首 (かしら)と為して奉事(つか)え、今に至る。


今、獲(え)て、加多支鹵(「カタシロ」か) 大王・寺(じ)、斯鬼宮に在り。時に吾左(たす) けて天下を治(おさ)む。
今、信任をえて、加多支鹵(「かたしろ」か) 大王(名は寺〈じ 畤か〉)が斯鬼(しき)宮に あって統治しておられたとき、わたしはこれをた すけて天下を治めた。

ワカタケル大王の寺(役所のこと)斯鬼官(しき のみや)に在りし時、吾、天下を左治(さじ)し、


此の百錬利刀を作り、吾が奉事の根原を記せ 令(し)むるなり。
この鍛え抜かれた鋭い刀を作り、わたしの先祖に 仕える、その根原を記させたのである。

此の百錬の利刀作らしめ吾、記し奉事するは□□ なり。  (口の二字は未解読)


 古田さんは銘文の解読に際して次の2点に 留意すべきことを強調している。

第一点
 固有名詞の読みはいずれも試案であって、確定的 ではないこと。例えば、魏志倭人伝の「卑弥呼」や 「難升米」は今「ひみこ」・「なしめ」と読み慣わ しているが、それとて「正確な読み」とは直ちに 確定できない。

 銘文中の「大王」名も他の 人名(8名)も読みを確定することができない。 これが原則だ。にもかかわらず、定説派論者は 極力、銘文を「記紀」の王名表(天皇の列名)に合 わせて読もうとする無理を冒している。古田さんは 慎重に( )内に(「 」か)として、その読み が一つの試案にすぎないことを示している。

 くり返していう。王名表に合わせてピタリ。こう いうやり方は危険だ。一元主義(天皇家が唯一 の中心権力者である、との立場)を前提としている。 主観主義の立場である。イデオロギー(天皇家中 心主義)優先の立場だ。わたしたちは人間の歴史 学を欲するならば、これに別れを告げねばならぬ。

第二点
 この銘文には「比鹵」「足尼」「獲居」などの 官職名・称号と思われる文字がある。それらはあ るいは「ヒコ=彦」「スクネ=宿爾」「ワケ=別」 なのかもしれない。しかし、もし仮にそうだとし ても、近畿ヤマト王権の中の同音称号と同じ意味 の称号とは限らない。また、ヤマト王権 内で「ヒコ→スクネ→ワケ」といった形で称号の 時間的変遷があったわけでもない。銘文中の称号 とヤマト王権内の称号とが直ちに〝同類″とみな すのは早計である。

 一元主義でなく、正当な多元主義の立場に 立てば、関東の大王家にはこのような称号が歴史 的に存在していた ― そのように考えるのが正 当だ。わたしにはそう思われる。

 従来の「定説」流の論者は、はじめからこれを 「天皇家の中の官職名」「天皇家の配下の称号」 ときめてかかってきた。

 しかし、考えてみよう。お隣の朝鮮半島。新羅、 百済、高句麗から伽耶(かや)諸国まで、それぞれ独自 の官職や称号をもっていた。それは三国史記や三 国遺事に書かれてあり、それを疑う論者はいない。 とすれば、朝鮮半島よりずっと広い日本列島。ここ には、官職名や称号の「発注所」つまり作製中 心が〝たった一つ″だったといって誰が信じよう。 少なくとも、多元的に存在して当り前、そう考 えてなぜおかしい。おかしいのは、一元主義者の 先入観の方ではないだろうか。

 以上のように考えることが正しいとすれば、 あるいは自然であるとすれば、この鉄剣の金文字 に出てくる官職名や称号についても、近畿の天皇 家の中のそれと強引に結びつけてはならない。それ がすじだ。

(中略)

 現代では、確かに、文化勲章や勲一等の勲章を 授けたりする〝特権″は天皇家に限られているで あろう。少なくとも、この日本列島の中ではそれ は確かだ。だが、そのような現代の特質を古代に もまた、もちこむとしたら、わたしにはそれは正 当とは思われない。

 むしろ、そのような現代人の「固定した視角」 から解放されること、それこそ古代史を探究する 者にとって根本の必要事、わたしにはそのように 思われるのである。

 否、古代史のみならず、科学としての、人間の 歴史を学ぶため、それは基本をなすイロハではな いだろうか。稲荷山古墳出土の鉄剣の金文字、そ れはそのイロハをわたしたちに問いかけ、わたし たちをためす、そのための貴重な試金石だったの である。

《「真説・古代史」拾遺編》(4)

多次元史観 ― 関東王朝(2)


 稲荷山古墳出土の鉄剣から読み取られた銘文は 次の図のとおりである。

稲荷山鉄剣の銘文


 当初、学者たち(狩野久、田中稔、岸俊男氏ら)の解読を元に、埼玉県教育委員会 が発表した読み方は次のとおりである。

辛亥の年の七月中記す。オノワケノ オミ、上祖名(かみつおやのな)オ オビコ、其の児の名カリノスクネ、 其の児の名テイカリのワケ、其の児 の名タカヒシのワケ、其の児の名タ サキワケ、其の児の名ハテヒ

其の児の名カサヒヨ、其の児の名オノワ ケノオミ。世々。杖刀人(じょうと うじん)の首(かしら)と為して奉 事(つか)え、今に至る。ワカタケ ル大王の寺(役所のこと)斯鬼官 (しきのみや)に在りし時、吾、天 下を左治(さじ)し、此の百錬の利 刀作らしめ吾、記し奉事するは□□ なり。  (口の二字は未解読)







 上の銘文で傍線を付した部分が「定説」で「ワカ タケル」と読まれている文字である。一方、江田船 山の鉄刀も銘文中に「獲……鹵」という文字列があ る。「……」の部分は3~4文字分が欠けている。

(注)
「鹵」のところは古田さんの著書では「□」の中が 「ヌ」という文字である。これが直接鉄刀から読み 取られた字形だと思われる。鉄剣の方の該当の文字 は「□」の中が「九」に似たものになっているが、 どちらも漢和辞典にはない文字だ。ここではそれらの 文字の代わりに「鹵」を用いているが、これは 高校生用の参考書「日本史図表」(第一学習社版) でその文字を用いているのにならった。しかし、 現在使われていない文字だからといって代用文字 で済ましてよいものだろうか。少なくとも学問上の 議論ではそれはルール違反だろう。あるいは鉄剣の 方の文字も鉄刀の方の文字も「鹵」の異体文字であ るというようなことが実証されているのだろうか。 なお、「鹵」の訓読みは漢音では「ロ」、呉音では 「ル」である。

 さて、上記の高校生用参考書の記述が「定説」 ということになる。次のように解説されている。

(1)稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文について
 冒頭の「辛亥年」は471年説が有力である。ヲワケ がワカタレル大王の統治を助けた記念として、この 刀を作ったという由来が記されている。

(2)江田船山古墳出土の鉄刀の銘文について
 銘文の冒頭「獲□□□鹵大王」は稲荷山鉄剣銘文 の発見より「獲加多支鹵」(ワカタケル=雄略天皇) であるとする考え方が有力となった。


 まず(2)についての古田さんの批判は次のよう である。

 すでに最初、新聞社からの発表以前の第一報のと きから、わたしにはわかっていた。少なくとも、江 田船山の方は、「ワカタケル」と読むのは無理だと いうことが。なぜなら、こちらは「獲□□□ 鹵(「□」の中が「ヌ」の字)」という形。なか、 3~4文字分が欠けているのである。この文字に 「加多支」と補なって、「ワカタケル」と読むや り方。これは駄目だ。

 むろん、自分の趣味や推量でそういう文字を当て、 これも「ワカタケル」じゃないかな、そう思ってみ るのはいい。楽しむのは勝手だ。しかし、自分で補 った文字をもとに読み、それを論証の〝主柱″にし てはならない。枝葉末節の〝つけ足し″にならいざ しらず、こんなものを「論証の主柱」にする、それ は駄目。これがわたしの立場だ。人間として、当り 前すぎる話ではあるまいか。

 わたしはこれを「自補自証主義」と呼ぶ。温厚で 慎重な論証態度で知られる故岸俊男さん(当時、京 大教授)だが、この千載一遇の大発見を前にして日 頃の〝慎重さ″をいささか失念されたのではないか。 わたしにはそれが惜しまれる(岸さんたちが、最初 の読解をリードされたことが知られている)。

 この点、故井上光貞さん(当時、東大教授)はも っと〝天衣無縫″だった。「~大王」とある。「大 王」とあれば天皇家。それはきまっている。その上 に「ワカタケル」とあれば雄略。それにきまってい る。他に考えようがない ― そういう手法だった。

 この手法には、根本的な無理がある。わたしには そう思われる。なぜなら、朝鮮半島を見てみよう。 そこには少なくとも三~四個の「大王家」がある。 新羅・百済・高句麗。それに駕洛国などだ。半島側 の史書、三国史記・三国連事を見れば一目瞭然だ。 それぞれ「大王」の名で呼ばれている。

 あの半島ですら、五~六世紀にはそうだった。 新羅によって「統一」されたのは七世紀末のこと である。それなのに、ずっと広い日本列島で、 「大王家は一つ」、それは天皇家だけだ。そうき めてかかっていいものだろうか。「信念」や 「信仰」ならともあれ、客観的なるべき学問研究に おいて、それはまことに危険なことではないだろうか。 五~六世紀の当時において、「大王家」が一つだっ たか、それとも複数だったか。それは研究の結果、 至るべき結論だ。けっして研究の出発点におくべ き大前提ではない。これがわたしの立場だった。

 ことに江田船山の場合、従来は 「復(「ぎょうにん偏」のところが「けもの偏」の字)之 宮瑞歯」と補って「タジヒノミヤミズハ」と読み、 反正のことだといってきた(福山敏男)。教科書 にもそう書かれていた。それを今度は、別の字を 補って、別の読み方をし、雄略だという。勝手す ぎはしないか。これがわたしの正直な感想だった。

《「真説・古代史」拾遺編》(3)

多次元史観 ― 関東王朝(1)


 昨日(12月4日)の東京新聞夕刊が、三鷹の天文 台構内古墳から全国4例目の「上円下方墳」が発見 されたというニュースを報じていた。

 上円下方墳というのは「四角形の方墳の上に円形 の土盛りを重ねた構造」の古墳で、これまでに確認 されていたのは次の3例である。
「石のカラト古墳」(奈良市)
「清水柳北1号墳」(静岡県沼津市)
「武蔵府中熊野神社古墳」(府中市)
 築造の時期は古墳時代終末期(7世紀頃)と推定 されている。

 この発見について、坂詰秀一(立正大学名誉教 授)という学者が次のようなコメントをしている。

 上円下方墳は、奈良市と沼津市、府中市にある が、府中市での発見は例外と思われていた。三鷹 市でも見つかったことは多摩川流域に中央政権の 影響を受けた文化が形成されていたことを示す有 力な材料となる。これまで円墳と思われていた古 墳の下に方墳がある可能性も出てきた。7世紀の 東国の古墳の定義を考え直す必要がある。

 おいおい、「中央政権」って、一体なんだい。 7世紀に「中央政権」なんてあったのかい。こういう 発想はまさにヤマト王権一元主義という泥沼の中か ら生まれてくる。「近畿→その他の地方」とう 一方通行の関係しか発想しない。なんでも近畿天皇家 の影響下におきたがる。

 古田さんが提唱している多元史観で言えば、府中 も三鷹も「関東王朝」の勢力範囲である。と言うと、 「関東王朝」なんてあったのかい、という逆詰問 が出てきそうだ。

 「関東王朝」という古田さんの仮説は、稲荷山古 墳から出土した「鉄剣の銘文」の解読から生まれた。 その論証のあらましを紹介しよう。(新泉社版『日 本古代新史』を用いる。)

 稲荷山古墳(埼玉県行田市)から鉄剣が出土した のは1968年のこと。その鉄剣をエックス線調査した ところ、115文字の金文字が見出された。 それがニュースとして日本中を湧かしたのが1978年 9月19日であった。100年に一度の大発見と騒がれた。 新聞・テレビで連日大きく取り上げられていたので、 私にもおぼろげな新聞紙面の記憶が残っている。た だし、その頃の私の古代史についての知識は学者た ちの解釈を鵜呑みに してすます程度のものだった。

 定説派学者(ヤマト王権一元主義者)たちは の見解は、その銘文の一部 を「ワカタケル」(雄略)と読んで、それを江田 船山古墳(熊本県)から出土していた鉄刀の銀文 字に敷衍して、雄略の頃すでに ヤマト王権が九州から関東まで統一していた証拠と した。そして、それをもって古田九州王朝説が否定さ れたかのようにコメントする学者もあったようだ。 その当時のことを古田さんは次のように書きとめ ている。
 埼玉県稲荷山の鉄剣から金文字発見。 ―この ニュースは電撃のように日本中を駆けめぐった。 1978年9月19日のことである。

 それから数ヶ月、その解読にあけくれた日々のことを、わたしは生涯忘れることはないであろう。 スリリングな緊張に満ちた朝夕だった。

 新聞紙面には、次々とあらわれる学者たちの意見 に、「これで九州王朝説は否定された」という口吻 が洩れて、わたしを驚かせた。否、喜ばせた。

 なぜなら、わたしの度重なる提唱にもかかわらず、 それまで学者たちの「反応」はなかった。今までに も、何回か書いたように、″異様な沈黙″だった。 〝学者たちはわたしの本を読んでいるのかな″。 ときとしてそのようにいぶかることがあった。 孤立の探究の中で、そのような思いが頭をかす めることがあった。

 それが破られた。やはりかれらは読んでいたのだ。 読んで、息をつめていたのだ。反撃の機をうかがっ ていたのである。そして今回の金文字発見。そこに、 「ワカタケル」とあった。雄略だ。似た字づらが熊 本にもある。江田船山古墳から出ていた銀文字の鉄 刀だ。あれも「ワカタケル」にちがいない。雄略だ。 東に埼玉、西に熊本、いずれも雄略。これこそ「雄略 の日本統一」の証拠だ、と。

 右の七文字が、スクープの新聞(毎日)の第一面 に躍っていたのを御記憶の方もあろう。まるでスポ ーツ新聞の「巨人優勝」といった大文字よろしく。 普通の読者には「金文字の鉄剣があった」は、確か にニュースだ。しかし、「日本統一」がなぜそんな に問題なのだろう。そういぶかしがる気特が一瞬よ ぎった人もあるかもしれぬ。それが正当な感覚だ。 人間の常識だ。しかし、じつはその七文字の中には、 次の〝裏ニュース″もまたふくまれていたようである  ― 「古田の九州王朝説は否定された」と。

 その裏づけが当時、異常なほど、新聞社などから わたしのところへかかってきた電話だった。在野の 一探究者である上、ことさら中部関東(埼玉)の研 究をしていたわけでもなかったから、これは〝異様″ だった。それは、じつは大学の学者たちの、わたし の九州王朝説に対する深い関心、その反映だった。 それをジャーナリストの触覚がキャッチしたのであ る。

 しかし、そのような喧噪の中で、わたしの探究は 進展していた。

今日の話題

大日本帝国は「美しい国」だったか。


 職務を投げ出して狆ゾウはコケタけど、狆ゾウが 掲げたキャッチフレーズ「美しい国」もコケタわけ ではない。

 「美しい国」は「戦後レジームからの脱 却」とワンセットになっているが、そこには新たな ビジョンが何もなく、未来へのどんなイメージも喚 起しない。「過去の亡霊」が見えるばかりである。 「戦後レジームからの脱却」とは「戦後レジームの 止揚」ではなく「戦後レジームからの後退」でしか ない。

 狆ゾウはコケタが、大日本帝国という「過去の亡 霊」に恋い焦がれているゾンビはゴマンといる。その 先頭で「命がけで憲法を破り」「東京から国を変え る」と狂騒しているのが沈タロウだ。

 「過去の亡霊」を生き返らす決め手は教育であるこ とをゾンビたちはよく心得ている。狆ゾウが一番 熱心だったのは教育基本法の改悪であり、「教育 再生会議」であった。沈タロウは「日の丸君が代 の強制」を突破口に都立学校の支配に乗り出した。 ともに目指すところは教育ではない。戦前戦中に 行われていた管理・飼育だ。子どもだけではない。 親も管理・飼育しようとしている。

 管理・飼育の対象にされているにもかかわらず、 ゾンビたちの教育支配を支持してしまう者が大勢 いる。彼らは錯覚をしているのだ。戦前戦中の学校は 規律正しく、子どもたちはしっかりと道徳を身につ けていてよく勉強をしたし、非行もいじめもなかったと。 そして、今の子どもたちを嘆き、それは戦後民主教育が 子どもをあまやかしてきたからだと短絡する。

「若者にはある時期、規律を重んじるような機関 で教育することは非常に重要だと思っている。道 徳だとか倫理観だとかそういったものの欠落が、 今の規律の喪失につながっている気がする」

 この東国原宮崎県知事のそのまんま馬鹿丸出しの 「徴兵制はあってよい」発言もその延長上にある。だいたい、 そのまんま東に道徳や倫理を説く資格があるのか。 県知事になった途端に思い上がりもはなはだしい。 ビートたけしというゴロツキタレントの子分として講談社 を襲撃し、暴行罪で現行犯逮捕されたのは誰だ。 経営者が児童福祉法・青少年健全育成条例違反で 逮捕されたイメージクラブ店で、未成年少女 の性的なサービスを受けていた客は誰だ。オフィ ス北野の忘年会で、後輩タレントの頭部を蹴り 傷害容疑で書類送検されたのは誰だ。

 戦前はよかったという錯覚し、何でも戦後民主教育のせい にする短絡思考の持ち主に理論は通じない。 事実を示すしかないのだろうと、常々思っていた。 いま少年犯罪が増加しているというのも 、戦前戦中には少年犯罪が少なかったというのも ウソだ。それを示す統計や事実が掘り起こされる ことを願っていたところ、昨日の東京新聞の 「読書」欄に菅賀江留郎著「戦前の少年犯罪」 (築地書館)という本の紹介があった。評者は ノンフィクション作家の吉田司さん。
 団塊の親たちの経済力が潤沢だった1980年代の 少年少女の事件簿は家族パラサイト型で、いじめ の引きこもり自殺や家庭内暴力が多かった。90年 代デフレ不況でお小遣いに困った少女たちが路上 に進出し、「援助交際」という新風俗が始まった。 つまり不況や下流化が若者犯罪の増大・凶悪化を 招いたってのが、われわれの最近常識だ。本書はこ れに反論する。

 援交なんて戦前の流行風俗で少しも新しくない と、昭和初期から日米開戦期までの子供の犯罪記 事を列記する。

「昭和8年 女学校三年生(満15-16歳)らの桃色 遊戯グループ『小鳥組』逮捕」

「昭和16年 14歳ら女学生9人が不純異性交遊や援 助交際で全員逮捕」

 彼女らはみな中流以上の家庭のお嬢さんばかり。 下流社会での不純交遊は当たり前で新聞ネタにな らなかったという。

 その他にも親殺し・子殺し・老人殺しのオンパレ ード。戦前の少年犯罪の方が現代よりずっとドライ ・モーレツ・凶暴だったと著者は指摘する。

 「昭和2年 小学校で9歳の女の子が同級生殺害」

「昭和9年 中一(満12-13歳)連続通り魔が女性 27人を切る」

「昭和10年 20歳のニートが『働け』と言われて ナタで父親殺し」

 …そして最後に
「貧困ゆえの犯罪はほとんどなく、金持ちの子ど もが快楽殺人(中略)するような事件が多い」
と結ぶ。

 本書のねらいは明白だ―これらの歴史的データを 無視して語られる学者やジャーナリストのイマドキ の「キレやすい若者論」「下流化犯罪論」そして 「妄想の教育論」への挑戦状だ。

 そう〝貧困や不況が犯罪を生むのではない。拝金 主義(金銭の物神性)が異常几進した時にそれは生 まれる″という資本主義の要諦を本書は想い出させ てくれる。

 文中の白眉は、2・26事件の首謀者磯部浅一を 〝陸軍ニート″扱いにし、暗殺された高橋蔵相ら の重臣を「老人ばかり」と呼び、あの事件を戦前 最大の《老人殺しのニート犯罪》と分析した著者 のシニカルでお茶目な論理展開の部分だ。

《「真説・古代史」拾遺編》

射日神話


第920回 11月9日:『三本足のカラス』 の続編です。(なお、この記事の分類を「今日の話題 」→「《「真説・古代史」拾遺編》」に改めました。)

 三足烏を弓で射る射日神事は射日神話に由来す るわけだが、 その神話は地域によっていろいろのバリエーションがあ る。通例はおよそ次のような神話である。

『はじめ空には三つの太陽があって、人々は暑熱に 苦しんでいた。すると、神が弓矢で二つの太陽を次 々と射落としてくれた。以来、人々は安らかに暮ら せるようになった。』

 カラスは太陽を象徴しているわけだ。なぜカラスなの かというと、太陽の黒点を意味しているのではな いかという説があるようだが、詳らかではない。

 さて、荻原真子(おぎわらしんこ 千葉大学教 授)という学者さんが『アムール川流域の射日神 話』で報告している「射日神話」を、古田さんが、 取り上げている。(『盗まれた神話』)

 一人の男と一人の女がいた。三つの太陽があり、 大地はなかった。その当時は、草で小舎を立てた。 魚が(水から)跳ね出ると焼け焦げて死んだもの だ。草は燃え、そして、小舎も燃えてしまった。 男は戻って来て、新しい小舎をつくって待った。 太陽が現れたので、彼はそれを殺した。残ったの は二つの太陽だった。彼は小舎から石を投げつけ て、もう一つの太陽を殺した。それで残ったのは 一つの太陽となった。(ウリチ族)

 昔、二つの太陽があった。魚は跳びはねるとすっ かり焦げて死んだ。赤ん坊は生れても生きること が出来ず、(暑さのために)呼吸が出来ずに死ん だ。そこで老人が矢で太陽を射た。すると、太陽 は上へ逃げ去った。二つの太陽があった時、木も また良く生れる(育つ)ことが出来ず、(葉は) ちぢれ、(何故なら、太陽が低くて木々が枯れた ので)、石もやはりすっかり溶け、穴だらけにな った。二つの太陽があった時には。(オロチ族)


 民俗学(神話学)会では、現在に「遺存」する 神話・説話・伝承の「産出時期」を、ずっと新し いもの(たとえば、日本でいえば、室町・江戸期 など)と考える学者がおり、格別それに対する反 論も出ないという。また古代におけるヤマト王権 一元主義と同じように、ある神話を一つの「淵源」 とし、その類似のものはすべて「伝播」したもの とみなすような一元主義の立場をとるのが学会の 趨勢らしい。

 古田さんはここでも「一元主義」をとらない。 上の二つの射日神話について、次のように考える。

 前者は「弓矢」が出現せず、「石」だけが〝道具″ として用いられている。あの「狩猟時代」の開始前、 人類が弓矢を発明する以前の時間帯(「投石時代」) に「産出」された説話である。
 後者では、「弓矢」が主要な道具として登場する。 しかし、金属器(銅器・鉄器)は出現して いない。「弓矢」が最大・最高の武器であった 「狩猟時代」において、各地で多元的に産出され た神話である。

 このように理解することによって、「神話学 批判」にとっての重要な基本テーマが導き出される 。

 これ(前者)は「弓矢発明」以前の投石時代に 誕生した説話である。しかも「神の発明(発見) 以前」の時代の成立だ。私はそう考えた。

 これに対し、通例のタイプの「射日神話」の場 合、「弓矢発明以後」「神の発明以後」 の姿を示している。旧石器後葉や縄文時代など、 「狩猟時代」の産物だ。もちろん農耕社会前の姿 である。

 一方、古事記・日本書紀の神代巻などの太陽神 (天照大神)は「弥生時代」、すなわち農耕社会 の姿を反映している。

 しかし、日本書紀冒頭の「神生み神話」(国生み 神話の前)には「人-神人―神」という、発展の三 段階が語られている。
 第一段階は「人」を主人公とした説話(「人話」)
 第二段階は「神人」を主人公とした説話(「神人話」)
 第三段階は「神」を主人公とした説話(「神話」)

 事実、日本書紀が引用する「一書」の中には、 天照大神の時代よりはるかに古い、縄文や旧石器 時代にさかのぼる説話群を含んでいるのだ。

 これを私は「紀尺」と名づけた。そしてこれが、 人類の各地の神話を分析する上で、有力な物指し (尺度)となった。

 結果、「人話は古く、神話は新しい」というテ ーマが生まれた。人類の歴史において、「神の誕 生」は新しい。最近(旧石器後半か、縄文期)の ことなのである。

 「アダムとイブ」すなわち人間はこの男女か ら始まったという考え方は、当然、人類の発生 と共に古い。これに対し、「神」というような 目に見えない存在に対する認識は、人類に とって、ずっと遅い後代(たとえば旧石器時代後半 期)になって生まれた、右よりはるかに「高度の認 識」なのである。さらに「エホバ(唯一神)」 の概念に至っては、もちろん、さらに一段と遅い 時期(たとえば前3000年頃。聖書のモーゼな どの時代)に生まれた(到達した)ものと思われ る。

 射日神話から思い出したことがある。もう20年ほ ど前こと、諏訪の霧ヶ峰を散策したとき、御射山 (みさやま)という地名に出会って、「ずいぶん変 わった地名だけどどんな由来があるんだろ?」と思 ったが、そのころは古代史にはほとんど関心がなく、 そのまま放置していた。それを思い出したわけだ。

 「諏訪市史」は霧ヶ峰について次のように解説 している。

 諏訪湖の北東方の山塊の総称で、大門峠から和田 峠に広がる東西6km南北8kmにわたる溶岩台地の高 原で、湿原植物の大集落があります。冬季はスキ ーの適地となり、また気流の関係からダライダー 練習の適地として有名です。
 ここにはわが国最古の競技場といわれる御射山 遺跡があります。これは、やじりの材料の黒曜石 が付近に産したので、弓の競技を行なったもので、 それがやぶさめ・笠懸けなどの行事を主とする 「御射山祭」に発展し、諸国から集まった人々が わざを競いました。遺跡には土段のさじきが草原 の中にあります。


 狩猟を主とする縄文時代では黒曜石の産地が繁栄 を極めた。オオクニの反映の背景にも隠岐島の黒曜 石がある。

 御射山で行われたと伝えられている「弓の競技」 は単なる競技ではなく、射日神事だったのではない だろうか。

 射日神話とは関係ないことだが、ここでもう一つ 思い出したことがある。「記紀」によれば、オオクニがアマクニの侵略 (国譲り)を受けたとき、ひとり武力抵抗を構えた タケミナカタは諏訪湖のほとりに追放されている。 すでに諏訪一帯にも、オオクニやアマクニとは 独立の繁栄した国家があったと考えられる。 諏訪大社の由来書に次のようにある。

 建御名方(タケミナカタ)神は大国主神と高志河 比売神の御子神で、八坂刀売神(ヤサカトメノカミ) は妃神です。下社には御二柱に併せて御兄神八重事代 主神を祀りますが、一般には古くから上社に男神、 下社に女神の信仰が広く伝わっております。
 (建御名方神と八坂刀売神の)御鎮座の年代、 起源等の詳細については知るすべもありませんが、 我国最古の神社の一つに数えられます。


 出雲大社も諏訪大社も、その起源は弥生時代より はるかに古い時代までさかのぼることは明らかだ。 日本列島の歴史は少なくともそこまでさかのぼって 捉えなおさなくてはいけない。その頃には日本列島 各地に独立した国家があった。ヤマト王権一元主義 では真実は見えてこない。