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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『大日本帝国の痼疾』(7)


「英将秘訣」についてのエピソード


「坂本竜馬作」説と司馬遼太郎

 「英将秘訣」が竜馬の手になるものとされたのは いつ頃からなのかわからないが、文献的には 千頭清臣著「坂本龍馬」(1914年)がよく取り上げ られているが、それよりさらに23年前の1891 (明治24)年に坂本龍馬著『英雄秘訣録』という表 題で『国民新聞』に掲載されているという。以来、 竜馬作という通説がつい最近まで信じられていた。 司馬遼太郎も竜馬作を信じて疑っていない。

 私のもっとも身近の青年が司馬遼太郎のファンで 「竜馬がゆく」を繰り返し読んでいる。
『竜馬作といわれているこんな語録があるの知ってい る?』
と「英将秘訣」のコピー見せたら、「英将秘訣」とい う表題は知らなかったが、数行読んで即座に
『「竜馬がゆく」に、竜馬が折に触れてひそかに手 帳に書き留めていた語録として、同じような文章が ある。』
という答が返ってきた。いろんな場面でいろんな条文 が使われているようだが、すぐにその一つを示してく れた。

 脱藩を繰り返す竜馬に対する山内容堂の激怒を 伝え聞いた竜馬がそれをせせら笑う場面である。

 大殿様の怒りが神戸塾の竜馬に伝わつてきたが、竜馬はせせらわらつた。
「小僧になにがわかるか」
と、竜馬はほざいた。武市にとつては「譜代重恩 の主君」というおごそかな存在の容堂も、竜馬の 口にかかつては、小僧である。
 もつとも、年齢ではない。としは、容堂のほう がはるかに上で、竜馬こそ小僧である。

 小監察がきた夜、竜馬はひそかに手帖に手きび しい文字を書いた。賢君を擬装した稀代の暗君容 堂へのはげしい反感がかかせたものであろう。

「世に生きものというものは、人間も犬も虫もみ なおなじ衆生で、上下などはない」(原文は文語)

 竜馬も、忠義だけを教えられて育った封建時代 の武士である。そういう感情を押しころしてこん な激越な文字をつづるというのは、国もとの勤王 党大獄が、よほどこの男に衝撃をあたえたのであ ろう。
 さらに竜馬は、書きつづける。

「本朝(日本)の国風、天子を除くほかは、将 軍といい、大名といい、家老というも、みなその 時代その時代の名目にすぎぬ。物の数ともなすな かれ」

 さらに竜馬は書いた。

「俸禄などというのは鳥に与える餌のようなもの だ。天道(自然)は、人を作った。しかも食いも のも作ってくれた。鳥のように鳥籠にかわれて俸 禄という名の餌をあたえられるだけが人間では ない。米のめしなどは、どこへ行ってもついてま わる。されば、俸禄などわが心に叶わねば破れた る草鞋を捨つるがごとくせよ」

 脱藩なにものぞ、という気魂が、乙女姉さんに 教えられたその奇妙な書のなかにおどっている。

 翌朝、竜馬は、土佐系の塾生をあつめ、
「藩じゃとか大殿様じゃとかの御意向をいちいち気に していては、此の大事は成らぬ。もし攻めて来れ ば、弾丸刀槍をもって馳走する覚悟だから、その つもりでいよ」

といった。

 このように引用されると、いかにも竜馬が言いそ うなことと思われる。しかし「英将秘訣」には、 司馬遼太郎が描く竜馬像、「あかるく、陽気で、 ひとに好かれ」「稀有な愛嬌と善骨をおび てこの世にうまれてきた」人物、とは千里の径庭が あるような条文もある。その点を司馬はどう折り合 いをつけているのだろうか。このことについてもく だんの青年に教えてもらった。「竜馬が行く(八)」 (文春文庫版)のあとがきである。次のように好 意的にとらえて「微苦笑」の対象としている。

 竜馬は、ふしぎな青年である。これほどあかる く、これほど陽気で、これほどひとに好かれた人 物もすくなかつたが、暮夜ひそかにその手帳にお そるべきことを書いている。

「悪人の霊魂を祈らばわれに智恵よくつくものな り。また釈迦、歴山王、秀吉、始皇。而して泉の 如く策略も亦生ず」

「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ」

「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばら るるものなり」

「天下のもの、各々其の主ありて一銭を奪はば盗 賊と称し、一人を殺せば人またわれを害す。かく て地震の霹れきするや数万の家を破壊し、洪水の 溢るるや幾億の生れい(霊)を殺す。是れを天 命といふて恐るるは何事ぞや、人倫もとより小量 にして大器なきが故なり。されば世界を鳴動せん と思ふ人こそは胸中に此の心なくんばあらず」

 儒教的な、きまりきつた道徳律が支配していた当 時としては、信じられないほどの独創的な語句であ る。

 「衆人みな善をなさば我れ独り悪を為せ。天下の ことみなしかり」

 竜馬は、稀有な愛嬌と善骨をおびてこの世にうま れてきた。ところがどうやら、あの大きな体で暮夜 ひそかに悪人たろうと念じていたらしく、それを思 うと微苦笑を禁じえなくなる。

 前回掲載した全文を読めば分かるように、ここ で引用されている条文はまだ穏やかな方である。 もっと冷酷無比な文言がある。それをさりげなく 避けていると思われる。

「平田学派作」説の根拠

1863(文久3)年に足利尊氏木像梟首事件と呼ばれ ている事件が起こっている。京都等持院の足利三 代将軍(足利尊氏・義詮・義満)の木像の首を取り、 三条大橋に梟首するという事件だ。

 犯人たちは木像の脇に立てられた板札で、足利 将軍を朝廷に対する逆賊と呼び、その不忠の臣の 木像の首をはねて梟首したと、その大義名分を語っ ている。そして暗に徳川幕府を指して、その罪悪は 奸賊・足利に超過するものがあり、ただちに旧悪を 悔い忠節を示さなければ、有志が大挙して罪科を 糺す、と弾劾している。

 この事件の犯人として17人の草莽の志士が逮捕 された。その中の一人、三輪田元綱の寓居で押収 された文書の一つが「英将秘訣」だった。逮捕者1 7人中13人が平田学派の志士だという。「秘訣」 が平田派の手になるものとされる所以である。

 『会津藩庁記録』に「鞅掌録」という文書が収 録されている。会津藩士・広沢富次郎(安任)が 記した日誌である。その日誌に上記事件の記録が あり、「英将秘訣」について次のように書き記して いる。


 英将秘訣ト題シ他見ヲ許サズトイフ書アリ。短 語ニシテ條條並陳セル中ニ世々活スルモノ皆衆生、 何レヲ上下トモ定メ難シ、只我ヲ以テ最上トス。 其注ニサレバ天皇心スベシ、又親子兄弟ハ只執己 心ノ私ナレバ蠢同類ノモノニシテ愛スルニ足ラヌ 借物ナリトイヒ、其他義理法度尽ク蔑視セザルナ ク、己ヲ利スル千変万化ノ術ヲ述ブ。其語簡ニシ テ意遠ク真ニ其心術ノ秘ヲ洩セルナリ。因テ思フ 彼等彼説ヲ以テ堂上ニ入説シ幕府ニシテ為ス能ハ ズバ草莽之ヲ暴発セント言フ。而シテ浪士ノ暴発 ハ真ニ比々其証アリ。

 昨日掲載した「秘訣」の中に《されば天皇を志すべ し。》(復元された文言)とあったが、上記の記録 によれば「天皇心すべし」となっている。このことに ついて、近藤さんは次のようにコメントしている。

 (「鞅掌録」は)押収した「秘訣」を手もとに備 えて書写しているから、《》部分をおこした写本 より信憑性が高いのではないか、ということであ る。

 私は、井上清か伏字を復元した写本を確認して いないから実証的なことはいえないが、これまで みてきたような分析からいえば、「天皇を志すべ し」とうけとつても、少しも不自然ではないとお もう。


 近藤さんがそう思う根拠を次回検討する。

 ところで、「鞅掌録」によれば、「秘訣」は 1863年にはまとまった形で存在していたことにな る。竜馬が二度目の脱藩をしたのは1864(元冶元) 年だから、「竜馬がゆく」のあの場面での語録 (竜馬の独創としての)の記録はありえないとい うことになる。小説だから多少の齟齬にあれこれ 言う必要はないだろうが、「秘訣」が竜馬作では ないことは確かだろう。

「陽明学者・山田方谷作」説の出処

 この説はインターネット検索で出会った。 二松学舎大学の町泉寿氏の「『英将秘訣』の著 者に関する新資料」という小文である。その文書から 引用する。


 本書(題は『英雄秘訣録』)が『国民新聞』 に坂本龍馬著として掲載された際(1891.11.11)、 長清楼主人なる読者からの投書が『読売新聞』に 寄せられ、本書は備中松山の儒者山田方谷 (1805~77)の著である、龍馬著とする証拠を示せ との記事が載った(11.14付録)。

 さらに方谷の養孫にあたる山田準(1867~1952) から、断じて本書は方谷の著ではない旨の弁明広 告が出された(11.21付録)。しかし『読売』記事を 見た山田準と同郷で友人の桜井熊太郎(1864~1911) から準宛の書簡によれば、実は準自身が方谷の自 筆本を所持し、方谷の卓見を顕す著作として縷々 人に示していたことを知る(11.15付)。

 方谷の養孫にあたる山田準が「断じて本書は方 谷の著ではない」との弁明広告を出した、という 話につい頬が緩む。祖父が、反道徳的で残酷で 冷血極まる文言をもつ「秘訣」の著者にされるの は、大変な不名誉と感じたのでしょうね。

 「方谷の自筆本」があったと桜井という人が 言っているそうだが、その実物がないのではなん ともいえない。あったとしても、方谷作とは限ら ない。方谷による写本だったかもしれない。会津 藩による押収本も写本の一つかもしれないし、井 上清の用いたものはそれとは別の写本らしいし、 少ないながらもいろいろな写本があるようだ。

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