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『大日本帝国の痼疾』(21)

「英将秘訣」―その教養目録


 さて、「秘訣」の思想の特異性は激動の時代の 混迷した政治・社会情況の中で生じたわけだが、 では「秘訣」の作者が下敷きとした思想 は何であったか。もちろん、今までみてきたよう にすぐに指摘されるのは国学(神道)である。近 藤さんはそのほかに、 「陽明学、崎門学、朱子学、仏教、キリスト教、徂 徠学、洋学(自然科学・医学)等およそ幕末以前の あらゆる内外の学問(思想・宗教)が含まれて」 いて「その摂取のしかたが特異なのである」と言 う。これではその時代のほとんど全ての教養を身に つけていたことになる。井上清は「秘訣」の作者を 「一流の志士」と判断しているが、近藤さんもこれ に賛意を表している。

 上記のリストのうち国学の影響が最も大きいと 言えるが、陽明学と仏教について、「秘訣」は次の ような条文を残している。

一、王陽明曰く、六経は心の註也。仏者曰く、断見 と。是は見処あり。

 私には未知の事柄であり、理解できない条文だ。 これについては、近藤さんは橋川文三の解説を引用 している。

 ここでは王陽明の語も、断見という言葉も、いず れもそれぞれ異端の意味で用いられており、それを 著者はあえて『見処あり』と述べているように思わ れる。

 前者はいうまでもなく陽明学の核心を表現する標 語の一つであり、のちに左派陽明学の出発点となる ものである。

 後者は涅槃経にいわゆる『衆生起見有二種、一者 常見、二者断見、如是二見、不名中道』といわれる 妄見の一つであるが、それは、人間には現世だ けであって、前世、来世などはないという世界観を さしている。

……著者にとっては、いずれの言葉も、いかなる罪 悪感にもとらわれることなしに、ただその思うがま まを為せと述べたものとしてとらえられているよう である。つまり、私のいいたいことは、ここにあら われたものがもし日本の早い時期のニヒリズムだと すれば、その媒介者として、陽明学もしくは仏教の 一定の作用が考えられるのではないかということで ある。

 これを受けて、近藤さんは次のように続けている。

 私のせまい知見でここにつけくわえるべきことは ないが、「六経は心の註也」という言葉は陸王の学 (陽明学の先駆、陸九淵に「六経はみな我が心の注 脚」、「六経、我を注し、我、六経を注す」という 言葉がすでにみえる)いがいに、崎門学にもみられ ることを述べておきたい。

 崎門三傑の一人浅見絅斎(けいさい)は闇斎学の 大義名分論を強調し、発展させたことで知られるが、 その絅斎の語録を就学中に筆記した多田亀運の 「浅見先生学談」に、

「四書、六経ト云へドモ、タダソノ心ヲ知ランタ メノ書ナリ」

とある。これは学問とはなにか、という根源的な 問いに答えたもので、そこで絅斎は、一文字も知 らぬ者でも忠や孝を尽すのは、心は天から生まれ つきあたえられたものであって、聖人も凡人も等 しく変わりはないと、聖人信仰を否定し、 「道ハ書ニヨラズ」ということを明確に述べてい る。また、

「孔子・朱子ヲ鉄砲デウチ殺スガ、孔子・ 朱子ノヨロコビ玉フ処ゾ」

というラデイカリズムをうちだしている (この言ははっきりと思い出せないのだが、有名 な、孔孟の軍攻めて来らば孔孟の教によりてかえ せ式に似ており、闇斎か山鹿素行の言にあったよ うな気がする)。

 要するにいわゆる四書五経を頂点とした整序的 な儒教的世界大系は、すでにその内部から崩壊し ていた、ということである。

 絅斎のこの「学談」は元禄12年(1699)からそ の死の正徳元年(1711)までに成立していると推 定され、かなり早期に、朱子学内部でその解体と 日本的再編ははじまっていたといえよう。

 陽明学とはべつに反体制思想として幕末尊攘派 に影響をあたえたのが絅斎派の京都を中心とした 望楠軒の思想であった。有馬新七、梅田雲浜らは その門流であり、彼らのコーランは「靖献遺言」 (せいけんいごん)である。実践躬行を重んじた 絅斎派の思想もまた「秘訣」に吸収されているこ とは、まちがいない。

 「靖献遺言」は私には初見の書名だ。知る人ぞ知る 、幕末志士たちのバイブルとして有名らしい。その内 容は、「中国の殉教者的な8人、屈原・諸葛孔明・陶淵 明・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺らについ ての歴史的論評である。書いてあることは中国の志 士の話にすぎない。が、この1冊こそが幕末の志士 のバイブルとなったのである。どうしてか。…絅斎は 『靖献遺言』を通して、その原則通りの正統性が 実は中国の歴史にはないのではないかということを 説き、それがありうるのは日本の天皇家だけであろ うことを示唆してみせたのだ。」(松岡正剛の千夜 千冊)

 なお、興味のある方は 『靖献遺言』(読み下し版) で全文が読めます。

 さて、近藤さんは次の条文を取り上げて『「英将秘 訣」論』を閉じている。

一、学問の道他なし、只生死の情を察する而巳。

 (これが)この無名氏の座右の銘であったよう だ。だがこの境位からは思想は暗礁にのりあがる。 すべての創造性はデッドロックにあうのである。 この思想のゆくえは、やはりファシズムかもしれ ない。私はそのことを三島由紀夫に聞いてみたい のだが、それはこの20世紀未の肥大化し高度化 した管理社会スィステムというあらたな人間疎外 の情況のもとで、「英将秘訣」がもつ現代的意味 について、である。

 みずからナチ党員であり、それゆえファシズム にたいする内在的批判者たりえたヘルマン・ラウ シュニンクは次のように述べている。

「それは一つの革命であり、しかも前代未聞の破 壊衝動と流血がこの状態を特徴づける。そして、 この革命の本質を特徴づけるのがすなわち、原理 の完全な不在なのだ。それが、全体的ニヒリズム の政治行動化された表現であるということが、こ の原理なき革命の特に危険な点なのだ。その前提 喪失、窮極的目標、モティーフの欠如にこそ、時 間的無限定性の本質、全体性と永遠性の本質はあ る。方向のなさと限界のなさが、この運動の危険 性をあらわす。それはすべてのものに対立して、 しかも何ものにおいてもみたされることはない。」 (片岡啓治訳〕

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『大日本帝国の痼疾』(20)

「英将秘訣」―そのアナーキズム


 近藤さんは「秘訣」の思想的構成要素「能動的ニ ヒリズム・政治的テロリズム・アナーキズム」を 「聖?三位一体」と呼んでいる。これまで「秘訣」 の能動的ニヒリズム・政治的テロリズムの特異性 をみてきたわけだが、第三の要素・アナーキズム も独自の形態をもっているとして、近藤さんは 次の条文を挙げている。

一、天下の物各其主ありて、一銭を奪はゞ盗賊と称 し、一人を殺せば人亦予を害す。斯くて地震の霹靂 するや、数万の家を破壊し、洪水の溢るゝや幾億の 生霊を殺す。是を天命と云て恐るゝは何事ぞや。 人倫素より小量にして大器なきが故なり。されば 世界を鳴動せんと思ふ人こそは、胸中に此心無くん ばあるべからず。

一、世界を滅するは大洋の溢れ漲るに在り、是は天 竜の如し。人倫一目行ひては、如何にせば 如斯なるを得ん。只火術に在り。 山野を赤裸に焼払ひ、家屋を焼滅し、加之、炮烽 地雷の決震を以てせば疑ふ所なけん。


 このような表現は、アナーキーとよぶべきであっ てアナーキズムといえないかもしれない。

 前者は、おそらく安政の大地震をまのあたりにし たような体験を連想させるが、人為とディメンショ ンを異にした自然の巨大なエネルギーさえ、世界支 配への権力意志の教訓にせよ、といった激語である。

 後者は、文久2年12月の高杉晋作、久坂玄瑞らを 中心とした品川御殿山の英国公使館焼打事件 (高杉らには同年10月にも横浜外人居留地襲撃と いうテロ計画があった。ちなみにこの焼打ち計画 は清河八郎にもあり、また豪農クラス出身で一橋 派→実業界へと転向をかさねた渋沢栄一にもあっ た。なにも下級武士、浪人、無頼漢だけではなく、 たとえば埼玉県犬里郡の生産者農民も焼打ちを企 てたことは前記「幕末暗殺史」。それほど「攘夷 熱」はさかんだったのである)を連想させるが、 世界破滅の思想というより運動を、簡略に説いて いる。

 こういう絶対的な破壊衝動は、テロリズムの変 形とみるべきかもしれないが、既存の「人倫」に たいする根底的な批判、それにかわるべき新たな 「人倫」の模索を暗示しているてんで、アナーキ ズムのもつ世界観を断片的にうかがわせる (他の箇条に、「天下の人倫悪を好めば善にうと し。善を行へば悪ににぶく、両不全を英将の不具 とす」という言葉がある)。もっともこれがニヒ リズムの能動性と、どこがちがうかというと、 こたえることは困難である。

 G・ウッドコックの古典的な研究によれば、アナ キズム擁護の立場から、この三者の異同について 〝異″を強調している。
 ニヒリズムが道徳も自然法も信じないのにたいし、 アナキズムはそうではない、と。ロシア帝政下の人 民の意志党がニヒリストであり、テロリストであった、 と。政治テロは「いかなる時においても」、一般の アナキストが採用するところではなかった、と。

 もちろんこのような区分は説得的ではない。 バクーニンの、破壊への情熱は創造的情熱だとい う言葉の後半に、力点を移動させただけである。 しかしもともとアナーキズムが人間本来の社会 的幸福を、すなわち政治権力や国家の存在しない ユートピアを地上に現前させようとした思想であ ったことは、自明だろう。近代アナーキズムもま たその原始共同体的な「無何有郷(むかゆうきょ う)」への夢をうけつぎ(―あたかも国学の徒が 日本古代に楽園をもとめたごとく)、クロボトキ ンがそうであるように自然主義的社会観をもって いる。だがヨ-ロッパのそれが、個人主義的哲学 にもとづいていることもまた、自明だろう。

 そもそも背景にある近代的個人の概念は自由の それと同様、「秘訣」には欠けている。そのてん 「秘訣」は日本の伝統的精神風土からすこしも断 絶していない。これらの教科書的な事柄を前提に したうえで、ちがった視角からみた場合、右の条 文の表現をアナーキズムとよんでもさしつかえな いとおもう。

 現代日本人の感覚をもってしても、アナーキズ ムはもっとも理解しがたい思想であり、たんに破 壊と同義の、マイナスのイメイジしかあたえない はずである。すべての外来思想のなかでアナーキ ズムはいちばん土着化しにくい要素をもっている が、かりにふつう日本の生活者が右にあげた箇条 を読めば、異邦のことばのようにわけがわからな いか、嫌悪感か恐怖感をいだくはずである。この ような意味では「秘訣」は、現代にいたる日本の 思想史のなかで帰属を拒否されるほかないのであ る。
 以上が冒頭の条文をアナーキズ ムの表現ととらえる近藤さんの論考だが、実は私は この項に限って理解に苦しんでいる。能動的ニヒ リズムや政治的テロリズムの場合にもった共通理 解・共感がない。アナーキズムの表現として近藤さ んが選んだ条文が、まず不適切だと思う。たぶん、 アナーキズムそのものについての理解が異なって いる点に主とした理由がある。しかし、私の読み 込み不足(あるいは誤読)がその理由かもしれな いので、近藤さんの論考をそのまま掲載しておいた。

 アナーキズムについてはこれまでにいろいろな 記事で何度か触れてきているが、改めて最も基本的 なことを書き留めておこう。

 近藤さんも言うとおり、「現代日本人の感覚を もってしても、アナーキズムはもっとも理解しが たい思想であり、たんに破壊と同義の、マイナス のイメイジしかあたえないはずである。」

 日本人に限らず、アナーキズムは最も誤解されている政治思想だ ろう。もともと「アナーキー」が「支配者や君主 のいない状態」を意味していることから、アナー キズムやアナーキーという言葉はカオスとか 無秩序の意味で使われている。そこから一般的に、 政治思想としてのアナーキズムは「暴力的な反国 家運動」だと理解されている。そしてさらに、ア ナーキストとはカオスや「弱肉強食の法則」への回 帰を目指しているものと思われている。

 だが、アナーキズムは単なる「政府権力への反対」 という意味でもないし、反秩序を標榜しているわけ でもない。反秩序ではなく反ヒエラルキーなのだ。 「社会には権力や支配が必要だ」という考え方に 反対なのである。ヒエラルキーのない協同的な 社会・経済・政治の組織形態を提唱している。

 絶対主義国家(専制支配)の時代では、「共和 主義」や「民主主義」という言葉がまさに「ア ナーキー」という言葉と同じように「無秩序」や 「混乱」を意味するものとして忌避されていた。 そして今、近代的国民国家(ブルジョア民主主義) では、それの真の揚棄を目指す思想・アナーキズム が「無秩序」や「混乱」を意味するものとして 扱われている。既得権を持ち現状を維持したい者 たちは国家による支配やヒエラルキーを所与のも のとして疑わない。現在のシステムに反対する者 たちを「無秩序」や「混乱」をもたらす者として 忌避する。沈タロウが「君が代・日の丸の強制」 に反対する教師やジェンダー・フリーを目の敵にするのは その伝である。

 アナーキズムは政府や他のヒエラルキー的な 社会関係が有害で不必要であることを主張する。 そこではアナーキーという言葉は「自然な秩序、 個人の必要と全員の利益の一致、完全な団結の なかでの完全な自由を意味する。」(エンリコ ・マラテスタ) つまりは「互酬」を基本とする 社会、マルクスの言葉を借りれば「ひとりがみん なのために、みんながひとりのために」その生を 全開しえる社会である。人類の現状からは、 夢のようなユートピアではあるだろう。

 近藤さんは、承知の上で、一般的な「誤解され ているアナーキズム」を「秘訣」の中にみようと しているのだろう。

『大日本帝国の痼疾』(19)

「英将秘訣」―そのテロリズム


 幕末テロリズムは、フランス革命と同様、なに よりも封建社会から近代社会への過渡期という人 類の未曾有の経験がひきおこした矛盾と軋轢の 爆発的で集中的な表現であり、その意味で歴史的 必然であって、なんら日本特有の現象ではない。

 恐怖政治を行う指導者をテロリストと呼ぶのなら、 幕末最恐のテロリストは井伊直弼ということになる。 1858年の「安政の大獄」という「幕府の史上空前 の大テロル」(井上清)が引き金となって、尊攘 派はテロを公然の戦術として採用するにいたってい る。

 下田条約を締結したハリスへの、有馬新七らの井伊 への、松陰らの閣老間部への要撃など、安政の大獄 以前にも尊攘派によるテロの計画はあったが、それ らはすべて未遂に終わっている。

 安政の大獄への報復である1860(万延元)年の 桜田門外の変を画期としてテロの件数が圧倒的に ふえていく。そして1861年からの文久年間にはい ると、文久暗殺年といわれるように、テロ は猖獗をきわめていく。

 森川哲郎『幕末暗殺史』によると、
白色テロを含む件数(暗殺数ではない)
万延元年6件
文久元年3件
文久二年30件
文久三年42件
元治元年30件

 このテロ至上主義は、第一に権力が「言路洞開」 をタテマエにしながら実質は「過激浮浪ノ徒」に 白色テロで合法的に返答するという、絶望的な政 治情勢に由来している。

 「秘訣」はこの時期あたりに成立している。 その「秘訣」のテロリズムを表白している条文を 抜き出すと次のようである。

一、人に対面せば、此奴はいかにせば打殺さるゝぞ と見取るべし。此奴殺すはわけは無いと思ふ位な者 は智なし。少し六ヶしきと思ふ位な者は智あり。其 智あるは早くだまして味方にすべし。

一、予に随ふ者は生捕同然、予に不随者は皆讐敵と 見て、心をゆるす事なかれ。

一、人を殺す事を工夫すべし。刃にてはヶ様のさま、 毒類にては云々と云事を暁(さと)るべし。乞食な ど二三人ためし置くべし。

一、人を一人殺せば、其魂我に乗りうつりて、智も ふえ、命も延るものと心得べし。兼て工夫満つれば 戦場面白きもの也。

一、無音砲、毒煙の類、ためし置くべし。是亦人の 死するを主とす。其死ぎはに目を付べし。犬切にす べし。

一、弓馬剣槍も人を殺すの術を主とす。むだ事にな すは益なきの日光を消す也。

一、威光を見する、人を殺すに在り。人十人を害す るには十処にして衆目を威(おど)す。

一、生人に疵を付るや否や、人間なりと思ふべから ず。臆(きおくれ)の生ずるもの也。畜類を殺すよ り安心すべし。

一、畏ろしと思ふ心露斗りも身に蓄ふ事勿れ。死人 なるは土の如く思ひ、死体、骨などは石瓦の如く思 ふべし。


 これらの条文では、 テロが政治的実践として絶大な効力を発揮すると いうことが何の疑念なく信じられているばかりで はなく、書き手自身が現実にまぎれもなき一人 のテロリストであることが察せられる。

 「秘訣」がテロを教唆する党派は、文久暗 殺年といわれるような情況にもっとも忠実に 反応した急進派である。思想的には尊攘主義を 綱領にもつが、その直接行動の原理を暗殺にお くテロ集団である。

「人に対面せば、此奴はいかにせば打殺さるゝぞ と見取るべし」
ではじまる、そのテロ対象である 「人」は、不特定多数でも無差別的なものでもなく、 幕吏であり、藩庁役人であり、交易商人であり、 「夷人」であり、政治思想的には公武合体派であり、 佐幕派であり、開国派であり、口先だけの尊攘派で あり、陽朱陰王的学者である。にもかかわら ずその愚民観は徹底しており、人間そのものへの不信 につらぬかれている。個性などというものではなく、 もし情況がそこまで「秘訣」の書き手に磁力を放ち、 その内面を解体させるほど作用したのであるとすれ ば、幕末という「内憂外患」の動乱期は、予想以上の 規模をもっていたことになる。

 では「秘訣」はテロの正当化をどこにもとめている のか。民衆の解放という革命の名分はまったく落丁し ており、テロという非常手段が日常手段になりかわっ ているばかりか、テロリズムこそが党派の最大の使命 であるといった口調である。

「人を殺すことを工夫すべし」
「其死ぎはに目を付べし」
の箇条はもはや政治的テロリズムでは なく、冷酷無比な殺しのテクニックの手引きであ る。

「生人に痕を付るや否や、人間なりと思ふべから ず。臆の生ずるもの也」
と執刀する外科医の手つきのように人間を処置する このテロリストは、たんに精神病理学上の対象で しかない。だが目的はあるのだ。それは権力であ る。権力が、権力の奪取だけがテロ行為を正当化 する唯一の根拠なのである。

「威光を見する、人を殺すに在り。人十人を害す るには十処にして衆目を威す」
 なんのための「威光」か。

「天下は我手に入て後は、進退周旋威光を見する 事主意也。太閤が竜造寺に大小を為持、始皇が阿 房宮を築くの類也」  その権力は民衆の解放装置としての権力ではな く民衆の支配装置としての権力であり、その 「革命」は「英雄」として精選された少数の職業 的テロリストによる(を使嗾した)軍事独裁いが いに、未来にどんなイメージも喚起されない。 ただしそこにはフランスの革命家のような自己欺 瞞はないというべきだろう。

「天下万民を救ふといふ名あれば、恥る所なしと 定めて事にかゝるべし」
という立場は、「民衆」の共同利害が幻想にすぎ ないことを知悉しているからである。

 かつて高橋和巳は日本的テロリズムには、暗殺 の政治学はあり、暗殺の美学はあっても、暗殺の 哲学がほとんどみられないということを指摘した ことがあるが、「秘訣」にかぎって日本的 (正確には中国的・アジア的)テロリズムの固有 性としての暗殺の美学の要素は砂中の金ほどにも まざっていない。殺人の罪を自己処罰-自殺によ ってあがなうべきだとする武士道的エトスや死の 様式美への固執は、まったくみられない。 壮士一たび去って復た還らず式の悲壮感も、志 士仁人は身を殺して以て仁を成す式の倫理性も、
「なる丈け命は惜しむべし。二度と取かへしのな らぬもの也。拙きと云事を露斗りも思ふ勿れ」
というようにごう然と否定される。伝統的心情も 殉教の精神もあとを絶ったところから「秘訣」の 思想ははじまっている。

 能動的ニヒリスムの要素をもった2・26磯部浅 一らを特例だとすれば、昭和超国家主義が日本テ ロリスムの固有形態の好サンプルであることは言 を侯たない。
「人を一人殺せば、其魂我に乗りうつりて、智も ふえ、命も延るものと心得べし」
の条文は、表面的には「一殺多生」をモットーと した血盟団員の心理と似ていなくはない。 1932年、民政党幹部で前蔵相の井上準之助を射殺 した小沼正の上申書に、テロの被害者こそ 「大善智識」を提供するのであり、「逆縁の師匠」 であって、「殺人は如来の方便」だという倒錯した 言葉があるが、このような発想とつうじなくはない。

 しかし「秘訣」には超国家主義的テロリスムの 重要な特色である「神秘的暗殺」の傾向は、無縁 なのである(三井合名理事長団琢磨を射殺したお なじ血盟団員菱沼五郎は上申書で「自分の暗殺は 神秘的暗殺である」といっている)。 このことは、橋川文三が分析した超国家主義者の 内面性 ― 青年が人間らしく生きたいというご く自然な欲求 ― が欠落していることとも対応 する。

「予死する時は、命を天に返し、位高き官へ上ると 思定めて、死を畏るゝ事なかれ」
というのが「秘訣」的テロリストの覚悟?だが、 昭和の超国家主義者はむろんのこと、幕末の志士に あってもこういう死生観で権力にたちむかい、国 家の「捨石」になろうとした者は一人もいなかった だろう。1931年の10月ファッショ事件で軍部の佐 官級が次期政権の閣僚リストをつくっていたこと に憤激したという事実は、超国家主義者の面目を ほどこしているが、「秘訣」の書き手にそのくら いのことは朝飯前なのである。

 自由の楽土は専制の流血を以て洗はずんば清浄 なる能はず。基督の愛と雖も我は平和を来す者に 非ず刃を出さんが為に来れりと宣布し、仏の宇宙 大に満つる大慈悲は道を妨ぐる一切の者を粉砕せ ずんば止まず。―観世音首を回らせば則ち夜叉王。 大海に溢るゝ慈悲の仏心を以て四億万民の自由を 擁護扶植せんとする者、焉んぞ是等を残賊する暗 黒時代の魔群を折伏せずして止むぺけんや。ロベ スピエールは多恨多涙の士。死刑を宣告する能は ずとして判官を辞せし程の愛を持てり。而も国民 の自由が内乱外寇に包囲さるゝに至るや、巴里の 断頭台に送る者一万八千人、更に全国に渡りて死 刑すべき者七十万人を予算せし夜叉王に一変せり (「支那革命外史」)

 テロ犠牲数はおおげさだが、こういったのは 北一輝である。フランス革命期の「内乱外寇」の 情況が、テロ至上主義を生んだ。ミシュレは、

「かつては恐怖のために人を殺した。
 いまは衛生のために殺すのだ」

と的確に批評しているが、それは「秘訣」的テロ リスムにまさるともおとらないものだろう。しか しそこにはそれがおそるべき二律背反を結果した とはいえ、やはり近代的自由の理念が前提されて いた。北のいうように「自由」と「専制」とは 双面神なのではなく、まったくべつの概念である。 透谷的にいえば、その自由の内実は
「民権といふ名を以て起りたる個人的精神」 (「明治文学管見」)
なのである。そしてこの精神こそ明治維新に可能 性として含まれていたものだった。

「武断と軍国とは自由に反すといふが如き愚論家 あらば、将にロベスピエールによりて自由の名の 下に断頭台に行かざる可らず」
と北がいうのは、維新以後の現実のアジア (日本)の情況に憑きすぎている。なぜなら透谷 のいうようにその精神は
「吾国の歴史に於て空前絶後なる一主義の萌芽」
だったからである。

 むろん北はその「萌芽」とい う理想を現実のむざんな中国革命の動向のなかで 見失っていったのだ。北の能動的ニヒリズムは 「秘訣」のそれと、質的にひじょうに似ている。 天皇=国体信仰と切れていることはその最大の 共通点だが、しかもなお、北の思想には青年将校 と一命をともにしたように倫理があった。

「仏蘭西革命に恥ぢ、維新革命に恥ぢ、而して後 れたる露酉亜革命に恥ぢよ」
という北の革命家としての羞恥は、マルクスの、 肝要なことはざん悔であり、それ以上の何もので もない、という言葉を私にはおもわせる。

『大日本帝国の痼疾』(18)

テロリズムとは何か


 一般に革命あるいはクーデター達成のための非 常手段としてのテロは、どの歴史的発展段階にお いても先進国・後進国の別なくみられる普遍的な 政治現象である。とくに旧体制権力の弾圧が物理 的に強化するとき、それの反作用として必ずとい ってよいほどテロが採用される。

 特に近代的国家においては、軍事・警察・司法 ・マスコミという巨大組織に合法的手段をうばわ れている場合、反体制急進派は体制側の強権にダ メージをあたえる最も簡便で手っ取り早い有力な 武器として、テロをえらぶ。

 どのような政治変革においても流血の暴力を回 避すべきだが、現代においても人類は依然として その原則を確立し得ないでいる。政治的背景はさ まざまであるが、世界中でいまだ流血の政治闘争 が繰り広げられている。

 ここで近藤さんの目はフランス革命における悲 劇へと向かう。

 フランス革命において、ロベスピエール派の参 謀として活躍したサン・ジュストは「恐怖の大天 使」と呼ばれ恐れられた。

(註)
 近藤さんは「恐怖の大天使」と書いているが、 一般には「革命の大天使 (Archange de la Revo lution)」のようだ。「恐怖政治の大天使」と言 っている人もある。サン・ジュストは25歳で国民 公会議員になっている。痛烈かつ冷徹な演説によ り、ルイ16世を断頭台に送っている。しかし自らも ロベスピエールと共に断頭台で処刑された。26歳 だった。


そのサン・ジュストは次のようにテロを正当化して いる。

 社会は粛清されねばならない。粛清をさまたげ る者は、社会の腐敗を欲する者であり、社会を腐 敗させる者は、社会の破滅を欲する者なのだ。 (ミシュレ『フランス革命史』桑原武夫他訳)

 窮乏が人民を奴隷化している。……国家の敵で あることをあらわにした者は、その国で所有者たる ことはできない。革命の敵の財産で、貧しい人々に 償おう。

 一人前100エキュの食事をしている者がある。 人民の生活を食い物にしているのだ。ある自称愛 国者は、一枚の新聞で、年収三万リーヴルももう けている。



 これはダントン派とエベール派にたいする権力 抗争の時期であり、すでに革命政権はできあがっ ているが、彼らにとっては革命は未だ成らず、一 種の永続革命を志向している。問題は、血の粛清 の理由が「反革命」というレッテルにあるにかか わらず、「公共の福祉」や「普遍的正義」に、つ まりは一般意志にもとめられていることである。 テロはあくまで「民衆」の共同利害の防衛と いう名目をかかげたうえで行使される手段なので ある。

 もちろん彼らの頭脳のなかで目的と手段とがど こまで明確に区別されていたかは疑わしい。それ はちょうど革命の理念である自由と平等とがそう であるように、矛盾にさらされたはずである。

 目的は手段を浄化しうるか、というきき飽きた 命題を立てることはここでは必要がないし、また それがアポリアなのは、循環論におちいるからだ。 かんたんにいえば、手段のなかに目的は含まれる し、目的のなかに手段も含まれ、両者は分離する ことができない関係にある。革命の大義のために は流血の暴力が許されるか、どうかではなく、流 血の暴力のなかにすでにその「革命」の本質があ らわれており、そのていどの「革命」にすぎない。

 ちょっと横道へ。
 くしくも、昨日(11月23日)配信された 「JMM」は春具(はるえれ)さんの『オラン ダ・ハーグより』であり、そのテーマが「恐怖 政治」だった。 ブッシュのテロとの戦いを標榜する政治とフ ランス革命における「恐怖政治」との類似性を 論じているフランソワ・フルテンベルグ教授(モ ントリオール大学)の論文を紹介している。

 ロベスピエールの時代を大文字で「the Terror」 と書き、「恐怖政治」の時代とよんでいる。つまり 「テロリスト」とは、語源をさかのぼるとテラー (恐怖政治)をおこなう指導者、すなわちロベス ピエールのことを指す言葉だという。

 テロリストとはイスラム原理主義者を 指すのでもなく、ファシストを指すのでもなく、 イスラエルに自爆を繰り返すパレスチナ人たちで も爆弾を抱えて米軍に体当たりしていくイラクの 若者を指すのでもなく、またアルカイダを指すも のでもない。だとすると、現代のテロリストは本 当はだれなのか。ブッシュこそテロリストだとい うのである。

 フランス革命政府が近隣諸国に「自由・平等・博愛 」を 押し付けようとして、近隣諸国からの大きな反発を 呼び起こした。

 アメリカのブッシュは、テロに勝利するために は「アメリカの民主主義」を普及させるの が一番だと唱えて、お節介にもアフガニスタンと イラクの社会と政治体制を破壊した。だがその 民主主義の押しつけは、イスラム諸国の猛反発を 呼んだばかりか、欧州諸国の眉をもひそませた。

 以下、ブッシュがテロリストである証左を論じ ている部分を引用する。
 そして国際社会の反発は、アメリカを守りの姿 勢へと転じさせる。これもまたジャコバン党とお なじく、いまは自由を守る過渡期なのだと、アメ リカは危機的状況にあるのだとして、国民も含め てアメリカに出入りするひとびとの自由を締め付 け始める。

 まず、国土安全保障省というオフィスができて、 まず外国人の入国出国のチェックを始めましたね。 これは先頃日本も始められ、批判も含めて話題と なっているようですが、モデルとなったアメリカ では入国時に指紋を採られ、その情報はアメリカ 政府の所有となる。

 かつては楽しみだったアメリカ旅行も、このチ ェックを思うと行きたくなくなりますね。入国審 査を思うと足がすくみ、2001年以来、我が家はア メリカへは遊びにもいっていないし、ここしばら くは行く気にもなりません。アメリカ行きの仕事 は断り、若い人に行ってもらっております。

 さらにだ。もし、みなさんが(アメリカ人で あっても)テロリストの疑いを受けようものなら、 締め付けはもっときつい。

 キューバにアメリカが借りているグアンタナモ ベイ収容所というのがあって、米政府はここにア ルカイダと関係があるとされる容疑者を収容して いたことは記憶に新しいですね。そこでは、国際 社会で容認される取り調べの手段をこえた拷問、 不法拘留などを行なわれていた。

 拷問の禁止,勾留(あるいは拘留)の条件を定 めたジュネーブ条約(アメリカも加盟している) というのがありますが、アルベルト・ゴンザレス 司法長官(いまは辞任している)は「テロリストと の戦いは主権国家 同士の戦いではないから、 (国家間の法である)ジュネーブ条約は適用され ないのだ」という意見を述べ、グアンタナモベイ 収容所での拷問を正当化したのであります。

 拷問は第一次大戦時に北アフリカでフランス軍 が行ったのがいちばん残酷だとされていて、そう いう話に詳しい作家のイアン・フレミングはジェ ームス・ボンドもののあちこちで使っていますが、 ブッシュ政権がひねり出した方法はそれ以上らし いです。獰猛犬をけしかける、獰猛犬にけしかけら れるという恐怖を与える(心理的にこたえる)、 水攻め、寒空に裸で放り出す、とかともかくメチ ャクチャないじめ方をするらしい。

 さらに、アメリカは被疑者を拷問を得意とする 国々(多くは中東の国)へ「輸出」し、残酷な拷 問が「外注」されていたことも問題になったこと がある。その「輸出」飛行のときのストップオー バーがヨーロッパのいくつかの国だったというこ とで、欧州でもおおきなニュースになりました。 これではもし身元を間違って拘束されたら、いま のアメリカでは生きて帰ってこられないかもしれな いのであります。

 そして、国民に対するワイアタッピング(傍聴・ 盗聴)である。

 アメリカには1978年につくられた Foreign Intelligence Surveillance Act という法律があって、国民は令状無しに郵便物を あけられたり通信を傍受されることはないというこ とになっていました。だがブッシュ政権は、国家 の安全は至上命令だとして市民のe-メールやイ ンターネット交信のチェック、国際電話の傍聴を はじめたのであります。あたらしいルールでは、 プロバイダーがみなさんのメールやウェッブを覗 き、当局に通報しても免責されることになった。 単にメールを覗かれたとしても、プロバイダーを 訴えることはできなくなったのであります (上院はこの措置に同意しているようですけど)。

 アメリカ憲法には修正条項が1から10まであり、 それらは建国以来、ひとの自由の保証をコアとす る人権保障の確立をめざして追加的に立法されて きたものでありますが、民主主義を広めようとす るその崇高な(と彼らが言う)戦いのあいだ、 ひとびとはせっかく勝ち得た民主主義の諸権利を ひとつづつ引き剥がされるという、どうにもつじ つまの合わない事態がアメリカに出来してしまっ たようであります。

 そのありさまを、ジャコバン党政権下のフラン スとそっくりだ、とフルテンベルグ教授は言うの であります。ジャコバン党は、ジャンジャック・ ルソーの平等思想を下敷きにした「ジャコバン憲 法」をつくりあげましたが、その実施は非常時が 終わって平和が訪れるまで延期されることになり、 結局ジャコバン憲法は陽の目を見ないまま終わっ てしまったのですが、アメリカの権利の制約もそ れに似ているというわけだ。

 ついでにいうならば、パキスタンのムシャラフ 大統領も、「来年の選挙を民主的に行えるよう、 いま戒厳令を敷くのだ」と説明したですね。その 論理はジャコバン政権のそれにもよく似ています。

 もっともアメリカの歴史にも、大統領が「自由 を守るため」との理由で憲法の規定を留保し、あ るいは無視して事をすすめたという先例がいくつ かあります。リンカーンは南軍が発砲してきたと き、議会を無視して応戦を命じ、南北戦争をはじ めた。さらに、戦費を調達するために、議会に無 断で国債を発行したのであります。あとで開戦の 責任を問われたリンカーンは、国が分裂するとい うときに国民の声など聞いている暇はない、大統 領は国を守るために憲法を超える権利を憲法から 与えられているのだ、と説明したのであります。

 もうひつとよく知られている例は、フランクリ ン・D・ルーズベルトでありましょう。ルーズベ ルトも第二次大戦中、戦費を捻出するため、議会 の制定した物価統制令を無視して事を運んだので ある。これは後に議会も承認して「ニューディール」 とよばれる政策になったのですが、金融物価にお おきな統制を課し、アメリカの伝統的な個人主義 ・自由主義をおおきく制約するものでありました。 「欲しいがりません,勝つまでは」なのだ、我慢しろ、 というわけだ。

 個人の自由が先か,国家の安全が先か、両方欲 しいならどちらをどれだけ譲れるのかということ は、とにもかくにも憲法論における永遠の命題で ありましょう。アメリカだけでなく、世界のどこ の国でも抱える問題でありましょう。サダム・フ セイン時代のイラクには自由はなかったけれど、 安全はあった。アフガニスタンもタリバン政権下 で、ひとびとは安全に暮らしていたじゃないかと 懐かしがるひとびとがいます。

 人権と国家安全保障のバランスをどうとるか、 そのことは司法省とホワイトハウスのあいだでも おおきな議論になったらしい。

 テロリストの横行という歴史に先例のない事態 を前にして、政府の使命はテロを未然に防ぐこと にあるのだ。弾はどこから飛んでくるかわからな いのだ。リベラルは批判ばかりしているが、9/11の ようなテロがまた起こったら、国民から非難される のは政権を担っているおれたちなんだよ、とホワイ トハウスは言う。それに対して司法省の多数は、 でも既存の国内法、国際法ではそういう独断はち ょっと無理ですよ。いまある規則の枠の中でベス トの解決を図るのが法治国家というものではない ですか、と反論する(両者の議論は、ジャック・ ゴールドスミスという司法省顧問を務めたハーバ ードの先生が書いた「 Terror Presidency 」と いう新刊書に詳しい。彼はアルベルト・ゴンザレ ス司法長官のもとで10ヶ月務め、意見を異にして 辞任した。法学を学ぶ学生さんはお読みになると よろしいよ。)

 だがそのゴンザレス司法長官は、そのような甲 乙の議論を吟味することなく、争点を議会と話し 合うこともなく、拷問のアウトソーシングやワイ ヤタッピングについては極秘のメモだけで処理し ていたといいます。フルテンベルグ教授がいう 「恐怖政治」を思わせる不透明な政治運営であり ます。

 そしてメモはブッシュ・チェニー・ホワイトハ ウスが聞きたいことを、そのまま鸚鵡返しに復唱 していたにすぎなかった。 リーガルアドバイスとしても無意味なメモ だっただけでなく、法曹の吟味にも耐えられるもの でなかったのでした。彼はどうせ 政治任用だからね、司法の独立なんて興味ないの さと評され、そのこともゴールドス ミス顧問の辞任を早めたのでありました。

『大日本帝国の痼疾』(17)

佐藤信淵の海防論


 幕末の志士たちの思想に影響を与えた人とし て、近藤さんは佐藤信淵(のぶひろ)を取り上げ ている。信淵は既に1823(文政6)年に「混同秘策」 の中で蝦夷地の重要性を説く海防論を展開している。 信淵が諸藩を遊説してまわっているが、その経綸を うけいれた数少ない地域が四国であるという。竜馬 が信淵におおいに影響を受けたことが推測される。 当然、「秘訣」の作者もその影響を受けていたの だろう。

 我奥羽及ビ古志等ノ諸州、米穀ヲ生ズルコト 甚ダ夥クシテ、恒ニ食余ノ腐朽スルヲ憂フ。有余 ヲ移シテ不贍(たら)ヲ救フハ即チ 産霊ノ法教ナリ。今此北州ノ余米ヲ運送シテ蝦夷 国ノ諸港二積蓄へ、青森省ト仙台省ヨリ軍船ト人 数ヲ出シ、蝦夷ノ諸島二於テ水軍ノ戦法ヲ操練シ、 且此人ヲ以テ漸々ニ唐太島ノ北境ヲ開キ、此地ニ 越年セシメテ能ク寒地ノ風土ニ馴習ハシ、別二清 官及ビ伶俐ナル商官等ヲ遣ハシテ彼国の土人ト交易 ヲ通ゼシメ、厚ク酒食等ヲ施シテ土地ノ夷狄ヲ悦バ シ、産霊ノ法教ヲ説示シテ益々土人ヲ教化帰服セシ メ、次第ニ黒竜江ニ近寄テ大ニ恩徳ヲ施シ、利ヲ与 へ物ヲ恵ミテ多クノ米穀ヲ輸送シ、交易ト云フト雖 ドモ利分二拘ハルコト無ク、醇酒ト美食トヲ贈テ彼 土ノ居人ヲ撫スベシ

 平田神道の中核である「産霊(むすひ)」という 宗教的ターム ― 信淵にあってそれは〈自然〉 の生産力総体を意味しており、より合理的に解 釈している ― にとらわれなければ、ここでいわ れていることは明瞭である。蝦夷地を戦略拠点にし て、「蛮土を圧領する」具体的な構想がはっきりと えがかれている。蝦夷→樺太→黒竜江→満州そし て中国(朝鮮もはいる)への経路が軍事的な作戦計 画として語られている。「此書ハ先ヅ支那国ヲ取ベ キノ方略ヲ詳カニス」とあるように、ロシアは 『「クナジリ」・「エトロプ」等ノ諸島ハ、魯西 亜ノ属島ト犬牙相錯リ、呼号相違ス』という程度 の仮想敵国であり、直接の経路の対象となっていな い。これは、本書が和親条約にさきだつこと31年 前の文政6(1823)年に成立していることと 関連してくるが、この前後の時期は、文化年間の フェートン号事件あたりから列強の圧迫はロシア よりもイギリス帝国主義が優位を占める情勢にあ ったからといえよう。

 しかし注意すべきは、信淵のリアルな構想があく まで一個の構想にとどまっていたということである。 それは防衛のレベルをはるかに超えているが、その 「侵略」は空想にすぎない。じつさいにアジアを侵 略しているのは欧米列強であって(信淵が重要視し た満州黒竜江地方は、ペルリ艦隊が浦賀に来航した 前年(1852)ロシアが獲得した)、当時の日本は信 淵の時代も竜馬と「秘訣」の時代も海外に植民地を 所有していない。それは後年の明治政府がおこなっ た侵略とは区別されねばならない。つまり幕末期 の彼らの構想は誇大妄想狂の夢であって、なんら 現実性を帯びたものではなかった。

 くりかえしていえば、その誇大妄想は、帝国主 義的外圧そのものが惹起させた弱小国のまったく 正常な反応にほかならない。しかも信淵の構想し た軍事的な大陸経略はストレートに実現すべき計 画ではなく、あたかも昭和の超国家主義者が国内 改造運動を優先したように、三台・六府の制度と いうユートピア的国家機構の創設を俟ってはじめ て可能となるものであった。

 若夫自国ノ運動猶癱瘓(たんたん) スルガ如キハ、豈ニ他邦ヲ征スルニ遑アラン哉。 東西両京既立チ、十四ノ省府モ既二設ケ、経済大 典ノ法教既二行ハレ、総国ノ人民既二安ク、物産 盛ニ開ケ、貨財多ク貯へ、兵糧満溢シ、武器鋭利 ニ、船舶既ニ裕足シ、軍卒既二精煉シ、而後二肇 テ海外二事アルべシ

 にもかかわらず信淵の構想には、明治維新後の 日本軍国主義の進路を予言した側面がある。それ は、兆民のえがいたアジア主義者「豪傑君」の経 綸に、そして石原莞爾が理想とした「王道楽土」、 「五族協和」の思想に、遠くつながっている。明 治20年に「酔人」の古風な空想にすぎなかったも のが、昭和7年には関東軍の新しい「科学」にもと づく満州国へと結実した。

 しかし「秘訣」にみえる軍事国家の断片的イメ ージは、徹底して非宗教的な権力(暴力)支配の 論理に支えられており、信淵の構想が儒教的仁政 主義によるイデオロギー支配にうらづけられてい るのとは、異なっている。「秘訣」にあって「天 文を覚り、地理を握る」ことは、「人意を併呑す る一術」なのだが、信淵にあっては、「万国ノ地 理ヲ明弁」することは、「世界万国ノ蒼生ヲ救済 スル」という使命感からなのである。
「外国を攻るにも、其国にて米蔵は必ずあるもの 也。是に先づ眼を付けて奪取工夫すべし」
という「秘訣」は、「混同秘策」にいう「利ヲ与 へ物ヲ恵ミテ多クノ米穀ヲ輸送シ、交易ト云フト 雖モ利分二拘ハルコト無ク」という慈恵政策とは、 まったくちがった支配の姿勢である。
信淵にとって外国(満州)経略の動機さえ、 満州人は古来より食糧になやんでいる、ところが 支那はこれを救済せずに放置し、草根木皮や牛馬 の乳汁に甘んじさせている、
「夫レ草木ヲ食ヒ馬渡ヲ飲ムハ此豈ニ人ノ恒性ナ ランヤ。人類ハ悉ク天地之子也。人類ニシテ粒食 二艱ムヲ愍恤セザルベケン乎。故二皇国ノ有余ヲ 遷シテ彼土ノ不足ヲ救フ、固ヨリ天意ヲ奉行スル ナリ」
というところに求められた。

 当時の満州の実態がいかなるものであれ、また 右のような動機がどれほど虫のいい、押しつけ がましい態度に根ざしたものであれ、そこに悪意 はない。このような善意のヒユーマニズムは、
「天下万民を救ふといふ名あれば、恥る所なし」
とする「秘訣」の書き手が解体したところのもの である。だが「秘訣」のニヒリズムは名分論の裏 返しにすぎないのだ。

 この外国に対して押しつけがましいお節介が出て くる淵源はその宗教的な妄想自慢史観にある。 「混同秘策」の冒頭は次のようである。

 皇大御国(すめらおふみくに)は大地の最初に成 れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を 経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、 万国の君長皆臣僕と為すべし。

 この夜郎自大ぶりは今もなお「愛国者」の頭脳を 侵食していて折りにふれて露出してくる。森喜朗の 「神の国」発言はその典型である。

 ここで思い出したことがある。 斎藤貴男さんの『「非国民」のすすめ』(『創』12 月号所収)から引用する。

 防衛庁が防衛「省」へと格上げされ、自衛隊の海 外活動が本来任務に位置づけられたのは今年の1月 だ。この7月にまとめられた2007年版『防衛自書』 は、そこで勘違い丸出しの奇書に仕上がっていた。

 この国土はわれわれの祖先の住んだところであ り、またわれわれの子孫の住むところである。わ れわれは、長い歴史、独特の文化と伝統を誇って いるが、この国土はさらに育成されて栄えていか なければならないところでもある。われわれは日 本国民であることに誇りを持ち、この国土に愛着 を感じる。

 われわれは、わが国土はもちろん、言語風俗、 生活体系、歴史伝統、文芸、思想等を遠い昔から 受け継いできた。これらの国民的な財産は、わが 祖先がここに住みかつ勤め励んで、築き、われわ れに残してくれたものである。これらは過去から の長い歴史を通じて、それぞれの時代の国民の努 力によって積み上げられた成果であり、また、将 来もこの努力は続けられるであろう。

(中略)

 この国を守ることはわれわれ一人一人が担うも のであり、これにわれわれの努力の成果を積み上 げて次の世代に送るのでなければその務めを果た し得たということはできない

 何を力み返っているのか知らないが、余計なお世 話である。そんなことは人それぞれが勝手に考えた り考えなかったりしていればよいのであって、要は 必要悪として存在が許されているのに過ぎない政府、 いわんや軍事組織ごときに説教される筋合いなど、 これっぽっちもない。あってたまるものか。

 自ら愛国者を気取り、同じ価値観を他者に押し付 けたがる手合いほど安っぽいものはない。はたして 目下の防衛省の惨状がある。

 「防衛白書」はいまにも「皇大御国は大地の最初 に成れる国にして世界万国の根本なり。」と言い出 したそうじゃないか。「全世界悉く郡県と為すべく、 万国の君長皆臣僕と為すべし。」と、相変わらず 他国に侵略していく大日本帝国皇軍の体質を継承し ているのではないかと危ぶまれる。ただし今のところ はアメリカに追従・隷属してのお節介だから、 「皇大御国」は陰に隠れて、「アメリカは世界万 国の根本なり。」というところか。

『大日本帝国の痼疾』(16)

「英将秘訣」―その未来へのビジョン?


 私の最も身近な青年に「秘訣」を見せたとき、 坂本竜馬も次の条文と同じような構想をもっていた ようだという指摘を受けた。

一、蝦夷地には天皇の血統を以て新将軍を立て、我 と思ふ者之を補佐し、自在に蛮士を圧領するを主と す。

 「秘訣」は長く竜馬作とされ、「軍中竜馬奔走 録」という副題を付して流布されていた。上の条文 が、「秘訣」竜馬作説の根強い根拠となっているの かも知れない。

 近藤さんは、上の条文を中心に、竜馬作説の検討 を、もちろん否定的に、かなり詳しく展開している。

 まず第一に、「秘訣」にはどのような未来へのヴィ ジョンも構想もないということである。これに反し、 竜馬はその気質からいっても思想からいってもニヒ リズムからほど遠く、幕末志士のなかでもっとも卓 越した構想力の持主である。慶応三年に竜馬が作成 したいわゆる「船中八策」は、「土佐藩が建白した 『大政奉還建白』の基案となり、明治新政府の綱領 となったもので、維新史上、もっとも注目すべき文 書」(平尾道雄)という意味をもっており、日本近 代の統一国家構想を示している。

 第二に、これは塩見薫も指摘していることだが、 「秘訣」が幕史に発見、押収された文久3年段階で は、竜馬は京都で志士のリーダーシップをとるだけ の実力をそなえていない。竜馬が名実ともに力を発 揮するのは、薩長連合が現実の軌道にのる慶応年間 に入ってからである。

 また文久3年段階に竜馬は開国派に転向しており、松平春嶽らを中心とする公武合体・諸侯会議 の構想をいだいていた。文久3年3月20目付の姉乙女 宛の手紙に、
「今にては日本第一の人物勝麟太郎と云ふ人の弟子 になり」
というように、竜馬はこの時期すでに幕臣海舟や大 久保一翁と肝胆相照らすあいだがらだった。もちろ ん「船中八策」も公議政体論に沿ったリベラルな発 想である。

 文久3年は8・18クーデターでヘゲモニーが公武合 体派にうつるまでは、京都政局の主導権をにぎって いたのは、尊攘派である。竜馬は、文久元年に土佐 勤王党に加盟しているが、領袖武市半平太はあくま で一藩勤王論の立場にあり、党員も藩権力をバック としていたから、デクラッセ=草葬ではない。文久 2年には、有名な
「諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽士糾 合義挙の外には迚(とて)も策無之事」
という松陰ばりの久坂玄瑞の武市宛の手紙を託され、 その後脱藩しているが、四月の土佐藩参政の大物吉 田東洋暗殺、挙兵討幕の寺田屋事件のときには、馬 関から九州方面にいた。つまり直接行動には参加して いないのでどうみても竜馬は急進的尊攘派ではない。

 10月に海舟門下となり、12月には老中小笠原長行 を京都へ送る海舟に同行している。将軍木像梟首の おきた文久3年2月には、松平春嶽の山内容堂への依 頼もあって、脱藩罪の赦免をうけている。これにた いし京都政局を突き動かしているのは尊攘派のなか でも雄藩出身ではない「浮浪ノ徒」であり、思想的 には平田派である。

(中略)

 第三に、これは竜馬個人の性格と教養の問題にな るが、書簡にみられるとおり竜馬はじつにナイーヴ な感性をもっており、その肉親愛と惻隠の情からは 「秘訣」の作者を想像することは困難である。

 「秘訣」がいかに赤裸の心を開陳したものである にせよ、それを竜馬の本音だとはいいがたい。また 竜馬が漢詩よりも和歌を好んだことは、その国学的 教養を示しているが、やはり他のあまたある志士 とおなじような勤王の心情を吐露した歌がある。

 これは竜馬じしんと直接関係ないが、日露戦争前夜、 昭憲皇太后の夢枕に竜馬が立ち、「皇国」の守護を うんぬんしたという当時のマスコミのエピソードは、 共同の幻想を象徴しているが、その根拠があながち 竜馬の側になかったとはいえない。竜馬が大政奉還 を承認した徳川慶喜の胸中を察し、「余は誓ってこの 公のために一命を捨てん」といい、「新政府綱領八 策」において諸侯会議の盟主を慶喜に擬したこと (平尾道雄説)は、
「将軍とかいふ者に成る心を工夫すべし」
とか、
「義理などは夢にも思ふ事勿れ。身を縛らるゝもの也」
とか、
「薄情の道、不人情の道、忘るゝ事勿れ。是を却而 人の悦ぶ様にするを大智といふ」
とうそぶく語録の筆者とは、モラリストとニヒリス トの径庭がある。

 もっとも忠誠心についていえば、「国体」の虚構 性を呵々し、しかも明治大帝をカリスマとして信仰 した北一輝の例があるから、いちがいにはいえない。 思想の内部ではどのように奇怪なこともおこるもの である。

 以上、「秘訣」の作者=竜馬説をかんがえてみた が、さきにこの語録には未来へのどんなヴィジョン も存在しないといった。しいて求めるならそれは、 権力政治による不気味な全体主義国家の構想という ほか、なさそうである。ここに奇妙な国家構想? を暗示する箇条がある。

 ここでくだんの条文を取り上げている。 竜馬の蝦夷地開発計画とはおよそ次のようである。

 この計画は、竜馬が海舟門下であった神戸海軍 操練所時代に立てられ、その内容は、「浪人狩り」 を回避するために、幕府所属の黒龍丸を使用して二 百人程の浪士を蝦夷へ移住させるという雄図である。 「海舟日誌」に
「京摂の過激二百人程蝦夷地開発通商・為国憤発 す」(元治元年6月17日の項)
とあるのがそれだ。

 私はこのことを『海援隊始末記』によって知った のだが、そこで平尾道雄は、
「これは龍馬のかねていだいていた計画でもあり、 そのために同志の北添佶磨、能勢達太郎、安岡斧太 郎、小松小太郎らが前年(文久3)実地に北海道を 踏査したことがある」
と書いている。

 安岡は天誅組で、北添は池田屋騒動で、能勢は 天王山のたたかいが原因でそれぞれ死んだ。小松 は文久3年6月箱館で客死したらしい。つまりこの 計画は、結局、デスペレイトな情況そのものが不 発に終わらせたのだが、問題は前半の蝦夷地開発 が竜馬のかねていだいていた計画であるという 記述である。すなわち同志が実際に渡海した文久 3年以前に、竜馬は「北方の警備と開発」の構想を いだいていたということである。

 しかも竜馬はこの計画に相当熱心だったらしく、 横死する直前 ― 慶応2年、プロシア商人から薩 摩藩を通して洋型帆船大極丸を購入し、西郷や小 松帯刀に了解をとり、船を兵庫に回航させ、物資 確保に大阪で高松太郎、安岡金馬、陸奥宗光らに 交渉させ準備をととのえていたが、慶応3年、船 価支払の件で頓座した - まで、工作をはかっ ていたようである。内乱での人材喪失をおしみ、 蝦夷地開拓にふりむけようとしたのである。

 蝦夷地開拓という構想が生まれてくる時代背景 がある。徳川後期、蝦夷地はかなり重要な意味を 持っていた。関連事項を年表にしてみる。

1792(寛政4)年
 ロシア使節ラックスマン根室に来航。通商要求。

 この頃から蝦夷地は政治問題化している。

1807(文化4)年
 幕府は全蝦夷地を直轄し松前(そのまえは箱館) 奉行を設置。

1821(文政4)年
 従来の公認支配者松前氏に還付復領される。

1854(安政元)年
 日米和親条約により箱館の開港が決まる。
 日露和親条約締結。

1855(安政2)年
 再び幕府直轄地とする。

1859(安政5)年
 日米修好通商条約調印。

1859(安政6)年
函館、本格的に開港する。

 竜馬が「京摂の過激」派を蝦夷地のどこへ ―  内陸部なのか島嶼部なのか ― 移住させようとし ていたのか、そしてそこでの防衛組織はどのように 編成され、配備されようとしていたのか、それは侵 略を最終目標にしていたか、そもそもそういった組 織の資金は開拓と通商交易の利潤によって調達しよ うとしたのか、等は前述したようにあきらかではな い。

 ロシアとの和親条約は、択捉・得撫両島間を国境 とし、樺太を日露両国民の雑居地ときめていた。北 蝦夷南部の樺太は日露国境画定の争点であったが、 その間題は宙に浮いたまま、明治政府にもちこされ る。

 経済的には、蝦夷地再直轄にともない幕府直営機 関の箱館物産会所が、安政4年に設置された。蝦夷地 の生産物は江戸・大阪の御用商人が買占めと販売に あたり、上納金をおさめたわけである(これも明治 政府は継承した)。

 このような前提のうえに立って竜馬の北海道開発 のヴィジョンは立てられたはずである。実地に視察 した同志で前記の北涛倍麿が箱館から母に宛てた書 簡(文久3年6月6日)に、
「御奉行小出大和守殿へ親接いたし攘夷海防の儀尽 力仕り侯」、「十月には朝鮮へ渡海の積り」
とあるらしい(『竜馬のすべて』)。

 その構成員が政治運動に奔走している浪士集団 であり、現在のように仮想とはちがい、列強とく にロシア絶対主義の南下の危機に対抗しなければ ならないという現実的要請から、竜馬のいだいて いた構想は、経済的組織よりも一種の軍事国家の イメージをさそう。そしてそのようなイメージは、 「秘訣」にみえている国家像の断片と重なってく るのである。

 天皇の血統をひいた新将軍を政治権力の頂点に おくという構想は、竜馬にはなかったかもしれな いが、およそ尊攘派にとっては、皇族を名分にか つぎだすことは運動の実践的イロハである。

 「自在に蛮土を圧領するを主とす」という主張 は、国防よりも積極的に大陸侵略を目的とする膨 張主義的な軍事国家をサジェストしている。

『大日本帝国の痼疾』(15)

「英将秘訣」―その愚民観(2)



「秘訣」にみられる愚民観は、それではどのような 思想史的系譜をもっているのか。ここでもまた、単 純に国学的系統をそれがひいているとは言い難い。

 宣長学は東洋的ヒューマニズムであるものの あはれ説に立脚していたし、篤胤学の、「人も 禽獣も天地の腹中にわきたる蟲」という見解は、力 点のおきどころによっては民衆蔑視への傾斜をもつ ものといえなくはないが、それはあくまで人間の 「万物霊長」を説く「戎人」の支配イデオロギーに たいする、民族主義的反発と読むべきなのであって、 けっして愚民観といえるものではない。

 平田派で足利将軍木像梟首事件の関係者宮和田父 子にしても、弘化年間下総の凶作と大洪水による窮 民救助のため、用金延期を申請して地頭用人と対立 し、その結果、禁獄の処分をうけ、父子とも役儀を 免ぜられている。

 「秘訣」の愚民観がなによりも国学的発想と相容 れないところは、天皇観の項でとりあげた
「神武天皇本州に入る時、不随者は立処に之を殺し、 随ふに於ては其国の造とせり。この智蠢民を扱ふに 最上なり」
という表現だろう。

 近藤さんは、「秘訣」の愚民観が国学とは切れてい ることをさらに説明するために、次の条文を取り上げ ている。

一、青人草(あおひとぐさ)の食ひて生くべきもの 也と勅りし、天照大神の此語中に眼を晒して人を扱 ふべし。

 まず近藤さんは、幕末期の国学者たちの「青人草 (民衆)」観を、その言説を引用しながらかなり詳 しく論じている。ここでは結論だけをまとめておく。

 国学では「青人草」も「蒼生」も「人類」もその訓 読法はすべて「あおひとぐさ」となっている。「人 類」を「あおひとぐさ」と読ませるのは、幕末国学 の民衆観念が「国民」的なわく組にとらわれることな く世界的規模に普遍化されていることを示しているが、 「蒼生」も「青人草」という言葉も辞書的には、人 のふえるのを草の生い茂るのにたとえた語でる。

 そして、そのような非常に多数 の民衆が天皇の「大御宝」だという。これは民衆の存 在じたいに価値があることを意味する。もし民衆に価 値がなければ、それを「大御宝」にしている天皇にも 価値がないことになるからだ。

 もっともそこでの民衆-「大御宝」観には、農・ 工・商以外に武士が含まれている。しかしそれは 「相共に各々其々の職業を以て、皇祖天神の賦命を 奉じ、朝廷に仕奉る有用の人民なるが故に」、であ って、幕藩制秩序の士・農・工・商が縦軸であるの にたいし、ここでの士・農・工・商が横軸であり、 天皇のもとに各身分の価値は平準化されている。 もちろんここに超国家主義にいう「一君万民」論の 原型がある。

 これが、国学の「おほみたから」解釈だ。私はここで 2007年3月3日付の「今日の話題」を思い出した。 採録する。

今日の話題

ありがたや、あなたもわたくしも 「おほみたから」

 民衆のかまどに煙が立たないことを憂えた仁徳天 皇を「国民の上に御仁慈をたれ給う」天皇の代表と して取り上げる文章に今までに何度お目にかかった だろうか。耳にたこができそうだ。

 その仁徳天皇が上記のメインテーマの中に登場し たので思い出したことがある。

『畏れ多いことながら、仁徳天皇の<高き屋に登り て見れば煙立つ…>の歌を見ると、いつも火の見や ぐらを連想する』

 東京新聞(2007.02.24)「筆洗」の書き出しの文 章だ。なぜ「畏れ多い」のか理解しがたく、しばし 絶句してしまった。

 上記のメインテーマの中の陸軍中将閣下が「わが 国の御歴代の天皇は、国民の上に御仁慈をたれ給う て、われわれを赤子と仰せられる。恐れ多いことで はないか。」と恐れ入るのは、天皇教イデオロギー を身にまとうことで社会的地位を維持している人間 の言として当然と納得できる。

 「筆洗」の「畏れ多いことながら」は、あるいは 揶揄的に使っているのかなと、何度か読み直してみ たがどう読んでも心から畏れ入っているようだ。 「畏れ多いことながら」というマクラがなくとも文 章全体に何の不都合もない。むしろそのマクラだけ 浮いていて取って付けた感を否めない。このマクラ を書き留めたとき、この筆者の心裏にどんな葛藤や 屈折があったのかなかったのか知るよしもないが、 もしかするとご本人も気づかずに巣食っている天皇 に対するタブー意識がつい露呈してしまったという ところだろうか。

 そういえば、私の高校時代の日本史の教師は授業 で天皇の名を口にするとき、かかとをピッタリそろ えて直立不動の姿勢をとっていた。わりと好きな先 生の一人であったが、この奇異な行為には滑稽さと 嫌悪感のまじったような感じをもった。

 ところで「御仁慈」とはなにか。
 古事記・日本書紀では「百姓」に「「おほみたか ら」というルビを振っている。これを読んだとき、 よくぞ振ったものだ、民衆=百姓があらゆる価値の 源泉だということをキチンと認識していたのだなあ と、へんに感心したものだった。かまどに煙が立た ずに「おほみたから」が減少してはさぞ困ることだ ろう。

 庶民を「おほみたから」などといい紛らわすので はなく、はっきりと「機械」といってのける現在の 支配層のリアリズムの方がましというべきか。

 幕末の激動の時代情況は、国学にも思想的変容を 迫った。その民衆観においては古典的国学よりも民 衆の価値化が一層ふかまっている。

 記紀の素朴な伝承を宗教的に再構成し、特殊化す ることが、幕末国学の特色である。天皇の「大御宝」 である(にふさわしかるべき)青人草=民衆観は、 むろん、宗教的な思想の側では、なんら奇 怪なことではない、そのような絶対化は幕末の広汎 な社会不安と危機意識そのものが生みだしたもので ある。

 一方、おなじように危機感をふかめ、過激化した 「秘訣」の作者の青人草=民衆観は、どうであろう か。

 件の条文は日本書紀の「五穀発生」と 呼ばれている次のような説話が出典である。 (本文ではなく「一書」第11)

 伊弉諾(イザナキ)尊は三人の子に、 勅任(ことよさし)していった。「天照大神は 高天之原を治めなさい。月夜見(ツクヨミ)尊は 日と並んで天の仕事を治めなさい。素戔嗚(スサ ノヲ)尊は青海原を治めなさい。」

 そうした後、天照大神は天にいて言った。「葦 原中国に保食(ウケモチ)神がいると聞いた。月 夜見尊、あなたが見に行きなさい」と言った。 月夜見尊は勅(みことのり)を受けて降った。そ して保食神のもとに到着した。

 そこで保食神が首をめぐらして国に嚮(むか) うと、口から飯が出た。また海に嚮うと、ヒレの 広い大きい魚とヒレの狭い小さな魚がまた口から 出た。また山に嚮うと、毛の粗い動物と毛の柔い 動物が、また口から出た。それらの品々をことご とく用意して、机に数多く並べもてなしとした。

 すると、月夜見尊は怒りの表情を浮かべて、 「なんと穢(けが)らわしい。なんと鄙(いや) しい。どうして口から吐き出した物をあえて私に 差し出すのか」と言って、剣を抜いて撃ち殺して しまった。

 そうした後に復命(かえりこともう)して、詳 しくそのことを申し上げた。すると天照大神は激 怒し、「おまえは悪い神だ。もう二度と見たくな い」と言って、月夜見尊と昼と夜とに分かれて、 離れて住むことになった。

 この後、天照大神は天熊人(アメノクマヒト) を遣わして見に行かせた。保食神はすでに 死んでいた。ところが、その神の頭の頂は牛馬に 変じていた。額の上には粟が生じていた。眉の上に は蚕が生じていた。眼の中には稗が生じていた。 腹の中には稲が生じていた。陰部には麦と大小豆 (まめあづき)が生じていた。

 天熊人はこれらをことごとく取って、持ち帰っ て献上した。すると天照大神は喜んで、
「これらの物は、人々が食べて生きていくための ものである」 (原文: 「是の物は、顕見(うつ)しき蒼生(あお ひとぐさ)の、食ひて活くべきものなり」
と言って、粟・稗・麦・豆を畑の種とし、稲 を水田の種とし、またこれによって農民の長を定 めた。

 そして、その稲の種を初めて天狭田(あめのさ なだ))と長田(ながた)に植えた。その秋の垂れ た稲穂は八握り分ほどもしなって、非常に爽やかだ った。また、口の中に繭を含んで糸を抽(ひ)く ことができるようになった。これによって初めて 養蚕の道が開けた。


 アマテラスのいっていることは、月夜見尊とは 正反対に、この世に生きて存在するために青人 草が食べるものは、なんら不浄ではないという 意味であり、民衆蔑視のニュアンスはない。

 「秘訣」の「青人草」観が一見して我々にあたえ る愚民観という印象は、その出典の「蒼生」にも 国学の「青人草」観にもない。「秘訣」の「青人 草」は権力操作の対象として、戦術如何のレベルで 処理されるものにすぎないものとなっており、 「秘訣」の民衆観にはおよそヴ・ナロード的要素が なく、国学的背骨じたいが吹きとばされてしまって いる。


 およそ自然感情をまっ殺した、権力意志むきだし の「秘訣」の民衆観は、このように国学的民衆観と 切れている。

 「秘訣」の形式がたとえ「他見を許さ ず」というように非公開的なものであれ、国学思想 に決定的影響をうけているものとすれば、その内容 にそれがあらわれないということはない。「皇神に、 大君に、国家に忠誠思はむ人々を、誘はむ」とい うのが木像梟首事件関係者角田忠行の動機だが、 「秘訣」の作者にはそのような忠誠心はすでに解体 してしまっている。「秘訣」にあらわな愚民観は、 しかしながら政治情況に憑きすぎた急進的な尊攘 派が不可避的に辿らざるをえない性質をかかえてい る。

 幕末期の民衆の、反体制的政治闘争への 無関心、無理解、非協力、不参加といった情況その ものから、その愚民観は醸成されたのだ。日本の大 衆のそのようなありかたは、現代にまで貫徹してい る、いわば存在論的特質というべきものである。

 伴林光平は大和「義挙」に挫折したとき、十津川 農民の「狡黠虚語」に満腔の憎悪をぶちま けているが、民衆の生活思想の側からは、幕末「志 士」の政治思想はひっきようよまいごとに すぎない。そのような敗北の政治体験をくりかえ せば、「秘訣」にみられるようにニヒリスティッ クな民衆蔑視が顔をみせぬともかぎらない のである。

 そのことと裏腹に、幕末「志士」は、〝御陰まい り″や〝ええじゃないか″にあらわれた民衆運動を、 倒幕に利用することはあっても、内在的に理解する ことはできなかったのだ。

『大日本帝国の痼疾』(14)

「英将秘訣」―その愚民観(1)


 前回、「秘訣」と青年将校・磯部浅一の天皇観の 類似性をみたが、前者に著しく後者にはまったく ないものがある。「愚民観」である。

 2・26事件の青年将校たちの直接行動の動機は窮 乏化した農民大衆の解放・救済であった。彼らには 愚民観は無縁であり、むしろ民衆の美化がみられる。 自分たちの運動が国民を「覚醒」させるにちがいな いという、民衆へのオプチミスティックな期待があ った。一般に、超国家主義者は理想主義者であって、 その民衆観にはとくにその傾向があらわれている。 近藤さんは例として、西田税の手記「民衆の趨向」 (1922年)から、次のような引用をしている。

 政界を始めあらゆる階級あらゆる社会の腐敗堕落 と相伴って一般民衆はかつ迷いかつ動揺した。そし てこれに随従せざるべからざるを強いられて滔々と して無化した。
 道徳破壊、良風破壊。
 すべての堕落より来った結果として一般民衆は良 風を破壊した。生活に非常な脅威を感ずるに至った。 不安となって来た。思想はいちじるしく不良となった。
 労働者と資本家との争斗はここに生じここに進 んだ。不逞浮浪の徒は野を満たした。
 一般は今なお無知である。ゆえにその言動たるや 妄言であり乱動である。これが動く―  国家はいよいよ混乱である。  民衆もこの責は負わねばならぬ。  しかし、彼等は可憐である。引きずられたのであ る。  速かに彼らを匡救しなければ、あるいは恐る、邦 家の大患はここに発せん。
 みずからみずからに火をつけて焼け死ぬるような 惨事を惹起せぬとも限らぬ。
 ああわれらは救わねばならぬ。
 民衆は国家民族の大部を形成する。
 偉大なる底力を有するものはまこと一部少数の 機関にあらずして実に民衆である。
 しかもこの民衆がいまや危険の深淵に臨んでいる のだ。
 救済者なくんば彼らはついに前進してこの危険を 踏まねばならぬ情況におかれてあるのである。
 危いかな、七千余万の海東の民生よ」(「無眼私論」)


 さらに磯部浅一の獄中手記から、看守との交感を 記録した部分を引用している。磯部が看守によって励ま され、銷沈した意気を回復している様子がえががれてい る。

 午後から夜にかけて、看守諸君がしきりにやって 来て話もしないで声を立てて泣いた、皆さんはえら い、たしかに青年将校は日本中の誰よりもえらいと 言って泣いた、必ず世の中がかわります、キット仇 は誰かが討ちますと言って泣いた、中には私の手を にぎって、磯部さん、私たちも日本国民です、貴方 たちの志を無にはしませんと言って、誓言をする者 さえあった、この状態が単に一時の興奮だとは考え られぬ、私は国民の声を看守諸君からきいたのだ、 全日本人の被圧迫階級は、コトゴトクわれわれの味 方だということを知って、力強い心持になった、そ の夜から二日二夜は死人のようになってコンコンと 眠った、死刑判決以後一週間、連日の祈とうと興フ ンに身心綿のごとくにつかれたのだ。

 昭和のウルトラ・ナショナリズムは倫理的である が、「秘訣」には「愛すれば近づき、悪めば去り、 与ふれば嬉ぶは禽獣の様也。人倫亦何の異る処かある」 とあったように、倫理の解体した地平で、その愚民 観はでてきている。そしてそこには民衆憎悪や敵愾 心といった感情的要素はみとめられず、あるのはただ 冷徹な民衆蔑視である。


一、世界の人民、如何にせば鏖殺(みなごろし)に ならんと工夫すべし。胸中に其勢あれば天下に振ふ もの也。

一、世界に撒(ま)き散らしたる人民又は金銀の類、 自在に予が言を聞けば、天下を掌握するの才ありと 知るべし。

一、鳥獣といへども、己を殺さんといふを知れば、 身構えするもの也。如何なる馬鹿者にても打解けざ る内は殼中に入れ難し。是を生捕り侯術他なし、食 色の二つにあり。

一、形を望んでは下賤を見下し心を察しては凡夫と 暁り、動揺せば小蝉の如くと一目の胸中にありたし。

一、蜘蛛は網を乾坤に張りて虫のかゝるを待つ。士 農工商の様凡此虫の如し。

一、人に益を与へて後に策を廻らせば、中人以下は 陥るもの也。

一、愚人ほど郷間には成安きもの也。重賞を用ふる 事専一也。

一、青人草(あおひとぐさ)の食ひて生くべきもの也と勅りし、天照 大神の此語中に眼を晒して人を扱ふべし。

一、民は之によらしむべし、是を知らしむ可らずと 云心ばえ、万事にあるべし。


 すべてこれらの愚民観は、権力志向と表裏一体の 関係をなしている。権力への意志が愚民観を強め、 愚民観が権力への意志を強めるという相乗的な観念 構造をもっている。

 「天下に振ふ」、「天下を掌握する」ための、民 衆はチェスの駒にすぎない。「人民又は金銀の類」 といういいかたにあらわれている民衆の物質化はも とより、「蜘味は網を乾坤に張りて虫のかゝるを待 つ」という表現は、権力の民衆にたいする政治支配 の、ほとんど耽美的といえる暗喩である。 (農工商という被支配階級だけではなく武士階級が そこに含まれていることは、注目すべきかもしれな い)

 一般に民衆が支配の道具にすぎないという見方は、 べつに特殊なものではなく、洋の東西を問わず封建 支配者に共通している。封建諸侯だけではなく、シ ーザーのような古代の専制君主にも、ヘンリー八世 やルイ十四世のような封建から近代への移行期の絶 対君主にも、またヒトラーのような近代ファシスト 的軍事独裁者にも、程度の差こそあれ、そのような 民衆観はみられるはずである。

 日本封建支配者の場合、たとえば秀吉の農民観は
「百姓は生かさぬように、殺さぬように」
というものであったし、江戸幕府のそれは
「百姓は分別もなく末の考もなきもの」
ときめつけていたが、
「年貢さへすまし払得ハ百姓程心易きものハ無之」 (慶安触書)
というように、農民統制はなによりも貢租対象とし て周到をきわめねばならなかったから、それほどろ こつな愚民観は存在しなかったといえる。

 これにたいし「秘訣」にみられる愚民観が徹底して いるのは、書き手が現実に権力をにぎっていないか らである。

『大日本帝国の痼疾』(13)

明治維新と昭和維新運動の類似性(2)


 昭和維新は第二の明治維新とも呼 ばれている。ともにその運動理念の中心が天皇 (制)にある点に大きな類似性がある。しかし、 昭和維新は、明治維新が創り出した明治国家の 破壊こそをその目的としていた。

 昭和維新は、1929年の世界恐慌の一環と しておこった農業恐慌を背景としている。つまり 近代資本制の内部矛盾の激化が、その原因である。 これが昭和維新運動を主導した昭和超国家主義の 時代的背景である。これに対して、明治維新の原 因をなした幕末インフレは、新条約締結による開 港にともなう外部的なもの(政治問題)と観念さ れていた。経済発展はせいぜいマニファクチユア 段階であり、産業革命も原蓄もみられず、資本制 は成立期にはいろうとしていたばかりだった。

 このような根本的な経済的条件の相違にもかか わらず、「秘訣」と昭和超国家主義とは、その天 皇観において思想的一致がみられる。「秘訣」に みられる能動的ニヒリズムは、昭和維新運動の 頂点とも言うべき2・26事件をひきおこした皇道 派青年将校の、「革命」の挫折にたいする絶望的 な憤怒のなかに、その表現をみいだすことができ る。近藤さんは、2・26事件で中心的役割を果たした 青年将校・磯部浅一の獄中手記を引いている。

 天皇陛下は15名の無双の忠義者を殺されたので あろうか、そして陛下の周囲には国民が最もきら っている国奸らを近づけて、彼らのいいなり放題 におまかせになっているのだろうか、陛下われわ れ同志ほど、国を思い陛下のことをおもう者は日 本国中どこをさがしても決しておりません、その 忠義者をなぜいじめるのでありますか、朕は事情 を全く知らぬと仰せられてはなりません、仮りに も15名の将校を銃殺するのです、殺すのでありま す、陛下の赤子を殺すのでありますぞ、殺すと言 うことはかんたんな問題ではないはずであります、 陛下のお耳に達しないはずはありません、お耳に 達したならば、なぜ充分に事情をお究め遊ばしま せんのでございますか、なぜ不義の臣らをしりぞ けて、忠烈の士を国民の中に求めて事情をお聞き 遊ばしませぬのでございますか、何というご失政 ではありましよう。

 こんなことをたびたびなさりますと、日本国民 は陛下をおうらみ申すようになりますぞ、菱海 (注-磯部の戒名)はウソやオベンチヤラは申し ません、陛下のこと、日本のことを思いつめたあ げくに、以上のことだけは申し上げねば臣として の忠道が立ちませんから、少しもカザらないで陛 下に申し上げるのであります。

 陛下日本は天皇の独裁国であってはなりません、 重臣元老貴族の独裁国であるも断じて許せません、 明治以後の日本は、天皇を政治的中心とした一君 と万民との一体的立憲国であります、もっとワカ リ易く申し上げると、天皇を政治的中心とせる近 代的民主国であります、さようであらねばならな い国体でありますから、何人の独裁をも許しませ ん、しかるに今の日本は何というざまでありまし ようか、天皇を政治的中心とせる元老、重臣、貴 族、軍閥、政党、財閥の独裁の独裁国ではありま せぬか、いやいや、よくよく視察すると、この特 権階級の独裁政治は、天皇をさえないがしろにし ているのでありますぞ、天皇をローマ法王にして おりますぞ、ロボツトにし奉って彼らが自恣専断 を思うままに続けておりますぞ。

 日本国の山々津々の民どもは、この独裁政治の 下にあえいでいるのでありますぞ。

 陛下なぜもっと民をごらんになりませぬか、日 本国民の九割は貧苦にしなびて、おこる元気もな いのでありますぞ。

 陛下がどうしても菱海の申し条をおききとどけ 下さらねばいたし方ございません、菱海は再び陛 下側近の賊を討つまでであります、今度こそは宮 中にしのび込んでも、陛下の大御前ででも、きっ と側近の奸を討ちとります。

 おそらく陛下は、陛下の御前を血に染めるほど のことをせねば、お気付きあそばさぬのでありま しょう、悲しいことでありますが、陛下のため、 皇祖皇宗のため、仕方ありません、菱海は必ずや りますぞ。

 悪臣どもの上奏したことをそのままうけ入れあ そばして、忠義の赤子を銃殺なされましたところ の陛下は、不明であられるということはまぬかれ ません、かくのごとき不明をお重ねあそばすと、 神々のおいかりにふれますぞ、いかに陛下でも、 神の道をおふみちがえあそばすと、ご皇運の涯て ることもございます。


 おなじ青年将校村中孝次の手記(「丹心録」) もそうなのだが、とくに磯部のものは村中のスタ ティックな表現にくらべ、ダイナミックなそれで あって、超国家主義の思想的特徴をティピカルに 示す構成要素にみちている。すなわちあの聖?三 位一体の原理 - 革命思想としての能動的ニヒ リズムが、政治哲学としてのテロリズムが、世界 観としてのアナーキズムが、そこにはふんだんに ばらまかれている。

 磯部の天皇観は、変態革命の思いがけない蹉跌 による、ザインとしての天皇への失望と、それに 対応してゾルレンとしての天皇がそのペガサスの 翼を溶かされあえなく地上に転落してしまったこ とへのいかりとによつて分裂しており、その裂け 目から暗黒の虚無が発生している。その天皇信仰 解体のプロセスは、今上天皇が磯部らを「国賊叛 徒」とよび、彼らの「革命」を「日本もロシアの ようになった」とみなしたときの、

「今の私は怒髪天をつくの怒りにもえています、 私は今は、陛下をお叱り申し上げるところにまで、 精神が高まりました、だから毎日朝から晩まで、 陛下をお叱り申しております。(行改)天皇陛下、 何というご失政でありますか、何というザマです、 皇祖皇宗におあやまりなされませ」

という言葉に、あらわれている。そして奉勅命令 の欺瞞性を見抜いたとき、磯部ははじめてニヒリ ズムの能動性を獲得した、といってよい。じぷん が「小悪人」、「小利巧」、「小才子」、「小善 人」だつたから抵抗できなかつたのだといい、

「二月革命の日、断然奉勅命令に抗して決戦死闘 せざりし吾人は、後世、大忠大義の士にわらわる ことを覚悟せねばならぬ」

という認識にとうたつするのである。

 2・26叛乱のこの青年将校の思想が、日本の単純 素朴な伝統右翼や国家主義者のそれとも、幕末の 排外主義的な天皇信者のそれとも根本的に異形で あるてんは、その近代性にある。それは、明治国 家を天皇機関説国家ととらえ(それだけなら軍部 ・民間右翼が統帥権干犯としてこぞって政府を批 判したことと変わりはない)ているてんであつて、 そこで天皇機関説を「進化」のために、つまり歴 史的必然のために、承認しているのである。

 「天皇機関説日本をさらに一段高き進化の域に進 ましむるを任とした」にもかかわらず、そのよう な国家の「機関説的奉勅命令」をうけいれてしま ったことに慙愧したわけだ。

 磯部は維新後の日本が『近代的民主国」である ことをくりかえし主張している。「高天ケ原への 復古革命論者」は「共産主義」者と同様磯部の拒 否するところであった。このような磯部の合理的 政治思想が、北一輝に負つていることはいうまで もない。「日本改造法案」の一字一句を実行しよ うとした磯部にとって「法案はわが革命党のコー ラン」であって、それゆえ法案が「国体」に抵触 するのではないかと危ぶんでいる他の同志は「不 徹底なる者」ということになるのである。

 これについてはおなじ皇道派といっても村中の 見解とおおいにちがう。村中にあつては2・26の行 動は北の法案を実現することにあつたのではなく、 あくまで『精神革命」を企図したのであり、した がって「クーデター」を否定している。村中の手 記には反政治的かつ反権力的思考がつらぬかれて おり、天皇信仰は最終的に解体していない。他の 青年将校もおそらく村中の発想とよく似たパター ンのはずで、そうであつたからこそ2・26「革命」 は敗北を喫したのである。

 つまり磯部の思想だけが特異なのであり、その 特異性はちようど「秘訣」の思想が他の幕末志士 の思想のなかにしめる特異性とパラレルである。 尊攘激派の思想が ― すでにみたように坂下門外 の変を画策した大橋訥庵には天皇(制)への不信 がきざしていたし、さらに反革命的な8・18政変以 後の情況ではそれはよりデスペレイトな様相を呈し た。たとえば禁門の変における真木和泉の武カに よる天皇の意志の変更 ― しょせんは日本政治 思想史の特質である「諌争」の思想の圏内にあり、 忠誠のカテゴリイにぞくするものであつだ (葦津珍彦)。

 昭和の皇道派もそのような伝統を踏襲している。 しかし北や磯部の能動的ニヒリズムが超国家主義 の思想的特徴をなす〝順逆不二″の論理にみちび かれて生成したことは、まちがいない。順縁と逆 縁との一致を説く法華の教理は、忠誠と反逆との 一致、天皇への忠誠をつきつめれば反逆に転化す るという論理に発展する。「秘訣」の思想構造も これとおなじメカニスムをもっている。近代性と はそのような非ヨーロツパ的性格を意味している。

『大日本帝国の痼疾』(12)

明治維新と昭和維新運動の類似性(1)


 前回は、「秘訣」にあらわれている合理主義的 権力観(=天皇観)の典型的な前例として南北朝 内乱を取り上げた。今回はその後例として、昭和 維新における皇道派をみてみよう。

 「秘訣」が表に出るきっかけとなったのは 足利将軍梟首事件であった。「秘訣」はその 事件の参加者ひとり、三輪田綱麿(綱一郎) の居宅で発見、押収されたため、その事件を 起こした人たちの間で密かに回覧されていた とされている。ではその「秘訣」の読み手は どのような人たちだったのだろうか。

 その事件の参加者たちは平田学派とされているが、 そのメンバーは次のとおりである。(浅井昭治の 研究による)

師岡節斉 -   江戸・医師
三輪田綱麿 -  伊予・神宮
角田由三郎 -  信濃・神官
宮和田勇太郎 - 下総・名主
仙石泰輔 -   因幡・鳥取支藩士
高松平十郎 -  信濃・豪農
石川一 -    因幡・鳥取支藩士
中村慎吾 -   常陸・郷士・豪農
青柳建麿 -   下総・豪農
長沢真事 -   陸奥国(出身階層不明)
小室理喜蔵 -  丹後・丹波・織元(京の問屋)
西川善六 -   近江・肥料商
長尾郁三郎 -  京都・綿商
野呂久左衛門 - 備前・岡山藩陪臣
岡元太郎 -   備前・岡山藩陪臣
中島永吉 -   阿波徳島藩・儒者養子
大庭恭平 -   会津藩・下級藩十

 このうち中島永吉(錫胤)は平田門人ではなく、 京の中島椋隠(朱子学者)の門下。
 大庭恭平は幕吏をアジトにみちびきいれたスパイ。


 これらのメンバー17人のうち、下級武士は5人で 3分の1に満たない。あとは豪農・商、神官であり、 いわば「中間層」である。年齢は21~38。

 この人物たちの最大公約的な人物像を抽出すれば、 家業に従事せず、ただ国事行為という政治活動に挺 身するだけであり、いわば、生活者としては失格し ている落伍者(デクラッセ)である。

 昭和維新運動の担い手たちのうち、青年将校は 別として、1930年代の民間右翼たちは、後進的な資本制という新たな 「身分」秩序社会から阻害された人たちであった。 そういう意味で、維新運動の担い手たちは「秘訣」 の読者と同じようにデクラッセであったと言ってよい だろう。

 「秘訣」の書き手も、上記のような社会階層に ぞくしていたことは確かだろう。しかし、「秘訣」 の思想はその読み手たちから相対的に独立してい る。読み手の理解の範囲をはるかにこえている。 そのことを、近藤さんは、事件の参加者のひとり 宮和田勇太郎の場合を取り上げて論考している。

 宮和田勇太郎の父光胤は、典型的な平田学派で 生涯その思想を変えていない。浅井昭治の紹介し た手記(「一代記」その他)によって以下その政 治・社会意識を追ってみる。

 光胤は息子勇太郎の尊王攘夷の志を立てるため の上京を許可し、その出発にさいし、

「第一父母にきかせて決心せんと思ふ時ハ兼テ其 方の身の上ハ我れにかはりて忠孝両全の心がけを 日々にさとしくれよと、三輪田元綱大人によくよ く頼ミ置し侯間、此人にそむくハ父母にそむくと 心得べし。必わするゝなかれ師岡正胤大人の教ひ (へ)を受け、又たがひに心たはのいけん致し合、 有志の人を多く拵へ、土気ヲ引立、己れ一身の義 勇にせまるなかれ。時としてハ早く関東に下り、 外々にも士気引越し、父母親族をも養ひ、必其方 迄男子不滅の我が家を子孫たやさぬよふ皇大御神 にいのりたてまつれ」

という心得をあたえるほどの人物であった。しか も上京する党派の(光胤が安政六年平田歿後門人 となったのは、大国派の三輪田、師岡の紹介であ る)活動資金に、伝来の田畑を売って工面してい るようである。また、

「ふるいぬのとし(注-上京の文久二年)、男胤 影(注-勇太郎)をおなしこゝろのともとみやこ にのぼせける時、よみもたせやりける歌」
として光胤が
「みやこじとあづまの雲におやとこがつくす心を 神もまもらむ」
を、
「男胤影みやこにのぼりける時に、品川の宿まで 光胤をはじめ人々もおくりゆきて、いよあへわか れてたち出ける時」、
勇太郎が
「おやとこがにしにひがしにわかれつゝつくす心 はただ国のため」
をそれぞれ詠んでいる。

 この、いかにも美談というほかはないような、 親子の率直な交感、とりわけ勇太郎の忠孝観念の 矛盾なき結合の意識は、平田学徒にふさわしいも のである。木像梟首という奇怪な書件の背景には、 このようなごくありふれた自然性があった。

 手記にあらわれているこれらの内面的な意識は、 おそらく事件の関係者すべてに通底するそれであ るはずで、「秘訣」の思想と比較すればはなはだ しい懸隔がある。つまリ「秘訣」の作者は、ここで も平田派だと所定することは困難である。

「親子兄弟と雖も唯執着の私なれば、蠢虫同様の 者にして、愛するに足らぬ活物也」
などとうそぶく書き手に、修身の教科書的な発想 はかんがえられないことである。こういう倒錯し た言葉は、およそラディカルな思想が現実から離 陸するときに不可避的におそわれるもので、思想 のある普遍的な型を示している。我々が思い浮か べるのは、原始キリスト教の苛烈な肉親否定であ る。イエスの反自然思想は、
「兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また 子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう」
「わたしよリ父または母を愛する者は、わたしに ふさわしくない」
という位相で成り立っていた。

 しかし原始キリスト教からニヒリズムの印象を うけないのは、それが彼岸から、あるいは他界か らやってくるものであれ、倫理が信じられている からである。ところがこの幕末志士のバイブル? には、どんな「千年王国」もユートピアもなく、 信じられているのはただ赤裸な権力のみである。

『大日本帝国の痼疾』(11)

南北朝内乱期と幕末との類似性


 今回は近藤さんの論述をそのまま引用する。

 以上みてきたように「秘訣」における天皇観は、 尊攘激派にふさわしい天皇信仰の内面的解体から 生じた虚無を梃子として、天皇(制)を能動的に 無意味化するというニヒリズムを表現していた。 そのさい価値破壊の対象である伝統的権威を体現 した天皇(制)は、その本来の威力である宗教的 側面において無化されたから、しかもそれに代替 すベき絶対性が流動的な情況そのものから要請さ れたから、その非本来の政治的側面が権力的に強 化されることになつたのである。

 幕末期に、いや近世全般にわたって天皇(制)は なんら公権力としての実体を保有したことはない、 であったからこそ明治「革命」の思想的根処たり えたのだという反論がおこるかもしれないが、天 皇(制)の本質である宗教性の背後で、影のよう につきまとつてきた政治性を看過することは、で きないのである。直接それを掌握しなくとも、現 実に政治権力を行使している支配者(および支配 機構)に間接的に遠隔操作をほどこす、という日 本的政治形態の特殊性は、日本歴史を貫通してき た。天皇「親政」がおこなわれた(7世紀、14世紀 等)時期が短期であつたにせよ、そしてそれが歴 史に逆行したアナクロニズムであつたにせよ.そ れらが歴史的事実であったことは、「王政復古」 に政治思想という現実性をもたらしたのである。  すなわち天皇(制)の常態である宗教的威力は、 政治的権力とべつようにあつかうことのできぬ支 配構造をもっているのではないかということであ る。

 このことは、わたしたちに〈国家〉の〈権力〉 という概念を多面的に考察することを強いている。 言葉遣いの問題だけではなくて〈権力〉という概 念は、政治的にだけではなく、宗教的な権威にも、 風俗習慣の規定力にも、イデオロギーにたいして も通用させねばならないことを示唆している。そ して最後には、ある一定の〈公〉的な位相をもっ た役割が〈世襲〉されるということのなかに、す でに〈権力〉の発生する基盤があるとかんがえる べきであることをおしえている」(吉本隆明)

 ここでの課題にひきよせていえげ、「秘訣」に みる能動的ニヒリズムが、なぜ、天皇(制)の本 来的なありかたである宗教的威力を無化しながら、 なおその政治権力を復元させようとしたかという 問題である。よくしられているように天皇(制) の伝統的権威を利用することは日本的政治権力者 の常套手段であった。

 もちろん「秘訣」の作者もそのことは充分に認 識している。

一、信長は天下の人々高位を望で朝廷の取次をせば、 国中の人我に従ふ決定(けつじよう)を知りたり。

一、太閤は、受嗣ぎて官位を取次ぐ。斯くて取り次 げば家来も同様かく行也。

一、家康は、最早天下は天下に還るフリあり、天子 を以てタヽキて是を矢玉にさへ使はゞ、公の如く吾 天下を自在にすべしといふ事を知りて、行ひたる也。 故に口には忠を云て身には自在を行ひたり。


 この後、近藤さんの論述は「幕末期と南北朝期の 類似性」に及ぶ。それを読むための予備知識を2点、 南北朝の発端となった「両統迭立(りょうとうて つりつ)」と、政治支配の二元的な使い分けという 日本の伝統的な政治形態の最も突出した現象である 「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」について、 確認をしておきたい。さいわい、 『大場佳代の楽しくヒストリー』 というホームページに出会った。そこに、簡潔で 分かりよい解説があったので、それを利用させて いただくことにする。

両統迭立 BR>
 両統迭立とは,鎌倉時代中期に,天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の 2皇統に分裂した際の妥協策で,両統が交互に皇位につくとした原則のこ とです。

 後嵯峨法皇の死後,皇位継承や皇室領をめぐって第3子の「後深草天皇」 と第7子の「亀山天皇」があらそい,天皇家は「後深草系の持明院統」と, 「亀山系の大覚寺統」に分裂しました。

 両統はそれぞれ鎌倉幕府に運動して有利な位置を得ようとしたため,幕府 は『両統迭立』の妥協策をしめし,「後宇多天皇」から「後醍醐天皇」ま での6代が交互に即位しました。

 しかし所領をめぐる争いはこの間も解消せず, 1317年,幕府の仲介で「文保の和談(ぶんぽうのわ だん)」が成立しましたが,全面的な和解にはなり ませんでした。

 そして,この和談で即位した大覚寺統の「後醍 醐天皇」が討幕運動をすすめたため,幕府は持明 院統を支持し,さらに後醍醐の建武の新政の崩壊 後は足利尊氏の支持する持明院統の北朝と後醍醐 の南朝が完全に対立,南北の争乱に発展しました。


観応の擾乱

 観応の擾乱とは,南北朝期におこった『室町幕 府の内部抗争』です。1349年から1352年まで続き ました。

 初期の室町幕府は,将軍である「足利尊氏」と, 弟の「直義(ただよし)」とが権限を分割し,恩賞 の給与や守護職・地頭職などの任免は「尊氏」, 所領関係の裁判は「直義」の権限でした。しかし, この二頭政治が,幕府内に2つの党派を生むこと になります。

 まず,尊氏の執事の「高師直(こうのもろなお)」 と「直義」が激しく対立しました。尊氏の権限を 代行する立場にあった「師直」の勢力拡大に危機 感をもった「直義」は,養子の「直冬(ただふゆ)」 を中国地方へ派遣し,師直の打倒をはかりました。 しかし,師直は,自派の軍勢をひきいて幕府をか こみ,尊氏にせまって直義を引退させたのです。

 先手をとられた直義派は,各地で挙兵し,直義 も「南朝方」について師直討伐を正当化し,京都 を占領し,両派は全面戦争へ突入しました。そし て,両派の主力が摂津で激突,直義派が勝利して 高師直一族は殺されました。また,東北や関東で も直義派が勝利し,尊氏と直義はいったん「和睦」 し,直義は尊氏の子の「義詮(よしあきら)」を後 見するかたちで幕府政治に復帰しました。

 しかし,尊氏と義詮があいついで京都をはなれ, 直義を挟み撃ちする作戦にでたため,直義は,京 都を脱出,自派勢力の強い北陸をへて鎌倉へ逃走 しました。今度は尊氏が「南朝方」について直義 討伐を正当化し,直義派をおって鎌倉へむかい, 直義を降伏に追い込みました。そして,尊氏は鎌 倉にはいり,直義を毒殺しました。

 直義の死で一連の抗争は尊氏の勝利で終わりま した。しかし,直冬ら直義派の反抗はつづき,一 時は南朝方の勢力挽回をもたらすなど,幕府政治 はしばらく不安定な状態が続きました。



 さて、近藤さんの論述に戻る。

 幕府(政治権力)が朝廷(宗教)へ介入する ことはあっても形式的に従属していた幕末期に反 し、「観応の擾乱」においては、幕府が朝廷を 「矢玉」に使うことはいわば朝飯前であり、朝廷 の徹底的な傀儡化がむしろ日常茶飯事のできごと であった。天皇(制)への忠誠心そのものが、そ こには二通りあつたからであり、「両統迭立」と いう皇位継承争奪は、幕府側より朝廷じしんの 側で「万世一系」の価値を下落させ、二つの王朝 が正統と異端をあらそうほどだった。

 上部構造における幕末期と南北朝期との類似性 は、天皇(制)の宗教的威力が地に堕ちていたと いうてんで、前者(とくに尊攘派が天皇の政治手 段化を促進することで倒幕派に転換する慶応年間) は、後者に遠く及ばない。「神皇正統記」ならそ うだろうが、幕権を正当化した「梅松論」などとお なじように北朝正統論の立場にたつ『太平記』が 幕末志士にかなり読まれたことは暗示的だが、 医学者の鈴水重胤が乱臣賊士の入門書の ような『太平記』を高く評価したというエピソー ドは、天皇(制)の合理的解釈を物語っている。

 そして重胤がいわゆる廃帝問題により、かつて 同門であつだ平田派の手にかかつて暗殺されたら しいこと、誤爆をうけた重胤が、維新後明治国家 に名誉回復の贈位をえたことは、平田国学の性格 がリアル・ポリテイクスといかなる関係をもって いたかを物語っている。

 要するに「秘訣」にあらわれている合理主義的 権力観(=天皇観)は、日本政治史のなかにその 前例をもっており、また維新後の明治国家官僚が 身につけていた政治にたいする技術観点に後例を みいだせる程度の、ニヒリズムにすぎない。

 ここで近藤さんが「秘訣」の天皇観をさして、 前例も後例も見出せる程度のニヒリズムに過ぎない、 と断じるのは、それほどの独創性はないという意 だけではあるまい。本当のニヒリズムが志向する 「あらゆる価値の価値転倒」とは、三好十郎の言葉を 再度引けば、「より大きな肯定へ向っての 深い無意識の意志だ。真に尊重さるべきなにもの かを生み出す力を持ったもの」だからである。 つまり、「秘訣」のニヒリズムには、新しいものを 生み出すまでの力が欠けていた。

『大日本帝国の痼疾』(10)


「英将秘訣」―その天皇観(3)


 続いて近藤さんは次の条文を取り上げている。

一、釈迦、空海、義経、正雪等奇術を知りて世を扱 ふとも、何れも小智短才の者也。日本にては神武天 皇、唐にては泰始皇が如き天下を併呑する大量を以 て、加之(しか)も彼の術も亦存せば、地球に名あ りて後世に及ばんか。

一、神式天皇本州に入る時、不随者は立処に之を殺 し、随ふに於ては其国の造とせり。この智蠢民 (しゅんみん)を扱ふに最上なり。


 これらの条文が示す天皇観は、国学だけではなく、 近世思想史上のあらゆる学派の天皇親と断絶してい る。天皇(制)の宗教的な意味は完全に放棄され、 権力志向と愚民観とが裏表一体のものとして構成さ れている。天皇(制)ヘの「恋闕」のこころの屈折 (不信)という心理的位相から、能動的な権力意志 というニヒリズムの位相へと転位している。

 明治維新を武力倒幕にみちびいた王政復古思 想のシンボル(神武天皇)も天上から地上へと引 き降ろされている。国学の否定する簒奪者として、始皇帝 と神武が同格に扱われている。「神武東征」は 「英将」のために、世界制覇の「秘訣」を提供する 一教科書にすぎない。

 ここまでくると「秘訣」の作者の思想は、平田国 学とはまったく相容れないものとなっている。この 作者にとって国学は流行の衣装にすぎない。その衣 装の中には、国学の「転倒」した天皇信仰の論理を 無化する起爆剤を秘めている。近藤さんは「秘訣」 における「天皇」の呼称を分析して、国学と「秘訣」 との決定的な乖離を明らかにしている。

 「秘訣」が「天皇」に言及しているの全部で10ヶ 所ある。内訳は
「天皇」:4ヶ所(そのうち神式「天皇」が2ヶ所)
「天子」:4ヶ所
「皇帝」:1ヶ所(今上「皇帝」)
「帝王」:1ヶ所(京都「帝王」)

 国学では「天皇」の呼称は
「天皇(すめらぎ)」
「天皇命(すめらみこと)]
「大皇(おほきみ)」
「天皇尊(すめらみこと)」
「天皇(おほきみ)]
などである。

 また、「天子」や「皇帝」などの呼称は、放伐論 のカテゴリィでは使用してはならないものである。 「天子」という呼称は「天津日嗣(あまつひつぎ)」 である日本の 「天皇」にのみふさわしいものであり、従って、 中国でそう呼ぶのは詐称であり、異端もはなはだし いということになる。つまり神霊による絶対的な権威 を意味するタームは、 外国に語源をもつものでも、すべて本来、日本 側だけが使用する権限をもつ、という転倒 がそこではおこなわれている。だから「天皇」と いう呼称についても、その起源が中国にあっても なんら問題ではない。それなら「天子」、「皇帝」 という呼称を使えばよいと思われるが、上記のように、 「天皇」という呼称で統一している。近藤さんは 「おそらくそれは中国側の文献に出典が少ないか らだろう。」と推定している。

「漢様に天子と称へ奉るも、皇国に限りたる称 (な)にこそあれ。昨日まで奴と呼れし男の、 今日は他の国を奪取て、暫其国を領(うしは) きつる漢国の王等のうヘに、懸ても言べき称に あらず。将(はた)「聖」ノ字を比志理と訓(よむ) も日知の義にて、天津日嗣領(しろし)める天皇 に限りたる称也」(本居派で天誅組のブレーン ・伴林光平著「園能池水」より)

「天子、皇帝も、僣号なれば、わが天皇の外に 称すべき語ならず」(平田派で明治国家の神道国 教政策に協力した竹尾正胤著「大帝国論」より)

 篤胤によれば、「天子」という呼称は、「天皇」 の呼称が漢土に伝わつたのであり、それもぬすみ とられてそう呼ばれたのだという。(転倒も転倒、 すざまじい「妄想」! ナショナリズムの本質、 ここに極まれり、だね。)

一、世に生利を得るは事を成すに在り。人の跡を慕 ひ、人の真似をする事なかれ。釈迦、孔子の類、唐 土の世々の天子も皆しかる事をせり。

 「秘訣」のこの条文の「天子」は、国学の用法と は異なる。この作者にとって、「天皇」、「天子」、 「皇帝」という言葉は、特別な語義上の区別はない。

 次に近藤さんは、「秘訣」において能動的ニヒリ ズムの極致を示す表現として、次の条文を取り上げ ている。

一、世に活物たるもの、皆な衆生なれば、何れを 上下とも定め難し。今世の活物にては、唯我を以 て最上とすべし。されば天皇を志すべし。

「世に活物たるもの、皆な衆生なれば、何れを 上下とも定め難し。」という一種の平等主義思想 は、宣長学や篤胤学に みられるものであり、急進的尊攘のどの党 派にも一様に反映されている思想だ。

「すべて世中にいきとしいける物はみな情 (こころ)あり」(「石上私淑言」)

 この宣長の自然観は、古今集仮名序の 伝統的心情に連なっている。

「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりけ る」

 また、宣長の思想は排仏的な立場をとつている にもかかわらず、生きとし生けるもの一木一草にまで仏心は 宿るといった仏教の自然観に通底している。

 篤胤に至ると、その仏教的無常感あるいはネガティブ なニヒリズムとの類似点は、人も動物も天地の腹中に わいた虫だから差別はないのだ(「呵妄書」)、と いう次元にまで転化する。ここでは人間的属性のすべてが生理的次元に還 元されいる。そのような相対主義は、言うまでもなく、 人間精神の尊厳性にもとづいた近代的平等の理念とは似 て非なるものだ。

 また、宣長は人間本来の自然的欲望を肯定した。それは 儒教の禁欲的で窮屈な道徳(漢心)に対するアン チ・テーゼの役割を果たした。これも理性より も心を重視した擬似平等主義である。そして、この擬似平等 思想が、政治思想としての「一君万民」論を説 く天皇制思想の論拠をなしている。この擬似平等 思想は、幕末期に封建社会を否定する強力な武器 としての役割をになったが、これが近代ブルジョア的理 念としての平等とはまったく異なることも、言うまでもない ことだろう。

 一方、「秘訣」における天皇観はその宗教性が 内部から剥奪されている。とくに重要なてんは、 民衆が天皇の「大御宝(おおみたから)」である とする「一君万民」論の核心が抜け落ちているこ とである。この意味で「秘訣」は明治維新の「祭 政一致」思想とは異なる位相を示している。それは 「されば天皇を志すべし」という文言によく表れと いる。しかし、このような宗教性の解体の果てに生 じた天皇信仰から頂点を目指す権力思想への転位 は、なぜ可能とがったのか。近藤さんは、「天皇への熱烈な 信仰心が、権力への意志と、内面的におなじよう な構造をもっているからだとかんがえられる。」 と述べている。その行き着くところが、次のよう な徹底した能動的ニヒリズムの表白となる。

一、方今の江戸を目玉とし、京都帝王の玉座を 腹腸(はらわた)とす。目玉は潰れても、腹腸あれ ば活きて居る。

《「真説・古代史」拾遺編》(1)

三本足のカラス


 デジタルテレビ「BSフジ」で『朱蒙(チュモン) 』という韓国の連続ドラマを放映している。いま 私が一番興味を持って見ているテレビ番組だ。

 朱蒙というのは高句麗を建国した王である。 その物語の面白さに惹かれているのはもちろんだが、 私の関心は同時代の倭国にある。倭国が登場するわ けではないが、同時代の倭国に思いを馳せながら 観ている。

 高句麗建国前後の年表は下のようになる。 (「真説古代史」で使った年表の一部を取り出した。)

年代 中国 朝鮮 倭国 東鯷国・ヤマト王権
BC4th 戦国時代 青銅器文化始 銅矛文化圏 銅鐸文化圏
BC3th 秦(221-206) 鋳造鉄器伝播    
BC2th 前漢(202-)   国ゆずり・天孫降臨「天国→筑前」  
  漢・朝鮮に4郡設置(BC108-107) 錬鉄鍛造品 朝鮮からの渡来者多数  
BC1th   高句麗国成立 橿日宮の女王の筑紫統一「筑前→筑後」  
BC1th-AD1th     前つ君の「九州一円統一」  
BC1th-AD1th     「九州→淡路島以西」平定  


 年表に「漢・朝鮮に4郡設置」とあるよ うに、その頃の朝鮮は漢に領有されていた。その 朝鮮の4郡の北に、「扶余」という一応は独立した 国(半独立国)があった。朱蒙は扶余王の実子で はないが、故あって、扶余の第三王子として育て られている。

 年表に「鋳造鉄器伝播」、「錬鉄鍛造品」とい う項がある。『朱蒙』はもっか鉄器をめぐる抗争 が一つの軸になって展開している。扶余は「鋳造 鉄器」を作る技術は持っている。しかし、「錬鉄 鍛造」は伝えられているが、いまだ 「錬鉄鍛造」の技術がない。漢の「錬鉄鍛造品」 で武装している漢軍には歯が立たない。漢と対等 に対峙するためには「錬鉄鍛造」の技術がどうし ても必要だ。

 その頃、倭国には「鋳造鉄器」は伝播していた のだろうか。漢の圧制を逃れえて、朝鮮半島から 多数の渡来人があったとすれば、「鋳造鉄器」 の伝播は当然だろう。人々とともに いきなり完成品が渡来したはずだ。実際、弥生 早期の遺跡から鉄製の斧が出土している。

 と、例えばこんな関心を喚起されながら観ている のだが、今日の話題は「鉄」ではなかった。

 東京新聞の「本音のコラム」の執筆者のお一人・ 吉田司さんは、いつも政治・社会問題について切り 口鋭い辛口のコラムを書いていて、私が楽しみにし ている筆者だ。その吉田さんがめずらしく政治・社 会問題から離れて、強い関心を持って『朱蒙』のこ とを書いている(11月2日)ので嬉しくなっちゃった。 しかし、吉田さんの今一番の関心は、私とは違って、 三本足のカラスだった。次のように書いている。

 韓流人気ドラマ『朱蒙』のDVDや原作本を見て、 古代朝鮮史の闇の中をさまよつている。というよ り、ビックリ仰天! 朱蒙は紀元前37年高句麗国を 創建した王様だが、父は中国漢王朝に滅ぼされた 古朝鮮のヘモス将軍。母は河伯(河の神)の娘ユ フア姫で、ゆえあって扶余国王クムワの第三皇子 として育った。その苦難と恋と冒険にみちた英雄 神話のドラマ化だ。

 いま中国と韓国は〈高句麗の歴史認識〉をめぐ って対立している。ドラマの背景にはそのナショ ナリズム問題があるのだろうが、驚いたのはそれ に非ず。物語の中で扶余国の未来を占う巫女のこ の言葉だ。

「陽(ひ)の中に三本足のカラスが現れました。 三足烏です。太陽を象徴する神聖な烏。三本の足 は、天と地と人を意味する。王権の象徴です」。

 おい、チヨツト待てよ。その三本烏つて、古代 日本の大和朝廷を創建した神武天皇が「熊野より 大和へ」攻めのぽる時に道案内した《八咫烏》と そつくりだぜ。ネツトで調べてごらん。すぐわか る。

 「八咫烏は太陽神を意味する神聖の象徴。現代 では、日本サッカー協会のシンボルマーク」。こ ら、一体どーゆーこと!?

 わたしは江上波夫の《遊牧騎馬民族説》を思 い出した。騎馬民族とは東北アジアの扶余系の 辰王家で、朝鮮から大和に入り日本天皇になつた という説だ。

 うーん、『朱蒙』のドラマはまだ進行中。目が 離せない。

 《遊牧騎馬民族説》は「お話」としては面白い が、歴史「学」の立場からは全くの虚構でしかな いことは、「真説古代史」を知っている私(たち) には自明なことだ。

 問題は「三本足のカラス」。日本では「三足烏」 といえば「八咫烏」、「八咫烏」といえば「神武 天皇」というのが常識になっていて、日本の専売 特許のように思っている人が多いが、中国・朝鮮 (高句麗)にも古くから記録がある。

 『淮南子』に
「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があ り、十匹の三足烏が住んでいた……」
という記述があるという。中国では太陽の象徴と して扱われている。前漢時代の記録だから、ほぼ 『朱蒙』と同時代だ。

 高句麗では古墳の壁画に三足烏が数多く描かれ ているという。『朱蒙』での巫女さんの言葉にあ るように、高句麗では王権の象徴と考えられてい る。三足烏が『朱蒙』に登場するのもうなづける。

 日本サッカー協会が三足烏をシンボルマークに 使ったことに対して、「三足烏は韓国起源のもので あるのに、先祖たちのものを日本に奪われた」など と言っている韓国の古代史学者がいるらしい。 ナショナリズムの呪縛された者たちの言説は、 どの国においても、箸にも棒にもかからない。

 中国や高句麗や日本(古事記)の三足烏の伝説 はみな紀元前2世紀以降のものだが、実はその 発祥は、「射日神事」あるいは「弓神事」にかか わっていて、縄文時代に迄さかのぼると、古田武 彦さんは言っている。そういえば「朱蒙」とは 「弓の名人」という意だそうだ。

 また、三足烏の伝播は「中国→日本」が通説に なっているが、古田説では、「日本→中国」とい う伝播が正しいと言う。もちろんナショナリズム とは無縁だ。自慢ごっこをしているわけではない。 学問の成果として言っている。皆さんはどう判断 されるだろうか、古田さんの論証を紹介しよう。 (『古代史の未来』より)

 1995年の12月、この12年間最後の年度の後半に おいて、鴛くべき新テーマに遭遇した。「三本足 の烏」の祭事である。

 この問題は、萩原法子(はぎはらのりこ)さんの 研究に端を発した。
 それによると、千葉県北部と茨城県南部。利根川 流域と利根川流域(東京湾にそ そぐ)の間に、神社の祭礼において「三本足の烏」 が出現し、分布している。
 他には、埼玉県・東京都はもとより、新潟県に も若干存在する。
 さらに、島根県の隠岐島とその周辺にも、一定 の分布がある。
 けれども、やはり最大の集中地は、上述の関東 である。

 これに対する萩原さんの「解釈」は、馬王堆 (まおうたい)や「春秋(緯)」など、周代末期 や漢代の頃の画や文中に現われる「太陽の中の三 本足の烏」からの伝播、というにあった。

 私はこの「解釈」には、疑問をもつた。この 「三本足の烏」のお祭りは、「中国風」か、それと も「縄文風」か。―これがポイントだった。

 一昨年の12月、研究室から萩原さんのお宅(千 葉県市川市)へお電話し、明けた年の1~2月、多 元的古代・関東(読者の会)の方々と共に、手分 けして、各地のお祭りを実際に見てまわり、写真 ・ビデオ等を撮った。
 回答は一つ。まさに「縄文風」だった。

 私の視点は、次のようたった。

A もし「中国→関東等」への伝播だった場合。 中国側の諸文化要素の中から他は一切受けつけず、 「三本足の烏」だけ模倣する、といったことは考 えがたい。
B 事実、馬王堆も、「月に兎とガマ」の他、複 雑なデザインの構成をもつ。
C 長崎の「竜踊」(くんち)など、文字通り、 異国風・中国風である。
D 「中国→日本列島」の伝播の場合、「関東が 中心」というのは、地理的に飛躍がありすぎる。
 実地検証の結果は、意外にも、次の方向を指し しめした。「関東→中国」だ。問題のキイは、 「黒曜石」である。縄文時代、この材質は最上の 貴重物であった。

a 関東平野は、北に高原山(栃木県)、南に神津 島(東京都)、西南に伊豆半島(静岡県)と黒曜 石の産地にとりかこまれた、縄文時代、繁栄の地 である。
b 「三本足の烏」の副中心というべき隠岐島 (島根県)は、同じく黒曜石の地である。
c すなわち、この伝播の「時期」は、縄文時代 に属するという可能性がある。

 昨年1月7日、私が直接拝観した、星神社(千葉 県八日市場市椿)の場合、 子供が手で的(三本足の烏を描く)を突く という、「弓矢発明以前」の祭事の型式を伝えて いた(桜の木の弓は、用意されているが、用いら れない)。旧石器前半期ともいうべき素朴さが守 られている【下の写真】。

三足烏

 また、1月3日の星宮神社(千葉県八日市場市吉 崎)の「おまとう」では、的に「日と月」を描き、 日(大きい方)を弓矢で射る。宮司および氏子総 代・氏子の方々による。射日神話ならぬ、「射日 神事」であった。

『大日本帝国の痼疾』(9)

「英将秘訣」―その天皇観(2)


一、本朝の国風、天子を除くの外、主君と云ふ者は 其世の名目也。独夫なれば、やがて予(われ)主人 と為るは唐の例也。聖人の教也。猶ほ物の数とも為 す事なかれ。

(「独夫」→「どくふ」、つまらない男、見放された 君主)

 この条文は「竜馬がゆく」での使われていた。 次のように訳している。

「本朝(日本)の国風、天子を除くほかは、将 軍といい、大名といい、家老というも、みなその 時代その時代の名目にすぎぬ。物の数ともなすな かれ」


 この条文では儒学の聖人信仰が否定されている。 これについてもすでに宣長にラジカルな言説がある。

「いはゆる聖人も、たゞ賊の為とげたる者にぞ有り ける」(「直毘霊」)

 中国の聖人はみな纂奪者にすぎない、と言ってい る。将軍だとか藩主などというものはたんなる 名分にすぎない、そして天皇だけは例外だと述べ ている。

 しかし、この条文の文脈内で読む限りでは、 天皇もまた「主君」と同じく名分論において比較さ れていることになる。このようなあつかいかたは、 国学(特に平田派)にとってはきわめて不謹慎 な態度であり、それこそ「不敬罪」にもあたいする。 平田派にとって天皇は絶対的帰依の対象である。 この条文では、その絶対的天皇信仰が解体している。 それは次の条文でさらに決定的に表明されている。

一、万国に生れしか、或は外国へ渡らば、王に成る を以て心とすべし。日本にて《は開闢の昔より天子 はころさぬ例なれば、是斗りはいけて置くべし、》 将軍とかいふ者に成る心を工夫すべし。《天子と 同様なり》

(「是斗りは」→「こればかりは」かな?」

 《》内の文言は大正時代には伏字にされていた。 「不敬罪」にあたると判定されたわけだ。なにしろ、 ここでは天皇が徹底的に政治の手段と化している。 一応は、天皇は権力奪取の対象としないとは言って いってはいるが、外国の王や将軍という政治権力者 とおなじレベルで論じている。この点で国学的天皇 観とはまったく異なっている。ここまでの「秘訣」 の天皇観の分析を、近藤さんは次のように総括して いる。

 いったい国学にあっては、儒・仏・基三教はおろ か「老荘の糟粕」として国学とアナロジカルな自 然思想を内容とする道教でさえ、排斥する。18世 紀の宣長いらい、およそすべての外来文化を「漢 心」だと批判するためには、固有の思想が、「日 本的」原理が、どうしても必要になる。その基準が 天皇(制)とされたわけだが、それは現在的にいえ ば、思想というより宗教である。思想は自己自身を も相対化しようとする本質をもつが、宗教は自己を 絶対化する。だから国学が天皇(制)を批判するこ とはじぶんで破産宣告をするようなものである。

 そのような国学であるから放伐論ないしは易世 革命説は当然否定される。それに反し「秘訣」の 筆者は、語脈をジャスティフィケーションしてい る、というより自明の理なのである。にもかかわ らず天皇(制)にたいする相対的な見方が、 国学的(ヽヽヽ)な天皇 信仰の内部から分泌されてきたというの は、じっさいに権力を掌握していることを合理化 する幕府および諸藩の支配イデオロギーが放伐論 の延長線上にあり、それを批判する根拠は天皇 (制)いがいになかったからである。

 国学的という言葉に傍点を付したのは、アンシ ャン・レジーム化した幕末―維新期を嚮導した反 体制思想は、水戸学であれ闇斎学であれ、陽明学 (は基本的に放伐論を肯定している)であれ、多 かれ少なかれ尊王または勤王精神を潜在もしくは 顕在させているということである。つまり天皇信 仰は深浅の差にすぎない。端的にいえば、「秘訣」 には、これらの要素が前提としてすべて包括され ている。

 上の引用文中の語句についての註。(私には初見の 言葉なので、なによりも自分のために調べました。)

「老荘の糟粕」
 「古人の糟魄(そうはく)」という諺を転用 しているようだ。意味は
『昔の聖人が用い尽くしたかすという意で、聖人 の行った道の真髄は言語で述べがたいものである から、書物にしるされて今伝っている聖人のこと ばは、かすに等しく無益だということ。』 (東京堂出版版「故事ことわざ辞典」より)

放伐論(易世革命説)
 ひとことで言ってしまえば、「王位簒奪肯定論」。 その大義名分を孟子が説いている。それを、正確 には、「湯武放伐論」と呼んでいる。「湯(とう)」 「武」はそれぞれ「桀(けつ)」「紂(ちゅう)」 を討って「殷」「周」を創始した王。2週間ほど前に 『「武烈紀」と「桀王・紂王」の故事』 で取り上げた。

 「湯武放伐論」は「孟子語録十五」にある。 (筑摩書房・世界古典文学全集「大学 中庸 孟 子」より)

斉の宣王問うて曰わく、湯、桀をち、 武王、紂をつ。諸(これ)有りや、
(斉の宜王か孟子に問うて言った。「殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を討伐したと聞い ているが、この事実があつたのか」)

孟子対えて曰わく、伝に於て之有り、と。
(孟子は答えた。「古い記録にございます」)

曰わく、臣、其の君を弑(しい)す、可なるか、と。
(王、「臣下がその君主を殺す、このようなこと ができるであろうか」)

曰わく、仁を賊(そこなう)う者、之を賊と謂う。 義を賊う者、之を残と謂う。残賊の人、之を 一夫(いっぷ)と謂う。一夫紂を誅するを聞くも、 未だ君を弑するを聞かざるなり、と。
(孟子、「仁の道をそこなうものを〈賊〉と言い、義の道をそこなうものを 〈残〉と申します。仁義の道を破談する残賊の人を〈一夫〉と申します。 周の武王は、一夫である紂王を誅殺したのであつて、君主を弑逆したの ではございません。さように聞いております」)


 国学は放伐論(易世革命説)を否定しているが、 それは国学の理論的根拠である「古事記」の内容と 矛盾する。「古事記」を大誤読しているのでその 大矛盾には気づきようがない。

 『ヤマト王権・王位継承闘争史』でみたように、 「古事記」のヤマト王権史を縦に貫いているのは まさに放伐(易世革命)の歴史である。先の権力者 を暴虐な王(あるいは反乱者)にしたて、仁徳に 富む王(あるいは正統な王)がこれを討伐すると いう大義名分説話のオンパレードであった。

 国学の天皇論は所詮、砂上の楼閣、いや誤謬の 水平線上の蜃気楼に過ぎない。

『大日本帝国の痼疾』(8)

「英将秘訣」―その天皇観(1)


 『「英将秘訣」論』に戻る。

 「秘訣」が能動的ニヒリストの手になるもので あることを最も如実に示しているのがその天皇観 である。

 明治維新がその思想的根拠として呼び起こした 「過去の亡霊」=「天皇(制)」、それは草莽の尊攘 派にとってはもとより、それなりの合理主義を身 につけていた幕府や諸藩の公武合体派にとっても、 初めは「価値」の対象であった。

 価値を能動的に破壊できるのは、その価値が内 部に存在する場合に限る。公武合体派にとっては 、その価値が外部に存在したため、それを乗り超 えることは不可能だった。それに対して「秘訣」は、 絶対的な天皇信仰の内部において生じた裂け目か ら出現したと言うべき性質の虚無をかかえている。 その「裂け目」を覗くために、天皇(制)に絶対 的な価値を求めてきた思想を瞥見しておこう。

 本居宣長は天皇(制)についての言説は、例えば 次のようである。

「国といふ国に、此の大御神の大御徳かゞふらぬ国 なし」(「直毘霊(なほびのみたま)」)

「……四海万湖此御徳光を蒙らずといふことなく、 何れの国とても、此大御神の御蔭にもれては、一日 片時も立ことあたはず」(「玉くしげ」)

 また、宣長の理念を政治的に発展させた篤胤は 次のように言っている。

「皇御孫命(すめみまのみこと)の、天地とゝも に、遠長に所知看(しろしめす)御国にして、万国 に秀で勝れて、四海の宗国たる」(「霊之真柱(た まのみはしら)」)

 天皇が絶対的な価値を保有しているという思想( というより「信仰」という方がふさわしい)を表明 している。その特徴は、天皇の「御稜威(みいつ)」 が日本だけではなく、「人類に於て」、普遍的に通 用すると信じられているてんにあるが、これと 「秘訣」の天皇観はどう違うだろうか。

一、今上皇帝及び玉座の神璽を頂き鳳輦を、迎へんには、禽獣草 木と雖も鰭伏して靡かん。況や人類に於てをや。

 宣長や篤胤の天皇が歴代の宗教的威力としての天 皇を意味しているのに対して、上の条文では具体的 な現に存在する「今上皇帝」(「秘訣」の成立時期 から、孝明天皇と考えてよいだろう)をもちだして いるてんで異なる。徹底して政治的なのである。この ような天皇観は、幕末の急進的な政治思想にひとし くみられるものである。例えば、「秘訣」の著者と おなじように藩権力をバックにもたない草莽 の志士・大橋訥庵も「政権恢復秘策」で、次の ように「絶対的な天皇信仰」を吐露している。

「申すもかしこきことなれども、今上は英明にまし まして、夷狄猖獗を憂憤し玉か、日夜宸襟を苦しめ 玉ふと云ふことは、草莽までも聞え渡りて、誰も彼 もあり難いきことよと涙を落し、かゝる澆季の世に 当り、神州の危ふき折からに、英明の天子出玉ふて、 国土を憂憤し玉ふは、古へ天祖の勅に、 宝祚(あまつひつぎ)ノ隆ヘマサムコト、当二 天壌(あめつち)ト窮り無カルベシと宣ひつる しるしならん」

 しかし、訥庵の思想のベースは平田国学ではなく、 いわゆる体制イデオロギーである幕府の正学、朱子 学である。そしてここでの天皇観は政治色を帯びて いるてんでは「秘訣」のそれと同じだが、その「政 治」の方向が異なる。

 『「尊王攘夷論」の形成』 でみたように、もともと「尊王攘夷論」は幕府の 政策をバックに形成されてきている。それは、欧米 資本主義列強の物理的、精神的侵略をはねかえすた めには、天皇の「勅許」が現実的政策としてどうし ても必要だったからである。幕府の「攘夷」という 政策は、それじたいきわめて自然な防衛意思 (近藤さんは、当時の日本が文字どおり国防につと めていただけであって、国防に名を借りて侵略して いなかったことは留意すべきだろう、と書き添えて いる)であった。

 しかし、1825(文政8)年の「異国船打払令」では じまった強硬対外政策は、1842(天保13)年には、 なしくずし的に廃止された(薪水給与令)。以後、 攘夷派と開国派、あるいは尊王派と公武合体派の 相克が激しくなる。やがて、幕府が「征夷大将軍」 の職責=攘夷を履行しないことが志士たちの攻撃の 的となっていった。そして、 幕府の露骨な弾圧の始まりである「安政五年の大獄」 (1858年)を契機に、「政治としての天皇」が絶対 化していく。近藤さんは言う。

『権力の弾圧が強化されればされるほど、人間 は、その権力に対抗するおのれの理念または信仰 をますます正当なものとみなし、純化する』

 まさしく「政権恢復秘策」が書かれたのは1861(文久元) 年である。そして、その文久と呼ばれたわずか3ヵ年 の間に政治党派間に激しい抗争がくりひろげられ

将軍・大名上級武士層を中心とした公武合体派

下級武士・豪農・商層を中心とした尊攘派

尊攘派の挫折をへてふたたび公武合体派

と政局の主導権はめまぐるしく変動した。

この情況のもとで尊攘派の天皇の絶対化は同時に、 現実の天皇への不信からよってくる天皇の相対化 と裏表であった。つまり、絶対的な天皇信仰の内 部に「裂け目」が生じる。その相対化を促進した のが、1860(万延元)年の公武合体派の計略、 いわゆる和宮降嫁問題であった。

 訥庵の意見書は、この事件にたいする幕府への 憤激を動機のひとつにしている。しかし、そこに みられる天皇信仰は、現在位の天皇への失望と不 満によって屈折している。訥庵によれば和宮降嫁 問題も、天皇が「些末の義に拘泥し」優柔不断で 攘夷の詔勅をひきのばしているから幕府につけ こまれたのだ、ということになる。幕府に攘夷を 要請することは、「泥酔漢に仁義を説く」ような もので、「当今の大関鍵は、幕府を捨て玉ふと否 とに有て、天朝の御廃興もそれにつれて分る」と、 「公武一和」の夢はすでに幻想にすぎないという 現状認識を述べ、「徒らに旧格を守り玉ひ、区々た る小義に泥(なず)ませられて、何事も御相談の上ならで は決して玉はずと云ふことにては、御恢復の機会 もはづれて、天朝も亦幕府と倶に顛覆に至り玉ふ べし」と天皇叱責している。そうなれば「天攘無 窮」の「古へ天祖の神勅」にたいし「誠に大なる 御不孝」になるというのである。そして訥庵は勅 命の趣旨内容の見本までこしらえ奏上している。

 さらに、尊攘派の天皇信仰に一層の亀裂を広げ させ、徹底的な敗北を体験させたのが、「文久3年 8月18日のクーデター」である。これは、長州藩の 尊攘派と結託して政局をほしいままにしていた七 人の公卿(三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼 徳・澤宣嘉)が、薩摩藩・会津藩などの公武合体 派に敗れて京都から追放された事件である。 尊攘派がやっと受け取った攘夷親征の勅許が 天皇の意志によって撤回されたのが、その きっかけであった。尊攘派の天皇に対する不信 はさらに大きく広がったに違いない。

 この事件以後、その挫折をスプリング・ボード に尊攘派は倒幕派として脱皮する。そして政局は 天詠組挙兵、生野の変、禁門の変,天狗党の乱と 激動の局面を迎える。この激動が孕んでいた可能 性とそのあえない消滅を、近藤さんは次のように 論述している。

 このようにありうべき理想の天皇とあらざるべき 現実の天皇との矛盾が深化すれば、「秘訣」にみら れるような政治主義が発生する。というのは価値を 相対化するモメントはつねに現実の側でおこって いるわけだが、権力志向を放棄せずに、否しないか らこそ、敗北の現実をくりかえし容認せざるをえな い場合、現実主義的、合理主義的傾向に陥りやすい のである(このような意味では尊攘激派のなかで ももっとも敬神的な平田党は、一度も敗北したこ とはないといえる。明治国家成立後の平田派の衰 退にしても、彼らじしんは敗北感を味わうことは なかったはずだ。〈正義〉はつねに自己の側にあ ることを、彼らは疑わなかったからである)。 「秘訣」という暴力的な非合法怪文書が、暗さ というよりむしろ爽快な、明るい印象を我々にあ たえるのは、そのためである。

(中略)

 天詠組挙兵、生野の変、禁門の変等一連のおび ただしい血の代償は、天皇(制)が「過去の亡霊」 であることを、王政復古思想をのりこえる可能性 をあたえたはずだった。しかし〈宗教〉のかわり にあらわれたものは、きわめて合理主義的な権力 政冶への、かたちを変えた信仰である。

 慶応年間にはいると、「玉を奪ふ」、「玉を抱 く」などという天皇の隠語が志士気どりの連中に ひんぱんに使われるようになったことは、よく知 られている。西郷はべつにして、この時期から目 立った活躍をする木戸、大久保、伊藤、山県、岩 倉らが明治藩閥政府を構成する。戦術・戦略・策 略・謀略、およそ権力を発展・維持させるための あらゆる手練手管、権謀術数に長けた政冶家が登 場する。これらの連中がかりに近代的ニヒリス トであったとしても、能動的ニヒリストでないゆ えんは、おのれの権力政冶じたいへの信仰につい て、無自覚だからである。

『大日本帝国の痼疾』(7)


「英将秘訣」についてのエピソード


「坂本竜馬作」説と司馬遼太郎

 「英将秘訣」が竜馬の手になるものとされたのは いつ頃からなのかわからないが、文献的には 千頭清臣著「坂本龍馬」(1914年)がよく取り上げ られているが、それよりさらに23年前の1891 (明治24)年に坂本龍馬著『英雄秘訣録』という表 題で『国民新聞』に掲載されているという。以来、 竜馬作という通説がつい最近まで信じられていた。 司馬遼太郎も竜馬作を信じて疑っていない。

 私のもっとも身近の青年が司馬遼太郎のファンで 「竜馬がゆく」を繰り返し読んでいる。
『竜馬作といわれているこんな語録があるの知ってい る?』
と「英将秘訣」のコピー見せたら、「英将秘訣」とい う表題は知らなかったが、数行読んで即座に
『「竜馬がゆく」に、竜馬が折に触れてひそかに手 帳に書き留めていた語録として、同じような文章が ある。』
という答が返ってきた。いろんな場面でいろんな条文 が使われているようだが、すぐにその一つを示してく れた。

 脱藩を繰り返す竜馬に対する山内容堂の激怒を 伝え聞いた竜馬がそれをせせら笑う場面である。

 大殿様の怒りが神戸塾の竜馬に伝わつてきたが、竜馬はせせらわらつた。
「小僧になにがわかるか」
と、竜馬はほざいた。武市にとつては「譜代重恩 の主君」というおごそかな存在の容堂も、竜馬の 口にかかつては、小僧である。
 もつとも、年齢ではない。としは、容堂のほう がはるかに上で、竜馬こそ小僧である。

 小監察がきた夜、竜馬はひそかに手帖に手きび しい文字を書いた。賢君を擬装した稀代の暗君容 堂へのはげしい反感がかかせたものであろう。

「世に生きものというものは、人間も犬も虫もみ なおなじ衆生で、上下などはない」(原文は文語)

 竜馬も、忠義だけを教えられて育った封建時代 の武士である。そういう感情を押しころしてこん な激越な文字をつづるというのは、国もとの勤王 党大獄が、よほどこの男に衝撃をあたえたのであ ろう。
 さらに竜馬は、書きつづける。

「本朝(日本)の国風、天子を除くほかは、将 軍といい、大名といい、家老というも、みなその 時代その時代の名目にすぎぬ。物の数ともなすな かれ」

 さらに竜馬は書いた。

「俸禄などというのは鳥に与える餌のようなもの だ。天道(自然)は、人を作った。しかも食いも のも作ってくれた。鳥のように鳥籠にかわれて俸 禄という名の餌をあたえられるだけが人間では ない。米のめしなどは、どこへ行ってもついてま わる。されば、俸禄などわが心に叶わねば破れた る草鞋を捨つるがごとくせよ」

 脱藩なにものぞ、という気魂が、乙女姉さんに 教えられたその奇妙な書のなかにおどっている。

 翌朝、竜馬は、土佐系の塾生をあつめ、
「藩じゃとか大殿様じゃとかの御意向をいちいち気に していては、此の大事は成らぬ。もし攻めて来れ ば、弾丸刀槍をもって馳走する覚悟だから、その つもりでいよ」

といった。

 このように引用されると、いかにも竜馬が言いそ うなことと思われる。しかし「英将秘訣」には、 司馬遼太郎が描く竜馬像、「あかるく、陽気で、 ひとに好かれ」「稀有な愛嬌と善骨をおび てこの世にうまれてきた」人物、とは千里の径庭が あるような条文もある。その点を司馬はどう折り合 いをつけているのだろうか。このことについてもく だんの青年に教えてもらった。「竜馬が行く(八)」 (文春文庫版)のあとがきである。次のように好 意的にとらえて「微苦笑」の対象としている。

 竜馬は、ふしぎな青年である。これほどあかる く、これほど陽気で、これほどひとに好かれた人 物もすくなかつたが、暮夜ひそかにその手帳にお そるべきことを書いている。

「悪人の霊魂を祈らばわれに智恵よくつくものな り。また釈迦、歴山王、秀吉、始皇。而して泉の 如く策略も亦生ず」

「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ」

「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばら るるものなり」

「天下のもの、各々其の主ありて一銭を奪はば盗 賊と称し、一人を殺せば人またわれを害す。かく て地震の霹れきするや数万の家を破壊し、洪水の 溢るるや幾億の生れい(霊)を殺す。是れを天 命といふて恐るるは何事ぞや、人倫もとより小量 にして大器なきが故なり。されば世界を鳴動せん と思ふ人こそは胸中に此の心なくんばあらず」

 儒教的な、きまりきつた道徳律が支配していた当 時としては、信じられないほどの独創的な語句であ る。

 「衆人みな善をなさば我れ独り悪を為せ。天下の ことみなしかり」

 竜馬は、稀有な愛嬌と善骨をおびてこの世にうま れてきた。ところがどうやら、あの大きな体で暮夜 ひそかに悪人たろうと念じていたらしく、それを思 うと微苦笑を禁じえなくなる。

 前回掲載した全文を読めば分かるように、ここ で引用されている条文はまだ穏やかな方である。 もっと冷酷無比な文言がある。それをさりげなく 避けていると思われる。

「平田学派作」説の根拠

1863(文久3)年に足利尊氏木像梟首事件と呼ばれ ている事件が起こっている。京都等持院の足利三 代将軍(足利尊氏・義詮・義満)の木像の首を取り、 三条大橋に梟首するという事件だ。

 犯人たちは木像の脇に立てられた板札で、足利 将軍を朝廷に対する逆賊と呼び、その不忠の臣の 木像の首をはねて梟首したと、その大義名分を語っ ている。そして暗に徳川幕府を指して、その罪悪は 奸賊・足利に超過するものがあり、ただちに旧悪を 悔い忠節を示さなければ、有志が大挙して罪科を 糺す、と弾劾している。

 この事件の犯人として17人の草莽の志士が逮捕 された。その中の一人、三輪田元綱の寓居で押収 された文書の一つが「英将秘訣」だった。逮捕者1 7人中13人が平田学派の志士だという。「秘訣」 が平田派の手になるものとされる所以である。

 『会津藩庁記録』に「鞅掌録」という文書が収 録されている。会津藩士・広沢富次郎(安任)が 記した日誌である。その日誌に上記事件の記録が あり、「英将秘訣」について次のように書き記して いる。


 英将秘訣ト題シ他見ヲ許サズトイフ書アリ。短 語ニシテ條條並陳セル中ニ世々活スルモノ皆衆生、 何レヲ上下トモ定メ難シ、只我ヲ以テ最上トス。 其注ニサレバ天皇心スベシ、又親子兄弟ハ只執己 心ノ私ナレバ蠢同類ノモノニシテ愛スルニ足ラヌ 借物ナリトイヒ、其他義理法度尽ク蔑視セザルナ ク、己ヲ利スル千変万化ノ術ヲ述ブ。其語簡ニシ テ意遠ク真ニ其心術ノ秘ヲ洩セルナリ。因テ思フ 彼等彼説ヲ以テ堂上ニ入説シ幕府ニシテ為ス能ハ ズバ草莽之ヲ暴発セント言フ。而シテ浪士ノ暴発 ハ真ニ比々其証アリ。

 昨日掲載した「秘訣」の中に《されば天皇を志すべ し。》(復元された文言)とあったが、上記の記録 によれば「天皇心すべし」となっている。このことに ついて、近藤さんは次のようにコメントしている。

 (「鞅掌録」は)押収した「秘訣」を手もとに備 えて書写しているから、《》部分をおこした写本 より信憑性が高いのではないか、ということであ る。

 私は、井上清か伏字を復元した写本を確認して いないから実証的なことはいえないが、これまで みてきたような分析からいえば、「天皇を志すべ し」とうけとつても、少しも不自然ではないとお もう。


 近藤さんがそう思う根拠を次回検討する。

 ところで、「鞅掌録」によれば、「秘訣」は 1863年にはまとまった形で存在していたことにな る。竜馬が二度目の脱藩をしたのは1864(元冶元) 年だから、「竜馬がゆく」のあの場面での語録 (竜馬の独創としての)の記録はありえないとい うことになる。小説だから多少の齟齬にあれこれ 言う必要はないだろうが、「秘訣」が竜馬作では ないことは確かだろう。

「陽明学者・山田方谷作」説の出処

 この説はインターネット検索で出会った。 二松学舎大学の町泉寿氏の「『英将秘訣』の著 者に関する新資料」という小文である。その文書から 引用する。


 本書(題は『英雄秘訣録』)が『国民新聞』 に坂本龍馬著として掲載された際(1891.11.11)、 長清楼主人なる読者からの投書が『読売新聞』に 寄せられ、本書は備中松山の儒者山田方谷 (1805~77)の著である、龍馬著とする証拠を示せ との記事が載った(11.14付録)。

 さらに方谷の養孫にあたる山田準(1867~1952) から、断じて本書は方谷の著ではない旨の弁明広 告が出された(11.21付録)。しかし『読売』記事を 見た山田準と同郷で友人の桜井熊太郎(1864~1911) から準宛の書簡によれば、実は準自身が方谷の自 筆本を所持し、方谷の卓見を顕す著作として縷々 人に示していたことを知る(11.15付)。

 方谷の養孫にあたる山田準が「断じて本書は方 谷の著ではない」との弁明広告を出した、という 話につい頬が緩む。祖父が、反道徳的で残酷で 冷血極まる文言をもつ「秘訣」の著者にされるの は、大変な不名誉と感じたのでしょうね。

 「方谷の自筆本」があったと桜井という人が 言っているそうだが、その実物がないのではなん ともいえない。あったとしても、方谷作とは限ら ない。方谷による写本だったかもしれない。会津 藩による押収本も写本の一つかもしれないし、井 上清の用いたものはそれとは別の写本らしいし、 少ないながらもいろいろな写本があるようだ。

『大日本帝国の痼疾』(6)


「英将秘訣」全文


「英将秘訣」入手顛末記

 「英将秘訣」の条文は全部で90条ある。『「英将 秘訣」論』で引用しているのはそのうちの半分ぐら いだ。そこで、本論(『「英将秘訣」論』)に入る 前に「英将秘訣」を全文読んでおきたいと思った。

 10月31日、久しぶりに神保町古書店街に行ってみた。 数軒目で「坂本竜馬全集」(光書房  1978年)を 見つけた。 B4版で厚さ10センチほどの大冊、何と4万円の値が ついていた。坂本竜馬の研究をするのならともかく、 「英将秘訣」の本文を知るためだけのためにそんな大 枚は費やせない。一ヶ月絶食しなければならなくなる。 あきらめた。

 何で気がつかなかったのだろう。近くに図書館が あるではないか。その蔵書が貧弱だという印象を持 っていて、その存在は頭の片隅に追いやられていた のだろう。昨日、これも本当に久しぶ りに、近くの図書館に行ってみた。ありました。 「英将秘訣」を全文掲載している本を、くだんの 「坂本竜馬全集」と「坂本竜馬読本」(新人物往来社  1985年)と、2冊見つけた。どちらの「英将秘訣」 も出典は千頭清臣著「坂本龍馬」(初版1914〈大正 3〉年)のようだ。近代になって「英将秘訣」を世に出 したのはこの本だとされている。これを「原文」と 呼ぶことにする。

 ということで、念願の「英将秘訣」の全文を知るこ とができた。前回と順序が逆になってしまったが、 それを一気に掲載しておく。よく意味の わからない条文もあるが、それは必要になった時点 で考えることにする。また、原文にはところどころ にルビが振ってある。前回に取り上げた条文で私が 考えた「読み方」が間違っていた部分がある。以降 は原文のルビに従って読むことにする。

英将秘訣

一、日月はあまり役に立たぬものなれども、日は六 時の明(あか)り也。月は夜の助けにもなる歟。

一、世に活物(いきもの)たるもの、皆な衆生なれ ば、何れを上下とも定め難し。今世の活物にては、 唯我を以て最上とすべし。《されば天皇を志すべ し。》

(千頭清臣著「坂本龍馬」では上の条文の《》内 の文言は伏字になっていたようだ。 これを復元したのは井上清だという。復元された 文言が後の方の条文にもう一ヶ所ある。この復元 された文言については、次回取り上げる予定だ。)

一、親子兄弟と雖も唯執着の私なれば、蠢虫(うじ むし)同様の者にして、愛するにも足らぬ活物也。 況や夷人をや。

一、親子を人質に遣はすとも、愛着の義を思ふ事な かれ。其時を打死の日と定むべし。猶其人にも申し 聞かすべし。

一、本朝の国風、天子を除くの外、主君と云ふ者は 其世の名目也。独夫なれば、やがて予(われ)主人 と為るは唐の例也。聖人の教也。猶ほ物の数とも為 す事なかれ。

一、予が身寿命を天地と共にし、歓楽を極め、人の 死生を擅(ほしいまま)にし、世を自由自在に扱ふ こそ産れ甲斐は有りけれ。何ぞ人の下座に居られん や。

一、大悪の限りを為さんとしても、少しは善の出来ね ばならぬもの也。物の理合は万品同じがるべし。

一、俸禄などいふは鳥に与ふる餌の如きもの也。天 道豈(あに)無禄の人を生ぜん。予が心に叶はねば、 やぶれたるわらんぢをすつるが如くせよ。

一、人に対面せば、此奴はいかにせば打殺さるゝぞ と見取るべし。此奴殺すはわけは無いと思ふ位な者 は智なし。少し六ヶしきと思ふ位な者は智あり。其 智あるは早くだまして味方にすべし。

一、人の家に入れば、兵器は何所に在ると、先づ目 を付くべし。其次は財宝の類は何に入れ置くと考ふ れば、家の部分(ぶわ)けせるが如し。

一、万国に生れしか、或は外国へ渡らば、王に成る を以て心とすべし。日本にて《は開闢の昔より天子 はころさぬ例なれば、是斗りはいけて置くべし、》 将軍とかいふ者に成る心を工夫すべし。《天子と 同様なり》

(《天子と同様なり》という部分は、「坂本竜馬 全集」にも「坂本竜馬読本」にもない。近藤さん が引用している条文にあるので追記した。)

一、予に随ふ者は生捕同然、予に不随者は皆讐敵と 見て、心をゆるす事なかれ。

一、人を殺す事を工夫すべし。刃にてはヶ様のさま、 毒類にては云々と云事を暁(さと)るべし。乞食な ど二三人ためし置くべし。

一、海賊は船軍の手習なり。よく心を用ゐて、かり そめに過す事勿れ。

一、人を一人殺せば、其魂我に乗りうつりて、智も ふえ、命も延るものと心得べし。兼て工夫満つれば 戦場面白きもの也。

一、博奕の類は一ものがす事なく心得置くべし。さ れど小芸にて人智をためす也。拙(つたな)し。

一、無音砲、毒煙の類、ためし置くべし。是亦人の 死するを主とす。其死ぎはに目を付べし。犬切にす べし。

一、予死する時は、命を天に返し、位高き官へ上る と思定めて、死を畏るゝ事なかれ。

一、悪人の霊魂を祈らば、我に知慧よく付く者也。 先づ釈迦、歴山王、秀吉、始皇。而して泉の如く策 略も亦生ず。

一、神明は有者(あらもの)なれば、用捨すべし。 造物神策の密事なれば、鬼神も之を知らしめず、 只幽界と云は隠形(おんぎやう)の道にて知らるゝ 者也。

一、世に生利を得るは事を成すに在り。人の跡を慕 ひ、人の真似をする事なかれ。釈迦、孔子の類、唐 土の世々の天子も皆しかる事をせり。

一、義理などは夢にも思ふ事勿れ。身を縛らるゝも の也。

一、耻と云事を打捨てゝ世の事は成るべし。使ひ所 によりては却って善となる。

一、なる丈け命は惜しむべし。二度と取かへしのな らぬもの也。拙きと云事を露斗(つゆばか)りも思 ふ勿れ。

一、盗賊と世に云者は、予世を見るの手遊なり。歴 代にさせて心を慰る所也。

一、薄情の道、不人情の道、忘るゝ事勿れ。是を 却而(かえつて)人の悦ぶ様にするを大智といふ。

一、礼儀など云は、人をしばるの器也。世をしめか ためて吾が掌中に入る具也。

一、涙と云は、人情を見する色也。愚人、婦女子に 第一の策也。

一、忍は知らせぬを主とす。事を成就するを本意と す。

一、事は七八分成就の時を大切とす。必ず気を許す 事勿れ。征夷の大将も帰るさには疲るゝ事あり。

一、衣食住、財宝を与ふるに、智あるものは偽とし れども、幾度もすれば其心切(しんせつ)に落入者 也。

一、隠形などは覚置くべし。されど芸少き故取るに 足らず。

一、弓馬剣槍も人を殺すの術を主とす。むだ事にな すは益なきの日光を消す也。

一、王陽明曰、六経は心の註也。仏者曰、断見と。 是は見処(みどころ)あり。

一、日輪の影に贔負なきが如くすれば、世は知らず 識らず我に落入者也。

一、世界の人民、如何にせば鏖殺(みなごろし)に ならんと工夫すべし。胸中に其勢あれば天下に振ふ もの也。

一、世界に撒(ま)き散らしたる人民又は金銀の類、 自在に予が言を聞けば、天下を掌握するの才ありと 知るべし。

一、天下の物各其主ありて、一銭を奪はゞ盗賊と称 し、一人を殺せば人亦予を害す。斯くて地震の霹靂 (へきれき)するや、数万の家を破壊し、洪水の溢 るゝや幾億の生霊を殺す。是を天命と云て恐るゝは 何事ぞや。人倫素より小量にして大器なきか故なり。 されば世界を嗚動せんと思ふ人こそは、胸中に此心 無くんばあるべからず。

一、世下り、道衰へては、天下の人民貧苦病苦にな やめり。是を治むるの術金銀薬種にあり。

一、釈迦、空海、義経、正雪等奇術を知りて世を扱 ふとも、何れも小智短才の者也。日本にては神武天 皇、唐にては泰始皇が如き天下を併呑する大量を以 て、加之(しか)も彼の術も亦存せば、地球に名あ りて後世に及ばんか。

一、学問の道他なし、只生死の情を察する而己。

一、天文を覚り、地理を握る、人意を併呑する一術 也。

一、天下の人倫悪を好めば善にうとし。善を行へば 悪ににぶく、両不全を英将の不具とす。

一、己の欲する所を人に知らしむる勿れ。己が悪処 も亦然り。反之他の二情を覚るを英明 の器とす。

(「」は返り点のつもり)

一、愛すれば近づき、悪めば去り、与ふれば嬉ぶは 禽獣の様也。人倫亦何の異る処かある。

一、鳥獣といへども、己を殺さんといふを知れば、 身構えするもの也。如何なる馬鹿者にても打解けざ る内は殼中に入れ難し。是を生捕り侯術他なし、食 色の二つにあり。

一、世界を滅するは大洋の溢れ漲るに在り、是は天 竜の如し。人倫一目行ひては、如何にせば 加斯なるを得ん。只火術に在り。山野 を赤裸に焼払ひ、家屋を焼滅し加之、炮烽地雷の決 震を以てせば疑ふ所なけん。

一、牛割(うしざき)に遭ふて死するも 逆磔(ぎやくたく)に会ふも、又は席上にて楽しく 死するも、其死するに於ては異なる事なし。され ば英大なる事を思起すべし。

一、重賞の下に智士死するを見て、将に将たる人は 天下の器を見るべし。

一、蛇竜混雑といへども、吾竜なれば、他に於ては 同気相求の意あり。匆忘言合(いいあひ)て置に 不及。

一、人に一勝を与へて予に百勝を取るを知らしむべ し。古今の英傑大方は然かして豪卒を掌中に入れた り。

一、平談にして、我年齢にまされる人に淫談戯論を 為せば、其語中に見下げらる所を生ずる也。

一、我に劣る人は、我が行きたてを見て策れば、大 方は同じかるべし。

一、我より身分まされる人と年高きは、策るに意外 の智ありと知るべし。

一、如何なる臆すべき所なりとも、其対面の人、彼 奴原夫人に戯ける様は如何なる振舞ならんかの意を 以て其容体を見れば論ずるに足らぬ風俗あるべし。

一、形を望んでは下賤を見下し心を察しては凡夫と 暁り、動揺せば小蝉の如くと一目の胸中にありたし。

一、蜘蛛は網を乾坤に張りて虫のかゝるを待つ。士 農工商の様凡此虫の如し。

一、地上の活物中にて、言語して智ある虫を人とい ふ。そは万物を取扱ふ様にて知らる。されど天変を 知らず。

一、威光を見する、人を殺すに在り。人十人を害す るには十処にして衆目を威(おど)す。

一、天下は我手に入て後は、進退周旋威光を見する 事主意也。太閤が龍造寺に大小を為持、 始皇が阿房宮を築くの類也。

一、主君を大悪に陥れて後ち之を殺すには、天下手 を我に借るといふ各自よし。(外国)

(「各自」→「名分カ」との註あり。)

一、人に益を与へて後に策を廻らせば、中人以下は 陥るもの也。

一、天下万民を救ふといふ名あれば、耻る所なしと 定めて事にかゝるべし。

一、生人に疵を付るや否や、人間なりと思ふべから ず。臆(きおくれ)の生ずるもの也。畜類を殺すよ り安心すべし。

一、畏ろしと思ふ心露斗りも身に蓄ふ事勿れ。死人 なるは土の如く思ひ、死体、骨などは石瓦の如く思 ふべし。

一、今上皇帝及び王座の神璽(しんじ)を頂き持て 鳳輦(ほうれん)を迎へんには、禽獣草本と雖も 鰭伏(ひれふ)して靡かん。況や人類に於てをや。

一、蝦夷地には天皇の血統を以て新将軍を立て、我 と思ふ者之を補佐し、自在に蛮士を圧領するを主と す。

一、神式天皇本州に入る時、不随者は立処に之を殺 し、随ふに於ては其国の造とせり。この智 蠢民(しゅんみん)を扱ふに最上なり。

一、軍は本陳を切入て主将を殺すを要とす。万象も 亦自在になすは其意あり。

(「本陳」は「本陣」の誤記だろう。)

一、和儀調ては主将の人質を取りて之を扱ふ事しん の如くし、未練の条々を令云(いわし め)て敵人の勇武をにぶくす。

(「和儀」は「和議」の誤記だろう。)

一、第一兵糧の工夫致して後なれば、刀剣弑殺の具 を用意すべし。

一、外国を攻るにも、其国にて米蔵は必ずあるもの 也。是に先づ眼を付けて奪取工夫すべし。

一、愚人ほど郷間には成安きもの也。重賞を用ふる 事専一也。

一、中人以上にはホメソコナヒ有り。中人以下には 叱りソコナヒ有るもの也。

一、青人草の食ひて生くべきもの也と勅りし、天照 大神の此語中に眼を晒して人を扱ふべし。

一、衆人皆善を為さば、我独り悪を為せ、天下の事 皆然り。

一、大奸智無慾の如くにして、今世の万人測り知る べからざる人を、日本には鬼神といひ、唐土にて聖 人といひ、天竺にて仏と云ひ、西洋にてはゴツドと 云ふ。所以一つなり。

一、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒の破戒素よりに て、殺生は軍の工夫、偸盗は忍術の調練、邪淫は反 間のナラシ、妄語は差挾りのタクミ、飲酒は人をな づくるの梯なり。

一、慎而勿己とは英将 の工夫也。

一、民は之によらしむべし、是を知らしむ可らずと 云心ばえ、万事にあるべし。

一、六十余州の城都は、人体のキウ処の如し。知ら ずんばあるべからず。

一、方今の江戸を目玉とし、京都帝王の玉座を 腹腸(はらわた)とす。目玉は潰れても、腹腸あれ ば活きて居る。

一、良将英雄も慾僻に由りて謀らるゝ者なれば、之を 戒慎せんとするは智の次なる人なり。偽慾偽僻をこ たへむべし。

一、位といふは本末を云ふのみにて、恃むに足らぬ 飾也。智と勇とを蓄ふべし。天下乱れたる時により て知るべし。

一、時運を察して人情を暁るべし。衆情を傾くを見 て先づ陥る処を切る。

一、気の弱きは善多く、気の強きは悪多し。

一、信長は天下の人々高位を望で朝廷の取次をせば、 国中の人我に従ふ決定(けつじよう)を知りたり。

一、太閤は、受嗣ぎて官位を取次ぐ。斯くて取り次 げば家来も同様かく行也。

一、家康は、最早天下は天下に還るフリあり、天子 を以てタヽキて是を矢玉にさへ使はゞ、公の如く吾 天下を自在にすべしといふ事を知りて、行ひたる也。 故に口には忠を云て身には自在を行ひたり。

一、人には其性の短の限りを与へ、吾は天賦の得手 物を行ふべし。軍には敵将の愚を顕はし、不覚を与 ふること肝要なり。

『大日本帝国の痼疾』(5)


「英将秘訣」―その能動的ニヒリズム


 能動的ニヒリズムを表白しているものとして、 近藤さんが「英将秘訣」から取り出しているのは 次の条文である。

一、親子兄弟と雖も唯執着の私なれば、蠢虫 (しゅんちゅう)同様の者にして、愛するにも足 らぬ汚物也。況や夷人をや。

一、親子を人質に遣はすとも、愛着の義を思ふ事 なかれ。其時を打死の日と定むべし。猶(なお) 其人にも申し聞かすべし。

一、俸禄などいふは鳥に与ふる餌の如きもの也。 天道豈(あに)無禄の人を生ぜん。予が心に叶はねば、や ぶれたるわらんじをすつるが如くせよ。

一、悪人の霊魂を祈らば、我に智慧よく付く者也。 先づ釈迦、歴山王、秀吉、始皇。而して泉の如く 策略も亦生ず。

(管理人注:「歴山王」=「アレキサンダー」、 「始皇」=「秦の始皇帝」)

一、義理などは夢にも思ふ事勿れ。身を縛らるゝも の也。

一、恥と云事を打捨てゝ世の事は或るべし。使ひ 所によりては却つて善となる。

一、薄情の道、不人情の道、忘るゝ争勿れ。是を 却而人の悦ぶ様にするを大智といふ。

(却而…何と読むのでしょ? 意味は「かえって」でしょう。)

一、礼儀など云は、人をしばるの器也。世をしめ かためて吾が掌中に入る具也。

一、涙と云は、人情を見する色也。愚人、婦女子 に第一の策也。

一、愛すれば近づき、悪めば去り、与ふれば嬉ぶ は禽獣の様也。人倫亦何の異る処かある。

一、主君を大悪に陥れて後ち之を殺すには、天下 手を我に借るといふ名目よし。(外国)

一、天下万民を救ふといふ名あれば、恥る所なしと 定めて事にかゝるべし。

一、大奸智無慾の如くにして、今世の万人の測り 知るべからざる人を、日本には鬼神といひ、唐土 にて聖人といひ、天竺にて仏と云ひ、西洋にては ゴッドと云ふ。所以一つなり。

(所以…「ゆえん」と訓読みする熟語ですが? 「もってひとつとするところなり」とでも読むの かな?」)

一、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒の破戒素よ りにて、殺生は軍の工夫、偸盗は忍術の調練、 邪淫は反間(はんかん)のチラシ、妄語は差挟りのタクミ、 飲酒は人をなづくるの梯なり。

(反間…仲間割れの計略。差挟り…なんて読むのでしょうか? 意味は「仲間割れ」?)



 なるほど、すさまじいまでのニヒリズムだ。 旧来の道徳的価値も宗教的価値も嘲笑してはば からない。まさに「すべての価値の価値転換」 を行おうとしている、と読める。しかし、 「すべての価値の価値転換」は、三好十郎の言 葉を借りれば、「より大きな肯定へ向っての」 「真に尊重さるべきなにものかを生み出す」予兆 であった。つまり「私たちは、いつの日にか、新 しい諸価値を必要とする」(ニーチェ)からなの である。それは媒介としてのニヒリズムであって、 あくまで価値のニヒリズムである。「英将秘訣」 のニヒリズムでは「すべての価値の価値転換」 は一つの政治的手段となっている。

 近藤さんの分析を聞いてみよう。

 一読してわかるように、在来の封建倫理の まったき解体の果てに、伝統的な規範意識が 通常の意味と連関を失い、ことごとく転倒され たあげく、これらの激語は吐かれている。

 そこには日本封建倫理の徳目である「義理」、 「人情」、「恥」が哄笑の対象であるだけでは なく、儒教を大義名分論から解放し、18世紀に 猛威をふるった徂徠学の聖人信仰、仏教、キリス ト教、アレクサンダー大王など世界的な宗教規範 もしくは英雄が、無意味化されているか、積極的 に政治的手段として利用されている。

(中略)

 さらにまた、「殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒」 や「賭博の類は一ものがす事なく心得置くべし」 といった「破戒」のすすめは、デカダンスの表現 としてのニヒリズムにかなっているのである。 (ニーチエによれば、アナーキズムもデカダン スの結果である。)そしてこのような背徳の論理 は、やはり目的とはならずに政治的手段 (「軍の工夫」、「反間のチラシ」等)となっ ている。

「……天下手を我に借るといふ名目よし」や「天 下万民を救ふといふ名あれば……」という名分論 はすべて権力掌握のための方便であり、権力じた いが価値化されている。

 このようにニヒリズムが目的ではなく 、体験の結果としてあらわれているのは、 幕末―維新期の「すべての価値の 価値転換の試み」を強いる大情況の渦中での体験 が、直接それを醸成させたからであることは、 多言を要しないだろう。

 ここで近藤さんは1858(安政5)年から1868(明 治元)年までの日本の情勢を、欧米列強のアジア への圧力・侵略と絡ませて年表風にまとめている。

1858(安政5)年
 日米修好通商条約調印(安政五ケ国条約)。
 薩摩藩士西郷隆盛、僧月照と入水。
 イギリス国王のインド直接統治。

1859(安政6)年
 志士梅田雲浜獄死、頼三樹三郎、橋本左内、吉 田松陰刑死(安政の大獄)。
 開港。
 フランス、サイゴン占領。

1860(万延元)年
 大老井伊直弼、水戸浪士に暗殺(桜田門外の変)。
 幕府正使、条約批准のため神奈川出発。
 将軍家茂、皇妹和宮降嫁の公布。
 五品江戸回送令。
 米人ヒュースケン斬殺。
 英・仏連合軍、北京進撃(北京条約)。

1861(文久元)年
 ロシア軍艦対島占拠。
 幕府仏・蘭・米・英・(江戸・大阪・兵庫・新 潟)露五ケ国に開港開市延期要請。
 水戸浪士ら英公使館襲撃(第一次東禅寺事件)。
 幕府、品川御殿山に各国公使館設置承認。
 幕府遣欧使節出発。
 アメリカ南北戦争。
 ロシア農奴解放令。

1862(文久2)年
 老中安藤信正襲撃(坂下門外の変)。
 家茂、和宮と婚儀。
 薩摩藩主島津久光、急進派有馬新七らを斬殺 (寺田屋騒動)。
 ロンドン覚書調印。
 一橋慶喜、将軍後見職。
 松平慶水、政事総裁職。
 ロシアと覚書調印。
 薩摩藩士、イギリス人殺傷(生麦事件)。
 松平容保、京都守護職。
 フランスと覚書調 印。
 幕府、榎本武揚、西周らをオランダ派遣。
 勅使三条実美ら攘夷の勅旨を幕府に伝達、幕議 遵奉決定。
 高杉晋作、久坂玄瑞らイギリス公使館焼打。
 朝廷国事係設置。

1863(文久3)年
 新撰組結成。
 幕府、攘夷期限を5・10と上奏、長州藩米船砲 撃。
 米・英・仏・蘭四国軍艦反撃。
 奇兵隊編成。
 薩英戦争。
 攘夷親征の詔。
 8・18のクーデター。天誅組挙兵。生野の変。

1864(元治元)年
 イギリス代理公使ロンドン覚書破棄を通告。
 フランス公使ロッシュ着任。
 天狗党挙兵。
 パリ協定調印、のち破棄を通告。
 池田屋事件。
 長州藩兵、御所蛤御門で薩摩、会津、桑名藩兵 と交戦敗退(禁門の変)。
 四国連合艦隊下関砲撃(馬関戦争)。
 第一次征長の役。
 幕府、参勤交代制復活。
 長州藩討幕政権成立。
 第一インター。
 清、太平天国滅亡。

1865(慶応元)年
 イギリス公使パークス着任。
 英・米・仏・蘭公使、幕府に兵庫先期開港と 条約勅許強請。
 幕府外国奉行、仏・英に軍事調査。
 長州再征の勅許。
 天皇、条約勅許。

1866(慶応2)年
 坂本竜馬の斡旋により、木戸孝充・西郷隆盛討 幕の提携成立(薩長同盟)。
 大阪で米騰貴、暴動蜂起。
 第二次征長。
 改税約書。
 幕府・長州藩休戦協定。
 浪人取締令。
 世直し一揆激化(江戸時代最大の規模・件数)。
 普墺戦争。
 フランス朝鮮遠征、江華島占領。

 1867(慶応3)年
 睦仁親王践祚。
 将軍慶喜、英・仏・蘭代表に兵庫開港実施を約 す。兵庫開港勅許。
 薩土盟約。王政復古標榜。
 仏公使ロッシュ改革意見書。
 討幕の密勅。大政奉還。
 坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺。
 兵庫開港、大阪開市。
 王政復古の大号令。小御所会談。
 「ええじやないか」運動広がる。
 マルクス「資本論」第一巻。
 イギリス、第二次選拳法改正案。
 仏軍、ガリバルディ軍制圧のためローマに入る。
 アメリカ、ミッドウェー島占領。
 フランス、カンボジアを保護国化。
 イギリス、シンガポール・マラッカを直轄植民 地とする。

1868(明治元)年
 鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争開蛤)。
 新政府、慶喜追討令。旧幕領直轄。
 神戸事件。
 王政復古を各国へ通告。
 暗殺禁止令。
 堺事件。
 赤報隊に偽官軍の布告。
 外国人殺害禁止布告。
 五ケ条誓文。
 五榜禁令。神仏混淆禁止。政体書制定。
 奥羽越列藩同盟成立。
 上野戦争。
 一揆続く。

 欧米近代資本主義列強の外圧を排除して、いか に〈日本〉の統一と独立を達成できるか、という 緊急の外交問題が社会経済的、文化的問題に優先 した状況がよく見て取れよう。世界史の発展段階 として社会的な変革を経験していない日本が、 その社会的な解放を政治的な解放としてうちだす ほかなかった時代である。これが「英将秘訣」 のニヒリズムを醸成させた大情況であった。

『大日本帝国の痼疾』(4)


「能動的ニヒリズム」について


 本論に入る前にもう一つ、「能動的ニヒリズム」 という概念についておさらいしておこう。

 能動的ニヒリズムという概念はニーチェによる。 『権力への意志―すべての価値の価値転換 の試み―』(理想社「ニーチェ全集第11巻」) で、ニーチェはニヒリズムの二つのタイプを 次のように規定している。

箴言22
ニヒリズム。それは二義的である。
A 精神の上昇した権力の徴候としてのニヒリズム、 すなわち、能動的ニヒリズム。
B 精神の権力の衰退と後退としてのニヒリズム。 すなわち、受動的ニヒリズム。

箴言23
 ニヒリズムは一つの正常な状態である。
 それは強さの徴候でありうる。精神の力は、これ までの目標(「確信」、信仰箇条)がおのれに適合 しなくなったほどに増大していることかありうる (― つまり、信仰は、一般には、生存条件の強制 を、生物がそのもとで栄え、育ち、権力を獲得する 事態関係の権威のもとへの服従を表現する・・・)。 他方、それは、いまやふたたび目標を、何故にを、 信仰を、生産的におのれに立てるほどには十分でな い強さの徴候でもありうる。
 ニヒリズムは破壊の暴力として相対的な力の極大 に達する、すなわち、能動的ニヒリズムとして。

 この反対は、もはや攻撃することのない疲労の ニヒリズムであろう。その最も有名な形式は仏教で ある、すなわち、受動的ニヒリズムとして、弱さの 徴候として。精神の力は、疲れはて、憔悴しきり、 そのためこれまでの目標や価値が適合しなくなり、 いかかる信仰をもみいだしえないことがある―、か くして価値や目標の綜合(これにあらゆる強い文化 はもとづいている)が解け、そのため個々の価値が たがいに戦いあうにいたる、すなわち崩壊 ―  かくして、活気づけ、癒し、鎮め、麻痺せしめる すべてのものが、宗教的とか、道徳的とか、政治 的とか、美的とかなど、さまざまに変装して、前 景にあらわれでてくる。


 ニーチェは受動的ニヒリズムの典型として「仏教」 をあげているが、これを受けて近藤さんは次のよう に述べている。

『ニーチエの仏教理解についてはそれがひとつの 問題であるが、一般的にいって日本人の精神態度 に、仏教の消極的な虚無思想がふかく根をおろし ていることは、まちがいではないだろう。それは 日常化された存在のニヒリズムであり、不毛の 「日本制(ママ)」ニヒリズム(三好十郎)である。』

 ニーチェのニヒリズムはヨーロッパ的概念である が、ここで近藤さんは三好十郎のニヒリズム概念を 例にして、「日常化された存在のニヒリズム」 という「日本製ニヒリズム」をあげている。 近藤さんの「日本製ニヒリズム」への言及は上の 引用文だけであ るが、ついでなので、三好十郎のニヒリズム論を 少し詳しく紹介しておこう。といっても三好十郎の 該当の著書をもっていないので、宍戸恭一『三好 十郎との対話』(深夜叢書社)からの孫引きであ る。

 『「日本製」ニヒリズム』で三好は「自然主義 的な日本製ニヒリズム」という概念について次の ように述べている。

 私はbarrenと言った。荒蕪のとか、不妊のとか、 なんにも生み出さないところのとかいう意味のい っしょになった言葉のようだ。正宗白鳥式のとも 言った。日本に昔も今も存在しているニヒリステ ィックな傾向の中に、ヨーロッパ的な頭ではチョ ットつかみ取ることのできない一つの傾向があっ て、そして現在それを最もよく代表している一人 が正宗白鳥だからである。

 それはどんなものであるかと言えば、先ずそれ は頭の中で一切の現世的なもの、フィリスチン (philistine 実利的、俗物的…管理人注)のも のを否定する。もちろん、自分の中にある現世的 なものフィリスチン風な要素をも否定する。否定 しながら、彼自身の実生活はまったく現世的に常 識的で、中庸がとれていて、百パーセント・フィ リスチンだ。否定はするが、自らを危くするよ うな所までは否定しない。

(中略)

 これは、正確にはイズムでは無い。或る種の人 生観照の態度の習慣化したものとでも言っのが一 番当っている。(中略)つまり、この手のニヒリ ズムは、生命力の欠如ないしは稀薄から生まれた ものである。


 これに対して三好は「ホンモノのニヒリズム」を 対比する。ニーチェの「能動的ニヒリズム」にあた る。それは「幼年期に於ける革命的精神の総称で ある」と言い、次のように説明している。

 ホンモノのニヒリズムは(中略)生命力の過剰と 充溢から生まれる。エネルギイを自己のうちに持つ。 いろいろな行動の動機になり得る。空虚は、爆発 直前にできる真空だ。爆発は対象物を徹底的に粉さ いするまでやまない。

 同じくフィリスチンの敵ではあっても、これは、 他人のうちのフィリスチニズムを撃破するのと同 時に、それと同じ程度の無慈悲さでもって自分の うちのフィリスチニズムをも撃破する。ために、 時によって、自分そのものまで撃滅してしまうが ごときパラドックスさえ演ずる。観念が肉体を裏 切ることを許さない。肉体が観念を裏切ること も許さぬ。ザインとゾルレンが一瞬のうちに一挙 に解決されなければならぬ。もしそれが解決され なければ、他のいかなる解決をも峻拒する。

 つまり、より大きな肯定へ向っての深い無意識の 意志だ。真に尊重さるべきなにものかを生み出す力 を持ったものの、生み出す前の清掃であり、生み出 すための盲動である。盲動はデスペレイトだ。だか ら非常に往々に、生みかけたものを踏み殺すのと同 時に、その生みかけた自分をも八つ裂きにして果て る「愚」を、くりかえす。 ― これが、ニヒリズ ムだ。

(中略)

 同じくニヒリズムと言われながら、この二つほ どちがっているものは無い。ほとんどこれらは敵 同志である。たとえば、普通ニヒリズムの反対物 だと考えられている肯定的思想体系である社会主 義や共産主義などとニヒリズムとの距離よりも、 ニヒリズムと、この「日本製」似而非(えせ)ニ ヒリズムとの距離は、はるかにはるかに遠い。 われわれが肯定に立とうと否定に立とうと、われ われは、自身の中から「日本製」ニヒリズムを追 い出さなければならぬ。いやいや、強く、論理的 に、誠実に、一貫性をもって、シブトクわれわれ が考え、生きようとすれば、必然的に、この手の ニヒリズムを自身の中から追い出さざるを得ない であろう。