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『大日本帝国の痼疾』(3)

「尊王攘夷論」の形成


 一年ほど前、店頭で竹越与三郎著『新日本史』 (岩波文庫)に目を引かれ購入した。竹越与三郎 は私には未知の人だった。竹越は三叉との呼ばれ ている。1865(慶応元)年生まれで1950(昭和25) 年に没している。『新日本史』の上巻は1891(明治 24)年に刊行されている。なんと、三叉さん、弱冠 26歳である。

 『新日本史』は1853(嘉永6)年のペ リー来航から1890(明治23)年の国会開設までを扱 っている。まさに「大日本帝国誕生史」である。 また、著者にとってはまさしく同時代史である。

 さて、幕末に猖獗をきわめるにいたる「尊王攘夷 論」の源流を、『新日本史』は次のように書きとめ ている。

 挙国震驚、人心擾々の中より、先ず霞のごとく、雲のごとく、 幻然として現出せるものは「日本国家」なる理想 なりき。幾百年間英雄の割拠、二百年間の封建制 度は、日本を分割して、幾百の小国たらしめ、小 国をして互いに藩屏(はんぺい)関所を据えて、 相猜疑し、相敵視せしめたれば、日本人民の脳中、 藩の思想は鉄石のごとくに堅けれども、日本国民 なる思想は微塵ほども存せず。これがために日本 全体の利益を取って、一藩の犠牲とせんとする者 少からざりき。士人識者にして已にかくのごとく なれば、商売農夫に至っては、殆んど郡の思想あ るに過ぎず。概していえば、愛国心なるものは、 殆んど芥子粒ともいうべく、形容すべからざる微 小なるものにてありき。然れども米艦一朝浦賀に 入るや、驚嘆恐懼(きょうく)の余り、舟を同う して風に逢えば呉越も兄弟たりというがごとく、 夷敵(いてき)に対する敵愾心の情のためには、 列藩の間に存ずる猜疑、敵視の念は融然として掻 き消すがごとくに滅し、三百の列藩は兄弟たり、 幾百千万の人民は一国民たるを発見し、日本国家 なる思想ここに油然(ゆうぜん)として湧き出で たり。而して紛紜(ふんうん)せる頭脳に於ては、 この国家と外国との間には、寛闊(かんかつ)な る余地あるを解する能わず、国家と外国とは決し て両立すべからざるものと信じ、外人は是非とも 国家の外に撃ち払わざるべからずと信ぜり。これ 実に攘夷論の起原にして、久しく幕府の 舅姑(きゅうこ)政治家たる水戸侯斉昭(なりあき) と、その近臣にして権略一世を蓋う藤田虎之助 (東湖)らその唱首たり。

 これより先、世の慷慨家は、天子の山陵、至る 所に荒草茫々として箒掃(そうそう)する者なき を見て、あるいは皇威赫々の盛時を追懐し、ある いは南朝の天子、親しく戈(ほこ)を取って武人 と戦いし往事を回想し、如今(じょこん)皇室の 威権なきを憐み、尊王の議論を唱うるものありし も、これただ詩歌的懐古の情に出でしに過ぎずし て、尊王の字義を分析し来れば、天皇の采邑 (さいゆう)を多くすべし、幕府は皇室に敬礼を 尽くすべし、天皇の山陵を箒掃すべしというの 類のみ。いまだ天皇を以て政治上の立物(たてもの) とせんとする明白の思慮あるものなかりしが、 外人の来航によりて、微昂熱沸せる我が人民の 脳中に、国家なる思想の生じ、この国家に対して 殉ぜんとする焔々たる烈志の生ずるや、国家と 天皇とは初めて連絡を生じ、国難に殉ずるは、 即ち天皇に勤むるものにして、天皇を尊とぶは 即ち国家に勤むる所以(ゆえん)なりとなし、 仏国にありては専制なるルイ王の口を藉りて出で たる「君主=国家」なる幼稚なる思想は、吾国に 於ては先ず人民の脳中に生じ、ここに於てか尊王 の字初めて政治上の意味を含むに至り、尊王攘夷 の二語は雷(いかづち)の如く、疾風の如く、 須臾(しゅゆ)にして日本を一貫して至らざる所 なきに至れり。

 三叉さんの人となりや思想については未だ私の 知るところではないが、『「君主=国家」なる幼 稚なる思想』という記述にその片鱗をかいま見る おもいがする。また三叉さんは「尊皇」ではなく 「尊王」と表記している。「尊皇」という表記は 天皇を神格化し、その尊崇がファナティックに強 調されるようになった後の時代の用語であり、 三叉さんが『新日本史』を執筆した時代にはもっ ぱら「尊王」が使われていた。

 さて、本題は「尊王攘夷論」だった。上の引用文 によれば、水戸斉昭とその近臣・藤田東湖ら、つまり 「水戸学」を「尊王攘夷論」の「起原」としている る。

 一般には、幕末の尊王攘夷思想の代表人物とし ては、まず吉田松陰があげられよう。その松蔭が 強く影響を受けたというのが、会沢正志斎(あいざ わ・せいしさい)が1825(文政8)年に著した 『新論』である。『新論』に強い影響を受けたの は松蔭だけではない。それは幕末の志士の間に広 く流布し、多くの共鳴者を得ていたという。

 会沢正志斎は藤田幽谷(ゆうこく)の弟子で あり、幽谷は1791(寛政3)年に『正名論』を著わ している。幽谷の思想を継承・発展させたのが 門人の会沢正志斎と幽谷の子の藤田東湖であった。

 『正名論』と『新論』の内容はおおよそ次の ようである。(以下は、岩波講座「日本歴史13」 所収の尾藤正英「尊王攘夷思想」による。)

 幽谷が『正名論』を執筆したのは18歳のときだ という。早熟といおうか、天才といおうか、幕末 維新期にはこのような人物が輩出している。その 理由を考えるのも面白い問題だが、いまはおく。

藤田幽谷『正名論』

 『正名論』とは「正しい名分」論という意であり、 それまでの儒教や国学の立場からの「尊王」の 「名分論」を継承発展させたものである。例えば、 山鹿素行のそれは「道徳」としての名分論であり、 本居宣長のそれは宗教的な「神意」に基いた名分 論であった。それに対して幽谷の名分論は「社会的 機能」に着目して、「尊王論」に初めて政治理論 としての根拠づけを与えた。

『幕府(将軍)、皇室を尊べば、すなはち諸侯、 幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・ 大夫、諸侯を敬す。夫れ然る後に上下相保ち、 万邦協和す』

 天皇の君主としての地位が不変であったことを、 日本の誇るべき伝統であるとし、将軍の尊王に は、社会の秩序を正しく維持するという大きな意 義があることを説いて、将軍は「王」としての 「名」を称すべきではないが、その「実」すなわ ち「王道」を実践すべきである、と幽谷は主張し ている。

 儒学の立場では「名」と「実」との一致が理 想とされ、「君、君たり、臣、臣た」(『論語』 顔淵篇)るべきことが要請されていた。これに対 して、幽谷の名分論では君主としての「名」は 「実」から分離される。つまり、天皇はただ 形式上・制度上の君主としての「名」をもちつ づけていることによって、かえって大きな政治 上の役割を果していると考えられている。君主が 君主たるべき徳性や能力を具備することは必要 とされない。君主として負うべき個人的な責任を 解除されている。これは裏を返せば、天皇には 「実」すなわち権限がないことである。

 寛政期の幕府は、形式上の尊王と実質 上の政務委任という対朝廷関係を明確化しよう としていた。幽谷の名分論によって基礎づけられ た尊王の理論は、まさにその幕府の考え方に対応 していたと言える。

 一方、攘夷思想も幕府の対外政策に対応して 形成されていったと言える。

 文化・文政期の幕府の対外強硬策(異国船打払 令など)は、強硬な方針を示すことにより、外国 船接近を牽制するとともに、日本の漁民などが外 国船と親しく交際することを禁じ、国内の人心の 動揺を防ごうという点に真の目的があり、戦争の 危険を冒してまで外国船を撃攘しようとする意図 はなかった。

 言論面ではどうであったか。寛政期以前に現れ た開国論(工藤平助・本多利明ら)は、主に経済 上の利害を問題としたものであり、林子平の唱え た海防府は専ら軍事的な見地からの立論であった。 それに対し、文化・文政年間に入ると、開国や鎖国 をめぐる議論は政治的なものになり、対外政策が 国内の人心に及ぼす影響を重視する立場からの 論が多くなった。その中でもとくに重要なのが、 会沢正志斎の『新論』である

会沢正志斎『新論』

 『新論』の論旨は、「民志を一に」(国民の心を統 合)して、国家の富強をはかるための方策を明らかに しようとするところに主眼がある。そこでは尊王と攘 夷とは、その国民統合を実現するための方法として位 置づけらた。

 神道の祭祀をつかさどるという天皇の宗教的な 側面が、民衆の心を「天威に畏敬悚服(しょうふ く)」させることになり、仏教やキリスト教など の「邪説」に民心が誘惑されることを防ぎ、民心 を国家目的への協力に統一せしめることができ る。これが「尊王」の理念の政治的意義である とする。

 同時に、政府(幕府)が強硬な外敵撃攘の方針を 明示することが、太平に慣れて弛緩した人心を 引き緊め、国家の統一性を強化し、武士や民衆の 敵愾心を鼓舞し、国力や軍備の充実に役立つであ ろうと言う。

 この意味での「攘夷」の理念は、単純な対外政 策であるよりも、むしろ国内に対するプロパガン ダとしての意味をもち、その点で「尊王」の理念 と共通した政治的性格をおびている。そこに 「尊王」と「攘夷」とが結合される必然性があった。 そして、この両者の結合により、国家としての統 一性を強めて、国内と国外との両面から迫る政治 的危機を克服しようとするのが、『新論』の中心的な 論旨であった。尊王攘夷思想はここにおいて一つ の体系的な政治理論として成立したと考えられる。

 この思想に含まれる攘夷の主張は、宣長の日本 中心の華夷思想に立脚しているが、幕府の 対外政策と同様に、盲目的に外敵を撃攘しようと するものでもなければ、また鎖国政策に固執しよ うとする考え方でもなかった。『新論』(原文は 漢文)は読み下し文に書き換えて刊行されているが、 そのときは『雄飛論』と改題された。国力を充実 させた上で、海外に進出し、「海外の諸蕃をして 来りて徳輝を観せしめ」、「四海万民を塗炭に拯 (すく)」うという、海外雄飛の構想こそがこの 著書の究極の目標という意での命名である。本書 が幕末の志士の間に多数の読者を得たのは、その ためでもあった。

 『国力を充実させた上で、海外に進出し、 「海外の諸蕃をして来りて徳輝を観せしめ」、 「四海万民を塗炭に拯(すく)」う』という 思い上がった誇大妄想が、大日本帝国の滅亡 にまで連綿と引き継がれていったことになる。

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『大日本帝国の痼疾』(2)

『「英将秘訣」論』のモチーフ


 近藤さんは、マルクスを引用してフランス二 月革命の「喜劇」から説き起こしている。そして 『「英将秘訣」論』のモチーフを次のように述べ ている。

(『二月革命の「喜劇」』については次の記事を 参照してください。)

第693回 12月28日:唯物史観と国家論の方法(15)「ブリュメール十八日」(1)

第694回 12月29日:唯物史観と国家論の方法(16)「ブリュメール十八日」(2)

第695回 12月30日:唯物史観と国家論の方法(17)ヨーロッパ革命の本質


 本稿で問題にすることはもちろん、二月革命の 喜劇についてではない。あたらしい革命がその胎 内に過去のふるい伝統的要素をひきずっているこ とが、それどころかそのふるい伝統的要素じたい が革命の有力な契機となることが、歴史的必然で あるような、おなじ19世紀の日本の明治維新の 悲劇について、である。

(中略)

 革命の復古的理念としての「過去の亡霊」が同 時に、明治維新の近代的理念(「文明開化」= 「旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ」 (五ケ条誓文))を意味し、その根元が天皇 (制)であったから、このような二重構造を批判 するためには、マルクス主義・アナーキズム・自 由主義などの西欧近代思想が不十分であったこと はいうまでもない。そのためには第二次世界大戦 の敗北をまたねばならなかった ― そこでは近 代思想もまた死を刻印された ― が、ここでは 幕末―維新期の様々な思潮のうち王政復古思想の 側に、その究極的価値の源泉である天皇(制)を 超克する可能性を秘めた思想が、当時すでに存在し ていたことを、指摘してみたい。それは「英将秘 訣」とよばれる断簡で、その標題が示すように英 雄たるべき心得を箇条書に書き綴ったものである。 この、いかにも封建社会の終末を象徴する幕末期 の産物としかいいようのない奇怪な文言の分析 が、ここでの課題である。

 ここで、明治維新の「悲劇」の根源として指摘 している「二重構造」とは、私が「痼疾」と言って いること、つまり外見的にはプロシャ流の立憲的専 政君主制と復古されたアジア的デスポティズム という政治形態の二重性と別のことではないだろう。

 さて、「英将秘訣」は全90ヶ条の箴言から成る。 これを近藤さんは次の六つの要素に分類して、 この分類の順に論を進めている。

一、能動的ニヒリズム
二、政治的テロリズム
三、アナーキズム
四、国学(神道)
五、愚民観
六、権力志向

 もちろんこの分類は便宜的なものであり、それ ぞれのファクターはとうぜん重なりあう。近藤さ んはこの分類について次のように解説を加えてい る。

 能動的ニヒリズムが政治行動に走れば、容易に テロルを誘発するだろうし、アナーキズムのもつ いっさいの権威にたいする破壊衝動は、前二者に もみられる精神の傾向でもある。要するにこれら 三者は区別することが困難なように、思想の聖 (?)三位一体をかたちづくっている。

 第四の特徴としてあげた国学ないし神道は、 いうまでもなく幕末に繁栄をきわめ、明治国家の 完成とともに凋落した平田派のそれをさすが、 「英将秘訣」が従来いわれてきたように坂本竜馬 の手になるものではなく、平田派国学者グループ の手にかかるものであることが、今日ではほぼ通 説になっている。このことはのちに触れるとして、 これら三者の思想的囚子を包括しているのが幕末 国学(神道)ということになる。正確にいえば、 幕末国学を母胎にしてこれら三者の思想的要素が 生まれた。ただその生まれかたに、ある種の突然 変異のように、飛躍と断絶があり、そのことを私 は縷々説明するつもりでいる。結論的にいえば、 「秘訣」にそのような特異性をあたえたものは、 幕末期(家政以後)のかこくな政治情況そのもの であるということになる。

 愚民観と権力志向は、能動的ニヒリズムの精神 的属性ともいえる。また愚民観は、「マキャベリ ズム」を連想させるが、ヨーロッパたると日本た るとを問わず、封建支配者の普遍的な民衆観とい えよう。さらにファシズムの心理とつうじるよう である。

 権力志向は、古代から現代にまでひろくみられ る政治的人間の心性だが、愚民観と比翼連理の関 係にあるものだろう。

 幕末を主導したイデオロギーはいわゆる「尊王 攘夷論」である。「英将秘訣」が表明するイデオ ロギーが、一般に流布されていた「尊王攘夷論」 とは「ある種の突然変異のように、飛躍と断絶」 があり、特異なものであることが指摘されている。

 では一般に流布されていた「尊王攘夷論」とは どんな思想なのか。『「英将秘訣」論』の本文に 入る前にその学習をしておきたい。

『大日本帝国の痼疾』


はじめに


 前々々回と前々回のテーマは、『「終戦の詔 書」を読み解く』→『戦争意志とは何か』と、 大日本帝国の滅亡の過程を時代をさかのぼってた どる形となった。その過程で私は、大日本帝国の 滅亡はその成立時からの「痼疾」の結果だった、 という観点を持つにいたった。そして、その 「痼疾」を明らかにしたいと思った。

 このテーマはまた、

大日本帝国を解剖する(1)
大日本帝国を解剖する(2)

の続きとも位置づけできる。まず簡単にその復習 をしておこう。

 フランス第二帝政(ボナパルティズム)下のフ ランス国家は、近代的国民国家としては<例外的 国家>だった。同じように、明治維新によって生 まれた大日本帝国も<例外的国家>であった。 フランス第二帝政では「ボナパルティズム」の復 古がその統治形態を<例外的>たらしめたのに対 して、大日本帝国ではアジア的統治形態である 「デスポティズム」の復古がそれに該当した。

 帝国憲法体制の成立において完成された近代 天皇制国家は、外見的にはプロシャ流の立憲的専 政君主制を模倣したものであったが、政治形態と しては近代的形態で復古されたアジア的デスポテ ィズム、つまりは近代的デスポティズムであった。 しかし、この天皇制国家の近代的デスポティズ ムの特質は、天皇親裁を建前としていたにもかか わらず、実質的には名目的デスポティズムとして 構成される他なかった点にある。

 天皇制国家が名目的デスポティズムとして構成 されざるを得なかった根因は、明治維新を牽引し た倒幕勢力が伝統的な宗教的権威としての天皇を、 もっぱら徳川幕藩体制に対する大義名分として奉 戴したという点に求められる。

 倒幕勢力は、まず天皇制国家のイデオロギー的 基盤として、神道と儒教とを独自に融合した思想 を創出した。親への孝の道徳的必要になぞらえて、 最高神の天照大神の直系子孫である天皇への忠を 国民の道義的必然とした。それは、政治的・国家 的観念と宗教的・道徳的観念とを未分化に混交さ せた<アジア的国教>であり、政治思想というよ り天皇教イデオロギーという性格のもであった。

 その大日本帝国のイデオロギー的基盤となった 思想の中にこそ大日本帝国の「痼疾」がある。 この「痼疾」により大日本帝国は滅んだが、 その「痼疾」は大日本帝国のゾンビたちに取り憑 いて生き残り、いま我がもの顔にその再々復古を 企みはじめている。明治維新でのアジア的デ スポティズムの復古は悲劇だったが、その再々復 古は喜劇でしかない。笑うに笑えないような喜劇 は、演じさせてはならない。

 ところで、幕末期に草莽の志士たちの間で回し 読みされていたらしい「英将秘訣」という怪文書 がある。表題のとおり、英雄たるべき心得を説いた もので、箇条書きに綴った箴言集の体裁の文書で ある。明治~大正期には坂本龍馬の著作として流 布されていた。いまではそれは否定されて、平田鐵 胤・三輪田元綱ら平田派国学者の手に成るものと いうのが通説になっている。また、備中松山の 陽明学者山田方谷が著者ではないかという可能性 も取りざたされているが、いまだその著者は確定 されていない。しかし、1982年刊の「坂本龍馬全 集」(光風社出版)には収録されている。竜馬説は なお根強く残っているようだ。いずれにしても、 その著者が平田派国学者とも陽明学者とも取りざ たされるように、その文書が説くイデオロギーは まさに神道と儒教とを融合したような内容である。

さて、『試行』の中に『「英将秘訣」論』という 論文がある。ちょっと読んでみたら、私の新たな テーマとそのモチーフが一致する。著者は近藤渉さん。ネットで検索した ら『〈日本回帰〉論序説』という本の著者がヒット した。本の内容から同一者だろうと推測した。この 『「英将秘訣」論』をメインの教科書として使用 させていただこうと思う。ただし、国学や儒学につ いての私の知識は、例によって高校生程度(ある いは以下かも)なので、必要に応じてその都度、 国学・儒学などの学習を織り込んでいこうと思う。 『「英将秘訣」論』もまだほんの数ページしか 読んでいない状況での見切り発車だが、果たして どんなふうに展開するのか、まったく予測できて いない。途中で挫折するかのしれないが、ともか く走り出そう。

《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(11)


ヲホド(継体)は王位簒奪者だった


 20年という長期の大和空白、それは何を意味する か。ワカサザキ(武烈)に子がないことが要因と なり、ヤマト王権は王位継承をめぐって大乱の 最中であった、と解するほかない。

 継体は王位継承を争ういずれかの勢力の応援 部隊のごときものとして近畿圈に入った。そして、 長期間大和周辺を転々としながら、その軍事的基盤 を固めていった。やがて、大和盆地の相争う勢力が疲弊、衰 弱し、あるいは亀裂の生じたのを見て、敢然と大和に突入し、 大王位を掌握するにいたった。

 この仮説以外に

(a)長期の大和空白
(b)同じく長期にわたる継体の大和周辺行動
(c)異例の遠系の豪族即位
(d)武烈に対する悪逆非道描写

の4個の重大な史料事実を満足せしめる解答は ないだろう。

 継体紀の冒頭には、奇妙な継体招請説話がおか れている。これも上の仮説に立って始めて分析可 能となる。その説話のあらましは次のようである。

 大伴金村大連が、武列没後の後継者に倭彦 (ヤマトヒコ)王をまねこうとした。王は足 仲彦(タラシナカツヒコ 仲哀)の五世の孫 であり、丹波国の桑田郡にいた。

 大臣や大連等が兵仗をもち、乗輿(こし)を はさみ守って王を迎えに行った。ところが、倭 彦王はこれを見ておそれ、山谷に遁走してしま った。

 そこで、次に物部麁鹿火(アラカヒ)大連・ 許勢男人(コセノオヒト)大臣等は、男大迹 (オオド)王(継体)に白羽の矢を立て迎 えに行ったところ、男大迹は晏然(しずか) に自若として、胡床に居坐していた。そばには 陪臣が整列し、すでに大王が坐したようだった。


 これに対する古田さんの分析は次のようである。

 この説話には、いかにも作られたわざとらしさ がある。

 第一、倭彦王が迎えの行列を見て、これをまち がえて遁走したと描かれているけれど、そんなこ とがありえようか。もし本当にあやまって遁走し たのなら、それこそ山谷を分けて探すべきではな いか。しかし、それをした気配がない。

 要するに倭彦王を卑怯者とし、継体を生れなが ら王者の尊厳をそなえた者に仕立てようとする作 意が目立つのだ。

 第二、もし倭彦王遁走が事実だとしたら、天皇 位招請の名目で、次々と消されていった豪族がい たといううわさがこの丹波国にもとどいていたか らてはあるまいか。

 第三、もしこの説話のいうごとく、継体招請が 堂々としたものであったとしたら、継体はストレ ートに大和に入って即位すればいい。何も、長期 間の大和周辺行動など必要がない。

 まして自分の前代である武烈天皇をあれほど執 拗に悪逆人扱いする必要もなかったであろう。

 このように考えると、やはり右のようにもっと もらしい継体招請説話は虚像。そのように見なさ ざるをえないのではあるまいか。

 以上の「継体紀」の分析から、二つの重大な歴 史の真相が浮かび上がってくる。

(一)
 武烈までの王朝は事実上、ここで断絶したこと。
(二)
 継体の即位は不法の簒奪だった。

 それ故、みすがらの反逆行為を正当化する ため、中国の史書の手法を模倣し、悪逆の武烈と いうイメージを執拗に公布する必要があった。

 (二)はさらに『日本書紀』選定の目的を 白日のもとに曝す起爆剤の役を果たしている。
 この悪逆人武烈の宣伝は、もちろん継体当時に はじまっている可能性が大だけれど、問題はそれ が『日本書紀』それ自身に特筆大書されている、 この事実だ。

 先にのべたように『書紀』は、その成立時点直 前までの記述をふくむ首尾一貫の史書だ。という ことは、何よりも当代(天武~元正)の利害の上 に編成された史書だということだ。それが正史た るゆえんだ。当然のことながら、元正朝成立の正 史なのである。

 その正史で、かくも武烈を悪逆人に仕立て上げ、 特筆せしめたのはなぜか。

 当然、それが元正朝にとって必要だったからで ある。これほどの特筆が、ただ昔からそう言われ てきたからというだけでなされるはずはない。 まして執筆者(史官)個人の気まぐれや、中国 模倣趣味などのせいにすることは不可能だ。

 ということは ― 率直に言おう。八世紀初頭 の近畿天皇家にとって、次のような汚名をそそぐ ことは不可欠だった。
「彼等は、真の天皇家の直系ではない。不法の簒 奪者の子孫である」と。

 やがて奈良時代、あの『万葉集』の作られた、 否、歌われたさ中だ。右のイメージは、人々を 驚かせるかもしれぬ。人々は、たとえば『万葉集』 に収められた歌、たとえば『風土記』に編まれた説 話などから、これとは全く別種のイメージをくり かえし教えられてきたであろうから。

 この『日本書紀』が元正朝に公布され、諸臣に 講習され、学習されていった事実の疑いえぬ限り、 わたしたちは右のテーマを、論理の帰結として、 うけ入れざるをえないであろう。

 考えてみれば、当然のことかもしれぬ。なぜなら、 あの『忠臣蔵』、元禄(1688~1704年)は今から 300年近く前のことだ。しかし浅野内匠頭や吉良 上野介の行実はありありと今日に伝えられている。 同じく、豊臣や徳川の争った戦国期(16世紀)、 さらに源平の争乱(12世紀)の挿話、それらは今 もありありと庶民の間に(本や芝居によらずとも) 伝えつづけられている。ことに権力の争奪といっ た、時代の画期をなす事件、その記憶は400年、 800年の歳月を超えて亡びず伝承されるもののよう である。

 まして武烈~継体の時代、それは六世紀前半だ。 『日本書紀』成立の八世紀初頭まで、わずか200年 弱。伝承されない方が不思議なのである。

 すなわち、八世紀初頭の近畿天皇家は深い 〝ひけ目″の中にいた。それは自己が真の天皇 家ではないこと、不法の簒奪者であること、そ のことを知っており、耳から耳へ口布する大和 やその周辺の豪族たちの認識に対してであった。

 それは、公然たる文献には現われず、そこでは 逆に、現在の天皇の神聖性が公布されていた。し かし、それとは別に、その建前とは逆に、八世紀 の心ある人々にとってのそれは常識であった。

 その常識に対置すべく公布されたのが、正史 『日本書紀』であった。この正史の目的の一つ、 それは悪逆人、武烈のP・Rであった。いいかえ れば、簒奪者継体の反逆の正当化、ひいては現王 朝の統治の正当化なのであった。

 それが、いかに人々の意表の外に出ようとも、 先述来の論理の進行するところ、これをさまたげ うる人はありえないのである。

 前王朝王朝の正史  以上の論証によって、わたしたちはすでに 『古事記』における顕宗説話断絶の謎を解くべき 鍵を手に入れたこととなろう。

 武烈の没後、もしくは武烈の在位期間中に、 大和大争乱は開始された。むしろ、後者の可 能性が高いであろう。なぜなら、そうでなけ ればあれほど武烈を悪逆人に仕立てるのは、い ささか不自然だからである。夏の桀王や殷の紂 王の例を見ても、すでにその在位中に、次王 朝の創始者は反乱を開始したのだ。

 ともあれ、仁賢記は、武烈の在位中に作られ なかった。そして永遠に―。

 当代の説話を、次代もしくは次々代の王者の 治世において選定し、伝承させ、公布させる  ― このような方法をもった王朝は武烈を もって終結した。

 継体にはじまる新王朝、それは右の前王朝の ような慣例をもたぬ新参の王朝だったのである。

 継体によって果実を奪い去られた大和大争乱、 その中で選定と伝承と公布のための基盤、その 基盤は渦巻く坩堝の中で消滅し去ってしまった のである。

 ここにおいてわたしは知る。『古事記』は前王 朝の伝承の書であり、『日本書紀』は現王朝の正 史である、と。

 以上で、『ヤマト王権・王位継承闘争史』を 終わります。

《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(10)


ヲホド(継体)の出自


 継体の出自を記紀は次のように述べている。

継体記
  品太(ホンダ)王(応神天皇)五世の孫、 袁本杼(ヲホド)命(継体天皇)。

継体紀
  男大迹(ヲホド)天皇、更(また)の名は 彦太(ヒコフト)尊は、誉田(ホンダ)天皇の 五世の孫、彦主入(ヒコウシ)王の子なり。


 出身地は、「記」では淡海国(北滋賀)、「紀」 では三国(越前)としている。

 さて、古事記では「五世の孫」、日本書紀では 「五世の孫」の子、となっている。このような系譜 の者はが果たして正当な後継者だろうか。古田さ んは次のような例を挙げている。

桓武天皇―葛原親王―高見王―平高望―国香― 貞盛
                        |―良持―将門

清和天皇―貞純親王―源経基―満仲―頼信 ―頼義―義家

 つまり、平将門や源義家が天皇位を継いだ ようなも、というわけだ。

 記紀は、ヤマト王権が支配権を拡大していく過 程で、支配と従属の方法として地方豪族をすべて ヤマト王権の縁戚として結び付けていく、その系 譜を記す書でもある。その中で「…天皇の五 世」など、ほとんどの豪族が該当するありふれた 存在でしかない。ヤマト王権の血筋にもっと近い 王子が近畿にたくさんいたはずだ。なのになぜ武 烈のあとに北志賀や三国の地方豪族なのか。 ヲホドのような僻遠の地方武将が大王位についた 例はない。

 また、将門や義家は上記のように系譜をたどれるが、 記紀ともに応神~継体の系譜を書いていない。分から なかったわけではあるまい。それを記録することは 王位継承の不当性を明記することになってしまうだ けである。北滋賀にも三国にも、系譜上において、 同資格かそれ以上の者もたくさんいただろうから。

 応神~継体の系譜について、古田さんは(第三 巻文庫版によせて参照)と注記しているのでそれを 調べてみた。

 『釈日本紀』巻13に引用されている『上宮記』 に「一に云う」という形で、継体系譜が記載されて いると言う。『上宮記』は逸文としてしか残されて いないが、記紀よりも成立が古いとされている。 それによると

凡牟都和希王(ホムダワケ 応神天皇)─若野毛 二俣王─大郎子(意富富等王)─乎非王─汗 王(彦主人王)─乎富等大公王(継体天皇)

となっている。また次のような文も引用されて いる。

「伊波礼宮治天下乎 富等大公王」
(イハレの宮に天の下を治らす、ヲホトの大公王)


 ここで古田さんは「大公王」という 称号に着目している。これは「王」や「大王」とは 異なる、かなり特殊なものである。『荀子・史記』 での使用例から、これは「大公プラス王」であり、 「大公」は「公」の敬称であることを明らかにし て言う。

昔、周公大公、周室を股肱し、成王を夾輔す。 (左氏、僖王、二十六)

 周代では、天子を「王」と称した。その成王 (武王の子。第二代)を補佐し、「左治天下」 したのが、周公である。だが、並みの「公」では ない。そこで尊んで「大公」と称されたものであ ろう。

 さて、継体系譜。ここでは、最高の称号は 「大王」。「王」はそれと同格ではない(ここに 「非、応神説」が生れる)。さらに「大公王」と なると、「大王」もしくは「王」に対する、補 佐の有力者、そういった称号なのである。

 この史料は、古事記・日本書紀以前の成立だ。 もちろん、継体が「イハレの宮」(奈良県) に入って、「天下を治らした」とされる、最晩年 以後の成立である。そこにこの称号が記せられて いる。これを一律に「天皇」の称号で〝統一″し たのは、やはり記・紀の「大義名分論」によるも のではあるまいか。

 次に不可解なのは、ヲホド(継体)が三国を出て から「イハレの宮」に入るまでにて20年を要した ことである。上の引用文で古田さんは、『「イハ レの宮」に入って、「天下を治らした」とされる、 最晩年』 という表現をしている。

 ワカサザキ(武烈)没後のヲホド(継体)の 行動を「継体紀」から拾うと次のようである。

(武烈八年、武烈没後)節を持ちて法駕(みこし) を備へて三国(越前)に迎へ奉る。

(継体元年)天皇、樟葉宮(河内)に行き至る。

(五年)都を山背の筒城(つつき)に遷す。

(十二年)遷りて弟国(おとくに 山城)に都す。

(二十年)遷りて磐余(大和)の玉穂に都す。 一本(あるふみ)に云はく、七年なりといふ。


 継体は20年にわたって大和盆地周辺(北・西部) をあっちこっち移動している。そのあと、やっと 大和に入れたのだ。「一本」に「七年」で入った と書いてあるが、これにについては、古田さんは 『これはいったんは「継体七年」に大和に入った ものの、不都合にあい、ふたたび盆地外(弟国) に出たものか』と分析している。

 20年という長期の大和空白は何を意味するか。

《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(9)


「武烈紀」と「桀王・紂王」の故事


 なぜ「仁賢記」以降には説話がないのか。結論を先に 言ってしまえば、次のようである。

 「仁賢記」は次代のワカサザキ王(25武烈 仁賢の子ども) の治世に公布される、はずだったが、何らかの事 情でワカサザキにはそうできなかった。その何らかの事 情とはヲホド(26継体)の叛乱である。ヲホドは これまでの王統とはまったく違う系統を出自とす る。この新たに出現した王統は「次代または次々 代の治世に先行の時代の記録が作られ公布される」 という慣例を持たなかった。これが、古事記では 「仁賢記」以降に説話が書かれなくなった理由 である。

 このことを論証するための史料としては、古事記には 記録がないのだから、日本書紀を用いるほかない。 改めて日本書紀の史料性格を確認しておこう。 『「古事記」対「日本書紀」』 からその要点を抜き書きする。

 一つの史料を扱う場合、そこに「なにが書 かれているか」を論ずる前に、その史料の成り立 ちと素性、つまり「史料性格」を吟味しなければ ならない。皇国史観論者も戦後のヤマト王権一元 論者も、それをやらずに内容だけで論ずる弊を犯 しているために、記紀を区別することなく、双方 から自説に都合のよい部分だけを取り出して論を 組み立てている。

  『古事記』はヤマト王権内伝承 だけを用いて、内面からヤマト王権の正統性を語 ろうとしている。『古事記』はその伝承を記録す ることに徹している。そういう意味で、大がかり な「虚構操作」や「新編成」は行われていない。 これまでもっぱら『古事記』を用いて「ヤマト王 権史」を検討してきた理由である。

 これに対して『日本書紀』では、『古事記』 (ヤマト王権内伝承)にはないないものが ふんだんにあらわれる。その古事記にないものは 九州王朝の史書「日本旧記」、九州王朝と百済と の交渉史である百済系三史料(「百済記」「百済 新撰」「百済本記」)から、盗用・改竄して、 ヤマト王権そのものの歴史として編入し、新たに 構成したものである。つまりは、『日本書紀』は 決して「歴史理解の一説」として書かれているの ではない。近畿天皇家にとって「以後、これが史 実であり、これ以外は史実ではない」という、 近畿天皇家 の「正史」 として、 近畿天皇家の利害に則って 書かれたものである。いわば検定合格の国定版「公認の歴史」 である。

 さて、「武烈」では、ワカサザキ(武列)には 跡継ぎの子どもがなく、淡海国からヲホド(継体) を招いて王位を譲った、ということしか記録されて いない。これが「武烈」では、極悪非道な 王として、これでもかこれでもかといった調子で その猟奇的な言動が記録されている。

2年秋9月、妊婦の腹を割いてその胎児を 見た。

3年冬10月、人の生爪を剥いで、山芋を掘 らせた。

4年夏4月、人の頭の髪を抜いて木の頂上に 登らせ、木の本を切り倒して、登った者を落殺し て面白がった。

5年夏6月、人を池の堤の樋の中に入れて、 外に流れ出るのを三つ刃の矛で刺殺して喜んだ。

7年春2月、人を木に登らせて、弓で射落と して笑った。

8年3月、女達を裸にして平板の上に座らせ、 馬を引き出してきて面前で馬に交尾させた。女の 陰部を調べ、潤っている者は殺し、そうでない者 は、官婢として召し上げた。これが楽しみであっ た。

その頃、池を掘り、苑を造って鳥や獣で満たした。 そして狩りを好み、犬に追わせて馬を試した。 大風や大雨も避けることがなく、出入りが気まま で、自らは暖衣をまとい、百姓のことは意に介さ ず、美食を食して天下の民の飢えを忘れた。

大いに侏儒(ひきひと)や俳優(わざおぎ)を集 めて淫らな音楽を奏し、奇怪な遊び事をさせて、 ふしだらな騒ぎをし欲しいままにした。日夜後宮 の女達と酒に溺れ、錦の織物を褥とした。綾や白 衣を着た者も多かった。


 このような近畿天皇家の「正史」の品格をおと しめるような記述を、なぜ敢て残しているのだろ うか。いかにワカサザキが暴虐であったか、大王 たるにふさわしからぬ下等な人物であったか、そ の一事を力説し強調しようとしているのだ。次代 の大王・ヲホトの正当性を強調するために。

 これには先例がる。中国の「桀(けつ)王」 「紂(ちゅう)王」の故事である。

 二人とも暴虐淫乱の暴君として描かれている。 桀は臣下の湯王によって討たれ、夏王朝最後の 天子となり、殷王朝が成立した。また、紂は武 王に討たれ殷王朝最後の天子となり、周王朝の 成立をみた。

 武烈紀・継体紀はこの故事に倣ったものだった のかもしれない。だとすれば、この故事の分析が 同時に武烈紀・継体紀の解明につながるだろう。

桀、徳に務めずして百姓を武傷す。百姓堪えず。(『史記』夏本紀、第二)

(帝紂)好酒、淫楽、婦人に嬖(へい)す。姐己 (だっき)を愛し、姐己の言に是れ従う。……酒を 以て池と為し、肉を懸けて林と為す。男女をして 裸にて其の間に相逐わしめ、長夜の飲を為す。 (『史記』殷本紀、第三)


 このような暴虐淫乱記事、それは何を意味する か。彼等が本当にそうだったことを語るのか。  ― わたしは知らない。

 なぜなら天子の行状など、一般の庶民には分り はしない。かなりはでに書かれている紂王のケース ですら、天下のほとんどの人民にとって、日常世 界の見聞からは、はるかに遠い、別世界のことだ ったのではあるまいか。

 それぞれ、桀王の暴虐は、次の殷になって、また 紂王の暴虐は、次の周になって、はじめて全天下の 住民に公布されたものではあるまいか。

 逆に、その当の桀王や、当の紂王の時代には (もし彼等自身にうしろめたさがあればあるだけ) 、それらの王の帝徳や仁愛が強調され、宣布されて いたのではないだろうか。まかりまちがっても、 右のような文章が当時出まわっていたはずはない。

 ポイントはそこだ。彼等はいずれも、その王朝 の最後の天子たった。(中略)代って新王朝成立したの である。ところが、当時において、これは天下の 大反逆だった。天子に対して反旗をひるがえした、 この大反逆者。彼は成功後も、そのような人民の 批判の目に悩んでいたはずだ。それは武力では補 えぬ観念の霧だった。いわゆる共同幻想だ。

 これを絶つために、湯王か天下に公布し、流伝 せしめたもの、それが桀王の暴虐説話だった。 「わたしの挙兵は、皆から見れば、許しがたい 大逆と見えるかもしれぬ。しかし、実はあの桀王 は、たいへん暴虐な人物だったのだ。だから、 止むをえなかったのだ」という弁明なのだ。

 だから、今回はその殷王朝の最後の天子、紂王 が標的とされた。桀王の場合以上に、その非が鳴 らされた。それはおそらく、紂王の実際の悪業に 比例したというより武王の挙兵に対する一般の非 難の目、それにこそ比例していたのではあるまい か。

(中略)

 〝輝ける紂王″のイメージが満天下にひろがっ ていればいるほど、それに対する挙兵の不当の方 のイメージは強いであろう。 ― それを消し去 ること、それが革命成功直後の武王、否、周王朝 の全期を通して、最大の課題となった。それが先 の悪名高い「酒池肉林」の記事だ。

(中略)

 わたしたちはその真相を知らない。ただ知るこ とができる。〝紂王の悪虐公布は、すなわち武王 の「不法」の反乱の正当化、ひいては周王朝自身 の統治の正当化であった" ― この一事を。

 以上、自明のことを縷々のべたのは、他でもな い。『日本書紀』の武烈紀の継体の執拗な暴虐記 事、その背景は何か。当然、次なる継体の即位、 それが順当でなかったこと、もっとはっきりいえ ば、極めたる不法の即位であったこと、それを逆 に証言しているもの、そう考えざるをえない。 そうでなければ、あれほどくどく徹底的に武烈の 悪虐を宣伝する必要はないのである。

《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(8)


顕宗記・古事記最後の説話


   理由にもならぬ理由で兄や従兄弟を殺して王位を 簒奪した大長谷(雄略)だが、雄略記の大長谷は安 康記の大長谷とはうって変わって実に人間味あふれる 王として描かれている。雄略記に挿入されている 説話は五話にのぼるが、みな歌謡を伴う平和な恋の物 語である。次代の大王・清寧は雄略の子である。 その治世に雄略記が公布された。父王を讃え、自己の 正当性を裏付けようとする意図が明らかだ。

 それでは清寧記はどうか。ここには清寧自身は不在 だ。「忍歯王の難」の後日譚に始終している。

 清寧には后も子もなく、早逝した。そこで 王位を継ぐ適者を探すことになった。

 山部連の小楯(ヲダテ)が任地の針間国に着いたとき、 その国の住人・志自牟(シジム)の新築の宴会 を訪れた。その宴会で順番に皆で舞を舞った。 そして竈の傍にいた火を焚く係の子ども二人(兄弟) にも舞を舞わた。兄が先に舞った。次に弟は舞おう としたときに、次のように歌を詠んだ。

物部(もののふ)の 我が夫子(せこ)の 取り佩 ける 大刀の手上(たかみ)に 丹画(にか)き著 け 其の緒(を)は 赤幡(あかはた)を載せ 赤 幡を立て 見れば い隠る 山の三尾(みを)の  竹をかき苅り 末押(すゑお)し靡(なび)かす なす 八絃(やつを)の琴を 調べたる如(ごと)  天の下治めたまひし 伊邪本和気(いざほわけ  履中)の 天皇(すめらみこと)の御子 市辺の  押歯王の 奴末(やつこすゑ)

 小楯連はそれを聞き驚き、都の姨(をば)の飯豊 (イヒトヨ)王に知らせた。

 都では志毘臣(シビノオミ)が権勢を持ち、意祁(オケ)・ 袁祁(ヲケ)の兄弟に敵対した。兄弟は相談した。

「大体朝廷(みかど)の人たちは、朝は朝廷に参上 するが、昼は志毘の門に集まっている。が、今は志 毘はきっと寝ている。また、その門には人もいない。 今でなければ実行は難しいだろう」

 そこで、軍勢を集めて志毘の家を囲み、そして殺し た。

 王位継承の段になって、兄弟はお互いに譲り合った。 意祁(オケ)命は、その弟の袁祁(ヲケ)命に

「針間の志自牟の家での舞いのとき、お前が名を明か さなかったら、こうして天下を治める大王にはなれな かった。これはまさにおまえの功績だ。だから、私は 兄であるけれど、やはりおまえがまず天下を治めなさ い」

と言って、堅く王位を譲った。そのため、辞退す ることができずに袁祁(ヲケ)がまず天下を治める こととなった。


 このように清寧記は、弟・顕宗(袁祁)が兄・仁賢 (意祁)より先に王位に就いた弁明記であり、清寧そ の人の記録はない。古田理論によれば、その理由はも う明らかだ。清寧記は顕宗か仁賢のときに作られた。 二人に取って清寧の父・雄略は仇敵だ。兄弟の父・ 忍歯は雄略に理不尽に殺され、死体が埋められた 場所さへ分からない。袁祁が雄略の子・清寧を称賛 する記録を公布することはできまい。

 さて、顕宗記もまた「忍歯王の難」の後日譚に始終して いる。二つの説話がある。父・忍歯の遺体探しの説話と 仇敵・大長谷の墓暴きの説話である。

 顕宗(袁祁)はその父王の忍歯の御骨(みかばね) を探した時、淡海国の賤しい老媼(おみな)が参上 して、「王子の御骨を埋めた所を、私はよく知ってい ます。また、その御歯によってわかるでしょう」と 言った。御歯は三枝(さきくさ)のような押歯(おし は)であった。

 そこで人を集めて土を掘り、その御骨を求めると、 その御骨はすぐに見つかった。その蚊屋野(かやの) の東の山に御陵(みはか)を作って葬り、韓袋(カラ フクロ)の子らにその御陵を守らせた。そして、その 御骨を持って戻った。

 そして、その老媼を誉(ほ)めて、置目老媼(オキメ ノオミナ)という名を与え、更に宮中に召し入れて 優遇した。

 一方、父王が殺されて兄弟が落ちのびた時に、 その御粮(みかれひ)を奪った猪甘(ゐかひ)の老人 (おきな)を探し出し、飛鳥河(あすかがは)の河原 で斬り、その一族の膝の筋を断ち切った。

 次に、顕宗は父を殺した大長谷を深く恨み、その霊(みたま) に報復したいと思った。そこで、その大長谷の御陵 (みはか)を壊そうと思って、人を遣そうとしたと ころ兄の意祁が、
「この御陵を破壊するのに他人を遣わすべきではな い。私が自ら行き、あなたの御心のままに破壊し て参りましょう」
と奏上した。顕宗は、「言葉の通りになさって下さ い。」と言った。

 意祁は御陵に下り進んで、少しだけその御陵の傍 を掘り、帰り上って「すでに掘り壊しました」と報告 した。顕宗は、その早く帰り上ってきたことを怪 しんで、
「どのように破壊したのか」
と聞くと
「少しだけその陵(はか)の傍の土を掘りました」
と答えた。顕宗が、
「父王の仇に報復するのですから、必ずこと ごとく破壊することです。どうして少ししか掘らな かったのか」
と言うと、
「そのようにした理由は、父王の恨みとしてその霊 に報復したいと思うのはもっともなことですが、 大長谷は父の恨みではあるけれども、一方では私たち の従父(をぢ)であり、また、天下を治められた 大王でもありました。今、単に父の仇という志を 遂げるために、その陵をことごとく壊したならば、 後の人々は必ず批判するでしょう。しかし、父王の仇 には報復しなければならないため、その陵の傍を少し だけ掘ったのです。すでにこの辱(はずか)しめで、 後世に示すには十分でしょう。」
と申し上げた。顕宗は、
「それもまた大いに理のある ことだ。あなたの言う通りでよしとしましょう」
と答えた。

 顕宗が亡くなると、意祁(仁賢)が王位継いだ。

 顕宗記最後の説話は、敵討ちの一心にはやる顕宗に対して 仁賢の思慮深さを顕彰する物語になっている。 この理由はもう解説の必要がないほど明らかなだろう。 顕宗記は仁賢の時代に仁賢のために作られた。

《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(7)


目弱(まよわ)王の乱・忍歯(おしは)王の難(2)


まず、「押木の玉縵」「目弱王の乱」に対する古田さんの見事な分析を そのまま掲載する。

 この説話も、一見筋立ては明白だ。だが、よく考えて みると、謎に満ちている。その不審な点を列記してみよ う。

(一)「押木の玉縵」

 最初の根臣の虚言譚も、大変不自然な話だ。そのよ うな見えすいた虚言を安康の使者たるものが行う、と いうのは、ちょっと考えにくいところだ。

 だが、もしその通りだった、としよう。では、なぜ その結果、安康は「大日下王の妻」を横どりしたのか。 これは、先の虚言問題からは、何の必要もない。若日 下王を大長谷王子のために得ようとしたのであるから。

 むしろ、次のように考えてみよう。安康の真の目的 は、はじめから「大日下王の妻を得る」ことにあった と。こう考えると、一種の混乱と矛盾に満ちたこの説 話も、一転して、その筋がハッキリと見えてくる。つ まり、安康は、大日下王の妻の長田大郎女に執心した。 その目的をとげるため、ことにかこつけて大日下王を 殺してしまった。こういうことだ。

 根臣の虚言問題は、この大日下王殺しが、安康の責 任ではなく、根臣のふらちにあやまられたせいだ、そ のように告げたいための作り物の話だ。

 安康記は、兄の安康の仇を討つことを大義名分とし て挙兵した雄略(第21代)、およびその子(清寧、第 22代)の頃、作られた。 - そのような立場に立て ば、以上の経緯はきわめて分りやすい。

(二)「目弱王の乱」

 問題の目弱王の乱。生き生きと語られ、一読、印象 鮮明な、否、一度聞いたら忘れられぬ話だ。だが、 考えてみると不審だらけだ。

 第一、この安康の昼寝語りを誰がこの語り手に伝え たのだろう。語った安康は、殺されてしまった。御殿 の下で聞いた目弱王も、死んでしまった。では、母の 長田大郎女だろうか。彼女の行方は、説話では語られ ていない。しかし、母親が子供の犯行の背景を、とく とくと他に語るものだろうか。

 第二、それ以上に、肝心の目弱王の犯行、それ自身 本当だろうか。一体、それを誰が見たのか。殺した者 も、殺された者も、すでにいない。そしてその犯行は、 二人以外に誰もいないところで行われたはずなのだ。

 要するに、別個の誰かが、そう判断し、その判断を 噂として流布させた。そういう流布させた誰かがいた こと、これは疑えない。それが真相かどうか、誰もす でに知りえないのである。

 第三、7歳の子供の犯行、そんなものが本当にあっ たのだろうか。大人の身につけていた大刀を、そんな 子供がうまくあつかえるものだろうか。

 さらに問題がある。次の雄略が124歳で没した、と 書かれているように、このへんも例の「二倍年暦」だ。 とすると、ここの7歳は、通例の暦(太陰暦でも、太陽 暦でも)では、3歳半となろう。いよいよもって、この 惨劇の実行者としては不適切だ。

 だが、よく考えてみよう。ここで〝7歳ならできる。 3歳半ではとても〟などという議論をしてみても、実は はじまらない。その犯行を誰一人見た者はない。要は、 そういう噂が流されたこと、それが真のポイントだった のである。その噂には、「まさか、そんな子供が…」と いう意外性の方が、むしろ必要だったのではあるまい か。すでにその子供は守り手と共に亡んでしまった。 真相はすでに闇の中にあって、誰も知らない。

 第四、雄略が二人の兄を斬殺もしくは埋殺したその理 由、これもはなはだ無茶だ。いくら古代でも、こんな 理由で兄殺しが実行されるものだろうか。到底解 (げ)しがたい。

 こんな奇妙な動機の兄殺し、これは後代の(6紀以 降の)造作者、宮廷内の史官などが作れる話ではない。 なぜなら神聖なるべき歴史上の天皇に対し、粗暴きわ まる乱暴者の性格づけを敢えて刻印するものであるか ら。

 以上の矛盾と不審、これを解くために、ことの筋道 を順序立てて列記してみよう。

①安康はある日、誰かに殺された。

②それは「あの目弱王に殺されたのだ」という噂が誰 かによって流された。

③目弱王は、危険を感じ、守り手(乳母の家などか) の都夫良意美の家へ逃れた(もちろん、王の側近者の 導きによるものであろう)。

④大長谷王(雄略)は「兄の安康天皇の仇を討つため」 という大義名分をかかげて挙兵した。

⑤しかし、二人の兄(黒日子王・白日子王)はそれに 同調しなかった。

⑥大長谷王はまず、この二人の兄を殺してしまった。

⑦次いで、大長谷王は、都夫艮意美の家を囲み、目弱 王と共に、これを斃(ほうむ)った。

⑧そのあと、大長谷王は王位(天皇位)に即位した。 雄略(第21代)である。

⑨その雄略(もしくは第22代清寧)の治世に、先に あげた形の説話が作られ、公布された。


 リアルな事実の進行は以上のようであったとわたし には思われる。一連の異常時の成果を手にした者、 それが雄略天皇その人であったこと、それを疑うこと は誰人にもできないのではあるまいか。

 安康記の後、古事記の記録は雄略・清寧・顕宗 ・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・ 用明・崇峻と続き、最後は推古記で終わる。しかし、 どういうわけか、説話は顕宗記をもってとだえる。 継体記には「磐井(いわい)の叛乱」の 簡単な記述がある外、仁賢記以降は例の「子孫に ついての記録」ばかりである。

 前回の 系図で示したように、説話が断絶する境目に位置 する大王の顕宗と仁賢こそ、播磨国に逃れた忍歯王 の子どもの袁祁(ヲケ 23顕宗)と 意祁(オケ 24仁賢)である。最後の説話は 「忍歯王の難」のいわば後日譚にあたる。

 また、・顕宗記の前の清寧記には清寧の説話が まったくない。もっぱら意祁・袁祁の兄弟(意祁の 方が兄)の話である。

 なぜ清寧記に清寧がなく、仁賢記以降に説話がな いのか。この問題点を解明するのが次回のテーマで ある。そしてその問題は、このシリーズ『ヤマト王 権・王位継承闘争史』の最後の問題、「継体の謎」 の解明、つまり「ヤマト王権の断絶」という問題に つながっていく。

「磐井の叛乱」については

天皇制の基盤を撃つ―真説・古代史(7)

をご覧下さい。

《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(6)


目弱(まよわ)王の乱・忍歯(おしは)王の難(1)


 今回の説話は複雑にして怪奇かつ残酷である。 人間関係を分かりやすくするため、系図を作って みた。赤字で示したのが登場人物である。



          黒比売命         |―忍歯王|―袁祁(23顕宗)
 石之日売命     |───────────|    |─意祁(24仁賢)―(25武烈)
  |―――――|―伊邪本和気(17履中)
  |     |―墨江中王         |―軽王
大雀(16仁徳) |―水歯別(18反正)     |―黒日子王
  |     |―男浅津間若子(19允恭)──|―穴穂命(20安康)
  |                    |―軽大郎女
  |―――――|              |―白日子王
髪長売命    |─大日下王───|     |―大長谷命(21雄略)
        |―若日下王   |―目弱王    |―──(22清寧)
               長田大郎女     訶良比売



 さて、「安康記」は例の「子孫についての記録」がなく 説話だけで出来上がっている。「押木の玉縵 ・目弱王の乱・忍歯王の難」と題して、三つの説話に 分けて扱われているが、「押木の玉縵・目弱王の乱」は 一続きの説話と考えられる。今回はその三説話のあら ましを一気に記載する。長いので、今回は説話の紹介 だけとし、その分析は次回に行おう。


押木の玉縵

 安康(穴穂)は、同母弟(いろと)の大長谷(オホ ハツセ)と叔父・大日下(オホクサカ)王の 妹の若日下(ワカクサカ)王を結婚させたいと思い、 根臣(ねのおみ)を使いにして、「妹を貢献しなさ い」と大日下に伝えた。大日下は、「御命令の通 りにいたします」と答えて、妹の御礼の品とし て押木之玉縵(おしきのたまかづら)を持たせて貢 献した。ところが、根臣は玉縵を盗み取り、 「大日下王は勅命を受けず、『私の妹を同族の者の 下席(したむしろ)になどするものか』と言って横 刀の柄を握って怒鳴りました」と讒言した。安康は 大いに怒り、大日下王を殺して、その王の嫡妻 (むかひめ)の長田大郎女(ナガタノオホイラツメ) を奪って来て皇后(おほきさき)とした。

目弱王の乱

 このことがあって後のこと、安康は昼寝をしてい たとき、長田大郎女に「おまえは心配事があるか」と たずねると、長田大郎女は「あなたの御寵愛をいた だいて何の心配事があるでしょう」と答えた。 安康は「私は常に心配している事がある。それは、 おまえの子の目弱王が大人になった時、私がその父 王を殺したことを知ったら、そのうち邪心を抱くの ではないかということだ」と言った。

 目弱王は7歳になっていたが、ちょうどこの時、 その御殿の床下で遊んでいて、二人の会話を聞いてし まった。目弱王は、安康が寝ているのを密かに窺い、 その傍の大刀を取り、安康の首を打ち斬った。そして、 都夫良意富美(ツブラオホミ)の家に逃げ込んだ。

 大長谷(オホハツセ)は、その時まだ少年 であたが、この事を聞いて憤慨激怒し、その兄の 黒日子(クロヒコ)を訪ね、「大王が殺された。 どうしましょうか」と聞いた。黒日子は驚ろくこ ともなく、たいして気にもかけない様子だった。 そこで大長谷はその兄を罵り、 「大王でもありあなたの弟でもあるのに、なぜ頼 もしい態度も取らず、その弟が殺されたことを聞 いてもなぜ驚かず気にもかけないのか」と言って、 その襟首を掴んで引きずり出して、刀を抜いて打 ち殺してしまった。

 また、次の兄の白日子(シロヒコ)を訪ねたが、 黒日子と同じ態度であった。そこで、その襟首 を掴んで引きずり出し、小治田(をはりだ)に連れ て来て、穴を掘って立ったまま埋めると、腰まで 埋めた時、両方の目玉が飛び出して白日子は死ん でしまった。

 次に、軍勢を集めて都夫良意美の家を囲んだ。 都夫良意美も軍勢を集めて迎え撃った。

 そこで大長谷は中に向かって「私が言い交わした 嬢子(をとめ)は、もしかしてこの家にいるか」と 言った。すると都夫良意美は、この言葉を聞いて自 ら出て来て、身につけていた武器を解いて、八度拝 み、
「先日お訪ねになられた訶良比売(カラヒメ) は仕えさせましょう。また、五ヶ所の屯宅(みやけ) をそえて献りましょう。しかしながら、私自身が参 上しない理由は、古より今に至るまで、臣下が王宮 に隠れたことは聞いたことがありますが、未だ王子 が臣下の家に隠れたことは聞いたことがありません 。賤しい奴(やっこ)である私が力を尽くして戦っ ても、到底勝つことはできないでしょう。しかしな がら、私を頼って家に入られた王子を、死んでも 見捨てるわけにはいきません」
と申し上げた。そしてまた、武器を取り、入り戻っ て戦った。しかし、力窮まり矢も尽きた ため、目弱に、「わたくしはすっかり手傷を 負い、矢もまた尽きました。もう戦えません。どう いたしましょう」と申し上げると、目弱は、 「ならばもうすることはない。私を殺してくれ」 と答えた。そこで都夫良意美は刀で目弱を刺し殺し、 自分も首を切って死んだ。



忍歯王の難

 このことがあった後、大長谷は従兄弟の市 辺之忍歯(イチノベノオシハ)王と連れ立って、 淡海の久多綿之蚊屋野(くたわたのかやの)に 狩に行った。その野に着いて二人はそれぞれ別に 仮宮(かりのみや)を作って泊まった。

 翌朝、まだ日が昇らないうちに、忍歯がいつも 通り気楽に、馬に乗ったまま大長谷の仮宮 のそばに来て、大長谷の従者に、
「まだ目覚めないのか。早く申し上げよ。夜 はすでに明けた。狩場に出かけようぞ」
と言って、馬を進めて出かけて行った。その大長谷 に仕える者たちは、
「大変なことを言う王子です。用心なさるべき です。またしっかりと武装なさるべきです」
と申し上げた。そこで大長谷は衣の中に鎧を着込み、 弓矢を携え、馬に乗って出て行き、たちまちの間に 馬を進めて並ぶと、矢を抜いて忍歯を射落とし た。そしてまた、その体を斬り、かいば桶に入れて 地面の高さに埋めてしまった。

 忍歯の子どもたち――意祁(オケ)王と袁祁(ヲケ) 王は、この乱を聞いて逃げた。玖須婆之河(くすばのかは) を逃げ渡り、針間国(はりまのくに)に着くと、その 国の住人・志自牟(シジム)の家に入り、身分を隠し て、そこで馬飼い・牛飼いとして働いた。

《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(5)


穴穂命(安康)の陰謀


 允恭には9人の子があった。長男・軽、三男・穴穂、 次女・軽大郎女(かるのおほいらつめ =衣通王)が 説話「軽太子と衣通王」の主要人物である。物語のあら ましは次のようである。

 父・允恭が亡くなり、軽太子(かるのひつぎのみこ) が王位を継ぐことが決まっていたが、まだ即位しない 間に、軽はその同母妹(いろも)の軽大郎女と奸 (たは)けた(いわゆる近親相姦、異母兄弟姉妹の場合は 許されていた)とのうわさが広がった。軽が詠んだと いう次の歌がそのうわさのもとだった。

あしひきの 山田を作り 山高(だか)み 下樋 (したび)を走(わし)せ 下問(したど)ひに  我が問ふ妹(いも)を 下泣きに 我が泣く妻を  昨夜(こぞ)こそば 安く肌触れ

笹葉(ささば)に 打つや霰(あられ)の たしだし に 率寝(ゐね)てむ後は 人は離(か)ゆとも  愛(うるは)しと さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも) の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

 このことによって、多くの官人や天下の人たちは 軽にそむいて、穴穂に帰順した。すると軽は恐れて 大前小前宿禰の大臣(おほおみ)の家に逃げ入って 武器を備え作った。

 穴穂は軍勢を集めて大前小前宿禰の家を囲ん だ。大前小前宿禰が言った。
「穴穂の御子よ。兄の王に兵を向けなさるな。もし 兵を向けたら、必ず人々が笑うでしょう。私が捕らえて 差し出しましょう」
 穴穂が武装を解いて退いたので、大前小前宿禰 は軽を捕え、引き連れて参上し、差し出した。 そのときに軽が詠んだ歌

天飛(あまだ)む 軽の嬢子(をとめ) いた泣 かば 人知りぬべし 波佐(はさ)の山の 鳩の  下泣きに泣く

天飛む 軽嬢子 したたにも 寄り寝て通れ  軽嬢子ども

 穴穂は軽を伊余湯(いよのゆ)に流罪とした。 そのときに軽が詠んだ歌

王(おほきみ)を 島に放(はぶ)らば 船(ふな)余り  い帰(がへ)り来(こ)むぞ 我が畳ゆめ  言(こと)をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ

 これに応えて衣通王(そとほしのきみ)が詠んだ歌

夏草の あひねの浜の蠣貝(かきがひ)に  足踏ますな 明(あ)かして通れ

 そして、衣通王は恋慕の心に耐えきれなくなり、 伊余へと軽を追って行った。そのときに詠んだ歌

君が往き 日(け)長くなりぬ 山たづの  迎へを行かむ 待つには待たじ

 そして衣通王が伊余に追い至ったときに、 それを出迎えて懐かしんで軽が詠んだ歌

隠(こも)りくの 泊瀬(はつせ)の山の 大峰 (おほを)には 幡(はた)張り立(だ)て  さ小峰(をを)には 幡張り立て 大峰よし  仲定める 思ひ妻あはれ 槻弓(つくゆみ)の  臥(こ)やる臥やりも 梓弓(あづさゆみ)  起(た)てり起てりも 後も取り見る  思ひ妻あはれ

隠りくの 泊瀬の河の 上(かみ)つ瀬に  斎杙(いくひ)を打ち 下(しも)つ瀬に  真杙(まくひ)を打ち 斎杙には 鏡を懸け  真杙には 真玉(またま)を懸け 真玉如 (な)す 吾が思ふ妹 鏡如す 吾が思ふ妻  ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも 偲はめ

 このように歌い、ともに自害した。


 軽王や衣通王が詠んだとされる挿入歌には、それ ぞれに「夷振(ひなぶり)の上(あげ)歌」とか 「夷振の片下(かたお)らし」とか「読(よみ)歌」 とかいう注釈がついている。全て、当時流布されて いたものだろう。妹(いも)とは「いもうと」とは 限らず、一般には恋人とか妻を意味していた。 「奸(たは)けた」証拠とされた歌は切なくも激しい 恋を歌っているが、一般的に読めば「普通の恋」の歌 であり別段「奸け歌」ではない。軽が「いもうと」に 対して歌ったという解釈をつけることによって、 はじめて「奸け歌」となる。

 軽兄妹は一緒に「軽」の地で育った普通の仲良し 兄妹だった可能性の方が大きい。この説話は、あらぬ うわさを流してこの兄妹を葬り去った穴穂命(安康) の治世に、安康の正当性を示すために公布された説話 だったのではないか。古田さんの解読を読んでみよう。

 この一見明白な事件も、考えてみると、不審がある。 軽太子が、その妹を愛したとしても、それをわざわざ 百官や天下の人等の前に公表するだろうか。そして 公表されない限り、上つ方のプライベートな事柄など、 わたしたちの耳に容易にはとどきはしない。この道理 は、当時も今も、変らぬところなのではあるまいか。

 では、誰がそのような権力者内部のプライベートな 事柄をもたらしたのか。否、公布したのか。それはや はり穴穂御子とその手の者以外にはないのではあるま いか。

 「このような異常事態に黙しがたく、挙兵した」  ─ 説話はそのように語っている。しかし、事実は 逆だったのではあるまいか。すなわち、穴穂御子は 挙兵のための大義名分として、兄の太子を不名誉の人、 王者にふさわしからぬ人としての汚名を公布させた。 その必要があったのだ。少なくとも、そのような汚名 を負わせることなしには、すでに允恭が没し、即位 寸前にあった軽太子を急遽追い落し、一気に情勢を 逆転せしめることは不可能だったのではあるまいか。

 穴穂御子の挙兵の中で、軽太子は逮捕された。伊予 に流され、そこで自殺した。代って穴穂御子が即位し、 安康(第20代)となった。その治世の中で、右の不名 誉な悲劇は作られたのである。

 ここでも、汚名の証拠は、軽太子の歌にあるとされ ている。彼はこんなに不謹慎な歌を作った。だからわ たし(当代の王者)は挙兵せざるをえなかった。  ─ こういう弁明だ。だが、彼が本当にそんな歌を 作ったかどうか、一般の下々の者は、公布されてそれ を信じるよりはかに方法はないのであった。そして歌 は、説話の中でも、すぐれて人々の口から口へ、それ こそ人口に膾炙させやすいものだった。

 もちろん、現代の人々が『古事記』を文学として愛 することはよかろう。それがその人の関心のもち方、 その角度であったとすれば、他から文句のいわれるべ き筋合いはない。しかし、その成立の当時においては、 現統治者の反逆行為の正当化という、すぐれて高度の 政治的な目的をもって公布されたものなのであった。 わたしにはそのように思われる。

《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(4)



 ヤマト王権で即位年代が特定できるのは継体からで あるが、高校生用図表には応神(15代)からの系統図 が掲載されている。(以下、カッコ内の数字は歴代数 を表す。)

ヤマト王権系図

(第一学習社「日本史図表」より)

 ところで、書棚から「日本古代史の謎」(水野祐早稲 田大学名誉教授)という通信講座の本が出てきた。 以前息子が、かみさんの母親(ようするに祖母)からいただいたものらしい。パラパラ めくっていたら、ヤマト王権の歴代大王は実在した 人物か架空の人物かとう問題が扱われていた。この問題を 学者がどう説いているのか興味が出てきてチョッと調べ てみた。

 それによると、初期9代と垂仁(10)・景行(12) ・安康(20)・清寧(22)・顕宗(23)・仁賢(24) ・武烈(25)・宣化(28)は架空の大王とされている。その論拠は 次のようだ。

「架空天皇を探すには、『記紀』編纂者たちの意図や 天皇についてどのような伝承があったのかを推理しな ければなりません。そのための有力な史料が、崩年干 支註記のある『古事記』です。崩年干支註記は、 『記紀』編纂よりずっと古い時代の『帝紀』に基づい たものとみられ、註記のある天皇は実在と思われます。 そして崩年干支註記と『日本書紀』の編成方式、その 二点に着目すると、崩年干支註記がなく『日本書紀』 の一紀一巻の原則に反する天皇は架空である可能性が 高いとみられます。」

 「『記紀』編纂者たちの意図」を推理するという 方法論が、記紀の記述の不可解な部分・不都合な部分を 全て8世紀吏官(『記紀』編纂者)の「造作」として しまう恣意的な「定説」を導く。水野教授も 「造作説」学者のようだ。

 また、
①古事記で「崩年干支註記」がある
②日本書紀で「一紀一巻の原則」にかなっている
の2点(上文では「①かつ②」と読めるが「①または②」 らしい。)を実在性の決め手としているが、 このような形式主義ではまともな判定はできないだろ うと、容易に予測できる。実際にどのように判定して いるか、みてみよう。

①かつ②のもの
「崇神・仲哀・応神・仁徳・雄略・継体・敏達・推古」 は実在。

①だが②ではない(二紀一巻になっている)もの
「履中・反正」と「用明・崇峻」だが、「これらの天皇 は旧辞が少ないか在位期間が短いための合巻である」 から実在。

「②ではなく一方が①」のもの
「景行・成務」「允恭・安康」「安閑・宣化」の三組 ある。各組で①ではない方の景行・安康・宣化が架空。①を満たす 成務・允恭・安閑は実在。合巻にされたのは成務・允恭 ・安閑の旧辞が少ないため。

①でないが②のもの
「神武・垂仁・武烈・欽明」について
神武・垂仁・武烈は架空だが「歴史的に重要な意味 を付与され」ているので②になっている。「欽明」 は実在(理由は書かれていない)。

①でなく②でないもの
すべて架空。

 ①、②というふるいを用いているけど、 結局厳密には適用されず、恣意的な選定でしかない。 学者さんというのはこんなんでも納得してしまう のかね。

 さて、本題に戻る。

 上の系図にあるように、仁徳(16)のあと、 子供の履中(17)・反正(18)・允恭(19)と順次、 兄弟三人が王位を継承している。履中記には「墨江中 王(すみのえのなかつのみこ)の反逆」という王位継承闘争説話がある。また、 允恭記にはかの有名な「軽太子(かるのひつぎのみこ) と衣通王(そとほしのきみ)」の悲話が ある。この悲話も王位継承闘争説話と考えられる。

 「墨江中王の反逆」のあらましは次のようである。

 大嘗(おおにえ)の夜のこと、履中の弟・墨江中王 が履中を殺そうと大殿に火を放った。 阿知直(あちのあたえ)が眠り込んでいる履中を連 れ出した。 履中は多遲比野(たぢひの)に差し掛かったころ、 ようやく目を覚ました。阿知直は「墨江中王が大殿 に火を放ち、 兵を率いてヤマトに逃げた」と告げた。

 墨江中王の弟の水歯別命(みずはわけのみこと  履中・墨江中王・水歯別命は同母兄弟)はこの事件 を知ると履中を心配して急いで履中を見舞った が、履中は水歯別命にも疑いをもち、会ってはくれなか った。水歯別が「私には謀反の心はありません。墨江中王とは 違います。」と伝えると、履中は「墨江中王を殺してきたら 会おう」と応じた。

 水歯別命は墨江中王の近くに仕えていた隼人(はやしと) ・曾婆訶理(そばかり)を欺いていった。
「もしお前が私の言葉に従えば、私が大王になり、 お前を大臣にして、二人で天下を治めようと思う。」
曾婆訶理「命に随います。」
水歯別命「ではお前の主の墨江中王を殺せ。」

 曾婆訶理は墨江中王が厠に入った隙に矛で刺し殺した。 水歯別命は曾婆訶理を大臣に任命して祝の宴を設けた。 そこでおおきな酒椀に酒を盛り、まず自分が飲み、 次にその椀を曾婆訶理に渡し、酒を勧めた。そして 曾婆訶理がその椀で顔を覆って酒を飲んでいる隙に 隠しておいた剣を取り出して曾婆訶理の首を切り落と した。

 その翌日、水歯別命は履中に首尾を告げて、会うことを 許された。履中は阿知直を蔵官(くらのつかさ)に任命し、 領地も与えた。


 反逆者が正当な王位継承者で征討者の方が実は 反逆者だったというのが、記紀の王位継承説話の 常道のようだ。この説話の解読はもう私にもできるが、 今まで通り、古田さんの解読を引用しておく。

 まず、〝大殿に火が出た″こと、これは確かであろ う。しかし、その火炎が放火であり、その放火犯人が 墨江中王であること、さらにその放火の意図は履中殺 しにあったこと、それは果していかにして確認された ことなのであろうか。

 ともあれ、そのように、履中に告げた者がいたこと は確かなようだ。それは誰か。履中が水歯別命に「犯 人(兄)殺し」を命じたところから見ると、そのよう に告げた者もまた、水歯別命、またはその手の者であっ た可能性があろう。

 そして犯人(墨江中王)は首尾よく殺され、水歯別 命が次の位に即いた。第18代の反正だ。そして右の履 中記の説話は、この反正のとき、作られたのだ。

 その説話の背後に隠された真実を誰が知ろう。知りうる こと、それは「反正の兄殺し」が正当化されている、 その一点である。

 なお、その兄を殺して王位についた反正の記録 (反正記)には、説話がない。子孫の記録だけである。 子の中に財(たから)王という王子がいた。しかし、 冒頭の系図で分かるように、王位についた仁徳の3人の 子供のうち、反正だけはその子供や孫で王位を継いだ 者がいない。反正記に説話がないのはそのためだろうか。

「 前代の天皇の治世の説話は、次代もしくは次々代の 天皇の利害によって選定・伝承・造作された上で公布さ れる。 」

 反正は後代においては無視されたことになる。記録さ れないことが記録になっている。実にあからさまな処遇 ではないだろうか。

《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(3)


仲哀から応神へ


 仲哀記にも「反逆」説話があるのを落としていた。 「忍熊王(おしくまのみこ)の反逆」と呼ばれている 説話である。(従って、前回と今回は順序として逆にな ります。)

 仲哀が戦死した後、息長帯比売(オキナガタラシヒ メ 神功皇后)は新羅に渡った。この渡航が、日本書 紀が書いているような「新羅征討」などという勇まし いものではなく、「新羅国王との間に平和的に国交関 係を樹立した」渡航だったことは既に述べた。そして、 神功が新羅の王子だった天之日矛の子孫に当っており、 新羅は彼女にとって父祖の国であり、それが神功の平 和外交が成功した理由の一つであったことにもふれた。 (激動の朝鮮半島(2)

 さて、仲哀にはヤマトタケルの娘・大中津比売との 間に香坂王(カゴサカノミコ)、忍熊王(オシクマノ ミコ)の二人の王子がいた。仲哀はこの母子は都において、 九州遠征には若い神功を伴っていった。遠征先で神功が 産んだ子がホンダワケ(応神)だ。古事記は神功と 忍熊王との王位継承の争いの説話を伝えている。あらましは 次の通りである。

 神功は新羅からの帰途、ヤマトの人々の心の うちが疑わしく思い、喪船を1艘用意してそれに御子 (ホンダワケ)を乗せて、「御子は既にお隠れになった 。」と振れ回らせた。

 神功が帰ってくると聞いて、ヤマトでは香坂王 、忍熊王の兄弟が神功一行を討ち取ろうと斗賀野 (とがの)の地で誓約狩(うけひかり)をした。 すると巨大な猪が現れ、香坂はその猪に食い殺されて しまった。しかし弟の忍熊はこの神意を畏れず、 軍を起こした。

 忍熊は喪船を襲ったが、船からは兵が降り立って 相戦った。どちらも引かず戦いの場が山代にいたった とき、神功の将軍・健振熊が「息長帯比売命は既に亡 くなられた。もう戦う理由がない。」と言い、弓弦を 切って忍熊軍の将軍・伊佐比宿禰に降伏してきた。 伊佐比宿禰がその言葉を信じ、自らの弓の弦をはずし、 軍隊を引くと、それを待っていた建振熊は髪の毛の中 に隠していた弓弦を弓にかけ、攻撃に転じてきた。 忍熊軍は沙沙那美(ささなみ 琵琶湖)にまて追い 詰めらた。そこで神功軍は忍熊軍を打ち破った。 忍熊王と伊佐比宿禰は琵琶湖に漕ぎ出し、共に湖 に身を投げて死んだ。


 このケースでも反逆者・忍熊の方が正当な王位 継承者だ。偽りの降伏のときの言葉は、神功紀 (日本書紀)では神功の言葉を建振熊が伝える形 になっていて、次のようなことを言っている。

『私は天の下を欲していません。ただ幼い王(みこ) を抱いて君主(きみ)に従うばかりです。これ以上戦 うつもりはありません。どうか、ともに弦を絶ち兵を 捨てて和睦してください。君主が王位を継ぎ、安んじて 政(まつりごと)をおこなってください。』

 また、神功紀では忍熊王と伊佐比宿禰が琵琶湖に 身を投げて死んだままで終わっていない。

 忍熊王は、五十狭茅宿禰(=伊佐比宿禰)と共に、 瀬田川の済(わたり 渡し場)に沈んで死んだ。 時に武内宿欄(=忍熊)は歌った

淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 目にし見えねば 憤 (いきどほろ)しも
(忍熊王たちの姿が目に見えないので、憤懣にたえない)

 そこで湖中に屍骸を探したけれども、得ることがで きなかった。そして後、日が経って菟道河(宇治川) にその屍骸が出た。武内宿禰は、また歌った。

淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上(たなかみ) 過ぎて 菟道に捕へつ
(田上を過ぎて、この宇治でやっと忍熊王を捕えて やった)


 忍熊が生きていていずこかで再挙するようなことがあ ったらと恐れて、追跡の手を収めなかったのだろう。 再挙などあれば、自分たち反乱軍が再逆転される危険も ある。忍熊王の屍骸を逮捕してやっと安心したという わけだ。

 どうみても、神功の方が反乱軍であり、応神は反乱 軍の子だった。

 (余談)
 忍熊王は最後は淡海に逃げてそこで決戦をした。 忍熊王の父・仲哀の都は近江京だったと考えられる。 そしてその近江京は忍熊王とともに滅んだ。

 7世紀にもう一度近江京は滅んでいる。天智天皇 の近江京だ。このときの悲劇の人・天智の子大友皇 子は「山前(やまさき)」の地で縊死している。 (壬申の乱)

 さて、古田さんは余談として、次の柿本人麻呂の有名な歌について論じ ている。私は万葉集に入れ込んでいたころがあるので とても興味深く読んだ。

近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌


玉たすき 畝傍の山の 橿原の 日知(ひじり)の御 代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと つがの木の  いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天(そら)にみつ  大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに  おもほしめせか 天(あま)ざかる 鄙にはあれど  石走(いわばし)る 淡海の国の さざなみの 大津の宮に  天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろぎ)の  神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども  春草の 茂く生ひたる かすみたつ 春日(はるひ)の霧 (き)れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも

反歌

ささなみの志賀の辛崎幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ
ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたもあはめやも
(巻一、19・30・31)

 上の下線部分の天皇は天智とするのが通説だが、 古田さんは次のように重層的な解釈をして、歌に深み を与えている。

 人麿の反歌は、二つとも双眸を琵琶湖にそそぎつく し、その湖底に沈んだ人々の運命をなげきいたんでい る。決して、どこかの「山前」の地(山中など)に対 して焦点がおかれてはいない。

 もちろん、都や大宮の跡は、地上だ。長歌は、そこ で終っている。しかし、その宮都に華やかにいた人々、 大宮人たちの運命についてたずねるときは、もっぱら 湖上に、あるいは湖底に消えていった人々へと、人麿の 心は吸い寄せられているようである。

 一言でいえば、人麿にとって、この昔の人の悲劇とは、 山中や路傍や屋内ではなく、湖上で行われたものだつた のである。

 このように考えてくると、人麿の指示するところは、 大友皇子へではなく、昔の忍熊王の悲劇へとむけられ ていた、そのように見なすのが適切ではなかったかと 思われる。

 けれども、さらに深い局面がある。

 人麿のもっとも深い関心はやはり、あの大友皇子に 向けられていたのである。 ─ この真実だ。「歴史」 を詠むことによって、「現代」の大友皇子の悲劇を万 人に想起させる。これが、この歌のもつ真の重層構造 だったと思われるのである。

 右の歌と一連のものに、人麿の次の歌がある。

柿本朝臣人麿の歌一首

淡海の海夕波千鳥汝が鳴けばこころもしのにいにしへ思ほゆ  (巻三、266)


 この「いにしへ」も、文字通りの往古、忍熊王の悲劇 を指していることとなろう。

 さらに、この歌の二つ前に、次の歌がある。

柿本朝臣人麿、近江国より上り来る時、宇治河の辺に至りて作る歌一首

もののふの八十氏河(やそうぢがわ)の網代木(あじろぎ)にいさよふ波の行く方知らずも   (巻三、264)


 『日本書紀』の神功紀によると、忍熊王が湖底に 投じたのち、日を経てその死骸が宇治川に浮かんだと いう。

(中略)

 このような『書紀』の記述と対比すると、先の人麿の 宇治川の歌は、にわかに生彩を帯びる。歴史性をよみ がえらす。青年時代以来、わたしはこの歌を観念的、 もしくは哲学的にさえ見えるものと思いつつ、何かその 不気味な、底深い歌のしらべが胸をかき乱していた。 果然、この時の人麿の心裡には、老練な武内宿欄の哄笑 と、悲運の若き皇子の屍骸のただよう姿とが、浮かん でいたことが判明したのである。

 これはすぐれて歴史的な歌だったのである。 詞書に「近江国より上り来る時」とある一句が出色だ。 人麿は、琵琶湖畔で、そこに没した 忍熊王の悲運を思いやり、その帰途、この宇治川に 至ったのである。右のようなイメージが せせらぎの中から湧きおこってきたのも、偶然ではない。 ただの網代木や、ただのいさよふ波なら、いずれの 川にもあろう。しかし、宇治川のそれには、忍熊王の 悲しき屍がひっかかり、行く方がついに知れたその 場所だったのであった。

(この問題の誤解の焦点、それは長歌中の「楽浪の 大津の宮」の詞句を天智天皇の宮殿の称呼と して速断したところにあったようである。『万葉集』 の構成 - 各代の天皇称呼法からは、この論 断は一見、明白とみえよう。しかし『日本書紀』の 肝心の天智紀では「近江」「近江京」とのみ記 している。すなわち「大津京」の称呼は、持続6年 項の記載にもかかわらず、いまだ不定だった のである。 - 昭和59年度万葉学会大会で論述。)

 この歌の解釈と記紀の「反逆」説話に対する 古田さんの読みとは、お互いに相乗して、それぞれ の正当性を確かなものにしている。

《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(2)


応神から仁徳へ


 応神には男子11女子15計26人もの子がいた。そのうち、 王位継承闘争に関係するのは次の5人である。

(母 ─ 子)
入日売命 ─ 大山守命(おおやまもりのみこと 仁徳の兄)
中日売命 ─ 大雀命(おおささぎのみこと 仁徳)
(入日売命と中日売命は姉妹)

              宇遲能和紀郎子(うぢのわきいらつこ 仁徳の弟)
宮主矢河枝比売 ─<
              女鳥王(めどりのみこ)

糸井比売 ─速總別命(はやぶさわけのみこと)



 骨肉相争う悲劇の発端は応神記の次の説話である。

 応神が大山守と大雀の二人に問うて言った。
「お前達は兄と弟のどちらが可愛いと思うか?」
 長兄の大山守は即座にと答えた。
「兄の方が可愛いです。」
 大雀は天皇の心のうち(下の弟の宇遲能和紀郎子を 可愛がっている)を知っていたので次のように答えた。
「兄はすでに大人に成長しているのでとくに心配はない ですが、弟はまだ成長を遂げていないので守ってやらね ばならないので弟の方が可愛いいです。」
 これを聞いた応神は
「大雀の言うとおりだ。私が思っていたことと同じだ。」
そして、続けてさらに次のように自らの遺志を伝えた。
「大山守は山海の政をせよ。大雀は天下の政をせよ。 そして宇遲能和紀郎子を私の後継者としなさい。」
 大雀は父のこの命令に違(たが)うことがなかった。


  応神の死後、大雀命は父(応神)の命に従って 大王位を弟の宇遅能和紀郎子に譲った。ところが 大山守は父の命にそむいた。

『大山守命は天皇の命に違ひ、猶天の下を獲むと欲(おも)ひて、 其の弟皇子を殺さむの情(こころ)有りて、竊(ひそ) かに兵(つわもの)を設(ま)けて攻めむとしき。』

 それを知った大雀は急いで使者を遣って宇遲能和 紀郎子にそのことを知らせた。
 宇遲能和紀郎子は聞き驚き、宇治川のほとりに兵を 潜ませ、またその山上に帷幕を張り、舎人を王に仕立 て呉床(あぐら)に座らせた。そして自分は布の衣褌(きぬばかま) を着て賎人の姿となり、船の床にすべりやすい仕掛け を仕組んでその船に乗りかじを執っていた。
 大山守は兵を隠し、衣の下に鎧を着こんでやってき た。彼は呉床に座っているのが弟王と思いこみ、 船に乗り込んで船頭に変装した弟王に問うて言った。
「この山に怒れる大猪がいると聞いた。私はこれから その猪を取りに行くつもりだが、猪は取ることができる だろうか?」
「できないでしょう」
「なぜ、そう思うのだ?」
「時々の運によって取ろうとしても取れないものです。」
 河中まで来たとき、船頭は船を傾けて大山守を水中 に堕した。そこで河の辺に伏せ隠していた兵士が いっせいに出てきて大山守を矢刺しにして流した。 その屍は訶和羅の前(山城国綴喜郡河原村)で沈んだ。 その屍をひきあげ、那良山に葬った。


 このあと、有名な互譲説話がしるされている。

 大雀命と宇遅能和紀郎子は、「天の下」を譲りあって 多くの日を経た。
 海人(あま)が大贄(おおにえ)を貢(たて)まつ たとき、兄は辞して弟に貢らしめ、弟は辞して兄に 貢らしめて譲りあうこと再三にわたった。そこで、 海人はもはや往き還に疲れて泣いた。そこで諺に
「海人や、己が物に因りて泣く」
という。

 宇遅能和紀郎子は早く崩じた。そこで、 大雀命が天の下を統治することになった。


 この王位継承譚に関連して、仁徳記に見逃せない後 日譚がある。宇遅能和紀郎子の同母妹(仁徳の異母妹) の女鳥王(めとりのみこ)と、その三人にとっては 異母弟にあたる速総別王(はやぶさわけのみこ)の 悲劇である。

 仁徳(大雀命)は、亡くなった宇遅能和紀郎子の 妹の女鳥王を妃の一人に加えたいと思い、弟の速総別 王を媒(なかびと)として彼女のところへ遣わした。
 ところが、女鳥王は、
「大后(仁徳の正妃)の勢力が強いので、八田若郎女 (大后の嫉妬にあう)の場合もどうにもおできになら なかった。だから、わたしは仁徳にお仕えしたくあり ません。わたしは、あなた(速総別王)の妻に為りた いのです」
と答え、二人は相婚し、速総別王は復奏しなかった。
 そこで仁徳が直接、女鳥王のところへ行ったところ、 彼女は機を織っていた。仁徳がそれは誰の服を織っている のかとたずねると、女鳥王は、

高行くや 速総別の 御襲料(みおすひがね)

と答えた。仁徳はその心を知って還った。
 こののち、その夫の速総別王がやって来ると、 女鳥王は、

雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 鷦鷯(さざき)取らさね

と歌った。(大雀命を殺せ、という意味)
 仁徳は此の歌を聞き、軍を興し、二人を殺そうとし た。
 二人は一緒に逃げて、倉椅山(大和国十市郡の山) に登った。さらにそこから逃げて宇陀の蘇邇(大和国宇 陀郡の東辺の曽爾谷)に到ったとき、仁徳の軍が追い 到って二人を殺してしまった。

 そのときの仁徳の軍の将軍、山部大楯連は女鳥王の 手にまかれていた玉釧(たまくしろ)を自分の妻に 与えていたのが、仁徳の大后に発見され、死刑に処せ られた
「己が君の御手に纏かせる玉釧を、膚(はだ)も 熅(あたた)けき に剥ぎ持ち来て、即ち己が妻に与えつる」
といのが、その罪名だった。


 以上の説話を古田さんは次のように分析している。

 応神の死後、まず大山守命が斃される。そのさい、 二つの注目点がある。

①本来は、弟二人より彼の方が正統の継承者としての 資格があったはずである(母が応神の妃となった三人 姉妹の長姉であり、本人も年長)。
②大山守命誅殺の経緯は、大雀命の意図に従って進行 しているように見える。

 大山守命の罪状としては、
『大山守命は天皇の命に違ひ、猶天の下を獲むと欲(おも)ひて、 其の弟皇子を殺さむの情(こころ)有りて、竊(ひそ) かに兵(つわもの)を設(ま)けて攻めむとしき。』
と記されている。
 つまり、兄(大山守命)の内心には、そのような気持 があった。そのため、ひそかに準備していた。これが 罪名なのである。

 疑いなく存在した事実、それは応神の死後、大雀命 が行動をおこし、兄を殺させた。この一事だ。その理 由として、「兄の内心と未発の準備」があげられてい るのだ。

 ここで、前にあげた公理を思い出してほしい。
「A天皇の治世の説話は、次のBまたはC天皇のときに 作られる」と。

 応神記の説話は、次の仁徳の治世、またはその子の 履中の治世に作られた。すなわち、大雀命(仁徳) の策略が成功し、兄(大山守命)を亡き者にしたあと、 残った側の手によって作られたものなのである。

 とすると現実は兄殺しだ。その兄殺しの正当化、 それが、実は彼の内心がしかじかであり、その準備が なされていたから、止むをえなかったのだという理由 づけだったのである。

 大山守命が本当に右のような異心を内心に抱いていた か否か、誰が知ろう。確かなこと、それは、仁徳とそ の子(履中)たちは、人民に対し、そのように信じさ せたかった。この一事である。

 次の互譲説話。敗戦前の皇国史観の時代、これは 天皇家の美談として特筆されるを常とした。しかし、 本当にそうだろうか。

 もし大雀命が父の遺命に忠実であったとしたら、 弟の宇遅能和紀郎子を王位(天皇位)につけ、自分 は臣下の姿を厳に保っていたことであろう。そうで あれば、海人はどちらにもってゆくか迷うことはな かったのである。

 しかし現実はそうではなかった。大山守命を斃し た実力者が大雀命であることは、誰にも知られてい た。勢威もこちらにあった。だが、表面の名分は、 父の遺志によって宇遅能和紀郎子にある。

 右のような実勢力者と名分者の両立、そういう現 実があったからこそ、海人の迷うような状況が生れ たのではないだろうか。とすれば、この説話は、大 雀命が「父の遺志」を守ったため、というより、 守らなかったため、という方がより真実に近いので はあるまいか。

(海人の諺は本来は生鮮物〈魚など〉を売り余したときの漁師のなげきをもとにした、教訓めい た諺であろう。やがて、もてる者の悩みの意か。)

 右のような分析を、必ずしもことさら意地悪な視点 に非ず、と思わせるのは、仁徳記の女鳥王と速総別王 の悲話だ。

 ここでも女鳥王の罪状は彼女が仁徳殺しを (速総別王に対して)示唆した歌を歌い、仁徳 がそれを聞いたことになっている。

 しかし、すでに二人が殺されたあと、履中 (仁徳の子)か反正(同)のとき、この説話は 作られた。その歌の真否、-それは仁徳だけが知って いる。

 そして大事なこと、それはこの「女鳥王殺し」 とは、とりもなおさず宇遅能和紀郎子の同母の妹殺 しだということだ。この女鳥王殺しによって、宇遅 能和紀郎子系の親族の中の大雀命(仁徳)の即位に 対して異を唱える者は消滅させられてしまったので はあるまいか(八田若郎女を除く)。

 A・B・Cの三人がいた。Aと、Bの一族は消された。 それぞれ邪心をいだいていた、という理由で。 ─そしてCが即位した。簡単にいってこのような状 況なのである。

 以上がわたしの分析だ。

 戦前の皇国史観では、このような分析はとんでもないこ とだった。

 戦後の津田流の造作説でも、右のような分析は不可 能だった。なぜなら6~8世紀の吏官という、もう直接 には何の利害もないような後代の人間が、面白おかし く造り上げたもの、そのように解する立場だからであ る。

 わたしの立場はそれとは異なる。応神記や仁徳記の 説話は、実際は王位(天皇位)の纂奪者であった大雀 命(仁徳)やその子たちにとって、その汚名を雪(そそ) ぎ、自己の王統を正当化するための、それらは不可欠の 説話であった。そのように解するものだからである。 そのように解するときにのみ、それらの背景は、にわ かに真実(リアル)な色彩を帯び、各人物は躍 動しはじめる。生命をもつ。そのように感ずるのは、 果してわたしひとりの主観だろうか。
不定期便900 《「真説・古代史」補充編》
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(1)


景行紀と成務紀の謎


 以前に提示した「古代史年表」を必要な部分を加筆 して再録する。ヤマト王権の歴代大王で在位期間が特 定できるのはヲホド(継体)からである。それまでの 25代の大王については、とりあえず在位順に記入した だけのものです。

古代史年表

年代 中国 朝鮮 倭国 東鯷国・ヤマト王権
BC4th 戦国時代 青銅器文化始 銅矛文化圏 銅鐸文化圏
BC3th 秦(221-206) 鋳造鉄器伝播    
BC2th 前漢(202-)   国ゆずり・天孫降臨「天国→筑前」  
  漢・朝鮮に4郡設置(BC108-107) 錬鉄鍛造品 朝鮮からの渡来者多数  
BC1th   高句麗国成立 橿日宮の女王の筑紫統一「筑前→筑後」  
BC1th-AD1th     前つ君の「九州一円統一」  
BC1th-AD1th     「九州→淡路島以西」平定  
AD1th 後漢(25-)   漢から委奴(ゐど)の国王に金印授与される(AD57)  
AD1th-AD2th       イワレヒコ日向から東征へ
AD3th 三国時代・魏(220-265)     東鯷国、漢に貢献する(216)
      邪馬壱国卑弥呼・魏に朝貢(240) イワレヒコの末裔AD3th末ごろまでヤマト盆地の一豪族として地歩を固める
  西晋(265-316) 三韓時代 壱与・西晋に朝貢(266) ミマキイリビコ(崇神)がヤマト盆地より出撃・東鯷国簒奪開始
AD3th-AD4th       イクメイリビコ(垂仁)沙本城の戦い・東鯷国滅亡
AD4th 西晋滅亡(316)     オホタラヒコ(景行)・ヤマトタケル・ワカタラシヒコ(成務)
  東晋(317-420) 百済・肖古王(346-374)   タラシナカツヒコ(仲哀)・オキナガタラシヒメ(神功皇后)
    新羅・奈勿王(356-401)   ホンダ(応神)ここまで「古事記」中巻
AD4th-AD5th 高句麗・好太王(391-412) 倭王・讃(396-421)東晋に使者(413) オオサザキ(仁徳)・イザホワケ(履中)
AD5th 南北朝:南宋(420-)・北魏(439-)    倭王・珍(425-438)宋に朝貢(438) ミツハワケ(反正)・ヲアサヅマワクゴ(允恭)
      倭王・済(443-460)宋に朝貢(443) アナホ(安康)・ワカタケ(雄略)
      倭王・興(462-477) タケシロクニオシワカ(清寧)・イワヲケ(顕宗)
AD6th     倭王・武( 478-519)宋に上表文(478) オケ(仁賢)・ワカサザキ(武烈)
      継体のクーデターで筑紫の王・磐井暗殺される(528) ヲホド(継体)(507-531)
AD6th-AD7th 隋(589-618)   俀国の王タリシホコ(日出ずるところの天子)遣隋使・国書を送る(607) 聖徳太子摂政(593-622)
AD7th 唐(618-)     推古・遣唐使を送る(630)
    白村江の戦い・百済滅亡(663) 倭国衰退・滅亡  
AD7th-AD8th 則天武后(690-705) 新羅統一(676-)    
AD8th 唐、ヤマト王権を日本国として承認     この年より日本国(701)



 前回はこの表の「イクメイリビコ(垂仁)沙本城の 戦い・東鯷国滅亡」のところまでを取り上げた。 今回からはその後の「景行紀」から「継体紀」まで の王位継承の顛末に焦点を当てることとなる。

(以下、ヤマト大王名は漢風諡号を用い ることにする。)

 垂仁紀のあとの景行紀と仲哀紀についてはすで に何度か詳しく取り上げている。以下を参照して ください。

「2005年8月9日 第356回 「熊襲」とはどこか(1)」 ~「2005年8月15日 第362回 「熊襲」とはどこか(7)」

「2005年8月16日 第364回 九州王朝の形成(1)」 ~「2005年8月22日 第370回 九州王朝の形成(7)」

「2005年12月4日 第406回 激動の朝鮮半島(10)」

 さて、景行紀と仲哀紀はたくさんの説話が挿入され ている。しかし奇妙なことにその間の成務記紀には説 話がまったくない。成務「記」などはその文字数は 初期9代以下である。しかしその内には国造や県主を 定めたという重要な記事がある。これはヤマト王権の 基本的な制度を定めた重要な治世であることを示して いる。それなのに説話がまったくないとは?

 実は景行紀も奇妙なのだった。「景行」紀といいな がらその中身は小碓命(ヤマトタケル)の物語ばかり で景行その人の業績はほとんど何も書かれていない。

 この種の問題を解くカギは、権力内部での説話伝承 の方法の中にある。

 前代の天皇の治世の説話は、次代もしく は次々代の天皇の利害によって選定・伝承・造作さ れた上で公布される。

 従って、ある説話が史実 が史実であると言う場合も、次代あるいは次々代の 天皇の時代にその天皇の側からそのような「説話が 選定、伝承、造作、公布された」そのことが史実だ ということを意味する。

 これから記紀の記録をもとに「ヤマト王権の王位継 承闘争史」を読み取っていくわけだが、説話に対する 以上のような理解がそのための大きな武器となる。 例えば、「景行紀」と「成務紀」の謎を古田さんは 次のように解いている。

 景行(12代)の次代(13代)は成務。その次(14代) は仲哀だ。その仲哀の時代に、この景行記が作られた と考えてみよう。その仲哀は、前代の成務の子ではない。 問題の小碓命の子なのである。つまり景行~成務と 仲哀の間には、系譜上の断絶があり、仲哀は小碓命系 なのだ。

 そして果然、景行記に景行その人は不在に近く、もっぱら小碓命の功業が麗々しく、その 記を満たしているのである。そして仲哀当人をふくむ小碓命系譜まで、景行記の中に特別席 を与えられているのだ。何と露骨なやり口だろう。

 これに対し、「景行その人には、たいした逸話がなかったから」。こんな説明をする人がい るだろうか。いたとしても、そんな説明に誰が納得するだろうか。

 その理由は他にはない。景行~成務系をさておいて、王権を獲得した仲哀の治世、景行そ の人や成務その人の説話を選定することは喜ばれなかった。仲哀の利益に反したからである。 景行記に景行の説話なく、成務記に成務の説話がない。それはこのためだ。成務の治世には、 前にもすでにふれたように、

大国小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺、及び大県小県の県主を定め賜ひき。(成務記)

とあるように、天皇家の制度が定められた重要な治世だ。その治世に逸話がなかったことな ど、考えられない。「後世造作説」(津田史学)に立ったとしても、ここに説話を「造作」し ないことは、おかしい。これに対し、これを仲哀治世の利益に立つ場合には、容易に了解し うるのである。すさまじいまでの当代(作った治世)の利益の反映ぶりではあるまいか。

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今日の話題

「オセト」のたよりもたえはてた


 私のブログの読者の方が資料を一つ紹介してくれまし た。戦時下での諜報戦の一つとして、敵国の通貨価値の 下落を謀る「通貨の戦い」を論じています。多量の偽通 貨をばらまく作戦もあったといいます。それによって経 済的な打撃を与え、搦め手から攻める作戦です。

 その話を読んで、諜報戦とは関係ないのですが、戦 争物資の不足に追い込まれた15年戦争末期日本での通 貨にかかわる情けなくもいじましい話を思い出しました。

 仮説実験授業という理科の楽しい授業があります。 予想・討論・実験というサイクルで授業を進めていきます。 授業記録を読むと児童・生徒たちの生き生きとした姿が 髣髴と して浮かんできます。銀行型授業の対極にある課題提出 型授業の一つとして大きな成果を挙げてきています。 でも最近はこの授業を実行している先生たちが弾圧さ れているという事例をときどき耳にします。足並みを乱 すとか、学習指導 要領を逸脱しているとかいうのが理由らしい。昭和の 15年戦争時に真先に弾圧されたのは生活綴り方教育 でした。いつの世も時の権力は「考える授業」を排斥し、 「考えるな、服従せよ」と威嚇します。現在では、イ シハラ沈タロウが推し進めている東京都の教育支配が その典型であり教育弾圧の尖兵です。

 ところで、その仮説実験授業を創った板倉聖宣さんは、 その理論を社会科にも適用して、「社会の科学入門シリーズ」 という授業書を創っています。そのシリーズに「おかねと 社会 ─政府と民衆の歴史」という授業書があります。

 まくらが長くなりました。私が思い出したというのは、 その授業書の最終問題です。全問を一緒に楽しみたい 誘惑に 駆られていますが、我慢して、最終問題だけを紹介し ます。(小学生 向けに難しい漢字に振り仮名が振ってありますが、それはは ぶきます。)


〔問題 23〕

 今までに日本で作られたおかねには,どんな材質 のものがあったでしょうか。
 金属製のおかねには,2種類以上の金属をまぜた もの(合金)が多いので,主成分(50%以上)として 使われたものだけをあげてみてください。 (下のものに○をつける)

   金   銀   銅

   鉄   鉛   錫

   亜鉛 アルミニウム   ニッケル

   クローム   貝   石

   陶器(とうき) プラスチックス 紙

   その他(       )


 近くに友達や家族がいたら、意見を出し合ってみ るのも一興でしょう。

 板倉さんの答は次の通りです。


 おかねの材料と社会-〔問題23〕のこたえ

 外国には石や貝のおかねが通用したところもあり ますが,日本では石や貝のおかねが全国的に流通し たことはないようです。

 日本で最初に作られた「和銅開珎」は銀製でし た。しかし,すぐに銅製の「和同閲珎」が作られ, 銀製は使用禁止となりました。その後,760年には 「開基勝宝」という金貨が作られましたが,これは ふつうに通用することはなかったようです。古代の おかねは,銅貨だけといってもいいのです。

 しかし,古代の天皇政府の発行した銅貨の質はだ んだん悪くなり,796年発行の「隆平永宝」には砒 素が15%以上もはいっているということです。それ だけではありません。907年発行の「延喜通宝」や 958年発行の「乾元大宝」には,50%以上の鉛を含 んだものがあり,中には鉛が75%とか92%で銅をほ とんど含まないものもできました。つまり 鉛のおか ねもあったのです。 江戸時代の「えり銭禁止令」で は,鉛銭は割れた銭などとともに使用禁止の対象と なっています。

 15世紀ごろになると,おかねの流通がとてもさか んになり,銅貨だけでは高額の売買に不便となりま した。すると,しばしば砂金や銀のかたまりがおか ねの代わりに使われるようになりました。その金や 銀の品位を一定にして,はじめて正式におかねとし て流通させたのは江戸幕府です。徳川家康は江戸幕 府を開く2年前の1601年にはもう小判金・一分金・ 丁銀・豆板銀という金と銀のおかねを作って通用さ せたのです。

 江戸幕府は1636年から「寛永通宝」という銅貨を 作りましたが,1739年には鉄でもその「寛永通宝」 を作っています。鉄のおかねはさびやすくて困るの ですが,銅の不足を鉄でおぎなったのです。はじめ これは一時的な処置とされて,その後も銅のおかね が作られていましたが,小さくなる一方で,鉄製の 小さな一文銭もふえていきました。そして,1860 (万延元)年には,四文銭まで鉄で作るようになり ました。江戸幕府はそれから8年後の明治維新で崩 壊するのです。

 江戸幕府をたおした明治政府は,明治維新の3年 後の1871年に「円・銭・厘」というおかねの単位を つくり,質のよい金貨・銀貨・銅貨を流通させまし たが,その後まもなく,中央政府としては日本では じめて紙のおかね,つまり紙幣(おさつ)をつくり ました。そのおさつははじめ「不換紙幣」だったた め,人々の信用を失いましたが,やがて「兌換紙 幣」に改められて広く使われるようになりました。

 これで,

   金・銀・銅・鉛・鉄・紙

の6種がそろいましたが,1933(昭和8)年になっ て,こんどはニッケル貨が加わりました。100%ニ ッケルのおかねで磁石によくすいつきます。

 いまの1円玉でおなじみのアルミニウムが日本では じめておかねに使われるようになったのは,1938 (昭和13)年のことです。

 それでは,日本でおかねの主成分となったのは, 以上の8種類だけでしょうか。じつは,これ以外に もあるのです。

 太平洋戦争に負けてくると,銅もニッケルも アルミニウムも不足して,困った政府は1944(昭和19) 年にすず(錫)を主成分とした十銭玉 と五銭玉,すず50%あえん(亜鉛) 50%の一銭玉を 発行したのです。

 それだけではありません。1945年には十銭・五銭・ 一銭の三種のおかねを,こんどは陶器,つまり瀬 戸物で作りはじめました。陶器は金属でない ので, 厳密には「おかね」とよぶことも「おさつ」とよぶ こともできません。「おせと」とよべばよかったで しょうか。

瀬戸物の通貨


 もっとも,その「おせと」のおかねが 1500万枚ほどでき上がって,これから使用させよう としたところで,政府は連合国軍に無条件降伏を申 し出たので,この「おせと」はじっさいに使われる ことがなくてすんだのでした。

 それにしても,「いつの時代にも,ときの政府が 崩壊寸前には,必ずおかねの質が急激に悪くなって いる」といえそうです。 古代の天皇政府は銅貨を鉛 で作って,それ以後おかねを作ることもできなくな って,武士の政府にとってかわられました。江戸 幕府は四文銭まで鉄で作って間もなくつぶれ,明治 以後の天皇政府もすずやあえんや陶器のおかねまで 作って1年後につぶれているのです。

 以上で,日本のおかねの主成分となったのは,

金・銀・銅・なまり・鉄・ニッケル アルミニウム・すず・あえん・紙(陶器)

ということになります。
戦争意志とは何か(19)

〈自然的支配〉という政治過程


(更新手続きミスを指摘してくださった方に。訂正しました。ありがとうございます。もう一つ、昨日の分、更新をしそこないました。改めて更新しました。)

 ただの幕僚・官僚たちが、多様化し肥大化した官僚 制の中で、その個別専門性をもって個別的な範囲で 累積していった〈官制的累積カ〉が、かろうじ て〈戦争意志〉の動力となりえた唯一のものであったと、 北岡さんは言う。そして、丸山真男の言う〈無責任の 体系〉は「いっさいの時代性・社会性を捨象してのみ 成立可能なのっべらぼう」だと批判している。では、 その「時代性・社会性」とはどんなものだったのだろ うか。

 明治末期に青年期を過ごし、15年戦争期に将官級幕 僚・高級行政官僚になった者たち、あるいは大正期に青年 期を過ごし佐官級幕僚・中堅官僚という位置に就いて いた者たち、彼らは明治中期以降戦争で戦争を継いできた 日本のなかで生まれ、育ち、生きてきた。そして軍人 の道を選んだ彼らの人生は、すでにして戦争のダイナ ミズムのなかにあったといえる。彼らにとってそれは あたかも〈自然〉のようであったろう。15年戦争に集約される〈官制的累積力〉という 支配の動向が〈自然〉のように立ちはだかっていたのだ。 私(たち)に、愚劣で欺瞞的な「民主主義」国家や法 が〈自然〉のように立ちはだかっていると同様に。

 私(たち)の〈自然的支配〉がどこに集約されよう としているのかは予見を許さないが、ともあれ大日本帝国= 近代天皇制国家の〈自然的支配〉は15年戦争へと集約 していった。そして、その15年戦争を形成し た政治過程の動力たりえたのは軍事・行政官僚たちで あったとするのが、北岡さんの所論だった。 『支配とは何か』の最後の一節を引用してこのシリーズ を終えよう。

 この〈支配的自然〉は、〈戦争〉の切実さから最も 離れたところで位置していたものたち、いいかえれば 〈仕事〉に切実な地点に位置していたものたち に、戦争を委ねた。今様にいえば、商社員風 か役人風にかは知らないが、総じていえばビジネスと して〈戦争政策〉を立案・企画し〈戦争指導〉の展開 を舞台裏で可能とさせた、軍事・行政官僚たちにである。

 かれらの存在なしには、どのような〈戦争意志〉で あれ1センチたりとも動かなかったはずである。かれら のなしえたのが、官制の累積的表現としての〈作文〉 と、〈作文〉の実現しうる範囲での〈政策〉だけであ ったとしてもである。

 15年戦争を形成した政治過程で、唯一動力たりえた のは、余計なことを考え、意志し実行していったもの ではなく、戦争に必要な諸政策・諸準備を、自然とし て獲得された専門性をもって構想し、そしてそれを実 施する〈地位〉に順序的に就き、あるいは、それを 作文・転記・捺印という事務処理によって形成してい く〈地位〉に就き、〈戦争〉さえも〈仕事〉として表 現していったものたちだった。

 かれらは、政策者としての位置と、事務処理者とし ての位置とを、官制的階梯として区分的に順序付けら れた個別的な〈地位〉に付属するものとして、なすが ままに単一に表現していたのだ。その〈威力〉は、 〈官僚精神の積み重ね〉と、その部分的本来性を無視 されようと、〈責任なき支配〉とその核質を追求され ようと、支配をまさに〈自然的支配〉として無制限に 貫徹させていった。それでも支配は貫徹するという訳 なのだ。

 が、同時にそれは〈支配〉もおてあげであったことを 指示していた。支配の再編成を促がす要素が山積みさ れておりながら、これにむかえたのが唯一〈事務官僚〉 のみであったというこの過程の現実は、政治の幅の狭 さとそれを原生的に規定した政治の本来性ともいうべ き〈恣意性〉の全面的な露出をこそ示すものであった。 あしたはどうなるかしらないけれど種だけはまいておこ う式の政策提起は〈事務官僚〉が属性的にもっていた 累積的本能によって提起された。

 しかし、それは再編力をそれ自体もたなかった。 かれらは、〈恣意〉という壁に包囲された政治過程に おいてはなにものかでありえたかもしれない。それだ けであった。まさに、左足から踏み出すか右足から 踏み出すか、それがもんだいだというようにしか 〈政策〉は提起されえなかった。

 個別的には〈無力〉、共同的には〈恣意〉という奇 体な〈威力〉が、この間の途方なき政治支配過程をお おっていた。おてあげであり、とりつくしまもなかった というのが戦前期日本の〈自然的支配〉の一切であった ということができる。

 『支配とは何か』には、戦争指導者たちの「戦争 責任」の問題が、いろいろな場面で付随的に取り上げ られていた。しかし、その問題は複雑で難しい問題で ある。稿を改めるのが適切と考えて、敢えてその部分 を素通りしてきた。そのために北岡さんの緻密な論理 展開を損ねてしまったかもしれない。もし論理的な飛 躍を感じさせるところがあれば、それは私の責に属す る。

 戦争指導者たちの「戦争責任」の問題は私にとって の新たな課題であり、いずれ取り上げようと思う。
戦争意志とは何か(18)

〈戦争意志〉の動力としての〈地位〉


 前にも書いたことだが、日清戦争から太平洋戦争の 敗北までの期間は51年である。敗戦から現在までは 62年経っている。昭和の15年戦争のさなかに生まれた 私は、青少年のころ、日清戦争・日露戦争をはるか昔の 出来事のように感じていた。と同様に、現在の青少年 は昭和の15年戦争ははるか昔のように感 じていることだろうと想像する。

 さらに元号が人にさまざまな錯覚を与える。 私は昭和生まれであり、明治時代の出来事は、大正時 代のさらに前のことだから、相当遠い昔のことのよう に思われるのだ。一方、昭和の15年戦争のとき、 軍部の中枢にいた将官や軍事官僚たちに対しては自分 と同時代の人たちという錯覚を持っていた。しかし、 彼らは皆、明治10年代から20年代の生まれであり、 日清戦争─日露戦争─第1次世界大戦と、戦争とともに 成長してきている。

 『昭和史探索』で半藤さんが面白い指摘をしている。 陸軍士官学校の卒業期数と生年数(明治)がほぼ一致す るというのだ。「一夕会」のメンバーの一人である土 屋勇逸が1927(昭和2)年11月3日に開かれた会合の 出席者を日記に記録している。

15期 山岡重厚、河本大作
16期 永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、磯貝廉介、板垣征四郎
17期 東候英機、工藤義雄、松村正員、飯田貞固
18期 山下奉文、岡部直三郎、中野直晴
20期 橋本 群、草場辰巳、七田一郎
21期 町尻量基、石原莞爾、横山 勇
22期 村上啓作、鈴木率道、本多政材、北野憲造、(鈴木貞一)
23期 清水規矩、岡田 資、根本 博
24期 沼田多稼蔵、土橋勇逸、(深山亀三郎)
25期 武藤 章、下山琢磨、(田中新一)

 つまり「一夕会」の主要メンバーは明治15年~25年 生まれの人たちだったことが分かる。

以下、『支配とは何か』からの要約

 さて、彼ら若手将校たちが始めた「人事刷新」とい う運動は、彼らが省部の中枢ポストを獲得して一応所 期の目的を達したことが、前回提示した彼らの履歴表 から見て取れるが、その表ではもう一つその任期の短 さが目立つ。これは「人事刷新」の結果得たポストが 彼らの思惑通りの可能性をもたらしたのかどうかという問題 と無関係ではない。

 かれらが中枢ポストの圏外にあったときは、それ故に こそ「人事刷新=ポストの獲得」というスローガンは基本的 な動機と可能性をもったが、ポストを得ることによって 何ができ何ができないのかという点において、彼らには大き な錯誤があった。

 彼らがポストを獲得したとき、そのスローガンに付随し てあった〈戦争意志〉は〈党派化〉し、拡散していった。 〈戦争〉に最も切実に関わり〈政策〉に最も〈理念〉を 近づけていった石原莞爾の〈戦争意志〉は共同性を獲得 することができずに〈個別意志〉としてしか現出しなか った。石原のグループは挫折する。それは同時に 〈戦争〉に切実ではなく〈政策〉においても〈理念〉 から最も離れた〈事務〉をあてた者たち、東条・武藤ら のグループがヘゲモニーを握ったことを示している。

 では〈権勢〉を掌中にし、〈人事〉を制していった 彼らはそれによって何を得たか、何をなし得たかのか。 例えば、事務官僚のうちでも上級ポストである陸軍 次官を例に見てみよう。

 陸軍次官は、法制上次のように規定されている。
 陸軍省処務規程第二章第八項「(陸軍)次官は大臣を 佐け、省務を整理し、大臣官房及各局の事務を監督す」
 また、陸軍次官が自分で裁量できる委任事項の主要な ものは次のものである。
 第一項「重要ならざる諸規則の制定」
 第十八項「重要ならざる編成関係事項」
 第十九項「満州及支那に関する事項中重要ならざる件」


 「重要ならざる件」という断り書きのない項もあるが、 それらの項は処務規程の執筆者自身が「重要」「重要 ならざる」とわざわざ断り書きを付けることすらない と考えたと思われるような事項である。そして、当事者 たちが「重要ならざる件」と「重要なる件」との差異 を判断する基準は、彼らの恣意のうちにあった。 彼らは「これは重要」「これは重要でない」 と区分したかった、あるいは考えたかったという 恣意の違いしか示し得なかった。

 1941(昭和16)年4月より1944年7月まで海軍次官で あった沢本中将は東京裁判において次のように証言し ている。

「自分は海軍次官として他省の次官と同様各種の委員 会等の委員または参与に委嘱せられしありも、全く有 名無実にして、委員または参与たりし委員会の数及名 称等をも記憶せざる程度なり、従って大部分の委員会 には出席したることさへもなく、稀に出席したるもの も、多くは形式的にして、議事内容は事前に決定しあ りて、其席上に於て議論を闘わし、また内容を変更し たるもの殆どなく、或いは単に報告を聴取したるに過 ぎざる程度のもの相当あり」

 また、丸山真男にも次のような論述がある。

「……戦前戦時中を通じて、御前会議、大本営政府連 絡会議、最高戦争指導会議と名前ばかり厳めしい会議 が国策の最高方針を決定するために幾度か開かれたが、 その記録を読む者は、討議の空疎さに今更のように驚 かされる。実はといえば、そこでの討議内容は、あら かじめこうした会議の幹事 - 単に書記ないし連絡 員にすぎないと武藤らによって主張されているところ の - 幹事たる陸海軍軍務局長や参謀本部・軍令部 次官によって用意されており、更にいえば幹事の下に は軍務局員や参謀本部課員が幹事補佐として付いて実 質的な案を決定していた。」

 この「実質的な案」は、まさに官制上におけるその ポストに累積付加された個別性とそのポストを人 的に構成する官吏たちの専門性を唯一の頼りとして表 現された〈作文〉以外のなにものでもない〈案〉で あったのだ。しかしこれらの案は、その官制上の 〈地位〉ぬきには生まれ得ないものでもあった。 石原の〈戦争意志〉が〈個別意志〉としてしか現出で きずに挫折していった根本的な原因もここにあった。

 彼らが得たのは、〈地位〉に付随した本質ともい うべき行政の事務処理機能だけであった。〈理念〉の 〈無力〉がこれを裏打ちした。だから彼らは、獲得し たポストに短期間しかいなかった。いる必要もなかった。 いてもすることがなかったから。

 作文はこれらの下僚、言葉の本来の意味での事務官 僚の仕事であった。かれらの仕事は、決裁のハンコを 押すか、他ポストの官僚との間でセクショナリズムを 大声で発揮する位であったはずである。

 「人事刷新」のスローガンを実際にかついだもの たちには〈地位〉そのものに対する錯覚があった。 それが本来的にもっている機能に対して大きな誤解 をしていたのだ。すなわち、〈地位〉そのものが内 包している政策の立案・計画・提起という政治意志 的側面の過大評価と、事務処理という官制上の過程 的・累積的側面の表現としての作文、捺印等をはじ めとする諸機能の過小評価である。

 「無責任体制」という批判軸を設けて、次のように その批判を展開している丸山真男も同じ錯覚・誤解の 中にいる。

「……日本の最高権力の掌握者たちが実は彼等の下 僚のロボットであり、その下僚はまた出先の軍部や、 これと結んだ右翼浪人やゴロッキにひきまわされて ……」

 北岡さんは以上をまとめて次のように論述している。

 照準をはっきりさせよう。わたしの照準する目標 -敵は、階層的にいえば佐官級幕僚及び中堅の行政 官僚たちである。丸山のいうような意志的運動者的 な幕僚のことではない。〈戦争意志〉を共同的 に、あるいは個別的に表現していた佐官級幕僚たち ではなく、ただの専門性、ただの地位性をそのとき もっていただけの幕僚・官僚たちに、もし戦争政策 の動力とよべるべきものがあったとすれば、か れらにこそあったのだと考える。

 別のいい方をすれば、ただの幕僚・官僚たちが多 様化し肥大化した官僚構造上の各官制に累積・付着 した個別専門性を、個別的な範囲で〈作文〉として 表現し、あるいは自己の机の上を通過していくそれ らの書類に、自己の地位性の表現であるハンコをペ タンと押すとその官制的累積カが、かろうじて動力と なりえたのではないかと考えるのである。

 官制上の〈地位〉がなければ、ただの人というのは 疑いを入れない事実である。藩閥人事に手も足もでな かったものたちが、これに抗し、その結果ポストを 獲得したものの、かれらがめぐりあったのが「省務の 整理」「事務の監督」でしかなかったとき、かれらは 何を思ったか。「誰がやっても同じ」というのがかれ らの心理的獲得物であったはずだ。個人にとっては 閲歴上の意味、共同的には機能自体のもつ本来的軽 さ、このことをかれらの各ポストにおける在任期間の 短かさが物語っていたといえる。

 もちろん、そのポストのもっている機能性をフルに 発揮しようと意気込んだもの、あるいは個別的機能を 超えた意志と能力を示した幕僚・官僚がいなかったと いうわけではない。しかし、かれはその職能如何に よってではなく、官制上のポストをそのときどれかひ とつ獲得していたという、そのことだけを頼りにして 自己の〈戦争意志〉や〈行政意志〉を展開していたに すぎない。だからこそ、地位を喪ったとき、かれらは 下からハシゴをはずされたように膂力を示すことなく 失墜したのだ。

 職能の内側でだけ、その職能を発揮したものだけが、 わずかに輝きを示しえた。

 丸山真男は、そのかすかな輝きをみない。
今日の話題

「鯔背」はなんと読むのかな?


 そんなことにいまさ驚いたり感心したりすること ないでしょうと言われそうなことに、昨日も驚いたり 感心したりしたことでした。

 都会育ちは理由になりませんが、私には動植物につ いての知識がことのほか欠けています。ついこの前、 「糸瓜の話」に驚いたり感心したりばかりですが、 今度は「ぼらの話」に驚いたり感心したのでした。 「ぼら」は漢字では「鯔」という字が当てられてい ます。

 昨日の東京新聞のシリーズもの「TOKYOU発」は 「江戸前ボラいかが」という記事でした。私はこの シリーズはほとんど素通りしているのですが、その 記事を読んだのは副題の「脂のり、極上の甘さ」に つられてのことです。むらむらと食い意地が頭をも たげたのでした。旅館の料理などで知らぬうちに 食べた事があるかも知れませんが、我が家では鯔を食 したことはありません。

 鯔の卵巣はカラスミの原料となるとか、「鯔のへそ」と 呼ばれる胃の一部が珍味とか、という話に続いて、 刺身・てんぷらをはじめ、いろいろな食べ方が紹介され ています。が、私が「へぇっ!?」と驚いたり感心した のはそこではありませんでした。鯔が出世魚だという 話にまつわる言葉の由来に驚いたり感心したりしたのです。

 出世魚を私は鰤(ぶり)しか知りませんでした。 鰤の出世鰤、いや出世ぶりはこうです。(地方によって いろいろ呼び方が変わるようです。)

ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ

 私はイナダを釣ったことがあります。釣り上げたときは なんという魚か知りませんでした。一緒していた釣りの名 人さんに教えられました。そのときは、まだ釣りを始めたば かりの私が一番おいしく大きい魚を釣ったとことにな りました。

 鯔の出世ぶりは次のようです。

オボコ→イナ→ボラ→トド

 このほか鰶(このしろ)・鱸(すずき) も出世魚とされています。

ジャコ→コハダ→コノシロ
セイゴ→フッコ→スズキ

 さて、鯔の出世ぶりから次のような江戸前ことば が生まれたという点に私は驚いたり感心したり、も う一つおまけになんとなくうれしくなったのでした。

稚魚「オボコ」→「おぼこ娘」
幼魚「イナ」→「いなせ」
老成魚「トド」→「とどのつまり」

 「おぼこ」について広辞苑は「ウブコ(産子)の 転か。」と注記していますが、鯔の稚魚からの生まれた 言葉とする方が楽しいな。

 「とどのつまり」はそのものずばりですが、哺乳動物の 海馬(とど)のほかにも「とど」と呼ばれる生物が あったとは初めて知りました。なお、IMEの漢字変換では 「とど」の項に「鯔」も入っていました。

 さて、「鯔背」ですが、これは「いなせ」と読み ます。広辞苑は次のような解説をしています。 江戸は日本橋の魚河岸のオア兄さんが粋で勇み肌の 見本のようだったようです。一心太助ですね。 そしてこの「いなせ」なオア兄さんたちのはやりの 髷が「いなせ」銀杏という髪型で、それが鯔の背中と 似た形をしていたそうです。そこで「いなせ」に 「鯔背」という字を当てたというわけです。ああ、 おもしろいなあ。

 成魚「ボラ」→「ずぼら」 としたいところですが、 これは違うのでしょうかね。「おおぼら」は違います。 これは「法螺を吹く」の「ほら」のことです。

 最後に、こんなことを書くきっかけになった 記事『江戸前ボラいかが』を記録しておきます。 鯔を買う機会があったら、料理してみよう、いや 私がやったらメチャクチャになること請け合いです、 我が家の料理名人に料理してもらおう、と思ってい ます。

 9月30日、船橋市の船橋漁港そばにある浜町公民 館で鯔学会が開かれた。雨天のため、参加者は講師を 含め12人と、いつもより少なめだ。

 「刺し身 天ぷら 実技と講義」と書かれた黒板の 前で、魚河岸で働いた経験のある同会事務局長の伊藤 雄一さんが、慣れた手付きでボラ三匹をさばいてい く。どれも東京湾で捕れた、長さ約45㌢もある 堂々としたものだ。

 うろこを取り、三枚におろす。ボラ研究者で専属講 師の西迫宗大さんが、黄色い卵巣を手に「これが大き くなると、カラスミの原料となります」。白くて堅い 胃の一部を持ち「ポラのへそと呼ばれる部分で、珍味 です」と説明していく。

 ボラにはマリネ、南蛮漬け、ワイン蒸し、漬け魚、 干物、あら煮などさまざまな調理法がある。

 まず刺し身が並べられ皆で味見。「脂がのってる」 「おいしい」。西迫さんの講義が続く。「世界には約 70種類のボラがいる。東京湾には5、6種。ボラは 産卵場所など謎の多い魚」との解説に、参加者はうな ずく。

 焼いたボラが出てきた。白身魚のあっさりした味。 皮はコラーゲンたっぷり。最後は天ぷら。ホクホクと した極上の甘さだ。「ボラの味はタイに勝り、フグに すぐる」と伊藤さん。初めて参加した千葉市の主婦相 京明美さん(57)は「ボラは好きだけど、なかなか売 ってない。こんなに調理方法があるなんて知らなかっ た」と感想を漏らした。

 鯔学会が生まれたのは2004年。干潟の保全を訴 えるフォーラムを開いた時、現・船橋市漁業協同組 合組合長の大野一敏さんと伊藤さんが、「ボラはもっ と食べられた方がいい」と意気投合し、設立した。以 来、五感を通してボラの良さ、うまさを体験してもら おうと年数回、勉強会や試食会、船のクルーズなどを 開催。毎回、ポラを調理して食べられるとあって、会 員は約80人まで増えた。

 かつてボラは江戸前を代表する魚だった。江戸城詰 めの武士の宿直弁当に浜焼きがおさまっていたとの記 述が当時の「鸚鵡籠中記」にある。

 成長魚で、名前は「オボコ」に始まり、幼魚は「イ ナ」、成魚が「ボラ」、老成魚は「トド」。「オボコ 娘」 「イナせ」 「トドのつまり」といった言葉は ボラに由来しており、庶民に身近だったことが分かる。

 ところが、東京でボラを食べさせる料理店も売って いる店も少ない。あっても、東京湾以外のボラが多い。

 それは「風評」のせいだという。「東京湾が汚染さ れているといわれた昭和40年代、ボラ、コノシロが 臭い魚の代表のようにいわれたからだ」と大野さん。

 以前より東京湾はきれいになっているというが、人 気が出るわけではない。「東京湾でスズキやサバを 狙って巻き網漁をする際、ポラもたくさん捕れる。で も売れないので、ほとんど捨てる」。

 本当に臭いのか。

 大野さんは「そんなことはない。だから、鯔学会で 試してもらっている。日本は食料自給率が低いのだか ら、資源がもったいない。ボラを見直してほしい」と 訴える。

 問い合わせは、鱗学会=電047(484)4018=へ。

 文と写真・吉岡逸夫/紙面構成・佐野貴晴
戦争意志とは何か(17)

「人事刷新」による〈地位〉の獲得


 『支配とは何か』の第6章「戦争意志 - その 動力としての〈事務官僚〉」は、東京裁判で被告と なった高級官僚(軍事・行政官僚)の責任問題を論 じた丸山真男の言説に対する批判を骨格として論じ られている。この章を読んでいたら、戦争責任に限 らず責任一般の問題として、責任の所在 (「組織」か「個人」か)、あるいは責任の質 (「法的」か「道徳的」か)といったような大きな 問題が次々と頭に浮かんできた。これは稿 を改めて取り上げるべき問題だと思った。そこでこ こでは問題を広げずに、「戦争意志の動力」に 絞って進むことにする。

 丸山真男は大日本帝国の体制の「もっとも深い病理」 を〈無責任の体系〉と呼んでいる。それを批判軸として 軍部に適用すれば、次のような支配構成を描くことに なる。

支配の構成図


 つまり、『「無法者の陰謀」によってつくりあげ られた「既成事実」の累積が指導的統治者をして動か しようのない「客観的情勢Lのように思わせ、その 「屈服」の挙句、それらが「国策」にまで上昇して いった』というのが丸山の言う〈無責任の体系〉 の骨子である。

 そして、『「ゴロツキ」のところまで下降したはてに、 「非民主主義国の民衆が狂熱的な排外主義のとりこ」 となった「国民」の姿に行き当たり、丸山は〈敵〉を みうしなったというべきである』と北岡さんは丸山の 所論を批判している。

 前回までで北岡さんは、「軍部の戦争担当能力」 や「統帥権」を根拠とする「軍部犯人説」に対して 「軍部を戦争意志の推進部として捉えるべきなにも のも、軍部自体がもっていなかったこと」を明らか にしたうえで、「戦争意志」の「動力」として 「最も戦争に切実にかかわらなかったものたち」、 つまり高級事務官僚(軍事・行政官僚)を摘出して いた。ここではそれを丸山の〈無責任の体系〉に対 比して次のように述べている。

 戦前期日本の支配の核心は、〈政策的理念〉にも 〈理念的政策〉にも過去の行政の傾向性しか感じと れないにも拘らず、いいかえれば過去の行政の累積 によりてのみ成立した〈官僚意志〉に負ってのみ 〈政治的統合〉がなされ〈戦争意志〉の具体化が 可能となったてんにある。〈にも拘らず、支配 は貫徹した〉という訳である。

 上層部がロボット化していようが、「無法者の 陰謀」が「国策」にまで上昇していこうが、その ような無為、無策、無責任が横行していようが、 そんなことを歯牙にもかけぬように、官僚制の自然 累積的現在のみを表現する〈事務官僚〉によって、 〈戦争〉は動いていったのだ。〈理念〉や〈感性〉 において逸脱していないかれらによってはじめて 劣弱ではあっても〈戦争〉は動きえたともいえる。

 最終章「戦争意志 ― その動力としての〈地位〉」 は、「〈戦争意志〉が最終的には〈理念〉も個別的 な〈戦争意志〉ももたない〈事務官僚〉によっての み中枢的に担われていく過程」を検証している。 もし北岡さんの言うように、かれらが「戦前・戦中のみ ならず、敗戦後ですら無傷のまま延命」したとす るなら、 その恣意的な支配様式も今日の日本の政治過程に 根強く残っているだろう。その一つの実例として 、昨日の「今日の話題」で私(たち)は文部官僚の 理念を欠いた恣意的な施策の見本を知ったのだった。

 さて、第一次世界大戦の「総力戦」ショックに よって誘発された日本の軍事担当者の動きが二つ あった。

① 軍の近代的組織改編
② 戦争概念の転換に伴う軍事力の形成

このうちの①は、「人事刷新」というスローガンの もとに推し進められていった。今回からは、この 「人事刷新」に焦点を当てることになる。

 「人事刷新」の担い手たちが、当時の佐官級幕 僚とその候補者たちであり、かれらの努力と変転 の跡については「戦争意志とは何か(9) 戦争 担当能力の形成・組織改編」で年表風に概観して いる。そして、そのはしりが1921(大正10)年10 月のいわゆる「バーデン・バーデンの密約」であっ た点にもふれた。その後、その動きは「二葉会」 「一夕会」と発展して行くのだが、そこではどうい うメンバーがどういう討議を重ねていたのか。

1921(大正10)年10月
 岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎
 「バーデン・バーデンの密約」

(以下、岡村寧次の日記による。)

1923(大正12)年
 12月 5日 河本大作、板垣征四郎、永田で会合  12月13日 河本、永田、板垣、小畑
 岡村の支那行きの送別会を開く。

1927(昭和2)年
 1月16日 二葉亭で会合。
  永田、小畑、板垣、東条英樹、岡村、江副。
 6月27日二葉亭で。
  山岡重厚、河本、永田、小畑、東条、岡村。


1928(昭和3)年
 1月29日 小畑私邸。
  永田、小畑、岡村、黒木親慶。

 これらの会合での議題は明記されていないが、 主に情勢悪化する中国問題が話題になっていたと 思われる。

1928(昭和3)年6月  張作霖爆殺事件(河本事件)

 この事件を機に会の動きは急に活発となる。

 1月17日 木曜会、永田、岡村、東条。
  「政治と統帥」が議題。
 2月10日 二葉会、渋谷の神泉館で。
  在京者全部出席。河本事件につき討議す。
 3月22日 二葉会。
  爆破事件(河本事件)、人事につき相談。
 6月8日 二葉会、九名全員集会。
  河本事件につき話す。

 これらの会合のメンバーはすべて当時 の陸軍中央部の中核にあり、次代の陸軍を背負う 佐官級の人々である。8月になって二葉会が発展し て新たに結成された「一夕会」には

石原莞爾、鈴木貞一、山下奉文、土橋勇逸、武藤章

などが加わっている。

 『昭和史探索』より引用する。

 これら錚々たる中堅が、事件(河本事件)処罰を めぐって、上部を突きあげる。陸軍出身の田中 首相が、公表を避け行政処分で決着をつけようと いう白川陸相の案を、やむなく呑まざるを得なく なったのもむべなるかな、であろう。と考えてくれ ば、この事件はまた、陸軍が政治に関与する、介入 してくるモチーフを形造ったことに思い当たる。 犯人である同志を軍法会議にまわすことなく、 軽い行政処分ですますことができた。強力な同志的 な結合による力さえあれば、無法もとおるのである。 昭和という時代の歩みを怪しくする「軍の政治介入」 の端緒はここにあったといえる。

 「二葉会」はその第一回会議で次のような決議 をしている。

『人事の刷新とは会員を重要なポストに逐次就か しめ、自己の領域において上司をして会の意図す るところを実現せしむる如くに互に協力するとい うこと」

 彼らの動きは1931(昭和6)年(満州事変)あた りに最高潮となる。ではそれまでの間に、かれらは どうのようなポストを獲得していったか。次の表は 「一夕会」の主要メンバーの経歴である。

地位獲得



 また、次の表は佐官幕僚の担当する主要役職別の表 である。

役職別地位



 「二葉会」「一夕会」の主要メンバーは省部の 中枢ポストを獲得しており、一応所期の目的を達し ている。しかしここで、「このポストの獲得はかれ らの〈戦争意志〉にとっていったいなにごとであり えたろうか」と北岡さんは問うている。

今日の話題

高級官僚の低級ぶり

 9月29日に宜野湾市で開かれた「集団自決の軍命を削除した 文科省の教科書検定意見の撤回を求める県民大会」 には11万人の参加者があった。沖縄県民の約8%にあたる。 これはすごいことである。迫力のある「非暴力直接行動」 だ。東京都の人口は沖縄県の人口の約10倍だから、 東京でこれと同じ規模の集会・デモが行われると 100万人の直接行動となる。望むべくも ないことだが、これほどの規模の直接行動は即自に 政権を顛覆する「政治的リコール」であり、もう革 命といってもよいだろう。

 この「県民大会」前、さまざまな抗議に対して、 文部科学省は「教科用図書検定調査審議会が決定す ることであり、理解していただきたい」との回答に 終始し、検定意見の撤回と「集団自決」に関する記 述の回復を拒否し続けていた。

 ところが、この「県民大会」を目の当たりにして、 政府は態度を180度変えざるを得なくなっている。 しかし、その言葉は限りなく醜く卑しい。

町村信孝内閣官房長官
「沖縄の皆さんの気持ちを何らかの方法で受け止め、 修正できるかどうか、関係者の工夫と努力と知恵が ありうる」

渡海紀三朗文部科学大臣
「(検定に)政治的介入があってはいけない。 しかし、沖縄県民の気持ちを考えると、両方とも ものすごく重い」

 いずれも沖縄県民の「気持ち」を前面に出し ているが、検定そのものの間違いには知らん振り をしている。沖縄県民は「気持ち」を察してくれと 懇願しているのではない。「事実」を歪曲するな と抗議しているのだ。

 抗議集会で沖縄県立読谷高校3年生が読み上げた メッセージは次のように訴えている。

「教科書から軍の関与を消さないでください。 あの醜い戦争を美化しないでほしい。たとえ醜く ても真実を知りたい、学びたい、そして伝えたい」

 問題は今回の沖縄戦における「集団自決」の歪曲 に限らない。文部科学省は「南京大虐殺」「従軍慰 安婦」も否定したがっている。その手口は全て 「部分を全体に及ぼす」という詭弁によっている。

 検定に「政治的介入があってはいけない。」だって!? 町村も「教科書の内容がそのときの政治の思惑 で揺れ動くのはいい事とは思わない」と言っている。 もともと教科書検定そのものが「政治的思惑」による 「政治的介入」だろう。教育への「政治的思惑」や 「政治的介入」があってはいけないのなら、教科書 検定制度を廃止すべきなのだ。ついでに教育委員も もとのように公選制にもどせ。改悪教育基本法も ご破算にしろ。

 ところで教科書検定は実質的には誰が行っている のだろうか。

 教科書発行者が申請した教科書を、まず文部科学省 の常勤の教科書調査官が「調査」する。それをもとに 教科用図書検定調査審議会が「審査」し、合否を決定 する。その際、教科書の内容に「修正」が必要であ ると判断した場合、審議会は教科書発行者に検定意見 を通知する。検定意見に従わなければ合格できない から、この意見はどちらかというと「命令」に等しい。 この通知に従って発行者は内容を修正し、再度審議会 が審査して合否を決定し、文部科学大臣に答申する。

 問題は、この教科用図書検定調査審議会は有名無実 化し、検定の実務を担う教科書調査官が決定的な 役割を果たしていることにある。今回問題になって いる高校日本史の教科書の場合も、審議会の日本史 小委員会は、沖縄戦に関し特に議論することなく、 調査官の検定意見原案を素通りさせたと言われてい る。実際、この小委員会は2006年10月30日と11月13日の 2回しか開かれていない。審議会は単なる 「事後追認機関」と化している。そこに巣食う学者ど もはそれだけで手当てをもらっている税金泥棒だ。 以上、要するに史実改竄の主役は教科書調査官という官僚 である。

(以上の記述には次のブログの記事を利用 させてもらいました。大変優れた内容です。 ぜひ、合わせてお読みください。)

世界の片隅でニュースを読む

9月30日の記事『教科書改竄の「黒幕」』
10月3日の記事『教科書検定の徹底検証を』

 さて、昨日の当ホームページの記事は、北岡さんの 次のような指摘で締めくくった。すなわち、大日 本帝国の「支配の様式は、何が何であれ 180度転回など、ものの数に入らないという支配 の恣意的原型を鮮やかに指し示し」ており、 「軍事官僚とそれに地位的結縁をのみ唯一の結合 軸として迎合した行政官僚」が「戦前・戦中のみ ならず、敗戦後ですら無傷のまま延命」した。

 この官僚の生態・体質は教科書問題に関わっている 文部官僚にも受け継がれている。このことを佐藤優 さんが『集団自決の教科書検定問題 で文部官僚を追い込め』(「週間金曜日」9.14号) でズバリと指摘して、「沖縄県民大会」に突き上げら れてあたふたしている今日の文武科学省の失態振りを 予告している。その部分を引用する。

 筆者は、

官僚は善悪、正邪の基準では動かない。 楽苦、快不快の基準で動く。 今回の検定でも文部 科学省の官僚や検定にあたった有識者は、確固た る信念に基づいて行なったのではなく、世の中が 何となく右に旋回しているので、それに合わせた 方が楽だくらいの感覚で行なったと僕は見ている。 この状況を是正するためには、このまま放置する とうんと不快で苦しいことになるという状況に 官僚を追い込まなくてはならない」

と私見を率直に述べた。

 今回の沖縄訪問で、歴史教 科書検定問題を巡る沖縄とそれ以外の地域での温度 差を実感した。9月29日にこの間題についての県民 集会が予定されているが、ここで10万人を超える 人々が集まることになれば、日本全国規模で 「たいへんなことになった」という認識になるので あろうが、それでは遅すぎるのである。

 筆者は月一回、村上正邦元参議院議員が主宰し、 理論右翼の論客が多く出席する「一滴の会」で講 演を行なっている。9月5日の会合で筆者は反発覚 悟で、

「歴史教科書検定問題を放置すると日本国 内で歴史認識問題が生じ、日本国家、日本国民の 一体性にヒビが入り、外国から干渉される口実に もなる」

と述べた。会場から反発はまったくなく、ある右 翼理論家は

「これは日本国家統合の危機をもたらす深刻な問 題だ。教科書の書き換えなどもってのほかだ。 右側、保守としても真剣に対処しなくてはならな い」

と述べた。会合の終わりで村上正邦氏が

「なんで歴史の真実を書き換えようとするんだ。 軍が手榴弾を住民に渡したという一点で、 『いざとなったら自決しろ』と強制したのは明白 じゃないか。私の方からも文部科学省に働きか けてみる」

と言った。

 過去の日本国家の過ちを率直に認める勇気が 今必要とされている。

戦争意志とは何か(16)

統帥権という万能の「印籠」


 もちろん、ここで言う「印籠」とは,誰もが 恐れ入ってしまうあの黄門様の「印籠」だ。 「控えおろう! この紋所が目にかいらない か!。」

 戦争意志の動力は軍部であったとする論者は、論拠 の一つを「軍部が戦争担当能力の担い手」であった 点に求めた。そして、もう一つの論拠に挙げられる のが「統帥権」である。

 「統帥権」とは、明治憲法第11条の「天皇ハ陸海軍 ヲ統帥ス」という天皇大権のことである。軍の統帥 は一般の国務から独立し、陸軍にあっては参謀本部、 海軍にあっては軍政部が天皇の輔弼機関として政府 から独立して存在するとして、軍部を統帥権行使過 程に位置づけた。つまり、天皇を経由しなければ、 国務と統帥は絶対に統一されないということを意味 した。この「統帥権の独立」を侵すことを「統帥権 干犯」と言って、この言葉を軍部は黄門様の印籠の ように脅し文句として使った。

 この脅し文句が使われるようになった発端は 次のようである。半藤一利編著の『昭和史残日録』 から引用する。

 昭和5年4月25日、第58回特別議会の施政方針演説 で、幣原喜重郎外相がロンドン海軍軍縮条約を締結 したが、「国防の安固は充分に保障されている」と のべた。これにたいして、犬養毅、鳩山一郎たち野 党の雄弁家が浜口雄幸内閣を断乎糾弾する演説をぶ ちあげた。

 国防のための兵力量の決定はそもそも統帥事項で ある。内閣が軍統帥部(軍令部)の同意を得ずして、 勝手にきめることは許されない、しかも当の軍令部 は反対を表明しているではないか。統帥権(軍隊指 揮権および軍隊編成権)をないがしろにするもので ある、と雄弁家たちは論じたのである。

 これがこのあと昭和史をあらぬ方向へ走らせる 「統帥権干犯問題」の発端である。統帥権には内閣 といえども余計な口出しをすることは許されない、 となれば、軍部は国策を無視して何でもできる。 国家のなかにもう一つの勝手な国家を作ったにひと しいことになる。その危険性を演説者は考えようと もしなかった。

 はじめは内閣打倒のための政争の具として叫ばれ た統帥権干犯が、のちには国家を滅ぼす〝魔法の杖〟 となった。そら恐ろしいことである。

 〈統帥権干犯〉という脅し文句に政府関係が屈した 例は枚挙にいとまない。『支配とは何か』から 2例紹介する。

 満州事変が石原らの策謀によってひきおこされた 1931(昭和6)年9月18日の夜、奉天総領事館の森 島守人領事は、中国軍が満鉄線を爆破し、軍はすで に出動中であるとの電話連絡を受けた。森島は直ち に特務機関に駆け付け、板垣大佐に、外交交渉によ る解決を主張した。板垣はこれに対し「すでに統帥 権の発動をみたのに総領事館は統帥権に容喙、干渉 するのか」と反問、同席していた特務機関の花谷少 佐は、軍刀を引き抜いて、「統帥権に容喙するもの は容赦しない」「この国賊、止めるとは何事か」と 脅喝した。(白井勝美「満州事変」)

 1937(昭和12)年、拡大していく中日戦争の戦局 を商業新聞の伝える範囲内でしか報らされていなか った近衛文麿首相はじめ、陸海相を除くすべての閣 僚を代表した格好で、大谷拓相が杉山陸相に、軍事 行動がどこまで拡大されるのか、閣議の席上質問し た。これに対し杉山は黙って答えない。みかねた 米内海相が「それは永定河と保定の間の戦で止める 予定だ」と答えると、杉山は顔色をかえて、「こん なところで、そんなことをいっていいのか」と米内 を怒鳴りつけ、座は白けきった。(岡田丈夫「近衛文麿」)

 こういった類のエピソードの寄せ集めをもって、 軍部を諸悪の根源とする軍部批判は、通俗的批判で あり、党派的な先験的批判の域を脱しえていない、 ただいってみただけとしかいわれかねない批判で しかない、と北岡さんは論じている。

開戦前の総理として、この国務と統帥の不統一に最 も悩まされたひとり、近衛文麿は「統帥と国 務相互の独立」(サブタイトル「歴代内閣の苦悶」) という手記を書いている。

 統帥と国務が相互に独立しているという事は歴代 内閣の悩む所であった。今度の日米交渉に当っても 政府が一生懸命交渉をやっている一方軍は交渉破裂 の場合の準備をどしどしやっているのである。しか もその準備なるものがどうなっているのかは吾々に 少しも判らぬのだから、それと外交と歩調を合せる 訳に行かぬ。船を動かしたり、動員したりどしどし やるので、それが米国にも判り米国は我が外交の誠 意を疑うことになるという次第で外交と軍事関係が 巧く行かないものは困ったものであった。

 然るに、日本憲法というものは天皇親政の建前で あって、英国の憲法とは根本に於て相違があるので ある。殊に統帥権の問題は政府に全然発言権なく、 政府と統帥部との両方を抑え得るものは陛下御一人 である。

 最近東条首相は、木戸内府に同情して次のように 語った。今、自分が首相になってみて初めて前の総 理達のしていた事がどれ程困難な事だったかが判っ た。しかし、自分は兼職のまま最後までやり抜いて みようと思うと。

 これに対して、木戸内府は左様な事は今に始まっ て言われたことではない。第一次近衛内閣の時から 全くその通りであったのだ。とは言え、遅まきなが ら軍部にこの点に気付いてもらうことは結構なこと である、と答えたそうである。

 戦時中、東条は首相・陸相・参謀総長を兼務し ていたにもかかわらず、軍事上の重要なエポックであった ミッドウェー海戦の敗北を知らされたのは1ヶ月 後のことだったという。

「統帥権」問題の本質に ついて、北岡さんは次のように論じている。 (かなり長いがそのまま引用する。)

 〈統帥権〉は軍部の内と外との間の巨大な城壁 であったということができる。しかし、法のそれ 自体もっている弱点というべきものであるが、法 は法に包摂されていると認識しているものに対して は有力となりえても、法自体の内部では力たりえ ないのである。すなわち、法はそれ自体で有力で はないのだ。

 この〈統帥権〉の場合も、政府関係者に対して は立ち寄ることのできない壁としては位置しえ ても、軍内部、あるいは陸軍-海軍という関係下 では、壁は壁たりえない。

 東条に刑死前の遺書の中で「わが国従来の統帥権 の独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海 軍一本の行動はとれない」と、逆に〈統帥権〉の壁 の大きさを証明させる力になりえただけといえる位 であった。

 〈統帥権〉の発見は、確かにそれをうながしたも のにとっては発見であっただろう。また恫喝の切り 口上としては最大限の有効性を外部に対しては発揮 しただろう。しかし、それは政治的制度という楯 にすぎない。政治的な制度にすぎないということは、 政治の内部では階級的絶対性を仮装しえても、政治 の圏外では〈恣意〉としてしか表現されないという ことである。

 首相・陸相・参謀総長を兼務し東条幕府と陰口 された東条英機をもってしても統帥権の壁を打ち抜 けなかったという一種嗟嘆めいた総括は、じつは東 条たちが考えたような〈統帥権の独立〉という支配 構成にもんだいの一切があるということを指示する ものではない。東条は、それを感じとっていたはずで ある。つまり、東条の〈挫折〉が〈栄光〉とうらは らであったことを。東条の〈栄光〉は、

      国務―政府
天皇―<      陸軍参謀本部
      統帥―<
            海軍軍令部

という政治構成に内着した官僚で東条があったてん に一切を負うはずのものである。東条が東条幕府と まで呼ばれる力を形成しえたのは、その官僚性の 最大限の発揮の結果に他ならない。

 〈戦争意志〉を〈理念〉的にもとうとした石原 莞爾が、東条をはじめとする一派に敗れ去った理由 もそこにある。東条たちの勝因は、戦争に切実に かかわらぬこと、このてんにこそ一切があったのだ。

 同時に、東条の.〈挫折〉も、この時代性に包囲 された政治構造内部でしか生きえぬ東条の官僚的位 置にすべてがあったのだ。だから、東条でも打ち 抜けなかったという判断は、官職の首座を一手に 握っていた東条でも打ち抜けなかったという 〈絶対性〉と、〈戦争理念〉〈政策力〉を持たない がゆえに首座にのぼりつけた東条だからこそ打ち抜 けなかったのだという〈相対性〉を併存している。 〈東条〉だから、打ち抜くしかないと考えるに 到った、そして〈東条〉だから打ち抜けない、 この二律背反こそ、時代の証しだったのだ。

 〈統帥権の独立〉は、明治維新政府が整備中途 であったがゆえに、個人あるいは少数集団の行動 に特定的に保証を与えるものとして誕生したし、 またそれが許容された。しかし、同時に、それは 個人あるいはそれに近い集団のもっていた動力を 制限し、弱体化させる。なぜなら、制度化、行政 化とは、動力の拡散、無化の代名詞に他ならない からである。

 東条には〈統帥権の独立〉が、軍内部の党派意 志の強力を外部に対し補完する役割を果たしてい たことは当然視えていただろう。しかし、それが、 その意志の拡散と更なる党派化、すなわち無力さ をいささかも補給しなかったことに、東条は気付 きえていない。〈死角〉ともいうべき、まさに東 条が東条である限りみることができないものであ った。

 このように考えたとき、軍部を戦争意志の推進 部として捉えるべきなにものも、軍部自体がもっ ていなかったことがはっきりする。軍部犯人説は、 たんに耳に入りやすかったという、いってみれば情 況証拠しか示しえていなかったといえる。

 軍部が軍部たりえたのは軍部の固有な力に依って ではなかった。軍部が委託されたにすぎない〈戦争 担当能力〉〈統帥権〉というふたつの力によっての み軍部たりえていたにすぎない。軍部内部の力は、 党派化という拡散と消滅を招きよせるのみであった。

 すなわち、総力戦構想をもってあらわれた〈戦争 意志〉は、時代的社会的制約性と現実過程のダイナ ミズムに括抗しきれず、デスク・プランとしての 位置しか獲得しきれなかった無力を表現するしか なかった。

 また、総力戦構想に独自の戦争理念を もってあらわれた石原莞爾を指導的理論者とする 〈戦争意志〉は、満州国建国に集中的に表現され た人工性ゆえに敗退。2・26事件の青年将校を支配 していた農本ファシズムとして表現された〈戦争 意志〉は「場外ホームランすれすれの大ファウル」 と一方で評されつつも、党派的拡散に桔抗しうる 理念力を持たないがゆえの一発でありえただけで 敗北する。

 軍部内の動力は、総じて〈理念〉の無力という 概括につきるのではなかったか。

 では、いったい誰が、あるいはなにが日本を ひっぱっていったのか。

 消去法を繰り返し、残るのは誰かといえば、 それは、戦争指導において無能と無力をさらけだ す以外なかった省部幕僚たちである。クロである かどうかは別にしても、かれらのみが唯一戦争に までたどりつきえた。かれらは軍部内での党派抗 争の勝利者ではなかつたにせよ、敗れ去ることは なかった。最も戦争に切実にかかわらなかったも のたちしか残らなかった。

 8・15の敗戦がこれを如実に示した。自ら選んだ にせよ、選ばされたにせよ天皇のラジオ放送を媒 介とした敗戦の表現とその態度決定の過程に、かれ らによって領導された政治本質としての恣意性が 全面的に露出されているからである。本土決戦と いう当為にみちた呼号は確かにあり、そのスローガ ンも掲げられた。が真実あったのは、スローガンを かついだものたちと、本土決戦と言いうる土俵の外 に、自己を先験的に疎外させていたものたちだけで あった。そうでなければあの8・15を軸とした支配 における〈君子豹変〉もまた理解しようがない。

 支配の様式は、このとき何が何であれ180度転回 など、ものの数に入らないという支配の恣意的原 型を鮮やかに指し示した。軍事官僚とそれに地位 的結縁をのみ唯一の結合軸として迎合した行政官 僚のみが唯一敗れ去るものであったという謂は、 じつにこの支配の恣意的本質の全面的な露出という 表象のなかにその証明をもつ。支配の様式におけ るこの悉意的本質は、かれらを戦前・戦中のみなら ず、敗戦後ですら無傷のまま延命させた。
戦争意志とは何か(15)

満州事変


 満州事変の時代的背景やその時代状況に対する 軍部の焦燥の背景を『昭和史探索』によって概観 しておこう。

  中国の状況

 1930(昭和5)年11月、蒋介石の国民政府第四 次中央会議に、東北辺防軍司令官の張学良が出席 するなど、国内統一と国権回復の動きが明らかに なってきた。そしてそれにともなう反日・排日の 抗争もはげしくなる。

6月 中村寅太郎大尉殺害事件
7月 長春郊外での中国農民による朝鮮人農民への 襲撃事件(万宝山事件)

 各地で不祥事件や不法事件が頻発し、満州にお ける日本の諸権益はたえざる危機にさらされていた。

軍部

 昭和に入って以来、陸軍の俊英たちは満蒙問題 を語りつづけてきている。彼らがつねに口にする のは「十万の英霊、二十億の国帑(こくど)」で あり、「明治天皇のご遺業」である。日清・日露 の戦争に勝ちぬいて特殊権益としてわが手にした 満蒙の地は、彼らにとってそのまま国防の第一線 となり、失うことのできない日本の「生命線」と なった。ここを守りぬくことが陸軍軍人の使命で あり最大の任務となった。

 それなのにいま日本国内では、あいつぐ政党の 汚職事件や共産党の活動が活発化。さらには、ロ ンドン軍縮条約の締結は、当然の流れとして陸軍 軍縮をも予想させる。

 そのような危機感から、陸軍軍人はひとしく苛 立ちを隠さず政党政治に強く反発した。いまこそ 自分たちの手でこの危機的状況から国家を救いだ きなければならないと。三月事件、十月事件は その現れであった。

関東軍司令部

 日本の政策を代行する形の関東軍司令部の参謀 たちも焦燥していた。交渉相手の張学良が 「外交は国家の外交であるから大問題は当然中央 でやる。地方的な問題は自分がやる決心である」 と、むつかしい問題はすべて南京の国民政府のほ うへ回そうとし、その無責任さがいっそう参謀た ちを激怒させた。

 彼等は、張学良にかえてより親日的な 政権を樹立するか、さもなければ満州全土を軍事 占領してしまうか、という二者いずれかの結論に みちびかれていった。

 半藤さんは次のようにまとめている。

 そして昭和陸軍特有の、動機を重んじ手段の正 邪を問わない精神構造というものが、 これに加勢する。動機さえ純粋であれば(それも 往々にして主観的に)、手段と行動がかりに統帥 を乱し、暴力をともなうものであったとしても正 当化される、といった空気が陸軍の中枢に瀰漫し ていたのである。関東軍参謀石原莞爾中佐の 「満蒙問題私見」は、関東軍の作戦方針の基調と なったもので、

「解決ノ唯一方策ハ之ヲ我領土トナスニアリ」

の文字が、あまりにもあっさりと書かれているこ とに、ただ驚嘆するばかりである。

 ともあれ、満州事変への道はここに大きく切り 拓かれていった。

 次に満州事変の概略を『支配とは何か』を用いて まとめておく。

「我国情ハ殆ンド行詰り人口糧食ノ重要諸問 題皆解決ノ途ナキカ如シ 唯一ノ途ハ満蒙開発ノ 断行ニアルハ輿論ノ認ムル所ナリ……」 (1931年4月、「石原莞爾資料」より)

「然レ共国家ノ状況之レ(国の業務として満蒙併 合を行うこと)ヲ望ミ難キ場合ニモ 若シ軍部ニシ テ団結シ戦争計画ノ大綱ヲ樹テ得ルニ於テハ謀略 ニヨリ機会ヲ作成シ軍部主動トナリ国家ヲ強引ス ルコト必ズシモ困難ニアラズ」(1931年5月)

 これが石原の情勢判断であり策謀計画の原点で あった。軍部の戦争計画は依然として未完成であ ったが、石原は行動を起こした。

1931(昭和6)年9月18日
 石原は、奉天郊外の柳条溝付近で自ら護衛してい た満鉄線のレール爆破工作を実行した。同時に石 原と不離不即の関係にあった板垣大佐は独立守備 隊に命令を下し、北大営の中国軍兵営を攻撃させ、 次いで関東軍司令官の本庄繁中将を説き付けて、 中央部の許可なしに関東軍の出動と奉天前進を果たし、 更に満鉄付属地外の吉林への出兵をもなしとげて しまう。

 この満州事変に対する北岡さんの論評は次の通りで ある。

 石原の策謀は、まんまと成功した。以後、満州 国建国までの過程は、石原の個別的な「広汎な武 力的計画」にのっとったものであったが、この破 綻は、たちまちにして表われてきた。それは、石 原が満州を人事移動で転出してすぐに表われてく るのだが、それは、石原の〈計画〉が人工的であっ たというてんに全因をもつものであった。

 端的に いえば、石原は、彼の〈計画〉を実現させる過程 的組織力をもっていないことに、それは集中的に 表現されている。当然といえば当然なことだが、 軍がすでに〈官僚意志〉を組織性としてもってい るというてんから、石原の〈計画〉がはずれて 位置していたことをそのことは示している。 すなわち、それは、石原の個別的な〈戦争意志〉 が軍の官僚構造の共同的表現という派出性をもっ ていないということを意味している。

 石原は、このことに無自覚ではなかったと思え る。石原は、なぜ〈満州〉であったのかを説明し ている。

「我国ノ現状ハ戦争ニ当リ挙国一致ヲ望ミ難キ ヲ憂慮セシムルニ十分ナリ 為二先ヅ国内ノ改造 ヲ第一トスルハ一見極メテ合理的ナルガ如キモ所 謂内部改造亦挙国一致之ヲ行フコト至難ニシテ政 治的安定ハ相当年月ヲ要スル恐尠カラズ」

 三月事件・十月事件計画者と石原を分けたも のは〈絶望〉の自覚と無自覚であったといっても よいぐらいである。石原が中央から排除される直接の原因となった 中日戦争の方針をめぐって、石原がもろくも敗れ 去った理由は、ここにもある。

 これが「武力的計画」の内実であった。石原で すらこうであった限り、他に、「武力的計画」 など「狭小」であろうと、ありえなかった。

 そして、『戦争担当能力の担い手であるという ことがそれ以上のことも以下のことも意味しなか ったと断定するべきである。それだけで、軍部を もって〈戦争意志〉のモーターとして考える』 のは間違いだと結論している。

今日の話題

テロとは何か。

 日本の自公崩壊政府は「テロとの戦い」への貢献 として、テロ特措法延長またはそれに代わる新法が 欠かせないと、ブッシュへの貢物を手放そうとしな い。

 9月23日の東京新聞「こちら特報部」は『「テロと の戦い」再考』(以下『テロ再考』と略す)とい う特集を組んでいた。その前文は次のように記し ている。

 テロリストの側か、われわれの側か-。 2001年の「9・11(米中枢同時テロ)」 事件直後、ブッシュ米大統領は世界に踏み絵を 迫り「反テロ戦争」は地球規模で拡大した。 しかし、そのテロリストとは誰なのか。米国の 矛先は揺れ、アジア諸国は政敵にこの冠を被( かぶ)せ、弾圧を正当化した。日本では当然の ように語られる「テロとの戦い」。だが、世界 では次第に死語になりつつある。(田原 牧)

 ブッシュが「テロとの戦い」を言挙げしてから 「テロ」の定義は恣意的に変えられてきている。

「アルカイダとタリバン」→「イスラムのファシ ズム」→「国家の脅威すべてテロ」(『テロ再考』 の副題による)

  「テロ」の意味が恣意的に変われば、当然 「テロとの戦い」の意味も混迷を極める。 『テロ再考』によれば、ブッシュ自身が「テロ との戦い」を口にしなくなってきているという。 ブッシュに忠実に同伴してきたイギリスもオー ストラリアも「テロとの戦い」を封印している。 そして『無自覚に「テロとの戦い」をとなえ続けているの はもう日本政府だけかもしれない』と、 河野毅准教授(政策研究大学院大学・比較政 治学)のコメントを伝えている。また河野准教授は、 現在の恣意的な「テロ」というレッテル張りに 『共通しているのは、国家に対する脅威はす べて「テロリスト」とする点。テロとは何か、と いう本質論議は捨てられた』とも指摘している。

 テロとは何か。改めてその定義を調べてみよう。

 広辞苑の解説
「テロリズム 暴力或いはその脅威に訴える 政治上の立場」

 警察庁組織令第39条の条文中では次のように 定義している。
「テロリズム(広く恐怖又は不安を抱かせる ことによりその目的を達成することを意図して行 われる政治上その他の主義主張に基づく暴力主義 的破壊活動をいう。)」

アメリカの連邦法出の規定
「非戦闘員を対象に政治的動機に基づき、彼 らへの影響を意図した計画的な暴力」

 これらの定義によれば、軍隊・警察を動員する 国家は全部「テロ」国家ということになる。本日の朝刊は、 イランの国会が『アメリカ軍とCIAは「テロ」 組織』という声明を出したと報じている。目糞鼻 糞の類ではあるが、正しい声明だ。

 『テロ再考』は東京外語大の松永泰行講師 (国際関係論)の次のような指摘も記している。

『米国はテロの定義で長く悩んできた。80年代の レーガン政権は当初、複数の案を作ったが全部却 下。米国の政策にも当てはまってしまったためだ』

『ある政治団体はその指導者を倒されれば、弱体化 する。これをテロと呼ぶ必要は(アメリカには) ないし、現に米中央 情報局(CIA)は南米などで繰り返してきた。テロの 概念規定への慎重さがなくなり、反米勢力をけなす 手段として「テロ」という単語が乱発されている』

 さて、「テロ」のレッテルを貼られている組織の 一つである「シズボラ」の実態を報じてる記事に 私のアンテナが共振した。次に、東京新聞夕刊 (9月29日)「記者の目」の萩文明記者(カイロ 支局)の論説を全文転載する。

『〝ヒズボラ王国〟が問うもの』

 イスラエルは一年前、レバノンのイスラム教 シーア派民兵組織ヒズボラとの戦闘で、目標を 何も達成できなかった。国民は結果を失敗とと らえ、原因を究明する調査委員会はオルメルト 首相らの指揮を酷評した。

 これをアラブのメディアは大喜びで「イスラエ ルが敗北を認めた」と報じた。愚かな反応だ。最 優先の安全保障のため、失敗から教訓を学ぼうと 真剣に努力し、指導層の責任も問うイスラエルの 姿勢は、国家のあり方として称賛に値する。

 これがイスラエルの強さの、本当の一因だ。 アラブが敵失をあざけることしかしない限り、 政治力学でイスラエルをしのぐことは永遠にない。

 だがアラブ指導層の中でイスラエルの姿勢をた たえた者がいる。ヒズボラの指導者ナスララ師だ。 「敵を知る」ということだろう。

 レバノン政治家は豪邸に住む。与党の有力指導 者が暮らすのは、家というより首都中心部の城だ。 別の党首の大邸宅は小高い丘から下界を見下ろす。 政治はビジネスだ。

 ナスララ師に邸宅はない。安全問題に加え、 思想的に不要なのだ。ヒズボラ幹部が私財を蓄え た話もない。「占領太り」の穏健派が高級住宅で 暮らし、「過激派」指導層が難民キャンプに住む パレスチナと似た構図だ。

 ◇ ◇ ◇

 ヒズボラは対イスラエル闘争の一方で、政治の 光が届かず、社会資本の整備が遅れたレバノン南 部などで福祉や教育、奉仕を続けてきた。暴力で 実効支配しているわけではなく、イスラム色の強い 政策も強要しない。信仰心の象徴とされるへジャ ブを着用しない女性は、いくらでもいる。

 ヒズボラへの支持の背景に日常活動の蓄積が ある。単なるテロ組織が、国民の四分の一を動員 する力を持つはずがない。

 興味深い報告がある。ヒズボラの一部をテロ組 織とする英国の議会下院外交委員会の提言だ。ヒ ズボラの実像を分析し、政治部門に限っては正当 な交渉相手と認めることを英政府に求めた。ヒズ ボラを国際テロ組織アルカイダと同一視し、教条 主義的な「対テロ戦争」で泥沼に陥っている米 国とは異なる柔軟さだ。

 ◇ ◇ ◇

 軍事力でヒズボラに一定の打撃を与えることは 可能だろう。だがアラブ民衆から見れば、ヒズボ ラの存在理由は、対外的にはイスラエルの暴力と 国際社会の怠慢にある。政府も軍も国際社会もイ スラエルの前に無力だから、民衆はヒズボラを必 要としてきた。その現状が変わらない以上、ヒズ ボラは強化されこそすれ、絶滅するわけがない。

 米英などが「二重基準」を続ける限り、民衆は 「テロ組織」に傾斜する。この宿命的な構図を変 えて「脅威」を除去したいなら、外交戦略の転換 と対話しかない。事実上、それを求めた英議会の 報告書は妥当な内容だ。

 ヒズボラの武装だけを非難し、イスラエルの民 間人殺害や領空侵犯、今も二次被害を生む集束爆 弾の大量使用を批判しない国際社会に、レバノン が信頼すべき正義はあるのか。大国がどこも即時 停戦を求めなかった結果、民間人千人が殺された 昨夏の事実から、国際社会は何かを学んだのか。

 「ヒズボラ王国」が突き付けるこうした問いへ の答えを探す方が、不毛な「テロ組織」のレッテ ル張りより、はるかに重要で建設的だろう。