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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『大日本帝国の痼疾』(4)


「能動的ニヒリズム」について


 本論に入る前にもう一つ、「能動的ニヒリズム」 という概念についておさらいしておこう。

 能動的ニヒリズムという概念はニーチェによる。 『権力への意志―すべての価値の価値転換 の試み―』(理想社「ニーチェ全集第11巻」) で、ニーチェはニヒリズムの二つのタイプを 次のように規定している。

箴言22
ニヒリズム。それは二義的である。
A 精神の上昇した権力の徴候としてのニヒリズム、 すなわち、能動的ニヒリズム。
B 精神の権力の衰退と後退としてのニヒリズム。 すなわち、受動的ニヒリズム。

箴言23
 ニヒリズムは一つの正常な状態である。
 それは強さの徴候でありうる。精神の力は、これ までの目標(「確信」、信仰箇条)がおのれに適合 しなくなったほどに増大していることかありうる (― つまり、信仰は、一般には、生存条件の強制 を、生物がそのもとで栄え、育ち、権力を獲得する 事態関係の権威のもとへの服従を表現する・・・)。 他方、それは、いまやふたたび目標を、何故にを、 信仰を、生産的におのれに立てるほどには十分でな い強さの徴候でもありうる。
 ニヒリズムは破壊の暴力として相対的な力の極大 に達する、すなわち、能動的ニヒリズムとして。

 この反対は、もはや攻撃することのない疲労の ニヒリズムであろう。その最も有名な形式は仏教で ある、すなわち、受動的ニヒリズムとして、弱さの 徴候として。精神の力は、疲れはて、憔悴しきり、 そのためこれまでの目標や価値が適合しなくなり、 いかかる信仰をもみいだしえないことがある―、か くして価値や目標の綜合(これにあらゆる強い文化 はもとづいている)が解け、そのため個々の価値が たがいに戦いあうにいたる、すなわち崩壊 ―  かくして、活気づけ、癒し、鎮め、麻痺せしめる すべてのものが、宗教的とか、道徳的とか、政治 的とか、美的とかなど、さまざまに変装して、前 景にあらわれでてくる。


 ニーチェは受動的ニヒリズムの典型として「仏教」 をあげているが、これを受けて近藤さんは次のよう に述べている。

『ニーチエの仏教理解についてはそれがひとつの 問題であるが、一般的にいって日本人の精神態度 に、仏教の消極的な虚無思想がふかく根をおろし ていることは、まちがいではないだろう。それは 日常化された存在のニヒリズムであり、不毛の 「日本制(ママ)」ニヒリズム(三好十郎)である。』

 ニーチェのニヒリズムはヨーロッパ的概念である が、ここで近藤さんは三好十郎のニヒリズム概念を 例にして、「日常化された存在のニヒリズム」 という「日本製ニヒリズム」をあげている。 近藤さんの「日本製ニヒリズム」への言及は上の 引用文だけであ るが、ついでなので、三好十郎のニヒリズム論を 少し詳しく紹介しておこう。といっても三好十郎の 該当の著書をもっていないので、宍戸恭一『三好 十郎との対話』(深夜叢書社)からの孫引きであ る。

 『「日本製」ニヒリズム』で三好は「自然主義 的な日本製ニヒリズム」という概念について次の ように述べている。

 私はbarrenと言った。荒蕪のとか、不妊のとか、 なんにも生み出さないところのとかいう意味のい っしょになった言葉のようだ。正宗白鳥式のとも 言った。日本に昔も今も存在しているニヒリステ ィックな傾向の中に、ヨーロッパ的な頭ではチョ ットつかみ取ることのできない一つの傾向があっ て、そして現在それを最もよく代表している一人 が正宗白鳥だからである。

 それはどんなものであるかと言えば、先ずそれ は頭の中で一切の現世的なもの、フィリスチン (philistine 実利的、俗物的…管理人注)のも のを否定する。もちろん、自分の中にある現世的 なものフィリスチン風な要素をも否定する。否定 しながら、彼自身の実生活はまったく現世的に常 識的で、中庸がとれていて、百パーセント・フィ リスチンだ。否定はするが、自らを危くするよ うな所までは否定しない。

(中略)

 これは、正確にはイズムでは無い。或る種の人 生観照の態度の習慣化したものとでも言っのが一 番当っている。(中略)つまり、この手のニヒリ ズムは、生命力の欠如ないしは稀薄から生まれた ものである。


 これに対して三好は「ホンモノのニヒリズム」を 対比する。ニーチェの「能動的ニヒリズム」にあた る。それは「幼年期に於ける革命的精神の総称で ある」と言い、次のように説明している。

 ホンモノのニヒリズムは(中略)生命力の過剰と 充溢から生まれる。エネルギイを自己のうちに持つ。 いろいろな行動の動機になり得る。空虚は、爆発 直前にできる真空だ。爆発は対象物を徹底的に粉さ いするまでやまない。

 同じくフィリスチンの敵ではあっても、これは、 他人のうちのフィリスチニズムを撃破するのと同 時に、それと同じ程度の無慈悲さでもって自分の うちのフィリスチニズムをも撃破する。ために、 時によって、自分そのものまで撃滅してしまうが ごときパラドックスさえ演ずる。観念が肉体を裏 切ることを許さない。肉体が観念を裏切ること も許さぬ。ザインとゾルレンが一瞬のうちに一挙 に解決されなければならぬ。もしそれが解決され なければ、他のいかなる解決をも峻拒する。

 つまり、より大きな肯定へ向っての深い無意識の 意志だ。真に尊重さるべきなにものかを生み出す力 を持ったものの、生み出す前の清掃であり、生み出 すための盲動である。盲動はデスペレイトだ。だか ら非常に往々に、生みかけたものを踏み殺すのと同 時に、その生みかけた自分をも八つ裂きにして果て る「愚」を、くりかえす。 ― これが、ニヒリズ ムだ。

(中略)

 同じくニヒリズムと言われながら、この二つほ どちがっているものは無い。ほとんどこれらは敵 同志である。たとえば、普通ニヒリズムの反対物 だと考えられている肯定的思想体系である社会主 義や共産主義などとニヒリズムとの距離よりも、 ニヒリズムと、この「日本製」似而非(えせ)ニ ヒリズムとの距離は、はるかにはるかに遠い。 われわれが肯定に立とうと否定に立とうと、われ われは、自身の中から「日本製」ニヒリズムを追 い出さなければならぬ。いやいや、強く、論理的 に、誠実に、一貫性をもって、シブトクわれわれ が考え、生きようとすれば、必然的に、この手の ニヒリズムを自身の中から追い出さざるを得ない であろう。


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