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第822回 2007/07/06(金)

「真説・古代史」補充編

銅鐸圏(東鯷国)の神話(2)


 「崇神記」は「神々の祭祀」に次いで「三輪山伝説」を 記録している。この説話は「神々の祭祀」に登場した 意富多多泥古(おほたたねこ)の祖源譚で、父親・ 大物主大神と母親・活玉依毘売(いくたまよりびめ) にまつわる説話である。(以下は岩波古典文学大系より。)

 活玉依毘売、其の容姿(かたち)端正(うるは)しかりき。 是に壯夫(をとこ)有りて、其の形姿威儀(すがたよそほひ) 、時に比(たぐい)無きが、夜半(よなか)の時に ?棭忽(たちまち)到来(き)つ。故、相感(あいめ)でて、 共婚(まぐは)ひして共住(すめ)る間に、末だ幾時(いくだ)も あらねば、其の美人(おとめ)妊身(はら)みぬ。

 爾に父母其の妊身みし事を恠(あや)しみて、其の女(むすめ) に問ひて曰(い)ひけらく、

「汝(な)は自(おのずか)ら妊みぬ。天(を)无(な) きに何由(いかに)か妊身める。」

といへば、答へて曰ひけらく、

「麗美(うるは)しき杜夫有りて、其の姓名(かばねな)も 知らぬが、夕毎(よひごと)に到来て共住める間に、自然 (おのずから)懐妊(はら)みぬ。」

といひき。

 是を以ちて其の父母、其の人を知らむと欲(おも)ひ て、其の女に誨(をし)へて曰ひけらく、

「赤土(はに)を床の前に散らし、閇蘇紡麻(へそを  紡いだ麻糸を環状に幾重にも巻いた物)を針に貫きて、 其の衣(きぬ)の襴(すそ)に刺せ。」

といひき。故、教の如くして旦時(あした)に見れば、 針著けし麻(を)は、戸の鉤穴(かぎあな)より控(ひ) き通りて出でて、唯遣れる麻は三勾(みわ 三輪=三巻き) のみなりき。爾に即ち鉤穴より出でし状(さま)を知りて、 糸の従(まにま)に尋ね行けば、美和山に至りて神の社 に留まりき。故、其の神の子とは知りぬ。故、其の麻の 三勾遣りしに因りて、其地を名づけて美和と謂ふなり。


 この説話を古田さんは次のように解読している。

 著名な説話だが、この話には、一つの奇妙な点がある。 それは活玉依毘売の住居だ。父が陶津耳命だというが、 この神は「陶」(=須恵)と「耳」(耳原)と二つの地 名の連結から成る神である(ただ「津」は海または川の 港津の可能性が大きい)。

 さて、この「陶」は、『日本書紀』に「茅渟県(ちぬのあがた) の陶邑」(崇神紀、大田田根子の出自)とあるように、 和泉国のあたりにあったものと見られる。とすると、右の 説話中〝三勾の麻が遺っていた”という活玉依毘亮の住 居は、堺市近辺だったこととなる。一方の美和山(三輪 山)は、無論奈良県だ。

 とすると、奇妙なことになる。

第一、
 堺から奈良県まで、延々と延びた麻糸、こんな光景はい かにもナンセンスだ。
第二、
 麻糸が「三勾」遺っていたというのは、堺市近辺とな り、美和山(奈良県)とはひどく離れている。これもお かしい。この矛盾はなぜだろうか。

 この説話は、本来三輪山山麓のささやかな民話譚だった のではあるまいか。三輪山の地名起源譚だ。「みわ」は、 先にのべたように「みま」(御真)と相並ぶ、一連の地 名だ。「ま」が「須磨」や「やま」「しま」と同類の地名 接尾辞であるのに対し、「わ」は祭祀の場を意味するよう な、地名接尾辞であろう。

 それはともあれ、ここでは、この「みわ」という地名 をもじった興味深い説話が作られ、語られているのであ る。もちろん、語り手も、聞き手も、本来は三輪山近辺 の人々だったであろう。

 ところが、その信仰圏が拡大し、「三輪山~陶邑」を ふくむ近畿圏が同一文明圏となるに及んで、この説話は 拡大された。三輪山の大物主大神と茅渟(ちぬ)の陶津 耳命の女とを結ぶ巨大説話へと成長するに至ったのであ る。

 その証拠に、右でも「父母」とのべられているけれ ど、活玉依毘売の母の名は出ていない。とりたてた名前 なき父母とその娘、いずれも三輪山近辺の庶民の中の親 娘(おやこ)のもとに、夜半壮夫がかよってきはじめた  - こういった形が、この説話の原形ではなかったか。 一見、素朴に見えるこの説話。実は大和~河内~和泉を 結ぶ巨大近畿圏の成立を告げる第二次発展型だったので ある。それは、もちろん銅鐸圏、東鯷国の神話だ。

 この「三輪伝説」は「日本書紀」では全く様相を異にする。 次のような説話に変わっている。

 是の後に、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひめのみこと)、 大物主神の妻(みめ)と為る。然れども其の神常に晝は見 えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命、夫(せな)に語りて 曰はく、

「君常に晝は見えたまはねば、分明(あきらかに)に其の 尊顔(みかほ)を視ること得ず。願はくは暫(しばし)留りた まへ。明旦(くるつあした)に、仰ぎて美麗(うるわ)し き威儀(みすがた)を覲(み)たてまつらむと欲(おも)ふ」

といふ。大神對(こた)へて曰はく、

「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり。吾(われ) 明旦に汝(いまし)が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。 願はくは吾が形にな驚きましそ」

とのたまふ。

 爰(ここ)に倭迹迹姫命、心の裏(うち)に密(ひそか) に異(あやしぶ)ぶ。明くるを待ちて櫛笥を見れば、遂(まこと) に美麗しき小蛇(こおろち)有り。其の長さ大(ふと)さ 衣紐(したひも)の如し。則ち驚きて叫啼(さけ)ぶ。 時に大神恥ぢて、忽(たちまち)に人の形と化(な)りたまふ。 其の妻(みめ)に謂(かた)りて曰はく、

「汝、忍びずして吾に羞(はぢみ)せつ。吾還りて汝に 羞せむ」

とのたまふ。仍(よ)りて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、 御諸山に登ります。

 爰に倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて急居(つきう どすんと すわった)。則ち箸に陰(ほと)を撞きて薨(かむさ) りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人(ときのひと) 、其の墓を號(なづ)けて、箸墓(はしみはか)と謂ふ。

 是の墓は、日(ひる)は人作り、夜は神作る。故、大坂 山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民 (おほみたから)相踵(あいつ)ぎて、手遞傅(たごし  列を作って手から手に渡して)にして運ぶ。時人歌(うたよみ) して曰くはく、

大坂に 継ぎ登れる 石群(いしむら)を 手遞傳に越 さば 越しかてむかも


 もちろん、古事記の方が原型(古型)であり、日本書紀の 方は「造作」されたものである。それではこの「造作」された 方の説話からはどんなことを読み取ることができるのだろ うか。古田さんの解読を読んでみよう。

 右(日本書紀の方の説)に出てくる大物主神は、前の 説話のそれとは、同名異神とすら思われる。

 前の方では、一種、間の抜けた相貌をもつ。毘売につ けられた麻糸をひきずって帰りゆき、その故山をつきと められる神だ。

 これに対し、『日本書紀』はちがう。大空を駆けて、 故山に帰るという威厳ある神だ。しかも約束を破った妻 (姫)には、敢然として罰としての死を与える。間抜 けどころではない。恐るべき神だ。したがってこの説話 は次のように分析されよう。

第一、
 右にのべたように、この大物主神は空を駆けるという 超能力をもつ神であり、『古事記』の方より、はるかに 発展した位相に立つ説話である。

第二、
 ここでは「在地の中心的な大神たる大物主神」と、 「近畿天皇家の一員たる倭迹迹日百襲姫命」と、この 両者を結ぶ効能をもつ。つまり、崇神による天国系の神 と在地系(地祇)の神との共存政策の実施されたあとに、 「造作」された説話なのである。

第三、「箸墓」の地名説話の形をとっているけれど、 「はし」は本来「は+し」であり、「しき」(し+き 〈城か〉)などと一連の地名だ。「し」と呼ばれる領 域の一部、もしくはその形状をしめした地名、それが 「はし」なのではあるまいか。
 それを換骨奪胎して、「箸」にゴロ合わせした説話。 当然、「箸」がこの地帯(近畿)で使いはじめられて からのちに、成立した説話であろう。

 以上、要するに、近畿天皇家が在来信仰(大物主大神) との結合を求めて「造作」せしめた説話、それがこの説 話の本質なのである。
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