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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
「終戦の詔書」を読み解く

ポツダム宣言受諾までの経緯(2)

 8月10日未明に決定したポツダム宣言受諾を鈴木 内閣は、中立国のスウェーデン・スイスを通して 次のように連合国に申し入れた。

 帝国政府は1945年7月26日「ポツダム」において 米、英、支三国政府首脳者により発表せられ爾後  「ソ」聯政府の参加を見た共同宣言に挙げられた る条件を 右宣言は天皇の国家統治の大権を変更 するの要求を包含し居らざることの了解の 下に受諾す

 帝国政府は右了解にして誤りなきを信じ本件 に関する明確な意向が速やかに表示されんことを 切望す

 これは8月10日午後8時に同盟通信社・日本放送協 会の海外放送で放送されたが、国内向けには極秘扱 いとされ、国民には次のような報道で煙幕を張って いる。

  8月11日の新聞各紙は、下村宏情報局総裁の 談話と阿南惟幾陸相の全将兵への訓示を並べて 報道している。朝日新聞からその見出し と本文の一節を抜き出してみよう。

〔下村宏情報局総裁談〕
「一億困苦を克服 国体を護持せん」
「戦局は最悪の状態」
『…国民挙げて克く暴虐なる敵の爆撃に耐へつゝ義 勇公に奉ずる精神をもって邁進しつゝあることは 真に感激に堪えざるところ…今や真に最悪の状態に 立至ったことを認めざるを得ない 正しく国体を 護持し民族の名誉保持せんとする最後の一線を守 るため、政府は固より最善の努力を為しつつある が、一億国民にありても国体の護持のためにはあ らゆる困難を克服して行くことを期待する』

〔陸相の全将兵への訓示〕
「死中活あるを信ず」
『…事茲に至る又何おか言わん、断固神州護持の聖 戦を戦い抜かんのみ、…』

 護持・護持・護持…と、戦争指導者たちの脳内 時計はそれ以上に進む気配がない。

 ポツダム宣言受諾の条件打診の文書が 発表されたのは、「終戦の詔書」が掲載された 15日付の新聞でだった。
「大権問題を慎重検討」
「受諾に決するまで 外交文書の交換」
という見出しで、次に述べる連合国からの いわゆる「バーンズ回答」も掲載している。 また、ポツダム宣言も初めて全文掲載されている。

 8月12日、午前0時45分(日本時間)、 連合国はラジオで日本に回答をした。(中立国から の正式入電は午後6時)

 回答を受け直ちに翻訳、それが天皇に手渡された のは午前11時。

 回答は四国を代表してアメリカのバーンズ国務長 官名で行われている。それはポツダム宣言と同じこ との繰り返しであり、「国体護持」に直接触れた文 言はなかったが、「国体護持」を熱望する者にと っては、希望的な解釈もしようと思えばできる曖昧 さを含んでいる。回答の要旨は次の通りである。

 「ポツダム宣言が君主としての日本皇帝の統治権 を侵害する如何なる要求をも合有しない」と言う諒 解を挿入して当該ポツダム宣言の条件を受理するとい う日本政府の通告に答え、我々は次の如くその立場 を闡明(せんめい)するものである。

一、降伏の時より、天皇及び日本政府の国家統治 の権限は、降伏条項の実施の為其の必要と認むる 措置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置か るるものとす。

一、天皇は日本全軍の武装解除と降伏条項実施の ため、最高司令官の要求する命令を発することを 要請される。

一、日本政府は直ちに俘虜、被抑留者を連合国船 舶に速やかに乗船せしめ得る安全な地域に移送す ること。

一、最終的の日本国政府の形態はポツダム宣言に 遵(したが)ひ日本国国民の自由に表明する意思 により決定せらるべきものとす。

 「ポツダム宣言に遵(したが)ひ」とあるのは、 ポツダム宣言の次の条項を指している。

 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ 自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且 責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占 領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ

 この回答をめぐって、ふたたびこれでよしとす る外相らと、これでは国体護持困難とする陸相ら とがはげしく対立した。13日一日中、戦争継続派 と受諾派との争いが続き、時間を空費している。

 アメリカは、13日夕方と14日朝と、B29数機により 「日本政府のポツダム宣言受諾文と、それに対する 回答(バーンズ回答)」を記載したビラを大量にま いた。このビラによって国民の間に起こるであろう 疑心や混乱を支配層は極度に恐れている。

『木戸幸一日記』の14日の日記

 敵飛行機は連合国の回答をビラにして撒布しつ つあり。此の情況にて日を経るときは全国混乱に 陥るの虞ありと考えたるを以て、8時半より同35分 迄、拝謁、右の趣を言上す。

 待従武官尾形健一大佐も、B29のビラ撒布の盛なこ とについて次のように記している。(戦史叢書 『大本営陸軍部10』)

 茲ニ時日ヲ遷延スルコトハ益々国民二疑惑ヲ生 ゼシメ国民戦意ノ低下乃至ハ暴動ノ惹起ヲモ憂慮 セラル、政府モ相当狼狽戦争指導会議ノ召集ヲ午 後ニスべキ旨総理拝謁上奏セルモ聖上ハナルベク 早ク召集スべキ旨ノ思召アリ
 最終的な降伏の決定に、国内の混乱、暴動ない し革命への憂慮が大きく作用していることが明ら かである。最終受諾かどうかで対立し、ごたごた していた政府もそれが事前に国民に漏れるのを恐れ、 あわてて早期決着へと動き始めた。「資料3」 から引用する。

 連合国回答の到着から8月14日の第二回御前会議 までは、日本の支配層が激しく動揺した期間であ った。

 回答を不満とする軍部強硬派は継戦の意志 を固め、国論をこの線で統一しようと必死のまき かえしをはかった。

 8月12日朝、梅津、豊田の陸海軍総長は、統帥部 を代表して受諾絶対反対の上奏を行った。陸軍の 幕僚層は平泉澄門下の将校を中心としてクーデター の計画に熱中し、参謀総長と陸相は連名で各軍に 「断乎継戦」の電報を打った。

 軍部のみならず平沼枢密院議長も国体論の立場 から回答反対の態度をとり、その旨を木戸内府や 鈴木首相に申し入れ、鈴木も動揺したとされてい る。

 しかしこの動揺をおさえ、回答受諾に統一した のは、国内混乱にたいする配慮であった。軍令部 の動きをおさえて、海軍をまとめる努力をした米 内海相の最大の憂慮が国内崩壊の危機感にあった こと、陸海軍に働きかけて「聖断」重視の方向に まとめることに努力したのが、8月12日の皇族会 議以後の陸海軍籍の皇族であったことはいずれも このことを示すものである。

 彼らの最大の危惧は、連合国のビラによる国民 の動揺と、進撃を続けるソ連軍の進入にあったの である。
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