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第823回 2007/07/07(土)

「真説・古代史」補充編

銅鐸圏(東鯷国)の神話(3)


 古田さんは『万葉集』からも東鯷国の神話を 見い出している。「巻一」13・14首目の 「中大兄(なかつおほえ 天智天皇)の三山の歌」である。

香具山は 畝火雄々しと 耳梨と 相争ひき 神代より  かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつ せみも つまを 争ふらしき

反歌

香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら)

 ちなみに、岩波古典文学大系の「大意」は次のように なっている。

『香具山は畝火山を男らしく立派だと感じて、その愛 を得ようと耳梨山と競争した。神代からこうであるら しい。昔もこのようであったからこそ、現世でも一人 の愛を二人で争うことがあるものらしい。』

反歌
『香具山と耳梨山とが争った時に、阿菩の大神が立 って見に来た印南国原はここなのだなあ。』

 「なるほどなるほど、三角関係っていうヤツは神代の 昔からよくあることだった、っていうわけだ。」と、 私などはこの程度で読み過ごしまうのだが、古田さんは このよく知られた歌から東鯷国の神話を読み取って しまう。改めて、その見事な手さばきに感服する。

 なお、上の大意には『畝火山を女性、他の二山を男性と見て、ヲヲシを 「を愛(を)し」と解する説もある。』という註が付されて いる。中大兄が弟の大海人皇子(天武天皇)と額田王を 争っていたことと結びつける場合はこの解釈が適する。 古田さんはこの解釈を取っている。

 また、反歌で「立ちて見に」来たのは「印南国原」と 読める(古田さんはそのように解している)が、上の大 意では原文にない「阿菩の大神」を登場させて、「立ち て見に来し」の主語を「阿菩の大神」としている。この 「阿菩の大神」の突然の登場の謎も古田さんの 解読のなかで明らかになる。

 問題は「神代より」の一句だ。この大和 三山の争いの説話は、「神代の話」、つまり「神話」、 なのである。ところが記紀神話中、全く姿を見せない。 あれだけ広大な神代の巻の中に、両書とも一切、片影さ え現われていないのだ。これはなぜか。

 一つの回答がある。

「大和三山の争いなど、大和の一隅の片々たる一民話譚だ。 だから広大な神話体系の叙述である記紀神話に登場しない のは当然だ」

と。誰にも思いつきやすいアイデアだ。だが、この歌の 反歌を見つめると、このアイデアは、ひっきょうアイデ アだおれであることが分る。

 印南国原は、播磨の国原である。現実に中大兄や大海 人皇子たちが、額田王をめぐって争っているとき、それ をいい気分で見物顔の第三者(-の皇子)がいたのであ ろう。それを神話中でも、大和三山の争いを、わざわざ 播磨から見物に来たといわれる、印南国原に喩(たと) えたのである。

 播磨に関連してもう一つの説話がある。『播磨国風土 記』だ。

(上岡の里) 出雲の国の阿菩(あぼ)の大神、大倭 (やまと)の国の畝火・香山・耳梨、三つの山相闘ふ と聞かして、此を諌(いさ)め止めむと欲(おもほ)し て、上り来ましし時、此処(ここ)に到りて、乃ち闘ひ 止みぬと聞かし、其の乗らせる船を覆(ふ)せて坐 (いま)しき。(揖保郡)

 大和三山の争いに対し、出雲の阿菩の大神が仲裁に出 てきたというのである。ところが、この上岡の里に来た とき、三山の争いが終結したことを聞いた。そこで乗っ ている舟をひっくりかえし、大和へ行くのを止めた、 という話だ。

 右で注目すべきこと、それは次の五点だ。


 大和三山の争いの噂は、周囲(河内・和泉・摂津等) を越え、播磨にまでひろがった。


 大和や周囲の国々の山々や国原も、それぞれこの争い にあるいは加担し、あるいは見物者となるなど、かかわ りをもった。そのため、かえって仲裁はできなかった。


そこで別の神話圏の神である出雲の阿菩の大神 (これは山々や国原でなく、神格を異にしている)が、 仲裁に出てくることとなった。


 大和三山の争いを発端とした近畿の争乱が止み、印南 国原の神も、故郷の播磨へ帰った。そして播磨平野にそ のニュースが流れた。


そのニュースを、播磨平野の西北辺に入ってきた出雲の 阿菩の大神は聞いた。

 大略、右のようだ。すなわち、これは近畿大乱ともい うべき大争乱譚だ。その発端部が大和三山の争い、終結 部が出雲の阿菩の大神の出馬と仲裁未遂譚。その中間の 近畿大争乱譚は失われているのだ。もし、河内・和泉・ 摂津、もしくは大和などの『風土記』がのこっていれば、 わたしたちはそれを知ることができたであろう。

 あたかも、あのイリヤッドで、三人の女神がパリスの もとに現われてリンゴを提示して、「もっとも美しいと 思う女神に与えよ」といったこと。そしてパリスがその 一人にリンゴを渡したため、他の二女神の嫉妬を買い、 それがギリシャとトロヤの長期大戦乱の発端となったとい う話、そしてその結果として木馬の詭計によってトロヤの 滅亡した説話、あるいはオデッセーの漂流譚、それらに 類似しているのである。こちらでは、肝心の中心部たる 近畿大争乱譚は失われてしまったけれども---

 以上のように分析してみると、疑問は一段と増大する。 決定的となる。なぜなら、これは大和盆地の一隅の、単 なる一民話譚どころか、近畿一円から、遠く出雲まで及 ぶ一大争乱譚なのであった。それ故、先のもっとも思い つきやすいアイデアは、到底無理であることが判明する。

 とすれば、なぜ、これほど壮大なスケールの一大神話 体系が、記紀神話の巻からカットされているのか。しか も、天智がこの神話を知っていたとすれば、弟の天武も 同じく知っていたことであろう。恋人の額田王や、天武 の妻の持統も、当然知っていたと考えていい。子供や孫 の元明・元正たちも、無論だ。だとすれば、これらの天 皇のもとで作られた記紀の神代の巻、そこに右の一大争 乱譚が、なぜ一切姿を現わさないのか。これは不可避の 謎だ。

 だが、ここに一つの解明のカギがある。それは「征服 者側の神話」と、「被征服者側の神話」という二つの神 話の存在だ。

 神武たちは、九州の一角から、大和盆地へ 侵入した。そのさい、天照大神を中心の統一神とする九 州の神話をたずさえて侵入したのである。これが記紀神 話だ。

 これに対し、征服された大和盆地側、すなわち銅鐸圏、 東鯷国にも、神話があった。それが、大和三山に もとづく近畿大争乱譚であった。しかし、天武~元明・ 元正たちは、一切これら「被征服者側の神話譚」は、 記紀の神代の巻には登場させなかった。なぜなら記紀の 神代の巻は、近畿天皇家の人々の知っていた神話のすべ てを記載させたものではない。あくまで、近畿天皇家の 淵源とその統治の正当性を証明すべき神話に限られてい たからである。それ故、「被征服側の神話」など、一切 掲載不要なこと、当然であった。

以上のような分析視点から見れば、この大和三山の争いの神話問題も、何等の不可思議な き理解をうることができる。

 ところが、もし戦前の皇国史観の場合、到底右のよう な分析は不可能だ。なぜなら、記紀神話こそ日本神話の すべて。これが至上理念だからである。

 次に、戦後史学の場合、記紀神話をもって、後代の 近畿の史官の「造作」とした。神武の侵入も架空とさ れた。したがって到底このような分析は不可能だ。 だからこそこれほど著名の『万葉』の歌に対して的確 な解説をほどこす人は、ついに現われなかったのである。

 『万葉』のこの歌は、当然ながら、この七世紀後半代 の人、天智の意識をしめす第一史料だ。その第一史料に 対して、必要にして十分な解明が与えられぬとしたら、 その史観という名の仮説は、結局不合格の烙印を押され ねばならぬのではあるまいか。

 これを単に地方的な一民話譚として矮小化することに よって、解説してきた - これが従来のすべての万葉 学者の立場ではなかったであろうか。この一点を斯界に 問いたい。

 『記紀』に加えて『万葉集』も古代史解明の史料と して加えられた。『万葉集』からは、東鯷国の姿ばかり か、当然に九州王朝の姿も垣間見られるはずだ。次回は 古田さんの『万葉集』分析の手さばきをみてみよう。

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