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第825回 2007/07/09(月)

「真説・古代史」補充編

万葉集の中にも現れる九州王朝(2)


『万葉集』巻七で「古集中に出づ。」とされている歌のうち 1230番の次の歌を古田さんは分析している。

ちはやぶる金(かね)の岬を過ぎぬともわれは忘れじ 志賀(しか)の皇神(すめかみ)

 学者たちはこの歌をどのように解読しているのか、 岩波古典文学大系の頭注を読んでみる。

ちはやぶる
 枕詞。普通は、カミ(神)にか かる。ここではカネのカにかかる。
金の岬
 福岡県宗像郡玄海町に鐘崎(かねさき)があり、そ の北端に鐘ノ岬がある。
志賀の皇神
 志賀は、福岡県糟屋郡志賀町志賀島。式内社、志賀 海神社がある。
皇神→894補注(後ほど触れる予定)

〔大意〕
『波の恐ろしい金の岬をようやく無事に過ぎたけれども、 それでも海の守護神である志賀のすめ神を、私は忘れま い。』

 この〔大意〕では「皇神」を一地方の祭神(海の守護神) と考えている。そして「金の岬」を無事に通過したのは、 その守護神のおかげであり、その神の恩を忘れなまい 、という意としている。またこの〔大意〕からは、この 旅人(歌の作者)の出立地は明らかではない。 「志賀」とも取れるし、「志賀」は旅の途中で旅の無事 を祈るために立ち寄った所とも取れる。

 さて、この歌を古田さんはどのように解読しているだ ろうか。古田さんは単なる字面の解釈だけではなく、 まずは「歌」の鑑賞者として、その歌に込められている 作者の心情の芯にあるものをも捉えながら解読をして いる。

 これは「古集」に属することの確実な歌であるが、これ は旅に出ようとする歌人が、鐘の岬を過ぎようとするとき、 「わたしは、わたしの信ずる、志賀の皇神のことを忘れな い」と歌っているのである。

 このさい、この旅人が「近畿」発の人物だとしたら、 「志賀の皇神」は、旅先の一神社の神、ということとな ろう。

 けれども、この歌の語気には、そのような「旅先の気 まぐれ」ならぬ、「自己の魂の淵源なる神」を語る、と いった気迫がこめられている。「われは忘れじ」の一句 がそれを示す。

 とすれば、この歌人の「出発地」は、博多湾岸、この 旅人は筑紫人。そういう立場に立てば、きわめて自然で ある。

 もう一つ、重大な注目点がある。それは、博多湾岸を 原点として、鐘の岬を過ぎる、とは、その行先はどこか、 という問題だ。それは釜山方面ではありえない。慶州 方面だ。つまり、対馬海流から東朝鮮暖流が博多湾岸 の北方で分岐し、朝鮮半島の東岸を北上する。その暖流 が慶州の沖合いへむかっているのである。

 すなわち、この歌人は新羅へむかっているのだ (さらに、高句麗・渤海も、可能)。

 その上、これは当然ながら、観光旅行の類ではない。 公的な用務、それも、きわめて〝長期に及ぶ、国難と 苦渋の予想される行旅″なのである。それでなければ、 何も「われは忘れじ志賀の皇神」などといって、 「力(りき)む」必要はないであろう。『万葉集』に は行旅の歌が多いけれど、いちいちこの種の「力み」を 見せているわけではない。

 明らかに、この歌人は、異常な任務を帯びて異国へむ かおうとしている。ズバリいおう。筑紫の「倭国」から 新羅・高句麗への国交上の遣使。 - この歌人の 「正体」は、これではあるまいか(他の理解としては、 筑紫の「倭国」から、西日本諸国への使者、との見方も あるけれど、それにしてはいささか〝悲愴すぎる”決意 の示し方のように思われる)。

 以上によって、この「古集」が公的遣使の歌をふくみ、 その発進地は「筑紫」であること、当人は「筑紫人」で あること、これらの点が確かめられた。その行先は、 新羅・高句麗といった、当時の「倭国の国交対象の国」 である可能性が高い。これらの諸点が判明する。

 今、必要なこと、それはつぎの一点だ。「『倭国万葉 集』が現存の『日本国万葉集』に先行していた」という、 先の学問的仮説が決して一片の「空語」「空論」にとど まらぬこと、それが認識できれば、それで十分だ。

 歌が一気に生き返るような見事な解読だと、私は 思う。

 古田さんの解釈では「志賀の皇神」は単なる一地方の 祭神ではなく、王朝の「王」または「王の祖神」 である。ヤマト王権一元主義に囚われていては、九州に 「皇祖の神」があることなど考えも及ばないだろう。

 ヤマト王権一元主義に立つ学者先生たちはこの 「スメカミ」という言葉をどのように解しているだろ か。「皇神→894補注」の指示に従って、岩波古典文学 大系の補注を読んでみる。その前に「894」番(長歌) の「スメカミ」部分を記載しておく。

神代より 言い傳て来らく  そらみつ 倭の国は 皇神の 厳(いつくしき国…

 この歌の頭注には「皇神-皇祖の神」とある。この場合はその 解釈しかあり得ない。

さて、〔補注〕は次のように論じている。

皇神
 スメカミは、ここに皇神と書かれており、スメラと いう言葉が天皇を意味するところから、皇祖神と考え られたりしている。しかしスメカミは、その用例を見 ると次の通りである。

「住吉の我がスメカミに幣まつり」(巻二十、4408)、
「スメカミの裾廻の山の渋渓の崎の荒磯に」(巻十七、3985)、
「…山はしもしじにあれども河はしも多に行けどもスメカミの領 きいます新川のその立山に」(巻十七、4000)、
「山科の石田の森のスメ神に幣とりむけて」(巻十三、3236)


などとあって、住吉・二上山・立山・山科の石田の森など を領する神であることが分る。つまり、これは、起源的に は港や山など地方的な小さな区域を領する神をいうもので あったのだが、それがやがて、日本の国土を領する天皇を 指すようになったものであろうと考えられる。 スメラミコトとなると、これが人格的なものに転化するわけであ る。

 「1230」の歌を〔大意〕のように解する限り、強調部分 (赤字部分)のような理論を提起せざるを得ないだろう。 しかし、「スメラミコト」と「スメカミ」は別して 扱うべきだ。さらに、この理論は逆立ちしているのでは ないかと思う。これまでに出てきた「スメカミ」の原文 (万葉仮名)とその仮名漢字表記を番号順に並べてみる。

(巻七、 894) 「皇神」→「皇神」
(巻七、1230) 「須賣神」→「皇神」
(巻十三、3236)「須馬神」→「すめ神」
(巻十七、3985)「須賣可未」→「すめ神」
(巻十七、4000)「須賣加未」→「すめ神」
(巻二十、4408)「須賣可未」→「須賣神」

 時代が下るに従って「皇祖の神」という意味で 使わられることがなくなり、「皇」という意味合い は無くなっているようだ。〔補注〕の理論は次のよう に言い替えられるべきだ。

『「スメカミ」は起源的には王朝の「王」または「王の祖神」 を指す言葉であったが、港や山など地方 的な小さな区域の神を指す言葉に変わっていったと考え られる。』

 「宮廷の女房」が「長屋の女房」に変わっていったよ うに、より一般化されていった。
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