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第817回 2007/06/30(土)

「真説・古代史」補充編

銅鐸とヤマト王権


 下の図は銅鐸文化圏の銅鐸分布図で、上側が弥生前期~弥生 中期、下側が弥生後期の分布図である。

銅鐸分布1

銅鐸分布2


 上の2枚の図を見比べてすぐ著しい違いに気がつく。 弥生後期の図では大和盆地が全くの銅鐸空白地域になって いる。そして、弥生時代が終わるまでには銅鐸は跡形もなく 消えてしまう。例えば、同じ青銅器でも鏡は古墳時代にも 奈良時代にも使用されている。さらに弥生時代末期の銅鐸には 、捻じ曲がったものや数十から百ぐらいの断片に破砕された ものも出土している。銅鐸は生易しい力では木っ端微塵に はできないそうだ。銅鐸をめぐるこれらの事実は何を物語っ ているのだろうか。

 ヤマト王権が近畿地方で支配権力として成り上がっ てきたのは弥生後期~古墳期であり、名実ともに日本の 支配権を確立したのは7世紀末~8世紀初めである。 ヤマト王権以前に銅鐸をシンボルとた一大勢力(国家) があったと考えられるが、ではヤマト王権には銅鐸の記憶、 さらに言えば前王朝の記憶は皆無だったのだろうか。今回は この問題を取り上げよう。

 前回の引用文中に次のくだりがあった。

『あの古器物は、わが日本列島抜群の器物だ。元明朝の官人 たちがすでに鋭く看破したように、これは「天皇家以前に、 別個の制度をもつ廷室があり、その廷室下の儀礼として、 この楽器は製作された」。そのように考えざるをえない 「物」だ。』

 「元明朝の官人たち」が次のような記録を残している。

①『丁卯。(713年=和銅6年7月)大倭国芋太郡波坂郷の人、 大初位上村の君、東人、銅鐸を長岡の野地に得て、之を献 ず。高さ三尺、口径一尺。其の制、常に異にして、音律呂 に協(かな)ふ。所司に勅して之を蔵めしむ。』 (「続日本記」巻九、元明天皇)

 この一文から古田さんは「元明朝の官人たちが鋭く 看破」していたことを次のように詳述している。

 元明天皇とその朝廷の官人たちの認識は、かなり的確で ある。なぜなら、

第一にこれを楽器と見なし試みた結果、「これは楽器とし ての機能をもつ」、そういう認識をえているのだ。外から たたいたか、ついたか、それとも内側に舌(ぜつ)をつる してゆすったか、その方途は書かれていないけれども。

第二。右の実験に劣らず、重要なのは「其の制、常に異に して」の一句だ。「其の制」といっている。この楽器が、 単に一奇才の気まぐれの作品に非ず、一定の古えの制度の 産物、製作物であることを、基本の認識としているのであ る。これはまことに正しい認識だ。しかも、その制度の中の 製作物は、「常に異にして」という。いいかえれば、 〝われわれ天皇家内の楽器とは、その制度、製作物を異に している″、そういっているのだ。

 つまり、天皇家以外に、そして天皇家以前に、このよう な楽器を(儀礼の場において)用いていた制度が存在した  ─ この重大な事実を率直、簡明に認めたもの、それが 右の一文なのである。

 この「続日本記」の記録に先立って、7世紀 後半に銅鐸出土の記事があることを古田さんは指摘している。

②『戊辰(668年=(天智7年)正月十七日。近江国志賀郡に 於て崇福寺を建つ。始めに地を平らかならしむ。奇異の宝 鐸一口を掘り出だす。高さ五尺五寸。又奇好の白石を掘り 出だす。長さ五寸。夜、光明を放つ。』(「扶桑略記」第五  - 平安末、皇円撰、1094年以降成る。)

③『或ハ云、天智帝ノ御宇ニ三井寺ヨリ古銅器ヲ掘り出ス、 当時何物ヤ詳ナラズ、マヅ神代ノ物ト定リタルヨシ、今誓 願寺二納マル、此物ト異ナル事ナシトイフ。』(江戸時代になる 「丹寄府志」中の記事。八幡一郎『日本古代史の謎』より)

 ともに天智天皇(在位662~671)の時代で、出土地は 近江の国。当然、近江朝の官人たちのあまねく知る ところとなろう。

さて、『古事記』が朝廷に献上されたのは712年(和銅5年)であり、『日本書紀』が成立し たのは720年(養老4年・元正天皇)である。上の三つの史料 と記紀の成立年代を時代順に並べてみよう。



「古事記」成立

「日本書紀」成立

 つまり、「古事記」の編纂関係者も「日本書紀」の 編纂関係者も銅鐸の存在を知らぬはずはなかったのだ。しかし、 「古事記」にも「日本書紀」にも銅剣・銅矛は登場するが、 銅鐸は一度たりとも登場しない。

 この史書の全編いずれを開いてみても、このような奇怪 な楽器を用いた制度は存在せず、それとおぼしき楽器名す ら、出現しないからである(雄略紀に「鐸」の字は出現し ているけれど、その用法は部屋の出入の場におかれ、いわ ゆる「銅鐸」とは、似ても似つかぬものである)。

 『日本書紀』の叙述、それはいいかえれば、元明、元正 天皇の時代の歴史認識の表現だ。だから、そこに「銅鐸が ない」という事実は、先の一句を裏づける。「其の制、常 に異にして」 - これを〝現代の制度とは異なっている。 おそらく、わが天皇家内の古えの天皇の世の制度によるも のだろう〟といった意味、つまり天皇家胎内の変動として、 よりミニチュアな形でうけとること、それは妥当でない。 やはり、〝現代のわたしたちの朝廷にもなく、わたしたち の先祖代々の伝承にもなかった奇怪なもの″そういう意味 の一句としてうけとる以外の道はないのである。

(中略)

 真の問題はここからはじまる。記紀の編者たちは、銅鐸 の存在を知っていた。にもかかわらず、それ自身は全く記 紀中には姿を現わしていない ─ この事実のもつ意味、 それは意外にも重大、かつ切実である。

 まず第一に、戦前の史学、いわゆる皇国史観風の立場に 対して、これは痛撃を加えるものだ。なぜなら、記紀にし るされた世界は、日本列島の古代の全体を代表するどころ か、近畿地方の古代世界すら、語りえていないこととなる からである。記紀をもって、わが国の古代史を代表させる ことなど、ことの筋道においてできそうもない。そういう 深刻な根本問題を示唆しているのだ。

 しかしながら、それ以上の痛撃をうけるもの、それは戦 後史学だ。津田左右吉の記紀批判を継承した「造作」説の 立場である。そこでは、記紀の神話や説話は史実に非ず、 六~八世紀の近畿天皇家の史官による「造作」物、そのよ うに見なした。この見地が戦後の古代史学界を支配し、 ほとんど独占してきた学問上の立場だったのである。

 しかしながら、今銅鐸の目を通してこの「造作」説を 見つめてみよう。すると、そこには直ちに、一個の矛盾が 浮かび上ってこよう。それは次の一点だ。

 「記紀の編者たちは、『銅鐸』という奇怪な古物が出土 する事実を知っていた。しかるに、なぜそれを題材とした 『銅鐸の神話』や、『銅鐸の説話』を、彼等は『造作』し なかったのか」

この疑問である。

 記紀神話は弥生期の九州北岸周辺と出雲を中心とした日本海沿岸を主舞台とし、銅矛・銅戈がその主要なシン ボルとなっている。にもかかわらず、記紀は記紀編纂 地である近畿の古代世界(銅鐸世界)を全く反映して いない。

 以上の論述から次のように結論するのは論理の しからしむところと私には思える。すなわち

 弥生後期、銅鐸文化とは異質のものたちが大和盆地に 侵略し、銅鐸文化を駆逐した。やがてその侵略者たちは 勢力を拡大していき、支配圏に入った地域の旧文化を抹 殺していった…。つまり、イワレヒコ(神武)の東侵の 物語が単なる作り話ではないことを物語っている。

 記紀をさらに詳細に解読していくとき、上記の「結論」 はいよいよ否定しがたいものとなっていくだろう。
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