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第803回 2007/06/12(火)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:新資料による森教授批判


 私のホームページを訪れてくださる方々がどのような 話題に興味をお持ちなのか、FC2のアクセス解析を利用して 時々調べている。それが時には思わぬ資料に導いてくれる。

 今日は森教授の「出雲の国と大和の国」という文章(講演録 らしい)に出合った。これを最後まで読むと「目次へ」という 誘導があるのでアクセスしたところ、全体は 『銅鐸と日本文化』 という表題の記録で、その中の一章だった。出所は 『財団法人 愛知県教育サービスセンター「県民大学叢書 56」』であった。

 予定を変更して今日はそれを題材にしよう。さしあたって 「はじめに」と最初の2章「加茂岩倉遺跡」「出雲の国と大和 の国」を読んだ。この講演は加茂岩倉遺跡が発見された年の 翌年1997年に行われたようだ。森教授が『日本神話の考古学』 の執筆を終えたのが1993年、その4年後ということになる。

 さて、「出雲の国と大和の国」の章で森教授は学者の研究 姿勢について言及している。

 NHKの番組で銅鐸を4月に取り上げていました。やはり 大和を特別扱いして説明していましたが、出雲の国は50個、 大和の国はわずか16個です。しかも16個の中には奈良時 代に出たことが記録に載っているだけで現存しないものも入 れてあります。だから現在残っている銅鐸の数は更に減りま す。それから奈良県は昔もっと多かったのだが、それが開墾 で壊されたのではないかと言う人がいます。それも当たらな いでしょう。なぜかというと桜井市纏向(まきむく)遺跡か ら出た、小指の先の爪ぐらいのかけらも16個の中に入って います。それは奈良時代の運河跡から出たのですが、そうい う壊れて銅鐸のおそらく50分の1ぐらいの、小指の先ぐら いになったものも入れて16個です。 時々考古学者で事実の前に先入観を もっている人がいます けれども、考古学というのは事実の学問です。

 「事実の前に先入観をもっている人」を戒めているが、 ご自身はその人の中に入らないのだろうか。前回引用した 文章の次の部分とどう整合性が取れるのだろうか。

 考古学的な根拠は少ないけれども、……政府は1874年 (明治7)に、三陵のすべてを鹿児島県内に政治決定して いる。このことは、『延喜式』とはくい違うが、神話に あらわれた地名を重視するかぎり、やむをえない結論のように思える。

 「政治決定」に対して「やむをえない結論」などと妥協する 姿勢には「考古学というのは事実の学問」という自負のかけらも ない。

 森教授はさらに次のように述べる。
 今度の出雲の銅鐸が単に出雲のすごさの一端を示しただけ ではなくて、やはり大和を過大評価していたことを分からせ たのです。例えば邪馬台国の問題にしてもさまざまな研究の 結果、邪馬台国は大和しかないというように証明できたらい いのです。そうではなくて最初から邪馬台国という国は大和 以外にないと思い込んでいる学者がかなりおりますが、それ は空しいことです。だから出雲の銅鐸は非常に大きな意味が あります。

 理性的でしごく真っ当な意見が開陳されている。しかしこ こで述べられている戒めもご自分には及ばぬらしい。こんな ことも言っている。

 出雲は今回の銅鐸の発見でやはりすごいなと思います。 これについて、興味のおありの方は朝日新聞社から数年前に 発行しました「日本神話の考古学」という私がかなりの自信 をもって書いた本がありますので、参考にしてください。 従来は神話については考古学者は手を出さなかったのです。 神話を扱うと科学者ではないととられるからです。しかし、 神話は古代人が書いた非常に重要な文化遺産であるのは事実 です。それに誰も手を出さないのは安全は安全であるけれど も、ある意味では学問的こわがりです。それで私が60歳を 超えた頃、神話を自分の頭で消化してやろうと思って、雑誌 に連載したのをまとめて出したのが「日本神話の考古学」で す。
 『日本神話の考古学』は「かなりの自信をもって書いた本」 だそうだが、「事実の前に先入観を」もって書いていること には相変わらず頓着しない。

 「さまざまな研究の結果、」この国の支配権力はヤマト王権 「しかないというように証明できたらいいのです。最初から」 この国の支配権力はヤマト王権「以外にないとと思い込んで いる学者がかなりおりますが、それは空しいことです。」
そうではないでしょうか、森教授。

 しかし森教授は次のような認識も持っている。

 弥生時代の鏡は佐賀県とか福岡県からたくさん出ています。 特に福岡県では2百枚は十分出ています。弥生時代の九州はす ごいです。だから、奈良県は弥生時代は並の土地で、前方後 円墳が出来る頃から急にすごさがわいてきます。

 この知見が断片的な知見のままに留まってそれ以上に発展 しないで、やはりヤマト王権一元主義に侵された誤まった認 識、不正確な叙述に陥ってしまう。
 ただし、それが永久に続くかというとそうではないです。 奈良の都の途中からガタガタになって、もう奈良には都を置 ける土地ではありませんと言って京都に行ってしまうのです。 大和が、交通とか経済とかで本当にすごい所であれば何も平 安遷都する必要はありません。長い目で見たら、大和が、勢 力の中心であったのは、西暦4世紀から8世紀の終わりまで の、4百年間の出来事です。その4百年間の出来事を考古学 者はちょっとオーバーに頭の中にインプットしすぎているの です。

 ここでは「大和」とは奈良県のことであり、たかだたヤマト 王権の中枢があった場所の移動について述べているのだが、 いつの間にかニュアンスは「ヤマト王権=全国の支配者」に なっている。

 紀元前2世紀ごろから7世紀末ごろまで九州にはヤマト王 権をはるかにしのぐ一大勢力があり、その支配権は淡路島付 近にまで及んでいた。だから「西暦4世紀から7世紀の終わ りまでの3百年間は、大和は近畿地方の一豪族に過ぎず、 大和が日本国の勢力の中心であったのは、西暦8世紀の百 年間の出来事です。」と言うべきである。 「その百年間の出来事を」森教授は 「ちょっとオーバーに頭の中にインプットしすぎているの です。」

 ところで、森教授が『日本神話の考古学』を執筆中の1992年に 森教授の天孫降臨から神代三稜までの理論を完膚無きまでに 反古にしてしまうような考古学上の大発見があった。福岡県 の吉武高木遺跡での宮殿群跡の発掘である。『日本神話の 考古学』をいまだに自信作と言っているところをみると、森教授は この発見の重要さが分かっていないか、あるいは無視をして いるといわざるを得ない。「考古学というのは事実の学問」 と言っているけれども、その学問的事実を無視しては宝の持 ち腐れだね。(次回に続く。)
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