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第836回 2007/07/27(金)

「真説・古代史」補充編

『神武東侵』:「天の下」とは何か。


 「神武東侵」説話は

「何地に坐(ま)さば、平らけく天(あめ)の下の政(まつ りごと)を聞しめさむ。なお東に行かむ。」

というイワレヒコ兄弟の談合で幕が開き、

かく荒ぶるる神等を言向(ことむ)け平和(やは)し、 伏(まつろ)はぬ人等を退(そ)け撥(はら)ひて、 畝火の白檮原(かしはらの)宮に坐しまして、 天の下治(し)らしめしき。

という勝利宣言で幕を閉じた。

 今回のテーマは「記紀」に頻出するこの「天の下」 というキーワードの意味である。

「天の下治(し)らしめしき。」という表現をこれま ではどのように解釈してきたか。

 皇国史観者の場合は「日本全土統治」という本居宣長 の解釈を継承してきた。もちろん肯定的に。これを原点に 「記紀」を読んでいる。だから、神武時代から近畿天皇家 は日本全土の支配者だったと言う。

 一方戦後史学会は「日本全土統治」という解釈は同じだが、こ れを否定的にとらえる津田左右吉の観点を継承してきた。 つまり、神武時代から近畿天王家が日本全土を支配した などありえない架空事だという点から、「記紀造作説」 の原点とした。

 古田さんはこうした従来の解釈に疑問を呈して言う。

 けれども、果して「天下」とは、そういった意味だろ うか。中国の典籍では、この語が〝中国の天子の支配す る全世界″という意味で用いられたことは、周知のとこ ろだ。そのミニチュア版、つまり〝天皇統治下の日本全 土″、そのように解して疑わなかったのである。これは 正当だろうか。

 記紀では、「天の下」とは、「天下(あまくだ)る」 という動詞と一連の術語である。たとえば神武記に次の 一文がある。

天つ神の御子、天降り坐しつと聞けり。

 神武より先に、この地(近畿)に「天降って」きてい たという(神武記)、邇芸連日命(にぎはやひのみこと) の言葉だ。すなわち、 神武にかぎらず、「九州近辺から近畿へ」来ることを 「天降る」といっているようである。その「天降った」 先、そこが「天の下」なのだ。

 神代の巻では、「天国(対馬海流領域)から筑紫・出 雲・新羅へ」、これが「天下る」という動詞の用法だった。 それぞれの三領域が「天の下」ということとなる。

 これに対し、ここでは「天国拡大圏(九州)から近畿 (または九州以外の他の領域)へ」、これを「天下る (降る)」と称しているのだ。したがって神武の場合、 「大和盆地」が「天の下」となろう。あるいは大和盆地 の南半くらいかもしれぬ。この用語の本質は、広さでは ない。宗教的・政治的な、古代独特の思惟に立つ術語な のだ。

(中略)

 はからずも、この「天の下」問題も、同一性格の根本 問題をもっていた。宣長や津田左右吉は、ともにこの用 語のもつ古代宗教的・政治的な原初的術語性に対して一切 顧慮しなかった。ために一方は皇国至上主義に達し、他 方は神武(および以後八代)架空説という偏倚の啓蒙主 義史観へと逸脱してしまったのである。

 したがって、わたしには、この「天の下」問題の固有 の原初性格の発見は、ことの筋道上、画期的な意味を持つ。 そのように考えられたのである。

 引用文中の邇芸連日命の言葉の古田さんの解釈には 誤解があるようだ。しかし、全体の論旨に影響はない。 いやむしろ、その論旨はより確かなものとなる。

邇芸連日命の言葉は

天つ神の御子、天降り坐しつと聞けり。故、追いて参降(まいくだ)り来つ。



となっている。つまり、イワレヒコを「天つ神の御子」 と呼んでいて、そのイワレヒコを追って自分も 「参降(まいくだ)り来つ。」(天降ってきた)と言って いる。つまり、邇芸連日命は自分が他所(九州)から奈良 盆地にやって来たことをも「天降り」と認識していること になる。

 「天の下」が以上のような意味であれば、イワレヒコが 白檮原宮で「天の下治(し)らしめし」たという表現は 偽装欺瞞ではなく、なんら問題はない。従来の論者が 勝手に拡大解釈して「建国」などという笑止な言挙げ をしたというわけだ。

 古田さんが上のように論じたのは1985年前のことである。 その後、この「天の下」の解釈はさらに深められている。 1991年に長野県白樺湖で行われたシンポジュウムで 外岡則和という方が『「天の下治(し)らしめしき。」 とは「分国統治」のこと ではないか』と提言したのがきっかけだったという。

 この解釈によれば 「日向から吉備の高島宮まで」 で提出した疑問点③

 大和が当初からの目的地とすると、各寄港地での滞在年 数が、単なる寄港としては長すぎるのはなぜか。

という不審は解消する。

 イワレヒコ兄弟は「猶東に行かむと思ふ」と言ってい るだけであり、決して「猶大和に行かむと思ふ」といって いるわけではないのに従来は「猶大和に行かむと思ふ」という 意味に改変して読んできている。上の疑問点はそのような 読み方から出てきたものであった。もし「出 発の時点」においてすでに、「到着予定地」が大和で あったとしたら、その途中の、阿岐国の多祁理宮・吉備 の高島宮は単なる「経過地」にすぎない。なのになぜ、 その「経過地」で「七年」[八年」という長期間の滞在 が必要だったのか。

 しかし、「天の下治らしめしき。」が 「分国統治」(あるいは植民地としての入植)という 意味なら「七年」や「八年」は、むしろ、短すぎる。 逆に、なぜこんなに短いのだろうという疑問がわく。 この点について、古田さんは次のように説いている。

 右の各地は、最後の「近畿侵入」のような「武装侵路」 とは異なり、「新地」の提供をうけての「平和植民」 だったのではあるまいか。もちろん、基本的な性格とし てであろうけれども。

 当時は、現代とは異なり、人口に比して「空き地」の 残された時代であったから、そのような「平和的植民」 の余地が十分にあったであろう。

 (著名な事例として、鮮卑族などに追われ、殷王朝に 保護を求めた周、また秦に追われて箕子朝鮮に亡命を求 めた、燕の衛満などがある。)

 もっとも、それらの各地とも、狭い日本列島内のこ とであり、「無人の広野」など、ない。せっかく与え られた「空地」も、農地や漁津として不適当な地帯であ れば、より適地を求めて周辺の先住民とトラブルを生ず ることは、当然ありえよう。なればこそ、神武たちはニ たび、三たび「与えられた領地」を放棄して次ぎなる適 地を求めて移転したのであるまいか。

 そのような模索のあげく、最後の「平和的植民地」 だった吉備を根拠地として、「武装的侵入者」に変 身した。それが「速吸門」(鳴門海峡)を経て大阪湾に 突入した、神武たちの最終の決断だったのである。

 これは、「恣意的に原文を改定をしない」という立場 からの「不審な長期滞在」に対する一解釈にすぎないけ れども、これまでのところ、矛盾を解く唯一の解釈であ る。もちろん、森教授は「長期滞在」問題には一顧だに しない。
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