2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第864回 2007/08/31(金)

今日の話題 『人権劣等国・「美しい国」日本』



大阪府警による思想弾圧

釜ヶ崎パトロールの会の抗議声明

◇抗議声明(1) 転送歓迎

大阪府警による弾圧を許すな!
N君を今すぐ返せ!

大阪府警によるまたしてもとんでもない弾圧が起こりました。
8月24日午後1時ごろ釜パトのメンバーであるN君のアルバイト先や別のメンバー宅ともう1ヵ所が家宅捜査され、N君は逮捕されてしまいました。
逮捕理由は「道路運送車両法違反」という耳慣れない法律ですが、要するにN君が大阪市内では使用してはならないディーゼル車を昨年中に市内で運転したということです。しかしN君はこの車両を半年以上使っていません。
驚くべきことに、このような事例で逮捕されたのは日本で始めてということです。なぜそうまでして大阪府警はN君を逮捕する必要があったのか。

それはN君が長居公園の強制排除や住民票の強制削除など日雇・野宿労働者への攻撃に対しての抵抗を先頭で闘っていたからであり、だからこそ大阪府警は世界陸上開会式前日にN君をこのような「微罪」で逮捕したのです。
これは世界陸上開会式への抗議の声を圧殺しようとする予防拘禁に他なりません。私たちはこのような大阪府警の弾圧を絶対に許しません。

知っての通り、今年の2月5日大阪市はN君ら長居公園で生活していた野宿の仲間のテントや小屋を強制撤去しました。それは5000筆を越える強制撤去反対署名を無視し、ヤラセで「排除を求める地域の声」をつくりだし、多額の税金を投入して、野宿の仲間たちの要求や質問に何一つ答えることなく強行されたのでした。
なぜこのような暴挙を強行したのか、その理由は明らかに天皇出席の世界陸上のためです。野宿者の強制排除と天皇制や国際的なイベントは決して無関係ではありません。
これまで天皇や皇族が出席する式典のために、そして「国威」の発揚が迫られるオリンピックなど国際的なイベントのたびに、目障りとされた野宿者はまさに「ゴミ」のように排除されてきました。昨年のうつぼ公園の代執行であり(世界バラ会議)、2005年名古屋白川公園の代執行であり(愛知万博)、長居公園でも97年なみはや国体、2002年サッカーW杯の時にも野宿者排除の嵐が吹き荒れました。
また大阪市は日雇・野宿労働者2088名もの住民票を強制削除し、高齢日雇労働者や野宿者の失対事業である「高齢者特別就労事業」(年間約3億円)を「予算がない」という理由で削減する計画を進めています。一方で世界陸上には40億もの税金を投入しながら!
大阪市は天皇出席の世界陸上を利用して「環境美化」「公園整備」の名目で野宿の仲間を排除し、仲間の生きる条件を次々と奪おうとしています。そしてその動きに呼応するかのように警察はN君を「微罪」で逮捕し、世界陸上開会式への抗議の声を圧殺しようとしたのです。今どきこんな無茶な手法を使って!

うつぼ・大阪城公園、長居公園の強制撤去、昨年の9・27弾圧(反排除を闘う5名の仲間の逮捕。今年8月9日には全員が執行猶予で釈放)、住民票の強制削除、特別就労事業削減計画、司法・行政が一体となって貧困者の生きる条件を次々に奪おうとしているのです。
貧困者への戦争、棄民化政策とも言える状況の中で行われる世界陸上、そして今回の弾圧を私たちは絶対に許せません。
ぜひとも多くの皆様が私たちと共に抗議の声をあげていただくように心から訴えたいと思います。

野宿者排除の世界陸上弾劾!
大阪府警はN君をすぐに返せ!
弾圧粉砕!闘争勝利!

釜ヶ崎パトロールの会
kamapat@infoseek.jp

大阪府警に抗議の声を!
大阪府警察本部
〒540-8540 大阪市中央区大手前三丁目1番11号
TEL06-6943-1234




裁判所もグル・拘留延長

反天皇制運動連絡会の抗議声明

大阪府警察本部長 近石康宏様
大阪府知事 太田房江様
大阪市長 關淳一様
大阪地方検察庁検事正 三浦正晴様
大阪地方裁判所様

〈大阪府警による不当な人権弾圧に抗議する声明〉

 8月24日大阪府警は、長居公園等からの立ち退き を強制される野宿者を支援し、野宿者の住民票削除 問題等に取り組んできた釜ヶ崎パトロールの会の Nさんを「道路運送車両法違反」で逮捕し、身柄を 拘束した。さらに裁判所は27日、10日間の勾留延長 を許可し、接見禁止措置まで出した。新聞は「昨年 11月と一昨年10月、排ガス基準(NOx・PM法)に満 たない他人名義のトラックの車検をした際、排ガス 車両規制の対象地である大阪市内を中心に車を使っ ていたにもかかわらず、規制外の奈良県内を使用本 拠地として運輸支局に申請していた疑い」と報じて いる。

 こんなことで逮捕・勾留か! 私たちは大阪府警 の暴挙に怒りをもって抗議したい。

 8月28日付の東京新聞によると、憲法学者笹沼弘 志教授は「昨年、一昨年の違反を放置しておいて身 柄を拘束する緊急性がどこにあるのか。内容的にも 指導、警告ですむ話」と語ったと伝えられているが、 私たちもまったく同じ憤りを抱いている。

 さらに同記事によると、規制対象地域でも通行車 輌の19%が排ガス規制に合わないとされる。すなわ ち、いまなお数十万台/日の非適合車輌が同地域を 走行していることになる。これに対し、大阪府は、 本年8月段階でいまだその具体的対策を打ち出し ておらず、府民からの意見募集を実施し、環境審 議会で検討している段階に過ぎない。数十万台が 放置されるこのような状況で、Nさんを逮捕する根 拠などありえない。Nさんの行為がもし仮に「罪」 だとしても、それは行政の不作為によるものであ り、個人に問われる「罪」ではありえない。なお かつ、Nさんの逮捕は現行犯ですらなく、車検を 取得した9ヶ月あるいはまる2年も遡ったもので あり、これを令状逮捕するとは、通常の刑事手続 きにおいては考えられない、警察、行政および司 法権力の執行である。これは異常な事態であり、 人権弾圧というよりない。

 企業や政治家、警察等々の権力者たちが、その 権力をかさに微罪とはほど遠い、許しがたい数々 の違法・犯罪的行為を行っていることを私たちは 知っている。その行為者たちがそれにもかかわら ず権力者であり続けている現実に、多くの人々は ウンザリしている。今回の事件は、このような権 力者たちが弱者を弾圧するという、さらに許 しがたいものだ。

 Nさんが逮捕された翌日25日から、大阪長居公 園では世界陸上大阪大会が開催され、天皇・皇后 が出席した。天皇一族が参加するイベント会場付 近は、「環境美化」を名目に、野宿者の家や野宿 者本人たち、あるいは障害者、さらには家畜小屋 などを強制的に排除するという暴行がまかり通っ てきた。これは、あたりまえに存在するべき人 の生存権、居住権や施設への、深刻で許しがたい 侵害である。これまでにも、しばしば「国家的イ ベント」や天皇出席のイベントにおいては、こう した人権を蹂躙する弾圧が、天皇制的価値観に基 づく「美しさ」追求のために行なわれ、批判され てきた。今回の事件がその延長線上にあることは 疑いようがない。

 そのことは、弾圧者である大阪府警をはじめと する、行政権力、司法権力の側が、よくわかってい ることであろう。Nさんは、8月25日に向けて、 こうした愚劣なイベントに対して、反対の集会や デモを準備しているさなかに逮捕された。彼らに とって、逮捕の本当の目的は、そのような人権を 侵す行政を批判し対峙するNさんの身柄拘束にこ そあったのだと、私たちは考える。

 あなたたちは、弱者に寄り添い、弱者として社 会活動を行う人たちに対して、自分たちの弱者に 対する無政策を棚にあげ、不都合を隠し邪魔者扱い をするためだけに、警察・行政・司法権力を強権的 に行使したのだ。これは不平等と身分制社会を維 持するための、未熟な社会にふさわしい典型的な 弾圧事件である。また、予防拘禁的な性格を併せ 持つ天皇制弾圧でもある。

 私たちは、多くの人々にこの弾圧を知らしめ、 抗議の声をあげ、訴えていく。大阪府警、大阪府、 および裁判所、検察庁は、この恥ずべき行為を過 ちとして真摯に受けとめ、反省し、Nさんを即刻 釈放せよ。

2007年8月29日
反天皇制運動連絡会


大阪府警、言論弾圧を自白

『ブログ「旗旗」』 の記事より

世界陸上の警備■公安三課刑事がついに自白

 Nさんに対する弾圧事件の続報です。大阪府警の公安刑事自身が自分の口で、これが言論弾圧であることを自白しました。
 それはNさんとはライブ会場で知り合ったというバンドをやっている友人が心配して、大阪府警に事情を問い合わせる電話をかけた中でのことです。

 最初に電話口に出た府警の受付係は問い合わせにもちゃんと丁寧に対応してくれたそうで、このへんは警察の一般市民への対応としては非常にポイント高くて好感を持てます。ところが、担当として電話口に出た「公安三課のアサダ」と名乗るおっさんが、それをすべてぶち壊しにするほど態度が悪くて投げやりな応対だったようです。

 いきなりこの友人に、「おたく、N君とどういう関係?」「で、何が知りたいわけ?」と投げやりに返答(大人のくせに敬語も使えない=すでにこの時点で社会人として失格)。で、この友人が、ディーゼル車に乗っていただけで逮捕したのですかと事実関係を確認したところ、アサダさんは、まるで他人事のような口調で

 「普通はディーゼル車に乗ってた言うだけで捕まらんわなぁ…」

とつぶやいたそうです。ではいったいなぜ逮捕されているのか、この友人がわけわからずに「はぁ?でも逮捕したんでしょ?何か他の罪名でもあるんですか?」と尋ねると、急に「そんな事、おたくに答える筋合いはない」と突っぱね、あげくに「出るべきところに出てモノ言え」意味不明のことまで口走って、とうとう返答しなかったそうです。ただ問い合わせてるだけやのに、「出るべきとこ」っていったいどこやねん?アサダさんは「文句あるんやったらかかってこんかい!」と凄んでいるだけですね。恐ろしい。ヤクザじゃあるまいし…。

 注目すべきはこれは重大な自白だということです。そう、Nさんのしたことは、捕まえた公安自身の言葉を借りれば「普通は捕まらない」ことなのです。でも、現にNさんは逮捕されている!それはなぜ?

 Nさんが公安刑事の価値観で「普通でない」ことと言えば、「政府・行政とは違う考えを持ってそれを公にしている」ということ以外ありません。要するに、この公安三課のアサダ氏の返答からわかることは、1)Nさんは捕まるようなことは何もしていない、2)だが市民運動をしているから逮捕したんだ、ということの2点です。大阪府警はこれが違法な言論弾圧でなくて他の何だと言い逃れできるのでしょうか?

 だいたい、わからないからちゃんと敬語を使って丁寧な言葉で問い合わせている人間に対し、「出るべきところに出てモノ言え」とは、なんと言う言い草!なんという尊大な対応!あなたが市役所に問い合わせに言って、こんな言葉を吐かれたらなんと思いますか?私ならぶち切れますよ。大阪府警全部がそうだとは思いたくもないですが、少なくとも公安三課の刑事たちの「公務員としてのモラル」はそこまで腐っているのか。この友人はよく我慢したと思います。

■これは「別件逮捕」ですらない

 この逮捕について、(左翼ではない方の)ネット上のコメントで「笑ってしまうくらいあからさまな別件逮捕だな」というものがありました。運動圏以外の方々の普通の反応としては、これが一般的な感想のようです。まだまだ他人事だと思っておられるのでしょう。

 しかしこれは「別件逮捕」ではありません。「別件」というのは「本件」があってはじめて成立する言い方だからです。 つまり、より重大な容疑である「本件」では逮捕するだけの証拠がないので、些細な「別件」で身柄を拘束し、実際には逮捕容疑とは関係ない本件の取り調べや強制捜査を行う脱法行為のことを言うのであって、これは判例でも政府公式見解でも明白に違法とされています。

 ところが今回の逮捕は「違法な別件逮捕」のレベルにすら達していない。なにしろ「本件」というものがありません。N君の「思想」や「国に逆らう運動をしていたこと」が公安の考える本件なのです。だからこれは別件逮捕などという生易しいものではない。思想弾圧なのです。 笑ってなどおられません。戦慄するべきです。

■普通の市民にまで拡大し続ける監視・弾圧対象

 それにしてここ数年、こういう事例が多すぎる。大きなものでは立川ビラまき弾圧事件、葛飾ビラまき弾圧事件、法政大学の大量逮捕事件などがありますが、その他にも、宅急便の送り主欄にペンネームを使用したら「私文書偽造」で逮捕された事例だの、ミニコミ紙の連絡先として携帯電話の番号を記載したら「詐欺罪」で逮捕された事例だの、あげくにビラをまいたのでも何でもない、ただ街中のマンションの敷地を通ったということで「住居侵入」で逮捕された事例まであります。

 捕まったのはすべて反戦運動や市民運動、左翼運動をしている人たちです。つまり「逮捕容疑」なんてどうでもいいのです。その思想が逮捕の本当の理由なのです。さらにこの数年の特徴は、弾圧対象がかつての旧「過激派」だけではなく、ごく普通の人たちが行っている一般の市民運動や労組にまで拡大していることです。今の日本に「武力闘争を主張しかつ実践している団体」など存在しません。公安たちは、現状では自分らの予算が削られたり、人員削減の対象になってしまうことを恐れ、次々と新しい弾圧先を「新規開拓」しては飯のタネにしています。最近よく聞く「治安の悪化」という主張もこの脈絡でとらえないと、本当のことはわかりません。

 右派の人の中には「北朝鮮の脅威」云々を持ち出してまで、公安組織をかばおうとする人がいますが、だったらまず、「ちっちゃな市民運動をネチネチと苛めてる暇があったら北朝鮮の工作員と体をはって闘わんかい!」と公安を叱ってはいかがでしょうか?今の公安は本当に楽な仕事です。何しろ70年安保闘争や全共闘運動の最盛期よりも、今のほうが公安刑事の人数は多いのです。にもかかわらず、やってる仕事は当時の100分の1もないでしょう。本当に「治安が悪くなっている」のなら、さっさとその大半を一般の刑事警察に統合するべきではありませんか?そんな彼らのお気楽な飯のタネにされ、あたかも駐禁の切符をきるくらいのお手軽さで逮捕され、あげくに生活や人生まで滅茶苦茶にされかねない目にあわされた一般市民にとって、これはたまったもんではありません。

■なぜこんなことになったのか

 こんなおかしなことになってしまったきっかけは、「オウム事件」で別件逮捕が堂々と連発された時、事態の重要性からもこれにちゃんと批判を加える人がいなかったために、いわば別件逮捕が公認化されていったことが大きいと思います。あれは一応、地下鉄サリン事件などの「本件」がありましたから、一応は「別件逮捕」のレベルには達していました。そして一部には、むしろオウムの被害者救済などにかかわっていた弁護士などを中心に、こういう別件逮捕で事態を解決しようとする姿勢には懸念が示されてもいました。しかしそれはまるで「オウムをかばう者」扱いされて大きな声にならなかった。まさしく公安などは、「これだ!」と味をしめてしまったと言えるでしょう。

 しかしあの時には、たとえばアパートの敷地に立ち入ったという容疑にしても、「脱会信者に面会を要求して連れ戻す目的をもって」ということが頭についていました。そして「かかる目的をもって」立ち入ったことが住居侵入とされたのです。その範囲では「違法な別件逮捕ではない」と強弁することも可能でしたし、政府や警察もそう主張していたはずです。当時の村山総理が不用意に「この別件逮捕は…」と何の前提もつけずに口走って後藤田正晴に注意されたりしていました。もうアホかと思いましたけどね。村山さんは社会党のくせに「別件逮捕は違法である」ということすら知らなかったようです。

 ともあれ、ここ数年の公安警察の動きや、今回のNさんの逮捕は、オウム事件の時に警察が行った逮捕とも全然違います。違法性の度合いで比較にもなりません。こうして弾圧対象がどんどん拡大され、誰も彼も普通の日常生活そのものに「違法」と難癖をつけて、どんどん逮捕されまくっている現状は異常の一言です。ここらで何とか歯止めをかけないと大変なことになってしまいます。

■思想にかかわらず誰もが弾圧される時代に

 戦前の帝国議会では、天皇制翼賛政党のタライ回しとは言え、ちょくちょく「政権交代」がありました。しかし民主主義というものが確立されていないというか、そもそも「民主主義」という言葉そのものがイコール天皇主権を否定するものとして公的にも禁止されていたのです。そこでは翼賛政党同士でも、当たり前に与党による野党への弾圧・干渉がおこなわれ、政権が交代するたびに、昨日まで弾圧されていた政党が今日は反対に相手を弾圧し返すということが、日常的に行われていました。このままでは日本の民主主義の成熟度はさらに下がりまくり、そんな世の中が再来しかねません。

 公安のみなさん、正気にもどってください。今の(元々か?)公安はどうかしています。あなた方が弾圧しているのは、本来あなた方が守るべき建前になっている人々じゃないですか。これでは「武力革命」は正当だという結論になってしまいますよ。
すべてのみなさん、左翼だ右翼だ民主だ自民だ言う前に、もう一度原点にかえってまともな声をあげましょう。

参考

◇日本国憲法

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

第15条 2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

◇国際人権規約(日本政府が批准している国際条約)

自由権規約9条1 すべての者は、身体の自由及び安全についての権利を有する。何人も、恣意的に逮捕され又は抑留されない。何人も、法律で定める理由及び手続によらない限り、その自由を奪われない。

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「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第一案の分析(5)朕カ一億衆庶ノ刻苦

朕ハ常ニ爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 神器ヲ奉シテ爾臣 民ト共ニアリ

 「神器」を持ち出して「爾臣民」を恐れ入らせよ うとはまさに神ががり国家の面目躍如、恐れ入りま した。その恐れ入っている「爾臣民ノ赤誠」のほど はどうだったのだろうか。

 開戦当初、神州不滅などという神ががり的な信念 を植えつけられた圧倒的多数の国民は、緒戦の嚇嚇 たる戦果に酔いしれて自ら戦争協力に邁進していっ た。

 しかし、「交戰已ニ四歳ヲ閲(けみ)シ」した頃、 「朕カ一億衆庶ノ刻苦 ソノ極ニ達」し、「朕カ陸 海將兵」の戦意の低下も極に達していた。支配者は 国民義勇隊を編成して国民総動員体制を敷くことに よって、国民の戦意の高揚を期待したが、その期待は ほとんど無に帰した。

 それは戦局の悪化もさることながら、国民生活そ のものが崩壊に瀕していたことが大きな原因である。

 すでに開戦にあたって定めた戦争経済の基本方針 は、すべてを戦争遂行のための軍需生産に集中し、 国民生活は最低限におさえることとしていた。その延 長上で1945年1月25日に「決戦非常措置要綱」が採択さ れた。そこでは、本土決戦にそなえての航空機なら びに特攻兵器の生産を最優先し、液体燃料の確保を これにつぐものとし、食糧は内地の増産をはかると いうだけに止めている。

 本土決戦に備えての軍隊への動員、徴用による 農業労働力の致命的な不足、肥料の欠乏は44年度 の国内農業生産に破壊的影響をあたえた。さらに 制海権を失い食糧の輸移入の道も閉ざされた。

 1945年6月8日の御前会議で「今後採ルべキ戦争 指導ノ基本大綱」を採択した。支配者たちは 「国力ノ現状」の中で、食糧について次のような 認識を示していた。

 食糧ノ逼迫ハ漸次深刻ヲ加へ 本端境期ハ開戦以来 最大ノ危機ニシテ 大陸糧穀及食料塩ノ計画輸入ヲ確 保シ得ルトモ 今後ノ国民食生活ハ強度ニ規制セラレ タル基準ノ糧穀ト 生理的必要最少限度ノ塩分ヲ 漸ク 摂取シ得ル程度トナルヲ覚悟セザルベカラズ

 更ニ海外輸移入ノ妨害、国内輸送ノ分断、天候及 敵襲等ニ伴フ生産減少等ノ条件ヲ考慮ニ入ルルトキ ハ局地的ニ飢餓状態ヲ現出スルノ虞アリ

 治安上モ楽観ヲ許サズ

 尚来年度ノ食糧事情ガ本年度ニ比シ更ニ深刻化ス ベキハ想察ニ難カラズ。

 主食の逼迫に加えて副食物も調味料も45年度に 入って極度に供給が低下した。肉、魚、野菜、調 味料は戦前の半分近くに減少した。生活必需品の 配給もほとんどなくなった。それにともない、闇 取引の横行、物価の高騰と「朕カ一億衆庶)ノ刻苦  ソノ極ニ達」していた。

 このような状況に国民を追い込んだとき、支配者 が第一に心配するのは、国民の健康や生命ではなく、 治安である。「治安上モ楽観ヲ許サズ」

 前提の「今後採ルべキ戦争指導ノ基本大綱」は 「民心ノ動向」という項を第一に掲げている。

 国民ハ胸底ニ忠誠心ヲ存シ敵ノ侵寇等ニ対シテハ 抵抗スルノ気構ヲ有シアルモ 他面局面ノ転回ヲ冀 求スルノ気分アリ 軍部及政府ニ対スル批判逐次盛 トナリ 動モスレバ指導層ニ対スル信頼感ニ動揺ヲ 来シツツアル傾向アリ

 且国民道義ハ頽廃ノ兆アリ 又自己防衛ノ観念強ク  敢闘奉公精神ノ昂揚充分ナラズ 庶民層ニハ農家ニ 於テモ諦観自棄的風潮アリ 指導的知識層ニハ焦燥 和平冀求気分底流シツツアルヲ看取ス

 カカル情勢ニ乗ジ 一部野心分子ハ変革的企画ヲ以 テ蠢動シアル形跡アリ 沖縄作戦最悪ノ場合ニ於ケ ル民心ノ動向ニ対シテハ 特ニ深甚ノ注意ト適切ナ ル指導下ヲ必要トス

 尚今後敵ノ思想撹乱行動ハ盛トナルヲ予期セザル ベカラズ

 「一部野心分子ハ変革的企画ヲ以テ蠢動シアル形 跡アリ」というが、すでに長年かけて「変革的企画」 を持つ恐れのあるとみなした人たちはほとんど一網 打尽されている。何を恐れているのか。離散逃亡、 サボタージュの増加、厭戦反戦言動の高まりに革命 の影を感じ、支配層はその影に脅えている。 「詔書」の最後の一節の

苟モ激情 軽挙 益々事端ヲ滋クシ 同胞排擠 愈々時局ヲ亂リ如キハ

は革命への恐れの表白である。 『支配者の心性』 で紹介した近衛文麿の上奏文が思い出される。

 庶民のささやかな抵抗、落書き・匿名投書・流言 蜚語などに対する憲兵隊・特高警察の取り締まりは いっそう激しくなっていった。内緒話にまで耳目を そばたて、容赦なく逮捕している。

 内務省警保局保安課のまとめた「最近における不 敬、反戦反軍、その他不穏言動の状況」によると
1942年4月~43年3月までは308件月平均25件
  43年4月~44年3月までは406件月平均34件
  44年4月~45年3月までは607件月平均51件
と急激に増えている。特に不敬言動が増えている。 この調査は不敬言動の内容について次のように分類 している。

(イ)
 敗戦必至を前提として陛下の御将来に不吉な る臆測を為すもの
(ロ)
 敗戦後、戦争の責任は当然陛下が負ひ奉るべきな りと為すもの
(ハ)
 戦局悪化の責任を畏くも陛下の無能力にありと為 し奉るもの
(ニ)
 戦争の惨禍を国民に与えたるものは陛下なりとし て之を呪詛し奉るもの
(ホ)
 陛下は戦争圏外に遊惰安逸の生活をなし居るとし て之を怨嗟し奉るもの

等にして何れも反厭戦思想感情の赴くところ遂に畏 くも至尊を呪詛怨嗟し奉るに至りたるものと認めら れるのである。

 その不敬言動の内容も、しだいに天皇を直接批判 するものとなった。こんな例があげられている。

「自己の親指を示し(天皇の意)日本はこれが居る から駄目だ」

「もし負けても天皇陛下が代るだけの問題だ」

「天皇陛下は呑気に写真に映っているが人の子供を うんと殺してこげな大きな顔をしている」

「(天皇陛下の御真影を指差し奉りて)大体この野 郎が馬鹿で東条にまきこまれていたから戦争に負け たのだ」

 「刻苦 ソノ極ニ達」して、「朕カ一億衆庶」 の批判精神を目覚ましめた。大日本帝国下の最大 のタブーであった天皇の神聖の欺瞞がようやく広 く意識され始めたということができる。

 士気の低下、戦意の喪失は「朕カ陸海將兵」にも 蔓延していた。本土決戦に備える軍隊は未教育の第 二国民兵が過半数を占める新編成部隊であった。 宿舎、給養の不足から兵士の体力気力は衰え、兵器 も行きわたらない状態では士気の低下、戦意の喪失 は当然であろう。毎日、陣地構築のための壕掘りか、 食糧あさりに明けくれて、教育訓練の余裕もなかっ た。

1945年7月25日、陸軍は内地各軍の参謀副長・参謀 を集めて軍紀風紀刷新に関する会合を開いた。ここ で行われた各軍の状況報告について作戦部長宮崎 周一中将は次のような要旨を書き留めている。

第一総軍
 逐次弛緩、離隊逃亡ガ違刑ノ六割二達ス、対地方 関係ハ当初ハ欠陥アリシモ逐次円滑トナル

第二総軍
 離隊-食料不足、戦局ト必勝確信ノ低下

航空総軍
 特攻隊要員ノ悪質犯罪、半島人ノ徒党離隊

憲兵
 自隊ノ状況相当注意ヲ要スル傾向アリ(物慾色慾 ニ起因スル犯罪)

 一般軍隊中散在スル小部隊ハ軍紀及ビ対外上不良 ナルモノ尠カラズ 其主要原因次ノ如シ

離隊=朝鮮・台湾出身者大部(約八割)
飲酒ニ因ル将校犯行=下級召集将校
軍民難問事象=大部ハ軍側ニ非アリ

軍民ノ実情寒心ニ堪ヘズ

 このような状況に対して、支配層はただただ一層の 取締りの強化をするしか能がなかった。

 軍部は直接民衆を統制し治安確保するために、 1945年3月16日、国内の憲兵の大規模な拡張を発令 した。軍管区に対応する地方ごとに 憲兵隊を編成し、憲兵隊司令部の下にほぼ県単位に 地区憲兵隊と直轄の憲兵分隊を設けた。その総人数 は憲兵1万4203名、他に補助憲兵922名という従来の 三倍に上る大増強であった。

 この結果民衆の日常生活にまで憲兵が介入し、 軍の権力を背景に人権を蹂躙するようになった。 このことによって国民の軍に対する不信と反感は いっそう増すことになった。

 この憲兵隊の増強は、連日のように全国の諸都市 が空襲に見舞われていた最中のことだ。国民の罹災 救助は二の次で、治安強化が第一重要事なのだ。 軍隊は国民を守らない。いや軍隊ではなく国家だ。 いざというとき、国家は支配者を守るが、国民は 守らない。
第862回 2007/08/29(水)

「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第一案の分析(4)国民義勇隊

此ノ間欧州ニ於イテハ反テ戦火ノ終熄ヲ見 世界ノ 大勢ハ新ナル国際秩序ノ実現ヲ促スノ機運ヲ示セリ  是ノ秋ニ当リ尚交戦ヲ継続センカ

 1943年9月 イタリア降伏
 1945年5月 ドイツ無条件降伏

 ヨーロッパにおける同盟国ドイツの電撃的な進 撃が日本が開戦を決意する要因の一つであったと 同じように、同盟二国の敗北が日本に降伏を決意 させた要因の一つであったことは想像に難くない。

 同盟国の降伏の先に自国の敗北が否応なく見え る。また「世界ノ大勢」に乗り遅れることをおそ れる焦燥と不安は大きかったに違いない。しかし、 このイタリア・ドイツの敗北に関する文言は、 第三案以降さらに抽象的な表現に変わっていく。

敵国ノ人道ヲ無視セル爆撃ノ日ニ月ニ苛烈ヲ極メ  朕ガ赤子ノ犠牲愈々多ク

 「人道ヲ無視セル爆撃」という一般的な言い方で、 「原爆」のことを直接非難していない。これでは アメリカ軍の人道的犯罪は日本軍の「人道ヲ無視 セル爆撃」と同次元であり、目くそが鼻くそを非難 しているようなものだ。

交戰已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ 朕 カ陸海將兵ノ健闘 朕カ百僚有司ノ勵 朕カ一億 衆庶(しゅうしょ)ノ刻苦 ソノ極ニ達スルモ 未ダ 戦争ノ局ヲ結ブニ至ラス

 「交戰已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ」、 本土決戦が叫ばれるようになった。女性までもが動 員されて、アメリカ軍を迎え撃つべく竹槍の訓練が 行われたという話しを聞いたことがある。自爆攻撃 以上に愚かな政策だ。戦争遂行者たちはまともは判 断力を失っている。では支配者たちは実際に、 「朕カ一億衆庶」をどうしようとしていたのだろう か。 (以下、資料(3)による。)

1945年
 3月10日 東京大空襲
 3月12日 名古屋大空襲
 3月14日 大阪大空襲
 3月16日 神戸空襲
 3月25日 名古屋大空襲
 3月26日 小磯内閣、国民義勇隊の編成を閣議決定

 国民義勇隊の任務
① 防空、食糧増産、空襲被害の復旧、工場の疎開 工事
② 陸海軍の陣地構築などの補助
③ 消防などの補助に出動


 国民義勇隊編成の目的
「(隊員に)旺盛ナル皇国護持ノ精神ヲ振起セシム ルコト」
「真二戦列ニアル一員トシテ自覚ノ下二各其ノ職住 ヲ完全ニ遂行セシムルコト」
「戦局ノ推移二伴ヒ其ノ要請二従ヒ直チニ挺身難二 赴カシムルコト」

 私は2004年に成立した「国民保護法」を思い出し た。

 とまれ、国民義勇軍はこの段階では国民動員組織 であった。国民動員組織としては既に大政翼賛会、 翼賛壮年団、大日本青少年団、大日本婦人会などが あったが、それらは当初の国民組織としての性格を 失って、単なる精神運動の機関と化していて、本土 決戦を迎えて国民を総動員しようとしている支配層 にとっては無用の長物になっていた。国民義勇は それらを統合して国民動員の一本化隊を図るという 意味もあった。

 このように国民義勇隊は本土決戦のときの動員組 織を目指していたが、情勢の急迫によってはこれを 直接軍隊化することも想定していた。しかし、これ を戦闘組織にするためには法整備(合法化)が必要 だった。

 6月9日から開会された臨時国会(鈴木内閣)で
「義勇兵役法」
「国民義勇戦闘隊員に関する陸軍刑法、海軍刑法、 陸軍軍法会議および海軍軍法会議法に関する法律」
が提出可決され、6月22日公布された。

 義勇兵役法によると、年齢15歳から60歳に達する 男子、17歳から40年に達する年女子が義勇兵役に服 するものとている。つまり、ほとんどの国民を兵役 に服させる道を開いたことになる。この法律には特 に天皇の言葉が付されている。

「朕ハ曠古ノ難局二際会シ忠良ナル臣民ガ勇奮挺身 皇士ヲ防衛シテ国威ヲ発揚セムトスルヲ嘉シ…」

 義勇兵役法をうけて6月23日軍令を以て国民義勇 戦闘隊統率令が制定された。これは各地方に連合義 勇戦闘隊、その下に義勇戦闘隊、義勇戦闘区隊、義 勇戦闘分隊を編成すること、その他鉄道局、軍需会 社などにも義勇戦闘隊を編成すること、編成の時期 や要領は軍管区司令官が定めることなどが規定され ていた。軍令を以て律することによって義勇戦闘隊 は完全に軍の統率下に組み入れられることになった。

 国民義勇隊の結成は、必ずしも政府や軍部の計画 どおりには順調にすすまなかったが、それでも 6月13日に大政翼賛会は正式に解散し、国民義勇隊は 最後のそして唯一の国民統合動員組織となった。

 国民義勇戦闘隊統率令には「国民義勇戦闘隊を 編成するにあたっては国民義勇隊の組織を以っ てこれに当てるのを本則とする」ことが明記され ていてたが、実際に戦闘隊が編成されたのは、鉄 道、船舶、船舶救難の三部門だけだった。しかも それは8月になってからであった。

 ただし直接戦場化が予想された島嶼では、島民 全てを戦闘隊に組織して軍の指揮下に入れていた。 伊豆諸島の場合は、飛行場のある新島、本土上陸 の足がかりになる大島に、陸軍の大兵力が配置さ れたが、その他の式根、神津、三宅、御蔵、利島 の各島は住民の義勇戦闘隊が防衛の兵力の主体と なっていた。

 なんのことはない。これは、サイパンや沖縄の 場合と同じように、住民を捨石にして本土(支配 層)の延命をはかろうということだ。国際陸戦法 規における非戦闘員保護の規定を、サイパンや沖 縄で既に反古にしてしまった日本は、国民義勇戦 闘隊の編成によってそれを完全に放棄してしまっ たことになる。
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「詔書」第一案の分析(3)大東亜会議の虚実

他國主權ノ毀損ト領土ノ侵略トハ 固(もと)ヨリ 朕カ素志ニアラス

1943年
 2月1日 ダルカナル島撤退
 4月18日 連合艦隊司令長官・山本五十六戦死
 5月29日 アッツ島玉砕
 9月   イタリア、連合国に降伏

 枢軸国はイタリアが脱落し、ドイツ軍の敗退もこ の年から始まっている。日本の敗色もいよいよ濃い。 この状況のもとで、日本軍政はビルマ(8月)とフィリ ピン(10月)に独立をあたえる。そして、日本は11 月5、6日に「大東亜会議」なるものを東京で開催し た。招請されたのは中国、タイ、満洲国、フィリピ ン、ビルマであった。

 中国とはもちろん南京の汪精衛(=汪兆銘)傀儡 政府の方である。タイ国首相ピブンは病気を理由に 欠席している。また、当時在京中の「自由インド仮 政府」首班チャンドラ・ボースが陪席した。日本側 は東条英機首相が出席した。

 各国の国会議事堂における演説はいずれも真の独 立への期待と願望を強く訴えといる。また、会議は 「共存共栄」「独立親和」「文化昂揚」「経済繁栄」 「世界進運貢献」の五原則を採択したが、大東亜共 栄圏の実態はどうだったのだろうか。

 1943年2月1日の衆議院秘密会において佐藤賢了陸 軍少将は、南方の軍政状況を説明して次のように述 べている。

行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウ ガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ 於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノ デアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス

ビルマとフィリッピンの独立とは、独立といっても 日本軍の軍政下にあるのと変わらないという質のも のでであった。

 いまだ独立していないその他の地域の扱いはどう なっていたのか。大東亜会議の半年ほど前の 1943年5月31日の御前会議で次のように決定されて いた。(「大東亜政略指導大綱」)

其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム  但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ

(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネ オ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供 給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メ テ政治ニ参与セシム

(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理 ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム

(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス

 「其ノ他ノ占領地域」とは具体的には、現在の マレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる。 そこは日本の領土にするとしている。そして、 ニューギニアなどについては、日本の領土に する方向で「追テ定」めようと言う。しかもこのこ とは「当分発表セズ」、つまり秘密にしておこうと 言っている。なによりの重要なことは、 これは天皇 も承知していたということだ。これらのことは 「固ヨリ朕カ素志」であったのだ。

 以上のように、開戦時に設定した大義名分「大東 亜共栄圏の建設」は、東南アジア諸国を欧米の植民地 主義から解放し独立を与えようというものであったが、 実態は、石油などの重要資源や戦略的拠点の確保のため に占領地域を日本の領土にし、日本が欧米に代わって新 たな支配者になろうとしていたのだった。

 ところで、大東亜会議に招請された各国のその後は どうなったのか。

 まず、タイの大東亜会議不参加はタイ独自の絶妙 の外交戦術であった。米英との間に一定の和平路線 をも保っていたのだ。日本敗戦時の危機にも巧妙に 対応した。当時のアパイオン内閣は舞台裏で「日本 軍を一網打尽にする凄い筋書」を作っていたと言う。

 ビルマについてはビルマ大使だった石射猪太郎の 『外交官の一生』が日本が独立せしめた「独立」 ビルマの最期を伝えている。
 1945年3月のオン・サンの反乱、ラングーンの大 空襲、軍司令部の混乱、そしてバー・モウ総理らの ラングーン脱出で「独立」ビルマは崩壊した。
 ちなみに、ビルマ共和国が成立したのは1948年 1月のことだった。

 フィリピンは太平洋戦争での最後の戦場となった。 日本敗戦後、日本の傀儡政権(ラウレル)に代わり ロハスが大統領となって、1946年7月に二度目の 「独立」を獲得した。

 満州国は日本敗戦とともに崩壊、傀儡皇帝薄儀は 一市民にかえった。南京政府ももちろん消滅 (汪兆銘は1944年11月に死亡している)し、中国は 国共内戦の場となった。
第860回 2007/08/27(月)

「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第一案の分析(2)「大東亜省」問題

「帝國ト共ニ東亜新秩序ノ建設ニ協力セル東亜ノ諸 盟邦」
 御前会議で米英との開戦の決意が行われた後で、 その開戦の大義名分が検討されたという倒錯した 経過がすでに「大東亜戦争」の本質を語っている が、ではその大義名分の一つ「大東亜共栄圏の建 設」の実際はどうだったのだろうか。

 日本政府内では、外務省から「大東亜省」を分離 設置する案がもちあがっていた。この大東亜省設置 案は1942年9月1日に発表された。同時に外務大臣・ 東郷茂徳が辞職をしている。この辞職は大東亜省 設置と関連あるものとみなされている。

 大東亜省の設置は「大東亜共栄圏の建設」とい う大義名分の本質に関わる問題であった。当時の 関係者たちの議論・証言によって、それを明らか にしてみよう。(資料(2)による。)

 満洲国、中国、タイ、仏印など、いわゆる大東 亜地域を大東亜省の管下におくとともに、従来の 対満事務局・興亜院・拓務省を廃止し、外務省 には「国際儀礼及び条約締結の形式的手続等」の みを残す、というのが大東亜省設置の骨格 であった。東郷外務大臣はこの考えに反対で あった。その考えは東条首相の考えと対立し、 東郷は東条から単独辞職を求められたが、 東郷はそれには応じなかった。東郷はその反対 意見の骨子と東条首相との意見の齟齬、辞職問 題に関して、『時代の一面』で次のように述べ ている。


 東亜の諸国は爾余の諸外国とはことなる取扱いを 与えられたりとて、日本に対し不信疑惑の念を生じ、 これら諸国の自尊心を傷けることになる。

 従来、興亜院の事務処理が支那人民の反感を招き、 失敗に帰せることは明かであるが、大東亜省案はこ の興亜組織を更に強化して、全東亜地域に、しかも 恒久的に実施せんとするもので、その失敗は事前に おいて予想せられる。

 予の主張に対し東条首相は、大東亜諸国は日本の 身内として他の諸外国と取扱いを異にするを要すと 論じ、鈴木貞一企画院総裁は、興亜院は失敗に非ず と反駁したが、予は興亜院の失敗は周知の事実なり と述べた。

 かくの如き戦争指導者を有し、かつ緒戦の成功を 宣伝するに急であって、戦力充実の施策に迂なる総 理を以ってしては戦争は不可能であると思ったから、 このさい東条内閣を退陣せしむるにみちびくことを 考えていた。

 ここで問題になっている興亜院は、1938年12月に日 本軍が「占領地」の行政を進めるための機関として設 置したものである。これについて『外務省の百年』 につぎのように記述がある。


 (興亜院は結局)中国における占領区域の拡大に 伴い、従来軍特務部が実施してきた政治、経済、文 化などに関する諸業務を所掌し、軍は軍本来の任務 に専念するために、事変中に暫定的対華中央機関と して設けられたものであったが、その後も実際には、 各地の特務機関が依然として従来の業務を行ない、 対華政策の重要な実質面はほとんどなお現地軍が管 掌し、興亜院の設置によって、中国における行政事 務はかえって複雑の度を増しただけであって、〝将 二現状ノ改悪″とみられたのみならず、中国側官民 にきわめて強い悪印象を与え、対華政策の遂行上少 からぬ障害となった。

 さて、東条は大東亜省設置の主旨を次のように述べてい る。

 既成観念の外交は対立せる国家を対象とするもの にして、きょうの事実は大東亜地域内には成立せず。 我国を指導者とする外政あるのみ。外務省の所管た る外交とは趣を異にするが故に、とくにこれを大東 亜省の処理に属せしめたるなり。大東亜圏内の諸国 に対する従来の方針を変更して新たなる出発をなさ んとするには非ず。事実に即したる機構を以てこれ にのぞまんとするなり。所管を外務省と大東亜省と に分つも、閣議において統一し、結局外交大権に帰 一する故、二元化にあらず。

 深井英五『枢密院重要議事覚書』で深井はこの 大東亜省設置の問題を「余の関与せる枢密院議事 中、政府との関係においてもっとも波瀾の激しか りしもの」と述懐して、この問題についての枢密 院での議論を書き留めている。

 石井菊次郎は、上の東条の主張に対して、 問題の核心は「大東亜圏内の諸 国をすべてデペンデンシー(属国)として取扱い たし」という政府の見解にあるとし、次のように 述べている。

 (反対の)理由を一言に括れば、本案は政府がこ れにより達成せんとする所期の目的に背馳すればな り。即ち政府はこれにより大東亜圏の建設に資せん とするも、余(石井)は其の結果の正反対なるべき ことを断言して憚らず。

 大東亜圏内の諸国を別扱いにすることは、これを 見下すものなりとの感を生じ、圏内の独立国及び独 立期待国を失望せしむ。

〔中略〕

 現に大東亜省設置案の世上に伝えらるるや、支那 及び泰の大使(支那大使徐良、泰国大使ナイ・ヂレ ック)は真先きに外務省に駆け付け、各々と自国の 日本に対する立場は如何になるやとの疑惧を抱きて、 真意のある所を質したりと云うにあらずや。

〔中略〕

 又本案の施行は敵国の謀略に利用せらるべきこと 必然なり。日本の道義外交はたんに口頭のみの言前 にして、実際は大東亜圏を自己の勢力下に圧服せん とするものなりとの非難は、すでに敵国側の宣伝 する所にして、本案はその証拠の一として援用せら るべし。

 次ぎに、本案は我が外交を二つに分界するものに して、これがために事務執行上多大の不便、不円満 を惹起すべきこと火を睹るよりも明かなり。

 深井は、問題の重点は中国にあるとして、次のよう に言っている。

 汪政権と日支基本条約を締結したるときには、共 同の理想、共存共栄、互助敦睦、支那民心の把握安 定、経済上生活上における支那民衆の福祉という類 の言辞がしばしば政府側においても使用され、民心 把握を支那問題処理の要訣とし、力による圧迫のみ を以て支那問題を解決しえずとする気分頗る濃厚に 看取すべきものありたり。

 然るに今回本案に関する政府の説明振を見れば、 この点は殆んど閑却され居るが如し。

〔中略〕

 而して本官制案による国内機構の改正は、支那等 をして戦争遂行のために我国に寄与せしむることに 重きを置くものの如し。

 このような議論に対すして東条は次のよ うに反論している。

 12月8日の大東亜戦争開始により確かに事情一変 せり。……支那等に対する我が関係は家長と 家族とのごとし。寄与とは協力を意味するものに して、不当にあらず。

 結局、大東亜省は「陛下も御裁下にさいし、対支 政策等に関する御注意があったのであるが、予定よ りも非常な遅延を見て11月になってようやく〔中略〕 発足するを見たのである」。

 なおこの時の東郷の単独辞職は、政変を恐れる天 皇の意志にもとづくものであり、いわば詰腹を切ら されたかっこうであった。

 以上の経緯を読むと、政府はアジア諸国を日本の 属国という地位に置くことを志向していたことが 分かる。もちろん、石油をはじめ各種資源の確保 が戦争遂行のための喫緊の要務であり、それを優 先しようという意図があった。

 それに対して東郷や枢密院の反対意見は、二重 組織の混乱による占領統治の失敗という興亜院の 二の舞や、「大東亜共栄圏建設」という大義名分 にもとることから生じる「東亜ノ諸盟邦」の離反 や国際社会からの非難を危惧していた。そして、 その危惧どおりの強い反発を引き起こした。

 汪政権下の人心は「本件を以て或は支那は植民地 扱とせらるるにあらずやと危惧し…‥・支那の前途 を悲観する向すくなからず」という状態で、重光大 使は種々これに弁明的説明を加えたが、それでも 「支那当局に於では表面は一応了解しおるもような るも、各方面の接触によりてえたる印象によれば、 一般になお相当危惧の念を抱きおるもの」のようで あった。況んや重慶側においては、邵毓麟情報司長 のごときは10月2日発表して「大東亜省は性質上大 東亜植民地省なること明白」なりといい、同8日の 重慶放送は「従来の我東北地区即ち満洲並びに陥落 地区において速成せられたる傀儡政府治下は、今後 正式に日本の植民地となり、日本政府直轄の統治区 域となれり」とした。(『外務省の百年』より)

 なおバチカンの極東通は、大東亜省設置が「日本 は大東亜共栄圏内独立国を〝ドミニオン″(自治領) の地位におかんとする」ものであるとした。 (『時代の一面』より)
第859回 2007/08/25(土)

「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第一案の分析(1)開戦の大義名分

(2,3回で終わる予定でしたが、取り上げたい問題が 次々と浮かんできました。思いがけず長くなりそう。 「今日の話題」から独立連載に変更します。)

資料追加
岩波講座「日本歴史21」
 (1)由井正臣『太平洋戦争』
 (2)橋川文三『「大東亜共栄圏」の理念と実態』
 (3)藤原 彰『敗戦』


「米英重慶並ソヴィエート政府ニ對シ」
 中国政府ではなく「重慶政府」と言っている。一 体これは何か。1937年にまでさかのぼる。

1937年11月
 蒋介石率いる「国民政府」は重慶に遷都
1937年末
 日本軍の肝いりで、北京に王克敏の「中華民国 臨時政府」樹立
1938年1月
 近衛内閣は「爾後國民政府ヲ對手トセズ」と声明。
1938年3月
 南京に粱鴻志の「中華民国維新政府」をやはり 軍の肝いりで樹立。
1938年12月
 汪兆銘、重慶を脱出。(日本軍の工作による)
1940年3月
 汪兆銘は王克敏、粱鴻志と会談し南京政府を樹立 する。

 つまり、中国には重慶の「中華民国」政府と 日本の傀儡・南京政府と、二つの政府があった。 「詔書」第一案作成者たちは重慶の蒋介石政府を 「中国政府」と呼べないこだわりがあったのだろ う。第四案でようやく「重慶」という呼称は撤回 するが、「中(国)」ではなく「支(那)」と 呼んでいる。

「世界人類ノ和平ト 帝國臣民ノ康寧(こうねい)トヲ 冀求(ききゅう)スルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ」
 約2000万人の戦没者を出し、アジア中の人民に 塗炭の苦しみを強いていながら、その点には 一言も触れず、よく言うよ。その「遺範」とやら は一体どこにあるのか。あるなら示して欲しいも のだ。この他国人民に与えた甚大な被害に対する 責任意識の欠如は、とうとう最後まで省みられな い。

「米英二國ニ対スル宣戰ヲ敢テセル所以モ亦 實ニ 帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾(しょき)スルニ出 テ 他國主權ノ毀損ト領土ノ侵略トハ 固(もと) ヨリ朕カ素志ニアラス」
 中国への侵略戦争から米英との交戦にいたる過程 で、日本の国家権力の中枢で「帝國ノ自存ト東亞ノ 安定」という大義名分はどのように形成されていっ たのだろうか。資料(1)より引用する。


 1941年9月6日の御前会議は「帝国国策遂行要領」 を決定し、「対英米蘭戦争ヲ辞セサル決意ノ下二 概ネ10月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス」るとし た。

 それ以後、近衛内閣の総辞職、東条内閣の成立か ら「白紙還元」問題による「帝国国策遂行要領」再 検討を経て開戦決定にいたる間、政府・軍部の間で 戦争計画について大きな振幅と動揺がくりかえされ、 その基礎的問題について完全な一致がみられない点 もいくつかある。

 第一に戦争目的についてそれが見られる。独ソ戦 の開始にともない、対英米戦と対ソ戦の双方を準備 することをきめた1941年7月2日の「情勢ノ推移二伴 フ帝国国策要領」では、方針として「大東亜共栄圏 ヲ建設」することと「自存自衛ノ基礎ヲ確立スル為 南方進出ノ歩ヲ進メ」るという二つの目的が掲げら れた。

 ついで9月6日の「帝国国策遂行要領」では「自存 自衛ヲ完ウスル為対米(英蘭)戦争ヲ辞セサル決意」 をうたい、戦争を決意した11月5日の「帝国国策遂行 要領」では、「帝国ハ現下ノ危局ヲ打開シテ自存自 衛ヲ完ウシ大東亜ノ新秩序ヲ建設スル為此際対米英 蘭戦ヲ決意シ」としていた。

 文章上は、「大東亜共栄圏」=「大東亜新秩序」 と「自存自衛」の二つの目的が微妙なニュアンスを もって掲げられたのである。

 11月1日の大本営政府連絡会議で「帝国国策遂行 要領」を決定したあと、2日に東条首相、永野修身 軍令部総長、杉山元参謀総長の三人が会議の結果を 天皇に報告した際、天皇から「大義名分ヲ如何二考 ウルヤ」と質問され、東条首相は「目下研究中デア リマシテ何レ奏上致シマス」と答えている。

 かくして大本営政府連絡会議でも2月中旬数回に わたって大本営陸軍部作成の「開戦名目骨子案」が 討議された。 開戦を決意してからその名目をさがすという事態の 中にこの戦争の大きな問題がある。

 結局12月8日の宣戦の詔書には、「帝国ハ今ヤ自 存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外 ナキナリ」として、「自存自衛」が強調された。 しかし、開戦後の12月10日の連絡会議が今次の戦争 を「支那事変ヲ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定し、 情報局はこれを「大東亜戦争と称するは、大東亜新 秩序建設を目的とする戦争なることを意味するもの にして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあ らず」と公表した。

 ここに、1940年9月の日独伊三国同盟で協定され、 追求されつづけた独伊の欧州における新秩序建設と 「日本国ノ大東亜二於ケル新秩序二関シ指導的地位」 (第三条)を相互に認め、尊重するという ファシズム国家による世界再分割の目的が明白にみ られるのである。

 「自存自衛」の名目にしても、真の民族的危機を 意味するものではない。日中戦争継続を前提として、 日中戦争のゆきづまりを打開するために南方に石油 その他の軍需資源を求めなければならなくなったと ころから生じた危機であり、そこに「自存自衛」の 本質があった。

 この二つの戦争目的をめぐって支配層内部では思 想的統一を欠き、ある者は「自存自衛」を強調し、 ある者は「大東亜新秩序建設」を唯一の戦争目的で あると理解するなど、さまざまであった。しかし東 条首相や大本営陸軍部首脳は、
「究極のところ大東 亜新秩序を建設するのでなければ自存自衛を完うす ることはできない、自存自衛も大東亜新秩序の建設 も、表現の違いであり、盾の両面であると考えてい た。そこで危機感の高まるときには自存自衛の面が 強く叫ばれ、情勢の好転する場合には大東亜新秩序 の建設こそがこの戦争の目的であるように高く意義 づけられ」(参謀本部第一部長田中新一中将の戦後 回想)
る結果となった。

 ウヨさんたちは「大東亜戦争」は「自存自衛」 「大東亜新秩序の建設」を目的とした聖戦だと、 それを肯定美化する。上述のよ うにその大義名分がいかに手前勝手なご都合主 義的なものであったかという事実を、ウヨさんた ちはまっすぐに見ることができない。自慢史観の 根拠は頑迷固陋なイデオロギー(虚偽意識)に過 ぎない。
「終戦の詔書」を読み解く

「終戦の詔書」の成立過程

 東京新聞(8月19日朝刊)の「筆洗」が、 大宅壮一編『日本のいちばん長い日』から、 「終戦の詔書」(正確には「大東亞戰爭終結ニ關 スル詔書」と言う。)の文言をめぐる政府内対立 のエピソードを取り上げていた。

 放送で流す終戦の詔書の表現をめぐる政府内の 対立が興味深い。原案の「戦勢日に非にして」の くだりに対して、阿南惟幾陸相が「大本営発表が すべて虚構であったことになる。戦争は敗れたの ではなく、ただ現在好転しないだけだ」と訂正を 求めたとある。

 米内光政海相らは原案を支持したが、最後は陸 相の主張通り「戦局好転せず」で決着した。「栄 光ある敗北」にしないと、陸軍内で暴発が起きか ねない状態だったのだという。それにしても都合 のいい表現を考えたものだ。

 原案には他にも直しがあり、よく知られる「堪 え難きを堪え…」のくだりの前には「時運の赴く 所」という表現が出てきた。敗戦は誰かの責任で はなく、時の勢いや運命なので仕方がないとの意 味にも取れる。「好転せず」と同じ発想だろう。

 戦後は敗戦の教訓を学ぶことから始まったはず だ。だが、終戦の詔書に刻まれた発想は今もなお、 この国の組織のあちこちに残っている気がしてな らない。

 皇軍内での陸軍と海軍の確執はかなり根深かった らしい。この問題を取り上げる人の多くは海軍びい きのようだ。陸軍が頑迷で封建的なのに対して海軍 は開明的進歩的であった、ということをよく耳にす る。上のエピソードにもそれが表れている。 阿南陸相が「大本営発表がすべて虚構であったこと になる。」といったそうだが、「すべて」ではない けれども、大本営発表が虚構だらけだったことは 今では明らかなことだ。「大本営発表」は「虚偽」 の代名詞になっている。

 陸相の言い分が通ったために、「終戦の詔書」が 「敗戦」を「終戦」と言いくるめる詐術の元凶にな ったわけだ。「時運の赴く所」による「終戦」なの だから、「敗戦」は誰の責任でもない。この詔書は 天皇制無責任体制を如実に示す好例だ。

 ウヨさんたちが「終戦の詔書」を取り上げること がよくある。ウヨさんによると、この詔書は「平和 主義者の天皇陛下の悲痛なお言葉」だそうだ。ヒロ ヒトが平和主義者だったかどうかは今はおく。ここ では詔書が天皇の言葉だという錯誤を取り上げたい。

 当然なことながら証書の言葉は、最終的には 天皇が裁可するするにしても、天皇の頭から 出てきた言葉ではない。官僚・御用学者(「終戦 の詔書」内の言葉を使えば「朕が百僚(ひゃくりょ う)有司(ゆうし)」)の作文だ。もちろん、官僚・ 学者はまず第一に天皇に気に入られるように腐心し て作文する。第二に、どのように「国民」(「終 戦の詔書」内の言葉を使えば「爾(なんじ)臣民」) をあざむこうかと腐心する。もちろん、国際社会に も目配りしなくてはならない。なかなか大変な事業 なのだ。

 「終戦の詔書」が玉音放送として発表された文章 に落ち着くまでに、どのような推敲過程があったの か。それが明らかにされると、大日本帝国の官僚・ 御用学者の腐心した跡が見られるだろう。つまり それは、大日本帝国の官僚・御用学者の頭の中 (心性と思考パターン)を解剖するに似る。

 しかし、そのような資料は残されているのだろう か。……
 ありました。石渡隆之(元内閣文庫長)という方 の論文 「終戦詔書成立過程」 を見つけた。以下はその論文を利用している。

 1945年8月9日の深夜から翌10日の早朝にかけて の御前会議で、大日本帝国の中枢部はやっとポツダ ム宣言の受託を決定した。その直後から直ちに 「終戦の詔書」(以下単に「詔書」という。) の作成が開始された。まず、迫永 久常(内閣書記官長)が中心となって草案を作成し た。それをもとに8月14日夕刻に成案(閣議用原案) を得るまでの曲節を示す資料がある。総理府国立公 文書館に保管されていた『公文類集 第六十九編 昭和二十年巻一』だ。これに編綴されていてたもの で、公開されているそうだ。

 その資料には詔書の草案が数点あるという。全資 料を石渡さんはおおよそ次のように整理している。

① 第一資料 第一案
② 第二資料 第二案
③ 第三資料 第三案②を大幅に加除。安岡正篤(陽明学者)の考案によるとされて いる。
④ 第四資料 ③を清書したもの
  第五資料 ④の修正意見。曽祢益(外務省政務局第一課長)による、 主に用語用法についての意見
⑤ 第六資料 ④を浄書(一字削除)
⑥ 第七資料 第五資料の意見を吸収したもの
⑦ 第八資料 ⑥を整理、加除したものと
⑧      ⑦を加除したもの
  第九資料 ⑧と同文。閣議用詔書案

 石渡さんは①~⑧の詔書案の加除の変遷を文節 ごとに一覧表にしている。私としては、それぞれ の案の通し文が欲しいのだが、それは掲載されて いない。そこで逆に、文節ごとの一覧表から本文 を復元することにした。推敲の大きな節目だけを 追うことにし、①②④⑧をそれぞれ「第一案」 「第二案」「第三案」「第四案」と呼んで復元す る。

 なお、詔書も詔書案のすべて句読点なしののっ ぺらぼうな文なので、読みやすくするため、段落 を設けたり、句読点の代わりに一字空けなどした。 また、難読文字には振り仮名をつけた。(どう読 むのか、自信がないものには「?」を付した。)



大東亞戰爭終結ニ關スル詔書

朕茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ 米英重慶並ソヴィエート政府 ニ對シ 各国共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

世界人類ノ和平ト 帝國臣民ノ康寧(こうねい)トヲ 冀求(ききゅう)スルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕ノ拳々(け んけん)措カサル所 曩(さき)ニ米英二國ニ対ス ル宣戰ヲ敢テセル所以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト東亞 ノ安定トヲ庶幾(しょき)スルニ出テ 他國主權ノ毀 損ト領土ノ侵略トハ 固(もと)ヨリ朕カ素志ニア ラス

 然ルニ交戰已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ 朕 カ陸海將兵ノ健闘 朕カ百僚有司ノ勵 朕カ一億 衆庶(しゅうしょ)ノ刻苦 ソノ極ニ達スルモ 未タ 戦争ノ局ヲ結フニ至ラス

此ノ間欧州ニ於イテハ反テ戦火ノ終熄ヲ見 世界ノ 大勢ハ新ナル国際秩序ノ実現ヲ促スノ機運ヲ示セリ 是ノ秋(とき)ニ当リ尚交戦ヲ継続センカ 激烈ナ ル破壊ト残酷ナル殺戮トノ極マル所 遂ニ民族生存 ノ根拠ヲ奪フノミナラス 延(ひい)テハ人文明 ヲ滅却スルヤ必セリ

朕ハ戦局益々不利ニシテ 敵国ノ人道ヲ無視セル 爆撃ノ日ニ月ニ苛烈ヲ極メ 朕カ赤子ノ犠牲愈々 多ク 人倫ノ大変所在並(ならび?)起ルニ忍ヒ ス 特ニ戦火ノ及フ所 人類共存ノ本義ヲ否定ス ルニ至ムコトヲ懼ル 是レ朕カ先ニ帝國政府ヲシ テ 第三国ノ調停ヲ求メシメタル所以ナルモ 不 幸其容ルル所トナラス 遂ニ各国共同ノ宣言ニ応 セシムルニ至レル理由ナリ

斯ノ如キ非常ノ措置ニヨリ戦争ノ終結ヲ求ム 今 後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラサルヘ ク 爾臣民ノ衷情(ちゅうじょう)ハ 朕最能ク之ヲ 知レリ

且(かつ)夫(そ)レ帝國ト共ニ東亜新秩序ノ建 設ニ協力セル東亜ノ諸盟邦ニ對シテモ 事遂ニ志 ト違エルコトヲ謝セサルヘカラス

然レトモ事態ハ今ヤ此ノ一途ヲ余スニ過キス 朕ハ 実ニ堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ 爾臣民ト共ニ黽勉(びんべん=努力)務力(?) 以テ社稷(しゃしょく)ヲ保衛セムト欲ス 忠良ナル爾臣民 朕ハ常ニ爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい) シ 神器ヲ奉シテ爾臣民ト共ニアリ 苟モ激情  軽挙 益々事端ヲ滋クシ 同胞排擠(はいさい) 愈々時局ヲ亂(みだ)リ 爲ニ世界ニ信ヲ失フカ 如キハ 朕ノ最モ戒ムル所ナリ 爾臣民其レ克 (よ)ク朕カ意ヲ體セヨ


 構成・文法に混乱した部分があるが、たたき台 とすべき草案に過ぎないのだから、その点を問題に しても仕方あるまい。しかし、その草案に表れて いる官僚たちの事態に対する理解・認識の問題点 は指摘したい。(次回で)
詩をどうぞ

石原吉郎『サンチョ・パンサの帰郷』より


 言語を絶する過酷で悲惨なラーゲリ(強制収容所) 体験にもかかわらず、石原さんの詩には被害者とし て同情を乞うたり、声高に告発をしたりする声調は ない。静かな孤立の中から発せられる、どちらかと 言うと虚無的な厳しい断言が心を打つ。「見たもの は 見たといえ」 贅肉をそぎ落とした詩句の間か ら、石原さんが見た事実が屹立する。



葬式列車

なんという駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
まっ黒なかたまりが
投げこまれる
そいつはみんな生きており
汽車が走っているときでも
みんなずっと生きているのだが
それでいて汽車のなかは
どこでも屍臭がたちこめている
そこにはたしかに俺もいる
誰でも半分はもう亡霊になって
もたれあったり
からだをすりよせたりしながら
まだすこしずつは
飲んだり食ったりしているが
もう尻のあたりがすきとおって
消えかけている奴さえいる
ああそこにはたしかに俺もいる
うらめしげに窓によりかかりながら
ときどきどっちかが
くさった林檎をかじり出す
俺だの 俺の亡霊だの
俺たちはそうしてしょっちゅう
自分の亡霊とかさなりあったり
はなれたりしながら
やりきれない遠い未来に
汽車が着くのを待っている
誰が機関車にいるのだ
巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
どろどろと橋桁が鳴り
たくさんの亡霊がひょっと
食う手をやすめる
思い出そうとしているのだ
なんという駅を出発して来たのかを




デメトリアーデは死んだが
  一九五〇年ザバイカルの徒刑地で

デメトリアーデは死んだが
五人の男が それを見ていた
五人の国籍はべつべつだが
してはならない顔つきは
アルメニアでも 日本でも
ポーランドだっておんなじことだ
生きのこった!
というやくざなよろこびを
ずしりとした厚みで
はねかえすような胸は
もはや君のでも おれのものでも
なかったろう
ザバイカルでもとびぬけて
いこじで 実直なあか松だが
追いすがってまで その男を
おしつぶす理由はなかったのだ
執拗(しうね)く追いつめられて
ふりむいたはずみに
誰かが仕掛けたとしか思えない
奇妙な罠に足をとられ
まっ白に凍った空から
ぶらんとたれさがった
綱のようなものを ちからいっぱい
ひきちぎったまま
地ひびき打って デメトリアーデが
めりこんだ地点から
モスクワまでは四〇〇〇キロ
五ヵ年計画の 最後の冬だ

おぼえがあるか その男だ
デ・メ・ト・リ・アーデ
よしんば名前があったにしろ
名前があったというだけが
抹殺された理由ではない
もとはルーマニアでも
ふきだしたいほど やたらにいた
古い近衛兵の一人だが
もっともらしく
ひげは立てていても
秩序というものには
まだ納得したことの ない男だ
靴と唾(つばき)のあとだらけの
斑(まだら)な凍土(ツンドラ)にねじ伏せられ
つま先だけは 正直に
地面の方を向いていたが
肩と額はきりたつように
空へむかってのけぞったのも
あながちそいつの胴なかが
ちぎれただけとは
いいきれまい

デメトリアーデは死んだが
死ななくたって おんなじことだ
唐がらしよりほかに
あかいものを知らぬ愚直な国で
両手いっぱい 裸の風を
扼殺するようなかなしみは
どのみちだれにも
かかわりはないのだ
無口で貧乏な警傭兵(カンボーイ)が
正直一途(いちす)に空へうちあげる
白く凍った銃声の下で
さいごに おれたちは
手套(ルカビツツ)をはめる 二度と
その指を かぞえられぬために
言葉すくなに おれたちは
帽子(シヤプカ)をかぶる 二度と
その髪の毛を
かぞえられないために




その朝サマルカンドでは

火つけ
いんばい
ひとごろし いちばん
かぞえやすい方から
かぞえて行って
ちょうど 五十八ばんめに
その条項がある
<ソビエット国家への反逆>
そこまで来れば
あとは 確率と
乱数表のもんだいだ
サマルカンドでは その朝
地震があったというが
アルマ・アタでは りんご園に
かり出された十五人が
りんご園からよびかえされて
じょう談のように署名を終えた
起訴されたのは十三人
あとの二人は 証人だ
そのまた一人が 最後の証人で
とどのつまりは 自分の
証人にも立たねばならぬ
アレクサンドル・セルゲーエウィチ・
プーシュキンのように
もみあげの長い軍曹(セルジャント)が
ためいきまじりで
指紋をとったあとで
こめかみをこづいて いったものだ
<フイヨ・ペデシャット・オーセミ!>
  - 五八条はさいなんさ! -
まったくのはなし
サマルカンドの市場(バザール)では
棚という棚が ずりおちて
きうりや とうもろこしが
道にあふれたが
それでも とおいアルマ・アタでは
夜あけと 夜あけを
すりあわすように なんと
しあわせな時刻だろうか
のこった一人の 証人でさえ
タぐれどきには 姿を消した
絵はがきのようにうつくしく
夜あけから夜あけへ
はりわたす アンテナのような
天山(アラ・タウ)の屋根の上なら
インドの空も見えるだろうし
ふるい言い伝えの絹糸街道の
さきをたどれば ローマにも
とどくだろう
買いもの袋をさげたなりで
気さくな十五人が 姿を消すと
町には あたたかく
あかりがともり
とおいモスクワから
三日ぶんの真実(プラウダ)が
とどけられる
まったくのはなし サマルカンドでは
その朝 地震があったのだし
アルマ・アタの町からは
十五人の若者(シノク)が
消えたのだ!

   注 ロシア共和国刑法五十八条は
    一切の反ソ行為に対する罰則を
    規定している。





脱走
一九五〇年ザバイカルの徒刑地で

そのとき 銃声がきこえ
日まわりはふりかえって
われらを見た
ふりあげた鈍器の下のような
不敵な静寂のなかで
あまりにも唐突に
世界が深くなったのだ
見たものは 見たといえ
われらがうずくまる
まぎれもないそのあいだから
火のような足あとが南へ奔(はし)り
力つきたところに
すでに他の男が立っている
あざやかな悔恨のような
ザバイカルの八月の砂地
爪先のめりの郷愁は
待伏せたように薙ぎたおされ
沈黙は いきなり
向きあわせた僧院のようだ
われらは一瞬腰を浮かせ
われらは一瞬顔を伏せる
射ちおとされたのはウクライナの夢か
コーカサスの賭か
すでに銃口は地へ向けられ
ただそれだけのことのように
腕をあげて 彼は
時刻を見た
驢馬の死産を見守(まも)る
商人たちの真昼
砂と蟻とをつかみそこねた掌(て)で
われらは そのロを
けたたましくおおう
あからさまに問え 手の甲は
踏まれるためにあるのか
黒い踵が 容赦なく
いま踏んで通る
服従せよ
まだらな犬を打ちすえるように
われらは怒りを打ちすえる
われらはいま了解する
そうしてわれらは承認する
われらはきっぱりと服従する
激動のあとのあつい舌を
いまも垂らした銃口の前で
まあたらしく刈りとられた
不毛の勇気のむこう側
一瞬にしていまはとおい
ウクライナよ
コーカサスよ
ずしりとはだかった長靴(ちようか)のあいだへ
かがやく無垢の金貨を投げ
われらは いま
その肘をからめあう
ついにおわりのない
服従の鎖のように

  注 ロシヤの囚人は行進にさいして脱走を
   ふせぐために、しばしば五列にスクラム
   を組まされる。

今日の話題

ソ連軍に大量拉致された日本人たち

 大日本帝国敗戦の日は「終戦の詔書」(玉音放送) が読み上げられた8月15日ではなく、降伏調印が行 われた9月2日であるという主張がある。なるほどそ うだ、と私も同意する。

 大日本帝国敗戦の日は朝鮮や中国などにとっては 開放の日であった。

 大日本帝国敗戦の日は、積極的にであろうと不本 意ながらであろうと、戦争に駆り出された一般庶民 にとっては終戦の日であった。一般庶民が大日本帝 国のくびきから開放された日という意味でなら「終 戦の日」という言い方に異議はない。

 終戦の日が8月15日であるにしろ9月2日であるに しろ、その時点で終戦を迎えられなかった人たちが 大勢いた。ソ連軍に拉致され、シベリアに抑留され た人たちもそうした人たちだった。くびきを握る使 役者が大日本帝国からソ連に代わっただけだった。

 昨日の「鎮魂の夏2007」(東京新聞の連載記事) はシベリア抑留を体験した人の証言だった。この 証言を取り上げようと思ったが、すぐに詩人・石 原吉郎(よしろう)さんを思い出した。石原さん の手記と詩の紹介に替えようと思う。

 石原さんは1915年生まれ。1938年東京外国語学校 卒業。1939年に応召、1945 年敗戦の年にソ連軍に抑留される。1953年、スタ ーリンの死去にともなう恩赦で帰国。

 石原さんは、一人の日本人として、誰かが背負 わなければならない「日本の戦争の責任を身をも って」果たしてきたのだという自負をもって帰っ てきた。1953年が石原さんの終戦の年だった、は ずだった。が、祖国は石原さんの帰国を快く受け 入れようとはしなかった。石原さんはむなしい戦 いを新たに続けることになる。石原さんの第一詩 集は『サンチョ・パンサの帰郷』と言う。
 なお、石原さんは1977年に亡くなられている。

 今日は『肉親へあてた手紙』(思潮社版現代詩 文庫「石原吉郎詩集」所収)という手記から、 シベリア抑留の部分を紹介する。(読みやすくす るため、原文にない段落を設けています。)

 御承知のように、私は昭和24年4月、3年にわた る未決期間ののち、いわゆる「戦争犯罪人」とし て、中央アジヤ軍管区司令部つきの軍法会議で25 年間の重労働をいいわたされました。

 断っておきますが、戦争犯罪人というのは、日 本の場合には、極東軍事裁判で判決を受けたもの 以外、このような「闇取引」によるものは認めな いのが常識です。このことは裁判に先立って、私 自身も一応抗議し、判決後も形式的にではありま すが上告しました。しかし、誰かが「認めない」 と口先でいうだけで終るなら、問題は簡単です。 認めようと認めまいと、現実に実刑を課された 人間には、そのような議論はなんの慰さめにもな りません。

 むしろ正式の裁判によって、その存在 が明らかにされている戦犯は、とも角も囚人とし てまがりなりにも人間らしい扱いを受けたのに対 し、これらの闇取引による犠牲者たちは、誰にも 知られないままに、最も苛酷な、非人間的な環境 に置かれることによって、実質的には最もきびし い戦争責任を担わされたと考えなければなりませ ん。

 この点が巣鴨の戦犯たちと、シべリヤの戦犯 とが絶対にちがうところであり、問われた罪状は きわめて莫然としているにもかかわらず、実刑に おいては巣鴨の戦犯とは比較にならない程重い戦 争責任がシベリヤの戦犯の上にのしかかったわけ です。

 ソ連の囚人たちの間では、陰語で「屠殺場」と 呼ばれている最低の流刑地が二つあります。一つ はカムチャッカの北西から北極海に到るコルイマ 地帯、もう一つはバイカル湖の西側、アンガラ河 に沿う無人の密林地帯で「バム」と呼ばれていま す。

(註:「バム」とは.バイカル・アムール鉄道の 略称であるが、囚人の間で「バム」というときは、 この沿線に点在している強制収容所を指している。)

 ここに送られることはその頃の囚人にとって最大 の恐怖を意味しました。私がタイシェットの収容所 にいた時、バムに送られるということを知った囚人 が自分の手の甲を半分切りおとして出発を遅らせた という事件がありました。

 判決をうけて直ちに私が送られたのはこのバムの 密林です。私は受刑直前、小型起重機の事故に会っ て左側の肋骨を二本折ったまま手当も受けずにバム ヘ送られたので、栄養などの関係で、その後三年ほ どの間折れた骨の一本が剥離したままになっていま した。

 スターリン時代の最後の時期のソ連の囚人の生活 (もし生活というものがあるとすれば)が、どんな に陰惨なものであったかということは、その頃から 何度も人道問題として世界の世論がとりあげて来た ことでもお分りになると思います。このような環境 で何年もすごしているうちに完全に感覚が麻痺して、 動物のように無神経になってしまったはずの囚人が、 しかもなおしりごみをするといわれるバム地帯の生 活が具体的にどのようなものであったかということ は、ここではもう申しあげないことにします。それ は、実際にそこにいた人間にしかわからないことで あると思いますから。

 このような生活の中で、とも角も私のささえにな ったのは、私は決して「犯罪者」ではないというこ と、いずれは誰かが背負わされる順番になっていた 「戦争の責任」をとも角も自分が背負ったのだとい う意識でした。そしてまた、このことだけはかなら ず日本の人たちに理解してもらえるという一種の安 心感でした。

 とも角も私はスターリンが死んだおかげで第一回 の特赦に、それも最初は洩れたのを辛うじて追加に なって、日本へ帰って来ることができました。私た ちが舞鶴に上陸したとき、私たちは自分の故国、自 分たちの理解者の中へ帰って来たのだという事実だ けに単純に満足して、それまで多くの帰国者がやっ たように帰国後の生活保障を要求したり、失われた ものへの補償を要求するようなことを一切しなか ったことはよく知っておられるはずです。

 とも角非常に単純に、「ごくろうさん」といわれ た言葉に満足し、「私たちは日本の戦争の責任を身 をもって背負って来た。誰かが背負わなければなら ない責任と義務を、まがりなりにも自分のなまの躰 で果して来た」という自負をもってそれぞれの家へ 帰って行ったわけです。

 しかし、私自身が一応のおちつき場所を与えられ、 興奮が少しずつさめてくるに従って、次第にはっき りしてきたことは、私たちが果したと思っている 「責任」とか「義務」とかを認めるような人は誰も いないということでした。せいぜいのところ、 「運のわるい男」とか「不幸な人間」とかいう目で 私たちのことを見たり考えたりしているにすぎない ということでした。しかも、そのような浅薄な関心さえもまたたくま に消え去って行き、私たちはもう完全に忘れ去られ、 無視されて行ったのです。

 ところが、完全に忘れ去られたと思っていた私た ちを、世間は実は決して忘れてはいなかったのだと いうことを、はっきり思い知らされる日がやってき ました。私ばかりでなく、ほとんどの人が「シベリ ヤ帰り」というただ一つの条件だけで、いっせいに あらゆる職場からしめ出されはじめたのです。

 私たちが、私たちの生きる道を拒みつづける人た ちの肩へも当然かかったであろうと思われる戦争の 責任、それも特別に重い責任を引受けたのだという 自負はきわめて無雑作に打ちくだかれ、逆にこんど は、きわめて遠まわしにではあるが、またそれだけ 骨身にこたえるような迫害をはじめたわけなのです。

 いずれにせよ、こうした無慈悲な環境のなかで、 具体的に私自身の助けになってくれた人たちは、例 外なしにいずれも同じ苦しみを受けているはずの帰 還者でした。このことを、よく考えていただきたい と思います。

 私はラジオ東京のアルバイトをふり出しに、いく つかの職場を転々として現在の職場におちつきまし たが、私のためにそれらの職場を探し出してくれた 人たちは、ぜんぶシべリヤ帰りの人たちです。私は 去年の2月から6月まで失業しましたが、その期間の とぼしいアルバイトを世話してくれた人も、みんな 帰還者です。そのなかには私と同様の失業者もいま す。

 そうして、このような人たちが、私にそのよう な配慮を示したことによって、私に対してどんな 責任を要求したでしょうか。どんな義務を負わせた でしょうか。

 ここに到って、私が世間を忘れ去ろうと思っても、 世間の方で私のことを決して忘れはしないのだとい うことを、私はいまさらのように慄然たる思いで肯 定せざるを得ないのです。もちろん、これから先も このような出来事はいくらでも、くり返されるでし ょう。けれども、私は、このような全く顛倒したあ つかいを最後まで承認しようとは思いません。誰が どのように言いくるめようと、私がここにいる日本 人 - 血族と知己の一切を含めた日本人に代って、 戦争の責任を「具体的に」背負って来たのだという 事実は消し去ることのできないものであるからです。

 このような大きな不条理につき当って、ほとんど 絶望的な戦いをつづけている私に、あらためて世間 なみの義務を思い出させ、責任をとれという人は一 体どういう人なのかと思います。「私は責任と義務 をすでに余るほど果して来た。あなた方のいう責任 や義務とは比較にならない程重い責任を果して来た。 しかもその事のために、今あべこべに生きる道を拒 まれている。」と私が大声でいってはいけないとい う理由はないと思います。
詩をどうぞ(今日の話題)

大日本帝国による大量拉致

 大日本帝国が強制連行(=拉致)して奴隷的な使 役に徴用した朝鮮人は60万人以上、中国人は約10万 人と言われている。

 さて、劉連仁(りゅうりぇんれん)さんは中国か ら拉致されてきた一人だ。劉連仁さんが受けた理不 尽で過酷な半生を題材に、茨木のり子さんが詩 を書いている。650行ほどの長編詩だが、今回は それを紹介しよう。 (出典は思潮社版現代詩文庫「茨木のり子詩集」です。)

 劉さんはある日いきなり日本軍に拉致されて、 北海道の炭鉱で奴隷のような使役を強制された。死を 賭しての脱走が絶えぬほどのひどい強制労働だった。 脱走者はみな捕まり、リンチを受けて殺されてい ったが、劉さんは脱走に成功する。しかし北海道 から出る術はなく、14回もの厳冬を北海道の山中 で過ごした。発見されたときは凍傷だらけだっ たという。

 この劉さんに対して、この国の政府は「不法入 国者」「不法残留者」としてかたづけようとし、 スパイの嫌疑までかけたという。このときの 日本の首相は、大量拉致を計画した大日本帝国 商工省の大臣だったA戦犯・岸信介だ。そして 今、その孫が「私は最高権力者」と大きな顔を している。

 詩は破廉恥な国家の醜い相貌を余すところなく 描き出している。腹立たしく、情けなく、悲しく、 やがてそれらが重畳され、大きな憤怒となる。そ して、最後には涙が止まらない。
りゅうりぇんれん物語   茨木のり子

劉連仁 中国のひと
くやみごとがあって
知りあいの家に赴くところを
日本軍に攫われた
山東省の草泊(ツァオポ)という村で
昭和十九年 九月 或る朝のこと

りゅうりぇんれんが攫われた
六尺もある偉丈夫が
鍬を持たせたらこのあたり一番の百姓が
為すすべもなく攫われた
山東省の男どもは苛酷に使っても持ちがいい
このあたり一帯が
「華人労務者移入方針」のための
日本軍の狩場であることなどはつゆ知らずに

手あたりしだい ばったでも掴まえるように
道々とらえ 数珠につなぎ
高密(カオミー)県に着く頃は八十人を越していた
顔みしりの百姓が何人もいて
手に縄をかけられたまま
沈んだ顔を寄せ合っている
「飛行場を作るために連れて行くっていうが」
「一、二ヶ月すれば帰すっていうが」
「青島だとさ」
「青島?」
「信じられない」
「信じられるものか」
不信の声は波紋のようにひろがり
連れて行かれたまま帰ってこなかった人間の噂が
ようやく繁くなった虫の声にまぎれ
ひそひそと語られる

りゅうりぇんれんは胸が痛い
結婚したての若い妻 初々しい前髪の妻は
七ヶ月の身重だ
趙玉蘭(チャオユイラン) お前に知らせる方法はないか
たとえ一月 二月でも 俺が居なかったら
家の畑はどうなるんだ
母とまだ幼い五人の兄弟は
麦を蒔き残した一反二畝の畑の仕末は

通る村 通る町
戸をとざし 門をしめ 死に絶えたよう
いくつもの村 いくつもの町 猫の仔一匹見当らぬ
戸の間から覗き見 慄えている者たち
俺の顔を見覚えていたら伝えてくれろ
罠にかかって連れて行かれたと
妻の趙玉蘭(チャオユイラン)に 趙玉蘭に

賄賂を持って請け出しにくる女がいる
趙玉蘭はこない
見張りの傀儡軍に幾ばくかを握らせて
息子を請け出してゆく老婆がいる
趙玉蘭はまだこない
追いついてはみたものの 請け出す金の工面がつかず
遠ざかる夫を凝視し続ける妻もいた
血のいろをして沈む陽
石像のように立ちつくす女の視野のなかを
八百人の男たちは消えた

一行八百人の男たちは
青島の大港埠頭へと追いたてられていった
暗い暗い貨物船の底
りゅうりぇんれんは黒の綿入れを脱がされて
軍服を着せられた
銃剣つきの監視のもとで指紋をとられ
それは労工協会で働く契約を結んだということ
その裏は終身奴隷
そうして門司に着いた時の身分は捕虜だった

六日の船旅
たった一つの蒸パンも涙で食べられはしなかった
あの朝……
さつまいもをひょいとつまんで
道々喰いながら歩いて行ったが
もしもゆっくり家で朝めしを喰ってから
出かけたならば 悪魔をやりすごすことができたろうか
いや 妻が縫ってくれた黒の綿入れ
それにはまだ衿がついていなかった
俺はいやだと言ったんだ
あいつは寒いから着ていけと言う
あの他愛ない諍いがもう少し長びいていたら
掴らないで済んだろうか  めいふぁーず
運の悪い男だ俺も……
舟底の石炭の山によりかかり
八百人の男たち家畜のように玄海灘を越えた

門司からは二百人の男たち 更に選ばれ
二日も汽車に乗せられた
それから更に四時間の船旅
着いたところはハコダテという町
ダテハコというのであったかな?
日本の町のひとびとも襤褸をまきつけ
からだより大きな荷物を背負い
蟻のように首をのばした難民の群れ 群れ
りゅうりぇんれんらは更にひどい亡者だった
鉄道に働くひとびとは異様な群像を度々見た
そしてかれらに名をつけた「死の部隊」と
死の部隊は更に一日を北へ――
この世の終りのように陰気くさい
雨竜郡の炭坑へと追いたてられていった

飛行場が聞いてあきれる
十月末には雪が降り樹木が裂ける厳寒のなか
かれらは裸で入坑する
九人がかりで一日に五十車分を掘るノルマ
棒クイ 鉄棒 ツルハシ シャベル
殴られて殴られて 傷口に入った炭塵は
刺青のように体を彩り爛れていった
<カレラニ親切心 或イハ愛撫ノ必要ナシ
 入浴ノ設備必要ナシ 宿舎ハ坐シテ頭上ニ
 二、三アレバ良シトス>

逃亡につぐ逃亡が始った
雪の上の足跡を辿り連れもどされての
烈しい士置
雪の上の足跡を辿り 連れもどされての
目を掩うリンチ
仲間が生きながら殴り殺されてゆくのを
じっと見ているしかない無能さに
りゅうりぇんれんは何度震えだしたことだろう

日本の管理者は言った
「日本は島国である 四面は海に囲まれておる
 逃げようったって逃げきれるものか!」
さっと拡げられた北海道の地図は
凧のような形をしていた
まわりは空か海かともかく青い色が犇めいている
かれらは信じない
日本は大陸の地続きだ
朝鮮の先っぽにくっついている半島だ
いや そうでない そうでない
奉天 吉林 黒竜江の三省と地続きの国だ
西北へ 西北へと歩けば
故郷にいつかは必ず達する
おお おおらかな知識よ! 幸あれ!

空気にかぐわしさがまじり
やがて
花も樹々もいっせいにひらく北海道の夏
逃げるのなら今だ! 雪もきれいに消えている
りゅうりぇんれんは誰にも計画を話さなかった
青島で全員暴動を起す計画も洩れてしまった
炭坑へ来てからも何度も洩れた
煉瓦をしっかり抱きしめて
夜明けの合図を待っていたこともあったのに……
りゅうれんれんは一人で逃げた
どこから
便所の汲取口から
汚物にまみれて這い出した
このときほど日本を烈しく憎んだことがあったろうか

小川でからだを洗っていると
闇のなかで水音と 中国語の声がする
やはりその日逃げ出した四人の男たちだった
五人は奇遇を喜びあった
西北へ歩こう! 西北へ!
忌まわしい炭坑の視界から見えなくなるところまで
今夜のうちに
一日の労働で疲れた躰を鞭うって
五人は急いだ

山また山 峰また峰
野ニラをつまみ 山白菜をたべ 毒茸にのたうち
けものと野鳥の声に脅え
猟師もこない奥深くへと移動した
何ヶ月目かに里に下りた 飢えのあまりに
二人は見つけられ 引きたてられていった
羽幌という町の近くで
らんらんと輝く太陽のした
戦さは数日前に終っていることも知らないで
三人は山へ向って逃げた
脅えきった野兎のように
山の上から見下した畑は一面の白い花
じゃがいもの白い花
りゅうりぇんれんは知らなかった じゃがいものこと
茎をたべた 葉をたべた
喰えたもんじゃない だが待てよ
こんなまずいものを堂々とこんなに沢山作るわけがない
そろそろと土を探ると
幾つもの瘤がつらなっている
土を払って齧る うまさが口一杯にひろがった
じゃがいもは彼らの主食になった
昼は眠り 夜は畑を這う日が続く

「おい 聞えたかい? いまのは汽笛だ!
 いいぞ! 鉄道に沿っていけば朝鮮までゆける」
なぜ気づかなかったのだろう
海に沿って北にのびる鉄道線を
三人は胸はずませて辿っていった
夜の海辺を昆布を拾いながら 齧りながら
何日もかかって 辿りついたところは
鉄道の終点
それはなんと寂しい風景だったろう
鉄道の終点 荒涼たる海がひろがっているばかりだ
稚内という字も読めなかった
ひとに聞くこともできなかった
大粒の星を仰ぎみて 三人は悟った
日本はどうやら島であるらしい
故郷からは更に遠のいたのかも確からしい

三人の男たちは
黙々と冬眠の準備を始めた
短い夏と秋は終っていた ふぶきはじめた空
熊の親戚みてえなつらしてこの冬はやりすごそう
捨てられたスコップを探してきて
穴を掘りぬき堀りぬいてゆく
昆布と馬鈴薯と数の子を貯えられるだけ貯えて
三つの躰を閉じこめた 雪穴のなかに
三人の男たちはふるさとを語る
不幸なふるさとを語ってやまない
石臼の高粱の粉は誰が挽いたろう
あの朝の庭にあった石臼の粉は
母はこしらえたろうか ことしも粟餅を
俺は目に浮ぶ なつめの林
まぼろしの棗林
或る日 日本軍が煙をたててやってきて
伐り倒してしまった二千五百本
いまは切株だけさ 李家荘の部落
じいさんたちが手塩にかけて三十年
毎年街に売りに出た一二〇トンの棗の実
俺は見た
理由(わけ)もなく押切器で殺された男の胴体
生き埋めにされる前 一本の煙草をうまそうに吸った
一人の男の横顔 まだ若く蒼かった……
俺は見た 女の首
犯されるのを拒んだ女の首は
切落されて臀部から生えていた
ひきずり出された胎児もいた
趙玉連(チャオユイラン)おまえにもしものことがあったなら
いやな予感 重なりあう映像をふり払い ふり払い
りゅうりぇんれんは膝をかかえた
長い膝をかかえてうつらうつら
三人の男は冬を耐えた 半年あまりの冬を

眩しい太陽を恐れ 痺れきった足をさすり
歩く稽古を始めたとき
ふたたび六月の空 六月の風あまく
三人は網走の近くまでを歩き
雄阿寒 雌阿寒の山々を越えた
出たところはまたしても海!
釧路に近い海だった
三人は呆れて立つ
日本が島なのはほんとうに本当らしい
それなら海を試す以外にどんな方法がある
風が西北へ西北へと吹く夜
三人は一艘の小船を盗んだ
船は飛ぶように進んだが なんということだろう
吹き寄せられたのは同じ浜べ
漕ぎ出した波打際に着いていた
櫓は流れ 積んだ干物は腐っていた
猟師に手真似で頼んでみよう
魚取りの親爺よ 俺たちはひどい目にあっている
送ってくれるわけにはいかないか
朝鮮まででいい 同じ下積みの仲間じゃないか
助けてくれろ 恩にきる
無謀なパントマイムは失敗に終った
老漁夫は無言だったが間もなく返事は返ってきた
大がかりな山狩りとなって
追われ追われて二人の仲間は掴まった
たった一人になってしまった りゅうりぇんれん

りゅうりぇんれんは烈しく泣いた
二人は殺されたに違いない すべての道は閉ざされた
「待ってくれ おれも行く!」
腰の荒縄を木にかけて 全身の重みを輪にかけた
痛かったのは腰だ!
六尺の躰を支えきれず ひよわな縄は脆くも切れた
ぶったまげて きょとんとして
それからめちゃくちゃに下痢をして
数の子が形のまんま現れた
「ばかやろう!」そのつもりなら生きてやる
生きて 生きて 生きのびてみせらあな!
その時だ しっかり肝っ玉ァ坐ったのは

彼の上にそれから十二年の歳月が流れていった
りゅうりぇんれんにとっての生活は
穴に入り 穴から出ることでしかなかった
深い雪におしつぶされず 湧水に悩まされず
冬を過す眠りの穴を
幾冬かのにがい経験のはてに ようやく学び
穴は注意深く年ごとに移動した
ある秋のこと
栗ひろいにやってきた日本の女にばったり会った
女は鋭く一声叫び
折角の栗をまきちらし まきちらし
這うように逃げた
化けものに出会ったような逃げかただ
りゅうりぇんれんは小川に下りて澄んだ水を覗きこんだ
のび放題の乱れた髪
畑の小屋から失敬した女の着物を纏いつけ
妖怪めいて ゆらいでいる
これが自分の姿か?
趙玉蘭(チャオユイラン) おまえが惚れて嫁いできた
りゅうりぇんれんの姿がこれだ
自嘲といまいましさに火照った顔を
秋の川の流れに浸し
虎のように乱暴に揺る
俺は潔癖なほど綺麗ずきで垢づくことは好まなかった
たとえ長い逃避行 人の暮しと縁がなくても
少しは身だしなみをしなくちゃな!
鎌のかけらを探し出し
りゅうりぇんれんはひっそりと髭を剃った
髪は長い弁髪にまとめ ブヨを払うことをも兼ねしめた

風がアカシヤの匂いを運んでくる
或る夏のこと
林を縫う小さなせせらぎに とっぷり躰を浸し
ああ謝々(シェシェ)  おてんとうさまよ
日本の山野を逃げて逃げて逃げ廻っている俺にも
こんな蓮の花のような美しい一日を
ぽっかり恵んで下されたんだね
木洩れ陽を仰ぎながら
水浴の飛沫をはねとばしているとき
不意に一人の子供が樹々のあいだから
ちょろりと零れた 栗鼠のように
「男のくせに なんしてお下げの髪?」
「ホ  お前 いくつだ」
日本語と中国語は交叉せず いたずらに飛び交うばかり
えらくケロッとした餓鬼だな
開拓村の子供だろうか
俺の子供も生れていればこれ位のかわいい小孫(ショウハイ)
開拓村の小屋からいろんなものを盗んだが
俺は子供のものだけは取らなかった
やわらかい布団は目が眩むほど欲しかったが
赤ん坊の夜具だったからそいつばかりは
手をつけなかったぜ
言葉は通じないまま
幾つかの問いと答えは受けとられぬまま
古く親しい伯父 甥のように
二人は水をはねちらした
りゅうりぇんれんはやっと気づく
いけねえ 子供は禁物 子供の口からすべてはひろがる
俺としたことがなんたる不覚!
それにしても不思議な子供だ
すっぱだかのまま アッという間に木立に消えた

二匹の狼に会った
熊にも会った 兎や雉とも視線があった
かれらは少しも危害を加えず
彼もまた獣を殺すにしのびなかった
りゅうりぇんれんの胃は僧のように清らかになった
恐いのは人間だ!
見るともなしに山の上から里の推移を眺めて暮した
山に入って二年あまり
畑で働いていたのは 女 女 女ばかり
それから少しづつ男もまじった
畑の小屋に置かれるものも豊かになってゆくようだった
米とマッチを見つけたときの喜びは
ガキの頃の正月気分
鉄瓶もろとも攫ってきて
山のなかで細い細い炊煙をあげた
煮たものを食べるのは何年ふりだったろう
じゃがいもは茹でられてこの世のものともおもえぬうまさ

それから更に何年かたち
皮の外套を手に入れた
ビニールの布も手に入れた
だが一年ごとに躰の方は弱ってゆく
十年たつと月日は数えられなくなり
家族の顔もおぼろになった
妻もおそらく他家へ嫁いだことだろう
たとえ生きていてくれても……
どの年だったか
この土地もひどい旱魃に見舞われて
作物という作物は首を垂れ
田畑に立って顔を覆う農夫の姿が望まれた
遠く 遠く
りゅうりぇんれんはいい気味だとは思わなかった
日本の農民も苦しいのだ
俺も生れながらの百姓だが
節くれだって衰えたこの手に
鍬を握れる日がくるだろうか
黒く湿った土の上に ぱらぱらと
腰をひねって種を蒔く
そんな日が何時かまたやってくるのだろうか

長い冬眠があけ
春 穴から出るときは
二日も練習すれば歩くことができたものだ
年とともに 歩くための日は
多く多く費され
二ヶ月もかけなければ歩けないほどに
足腰は痛めつけられていった
それはだんだんひどくなり
秋までかかって ようやく歩けるようになった頃
北海道の早い冬はもう
粉雪をちらちら舞わせ
また穴の中へと りゅうりぇんれんを追いたてた
獣のように生き
記憶と思考の世界からは絶縁された
獣のように生き
日本が海のなかの島であることも知らなかった
だが りゅうりぇんれん
あなたにはみずからを生かしめる智慧があった

惨憺たる月日を縫い
あなたの国の河のように悠々と流れた
一つの生命
その智慧もからだも
しかし限度にきたようにみえた
厳しい或る冬の朝のこと
あなたはとうとう発見された
札幌に近い当別の山で
日本人の猟師によって
凍傷にまみれた六尺ゆたかな見事な男
一尺半のお下げ髪の 言葉の通じない変な男
絶望的な表情を滲ませて
「イダイ イダイ」を連発する男
痛い それは
りゅうりぇんれんの覚えていた たった一ツの日本語だった

「中国人らしい」
スキーを穿いた警官は俄に遠慮がちになった
りゅうりぇんれんは訝しむ
何故ぶん殴らないのだろう
何故昔のように引きずっていかないのだろう
麓の雑貨屋で赤い林檎と煙草をくれた
火にもあたらせてくれる「不明日(ブーミンパイ)」「不明日(ブーミンパイ)」
ワガラナイヨなにもかも
背広を着て中国語をしゃべる男が
沢山まわりを取りまいた
背広を着た同朋なんて!
りゅうりぇんれんは認めない
祖国が勝ったことをも認めない
困りぬいた華僑のひとりが言った
「旅館の者を呼んであなたの食べたいものを
注文してごらんなさい
日本人はもう中国人をいじめることは
絶対にできないのだ」
りゅうりぇんれんは熱いうどんを注文した
頬の赤い女中がうやうやしく捧げもってきた
りゅうりぇんれんの固い心が
そのとき初めてやっとほぐれた
ひどい痛めつけられかただ
同朋のひとびとはまぶたを熱くし
湯気のなかの素朴な男を眺めやった

八路軍が天下を取って
俺たちにも住みいい国が出来たらしいこと
少しずつ 少しずつ 呑込んでゆく頃
りゅうりぇんれんにはスパイの嫌疑がかかっていた
いつ来たのか
どこで働いていたのか
北海道の山々をどのように辿ったか
すべては朦朧と 答を出せなかったりゅうりぇんれん
札幌市役所は言った
「道庁の指示がないと何も手をつけるわけにはいかない」
北海道庁は言った
「政府の指示がなければ何も手をつけるわけにはいかない」
札幌警察署は言った
「我々には予算がない 政府の処置すべき問題だ」
政府は この国の代表は
「不法入国者」「不法残留者」としてかたづけようとした

心ある日本人と中国人の手によって
りゅうりぇんれんの記録調査はすみやかに行われた
拉致使役された中国人の数は十万人
それらの名簿を辿り 早く彼の身分を証すことだ
スパイの嫌疑すらかけられている彼のために
尨大な資料から針を見つけ出すような
日に夜をつぐ仕事が始った
「行方不明」
「内地残留」
「事故死亡」
たった一言でかたづけられている
中国名の列 列 列
不屈な生命力をもって生き抜いた
りゅうりぇんれんの名が或る日
くっきりと炙出しのように浮んできた
「劉連仁 山東(シャントン) 省諸(チュウチョン)城県第七区紫溝(チャイコウ)の人
 昭和十九年九月 北海道明治鉱業会社
 昭和鉱業所で労働に従事
 昭和二十年無断退去 現在なお内地残留」

昭和三十三年三月りゅうりぇんれんは雨にけむる東京についた
罪もない 兵士でもない 百姓を
こんなひどい目にあわせた
「華人労務者移入方針」
かつてこの案を練った商工大臣が
今は総理大臣となっている不思議な首都へ

ぬらりくらりとした政府
言いぬけばかりを考える官僚のくらげども
そして贖罪と友好の意識に燃えた
名もないひとびと
際だつ層の渦まきのなかで
りゅうりぇんれんは悟っていった
おいらが何の役にもたたないうちに
中国はすばらしい変貌を遂げていた
おいらが今 日本で見聞きし怒るものは
かつのての祖国にも在ったもの
おいらの国では歴史のなかに畳みこまれてしまったものが
この国じゃ
これから闘われるものとして
渦まいているんだな

東京で受けた一番すばらしい贈物
それは妻の趙玉蘭(チャオユイラン)と息子とが
生きているという知らせ
しかも妻は東洋風に二夫にまみえず
りゅうりぇんれんだけを抱きしめて生きていてくれた
息子は十四
何時の日か父にあい会うことのあるようにと
尋児(シュンアル)と名づけられていた

尋児(シュンアル) 尋児(シュンアル)
りゅうりぇんれんは誰よりも息子に会いたかった
三十三年四月
白山丸は一路故国に向って進んだ
かつては家畜のように船倉に積まれてきた海を
帰りは特別二等船室の客となって
波を踏んで帰る
飛ぶように
波を踏んで帰る
なつかしい故郷の山河がみえてくる
蓬来(ファンライ) 若かりし日 油しぼりをして働いたところ
塘沽(タンクー)
長い長い旅路の終り
十四年の終着の港

ひしめく出迎えのひとびとに囲まれ
三人目に握手した中年の女
それが妻の趙玉蘭
りゅうりぇんれんは気付かずに前へ進む
別れた時 二十三歳の若妻は三十七歳になっていた
りゅうりぇんれんは気付かずに前へ進む
「おとっつぁん!」
抱きついた美少年 それこそは尋児
髪の毛もつやつやと涼しげな男の子
読むことも 書くことも
みずからの意思を述べることも
衆よりすぐれ 村一番のインテリに育っていた
三人は荷馬車に乗って
ふるさとの草泊(ツアオポ)村に帰った
ふるさとは桃の花ざかり
村びとは銅鑼や太鼓ならしてお祭のよう
連仁(リェンレン)兄いが帰ったぞう
行きあうひとの ひとり ひとり
その名を思いおこし 抱きあいながら家に入った
窓には新しい窓紙
オンドルには新しい敷物
土間で新しい農具は光り
壁には梅蘭芳の絵とともに
中国産南瓜のように親しみ深い
毛沢東の写真が笑って迎えた
りゅうりぇんれんは畑に飛び出し
ふるさとの黒い土を一すくい舌の先で嘗めてみた
麦は一尺にものびて
茫々とどこまでもひろがっている
その夜
劉連仁と趙玉蘭は
夜を徹して語りあった
一家の消長
苦難の歳月
再会のよろこびを
少しも損われていなかった山東訛で。


 *

 *


一ツの運命と一ツの運命とが
ぱったり出会う
その意味も知らず
その深さも知らずに
逃亡中の大男と 開拓村のちび

風が花の種子を遠くに飛ばすように
虫が花粉にまみれた足で飛びまわるように
一ツの運命と 一ツの運命とが交錯する
本人さえもそれと気づかずに

ひとつの村と もうひとつの遠くの村とが
ぱったり出会う
その意味も知らずに
その深さをも知らずに
満足な会話すら交せずに
もどかしさをただ酸漿のように鳴らして
一ツの村の魂と もう一ツの村の魂とが
ぱったり出会う
名もない川べりで

時がたち
月日が流れ
一人の男はふるさとの村へ
遂に帰ることができた
十三回の春と
十三回の夏と
十四回の秋と
十四回の冬に耐えて
青春を穴にもぐって すっかり使い果したのちに

時がたち
月日が流れ
一人のちびは大きくなった
楡の木よりも逞しい若者に
若者はふと思う
幼い日の あの交されざりし対話
あの隙間
いましっかりと 自分の言葉で埋めてみたいと。

 <付記>
 資料は欧陽文彬著・三好一訳『穴にかくれて十四年』 (新読書社刊)によっています。


今日の話題

沖縄戦・従軍慰安婦

 従軍慰安婦や沖縄の集団自決には軍の強制は なかったと主張している連中は「証拠の文書がな い」ということを理由の一つにしている。前回の 証言者の言葉にあるように、「なにもかも燃やして しま」ったのだから、戦争遂行関係の文書はわずか しか残されていないだろう。とくに大日本帝国 にとって都合の悪い文書を探し出しのは至難のこ とだろう。だからこそ、体験者の証言が貴重なの だ。

 水木しげるさんの「総員玉砕せよ!!」の書 き出しで「ピー屋」という言葉に出合った。何のこ とだかさっぱり分からなかったが、読み進んで行く とすぐそれは従軍慰安所のことであることが分かっ た。でもなぜ「ピー屋」というのか、さっぱり分か らなかった。

 『週間金曜日(8/10・17合併号)』で佐藤優さん が『米「慰安婦」決議と過去の過ちを克服する道』 という文を書いている。そこで「ピー屋」の 「ピー」が「prostitution」という英単語の「p」 であることを知った。私はこの単語は知 らなかった。辞書を引いたら「売春、醜業、売節、 堕落、退廃、悪用」とあった。だれが名付けたのか 知らないが、「ピー屋」は軍隊用語として一般に 流布されていたようだ。

 さて、上記の佐藤さんの文章には「沖縄の集団自 決」と「従軍慰安婦」と、さらに沖縄戦でのアメリ カ軍の犯罪行為とに関わる事例が含まれている。 佐藤さんがご母堂から聞いた話ということだが、 貴重な証言の一つと考えてよいだろう。また、 佐藤さんの思想のスタンスがよく分かる文でもあ る。全文を掲載する。

 「慰安婦」の存在について初めて聞かされたのは 母からだった。小学校高学年の時だと思うが、正確 な年は思い出せない。ただ、梅雨の季節だったこと は確かである。

 14歳のときに沖縄戦に遭遇した母は、梅雨になる と「こんな雨が毎日降る中で、お母さんは戦場を 逃げ回ったの」と筆者に戦場の様子について物語る のだった。

戦争をめぐる物語

 母は軍属として第62師団(通称「石部隊」)と行 動を共にして、前田高地の激戦を生き延びた。

 岩波文庫版『おもろさうし』の校注者である外 間守善(ほかましゆぜん)元法政大学教授が2006年 に著した『私の沖縄戦記前田高地・60年目の証言』 (角川学芸出版)が戦場の地獄絵について詳細に 描いている。

 外間氏は独立混成第44旅団(通称「球 (たま)部隊」)の一兵卒として前田高地で戦った。 缶詰が保管されている洞窟に隠れていたが、缶切り がない。飢えに苦しんだ。そこに「石部隊」の兵士 たちが逃げ込んでくる。缶切りをもっている彼らは、 缶詰を開け、むさぼり食べているが、外間氏がいく ら頼んでも缶切りを貸さない。「石部隊」の兵士た ちは外間氏を攻撃する気勢すら示した。満腹になっ た「石部隊」の兵士たちは洞窟の入り日で寝てし まう。しばらくして、掃討に来た米兵に入り口にい たこの兵士たちは射殺されたが、奥にいた外間氏は 生き延びた。外間氏の記述から「石部隊」兵士たち の不気味さが浮かび上がってくる。

 前田高地の戦闘に関する母の記憶では、「球部隊」 の将兵は実に恐ろしかった。「石部隊」の兵士は、 爆弾が落ちてくると母の上に覆い被さり、文字通り 命をかけて身を守ってくれた。また、「石部隊」の 中尉が母に「この戦争は負ける。命を無駄にするな。 米軍は女子どもに危害を加えることはないので、必 ず捕虜になりなさい」と言い残して、米軍陣地に斬 り込みに出かけて行った。

 前田高地で母は一時、部隊とはぐれしてまった。 逃げまどう母たちが洞窟に入ろうとすると「球部隊」 の兵士が鬼のような形相で、「ここは軍の施設だ。 貴様等地方人は他の場所に行け」と言って、追い払 う。そのため母の周囲にいた数人が被弾して命を失 った。母は「石部隊」に再合流し、最前線を突破し て、南部の摩文仁(まぶに)に脱出することに成功 した。その過程で米軍の毒ガスを浴びた。母は、摩 文仁の丘で、牛島満司令官、長(ちよう)勇参謀長 が自決し、日本が組織的抵抗を止めた1945年6月23日 の三日後、26日に米軍の捕虜になった。

 洞窟の前に米兵がやってきた。英語訛りの日本語 で日系人通訳が「出てきなさい。命は保証します。 大丈夫、手を上げて出てきなさい」という。母親は 自決用に支給された手榴弾の安全ピンを抜いた。洞 窟の硬い壁面に手榴弾を叩きつければ、数秒後に爆 発する。一瞬怯んだところで、隣にいた京都出身の ひげ面の伍長が両手を挙げ、洞窟に隠れていた十数 人がそれに続いた。それで命拾いをしたのだ。

 母は「石部隊」に対してはいまも暖かい思いを抱 いているが、「球部隊」には、恨みと恐れを抱いて いる。同じ日本軍の一員として沖縄戦に遭遇し、前 田高地の激戦という共通体験をもつ母と外間氏の 「石部隊」と「球部隊」に関する評価は全く逆だ。 そして一旦、戦場で体験した「刷り込み」は、その 後、いくら学識や理性によって矯正しようとしても、 難しいのである。戦争を巡る物語は複数存在するの だ。

沖縄の「慰安婦」たち

 あるとき、母が「あの朝鮮人のお姉さんたちはど うなったのだろう」といって、まだ米軍が沖縄に上 陸する前に母親が目撃した「慰安所」の話をした。

 「石部隊」が駐屯する周辺に「長崎ピー」とか 「朝鮮ピー」と呼ばれるバラックがあり、そこに 数十人の兵士が列をなしている。何も知らない母が 「何を待っているの」と聞くが、兵隊たちはニヤニ ヤ笑って、返事をしない。その様子を見ていた四歳 年上で、やはり「石部隊」の軍属であった母の姉か ら、「つまらないことを聞いて歩くんじゃない」と 手厳しく叱られ、プロスティチューション (prostitution売春)の頭文字をとって「ピー」と 略称された「慰安所」の存在について知らされた。

 毎日、数十人の兵士を相手にするために、下腹部 がただれ、そこから炎症を起こして苦しんでいた女 性、また、「慰安所」の横で、乳飲み子を抱いて、 朝鮮語で子守歌を歌っていた女性の姿が母の瞼に焼 き付いているという。

 米軍が上陸した瞬間から、「石部隊」は戦闘態勢 に入り、母は師団司令部付となったので、その後、 この「慰安婦」たちの姿を見たことは一度もないと いう。戦場では弱い者から順番に倒れていく。慰安 所で働いていた女性たちは社会的に弱い立場に置か れていた上に、病気になったり、乳飲み子を抱えた 女性は退却することも容易でない。しかも米軍は火 炎放射器を用いながら、民間人や婦女子が隠れる壕 も一つ一つ焼き払いながら進んでいった。「慰安婦」 たちが生き残ることができた可能性は低いのである。

 7月30日(日本時間31日)、アメリカ下院が「慰 安婦」問題に関し、日本政府に対して〈「旧日本 軍が若い女性に性的な奴隷状態を強制した歴史的な 責任」を日本政府が「明確な形で公式に」認め、 日本の首相が謝罪声明を出すよう求める内容〉 (asahi.com7月31日)の決議を採択した。

 筆者は国権論者である。歴史認識を巡る外交問題 は内政不干渉を基本とする「薄っぺらい論理」で展 開することが、結果としてもっともよいのだという 信念を筆者はもっている。従って、アメリカ議会の 動向に日本政府が反応して日本の内閣総理大臣が謝 罪をするという論理を受け入れるべきではないと思 う。

 7月31日、フォーラム神保町で東郷和彦氏(元オ ランダ大使、前カリフォルニア大学サンタバーバラ 校客員教授)を招いて行なわれた「アメリカとメデ ィア慰安婦問題と久間発言」というミニ講演会の席 で筆者が持論を展開すると、東郷氏から「それじゃ ダメだ」と厳しくたしなめられた。

 東郷氏は、「慰安婦問題で日本がどれだけ孤立し ているか、あなたは正確に理解していない。まず、 アメリカではジェンダーを巡る問題について過去20 年で世論が全く変化している。そのような状況で、 強制性について広義と狭義の区別をするような議論 をするのはインテリジェンスの感覚からしても実に 愚かだ。日本は過去の過ちに対して全く反省していな いという受け止めがアメリカに定着しつつある」と 指摘する。

 東郷氏の指摘はその通りだ。しかし、人権や正義 を振り回すアメリカ人の背後にある自己批判や反省 の欠如に筆者は強い違和感を覚える。沖縄戦で米兵 が日本人に対して行なった性暴力はソ連軍が中国東 北部や樺太で行なった蛮行に匹敵する。また、沖縄 で住民を火炎放射機で焼き殺し、毒ガスを用いたこ とについてアメリカ国家は反省などしていない。

 歴史認識の問題を国家という位相で解決しよう としても袋小路に陥るだけだと筆者は諦めている。 紙幅の関係で、今回は詳しく論じることができな いが、国家ではなく日本社会が「慰安婦」問題に 正面から取り組むことなくして、日本が過去の過ち を克服することはできないと思う。
今日の話題

大日本帝国皇軍の人間兵器

 はじめ私は、「特攻隊」と言うと「神風特別攻撃 隊」しか知らなかった。「神風」は戦闘機ごと敵艦 に体当たりする自爆攻撃だ。使用される戦闘機は 初めから自爆用に作られたわけではない。 これに対して「人間兵器」は初めから自爆目的で 作られている。

参考資料
『人間兵器』

 大日本帝国皇軍の自爆作戦については

今日の話題:『軍神の母』
今日の話題:『特攻隊員怨念の刀傷』
今日の話題:『狆ゾウの欺瞞と浅はかさ』

で取り上げている。今回は人間魚雷「回天」の話。 「鎮魂の夏2007」から高橋恒夫記者の記事「「62年  人間魚雷語る決心」を転載する。




  回天

 日本の敗色が濃くなった1943年、2人の青年士官 が「戦局を打開するには体当たりで敵艦を沈める 特攻攻撃しかない」と人間が操縦する魚雷を発案。 44年8月、兵器として正式に採用。「天を回(めぐ) らし戦局の逆転を図る」という意味で回天と命名 された。全長14・75メートル、直径1メートル。上 げ下げ自由の潜望鏡を備え、中央部に1人が乗り込み 、潜水艦から発進した。頭部に1・55トンの爆薬が 詰め込まれ、命中すれば巨艦も一発で撃沈できると いわれた。自爆装置はあったが、脱出装置はなかっ た。


「62年 人間魚雷語る決心 元搭乗員「生き残ったからこそ」

 太平洋戦争末期、爆弾を積んで敵艦へ体当たりし た人間魚雷「回天」。その搭乗員として出撃命令を 待ち続け、敗戦を迎えた埼玉県深谷市の多賀谷虎雄 さん(80)が戦後62年の今年、初めてその体験を語 り始めた。「当時は死ぬことだけを考えていた」と いう多賀谷さんが語り継ぐ決意をしたのは、「自分 が死ぬと満足に話ができる者がいなくなる。生き残 ったから話せる」との思いからだった。(熊谷通信局・高橋恒夫)

 多賀谷さんは群馬県伊勢崎市で10人きょうだい の末っ子として生まれた。17歳の誕生日を間 近に控えた1943年12月、旧制中学を繰り上げ卒業す ると、予科練に志願。奈良県天理市にあった三重海 軍航空隊奈良分遣隊に入隊した。

 九ヵ月ほどすぎたある日、隊員全員が武道場に 集められた。窓には黒い幕がかけられ、外部と遮 断。少佐が軍機密の「特殊兵器」の志願について 涙ながらに説明した。

 配られた用紙に、熱望する人は「◎」、希望は 「○」を記入、希望しない人は空白とするよう言 われた。どんな兵器なのかは分からない。多賀谷 さんは予科練志願時に「どうせ死ぬなら早いほ うがいい」と考えていた。名前に「◎」を書い て出した。

 44年12月、山口県・徳山湾沖の訓練基地・大津 島へ。ここで初めて「回天」を見た。過酷な訓練 に明け暮れ、回天を搭載した潜水艦で出撃する隊 員を見送った。多賀谷さんは「皆『先に行くぞ』 と出撃していった。悲しくて涙を流すという感情 はなかった。笑って出て行った」と振り返る。 「国のために先に死ぬことは名誉だと思った」

 ようやく上官との同乗訓練が始まったのは45年5 月5日。波が荒い悪条件で、練習用の回天が深さ8メ ートルの海底に突っ込んで身動きが取れなくなり、 危うく死にかけたことも。「どうすれば敵艦にうま く当たるか、寝ても覚めてもこればかり考えていた」という。

 同年6月17日、多賀谷さんは米軍の本土上陸が予 想される宮崎県・日南海岸の栄松基地に移り、出撃 命令を待った。毎日のように上空をB29が通り過ぎ、 グラマンの機銃掃射に逃げ惑った。

 「回天を積む潜水艦もなくなり、回天を穴を掘 って隠した。日夜、息を詰めて、いつ敵艦が来る か分からない状況で訓練を続けながら、ほかの隊 員と「命を日向灘に沈めるんだと話していた」

 8月15日。玉音放送を聞いた。多賀谷さんは何の ことか分からず、上官から「何もかも燃やせ、すべ て忘れろ」と言われ、「負けたのか」と思った。

 戦後はさまざまな職に就いたが、肌身離さず持 っていたのは、回天隊員から預かった遺書。「壁 にぶつかると見て、励みにしてきた」。「先に死 んでいった戦友に申し訳ない。生き残ってしまっ たという思いをこの60年ぬぐうことができなか った」と、苦しい思いを吐露する。

 「死ぬことだけを教育された。今とは時代が違 う。受け入れてもらえない」と、回天について口 を閉ざしてきた。しかし、回天を扱った映画「出 口のない海」(横山秀夫原作、佐々部清監督)を 昨年見て、主人公の少尉の「人間が兵器の一部に なったことを、この悲しい事実を語り残してもら うために死ぬ」というせりふに共感。この映画が 今年1月、地元深谷市で上映された時、映画館から 「体験を語ってほしい」と頼まれ、初めて公の場 で話した。

 兵士とは殺人用奴隷である。日本国憲法には次の 条文がある。

第18条【奴隷的拘束及び苦役からの自由】
 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、 犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反す る苦役に服させられない。

 日本を戦争のできる国にしたがっている連中の 最終目標は徴兵制である。しかし、日本国憲法には 上記のような立派な条項がある。徴兵制は憲法違反 なのだ。改憲問題では九条ばかりが取りざたされる が、改憲をたくらむ連中には第18条も目障りなこと だろう。当然、奴らの射程に入っているに違いない。

 私はアベやイシハラの思想(イデオロギー)を憎 悪する。彼らを狆ゾウとか沈タロウとか侮蔑して呼 ぶのは、彼らが、人間らしく生きたいと願う庶民を 奴隷化しようとしている唾棄すべき権力者だからだ。 世界の良識はいまやっと、「多様な生き方を認め合 おう」という寛容の精神を最重要課題をするところ にまで達してきた。人類がたどり着いたこの地点を 後退させるわけにはいかない。

 さて、「多様な生き方」を否定して、国民を従順 な奴隷へと一色に染め上げたがっている狆ゾウとか 沈タロウとかにも、私たちはなお寛容であるべきな のだろうか。これは一度、

『「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(6)不寛容なものへの対処』

で問題にした。が、私にとって、これはいまだに 深めるべき問題として残っている。
第852回 2007/08/17(金)

今日の話題

大日本帝国皇軍の惨状

 昨日の記事で私は、大日本帝国の軍隊を「奴隷縦 社会」といった。そう言って誤りでないと言える 事例にはこと欠かない。たくさんの証言に出会って きている。今朝の東京新聞の読者投稿欄に槙原幸成 (81)という方の次のような投稿があった。


軍隊のしごき二度といやだ

 渋谷の映画館で、新藤兼人氏原作・脚本の「陸 に上った軍艦」を見た。95歳の氏自身が、32歳で 海軍に召集されて二等水兵だった時の物語である。

 年下の古年兵に一年間みっちり殴られ、精神棒 でたたかれる。悲愴な姿をリアルに描いた、すご い内容で、尻は紫に腫れ上がり、水の中、火の中 へ、上官の命令のまま飛び込んでゆく兵隊物語 だ。33歳で上等兵になり、敗戦を迎えるまでの軍 隊生活。見ていた私も「よく作ってくれた、全く その通りだ」と感動した。

 かくいう私は終戦三ヵ月前の5月22日、19歳で当 時の満州(中国東北部)に召集。ソ連国境近くの牡 丹江重砲兵連隊で、一日だけお客さん扱い。その後 は毎日、古年兵にしごかれ、古い革靴で作ったスリ ッパで血が出るほどたたかれた。同年兵の不始末の 共同責任で、兵舎内を犬になってはわせられ、上か ら棒でたたかれた。古年兵、上官が憎たらしかった。

 ソ連軍が8月9日早朝から攻撃を開始し、1199人中、 約800人が戦死した。

 このような軍隊のしごきが、団結力になることは ない。敗戦から62年、シベリア抑留4年のおまけ付 きで81歳で生き残っていることが奇跡である。もう 絶対「戦争」だけは起こしてくれるなと祈る毎日で ある。

 軍隊の一般兵士が奴隷であることを私がはじめて 知ったのは、ずいぶん昔、「真空地帯」という映画でであった。 上の投稿文にあるのと同じように、20歳そこそこの 人から、家に帰れば子供もいそうな年配に人たちま で、犬のまねをさせられたり、スリッパで殴られ たりする場面が強く印象に残っている。特に、両手 両足を使って柱にかじりつかせて「ミーン、ミーン」 とせみの鳴きまねをさせる場面では、大きな怒りで 震え、その屈辱を思ってはつい落涙してしまった。

 丁度ニ年前(2004年8月20日) 『石原が恋い焦がれている「国家」』 で引用した『1984年』からの一文を思い出した。

「われわれわれは、君が後へ引き返しょうもない点ま で叩きのめしてやる。たとえ君が千年生きられたと しても、元の状態には戻れない程のことが君の身に 起こる。君は二度と再び普通の人間らしい感情を持 てなくなるだろう。君の心の中にあるものはすべて 死滅してしまうだろう。君ほ二度と再び人を愛し、 友情を温め、生きる喜びを味わうことも出来まい、 笑ったり、好奇心を抱いたり、あるいは勇気を奮い 起こしたり、誠実であろうとすることも出来まい。 君は抜け殻になってしまうのだ。空っぽになるまで 君を絞り上げてやる、それからわれわれを、その 跡に充填するのだ」 (ジョージ・オーウェル「1984年」より)

 「飢餓の果て人が壊れる」が、繰り返し繰り返し 行われる心身への拷問による屈辱も人を壊す。壊れ て空っぽになった心に充填されるのは天皇のため国 家のためにいともたやすく命を差し出す「忠誠心」 だ。 「命は鴻毛よりも軽し」。自分が死ぬことにも敵の 兵士や民衆を殺すことにも平気になることが称揚さ れる。

 このようにして作られた皇軍兵士の残虐ぶりで 私が思い出すのが「三光作戦」である。 この言葉を始めて知ったのもずいぶん昔だ。雑誌名 は忘れたが、ある雑誌が「三光作戦」を特集した。 かなり詳細な記事だった。倫理のかけらのないその あまりにもの残虐さに、私はそれをにわかには信じられなかった。 しかし、それを実行させられた兵士たちと被害者 (中国人)たちの多くの証言があった。

 その後、この言葉「三光作戦」が耳目に入ること はほとんどなく、記憶の底に埋もれていたのが、 久しぶりに東京新聞の連載特集「鎮魂の夏2007」 で思い出すことになった。

三光作戦むごさ切々
加害証言、でっち上げ論に憤り


 今年は、日中戦争の発端となった虚構橋事件から 70年。東京都東大和市の元陸軍伍長金子安次さん (87)は、中国の戦地でのむごい体験談を今も語り 続ける。今月14日には、渋谷区で開かれる「平和の ための戦争展2007」に参加し、自分が加担した中国 共産ゲリラの抗日根拠地への「三光作戦」の実態を 証言する。

 金子さんは1940年12月、20歳で徴兵され、中国山 東省・青島に上陸。臨清など五つの街を拠点に八路 軍(共産党軍)を捜して山村を転々とした。八路 軍やゲリラの根拠地に対し「焼き尽くし(焼光)、 殺し尽くし(殺光)、奪い尽くす(搶光)」という いわゆる三光作戦を行った。

 「最初にやらされたのが、農民を銃剣で突き刺す 訓練。相手は木に縛り付けられているのに、怖くて 足がぶるぶる震える。手がすべって古い兵隊にぶっ たたかれた」。

 戦地では八路軍兵士だけでなく、女性や子どもも 殺すよう命じられた。「女は子どもを産む。子ども は大きくなったらわれわれに抵抗する、というのが 理由だった」

 八路軍が潜む集落に催涙弾を撃ち込み、飛び出し てくる村人たちに向かって機関銃の弾を浴びせた。 戦闘が終われば集落を焼き払った。米や小麦、綿 花、牛などの家畜も略奪したという。

 捕虜には大量に水を飲ませて拷問したり、よしず を巻いて火を付けたりした。
「どうせ殺すなら、風変わりな殺し方をしようと いう頭(考え)だった」。
 古参兵が農具の「押し切り」で農民の首を切るの を手伝った。

 ある集落を攻撃した時のことだ。
「古い兵隊が女の人に乱暴しようとして抵抗され、 真っ逆さまに井戸にぶち込んだ。これを見た4、5歳 の男の子が『マーマ、マーマ』と泣いて自分から井 戸に飛び込んでしまった。苦しんで死ぬのがかわい そうと思ったのか、その兵隊が『手りゅう弾をぶち 込んでやれ』というので、持っていた一個をぶち込 んだ」

 「当時はそういうことを平気でやった。同じ年ご ろの子どもを見ると胸にこたえる。ちょうど孫が同 じくらいの年ごろだよ」と金子さん。

 近年、三光作戦を「中国側のでっち上げ」として、 金子さんのような元兵士の証言を軽んじる動きが強 まっている。歴史教科書の記述の削除も目立つ。

 これに対し、金子さんは
「うそを話す理由がどこにあるのか。われわれは 学校で教えられた通りに天皇のために、お国のた めに戦った。それで中国で戦犯となった。それが 罪を犯した何よりの証拠だ」
と憤る。

「でっち上げだと言う人には、戦地に行ったことが あるのかと聞きたい。一人でも二人でも信じてくれ る人がいればという思いで、証言するしかない」

 「三光作戦」を「中国側のでっち上げ」と言う 人たち、どうしても「自慢史観」をでっち上げた い人たちの言い分の一つがふるっている。 「三光作戦」(焼き尽くし(焼光)、殺し尽くし (殺光)、奪い尽くす(搶光))は中国側が作った 言葉だというのだ。用語の問題じゃないだろう。

 この抗日ゲリラ対策として行った八路軍の根拠地 根絶作戦の日本軍側の作戦名は燼滅(じんめつ)作 戦あるいは燼滅掃討作戦と言うらしい。2004年7月 に防衛庁は戦時史料「冬季山西粛正作戦戦闘詳報」 を公開した。その中で山西省での燼滅作戦における 撒毒(毒ガスの使用)も裏付けられていると言う。

 なお、

『白泉村での出来事~「祖父たちの戦争体験」を聞く』

にも、「三光作戦」にたずさわった兵士の証言が 掲載されている。

 最後に、今日の記事のに関連した過去記事を参考 までにあげておく。

今日の話題:『どうしようもないドウツブの業』

今日の話題:『大日本帝国皇軍の体質を継ぐ自衛隊』

第851回 2007/08/16(木)

今日の話題

「飢餓の果て人が壊れる」

 東京新聞の連載特集「鎮魂の夏2007」の中から、 いくつかの記事を記録しておこう。

 今回は、「記憶・20代の記者が受け継ぐ戦争」の 中の一つ、神野光伸記者の記事「飢餓の果て人が壊 れる」。


  東部ニューギニア戦線
 1942年1月、豪州の守備隊を撃破し、ニューブリ テン島のラバウルを占領した日本軍は、東部ニュ ーギニアに陸海軍約15万人の兵士を投入。日本軍 と米、豪州軍が終戦までの約3年間にわたって死闘 を繰り広げた。日本軍は南部の拠点・ポートモレ スビー攻略に失敗。補給路を断たれ、山岳地帯や 密林の過酷な移動に加えマラリアなどの病が兵士 を襲い、損耗率は90%を超えた。餓死する兵士も 多く、戦没者は12万人以上に及んだとされる。


 「ニューギニアに向かう時、既に日本は負けてい た。何も知らないで純粋に勝利を信じていたので す」。日本兵の九割以上が亡くなり、「飢餓地獄」 と言われた太平洋戦争の東部ニュ-ギニア戦線。  塚原守通さん(85)=群馬県太田市=は、想像を 絶する過酷な戦地で九死に一生を得た。「ただ、生 きたかった」。その言葉に、生に対する確かな重み を感じた。

 1942(昭和17)年10月、塚原さんは、学徒出陣で 群馬県高崎市の歩兵25連隊に入隊した。予備士官学 校卒業後、再び高崎市で同連隊に配属されると、 「南方に向かう」とだけ告げられ、44年2月、下関 から日本を後にした。

 同年3月、少尉になった塚原さんら八千人近くの 兵を乗せた16隻の船は太平洋を南進、パラオ島へ。 しかし、敵の魚雷で14隻が沈められ、島に上陸でき たのはわずか千人。海中で助けを請う兵の姿が目に 入ったが、自分が生き抜くのに必死だった。

 約一ヵ月後、パラオ島で調達した商船でニュー ギニア上陸に挑んだ。しかし、島を目前に敵機から 攻撃を受けた。海に飛び込み、がむしゃらに泳い だ。病死した母の戒名「順粧院良慈尚大姉」を息 が続く限り唱えると、恐怖は和らいだ。ホーラン ジアの港にはい上がったが、親しかった少尉は銃 弾で足を貫かれ、息を引き取った。

 上陸はどうにか成功したが、制海空権は奪われ 補給もない。塚原さんが手にした食糧は、乾パン 三日分と非常食用のかつお節だけ。すぐに食糧は 底を突き、飢餓地獄にあえいだ。

 虫の幼虫を火にくべた。食べられる動植物は何 でも口に運んだ。軍服はボロボロになり、栄義失 調やマラリアで倒れ、アリが顔をはい回る兵から 軍服をはぎ取った。密林を敵から逃げまどい、日 を追うごとに低下する戦力に、全員「玉砕」を覚 悟した。

 飢餓は人の理性をむしばむ。人肉食が発覚すれば 銃殺刑だが、タブーを犯す兵もいた。自決を促され、 銃口をくわえた兵も目の当たりにした。塚原さん自 身、飢餓地獄で暴走しそうになる自我を、母の戒名 を何度も唱えることで抑え込んだ。

 「上陸から40日ほどたってからでしょうか」。 塚原さんの口が重くなった。軍司令部があるウエ ワクに東進中、同じ隊の兵が隠し持っていた飯ご うからコトコトと何かが転がる音がした。「人肉 か」 「はい…」。問いつめると、兵は認めた。 その兵が殺した上官の肉片だった。兵は手りゅう 弾で自決した。

 事実を信じ切れない私に、塚原さんは、ニュー ギニア戦線従事者の記録を見せてくれた。黄ばんだ 資料のべージには、人肉食で処刑された10人ほどの 兵の名前が記さていた。「極限状態になると人は人 でなくなる。それは、もう単なる動物でしかない」。 張りつめた空気の中で、人が犯した過ちを悔いるよ うに目を閉じた。

 塚原さんは3年前から、自分史を書き始めた。タイ トルは「20世紀にだまされた男」。ニューギニアで 従軍中に日本が敗戦に向かった事実を羅列した ノートを私に見せ、何度も「だまされた青春」と 繰り返した。

「ニューギニアで死んでいれば、それでよかった のかもしれない。勝つことだけを信じていたから。 でも、今生きているから私たちはだまされ続けた ことが分かる。真実を知れば知るほど、戦争は愚 かだったと気付く」

 静かに語る塚原さんの言葉が胸に突き刺さる。 人間を狂気に駆り立てた悲劇の現場には、目を背 けたくなる現実しかなかった。凄惨な記憶が刻ま れた南海の島。遺骨が見つからず、死亡時期や 場所さえも分からない犠牲者も多い。埋もれた 歴史の真実に光を当てたい。彼らの記憶が葬ら れないように。

 水木しげるさんの『総員玉砕せよ!!』 の戦場はニューブリテン島。上記の証言と同じよ うな飢餓地獄と軍隊という奴隷縦社会の不条理と 無策の策の玉砕の残虐さが描かれている。

総員玉砕せよ


総員玉砕せよ2


 最後のページの絵は、放置されたまま骨と化した 兵士たちの無数の遺体。そこから彼らの痛恨の叫び声が 聞こえてくる。

総員玉砕せよ3


人々よ
私たちの死を賛美するな
私たちを祀るな
おためごかしの慰霊はいらぬ
むしろ私たちを野ざらしとせよ
私たちを直視せよ
私たちの死を生かせ

世界から
いくさがなくなったとき
私たちは喜んでこの死を生きよう
そのとき
怨嗟に満ちた私たちの心は
初めて癒される
私たちの殺戮者を
心から許そう

人々よ
戦争をなくせ
戦争で死ぬな
生きよ
生きよ
生きよ

今日の話題

今日は「終戦記念日」ではない。「敗戦記念日」だ。

 昨日の東京新聞「本音のコラム」で鎌田慧さんが 『ささやかな誓い』という文を寄せている。

 広島、長崎、敗戦、と八月は記念日がつづく。 取り返しのつかない悲劇を経たあと、ようやく戦 争から解放されたのだ。

(中略)

 戦争は膨大な被害者をつくりだした。わたした ちの目にはみえなかったが、北東アジアから東南 アジア、太平洋諸島で、日本軍は二千万人ものひ とを殺りくした。これほどの負の経験があって も、まだ「正義の戦争」は必要だ、と声高にいう 政治家や評論家がいる。

 とりあえず、先日の参院選で自民党が大敗し て、憲法九条を変えようとする勢いも、いまは萎 えているようだが、「捲土重来」を図っているの で、油断できない。

 ひとりひとりが、どんな戦争でも、絶対支持し ない、といいつづけることが大事だ。絶対、妥協 しない。物わかりのいいフリをしない。いつもは っきり反対だ、という。これだけはつづけたい。

 私はもっぱら「敗戦」という言葉を使っている。 鎌田さんも「敗戦」という言葉を使っている。 「本音のコラム」の隣の記事「こちら特報部」の 記者は「終戦」と書いている。今日の朝刊は「終戦 記念日」と報じている。新聞はじめ公報的な メディアは全て「終戦」のようだ。「終戦」が国 家の検定合格用語なのだろう。

 鎌田さんがなぜ「敗戦」という言葉を使うのか、 その理由は知らないが、この問題に少しこだわって みようと思う。

 今日の東京新聞朝刊に、品川正治(経済同友会終身幹事) さんと鈴木邦男(新右翼「一水会」顧問)さんの 対談が掲載されている。題して「戦争体験に今こ そ学ぶ」。

 沈タロウが学校に「日の丸君が代」の強制を 始めた頃、朝日新聞がその問題をめぐって、いわゆ る識者の意見を連載したことがあった。その中で 私が一番共感したのが、鈴木さんの見解だった。 学校での「日の丸君が代」の強制をはっきり と否定し、さらに愛国心の強要の愚を主張していた。 それ以来、私は鈴木さんの発言に注目するように なった。鈴木さんは右翼を名乗っているが、おおか たの右翼とは異なり、硬直したイデオロギーの奴隷 ではない。現実を直視して、諸問題をラジカル (根源的)に問い続けている。したがって、左翼を 左翼という理由で「問答無用」と否定したりしない。

 品川さんは私が参加したある集会にお見えになっ て講演をされた。そこで初めて品川さんを知った。 その後も、右傾化に抗するいろいろな集会で講演し ている。財界人としてちょっと毛色の違う人だ。 根底に戦争体験があるからだろう。自らのスタンス を次のように語っている。

 私の経験を言いますと、45年11月に武装解除さ れ、河南省の砂漠地帯につくられた大きな捕虜収 容所に入れられたわけです。多いときには数千人 の日本の将兵がいたのですが、そこでものすごい 議論が起こりましてね。陸軍士官学校とか軍司令 部にいた人たち…、青年将校ですね、その人たち が「日本政府弾劾の決議文を出すから署名しろ」 と言う。

 何を弾劾するのかというと、潔く「敗戦」と言 わずに「終戦」と言う日本政府の姿勢なんです。 「国力を回復すれば(次の戦で)この恥をそそぐ というのが、大和民族の生き方ではないのか。 このような政府の指導は国民の方向を誤らせる」 というのが、彼らの主張でした。

 ところが、私たちのような戦闘部隊は「何を言 うか」という受け止め方だったですね。われ われは二度と戦争をしないという意味の「終戦」 で結構だと。

 署名に賛成か、反対かで血の雨も降りましたよ。 三百万人の戦友を亡くし、アジアで二千万人以上 の民衆を殺したんですから。どの面下げてこれか ら生きていくつもりなのか、ということですよね。 でも、全体としては署名反対の方がずっと多かっ たんです。

 46年5月に私は山口県の仙崎に復員するのですが、 上陸直前の船内で日本国憲法草案が発表された日 の新聞が配られた。そこに今の前文から九条を含 めて、ほぼ全部書かれていたんですね。それを読 んで、皆泣きましたよ。「二度と戦争はしないと、 憲法で決めてくれたのか」という受け止め方をし たんですね。

 戦争を見るときは兵隊の立場で見てほしい。将校 の立場からでは、国民の大多数の立場には立てませ ん。財界ではね、経団連会長だった平岩外四さん (故人)が陸軍の兵隊でした。ダイエー創業者の中 内功さん(故人)も兵隊です。あの二人は戦争に 関して、一般の財界人とは距離を置いた格好を取っ ていましたね。

 この引用文の前段に、今日の話題の「敗戦」か 「終戦」かという問題が出てきている。敗戦直後の 敗残兵たちの中ですでに議論があったなんて、初めて 知った。

 ある知人がその著書で「敗戦」と言う言葉を用い ない理由を書いているのを思い出した。その理由は、 まさしく上の将校たちの用法を否定するもので、 「敗戦」という言葉の裏には、いつか「恥をそそぐ」 「復讐を遂げる」という心情が読み取れるからとい うことだった。

 この理由には一理あるが、では「終戦」は妥当な 言葉だろうか。戦争を「兵隊の立場」(私は「兵隊」 を「庶民」と読みかえたい。)で見たとき、はたして 「終戦」なのだろうか。

 「終戦」がほとんど公用語となっているが、これは 欺瞞的な言葉だと、私は考える。将校たちが言う意味 での「敗戦」という言葉や「終戦」という言葉には、 国家がのっぺらぼうに継続していく、あるいは継続 しているという認識が含まれている。

 違うのだ。人が滅しない限り国は継続して行くが、 国家は永続的ではない。「大日本帝国」は敗戦して、滅亡した のだ。新憲法下の「日本」は「大日本帝国」の廃墟 から新らしく甦生した国家なのだ。もちろん、 「新生」日本は「大日本帝国」が残した負の遺産を 引き受けなければならない。戦争責任を免罪される わけではない。戦争責任を明確にして、 戦後責任を果たさなければならなかった。それを日本の 「庶民」がきちんと果たしえなかった、つまり脆弱な 民主化しか成し得なかった。狆ゾウら「大日本帝国」 のゾンビたちが「戦後レジームからの脱却」=「大 日本帝国への回帰」を目論むようになってしまった 現況は、そのツケなのだ。

 だがまだ遅くはない。「ひとりひとりが、どんな 戦争でも、絶対支持しない、といいつづけることが 大事だ」。「大日本帝国」は「敗戦」して滅亡し たことをはっきりと明示し続けなければいけない。 今日は「終戦記念日」ではない。「敗戦記念日」だ。 政府が行う欺式に抗するためには、「戦争体験」 を世代から世代へと継承していかなければならない。
第849回 2007/08/14(火)

「原爆投下」はなぜ「不正」なのか。

戦争を免罪化するニヒリズム

 「正しい戦争のルール」(戦争遂行を律する諸 原理)の提示に続けて、ロールズはその原理を実 施すべき政治家の資質とその実際を実例に即して 問うている。

 ロールズは、第二次大戦の初期のイギリスの場合 については、「極限的な危機」という免責事由が妥当する としている。したがってイギリスによるハンブルク、 ベルリン市街地への爆撃を例外的に許容されるもの との推測を下している。

 しかし、日本との戦争のどの時期においても アメリカ側にそのような免責事由は存在しなかった と断じている。つまり、日米の太平洋戦争において は、前掲の〈戦争遂行を律する諸原理〉が常時あ てはまっていたとしている。その観点からは、 当然、広島・長崎への原爆投下も東京やその他の都 市へ無差別爆撃も「不正」なものと判断せざるを 得ないとしている。

 実際に広島の事例では、アメリカ政府上層部の 多くは、同市を爆撃することの効果が疑わしいこ とに気づいており、許容される限度を越えた攻撃 となりうることを認めていた。だが、1945年6月 から7月にかけておこなわれた連合国指導者どうし の話しあいの過程では、「ルール6」の「実践的な 目的=手段」ばかりが論じられて、「ルール1」 ~「ルール5」の原理に対する重要な議論が封殺さ れていた。

 ロールズによれば、例の四つの「原爆投下の正 当化論」は「実践的な目的=手段の推論」を悪用 したものであり、どれも戦争遂行のルールをま ともに受けとめていないのは明白 であり、その妥当性ははなはだ疑わしい、 と断じている。以下、川本さんのまとめの文を そのまま引用する。

 以上の分析に基づいてロールズは、次のような 結論を導き出した。すなわち、ヒロシマへの原爆も 日本の各都市への焼夷弾攻撃もすさまじい道徳的な 悪行(great evils)であって、そうした悪を避ける ことが政治家たる者の義務として求められていたし、 しかもそれは、ほとんど犠牲を払わなくとも回避可 能な悪だった、と。

 論文の結びに近づいて彼はやっと、スミソニアン 原爆展示論争に関与する。〈ヒロシマへの原爆投下 を問いただすことは、太平洋戦争を闘ったアメリ カの軍隊を侮辱することに等しい〉という恫喝が、 退役軍人などから出されている。そうした無反省 な多数意見に抗しながら、ロールズはきっぱりと こう言い放つ。

 あの戦いから50年たった今こそなしうべきこと は、私たちの落ち度を振り返りよくよく考えな おす作業なのである。ドイツ人も日本人もそうし た取り組み - 戦後ドイツのスローガンを借り ると「過去の克服」 - をおこなうことを私た ちは当然期待してよい。だったらどうして、私た ちもこの作業に取りかかるべきではないなどと言 えるのだろうか。道徳上の過失なしに自分たちが 戦争を始めたなどと考えることがそもそもあって はならないのだ!

 ロールズは自国アメリカの戦争遂行における 「不正」に真正面から向き合うことをアメリカの 「庶民」に説くとともに、ドイツや日本の「庶民」 も「過去の克服」に取り組むことを期待している。 よく言われるように、ドイツの取り組みは国際的に 評価されているにもかかわらず、日本の取り組みは あまりにもオソマツであり、この面では日本は国際社会で孤立するばかり である。「南京虐殺はウソだ」「従軍慰安婦は強制 ではなかった」「沖縄の集団自決に軍は関与してい ない」など、侵略戦争を正当化する言説が大きな顔 をして流布されていくような状況、いわゆる「右傾 化」は、真の民主化を獲得しえていない私たち未熟 な「庶民」の責である。

 「南京虐殺」「従軍慰安婦」「沖縄の集団自決」 ……まだある。「重慶無差別爆撃」「三光作戦」「731部隊の細菌兵器人体実験」「中国人・朝鮮人の 強制連行」 「バターン死の行進」「自爆特攻作戦」「無策・無責任な 玉砕作戦」……日本が始めた「大東亜戦争」は なによりもまず侵略戦争であり、その戦争そのものが「不正」で あった。その上、上にあげたよう な個々の事例はどれも〈戦争遂行を律する諸原理〉 にもとるものである。ロールズの提言通りに、 アメリカ人が戦争責任を自己反省したからといっ て、日本人の責任が軽くなるわけではない。

 さて、ロールズは最後に戦争を免罪化する「二 種類のニヒリズムの教説」を取り上げて、「きっち り論駁すべきだ」と訴えている。


 「戦争は修羅場だ」。地獄のような戦争を一刻 でも早く終わらせるためならどんな手段を選んで もよいとする論法。原爆投下正当化論のほとんどは この範疇に入る。ヒロヒトの「やむをえない」も 久間の「しょうがない」もその典型である。


 戦争に突入した以上、私たちは皆同罪であり、 誰も他人(他国民)を非難することなどできないと 見切るニヒリズム。日本国内の問題での戦争責任 の議論でもよく見かける。「一億総懺悔」という 言葉がそれを象徴している。結局は全てをうやむ やにしてしまう論法だ。


 ロールズに言わせれば、両方とも筋の通った区 別立てを一切認めようとせず、道徳の観点からは 内容空虚なニヒリズム以外の何物でもない。これ と反対に、正義を重んじるまともな文明社会(そ の制度・法律、市民生活、背景となる文化や習俗) はすべて、どんな状況においても道徳的・政治的 に有意味な区別をおこなっており、その区別に決 定的に依存している。ロールズの結びのことばに 耳を傾けよう。

 たしかに戦争はある種の地獄かもしれないが、 だからといって〔戦争を終結させる複数の手段の〕 善し悪しの区別がつけられなくなるのだろうか。

 また、時にはすべての(あるいはほとんどすべて の)当事者が何らかの程度において責めを負って いることを認めたとしても、全員が同程度に有責 だということにはならない。あらゆる道徳的・政 治的原理や抑制が私たちから免除されるような時 点など、決して訪れはしない。

 二つのニヒリズムは、私たちに対して常時きち んと適用されるべき諸原理と諸抑制がないという 不当な要求をおこなっているにすぎないのである。

 世界が、多様な文明が相互扶助を旨として平和的に共存 する「正義を重んじるまともな文明社会」となる道のりは いまだ遠い。
第848回 2007/08/13(月)

「原爆投下」はなぜ「不正」なのか。

正しい戦争のルール

 ロールズの著書『公正としての正義 再説』を拾 い読みしていたら、ロールズ自身が「理想論」の意 義について述べている文章と、国際問題において 「穏当な多元主義」という立場をとる理由を述べて いる文章に出合った。前回の補足という意味でそれ を紹介しておこう。(原文が悪いのか訳が悪いの か、分かりにくい部分があるので、ちょっと意訳? しちゃいます。)

「理想論」の意義

 ロールズは、理想論に焦点を合わせる理由を次の ように述べている。

 民主主義思想内における現在の対立のほとんどは、 民主的社会に最適の正義構想はどのようなものかに ついての対立である。われわれの目的はその対立に 解決を与えることである。すなわち、次のような問 が政治哲学の根本的な問題となる。

 自由にして平等であり、合理的で道理にも適って おり、さらに十分に協働的な普通の社会構成員の間 で最も受け容れられやすい正義の政治的構想はどの ようなものか。

 この問いが根本的であるのは、それが、君主制や 貴族制に対するリベラリズムの批判、あるいはリベ ラルな立憲民主制に対する社会主義の批判の焦点だ ったからである。さらにそれはまた、私有財産の要 求や、いわゆる福祉国家と結びついた社会政策の正 統性(実効性ではない)をめぐるリベラリズムと保 守的見解との現在の対立の焦点でもある。

 「民主的で秩序だった社会」という理想論は、現存する 不正義をどのように扱うべきかという難しい現実的 な問題について考える場合にも、何らかの指針を提 供するだろう。それはまた、改革の目標を明確にし、 どの悪がより許し難く、それ故矯正が急がれるもの であるかを識別する手助けとなるべきである。

「穏当な多元主義」

 ロールズは、「、世界政府は、グローバルな抑圧 的専制か、あるいはそれぞれ異なる地域や文化がそ の政治的自律を獲得しようとして頻発する内乱によ って引き裂かれるもろい帝国のいずれかにならざる を得ない。」というカントの見解(『永遠平和のために』) に賛意を表して次のように言う。

正義に適った世界秩序とは、それぞれの「民衆」が、 必ずしも民主的でなくとも、諸々の基本的人権を 完全に尊重する(国内)政治体制を保持している、 そのような諸「民衆」からなる国際社会とみるの が最もよいであろう。

 ここで、同じくカントから示唆を受けて「世界共 和国」を構想した柄谷さんの理論を思い出した。 柄谷さんの結論は次のようだった。

『では、どのように国家に対抗すればよいので しょうか。その内部から否定していくだけでは、 国家を揚棄することはできない。国家は他の国家 に対して存在するからです。われわれに可能なの は、各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡す るように働きかけ、それによって国際連合を強化・ 再編成するということです。たとえば、日本の憲 法第九条における戦争放棄とは、軍事的主権を国 際連合に譲渡するものです。各国でこのように主 権の放棄がなされる以外に、諸国家を揚棄する方 法はありません。』

『「世界共和国へ」を読む』 を参照してください。)

 柄谷さんの理論は、「外的国家(共同体-即-国家) の棄揚は不可能」ということが前提になっている。 「主権の譲渡」によって「外的国家」の軋轢抗争に 歯止めをかけようと言っている。

 これに対して、ロールズの「民主的社会に最適 の正義構想」は必ずしも「主権の譲渡」を想定し ていない。「内的国家(共同体-内-国家)の真に 民主的な変革によって外的国家は棄揚される」とい うことが、前提になっている。したがって、「主権 の譲渡」に代わる具体的な構想として〈諸民衆の 法〉が提出されることになる。「正義の原理」が 貫徹されている理想の民主的「民衆」(共同体) が形成する民主的な国家は相互に戦争を起こさない 。しかし、民主的に未成熟の国家との止むを得ない 自衛戦争は想定されている。〈諸民衆の法〉の (三)である。

(三)
 諸「民衆」は自衛の権利を保有する。しかし、 戦争(先制攻撃)の権利はいっさいもっていない。


 自衛のための戦争であっても〈諸民衆の法〉 の(六)が適用される。

 諸「民衆」は、自衛のためにやむなく始めたも のであろうと、戦争遂行に課せられた一定の諸制 約を遵守しなければならない。

 「戦争遂行に課せられた一定の諸制約」が、 「正しい戦争のルール」という言い方で、論文 『ヒロシマ発言』(1995年)で提出されている。 まず『ヒロシマ発言』のモチーフを確認しよう。 ロールズは冒頭で次のように述べている。

 ヒロシマへの原爆投下から50年めのこの年こそ、 この攻撃について何を思い巡らすべきかを反省する のにふさわしい時なのである。……私の見解では、 1945年春から始まった日本各地への無差別爆撃と 8月6日のヒロシマ原爆投下とは、ともにきわめて 大きな過ちであって、不正行為と して受けとめてしかるべきである。この私の意見を 裏づけるために、民主的な〔制度と精神を兼備した〕 民衆の戦争遂行を律する 諸原理 - [武力行使の制限・禁止を定める「戦 争に対する法」と違って、いったん始まった武力 紛争においてどのような行動が許されるかを定め る〕戦争における法=武力紛争法 - に関する 私見を、順序立てて説明しよう。

 そしてロールズは、次のような六つの「正しい 戦争のルール」を掲げている。戦争は絶対悪であり、 「正しい戦争」などはないというのが私の立場だ。 理想論として、それはロールズの立場でもあると 私は確信している。原文は「a just war」である。 ここで使われている「just」を、私は「もっとも な(やむをえない)」という意にとりたい。

1【正しい戦争の目標】
 まともな民主社会が当事者となる正しい戦争 の目標は、諸「民衆」の間 - とりわけ目下の 敵との間 - に成立すべき正しくかつ永続的な 平和である。

2【敵国の政情】
 まともな民主社会の戦争相手国は、民主的では ない国家である。このことは、民主的な「民衆」 は相互に戦争を起こさないという事実から帰結す る。

3【戦争責任の軽重を判別する原理】
 戦争を遂行するうえで、民主社会は三つの集団

 ①相手国の指導者と要職者
 ②兵士たち
 ③非戦闘員である住民

を注意深く区別しなければならない。
 こう区別する理由は、〈責任の原理〉に基づい ている。すなわち、交戦国が民主的でない国家で あるため、その社会の非戦闘員・民間人は戦争を 組織し引き起こした張本人ではありえない。戦争 を起こした責任を負うのは、相手国の指導者・要 職者たちであって、彼らは戦争犯罪人と認定され る。民間人には戦争責任は問えない。上級将校を 除外しておくなら、兵士たちも ー 民間人と同 様に - 戦争責任を問われることはない。

4【人権の尊重】
 まともな民主社会は、相手国の非戦闘員、兵士 双方の人権を尊重しなければならない。これには 二つの理由がある。

 まさしく〈諸民衆の法〉に基づいてこそ、民間人 ・兵士ともそうした人権を有しているから、という のが第一の理由。
 第二の理由は、こうした戦時においても人権が 効力を有するという実例をみずから率先垂範する ことによって、敵国の兵士および非戦闘員に人権 の内実を教えるべきだということ。
 そうすることで、彼らは人権の意義を心底から悟 ることになるだろう。

5【戦争目標の公示】
 人権の中身を教えるという4の思想の延長として、 五番めの原理が成立する。それはこうだ

 軍事行動と〔交戦国や国際社会に対する〕声明 ・布告との両面において正義を自負できる「民衆」 は、自分たちが目標とする平和がどのようなもの であるか、自分たちが求める国際関係はどのよう なものなのかについて、戦争中において予め示す べきである。この二点を予示することにより、民 主的な「民衆」は自分たちの戦争目標の性質を示 し、自分たちがどのような「民衆」であるのかに ついても公然かつ公共的な仕方でもって提示する。

 ここまでの五原理はすべて政治家たる者の義務 をも指定・詳述してくれるものではあるが、政治 家の義務はとりわけ4と5の原理に該当する。戦争が どのように遂行されるかということや戦争を終結 させた行動は、民衆の歴史的記憶のなかにしっかり と刻みつけられ、将来の戦争のお膳立てをする場合 もある。したがって、民衆の記憶が再び戦火を交え る口実として動員されないためにも、4および5に 関する政治家としての義務は、つねに念頭におかれ なければならない。

6【目的と手段の選択】
 最後に、実践的な目的=手段の推論が果たすべき 役目についてとくに言及しておこう。戦争目標を 達成するための(あるいは利益以上の害悪をもた らさないための)軍事行動や政策が適切かどうか を判定するのが、そうした実践的推論なのである。 こうした思考様式は - (古典的)功利主義の 論証、費用・便益分析、国益の考量、その他どん なやり方で進められるにせよ ー つねに上述し た五原理の枠内で構成され、それらの原理によっ て厳格に限定されたものでなければならない。 戦争遂行の諸規範が、個々の正当な軍事行動を一定 の限度内にとどめるための境界線を引く。戦争計 画や戦略、そして個別の戦闘行為はそうした限界 の内部に収まるものでなければならない。

 ロールズは前々回で取り上げた四つのタイプの 原爆投下正当論を、6でいう「実践的な目的=手段 の推論」を悪用したものと論難している。
「原爆投下」はなぜ「不正」なのか。

国際関係における「正義論」

 前回、理想論の意義について付言したが、『ロ ールズ』の著者の川本隆史さんが同じ主旨のことを フーコーの言葉を引用して述べている。フーコーは

『自明なこと、公準と思われていることを再度問 いなおし、さまざまな慣習、思考や行動の様式に 揺さぶりをかけ、一般に通用している馴々しさを 一掃し、もろもろの規則や制度をもう一度測定し なおす』作業

を「再問題化」の作業と呼んでいる。

 ロールズの「正義論」は土俵を「他のもろもろ の社会から孤立している、閉鎖的システム」に限 って展開されている。「閉鎖的システム」とは 言い換えると、小さくは家族からはじまって学校 ・会社・各種組合・団体・国に至るまでのあらゆ る「共同体」、およそ人が協働共生すべく寄り集 うあらゆる集団を意味する。

(私は「国」と「国家」を区別して使っている。 「国」とは「国家」形成の基盤としての<協同社 会性の最大かつ最高の範囲>としての<共同体> のことである。)

 この「正義論」の土俵(適用範囲)を国際関係 にまで拡大しようとする試みが、これから紹介す るロールズの論考である。まさに、フーコーの言 葉を借りれば、「国際関係を支配する公準・通念 を揺さぶる」「再問題化」の作業と言ってよいだ ろう。

(「正義論」については 『「アイデンティティ」について』 を参照してください。)

 「国」と「国家」との区別にも関わることだが、 ちょっとこだわりたい用語がある。今回の小表題は 『諸民衆の法』だが、ロールズは始めの頃はこれを 「諸国民の法」と呼んでいた。前者は「the law of people」であり、後者は「the law of nation」で ある。たぶんロールズは、私の「国」と「国家」へ のこだわりと同じこだわりを持ったのだと思う。 訳者はその違いを「民衆」と「国民」というように 訳し分けている。私としては有名なリンカーンの 名言「government of the people, by the people, for the people」の訳「人民の人民による人民のた めの政治」にならって、「people」は「人民」が適 切だと思っている。ロールズは単なる生活者では なく社会問題や政治問題に主体的にコミットする 「people」を想定している。「民衆」ではそうした ニュアンスがそがれると、私には思われる。だが、 ここでは訳者に従って「民衆」のままで続けるこ とにする。また、個々の民衆ではなく、共同体を 構成する「集合」としての民衆を意味する場合は 「」付で書き表すことにする。

 ちょっと横道に逸れるが、ここで思い出したことが ある。沈タロウは「人民」という言葉を蛇蝎の如くに 嫌っている。「人民服」とか「人民公社」とか、中 国で多用されいるのがその理由のようだ。「人民と は共産主義国家の共産主義に染まった国民」と勝手 に解しているようだ。イデオロギーにがんじがらめ になっている狭量で哀れな男だ。文学者が聞いて 呆れる。

 本題に戻る。

 これからの議論では〈原初状態〉という概念がキ ーワードのひとつとなっている。 『「アイデンティティ」について』 から、その定義の部分を、土俵を国際社会に拡大し た場合のことに書き換えて転載しておく。

〈原初状態〉

公理1:「無知のヴェール」
 どの「民衆」も国際社会のうちで自分がどの位 置にあるかを知らない。政治的体制・国際社会での 地位役割・経済的力量・文化的知的力量・軍事力 などの諸力が生来どのように与えられているのか まったく知らない。

 さらにどの「民衆」も自分がいだいている善の 概念や自分に固有な精神的傾向がなんであるかも 知らない。

 つまり、これまでの歴史的経過や自然的環境の 偶然性などの結果によって、どの「民衆」も有利 になったり不利になったりすることはない、とい うことである。

 「原初状態」における「民衆」について、もう 一つの条件が加えられている。

公理2
 どの「民衆」も国際社会の一般的事実や差別 の存在についてはすべて知っていて、しかも、他 の「民衆」の利害に無関心であり、自分の有利な 条件を追求している。

 国際社会に拡大された土俵においては、 〈原初状態〉のもとで「公正としての正義」を討議 ・採択する主体は、諸「民衆」の代表者(想定上の) たちである。それぞれの「民衆」の所属する共同体 (社会)の政治体制については、必ずしもリベラル な政体とは想定されていない。多様な政体があり得 るという条件のもとで討議される。そして、どの 「民衆」も〈原初状態〉で討議に参加しているという 点が肝要である。

 諸「民衆」による〈原初状態〉での討議よって採 択されるであろう合意点を七点、ロールズは導出し ている。それは自由で民主的な「民衆」の間で妥当 なものとして合意される「正義の原理」であり、 これをロールズは〈諸民衆の法〉と呼んでいる。 (以下、私なりの 理解を加えて、分かりやすく書き換えている部分が ある。原文に当たっているわけではないので、もし 誤りがあれば、責は私にある。)

(一)
 どの「民衆」も自由であり、かつ独立した存在で ある。その自由と独立は他の「民衆」の尊重を受け る権利がある。

(二)
 諸「民衆」は平等であって、自分たちの合意を 取り決める当事者である。

(三)
 諸「民衆」は自衛の権利を保有する。しかし、 戦争(先制攻撃)の権利はいっさいもっていない。

(四)
 どの「民衆」も他の「民衆」の社会に介入しな い義務を遵守しなければならない。

(五)
 諸「民衆」は条約および約定を遵守しなければ ならない。

(六)
 諸「民衆」は、自衛のためにやむなく始めたも のであろうと、戦争遂行に課せられた一定の諸制 約を遵守しなければならない。

(七)
 諸「民衆」は人権を最大限に尊びその要求に応 じなければならない。


 この〈諸民衆の法〉においては(七)の 「人権」の保障が全体を貫く最重要理念である。 ここで「人権」は次の三つ事項の大事な指標と しての役目を担っている。


 「人権」は、「ある政治体制が正統でありその 法秩序がまともである」と評価されるための必要 条件である。


 「人権」は、他の「民衆」から加えられる 正当かつ強制的な介入(経済的制裁や軍事介入) であってもそれを排除しうるための十分条件である。


 諸「民衆」の多元的共存状態はただ無条件に 放置されるのでなく、「人権」の観点からは一定 の制限を賦課できる。


 以上は、1993年に行われたアムネスティイン ターナショナルでの講演「諸民衆の法」の川本さん による要約である。この項を川本さんは次のように 結んでいる。

 結語では、リベラルな理念から引き出された 〈諸民衆の法〉が、エスノセントリズム(自文化 中心主義)を免れているのか、たんに西洋的な価 値観の押し売りにすぎないものではないのかとい った自省的な問いが取り上げられる。「この法は エスノセントリズムではない。そこに西洋中心の 偏向があるとは必ずしも言いきれない」というの が(おおかたの予想どおり?)ロールズの回答で ある。この〈諸民衆の法〉こそまさに「穏当な多 元主義」を背景に鍛え上げられてきた政治的リベ ラリズム(リベラルな正義の政治的構想)の所産 であるからなのだ。

 ロールズの国際関係の理解から、非現実的な楽 観論や度しがたい西洋中心主義を摘発することは たやすい。だが、この〈諸民衆の法〉は『正義論』 で名を成した著者が老いの手慰み、あるいは思い つきとしてしゃべった机上の空論ではない。この ことだけは注意しておきたい。なぜなら彼はこの 〈諸民衆の法〉を活用して、半世紀前のアメリカ の戦争責任を問いただそうとしているからだ。そ れが(何度か予告してきた)ロールズの「ヒロシ マ発言」にほかならない。

 私はここで「穏当な多元主義」という理念に 注目したい。国家により権力的に全てを一色に染 め上げた国を「美しい国」と詐称する狆ゾウや 沈タロウのイデオロギー、あるいはアメリカの価 値観・都合を他国に武力で押し付けようと殺戮を 平気でおこなうブッシュのイデオロギーの対極に ある理念だ。

 古田さんの古代史が豊穣なのは、その「多元的 歴史観」による。

 いま佐藤優さんが面白い(肯定する部分も 肯定できない部分も含めて)。私が面白いと思 う理由は、佐藤さんが右翼を自称しているにも かかわらず、その論考に底流している「多元 主義的な寛容さ」とラジカル(根源的)な思考 姿勢にある。その2点が堅持される言論の場は、 右翼とか左翼とかのレッテルが無意味になる地 平である。佐藤さんの論考をいずれ取り上げた いと思っている。
『「原爆投下」はなぜ「不正」なのか。』

原爆投下正当化論(2)

 ロールズの「正義論」は自らが規定しているよう に「理想状態を想定し、そこだけに当てはまる理論」 である。その理論を現実の政治へ適用したのが「ヒ ロシマ発言」(1995年)であり、そこではアメリカ の戦争責任を問いただそうとしている。この場合も 「理想状態を想定」して議論を進めている。

 本題に入る前に「理想論」についてひとこと言っ ておきたい。「そんなの、しょせん理想論に過ぎな いさ。」という評言をよく耳にする。理想論は果た して「しょせん理想論」だろうか。

『花田清輝よ。この長い歴史のなかには、組織のな かで凄んでみせる革命家もいるが、また、組織のそ とでのんべんだらりとしている革命家もいるのだ。 何処に? 日向ぼっこをしている樽のなかに。蛛蜘 の巣のかかった何処か忘れられた部屋の隅に。そん なものは革命家ではない、と君はいうだろう。まさ しく、現在はそうでないらしい。だが、それをきめ るのは未来だ。ひとりの人物が革命家であるかない かの判定は、彼が組織の登録票をもってるか否かで なく、人類の頭蓋のなかで石のように硬化してしま った或る思考法を根こそぎ顛覆してしまう思考法を 打ちだしたか否かにかかっている。』 (埴谷雄高『永久革命者の悲哀』より)

 上の文章は自称革命家・花田清輝に向かって発言 されたものだが、もちろん、普遍性を持つ見解だ。

 実際の政治運動や社会運動に全力で携わっている と自負している者には、往々にして、理論家(理想 家あるいは夢想家と言ってもよい)を見下す言説が みられる。しかし、「人類の頭蓋のなかで石のよう に硬化してしまった或る思考法を根こそぎ顛覆して しまう思考法を打ちだ」すような思想こそ、世界を 根底から変革する力を秘めている。実践家が世界を 変えるのではなく、硬化してしまった思考法を根こ そぎ顛覆してしまうような新しい思想が、新しい革 新的な実践家を生む。

 原爆論争に対するロールズの思考実験が硬化して しまった原爆論争を根こそぎ顛覆するほどの力を秘 めているか否かは、私ごときのよく論ずるところで はない。ただ、そこからなにかを学び取ろうとする ばかりである。

 さて、ロールズはアメリカにおける原爆投下正当 論を大きく四つのタイプに分けて整理している。

(1)
 なによりもまず、戦争の終結を早めるために原爆 が落とされた。
 トルーマンおよび連合国リーダーの大半は、明ら かにそう考えていた。

(2)
 原爆が多くの生命を救った。
 ここでいう生命とは、アメリカ軍兵士のそれであ る。戦闘員であれ民間人であれ日本人の人命は、お そらく米兵に比べるとほとんどとるにたらないもの とみなされていた。

 (1)と(2)の推定(計算)が、お互いに支えあって 投下を功利主義的に正当化している。

(3)
 「日本本土の迅速かつ完全なる壊滅」を警告した ポツダム宣言どおりに原爆が投下されたことで、天 皇と日本の指導者たちは面目を保ちながら「無条件 降伏」を受諾するための退路を手に入れることがで きた。

(4)
 ロシア人たちにアメリカの国力を印象づけ、アメ リカ側の要求に応じやすくするために、原爆を落と したのだ。

 以上がロールズが抽出したアメリカ内で流布され ているアメリカ側からの正当化論だが、最近の論調 から2点追加しておきたい。

 久間「しょうがない」発言に前後してアメリカの ジョセフ核拡散担当大使が「(原爆投下は)何百万 もの日本人の命がさらに犠牲になるかもしれなかっ た戦争を終わらせた」と発言した。上記の(2)の計 算内に、ありがたくも日本人の生命も付け加えてく れた、というわけだ。

 久間「しょうがない」発言には、公式に発言され たことはないが、はからずも日本の支配階層の中で 共通認識になっていると思われる正当化論の一つが 内包されている。久間の発言には次のようなくだり がある。

『米国はソ連が参戦してほしくなかった。日本の戦 争に勝つのは分かった。日本がしぶといとソ連が出 てくる可能性がある。ソ連が参戦したら、ドイツを 占領してベルリンで割ったみたいになりかねないと いうようなことから、(米国は)日本が負けると分 かっていながら敢えて原子爆弾を広島と長崎に落と した。長崎に落とすことによって、本当だったら日 本もただちに降参するだろうと、そうしたらソ連の 参戦を止めることが出来るというふうにやったんだ が、8月9日に長崎に原子爆弾が落とされ、9日に ソ連が満州国に侵略を始める。幸いに北海道は占領 されずに済んだが、間違うと北海道はソ連に取られ てしまう。』

 日本を共産化から救ったという論法である。 「支配者の心性」 で取り上げたように、敗戦間近になると日本の支配 階層の中では国民への猜疑心が高じて、「資本家と 貴族を除いたほかは、活発な人々は誰もかれもがぜ んぶ共産主義者」と思い込むほどに、共産主義を、 それこそマンガ的に、恐れていた。

 ところで、「しょうがない」発言は久間が初めて ではなかった。それはヒロヒト(昭和天皇)をもっ て嚆矢とすることを、久間発言の全文を検索してい て偶然ヒットした天皇教信者たちの掲示板で教えら れた。

 ヒロヒトが1975年にアメリカ訪問から帰国したと きの記者会見で自らの戦争責任を問われたとき、ヒ ロヒトは「そういう言葉のアヤについて、文学方面 はあまり研究していないのでお答えできかねます。」 と答えて大方の失笑と大きな怒りをかった。この発言 を題材にした茨木のり子さんの詩を 「詩をどうぞ(2)」 で紹介した。

 この同じ記者会見でアメリカの原爆投下について ヒロヒトは次のように答えている。

『エー、原子爆弾が、エー、投下されたことに対し ては、エー、エー、遺憾には思ってますが、エー、 こういう戦争中であることですから、どうも、 エー、広島市、市民に対しては気の毒であるが、 やむをえないことであると私は思ってます。』

 「言葉のアヤ」発言は多くの人が取り上げて論 じていたので私の記憶にも残った。しかし上記の 「やむをえない」発言は当時はあまり問題にされ なかったのだろうか。私の記憶には全く残ってい なかった。

 上記の発言記録は、ビデオ記録の音声を「エー」 まで丁寧に採録したものである。そして、この発言 に対して、信者同士でいろいろと擁護論をやり取り している。その中の主導的な役割をしている意見を 転載しておく。擁護論を展開するためには、 「エー」まで拾っておく必要があるのだった。

 記者はどういうつもりで何と聞いたのか知りませ んが、陛下を窮地に立たせる質問でしたね。まさか 「アメリカの原爆投下については国際法上許されな い残虐行為だと思います。」とは答えられません。

 ピデオを見ても緊張して、エーを連発して答えて おられますね。「戦争中であることですから、…や むをえないことであると私は思ってます。」原爆を おとした事がアメリカの視点からやむをえない、正 当化出来るというのではなく「戦争中であること」 つまり戦争中には仮に良い人であっても敵に残虐行 為をするのは残念ながらよくあることなので(とア メリカの責任をぼかして)「やむをえないことであ る」とある意味「あいまいな日本語」を駆使して見 事にかわされたように思います。

 いずれにせよ、その時、その場、そのお言葉の重 みを十分に認識されて、ノーコメントすら日米親善 を害すると知り、苦しい答えをされた昭和天皇と、 言いたいことをその影響も考えずに放言する口の軽 い大臣達と同列にあつかって比較できるものではな いと思います。


 「国体護持」のために、言い換えれば日本の 支配階層の自己保身のためにポツダム宣言受託を 引き伸ばしていたことが原爆投下を誘引したこ とには知らん振りして、よく言うね。

 「戦争中には…敵に残虐行為をするのは残念な がらよくあること」とヒロヒトの軍隊の残虐行為 を免罪しておいて、敵の原爆投下という残虐行為 を論難できるはずがなかろう。こういうのを「贔 屓の引き倒し」と言うのだろう。

 このヒロヒトの「やむをえない」発言と「言 葉のアヤ」発言とは相乗されてその欺瞞ぶりは いよいよ大きい。侵略戦争を遂行した日本帝国 軍隊の総帥(大元帥)として、実に国民をバカ にした無責任は発言だ。その重さは、62年後の 一介の大臣・久間の発言の比ではない。

 私の記憶には残っていなかった問題発言、実に 貴重なこの事実を掘り起こしてくれてありがとう、 と天皇教信者さんにお礼を言っておこう。

「原爆投下」はなぜ「不正」なのか。

原爆投下正当化論(1)

 前々回の「今日の話題」で私は次のように書いた。

 広島・長崎への原爆投下が許されない「不正」であること を、まるで自明のように言い立てる言説が多く報道されてい るが、では、なぜそれが「不正」なのか、理論的に解明して いる言説はない。

 私は「原爆投下は許されざる不正である。」という命題を 「自明ではない」と主張しているわけではない。「原爆は 絶対悪だ」というようなことをただ言い立てているだけでは、 それは「自明のこと」と確信している者のうちだけにしか 流通しないだろうと言いたいのだ。言い換えると、 原爆投下を「しょうがない」と考えている人たちの思想と は切り結べない、ということだ。

 問題点がもう一つある。「原爆投下は絶対悪だ」と主張し ていても、「戦争そのもの」を「悪」とは考えないか、ある いは「悪」としても「必要悪」と考える人もいる。これらの 人たちは原爆(核兵器)を用いない戦争であれば、それこそ 「しょうがない」というのだろうか。

 今日は長崎で平和祈念式典がおこなわれた。そこで の平和宣言では「核兵器の廃絶と恒久平和」の祈念は 謳われているが、戦争そのものへの言及は一言もない。 また、外国人被爆者への言及もない。6日の広島の平和宣言も同様である。このことに問題を 感じるのは、私だけだろうか。 「大東亜戦争」では 約二千万人のアジア人が殺されている。いまなおな毎日 戦争の名の下で民衆への理不尽な殺戮がおこなわれている。 日本国内向けのメッセジーならいざしらず、これでは世 界に向けてのメッセジーとしては通用しまい。 (首相・狆ゾウの挨拶の 空々しさについては別に論じたい。)

 原爆の「悪」以前に、「戦争そのもの」の「悪」が問題とされる べきだろう。しかし今は「広島・長崎の原爆投下」の是非に 問題を絞っていきたい。つまり、私としては「戦争そのもの」 を否定する立場をとりたいのだが、今は戦争遂行中における 原爆の使用の是非を問うことになる。なぜなら、「しょう がない」と原爆投下を容認する考えは戦争状態を前提にした ときの判断なのだから。実際、主としてアメリカで流布され ている原爆投下正当論もそのような土俵で行われている。 彼らに「原爆は絶対悪だ」と主張しても無意味だろう。

 これから紹介するロールズの『ヒロシマ発言』と呼ばれて いる論文も「戦争状況においてどのよ うな行為が許されるか」という問題として論じている。 (川本隆史著『ロールズ 正義の原理』を教科書として使 用します。以下『ロールズ』と略記します。)

 ロールズが「ヒロシマ発言」を書くことにいたるきっか けはスミソニアン博物館(ワシントン)での原爆展をめぐる論争 だった。『ロールズ』から引用する。

 1994年から95年にかけて、首都ワシントンにあるスミソ ニアン博物館が企画した「戦後五十年記念展」をめぐる論 戦が、アメリカ国内で火花を散らした。当初は、ヒロシマ の原爆資料館から借り出した品々を軸に被爆の実態を反省 し、かつ二つの原爆投下が大戦後の東西冷戦にむかう分岐 点を画しているとの歴史観を明示したプランだった。

 ところがこの原案に保守派の政治家や在郷軍人の組織が 激しくかみついた。いまさら日本人に原爆投下を謝罪せよ というのか。真珠湾を抜き打ち攻撃した彼らの不正は、ど う始末するのか……。

 こうして、1945年8月6日と9日にヒロシマ、ナガサキの 市街地に原子爆弾を投下したことがはたして正しい選択だっ たのかどうかが、争点としてせり上がっていった。

 しかしながら論議の大勢は、投下が戦争終結の手段とし て有効だったかどうかに終始し、原爆の使用を倫理面から 反省する向きはほとんど見られなかった。そして展示計画 も大きく縮小され、ヒロシマに原爆を落とした爆撃機エノ ラ・ゲイ号の機体がなんとその中心に据えられたのである。

 ちなみに、時のスミソニアン館長は辞任に追い込まれている。

 スミソニアン博物館での原爆展をめぐる論争は、 もちろん、日本にも大きな波紋を呼び起こした。 日本国内でもあらためて原爆投下をめぐって加害・ 被害両方の面から検証が行われた。

 1995年8月5日、神戸YMCAが『ロールプレイ 「日米原爆論争」』という学習会を企画実施している。 「ロールプレイ」とあるが、現在一般に使われている 用語で言うと「ディベート」である。このディベートでの 「役割シート」は原爆論争の主な意見を集約したもの として参考になると思う。次のような立場の人たちが想定 されている。

アメリカ退役軍人
植民地の戦争被害者(韓国人)
真珠湾犠牲者の家族(アメリカ人)
戦後補償を問う活動家(日本人)
戦後生まれの高校生(アメリカ人)
被爆二世(後遺症)

 これらの人たちの意見を聞いてみよう。 それぞれの「役割シート」を転載する。

アメリカの退役軍人

ウイリアム・クリストファーソンさん 71歳・男性)

◆プロフィール

 私はアメリカ軍人として,先のアジア太平洋戦争で戦いました。真珠湾攻撃の半年後,高校卒業一ヶ月前に徴兵され,終戦までの約三年間にフィリピンのレイテ島で日本軍と戦いました。あの時の恐怖は今も脳裏に焼きついて離れることがありません。現在は全米退役軍人協会のユタ州支部長をしています。

 11年前に長崎の原爆資料館を訪れたんですが,原爆の被害を強調する展示ばかりで,さもアメリカが悪いといわんばかりで強い憤りを覚えたんです。それに加えて,周りにいた日本人の冷たい視線が追い討ちをかけるようでした。

 長崎市長は「原爆投下はナチスによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)に匹敵する」と発言したそうですが,日本がアジアの国々の人たちや捕虜に対して犯した残虐行為は無視してよく平気で言えたもんですね。日本はアジア・太平洋の国々を侵略し,南京では大量虐殺を行っているんですよ。むしろその数の方が,原爆の犠牲者よりも多いのではないですか。

◆意見

     スミソニアン博物館での原爆展示には断固反対です。なぜなら歴史的な正確さを欠いた内容ですし,原爆による死傷者の数ばかりに固執し,そこに至った日本の責任には一切触れていないからです。そもそも戦争を始めたのは日本で,アメリカではないんですから。あの真珠湾攻撃さえなければ,我々は原爆を作ることもなかったのです。日本は真珠湾攻撃の謝罪すらしないのですから話になりません。

     戦争中,日本では最後の一人になるまで女も子どもも戦おうとしていたんですよ。戦争が続けばもっとたくさんの死者が出たはずです。博物館の館長は「原爆を投下せず,日本上陸作戦を行った場合のアメリカ兵の犠牲者の数は63,000人」と予想しましたが,私たちの分析では「少なくとも100万人以上」であり,あまりにも少なく思います。原爆投下により,日本での無益な地上戦(玉砕戦)が避けられ,多くの人命が救われたんですから。

     もし日本が戦争に勝っていたなら,われわれは今どうなっていたことでしょう。われわれは戦争に勝利した後も,敵国日本の再建に協力してきたおかげで,日本は世界有数の経済大国として繁栄しているんですよ。こんな国が他にあると思いますか?



韓国人女性

チョウ・スンヒさん (84歳・女性)

◆プロフィール

 1943年2月14日のことでした。当時私は釜山に住んでいたのですが,突然日本兵が土足で家に押し入り,14歳の娘を連れ去ろうとしたんです。気丈な娘が泣き叫んで抵抗したら,その場で日本刀で切りつけ惨殺してしまいました。また,その光景を見ていた結婚前の17歳の娘は,あまりのショックに精神的なダメージを受け,今も重い障害となって心を閉ざしたままです。

 あの時,四人の日本兵がやって来なければ,二人の娘たちはこんなことにはならなかったんです。さらに不幸なことに,一家を支えてくれていた主人は,徴用ということで強制的に日本に連行されたんです。たしか二・三度便りはあったんですが,今では生死も分からずじまいです。おそらく残酷な労役につかされ生きてはいないでしょうね。

◆意見

     私は日本が原爆を落とされたのは「天罰」だと思っています。たくさんある国の中で日本にだけ原爆が落とされたのは当然ですよ。あの日も,二人の娘を無理やり連れ去ろうとする日本兵に,代わりに私を連れていってくれと懇願しましたが,若い娘がいるんだからといって容赦してくれませんでした。獣の目をしたやつらは,泣き叫ぶ娘の衣服を剥ぎ取りむごい蛮行におよび,その上に命まで奪ったんですから。悪党は世の中にたくさんいますが,やつらは悪党よりひどい。悪党は人間ですが,やつらは人間じゃない。

     あの忌まわしい事件の後,娘と一緒に自殺しようと考えたこともありましたが,こうして生き延びたのは,日本に「天罰」が下るのを見届けるためだったんだと思うようになりました。今度の展示でも原爆の悲惨さを訴えようとしているそうですが,私にはその無神経さが理解できませんね。

     スミソニアンの原爆展示を支援する声が日本にはあるそうですが,その前にアジア・太平洋の人々にしてきたことを見つめ直してほしいものです。広島・長崎の原爆死傷者の約一割は同胞の韓国・朝鮮人で,ほとんどは連行され日本のために働いた人なのに,いまだに被爆者としての補償は不十分なんですから。



真珠湾犠牲者の家族

マイケル・モリスさん (68歳・男性)

◆プロフィール

 あれは私が14歳の時でした。それは平和に暮らしていた私たちにとって忘れられない事件です。128日の夜明けは真っ赤に燃える炎と爆音に包まれました。日本の海軍奇襲部隊が真珠湾を急襲したのです。宣戦布告もなく,寝静まったアメリカ軍を襲った卑劣な手段は許されません。

 私たち家族にとってもっとも大きな悲しみは,この急襲攻撃によって愛する兄テリーを亡くしたことです。兄は当時19歳でした。自ら海兵隊に志願し,戦艦アリゾナの水兵として乗艦中に被災しました。戦艦アリゾナは1000名を越える海兵隊員とともに海底に沈み,50年以上たった現在も,遺体は回収されぬまま戦艦の中に残され,海兵隊員の涙のように重油をポタポタと流しているのです。

 日本の卑劣な急襲攻撃,そしてアジア・太平洋の国々で行った野蛮な侵略行為は許せません。アメリカが原爆を投下して愚かな戦争を終わらせました。だから日本の原爆被害ばかりを強調する今回の展示には納得ができません。

◆意見

*            もし,原爆を投下しなければ愚かな戦争はもっと多くの戦死者を生んだのです。原爆で多くの犠牲者が出たといわれますが,アメリカは再三避難勧告を行い,非戦闘員への避難の時間を与えているのです(それを無視したのは日本の軍部です)。しかし,真珠湾は奇襲攻撃であり,逃げるどころか一方的な攻撃を受け,私の兄は戦艦とともに撃沈されたんですから。どちらが人道上正しいか,明らかだと思うんですが。

*            奇襲攻撃がなければ,私たちハワイの住民は平穏で平和な暮らしを続けることができたのです。一瞬にして私たちを戦争という野蛮な現実に引き入れ,また愛する家族を奪ったのはすべて日本の責任です。いまだに謝罪もなく戦争の被害ばかりを主張する日本が信じられません。たしかに原爆による被害があったにせよ,まず原爆の被害を訴えるなら加害者としての姿勢を正してほしいですね。

*            アメリカは愚かな戦争を終わらせるために,神の裁きとして原爆投下を決意しました。そこには加害者,被害者は関係ありません。戦争終結という双方の願いを実現したのです。戦争で人が死ぬのは仕方のないことです。それよりも終わらせたことを評価すべきじゃないでしょうか。



日本の戦後補償を問う市民の会メンバー

市村頼子さん (29歳・女性)

◆プロフィール

 私が日本の戦後補償に関心をもつようになったのは,二年前に韓国人の女性たちが自ら「従軍慰安婦」として勇気をもって名乗られてからです。それまでの私は,そういったことには全然興味もなく,ごく普通のOLだったんです。ところがテレビで彼女たちが泣きながら日本軍や当時の日本が犯した罪を訴える姿を見て,自分はなんて無知なんだろうと恥ずかしくなりました。そういうわけで私は「日本の戦後補償を問う市民の会」に入り活動するようになりました。

 二年前に細川元総理がこの戦争は侵略戦争であったことを認めましたが,政権が代わりその後の補償については何ら進展がありません。「従軍慰安婦」の問題にしても,長い間日本政府はその存在すら認めませんでしたが,諸外国の抗議によってようやく認めるようになったのです。強制連行,強制労働などの被害についての戦後補償に関しても国と国の間ではすでに解決したとのことで,人々には何も償われていないんです。

 アメリカの原爆投下の是非,そしてその責任を問うのならば,同様に日本の戦後補償についてもきっちりとその責任を果たすべきです。そのためにも,今回の展示はぜひ実施してもらい日本政府に訴えてほしいです。

◆意見

*            今回の日本の被害を強調する原爆展示が中止と聞いてびっくりしています。その後も博物館には,中止賛成の投書が殺到しているそうですが,それを聞いて原爆投下のよい面など考えたこともなかった私は,日米の戦争についての歴史観の違いを痛感しました。

*            アメリカ国民の多くはこの原爆投下が第二次世界大戦を終わらせたと思っていますし,日本に侵略・占領されたアジアの国々の人々は原爆投下が「アジアの解放」につながったと信じているんです。原爆投下による一般人の大量殺りくの非を問うなら,日本軍がアジア諸国で行った数々の大量虐殺や,現在求められている戦後補償も同じ視野に入れて考えないと理屈に合わないと思うんですが。

*            アメリカ国民の多くは「正義の戦い」と認識しているらしいですが,原爆投下に関しては加害者の視点が必要ですし,ある説では人体実験の要素もあったと聞いています。それを裏づける事実として,その後もアメリカは太平洋ミクロネシア諸島で数多くの原水爆実験を行っていて,被爆者に対する観察を続けているんです。



アメリカの高校生

キャサリン・オットーさん (16歳・女性)

◆プロフィール

 私の祖父は第二次世界大戦の退役軍人ですが,彼は,日本上陸後の戦争でさらに多くのアメリカ人が戦死するのを防いだということで,原爆投下は正しかったと経験上思っているんです。そして父は,ベトナム戦争の体験者です。ベトナム戦争でのアメリカの参戦は本当に正しかったのか,政府の対応はよかったのか,多くの死者を出しアメリカが負けたベトナム戦争に疑問をもっています。そんな父は,原爆投下についてもアメリカの決定は本当に正しかったのか疑問をもっているようです。

 そんな背景の祖父,父をもつ私は戦争についていろいろと考えさせられます。第二次世界大戦もベトナム戦争も知らない私たちの世代は,もっともっと体験者の話を事実を知るべきだと思うんです。今回の原爆展示も,何も知らない若者としてぜひ実現してほしいと思っています。

◆意見

*            祖父と父が以前戦争のことで真剣に議論したことがありました。祖父はアメリカ政府はいつも国民を第一に考えて,戦争を早く終わらせてアメリカ軍の犠牲者を少なくするために原爆投下を決断したと主張し,父はベトナム戦争で若い命がたくさん失われた事実から,アメリカ政府の決定はいつも正しいとは限らないし,原爆投下についても,アメリカ人にはその悲惨な状況が正しく伝わっていないのでは,と言うんです。

*            私は原爆のことは教科書で読んだ程度でしか知りません。学校でもこの部分の授業は一時間ぐらいでさっとするだけでしたから,多くの若者は原爆といっても何のことかよく分かっていないと思います。同じようにベトナム戦争のこともよく知らないのです。だからこそ今回の原爆展示はぜひ実施してほしいです。事実を知るべきじゃないでしょうか。

*            実際私の友だちには,いまさら原爆なんてどうでもいいわという人が多いですが,だからこそ今回の展示は意味があると思います。展示を見て若者が原爆とか戦争とかについて考えるきっかけになると思うし,原爆の被害をもっとアメリカ人が知ったなら,核問題についても,また違った考えをもつことができると思うんです。



被爆二世

吉川京子さん (42歳・女性)

◆プロフィール

 私の父は,呉海軍工廠に学徒動員で働いている時に広島の原爆を知り,翌日から広島市内の家族の安否を確かめるため出かけ,二次放射能で被爆しました。

 私は友人の中では明るくて活発な方で,高校では生徒会活動に没頭し,文化祭では生徒会主催の原爆展を実施し,被爆者の実態調査を家族や本人が原爆症で苦しんでいる同級生たちの協力をえて行いました。高校3年生の夏休みのことでした。私は突然のめまいに襲われ倒れてしまったんです。検査の結果白血病と分かりました。でも私は絶対に治ると信じて弱音を吐かずに治療を続けました。友人の励ましもあり,数年の入院の後,友人が大学を卒業するころ退院しました。その後は,三年に一度の割合で入退院を繰り返して現在に至っています。

◆意見

*            スミソニアン博物館では,被爆者の遺品・写真・証言は必ず展示してほしいです。その時は,私自身も展示してもらい,生きた証言者として来館する人々に原爆の恐ろしさを語り伝えたいです。原爆症で苦しみ続けた父のこと,被爆二世の私の歩みを聞いてもらいたいです。

*            高校3年生の夏,私の中に原爆が落とされました。充実した楽しい学校生活の上に突然原爆の黒い雨が降り注ぎました。この雨は私の体にしみ込み,自分の子や孫までも苦しめるのです。今も毎日大勢の修学旅行生や観光客が原爆平和公園を訪れます。しかし,被爆した人々の苦しみを本当に理解して帰るのでしょうか。

*            原爆は人間が作ったものなので,原爆症は治せないはずはないと思います。父の後遺症とともに育った私はできるなら医者になりたいと思っています。この原爆症のせいで,現在まで定職につくこともできず,結婚も三度破談になりました。原爆は人の命を奪い身体をむしばみます。そして,原爆症は人の人生を朽ちさせるのです。

第844回 2007/08/08(水)

詩をどうぞ

『戦争、そして原子爆弾』

 今年も暑い夏だ。ますます暑い夏だ。広島忌、長崎忌。 私たち一般民衆の真摯な思いと、為政者たち欺瞞に満ちた 口説との齟齬がギシギシと音を立て、軋轢がメラメラと炎 を上げる。

 そして敗戦記念日。政府は「君が代」で天皇・皇后を 迎え、「戦没者慰霊」と称した「終戦」記念日の欺式を 麗々しく執り行なう。私たちとの齟齬軋轢の音と炎はい よいよ大きく高くなり、最高潮に達する。

 だが、例年のように、その音も炎もすぐに立ち消えて、 私たちの真摯な思いは何もなかったように再び 「日常という安逸」の中に埋もれてしまう。

 「日常という安逸」を責めているわけでもなく、また それは責められるべきものでもない。常にツッパッテいて は生き続けられない。私たちに「日常という安逸」は必 要だ。それは豊穣の可能性を孕む大地でもある。

 でもせめて、「日常という安逸」の中にあっても、私た ちの真摯な思いを何度でも何度でも思い起こしたい。 戦争とは何なのか、原子爆弾とは何なのか、何度でも何度 でも問い直していきたい。


戦争の詩3編

戦 争  北川冬彦

 義眼の中にダイヤモンドを入れて貰ったとて、
何にならう。苔の生えた肋骨に勲章を懸けたと
て、それが何にならう。

 腸詰をぶら下げた巨大な頭を粉砕しなければ
ならぬ。腸詰をぶら下げた巨大な頭は粉砕しな
ければならぬ。

 その骨灰を掌の上でタンポポのやうに吹き飛ば
すのはいつの日であらう。



戦 争  金子光晴

千度も僕は考へこんだ。
一億とよばれる抵抗のなかで
「なにが戦争なのだらう?」

戦争とは、たえまなく血が流れ出ることだ。
そのながれた血が、むなしく
地にすひこまれてしまふことだ。
僕のしらないあひだに。僕の血のつゞきが。

敵も、味方もおなじやうに、
「かたなければ。」と必死になることだ。
鉄びんや、橋のらんかんもつぶして
大砲や、軍艦に鋳直されることだ。

反省したり、味ったりするのは止めて
瓦を作るやうに型にはめて、人間を戦力として
 おくりだすことだ。
十九の子供も。
五十の父親も。

十九の子供も
五十の父親も
一つの命令に服従して、
左をむき
右をむき
一つの標的にひき金をひく。

敵の父親や
敵の子供については
考へる必要は毛頭ない。
それは、敵なのだから。

そして、戦争が考へるところによると、
戦争よりこの世に立派なことはないのだ。

戦争より健全な行動はなく、
軍隊よりあかるい生活はなく、
また戦死より名誉なことはない。
子供よ。まことにうれしいぢやないか。
互ひにこの戦争に生れあはせたことは。

十九の子供も
五十の父親も
おなじおしきせをきて
おなじ軍歌をうたって。



一九四三年、冬の手帳
 -ある牧師の思い出-  千早 耿一郎

かなしい文字たちの
その風よりも
しずかな姿勢よ。
四角いきちょうめんな文字たちよ。
それらぎっしりつまった手帳の
そのしみのかたちづくる
肖像は
まっすぐに顔をあげて
すべての愛を信じているのか
光を確信しているのか。
ざくろのように割られた頭は
ゆがんでいる。
しかし風よりもしずかな姿勢よ。
一九四三年、冬。
召集令状を手にして、あなたは
まっすぐに憲兵隊に出頭した、
帽子もかぶらず家を出たが。
祖国をおおうなまぐさい風の中に
その文字の嗅覚は
いかにせつなくふるえていたか。
「人は人のために狼であってはならない」
「神の愛のために
 さいごの良心を守らねばならない」
と、手帳のことばは終っていた。
雲はうつくしくかがやいていたが
あなたはついに帰らなかった。
 貴家の家族と思われる
 行路病人の死体を預り居候間
 至急引取方出頭相成度
枯葉のように飛びこんだ
一片の通知状。

雲はうつくしくかがやいていたが。
その日はしずかに閉されていた。
ああそれは「行路病人」
ざくろのように割られた額の
しかし風よりもしずかな姿勢よ。
ぎっしりつまった文字の
友人の名から娼婦の住所まで
大根にんじんの配給から教会の雨もり修理
 の工面のことまで、
その文字文字にかさなり
最後の良心のあとにうずく
あついものかなしいもの。
それら吹きとじられた世界の
囚われの文字よ
目白おしの誠実さよ、
しかしそのしずかな文字たちは
自分の手にする銃で
他の誰をも殺す権利のないことを
人しれず訴えていた。
それは一九四三年、冬の証左。

その日から六年、
あなたののこしたたった一人の子供は
いま新しい墓石のそばで
草に手を染めている。
みひらかれゆく世界のやわらかな瞼よ。
瞼にあふれる
かなしい文字たちの
風よりもしずかな姿勢よ。



原爆の詩3編


コレガ人間ナノデス  原 民喜

コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス



仮繃帯所にて  峠 三吉

あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち

血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
糸のように塞いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう

焼け爛れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める

何故こんな目に遭わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない

ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)

おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を


追う者  長谷川竜生

アメリカの家庭に
戻り住んでいるか
あの太平洋の島にいるか
おまえを、探しだしたいのだ。
あのとき、島の墓地から
いつ飛び立ったか
おまえのネームは、何んというか
あい乗りしていた飛行士たちは
だれとだれとだれだったか
八月六日 朝の九時半だ
日本広島の上空から
第一号の原子爆撃をやりとげ
何十万の人間たちを一瞬にして
光の中に焼け爛れさし、殺し
巻雲をこえて、ゆうゆうと帰路についた。
おまえたちは祝杯をかざした。
つよい酒は溢れていたか、濁っていたか。
戦争だからと、すべてを打消し
大いなる戦果に酔い痴れていたか
せつに探しだしたいのだ
おまえたちはだれとだれだったか
なぜに魂をふるわす行動にでたのか
そうだ、おまえたちは命令という
だれが命令したのか、いかなる人物か
いかに命令が伝達されてきたのか。
その上官もいうだろう
絶対であり、服従しなければならぬと
飛行士たちと上官をつれて
その絶対者を探し究めよう
おまえを支配していた奴のネームは
その権力の手はだれとだれだったか
権力者をつれて探しだすのだ。
作戦本部がだれとだれとだれかと
さらに深く掘り下げて、迫っていく
いっさいを操っていた上部機関は
だれとだれとだれだったか、そのネームは
長官もいる 将軍もいる 技術家もいる
背後にある資本家、戦争科学者のネームは
だれとだれとだれだったか。

おまえたちには
罪の意識すらなし
アメリカの各州には
幾万のチャーチがあり
原爆の跡にもチャーチが建ったが
おまえたちの暴力はさらにつよい
おまえたちは原子爆弾を
第二号、第三号、第四号と
つぎからつぎへと命令し
命令されたものが命令し
最後にえらばれた数名のサヂストが
おまえたちの利潤、ひたすらな利潤のため
おまえたちの市場をひろげようと
機上の人となり、何十万の人間を殺す。

だが、おまえたちは
矛盾におちいっている。
人間を抹殺できない
俺たちを抹殺できない
俺たちとは、だれか
俺たちとは追う者、追いかける者だ。
おまえたちの犯した事実を血まつりにあげて
おまえたちの生涯を審判する者だ。
生きのこった広島の人たちよ
いたずらに傷ぐちをみせて
嘆いてはだめだ。泣いて訴えるな
だれとだれとだれだったか
探しだし 深く掘りさげて
人民の犯罪者を発見しよう
殺されても 八ツ裂きにされても
俺たちの追いかける歴史はつづく
歴史はつづきながら、だんだんと
追う者の数は大きくなり
鋭くなり、優れてくる
そして最後に審判する。

俺は追う者
俺たちは追いかける者
呪いの火を噴きかける者。

第843回 2007/08/06(月)

今日の話題

『政治家の失言・暴言・放言』

 久しぶりに政治・社会問題にくちばしをさし挿もう。

 今日の東京新聞朝刊の記事「こちら特報部」は『重度障害 者の命の重さ0円じゃない』という特集を組んでいる。

 不慮の事故で亡くなった人の賠償の際に、慰謝料とともに 支払われるものに「逸失利益」というのがある。「生きてい れば将来得られたはずの収入」という意味だ。その「逸失利 益」の重度障害者に対する算定は0円だという。

 人間の価値を労働力で計るのが資本主義さ、としたり顔は すべきではない。時に、したり顔に「一人の命は地球よりも重 い」というような歯の浮くような言葉を平気でのたまう政治家や 学者がいるが、そのようなしたり顔もすまい。

 この記事で私がすぐに思い出したのは沈タロウの暴言だった。 数多い沈タロウの暴言の中でも群を抜くものだ。1999年9月17日 という日付で記録されている。約八年も前のことになる。重度障 害者の治療にあたる病院を視察したあとの記者会見でヤツはほざいた。

「ああいう人ってのは人格あるのかね」
「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかと いう気がする」

 保険会社は重度障害者を「逸失利益」でゼロ査定すして いるが、沈タロウ査定では重度障害者は存在そのものをゼ ロ査定されている。

 いま夕刊に目を通した。15歳から17歳の5人の少年がホームレス の男性に火をつけて大やけどを負わせたという記事が目に入った。 主犯格の少年は「ホームレスはごみ。犬や猫と一緒。いきていようが、 死んでしまおうが気にしない」と供述しているという。 沈タロウの卑しい心性に少年たちが影響されたのか、あるいは沈タロ ウの心性がその少年たちの未熟な上に捻じ曲がった卑しい 心性と同じレベルにあるのか、いずれにしても資本の論理が 貫徹される冷酷で殺伐とした時代の申し子のように、私に は思われる。

 人間はお互いに生かし生かされて存在する。そういう意味 で全ての人間は同じ価値を担っている。相互扶助とは経済的 な意味だけの言葉ではない。それぞれの持って生まれた特質 や能力をお互いに補助しあうことも意味する。私もほとんど 老人と言う障害者であるが、少なくとも沈タロウには 私の存在を否定させない。

 ロールズは「生まれつきの才能(の分配ないし分布)を 共同資産」とみる理論を提供している。機会があれば詳し く取り上げたい。

 さて、ここで私は常々心の隅で疑問をもちながらも突っ込んで 考える機会を持たないでいた問題を思い出した。
 昨今、オソマツ 大臣たちのさまざまな「失言」が問題視されているが、 沈タロウの「暴言」に比すればカワイイものだ。しかし、 どうして大臣たちの言葉は「失言」で沈タロウのそれは 「暴言」なのだろうか。程度の違いによって使い分けてい るのだろうか。あるいは、マスコミにはこの二つの言葉を 使い分けるなにか規準があるのだろうか。

 この私の疑問にまるで符合するように、同じ今日の東京 新聞朝刊の「メディア観望」というコラムで特別報道部の 市川隆太記者が『「失言」それとも「暴言」?』という論 評を書いている。


 「(女性は)産む機械」(柳沢伯夫厚生労働相)だの、 「アルツハイマー(認知症)の人でも分かる」(麻生太郎 外相)だの。国民をなめきった閣僚発言を「失言」と書く のが妥当か、自信ないままに使っている。「ちょっと言い 過ぎたけど、悪気はないから」。そんな弁明を容認してし まう気がするからだ。

「不注意」か「本気」か

 広辞苑によると「失言」は
「言ってはいけないことを、不注意で言ってしまうこと。 言いあやまり。過言」。

 「不注意で」というところにひっかかりを感じた。 閣僚たちは決して「不注意で」言ったのではあるまい。 柳沢氏は女性たちが、機械のように、どんどん出産して ほしいと「本気で」願ったのであり、麻生氏も物覚えの 悪さを、アルツハイマーに例えるのがふさわしいと「本 気で」思ったはずだ。メディアにたたかれると予見でき なかったことは「不注意だった」と後悔したかもしれな いが、「不注意に発言した」わけではないと思う。やはり 「失言」は妥当でない。

ネット時代の新聞用語

 しかし、他の新聞同様、「失言」を使い続けてきた本紙で、 今から「暴言」に変更するのは難しいかもしれない。私たち特 別報道部がつくる「こちら特報部」の紙面なら、社会・政治・ 経済部などが用いる統一同語とば異なる表現が許容されるとき があり、可能かもしれない。ただ、その場合、誰かが「失言」を キーワードに記事検索しても、「暴言」を用いた特報面はヒッ トせず読んでもらえない。ネット時代の用語問題は難しい。

 この見解に私も同意する。大臣たちはうわべでは心にもない 言い訳や謝罪や発言の取り下げなどをしているが、自らの 発言を内心から恥じたり反省したり否定したりしているわ けではない。

 その点、ある意味で沈タロウは筋が通っている。決して謝 罪したり、取り下げたりしない。時にはみっともない言い訳 はするけどね。「ババア」発言では他人に責任を転嫁するよ うな言い訳をしていたな。最近では「余人に変えがたい」発 言をこっそりと取り下げていた。

 広辞苑で暴言や放言もひいてみた。
「暴言」は「礼を失した、乱暴な言葉」、
「放言」は「思うままに言いちらすこと。また、無責任 な発言」
とあり、柳沢氏や麻生氏のケースは「暴言」がぴったりに思える。 政治家の〝主人″たる国民に対する「礼を失した」発言だ からだ。
 大臣たちの問題発言も沈タロウの問題発言と同様に 「暴言」あるいは「放言」というのがふさわしい。つい 最近、それが原因で防衛大臣を辞任した久間の 「原爆投下、しょうがない」発言も例外ではない。久間は 大臣辞任に追い込まれたが、あの発言を決して取り下げて はいない。

 いみじくも今日は「広島・原爆の日」だ。広島・長崎への 原爆投下が許されない「不正」であることを、まるで自明のように 言い立てる言説が多く報道されているが、では、なぜそれが 「不正」なのか、理論的に解明している言説はない。「悪いもの は悪い。」では何も言っていないのと同じだ。このような 「自同律は不快」でしかない。

 広島・長崎への原爆投下は「不正」であることを、 ロールズが「正義論」の見地から論理的に厳密に論じて いるのを思い出した。いずれ紹介したいと思う。

 「自同律の不快」。突然こんな言葉が出てきたが、埴谷 雄高の有名なテーゼだ。この言葉が出てきた理由ははっき りしている。

 「自同律」は「トートロジー」とも言う。ポチ・コイズ ミの自衛隊のイラク派遣を巡っての有名な詭弁がある。 「どこが安全地帯か、」という質問に対して「自衛隊が行 くところが安全地帯だ」と答弁した。この答弁を佐藤優さんは トートロジーだと言っている。私は違う見解を持っていたので 、果たしてそうだろうか、と最近少し考えてた。それがここ でふと出てきた。これも取り上げてみたいと思う。

 久しぶりに政治・社会問題にくちばしをさし挿んだら、 なんだか次々と課題が出てくる。多分に支離滅裂の観が ある。酔いもよいあんばい。もう明日になりそうなので、 今日はここで終わりにしておこう。市川記者の論評の後 半部を掲載しておく。付け加えたいことがいくつか あるが、反論ではない。全面的に共感していることを表明 しておこう。


 「格差社会」に対する国民の怒りが高まり、参院選で 「生活が第一。」をキャッチフレーズにした民主党が勝利 した。これに対し、与党や、与党に近い有識者らは、さか んに「民主党政権ではばらまき行政になる」と批判してい る。そして、その言説は無批判に報道される。

 だが、この「ばらまき」という言葉、くせものだ。行財 政改革という名目下、福祉・教育予算を重んじるという、 本来、国民にとって喜ばしいことまで、「ばらまき」の一 言で片づけられている。福祉や教育を重視する政治家や 官僚を、一瞬にして「経済オンチなおっさん」に見せかけ ることが可能な魔法の言葉。私みたいに不勉強な記者を 思考停止させるには極めて有効なツールと断言していい。

「ばらまき」は悪いのか

 でも、横浜市に住む私と妻は、革新行政が元気なころ 福祉予算が「ばらまかれた」おかげで、自分たちよりずっと 子育てがしやすい東京都や川崎市や神奈川県藤沢市の住民を 羨望のまなざしで見ていた。現在大学生の長男が保育園に 通っていたころの話だ。「ばらまかれ」なかった横浜で 子育てするのは、本当に大変だったのである。神奈川の 長年の住人なら、誰でも知っていることだ。「福祉予算ば らまき」と、鬼の首でも取ったように批判する政財界人、 有識者らの言説は、よほど疑ってかからねばならないと 思っている。
第842回 2007/08/03(金)

「真説・古代史」補充編

『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(3)


「後継后の選定」問題

 落城寸前の燃え盛る城の中で兄と運命をともにしようとし ているサホヒメに向かって、後継后の推薦を求めるとは、 なんとも不自然だ。造作された説話と考えるのが当然 だろう。では、なぜそんな「造作」が必要だったのか。 「記紀」編成のルールの(ニ)「王位継承正当化のルール」 による「造作」だ。古田さんは次のように分析している。

 わたしの回答。それは次のようだ。

(その一)
 「造作」といっても、津田史学のような後代史官の気まま な「造作」といったイメージは一蹴せねばならぬ。すでに 「八代欠史」問題について論じたように、崇神(第十代)・ 垂仁(第十一代)記の説話は、次の景行(第十二代)・成 務(第十三代)の頃伝承された。つまり選定し伝承し、公布 されたのである。その「選定」の基準は? 当然、当代 (選定の時代、その治世の王者)の利害の立場だ。その王 者の利害によって、その選定は行われるのである。

 さて、第十二代の景行の母親は、右の沙本毘売の遺言とし ての推薦の対象、兄比売、弟比売のうちの兄比売だ。比婆 須比売(ひばすひめの)命である。つまり、沙本毘売は落 城に臨んで、わざわざ次代の天皇の母親を推挙して死んだ。 そういう形の説話になっているのである。これはなぜか。

 (その二)
 ここで、核心をなすべきイメージ、根本の命題が立ち現 われる。それは近畿屈指の名門、東鯷国の王家の沙 本毘古、沙本毘売と、異域(九州)からの不法の侵入者の 子孫たる崇神・垂仁たちという概念だ。いいかえれば、尊 貴の前者と、よそものの後者。これが、当時の近畿世界の 通念であった。この一点である。

 この概念に対して、わたしたち後代人は、あるいはなじ みにくいかもしれぬ。しかし、ことは二十世紀の事件では ない。四世紀の状況だ。わたしたちはその世紀にふさわし いイメージをもって、その時代の説話を理解しなければな らないのである。

 垂仁は武力をもって東鯷国を滅亡させた。しかし、 その武力だけで、輝ける東鯷国の継承をすることは できなかった。そのため、次代、景行の母は、東鯷国 最後の王女、あの尊貴の王女が、死の間際の遺言として、推 挙してくれたのだ。そういう説話が必要だった。だから、 それを「造作」したのである。

 この垂仁記の説話を公布せねばならなかった景行たちの立 場(ひけ目)、それは右の根本問題と共に、


 景行の母たる比婆須比売より、沙本毘売の方が抜群に尊 貴であったこと。

 その沙本毘売の子である本牟智和気をさしおいて、景行 が次代の王位(天皇は後称)を継いだこと、これらに原因が あったことと思われる。

 このような視点からすると、垂仁記においてながながと 〝本牟智和気は、口が利けなかった〟というテーマについて 長広舌している理由、それも察するに難からぬところだ。 なぜか。そのより正当な継承権をもつべき本牟智和気をさし おいて、景行が即位したからである。

 以上、津田史学の提起した仮説(六世紀以降の造作説) に反し、垂仁記の説話が、次代の景行の利害をストレートに 反映して、あるいは選定され、あるいは造作されていること が知られよう。

 以上が「沙本毘古の叛乱」と呼ばれている説話の 分析である。この分析を踏まえて、古田さんはこの説話の 下敷きになっている「真相」次のように再構成している。

 このように考えてくると、わたしにはことの真相は次の ようだったように思われる。

(一)
 近畿天皇家側は、山城・河内を制圧したあと、東鯷国 の王家(摂津)と婚姻政策を結んだ。沙本毘売を人質とした のである。

(二)
 にもかかわらず、時機を見て、垂仁は沙本毘古の居城 (稲城)を囲み、長期包囲戦を展開した。沙本毘売は、 実家(沙本城)に逃げ帰った。

(三)
 沙本城はついに落城し、兄と妹は悲運の中に没した。

(四)
 当時の人々(ことに旧東鯷国の人々。近畿が中心) の間には、垂仁側の非情と沙本毘古・沙本毘売側の悲運が 語り草となった。ことに沙本毘売の立場には、大方の同情が 集っていた。

(五)
 そこで景行の治世、次のような説話が公布されることとな った。


 沙本毘古は、兄として、人間として、あるまじき要求を 妹に強要した。

 沙本毘売は、夫(垂仁)にそのことを告白した。夫がそ ういっているのだから、まちがいない。

 垂仁が義兄の城を囲んだのは、彼の不正こらしめるため の正義の戦だった。

 沙本毘亮は、兄の不正のために、兄と運命を共にすること となったけれど、にもかかわらず、その死に臨み、比婆須 比売(景行の母)たち姉妹に、あとを託して死んだ。

 すなわち、その子景行が今位についているのは、 東鯷国最後の王女、沙本毘売の遺言の実行なのであ る。

 以上だ。このような実質をもつ説話が、いつ作られ、い つ公布されたか。いうまでもあるまい。 ― 景行の治世 である。
第841回 2007/08/02(木)

「真説・古代史」補充編

『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(2)


 この説話正しく解読するための最大のポイントは、 サホヒコとイサチの攻防戦の場・沙本(さほ)の比定である。 「さほ」とは何処か。

 「定説」ではなんの議論もなく大和の沙本と見なしている。 奈良市近辺の佐保、佐保川もある。古田さんはこの地名比定 の吟味からこの説話の解読を始めている。①、②から次のよう な理路により、「佐保」の地を摂津と比定している。

 吟味してみよう。

(一)
 『古事記』では、地名を書くとき「AのB」の形で書く。吉 備国の児島(仁徳記)のように。ところが、近畿(大和・河 内・摂津・和泉等)の場合、「…国の」というAを省くこと が多い。したがってただ「沙本」とある場合、近幾内の沙本 と見なすべき可能性が高い。

(ニ)
 近畿には、二つの「佐保」がある。前記大和の佐保(奈良 市)と、摂津の佐保(茨木市)だ。いずれも「佐保」と 「佐保川」がある。このいずれだろうか。

(三)
 先の説話の末尾に「(天皇)其の地を皆奪ひ取る」とある (真福寺本。後代の写本では「取」字をカット)。この 「沙本」の地が、それまでは近畿天皇家側の所有ではなかっ たことをしめしている。奈良市の場合、すでに近畿天皇家 側は大和盆地を支配していたのであるから、考えられない。 この点、崇神天皇の時、ようやく山城・河内を支配したけ れど、いまだ摂津には及んでいなかったのであるから、茨 木市の佐保の方が適切である。

(四)
 先にのべたように、崇神側の軍に追われた建波邇安王の 敗軍は、河内の樟葉辺から淀川を渡って対岸へ逃れようと している。対岸は、摂津だ。ここにも、摂津が彼等の本拠 の地であること、そこはいまだ、崇神側の手の及びえぬ地 帯であったことをしめしている。

(五)
 右の「奪ひ取る」という、その対象は「玉作り」の地で あった。ところが、茨木市の東奈良遺跡(佐保川の下流域) からは、ガラスの勾玉の鋳型が出土している。弥生期の出土 としては、他には博多湾岸(春日市)以外にない(吉備にも、 可能性が予測されている)。したがってこの摂津の佐保川 流域が、近畿における「玉作り」の地として著名、出色であ ったことは疑えない。ガラス、つまり破璃は、弥生期におい て貴重な宝物である。当然、その産地は周辺の人々にとって 垂涎の的であり、奪取するにふさわしき地であったものと思 われる。

(六)
 沙本毘古が築いたという「稲城」について、『日本書紀』 の雄略紀では、「天皇の(き)」と対比して使われている (「天皇の城は竪からず。我が父の城(稲城)は堅し」。 根使主(ねのおみ)。和泉国日根郡)。この点から見ても、 「佐保の稲城」が、天皇家のお膝元ともいうべき「奈良市 内の佐保」とは考えにくい。

(七)
 例によって、記紀は、沙本毘古を近畿天皇家、第九代開化 天皇の皇子として血脈の中に記している。しかしこれが血脈 国家主義にもとづく系譜の虚構であることは、前述の建波 邇安王の場合と同じだ(この点は、地名比定とは直接の関係 はない)。

 以上、沙本毘古王の本拠は、奈良市近辺ではなく、茨木市 近辺であったことが判明した。すなわち、銅鐸圏、東鯷国の 中枢の地、最大の銅鐸鋳型の密集出土域、そここそ沙本毘古と 沙本毘売の居城、稲城の地であった。(茨木市には上穂積・中穂積・ 下穂積の広大な領域がある。)

佐保はどこか


 ①の最後に「イサチは后が懐妊しているために、これを 攻めるに忍びず、三年の間、城を包囲したまま、時を過し た。」とあり、イサチが手心を加えたという説話になって いるが、これはサホヒコの「稲城」(沙本城)が堅固なた めに攻めあぐみ長期包囲戦にならざるを得なかったというの が実状だろう。

 ③には吟味すべき問題点が二つある。一つは「命名説話」 もう一つは「後継后の選定」という奇妙な説話だ。

 「命名説話」
 〝子供の名前は、母がつけるもの″という考え方が語ら れている。出産は実家でするという慣習があったのだろうか。 その場合は、一定期間実家で養育することになろう。当然 名前を必要とする。少なくとも幼名は母がつけることにな ろう。

 そうだとすると、サホヒメはイサチが沙本城を包囲した 後で城に逃げ込んだ のではなく、サホヒメが出産のために城に帰っていたときを 選んでイサチが沙本城攻めを始めた、と考えることもできる。 古田さんは「このような想像は、あまりにもこわす ぎる。そして歴史学は、思うに、語りすぎてはならないであ ろう。」と、この推理を打ち切っているが、私はこの推定の 方が事実に近いのではないかと思っている。しかし、 これは「命名説話」の本質的は問題ではない。この説話の 本質点を古田さんは次のように解いている。

 〝子の名は母がつけるもの″。これは、あるいは古代の 慣例にもとづくものかもしれぬ。しかし、この名づけ説話 はいかにも苦しい。なぜなら、沙本城側にとっては、痛恨 のはずの火炎の中の落城を、命名の根拠にするとは。いか にも、ありにくい話だ。

 「ほむつわけ」、もしくは「ほむちわけ」の「ほむ」は、 のちの 「誉田別」(ホンダワケ応神天皇)と同根の地名 語幹ではあるまいか。「火」よりも、むしろ「秀」「誉」 などに近い意義ではあるまいか。「つ」は津、「ち」は神 を意味する(「足なづち」「手なづち」の「ち」が神を意 味する)。

 この点、茨木市内にある広汎な「穂積」の地名が、「ほ (秀か)」と「津」と「み」(神の語幹。やはり神を意味 する)の内容をもっているのと、同類性をもつ点、注目さ れる。隣接した「高槻」は「高津城」であろう。

 要するに、「ほむつ(ち)別王」とは、そのような地名に 立脚した王名であり、これを火炎の中の落城に結びつけたの は、すでに見た箸墓の地名説話などと同類の人名説話なので はあるまいか。

 (したがって毘売の答えの「今当火焼稲城之時而、火中所 生。故……」という一節は、先の「三年攻囲」状況とあるい は矛盾するかに見えるけれども、右のように、この説話自体 が「造作」された人名説話だ。そのために現われた一種の 齟齬なのではあるまいか。)
第840回 2007/08/01(水)

「真説・古代史」補充編

『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(1)


 「垂仁記」には「沙本毘古(サホヒコ)王の叛逆」と呼ば れている説話がある。「タギシミミの叛乱」や 「タケハニヤスの叛乱」 と同様に、これもヤマト王権側から仕掛けた王朝簒奪 戦争の一つであることが、追々論証されていくだろう。

 古田さんはこの説話を「記紀説話最高のシーンのひとつ」 と評している。それはヤマト王権が東鯷国を壊滅して 日本列島の中央部(近畿地方)を支配する分王朝としての地 位を確立するに至った決定的な戦いであった。

 今回はその説話のあらましを、古田さんの口語訳によって、 紹介しよう。なお部分的に、「定説」とは違う解釈があるが、 その吟味は割愛する。また説話分析の論点にしたがって、全 体を三話に分けて①②③の記号で示した。

 説話を読む前に、その説話解読のためのキーを提示して おこう。
 イクメイリビコイサチ(垂仁、以後「イサチ」と略す。) は7人の后を娶っている。 第一后は佐波遅(サワヂ)比売(説話中では沙本毘売サホヒメ)、 第二后は氷羽州(ヒバス)比売(説話中では兄比売エヒメ)。次代 の王は氷羽州比売の第二子が継いでいる。オシロワケ(景行) である。



 イサチは、沙本毘古(サホヒコ)命の妹、沙本毘売(サホヒメ) を后とした。サホヒコは、妹の婚ぐ前夜、彼女に問うた。 「夫と兄とどちらが愛(いと)しいか」と。妹は「兄さんの 方が愛しい」と答えた。すると、彼は「お前が本当にわたし のことを愛しいと思うならば、わたしとお前とで天の下を治 めよう」といい、八塩折(やしおおり)の紐小刀(ひもがたな) (くりかえし鍛えた鋭利な紐つきの小刀)を作って、妹に授 けて言った。

「この小刀をもって、夫(イサチ)が寝 ているとき、刺し殺せ」。

 その後、イサチはサホヒメの膝を枕として寝ていた。彼女 は夫の頸を刺そうとして、三度小刀をふりあげたけれども、 「哀(かな)しき情(こころ)」に忍びず、頸を刺すことが できず、泣く涙がイサチの顔の上に落ち溢れた。そこでイサチ は驚いて目覚め、「わたしは不思議な夢を見た。沙本の方 より暴雨(はやさめ)が降ってきて、にわかにわたしの顔に そそいだ。又錦色の小さな蛇が、わたしの頸にまつわりつい た。このような夢は、一体何の表(しるし)だろうか」と言 った。そこでサホヒメはたまらなくなって兄との経緯を語っ た。

 イサチは.「すんでのこと、欺かれるところだった」と言 って、すぐ軍を興してサホヒコを撃ったところ、サホヒコは稲城 (いなぎ)を作って待ちうけて戦った。この時、サホヒメは、 兄への思いに耐えず、後門より逃れ出て、稲城に入ってしま った。

 その時、サホヒメは懐妊していた。イサチは后が懐妊しているた めに、これを攻めるに忍びず、三年の間、城を包囲したまま、 時を過した。



 その攻めずにいる間に、サホヒメの妊んでいた御子は既に産れ ていた。落城に臨みサホヒメは、その御子を稲城の外に置いて、 イサチに対し「若し比の御子を、あなたの子とお思いいただ けるならば、お引取り下さい」と言った。イサチは「兄は怨 んだけれども、サホヒメは愛(いと)しさに耐えぬ」と言い、 サホヒメを得たいと思った。そこで軽捷な力士に命じた。「子供を 取るとき、母王をも取れ。髪でも、手でも、つかんで引き出 せ」と。それを察知したサホヒメは、髪を剃り、頭に覆い、玉の 緒や衣を腐らして衣服のようにまとうた。力士が御子を取り、 サホヒメの髪を取ると、髪が落ち、手を取ると、玉の緒が切れ、 衣を握ると、衣は破れた。そこでサホヒメを得ることができな かった。

 イサチはこれを悔い恨み、玉を作る人等を悪(にく)み、 其の地を皆奪い取った。そこで諺に「地(ところ)を得ざ る玉作り」というのである。



 イサチはサホヒメに言った。「凡そ子の名は必ず母が名づける ものだ。この子の御名を何と名づけようか」と。サホヒメは 答えた。「今、火の稲城を焼く時に当って、火の中に生れた。 そこでその御名は本牟智和気(ホムチワケ)の御子と名づけ てほしい」と。

 またイサチは言った。「どのように養育したらよいだろうか」と。 サホヒメは「大揚坐(おおゆゑ)、若揚坐を定めて養育してください。」 と言った。(揚坐 嬰児に湯を浴せる婦人か)

 さらにイサチが「あなた(サホヒメ)の堅めた美豆能小佩(みずの おひも 立派な小紐の意か)は、誰が解いたらいいか」 (あなたの後継者としての后は誰にしたらいいか)と聞くと、 サホヒメは答えた。「旦波(たには)の比古多多須美智宇斯 (ひこたたすみちうしの)王の女、名は兄比売(えひめ)、 弟比売(おとひめ)、茲(こ)の二はしらの女王(ひめみこ) は、浄き公民(たみ)です。ですから、お使いなさればいい と思います」

 イサチは遂に、サホヒコ王を殺した。その妹、サホヒメも また、兄に従って死んだ。