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「真説・古代史」補充編

『ヤマト王権の近畿侵略史』:木津川の決戦


 「東鯷国の行政機構」 で概観したようにヤマト王権は、 10代のミマキイリビコイヱニ(崇神しうじん)」が 大和盆地外への侵略戦争を開始し、支配地域の拡大をはかり、 11代のイクメイリビコイサチ(垂仁すいにん)」の時代に 銅鐸圏(東鯷国)の中枢部を打倒し、その遺産を略 奪した。

 これから「崇神記」「垂仁記」の侵略戦争説話 を読んで、東鯷国滅亡の経過をたどることになるが、 「古代史年表」 <で推定したように、中国では西晋時代、朝鮮では三韓時代、 九州王朝では壹与(邪馬壹国)の後の時代に当たる。

 まずは「崇神記」から。

 ミマキイリビコの侵略は「東方十二道」の平定から始 まっている。「東方十二道」がどこを指すのか、また 行軍はどのようなルートを採ったのかは詳らかではない。 しかし、イワレヒコの轍を踏まぬように、東鯷国 中枢部との正面衝突を避けて、まずは周辺部の地域的な 弱い国家を制圧をする包囲作戦を選んだのであろう。具体的な 地名と人名が書き残されている戦いが二つある。

 大毘古命をば高志(こし)道に遣はし、その子建沼河 別命をば、東の方十二道に遣はして伏(まつろ)はぬ人 等を和平(やは)さしめき。
 又日子坐(ひこます)王をば、旦波国に遣わして、 玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめき。


 高志(こし)道と旦波国の玖賀耳之御笠についての 古田さんの解説を聞こう。

 高志道が越の国(越前・越中・越後)方面への道を指 していることは疑いない。かつて縄文晩期、能登半島に はチカモリ遺跡(金沢市)、祭祀遺跡(羽咋市)、真脇 遺跡(真脇町)等の縄文文明が繁栄していた。それらの いずれの地点まで、大和を発した北陸方面軍が到達した か、またどのようなルートを通ってそこへ向ったか、そ れらは不明である。

 旦波では、玖賀耳之御笠という具体的な敵対者の名前 があげられている。「耳」というのは『三国志』の魏志 倭人伝にも出てくる官名である。投馬国の長官「弥弥」、 副官「弥弥那利」といった風に。近畿の河内・和泉のあ たりにも、「耳原」といった地名があった。弥生期の日 本列島には、各地にこの官名が存在していたようである。

 ちなみに、在位時代を特定できる最初の大王・ヲホド (継体けいたい507-531)は、それまでのヤマト王朝とは 別系統の王であり、越の国からやってきている。後に 詳しく取り上げる予定だ。

 さて、ミマキイリビコの「東鯷国侵略譚」説話は、この後、異母兄の「タケハニヤスの叛乱」を記録している。しかし、タケハニヤスは2代前のネコヒコクニクル(孝元)と「河内の青玉の女」ハニヤスビメ(第三妃)との子だ。また、次代のネコヒコオオビビ(開化)はネコヒコクニクルの第二妃・イカガヒコメを妃とした。ミマキイリビコはその子息である。だから、タケハニヤスはミマキイリビコの叔父に当たる。ああ、ややこしややこし、なのだが、タケハニヤスをネコヒコクニクル(孝元)の子としているのは、『記紀』の表記のルールの一つ「ヤマト王権中心イデオロギー」のルールの適応例だろう。『古事記』の記録にかかわらず、タケハニヤスは東鯷国の中枢(河内・摂津)を根拠地としていた東鯷国側の王であった。

 タケハニヤス軍とヤマト軍との決戦 は山代の国の和訶羅河(木津川)で行われたが、タケハ ニヤスはそこで討たれてタケハニヤス軍は河内へと敗走 している。

 ヤマト軍はタケハニヤス軍の敗走兵を容赦なく追っていく。

 ここにその逃ぐる軍を追ひ迫(せ)めて、久須婆(くすば) の渡(わたり)に到りし時、皆迫め窘(たしな)めらえて、 屎(くそ)出でて褌(はかま)に懸(かか)りき。故、其 の地を号けて屎褌(くそばかま)と謂ふ。 今は久須婆と謂ふ。
 又その逃ぐる軍を遮りて斬れば、鵜の如く河に浮きき。 故、その河を号けて鵜河と謂ふなり。
 又その軍士を斬りはふりき。故、其の地を号けて 波布理曽能(はふりその)と謂ふ。


 皆殺しの殺戮を得意げに記録している。そして地名説話 にことよせて、東鯷国側への差別意識をあからさまに 表明している。

 右で「屎褌」といっているのは、現在の「樟葉」だ。 河内国北部である。もちろん、樟葉の地名の語源は右 のようなものとは無関係だ。

 「~葉」というのは、「生葉(いくは)」(筑後)、「志芳(しは)」 (安芸)といった地名の接尾辞である。
 「くす」の「す」は「須磨」の「す」、「烏丸 (=唐須磨か)」の「す」であろう(「ま」は 「やま」「しま」などの「ま」。地勢をしめす接尾辞)。
 「く」は「ちくし」「つくし」の「く」と同じく、 〝相重なれる”状況をしめす、むしろ賞め言葉であろう。

 だが、それを近畿天皇家の侵略成功譚にこじつけた地 名説話に仕立て直しているのである。当然、被征服者側 (河内・摂津側)への蔑視・賤視の証拠、その反映とし て注目される。

 この点からも、この決戦が、単なる天皇家内部の争乱 などでなかったことが示唆されていよう。大和盆地内部 の一豪族だった天皇家にとって、盆地外の河内、あの長 髄彦の故地を侵略し、征服しえた記念すべき一大決戦、 それがこの木津川の決戦だったのである。その決戦の地 は、東鯷国側にとって神聖の地だったようである。

 (波布理曽能について)
 これは現在の京都府相楽郡祝園だ。この字面のしめす 通り、ここは「祝部(はふりべ)」のいるところ、 「祝」と呼ばれる祭儀の行われるべき神聖の地だったこ とであろう。

 しかるに、天皇家側はこれに対し、「ハニヤスの軍を はふったから、はふりそのだ」という珍解釈を与えてい る。崇神側の軍の中には、勝ち軍に酔い痴れて、そのよ うな駄じゃれを口にしたやからもいたかもしれぬ。しか し、それをレッキたる地名説話めかして、伝承するとは。 少なくとも、ここを神聖なる「祝園」としていつき 伝えてきた人々の側から発生すべき説話ではない。

 明らかに、崇神たちと建波適安王たちと、その両者は 祭儀の様式を異にしていたのである。
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「真説・古代史」補充編

『ヤマト王権の近畿侵略史』:イワレヒコから第二代への継承

 「ヤマト王権の近畿侵略史」とは裏を返せば 「東鯷国の滅亡史」である。東鯷国側の 史料は残されていないから、当然のことながら、 『記紀』の記録を頼りに解読することになる。

 イワレヒコは奈良盆地に侵入し、その一角に拠点を確保 することに成功した。しかし、その後初期八代のイワレヒコ の後継者についての記録は、一般に「欠史八代」と言われ ているように、内容の乏しいものである。戦後史学会は、 これを理由にイワレヒコを含めて初期九代の「天皇」は 8世紀の吏官による「造作」であり、架空の人物と断じた。 一方、皇国史観論者はこの「欠史」には見てみぬふりを するほかなかった。しかしもちろん、大日本帝国下の 教育ではそれには知らんふりを決め込んで、この九代も含 めて、歴代天皇名の棒暗記を全生徒に強いてきた。覚えら れない者には鉄拳という罰が容赦なく飛んだ。いま、 珍タロウが行っている「君が代の強制」はその愚行の延 長上にある。「君が代」を歌わない者に対して、処分と 見せしめ(非行扱いの研修)という拳をふりあげて、 恫喝している。

 さて、古田理論を論破する理論も考古学的発見も今の ところ皆無である。古田理論を正しいと断じることが、 私(たち)の理性の帰趨するところである。従って、 私(たち)はイワレヒコとともに「欠史八代」も架空の 人物とは看做さない。

 イワレヒコ後の初期八代の王の記録のほとんどは 「だれそれを娶って、なになにという王子や王女をもうけた。 なになにはなにがしの祖である。」といった血統記に始終し ている。しかし、これだけの記事からも読み取れる重要事 がある。

 各代の王が娶ったとされる后の出自のうち、注目すべきものを 抜き出してみる。

1 カムヤマトイワレヒコ(神武ジンム)

 イワレヒコは既に日向でアヒラヒメと結婚していたが、 奈良でも土地の娘(イスケヨリヒメ)を娶っている。イス ケヨリヒメは三輪の大物主神の娘とされている。つまり、土着 の最高神にゆかりの娘である。いわゆる政略結婚である。

 アヒラヒメは二人の王子(タギシミミ、キスミミ)を 産んでいる。イスケヨリヒメは三人(ヒコヤイ、カムヤイミミ、 カムヌナカハミミ)の王子を産んでいる。そして、 イスケヨリヒメの末子・カムヌナカハミミ(綏靖スイゼ イ)が第二代を継いでいる。その王位 継承の正当化説話が「神武記」に記録されている「タギ シミミの叛乱」と呼ばれている説話である。初めての王 位継承をめぐる権力闘争において、早くも血肉同士の殺 し合いをやらかしている。

 前回確認したように、この説話は第二代王のカムヌナ カハミミの利害にかなった形で伝承(古田さんにならって「選定・伝誦 ・公布」という三語を総合した意で用いる。)されてき たものだ。その「お話し」はおよそ次の通りである。

 イワレヒコの死後、タギシミミは義母のイスケヨリヒメ を娶った。そしてその后の子、つまり義理の子にして異母弟 の三人の王子を亡き者にしようとした。それを知った三人の母親イスケヨリ ヒメがそのことを三人の王子に通報する。三兄弟は 逆にタギシミミを殺そうと兵を起こした。 。 (以下は『神武記』より)

 ここにその御子聞き知りて驚きて、すなはち當藝志 美美(タギシミミ)を殺さむとしたまひし時、神沼河耳 (カムヌナカハミミ)命、その兄神八井耳(カムヤイミミ) 命に曰(まを)ししく、「汝(な)ね、汝命(いましみ こと)、兵(つはもの)を持ちて入りて、當藝志美美を 殺したまへ。」とまをしき。故、兵を持ちて入りて殺さ むとせし時、手足わななきて、得(え)殺したまはざり き。故ここにその弟神沼河耳命、その兄の持てる兵を乞 ひ取りて、入りて當藝志美美を殺したまひき。故またそ の御名を称(たた)えて、建沼河耳命と謂ふ。

 ここに神八井耳命、弟建招河耳命に譲りて曰しけらく、 「吾は仇(あた)を殺すこと能はず。汝命既に仇を得 殺したまひき。故、吾は兄なれとも上(かみ)となるべ からず。ここをもちて汝命上となりて、天の下治らしめ せ。僕(あ)は汝命を扶(たす)けて、忌人(いはひび と)となりて仕へ奉らむ。」とまをしき。


 これは「タギシミミの叛乱」ではなく、「ヌナカハミミの叛乱」 であろう。しかも、兄を差し置いて末弟が王位を継承した、 ということをも正当化している説話だ。はじめに、タギ シミミ殺害を弟が兄に命令しているのも奇妙だ。また、 タギシミミ殺害の場面に長兄が影も見せていないのも 奇妙だ。

 タギシミミの弟・キスミミの消息は何も伝えられていない。 いずれにしてもこの段階でヤマト王権は、血縁的には 日向とは切れたことになる。そして、三輪の大物主神に ゆかりの母を持つ王子が後を継いだことが、ヤマト王権 が奈良の地にある程度の地位を固める事に成功した一因 だったのではないだろうか。

 初代イワレヒコ(神武ジンム)から第九代ネコヒコオ オビビ(開化カイクワ)までの后の出自を抜書きしてみる。

1 イワレヒコ(神武ジンム)
 三輪の大物主神の女(むすめ)

2 ヌナカワミミ(綏靖スイゼイ)
 師木県主(しきのあがたぬし)の祖

3 シキツヒコタマテミ(安寧アンネイ)
 県主波延(あがたぬしはえ)の女

4 ヒコスキトモ(懿徳イトク)
 師木県主(しきのあがたぬし)の祖

5 ミマツヒコカヱシネ(孝昭カウセウ)
 尾張連(おわりのむらじ)の妹

6 タラヒコクニオシビト(孝安カウアン)
 姪

7 ネコヒコフトニ(孝霊カウレイ)
 十市県主(とをちのあがたぬし)の祖の女、 春日の比売(ひめ)、大和の比売とその妹

8 ネコヒコクニクル(孝元カウグヱン)
 穂積臣等(ほずみのおみら)の祖の妹と女、 河内の青玉の女、尾張連の祖の女、木国造 (きのくにのみやつこ)の娘

9 ネコヒコオオビビ(開化カイクワ)
 旦波(たには)の大県主(おおあがたぬし)の女、 庶母(ままはは)、丸邇臣(わにのおみ)の祖の妹 葛城の垂見宿禰(たるみのすくね)の女

 ここに表われる「大県主」や「県主」や「国造」が 東鯷国の官職名であることは 「東鯷国の行政機構」 で論証した。つまり上の抜書きは次ことを如実に示している。 すなわち、初期八代の王たちは、奈良盆地内から始めて、 やがて盆地外にも触手を延ばしながら、もっぱら政略結 婚に精を出して、東鯷国に徐々に潜入していった。
第837回 2007/07/29(日)

「真説・古代史」補充編

『記紀』の「編成のルール」


 古田さんの古代史解明のための方法論の骨格は

文献(『記紀』、中国の諸史書など)を「一切の先入 観を排し、まず原文全体の 表記のルールを見出す。 つぎにそのルールによって問題の一つ一つの部分を解 読する。」

という点にあった。

 次回からのテーマは「神武記(紀)」以降の『記紀』 の記録をもとに、東鯷国滅亡の歴史(逆に言えば、 ヤマト王権による東鯷国略取の歴史)を解読する ことである。この場合、『記紀』の「表記のルール」と ともに、『記紀』の「編成のル ール」を見極めておくことが肝要である。その編 成のルールを、大きく二つ指摘することができる。

(一)「ヤマト王権中心イデオロギー」のルール

 最も顕著な例をあげる。「景行記」につぎの一文がある。

凡そこの大帯日子天皇の御子等、録(しる)せるは 廿一王(はたちまりひとはしら)、 入れ記さざるは五十九王(いそじまりここのはしら)、 并せて八十王(やそはしら)の中に、若帯日子命と倭建 命、また五百木之入日子命と、この三王(みはしら)は、 太子(ひつぎのみこ)の名を負ひ、それより余(ほか) の七十七王(ななそじまりななはしら)は、悉に国国の 国造、また和気、また稲置、県主に別けたまひき。

 オオタラシヒコ(景行天皇)には王子が80人いて、 3人の太子以外の77人は国々や諸地方の長官に任命した、 と言っている。まともな判断力の持ち主で、この記事を 史実と考える人はいまい。

 これは史実ではなく、「天皇家中心の血族国家」イデオ ロギーの表明しているものにほかならない。つまりこの 記事は、「わが国の各地の豪族や大中小の首長たちはす べて近畿天皇家の分家であり、天皇家こそすべての豪族 たちの血脈中心なのだ」と主張しているのだ。このイデ オロギーの表明はいたるところに現れる。『記紀』を 正しく解読する上で常に念頭に置くべきルールである。

(ニ)「王位継承の正当化」のルール

 『記紀』の各「天皇記(紀)」の説話は、次代 か次々代の天皇の治世に記録される。そのとき、 伝承あるいは公布される説話は、それを伝承・公布 する次代あるいは次々代の天皇の利害によって選定され る。そういう意味での「造作」が行われている。

 「『古事記』の説話は真実である」というとき、それは 「その説話が史実である」ということを意味するものでは なく、「次代の天皇の時代にその天皇の側から、そのよ うな説話が選定され、伝誦、公布された」という意味で 史実なのだ。顕著な一例として、古田さんはここでも「景行記」 を取り上げている。

 ここで不審なこと(従来から注意されていることだけ れど)、それはこの記が、名は「景行記」でありながら、 その内容は小碓(こうすの)命、つまり倭建(やまとたける) 命のことばかりが語られていることだ。彼が主人公だ。 景行はむしろ、西への征伐(暗殺行)から帰った小碓命を 直ちに東への征伐に追いやる非情な王者。そういった形で 出てくるだけだ。いわば舞台まわし役のように。

 このような不思議はなぜ生じたか。これも、先の命題 から見れば簡単だ。景行(十二代)の次代(十三代)は 成務。その次(十四代)は仲哀だ。その仲哀の時代に、 この景行記が作られたと考えてみよう。その仲哀は、 前代の成務の子ではない。問題の小碓命の子なのであ る。つまり景行~成務と仲哀の間には、系譜上の断絶 があり、仲哀は小碓命系なのだ。

 そして果然、景行記に景行その人は不在に近く、 もっぱら小碓命の功業が麗々しく、その記を満たしてい るのである。そして仲哀当人をふくむ小碓命系譜まで、 景行記の中に特別席を与えられているのだ。何と露骨な やり口だろう。

 これに対し、「景行その人には、たいした逸話がな かったから」。こんな説明をする人がいるだろうか。 いたとしても、そんな説明に誰が納得するだろうか。

 その理由は他にはない。景行~成務系をさておいて、 王権を獲得した仲哀の治世、景行その人や成務その人の 説話を選定することは喜ばれなかった。仲哀の利益に反し たからである。景行記に景行の説話なく、成務記に成務 の説話がない。それはこのためだ。

 成務の治世には、前にもすでにふれたように、

大国小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺、及び大県小県 の県主を定め賜ひき。

とあるように、天皇家の制度が定められた重要な治世だ。 その治世に逸話がなかったことなど、考えられない。 「後世造作説」(津田史学)に立ったとしても、ここに 説話を「造作」しないことは、おかしい。これに対し、 これを仲哀治世の利益に立つ場合には、容易に了解し うるのである。

 すさまじいまでの当代(作った治世)の利益の反映ぶ りではあるまいか。

 「ヤマト王権」古代史における「定説」という誤答や 疑問のまま放置されていた問題点が上の二つの「編成の ルール」を考慮することによって、明らかに解かれてい くだろう。
第836回 2007/07/27(金)

「真説・古代史」補充編

『神武東侵』:「天の下」とは何か。


 「神武東侵」説話は

「何地に坐(ま)さば、平らけく天(あめ)の下の政(まつ りごと)を聞しめさむ。なお東に行かむ。」

というイワレヒコ兄弟の談合で幕が開き、

かく荒ぶるる神等を言向(ことむ)け平和(やは)し、 伏(まつろ)はぬ人等を退(そ)け撥(はら)ひて、 畝火の白檮原(かしはらの)宮に坐しまして、 天の下治(し)らしめしき。

という勝利宣言で幕を閉じた。

 今回のテーマは「記紀」に頻出するこの「天の下」 というキーワードの意味である。

「天の下治(し)らしめしき。」という表現をこれま ではどのように解釈してきたか。

 皇国史観者の場合は「日本全土統治」という本居宣長 の解釈を継承してきた。もちろん肯定的に。これを原点に 「記紀」を読んでいる。だから、神武時代から近畿天皇家 は日本全土の支配者だったと言う。

 一方戦後史学会は「日本全土統治」という解釈は同じだが、こ れを否定的にとらえる津田左右吉の観点を継承してきた。 つまり、神武時代から近畿天王家が日本全土を支配した などありえない架空事だという点から、「記紀造作説」 の原点とした。

 古田さんはこうした従来の解釈に疑問を呈して言う。

 けれども、果して「天下」とは、そういった意味だろ うか。中国の典籍では、この語が〝中国の天子の支配す る全世界″という意味で用いられたことは、周知のとこ ろだ。そのミニチュア版、つまり〝天皇統治下の日本全 土″、そのように解して疑わなかったのである。これは 正当だろうか。

 記紀では、「天の下」とは、「天下(あまくだ)る」 という動詞と一連の術語である。たとえば神武記に次の 一文がある。

天つ神の御子、天降り坐しつと聞けり。

 神武より先に、この地(近畿)に「天降って」きてい たという(神武記)、邇芸連日命(にぎはやひのみこと) の言葉だ。すなわち、 神武にかぎらず、「九州近辺から近畿へ」来ることを 「天降る」といっているようである。その「天降った」 先、そこが「天の下」なのだ。

 神代の巻では、「天国(対馬海流領域)から筑紫・出 雲・新羅へ」、これが「天下る」という動詞の用法だった。 それぞれの三領域が「天の下」ということとなる。

 これに対し、ここでは「天国拡大圏(九州)から近畿 (または九州以外の他の領域)へ」、これを「天下る (降る)」と称しているのだ。したがって神武の場合、 「大和盆地」が「天の下」となろう。あるいは大和盆地 の南半くらいかもしれぬ。この用語の本質は、広さでは ない。宗教的・政治的な、古代独特の思惟に立つ術語な のだ。

(中略)

 はからずも、この「天の下」問題も、同一性格の根本 問題をもっていた。宣長や津田左右吉は、ともにこの用 語のもつ古代宗教的・政治的な原初的術語性に対して一切 顧慮しなかった。ために一方は皇国至上主義に達し、他 方は神武(および以後八代)架空説という偏倚の啓蒙主 義史観へと逸脱してしまったのである。

 したがって、わたしには、この「天の下」問題の固有 の原初性格の発見は、ことの筋道上、画期的な意味を持つ。 そのように考えられたのである。

 引用文中の邇芸連日命の言葉の古田さんの解釈には 誤解があるようだ。しかし、全体の論旨に影響はない。 いやむしろ、その論旨はより確かなものとなる。

邇芸連日命の言葉は

天つ神の御子、天降り坐しつと聞けり。故、追いて参降(まいくだ)り来つ。



となっている。つまり、イワレヒコを「天つ神の御子」 と呼んでいて、そのイワレヒコを追って自分も 「参降(まいくだ)り来つ。」(天降ってきた)と言って いる。つまり、邇芸連日命は自分が他所(九州)から奈良 盆地にやって来たことをも「天降り」と認識していること になる。

 「天の下」が以上のような意味であれば、イワレヒコが 白檮原宮で「天の下治(し)らしめし」たという表現は 偽装欺瞞ではなく、なんら問題はない。従来の論者が 勝手に拡大解釈して「建国」などという笑止な言挙げ をしたというわけだ。

 古田さんが上のように論じたのは1985年前のことである。 その後、この「天の下」の解釈はさらに深められている。 1991年に長野県白樺湖で行われたシンポジュウムで 外岡則和という方が『「天の下治(し)らしめしき。」 とは「分国統治」のこと ではないか』と提言したのがきっかけだったという。

 この解釈によれば 「日向から吉備の高島宮まで」 で提出した疑問点③

 大和が当初からの目的地とすると、各寄港地での滞在年 数が、単なる寄港としては長すぎるのはなぜか。

という不審は解消する。

 イワレヒコ兄弟は「猶東に行かむと思ふ」と言ってい るだけであり、決して「猶大和に行かむと思ふ」といって いるわけではないのに従来は「猶大和に行かむと思ふ」という 意味に改変して読んできている。上の疑問点はそのような 読み方から出てきたものであった。もし「出 発の時点」においてすでに、「到着予定地」が大和で あったとしたら、その途中の、阿岐国の多祁理宮・吉備 の高島宮は単なる「経過地」にすぎない。なのになぜ、 その「経過地」で「七年」[八年」という長期間の滞在 が必要だったのか。

 しかし、「天の下治らしめしき。」が 「分国統治」(あるいは植民地としての入植)という 意味なら「七年」や「八年」は、むしろ、短すぎる。 逆に、なぜこんなに短いのだろうという疑問がわく。 この点について、古田さんは次のように説いている。

 右の各地は、最後の「近畿侵入」のような「武装侵路」 とは異なり、「新地」の提供をうけての「平和植民」 だったのではあるまいか。もちろん、基本的な性格とし てであろうけれども。

 当時は、現代とは異なり、人口に比して「空き地」の 残された時代であったから、そのような「平和的植民」 の余地が十分にあったであろう。

 (著名な事例として、鮮卑族などに追われ、殷王朝に 保護を求めた周、また秦に追われて箕子朝鮮に亡命を求 めた、燕の衛満などがある。)

 もっとも、それらの各地とも、狭い日本列島内のこ とであり、「無人の広野」など、ない。せっかく与え られた「空地」も、農地や漁津として不適当な地帯であ れば、より適地を求めて周辺の先住民とトラブルを生ず ることは、当然ありえよう。なればこそ、神武たちはニ たび、三たび「与えられた領地」を放棄して次ぎなる適 地を求めて移転したのであるまいか。

 そのような模索のあげく、最後の「平和的植民地」 だった吉備を根拠地として、「武装的侵入者」に変 身した。それが「速吸門」(鳴門海峡)を経て大阪湾に 突入した、神武たちの最終の決断だったのである。

 これは、「恣意的に原文を改定をしない」という立場 からの「不審な長期滞在」に対する一解釈にすぎないけ れども、これまでのところ、矛盾を解く唯一の解釈であ る。もちろん、森教授は「長期滞在」問題には一顧だに しない。
第835回 2007/07/26(木)

「真説・古代史」補充編

『神武東侵』:生き返る挿入歌謡(3)



蝦夷(えみし)を 一人(ひたり) 百(もも)な人
人は言へども 抵抗(たむかひ)もせず


 『古代歌謡集』は

「蝦夷を一人当千だと人は言うが、 われわれに対しては手向かいもしない。」

と口語訳している。戦勝歌だ。これを「神武東侵」の 場面で解釈すれば、「蝦夷」は東鯷国(銅鐸圏 世界)の人々を指すことになる。九州王朝の支配領域 の拡大にしたがって「熊襲」という蔑称地域は南へ南 へと移動する。同じように「蝦夷」という蔑称地域は 東へ東へ(あるいは北へ北へ)と移動する。だから九州王朝分流のイワレヒ コたちが近畿の先住者たちを「蝦夷」と呼んでも別段 おかしくはない。

 しかしこれまでの論証で明らかなように、「神武記(紀)」の 挿入歌謡はその場面(大和)ではじめて創作されたも のではなく、故郷(福岡県糸島郡)で歌われてい歌を それぞれの場面(大和)で転用して歌ったものだった。 古田さんは「糸島カラオケ」と言っている。いい得て妙 である。

 古田さんは挿入歌謡⑦も「福岡県糸島郡近辺で歌われ ていたもの」とし、この地域に置きなおして考察をして いる。

では、糸島郡近辺にこの歌が示すような歴史的事件が あっただろうか。もちろん時代は弥生時代に限られる。

 古田さんは『一つあった。「天孫降臨」だ。』と言う。 古田さんにとっては当然の帰結なのだろうが、私には 以外も以外、「あっ!」と思わず声が出るほど驚いた。 この発想の柔軟さには感服する。以下、古田さんの講演録 から引用する。

 (ニニギたちは)壱岐・対馬の「海人国(天国)」領域から、ここ 糸島・博多湾岸へと侵入・占領を行った。そのさいの歴 史的経験を歌ったものではないか。この疑いだ。

 もちろん、現在の歴史学界では、「天孫降臨」を歴史 的事件と見なす研究者はいない。しかし、わたしはちが う。これを弥生時代の日本列島の一角(博多湾岸)に おこった、もっとも重大な歴史的事件の一つ、と見な した。そしてその論証を行った。これが「シュリーマン の原則」の検証の一つとなった。

 すなわち、弥生時代前半期、壱岐・対馬を母国とする 軍事船団が糸島・博多湾岸に侵入し、筑紫を中心とする 北部九州を支配した。これが「天孫降臨」と称される事 件である。

 この「非合法・理不尽の暴挙」を〝合法化”する ために、〝出雲なる、大国主命とその子たちの承諾”を えた、と称した、いわゆる「国ゆずり」がこれである。

 このような立場に立つとき、神武の時代、この筑 紫(糸島・博多湾岸)で〝伝承”された、というより、 言い伝えられていた武功譚、それは何か。もちろん、 「天孫降臨」だ。それによって、彼等(侵入者、ニニギ たち)はこの地、筑紫を中心とする領域の支配者となり えたのであるから。

 そのときのことを歌った歌、それがこの歌だったとし たら。「そのとき」とは、弥生前半期、「前末中初 (弥生前期末、中期初頭)」といわれる時点だ。神武の 時点は、弥生後半期、おそらく「二世紀頃」だ。

 そのときの被侵入者、それが「愛瀰詩(えみし)」 (『日本書紀』原文表記)だ。このときの被侵入者、それ は、板付の縄文水田・弥生初期水田の民である。そして 板付の環濠集落の人々である。それがこの「愛瀰詩」と 呼ばれた人々だったのではあるまいか。

 糸島郡にも、曲り田遺跡等がある。板付の環濠集落。 その環濠は、鋭くて深い。V字型に掘りこまれた上、さ らにその最深部がひし形に掘りこまれている。いったん そこに落ちたら、二度とはい上がれない形だ。さらに、 その周縁に、二重(あわせて三重)の環濠がとりまいてい たようである(全体で「二重」までは確認。福岡市教委 の調査による)。

 当時、このように頑強・堅固なとりでは、周辺の地帯 の人々からどのように見られていたであろう。そしてそ のとりでに拠る人々は。

 「えみしを、一人、百な人」という表現は、その人々に付せられた「令名」ないし 「勇名」だったのではあるまいか。

 その〝名にし負う人々”が、われら(ニニギたち) の前に、もろくも屈服したという〝高ぶり”が、 「抵抗もせず」の末句に表現されていたのではあるまい か。

 もちろん、これは一個の「仮説」にすぎぬ。いや、 「仮説」にも達しえぬ、一個の作業仮説のはじまり、そ の「ひとかけら」であるかもしれぬ。そのようなものと して、ここに提起しておこう。

 ただ、この「神武東侵」説話中で、神武たちの 歌った、この一種不可解な歌が、彼等が故国(筑紫)で 歌い馴れていた戦闘歌謡の一つであったこと、その点は、 今回の分析の論理の筋道上、疑いえないようにわたしに は思われる。

 この講演録に付された補足文でもふれられているが、ここ で私は『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)を 思い出した。その存在を『古代史の未来』で初めて知っ た。『和田家文書』と呼ばれている膨大な文書群の中の 一つである。その文書中に「天孫降臨」に関わる驚くべ き記事が記録されていると言う。おおよそ次のようであ る。

 東北の支配者であった安倍氏の祖先は「筑紫の日向 (ひなた)の賊」に追われて津軽(原文では「東日流」 と表記している)に亡命してきた安日(あび)彦・長髄 (ながすね)彦という兄弟の一族だと言う。ここで言う 長髄彦は、もちろん、イワレヒコの宿敵の「登美(とみ)の那賀須泥毘 古(ながすねびこ)」とは別人である。また「筑紫の日向(ひなた) の賊」とは「天孫降臨」という名の侵略をしてきたアマ テルの孫・ニニギたちのことであろう。古田さんの理論と 見事に呼応している。

 『和田家文書』が世に出たときから、これに対して「偽書」 呼ばわりをして、和田家や古田さんを誹謗中傷する学者が 多くいたようだが、古田さんによる緻密な反論で「偽書」 説は論破されている。しかしなお、破綻した「偽書」説に 固執している学者がいると言う。ヤマト王権一元主義者 にも劣らぬ頑迷さである。

 『和田家文書』の成立事情とそれらの研究が古田さんに 委託された経緯を『古代史の未来』(明石書店1998年刊) から引用する。

 昭和薬科大学の12年間における最も貴重な収穫のひと つ、それは和田家文書である。

 当文書は青森県五所川原市のリンゴ農家、和田喜八郎 氏の宅に蔵されていたものである。1947年、当文書は同 家の屋根裏より降ろされ、同村の郷土史家の注目を受け、 やがて市浦村より公刊されるに及び、世間に知られるに 至った。

 この文書は、江戸時代の後期、寛政年間(1789~1801) を中心とする時期において、秋田孝李、その妹りく、門 人和田長三郎吉次(りくの夫)の三人の作成によるもの である(吉次は喜八郎氏の祖)。

 その内容は、右の時代以前の文書を神社仏閣等に探り、 これらを書写したものを一とし、同時代に遺存した伝承 を各所に求め、これらを記録したものを二とし、自分た ちの会得した歴史観をもって自ら造文した文章を三とす る。その実質は、津軽藩による津軽藩史を非とし、その 成立(天正年間、1573~92)以前の歴史を復元しようと するものであった。

 天正年間の大浦為信を第一代とする津軽藩以前は、安 倍氏(後に安藤・安東・秋田と、支配領域の変転によって 改姓)の統治に属していた。安倍氏は安日彦・長髄彦を 祖とし、前九年の役・後三年の役に近畿天皇家側の軍 (八幡太郎義家ら)に敗れた。そのため、岩手県 (安倍館、岩手市)を中心としていた勢力が藤崎 (青森県)へと後退し、のち秋田等を経て三春 (福島県)に転じ、三春藩として幕末に至った。 明治維新以後、秋田子爵となった。

 秋田孝李は三春藩の藩主、秋田千季(ゆきすえ)を 義父とし、その信頼と経済援助と委嘱を受け、幾十年 の歳月をかけて収集を完成した。それが『東自流外三 郡誌(つがるそとさんぐんし)』その他の和田家文書 である。

 当文書の第一原本は、秋田日和見山に寓した孝季宅が 火災に遭ったため、全焼した。

 ところが幸いにも、門人吉次によって副本が作られて いた。孝季は、吉次・りくの招きによって五所川原市 (大光院、現八幡神社)に移り、右の副本をもとに、 同文書の再完成につとめること永年、これが第二原本で ある(なお秋田家への献上本も火災で焼失)。

 この第ニ原本は、今なお和田家の屋根裏(密室)に蔵 されているようであるが、末だ公開を見ていない(私は これを「寛政原本」と呼ぶ)。

 1947年、取り出されたのは「寛政原本」ではなく、幕 末から明治を中心に、大正・昭和(14・5年ころ)までに 書写(ただし原漢文は〝読み下し文″として書き直され ている)された新写本である。和田長三郎末吉・長作 (喜八郎氏の曾祖父および祖父)の両人を主とした作業 であった(私はこれを「明治写本」と呼ぶ)。

 この「明治写本」は、先述の『市浦村史:史料編』の 他、「北方新社本」(弘前市)「八幡書店本」(東京都) と重ねて出版されたが、なお「北鑑」「北斗抄」など彪 大な文書群を含んでいる。

 これらの貴重な未公開文書群が、喜八郎氏より当研究 室に委託され、その整理・研究につとめ、現今に至った。

 なお、右の「明治写本」以外にも、秋田孝季・りく・ 吉次の各自筆本もしくは自筆奥書本も、同氏より当研究 室に委託された。
第834回 2007/07/25(水)

「真説・古代史」補充編

『神武東侵』:生き返る挿入歌謡(2)


 次は挿入歌謡②③④
 ②③はいずれも二つの決まり文句

みつみつし 久米の子らが

という序詞のようなフレーズに始まり

撃ちてし止まむ

というリフレーンで終わっている。
 ③にも同じフレーズが見られる。⑤にも「撃ちてし止まむ」 という句が現れている。

みつみつし 久米の子等が」について
 繰り返し久米部が歌われているが他の部族への言及がない。 「大伴」も「中臣」も「蘇我」も、その影さえ出てこない。 イワレヒコが率いていた侵略軍の本隊は「久米」軍団だけだった といわざるを得ない。

 皇国史観者は「神武東侵」などとはもちろん言わない。 「神武東遷」という。イワレヒコは全軍を率いて、日向から 大和へと「遷都」したのだという意が込められている。 イワレヒコが日向においてすでに日本の中心権力者であった ということを暗黙の前提としている。これが妄想にしか過 ぎないことは、これまでの理論をたどってきた人には 明らかなことだろうが、弥生期における九州の考古学上 の事実を示すだけで明らかだろう。

 戦後史学ではどういっているか。また津田左右吉の 言説を聞いてみよう。古田さんの講演録から。


『約言すると、東遷は歴史的事実ではないので、 ヤマトの朝廷は、後にいふやうに、初からヤマトに存 在したのである。東遷の物語が魏志によつて知られる 三世紀ごろのツクシの形勢に適合しないのも、クマソ に占領せられてゐたヒムカの状態と一致しないのも、 またこの物語によつて国家の形づくられた情勢のわか らないのも、当然である。』(『日本古典の研究』より)

 このようにのべた左右吉は、ここに「久米の子等」 の言葉が頻出するのも、ただ「久米部の歌」を〝引用” し、利用したにすぎず、と考え、この間題のもつ重要性 に対し、さして注目しなかったようである。

 上の『日本古典の研究』からの引用文が全面的に書き 換えられるべきだということも、これまでの理論をたどってきた人には 明らかなことだろう。

 さて、最後に挿入歌謡⑤
 これの従来の論者を悩ました歌謡だ。改めて、 『日本書紀』版の方を掲載する。

⑤’
神風の 伊勢の海の
大石にや い這ひ廻る 細螺の 細螺の
吾子よ 吾子よ
細螺の い這ひ廻り
撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ


 そう、「伊勢の海」が悩みの種なのだった。 ヤマト王権一元論者は「伊勢の海」といえば 「伊勢国(三重県)の海岸部」と、何の疑問ももたずに 決めて掛かった。その海中に「大きな石」があり、 そこを這い回る「しただみ」の生態を観察している歌 と考えた。しかし、「神武東侵」の経路には「伊勢」はな い。また「神風の」という枕詞も不審だ。もちろん、 伊勢神宮が建造されて「伊勢」がヤマト王権の聖地とし て重要な土地となるのはもっと後の時代だ。

 この歌謡もイワレヒコの父方ゆかりの地に戻して解読すれば、 全ての疑問点が解消される。古田さんの解読を読んでみよう。

 ところが、これも実は、別の意味があったんです。も う一度、糸島郡の地図をみて下さい。ここに伊勢浦とい う所がございます。そのちょっと北に、神在(かむあり) 村の伊勢田(いせだ)という所があります。さらに、大 石という所がある。大石という地名はいくつかありまし て、師吉(しき)村の大石とか、元岡村の大石、実は 伊勢浦の所にも字(あざ)・大石という所があるんです。

 伊勢浦は現在陸地ですが、弥生時代には海が入って来 ている。だから「伊勢の海」。

 そこに大石という地名がある。 私は、ずっとこれは大きな石のことだと思っておったんです。 大きな石があるから地名についたんでしょうけど、地名 なんです。

 それに、「神風」というのは「神が瀬(かむがせ)」 です。この辺、「○○が瀬」というのが並んでいるんで すが、これは神在(かむあり)村の神が瀬。

 つまり「神風の伊勢の海の大石の」というのは、全部 地名なんです。

 「這い廻ろふ細螺」っていうのは貝ですよ。これ はあっちこっちにいて、三重県の方にもいるでしょうけ れども、こちらの福岡県にもいる。ぐるっとまわりなが ら浅いところを這っていく。それが細螺。「そこの大石 の、細螺の這って行くのをおとりよ。吾子(あこ)よ」。 日本書記の方は「吾子よ、吾子よ」。つまりこれは、 子どもに呼びかけている歌なんですわ。「そこの大石に、 ほら細螺の這いっている。あ、そこ、まわったまわった。 早くお取り」。こういって、父親というより母親でしょ うね。母親が子どもに呼びかけている歌なのではないで しょうか。

 「撃ちてし止まむ」というのは、ここで歌ってい るのは軍隊ですから、最後に「撃つちてし止まむ」と自 分達にふさわしい結び言葉をつけただけで、本体は自分 たちが子どもの時に親から教えられた童謡のような歌の 一つなのだと思います。そういうのは、いまはもうほと んどなくなってしまいましたけど、昔はたくさんあった んでしょう。そういう歌の一つなんです。それを思い出 して、「撃ちてし止まむ」という言葉をくっつけて、こ の侵略軍は歌っているわけです。

 ちなみに、岩波古典文学大系『古代歌謡集』では 「細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ」を 「細螺が這い回っているように、敵を取り巻いて打ち滅 ぼそう。」と訳している。伝承の歌謡に「撃ちてし止まむ」 を取って付けたのではなく、そのときの戦いのために 作られたものと解しているようだ。

 以上で「神武東侵」説話の解読を終わるが、講演録 (「神武歌謡は生き返った」)は上に引用した部分に 続いてたいへん興味深い話しが記載されている。『日本 書紀』の「神武東侵」説話には『古事記』にはない歌謡が 2篇あるが、そのうちの1篇

蝦夷(えみし)を 一人(ひたり) 百(もも)な人
人は言へども 抵抗(たむかひ)もせず


の解読である。(次回につづく)
第833回 2007/07/24(火)

「真説・古代史」補充編

『神武東侵』:生き返る挿入歌謡(1)


 前回と前々回に掲載した「神武東侵」説話の挿入歌謡 ①~⑥を解読するのが今回のテーマだ。

 まず、挿入歌謡①が「久米部に伝承された歌」だとすれば、 当然この歌を久米部の故郷に置きなおして読まなければ いけない。では、久米部の故郷はどこか。ここでもう一 度「神武東侵」の始まりのコースを振り返ってみよう。

 イワレヒコ兄弟はまず日向から宇佐(豊前)へ赴いた。 宇佐はイワレヒコ兄弟の母(玉依毘売)の出生地や生育 地ついては「記紀」ともに何も記載していない。しかし、 豊前には「御木(みき)」という地名があり、一方イワ レヒコの別称が若御毛沼命(わかみけぬのみこと)また は豊御毛沼命(とよみけぬまのみこと)であったことか ら、宇佐はイワレヒコ兄弟の母方のゆかりの地だったと 推定できる。地名比定だけでは根拠薄弱で文字通り 「推定」にすぎないが、もしそうだとすればイワレヒコ 兄弟が宇佐に立ち寄る理由は充分にあった。

 次にイワレヒコ兄弟は筑紫の岡田の宮に行く。ここには 何をしにいったのか。これも私の論拠なしの推定に過ぎな いが、軍勢を整えに行ったと思われる。日向をでるときに 率いていったのは側近と親衛隊程度の兵士だけだったので はないか。戦闘の正面に立つ本隊を父方の故郷である筑紫に 求めたのではないか。その要請に応じたのが久米部だった。 したがって「神武東侵」の真の発進地は筑紫だった。 ちなみに、「神武東侵」の兄宇迦斯虐殺の説話で兄宇 迦斯を虐殺したのは道臣命と大久米命の二人だったが、 道臣命が親衛隊の将軍(側近)で大久米命が本隊の将軍 と考えられる。

 では、父方の故郷は本当に筑紫だったのか。
 イワレヒコ兄弟の父親の、「ジゲムジゲム…」のよう な長い名前「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 (あまつひこひこなぎさたけるうがやふきあへずのみこと)」 を、古田さんは次のように分析している。


 「天津日高日子」は〝海人(あま)津、日高彦”であ り、「日高津(=比田勝)の長官」を意味する。
 「天国(あまくに)」は〝海人国”を佳字表記し たもの。壱岐・対馬領域を指す。比田勝は、対馬の北東 端の港津だ。


 「波限建(なぎさたける)」は、〝海岸線の軍事集団 の長”の意。


 「鵜葺草葺(うがやふき)」は、〝鵜の羽で屋根を葺 く職掌”を「姓(かばね)」に使ったもの。あるいは、 そのような屋根の家(名家)の称ともとれる。
 後者の場合、「名家」はすべてこの称号を名乗ること になろうからう前者〈職掌〉の可能性が大。


 「不合(あえず)」は、「名」であろう(「鵜葺草葺」 に似合わぬ〝出世”を期待した「名」か)。  以上からイワレヒコの父親は「鵜の羽で屋根を葺く職掌」 の家の出ながら、出世して「日高津(=比田勝)の長官」 にして「海岸線の軍事集団の長」であった、となる。 挿入歌⑥で、イワレヒコの侵略軍は敗戦の連続で疲労困憊して 「島つ鳥 鵜養が伴 今助けに来ね。」と遠く九州からの 援軍を切望していたが、まさしく父方ゆかりの勢力に懇願 している形であり、この挿入歌は一気にリアルな様相を表す。

 ウガヤウキアエズは「海岸線の軍事集団」の長官だったが、 この「海岸線」はもちろん九州王朝の中枢、博多湾を中心 とする北九州沿岸だ。久米部はこの「海岸線の軍事集団」 の一つではなかったか。次は「久米」を追ってみよう。

 古田さんは全国の「久米」という地名を調べ上げてい る。全部で12ヶ所あった。そのうち九州にあるのは次の 3ヶ所だ。

(1)久米郷 筑前国 志摩郡
(2)久米駅 豊前国
(3)久米郷 肥後国 球磨郡

 これまでの理路からは当然(1)が第一の候補地である。 そして、次の古田さんの論証がその妥当性を確かなものと している。古田さんは「志麻郡」に注目している。

 なぜなら、『記・紀』における「神武の歌」の場合、 「久米」以外に出現する、唯一の〝部族名”に関連す る地名が、「しま」なのである。(挿入歌謡⑥を全文引 用しているが中略する。)

 楯並めて伊那佐の山の… 島つ鳥 鵜養が伴 今助けに来ね。

 上の「島つ鳥」は、従来、下の「鵜養が伴」の枕 詞とされ、「意義不詳」とされてきた。しかしわたしは、 この「島」について、一般名詞としての「しま」ではな く地名であろう、と考えてきた。なぜなら、一般名詞と しての「しま」(island)だったら、日本列島中、「しま」 だらけである上、特別に「鵜養」と結びつくべき必然性 もないからである。

 ところが、ここは、「志麻」という地名であり、あわ せて「久米」がある。しかも、この「志麻郡」に当たる、 福岡県糸島郡北半分の場合、その北岸、玄界灘沿いの地 は、海鵜の大量繁殖地である。(故鬼塚敬次郎氏による。 現在でも、鵜飼用の鵜は当地で捕獲されること多い、と いう。筑後川流域の鵜飼など。この点、兼川晋氏による。)

 以上のように、このケースは

久米――島つ鳥、鵜養が伴

の両者と対応する点、もっとも注目すべき「久米」 といわねばならぬ。

 以上によって、神武の家系が「鵜養が伴」と深い かかわりのある家柄であったことが知られよう。先に あげた「神武の呼びかけ」は偶然ではなかったのである。

 以上のことを前提にすると挿入歌①が生き生きと生 き返る。「鴫」の代りに「鯨」が引っかかったという こともなんらおかしいことではない。私が三宅島に 暮らしていた頃、浜に鯨が打ち上げられたことがあった。 私がみたのは一度きりだったが、島の人たちの話では よくあることだという。また「ウダ」は奈良の「宇陀」 ではなく北九州の「宇田」だったのだ。挿入歌謡①につ いての古田さんの解読を読んでみよう。

 博多の西隣に糸島郡があります。糸島郡の地図を みますと、そこに吉武遺跡群があって、その西北に 宇田川原という所がございます。現在は、川原になって いるから宇田川原といっているんですが、弥生時代には、 さっきのように弥生初期の地図を復元しますと、実は ここまで海が入ってきている。ということは海岸部の 字田には鯨が集団であがってくる。理由はよくわかって いないらしいですが、イルカとか鯨が突然発狂したよう に集団で陸地へ押し寄せてあがってしまうわけです。

 その時はみんな大客びでイルカや鯨をとるわけです。 イルカも鯨も食べるためにとるんです。比較的最近、 敗戦後でもこの辺へあがって来たことがあるそうです。 この辺の鯨は「ごんどうくじら」といって割に小さい 鯨ですけど。それで、おわかりのように、「字陀の高 城に」というこの「宇陀」、神武たちの故郷の「字田」 だったら、鴫は海でも山でもおりますから、「鴫罠を はっておったら、なんのこっちや、鴫じやなくて鯨がか かったよ」という話は、リアルなんですよ。それが前半 です。

 で、後半。弥生時代は一夫多妻の時代です。これ は倭人伝に書いてあります。倭人というのは一夫多妻で ある。女たちは嫉妬しない。あれはどうもあんまり信用 できないですけど、まあ、そう書いてある。弥生時代の 倭人は一夫多妻、ここでも一夫多妻。それから、鯨があ がって来た。これは一頭や二頭じゃないでしょう。あが って来た時は一村、もう大喜びで、鯨の分配をやるわけ です。いまと違って食べ物があふれている時代じやなく て、みんなお腹をすかしている時代ですから、もう鯨が あがって来たら、「待ってました、なんたる神の恵みか」 と集まって来るわけです。みんな血相を変えて少しでも いいところを少しでもたくさんもらおうと思ってね。そ こで、リーダーはみんなを、笑わせたいわけですよ、緊 張をほぐすために。それで「お前たち! あんまり年上 のかあちやんにいいとこやっちやだめだぞ。太りすぎる よ。若い方のかあちやんならいいとこやってもいいけど な」と、いうわけです。そうするとみんなドーッと笑う わけです。そこから先は村のルールによって平等に分け ていく。つまり漁村における鯨の収稜と分配の歌なんで す。

 そう考えるとなんにも矛盾がないじゃないですか。 こんな、よくできた歌はないです。それも一人の歌人が 作ったっていうんじゃなくて、集団の歌です。その集団の 民謡を子どもの時から知っている連中が、侵略者になって いるわけです。そして、しぶとく生き残った残党が熊野を 越して大和へ入って来た。そして「ここはどこだ」と土 地の人に聞くんでしょう。「字陀」「あ、字田、俺たち の所の宇田と同しだな、おい、あれを歌おう、宇田の高 城に鴫罠張る…」と。字田という地名に刺激されて、 「よおし、あの歌うたおう」と、疲労困憊したおたがい を、元気づけるために「宇陀の高城に鴫罠張る……」と 兵士たちが歌い始める。なんにも矛盾ないですね。津田 左右吉さんが、矛盾だらけで支離滅裂だといったのは、 設定がまちがっていたからです。はじめから大和の陸地 のどまん中で彼らがこれを作ったと読んだ、そう思った から、まったく意味不明ということになったんです。と ころがいまのように設定が変わってくると実にリアルに なってきた。
第832回 2007/07/23(月)

「真説・古代史」補充編

『神武東侵』:八十建だまし討ち以外に戦勝記録なし


 詩人・山本太郎さんは「神武記」が単なる作り話なのか、 歴史を反映した説話なのか、といった問題には頓着してい ない。あくまでも古代の歌を「詩」そのものとして扱っている。 しかしこの歌の本質をさりげなくズバリと指摘している。 この歌は「久米部に伝承された酒宴の歌である」と。

 歌の出だしが「字陀の 高城に」とあるため、これまでの 論者は「奈良県の宇陀」で創られた歌と思い込み、それ以上の 追求がされていない。この立場からは当然「どうしてくじら?」 ということになる。これに対して、太郎さんがためらうことなく 「久米部に伝承された歌」と判断したのは、たぶん「神武東侵」 説話に挿入されている歌全体を視野に入れていたからだろう。 この後の議論には全歌を必要とするので、兄宇迦斯虐殺 後の説話を読みすすめて、「宇陀の…」(①とする。) 以外の「神武東侵」説話の挿入歌を全歌掲載しておこう。

 侵略軍は宇陀より忍坂の大室に到る。そこには「尾生る 土雲(つちぐも)八十建(やそたける)」が待っていた。

 宇陀に至る前に「尾ある人、井より出で来たりき。」 という描写がある。岩波古典文学大系は「実際に 尾が生えていたとは思われない。尾があるような恰好に見 えたのだろう。」などと、あらずもがなの注をつけている。 「土雲」の「尾ある人」も銅鐸圏の人たちを文化の低い未開 人と蔑視する差別意識の正直な発露にほかならない。自分たちの 野蛮さにはほおかぶりをしているが、一体どちらの方が未開 人か。いわずと知れたことだが、このような差別意識は 連綿と現在まで受け継がれている。天皇をありがたがる 奴ほど中国や朝鮮に対する差別意識があらわである。

 話を戻す。イワレヒコらは、八十建を饗応しようと 宴席を設ける。そして

人毎に刀(たち)佩(は)けて、その膳夫(かしはでども)等に誨(をし) へて曰ひしく、「歌を聞かは、一時共(もろとも)に斬れ。」といひき。故、その 土雲を打たむとすることを明(あ)して、歌ひけらく


忍坂の大室屋(おほむろや)に
人多(ひとさは)に 来入り居り
人多に 入り居りとも
みつみつし 久米の子らが
頭椎(くぶつつい) 石椎(つつい)もち
撃ちてし止まむ
みつみつし 久米の子らが
頭椎い 石椎もち
今撃たば良らし

とうたひき。かく歌ひて、刀を抜きて、一時に打ち殺しき。



 だまし討ちに全員虐殺をしている。こういうところにも この説話が後世の吏官の「造作」ではないことが表れてい る。「造作」ならこんな野蛮な殺しをバカ正直に得意顔に 記録するかわりに、「天皇の徳を慕って帰順してきた」と いうような話しにするだろう。それが天皇教徒にいまに 受け継がれている天皇家への偽装欺瞞意識である。

然(さ)て後、登美毘古を撃たむとしたまひし時、歌ひ けらく、


みつみつし 久米の子らが
粟生(あはふ)には 韮(かみら)一茎(ひともと)
そねが茎 そね芽つなぎて
撃ちてし止まむ

とうたひき。また歌ひけらく、


みつみつし 久米の子らが 垣下(かきもと)に 植ゑし椒(はじかみ)
口ひひく 吾は忘れじ
撃ちてし止まむ

とうたひき。また歌ひけらく、


神風の 伊勢の海の
大石に 這い廻(もとほ)ろふ
細螺(しただみ)の い這ひ廻り
撃てし止まむ

とうたひき。


 この歌を始めて読んだとき、唐突な「撃てし止まむ」 という句に大きな違和感を覚えた。「撃てし止まむ」 という句は 、伝承されてきた歌に戦場で即興的に無理に取って付 けたものという感がまぬがれない。ちなみに④の歌は 『日本書紀』では次のようになっている。

⑤’
神風の 伊勢の海の
大石にや い這ひ廻る 細螺の 細螺の
吾子よ 吾子よ
細螺の い這ひ廻り
撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ


 「吾子よ 吾子よ」を「定説」では「吾子=兵士」として いるが、こんどはそれに違和感がある。「吾子=兵士」 だとは、なんという苦しい「定説」だろう。

 ちょっと横道に入る。
 この「撃ちてし止まむ」という句は「大東亜戦争」 の敗色が濃厚になりかけた頃に国民総玉砕を煽るスローガ ンとして猛威を振るった。それは、1943年の陸軍記念日 (3月10日)へ向けてのPRスローガンだった。中山恒著 『撃チテシ止マム』から引用する。

 1943(昭和18)年の正月、日本放送協会のラジオ全国 放送で流された<国民合唱>は、深尾須磨子作詞・福井 文彦作曲による『必勝の歌』であった。

肉を切らせて骨を断ち
骨を切らせて髄を断つ
貴(たふ)といニュース聴くたびに
大和心(やまとごころ)の血がをどる
撃たでやまじの血がをどる

われに続けと軍神の
声は天地をとどろかす
総力戦の勇ましさ
大和心の血がをどる
撃たでやまじの血がをどる

目ざすロンドン ワシントン
進む光は一億の
行手を阻むものもなし
大和心の血がをどる
撃たでやまじの血がをどる
 (日本音楽著作権協会承認第518051一号)

 とあって、既に「撃ちてし止まむ」の現代語訳(?) 「撃たでやまじ」が歌いこまれていた。もっとも「撃ち てし止まむ」を歌詞に歌いこんだものには、1942 (昭和17)年春、読売報知新聞の一般公募した『特別 攻撃隊』の入選作で、これを第一節冒頭に使用して、

撃ちてしやまむ ますらをに
なんの機雷ぞ 防潜網
あゝこの八日 待ちわびて
鍛えぬきたる 晴の技
示すは今ぞ 真珠湾

 というのがあったが、まだ一般的ではなかった。こと によると、前の深尾須磨子の 『必勝の歌』が作られた 時点では、陸軍省報道部は「撃ちてし止まむ」の古典ス タイルにするか、「撃たでやまじ」の現代語訳にする か者慮中で、むしろ「撃たでやまじ」の方に傾いていて、 そちらの方の内意が伝えられたのではないかと思われる。 というのは、当時、この種の歌曲は情報局及び陸海軍報 道部の許可なしに放送電波にのることはなかったし、そ のうちでも、特に陸軍報道部は横暴であったといわれて いる。当然、陸軍の意向にそわざるを得なかったであろ う。

 あるとき、ぼくが歌うこの歌をきいて、父が茶化した。 「ガッチャキの歌か?」というのである。<ガッチャキ> というのは、北海道(主として道西)の方言で<痔疾> のことである。父にはリフレインの「撃たでやまじの血 がをどる」の歌詞が「ウダデ病(ヤマ)ヒ痔(ジ)ノ血 ガヲドル」と聴こえたらしいのである。たしかに、節回 しで、そう聴こえないでもなかった。<ウダデ>という のは津軽地方の方言で<ひどい>という形容詞である。 つまり「ひどい痔疾の血がおどる」で、悪性の切れ痔の 出血みたいなことになる。

 ぼくはそんな悪ふざけは不謹慎だと父をたしなめた。 そのとき、父がどんな顔をしたかまでは憶えていないが、 多分、片腹痛いと思ったに相違ない。この辺り、東井義 雄の『学童の臣民感覚』の論理からすれば、それは<臣の いのち>の発露であったのかもしれない。いま思うと、 我ながら、いやったらしいガキだったのだろうと思うが、 ぼくに限らず<ボクラ少国民>は、一般的にそのように、 錬成によってしつけられていたのである。

 この歌がラジオで放送されたとき、前年末から、年末年始 の若干の休暇をはさんで、第81回帝国議会が開かれてい た。ここで戦意昂揚問題が重点的に論じられた。冒頭、 内閣総理大臣陸軍大将東条英機は、例によって陸海軍部 隊が連合軍に対して戦略的優位にあることを強調、また 大東亜共栄圏諸国の協力により大東亜新秩序建設が力強 くおし進められている旨を報告、その為に国内に於いて は一層質実剛健、清新簡素なる戦時生活の確立を期され たいと要請、また総力戦態勢の一環として学制改革を断 行して在学年限の短縮を図ることになったと演説した。

 大日本帝国皇軍は1942年6月ミッドウェー海戦で敗北して、 ガダルカナル島撤退も間近な時だった。大本営発表が偽 装欺瞞だらけとなっていく。東条の演説そのはしりのよう なものだ。その空々しいこと。そういえば参議院選東京 区に東条の孫だとか言う人が立った。いままでひっそりと暮 らしていた人が表舞台にでしゃばり出てきた。 けだし、珍タロウのような 「撃ちてし止まむ」を叫び出しそうなヤツが都知事を続け ている時代、民度劣化の象徴だろう。

閑話休題

また、兄師木(えしき)、弟師木(おとしき)を撃ちた まひし時、御軍(みいくさ)暫(しま))し疲れき。 ここに歌ひけらく、


楯並(たたな)めて伊那佐(いなさ))の山の樹(こ)の 間(ま)よも
い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢(ゑ)ぬ
島つ鳥 鵜養(うかい)が伴(とも)
今助けに来ね。

とうたひき。


 記録されている戦闘としては、この兄師木、弟師木兄弟との 闘いが最後だが、なんとも曖昧なぱっとしない終わり方で ある。侵略軍は 疲労困憊の状態で、「鵜養が伴、今助けに来ね。」と ないものねだりの泣き言を言っている。その前の登美毘古 との戦いも勝敗のことが書かれていない。登美毘古 といえば東鯷国の総帥だ。勝てば残虐の限 りをつくして、麗々しく記録することだろう。 イワレヒコは恐らく勝てなかったのだ。

 締めくくりは、邇藝速日(にぎはやしの)命が 助けに「追いて参降り」来て仕えたとして、メデタシメ デタシとしている。邇藝速日命は後に登美毘古の妹 を娶ったと記されている。

かく荒ぶるる神等を言向(ことむ)け平和(やは)し、 伏(まつろ)はぬ人等を退(そ)け撥(はら)ひて、 畝火の白檮原(かしはらの)宮に坐しまして、天の下治(し)らしめしき。

 東条と同じ偽装欺瞞の強がりでしかない。奈良盆地の 片隅になんとか拠点を確保しただけで「建国」とは笑わ せる。
第831回 2007/07/22(日)

「真説・古代史」補充編

『神武東侵』:兄宇迦斯(えうかし)を虐殺する。


 緒戦に惨敗して総帥を失った侵略軍は、イワレヒコを新たな 総帥とし、紀伊半島を大きく迂回して熊野の険路を超 えて奈良盆地に侵入した。

 紀の川や大和川をさかのぼれば容易に奈良に入ること ができるのに、なぜわざわざわざ熊野の通行困難なルー トを選んだのか。イワレヒコ侵略軍は強靭な正規軍ではなく、 いわばゲリラ軍のようなものだ。だからこそ、真正面から 激突した日下では登美毘古の正規軍に惨敗した。イワレヒコ にはゲリラ戦法しか選ぶ道はなかった。

 もう一つの理由が考えられる。熊野では高倉下 (たかくらじ)という土地の支配者の全面的な助力を 得るが、説話のこの部分には、この高倉下がイワレヒ コ一族と何らかの繋がりがあったと思われるような記 述がある。この点にはもう一度触れる機会が あるかも知れない。

神武東侵の経路2


 さて、この大迂回のこのゲリラ戦法は劇的な成功を収めて、イワレヒコ 軍団は奈良盆地への侵入を果たした。侵略軍は大和国 宇陀(うだ)郡に到着する。

 宇陀は兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし) という兄弟が治めていた。イワレヒコは使者を送って、 「汝ども仕え奉らんや。」と服従を強いたが、兄宇迦斯は それを拒み、鳴鏑(なりかぶら)で脅してその使いを追い 返した。そして侵略軍と対峙すべく軍を整えようとしたが 兵が思うように集まらないので、一計を案じた。服従する と偽って大殿に招き、そこに仕掛けた「押機(おし)」 (ネズミ捕りのような仕掛け)でイワレヒコを討とうと いう計画をした。しかし、弟宇迦斯が兄を裏切ってこの計 画を通報してしまう。

ここに大伴連等の祖、道臣命(みちのおみのみこと)、 久米直(くめのあたい)等の祖、大久米命の二人、兄宇 迦斯を召(よ)びて、罵詈(の)りて云ひけらく、「汝 が作り仕へ奉れる大殿の内には、おれまづ入りて、その 仕へ奉らむとする状(さま)を明し白(まを)せ。」と いひて、すなはち横刀(たち)の手上(たがみ)を握 (とりしば) り、矛(ほこ)ゆけ矢刺(やざ)して、追ひ入るる時、 すなはち己が作りし押(おし)に打たえて死にき。 ここにすなはち控(ひ)き出(いだ)して斬り散 (ほふ)りき。故、其地を宇陀の血原と謂ふ。然して その弟宇迦斯が献りし大饗(おほみあへ)をば、悉に その御軍に賜ひき。この時に歌ひけらく、

字陀の 高城(たかき)に 鴫罠(しぎなわ)張る
我が待つや 鴫は障(さや)らず
いすくはし くぢら障る
前妻(こなみ)が 肴(な)乞はさば
立柧稜(たちそば)の 身(み)の無けくを こきし ひゑね
後妻(うはなり)が 肴乞はさば
柃(いちさかき)身の多けくを こきだひゑね
 ええしやごしや こはいのごふぞ
 ああ しやごしや こは嘲咲(あざわら)ふぞ。

とうたいき。


 兄宇迦斯を殺したうえにその遺体を切り刻んで撒き散らした と描写している。この野蛮な侵略軍団が平和裏に暮らす 銅鐸圏の人々に与えた衝撃と恐怖ははかりしてないものがあ ったことだろう。

 ところで、「神武東侵」の説話に挿入されている歌 は、上の歌を含めて六歌ある。今までは通り一遍に扱われて あまり省みられなかったこれらの歌を分析することによっ て、イワレヒコの家系やイワレヒコの侵略軍本体の出身 地などについて新しい地平が開けてくる。まずは、上の 歌の意味を確認しておこう。

 昔々もう30年も昔のこと、万葉集とともに「古代歌謡 集」をも通読したことがある。この歌を始めて読んだと き、この歌の直前の残虐さとこのユーモラスとの落差 もあって、なんと奇妙な歌だと思った。

 詩人の故山本太郎さんは古代歌謡をこよなく愛してい て、それについての文章をいくつか残している。この歌に ついても独自の見解を示している。記紀の説話に挿入さ れている歌はそのように読むのかと、予備知識をほとんど 欠くままに 古代歌謡の中をさまよっていた私は、その読み方を教えら れた。

 懐かしいことを思い出した。ついでなので、太郎さん の解説を探し出した。『詩のふるさと』(思潮社) 所収の「古代の詩について」より。

 古事記の多くの歌謡、なかでも須世理姫と大国主命、 美夜受比売と倭建命のまことに赤裸々な男女交歓など、 卒直な人間表現の絶唱であるが、この歌などは大らかで、 ユーモラスな古代歌謡の特色を代表している。

 一般に古代の歌謡の基本的な詩形は、前後二段の対立 様式だといわれる。例えば、

  八雲立つ 出雲八重垣
  妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を

 前句が主題を提出し、句切れになり、後句はその説明 をするというのが典型である。

 前句の終末句を後句の終末に使って脚韻の統一を計る 場合や、前句の終末句を、後句の初めにもってくる尻取 り式のリズムなどが多くみうけられるが、前、後句の句 切れは、これらが問答で行われた事を示している。例示 した作品(「宇陀の高城に…」の歌)についても、同音 の繰返しによるリズムの明るい設計がみられる。日本語 の音のバランスをとる際重要な要素かもしれない。

 久米部に伝承された酒宴の歌であるが、「鯨障る」 (とんでもない大きな鯨がひっかかって仕舞ったものだ) までが一段で後の部分と唱和形式になり、更に最後の二 行がコーラスであったのではないか。鯨は鷹であるとい う説もあるが、いずれにしても、こわい本妻がきたら実 のない方をやれ、可愛いい妾がきたら「実の多けくを」 というのだから愉快である。髭面の兵士どもの素朴な合 唱がきこえてくるようだ。記紀の歌謡は万葉集よりも更 に人間臭が強く素朴である。

 太郎さんは前妻(こなみ)、後妻(うはなり)を「妻」 と「妾」としているが、このころはたぶん、一夫多妻で 前妻(こなみ)も後妻(うはなり)も同じ「妻」として 扱われていたと思われる。改めて、歌の意味をまとめて おこう。

(前段部)
 宇陀の高城で鴫を捕ろうと罠をはって待っていたら、 鴫は引っかかるかわりに、なんと、大きな鯨が引っか かってしまったぞ。

(後段部)
 こわい年上のカミさんがうまいものをほしいと言って きたら、あんまりおいしくない実のないところをくれてや れ。若くて可愛いカミさんがうまいもの欲しいと言ってき たら、実の多い上等なところをやろうや。
(コーラス部)
ええしやごしや、こはいごのふぞ、ああしやごしや、 こはあざわらふぞ

 さて、詩人・山本太郎さんは上のようにこの歌に興じ ているが、学者さんはこの歌をどのように捉えているだ ろうか。古田さんの講演録から。


 それで津田左右吉はこれをとりあげ、

「この歌はまったく意味不明だ。大和のどまん中でなん で鯨がとれる。それに後半の話は無関係の話だ。こんな でたらめな歌があることをみても、神武が架空の存在で あることは疑えない」

と主張した。ずいぶん論理としては乱暴なような気がす るんですが、津田左右吉を私は尊敬しております。 戦前、戦中にあれだけ勇敢な説を出された方として尊敬 するんですが、どうもいまのような理解の仕方はかなり 乱暴なようにみえるんです。

 支離滅裂だから、架空だというんですが、支離滅裂に しろなんにしろ、誰かがこういう歌を作ったわけですか ら、作った人には支離滅裂でもなんでもない、なにか意 味が通っていたわけで、その意味はなにかっていうのを 問うのが、文献批判とか古典探求の基本の方法だろうと 思っているんです。よくわからないからインチキだ、イ ンチキだから人物は架空だ、というのは話としちゃ簡単 だけど、ちょっと簡単すぎるんじやないか。生意気です が、私はそう考えていました。

 太郎さんの文章に「鯨は鷹であるという説もある」と あったが、これはこの歌が支離滅裂とされる一番の理由 である「大和のどまん中でなんで鯨がとれる」のか、に 対する苦肉の説である。しかし、岩波古典文学大系『古事記』 の頭注では「しっくりしない」と退けられている。『古代歌 謡集』では補注で詳論されているが、音訓の面から 「鯨→鷹」説は無理と、やはり否定されている。 今までの学者たちには解決の手立てはなく、未解決 の問題のようだ。

 では「大和のどまん中でなんで鯨がとれるの?」という 問題を古田さんはどのように説いているか。神武東侵の経路2
第830回 2007/07/20(金)

「真説・古代史」補充編

『神武東侵』:日下の戦いで惨敗する。


 吉備の高島宮を出帆したイワレヒコ兄弟率いる 武装船団は「速吸門(はやすひのと)」に向かった。 そこで土地の老人槁根津日子(さおねつひこ)に出会い、 その水先案内によって無事「速吸門」を通過することが できた。

 この「速吸門」とはどこか。日本書紀は「速吸門」の説話を 日向から宇佐への旅程においている。つまり豊予海峡を指して いる。岩波古典文学大系『古事記』は頭注で「古事記は東征の順路が不合理 である。書紀が速吸の門を宇佐の前においているのが正しい。」 と書いている。これが「定説」になっている。当然、森教授も 何の疑いもなくこの「定説」を採用している。史料批判の 不徹底によって陥る誤答の一つだ。

 この「定説」は本居宣長に発している。徹底して「古事記」 こそ「正史」と考えている宣長がこの問題では「日本書紀」に 屈している。その理由は「豊予海峡には速吸門という 名前があるから」。しかし、日本書紀の説話をもとに「豊予海峡」 に「速吸門」という名を付した可能性がある。すると 「豊予海峡には速吸門という名前がついているから日本書紀が 正しい」という理屈は全く意味をなさない。

 この問題を説話全体の中に置いてみれば、「古事記」の方が 適切であることが明らかだ。なぜなら、豊予海峡の通過には 水先案内など不要だ。九州本土に沿って北上すれば簡単に 宇佐に到着する。また、その海道はイワレヒコたちにとって は通いなれた道だろう。九州王朝の傍流として日向を根拠とする とする豪族だったイワレヒコ兄弟は九州王朝の本拠地の 筑紫へはよく通っていたはずだ。 (「ヤマト王権」の出自(4) 「ヤマト王権」の出自(5)を 参照)
 では「速吸門」とはどこか。

 吉備から難波への海道といったら「明石海峡」か「鳴門海峡」 しかない。明石海峡は本州の南岸に沿って進めば難なく難波に 至る。それに「速吸門」というほどの難所ではない。やはり 水先案内を必要としない。残った鳴門海峡は時は大きく渦巻き 流れも変化をともなって早い。まさに「速吸門」というに ふさわしい。初めての者にはここは容易には通過できま い。その海峡の流れの変化に精通した水先案内が必要だ。

 でもなぜ、イワレヒコ兄弟の武装船団は容易な明石海峡を 選ばずに鳴門海峡という難所の方を選んだのか。

 再び弥生時代の銅製器の分布図を見てみよう。

青銅器分布


 細矛・細戈・細剣などの銅製武器の分布は、 ほぼ淡路島を東限としている。淡路島以東は純粋な銅鐸 圏に入る。そして瀬戸内海領域は、銅製武器と銅鐸との 混合圏である。

 イワレヒコたちの武装船団は吉備の岡田の宮までは 全く戦闘をしていない。この分布図から、その理由が よく分かる。そこまではイワレヒコたちを受け入れる ことができる同一勢力圏だったからだ。そして淡路島 を通過するということは、銅鐸圏というイワレヒコたち とは別の勢力圏に突入することを意味する。侵略の意図 を持つ武装船団を銅鐸圏の国々(東鯷国傘下の) が黙って通過させるはずがないだろう。イワレヒコたち は敢えて危険な鳴門海峡を選んで、奇襲戦法を取っ たのだ。

 鳴門海峡を無事に通過した武装軍団は難波の渡を経て、 「青雲の白肩津」=「日下(くさか)の蓼津(たてつ)」 に武装船団を乗り入れることに成功した。しかし、そこ には東鯷国の大王・「登美(とみ)の那賀須泥毘 古(ながすねびこ)」(日本書紀では「長髄彦」と表記) が待ち構えていた。激しい戦いのさなか、侵略軍の最高 司令官・五瀬命が登美毘古の矢を受けて重傷を負い、侵 略船団は「南方(みなみのかた)」より「血沼海(ちぬ まのうみ)」へと逃れ出た。さらに 逃れて「紀国の男(お)の水門(みなと)」に着いたと ころで五瀬命は絶命する。以後、イワレヒコが侵略軍を 率いることになる。

 さて、この戦闘譚に皇国史観者たちは困ってしまう。 武装船団が那賀須泥毘古と相対した「日下の楯津」は 海岸よりずっと奥まった陸地にある。そこに船を乗り 入れたと物語っている。しかもそこから南の方に逃れて 「チヌの海」(大阪湾)にでるなど、全く不可能である。 戦後のヤマト王権一元主義者たちは勝ち誇る。それみた ことか、古事記の説話は8世紀の吏官たちの「造作」した ものだ、と。

 この難問を本居宣長はどのように料理しているの だろうか。古田さんの解説があるので聞いてみよう。

 この点に“悩んだ”のが、本居宣長だ。彼は『古事記 伝』で次にようにのべている。

「さて此に河内国とあるに依て、草香を河内ノ国 河内ノ郡なる日下とのみ誰も思ひ居るも誤なりなり。 河内の日下は海辺にあらざれば、船の泊る処ならず、 川にも津といふことはあれども、かの日下は、船通る ばかりの川だに無き地なる物をや、白肩ノ津草香ノ津 など云むは、必海辺と聞えたれば、和泉の日下なるこ と疑ひなし。」

右で「河内国」と言っているのは、『日本書紀』に、

「徑(タダ)二河内国草香邑(クサカノムラ)青雲白肩 之津二至ル」(「神武紀」)

とあるのによる。しかし宜長は、ここは海辺ではないか ら、非。「和泉の日下」のほうだ、と主張したのである。 その結果、

「蓼津、小地名は他の古書にも見へず、今に聞こへず」

 という次第となったのだ。

 自説に都合が悪いと「間違いだ」とか「造作だ」とかして、 原史料を改竄してしまう邪道は、現代のヤマト王権一元 論者のよくするところでもある。

 正解は次の地図が物語っている。大阪府が地質学者と 考古学者の協力を得て作成した弥生期から古墳期にかけての 頃の地図である。

大阪古代地図
 この地形を見れば、古事記の「神武東侵」の説話は 訂正の必要はないだろう。「日下の楯津」には船でいけるし、 「南の方」は方角を示す言葉ではなく、地名だったことがわかる。 そして「南方」からチヌの海に抜けられることも明らかだ。

「南方」からチヌの海へと隘路を抜けるときにも、たぶん、 侵略軍団は両岸から雨あられのような矢を射掛けられたこと だろう。

 このような地図を知る由もない本居宣長が苦しい解釈を 余儀なくされたのは同情できるとしても、現在の学者たち が『「神武東侵」の説話は8世紀吏官の「造作」』という 「定説」になおも固執することは許されまい。なぜなら 上の地図のような弥生期~古墳期の地形は8世紀の吏官の 知るところででもなかったのだから、上のような「神武 東侵」の説話を8世紀吏官が「造作」できるわけがない。 「神武東侵」の説話は単なる「造作」ではなく歴史的事 件を反映している説話だと考えるのが論理の赴くところ ではないか。
第829回 2007/07/19(木)

「真説・古代史」補充編

『神武東侵』:日向から吉備の高島宮まで


 今回からヤマト王権による東鯷国への侵略 をテーマにとりあげる。過去の記事

「ヤマト王権」の出自(1)
「ヤマト王権」の出自(2)
「ヤマト王権」の出自(3)
「ヤマト王権」の出自(4)
「ヤマト王権」の出自(5)
「ヤマト王権」の出自(6)

の続編に当たる。

 まず、神武天皇の呼び名の確認をしておこう。

 周知のように「神武天皇」という呼称は8世紀以後に つけられた「漢風諡号(かんぷうしごう)」と呼ばれてい るものである。8世紀以前のヤマト王権はまだ「天皇」と いう呼称を用いるほどの分際ではなかった。8世紀以前の ヤマト王権の王たちを扱う場合、漢風諡号を用いるの は適切ではない。

 『神武記』は「神倭(かんやまと)伊波礼毘古命 (いはれひこのみこと)」という呼び名で書き始められ ているので、私はイワレヒコと呼んできたし、これからも この呼び名を使おう。

 しかし、この呼び名は明らかに、大和盆地に侵略して そこに拠点を獲得した以後の呼び名だ。『古事記』 神代記の最後に、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 (あまつひこひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと) の第四男として生まれて、その名は若御毛沼命(わかみけぬのみ こと)または豊御毛沼命または神倭伊波礼毘古命と言うとある。 『日本書紀』の「一書(第一)」には幼名は狭野命(さ ぬのみこと)といったとある。

 「神武東侵」の説話は『古事記』が原型で『日本書紀』 はそれを大幅に改変している。(論証は割愛する。)以 下は「神武記」をもとに話を進める。

 さて、イワレヒコは兄のイツセの命と協議する。

「何地に坐(ま)さば、平らけく天(あめ)の下の政(まつ りごと)を聞しめさむ。なお東に行かむ。」

 倭国の中枢は筑紫であり、イワレヒコ兄弟の領地・日向 (ひゅうが)は辺境の地。その地ではうだつがあがらぬ ことを悟って、兄弟は新天地を求めて東を目指すことを 決意する。

 イワレヒコが日向(ひゅうが)を出立してから、 東鯷国に侵略を開始するまでの旅程を簡単にまと めておく。

神武東侵の経路


 イワレヒコ兄弟は日向を出発した。そのあと、宇佐に 到着した。そこで土地の豪族である字沙都比古(うさとひこ)・字沙都比 売(うさちひめ)の厚遇をうける。このあと、関門海峡を 通過し、遠賀川下流の岡田宮へ向かった。岡田には1年滞在 した。

 次に岡田を発ってふたたび関門海峡を通過し安岐の多 祁理(たけり)の宮に寄港した。ここでは7年を過ごし ている。

 次に吉備の高島宮に行く。ここでは8年を費やしている。 そしてここまでは戦闘は全くない。

 高島から東鯷国侵略の出立をし、難波ではじめ て侵略戦争が始められる。

 ここまでの寄港地と滞在年数(「二倍年暦」で表記され ているとすれば、その半分の年数となる。)をまとめる と

宇佐       不記
竺紫の岡田宮   1年
阿岐国の多祁埋宮 7年
吉備の高島宮   8年

 ここでは検討すべき問題を三点指摘できる。


 イワレヒコ兄弟はどこで「なお東に行かむ。」と 協議したのか。この問題は

「ヤマト王権」の出自(4)
「ヤマト王権」の出自(5)


で詳述している。


 宇佐→岡田は東方ではなく方角ちがいだが、なぜ岡田宮 に立ち寄ったのか。


 大和が当初からの目的地とすると、各寄港地での滞在年 数が、単なる寄港としては長すぎるのはなぜか。

 ②③の二つの問題点の解明は、イワレヒコの家系や生誕 地、あるいは東侵の発進地や東侵の当初の目的などを解明 することと同じである。しかしこれら問題を解く前に、と もかく「神武東侵」の物語を一通り復習しておくことにす る。戦後は学会も教育界も神話や「神武東侵」を扱うこと をタブーとしてきたので、この物語を知らない人が案外と 多いのではないかと思う。これからの種々の議論を理解す るうえで、物語を一通り知っておいた方がよいだろう。

 次回はイワレヒコ軍団の東鯷国への侵略開始 の物語を、「定説」を検討しながら、たどることにする
第828回 2007/07/18(水)

「真説・古代史」補充編

「竺志の惣領」は占領軍総司令官


 「三セズ」(採択せず・論争せず・相手にせず)は 歴史学会の至上指令なのだろうか。相変わらず古田 古代学を無視しつづけているようだ。しかし、アカデミ ズムという徒弟関係からは自由な多くの市井の研究者た ちが古田古代学を継承し発展させている。そのあらましを 新古代学の扉 で知ることができる。今回から、このホームページから 得られる諸氏の研究成果をも適時利用させていただくことにする。

 さて、今日の記事は「竺志の惣領」がテーマだが、

白村江の戦(1)
白村江の戦(2)
白村江の戦(3)
白村江の戦(4)
ヤマト王朝の成立

の「補充編」にあたる。

 『続日本紀』で使われる「惣領」という言葉は、もちろん、 後の時代の武家の「惣領制」とは関係ない。また、『続日本紀』 の時代に「惣領」という役職があったのかどうか、 『続日本紀』でこの言葉が使われているのはここだけなの か、詳らかではない。今は「竺志の惣領」を「竺志を統治し ている行政府の総帥」という意味と考えておこう。

 「白村江の戦」の戦後処理がどのようになされたか。 『日本書紀』『旧唐書』『三国史記』から読み取れることを まとめると次のようになる。

(1)
 白村江の大敗以後、「倭国」(九州王朝)は衰退にむか い、滅亡の危機に直面した。

(2)
 勝者・唐側は兼ねて友好関係を結んでいたヤマト王権を 「日本国」として公認した。

(3)
 戦後処理のため唐の武将・郭務悰(かくむそう) が四度「倭国」あるいは「日本国」を訪れている。

①664(天智3)年5月
 百済の鎮将・劉仁願(りゅうじんがん)の命による。
 12月に対馬・壱岐・筑紫などに防人が置かれている。

②665(天智4)年9月
 劉徳高と共に来訪。総勢254人。唐の高宗の命による。

③669(天智8)年12月
 2千余人を引き連れて来訪。

④671(天智10)年11月
 舟47隻、総勢2000人で来訪。
 捕虜として捕囚されていた筑紫の君・薩野馬 (さちやま)解放される。

 この唐からの度々の来訪について、肉付けしてみよう。 (あくまでも推定。)


 「倭国」との講和会議。その条件は、「倭国」の中枢部、 朝鮮半島に直面している筑紫からの九州王朝の退去。 トップの筑紫の君・薩野馬を捕囚されている「倭国」はその条件 を飲まざるを得なかった。
 朝鮮半島は「日本国」とともに唐の庇護下にあった のだから、対馬・壱岐・筑紫などに置かれた防人は、 当初は朝鮮半島に向けての防禦ではなく、「倭国」に 対する防人であった。


 唐、筑紫占領の先遣隊派遣。「倭国」処分をめぐって 「日本国」と協議。


 唐、筑紫占領軍本隊を派遣。

 唐にとって、「倭国」は衰退したとはいえなお大義名 分をもつ政権であり、「日本国」だけに任せておける状 況ではなかった。そこで第2次占領軍派遣。
 万全の体制を整えたので、筑紫の君・薩野馬を許す。


 大略、このようであったと思われる。

 2度にわたる計4000人以上もの派遣は、筑紫を拠点に 「倭国」を監視牽制するための占領軍であった。いま、 イラクの新傀儡政権を保持し続けるためにアメリカ軍が イラクを占領し続けている。イラク傀儡軍はまったく 頼りにならならず、アメリカ軍は撤退できずにいる。 それと同じ構図が浮かび上がってくる。

 700年の「倭国」と「日本国」との武力衝突の解決に 力を発揮した「竺志の惣領」とはこの唐の駐留軍ある いはその駐留軍の訓練を受けて後を継いだ「日本国」 の筑紫占領軍の総司令官のことだろう。
「真説・古代史」補充編

九州王朝関係書物は「禁書」として処分された。


 日本書紀が「一書に曰く」として記録している「日本旧紀」 を初めとする諸々の「一書」や、その存在が想定される 「倭国万葉集」はどうして今に残されていないのか。 九州王朝の痕跡はヤマト王権にとって不都合な ので徹底的に弾圧され抹消された、と容易に想像できる。 それが単なる「想像」にとどまらないことを「続日本紀」 という史料がおのずと物語っている。

 元明天皇は即位に当たって全国的に大赦を行った。その 大赦を告げる文書の中に次の一文がある。(以下の 「続日本紀」からの引用文は岩波文庫の宇治谷猛訳・現 代語訳版による。)

707(慶雲4)年7月17日
 山や沢に逃げ軍器をしまいかくしている者は、百日を 経て自首しなければ、本来のように罪する。


 続いて708年の正月にも大赦が行われたが、その文書の中に は次の一文がある。

708(和銅元)年1月11日
 山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しない ものは、本来のように罪する。


 ヤマト王権に対してなおも山沢にこもって抵抗を続けて いた人々が相当数いたことがうかがわれる。その人々は 「軍器」とともに「禁書」をも携えてヤマト王権と対峙 していた。

 「軍器」とは「軍用の器具」であり、兵器だけを指す 言葉ではない。〝正規の軍隊の戦闘行動に必要な一切の もの″を指す。

 「禁書」とは言うまでもなくヤマト王権にとっての「禁書」 であり、それはヤマト王権の大義名分とは相反する大義名分 に則る「書」である。

 つまり山沢に隠れていた人々は、山賊・盗賊の類ではな く、ヤマト王権に対抗する大義名分をもった正規軍の残党 だったと考えられる。

 さらに9年後の717(養老元)年の元正天皇による改元の 大赦では次の一文が残されている。

717(養老元)年11月17日
 山野に逃亡し、兵器を隠し持ち、百日以上になる者は、 大赦なく、もとの通り罪とする。


 ここでは「軍器」ではなく単なる「兵器」となってい る。「禁書」にもふれていない。狩り出されているのは、 もはや正規軍ではなく、敗残兵といったおもむきだ。

 上の三記事に先んじて、700(文武4)年、702(大宝2) 年の記事に薩摩・肥の国人の叛乱の記事がある。(これらの記事は 『「神代紀」再論:「熊曾国」=「日向国」ではない。』 で一度取り上げている。)

700(文武天皇4)年6月3日
 薩末(さつま)の比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はつ)・衣評(えのこおり) の督(かみ)の衣君県(えにきみあがた)・同じく助督(すけ) の衣君弖自美(てじみ)、また肝衝(きもつき)の難波、 これに従う肥人(くまひと)らが武器を持って、さきに 朝廷から派遣された覔国使(くにまぎのつかい)の 刑部真木(おきかべのまき)らをおどして、物を奪おう とした。そこで筑紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と 同じように処罰させた。

702(大宝2)年8月1日
 薩摩と多褹(たね)は王化に服さず、政令に逆っ ていたので、兵を遣わして征討し、戸口を調査して常駐 の宮人を置いた。

702(大宝2)年10月3日
 これより先、薩摩の隼人を征討する時、大宰府管内 の九神社に祈祷したが、実にその神威のお蔭で、荒ぶる 賊を平定することが出来た。


 ちなみに700年の記事の原文は次の通りである。

薩末比賣、久賣、波豆,衣評督衣 君縣,助督衣君弖自美,又肝衝難波,從肥人等,持兵剽劫覔 國使刑部真木等.於是敕竺志惣領,准犯決罰.

これを古田さんは次のように読み下している。

薩末の比賣、久賣、波豆,衣の評督、 衣の君縣、助督衣の君弖 自美、又肝衝の難波、肥人等に從ひ、兵を持して覔國使刑部真木等 を剽劫す。是に於て竺志の惣領に勅して犯に准じて決罰せしむ。

 『日本書紀』末尾の「持統紀」は、「壬申の乱」以降 国々は平穏となり、ヤマト王権の統治権力は平和裏に持 統から文武に継承されたことを伝えている。にもかかわらず、 この状況はどうしたことだろう。これらの記事は何を ものがたっているのだろうか。

 『続日本紀』の記事は信用できるというのが定説のよう だが、それは「書かれた事」に対してであって、 意図的にカットした「書かれていない事」に注意して読ま なければいけない。そのような視点を持ちながら、上の 諸記事も読まれなければならない。

「比賣」「評督」「助督」などは、文武天皇元年に創設 された「郡制」以前の、つまり九州王朝の「評制」の官 位名である。すなわち上記の記事は、政令を普及すべく 遣わされた覔国使と旧「評制」に立つ勢力との武 力衝突であった。7世紀末から8世紀初めにかけて「倭国」 と「日本国」との壮大な武力衝突があったのだ。 「日本国」は「竺志の惣領」の力を恃んでそれに勝ち残った。 707年・708年の記事は九州王朝ゆかりの残党勢力の掃討 戦略ということになる。このときに大方の「禁書」も 抹消された。

 ところで、ヤマト王権が武力衝突の解決に力を恃んだ 「竺志の惣領」とはなにものだろうか。

第826回 2007/07/10(火)

「真説・古代史」補充編

万葉集の中にも現れる九州王朝(3)


 『万葉集』から「七世紀後半」の政治地図を読み取る こともできる。古田さんは今度は柿本人麿の歌(巻三、 304)を取り上げている。

柿本朝臣人暦、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌二首

(303略)

大君の遠の朝廷(みかど)とあり通ふ島門(しまと) を見れば神代し思ほゆ


 例によって、まず岩波古典文学大系の頭注を 読んでみる。

大君の遠の朝廷
 都から遠く離れた所の役所。ここでは九州の役所 を指す。
あり通ふ
 常に往来する。
島門
 島と島との間、島と陸との間の瀬戸。
神代
 神々の活動した時代。

強めの助詞。

〔大意〕
『都から遠く離れた朝廷であるとして、人々が常に往来 する瀬戸内海の島門を見ると、この島々の生み出され た神代の国土創成の頃のことが思われることである。』

 「朝廷」を「地方の役所」としている。これは素人目から もたいへん変だ。ヤマト一元主義に立つ限り、このような 苦しい強弁を弄するほかない。

 江戸時代の国学以来、現在の万葉学者に至るまで、 この「大君の遠の朝廷」に対して、「都から遠く離れた 所の役所。ここでは九州の役所を指す」といった解釈に 依り、これに満足してきたのである。

 しかし、中国の古典では、周代から清朝まで、「地方 の役所」を「朝庭」と称した例はない。もし、そのよう な用法に従うなら、広い中国の中で、各地が〝朝庭だら け″となるであろう。

 では、日本の場合は。各地が〝朝庭だらけ″だったの か。それならば、『万葉集』は、各地へ派遣される宮人 の歌が多いから、各地でそこの役所を「朝庭」と呼んで いるか。わたしは寡聞にして、そのような事実を知らな い。

 「大君の遠の朝廷」の原文は「大王之遠乃朝庭」だ。 古田さんによると、『万葉集』でこれと類した表記が 七箇所あり、それらの用例の意義について、すでに 検討済みだと言う。(『古代史を疑う』所収の「疑 考・万葉集」 私は未見。)要するに「朝庭」=「地 方の役所」などという用例はないと言っている。

 『「君が代解雇裁判」オソマツ判決』でもみたように、 「間違った結論」が先にあって、その結論へ向けて理論 を組み立てようとすると、必ず詭弁・強弁を弄さざるを 得なくなる。詭弁・強弁を弄さざるを得なくなるような 「結論」まずは「間違った結論」だと検討し直すべきな のだ。江戸時代の国学以来、そのように考えた学者は皆 無だった。


 右の「大君の遠の朝廷」は原文(古写本)では、 「大王之遠乃朝庭」と表記されている。この「大 王」とは、近畿大王家の王者、おそらく「天武・ 持続」のいずれかの「大王」を指すものであろう。

 これに対して「朝庭」とは、〝天子の居すると ころ〟を指す。ここでは、筑紫の地だ。なぜなら 題詞に「下る」とあるのは、「近畿が主、筑紫が従」 の立場を示す。すなわち、「八世紀」になって、つまり 「日本国」の時代になって、この題詞が書かれているこ とを示す。

 これに対して、歌自身は、「筑紫〈朝庭〉(主)  - 近畿(大王)(従)」という位取りを明白に 示しているのである。七世紀後半は、倭国(筑紫) の時代だからである。

 ここにも、七世紀後半と八世紀前半とを分つ、明瞭 な一線が引かれている。歌それ自身と題詞と、「立場」 を異にしているのである。

 「記紀」の場合と同様に、ここでもその史料の「表記の ルール」に従うというもっとも真っ当な方法論が貫かれて いて、それが詭弁・強弁を完膚なきまでに粉砕している。
第825回 2007/07/09(月)

「真説・古代史」補充編

万葉集の中にも現れる九州王朝(2)


『万葉集』巻七で「古集中に出づ。」とされている歌のうち 1230番の次の歌を古田さんは分析している。

ちはやぶる金(かね)の岬を過ぎぬともわれは忘れじ 志賀(しか)の皇神(すめかみ)

 学者たちはこの歌をどのように解読しているのか、 岩波古典文学大系の頭注を読んでみる。

ちはやぶる
 枕詞。普通は、カミ(神)にか かる。ここではカネのカにかかる。
金の岬
 福岡県宗像郡玄海町に鐘崎(かねさき)があり、そ の北端に鐘ノ岬がある。
志賀の皇神
 志賀は、福岡県糟屋郡志賀町志賀島。式内社、志賀 海神社がある。
皇神→894補注(後ほど触れる予定)

〔大意〕
『波の恐ろしい金の岬をようやく無事に過ぎたけれども、 それでも海の守護神である志賀のすめ神を、私は忘れま い。』

 この〔大意〕では「皇神」を一地方の祭神(海の守護神) と考えている。そして「金の岬」を無事に通過したのは、 その守護神のおかげであり、その神の恩を忘れなまい 、という意としている。またこの〔大意〕からは、この 旅人(歌の作者)の出立地は明らかではない。 「志賀」とも取れるし、「志賀」は旅の途中で旅の無事 を祈るために立ち寄った所とも取れる。

 さて、この歌を古田さんはどのように解読しているだ ろうか。古田さんは単なる字面の解釈だけではなく、 まずは「歌」の鑑賞者として、その歌に込められている 作者の心情の芯にあるものをも捉えながら解読をして いる。

 これは「古集」に属することの確実な歌であるが、これ は旅に出ようとする歌人が、鐘の岬を過ぎようとするとき、 「わたしは、わたしの信ずる、志賀の皇神のことを忘れな い」と歌っているのである。

 このさい、この旅人が「近畿」発の人物だとしたら、 「志賀の皇神」は、旅先の一神社の神、ということとな ろう。

 けれども、この歌の語気には、そのような「旅先の気 まぐれ」ならぬ、「自己の魂の淵源なる神」を語る、と いった気迫がこめられている。「われは忘れじ」の一句 がそれを示す。

 とすれば、この歌人の「出発地」は、博多湾岸、この 旅人は筑紫人。そういう立場に立てば、きわめて自然で ある。

 もう一つ、重大な注目点がある。それは、博多湾岸を 原点として、鐘の岬を過ぎる、とは、その行先はどこか、 という問題だ。それは釜山方面ではありえない。慶州 方面だ。つまり、対馬海流から東朝鮮暖流が博多湾岸 の北方で分岐し、朝鮮半島の東岸を北上する。その暖流 が慶州の沖合いへむかっているのである。

 すなわち、この歌人は新羅へむかっているのだ (さらに、高句麗・渤海も、可能)。

 その上、これは当然ながら、観光旅行の類ではない。 公的な用務、それも、きわめて〝長期に及ぶ、国難と 苦渋の予想される行旅″なのである。それでなければ、 何も「われは忘れじ志賀の皇神」などといって、 「力(りき)む」必要はないであろう。『万葉集』に は行旅の歌が多いけれど、いちいちこの種の「力み」を 見せているわけではない。

 明らかに、この歌人は、異常な任務を帯びて異国へむ かおうとしている。ズバリいおう。筑紫の「倭国」から 新羅・高句麗への国交上の遣使。 - この歌人の 「正体」は、これではあるまいか(他の理解としては、 筑紫の「倭国」から、西日本諸国への使者、との見方も あるけれど、それにしてはいささか〝悲愴すぎる”決意 の示し方のように思われる)。

 以上によって、この「古集」が公的遣使の歌をふくみ、 その発進地は「筑紫」であること、当人は「筑紫人」で あること、これらの点が確かめられた。その行先は、 新羅・高句麗といった、当時の「倭国の国交対象の国」 である可能性が高い。これらの諸点が判明する。

 今、必要なこと、それはつぎの一点だ。「『倭国万葉 集』が現存の『日本国万葉集』に先行していた」という、 先の学問的仮説が決して一片の「空語」「空論」にとど まらぬこと、それが認識できれば、それで十分だ。

 歌が一気に生き返るような見事な解読だと、私は 思う。

 古田さんの解釈では「志賀の皇神」は単なる一地方の 祭神ではなく、王朝の「王」または「王の祖神」 である。ヤマト王権一元主義に囚われていては、九州に 「皇祖の神」があることなど考えも及ばないだろう。

 ヤマト王権一元主義に立つ学者先生たちはこの 「スメカミ」という言葉をどのように解しているだろ か。「皇神→894補注」の指示に従って、岩波古典文学 大系の補注を読んでみる。その前に「894」番(長歌) の「スメカミ」部分を記載しておく。

神代より 言い傳て来らく  そらみつ 倭の国は 皇神の 厳(いつくしき国…

 この歌の頭注には「皇神-皇祖の神」とある。この場合はその 解釈しかあり得ない。

さて、〔補注〕は次のように論じている。

皇神
 スメカミは、ここに皇神と書かれており、スメラと いう言葉が天皇を意味するところから、皇祖神と考え られたりしている。しかしスメカミは、その用例を見 ると次の通りである。

「住吉の我がスメカミに幣まつり」(巻二十、4408)、
「スメカミの裾廻の山の渋渓の崎の荒磯に」(巻十七、3985)、
「…山はしもしじにあれども河はしも多に行けどもスメカミの領 きいます新川のその立山に」(巻十七、4000)、
「山科の石田の森のスメ神に幣とりむけて」(巻十三、3236)


などとあって、住吉・二上山・立山・山科の石田の森など を領する神であることが分る。つまり、これは、起源的に は港や山など地方的な小さな区域を領する神をいうもので あったのだが、それがやがて、日本の国土を領する天皇を 指すようになったものであろうと考えられる。 スメラミコトとなると、これが人格的なものに転化するわけであ る。

 「1230」の歌を〔大意〕のように解する限り、強調部分 (赤字部分)のような理論を提起せざるを得ないだろう。 しかし、「スメラミコト」と「スメカミ」は別して 扱うべきだ。さらに、この理論は逆立ちしているのでは ないかと思う。これまでに出てきた「スメカミ」の原文 (万葉仮名)とその仮名漢字表記を番号順に並べてみる。

(巻七、 894) 「皇神」→「皇神」
(巻七、1230) 「須賣神」→「皇神」
(巻十三、3236)「須馬神」→「すめ神」
(巻十七、3985)「須賣可未」→「すめ神」
(巻十七、4000)「須賣加未」→「すめ神」
(巻二十、4408)「須賣可未」→「須賣神」

 時代が下るに従って「皇祖の神」という意味で 使わられることがなくなり、「皇」という意味合い は無くなっているようだ。〔補注〕の理論は次のよう に言い替えられるべきだ。

『「スメカミ」は起源的には王朝の「王」または「王の祖神」 を指す言葉であったが、港や山など地方 的な小さな区域の神を指す言葉に変わっていったと考え られる。』

 「宮廷の女房」が「長屋の女房」に変わっていったよ うに、より一般化されていった。
第824回 2007/07/08(日)

「真説・古代史」補充編

万葉集の中にも現れる九州王朝(1)


 それはそれはずっと昔のこと、万葉集を通読したことがある。学者さんの 注釈をたよりに、それでもよく分からないところは読み 飛ばして、文字通りの通読だった。学者さんの注釈には、 何人もの研究者の長年の積み重ねの結果だからと、全幅 の信頼を寄せていた。

 万葉集の学者に限らないが、とくに学会という学閥集団 に籍を置く学者っていうのは案外思考が硬直的だったり 論理が杜撰だったりするものだと、今はそういう認識を 持っている。全幅の信頼を寄せるわけにはいかない。

 これまでのささやかな読書経験の結果、むしろ在野の 研究者の方に問題の本質をつく優れた研究・論文が多い ように思う。古田さんは、私が出合ったそのような研究 者のお一人だ。古田さんがベールを剥いで見せてくれた 「万葉集」の真相は、私がこれっぽちも脳裏に浮かべることの なかった思いがけないものだった。

 まず古田さんは、『万葉集』全体にかかわる不審点を 4点挙げている。

第一、
 「防人歌」で、年代のわかっているものは、すべて八 世紀であり、「七世紀以前」はない。この時期に、「防 人」はいなかったのであろうか。それとも、かれらは 「歌」を作らなかったのであろうか。
 天智・天武・持統などの各天皇の時代、白村江の時代 であるだけに、不審だ。

第二、
 「九州や瀬戸内海領域で(近畿や東国などの人が) 作った歌」はあるけれど、「九州や瀬戸内海領域の人々 が作った歌」は、ほとんどない。少なくとも、そのよう に明記された形では、存在しない。
 では、「九州や瀬戸内海領域に住む人々は、歌を作ら なかった」のであろうか。信じがたい。
 しかし、『万葉集』は、事実、そのような「巨大な空 洞」をかかえこんでいるのである。

第三、
 『万葉集』の冒頭は、「雑歌」の一句ではじまってい る。「雑歌」「雑詩」は、いずれも、中国の『文選』に 出ている分類だ。だが、それは、〝各類の分類名のあと に出現する、「その他の歌」「その他の詩」の用法″だ。 現在の「雑費」などと同じ。およそ会計簿で、「雑費 からはじまる」ことなど、ない。事実、『文選』でも、 他の分類のあとに出てくる分類名なのである。
 「あまりにも明らかな不審には、人は疑問をいだかな い」 - これも、その一例であろう。

第四、
 「白村江の戦」の歌がない。七世紀後半、最大の事件 ともいえよう。四たびにわたった敗戦、その死傷者は 数多かったことであろう。その遺族や恋人は、さらに 多かったことであろう。しかるに、それを示すような 歌が皆目ない。この上ない不審だ。

 「第二」の不審点については『中小路駿逸氏(追手門 学院大学教授)の発見と創唱にもとづく、重大テーマであ る』と、古田さんは創唱者を紹介しているが、 他の三点についてはまともに問題視した学者はかって皆無 だったようだ。

 念のために、「第三」について『古今和歌集』『新古今和歌集』 部立てを調べてみた。前者では「雑歌・雑体」という部が 巻17~巻19に割り当てられている。最後の巻20の部名は 「大歌所御歌・神遊びのうた・東歌・墨滅歌」だが、 これも「雑歌」としていいだろう。後者では同じく全20巻のうち巻16~巻18が「雑歌」で、 巻19「神祇歌」巻20「釈教歌」である。
 当然というべきで、調べるまでもないことだった。

 「第一」・「第四」の不審点は、国学以来の ヤマト王権一元主義というイデオロギー (古田さんは「Tennology」と造語している。) に囚われているものには全く見えないか、見えたとしても その不審を解決できない。

 これらの不審点は、ヤマト王権一元主義を糺して 多元的王朝史観を前提にしたと同じように、『日本国万葉集』 に先行して筑紫を中心とする歌集、『倭国万葉集』が あったとすれば、濃霧がいきなり晴れるように全てが明瞭 に解決される。

 『日本国万葉集』に先行する歌集があったことは 『日本国万葉集』そのものの中に書かれている。

  ある本の歌に曰はく
居明かして君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜はふれども
  右一首、古歌集の中に出づ。


 岩波古典文学大系の頭注は次のように解説している。

『万葉集編纂の材料になった歌集の一。編者も、 もとの体裁も不明。万葉集の巻二・七・九・ 十・十一に見える。巻七・九には古集という名 もあるが同じものであろう。長歌・短歌・旋頭 歌があり、おおむね飛鳥・藤原京時代の作。』

 これ以上の突っ込んだ考察はしない、というよりも Tennologyの立場からは出来ない。しかし、『万葉集』 以前にも歌集があったこととそこに収録されている歌が7 世紀以前のものであることは認めざるを得ない。( にもかかわらず、学校では相変わらず『万葉集』を 日本最古の歌集と教えている。)

 これについて、古田さんは『万葉集』巻七(1246末 尾)の「右の件の歌は、古集中に出づ。」を引用して 次のように論述している。

「現存の『万葉集』は、『新集』であり、その先範 (お手本)としての『古集』があった」と。これは、 疑う余地がない。

 さらに、「『古集』などという歌集名はない。した がって具体的な歌集名をカットし、『古集』という普 通名詞に変えている」という点も、問題だ。

 もっとも、この点については、他の見地も可能だ。 すなわち、「『古集』の実名は、『万葉集』であった。 現在の歌集である『万葉集』の初代、という意味で、 『古集』と記した」という立場だ。この考えに立てば、 一段と、先にわたしののべた、「『倭国万葉集』から 『日本国万葉集』へ」というテーマに近接しよう。もし また、前者(歌集名カット)の立場をとったとしても、 右のテーマと「類同」した問題をふくむこと、変わりは ない。

 さて、「『倭国万葉集』から『日本国万葉集』へ」と いう立場に立てば、先の四つの不審点は次のように解明 される。

(一)
 「倭国万葉集」においては、「七世紀以前」の(年代 の明記された)「防人の歌」が多数、収録されていた。 これに対し、「日本国万葉集(現存のもの)」では、 「八世紀以降」だ。『旧唐書』の「倭国」「日本国」 と、見事に対応する。

(ニ)
 「倭国万葉集」には、九州の人、瀬戸内海領域の人々 の歌が多数収録されていた。しかし、その補篇たる 「日本国万葉集」には、それを欠いている。

(三)
 「倭国万葉集」の「大和篇」が「雑歌」として残され た。そしてそれを出発点(巻一・二)として、巻三以降 が増補され、現存の『万葉集』に至ったのである。

(四)
 「白村江の歌」は、「倭国万葉集」の中の白眉、少なく とも、悲劇の色濃い「名歌」を蔵していたであろう。あと に残された恋人の悲しみも、消えがたい色を残していた であろう。もちろん、九州や瀬戸内海領域の人々が中心 だ。だが、現存の「日本国万葉集」には、それらがない。

 以上だ。従来の「近畿一元史観」からは、解消不可能 の諸疑問が、一個の学問的仮説を投入した途端、一つひ とつ、音をたてて消えてゆくのを見たのであった。

 上の論述を裏づけ補強するものとして、

「白村江の戦(1)」
「白村江の戦(2)」
「白村江の戦(3)」
「白村江の戦(4)」
「ヤマト王朝の成立」

を参照してください。
第823回 2007/07/07(土)

「真説・古代史」補充編

銅鐸圏(東鯷国)の神話(3)


 古田さんは『万葉集』からも東鯷国の神話を 見い出している。「巻一」13・14首目の 「中大兄(なかつおほえ 天智天皇)の三山の歌」である。

香具山は 畝火雄々しと 耳梨と 相争ひき 神代より  かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつ せみも つまを 争ふらしき

反歌

香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら)

 ちなみに、岩波古典文学大系の「大意」は次のように なっている。

『香具山は畝火山を男らしく立派だと感じて、その愛 を得ようと耳梨山と競争した。神代からこうであるら しい。昔もこのようであったからこそ、現世でも一人 の愛を二人で争うことがあるものらしい。』

反歌
『香具山と耳梨山とが争った時に、阿菩の大神が立 って見に来た印南国原はここなのだなあ。』

 「なるほどなるほど、三角関係っていうヤツは神代の 昔からよくあることだった、っていうわけだ。」と、 私などはこの程度で読み過ごしまうのだが、古田さんは このよく知られた歌から東鯷国の神話を読み取って しまう。改めて、その見事な手さばきに感服する。

 なお、上の大意には『畝火山を女性、他の二山を男性と見て、ヲヲシを 「を愛(を)し」と解する説もある。』という註が付されて いる。中大兄が弟の大海人皇子(天武天皇)と額田王を 争っていたことと結びつける場合はこの解釈が適する。 古田さんはこの解釈を取っている。

 また、反歌で「立ちて見に」来たのは「印南国原」と 読める(古田さんはそのように解している)が、上の大 意では原文にない「阿菩の大神」を登場させて、「立ち て見に来し」の主語を「阿菩の大神」としている。この 「阿菩の大神」の突然の登場の謎も古田さんの 解読のなかで明らかになる。

 問題は「神代より」の一句だ。この大和 三山の争いの説話は、「神代の話」、つまり「神話」、 なのである。ところが記紀神話中、全く姿を見せない。 あれだけ広大な神代の巻の中に、両書とも一切、片影さ え現われていないのだ。これはなぜか。

 一つの回答がある。

「大和三山の争いなど、大和の一隅の片々たる一民話譚だ。 だから広大な神話体系の叙述である記紀神話に登場しない のは当然だ」

と。誰にも思いつきやすいアイデアだ。だが、この歌の 反歌を見つめると、このアイデアは、ひっきょうアイデ アだおれであることが分る。

 印南国原は、播磨の国原である。現実に中大兄や大海 人皇子たちが、額田王をめぐって争っているとき、それ をいい気分で見物顔の第三者(-の皇子)がいたのであ ろう。それを神話中でも、大和三山の争いを、わざわざ 播磨から見物に来たといわれる、印南国原に喩(たと) えたのである。

 播磨に関連してもう一つの説話がある。『播磨国風土 記』だ。

(上岡の里) 出雲の国の阿菩(あぼ)の大神、大倭 (やまと)の国の畝火・香山・耳梨、三つの山相闘ふ と聞かして、此を諌(いさ)め止めむと欲(おもほ)し て、上り来ましし時、此処(ここ)に到りて、乃ち闘ひ 止みぬと聞かし、其の乗らせる船を覆(ふ)せて坐 (いま)しき。(揖保郡)

 大和三山の争いに対し、出雲の阿菩の大神が仲裁に出 てきたというのである。ところが、この上岡の里に来た とき、三山の争いが終結したことを聞いた。そこで乗っ ている舟をひっくりかえし、大和へ行くのを止めた、 という話だ。

 右で注目すべきこと、それは次の五点だ。


 大和三山の争いの噂は、周囲(河内・和泉・摂津等) を越え、播磨にまでひろがった。


 大和や周囲の国々の山々や国原も、それぞれこの争い にあるいは加担し、あるいは見物者となるなど、かかわ りをもった。そのため、かえって仲裁はできなかった。


そこで別の神話圏の神である出雲の阿菩の大神 (これは山々や国原でなく、神格を異にしている)が、 仲裁に出てくることとなった。


 大和三山の争いを発端とした近畿の争乱が止み、印南 国原の神も、故郷の播磨へ帰った。そして播磨平野にそ のニュースが流れた。


そのニュースを、播磨平野の西北辺に入ってきた出雲の 阿菩の大神は聞いた。

 大略、右のようだ。すなわち、これは近畿大乱ともい うべき大争乱譚だ。その発端部が大和三山の争い、終結 部が出雲の阿菩の大神の出馬と仲裁未遂譚。その中間の 近畿大争乱譚は失われているのだ。もし、河内・和泉・ 摂津、もしくは大和などの『風土記』がのこっていれば、 わたしたちはそれを知ることができたであろう。

 あたかも、あのイリヤッドで、三人の女神がパリスの もとに現われてリンゴを提示して、「もっとも美しいと 思う女神に与えよ」といったこと。そしてパリスがその 一人にリンゴを渡したため、他の二女神の嫉妬を買い、 それがギリシャとトロヤの長期大戦乱の発端となったとい う話、そしてその結果として木馬の詭計によってトロヤの 滅亡した説話、あるいはオデッセーの漂流譚、それらに 類似しているのである。こちらでは、肝心の中心部たる 近畿大争乱譚は失われてしまったけれども---

 以上のように分析してみると、疑問は一段と増大する。 決定的となる。なぜなら、これは大和盆地の一隅の、単 なる一民話譚どころか、近畿一円から、遠く出雲まで及 ぶ一大争乱譚なのであった。それ故、先のもっとも思い つきやすいアイデアは、到底無理であることが判明する。

 とすれば、なぜ、これほど壮大なスケールの一大神話 体系が、記紀神話の巻からカットされているのか。しか も、天智がこの神話を知っていたとすれば、弟の天武も 同じく知っていたことであろう。恋人の額田王や、天武 の妻の持統も、当然知っていたと考えていい。子供や孫 の元明・元正たちも、無論だ。だとすれば、これらの天 皇のもとで作られた記紀の神代の巻、そこに右の一大争 乱譚が、なぜ一切姿を現わさないのか。これは不可避の 謎だ。

 だが、ここに一つの解明のカギがある。それは「征服 者側の神話」と、「被征服者側の神話」という二つの神 話の存在だ。

 神武たちは、九州の一角から、大和盆地へ 侵入した。そのさい、天照大神を中心の統一神とする九 州の神話をたずさえて侵入したのである。これが記紀神 話だ。

 これに対し、征服された大和盆地側、すなわち銅鐸圏、 東鯷国にも、神話があった。それが、大和三山に もとづく近畿大争乱譚であった。しかし、天武~元明・ 元正たちは、一切これら「被征服者側の神話譚」は、 記紀の神代の巻には登場させなかった。なぜなら記紀の 神代の巻は、近畿天皇家の人々の知っていた神話のすべ てを記載させたものではない。あくまで、近畿天皇家の 淵源とその統治の正当性を証明すべき神話に限られてい たからである。それ故、「被征服側の神話」など、一切 掲載不要なこと、当然であった。

以上のような分析視点から見れば、この大和三山の争いの神話問題も、何等の不可思議な き理解をうることができる。

 ところが、もし戦前の皇国史観の場合、到底右のよう な分析は不可能だ。なぜなら、記紀神話こそ日本神話の すべて。これが至上理念だからである。

 次に、戦後史学の場合、記紀神話をもって、後代の 近畿の史官の「造作」とした。神武の侵入も架空とさ れた。したがって到底このような分析は不可能だ。 だからこそこれほど著名の『万葉』の歌に対して的確 な解説をほどこす人は、ついに現われなかったのである。

 『万葉』のこの歌は、当然ながら、この七世紀後半代 の人、天智の意識をしめす第一史料だ。その第一史料に 対して、必要にして十分な解明が与えられぬとしたら、 その史観という名の仮説は、結局不合格の烙印を押され ねばならぬのではあるまいか。

 これを単に地方的な一民話譚として矮小化することに よって、解説してきた - これが従来のすべての万葉 学者の立場ではなかったであろうか。この一点を斯界に 問いたい。

 『記紀』に加えて『万葉集』も古代史解明の史料と して加えられた。『万葉集』からは、東鯷国の姿ばかり か、当然に九州王朝の姿も垣間見られるはずだ。次回は 古田さんの『万葉集』分析の手さばきをみてみよう。

第822回 2007/07/06(金)

「真説・古代史」補充編

銅鐸圏(東鯷国)の神話(2)


 「崇神記」は「神々の祭祀」に次いで「三輪山伝説」を 記録している。この説話は「神々の祭祀」に登場した 意富多多泥古(おほたたねこ)の祖源譚で、父親・ 大物主大神と母親・活玉依毘売(いくたまよりびめ) にまつわる説話である。(以下は岩波古典文学大系より。)

 活玉依毘売、其の容姿(かたち)端正(うるは)しかりき。 是に壯夫(をとこ)有りて、其の形姿威儀(すがたよそほひ) 、時に比(たぐい)無きが、夜半(よなか)の時に ?棭忽(たちまち)到来(き)つ。故、相感(あいめ)でて、 共婚(まぐは)ひして共住(すめ)る間に、末だ幾時(いくだ)も あらねば、其の美人(おとめ)妊身(はら)みぬ。

 爾に父母其の妊身みし事を恠(あや)しみて、其の女(むすめ) に問ひて曰(い)ひけらく、

「汝(な)は自(おのずか)ら妊みぬ。天(を)无(な) きに何由(いかに)か妊身める。」

といへば、答へて曰ひけらく、

「麗美(うるは)しき杜夫有りて、其の姓名(かばねな)も 知らぬが、夕毎(よひごと)に到来て共住める間に、自然 (おのずから)懐妊(はら)みぬ。」

といひき。

 是を以ちて其の父母、其の人を知らむと欲(おも)ひ て、其の女に誨(をし)へて曰ひけらく、

「赤土(はに)を床の前に散らし、閇蘇紡麻(へそを  紡いだ麻糸を環状に幾重にも巻いた物)を針に貫きて、 其の衣(きぬ)の襴(すそ)に刺せ。」

といひき。故、教の如くして旦時(あした)に見れば、 針著けし麻(を)は、戸の鉤穴(かぎあな)より控(ひ) き通りて出でて、唯遣れる麻は三勾(みわ 三輪=三巻き) のみなりき。爾に即ち鉤穴より出でし状(さま)を知りて、 糸の従(まにま)に尋ね行けば、美和山に至りて神の社 に留まりき。故、其の神の子とは知りぬ。故、其の麻の 三勾遣りしに因りて、其地を名づけて美和と謂ふなり。


 この説話を古田さんは次のように解読している。

 著名な説話だが、この話には、一つの奇妙な点がある。 それは活玉依毘売の住居だ。父が陶津耳命だというが、 この神は「陶」(=須恵)と「耳」(耳原)と二つの地 名の連結から成る神である(ただ「津」は海または川の 港津の可能性が大きい)。

 さて、この「陶」は、『日本書紀』に「茅渟県(ちぬのあがた) の陶邑」(崇神紀、大田田根子の出自)とあるように、 和泉国のあたりにあったものと見られる。とすると、右の 説話中〝三勾の麻が遺っていた”という活玉依毘亮の住 居は、堺市近辺だったこととなる。一方の美和山(三輪 山)は、無論奈良県だ。

 とすると、奇妙なことになる。

第一、
 堺から奈良県まで、延々と延びた麻糸、こんな光景はい かにもナンセンスだ。
第二、
 麻糸が「三勾」遺っていたというのは、堺市近辺とな り、美和山(奈良県)とはひどく離れている。これもお かしい。この矛盾はなぜだろうか。

 この説話は、本来三輪山山麓のささやかな民話譚だった のではあるまいか。三輪山の地名起源譚だ。「みわ」は、 先にのべたように「みま」(御真)と相並ぶ、一連の地 名だ。「ま」が「須磨」や「やま」「しま」と同類の地名 接尾辞であるのに対し、「わ」は祭祀の場を意味するよう な、地名接尾辞であろう。

 それはともあれ、ここでは、この「みわ」という地名 をもじった興味深い説話が作られ、語られているのであ る。もちろん、語り手も、聞き手も、本来は三輪山近辺 の人々だったであろう。

 ところが、その信仰圏が拡大し、「三輪山~陶邑」を ふくむ近畿圏が同一文明圏となるに及んで、この説話は 拡大された。三輪山の大物主大神と茅渟(ちぬ)の陶津 耳命の女とを結ぶ巨大説話へと成長するに至ったのであ る。

 その証拠に、右でも「父母」とのべられているけれ ど、活玉依毘売の母の名は出ていない。とりたてた名前 なき父母とその娘、いずれも三輪山近辺の庶民の中の親 娘(おやこ)のもとに、夜半壮夫がかよってきはじめた  - こういった形が、この説話の原形ではなかったか。 一見、素朴に見えるこの説話。実は大和~河内~和泉を 結ぶ巨大近畿圏の成立を告げる第二次発展型だったので ある。それは、もちろん銅鐸圏、東鯷国の神話だ。

 この「三輪伝説」は「日本書紀」では全く様相を異にする。 次のような説話に変わっている。

 是の後に、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひめのみこと)、 大物主神の妻(みめ)と為る。然れども其の神常に晝は見 えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命、夫(せな)に語りて 曰はく、

「君常に晝は見えたまはねば、分明(あきらかに)に其の 尊顔(みかほ)を視ること得ず。願はくは暫(しばし)留りた まへ。明旦(くるつあした)に、仰ぎて美麗(うるわ)し き威儀(みすがた)を覲(み)たてまつらむと欲(おも)ふ」

といふ。大神對(こた)へて曰はく、

「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり。吾(われ) 明旦に汝(いまし)が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。 願はくは吾が形にな驚きましそ」

とのたまふ。

 爰(ここ)に倭迹迹姫命、心の裏(うち)に密(ひそか) に異(あやしぶ)ぶ。明くるを待ちて櫛笥を見れば、遂(まこと) に美麗しき小蛇(こおろち)有り。其の長さ大(ふと)さ 衣紐(したひも)の如し。則ち驚きて叫啼(さけ)ぶ。 時に大神恥ぢて、忽(たちまち)に人の形と化(な)りたまふ。 其の妻(みめ)に謂(かた)りて曰はく、

「汝、忍びずして吾に羞(はぢみ)せつ。吾還りて汝に 羞せむ」

とのたまふ。仍(よ)りて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、 御諸山に登ります。

 爰に倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて急居(つきう どすんと すわった)。則ち箸に陰(ほと)を撞きて薨(かむさ) りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人(ときのひと) 、其の墓を號(なづ)けて、箸墓(はしみはか)と謂ふ。

 是の墓は、日(ひる)は人作り、夜は神作る。故、大坂 山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民 (おほみたから)相踵(あいつ)ぎて、手遞傅(たごし  列を作って手から手に渡して)にして運ぶ。時人歌(うたよみ) して曰くはく、

大坂に 継ぎ登れる 石群(いしむら)を 手遞傳に越 さば 越しかてむかも


 もちろん、古事記の方が原型(古型)であり、日本書紀の 方は「造作」されたものである。それではこの「造作」された 方の説話からはどんなことを読み取ることができるのだろ うか。古田さんの解読を読んでみよう。

 右(日本書紀の方の説)に出てくる大物主神は、前の 説話のそれとは、同名異神とすら思われる。

 前の方では、一種、間の抜けた相貌をもつ。毘売につ けられた麻糸をひきずって帰りゆき、その故山をつきと められる神だ。

 これに対し、『日本書紀』はちがう。大空を駆けて、 故山に帰るという威厳ある神だ。しかも約束を破った妻 (姫)には、敢然として罰としての死を与える。間抜 けどころではない。恐るべき神だ。したがってこの説話 は次のように分析されよう。

第一、
 右にのべたように、この大物主神は空を駆けるという 超能力をもつ神であり、『古事記』の方より、はるかに 発展した位相に立つ説話である。

第二、
 ここでは「在地の中心的な大神たる大物主神」と、 「近畿天皇家の一員たる倭迹迹日百襲姫命」と、この 両者を結ぶ効能をもつ。つまり、崇神による天国系の神 と在地系(地祇)の神との共存政策の実施されたあとに、 「造作」された説話なのである。

第三、「箸墓」の地名説話の形をとっているけれど、 「はし」は本来「は+し」であり、「しき」(し+き 〈城か〉)などと一連の地名だ。「し」と呼ばれる領 域の一部、もしくはその形状をしめした地名、それが 「はし」なのではあるまいか。
 それを換骨奪胎して、「箸」にゴロ合わせした説話。 当然、「箸」がこの地帯(近畿)で使いはじめられて からのちに、成立した説話であろう。

 以上、要するに、近畿天皇家が在来信仰(大物主大神) との結合を求めて「造作」せしめた説話、それがこの説 話の本質なのである。
第821回 2007/07/05(木)

「真説・古代史」補充編

銅鐸圏(東鯷国)の神話(1)


「2 カムヌナカワミミ(綏靖スイゼイ)」から「9 ワカ ヤマトネコヒコオオヒ(開化カイクワ)」までの八代は 「欠史八代」とか「欠史時代」とか言われてきた。 その時代を探る手ががりになる説話が皆無なのだ。「天皇家は 永遠に不滅です。」と天皇教に浸りきっている皇国史観 論者の肝を冷やすほどに格好がつかないたいへんな不祥事 なのだ。記紀はその編纂者たちの「造作」したものとする 戦後史学会にとっても大変困る不祥事だ。「記紀の編纂者 たちはどうしてその八代だけ造作しなかったの?」と問わ れると答えようがないのだから。
 「虚心」になれば、答えはいたって簡単。記録すべきほどの 事件がなかったのだ。ヤマト王権が奈良盆地から打って出て、 東鯷国への侵略を始めたのは「10 ミマキイリビコ イニヱ(崇神シウジン)」の時代からである。それが証拠に 「崇神記」からいきなりさまざまな説話が復活する。 その復活した説話の巻頭を飾るのが「神々の祭祀」と呼ばれ ている次のような説話だ。(岩波文庫版による。)

 この天皇の御世に、役病(えやみ)多(さわ)に起こりて、 人民(たみ)死にて蓋(つ)きむとしき。

 ここに天皇愁ひ歎きたまひて神牀(かむどこ)に坐(ま)し し夜、大物主(おおものぬしの)大神、御夢(みいめ)に顕 (あら)はれて曰(の)りたまひしく、

「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)を もちて、我が御前(みまへ)を祭らしめたまはば、神の気 (け)起こらず、国安らかに平らぎなむ。」

とのりたまひき。

 ここをもちて駅使(はゆまづかひ)を四方(よも)に班(あか) ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内の美努 (みのの)村にその人を見得て貢進(たてまつ)りき。こ こに天皇、

「汝は誰が子ぞ。」

と問ひたまへば、答へて曰(まを)ししく、

「僕(あ)は大物主大神、陶津耳(すえつみみの)命 の女、活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶して生める子、 名は櫛御方(くしみかたの)命の子、飯肩巣見(いいかたす みの)命の子、建甕槌(たけみかづち)命の子、意富多多泥 古ぞ。」

と白しき。

 ここに天皇大(いた)く歓びて詔りたまひしく、

「天の下平らぎ、人民栄えなむ。」

とのりたまひて、すなはち意富多多泥古命をもちて神主とし て、御諸山に意富美和(おほみわ)の大神の前を拝(いつ) き祭りたまひき。

 また伊迦賀色許男命(いかがしこおの)に 仰せて、天の八十平甍(やそぴらか)を作り、天神地祇 (あまつかみくにつかみ)の社(やしろ)を定め奉(かつ) りたまひき。また字陀の墨坂(すみさか)神に赤色の楯矛 を祭り、また大坂神に墨(くろ)色の楯矛を祭り、また 坂の御尾の神また河の瀬の神に、悉に遺(のこ)し忘るる こと無く幣吊(みてぐら)を奉りたまひき。これによりて 役(えやみ)の気(け)悉に息みて、国家(あめのした) 安らかに平らぎき。


 この説話を古田さんは次のように分析している。


(一)
 崇神以前から、大物主大神を祭ることは禁止されてい た。

(二)
 祭神のとき、流行病が蔓延し、人民が死につづけて いった。

(三)
 人民の中には「なぜ、何のたたりで、こんな災難がつ づくのか」という疑いがおこった。

(四)
 そして「わたしたちは、久しく大物主大神を祭ること が、禁ぜられている。そのためではないかしという声が生 じてきた。

(五)
 これに対して崇神側は、流行病という災害に加えて、 人民の怨嗟の声を恐れ、夢枕の件を「大義名分」 (トリック)として、大物主大神祭祀を解禁しようとした。

(六)
 けれども、そのさいすでに大和盆地の中には、この祭祀を 知る者はいなかった。なぜなら、神武が大和盆地に侵入し たさい、在地の信仰(大物主大神などへの祭祀)を禁圧し、 神主たちを殺し尽くし、追放し尽くしていたからである。

故(かれ)、此(かく)の如く、荒ぶる神等を言向け平和 (やは)し、伏(まつろ)はぬ人等を退け撥(はら)ひ、 畝火の白檮原宮に坐して、天の下を治(し)らしき。(神武記)

とある通りである。

(七)
 したがって崇神側は、あらかじめ、新征服地の河内に、 その該当者(意富多多泥古)を見出した上で、例の夢枕の 件を発表したものと思われる(政治的トリック)。

(八)
 そして一方で彼をして大物主大神を祭らしめ、他方で自 分の配下(伊迦賀色許男命)に自己側の天国(あまくに) 風の祭式土器で、祭礼を行わしめたというのである。

 ここには二種類の神々の体系がある。侵入者側の神々の体系、それは記紀自身のしめして いるように、天照大神を頂点とする神々の体系だ。天国を原点とする神々である。次は、被 侵入者側、つまり東鯷国の中の神々の体系だ。 そこ、少なくとも大和盆地では、大物主大神が頂点となって いたようである。

 「神武(第一代)→崇神(第十代)」の時代は、後者 (被征服者側)の祭礼が大和盆地内では禁止されてきた。 それがこの事件以後許されたのである。「天神」 (征服者側=天皇家)と「地祇」(被征服者側=東鯷国) との併祀の時代が開始されたのである。
第820回 2007/07/03(火)

「真説・古代史」補充編

東鯷国の行政機構


 大日本帝国下の「国史」の授業(たぶん小学校学校高学年) では歴代天皇の名前(漢風諡号)を丸暗記させられたという。 覚えられなかったり間違えたりすると教師にぶん殴られた という話しも聞いたことがある。これは最悪の銀行型教育、 というより教育なんてものではなくて、食いたくもない偽装 ミンチを無理やり口に押し込まれるような拷問だ。歴代天皇の 名前なぞというようなどうでもよい事柄は必要なときに調べ ればよいのだ。もっともいまでも学校でも、どうでもよいよ うなものを丸暗記させるような授業をやる教師がいるけどね。

(以下は「第353回 2005年8月6日」の記事 『「記・紀」の中の東鯷国』 を書き換えて再録したものです。)

 これからの話しには聞きなれない初期天皇名がたくさん出 てくる。時代も前後して分かりにくい。そこで、古田さんが 論証のために「記紀」から引用している文章を、その前後関 係を分かりやすくするため、時代順位並べてみる。天皇名の 前の数字は「歴代数」を表す。

1 カムヤマトイワレヒコ(神武ジンム)
 (d)遂に菟田(うだ)の下県に達す。
 (e)此の両人は、菟田のの魁帥(ひとごのかみ)なる者なり。(『日本書紀』神武紀)

2 カムヌナカワミミ(綏靖スイゼイ)
 (a)此の天皇、師木県主の祖、河俣毘売(かはまたびめ) を娶(めと)して生める御子……。(『古事記』綏靖記)

3 シキツヒコタマテミ(安寧アンネイ)  (b)此の天皇、河俣毘売の兄、県主波延(はえ)の女、阿久斗 比亮を娶して生める御子……。(『古事記』安寧記)

4 オホヤマトヒコスキトモ(懿徳イトク)
5 ミマツホコカヱシネ(孝昭カウセウ)
6 ヤマトタラヒコクニオシヒト(孝安カウアン)
7 オホヤマトネコヒコフトニ(孝霊カウレイ)
8 オホヤマトネコヒコクニクル(孝元カウグヱン)

9 ワカヤマトネコヒコオオヒ(開化カイクワ)
(c)此の天皇、旦波(たには)の大県主、名は由碁理 (ゆごり)の女、竹野比売を要して生める御子……。(『古事記』開化記)

10 ミマキイリビコイニヱ(崇神シウジン)
11 イクメイリビコイサチ(垂仁スイニン)
12 オホタラシヒコオシロワケ(景行ケイカウ)

13 ワカタラシヒコ(成務セイム)
 (1)故(かれ)、建内宿補を大臣と為し、大国・小国の国造 を定め賜ひ、亦国国の堺、及び大県・小県の県主定め賜ひき。(『古事記』成務記)
 (2)五年秋九月、諸国に令し、国郡を以て造長を立て、 県邑に稲置を置く。並びに盾矛を賜ひ、以て表と為す。 則ち山河を隔てて国県を 分ち、阡陌に随ひて以て邑里を定む。 (『日本書紀』成務紀)

 「成務紀」によると「県」や「県主」といった行政単位 や称号が、天皇家によって定められたとされている。

「記紀」の表記ルールでは「定め(賜ひ)き」とある場合、 それは補修(改正や改定)ではなく創設を意味する。

 ところが成務時代以前の神武・綏靖・安寧・開化の時代の記事にも 「県」や「県主」の記事が頻出している。これはどういうわけか。

 この矛盾に悩みに悩んだ末、本居宣長は次のような迷答 をあみだした。(『古事記伝』)

『かゝれば県(あがた)と云は、もと御上田(ミアガタ)よ り起(オコ)れる名にて、又其に准(ナゾラ)へて、諸国 (クニグニ)にある、朝廷の御料(メシタマ)ふ地をも云フ、 此(こゝ)に大県小県とあるは是なり。』

 つまり、「県」とは「御県の略」であって、“天皇の直轄 地”だと言い、その上で次のように矛盾を「怪凍」する。


『さて国ノ造(みやつこ)と云物を、此ノ時初めて定メ賜 ふには非ず。是レより前(さき)にも有りつれども、此 ノ時に更(サラ)に広く多く定め賜へりしなるべし。』


『さて此(コゝ)に県主を定メ賜ふとあるも、初めて此ノ職 (ツカサ)を置(オカ)れたりとには非ず、かの国ノ造を 定メ賜へると同じことなり。』

 つまり、「定め(賜ひ)き」を制度を補修(改正や改定) したという意味に解した。

 この宣長の「怪凍」を古田さんは次のように解凍している。


第一、
 『古事記』の他の個所では、「定め(賜ひ)き」とある 場合、補修の意ではない。また宣長も、そのように解して いない。

『又木梨之軽太子の御名代と為て軽部を定め、大后の御名代 と為て、刑部を定め……(『古事記』允恭記)

 しかるに、ここだけ、こちらの都合で意味を改変するのは、 不当だ。

第二、
 もしこれが「補修記事」なら、創設記事がどこにもなく、 いきなり補修記事というのは不可解だ。

第三、
「補修」ならば、この回にとどまらず、何回もあったであろ う。しかるに、ここだけ補修記事というのでは、おかしい。

 以上だ。宣長の長広舌も、新たな矛盾の馬脚を次々と露呈 しているのである。


 では、どのように考えるのが理にかなっているか。 真の解答は次のようになるだろう。

 (1)(2)の記事は天皇家による創設の記事である。

 従ってそれ以前(a)~(e)の「県」や「県主」は、当然 天皇家任命下のものではない。天皇家以前の、あるいは 天皇家以外の行政単位であり、称号名である。

 以上から初期ヤマト王権のあり様について次のように 言うことができる。

「1 神武」→「9 開化」の時代
 西方からの侵略軍団は大和盆地の一画に小拠点を持つこと に成功したが、そこに蟠踞(ばんきょ)したにすぎなかった。 とても行政単位やその長の称号名を独自に創設できるような 分際ではなかったのだ。

「10 崇神」・「11 垂仁」の時代
 大和盆地外への侵略戦争を開始し、支配地域の拡大に成功 した。銅鐸圏(東鯷国)の中枢部を打倒し、その遺産 を略奪した。

「12 景行」の時代
 ヤマト王権は拡大・安定期を経て、ようやく王朝 (正確には、九州王朝の分流王朝)としての資格と 実質をそなえてきた。

「13 成務時代」
 ヤマト王権独自の行政単位や称号名を確定するように なったが、それらの多くは前王朝(東鯷国)の行政 単位名(県)や称号名(県主)などを継承したものであった。

 古田さんは次のように締めくくっている


 以上の論定を裏づけるもの、それは次の二点だ。

(A)
 先にのべたように『古事記』のしめすところ「神武~開化 間」は、大和盆地内の支配にとどまっていた。しかるに、上の (c)では、大和盆地外の豪族として「旦波の大県主」の名があ る。この称号が天皇家任命下の称号であるべき道理がない。

(B)『日本書紀』が語る「革命の論理」、「革命」前の覆され た王朝には、行政単位も、その長の称号名もない、そんなこと が考えられようか。神武の前王朝の存在を自明とした『書紀』 の編者は、また天皇家以前の、また以外の、行政単位やその 長の称号名の存在を自明としていた。それゆえ、平然と成務 紀に、天皇家による創設記事をおきえたのだ。

 このように考えることが『書紀』という文献の事実に則す べき、唯一の見地ではあるまいか。
第819回 2007/07/02(月)

「真説・古代史」補充編

「記紀」の中におのずと現れてくる東鯷国


森教授の自信作『日本神話の考古学』の第10章「船団に よる移動」は「神武説話」を取り上げている。その書き出 しを引用する。

 『古事記』や『日本書紀』の全体の構成のなかで、南九州 にいた天皇家の先祖たちと、いわゆる大和朝廷時代の天皇家 の先祖たちとをつなぐ事件として重要なのが、「神武東征」 とか「神武東遷」とよばれている大移動の物語である。

 この大移動の物語では、宮崎、大分、福岡、広島、岡山、 大阪、和歌山、三重などの府県の地名がつぎつぎにあらわれ、 最後に大和を平定し、建国したストーリーになっている。こ の建国の年を西暦で換算すると、紀元前660年になる。以下、 イワレ彦(伊波礼毘古、神武天皇)の東征の物語として表記 するけれども、この南九州から近畿への東征の物語がなけ れば、『記・紀』の構成上では、大和での朝廷は生まれ得な いのである。

 太平洋戦争後の考古学では「神武東征」についてほんのわ ずかでもふれる研究者があると、「科学的でない」として 非難の雨が集中した。そのため、しだいに事件としての 「神武東征」だけではなく、考古学的な資料の整理の結果と して導きだされた「九州の勢力あるいは文化の、大和など 近畿への東伝あるいは東進」についてふれようとすること にも、ためらいがみられるようになった。が戦争中の言論へ の弾圧とはもちろん違うとはいえ、これは、政府や軍部では ない力による、言論への圧力ではなかろうか〟としばしば考 えさせられた。しかし、そういうためらいを捨てて、虚心に 神話・伝説と考古学の接点を探るべき時期であろう。

 「虚心に神話・伝説と考古学の接点を探るべき時期であろ う。」という果敢な姿勢はよしとするも、如何せん、ヤマト王権 一元主義というイデオロギーに満たされている「虚心」である のが致命的である。せっかくの果敢な試みも、自信作にもかかわらず、 愚論に終わるほかない。

 ところで、「神武東征」とか「神武東遷」と呼ばれている説話の 本質をずばり示すには「神武東侵」と呼ぶべきだというのは 古田さんの見識だが、私はそれに倣うことにしている。

 さて、森教授は「この建国の年を西暦で換算すると、紀元前660年 になる。」とあっさりと書き流して、以後このことには全く触れ ないが、考古学者として一言あっていい問題だろう。 「考古学的な資料の整理の結果」からは「紀元前660年」がい かにばかげた設定であるかはあきらかだろうから。もしかす ると、ばかげすぎていて深入りするに値しないと、はなから 決めかかっているのかも知れない。しかしそれでは永久に 「大和での朝廷は生まれ得ない」のではないか。

 この「辛酉(かのとのとり)の年」=「紀元前660年」と いう年代設定は那珂通世(1851~1908)の理論による。

『辛酉の春正月の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたちのひ) に、天皇、帝位に橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。 是歳を天皇の元年とす。』(「日本書紀」神武紀)

 那珂は、この「辛酉」という年は大革命の年されており、 それは中国の讖緯(しんい)説に依拠していることを指摘 して言う。

『此ノ紀元ハ、人皇ノ世ノ始年ニシテ、古今第一ノ大革命ノ 年ナレバ、通常ノ辛酉ノ年二ハ置キ難ク、必一蔀ノ 首ナル辛酉ノ年ニ置カザルベカラズ。』(「上世年紀考」第 三章、辛酉革命ノ事)

 干支は60年で一周(一元という)する。「一蔀(ほう)」は 21元という意であり、60(年)×21=1260(年)である。 その首の辛酉の年に大革命があるというのが識緯説。 推古天皇9年(600年)が辛酉なので、それより逆算して 紀元前660年というわけである。

 この年代設定からは、「神武紀(記)」以降のいわゆる 「人皇紀(記)」の記録を解読する上での最重要前提事項

『「神武東侵」以前に王朝が存在したこと、そして「ヤマト 王権」はその前王朝から権力を簒奪した。』

という事実を読み取ことができる。それは日本書紀編纂者 たちの基本認識でもあった。このことはすでに 『「建国記念の日」=「紀元節」のバカバカしさ』 で取り上げたことだが、そこで引用した古田さんの論述を 再録しよう。

 この那珂理論は、ことの、より重要な反面を故意か偶然 か見落している。あるいは欠落している。

 なぜなら「革命」とは、「前王朝を武力で打倒する」事実 を前提とした術語だ。その不法行為を「天命」によって合理 化した言葉、それが「命を(あらた)める」 ことだ。すなわち、これこそ天命が前王朝から我(打倒者) に移ったため、と称するのである。してみれば、前王朝の存 在なしに、この「革命」の語、もしくはその概念を用うるこ と、それは全くありえないことだ。

 だから、『日本書紀』の編者が神武即位に「辛酉」をもって 当てたということ、それはとりもなおさず、「それ以前に、 前王朝が存在した」という主張をふくむことになる。むしろ、 それを自明のこととして、前程しているのである。

 その前王朝の仔細について書くのは、もちろん『書紀』の 目ざさざるところ。しかし、大義名分上の立場は右のごとし。 疑う余地はない。

 『前王朝の仔細について書くのは、もちろん「書紀」の 目ざさざるところ』というより、完全に抹消したかったに 違いない。しかし真実を完全に隠しおおせるわけがない。 頭隠して尻隠さず。日本書紀のそこここに九州王朝の 「尻」が見えるのと同じように、東鯷国の「尻」 も見えている。「神武東侵」の説話の解読の前に、 東鯷国の「尻」を探ることによって東鯷国の 「頭」を浮かび上がらせてみよう。
第818回 2007/07/01(日)

今日の話題

ニュースの読み方・サルコジ大統領の場合

 日本のマスコミは大本営の発表をそのまま垂れ流した 大日本帝国時代のマスコミ犯罪を犯罪とは思っていないらしい。 相変わらず当局発表のニュースをそのまま垂れ流した だけの記事が多い。もしかすると虚偽を報道することになる かも知れないという危惧がほとんど見られない。だから 私たち末端のニュースの受け手はニュースをそのまま鵜呑み にするわけにはいかない。

 国外ニュースの場合も記者自らが取材するのではなく、 いわゆる外電をそのまま鵜呑みにして垂れ流している場合が 多い。やはり鵜呑みにするわけにはいかない。その顕著な例が 最近あった。

 フランス大統領選の決選投票でサルコジが選出されてから 2ヶ月ほどになる。あのときマスコミはこぞって、サルコジ が米国型の新自由主義を掲げているように報道していた。 だから私はフランス国民にがっかりした気分になった。し かし一方、さまざまな国で米国型の新自由主義が破綻を見 せ始めているのに、フランス国民がそれをを選んだという ことをにわかには信じ難かった。買いかぶり過ぎかもしれ ないが、市民革命という試練を経験しているフランス人が、 ポチ・コイズミや沈タロウのような民衆の敵を選んでしま う日本国民ほど愚かとは思えないのだ。

 「Bund」というサイトの「転換を迫られるフランス社会党」 という記事に出合った。フランス大統領選について次のように 書いている。

 5月6日フランス大統領選の決選投票が行われ、国民運動連合(UMP)のニコラ・サルコジ氏(52)が53・06%得票して新大統領に選出された。

 社会党から出馬したセゴレーヌ・ロワイヤル元環境相(53)は、46・94%の得票にとどまった。社会主義的な高福祉政策が行き詰まるなか、フランス国民は市場経済に重点をおいた自由競争社会を選択したのだ。

 サルコジ路線は小泉構造改革と同様、弱者切り捨て、格差拡大などの新たな矛盾をフランス社会にもたらすだろう。これに対抗するフランスの左派勢力は、従来の福祉国家路線の見直しを迫られている。


 おそらく圧倒的多数の人が、フランス大統領選の結果を このように受け取ったのだと思う。

 上記の記事は、フランス国民がサルコジを選んだ理由の 主要因を「フランスの経済的低迷」に求め、その最大の 原因は「フランス型社会主義」にあるとする。そして そのことを詳細な数字を挙げて解説している。 そして、サルコジの対立候補の社会党首ロワイヤル が掲げた公約は「ほぼ従来の党の方針に沿ったものであり」 これに多くの有権者が落胆したと言っている。 ほんとにそれだけの理由だろうか。 フランス国民がいきなり新自由主義という180度も違う方向 を選び取る理由としては、私には納得できない。フランス国 民がサルコジを受け入れる理由がサルコジ側にあるのではな いか。

 では、米国型の新自由主義を掲げているというサルコジ の公約は具体的どのようなものだったのか。

サルコジ氏はこうしたフランス社会の閉塞性を批判し、 「もっと働き、もっと稼ごう」をスローガンに、急進的 な経済改革を進めることを訴えた。週35時間労働制の堅持 を公約に掲げたロワイヤル氏に対し、「労働者の勤労意欲 をそぐ」と強く反対。逆に週35時間を超えた労働報酬には 所得税を免除し、まじめに働く者が報われる社会への転換 を主張した。

 さらに手厚い失業保険と長い支給期間を見直す政策も 掲げた。失業者は公的機関の就業提案を1度しか拒否で きないようにし、勤労意欲を喪失したまま失業保険に依 存して生活することを容認しない、厳しい政策を打ち出 したのである。


 このサルコジの具体的な公約の入手先はどこなのか 詳らかではないが、日本のマスコミが流したものと違わない。

 東京新聞(日付を記録し忘れた。)に、薬師院仁志(帝塚 山学院大教授・社会学)という方が

『日本で伝えられなかったサルコジ新大統領の公約』
副題「デンマーク型政策を採用 「生活保障」を最重視」

という論説を書いている。これによるとマスコミが報じてきたのとは まるで違うサルコジ像が浮かび上がってくる。私はかねがね、 資本主義を漸進的に棄揚していく道(人間解放への道)の モデルをデンマークが示していると思ってきたが、サルコジ がその道を選んでいることをこの論説は報じてきる。

 「社会保障偏重から、柔軟な雇用形態や競争主義を導入し た米英型社会へ」。右派のサルコジ氏が当選した先の仏大 統領選での東京新聞の報道である。読売新聞も、サルコジ 氏の「公約は、企業による従業員の解雇を容易に」するこ とだと報じた。他の新聞、テレビを含め日本のメディアは みな同様の報じ方で、東京、読売が飛び抜けて変わってい たわけではない。

 これを見て、フランスもまた、米国型の新自由主義に基 づく格差社会へと大変貌を遂げると思われた読者もあろう。 だが、実態は少し違うのだ。

 そもそも選挙結果は予想通りであり、当選後の施策も事前 の公約通りであって、驚くべきことは起きていない。実際、 新大統領が就任前に行った初仕事は労組代表との会談だった。 5月11日付のルモンド紙は、これを公約に照らして「極めて 当然」だと評している。

 サルコジ氏は、公約の中で「ごく少数でしかない経営者た ちが過剰な報酬や特権を得るのは受け入れられない」と喝破 し、「働く者が愚弄される社会は受け入れられない」との 主張のもと、不安定な雇用契約を廃して通常の雇用を正規 雇用に一本化する「統一雇用契約」の導入を掲げた。だから、 同紙は、何であれ雇用制度の変更を公約とした以上、まず 労組代表と話し合うのは極めて当然だと論じたのである。

 同紙によると、新大統領は「賃金の平等化、フレキシキュリ テ、労働条件の改善、労使関係の民主化」に関する話し合いを 労組に提案したとのことだ。労働条件の改善と労使関係の 民主化は、読んで字のごとくであり、賃金の平等化は、主 として超過勤務手当の割増率に関係している。サルコジ氏は、 小企業ではその割増率が10%にすぎない点を批判し、全員に 割増率25%を適用すると公約した。これに関しては、同28日 付の同紙が、割増率25%は「フルタイム労働者の超過勤務手 当のみならず、短時間労働者の追加労働、さらにはパック 雇用契約の上級ホワイトカラーにも適用されると報じた通り である。

 サルコジ氏の提案の中で分かりにくいのは、「フレキシ キュリテ」なるものだろう。これは、デンマークで社民党 のラスムセン政権時代に導入された制度で、政府、雇用主、 労組の協力体制の下、産業構造の変化に対応すべく雇用を 柔軟化(フレキシブル)しながら、手厚い失業給付をはじ め、社会保障(セキュリテ)の充実によって人々の生活 を守る制度である。要するに、雇用の保障よりも、個 人の生活保障を重視する政策だと言えよう。実際、同 国では、解雇手続きがフランスより簡素な反面、失業 者に対して以前の給料の9割を保障(受給期間は総計 4年)し、無料の職業訓練や研修を通じて求職活動を 支援している。しかも、失業率は4%強の水準で推移 しており、結果的に、転職者は多いが解雇による失業 者は少ないのである。

 これに倣おうというのが、新大統領の主張だ。実 際、3月30日のフィガロ紙は、サルコジ氏が経済的 理由による解雇を認める代わりに、「失職者に資格取 得研修を受けさせ、新たな職が見つかるまでそれまで の報酬の九割を保障」する方針だと報じていた。ただ し、同紙によると、正当な理由がない限り、再就職を 三度拒否すると就労意志なしと見なされ、失業保障も 打ち切りだとのことである。もちろん、「購買力」 の向上を訴え、「フランスの賃金は低すぎる」と断じ たサルコジ氏は、そこに賃下げの口実を求めているわ けではない。

 ともあれ、「フレキシキユリテ」には「従業員の解 雇を容易」にする側面もあり、この点に関しては、日 本での報も正しい。だが、それが生活保障や再就職支 援とセットであることもまた、事実なのだ。いずれに せよ、現地の報道を見る限り、サルコジ氏の考えは、 「反グローバル経済」 (ルポワン誌)や「道義なき資本主義の廃絶」(ルモンド紙)だとの印象を受けざる をえない。つまり、不安定な雇用契約の廃止、賃金の 向上、柔軟雇用に対する保障などを通じて働く者を尊 重し、勤労意欲を鼓舞することが、サルコジ氏の本意 だと思えてならないのである。実際、サルコジ氏は、 働く者に報いることを重視するからこそ、「多額の世 襲財産を持つ層が多く負担するのは当然」として富裕 連帯税の廃止要求を一蹴する一方、勤労所得からの減 税を公約したのではなかろうか。

 なお、超勤手当の割増率を一律25%にする公約は、 早くも10月1日から実現することになった(法定週35 時間労働、残業は年220時間まで)。これを見れば、 仏大統領の公約の重みが推察されよう。となると、 老齢年金の増額、育児支援手当ての支給拡充という 公約もまた空疎な建前だと切り捨てるわけにはいかない のである。

 どちらのサルコジが本当なのか。私は明らかに薬師院さん の論説の方が正しいと思っている。これならばフランス国民が サルコジを選んだことも納得できる。

 「ごく少数でしかない経営者たちが過剰な報酬や特権を 得るのは受け入れられない」
「働く者が愚弄される社会は受け入れられない」


 というサルコジが「道義なき資本主義の廃絶」にどこま で迫ることができるか。サルコジが行う実際の政治の行方を 見守ろう。

 ところで、日本でデンマーク型政策をそのまま実施してもうま くいくとは限らないのはもちろんだが、日本なりの特 殊状況をふまえた上で、「道義なき資本主義の廃絶」と いう理念の下にデンマーク型政策を提唱する政治家を 求めるのはこの国では夢のまた夢だろうか。