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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第800回 2007/06/02(土)





「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:九州王朝の形成史概観


 筑紫(九州王朝)の王・前つ君の九州平定説話 (日本書紀の景行紀)

「熊襲」とはどこか(6)
「熊襲」とはどこか(7)

に現れる国名を時系列として図式化すると下のようにまとめる ことができる。

九州


 図(1)は九州東南部の討伐に出立したときの前つ君の 支配領域である。これと敵対する熊襲国がもう一つの勢力を なしていた。図(2)である。

 説話は討伐の過程で前つ君が命名したという形で地名説話 を配置している。古田さんはそれを二種類に分けてまとめて いる

①碩田(おおきた)国(大分)・阿蘇国・御木国(三池郡)・八女国(八女市)

②日向(ひむか)国・火国(肥)

 ①は、例えば「筑紫後国の御木」と表記されるように小区域 の地名であるのに対して、②はまさに国名説話にほかならない。

 図(2)に「火の国」が加わわって図(3)となる。これが 古事記が提示している地図「筑紫国・豊国・肥国・熊曾国」 とピッタリ一致する。つまり、古事記が提示する政治地図は 「国生み」神話の時代とははるかに遠い新しい時代のもの である。

 ところで、「火の国」の国名説話は九州平定説話の後半に 現れる。「熊襲とはどこか(7)」で読解されているように、 後半の九州西岸を巡る説話は「討伐」ではなく「巡狩」 (動詞として「巡狩す」とあり「めぐりみそなわす」と訓読 されている。要するに王の視察のこと)なのだから、 「火の国」は討伐出立の時にはすでに「前つ君」の勢力下に あったと考えられる。従って、古田さんは『新しく成立した 「火国」がさらに付加された形』といっているが、「改めて 命名された」という意と考え、図(1)(2)にも「火の国」 を書き加えてもよいと、私は思う。

 熊襲を平定して討伐軍が日向に戻ったところで、 「日向国」の命名説話が語られる。こちらは新しい征服地 に対する命名だ。図(3)にこの「日向国」が加わって図(4) となる。

 この地図の「熊襲」が「薩摩国」と「多禰国」という二国 扱いされたものが、 『「熊曾国」=「日向国」ではない。』 で検討したあの「続日本紀」の706年の記事の 「大宰府の管内の九国」=「筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・ 肥後・日向・薩摩・多禰」にほかならない。

 古田さんは言及していないが、ここで私は一つの仮説を 付け加えたくなった。

 図(4)のような政治地図が完成された時代に、 九州王朝の傍流であるイワレヒコ兄弟の祖たちが「日向国」の総督 のような役割で日向に派遣されて、その地方の実質的な支配 者となった。天孫降臨よりはるか後のことである。
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