2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
今日の話題

ヘチマの話

 昨日(9月29日)の東京新聞夕刊に私の興味・関心を 強く引いた記事が二つありました。一つは「ヘチマ」 のはなしで、実に面白かった。もう一つは「テロ」 とは何かという問題の核心を突くたいへん優れた 記事です。二つとも全文を記録しておこうと思いま した。

 まず今日は「ヘチマの話」。
 村上護(むらかみ まもる 作家・評論家)さん のコラム「言霊(ことだま)の泉」の「糸瓜の水」 という記事です。この表題からすぐに思いつくの は正岡子規です。それで興味を持って読んでみた 次第です。特に、「糸瓜」をなぜ「ヘチマ」という のかというトンチめいた名前の由来には「へえ!」 とびっくりするやら感心するやら、でした。

「糸瓜の水」   村上 護

 糸瓜(へちま)やや曲り此の世は面白く

 戦前は中国大陸で、戦後は関西で活躍した下村 非文の俳句。糸瓜はやや曲がっているのが特徴だ が、そのことで蔑ろにされるようになったか。糸 瓜野郎とののしる語があり、「糸瓜の皮とも思わ ず」の慣用句がある。糸瓜は役立たない、つまらな いものの意。その皮ほどにも思わないというのは、 無視して問題にしないということだ。

 糸瓜はダメな代名詞に使われるほど役に立たな いものなのか。いや、そうではなかろう。正岡子 規が死の直前まで、渾身の力をふりしぼって書い た絶筆二句では、糸瓜が胸臆を占めるものだ。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとゝひのへちまの水も取らざりき

 糸瓜の水は茎を切断して、にじみ出る液を集めた もの。古来、化粧水や咳止めの薬として用いている。 沖縄ではいろいろ工夫し、代表的料理にもなってい る。糸瓜の実を取って乾燥すれば網状の繊維だけが 残り、靴の底敷きやタワシとしても重宝したのだ。

秋風に吹かれ次第の糸瓜かな

 蕉門の浪化の一句。が江戸の狂歌には
「世の中を何の糸瓜と思ヘども ぶらりとしては 暮らされもせず」

とある。暢気なさまが庶民には嫌われたか。

 糸瓜は江戸時代のはじめに渡来。和名は糸瓜 (いとうり)だが、「とうり」に変化し、「と」 はいろはの「へ」と「ち」の間にあるのでヘチ マと呼ばれるようになったという。

 明治35年9月19日に死んだ子規の命日は子規 忌、糸瓜忌ともよぶ。

蛇足三つ。

 村上さんが引用している子規の俳句は「絶筆三句」 と呼ばれています。そのほかに「糸瓜」という語を 含んだ句を拾い出してみました。(全部調べたわけ ではありません。)

西行に糸瓜の歌はなかりけり
夕顔も糸瓜も同じ棚子(たなこ)同志(どし)
病床に糸瓜の花の落つる昼

「糸瓜の皮とも思わず」のほかの、糸瓜を 使った慣用句。

糸瓜の皮のだんぶくろ
浮世は糸瓜の革頭巾
糸瓜の皮より竹の皮

 私はご幼少のころ、お風呂では網状の繊維だけ になったヘチマの実で身体を洗ったもの です。そのころ私たちが「ヘチマ」といえばそれ を指していました。その「ヘチマ」を知っている 人はもう少ないでしょうね。

スポンサーサイト
戦争意志とは何か(14)

三月事件と十月事件


 昭和の15年戦争の論者のほとんどは、その 〈戦争意志〉の遂行を可能とした動力を「軍部」 に求める。東京裁判ももっぱら「軍閥」あるいは 「軍部」の責任をめぐって展開されている。

 北岡さんは、そこでは『「軍部」という規定は レッテル程度の意味性しか与えられていない。』 と言う。そして、にもかかわらず『軍部が批難を 一身に背負うことになってしまった理由』を検討 している。

 まず、「軍部」とは「参謀本部・陸軍省の指導意志」 と規定した上で、軍部が批難を一身に背負うことに なってしまった理由の一つを『軍部が、当時の日本 の所持せる戦争担当能力を実現させる位置を占有し ていた』ことをあげている。

 ほとんどの論者たちは、この事実をもって、軍部 を戦争推進力の要として捉える。さらに、軍部は この戦争担当能力に裏打ちされて年度的あるいは 空間的な戦争計画(軍備拡充計画・仮想敵の設定等) を策定していたことから、軍部を〈戦争意志〉の 動力部として捉える。そして、軍部の一部がかん だ三月事件や十月事件を「広汎な武力的計画」の 一環だと主張する。例として北岡さんは神山茂 夫の文を引用している。

『…満州侵略戦争は軍上層部がくわだてたブルジ ョア地主的政党による内閣の指導権を奪取し、国 内の内外政策を軍閥の欲するままに展開せんとす る広汎な武力的計画(三月事件、十月事件のご  とき)にもとづくところのものであり、その 発火点であった。』(「天皇制に関する理論的諸 問題」より)

 では、三月事件・十月事件とはどんな事件だ ったのか、改めて調べてみる。

1931(昭和6)年
  3月 三月事件
  9月18日 満州事変勃発
  10月 十月事件

(以下は『昭和史探索』による。)

三月事件
陸軍参謀本部の急進的な中堅将校である橋本 欣五郎中佐、 根本博中佐、田中清少佐、坂田義郎中佐たち、 「桜会」の主だったメンバーが、右翼団体行地 社の指導者・大川周明、国家社会主義者の赤松克 麿などと組んで、政権奪取をたくらんだクーデタ 計画である。

 その計画とは、3月26日に、陸軍将校と右翼と で議会を包囲し、議場に押し入って内閣の総辞職 を要求、陸軍大臣の宇垣一成大将を首相とする軍 政内閣をつくる、というものである。

 このクーデタは陸軍省側の協力を得ることがで きず。また肝腎の宇垣大将が背を向けたため、 未然に潰えた。

 陸軍省側の革新派のリーダー的な存在である軍 事課長永田鉄山大佐、補任課長岡村寧次大佐、 陸大教官小畑敏四郎大佐たちは、まず何よりも 満蒙問題を解決することが先決である考えていた。 これがうまく解決できれば、国内改造は無理をせ ずともついてくる、軍部首班の内閣はできる、と 判断していたのである。陸軍はそれほど「満蒙の 危機」に直面して焦燥にかられていた。この焦燥 が満州事変へとつながって行く。

十月事件
 満州事変後、日本軍は連戦連勝の快進撃を つづけた。マスコミは軍の発表のままに、 「暴逆なる支那軍が満鉄線を爆破」「日本の正 当防衛」「権益擁護のための聖戦」を連続的に 報じた。新聞やラジオの報道にあおられ国民は 「暴支膺懲」とどんどん熱狂的になっていった。

 そのような状況の中、天皇の「不拡大」の指 示もあって、陸軍首脳たちの態度はふらついてい た。政府や軍上層部の紛糾に業を煮やした陸軍中 堅層は、大いに憤慨しふたたび極秘計画の実行に 走ろうとした。

「事ここにいたっても、政府と側近はまだ不拡大 をいい、外国の出方ばかりを心配している。天皇 もお喜び遊ばされず同調されている。これは天皇 が不明だからではない。天皇の側近が天皇の明を 曇らせているからである。このままでは戦死する も犬死同様の結果となる。このさい一挙にその側 近を倒し、軍事政権をつくらねばならぬ」

 満州での関東軍の猛進撃に呼応して、陸軍省ロ シア班長橋本大佐を筆頭に、省部の急進幕僚、隊 付の大尉・中尉たち青年将校、そして民間右翼が 同士となって大クーデタ針画が練られたのである。

 しかし、計画は10月17日に発覚して、憲兵隊に おさえられてあっけなく雲散霧消した。

 「三月事件」でも「十月事件」でも、首謀者ら は反乱罪として厳重に処罰されることなく、軍中 央は彼らを黙認した。この満州事変をはさんで 起きた一連の事件について、半藤さんは次のように 解説している。

軍中央が彼らを黙認したのは、いわば「満州事変 の完成」を目的とする国内的な作戦行動の一つと みなしたからである。政界や宮中をゆさぶり威圧 する。そこに其の意図があったのである。陸軍の、 満州事変と十月事件を巧妙に組み合わせた作戦は、 見事に成功した。

 そんなことを一切知らされていない国民は、 熱烈に軍部を支持する。神社には必勝祈願の参拝 者がきびすをつらねてつづき、血書や血判の手紙 で陸相の机はいっぱいになった。天皇にきつく叱 責されたとき、返答も満足にできなかった南陸相 は、

「日本国民の意気はいまだ衰えぬ頼もしいものが ある。この全国民の応援があればこ そ、出先軍人もよくその本分を果たしうるので ある。実に感銘にたえぬ」

と胸を張った。

 また、事件前に、

「日本人は戦争が好きだから、事前には理屈をな らべるが、火蓋を切ってしまえば、 アトはついてくる」

と予言した小磯軍務局長の豪語は、悪魔的に的中 した。〝生命線″の特殊権益を守るどころか、い まや線は面となって領土化しつつあったのである。

 先に引用した神山茂夫の文章について、 北岡さんは次のように批判している。

 三月事件や十月事件が「広汎な武力的計画」など というのは、お笑いにすぎない。軍部内の幕僚・中 堅将校たちが〈国家改造〉という〈政治意志〉をも っていたことは否定しえない事実である。 〈国家改造〉を促がさずにはおかない事実があった ことが否定できないように。しかし、ただそれだけ のことにすぎない。

 唯一、「武力的計画」と呼ぶにふさわしいものが ある。それは「広汎」なものであったかどうかは 別にしても、神山茂夫のいう通りのものであった。 すなわち、「満州侵略戦争は軍上層部がくわだてた ……発火点であった。」というてんである。満洲事 変は、軍上層部がくわだてたかどうかは措いても、 計画的に、すなわち人工的に発火させられたもの であった。計画者は石原莞爾である。
戦争意志とは何か(13)

戦争意志―その理念的契機(2)


  第一次世界大戦の様相から、これからの戦争が 長期戦・総力戦となるだろうことを、参謀本部や陸 軍省も予測していた。しかし、それへの対応を迂回 するような作戦方針しか採用されてこなかった。 石原をして驚愕せしめた根源はそこにあった。

 その体質を引きずったままの陸軍省軍務局・兵務 局の担当者は、当然にも、宮崎機関案には「実行困 難」として熱意を示さなかった。杉山陸軍大臣は 「重要産業五年計画陸軍省案」の方を決裁した。

 その案には1937(昭和12)年度分の計画も盛り込 まれていたのに、杉山決裁は1937年6月のことであ った。つまり、計画は初めから半年以上もおくれた ことになる。計画を実際に具体化させていく組織 力・推進カが依然として確立していないことが明ら かだった。同時に宮崎機関が明示した〈十年不戦〉 は棚上げされてしまった。

 この「計画要綱」は具体的な数字が添えられて、 1947年5月に新設された企画庁に移管された。 そして、企画庁がようやく検討に着手した矢先の 7月7日、支那事変が勃発する。

 石原は、軍需品等の供給を可能とさせるために は英米との中立を維持させ、そのためにも 「…‥支那トノ開戦ヲ避クルコト極メテ重 要ナリ」と、不拡大を策したが、支那事変拡大 派との抗争に敗退し、1937年9月参謀本部を追わ れて軍中枢から排除されたいく。宮崎機関も やがて解散していった。

 「計画要綱」が「生産力拡充要綱」と名を変えて やっと閣議決定されたのは、1939(昭和14)年1月のこと である。しかし、ようやくにして陽の目をみた 「要綱」は、企画院調査官に次のような感想を抱 かせるものであった。

『この計画は極めて杜撰であり空想的のものであ ること。約二ヶ年は遅れていること。二ヶ年以後 においても実行不可能なものが相当あること。』

 1939年5月 ノモンハン事件。〈無敵〉と自称し ていた関東軍がでソ連軍に徹底的に打ちのめされ た。しかし、ドイツの快進撃に目を奪われた陸軍 当局は、ノモンハンの総括もそこそこに、1940年末、 山下奉文中将を長とする軍事視察団をドイツに派 遣する。その視察団が次のような報告を示したのは 対米開戦半年前のことである。

一、陸軍軍備の在り方としては、航空と機械化に 重点を置き、特に、航空兵備は質量ともに最優先 に充実すべきこと。
二、地上軍備は、その根幹を中型戦車部隊に置き、 その他の部隊においても機械化と技術を大幅に採 用し、地上兵備全般に速度と装甲を持たすべきこ と。
三、落下傘部隊を速かに編成し、かつその運用を 研究すべきこと。
四、(省略)
五、結論として、日本陸軍の時代遅れの軍備をも ってしては、対ソ作戦や対米作戦は思いもよらぬ から、今は隠忍自重して戦争を回避し、この間軍 備の近代化をはかるべきであること。

 以上のような経緯をふまえて、北岡さんは次のように 締めくくっている。

 理念としての〈戦争意志〉は、石原らの胎動に よって強化の途を歩みはじめたのだが、本家本元 の軍部内では逆に、歴史の圧倒的な動力にもろく も屈服していく。唯一、理念的にこれを受け継い でいくのは軍部内ではなく政党衰退後発言力を強 めていく行政官僚とりわけ、企画院に集中化した 「革新官僚」と呼ばれたものたちであった。

 この計画に限ってみれば、支那事変がその実効 性を奪っていったともいえるが、本質的な弱点は、 じつは理念としての〈戦争意志〉そのものにあっ たのではないだろうか。

 〈戦争意志〉を理念として考えようとしたのは、 恣意的であれ何であれ石原莞爾が唯一人であった。 石原以外の〈戦争意志〉がいくばくかではあって も理念性を獲得しえているようにみえるとしたら、 それは大衆的動向-社会的現実の衝迫にこそ負う ものである。先述した橋本欣五郎の「領土拡張は 自然の勢い」という情況認識がそれを鮮やかに指 し示している。

 橋本の口振りは「戦争も自然の勢い」といいかね ないものであるが、橋本は、たんに戦争を呼びこん だ現実の蓄積性-自然性を受感したにすぎないのだ。 しかし、大衆的動向-社会的現実が踏み込んでしま った隘路をみただけにすぎない橋本の限定性に包囲 された〈戦争意志〉ですら理念性を獲得しえたよう に仮装しえたのであり、説得力を克ち得たのである。

 1938(昭和13)年11月に発表された「東亜の将来 に関する帝国政府声明」における「東亜新秩序の建 設」(東亜における国際正義の確立・共同防共の 達成・新文化の創造・経済結合の実現)という流行 らない冗談以下の恣意的な政治意志など誰も本気で 考えていなかったろうが、この軽さを支え、大衆的 な包括力を政策的に示しえない政治意志を支えた 力の奇妙な姿を、橋本の拠って立つ場所の空虚さ と同じにみずにはおられないのである。

 そして、石原の敗北の因もここにある。石原の 敗退は、単に石原が陸軍部内でのヘゲモニー争い に敗れたてんにその理由をもつものではない。 石原の評伝や、このころに関する他の著作をみても、 その理由ははっきりしない。ただ、支那事変をめぐ って、拡大派と不拡大派に分かれ、拡大派が勝利し、 石原は不拡大派に属していたという記述があるのみ である。「時代の英雄」「陸軍の推進力のモータ ー」と持ちあげられていた石原のあっけないといえ る敗北は、石原の次のような告白に端的にその真因 をみることができるものかもしれない。

 石原が全的に根廻しをやって、彼の政治プランの 実現を目指した林首相、板垣陸相という組閣計画が 敗れ去ったとき、石原は

「政治は勢いである。林は……当時の勢いでダダッ と革新の車を坂道に押し上げねばならなかった。 坂道の途中で一たん息を抜いて、それからまた坂 道の車を押し上げようとしても、もう勢いがつかな い」

と率直に告白したという。

「政治は勢いである」というコトバの中に政治その もののもつ軽さを垣間みることができるのだが、 政策プランをも含めた政治構想をもった 〈戦争意志〉の挫折の姿がここにある。この姿は、 先の理念性もない、拠って立つ拠点もないという 〈戦争意志〉でも、その展開を可能としえたとい う、奇妙な姿とあいまって、歴史の動力、その不 可避さの力を改めて提示していると考えざるをえ ない。

 〈戦争意志〉の動力は、いったいどこにあった のか。
戦争意志とは何か(12)

戦争意志―その理念的契機(1)


 昭和の15年戦争を〈戦争意志〉の〈理念性〉とい う面から見たとき、『そこでは〈理念〉は、いまに も決壊しようとする堤防の裂け目を、わずかの布切 れで、しかも及び腰で防ぐに等しい位置をしか獲得 していない』と北岡さんは言う。

 実際に、大日本帝国の軍人や理論的指導者は 〈戦争〉をどのように捉えていたのか。その一例と して、北岡さんは岡部直三郎大将(陸軍大学校長) の言葉を引いて論じている。

『戦争の惨禍は絶大であり、殊に総力戦的傾向を 帯びつつある近代戦にあっては、其勝敗が国家の 興亡を結果することに考え及ぼすならば、濫りに 兵を動かすの不可なると共に、苟しくも開戦に決 意するの巳むを得ざる場合には、平時における遺 憾なき準備施策と相まって戦争目的を完遂する如く 全力を傾注して戦争が実行せられねばならぬ。』

『之が為には、戦争の開始及び其集結を最も有利 なる環境と条件との下に発動することに努むると 共に、戦争中に於ては武力戦が勝利に到達しうる 如く、一切の施策が講ぜられねばならぬ。此の行 為が所謂戦争指導であり、それは政戦と戦略との 適切なる運用、特に両者の緊密なる連繋協力によっ て遺憾なきを得るのである。』

 岡部が陸軍大学校長先生であり、この文が書かれ た時期が、敗色がはっきりしはじめた昭和18年であ るということを考慮に入れなければ、はしにもぼう にもかからぬ文章としかいえない。しかし、この 〈当為〉と〈願望〉の個処を除いたら、何ひとつ残 らない文は、逆に政戦の不一致、戦争指導の不在を こそ鮮やかに指し示していたとも読みとれる。そう だからこそ、〈当為〉にみちみちていたのだと。

岡部のこの文章のもうひとつの特徴は、彼の 〈戦争意志〉にその〈理念〉を内包していない と いうてんにある。

 こうした中にあって、〈戦争意志〉を内在的な理 念的契機として捉えようとしたのは、石原莞爾ただ 一人であったと、北岡さんは言う。石原が持ってい た戦争意志とはどんなものだったか。

『……戦争ハ人類ノ為メ最モ悲惨ナル最モ悲シム べク、憎ムべキモノナルコト勿論ナリ、然レドモ 戦争ハ極メテ真面目ナルコトハ断ジテ否定スべカ ラズ……憐ムべキ不完全ナル人類ハ文明ヲ破壊シ ツツモ而モ新文明ノ母タリシナリ……』

 石原や先の岡部に限ったことではないが、まった く恣意的な、任意な見解しか、わたしたちはみるこ とができない。戦争が悲惨であるとか、戦争が文明 の母であるとかという見解は、かれらがそう考えた がっているということしか指し示していない。

 石原は、更に日米戦争を世界戦争トーナメント 戦において勝ち進んできた全勝同士の、すなわち 西洋文化ブロックのチャンピオンである米国と、 東洋文化ブロックのチャンピオンである日本との 王座を賭けた世界最終戦を予想し、

『……将来ノ世界戦二於テ、我勝タザルべカラザ ルハ単二自己ノ利益生存等ノ問題二非ズシテ正シ ク世界人類ヲ救済スべキ偉大ナル天職ノ為メナリ』

と御託宣を下している。

 世界最終戦のリングにのぼらんとする日本につ いて、石原は次のように評価している。

『……而シテ、此ノ戦争二臨ム我日本ノ物質 カハ遺憾ナガラ頗ル貧弱ナリ……』

と。また世界第一次大戦を総括して、将来戦を セン滅戦と予想し

『……其ノ核心ヲナスべキ戦闘ハ恐ラク個人ヲ単 位トスル立体的活動即チ飛行機二依リ行ハルルニ 至ルべキカ』

としその

『攻撃セラルル目標ハ老若男女山川草木ヲ問ハ ヌ全国民全国家トナルベク其ノ国民戦争ト云フベ シ』

と〈国家総力戦〉を明示している。事態はこの限 りにおいて、石原の予想を的中させた。

 石原莞爾は実は平和主義者だったという論者も あるようだが、私は石原莞爾についてはほとんど 何も知らない。その〈理念〉の帰趨を少し丁寧に たどってみよう。

 1935(昭和10)年8月12日、「相沢事件」と呼ばれている 流血事件が起こった。社会ファシズム的傾向をも った省部幕僚(統制派) のリーダーと目されていた永田鉄山軍務局長が、 農本ファシズム的グループ(皇道派)の青年将校 ・相沢三郎中佐によって白昼軍務局長室で執務中 軍刀で斬殺された事件である。この事件は、陸軍 部内のイデオロギー・人事抗争のすさまじさと、 その混迷ぶりを象徴していた。翌年の2・26事件を 予告するような事件だった。

 永田鉄山が斬殺されたその日に、石原莞爾は 参謀本部作戦課長としてはじめて軍中枢入りを 果たしている。中枢入りした石原は、国 防-国家総力戦体制の余りな脆弱さをまのあたり にして「驚愕シ」、次のように書きとめている。

 昭和十年八月参謀本部作戦課長二任命セラレシ 石原ハ着任後、北満二於ケル日蘇両国兵備ノ差甚 大ナルヲ知リ(註、昭和十年末において、全兵力 比は極東ソ軍:在満日本軍=10:3、航空兵カ比は 10:2)、速カニ内地ニアル相当兵力ヲ北満二移駐 シテ蘇連トノ兵力均衡ヲ獲得スルト共二軍隊ノ機 械化、特二航空兵力ノ増強ヲ眼目トスル兵備充実 ヲ企画シ上官ノ賛同ヲ得タリ、

 然ルニ民間ニモ、政府ニモ日本経済力ノ綜合判断 ニ関スル調査ナキヲ知リテ驚愕シ、種々ノ考慮ノ結 果、満鉄会社ノ諒解ヲ得、昭和十年秋同社経済調査 会東京駐在員タリシ宮崎正義ニ依頼シテ日満財政経 済研究会ヲ創立セリ、当時全ク私的機関ナリ
 この「私的機関」は後に「宮崎機関」と呼ばれる ようになる。この研究会の〈私性〉こそ、理念とし ての〈戦争意志〉の〈党派化〉を示すものにほかな らない。

1936(昭和11)年の夏、宮崎機関は

「兵備充実ノ基礎タルベキ生産力拡充計画第一案」

を作成する。それは日満における軍需産業のみなら ず基幹産業を含めた国家総力戦完遂のための再編強 化策であり戦時経済-国家統制から戦争指導をも 包摂する壮大なものであった。そして、その計画 完遂のための基軸として

「案ノ基礎条件トシテ少クモ十年間ノ平和ヲ必要 ト認メタリ」

という〈十年不戦〉を明示していた。

一方、陸軍省も手を拱いていたわけではなく、 日満を一体とする生産拡充方策に関する調査研究を 進めていた。宮崎機関第一案が提出される約半年前 の1935(昭和10)年7月、整備局課員となった沢木 砲兵少佐を戦備課総動員班長に任じ、のち「重要 産業五年計画陸軍省案」となる草案作成に着手さ せていた。しかしそれは宮崎機関案に及ぶべくもな いものだったとともに、「国家意志」というより 「陸軍省の党派的官僚意志」という意味合いの ものだった。(続く)

戦争意志とは何か(11)

戦争意志―その現実的契機


1868(明治 1)年 大日本帝国誕生
1894(明治27)年 日清戦争
1904(明治37)年 日露戦争
1914(大正 3)年 第一次世界大戦
1927(大正 2)年 第1次山東出兵
1928(大正 3)年 第2次山東出兵
           張作霖爆殺事件
1931(昭和 6)年 昭和の15年戦争始(満州事変)
1945(昭和20)年 昭和の15年戦争終(大日本帝国滅亡)

 まるで大日本帝国は戦争をするために誕生したみ たいだ。この52年にわたる戦争の至りついた果ては 死屍累々の廃墟であった。荒廃したのは国土ばかり ではなかった。支配者の意思と、それと相互反 射する民心(世論)が荒廃した。靖国神社・遊就館はその 荒廃のミニチュアだ。

  殺戮の殿堂      白鳥省吾


人人よ心して歩み入れよ、
静かに湛へられた悲痛な魂の
夢を光を
かき擾(みだ)すことなく魚のやうに歩めよ。
この遊就館のなかの砲弾の破片や
世界各国と日本とのあらゆる大砲や小銃、
銃重にして残忍な微笑は
何物の手でも温めることも柔げることも出来ずに
その天性を時代より時代へ
場面より場面へ転転として血みどろに転び果てて、
さながら運命の洞窟に止まったやうに
凝然と動かずに居る。


私は又、古くからの名匠の鍛へた刀劒の数数や
見事な甲冑や敵の分捕品の他に、
明治の戦史が生んだ数多い将軍の肖像が
壁間に列んでゐるのを見る。
遠い死の圏外から
彩色された美美しい軍服と厳しい顔は、
蛇のぬけ殻のやうにカなく飾られて光る。
私は又手足を失って皇后陛下から義手義足を賜はつたといふ士卒の
小形の写真が無数に並んでゐるのを見る、
その人人は今どうしてゐる?
そして戦争はどんな影響をその家族に与へたらう?
ただ御国の為に戦へよ
命を鴻毛よりも軽しとせよ、と
ああ出征より戦場へ困苦へ……
そして故郷からの手紙、陣中の無聊、罪悪、
戦友の最後、敵陣の奪取、泥のやうな疲労……
それらの血と涙と歓喜との限りない経験の展開よ、埋没よ。


温かい家庭の団欒の、若い妻、老いた親、なつかしい兄弟姉妹と幼児、
私は此の士卒達の背景としてそれらを思ふ。
そして見えざる榴散弾も
轟きつつ空に吼えつつ何物をも弾ね飛ばした、
止みがたい人類の欲求の
永遠に血みどろに聞こえくる世界の勝鬨よ、
硝煙の匂ひよ、
進軍喇叭よ。


おお殺戮の殿堂に
あらゆる傷つける魂は折りかさなりて、
静かな冬の日の空気は死のやうに澄んでゐる
そして何事も無い。

 よって立つべき組織を欠きながらも大日本帝国の 〈戦争意志〉が戦力の急激な拡大を果たしえた現実的 根拠なんであったのか。北岡さんは『政治の大衆的 動向、このなかに〈戦争意志〉の現実的契機がこめ られている。』と言う。以下、その論述をそのまま引 用する。

 文学者の誰であったか、昭和20年8月15日敗戦の しらせを聞いたとき思わず「戦争とは終わるもの であった」という嘆声をあげたと書いているのを 読んだとき、その文句は印象的であった。

 あの戦争が十五年戦争と称されるように満州事変 の発火点となった柳条溝事件が仕掛けられたのが 1931(昭和6)年9月18日であったから以降まる十四 年間にわたり戦火が絶えることがなかったので ある。それ以前にも間断はあっても戦争があったの だから、「戦争とは終るものであったか」という 端言はわたしにとってすら異和を与えないぐらいで あるから、大正末期から昭和初期にかけて育ち、 あるいは誕生したものにとってはなおさらのことで あったにちがいない。

 ものごころのつきはじめが戦争の臭いのかぎはじ めという訳である。以来、戦争もまさに異和を与え ない〈自然〉に感じとられていたはずである。戦争 が先験的ですらあったということは〈戦争意志〉に とって豊かな土壌が先験的に存在していたことと同 義である。もちろん、どのような水準からであれ個 々の大衆から〈戦争意志〉を直裁的にひきだせると いうことではない。逆にいえば、個々の大衆の存在 の数だけ、意志の数だけの恣意的な〈戦争〉や 〈戦争意志〉をひきだせるということである。

 ただそれは、仮構された大衆存在を鏡とした戦争 意志者たちの〈戦争意志〉を反面鏡に映し出された 〈戦争意志〉をしか意味しない。そうでなければ、 あの8月15日を境とした大衆の豹変の意味など到底 つかむことはできない。

 ただ戦争意志者たちがさしだしたもののなかで それほど屈折せずに大衆に受感されたものがある。 前述した右翼急進主義の動力をいわば生理的に底 辺で逆接的ではあれ支えていた大衆的動向と言い表 したものがそれである。

 先に引用した橋本欣五郎の「領士拡張=神様の思 召し」論(!?)はそのイデオロギー的表現であった といえる。橋本は、すこしも意識していたとは思わ れないが、橋本の表現の根っ子には、橋本が安直に 提起した「領土拡張」を「残された門扉」とみるし か途のない閉ざされた情況を不可避とみた大衆の 政治的動向があり、戦争イデオローグによって、 それがさしだされたとき、それが例え逆立したもの であっても〈自然〉として受感される土壌があった。 あらゆる面から制約性を刻みこまれていた〈戦争意 志〉はこの回路においてのみ、すなわち、逆立され た大衆からの補完作用を受けてのみ動力を保持し ていたのである。

「……然ルニ頃来遂二不逞兇悪ノ徒(元老重臣軍閥 官僚政党を指す)簇出シテ、私心我慾ヲ恣ニシ、 至尊絶対ノ尊厳ヲ藐視シ僭上之レ働キ、万民ノ生 成化育ヲ阻碍シテ塗炭ノ痛苦二呻吟セシメ、従ツ テ外侮外患日ヲ逐フテ激化ス……」

と書いた二・二六事件の〈戦争意志〉の実行部隊と もいうべき青年将校の「蹶起趣意書」の遠景にも 下部兵士たちを通して困窮の極にたった農民とり わけ東北農民たちのその日その日の疲弊が横たわ っていることはみるもたやすいことである。

 この農本ファシズムとも呼ぶべき青年将校たちの 姿は、大衆的動向を映した〈戦争意志〉の在り処が、 生活意識の水準において容易にチャンネルしうると ころにあったことを示している。

 たとえ仮構されたものであっても〈戦争意志〉の 生活意識水準における定着は、神山茂夫によって規 定された戦前期日本の軍事的封建主義の侵略性に 通路を与えたことを意味していた。 現実的な疲弊 ・困窮はそれ自体への救済へ向ってではなく遠心 的に振り落されていくのみであり、不幸にも 〈戦争意志〉の現実的契機として、それを根抵にお いて支えていったのである。 総体としての十五年戦争は、このてんにおいてのみ 具体的でありえた。

 ここで私は数ヶ月ほど前に論壇をにぎわした 「希望は、戦争」論争を思い出した。31歳フリ ーター・赤木智弘さんの『「丸山眞男」をひっぱ たきたい』という論文が発端だった。赤木さんは 言う。

『我々が低賃金労働者として社会に放り出され てから、もう10年以上たった。それなのに社会は 我々に何も救いの手を差し出さないどころか、 GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、 罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平 等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、 流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。 その可能性のひとつが、戦争である。』

 冷静な自己分析力を備えている赤木さんには危 惧を抱かないが、世に言う「右傾化」という共同的 無意識は「〈戦争意志〉の生活意識水準における 定着」の新しい動向ではないかと危惧する。 まさに「現実的な疲弊・困窮がそれ自体への救済 へ向ってではなく遠心的に振り落されていく」 過程ではないか。杞憂にすぎなければ幸いだ。

戦争意志とは何か(10)

戦争担当能力の形成・軍事力の形成


② 戦争概念の転換に伴う軍事力の形成

 戦争概念の転換をもたらした第一次世界大戦は、 それまでの戦争と具体的にどう違っていたのか。

1. 単位部隊の編成装備、とくに火力装備の向上と、 新兵器を装備した新鋭部隊の出現とその急速な拡 大。

2. それに伴う軍需品、戦時消耗料の桁違いの増加。

(例)一会戦での砲弾の消費量
 (1)奉天戦日本軍      33万
 (2)ベルダン戦ドイツ軍   2千万
 (3)ソンム戦フランス軍 3千4百万

 (2)、(3)はそれぞれ(1)の60倍、100倍である。

3. 交戦兵力が人員資源上の限界に達し、しか も戦争は長期化して物的資源を使い果たしてやまず、 いわゆる国力を賭けた国家総力戦と呼ぶにふさわし い様相を示した。

4. 航空機の進歩と航空部隊の活躍は従来あった戦 線と銃後の境界線を色あせさせた。

 しかし、日露戦争と、その戦後経営に追われて 常備兵力の充実計画すら実現できなかった当時の 日本陸軍の戦時編成と装備は第一次世界大戦勃発 時には、なお日露戦争当時の域を当然脱していな かった。日本陸軍は、第一次世界大戦終息と共におこっ てきた不況と、それに伴う財政緊縮等に規定され つつも〈国家総力戦体制〉確立へ向って歩みはじめ た。そして、その歩みを大きく進める動因となった のが以下のような諸経済計画であった。 (以下は、USA戦略爆撃調査団の報告による。)

一、軍需の増大に備えてなされた工場及び設備の 拡張計画
二、原料増産計画と非常時貯蔵計画
三、当面の作戦(満州・支那)を支持するための 完成兵器の増産
四、原料の充分な供給に備える船舶の拡充計画
五、農業から工業的職業へ移動せしむべき労力の 配置計画

 これらの計画は「生産膨張期の十年」と いわれるほどの顕著な効果をあげた。その具体例 は次のようなものである。

一、1942年には年間七千機以上を生産した航空機 工業や、戦車工業、自動車工業はこの期間につく られた。
二、この工業の膨張には、原材料が得られるかど うかにかかっていた。そこで国内の原料の増産に 大なる努力がなされた。

(例)
 石炭の産額 1931年 2800万トン
         1941年 2260万トン

 国内の鉄鉱採掘高もめざましく上昇した。しかし 石油とかボーキサイトなどは自給自足できず、日 本の工業生産における大きなネックとなっていた。 1941年末におけるボーキサイトの在庫は25万トン 、アルミニウムに換算すると、当時の消費比率から みれば6ヶ月に足る程度のものにすぎなかった。

三、工業能力の拡張や国内工業のための原料供給 の拡大は、そのほとんどが軍需生産を増加させる ために利用された。
四、軍備計画の大きな一面をなす商船隊の拡充は、 戦前10ヶ年を通算すると、2,136,245総トンが建造 され、船腹は約三分の一膨張した。
五、1930年代の工業の膨張に伴い、工業労働力も かなりの増加をした。

製造工場における男子総数と女子総数
 1930年 440万人  140万人
 1940年 610万人  200万人

 このように、1930年代にはいっての日本の軍事 能力の増大にはめざましいものがあり、とりわけ 軍事的にその基礎となる重工業において生産の上 向傾向が最も著しく、戦争担当者たちを力付けて いた。

 USA戦略爆撃調査団は、以上のように日本の経済 戦力を概括し、次のように総括している。

 この時期の経済的効果をかえりみると人はその 努力の烈しさと結果の大きさにうたれる。これら の成果なしには日本の立案者たちといえども、真 珠湾以後数ヶ月になされたような軍事行動を考え てみることも不可能であったに違いない。

 にも拘らず、日本は依然として重大な経済的弱 点のままだった。すなわち食塩の何割かと重要な 基礎的原料と近代工業国の血液ともいうべき石油 を海外に依存しているということは、封鎖作戦に 際し日本を絶望的に脆弱ならしめていた。

 しかも日本の軍事工業は比較的小さくかつ新し く建設されたものであるから能力には余力という ものがなかった。また兵器生産の経験や他に大量 生産の産業も少い日本では、工業的機械学的に熟 練した労働力を作り上げることができなかった。 これは後日経済が大規模な戦闘のため逼迫したとき、 熟練の不足、創意の不足、即席にものをつくる能力 の欠如を意味していた。

 要するに日本という国は本質的には小国で、輸入 原料に依存する産業構造をもてる貧弱な国であって、 あらゆる型の近代的攻撃に対して無防備であった。 手から口への、全くその日暮しの日本経済には余力 というものがなく緊急事態に処する術がなかった。 原始的な構造の木造都市に密集していた日本人は、 彼等の家を破壊された場合住む家がなかった。

 日本の経済的戦争能力は限定された範囲で短期戦 を支え得たにすぎなかった。蓄積された武器や石油、 船舶を投じてまだ動員の完了していない敵に対し痛 打を浴せることはできる。ただそれは一回限り可能 だったのである。このユニークな攻撃が平和をも たらさないとき、日本の運命はすでに定まっていた。 その経済は合衆国の半分の強さをもつ敵との長期戦 であっても、支えることはできなかったのである。

 以上のような、少なからぬ「軍の近代的組織改編」 の計画策定、不自然とも言うべき経済の発展と飛躍的な 「軍事力の形成」について、北岡さんは次のように 述べている。

 ここに私は戦前期日本の時代的・社会的制約性に 包囲された〈戦争意志〉と、それを動力として形成 された〈戦争担当能力〉の在り様をみざるをえない。 すなわち、ここで〈戦争意志〉がめぐりあい、獲得 したものは、組織の蓄積の欠如による無力であり不 在であったのではないかと。

 しなければならないことの多さは、そうできな かった歴史と、そうできない現実の在り様をこそ 示している。〈国家総力戦体制の確立〉〈高度国 防国家の建設〉という旗印風意志は、なによりも、 このそうできていない、できなかった〈現実〉に 向った〈意志〉が、まさに〈当為〉と〈願望〉を 出発点とするしかなかったことを示している。

 同時に〈当為〉と〈願望〉を背負いこんでしか スタートできなかったということは、〈戦争意志〉 の分派的拡散の運命を予兆させていたのだ。時代 的・社会的制約性は〈戦争意志〉の内化・深化の 過程がとりも直さず、〈戦争意志〉の〈党派化〉 の過程であることを前提的に規定したといえる。

戦争意志とは何か(9)

戦争担当能力の形成・組織改編


(以下は『支配とは何か』からの要約です。)

 東条が「清水の舞台から、目をつぶって飛び降り る」決断をした背景には、日本の戦争担当能力に対 する自己認識があったはずだ。今まで見てきたよう に、日本の戦争指導者たちは日米の国力・戦力の 歴然とした差異にもかかわらず、短期戦なら勝機が あると認識していた。短期戦を支える能力しか形成 できなかったとしても、そこに至るまでには長い努 力と蓄積の歴史があった。

 第一次世界大戦以後、どの国もが〈国家総力戦〉 を軍事問題の最大課題とせざるを得なくなっていた。 この〈国家総力戦〉というこれまでの戦争概念を 全的に転換させる問題は、とりわけ陸軍省・参謀 本部の幕僚たちに、深刻な影響を与えた。それは 次の二つの動きとなって現れた。

① 軍の近代的組織改編
② 戦争概念の転換に伴う軍事力の形成

① 軍の近代的組織改編
 これはとりもなおさず、人事の問題として浮上 してきた。

 西南戦争以後、陸軍部内の長州閥に対する不満は 大きな底流をなしていた。それが具体的な動きと なった端緒がいわゆる「バーデン・バーデンの密 約」である。

 この「密約」は、1921(大正10)年10月、16期 三羽烏といわれた、岡村寧次(のち参謀本 部第二部長)、永田鉄山(のち軍務局長)、小畑 敏四郎(のち参謀本部第三部長)の三人により 交わされたのもである。「派閥の解消、人事刷新、 軍制改革、総動員態勢」を骨子とする。

 その後、陸大出の中堅エリートを中心として 「人事刷新」をスローガンに結集しはじめ、 「一夕会」「二葉会」といった省部佐官級の社会 ファシズム的結合組織をうみだしていった。 16期三羽烏は「陸軍の人事を刷新して、諸政策を強 く進めること」という「一夕会」の第一回の会合の 決議を実現すべく、陸軍部内を漸次制覇していき 「国家総力戦体制」を準備していった。

 この組織的改編の長期にわたる努力・変転の跡を概 観すると次のようである。

1917(大正6)年
8月 参謀本部員小磯国昭少佐 「帝国国防資源」執筆
9月 陸軍省臨時軍事調査委員会 設置
9月 参謀本部「全国動員計画必 要ノ議」

1918(大正7)年
4月 軍需工業動員法公布
6月 軍需局官制公布
6月 軍需評議会設置
6月 陸軍省兵器局工政課新設

1919(大正8)年
11月 工政課「大正九年度陸軍軍需工業動員計画要 領」訓令
(以降、こうした訓令は1920~1923、1926~1936と続けて 出されていく。)

1925(大正14)年
4月 国家総動員機関設置準備委員会

1926(大正15)年
9月 陸軍省整備局新設

1927(昭和2)年
5月 資源局官制公布
11月 作戦資材整備永年計画策定要綱

1928(昭和3)年
11月 「作戦資材整備要領」

1929(昭和4)年
5月 「作戦資材各期整備大綱」

1931(昭和6)年
2月 宇垣陸軍大臣「陸軍軍需品生産能力調査ニ 関スル件達」

〈満州事変勃発〉

1932(昭和7)年
7月 「応急総動員計画設定要領」

1933(昭和8)年
5月 「陸軍軍需動員計画令」

1934(昭和9)年
3月 「石油事業法」(許可制、貯油の義務化)
9月 陸軍省新聞班「国防の本義と其の強化の提唱」

1935(昭和10)年
5月 内聞調査局設置

1936(昭和11)年
12月 「陸軍省軍備充実計画大綱」

1937(昭和12)年
5月 内閣調査局を改組拡充し企画庁を設置
5月 「重要産業五年計画要綱」
6月 「軍需品製造五年計画要綱」(五年不戦の 基調)
10月 資源局・企画庁統合され企画院へ

1938(昭和13)年
4月 「国家総動員法」公布

戦争意志とは何か(8)

「大衆の政治的動向」という契機


 これまで、対米英戦の開戦意志を形成していく 現実的契機の政治政策面での経緯をたどってきた。

 それを煎じ詰めれば、イギリス・フランス・オランダな どのヨーロッパ諸国が保持していたアジアでの植 民地利権を継承しつつあったアメリカと、そこに 割り込もうとした大日本帝国の、帝国主義国家同 士の覇権争いであった。そして既成事実作り・規制 ・報復といういたちごっこの応酬は〝おあいこ″と 言うべきだろう。ただアメリカに一日の長があった、 ということになろうか。北岡さんの見解を聞いてみ よう。

 「ハル・ノート」は政府首脳とりわけ文官・重臣 に衝撃的なものであった。東郷外相は、これを受け 取ったとき「目のくらむ思いがした」と語り、木戸 内相は「万事休す」と思ったといっている。

(中略)

 確かに、この段階にあって日米の政治担当者の 政策力には、歴然たる差があったことは否定でき ない。

 日本政治担当者が、この段階にあってすら右往 左往しているとき、アメリカの担当者は暗号の解 読も含めて、日本の外交方針を掌中にし、更に当 時モンロー主義とよばれた孤立主義的傾向をふっと ばすべく、日本に戦争の口火を切らせ、それを大 衆へのショック戦術として逆用すべく、様々な大 細工、小細工を弄し、事実そうさせたという点に、 この差を何よりはっきり表わしている。

 しかし、これらの〈政策〉の差が、開戦の政治 的契機となりえたということはできない。東京裁 判では、確かに、この政策の契機力が論軸となり、 自衛か否かという論争をうんでいる。しかし、アメ リカ政府は、すでに日本の開戦やむなしという政 治方針を読みとっていたのであり、アメリカ政府 の対日規制という〈政策〉をもって、開戦を語る ことはできない。心理的契機としてあったとしても である。開戦をアメリカ政府の陰謀だとする太平洋 戦争観があるが、これは、この心理的圧迫を拡大し て言ったものにすぎない。

 開戦を、アメリカ政府の対日規制政策に依るもの だとする考えは、逆に、日本の〈政策〉の欠如をこ そ照射している。「ハル・ノート」の〈衝撃〉につ いて先述したが、それは、かれらの甘さをこそ示す ものであっても、政治性を示すものでは決してな い。

 かれらは、いったい何をしようとしていたのか。 〈政策〉としてではなく、政治の流れとして、開戦 が浮上してきているという情況に対して、かれらは 〈政策〉を指し示すという姿勢すら示していない。 ここで〈政策〉は全く欠如している。この欠如は、 中国からの全面撤退という〈政策性〉が浮上してき たとき、それを鮮やかに表現した。

 このとき、全面撤退を正面切って〈政策〉として 取りあげようとした政治意志は存在しなかった。撤 退を拒否する政治意志においてすら、撤退拒否を 〈政策〉として提出していない。出されたのは、 泣きというか恫喝というか政策とは無縁なものだけ であった。

 「中国大陸にねむる数十万の英霊」に対して相済 まぬから、撤兵はできない、というのがそれである。 単に声が大きいにすぎないという水準のこの恫喝に 対する、政治意志は結局登場しない。政治の水準で いっても、このとき中国から全面撤兵できないとい う理由はどこにもない。また、それを埋めあわせる ニホン語にも事欠かなかったはずである。いわく 「臥薪嘗胆」。いわく「名誉ある撤退」。

 しかし、これとて心理の枠を超えるものでは決し てない。「意地」とか「面子」とかいうもののネガ とポヂをしか表わしていない。もちろん、右足から 歩きはじめるか、左足から歩きはじめるかどちら かというのが政治の常であるとするなら、 「英霊」に対して、済むか、相済まないかというも んだいも立派に政治のもんだいではあるのだが…‥。

 さて、こうした政治的政策とはとても言いがたい <政策>を大きく規定していたものの一つに大衆的 動向がある。北岡さんは「支配者の鏡に映った 大衆の政治的動向」に目を向ける。

 右翼急進ファシズムが、その動力の背景に当時の 農漁村の疲弊、不況等による社会不安生活不安を横 たえて成立していたことは、よく指摘されている。 この右翼急進ファシズムに対して、次のような批判 がある。〈膨張主義〉〈冒険的侵略主義〉という批 判が。

 しかし、この批判は、現象的・結果的にすぎる。 このような規定では、到底包括しきれないものがあ った。それは、この急進主義が、大衆の政治的動向 と、どこかで接点をもっていたことによる。この急 進主義がさしだしたものや、ひきおこした結果につ いては批判しえても、その動機だけは批判を許さな いかのように、この急進主義は位置していたといえ る。

 軍首脳がはじめて半公然ながら加担したことによ って注目された三月事件の首謀者でもある橋本欣五 郎は、その著「青年に告ぐ」でこの大衆的動向を己 れの鏡に映して、次のように述べている。すなわち、 日本の人口過剰によって起る圧迫を回避するものと して、橋本は次の三つをあげている。

一、海外移民
二、商品進出
三、領土拡張

 そして橋本は、(一)は諸列国の日本移民排斥に よって、(ニ)は高率関税・通商条約廃棄等によっ て、それぞれが閉ざされた情勢にあって日本が

「……のこされた唯一の門扉に向かって殺到するの は自然の勢い」

であると領土拡張を揚言するのである。更に、次の ようにもいう。

「しかも地球上にはこうした土地(天然資源を豊富 に埋蔵し、かつ未開発の土地を指す)がまだまだた くさん残っている」

とすれば、なおさら、「自然」であり「神様の恩召 し」ですらあると。(「東京裁判速記録」より)

 橋本のこの発言には、大衆の政治的動向に直結し ているといっても過言ではない説得力が社会的背景 として、つまり時代的根拠を獲得しているといって もよいものが刻印されている。

 この橋本の発言に反論を加えられるものがあると すれば、当時においてもそうであり、そして現在に おいてもそれ以外には存在していないと考えられる 左翼党派主義によるものだけである。

 東条が中国からの撤退の不可能性の根拠を 「英霊に済まぬ」からだとし、あるいは「対共産 主義」におくのも、じつは東条がこの中国総じて 南方をも含むアジアに侵出の照準をあててしまった 日本の政治の傾向性と、その大衆的動向に対して、 おてあげであったことの東条なりの言い廻しとい うか、言い換えであったといえるのだ。

東条にとって〈政策〉はすでに〈政策〉たりえる 根拠をどこにもみつけられなくなっていた。 従って、東条を開戦派の頭目であったと評定する 東京裁判検察側をはじめとする判断を是とするこ とはできないし、また、東条の死刑判決をやむを えないとした空気も、わたしにはあたりであると 思えないのだ。東条は、じつは、時代と社会 からはじきだされた位置をしか持ちえていなかった というべきなのである。

 第三次近衛内閣が撤兵をめぐって倒壊したのち、 次期首班となった東条は、なおかつ開戦に不安を 抱く天皇の意向に従って9月6日御前会議決定の 「帝国国策遂行要領」を一応白紙還元し、再検討 に入った。しかし、事態は、最早開戦か否かとい う選択そのものが成立しないところまできていた のである。陸海軍省は、再検討には見向きもして いない。ただ、東条の「お上の御心を考えねばな らぬ。……今開戦を決意することは、とうていお 聞き届けにならぬと思う」(中央公論社「日本の 歴史25」所収『太平洋戦争』)という頼みにつき あっただけであった。再検討のための閣議を開い たということに対してすら、中堅幕僚は

「陸相は (対米交渉を)絶対に目途なしとして内閣を倒し たるものなり。今更目途なき対米外交を続行し決 心をにぶらせたるは国家のためならずや、陸相に 節操ありやと問い度し」(「機密戦争日誌」)

と悲鳴に似た不満をあげている。そして、再検討 二週間足らずして、「帝国は現下の危局を打開し て自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、 此の際対米英蘭戦争を決意し」という「帝国国策 遂行要領」を決定する。東条英機とは、この開戦 の経緯においては、累積された〈戦争意志〉を 〈開戦〉へと転轍させたポイントマンであった。

 近衛も東条を説得できず、東条もまた近衛を説き ふせることができなかった挙句、東条が近衛にいっ たという、有名なコトバがある。

「人間たまには清水の舞台から、目をつぶって飛び 降りることも必要だ」

 ここで東条は、〈政策〉からも遠去かり大衆的動 向を触知しえたがゆえに、そこからも疎外され孤立 した、自らの位置を、自ら鮮やかに言いあてていた のだ。

 丸山真男が「軍国支配者の精神形態」でいってい る

「あの法廷(東京裁判)に立った被告たちは、む しろ彼らが地位の上で遥かに見下していた官民大小の 無法者たち(中堅将校や右翼浪人たち)に引き廻さ れた哀れなロボットである」

という上部ロボット説は、耳に入りやすい見解にす ぎないが、そういわれても仕方のない面を指導部が もっていたことは否定しようのないことではある。 しかし真にあきらかにされるべきなのは、ロボット であった、なかったに拘らず、かれらが開戦のテー プを切ったという事実であり、そうさせた或いは 選びとっていった支配の関数そのものについてであ る。

 この関数が無法者・ゴロツキにあったという 丸山のロボット説は、週刊誌好みの人脈相関図を なぞった見解にすぎない。真に問われるべきは、 指導者たちの意志・思惑を徹底的に個別化し無力 ならしめた現実の過程の進行と意志との乖離を不 可抗力と規定させた始源についてである。

 さて、東条は確かにテープを切ったのだけれど も、その切断を可能にしたものはなにか。それは、 目をつぶって飛びおりた東条の意志的力ではなく、 目を見開き、〈戦争意志〉の〈開戦意志〉への転 轍を可能にさせた日本の戦争担当能力を形成させ たものたちの営為の結果の力であり累積によって である。

 ということで、次回は「戦争担当能力 の形成」という問題を取り上げる。

戦争意志とは何か(7)

開戦決定


 組閣に当たって東条に伝えられた「白紙還元の御 諚」は次の二つの意味が微妙にまじっていた。

① 9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行 方針」そのものを変更するために検討すること
② 開戦に反対している海軍との調整を図ること

 近衛と東条の間の工作をしていた鈴木企画院総裁 やそれを受け入れて東条を強く推した木戸らは①の 意味を強調していたが、東条は内閣成立後①の意味 で「白紙還元」を解した。

11月 5日 第三回御前会議、対米交渉甲乙案決定
    来栖三郎大使をアメリカに派遣

 11月2日に大本営政府連絡会議で、対米交渉につ いての議論が行われた。その会議のクライマックス の問答として半藤さんは次のやり取りを取り上げて いる。

賀屋興宣蔵相
「私は米国が戦争をしかけてくる公算は少ないと 判断する。結論として、いま戦争を決意するのが よいと思わない。」

東郷茂徳外相
「私も米艦隊が太平洋を越えて攻勢に来るとは思 わない。いま戦争をする必要はないと思う。」

永野修身軍令部総長
「来らざるをたのむなかれ、という言葉がある。 さきのことは不明だ、安心はできぬ。三年たてば、 南の防備が強くなる。敵艦もふえる。」

賀屋
「しからば、いつ戦争をしたら勝てるのか。」

永野「いま! 戦機はあとには来ない。いまがチャ ンスなのだ。」

 会議では、「臥薪嘗胆」(大日本帝国の支配者た ちはこの言葉が好きだねぇ。)案、開戦決意案、 外交・作戦併行案が出されたが、期限つき交渉と いうことになった。「期限つき」というのは妥協の結果であっ て、実質は「開戦決意案」だ。「いまが勝てるチ ャンス」という統帥部の責任者の大きな声が大勢を 制した。連絡会議は「自存自衛を完うし大東亜 の新秩序を建設するため、このさい対米英蘭戦争 を決意す」という「国策遂行要領」案を決めた。 そして、11月5日の第三回御前会議で正式に決定される。 半藤さんは「戦争は事実上このときにはじまる。」 と書いている。

 以下、ハル・ノートの提示までは、日本側にその 決断をほんとうにしっかり固めるための若干の時間 を要しただけ。もはやノー・リターンの点は越えて しまっていたのである。

 ところで、上記の年表では「対米交渉甲乙案決定」 となっている。この「甲乙案」とは具体的にどのよ うな内容なのだろうか。「岩波講座・日本歴史21」所収の『第2次 大戦と日本』(今井清一)から引用する。

 (対米交渉の)期限は陸軍が11月13日を主張した が、あまりにひどすぎるとして30日までとなった。

 交渉案としては9月6日(第二回御前会議)決定 を若干緩和した甲案と当面の平和維持のための暫 定協定をめざす乙案とが採択された。

 前者は華北、蒙彊、海南島の中国駐兵期間をは じめて明記したが、外相の主張した5年には軍部が 99年説で反対し、25年で折れあった。「撤兵する も経済はできる」という東郷の意見は一蹴された。

 乙案は幣原喜重郎元外相が立案して吉田茂元大 使が持参したものがもとで、日米とも仏印以外に 武力進出せず、蘭印の物資取得に協力し、アメリ カは年100万トンの航空揮発油を日本に供給する。 この取決めが成立すれば南部仏印の日本軍は北部 仏印に移駐するというコンパクトなものであった。 この乙案にたいしては陸軍はつよく反対したが、 東郷外相の職を賭しての反対で政変となることを 恐れてやむなく同意した。その代りにアメリカは 日中和平に干渉せずの一項を加えたので魅力のな いものになった。

箇条書きで概要をまとめると次のようである。

甲案
1・ 日支に和平が成立したときは支那に展開して いる日本軍を2年以内に撤兵させる。
2・ シナ事変が解決したときは「仏印」に駐留し ている兵を撤兵させる。
3・ 通商無差別待遇(自由貿易)を太平洋全域と シナに対しても認める。
4・ 日独伊三国同盟への干渉は認めない。

乙案
1・ 蘭印での物資獲得が保障されアメリカが在 米日本資産の凍結を解除し石油の対日供給を約束 したときは南部仏印から撤兵する。 2・ 更にシナ事変が解決したときは仏印全土から 撤兵する。
3・ 日中和平には干渉しない。

 政府は甲案、乙案を訓令すると同時に野村大使 を助けるため、あらたに来栖三郎大使をアメリカに 派遣した。

 アメリカは前年の末に日本の暗号の解読に成功 している。この事実をアメリカは「マジック」と 呼んでいたようだ。

 アメリカ政府は、東条内閣は戦争準備 を押しすすめながら、もう一度交渉に出てくると 見ていたし、日本側の交渉期限は11月25日と碓認 していた。

11月7日 野村大使、甲案をアメリカに提出

 ハル長官はすでにマジックでその内容を知ってい てそれには関心を示さず、悠長に交渉をすすめる 態度をとった。

11月20日 妥結を急ぐ日本は乙案を提出

 ハルははたして日中和平にかんする項目に難色 を示した。

 アメリカ国務省は、解読した乙案の対案として 三ヵ月間の暫定協定案を作っていた。会談決裂の 目前にそれを提示してなおも時間かせぎをはかろう とした。その内容の概略は次のようであった。

1・ 日米両国が武力または武力の脅威で太平洋地域に 進出しない。
2・ 日本は南部仏印から撤兵し、北部仏印の兵力 を2万5000以内とする。
3・ 日米両国は資産凍結を解除して輸出制限も 自衛の必要の範囲内にとどめる
4・ アメリカは日中和平交渉と交渉中の休戦に 友誼的態度をとる。

 これには中国やイギリスが異を唱えた。特に中 国は強く反対した。また、ドイツが汪政権へ大使 を送り日中和平工作のためにカを注いでいる こと、すでに日本軍の大軍が上海に集結し輸送 大船団が台湾南方で見られたこと、などの情報 もあった。ハルは中国やイギリスの不満を 抑えて暫定協定案を提示してももはや日本の攻撃 を遅らせることはできないと判断し、その提案を 断念した。ルーズベルトもそれに同意した。

11月26日 米、日本の甲乙案を拒否
     ハル・ノートを提示

 暫定協定案に代わってハルが提示した のが、10項目よりなる全般協定案、いわゆるハ ル・ノートであった。ハル・ノートの概略は 次のようである。

1・ 日本軍の中国と仏領インドシナからの全面撤退。
2・ 蒋介石政権の承認、汪兆銘政権の非承認。
3・ 日独伊三国同盟からの離脱。

 これは日本に満州事変以前への復帰を求めるもの である。大日本帝国には到底受け入れられない 内容だった。「開戦決意」は、政治過程が累積して きた<政策>、いくつもの転轍機の操作を誤まって きた<政策>の現在性が強いる帰結であった。

12月1日 第四回御前会議、開戦決定
12月8日 真珠湾攻撃


 再び、『第二次大戦と日本』より。

 おりからモスクワ前面に迫ったドイツ軍は、12 月6日に始まるソ連軍の反攻をうけ、大戦開始以来 最初の敗北を喫していた。

 そして12月8日の真珠湾攻撃は、アメリカ 国民を開戦へと一致させたが、それはまた アメリカを第二次大戦に参戦させて反枢軸諸国 の足なみを揃えさせた。1942年1月1日には、 英・米・ソ・中を中心とする26ヵ国によって 連合国宣言が調印されたのである。
戦争意志とは何か(6)

東条内閣の成立


  9月30日 ドイツ軍、モスクワ総攻撃開始
 10月18日 第三次近衛内閣総辞職
        東條内閣成立


 第二回御前会議後、日本の姿勢は漸進的に対米 英戦へと傾斜していったが、その背中を押した力の 一つが同盟国ドイツの快進撃であった。10月中旬に はモスクワは陥落寸前であった。

 そのような状況のとき、「十月上旬頃に至る も尚我要求を貫徹し得る目途なき場合」となり、 第三次近衛内閣は総辞職をした。というより、 自らの信念である「和平」を強く主張すべきとき であったのに、職責を放棄してしまったのだ。無責任 さにおいて、2007年9月12日の安倍晋三と全く同 じだ。そして、それを継いだのが東条内閣だった。

 東条内閣の成立について、『昭和史探求』から 引用する。

 このとき、東条を後継首相に強力に推せんしたの は、木戸であった。重臣の多くは反対だった。しか し「天皇のお言葉があれば、東条は従うから」と木 戸は強調し、押しきった。だから、開戦になったと き、「木戸にだまされた」という感じを重臣たちは 抱いた。東条内閣出現におどろいたことを記してい る、東久邇日記を引用しておこう。

「私は東条陸相に大命が降下したと開いて、意外に 感じた。東条は日米開戦論者である。このことは陛 下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦 論者の東条を後継内閣の首班に推せんし、天皇陛下 がなぜこれを御採用になったか、その理由が私には わからない」

 しかし、木戸の意図は、後のかれの手記によれば、 天皇にたいして忠義一途の陸軍の代表者東条に責任 をもたせることによって、陸軍の開戦論者をおさえ るという苦肉の策であったという。このとき天皇は 「虎穴に入らずんば虎児を得ずと云ふことだね」と 感想をもらした。この感想に、木戸は「感激す」と 10月20日の日記に書いている。

 なるほど、木戸のいうように、東条という大将は、 行住坐臥ひたすら天皇の意にそわんとする忠勇なる 股肱であった。政事だろうと軍事だろうと、一切の 基礎を、〝大御心″においた。それに背かないこと、 もとらないことが、大将の人生観であったようであ る。

 木戸は天皇の意向を、東条および海軍大臣留任の 及川古志郎大将に伝えた。

「九月六日の御前会議の決定にとらわれず、内外 の情勢をさらに深く検討し、慎重に考慮する必要 がある」

 すべて新規まき直し、いわゆる「白紙還元の御諚」 である。天皇の期待もここにあった。しかし、内閣 と違って、陸海軍統帥部は〝白紙還元″のなんらの 御諚をうけなかった。だから、軍はひたすら戦争へ の道を突き進んでいった。

 北岡さんは、「開戦をめぐる政治指導者たちの 間で交わされ論議をには唖然とせざるを得ない。」 と述べ、特に当時の重臣たちを「遅れてやってき た老人たち」と手厳しく批判している。

8月7日 木戸と近衛との対談 (『木戸日記』より)

・現在の日本の力量では、対米、対ソという両面 作戦は余程困難である
・石油問題は海軍は一年半しかもたないというし 陸軍は一年位だというようでは対米戦争は到底勝 利しえない
・石油獲得のために蘭印に手を出すしかないが、 そうすれば米国は参戦してくるし、輸送という面 からも、その長距離性は潜水艦・航空機の脅成下 において危険性を比例させる
・日本の国力の脆弱を考えるなら、日清戦争後の 三国干渉の場合と同じ決意の下、今後十年を目標 として臥薪嘗胆の決心をするしかない

1941年11月29日重臣会議

岡田啓介
……物資の補給能力につき十分成算ありやははな はだ心配なり。先刻政府の説明ありたるも納得す るに至らず

米内光政
 資料を持ちませんので、具体的意見は申上げら れませんが、俗語を用いまして恐れ入りますが、 ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならないよう、十分の 御注意を願いたいと思います。

林銑十郎
 資料を持たざるが、大体政府と大本営と十分協力 研究せられたる結論に信頼する外なしと思う。


 木戸をはじめとする重臣たちを〝遅れてきた″と いう風に規定する理由もまたこの中にある。彼等 重臣たちが、主戦派(!?)より遅れてきたという理 由は、開戦意志を明らかにしたものたちが、現状 を、日本のこれまでの〈政策〉の累積的現在として 捉え、そうであるが故に〈不可避〉なものとして 感じとっているのに対して、木戸たちが、現状を 選択可能なものとして、いわば昭和16年だけを切り とって考えているてんにある。

  日本は昭和16年段階では、すでに中国からの全 面撤退か否かの瀬戸際に追いやられていたのであり、 今更〝困難だ″の〝勝利しえない″だなどといえた 地点にはいなかったのである。また〝臥薪嘗胆を 決心する″などといえた義理でもないのだ。ここで 木戸たちがこれまでの高等(!?)批評家風な態度を 自己批判して言い切ることができるとすれば、それ は 〝全面撤兵”という〈政策〉の提起だけだったは ずである。 もちろん、木戸たちは、それを公言する ことはなかったし、逆立ちさせてもでてくるもので もなかったのである。

 あの段階で、大勢としての開戦は誰でも主張しえ たし、また俗耳にも通じやすかった。いいかえれば 一大政治決断としての撤退方針は、一個人、一政治 家ではどうしようもなくなっており、また日本の大 衆的動向からも、政治構造からも身動きとれないよ うになっていたのである。

 たとえば、近衛首相は、 この撤退を心に秘めてルーズベルト大統領との 「巨頭」会談を提唱したが、ルーズベルトどころか 東条たちにもすげなくかわされるという有り様で あった。撤兵を勧める近衛に対して「(中国)大 陸に貴い生命を献げた幾多の英霊」に対して済ま ないといった反対を、東条が繰り返し表現したそ の対応に、もんだいがすでに選択の次元になく 閉ざされていたことが象徴されている。ここで、 選択の余地がなかったということは、もんだいが 〈政策〉に還元されえないことを示している。

 〈政策〉に還元されえないにも拘らず、 〈政策〉としての政治決断が東条たちに迫られて いる。

今日の話題

高校生へのメッセージ「日の丸・君が代をめぐって」

 昨日の記事で『もともとは天皇家の旗として規定さ れた「日の丸」』と書いたとき、その根拠を示す必要 があるかな、と思った。君が代ついての由来や歴史は よく論じられるが、日の丸についてのそれにはあまり お目にかからない。今日は日の丸の由来・歴史を書きと めておこう。

 と思ったが、 『十年前の高校生の意識』 で、十年ほど前にホームルームで試みた「君が代日 の丸」についてのアンケートの回答を掲載した。 そのアンケートのまとめとしてホームルームで使った プリントがある。毎度「昔の名前で出ています」で 恐縮なのだが、それを利用する。そのプリントの中 に日の丸の由来・歴史に触れた部分があるのだが、 実は今までそのプリントの文章の一部を何度かこ のホームページの記事で利用している。それらと重 複することになるけど、この際、全文を掲載してお こう。

アンケートの回答を読んで

  (1995/1/18)


 自分の考えってなんだろう。今自分がもっている 考えはほんとに自分の考えなのだろうか。20才前後 の頃だったと思う。こんな思いにとらわれ始めた。

「時代の支配的思想は支配者の思想である。」(マルクス)

 おれが自分の考えだと思っているのは、実は生ま れてからこの方、親兄弟・学校・マスコミ等を通し て身に付けさせられてきた「時代の支配的思想」に すぎないのではないか。これからは自分の考えを一つ 一つ疑って検討し直しながら、「身に付けさせられた もの」を引き剥がしていかなければいけない。その結 果残っていくものが本来のおれなのだ。本当の勉強と いうものがあるとすれば、その作業がおれにとっての 本当の勉強だ。そんなふうに考えていったと思う。

 さて、アンケートの回答を読んでの第一の感想は、 「すき・きらい」といった感覚的感情的なレベルのも のが多いなということだった。感覚的感情的に捉える のが最もよい対象・問題もあるが、日の丸・君が代の ような観念的・政治的問題では、それは思考の停止に 外ならない。「すき・きらい」の根拠を問い、考えを 進め深めていく必要がある。日の丸・君が代について の自分の考えは「身に付けさせられたもの」なのでは ないかと、1度は疑って検討し直してみるべき問題だと 思う。そのための第一歩は由来や歴史を知ることであ ろう。

 考えを進める手掛かりとして、この数年間に 私が調べたり考えたりして書いてきたことをまとめ直 しながら紹介しよう。もし興味があったら更に詳しく 調べ、考えるといい。私とはまったく反対の立場から の主張も調べ、比較し、考えを深められれば更によい。 また、友人と議論をするのも考えを深める上で効果が ある。

「君が代」について

 一般に「君が代」の歌詞は古今和歌集からとられたと 言われているが、これは正確ではない。古今集からと られたとするなら、それを改ざんしたものというのが 正しい。古今集では
「わがきみは千世にやちよにさゞれいしのいはほと なりてこけのむすまで」
とある。このときの「きみ」はよく言われるように 「天皇をさすとは限らない。」(一時期、君が代を 強行しようとする校長らがよくこの詭弁を使った。 今ではそのような連中が「天皇で何が悪い」とうそ ぶけるような状況になってしまった。)のではなく、 「天皇であるはずがなく、恋人や夫以外ではあり得 ない」と、私は考えている。明らかに民衆の間に流 布していた「題知らず」「読み人知らず」の「賀の 歌」である。しかし「わがきみ」を「君が代」に替 えると、これはもう天皇の治世が永遠に続くことを 願う歌以外のなにものでもありえない。 「君が代」という言葉は一つの熟語であり、意味は 「天皇の治世」である。「君」と「代」を分けて解 釈するのはこじつけというものだ。

 参考に「教育反動-その歴史と思想-」(日高六 郎・大江志乃夫監修/日教組・国民文化会議共編/ 一ッ橋書房刊)から「君が代」の由来について書か れた部分を引用する。

「君が代」は国歌として制定されたものではない。 もともと、明治のはじめに日本に軍楽隊をつくろう としたとき、軍楽隊を指導していたイギリス人フェン トンの示唆によって、大山巌がひごろ愛唱していた 薩摩歌の一節を歌詞としてしめし、フェントンに作 曲させた軍歌であった。しかし、フェントンの曲は 日本人になじまず、1876年(明9)11月3日の天長節 を最後に演奏が中止された。

その後、80年になって、海軍省から宮内省式部寮に、軍楽にふさわしい作曲をしてほしいとの依頼があって、 現在の林広守作曲のものができ、同年の天長節に演奏 されたのである。したがって、「君が代」は国歌 ではなく、正式には軍楽である。1893年(明26)にな って、文部省告示によって小学校儀式唱歌用として この「君が代」が採用されたが、そのばあいも国歌 ではなく、「古歌、林広守作曲」として採用された にすぎなかった。

(註:最近「君が代」については新たな知見を得た。 『九州王朝の賛歌』 を参照してください。)

「日の丸」について

 日の丸の原型は薩摩藩の船に掲げられていた旗印で あると言われているが、それがどのようにして国旗 としての役割をもつようになったのか、その由来を 前提書から引用する。

 日の丸の国旗制定は1870年(明3)のことであったが、 紀元節が制定された同じ年の73年(明6)に、旗の掲 揚は、「元始祭・新年宴会・孝明天皇祭・紀元節・神 武天皇祭・神嘗祭・新嘗祭」、つまり天皇家の祝祭 日にかぎって許可され、そのほかの掲揚は禁じられた。 国旗としての日の丸は、天皇家の独占物として、天皇 家に直接結びついた行事だけに掲げることが許可され たのであった。

 76年(明9)の天皇の東北巡幸にあたって、
「門には日の丸旗を立て、これ巡幸え」
と歌がつくられたのは、この天皇家の独占物であった 国旗日の丸とともに天皇を民衆に売りこんでいった 過程をしめしている。

 外航商船の国旗掲揚の布告は77年(明10)のことで あった。

 明治維新以来近代国家の為政者らは、民衆に対し て、国家を家族になぞらえて説明していたようであ る。(今でもそういう国家論を吹聴する者が絶えな い。)この俗流国家論では天皇は父親で、国民はそ の赤子だから、天皇家の旗が即国旗でもおかしくな かった。

学校の「儀式」について

 わたくしがこの高校に来た頃、入学式・卒業式ば かりか、始業式・終業式まで初めと終わりに「一同、 礼」と言う号令がかかっていた。とても奇異に思っ たし、我慢ならなかった。次のような文章を書いて 同僚たちに配った。

 フランスやソ連やアメリカの学校では始業式は なく、ただちにその日から授業が始まる。そして 年度の始業の日は「いろとりどりの個性が開花へ 向かう営みの始まり」(日本ではほとんどの学校が 教育目標の第一に「国家社会に有用な人物の育成」 といった類いのものをあげている。「いろとりどり の個性が開花へ向かう営み」が教育だなんていい ね。)にふさわしい行事、「知や情を刺激し」これ からの学校生活への期待と希望をふくらませるよう な行事が工夫されているという。

 それにひきかえ、半世紀ほど前のわが国民学校の 教育は次のように始まった。

 「入学して私達一年生が最初に教えられたことは ・・・敬礼だった。最敬礼だった。まず門をくぐっ たら、まっさきに奉安殿にむかって最敬礼すること だった。そして次に、日の丸に対して、直立不動の 姿勢をとってから、赤心こめて敬礼することであっ た。」(山中恒「ボクラ少国民」より)

 国民錬成が入学と同時に始まるのだ。国家の忠実 な一員、忠良なる臣民になるための心身の修養の開 始なのだった。

 こんなつまらぬ人権抑圧的儀式の形はいつごろで きたのだろうか。

 学校教育での儀式ははじめは天皇家の祝祭日だけで あった。始業式や入学式は、もともとは式ではなく、 単なる授業はじめであり学校開きであった。卒業式も ただの卒業証書授与であった。天皇制国家の下、臣民 教育を秩序だてるために新しい「礼法」「礼式」が必 要と、その形をつくり始めたのは森有礼である。

 1889年に、「生徒児童の徳を強化」する目的で礼式 のための「訓令案」をつくる。礼の仕方まで事細か に規定している。これがそのまま学校生徒礼式とし て採用される。いま広く無自覚に継承されいる卒業式 の式次第や恭しく証書を受け取る形式は、日清戦争 以後1894・5年頃に確立し、祝祭日の儀式と並び最大 の式となる。あとは次々に入学式、始業式、終業式、 創立記念式とやたらと儀式がふえていく。明治の終り 頃には学校教育の中の儀式が完全に定着する。

 学校行事の式次第や礼の仕方、はては参列者の並び 方までを行政権力がこと細かに決めるなど、古今東西 例があるまい。全国一律に同じやり方で天皇を崇める 儀式の統一は、これはもはや宗教である。児童文学 者の中山恒さんは君が代・日の丸の強制に象徴され る動きに対して「天皇教の復活が狙われている」と いいきっている。

 ところで、今(この文章を初めて書いた頃)のわ れわれ卒業式・入学式はどうか。「一同、礼」で始ま り、「一同、礼」で終る。首尾一貫して、ただただ 緊張ばかりを強いる。新入生や卒業生が主人公とはた てまえばかりで、儀式を支えている心性は半世紀前 のままではないか。あと日の丸・君が代があればも うほとんど半世紀前と変わりない。

 敗戦前の学校では教育勅語・君が代・日の丸は不可分 の3点セットであった。教育勅語が昔のまま復活する ことはないとしても、その思想はとうに息を吹き返し て、教育基本法に敵対し、さまざまな機会をとらえ、 さまざまなところでその勢力の拡張浸透を謀っている。 文部省が指導要領に君が代・日の丸の義務化を強引 に盛り込んだ(反対の委員もいたと聞く。)のもそ の政治的プログラムの一環であることはもう明白で ある。教育勅語的国家觀・教育観を視野に入れなく ては「君が代・日の丸の強制」の真の目論みは見え てこない。

 「一同、礼」が何に対しての礼かはもう明白だろ う。慣習だからなどと、ノウテンキなことではだめな のです。いつか、元の意味がかならず付与される。

 自民党政府の意図を先行試行してきた県、組合が 骨抜きにされた「教育正常化県」(反対の立場から は「管理主義教育県」という。)下の学校、特に小 学校はもうほとんど戦中の国民学校と同じだという。 ポールには一日中日の丸がひるがえり、児童生徒は日 常的に日の丸への敬礼を強要される。あるいは昼休 みの終わりに君が代のメロディを流がし、どこで何 をしていようも直立不動の姿勢をとらせる、という ように。


「君が代・日の丸」が過去に国際社会で果たした役 割について

 今年に入ってからほとんど毎日、新聞に「戦後五 十年」という文字が目につく。たとえば今日(7日) の朝日新聞朝刊に「戦後五十年・第4部」と言う特 集がある。その大見出しは「アジアに侵略のわだか まり」であり、その見出しの添え書きは「中国も 韓国も日本を友人とは考えていない。日本に対する 態度は厳しい。」である。

 上記の見出しだけで私は、アジアの人々にとって 「君が代・日の丸」がどのようにみえるのかがす べて解るような気がする。「君が代・日の丸」はア ジアの人々にとっては領土を侵し、人民を虐殺しな がら進軍する大日本帝国軍隊の象徴である。 「日の丸」を「血の丸」と呼ぶ人もいる。勿論 日本人の中にも思いを同じくする人がたくさんいる。 その人たちにとって日の丸がシンプルできれい なはずがない。「あれは侵略戦争ではなかった。」 というような発言が最近段々と声高になってきて いるが、困ったものだ。過去の誤りをはっきりと誤 りと認めるところから、未来への道は開ける。 過去をうそで固めて隠蔽したままでは未来を誤る。

 ところで、例えば感覚的には私にとって日清・日 露戦争は遠い昔の出来事である。昭和の十五年戦争 はもう五十年も前のことだから、もしかすると君た ちにとっては、私にとっての日清・日露戦争と同じ 位遠い昔の出来事で「関係ない」ことなのかも知れ ない。しかし昭和の十五年戦争の戦後処理はまだ終 わっていない。だからこそ「戦後五十年」が問題に なっている。君が代・日の丸の問題を考えるとき、 アジアの人々にとってそれは日本のアジア諸国への 侵略の象徴であったことを忘れてはならないだろう。

 戦争の歴史(日清・日露戦争なども含めて)を捉 え直す必要があるし、それが残した負の遺産からも 目を逸らしてはいけない。

「国家」について

 私は最近よく、卒業式や入学式での君が代・日の 丸の強制に反対する人に「君が代・日の丸ではな い国歌・国旗ならいいんですか。」と問いかける。 この問はたぶん、「国家とは何か」と言う問と 同義ある。

 アンケートの回答に「日の丸は好きだけど、卒業 式にはないほうがよい」と言うような主旨のも のがかなりあった。君たちにとっての日の丸は、 たとえばオリンピックなどから受ける感動と強く 結びついて、その限りでは好ましいもののようだ。 しかし一方で、卒業式などに現れる日の丸はな んとなくうさんくさいぞ、と言う感覚もあるのだ ろう。この二つに裂かれた感情・感覚の根拠を掘 り下げていくと、たぶん「国家の本質」に突き当 たる。

 道路を造ったり橋を架けたり学校を建てたりな ど公共の事業を遂行したり、国民の財産・生命の 安全を図ったり、福祉を増進したり、などなどの 社会・経済的な役割を果たす国家を社会的国家と 呼ぶ。相互扶助を旨とする村落共同体が発展して きたものとしての国家。

 これに対して国民を支配 し疎外する国家、君が代・日の丸の強制のように 心の中まで支配しようとする国家(元号の強制で 時間まで支配しようとする)を政治的国家と呼ぶ。 「宗教が法となり、法が国家となる」と言うよ うに発展してきた共同幻想としての国家である。

 この二つの国家が錯綜して一体となったもを普通 国家と呼んでいる。この二つの国家は分かちがたく 錯綜しているので国家に関かわる議論もいろいろ と錯綜することになる。日の丸をめぐっての二つ に裂かれた感情・感覚は、国歌・国旗がこの二つ の国家の象徴として使い分けられていることによ る。

 政治的国家の象徴としての役割を担うときの 国歌・国旗は君が代・日の丸であろうとなかろう とうさんくさい。

 現実として国家の成員には利害を異にする諸階 層があり、その諸階層は社会的国家のイニシアチ ブをとるための権力抗争をしている。社会的国家 が行なう事業は政権を担当する政党が代表する階 層の利害を優先するから、政権政党よってずいぶ ん変わる。そしてどの政権政党もその抗争に勝ち 続けるためには政治的国家の機能を最大限に利用 し、すべての階層を支配しようとする。だからど の政党の下でも政治的国家の本質はかわらない。 労働者の国家を標榜する国家が政治的国家として どんなひどい国家になっていったか、その無残な 姿をつい最近われわれは目の当たりにしたばかり である。

 どの国家も教育(学校)を政治的国家の最も有 効で忠実な布教者として利用しようとする。教育 は政治的国家からは常に相対的に独立していなけ ればいけないのだ。学校は常に政治的国家に対す る批判力・抵抗力の拠点となるべきであると言っ たら、いささか大仰すぎるだろうか。とまれ 「君が代・日の丸ではない国歌・国旗」だって、 政治的国家を象徴する限り駄目なんですよ。これ が私の結論だ。

未来に向かって

 職員会議の決定を無視してまで日の丸掲揚を強 行した校長の言い分は(文部省や教育委員会の言 い分を口移ししているだけなのだが)おおよそ次 のような主旨だった。「これからの国際化社会に 向かって、他国の国歌・国旗を敬うように生徒を 教育しなければならない。他国の国歌・国旗を敬 うようになるためにはまず自分の国のそれを敬う ことが必要だ。」

 文部省の本当の意図は別にあり、上述のような 理由付けはもともとたてまえ論で大した意味があ るわけはない。しかしそれにしても「国際化」と いうことを随分と矮小化したものだ。上述のよう なことは政治的国家間の儀礼の問題でしかない。 今更うんぬんする問題でもないし、教育の問題で もない。

 真の国際化とは国家の枠を越えて、民間レベル での交流・交歓を広く深く押し進めることである。 それが真の平和と友好を産み育てる。そのとき必 要なのは国旗・国歌の尊重ではなく、他国の歴史 ・文化の深い理解と尊重である。国旗・国歌を殊 更に重視する姿勢は容易にウルトラナショナリズ ムに傾斜する。(そういえば君が代・日の丸は右 翼のトレードマークでもある。)日本やドイツの ウルトラナショナリズムは隣国や他民族を蔑視し、 抑圧し、虐殺し、その文化を蹂躙してきた。 自国民に対しても、意見を異にするものを非国民 よばわりし、容赦なく弾圧・虐殺する。同じ轍を 踏んではならない。

 国家の枠と意図を越えて、民間レベルでの国際 化はもうとうに深く広く進んでいる。さまざまな 地域でのさまざまな種類のボランティア活動、音 楽・芸術・芸能を通しての闊達な交流・交歓、 インターネットに代表される情報流通の広範で自 由な往来などなど。これらの活動が友好を産み、 信頼関係を築き、相互理解を深め、平和の礎とな る。国歌・国旗など全く必要としない。ナショナ リズムを鼓舞する方向はいつか来た道である。 政治的国家を止揚する道筋こそ未来を開く。

今日の話題

「君が代・日の丸」でなければいいのですか?

 私はよく、卒業式や入学式での「君が代・日の丸の 強制」に反対する人に「君が代・日の丸ではない国 歌・国旗ならいいんですか。」と問いかける。「君 が代・日の丸」の代わりの国家・国旗を作ることを問 題解決の一つの方法と考えている人たちは肯定的に 答えるだろう。
 しかしたいていの人は、戸惑ってしまって答えに 窮するようだ。はっきりと「君が代・日の丸ではな い国歌・国旗でもだめだ。」と答える人に出会った ことがない。

 上の文章は 「国家とは何か(1)」 (第20回2004年9月3日)の一部を再録したものだ。大岡みなみ さんの「身辺雑記」の 『9月13日(木曜日) 問題の本質は「強制」』 を読んで上の記事を思い出した。

 大岡さんの記事は、神奈川の教職員組合の分会 教研(教育研究集会)で行った講演の報告記事だ。 私が共鳴した部分を次に転載する。

 質疑応答の時間も15分ほど。天皇制の問題にこだ わりを持つ教員から、「日の丸・君が代」を論じる 際には避けられないテーマではないかという質問が 出たが、僕は必ずしもそうは思わないと答えた。 「日の丸・君が代」ではない別の旗と歌が作られて も、強制されたらやはり「思想・良心の自由」を 侵害することになるわけで、問題の本質は 「日の丸・君が代」そのものにあるのではない。 「全員を一律に同じ方向に向け させる」ことこそが問題なのだ。 旗と歌はそのための道具であり、「日の丸・君 が代」はその象徴なのである。赤い旗や青い旗 なら強制していいかというと、決してそんなこ とはない。論理的にはそういうことになるだろう。 そこのところをきちんと踏まえておかないと、 強制する側(国粋主義のタカ派政治家や教育行政 など)と逆の意味で一緒になってしまう。 「日の丸・君が代」に反対する人たちの危うい 部分でもある。



 私が抱いてきたのと同じ危惧を表明している。 「強制する側と逆の意味で一緒になってしまう。」 という文は分かりにくいが、たぶん「国家とは何 か(1)」で述べた私の文脈で言えば、政治的国家 に対するスタンスの取り方が「強制する側」と同 じではないか、という危うさのことだと思う。 単なる心情的なあるいはイデオロギー的な反対論 は、国家論を欠くとき、状況によっては 「強制する側」に逆転する恐れがある。

 もちろん私は、世襲君主の支配の永続をことほぐ歌 「君が代」を厳粛に歌うことなどは真っ平ごめんだ。 またもともとは天皇家の旗として規定された「日の丸」 を私たちを象徴するものとは認めない。それに、 どちらも天皇の軍隊の侵略戦争におけるシンボルで あった点でもその歌と旗に対する嫌悪感は強い。 しかし、ただそれだけが私が「君が代・日の丸の 強制」に反対する理由ではない。「君が代・日の丸」 もさることながら、「強制」という行政権力による 思想・信条の自由に対する侵害そのものを問題にし ている。だから、「旗や歌には罪がない」というよ うな、よく聞かれる「君が代・日の丸」擁護論は 私には成り立ない。罪があろうとなかろうと、 何よりもまず「強制」が問題なのだ。

 「君が代・日の丸の強制」と闘っている人の中に、 いままで「君が代・日の丸」に対してなんらマイナス イメージを持っていなかったが、「強制」されること に対して不服従を貫いてきたという人もいる。私は 「君が代・日の丸の強制」と闘う人たちの集会や 裁判に何度か参加してきたが、この「強制」そのも のが問題なのだという観点がはっきりと共有されて いるのか、危惧を持ってきた。それが「君が代・日 の丸ではない国歌・国旗ならいいんですか。」とい う私の問となっていた。
今日の話題

亡国の歌+苦界浄土

 昨日(9月15日)の東京新聞夕刊に、ひとり芝居 『天の魚(いを)』が14年ぶりに公演されるという 記事があった。続いて、『週間金曜日』でも公演再 開の記事(山村清二「いま、ここからの"もやい直し"」) にであった。

 この芝居は石牟礼道子さんの著書『苦界浄土  -わが水俣病-』の一章を脚本化したものだ。 石牟礼さんには『天の魚』という著書もある。

 でも、なぜいま水俣病なのか。「いま、ここから の"もやい直し"」から引用する。

 2004年の水俣病関西訴訟最高裁判決によって 国・県の行政責任が確定した後、新たな認定申 請が相次ぎ、申請者は5000人を超えた(2007年 5月31日現在)。だが、環境省は今も認定基準を 見直そうとしない。

 一方、水俣市では、大型の産業廃棄物最終処分 場の建設計画が、多くの市民の反対にもかかわら ず、県と企業によって強引に進められている。 「公式発見」から半世紀が経過した今日でも、 水俣病はまったく終わっていない。

「患者の皆さんの苦闘がいまなお続いているのと 同時に、水俣を考え続けることの普遍性、重要性 がますます感じられてきているとさえ言えるので はなでしょうか。」(『天の魚』復活プロジェク ト趣意書より)

 さて、『天の魚』の記事にたて続けに出合って、 私は三十数年前のことを思い出した。私は高校の 教員をしていて、当時担任をしていたクラスで ホームルームの時間に生徒たちに配布したプリン トのことである。朝日新聞に掲載された石牟礼さ んの「亡国の歌」という文章と『苦界浄土』の 一節を交合に配置したものだった。それを探し出 した。(よくとっておいたものだ!)

 そのプリントで私は次のような解説を書いている。 (若気のいたり、鼻持ちならぬ気取りがチト恥ず かしいがそのまま転載)

…人間の、人間と世界との関わりの根源を支える 真理を全きものとして表出するのが真の詩といえる のなら、それ(『苦界浄土』)は詩として書かれた ものではないが、どんな詩よりも詩であると、ぼく には思えた。…

…「亡国の歌」の…被害者の悲惨さはもとより、 加害者の荒廃しつくした精神のなんという恐ろしさ。 しかもそれが現代の圧倒的な風潮であるらしく、君 の心もぼくの心も同じ思想にひたひたと侵されつつ あると、実際に程度の差はあれ日常の様々な場面で 同じ思想に裏うちされた言動をしばしば発見できる ことに気づけば、さらに恐ろしい。加害者は誰だ。

…「亡国の歌」の爺さま婆さまと「苦界浄土」の 爺さま婆さまとが同一人物ではないとしても、 同じ水俣の人であれば、それらからにじみでてくる 怨嗟のうめきは、お互いに手をさしのべ、呼応し合 う。ぼくらの心はそのうめきの渦の中にもがき、 一生忘れぬように大きく傷つけ。ぼくらの思想の 原点となるまで。


「亡国のうた」+「苦界浄土」 石牟礼 道子

ひとつ 積んでは 母のため
ふたつ 積んでは 父のため

 自分の魂をあやすような、かすれたひくい声で婆 さまは歌う。

「ぐらしか、ぐらしか(哀れでならぬ)、おまい(お前)のこの手の、ぐらしゅうして」

 あの世に続く闇じゃと婆さまは夜毎思う。その闇 の底に、深沈とまなこをあけている孫の、骨の限り になって外側にわん曲している細い細い手首を握り、 自分の掌ながら二振り、三振りして、

「賽の河原にいったら、たったひとつの石さえ、 おまいがこの手じゃあ」

 涙やらこっくりやら、ひとつ所に落として、婆さ まはまた一回り小さくなった。

 そら海の上はよかもね。
 海の上におればひとり天下じゃもね。
 魚釣っとるときゃ自分が殿さんじゃもね。  銭出しても行こうごとある。
 船に乗りさえすれば夢みっとても魚はかかって くるとでござすばい。ただ冬の寒か間だけはそげ んしたわけにもゆかんとでござすが。
 魚は舟ん上で食うとがいちばん、うもうござす。 舟にゃこまんか鍋釜のせて、七輪ものせて茶わん と皿といっちょずつ、味噌も醤油ものせてゆく。 そしてあねさん、焼酎びんも忘れずにのせてゆく。

 手の指のみか、足首のみか、首のみか、がっくり 折れて、鳴けぬ鳥のように目をあけて、口の五体も かなわぬ体にされて生まれた胎児性水俣病の孫に、 自分の体をひきずりひきずり付きそっていた爺さま も、去年の桜の終わるころ死んだ。

 網も帆も、虫やねずみの食うにまかせてぼろぼろ の舟納屋の、その網の下から爺さまが生前隠してい た焼酎びんが出てきた。

 「魂が飛ぶようになるまで」爺さまは飲むことが あった。魂が飛ぶようになるまでは、低く低く、 世をはばかり、世間よりも、地平よりも折れまがっ て暮らしていた。孫も息子も、自分も、「会社の 毒」で死ぬのである。孫のははじょ(母女)は行 方知れぬ人となり、彼女のさとも全滅に近い。 患家であればせんかたもない。

 昔から鯛は殿さんの食わす魚ちゅうが、われわれ 漁師にゃふだんの食いもんでござす。してみりゃわ れわれ漁師の舌は殿さん舌でござす。

 まだ海に濁りのいらぬながし(梅雨)の前の夏の はじめには、食うて食うて(魚が餌を食う)時を忘 れて夜の、明けることもある。

 こりゃよんべはえらいエベスさまのわれわれが 舟についとらしたわい。かかよい、エベスさまの おまいに加勢さしたぞ、よか漁になった。さすが におるもくらぶれた。だいぶ舟も沖に流された。 さてよか風のここらあたりで吹き起こってくれれ ば一息に帆をあげて戻りつけるが。

 すると、そういう朝にかぎって、あの油凪ぎに 逢うとでござす。不知火海のベタ凪ぎに油を流し たように凪ぎ渡って、そよりとも風のでん。そう いうときは帆をあげて一渡りにはしり渡って戻る ちゅうわけにゃいかん。さあそういうときが焼酎 ののみごろで。

 いつ風が来ても上げらるるように帆綱をゆめて おいて。かかよい、まま(飯)炊け、おるが刺身 とる。ちゅうわけで、かかは米とぐ海の水で。

 ひとーつ、と数えて二つめの石は積めぬ河原に 爺さまの魂を婆さまは呼びよせる。くずれ落ち続 ける石に埋められて、石のあいからさしのべて、 外側に、そる指の、骨の声のような水俣病患者たち、 公式発生から17年、医学的には救済の道なく放置さ れ、行政には黙殺され、地域社会からは、差別隠 ペイ憎悪されて今も死につつ公式死者45名。

 法名釈良善位、享年72才俗名半永多良喜、と記し た位牌の前にさすり寄り、婆さまは

「わればかり早うこういう姿になって。婆にばかり 業をうちかぶせて、のう爺やん。」

と仏壇にいう。爺さまより二つ上の姉さま嫁御で、 青いこめかみの、異様に黒く染め流した鬢の毛の中 に膏薬をはり、とぼとぼときいた。

「会社の社長さんのお名前は何ちゅうお名前じゃっ たろか。忘れぬように書いて、お位牌の後ろにはら んば。そして、そのわれは、まあだ達者じゃろうか い。」

 無辜の民、とこれらの人びとをよべば言い足りぬ。 度はずれた魂の無垢さと、受苦の深さによって、 もはや現代の聖なる民、といえば、いう側の怒りが 美化される。

 沖のうつくしか潮で炊いた飯の、どげんうまかも んか、あねさんあんた食うたことあるかな。そりゃ、 うもうござすばい。ほんのり色のついいて、かすか な潮の風味して。

 かかは飯たく、わしゃ魚ばこしらえる。わが釣っ た魚のうちからいちばん気に入ったやつの鱗ばはい で舷の潮でちゃぷちゃぷ洗うて。鯛じゃろうとおこ ぜじゃろうと肥とるかやせとるか、姿のよしあしの あっとでござす。あぶらののっとるかやせとるかそ んときの食いごろのある。鯛もあんまり太かとより ゃ目の下七、八寸しとるのがわしどんが口にゃあう。 鱗はいで腹をとってまな板も包丁もふなばたの水で 洗えばそれから先は洗うちゃならん。骨から離して 三枚にした先は沖の潮ででも、洗えば味は無かごと なってしまうとでござす。

 そこで鯛の刺身を山盛りに盛りあげて、飯の蒸る るあいだに、かかさま、いちょ、やろうかいちゅう てまずかかさにさす。

 あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天の くれらすもんをただで、わが要ると思うしことって その日を暮らす。

 これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。

 大正14年、チッソは、工場汚水の補償を漁業組合 から要求されたとき、「永久に苦情を申出ない」こ とを条件に、木の葉を金に換えたような見舞金1500 円也を支払う。昭和18年、問題再燃、チッソは再 び大要次の如き補償契約を結ばしめる。

一、 工場の汚悪水、諸残渣、塵埃を組合の漁業 権ある海面に廃棄放流することによる、過去及び 将来永久の漁業被害の補償として、一万二千五百円 を支払う。
二、 組合及び組合員は将来永久に一切の損害補償 を主張しない。ー略ー
三、 将来漁業組合の権利を継承するものが生じた 場合、同組合は、その者に本契約条項を履行させる 積に任ずる。

 不浄の金にまみれたことのなかった人びとに、 見せ金をしてあざむき、不遜にも、太古より生きと し生ける命の母胎であった海を、子々孫々にわたり 買いとったというのである。この時よりすでに水俣 の海は呪われる。日本科学工業資本史の典型を描き ながら、チッソは発達し続ける。1960年代経済高 度成長なるものが、わが列島に加えつつあった底 知れぬ企業犯罪のトップを担いながら。

 寒うもなかまた灼け焦げるように暑うもなか夏 のはじめの朝の海の上でござすで。水俣の方も島 原の方もまだモヤにつつまれてそのモヤを七色に 押しひろげてひいさん(陽様)の昇らす。あゝよ んべはえらい働きをしたがよかあ気色になってき た。かかさまよい、こうしてみれば空ちゅうもん はつくづく広かもんじゃある。空は唐天竺までに も広がっとるげな。この舟も流されてゆけば南洋 までもルソンまでも流されてゆくげなが、唐じゃ ろうと天竺じゃろうと流されてゆけばよい。今は 我が舟一艘の上だけが極楽世界じゃのい。

 そういうふうに語りおうて海と空の間に漂うて おればよんべの働きのくたぶれてとろーりとろー りとなってくる。

 するうちにひときわ涼しろか風のきて、

 迫りくる生存の危機感から、不知火海沿岸漁民 約四千が工場なぐり込みに出た昭和34年暮れ、 チッソは再三正体を暴露する。国際的「古典」と なって悪名高き、かの、水俣病患者家庭互助会に 結ばしめた見舞金契約書がそれである。

 死者の命三十万、不治の体の子どもの命年間三万 (一万円で妥結させようとした)大人の命十万とし、 将来水俣病の原因が同工場排水であるとわかって も一切追加補償要求を行なわぬ旨の一札をとった。 以後物価変動に伴い要求されて、若干命の値上げを したが、患者29世帯が44年6月訴訟提起するに及び、 被告側第二準備書面に右見舞金契約条文を麗々しく かかげ「和解契約」とよびまぎらわし、患者らの本 訴訟請求を理由なしとして、先住地域住民の命を 自社の製品以下に扱い臆面もない。

 明治十年代の足尾鉱毒事件以後、今日にひきつが れてあらわれた渡良瀬川流域の巨大な荒廃は、同じ 思想の源流からよりきたり、至るところ、国土資源 の荒廃は果てしもない。

 さあかかよい、醒めろ。西の風のふき起ころいた ぞ、帆を上げろ、ちゅうわけで。

この西の風が吹けば不知火海は、舟の舳はひとり でに恋路島の方にむきなおって、腕をまくらで鼻 は天さね向けたまま舵をあつこううちに、海の上 に展いた道に連れ出されて舟はわが村の浦に戻り 入ってくるとでござす。婆さまよい、あん頃は、 若かときゃほんによかったのい。



 「亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国なり。」 亡国とは「自分の大切なるところの人民を自分の 手にかけて殺す」ことだと田中正造はいった。 「亡国」の亡霊が、水俣病事件を予兆として 1970年代によみがえるのを私たちはみる。

 どのように大ざっぱにみなすとも、全列島的規 模で、太平洋岸からびっしり食入った産業資本群 が吐き出し続ける無処理工場廃液は、もはやこの 国土の内蔵がよじり出す吐血じみてきた。正体不 明の化学薬品のはんらんと、おおいかかる毒ガス 状煤煙で、この国は緩慢なる窒息の時代に入った。

 海も河川も地表も、地下水もそこにいた生命たち も最終宿主の人間はさらに確実に、有機塩素化物群 や有機リン酸系薬品を蓄積する。厚生省は残留農 薬研究要員等の増員をゼロ査定したという。

 どのような新種の「水俣病」を背負って、我が 子我が孫が生まれてくることか知れたものではない。

 なああねさん、わしどんがみょうと(夫婦)と いうもんは破れ着物は着とったが、破れたままに ゃ着らず繕うて着て、天の食わせてくれらすもん 食うて、先祖さま大切に扱うて神々さま拝んで、 人のことは恨まずに人のすることは喜べちゅうて、 暮らしてきやしたばい。

戦争意志とは何か(5)

1941年の第二回御前会議


 戦前・戦中の日本では、重要な国策はすべて 天皇臨席の御前会議によって決定された。

 しかし、実質的な討議は大本営陸海軍部と政府 との連絡会議で行われている。そこでの意見の集約 (成案)を天皇に報告する。天皇はあらかじめ その内容を知悉している。そのようにすべての お膳立てができてから御前会議がひらかれる。

 御前会議は、中国への全面的な侵略戦争から太 平洋戦争開戦にいたるまでに8回ひらかれている。

第一回 1938年 1月11日 南京攻略後
    近衛声明「国民政府を相手にせず」

第二回 1938年11月30日 漢口攻略後
    近衛声明「東亜新秩序建設」

 いずれも日中戦争にたいする基本方針をきめた もので、重要な会議だった。

第三回 1940年 9月16日
    日独伊三国同盟の締結を決定

第四回 1940年11月13日
    「日華基本条約案」と「支那事変処理要 綱」を決定

 ここで日中戦争の戦略方針は持久戦へと変更された。

 すべてが太平洋戦争への道へとつながる重要な 決定が行われている。大日本帝国の政治コースは つねに御前会議で決せられたことになる。 この会議が最高の機関であり、きめられたことは 不変であり、至高の命令となった。

 そして、より直接に太平洋戦争へと直進するこ とを決めていったのが、1941年にもたれた都合四 回の御前会議であった。その第一回7月2日の御前 会議については前回取り上げた。

7月 2日 第一回御前会議
     「帝国国策要綱」。南進決定、 「米英戦を辞さず」

9月 6日 第二回御前会議
     「帝国国策遂行方針」。戦争準備、 外交交渉を併行。


 この1941年の第二回御前会議の模様を『昭和史探索』 から引用する。かなり長いが、御前会議は天皇の戦 争責任問題を考える上での重要な要素なので詳しく引用し たい。(構成を時間列に変えたり、中略したり している。)


 昭和16年の暑い夏は、空しく過ぎていった。

 その間に近衛首相がしたことは、対ソ攻撃の強硬 論者であった松岡外相を、内閣総辞職によって追 い出し、第三次内閣を組織したことだけである。 だが、新内閣に対する天皇の期待はなお大きなも のがあった。首相みずからがトップ会談で和平の 道を切り開こぅとしている。木戸も大いに期待し ていた。臥薪嘗胆を説いたとき、近衛はたいへんに 興味を示して耳を傾けていたからである。

 この日(9月5日)、近衛が強調していた日米首脳 会談による難局打開に対する、アメリカからの回答 がとどいている。それは首脳会議を開く前に予備会 議をひらく必要をのべ、首脳会談をやわらかく否定 し、どんな会談をもつにせよ、アメリカの基本的な 立場は、日本の中国からの撤兵と三国同盟の廃棄に ある、と主張してきたものであった。もちろん、 中国からの撤兵も三国同盟廃棄も、日本の陸海軍の みとめるところではない。

 9月5日午後4時半ごろ、連絡会議で意見一致した 御前会議の議案をもって参内の近衛首相の手ににぎ られていたのは、思いもかけぬ内容のものであった。

一、米英に対し戦争準備をする。
二、これと併行して日米交渉を進める。
三、十月上旬になっても日米交渉成立の〈目途な き場合は〉英米に対し戦争を辞せざる決意をする。

 臥薪嘗胆はおろか、国策の第一に戦争の準備が あげられている。しかも御前会議は明日だという。 木戸は驚いて、近衛を難詰した。

「とつぜんに、こんな重大案件をもってこられて は、陛下にお考えになる暇もなく、お困りになる 外はないではないか」

 近衛が手にしてきた決議案をみせられて、天皇は いった。

「これをみると、一に戦争準備を記し、二に外交 交渉をかかげている。何だか戦争が主で外交が従 であるかのごとき感じをうける」

 近衛は答える。

「ー、二の順序はかならずしも軽重を示すものでは ありません。政府としては、あくまで外交交渉を 行ない。交渉がどうしてもまとまらぬ場合に、戦 争準備にとりかかるという趣旨であります」

 天皇はこの答弁で納得しなかった。このあと、 急遽、杉山(陸)、永野(海)の両総長が宮中に よびだされる。近衛が宮中についたのが4時半こ ろ、両総長がよびだされて天皇に会ったのが6時、 あわただしい日本の動きであった。

 天皇と両総長との質疑応答も、近衛手記にある。 あまりにも有名なくだりであり、少し長くもある が、重要なので、わかりやすく書き改めて引用す る。

天皇
 日米に事おこらば、陸軍としてはどれくらいの 期間にて片付ける確信があるか。

杉山
 南洋方面だけは三ヵ月で片付けるつもりであり ます。

天皇
 杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき 陸相として「事変は一ヵ月くらいにて片付く」と 申したように記憶している。しかし四ヵ年の長きに わたり、まだ片付かないではないか。

杉山
 支那は奥地が開けており、予定どおり作戦がうま くゆかなかったのであります。

天皇
 支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広 いではないか。いかなる確信あって三ヵ月と申す のか。

 杉山はすっかり弱ってしまい、ただ頭をたれた きりで答えることもできなかった。みかねた永野 がそばから助け船をだした。

永野
 統帥部として大局より申し上げます。今日の日 米関係を病人にたとえれば、手術をするかしない かの瀬戸際にきております。手術をしないで、こ のままにしておけば、だんだんに衰弱してしまう おそれがあります。手術をすれば、非常な危険が あるが、助かる望みもないではない。……統帥部 としては、あくまで外交交渉の成立を希望します が、不成立の場合は、思いきって手術をしなけれ ばならんと存じます……

 永野は、7月29日に、開戦となった場合「日本海 海戦のような大勝はもちろん、勝ち得るや否やもお ぼつかない」と、天皇に明言していた。それがいま は大手術を説くのである。

 もっとも、当の永野にいわせると、必ずしも近衛 手記のようにいったわけではないらしい。宮中から 戻ってきた永野は、部下の幹部に〝こうお答えした″ と語っている。

「杉山の申しますことは、必ず三ヵ月にて片付くと か、必ず勝利を得るという確定的なことを申し上げ るのではなく、そのような算が多いことを申してい るのだと存じます。クラウゼヴィッツも戦争に必ず 勝つと予言するのはまちがいで、勝算が多い少ない ということがいえるだけであって、実際の勝敗は やってみなければわからないといっています。 杉山は、その勝算をいっているのでありましょう と申し上げ、ようやく御気色もやわらいで御前を 引き下がるをえた……」

 それはともかく、二人の統帥部の長の不満足な、 矛盾した説明に対して、天皇は「御気色をやわら いで」はならなかった。そんなあやふやなことで、 国家の運命を賭けることはできないのである。

 そこで天皇は訊ねた。

「それでは重ねてきくが、統帥部は今日のところは 外交に重点をおくつもりだと解するが、それに相違 ないか」

 両総長はケロリとして答えた。

「そのとおりであります」

 この段階にまできての、外交による日米間の妥結 など、およそ二人とも信じてはいなかった。もちろ ん戦争はソロバンだけではじくのではない。が、 勝算のとぼしい戦争に眼をつぶってとびこもうとい うのである。

 6兆550億円の戦費を投じ、19万人が戦死、95万人 が傷つき、あるいは痛み、しかもなお75万人が戦場 である中国大陸にあった昭和16年に、さらに大戦争 に突入することの正否をば、勝算よりもさきに論 ずべきではなかったか。

 機会は去っていった。歩みはじめた道を振り出 しに戻す、ただ一度のチャンスは、こうしてはる かに遠のいていった。 君臨非統治の西園寺方式を このときに破る、天皇の一言が必要であった。 軍は、不意の両総長の宮中召集に、ガク然、色を 失っていたときだからである。

 その日の「大本営機密日誌」は書いている。

「……南方戦争に関し種々御下問二時間にわたり、 両総長は退下した。一時は参謀本部内の空気は サッと緊張したが、御前会議は、両総長の奉答 により御嘉納あったようで、一同安堵した」

 翌9月6日の御前会議は、皇居の千種(ちぐさ) の間で、すじ書きどおりに「戦争を辞せざる決意 の下に」外交交渉をおこない、「十月上旬頃に至る も尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、 直に対米(英蘭)開戦を決意す」という国策をき めた。10月上旬までは、9月6日から一ヵ月しかな い。

 この決定は、日本軍部が日本政府に送った最後 通牒といってもいい。しかも錦の御旗のサイン入 りである。これまで五ヵ月もかかってまとまらな かった日米交渉を、あと一ヵ月でまとめるという ことに、だれが確信があったのか。十中の八、九 は戦争であるとし、陸軍も海軍も、天下晴れて戦 争準備に精をだした。銃剣の音を高鳴らせても文 句をいうものがいない。
戦争意志とは何か(4)

南部仏印進駐というターニングポイント


 「日独伊三国同盟」が1940年におけるターニング ポイントであったが、1941年でのそれは「南部仏印 進駐」であった。そこに至るまでの経緯をたどって みる。

4月13日 日ソ中立条約成立
4月18日 ハル米国務長官、野村吉三郎駐米 大使に日米諒解案を提議


 1941年初めには和平を目指した日米交渉が進めら れていた。メンバーは、日本側からは野村大使 ・井川忠雄(近衛の側近)・若林要公使・岩畦豪雄 大佐(いわくろひでお、軍務課長)の四人、アメリ カ側はハル国務長官・バレンタイン・ウ オルッシュ牧師・ドラウト牧師の四人。「日米諒解 案」をめぐる経緯を半藤さんは次のようにまとめて いる。

 彼ら(アメリカ側代表)は険悪となった日米関係 を改善すべく〝打開策″を日本側に提出した。これ を土台にして軍務課長君畦豪雄大佐および近衛の側 近の井川忠雄と、両神父とが協議を重ね、非公式な がらも「日米諒解案」の文書が16年4月にまとめあ げられた。この案の趣旨に政府も陸海軍部も同意し、 さっそく政府の訓令がワシントンへ飛んだ。

 これを受けて正確には4月16日(松岡外相はまだ帰 国していない)、野村と米国務長官コーデル・ハル との間で、まさに正式の日米交渉がはじまった。 日米交渉は前途に光明を見出そうとしたのである。

 ハルは、まず話し合いの土台として、
「すべての国の領土と主権の尊重、内政不干渉、 すべての国の平等の原則の尊重、太平洋の現状維持」のいわゆる〝ハル四原則″
を日本側に示した。

 対して野村は、東京から送られてきた「日米諒解 案」を提示する。それは、

①日独伊三国同盟は攻撃的ではなく、防衛的なもの であると日本が宣言する。
②日中間の協定によって、日本軍が中国から撤兵す る。
③中国に賠償を求めない。
④蒋介石・汪兆銘両政権の合流を助ける。
⑤中国は満州国を認める。

以上の条件を日本が認める。そしてアメリカはそれ をもとにして中国国民政府との平和の斡旋をする。 日米間の友好通商条約を正常にもどす、というも のであった。

 野村はハルをはじめアメリカ政府筋が日本案に 賛成であるとの感触をえて、「日米諒解案」でこ のまま交渉をすすめたい旨の電報を、東京に打っ た。たしかに、交渉はこのままスムースに進行し ていくかに思われた。

 ところが、優柔不断の近衛首相は外遊中の松岡 外相の帰国を待って、この諒解案をより正式なも のにしようと余計なことを考えた。そこに大きな 錯誤があったのである。

 4月22日、日ソ中立条約締結の素晴らしい土産を もって帰国した松岡は、日本のこれからの外交は俺 にまかせろと、まさに意気天を衝く勢いである。 日米のわけのわからぬシロウト連中のまとめた 「日米諒解案」など一瞥だにしない。「この案は 陸軍の陰謀である。交渉は俺にまかせろ」と真っ向 から反対を表明、大幅に修正してワシントンに送り つける。

 野村からハルに、松岡修正案が手渡されたのは 5月12日で、それから20日後の31日、こんどはアメ リカ側の第一次修正案、さらに20日たって6月21日 に第二次修正案が示される。もう原型をとどめないほ どずたずたである。

 一説にアメリカ政府はこの案をはじめから本気で 認めてはいなかったともいわれているが、いずれに せよ、松岡の横車で「日米諒解案」はあっという 間に水に流され、はじまったばかりの交渉は白紙に 戻り、日本は好機を虚しく失ってしまったのである。

 日米交渉はこのあと雲を掴むような話し合いとな る。いや、アメリカ政府の日本および日本人にたい する不信はつのり、事態は完全に悪化した。グルー は四原則に固執し、野村は日本のおかれた窮状を 述べる。これでは交渉が一歩も進まないのは自明の 理である。とうてい纏まるはずはないと、だれの 目にも明瞭きわまるものであった。何を目的に話 し合っているのかわからなくなったのであるから。

 続いて情勢は次のような経緯をたどる。

6月22日 ドイツ、ソ連に対し宣戦布告
7月 2日 第一回御前会議、「帝国国策要綱」決定
   南進決定、「米英戦を辞さず」
7月18日 第二次近衛内閣総辞職
7月19日外相松岡洋右を豊田貞次郎と交代させ 第三次近衛内閣成立
7月25日 米英、在米英日本資産を凍結
7月28日 日本軍、南部仏印進駐
8月 1日 米、対日石油輸出全面禁止

 この経緯の詳細を、再び半藤さんの文章で 補足しよう。

 そこへ全世界を震撼した大事件が勃発する。 アメリカの第二次修正案の示された翌日、 6月22日、ドイツ軍がソビエトへの侵攻を開始した のである。

 このことがずっと燻っていた軍部の南進論に火 をつけた。これで北方ソ連からの脅威はなくなっ た。それに世界の視線が独ソ戦争にむけられてい る。このチャンスを捉え、敢然として東南アジア に進出し、そこの資源、なかんずく石油を獲得せ ねばならない。ことに石油に飢えている海軍は、 4月上旬に陸海軍合意で決定している南進政策の 実行を強く陸軍にせまった。

 ワシントンの野村からは「南方に武力を行使す れば、日米交渉は妥結の余地なく、米英との衝突 を招く」と意見具申がとどいているが、それに構っ てはいられないとの切迫した想いが先走っている。 こうして7月2日、一方でドイツに呼応しての対ソ 戦を準備しつつ、その一方で、対米戦争を覚悟し 南部仏印進駐を強行する政策が、御前会議で決定 される。

 そして軍部のいうままになりつつある近衛は、 「南より北、三国同盟に基づいて対ソ戦争に参加 が先だ」と吼えつづける松岡外相が目ざわりとな り、これを追い出すために、いったん内閣総辞職 する。そして豊田貞次郎海軍大将を外相にむかえ、 第三次内閣を組閣したのが7月19日。この新しい 体制によって、日本はいよいよ南部仏印進駐の国 策遂行を決意する。

 日本の外交電報の暗号解読に成功していたアメ リカ政府は、この日本政府の決定を知ると、 7月25日、在米日本資産の凍結を公布し、日本の 侵略政策にたいする牽制的な報復手段に出た。

 それに怯まず日本は予定どおりに、7月28日、 いざという場合の南方作戦の前線基地にすべく 南部仏印に進駐を開始する。近衛や軍部の首脳 の一部は、平和的に進駐するだけならば日米関 係を最悪に導かないであろうと楽観していた。

 しかし、待っていたとばかりにアメリカは、 8月1日、対日石油輸出の全面禁止という戦争政策 で応酬してきた。この時点で、アメリカが対日戦 争の決意を固めたのである。

 予想だにしなかった海軍省軍務局長の岡敬純 少将は

「しまった。まさかそこまでアメリカがしてくる とは思わなかった。しかし、石油をとめられたら 戦争あるのみだ」

と悔いたが、すべては手遅れなのである。こうし て東京の中央部は日米開戦前夜といえる雰囲気に 包まれたという。

 あとは一潟千里(いっしゃせんり)である。 9月6日と11月5日の二回の御前会議をへて、 対米英開戦決定……さらには、近衛文麿の内閣投 げ出しによる、対米開戦論者のリーダー東条英機 の登場となる……

 とにかく、日本の指導者はまともな考え、つま り健全な常識を失って、熱病にうかされたように 亡国が決定的な戦争に突入していくことになるの である。ただ一つ、ドイツの勝利をあてにして、 である。
戦争意志とは何か(3)

日独伊三国同盟というターニングポイント


 1931年9月18日 の柳条湖事件から始まった中国への 侵略戦争(日中戦争)は、 1937年7月7日 の盧溝橋事件で全面的に拡大した。

 南京陥落(1937年12月)、武漢占領(1938年10月) と、日本全国が勝利に酔いしれていたが、中国の対 日抗戦は日に日に強硬となるのに反して、日本の 軍事動員力は限界に達し持久戦を余儀なくされてい った。

 軍事物資の無理な調達は当然に国民にしわ寄せさ れる。国内の生活物資さえ窮乏の一途をたどってい た。

1939年 4月12日 米穀が配給統制品となる
1940年 9月18日 賃金統制・価格統制
1940年10月 1日 石油が配給統制品となる
1940年11月25日 白米禁止
1940年12月25日 木炭が配給統制品となる

 戦後、アメリカ合衆国戦略爆撃調査団は 「日本戦争経済の崩壊」の中で

『日本が合衆国との戦争を決意したのはそもそも 正気の沙汰であったのか』

と大きな驚きを表明している。

 では、日本の戦争指導者たちは、勝者から 「正気の沙汰でない」と言われるほどに絶望的な 自国の戦争遂行能力に無知だったのだろうか。 そんなことはない。

1940年9月27日 日独伊三国軍事同盟成立

 この外交上での日米関係険悪化を決定付けた 日独伊三国同盟に対する枢密院審査委員会が開催され ている。この三国同盟が日米開戦にいたる露払いとな る可能性を委員たちは感じとっていたのか、 委員会では対米開戦を想定したときの 日本の石油事情について質疑がかわされていた。

 石油の欠乏について、河合枢密院顧問官、有馬 同顧問官が陸海軍大臣にそれぞれ質問したがはっき りした返事を得られず、南顧問官が更に重ねて同 じ質問を繰り返した。

南顧問官
 物資殊に石油の関係について更に心を安んずるに 足る説明を得たし

星野企画院総裁
 石油は相当量の貯蔵あるも最悪の事態長期にわ たるとき困難をまぬかれず

東条陸軍大臣
 石油は陸軍として若干期間の作戦遂行には充分な るも三年四年と継続したるときは自信を有しえず。 死中活を求め、解決を図るのほか方法なし

及川海軍大臣
 …‥(戦争が)長期にわたる場合は自然戦闘の 回数は減少するによりくりのべ使用せんとす

 このやり取りについて北岡さんは次のように述 べている。

 いうことや、考えることのなくなったときにし かでてこないようなコトバが横行している。これ で、アメリカをして、日本をうさんくさくさせた 三国同盟の締結審査の方も合格という次第であった から、かれらが開戦前一週間であっても同じような 調子で合議していたとしてもさして驚く必要もな い。案外、かれらは、なんということもなかった のかも知れない。

 また、日独伊三国同盟締結後の1940年10月14日の 日付で、山本五十六の次のような証言が記録されて いる。(岡田文夫『近衛文麿』より)

 自分の考えでは、アメリカと戦争するというこ とは、ほとんど全世界を相手にするつもりになら なければ駄目だ。要するにソヴェト不可侵条約を 結んでも、ソヴェトなどというものはあてになる もんじゃない。アメリカと戦争しているうちに、 その条約をまもって後から出てこないということ を、どうして誰が保証するか。

 結局自分はもうこうなった以上、最善をつくし て奮闘する。そうして長門の艦上で討死するだろう。 その間に、東京あたりは三度くらい丸焼けにされて、 非常にみじめな目に会うだろう。そうして結果に おいて近衛だのなんかが、気の毒だけれども、国 民から八つ裂きにされるようなことになりやあせん か。

 実に困ったことだけれども、もうこうなった以上 はやむをえない。

 国力の客観的な現状把握の努力も行われていた。 その年(1940年)の末に日本陸軍統帥部 は日本の国力の検討を陸軍省整備局に依頼し、 次のような結論を受けている。(林三郎『太平洋 戦争陸戦慨史』より)

(一)(昭和)十六年春季に米英と開戦する場合

 鉄鉱と軽金属は船舶の損害が著しくない限り、 後年の快復の望みがある。

 稀有金属と非鉄金属は他に取得の見込みがない から開戦三年目以降に著しく不足するであろう。

 そのころ液体燃料もまた同様の状態になるであろ う。

 他方、船舶の損害が大きい場合には石炭の輸送量 が減るから全産業を萎靡させる可能性が大きい。

(二)戦争を絶対に回避する場合

 もしも米英が対日経済関係を断絶すれば物的国 力は著滅して特に液体燃料の欠乏が致命的となろう。
 その時点までに既にアメリカは日本に対して 次のような牽制・規制をとってきている。

1939年7月 日米通商航海条約廃棄通告
1940年6月 特殊工作機械輸出制限
     7月 国防強化発進法を成立させ軍需物資 の輸出を許可制にし、更に石油・屑鉄にも許可制を とり、航空機用ガソリンの輸出を禁止す
     9月 屑鉄の禁輸
    10月 鉄・鉄鋼輸出許可制

 さらに1941年になると、いわゆるABCD包囲網が進展 し、仏印の対日米穀輸出が削減されたり、南方での ニッケル鉱・クローム鉱・屑鉄などの対日輸出が 禁止・制限されたりしている。

 この米英中蘭の強固な措置を受けて、陸軍省戦 備課は、1941年3月段階で、日本の物的国力の判断 結果を明らかにしている。次のような「判決」 を提示した。

 帝国はすみやかに対蘭印交渉を促進して、東亜 自給圏の確立に邁進すると共に、無益の英米刺激 を避け、最後まで米英ブロックの資源により、国 力を培養しつつあらゆる事態に即応しうる準備を 整えることが肝要である。

 しかし私たちが知っているのは、この「判決」 を無視した「無益の英米刺激」である。

1941年7月 日本軍、南部仏印進駐

 これがアメリカを硬化させた。アメリカの報復 は

7月 在米日本資産の凍結

 同月陸軍省統帥部は「11月1日対米英開戦」の想 定のもとでの国力の再検討を整備局に求めた。 整備局の回答は

『米英と妥協し得るにあらざる限り、経済封鎖的 状態の中に隠忍するも国家の衰頽を防止する手段 がない』

であり、開戦の途を暗示しながら、一方では、開 戦しても二年先の産業経済情勢に確信なしと、そ の出口のなさを明示した。

 日本の支配層は、日米両国間の経済的・軍事的 力量の絶対的ともいえる差を認識しつつも、開戦 やむなしという閉ざされた情況を打破できない位 置で立ち止ってしまった。

 この時、中堅幕僚たちの中で幅をきかせていた のは、次のような心情論であった。

『ジリ貧の国は永久に立ち直れぬが玉砕の国は立 ち上れる』

『日米戦争は負けるかも知れぬが戦わずして四等 国に堕するよりもいさぎよく戦って二千六百年の 歴史を飾るべきだ』

(以上は『海軍戦争検討会議記録』より)

 参謀本部第二十班が『機密戦争日誌』というのを 書き残している。次のような記述がある。

『沈思苦慮の日続く、一日の待機は一滴の油を消 費す。一日の待機は一滴の血を多からしむ』

 自国の国力に対する絶望的な認識のはて、 このような心情的な応酬だけが浮上してきただけ だったのである。

 1941年8月 東条内閣成立

 東条内閣成立時、『機密戦争日誌』次のように 書いている。

『いかなることあれども新内閣は開戦内閣ならざ るべからず。開戦、開戦、これ以外に陸軍の進む べき途はなし』

1941年8月 米、対日石油輸出全面禁止

 このアメリカの強硬措置が日本の支配層に甚大な 衝撃を与えた。この間の事情を、北岡さんは次のよ うに総括している。

 当時、企画院は石油保持量を三年と計算してい た。三年後には民軍需とも供給不能になるという ことである。

 陸軍省整備局はしかし、対支戦争と対米戦争が 並行すれば、陸海軍航空作戦のためには約一年、 海上決戦なら約半年しか戦えないという結論を出 していた。

 企画院総裁であった鈴木貞一がこのとき、

「現状を以て推移せんか帝国は遠からず痩身起つ 能わざるべし」

と述べ、戦後、物が足りないのになぜ戦争したのか という批難に応えて

「物が足りないからこそ戦争したのだ」

と反駁した事情は、この国力に対する認知に基づ いている。

 しかし、この国力に対する判断は〈政策〉に直 通してはいなかった。国力に対する判断は、この 事実認定を境にして右へ左へと分解している。 政府首脳・重臣たちが開戦にためらい、軍事担当 者たちが開戦に踏みきるべきだと主張したように。

 しかし、この違いに大した違いがあると考 えることはできない。右へ左へというのは、 このときの当事者たちに共有された心理の揺れを しか表わしていないが故にである。

 あらゆる議論 においてまとまりのつかないときは、声の大きい 方が有利を占めるという通説(!?)にいささか の真実があるなら、「戦争日誌」に見られるよう な怒声に似た焦りが、決心の決まらない政府文官 ・重臣たちを開戦の秤皿の方へ追いやった心理的 契機たりえたといえるのではないだろうか。決心 のつかない人間より決心のついた人間の方が強い のである。

 事実、石油全面禁輸は、それまで対米交渉をの らりくらりと延長させつつ、抜目なく南進政策を 実施し、かつ許容していた軍部や政府に、現状維 持を許さぬものとして立ち塞がったのである。す なわちそれは、アメリカ政府が日本政府をして中 国からの全面撤兵を受容するか否かの最後通牒と もいうべきものを代弁していた。
戦争意志とは何か(2)

昭和の15年戦争年表


 昨日、久しぶりの本屋をのぞいたらすごい本が目 に入った。

半藤一利編著『昭和史探索1~6』(ちくま文庫)

 半藤さんの解説や論考もあるが、どちらかという と資料集であり、膨大な資料が収録されている。 これを教科書として追加する。

 さて、対米英戦争を太平洋戦争と呼ぶが、 この戦争だけを切り取って論じることはできない。 太平洋戦争にいたるまでに大日本帝国が「選択し ていった政治過程・政治的動向」の累積を無視して は事の真相はつかめない。少なくとも満州事変まで は視野に入れなくてはならない。満州事変から太平 洋戦争までを一続きと考えて「昭和の15年戦争」と 呼ぶ所以である。

 まず、「昭和の15年戦争」のうち、 1931年~1940年のおおよその経緯を、年表で確認 しておこう。(随時、訂正・追加をしていきます。)

1931(昭和6)年
  3月 三月事件(軍部内閣結成の陰謀)
  9月18日 柳条湖事件(満州事変勃発)
  10月 十月事件(政治結社「桜会」による クーデター計画)

1932(昭和7)年
  1月 上海事件
  3月 1日 満州国建国宣言
  5月15日 五・一五事件

1933(昭和8)年
   1月  山海関占領
   2月  熱河作戦開始
   3月28日 国際連盟を脱退
   7月  神兵隊事件
  10月14日ドイツが国際連盟を脱退

1934(昭和9)年
   3月   満州帝政実施(皇帝溥儀)
   8月   ヒトラー、総統・首相を兼任
   9月18日 ソ連が国際連盟加盟
  10月   中国共産党の長征開始
  12月29日 ワシントン海軍軍縮条約を破棄

1935(昭和10)年
  2月18日 陸軍中将・菊池武夫、天皇機関説 (美濃部達吉)を糾弾
  3月16日 ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄
     ナチス・ドイツの再軍備宣言
  8月   第一次国体明徴・機関説排撃声明

1936(昭和11)年
   1月15日 ロンドン海軍軍縮会議から脱退
   2月26日 二・二六事件勃発
   3月   メーデー禁止通達
   3月 9日 岡田啓介内閣総辞職
      広田弘毅内閣成立
   5月   軍部大臣現役武官制復活
   8月   五相会議、「国策の基準」決定
      大陸・南方進出と軍備拡充などを含む
  11月25日 日独防共協定締結

1937(昭和12)年
   1月   政友会浜田国松、衆議院で軍部を批判
   1月   広田内閣総辞職
   2月   林銑十郎内閣成立
   6月   第一次近衛内閣が発足
   7月 7日 日中戦争勃発(盧溝橋事件)
   8月 9日 第二次上海事変
   9月22日 中国、第二次国共合作が成立
  11月   日独伊防共協定調印
  12月13日 日本軍、南京占領(南京の大虐殺)

1938年
   1月   近衛声明(国民政府を相手にせず)
   3月   衆議院国家総動員法案委員会で陸軍省佐藤資了中佐、宮脇長吉委員に 「だまれ」と怒鳴り問題となる
   4月 1日 国家総動員法施行
   4月 5日 徐州占領
   7月   張鼓峰事件(満州国東部国境でのソ連 との紛争)
  10月   武漢占領
      国内では祝賀の提灯行列、旗行列続く
  11月   東亜新秩序建設の近衛声明
  12月   近衛首相、日中国交調整三原則声明

1939(昭和14)年
   1月 5日 近衛内閣総辞職
      平沼麒一郎内閣成立
   2月 日 国民精神総動員強化方策決定
   3月15日 全国の招魂社を護国神社に改称
   4月12日 「米穀配給統制令法」を公布
      コメが統制品となる
   4月   満蒙開拓青少年義勇軍の計画発表
   4月   「青少年学徒に賜はりたる勅語」下賜
   5月11日 ノモンハン事件(日本軍・外蒙軍の衝突)
   6月16日 国民精神総動員委員会、「生活刷新案」を閣議決定
      日本国民の男子の長髪及び女子のパーマネントを禁止
   7月   米国、日米通商航海条約廃棄通告
   7月 8日 国民徴用令公布
   7月 8日 日英会談決裂
   8月23日 独ソ不可侵条約締結
   8月28日 『欧州の天地は複雑怪奇』という声明 を出して平沼内閣総辞職
   8月30日 阿部内閣成立
   9月 1日 第二次世界大戦勃発(ナチス、ポーランド侵攻)
   9月 3日 イギリス・フランス・オーストラリア, ドイツに宣戦布告
   9月 4日 日本、欧州戦争への不介入を表明
   9月16日 ノモンハン事件の停戦成立
   9月18日 「賃金統制令」・「価格統制令」公布
  10月 1日 石油が統制品となり、配給制となる
  11月21日 イギリス、海軍軍縮条約の無期限停止 を国際連盟に通告
  11月25日 国民へ「白米禁止令」公布
  12月   内閣情報局設置。
  12月   朝鮮総督府、「創氏改名」を公布
  12月14日 国際連盟がフィンランド侵略を理由に ソ連を除名。
  12月25日 国内の木炭が統制品となり、配給 制となる。

1940(昭和15)年
   1月   阿部信行内閣総辞職
   1月15日 米内内閣成立
   2月 2日 斎藤隆夫、反軍演説
   2月11日 紀元2600年祝典
   3月   内務省、「不敬な」名前の芸能人十六名に改名を指示
   4月   米殻強制出荷命令
   5月   木戸幸一、内大臣に就任
   6月14日 ドイツ軍、パリ入城
   7月   ドイツによるイギリス本土空襲始まる
   7月   畑陸相単独辞職により米内内閣総辞職
   7月22日 第2次近衛内閣成立
   7月   松岡洋右外相が「大東亜共栄圏」「日 ソ独伊の四国同盟」構想を説明。
   7月   日本労働総同盟解散
   7月   独ソ不可侵条約調印
   7月15日 満州の新京に建国神廟創建
   7月   大日本農民組合解散
   8月   国民精神総動員本部、東京市内に 「贅沢は敵だ!」の立看板を立てる
   8月15日 立憲民政党解散
      議会制民主主義が実質上停止
   9月   日本軍、北部仏印進駐
   9月27日 日独伊三国軍事同盟成立
  10月12日 大政翼賛会成立
  10月   ダンスホール閉鎖
  11月   大日本産業報国会結成
  11月   日華基本条約調印

1941(昭和16)年
   1月   全国の映画館でニュース映画強制上映開始
   1月 8日 東條陸相、陸軍全将兵に戦陣訓布告
   2月   情報局が各総合雑誌に執筆禁止者の名簿を 示す
   3月   改正治安維持法公布、予防拘禁制を追加
   4月   国民学校発足
   4月13日 日ソ中立条約成立
   4月18日 ハル米国務長官、野村吉三郎駐米大使 に日米諒解案を提議
   5月27日 フランクリン・ルーズベルト米大統 領が国家非常事態宣言
   6月22日 ドイツ、ソ連に対し宣戦布告
   7月 2日 第一回御前会議、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」決定
      南進決定、「米英戦を辞さず」
   7月12日 英ソ相互援助協定締結
   7月18日 第二次近衛内閣総辞職
   7月19日 外相松岡洋右を豊田貞次郎と交代させ 第三次近衛内閣成立
   7月25日  米英、在米英日本資産を凍結
   7月28日 日本軍、南部仏印進駐
   8月 1日 米、対日石油輸出全面禁止
   9月 6日 第二回御前会議、「帝国国策遂行方針」決定
      戦争準備、外交交渉を併行、10月上旬までに打開の目途なければ開戦
   9月30日 ドイツ軍、モスクワ総攻撃開始
  10月18日 第三次近衛内閣総辞職
      東條内閣成立
  11月 5日 第三回御前会議、対米交渉甲乙案決定
      来栖三郎大使をアメリカに派遣
  11月   米、日本の甲乙案を拒否(ハル・ノート)
  12月 1日 第四回御前会議、開戦決定
  12月 8日 日本軍の真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦
戦争意志とは何か(1)

戦争を引き起こすのは誰か


 ホームページの記事を書くことを、これまでの 不勉強を埋め合わせるためよすがとしている。他 人の言説の受け売りのような記事ばかりで内心忸怩 たる思いがないわけではないが、浅学非才ゆえ学習 報告のようなものしか書けないのでその点はお許し 願おう。

 しかし、私は生来の怠け者で、何か強制力がない とつい怠けてしまう。少ないながらも私の記事を 関心を持って読んでくれる人がいるので、それが ホームページを続ける強制力となっている。あり がとうございます。改めてお礼申しあげます。

 さて、順序が逆になるが、大日本帝国が米英との 開戦に踏み切るに至る経緯についても改めて勉強す ることにした。

 藤田尚徳の『侍従長の回想』によると、1946年2月、 ヒロヒトは戦争終結の「御聖断」は求められて下し たものだ が、開戦においては憲法の規定上それを止める権限 は自分にはなかったと、語っている。この主張は一 応理屈になっている。ヒロヒトにも三分の理という ところか。

 ではあの無謀な戦争を始めた責任は 誰にあったのかというと、一般には東条英機がその 筆頭に挙げられるが、私は個々人をはっきりと名指 しできないのではないかと思っている。その責任の 所在は大日本帝国という国家そのもの体質にあり、 大日本帝国の誕生時から蝕まれ累積されてきた宿痾 のようなものだったのではないかと思う。このよう な観点から米英との開戦への経緯をたどってみたい。 今は「戦後」ではなく「戦前」だと言われている 昨今、一つ前の「戦前」を知ることにも大きな意義 があるだろう。

 上記のようなモチーフに適した教科書を古いツン読 書から見つけた。

教科書:北岡輝紀『支配とは何か』
(『試行No.58(1982.3)~61(1982.9)』所収)

 私はこの論文の筆者のことは全く知らない。 北岡さんのその後の文筆活動を知りたいと思いイ ンターネット検索をしてみた。「北岡輝紀」 でヒットしたのは学林舎という学習教材会社の社 長さんだけだった。ご本人か同姓同名の別人かわか らない。北岡さん、論文の無断使用をお許しくださ い。

 いまフト思ったことがある。私のホームページを 訪れてくれる人たちの年齢構成はどんなだろうか。 中学生からのコメントが何度かあってびっくりした ことがある。もしかすると『試行』を知らない人も 結構いるのではないかと思った。『試行』を簡単に 紹介しておこう。

 同人誌『試行』は、「水準の高い責任のはっきり とした同人会を作りたい」という吉本隆明の提唱で 谷川雁、村上一郎の三人で始まった。1961年9月の ことである。創刊の言葉に「無名の思想を自立せし めるよりほかに、権力を否定する権力への道などあ りうるはずがない」とある。
 1964年第11号からは吉本隆明の単独編集の同人誌 となった。そして1997年12月の第74号をもって終刊 した。私は1977年7月の第48号から購読した。 三浦つとむさんや滝村隆一さんはこの『試行』を通 して知った。

 さて、本題に入ろう。上記論文は次のような構成 になっている。

一 開戦意志の現実的契機
二 戦争意志と戦争担当能力の形成
三 戦争意志 - その現実的契機
四 戦争意志 - その理念的契機
五 戦争意志 - その動力
六 戦争意志 - その動力としての〈事務官僚〉
七 戦争意志 - その動力としての(地位)

 戦争は政治の一形態である。ならば、戦争意志と は国家意志の一形態である。この論文はたかだか 日・米英開戦の経緯をたどることのみにとどまらず、 国家意志形成の契機や国家意志の実現(国家支配) の現実過程如何という問題の実例の一つとしても 読めるだろう。つまりこのシリーズは「国家論」の 一環でもある。 多分そういう意味合いで北岡さんは『支配とは何か』 という表題を付けたのだろう。(と、推測している が果たしてどのように展開されるか、見当はずれに なるかもしれません。)

 この論文のモチーフを述べていると思われる文章の 引用から始めよう。(以下、傍点などの付いた強調 文字は太字で代える。)

『ナチスの指導者は、今次の戦争について、その起因 はともあれ開戦への決断に対する明白な意識をもって いるに違いない。然るに、我が国の場合にはこれだ けの大戦争を起こしながら我こそ戦争を起こしたと いう意識がこれまでの所どこにも見当らないので ある。何となく何物かに押されつつ、ずる ずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの 驚くべき事態は何を意味するか。』

 これは丸山真男の文章だが、これを引用して北岡 さんは次のように言っている。

 我こそが戦争を起こしたのだという手合いを目の 当りにすれば、驚かざるをえないが、そういう人物 がいなかったことが、そんなに驚くべきことなのか。

 丸山は、自分の研究室を学生たちに荒されたとき、 自ら、梶棒なり丸太なりを振りかぶって怒りを表現 する代りに、「ナチスもやらなかった暴挙」と声を 震わす人間だから驚いたのかも知れないが……

 丸山はここで、「被告たち」がおかれていた歴史 的基盤すなわち、明治維新政府成立以来、間断は あっても戦争で戦争を養ないつづけてきたと言っても 許される位戦争を間近かにおきつづけてきたという 歴史的自然性に、いささかも目を向けていない。 敗戦を予測しえたとはいえ開戦に踏み切ることに、 現在の私たちが考えるほど決断がいったとは、思え ない。

 そう言うのが言い過ぎであるなら、次のように言 い換えてもよい。日本をずるずると大戦の中にひき ずりこんだのは、丸山のいうようなナチスと比較さ れる日本の指導者の無能・無力というもんだいでは なく、それを選択していった政治過程・政治的動向 によってであると。

 開戦前政治担当者たちのとった〈政策〉は一切、 後追い的になされたものにすぎない。〈政策〉は、 ここで〈現在〉の証明以上のものを意味していな い。

 次回から、日本の指導者たちが開戦を「選択して いった政治過程・政治的動向」をたどっていこう。
「終戦の詔書」を読み解く

ウヨさんにとっての「終戦の詔書」

 9月6日の「今日の話題」で、マスゴミの扇動にた やすくのっかてしまう人たちを「単細胞」と揶揄し たが、それは情報をその背景や事実関係を確認する ことなく鵜呑みにしてしまう思考(思考していない と言った方が適切か。)傾向を指している。これは 情報源を信用して時には私も犯す過ちだが、 私はそれを自覚している点で「複細胞」だと自負している。

 ネットウヨさんの多くも単細胞のようだ。 時々私のホームページにコメントを書き込むウヨさん がいるが、「日本人なら君が代・日の丸を尊重するのが 当たり前」とか「公務員は法律を守るのが当たり前」とか、 思考停止の決まり文句がほとんどだ。もう一つ、ウヨさん かサヨさんか分からないが、「教科書民主主義」的思考停止 常套句がある。「民主的な選挙で選ばれた何々 (政府、大統領、知事、議員etc.)なのだから 従わなくてはいけない。」

 さて、「終戦の詔書を読み解く」ための資料をネットで 検索しているときに、 終戦の詔書(現代語訳) というのに出合った。これを肴にして、このシリーズを 終わることにしよう。

 上記の記事を書いた方は「三鷹」と名乗って いる。三鷹さんはまず次のように述懐している。

 三鷹は、中学生以来、終戦の詔書は何度も読ん できたつもりだったし、それをラジオで国民に伝 える昭和天皇の肉声も、終戦記念日などにテレビ 等で何度となく聞いてきた。大意は理解していた のだが、難解な用語や修辞が壁となり、完全な理 解には遠かった。いや、この際、正直に白状して おこう。「戦争に負けたというだけのことを、何 か難しい言葉を使ってアレコレ弁解しようとして いる」と誤解していたのだ。実に恥ずかしい。

 「誤解」ではないのだ。それは正しい認識だ。 当時あの「玉音放送」を聞いて理解できた人は、は たしていただろうか。「なんだかよく分からないが、 負けたらしいぜ」「戦争に負けたというだけのこと を、何か難しい言葉を使ってアレコレ弁解しよう としている」というのがほとんどの人の実感だ ったろう。翌日に新聞に掲載された文章をすんなり 読めた人だって多くはいまい。三鷹さんと同じ感想 だったに違いない。

 ちなみに、「玉音放送」の録音を YouTubeで 聞くことができる。まだ聴いたことのない人は 、画面に出てくる文字を見ないで聞いてみてくだ さい。三鷹さんの感想が正しいことが分かるでし ょう。

敗戦の詔勅 (玉音放送) ~完全版~

 その三鷹さんが『「現代語訳」を読んで初めて、 詔書の意味するところを、実感とともに理解でき たように思う。』と言う。三鷹さんが紹介してい る現代語訳は産經新聞(1999年11年8月15日付) に掲載されたものだそうだ。次のようである。

私は深く世界の大勢と日本の現状とを考えて非常 の手段で、この状況を収拾しようと思い、あなた 方忠義で善良な国民に通告する。

 私は日本政府に米国、英国、中国、ソ連の四ヵ 国の出したポツダム宣言を受け入れることを各国 に通告させた。

 そもそも日本国民の安全を確保し、世界の国々 と共に栄えることを喜びとすることは先祖から 行ってきたことであって、私もそのように努力し てきた。先に米国、英国に宣戦布告した理由も 日本の政治的経済的自立と東亜の安定を願っての ことで、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯す るようなことは、もとより私の意志ではない。 しかしながら、すでに四年間の戦争で、陸海軍 将兵の勇敢な戦闘、役人の勤勉、一般国民の努力 、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦 争の状況は芳しくなく、世界の情勢も日本に不利 に働いている。それだけではない。敵は新たに 残虐な原子爆弾を使用して、何の罪もない非戦 闘員を多く殺傷し、その惨害は計り知れない。 それでもなお戦争を継続すれば、最終的には日 本民族は滅亡し、人類の文明も破壊されるこ とになってしまうだろう。そうなれば私はどう して我が子とも言える多くの国民を保護して先祖 の霊に謝罪することができようか。これが政府 にポツダム宣言に応じるよう命令した理由である。

 私は日本とともに終始、東亜の植民地解放に 協力した友好国に対して申し訳ないと思わざるを 得ない。日本国民で戦場で死亡し、職場で殉職し 、思いがけぬ死を遂げた者、またその遺族のこ とを考えると全身が引き裂かれる思いだ。さらに 戦場で負傷し、戦災にあい、家や職場を失った 者の再起については私が深く心配するところで ある。思うにこれから日本の受けるであろう苦 難はいうまでもなく、大変なものになる。国民 のほんとうの気持ちも私はよく知っている。 しかし、私はこれから耐え難いことを耐え、忍 び難いことを忍んで将来のために平和を実現しよ うと思う。

 私はここに天皇が存在する国の在り方を守り 通して、あなた方忠義で善良な国民の真心を信 頼し、いつも国民とともにある。もし、感情的 になって争いごとを構え、国民同士がいがみあ って、国家を混乱に陥らせて世界から信用を失 うようになることは私が最もいましめたいこと だ。どうか、団結して子孫ともども固く神の国 である日本の不滅を信じ、道は遠いが責任の重 大さを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、 道義心や志、操を固くして、日本の栄光を再び 輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努 力しなければならない。国民の皆さん、どうか 私の気持ちを汲んで理解して欲しい。

 内容の訳に異論はないが、文体が換骨奪胎されて いて、原文の「荘厳」を装ったこけおどし語調がま ったく抹消されている。

『国民の皆さん、どうか私の気持ちを汲んで理 解して欲しい。』だって? 噴飯ものだ。 雲の上から「爾臣民」を見下ろし、「朕カ意ヲ體 セヨ」と命令しているんだぜ。これは意図的な誤 訳だよ。この現代文のような詔書だったら当時の 国民は、意味はよく理解しただろうが、全く畏れ 入らなかっただろう。「詔書」や「勅令」の文体 は畏れ入らせることを意図した文体だ。

 さて、「忠義で善良な国民」である三鷹さんは これを読んで『実感とともに理解できたように思 う。』と言う。その「実感」とは『この詔書か ら「戦後」が始まったのだということ』だそうだ。

アメリカ軍の「進駐」ではない。新憲法でもない。 自分たちが生まれ育ってきた「戦後日本」は、こ の昭和天皇の詔書から直接に始まったのだ。天皇 の悲痛な言葉に血涙とともに従い、天皇とともに 耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、敗戦を受け 入れた日本国民によって、「戦後日本」の建設が 始まったのだ。それが、あの時代を生き抜いた日 本人の大多数が認めるところだろう。

   敗戦直後、私は小学校2年生。私の周りには、 必ずといってよいほど身内に戦没者がおり、着る ものも食うものも住むところもなく焼け跡に放 り出された人々があふれていた。我が家も、 戦没者こそいなかったが、例外ではなかった。 一時的に国家が消滅したような状況の中で、それ でも各自が自分で生きる算段をつけて必死に生き 継いでいた。「天皇の悲痛な言葉に血涙ととも に従」ったものなど、少なくとも私の周りには、 全くいなかったと言ってよいだろう。

 三鷹さんは自分が作った妄想に酔っている。 その妄想が次のようなとんでもない顛倒した錯覚 を生む。

 逆に言えば、この詔書が無ければ、マッカーサ ーがコーンパイプを咥えて厚木に降り立つことな ど出来なかったし、新憲法も存在しなかった。も ちろん、日本という国が、現に在るような形で 残ったかどうかも分からない。私事を申すなら、 三鷹の父母は終戦当時、それぞれ十四歳と八歳 だった。戦争があと数年続いていたら、父母も ろとも、三鷹もこの世には存在しなかっただろ う。

 三鷹さんのような論理が妄想であり顛倒した 誤解であることを示すために『「終戦の詔書」 を読み解く』を書いてきた。

 歴史に「もしも」はない、とはよく言われるこ とだが、「もし詔書が無ければ」に付き合うと、 その通り、「父母もろとも、三鷹もこの世には 存在しなかった」可能性はおおいにある。

 しかし、戦争は数年も続かない。大日本帝国は 半年もたたないうちに完膚なきまでに打ちのめさ れただろう。ドイツのように。三鷹さんが崇敬し てやまない天皇家もその取り巻きの大日本帝国の 支配層も絶滅していただろう。だからこそ彼らは ポツダム宣言を受け入れて降伏したのだ。

 しかし、さらなる惨劇を強いられるはめになる 国民は全滅はしない。やはりマッカーサーは 「コーンパイプを咥えて厚木に降り立つ」し、 「新憲法」も制定されよう。そのときは、大日本 帝国のゾンビが跋扈できる余地のない真の民主国 家に生まれ変わっていただろう。(もしかすると、 こっちの方がよかったかな。)

 三鷹さんはこの後、「ガイドライン関連法」や 「国旗国歌法」や「通信傍受法」を持ち上げて 現在の右傾化状況を得々と書き連ね、「自慰史観」(今まで 「自慢史観」を使ってきたが、これの方がより 適切だな。)の勝利宣言をしている。(そこで扱 われている事項についてはこのホームページ では既に論じているので改めて関わらない。) そして次のようにご託宣をたれている。

 左翼進歩派諸氏にも、心静めて、終戦の詔書を 現代語訳で読んでみることをお薦めする。彼ら なりに、その心に響き、得るところが、少なか らずあるように三鷹は思う。

 私は三鷹さんにやはり原文で読むことをお薦め しよう。さらに、その背景の歴史を勉強すること も合わせてお薦めしよう。ただし、手前勝手な 「自慰史観」ではなく、第一次資料をシッカリと ふまえた客観的な歴史をね。きっと妄想から目が覚 めることだろう。
「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」最終案(閣議提出原案)

 8月14日午前10時50分、第二回目の御前会議 が開かれた。戦争継続意見もでたが、鈴木首相が 天皇の意見を求め、天皇の「御聖断」で 戦争終結ということで決着がついた。「バーンズ回 答」を正式に受け取ってから、42時間が経過してい た。

 ヒロヒトを含め、「バーンズ回答」でよしとする 者たちは、そこに国体護持の希望的可能性を読み取 っていたのだろう。連合国最高指揮官が降伏条件 を実施する上で必要な命令は、連合国最高指揮官で はなくて、天皇が発する。連合国最高指揮官の制限 のなかにあるとしても、降伏に先立って行なわれ る、降伏文書署名の命令も作戦活動停止の命令 も天皇によって行われる。大日本帝国憲法の もとにおける「天皇の大権」は安泰である、と解釈 したとしても不思議ではない。「詔書」第三案に 「國體ヲ護持シ得タルヲ欣ヒ」という文言が出てく るのは、たぶん、「バーンズ回答」に対するこのよ うな解釈からだろう。

 「ポツダム宣言」受託の申し入れは、中立国の スウェーデン・スイスを通じて連合国へ伝えられた。

 「ポツダム」宣言ノ條項受諾ニ関スル八月十日 附帝国政府ノ申入並ヒ二八月十一日附「バーンズ」 米国国務長官發米英ソ支四国政府ノ回答ニ関連シ 帝国政府ハ右四国政府ニ対シ左ノ通リ通報スルノ 光榮ヲ有ス

一、 天皇陛下ニオカセラレテハ「ポツダム」 宣言ノ條項受諾ニ関スル詔書ヲ發布セラレタリ

二、 天皇陛下ニオカセラレテハソノ政府及ヒ 大本営ニ対シ「ポツダム」宣言ノ諸規定ヲ實施 スル爲必要トセラルヘキ條項ニ署名スルノ権限 ヲ興へ且ツ保障セラルルノ用意アリ 又陛下ニオ カセラレテハ一切ノ日本国陸、海、空軍官憲及 右官憲ノ指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ対シ戦闘行 爲ヲ終止シ武器ヲ引渡シ前記條項實施ノ爲連合 国最高司令官ノ要求スルコトアルヘキ命令ヲス ルコトヲ命セラルルノ用意アリ

 再び「資料3」から引用する。

 以上の敗戦の経過は、われわれに次のことを 示している。

 日本の支配者層は、軍事力の潰滅、軍需生産や 輸送能力の崩壊、世界戦局の帰趨など、どれ一つ をとっても戦争遂行がまったく不可能であること が明らかとなった1945年に入ってからも、戦争の 終結のための具体的な方策を講ぜず、軍作戦当局 がすすめる本土決戦準備にずるずるとひきずられ ていった。

 本土決戦が全国民を直接戦火にまきこ み、凄惨な地上の地獄を現出することは沖縄戦の 先例でも明らかであったが、国民の運命を担って いる責任を戦争指導者は感じなかったのである。 しかも、誰の目にも戦争の結末が予測できるこの 段階になってから以後に、戦死、餓死、焼死、水 死などで200万人をこえる軍人と一般国民が命を おとしているのである。

 一般民衆の戦争被害に鈍感であった支配者たちも、 民衆の心理の動向、民心の離反という事実には敏 感であった。

 食糧難と空襲の激化によって民心の不安が急速に たかまってきた6月ごろから、急に戦争終結への 動きがはじまるのである。それは被害の増大にた いするよりも、国内の混乱と革命にたいする危惧 からだったのである。

 またひきつづく敗戦と軍事力の壊滅とは、軍部 が全権をにぎるかにみえた戦争体制の下にあり ながら、軍部の政治的地位を低下させていった。 一方で民衆の不満は、軍部への批判と反感となっ て噴出しはじめた。こうした状況の中でおこなわ れた終戦工作は、内大臣、重臣など宮廷グループ と政府上層部によって、軍当局を除外し、天皇の 権威を利用してすすめられた。

 それは戦時中にすすんだ独占資本の発展、地主の 衰退という構造的変化を背景にし、支配者 内部で宮廷、資本家、官僚などが、軍部と古い 国体主義者を疎外する動きでもあった。しかし そのさい局面転換のために国民を地盤とする政治 力を結集するという動きをとることなく、国体を 逆に名分としながら支配体制としての天 皇制の維持をはかったのである。最終的には、 国内にあふれる反戦反軍の感情を利用し、天皇 制維持のため支配勢力を結集して、軍部を孤立 させることによって、ようやく降伏の決定にこ ぎつけた。この場合も国民支配の体制に動揺 をおこさぬことが、第一義的に考慮されていたの である。

 このような支配者による天皇制維持の試みは、 ポツダム宣言に示された国際的な反ファシズム連 合の戦争目的にたいする無理解と、国民の生命と 自由にたいする驚くべき無関心の上に成りたつも のであった。

 さて、「詔書」最終案である。

⑧「詔書」閣議提出用最終案
赤字:追加された文言
青字:書き換えられた部分

大東亞戰爭終結ニ關スル詔書

 朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑(かんが)ミ  非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ  茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國 ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝國臣民ノ康寧 (こうねい)ヲ圖リ 萬邦共榮 ノ樂(たのしみ)ヲ偕(とも)ニスルハ  皇祖皇宗 ノ遺範ニシテ 朕ノ拳々(けんけん)措カサル所  曩(さき)ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦 實 ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾(しょき)ス ルニ出テ 他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ 侵ス カ如キ ハ 固(もと)ヨリ朕カ ニアラス  然ルニ交戰已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ  朕カ陸海將兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵 朕カ 一億衆庶(しゅうしょ)ノ奉公 各々最善ヲ盡セル ニ拘ラス 戰局必スシモ 好転セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラサル 加之 (しかのみならず)敵ハ新タニ殘虐ナル爆弾ヲ使 用シテ 頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ 殺傷シ 慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサル ニ至ル 而モ尚交戰ヲ繼續セムカ 終(つい)ニ我カ民族 ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス 延(ひい)テ人類ノ文 明ヲモ破却スヘシ 斯(かく)ノ如クムハ 朕何ヲ 以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保シ 皇祖皇宗ノ 神靈ニ謝セムヤ 是レ朕カ 帝國政府ヲシテ共同宣言ニ 應セシムルニ至レル所以(ゆえん)ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦 ニ對シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス  帝國 臣民ニシテ戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ 非命ニ斃レタル者  及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内(ごない)爲ニ裂ク  且(かつ)戰傷ヲ負ヒ 災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失 ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念 (しんねん)スル所ナリ

惟(おも)フニ今後 帝國ノ受クヘキ苦難ハ  固(もと)ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情 (ちゅうじょう)モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時 運ノ趨(おもむく)ク所  堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ  以テ萬世ノ爲ニ 太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ  忠良ナル爾臣民ノ赤誠(せきせい)ニ信倚 (しんい)シ 常ニ爾臣民ト共ニ 在リ 若シ夫レ情ノ 激スル所濫(みだり)ニ事端ヲ 滋(しげ)クシ 或ハ同胞排擠(はいさい)互ニ時局 ヲ亂(きだ)リ 爲ニ大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失 フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム 宜シク 擧國一家子孫 相傳ヘ 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシ テ道遠キヲ念(おも)ヒ 總力ヲ將来ノ建設ニ傾ケ  道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ國體 ノ華ヲ發揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期 スヘシ 爾臣民其レ克(よ)ク朕カ意ヲ體 セヨ

 大きく変わった点だけを拾い出してみる。

「米英二国並ニ重慶政権ソヴィエート聯邦」→ 「米英支蘇四國」
 重慶政府をやっと「国」と認めた。

「萬邦共榮ノ樂(たのしみ)ヲ偕(とも)ニス ルハ 」
 「開戦の詔書」の文言を追加して いる。開戦時に考え出した大義名分を再度強調 したいのだろう。

「殘虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻(しきり)ニ無辜 (むこ)ヲ殺傷シ」
「帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ 非 命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五 内(ごない)爲ニ裂ク 且(かつ)戰傷ヲ負ヒ  災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リ テハ 朕ノ深ク軫念 (しんねん)スル所ナリ」
 ようやく国民の惨事に目を向けたが、責任の 所在への言及や謝罪の言葉は一言もない。

「戰局日ニ非ニシテ」→「必スシモ好転セス」
「事態ハ今ヤ此ノ一途ヲ余スノミ」→「時運ノ 趨ク所」

の変化にも表れていよう。

「第三国ノ斡旋」のことと、「神器ヲ奉シテ」という 文言が削除されている。

「國體ヲ護持シ得タルヲ欣ヒ」→「國體ヲ護持シ 得テ」
 さすがに「欣ヒ」は削除したが、「国体護持」 はいあかわらず確信している。

 ここで、連合国軍総司令部(GHQ)でマッカー サー最高司令官の軍事秘書を務めたフェラーズ准 将に再度ご登場願おう。フェラーズ准将のGHQ での事績の一つとして、天皇制存続(国体護持) を進言したことが挙げられている。

『日本での占領政策を成功裏に実施するには昭和 天皇の戦犯としての訴追回避が不可欠だとマッカ ーサーらに進言し、天皇制存続に大きく責献した。』

 これが事実だとすると、連合国側には天皇制の 処遇についてのはっきりとした判断は、日本降伏 時にはまだなかったことになる。「國體ヲ護持シ 得テ」は日本側の希望的解釈にすぎなかったようだ。
今日の話題

心やさしき人たち

 8月31日に今日の話題『人権劣等国・「美しい国」日本』 で取り上げた 天皇警備の事前拘束で逮捕されていたNさんが釈放 された。「拘留理由開示裁判」で示された この青年のやさしさに裁判官も検察も公安刑事も 、もしなお権力の毒に侵されていない心を持つなら、 深く恥じ入ることだろう。

N君不当逮捕-拘留理由開示裁判の報告



 「君が代・日の丸の強制」に対して、矢面に立っ て闘っている人たちは皆心やさしい。そのやさしさ のためにいま解雇に追い込まれている人たちがいる。 多くの支援を呼びかけている。

「君が代」解雇をさせない大運動を起こそう

東京都庁前でのビラ撒き宣伝行動に参加しました



 マスゴミの扇動に乗せられた単細胞たちの、「光市母子殺人事件」 弁護団への非難・中傷・嫌がらせの狂騒が吹き荒れて いる。この可哀そうな人たちは同時に、容疑者の 青年を殺せ殺せと大合唱をしている。裁判所外での 裁判は私的リンチである。恥を知れ!

 ところで、「光市母子殺人事件」弁護団の団長 は安田好弘弁護士と言う。安田弁護士は、「過激派」 とか爆弾犯とか殺人犯とか、「健全な市民社会」から は直ちに反発を買うような人々の弁護をしてきている。 オウム真理教の教祖・麻原彰晃の弁護も担当してき た。『「生きる」という権利‥麻原彰晃主任弁護人 の手記』という著書がある。

 佐藤優さんがこの著書を論評している。 (『国家と神とマルクス』所収)佐藤さんは安田弁 護士の担当裁判の特異さを指摘したうえで、次のように 述べている。

『しかも依頼人については麻原彰晃氏を含めて呼び 捨てにせず、「麻原さん」と「さん付け」で呼ぶ 弁護人としての倫理に忠実だ。』

 そして

『「(爆弾犯たちが)時限爆弾を製造したが、爆 弾を人を殺傷したりする武器とは位置づけておら ず、表現の手段と考えていた」というような論理 は、私には理解不能だ。』

としながらも、安田弁護士の著書から「やさしい まなざし」を読み取っている。

 佐藤さんはこの論文の表題を
『「やさしさ」は「国家権力」に対抗できるか』
としている。(佐藤さんのこの論文から考え たいことがいくつかでてきているが、後日に。)



 ひとのかなしさとやさしさと…最後に、胸キュン 涙ポロポロのコラムです。東京新聞(9月5日)の 「本音のコラム」から。

『記憶のかぎ』 斎藤 学(精神科医)

 ある女性が七十歳代半ばの母親を喪(うしな)った。 やや惚け気味ではあったものの、死に別れはまだま だ先と考えていたので、喪失感は深かったようだ。

 数年続けていた引きこもりを切り上げて私のとこ ろへ出てきたのはそのためだったろう。才能のあ る女性で、先端的な店を開いたりしていたが、こ のところ店も家事も妹に任せきりになっていた。

 さて、肺炎をこじらせた母親の意識は急速に混 濁した。いよいよという時を迎えた際、母親は女 性に「寂しくさせてごめんね」とだけ言ったそう だ。

 それを聞いた私には、ある情景が浮かんだ。 女性が学童低学年の頃だろうか。母親は町の 郵便局に勤めていた。当時は適切な預け場所もな かったようで女児は郵便局のエントランスにある ソファに腰かけて母の帰りを待った。

 仕事場は階上なので少女は仕事をおえて下りて くるお姉さんやおばさんと出会うことになる。そ の人たちの中にはソファに座る幼女を不憫がっ て、声をかけてくれる人や少しの間話していって くれる人もいた。仕事に厳しい母親はいつも帰り が同僚たちより遅かったが、少女は寂しさに耐え ながら暗くなったロビーでひたすら待っていた。

 「寂しくさせてごめんね」という言葉は遥かな 以前のこの情景を指して言ったのではないか。そ のように私が述べたとき、その女性は突然声を あげて泣き、涙は止まることがなかった。
「終戦の詔書」を読み解く

ポツダム宣言受諾までの経緯(2)

 8月10日未明に決定したポツダム宣言受諾を鈴木 内閣は、中立国のスウェーデン・スイスを通して 次のように連合国に申し入れた。

 帝国政府は1945年7月26日「ポツダム」において 米、英、支三国政府首脳者により発表せられ爾後  「ソ」聯政府の参加を見た共同宣言に挙げられた る条件を 右宣言は天皇の国家統治の大権を変更 するの要求を包含し居らざることの了解の 下に受諾す

 帝国政府は右了解にして誤りなきを信じ本件 に関する明確な意向が速やかに表示されんことを 切望す

 これは8月10日午後8時に同盟通信社・日本放送協 会の海外放送で放送されたが、国内向けには極秘扱 いとされ、国民には次のような報道で煙幕を張って いる。

  8月11日の新聞各紙は、下村宏情報局総裁の 談話と阿南惟幾陸相の全将兵への訓示を並べて 報道している。朝日新聞からその見出し と本文の一節を抜き出してみよう。

〔下村宏情報局総裁談〕
「一億困苦を克服 国体を護持せん」
「戦局は最悪の状態」
『…国民挙げて克く暴虐なる敵の爆撃に耐へつゝ義 勇公に奉ずる精神をもって邁進しつゝあることは 真に感激に堪えざるところ…今や真に最悪の状態に 立至ったことを認めざるを得ない 正しく国体を 護持し民族の名誉保持せんとする最後の一線を守 るため、政府は固より最善の努力を為しつつある が、一億国民にありても国体の護持のためにはあ らゆる困難を克服して行くことを期待する』

〔陸相の全将兵への訓示〕
「死中活あるを信ず」
『…事茲に至る又何おか言わん、断固神州護持の聖 戦を戦い抜かんのみ、…』

 護持・護持・護持…と、戦争指導者たちの脳内 時計はそれ以上に進む気配がない。

 ポツダム宣言受諾の条件打診の文書が 発表されたのは、「終戦の詔書」が掲載された 15日付の新聞でだった。
「大権問題を慎重検討」
「受諾に決するまで 外交文書の交換」
という見出しで、次に述べる連合国からの いわゆる「バーンズ回答」も掲載している。 また、ポツダム宣言も初めて全文掲載されている。

 8月12日、午前0時45分(日本時間)、 連合国はラジオで日本に回答をした。(中立国から の正式入電は午後6時)

 回答を受け直ちに翻訳、それが天皇に手渡された のは午前11時。

 回答は四国を代表してアメリカのバーンズ国務長 官名で行われている。それはポツダム宣言と同じこ との繰り返しであり、「国体護持」に直接触れた文 言はなかったが、「国体護持」を熱望する者にと っては、希望的な解釈もしようと思えばできる曖昧 さを含んでいる。回答の要旨は次の通りである。

 「ポツダム宣言が君主としての日本皇帝の統治権 を侵害する如何なる要求をも合有しない」と言う諒 解を挿入して当該ポツダム宣言の条件を受理するとい う日本政府の通告に答え、我々は次の如くその立場 を闡明(せんめい)するものである。

一、降伏の時より、天皇及び日本政府の国家統治 の権限は、降伏条項の実施の為其の必要と認むる 措置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置か るるものとす。

一、天皇は日本全軍の武装解除と降伏条項実施の ため、最高司令官の要求する命令を発することを 要請される。

一、日本政府は直ちに俘虜、被抑留者を連合国船 舶に速やかに乗船せしめ得る安全な地域に移送す ること。

一、最終的の日本国政府の形態はポツダム宣言に 遵(したが)ひ日本国国民の自由に表明する意思 により決定せらるべきものとす。

 「ポツダム宣言に遵(したが)ひ」とあるのは、 ポツダム宣言の次の条項を指している。

 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ 自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且 責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占 領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ

 この回答をめぐって、ふたたびこれでよしとす る外相らと、これでは国体護持困難とする陸相ら とがはげしく対立した。13日一日中、戦争継続派 と受諾派との争いが続き、時間を空費している。

 アメリカは、13日夕方と14日朝と、B29数機により 「日本政府のポツダム宣言受諾文と、それに対する 回答(バーンズ回答)」を記載したビラを大量にま いた。このビラによって国民の間に起こるであろう 疑心や混乱を支配層は極度に恐れている。

『木戸幸一日記』の14日の日記

 敵飛行機は連合国の回答をビラにして撒布しつ つあり。此の情況にて日を経るときは全国混乱に 陥るの虞ありと考えたるを以て、8時半より同35分 迄、拝謁、右の趣を言上す。

 待従武官尾形健一大佐も、B29のビラ撒布の盛なこ とについて次のように記している。(戦史叢書 『大本営陸軍部10』)

 茲ニ時日ヲ遷延スルコトハ益々国民二疑惑ヲ生 ゼシメ国民戦意ノ低下乃至ハ暴動ノ惹起ヲモ憂慮 セラル、政府モ相当狼狽戦争指導会議ノ召集ヲ午 後ニスべキ旨総理拝謁上奏セルモ聖上ハナルベク 早ク召集スべキ旨ノ思召アリ
 最終的な降伏の決定に、国内の混乱、暴動ない し革命への憂慮が大きく作用していることが明ら かである。最終受諾かどうかで対立し、ごたごた していた政府もそれが事前に国民に漏れるのを恐れ、 あわてて早期決着へと動き始めた。「資料3」 から引用する。

 連合国回答の到着から8月14日の第二回御前会議 までは、日本の支配層が激しく動揺した期間であ った。

 回答を不満とする軍部強硬派は継戦の意志 を固め、国論をこの線で統一しようと必死のまき かえしをはかった。

 8月12日朝、梅津、豊田の陸海軍総長は、統帥部 を代表して受諾絶対反対の上奏を行った。陸軍の 幕僚層は平泉澄門下の将校を中心としてクーデター の計画に熱中し、参謀総長と陸相は連名で各軍に 「断乎継戦」の電報を打った。

 軍部のみならず平沼枢密院議長も国体論の立場 から回答反対の態度をとり、その旨を木戸内府や 鈴木首相に申し入れ、鈴木も動揺したとされてい る。

 しかしこの動揺をおさえ、回答受諾に統一した のは、国内混乱にたいする配慮であった。軍令部 の動きをおさえて、海軍をまとめる努力をした米 内海相の最大の憂慮が国内崩壊の危機感にあった こと、陸海軍に働きかけて「聖断」重視の方向に まとめることに努力したのが、8月12日の皇族会 議以後の陸海軍籍の皇族であったことはいずれも このことを示すものである。

 彼らの最大の危惧は、連合国のビラによる国民 の動揺と、進撃を続けるソ連軍の進入にあったの である。
「終戦の詔書」を読み解く

ポツダム宣言受諾までの経緯(1)

7月26日 ポツダム宣言発表
 ポツダム宣言の内容を日本政府が知ったのは 7月27日の朝であった。

 最高戦争指導会議構成員会議(以下、「最高会 議」と略す。)は宣言の内容を日本に対する最後 の降伏勧告であり、今までの無条件降伏要求から 一歩譲歩して、降伏の条件を示したものであると 判断した。

 「最高会議」で東郷外相は

『直ちに拒否することなく対ソ交渉のなりゆきを 見た上で措置を決める。それまでは意志表示を しない』

 と主張した。「最高会議」はそれを受け入れ、 そのように決定した。 これは、いまだ対ソ交渉を期待している 日本の戦争指導者たちの不明さと、ポツダム宣言に対す る無理解を示している。

 和平派といわれている米内海相でさえ

『「声明ハ先二出シ夕方ニ弱味カアル (26日ポツダム宣言)「チャーチル」ハ没落スル シ米ハ孤立ニ陥リツツアル 政府ハ黙殺デ行ク、 「アセル」必要ハナイ。』

という所見を高木少将に洩らしていたという。 (「高木惣吉メモ」)
 さらに、次のような海軍大臣訓示(7月28日)を 出している。

 米英等三国ノ謀略的共同声明二依り些少タリト モ必勝ノ信念二動揺ヲ来サザランガ為茲二重ネテ 訓示ス

今ヤ帝国海軍ノ戦備ハ着々進捗シ満ヲ持シテ醜敵 一蹴ノ態勢ニアリ

 敗戦直後の9月6日付朝日新聞(『朝日新聞に見 る日本の歩み』)に「終戦当時におけ る物的戦力」という記事がある。そこから見出しを 幾つか拾ってみる。

〔艦艇〕
「戦闘可能の戦艦なし」
「空母二、巡艦三等八十五隻」

〔航空機〕
「陸海合せ一萬六千機」
「相当数は実戦に適さず」

 これが「戦備ハ着々進捗シ満ヲ持シテ」いた帝國 海軍の戦力であった。

 ポツダム宣言受諾が、戦争終結の最後の機会であ ることを理解できなかった政府も、これが軍隊や国 民に与える影響 - 戦意が低下し戦争体制に破 綻がおこること - を極度に恐れていた。そのため 宣言の中の軍隊と国民の士気に影響を与えそうな部 分を削除した上でこれを公表した。そしてこれにつ いての意志表示をとくにしないこととし、28日の新 聞にニュースとしてこれを掲載させた。

 7月28日付の朝日新聞を調べてみた。一面トップ は戦績記事で「ポツダム宣言」は二番目扱い。見出 しは
「米英重慶、日本降伏の最後条件を声明 三国共同の謀略放送」
「政府は黙殺」
「多分に宣伝と対日威嚇」
 そして最後に
「外相これを閣議に報告」
と報じている。

 ところが陸海軍は軍の士気への影響を心配して、 政府は宣言を無視するとの態度をはっきりと公表せ よと主張した。鈴木首相はこれを容れて28日の記者 会見で次のように述べている。

(ポツダム宣言は)政府としてはなんら重大な価値 ありとは考えない。ただ黙殺するだけである。われ われは戦争完遂にあくまで邁進するのみである。

8月6日 広島に原子爆弾の投下
 アメリカは原爆投下の目的を戦争終結を早める ためとしているが、この一般市民の大量殺戮は 日本の戦争指導者に対しては戦争終結を促す効果を 持たなかった。8月7日には既にこれが人類史上初 の恐るべき核兵器であることが明らかになったていた が、それによって日本政府が直ちに戦争終結への 正式な努力を行った形跡はない。

8月8日 ソ連対日参戦
 8月8日日本時間の午後2時、モスクワでモロトフ ソ連外相は佐藤大使に対日宣戦布告を通告した。 ラジオ放送や関東軍の報告で同夜中にソ連の参戦は 日本の指導者に伝えられた。

 ポツダム宣言受諾を日本の戦争指導者に決意させ たのは、疑いもなくソ連の参戦であった。9日朝登 庁した阿南陸相は

不取敢戦争ヲ継続シ敵ニ一大痛撃ヲ与へタル時 機ヲ利用シテ何トカ申入ヲナス、特ニ我皇室ニ対ス ル問題ヲ確定ス、此点解決セザレバ大和民族ハ正義 ノ為最後迄戦ヒ国ヲ挙ゲテ悠久ノ大義ニ生クル外ナ シ
と記している。(阿南惟幾メモ)
 最も強硬な本土決戦派とされている阿南の場合で も、天皇制の保障が認められれば終 戦の申入れをするという態度に変わっていた。 それにしても、「敵ニ一大痛撃ヲ与へタル時機ヲ利 用シテ何トカ申入ヲナス」という妄想は、約半年前 に近衛とのやり取りで洩らしたヒロヒトの妄想と軌 を一にしている。この時点でなお、そのような 「時機」があると、本当に信じていたらしい。 驚くべき頑迷ぶりだ。

  8月9日 「最高会議」開催
 9日未明ソ連参戦を知った東郷外相は、早朝鈴木 首相を訪れてポツダム宣言受諾の必要を説き、首 相もこれに同意した。

  9日午前11時から開かれた「最高会議」では、 ポツダム宣言受諾は既に既定の事実として、それ に条件をつけるかつけないか、つけるとすればど んな条件かが論じられた。

 原爆による一般市民の甚大な被害は戦争指導者 たちに戦争終結を決意させなかったが、ソ連参戦 によって危惧されるソ連軍侵入・革命という恐怖 が戦争指導者たちに即時戦争終結を決意させた。

  9日午後2時半から「最高会議」にひき続いて閣議 がもたれた。その閣議では、東郷外相が
「皇室の安泰」
だけを条件として降伏すべきと主張した。これに 対して阿南陸相は、それにさらに次の三条件を付ける ことを主張した。
「軍隊の武装解除を自主的に行うこと」
「戦争犯罪人は自国で処理すること」
「保障占領は行わないこと」

 「最高会議」の構成員も閣僚もこの二つの主張に 二分されて意見はまとまらなかった。

 この閣議ではまた、食糧や輸送力、国民の志気や 戦意が絶望的な状態になっていることが取り上げら れていて、それは全閣僚のひとしく認めるところで あった。次のような報告が行われえている。

石黒農相
『食糧の不足から飢餓状態がおこるであろう。』

安倍内相
『民心の動向は敵愾心がもりあがらず戦争の将来に 不安を持ち、又共産党の意見は君主制の廃止で危険 だ。』

阿南陸相

『国民の中に軍への信頼感がなくなり悲観的気分が 広がっている。』

 まとまらなかたポツダム宣言受諾についての意見 を天皇の裁断によって、「皇室の安泰」だけを条件 にする方向で決着しようという計画が木戸内大臣 ・宮廷グループ・首相・外相などの間で謀られた。

  9日午後11時50分に開かれた「最高会議」は、 特に平沼枢密院議長を加えた上で、天皇臨席の御 前会議となった。

10日午前2時過、ヒロヒトは外相案を 支持するという「御聖断」を下す。 その理由をヒロヒトは次のように述べた。(保科善四郎メモ)

 従来勝利獲得ノ自信アリト聞イテイルガ 今迄計 画ト実行トガ一致シナイ、又陸軍大臣ノ言フトコロ ニヨレバ九十九里浜ノ筑城ガ八月中旬二出来上ルト ノコトデアッタガ 未ダ出来上ッテイナイ、又新設 師団ガ出来テモ之ニ渡スベキ兵器ハ整ッテイナイト ノコトダ。コレデハアノ機械力ヲ誇ル米英軍二対シ 勝算ノ見込ナシ。

 ここにはヒロヒトの陸軍への不信感が明らかにみ てとれる。また最も注目すべき点は、ヒロヒトが心 配したのは関東平野に米軍が上陸することであり、 原子爆弾ではなかったことだ。ヒロヒトは

 朕ノ股肱タル軍人ヨリ武器ヲ取り上ゲ、又朕ノ 臣下ヲ戦争責任者トシテ引キ渡スコトハ之ヲ忍ビ ザルモ

 と言いながらも、天皇の地位の保障だけに条件を 絞る案を採択したのであった。あるいはそれ以上の 条件はとても認められまいという現状認識があった のかもしれないが、いずれにしてもヒロヒトもポツ ダム宣言を無条件降伏勧告ではなく、それよりも一 歩譲歩した勧告と考えていたことになる。
「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第三案

④「詔書」第三案
赤字:追加された文言
青字:書き換えられた部分

大東亞戰爭終結ニ關スル詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑(かんが)ミ  非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ 茲(ここ) ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英 二国並ニ重慶政権ソヴィエート聯邦ニ對シ 其ノ共同 宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

世界人類ノ和平ト 帝國臣民ノ康寧(こうねい) トヲ冀求(ききゅう)スルハ 皇祖皇宗 ノ遺範ニシテ 朕ノ拳々(けんけん)措カサル所  曩(さき)ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦 實ニ帝 國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾(しょき)スルニ出テ  他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ 侵スハ 固(も と)ヨリ朕カ素志ニアラス

 然ルニ交戰已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ 朕 カ陸海將兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵 朕カ一億 衆庶(しゅうしょ)ノ奉公 各々最善ヲ盡セルニ拘ラ ス 戰局日ニ非ニシテ  世界ノ大勢ハ悉ク我ニ利 アラサルニ至レリ 之ニ加フルニ敵ハ人道ヲ無視 シテ 新ニ殘虐ナル兵器ヲ使用シ 目的ノ為ニ手段 ヲ択ハス 今後尚交戰ヲ繼續セムカ 終(つい)ニ 日本民族ノ敗亡ヲ招來スルノミナラス 延(ひい) テ人類ノ文明ヲ破却スヘシ  斯(かく)ノ如クムハ  朕ハ何ヲ以テカ億 兆ノ赤子(せきし)ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セ ムヤ  是レ朕カ帝國政府ヲシテ 第三国ノ斡旋ヲ求メシメ タル所以ナルモ 不幸其ノ容ルル所トナラス 遂ニ 各国共同ノ宣言ニ応 セシムルニ至レル理由ナリ

此ノ如キ非常ノ措置ニヨリ戦争ノ終結ヲ求ム  惟フニ帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニ非ス  爾臣民ノ衷情(ちゅうじょう)ハ 朕能ク之ヲ 知ル 且又 帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル 東亜ノ諸盟邦ニ對シ実ニ感愧ニ堪ヘス 然レトモ 朕ハ時運ノ命スル所 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ  萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ國體ヲ護持シ得タルヲ 欣ヒ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠 (せきせい)ニ信倚(しんい)シ 神器ヲ奉シテ 常ニ爾臣民ト共ニ アリ 若シ夫レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端ヲ 滋(しげ)クシ 或ハ同胞排擠(はいさい)互ニ時局 ヲ亂(みだ)リ 爲ニ大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失 フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム  宜シク官民一致 任重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ  弘毅ノ志ヲ失ハス 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ國體ヲ明徴ニシ 戦争遂行ニ尽シタル力ヲ 移シテ 之ヲ戦後の建設ニ傾ケ 誓テ禍ヲ転シテ福 ト為スノ基ヲ開クヘキナリ  爾臣民其レ克(よ)ク朕カ意ヲ體セヨ

 
 陽明学者・安岡正篤が加わり、大幅な推敲が行われて いる。石渡さんは「第二資料②と同文を下敷とし、 各所に鉛筆による加除訂正と、その加筆部分に更に 加除訂正があり、加除による混乱を見分けさせるた めか◎印で接続位置を示すなどすさまじいばかり。」 と記録している。

 最も腐心したのは、ポツダム宣言を受け入れる (無条件降伏をする)理由の述べるくだりである。 ヨーロッパにおける戦争の帰趨についての文言が 削除されている。「新たに残虐なる兵器」という 言い方で原爆投下の既述が始めて表れている。一方、 「朕ノ赤子ノ非命ニ斃ルル者 日ニ月ニ其ノ数ヲ 増スヲ見ルニ忍ヒス」という国民の悲惨な状況への わずかな目配りが消えている。その目配りは 「皇祖皇宗ノ神靈」の方に向かったようだ。

 最終段落では、「神州不滅」とともに国民を 戦争遂行に駆り立てていったスローガン「国体明 徴」という言葉が明記されていることが目立つ。

 そして、もっとも驚くべきは、追加された文言 「國體ヲ護持シ得タルヲ欣ヒ」である。1945年に 入って敗色が明らかだったのにもかかわらず、終戦 工作が遅々として進まなかったのは国体への憂慮の せいであった。その憂慮がなくなったと、あからさ まに「欣(よろこ)」んでいるのだ。しかし、ポツ ダム宣言には「国体護持」を約するような項目はない。 何らかの外交交渉で「国体護持」の言質をとったの だろうか。

 ポツダム宣言が発表された7月26日から、日本政府 が連合国にポツダム宣言受託を通知した14日(「終戦 の詔書」が閣議決定された日)までの経緯を調べてみ ることにしよう。
「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第二案

②「詔書」第二案
赤字:追加された文言
青字:書き換えられた部分

大東亞戰爭終結ニ關スル詔書

深ク世界ノ大勢ト帝國 ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 非常ノ措置ヲ以テ時 局ヲ收拾セムト欲シ 茲(ここ)ニ忠良ナ ル爾(なんじ)臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ 米英 二国並ニ重慶政権ソヴィエート聯邦ニ對シ  各国共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

世界人類ノ和平ト 帝國臣民ノ康寧(こうねい) トヲ 冀求(ききゅう)スルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕 ノ拳々(けんけん)措カサル所 曩(さき)ニ米英 二國ニ宣戰セル所 以テ亦 實ニ帝國ノ自存ト東亞 ノ安定トヲ庶幾(しょき)スルニ出テ 他國主權ノ毀 損ト領土ノ侵略トハ 固(もと)ヨリ朕カ素志ニア ラス

 然ルニ交戰已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ 朕 カ陸海將兵ノ健闘 朕カ百僚有司ノ勵 朕カ一億 衆庶(しゅうしょ)ノ奉公  各々最善ヲ盡セルニ拘ラス 未タ戦争ノ局ヲ結フ ニ至ラス

此ノ間欧州ニ於イテハ反テ戦火ノ終熄ヲ見 世界ノ 大勢ハ新ナル国際秩序ノ実現ヲ促スノ機運ヲ示セリ  是ノ秋(とき)ニ当リ尚交戦ヲ継続センカ 激烈ナ ル破壊ト残酷ナル殺戮トノ極マル所  ニ民族生存 ノ根拠ヲ奪フノミナラス 延(ひい)テハ 人類文明 ヲ滅却スルヤ必セリ

朕ハ此ノ戦局ノ危急 ニシテ 人道ヲ無視セル敵襲ノ今後益々苛烈ヲ加エ 国家ノ犠牲愈々多ク 朕ノ赤子ノ非命ニ斃ルル者  日ニ月ニ其ノ数ヲ増スヲ見ルニ忍ヒス  特ニ戦火ノ及フ所 人類共存ノ本義ヲ否定ス ルニ至ムコトヲ懼ル 是レ朕カ先ニ帝國政府ヲシ テ 第三国ノ調停ヲ求メシメタル所以ナルモ 不 幸其容ルル所トナラス 遂ニ各国共同ノ宣言ニ応 セシムルニ至レル理由ナリ

斯ノ如キ非常ノ措置ニヨリ戦争ノ終結ヲ求ム  惟フニ帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラサルヘ ク 爾臣民ノ衷情(ちゅうじょう)ハ 朕能ク之ヲ 知レリ  且(かつ) 帝國ト共ニ東亜新秩序ノ建 設ニ協力セル東亜ノ諸盟邦ニ對シテモ 事遂ニ志 ト違エルコトヲ謝セサルヘカラス

然レトモ事態ハ今ヤ此ノ一途ヲ余スノミ  朕ハ 実ニ堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ  臥薪嘗胆為ス有ルノ日ヲ将来ニ期シ  爾臣民ノ協賛ヲ得テ  永ク社稷(しゃしょく)ヲ保衛セムト欲ス  朕ハ常ニ忠良ナル 爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい) シ 神器ヲ奉シテ爾臣民ト共ニアリ  若シ夫レ情熱の 激スル所 軽挙妄動 濫(みだり)ニ事端ヲ 滋(しげ)クシ 或ハ同胞排擠(はいさい)互ニ時局 ヲ亂(みだ)リ 爲ニ信義ヲ世界ニ失 フカ如キハ如キハ 朕ノ最モ戒ムル所 宜シク冷静沈着 刻苦自励 益々國體明ラカニシ 弥(いよいよ)名分ヲ 正シ 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ  誓テ禍ヲ転シテ福ト為スノ基ヲ開クヘキナリ 爾臣民其レ克 (よ)ク朕カ意ヲ體セヨ



 第一段落に追加された文言と第二段落は、第一案 の後からニ,三段落に置かれた文言を、多少訂正した 上で配置換えしたものである。第一案では最後になる までポツダム宣言の受託(無条件降伏)の詔書である ことが分からない。その段に来るまでは「本土決戦の 詔書」とも受け取れる。最初に結論を持ってきたわけ だ。

 注目すべきは最後の段落だ。まず目に付くのが追加 された「臥薪嘗胆為ス有ルノ日ヲ将来ニ期シ」という 文言。これ、「将来の復讐を期そう」と言っているん じゃないの。「敗戦」と呼ぶことにこだわった将校た ちと同じ心情の吐露だ。

 第一案では神がかり文言は「神器ヲ奉シテ」だけだ ったが、「神州ノ不滅ヲ信シ」という文言を加えている。 さらに「益々國體明ラカニシ」と「国体護持」の願望を あからさまに打ち出している。

 全体の調子は「萬邦共榮」、「臥薪嘗胆」、 「軽挙妄動」、「同胞排擠」、「刻苦自励」など 四文字熟語を配置して重厚さを出そうと腐心して いるかとおもうと、「禍ヲ転シテ福ト為ス」なんていう 陳腐な故事を引く軽薄さも混じり、いまイチという ところだな。

 ここでハタと気づいたことがある。チョッと横道です。

「終戦の詔書」にちりばめられた荘厳を装うめくら ましのような文言は、「終戦の詔書」作成者たちが 始めて考え出した ものではないのではないか。「終戦の詔書」の前に 位置する「開戦の詔 書」(正確には「米英両国ニ対スル宣戦ノ大詔」と 言う。)にその源流があるのではないか。さらに さかのぼれば「教育勅語」の文体にいたろう。

 改めて「開戦の詔書」を読んでみた。「終戦の 詔書」で使われているのと同じ文言を抜書きして みよう。

  朕カ陸海将兵 ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ  朕カ百僚有司 ハ励精職務ヲ奉行シ  朕カ衆庶 ハ各々其ノ本分ヲ盡シ

朕カ拳々措カサル所  而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ  万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ

中華民国政府曩ニ 帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ 事ヲ構ヘテ

皇祖皇宗ノ神霊 上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ 忠誠勇武ニ信倚シ

などなど、でした。
「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第一案の分析(6)終戦工作の実態

 東京新聞(8月30日付朝刊)が、外務省が新たに公 開した外交文書について特集を組んでいる。その中 でGHQでマッカーサーの軍事秘書を務めたフェラ ーズ准将が紹介されている。それによると、フェラ ーズは「昭和天皇が降伏を決意したのは原爆投下に 先立つ45年2月だった」、従って日本の 降伏を早めるために原爆を投下したというトルーマ ンの主張は「事実に反する」、つまり原爆投下は 不要だったと主張しているという。

 「昭和天皇が降伏を決意したのは…45年2月だった」 という主張は何を根拠にしているのか。この主張は 疑わしい。45年2月といえば、例の「近衛上奏文」が 提出されたときである。「敗戦は必至」であることは 充分に承知していたが、「降伏の決意」はしていない。

 「近衛上奏文」は「敗戦は必至」の立場から 「共産革命」防止の手段を講じた後、終戦にもって いくべきだと意見陳述をしている。これを読んで、 ヒロヒトは近衛と次のようなやり取りをしている。


天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、 軍部では米国は日本の国体変革までも考えている と観測しているようである。その点はどう思うか。」

近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く 表現しているもので、グルー次官らの本心は左に 非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任 の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、 言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意 と認識とをもっていると信じます。ただし米国は 世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、 将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、 戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な 点であります。」

(中略)

天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとな かなか話は難しいと思う。」

近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思わ れますが、そういう時期がございましょうか。そ れも近い将来でなくてはならず、半年、一年先で は役に立たぬでございましょう。」

 これが1945年2月段階でのヒロヒトの認識である。 世界全体の戦局推移、連合国の枢軸国に対する無 条件降伏要求の方針、日本の戦争遂行能力の壊 滅状態などの事実を直視すれば、戦争の継続が無 駄な犠牲を積み重ねるばかりであることは誰の目 にも明らかではないか。しかし、ヒロヒトの視野 には「国体護持」の一事しか見えていない。その ための有利な条件をなお妄想していた。

 ところで「詔書」第一案には次の文言がある。

朕カ先ニ帝國政府ヲシテ 第三国ノ調停ヲ求メシメ タル所以ナルモ 不幸其容ルル所トナラス

 「第三国」とはソ連のことらしい。「第三国ノ調停 ヲ求メ」るようなことは秘密裏の工作だろうから、 もちろん国民の知るところではなかった。国民は 「詔書」で始めて知ることになる。しかしソ連に 調停を期待するとは、全く世界情勢を読めないぶざまさ を露呈しているとしか言えない。そのぶざまさを わざわざ国民の前に晒すのはまずい、と思ったから かどうかは知らないが、最終案ではこの文言は削除さ れる。

 しかし、実際にどのような終戦工作が行われてい たのかは知っておきたいと思う。それをここで取り 上げることにする。(以下、資料3による。)

 本土決戦が全国民を死のみちづれにすることが明 らかでありながら、戦争指導者たちは具体的な戦争 の終結への動きを示さなかった。それが始まるのは、 本土空襲が激化し、民心の離反が明らかになり、体 制存続の危機を感じとった時以後であった。

 戦争末期、この国の行く末を憂えて、吉田茂、有田八郎、 近衛文麿、高松宮、東久邁宮等々による終戦工作が あったという説があるが、それらの工作とは具体性 や実現性を欠いた密室の話し合いに過ぎなかった。危 険を犯して直接行動に出るようなことはなかった。 わずかに工作らしいものとして外国側との接触を行 ったものに「バッゲ工作」・「ダレス工作」と呼ばれ ている二例があっただけである。

「バッゲ工作」
 スエーデンの駐日公使バッゲが、3月小磯内閣の 重光外相から依頼をうけ、5月はじめ本国に帰って からスエーデン駐在の岡本公使と相談の上、アメリ カ公使と接触したとされている。しかし鈴木内閣に なってから5月18日東郷外相は、岡本公使に対して、

「前内閣当時に行われたことについては篤と調査し てみる必要があるから、本件は相当時日を要するも のと承知ありたい」

と暗に工作の打ち切りを命じた。

「ダレス工作」
 スイスに居た海軍武官藤村義朗中佐が、アメリカ の諜報機関の責任者アレン・ダレスに接触を求め、 和平交渉を進めるよう大本営および海軍省に20数本 の電報を送ったことをさしている。しかし6月20日 米内海相は、一件処理は外務大臣へ移したと返電し、 これも交渉の打ち切りを指示した。

「海軍省も軍令部も、そんなものは危険だ。第一言 って来ているのが中佐で、こんな大問題を中佐ぐら いに言ってくるのはおかしい、というわけで真剣に 取り上げる者はなかった」(豊田副武述『最後の帝 国海軍』)

 このように「バッゲ工作」も「ダレス工作」も 日本の戦争指導の中枢には遂に取り上げられるこ となく終った。とての「終戦工作」とは言えない。

 ではソ連への調停依頼はどうだったのか。

 「ソ連工作」も、最初は軍部の希望するソ連の 参戦阻止が目的であって、直接戦争終結を目的と したものではなかった。それが「終戦工作」を目 的としたのは6月中旬以後のことだった。

 前年1944年11月7日のロシア革命記念日の演説で、 スターリンが日本を侵略国と呼んでいる。45年2月 末頃からソ連の極東兵力の増強が行われている。 小磯内閣が総辞職した4月5日、ソ連は日ソ中立 条約の不延期を通告してきた。ソ連の対日参戦 はもうほとんど明らかだった。

 帰国の途次シベリア鉄道の兵力輸送を目撃した 駐ソ大使館付武官補佐浅井勇中佐から

「(シベリア鉄道による兵士、兵器の輸送は) 一日12~15列車におよび開戦前夜を思わしむる ものがあり、ソ連の対日参戦は今や不可避と判断 される。約20個師団の兵力輸送には約2ケ月を要 するであろう。」

との電報が参謀本部に到着していた。

 ソ連軍の兵力増強に対して、当時の関東軍はとても それに太刀打ちできない状態になっていた。 最精鋭とうたわれた関東軍の常設師団は、 44年中に南方、沖縄、本土防衛などに引きぬかれ て皆無だった。その穴うめとして新設師団を作 った。在留日本人を根こそぎ動員して、最終的に は24個師団となったが、その実態は兵の質も装備 も致命的に劣ったものだった。とくに飛行機、戦車、 対戦車砲などを殆ど失って、ソ連軍の攻撃に耐え るカを持たない状態であった。

 大本営は45年4月末から本格的な対ソ戦の検討 を始めた。関東軍の実力に期待できない以上、支 那派遣軍を満州に転用して中国戦線を放棄するか、 満州をも放棄して本土決戦に専念することさえ考え られたが、結局は関東軍は持久戦を選んだ。東南部 の山岳地帯に複郭陣地を作ってたてこもるという ことになった。いずれにせよソ連の参戦は、日 本の戦争遂行にとって最悪の事態をまねくという 認識では一致していたのである。

 ソ連参戦にたいして軍事的対抗手段をとりえない 以上、陸軍としてはソ連の参戦の防止が何よりも望 まれるところであった。こうした観点から、参謀 次長河辺中将は、就任早々の東郷外相にたいして、 4月22日ソ連にたいし外交的手段をとることを要請 した。鈴木内閣に入閣するにあたって、ひそかに 戦争終結を考えていたといわれている東郷外相は、 陸軍のこの要請に応じることによって何らかの和 平への糸口をつかもうとした。そして梅津参謀総 長にたいし、秘密保全のため最高戦争指導会議の構成員(鈴木首相、 東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、 及川軍令部総長の6人)のみの会議をひらくことを 提案し、軍部も同意して、5月2日からこの会議が開 かれた。なんらかの形で戦争の処理を問題にする会 合は、これがはじめてだったと言える。

 5月11、12、14の三日間にわたって開かれた最高 戦争指導会議構成員のみの会議は、主としてソ連 の利用度如何が論ぜられたのであって、日本の戦 力の現状や戦争終結の得失が論ぜられたのではなかった。 米内海相にいたっては、ソ連に軍艦を譲って石油 や飛行機をもらおうと主張したといわれている。 結局この会議はソ連の参戦防止に努めると共に、 さらにその上に

「進んではその好意的中立を獲得し、延いては戦争 の終結に関し我方に有利なる仲介を為さしむるを有 利とするをもって、これ等の目的をもって速に日蘇 両国間に話合を開始するものとす。」

との申合せを行うに止った。

 この会議の結果を受けて、東郷外相は広田元首相 を起用してソ連駐日マリク大使に接触させるととも に、佐藤駐ソ大使にソ連側との接触を訓電した。し かしその内容は漠然と日ソ友好について話しあおう というもので、ソ連側からは相手にされるはずもな かった。しかもこの接触が、戦争終結についていく らかでも関係のある日本政府の外交努力の唯一のも のであった。

 既に5月8日にドイツが降伏しており、ヤルタ会談 で決定しているソ連の対日参戦の期日(ドイツ降伏 後2~3カ月)がせまっていたこの時、ソ連を利用し ようというこの方針は、国際情勢についても日本の 国力についても余りにも見当違いの、ヒロヒトの頭 を占領していた「妄想」と同程度の「妄想」でしか なかった。

 以上が「朕カ帝國政府ヲシテ」求めしめた「第三 国ノ調停」の実態あった。

 無条件降伏以外には戦争終結の道のないことはす でにこの時期には客観的に明らかであり、戦争指導 者の決断の必要な時だったということができる。し かし政府中枢では、このような甘い判断と希望的な 観測が議論を主導しつづけ、ずるずると戦争を継続 していたのだった。

 この優柔不断の期間に、フィリ ピンや沖縄や南方の島々で、軍民合わせて数十万 の生命が失われ、本土の諸都市も無差別絨毯爆撃に さらされ、その死者は約三十万人、約一千万人が 家を失った。そして戦争遂行責任者たちは、ついに は広島・長崎への原爆投下まで手をこまねいていた。 これが天皇を頂点とする大日本帝国という無責任無能国家 の実態だった。