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第817回 2007/06/30(土)

「真説・古代史」補充編

銅鐸とヤマト王権


 下の図は銅鐸文化圏の銅鐸分布図で、上側が弥生前期~弥生 中期、下側が弥生後期の分布図である。

銅鐸分布1

銅鐸分布2


 上の2枚の図を見比べてすぐ著しい違いに気がつく。 弥生後期の図では大和盆地が全くの銅鐸空白地域になって いる。そして、弥生時代が終わるまでには銅鐸は跡形もなく 消えてしまう。例えば、同じ青銅器でも鏡は古墳時代にも 奈良時代にも使用されている。さらに弥生時代末期の銅鐸には 、捻じ曲がったものや数十から百ぐらいの断片に破砕された ものも出土している。銅鐸は生易しい力では木っ端微塵に はできないそうだ。銅鐸をめぐるこれらの事実は何を物語っ ているのだろうか。

 ヤマト王権が近畿地方で支配権力として成り上がっ てきたのは弥生後期~古墳期であり、名実ともに日本の 支配権を確立したのは7世紀末~8世紀初めである。 ヤマト王権以前に銅鐸をシンボルとた一大勢力(国家) があったと考えられるが、ではヤマト王権には銅鐸の記憶、 さらに言えば前王朝の記憶は皆無だったのだろうか。今回は この問題を取り上げよう。

 前回の引用文中に次のくだりがあった。

『あの古器物は、わが日本列島抜群の器物だ。元明朝の官人 たちがすでに鋭く看破したように、これは「天皇家以前に、 別個の制度をもつ廷室があり、その廷室下の儀礼として、 この楽器は製作された」。そのように考えざるをえない 「物」だ。』

 「元明朝の官人たち」が次のような記録を残している。

①『丁卯。(713年=和銅6年7月)大倭国芋太郡波坂郷の人、 大初位上村の君、東人、銅鐸を長岡の野地に得て、之を献 ず。高さ三尺、口径一尺。其の制、常に異にして、音律呂 に協(かな)ふ。所司に勅して之を蔵めしむ。』 (「続日本記」巻九、元明天皇)

 この一文から古田さんは「元明朝の官人たちが鋭く 看破」していたことを次のように詳述している。

 元明天皇とその朝廷の官人たちの認識は、かなり的確で ある。なぜなら、

第一にこれを楽器と見なし試みた結果、「これは楽器とし ての機能をもつ」、そういう認識をえているのだ。外から たたいたか、ついたか、それとも内側に舌(ぜつ)をつる してゆすったか、その方途は書かれていないけれども。

第二。右の実験に劣らず、重要なのは「其の制、常に異に して」の一句だ。「其の制」といっている。この楽器が、 単に一奇才の気まぐれの作品に非ず、一定の古えの制度の 産物、製作物であることを、基本の認識としているのであ る。これはまことに正しい認識だ。しかも、その制度の中の 製作物は、「常に異にして」という。いいかえれば、 〝われわれ天皇家内の楽器とは、その制度、製作物を異に している″、そういっているのだ。

 つまり、天皇家以外に、そして天皇家以前に、このよう な楽器を(儀礼の場において)用いていた制度が存在した  ─ この重大な事実を率直、簡明に認めたもの、それが 右の一文なのである。

 この「続日本記」の記録に先立って、7世紀 後半に銅鐸出土の記事があることを古田さんは指摘している。

②『戊辰(668年=(天智7年)正月十七日。近江国志賀郡に 於て崇福寺を建つ。始めに地を平らかならしむ。奇異の宝 鐸一口を掘り出だす。高さ五尺五寸。又奇好の白石を掘り 出だす。長さ五寸。夜、光明を放つ。』(「扶桑略記」第五  - 平安末、皇円撰、1094年以降成る。)

③『或ハ云、天智帝ノ御宇ニ三井寺ヨリ古銅器ヲ掘り出ス、 当時何物ヤ詳ナラズ、マヅ神代ノ物ト定リタルヨシ、今誓 願寺二納マル、此物ト異ナル事ナシトイフ。』(江戸時代になる 「丹寄府志」中の記事。八幡一郎『日本古代史の謎』より)

 ともに天智天皇(在位662~671)の時代で、出土地は 近江の国。当然、近江朝の官人たちのあまねく知る ところとなろう。

さて、『古事記』が朝廷に献上されたのは712年(和銅5年)であり、『日本書紀』が成立し たのは720年(養老4年・元正天皇)である。上の三つの史料 と記紀の成立年代を時代順に並べてみよう。



「古事記」成立

「日本書紀」成立

 つまり、「古事記」の編纂関係者も「日本書紀」の 編纂関係者も銅鐸の存在を知らぬはずはなかったのだ。しかし、 「古事記」にも「日本書紀」にも銅剣・銅矛は登場するが、 銅鐸は一度たりとも登場しない。

 この史書の全編いずれを開いてみても、このような奇怪 な楽器を用いた制度は存在せず、それとおぼしき楽器名す ら、出現しないからである(雄略紀に「鐸」の字は出現し ているけれど、その用法は部屋の出入の場におかれ、いわ ゆる「銅鐸」とは、似ても似つかぬものである)。

 『日本書紀』の叙述、それはいいかえれば、元明、元正 天皇の時代の歴史認識の表現だ。だから、そこに「銅鐸が ない」という事実は、先の一句を裏づける。「其の制、常 に異にして」 - これを〝現代の制度とは異なっている。 おそらく、わが天皇家内の古えの天皇の世の制度によるも のだろう〟といった意味、つまり天皇家胎内の変動として、 よりミニチュアな形でうけとること、それは妥当でない。 やはり、〝現代のわたしたちの朝廷にもなく、わたしたち の先祖代々の伝承にもなかった奇怪なもの″そういう意味 の一句としてうけとる以外の道はないのである。

(中略)

 真の問題はここからはじまる。記紀の編者たちは、銅鐸 の存在を知っていた。にもかかわらず、それ自身は全く記 紀中には姿を現わしていない ─ この事実のもつ意味、 それは意外にも重大、かつ切実である。

 まず第一に、戦前の史学、いわゆる皇国史観風の立場に 対して、これは痛撃を加えるものだ。なぜなら、記紀にし るされた世界は、日本列島の古代の全体を代表するどころ か、近畿地方の古代世界すら、語りえていないこととなる からである。記紀をもって、わが国の古代史を代表させる ことなど、ことの筋道においてできそうもない。そういう 深刻な根本問題を示唆しているのだ。

 しかしながら、それ以上の痛撃をうけるもの、それは戦 後史学だ。津田左右吉の記紀批判を継承した「造作」説の 立場である。そこでは、記紀の神話や説話は史実に非ず、 六~八世紀の近畿天皇家の史官による「造作」物、そのよ うに見なした。この見地が戦後の古代史学界を支配し、 ほとんど独占してきた学問上の立場だったのである。

 しかしながら、今銅鐸の目を通してこの「造作」説を 見つめてみよう。すると、そこには直ちに、一個の矛盾が 浮かび上ってこよう。それは次の一点だ。

 「記紀の編者たちは、『銅鐸』という奇怪な古物が出土 する事実を知っていた。しかるに、なぜそれを題材とした 『銅鐸の神話』や、『銅鐸の説話』を、彼等は『造作』し なかったのか」

この疑問である。

 記紀神話は弥生期の九州北岸周辺と出雲を中心とした日本海沿岸を主舞台とし、銅矛・銅戈がその主要なシン ボルとなっている。にもかかわらず、記紀は記紀編纂 地である近畿の古代世界(銅鐸世界)を全く反映して いない。

 以上の論述から次のように結論するのは論理の しからしむところと私には思える。すなわち

 弥生後期、銅鐸文化とは異質のものたちが大和盆地に 侵略し、銅鐸文化を駆逐した。やがてその侵略者たちは 勢力を拡大していき、支配圏に入った地域の旧文化を抹 殺していった…。つまり、イワレヒコ(神武)の東侵の 物語が単なる作り話ではないことを物語っている。

 記紀をさらに詳細に解読していくとき、上記の「結論」 はいよいよ否定しがたいものとなっていくだろう。
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第816回 2007/06/28(木)

「真説・古代史」補充編

銅鐸文化圏の中枢(都)はどこか。


青銅器分布
(第一学習社「新選日本史図表」より)

 上の図の右下の解説文は次のように書かれている。

『弥生中期の銅剣・銅鉾・銅戈は朝鮮製の細身の実用武器 であるが,後期には,刃が扁平で大型化し実用的でない 国産品が現われる。銅鐸の原型は一種の楽器であるが, これも大型化し,本来の機能を失っていく。これらの青 銅器は共同体の神聖な祭器であったと考えられる。

 強調(赤字)部分の文は、あたかも弥生後期にはまだ「国家」は なかったと言っているようだ。特に銅鐸については 「銅鐸は共同体の神聖な祭器」というのが定説になっている。 つまり、古墳期以後のヤマト王権が日本における最初の国家 であって、それ以前には近畿地方には「国家」はなかったと いうわけだ。ここでもヤマト王権一元主義というイデオロ ギーが大きな顔をしている。

 『銅鐸とは、村々で行われた祭礼のさいの祭器であり、それはい まだ国家の成立以前の社会に属する。』(小林行雄氏の立論) というのが考古学界の変わらぬ定説である。私も高校時代(もう半世紀 も前になる。)にそのように教えられたのを記憶している。

 大阪万博(1970年)以前なら小林理論を定説扱いしてきたのも 致し方ない面もあるが、万博以後はこの定説は非としなければな らない、と古田さんは言う。

 万博以前、銅鐸の鋳型は赤穂と姫路でその小破片が見 出されていただけだった。そこは近畿の中心地帯ではないし、 また西は広島県から東は静岡県に及ぶ銅鐸分布の中枢地と言 うわけにもいかない。このように貧弱な鋳型分布から「銅鐸は 村々の祭器であって、特定の権力中心の製作物ではない。」 という小林理論が定説となった。

 しかし、万博に向けての大阪府茨木市の南茨木駅(阪急) 、駅前の南茨木マンション、その隣接のアパートなどの工事で、 計九個の完形銅鐸鋳型が出土した。さらに勾玉鋳型等も見 出された。この東奈良での発見後、さらに大和の唐古遺跡 でも銅鐸鋳型の発見があり、東奈良に次ぐ姿をしめしてい た。また姫路や東大阪からも出土している。次の図はその 銅鐸鋳型の分布図である。

銅鐸分布3


 銅鐸は散在する個々の共同体の単なる祭器ではなく、 生産中心と副中心をもつ統一的なシンボルという意味を 示している。古田さんは、「名古屋・浜名湖方面にも、三 遠式銅鐸の鋳型出土が期待される」と付け加えている。

 上の2枚の分布図から、古田さんは次のように論述している。

 (銅鐸文化圏の)中心は、東奈良遺跡(摂津)、副中心が 唐古遺跡(大和)だ。その他に、姫路・赤穂と東大阪、など がある。東大阪は、文字通り河内湾岸に当っている。

 右のような鋳型分布図は、奇しくも、あの銅矛・銅戈・銅剣 の鋳型分布図と相似したタイプをしめしている。そこでは、 博多湾岸が中心であり、糸島郡が副中心であった。そして 両翼のように、東は古賀、岡垣、西は夜須、東背振、佐賀市 と分布している。このような相似は何を意味するのだろうか。

 わたしは第一巻でのべた。「中国史書にいう倭国とは、博 多湾岸を中心とする銅矛・銅戈・銅剣の分布圏の領域を指す」 と。

 このテーマからすれば、倭国と同一の鋳型分布をしめす銅 鐸圏、それも当然、倭国と並ぶ日本列島内に存在した国家、 そのように考えなければならぬ。両者の間には、瀬戸内海領 域の平剣圏が横たわり、東西両域の、いわば混合圏をなして いるけれど、何といっても、先の両圏の並存がきわ立ってい る。

 わたしはいつも不思議に思う。従来の「邪馬台国」論議の 中で、なぜ「倭国の都」(邪馬壹国、いわゆる邪馬台国) =博多湾岸説が考古学者の中から出されなかったかを。 なぜなら、いわゆる弥生後期(三世紀をふくむ)は銅器を 花形とする文明の時代だ。その中心は二つ。西では、博多 湾岸、東では摂津東域(東奈良遺跡)なのであるから。 この両者のうち、中国に近いのは前者だ。とすれば、中国 の帯方郡(朝鮮半島)に使者を派遣したのは前者。博多湾 岸が倭国の首都である。 - このようにのべる考古学者 が現われなかったのはなぜか。また一般の古代史論者の中か らも、このように率直な議論が出されなかったのは、なぜか。 わたしには重ねて不審である。

(中略)

 以上のように、万博以前と万博以後では、全く鋳型分 布認識の量と質を異にした。異にしたにもかかわらず、 解説理論だけは同一。これは不可解だ。観念に立つイデ オロギー論ならば、さもあらばあれ、徹頭徹尾物に立つ べき考古学者の理論が、これではおかしい。わたしたちは そのように考えて果して不当だろうか。

 鋳型の出土分布という考古学的事実も待つまでもなく、 イデオロギーから自由な「常識」は、北九州(銅矛文化圏) はもとより、近畿地方(銅鐸文化圏)にもれっきとした 「国家」が形成されていたことを疑わないだろう。 この点についても古田さんの論述を聞いてみよう。

 実は、鋳型の出土分布を持ってはじめて判明する、その ようなものではなかった。なぜなら、あの銅鐸という実物、 そのものがわたしたちに雄弁に告げていたところである。

 というのは、あの古器物は、わが日本列島抜群の器物だ。 元明朝の官人たちがすでに鋭く看破したように、これは 「天皇家以前に、別個の制度をもつ廷室があり、その廷室下 の儀礼として、この楽器は製作された」。そのように考えざ るをえない「物」だ。

 もしこれがそのような性格の「物」でないとしたら、この 日本列島の弥生期には、およそ「廷室」も、「国家」も存在 しなかった。そのように考えるほかはない。三世紀の倭国など、 雲散霧消するほかない、とすらいえよう。

 なぜなら、これに比肩すべき「物」として、あの「銅矛・ 銅戈・銅剣」を対比してみよう。後者より、はるかに前者 (銅鐸)が上、そう断じうるものとわたしには思われる。

 何が上か。いわく銅の量、いわく生産技術、いわくデザイン、いわく 全体としての威容、いわく芸術品としての価値、これらの点、 前者は後者に対して勝りこそすれ、劣りはせぬ。

 静かにこの古器物を見つめてみよう。そこには、これを 生産した人たちの技術と魂が塗りこめられている。それ以上 に、これを生んだ当代文明の充足した精神の輝きが、深く濃 く底光りしている。ここには、深く自足した古代文明の面影 が疑いえず、存在していた、その証(あかし)が宿っている。

 これが国家以前の、素朴な社会の産物でもしあったとした なら、西なる「銅矛・銅戈・銅剣圏」など、当然それと運命 を共にしなければならぬであろう。たとえ、一は平和的、 他は好戦的(武器をシンボルとする)という、ちがいこそあ ろうけれども、後者もまた国家以前、そのように断ずるほか はない。つまり〝三世紀日本列島に国家なし″。この帰結を 避けることができないのである。
 ではこの銅鐸文化圏に栄えた国家の名はなんだったのか。 その名は東鯷国(トウテイコク)。ヤマト王権以前に 東鯷国と呼ばれる国家があった。東鯷国については すでに 「会稽海外、東鯷人有り!」 で取り上げた。
第815回 2007/06/26(火)

今日の話題

「君が代解雇裁判」オソマツ判決:当日の様子

 前々回で、「君が代解雇裁判」の判決の瞬間の様子をあた かも実際に見てきた風に書きましたが、実は私は抽選に外れて 「君が代解雇裁判」の判決法廷を傍聴できませんでした。 判決後の報告集会で原告や弁護士の皆さんから聞いた話を 頼りに書きました。

 ところで、しばらく更新のなかった大岡みなみ(池添徳明)さんの ブログ 身辺雑記 に「君が代解雇裁判」の判決法廷の傍聴記が掲載されていました。 ジャーナリストならではの過不足ない見事な報告です。 今日は、私のおしゃべりの参考にもしたいので、それを転載 させていただくことにします。


6月20日(水曜日) 再雇用取り消し教員の訴え棄却

 正午過ぎに、東京・霞が関の東京地裁。 卒業式の国歌斉唱の際に起立しなかったことを理由に、 定年後の再雇用の合格を取り消された元都立高校教員10人が 東京都を相手取って、嘱託教員(再雇用職員)や非常勤講師 の地位確認と賠償を求めた裁判の判決を傍聴取材する(6月6日付「身辺雑記」参照)。東京地裁の佐村浩之裁判長は、「請求はいずれも理由がない」として請求をすべて棄却した。原告側はただちに全員控訴する方針を表明した。

 佐村裁判長は、「君が代」のピアノ伴奏を拒否した音楽専科教員に対する今年2月の最高裁判決(2月27日付「身辺雑記」参照)を引用し、「式典で歌唱者が起立することは儀式・式典での儀礼的行為だ。(起立や斉唱を命じる校長の)職務命令は、原告の内心領域の精神活動に影響を与えることは否定できないが、公務員の公共性に由来する必要かつ合理的な制約として許容される」と述べて、校長の職務命令を合憲とした。さらに、「職務命令は生徒の思想・良心の自由を侵害するものとは言えない」とも述べた。

 判決はすべてこのような調子で、国旗掲揚・国歌斉唱などを教職員に義務付けて職務命令に従わない者を処分するとした通達や都教委の姿勢についても、「通達や一連の都教委の都立高校に対する関与・介入は、必要かつ合理的な範囲にとどまると評価するのが妥当だ。教育基本法が禁ずる教育への不当な支配に該当するとは言えない」と判断。また、再雇用職員の合格取り消しに関しても、「正当な人事裁量権の行使である。不起立行為をもって勤務成績の良好性に欠けると判断したことが不合理だと言うことはできない。社会通念上に照らして著しく不合理であるとまで言えない」とした。

 今回の判決は、「都教委の通達や職務命令は違憲・違法。いかなる処分もしてはならない」と明確に理路整然と判断した昨年9月の東京地裁(難波孝一裁判長)判決9月21日付「身辺雑記」参照)とは、あまりにも対照的な内容だった。

◇◇

 「原告の請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする」。佐村裁判長はわずか10秒ほどで判決主文を言い渡すと、そそくさと法廷を後にした。教員や同僚ら支援者で満席の傍聴席は息を飲んだようにシーンと静まり返ってしばらく声がなく、それから一瞬の間を置いて、ざわめきが広がり怒号が法廷内に飛んだ。黒い法服を翻して立ち去ろうとする佐村裁判長ら3人の裁判官の背中に向かって、傍聴席からは「不当です!」「理由も言わないで逃げるの!」などと抗議の声が投げ付けられる。弁護団席の原告代理人の弁護士らは、いずれも呆然と青ざめた顔をして言葉も出ない。「予想外。信じられない…。ちょっと信じ難い判決だな…」。ベテランの澤藤統一郎弁護士も、それだけ言うのが精いっぱいだった。あまりにも一方的な酷い判決で、それだけ関係者の受けたショックは大きかったということだろう。

 その後、弁護士会館で開かれた記者会見の席で、弁護団長の尾山宏弁護士は「ピアノ裁判の最高裁判決に全面的に影響され支配された判決だ。裁判官は憲法と良心に基づいて判決を言い渡す独立した存在であるはずなのに、独自に判断した形跡がなくまことにふがいない。これは日本の民主主義の根幹にかかわる裁判である。他人の思想・良心の自由を大切にし、尊重し合うという意識が日本社会全体に広がり高まることが大切だ」と強調した。

 原告の元教員らはこの判決に対して、「全く不当な判決で納得できない。卒業式の途中ずっと、立って下さいと言いながら教頭が歩き回っていたことこそ異常ではないか。法廷で私たちが述べてきたことを裁判長はどう聞いていたのか」「強制してはならないと訴えている人間を排除する都教委擁護の立場に立った判決だ。非常に政治的で事実をねじ曲げていて信じられない。戦争を経験した最後の世代として教育実践してきた者だが、憤りを感じる」などと怒りをあらわにした。


第814回 2007/06/25(月)

今日の話題

「君が代解雇裁判」オソマツ判決の詭弁(2)

 偽装牛肉なんていう生易しいものではない。家畜の残飯のよ うなおぞましいゴッタ肉を加工していたミート社の田中なんとか 社長が「消費者も安いものばかりを求めるから」と、とんでも ない自己正当化をかましている。(25日付「東京新聞」)

 この物言いに隠れている論理を分析すると

①「消費者は安いものを求めている。」
②「偽装牛肉は安い」
従って
③「消費者は偽装牛肉を求めている。」

 抽象化すると

①「AはBを求めている。」
②「CはBである。」
従って
③「AはCを求めている。」

 ①においても②においても「B」は正確には「あるB」で あり、命題は「特称文」である。なのに、①の「B」を 「全てのB」とすり替えている。これも「部分より全体に およぼす誤り」という詭弁である。

 国会では連日、権力亡者・金権亡者の政治屋どもが 詭弁・強弁を炸裂しまくっている。裁判官も詭弁判決を垂れ 流して恥じない。この国は詭弁・強弁に導かれてどこへ行こ うとしているのか。もちろん腐臭プンプンの「美しい国へ」 さ。

 さて、前回の続き。10.23通達が生徒の思想・良心をも侵害 しているという原告側の訴えにたいしてオソマツ判決文は 言う。

 本件職務命令は,本件卒業式において全原告らを含めた 教職員が国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することを命 ずることに尽き,直接的に生徒に対して起立等を求めるも のではない。また,学校教育の現場において一定の権威的 地位を有する教員が,国旗に向かって起立し,国歌を斉唱 することは,国旗・国歌条項に沿った指導を実践する教職 員が生徒に範となる行動を示すものと理解されるところ, このような行動自体が生徒の内心に対する一定の働きかけ となることは否定できないものの,

それは正に行動の手本を示すものであって,教育の実践の 面において,このような生徒の内心に対する一定程度の働き かけを伴うことは不可避であるから,これを直ちに強制と 同一視し得ないことからすると,

本件職務命令が生徒の思想及び良心の自由を侵害するものと はいえない。

 一段落で書かれている文章を三段落に分けて転載した。これも 「相殺法」という詭弁である。第一段で「肯定」し、 第二段で一般論にすり替え(屁理屈)、第三段で「否定」して いる。

 屁理屈の部分について付け加える。

 「それは正に行動の手本を示すもの」と言うときの「手本」 の中身が問題だ。思想・良心の自由を踏みにじる憲法違反の 通達であってもしゃちほこばって面従腹背を示すのが「手本」 だと言っている。これじゃまるで「センセはウソのはじまり」 だな。

 教育の実践においては、学習意義の理解を求めたり学習 意欲を喚起するなど学習の動機付けが必要だ。こころある 教師なら生徒を頭ごなしの強制などしない。教材を練り上 げて楽しく分かりやすい授業を創造することによって生徒 の内心に働きかける。そういう意味でなら「内心に対する 一定程度の働きかけを伴うことは不可避である」。しかし、 こうした教育の営みは、憲法違反の通達に面従腹背のお手 本を示すことを通して生徒の内心に働きかける(強制的圧力 を加える)こととはまるで次元が違う。これは「論点すり 替え」の詭弁である。

 君が代斉唱の前に生徒(や保護者)に思想・良心の自由 侵害する(強制する)ものではないことを説明していた学校も あったと聞くが、これも都教委は禁止した。都教委は 「授業をやる前に授業を聞いても聞かなくてもよいと言うよう なものだ。」というようなトンチンカンな屁理屈を言ってい るそうだ。

 次に、「教員の教育の自由」についてのくだりではこんな ことを言っている。

 卒業式が,高等学校における「教育課程」の一部である 特別活動として実施されるものではあるが,教科等における 授業と異なり,学年及び学級の区別なく全校をあげて実施さ れるもので,全卒業生が参加するほか,保護者や種々の学校 関係者の協力を得て行う儀式であり,事柄の性格上,本来 的に各教員において個別に又は独自にこれを行うことが困難, 不適当な性格のものであることを勘案すると,本件職務命令 が全原告らの教育の自由を侵害するものとはいえない。 したがって,本件職務命令が憲法23条,26条1項等が保障す る教員の教育の自由等の侵害になるということはできない。

 先ほどは教育一般の実践における教師の生徒に対する 働きかけと儀式における強制的働きかけを同一視しておきながら、 こんどは卒業式は「教科等における授業と異な」ることを 論拠にしている。こういうのを「ご都合主義」という。

 卒業式・入学式や文化祭・体育祭などは「事柄の性格上, 本来的に各教員において個別に又は独自にこれを行うことが 困難,不適当な性格のものである」から、従来から各学校ごと に、生徒の要望を踏まえて職員会議で議論をし、生徒・教職 員合意の下でこれらの行事を創出してきた。

 これに対してオソマツ判決は、「事柄の性格上, 本来的に各教員において個別に又は独自にこれを行うことが 困難,不適当な性格のものである」から職務命令で強制しても 「教員の教育の自由等の侵害」にはならないと言っている。 全都立校一律に全く同一の儀式を、処分をちらつかせて強制 することが「教員の教育の自由等の侵害」でなくて一体何 なのだ。

 このようなオソマツな思考の根底にオソマツな教育観が 透けて見えている。裁判官になるほどのものは、さぞかし 優秀な成績でいわゆる一流高校・一流大学と出世街道を 馳せぬけてきたのだろう。そのような人の中には、もちろん、 創造的な人のいる。しかし、単に記憶量が多く、その 記憶をできるだけ早く引き出すことにたけているだけの秀才 、つまり銀行型教育の秀才が圧倒的多数なのではないだろう か。高級官僚たちの在り様を見ているとそう思える。 銀行型教育の秀才の成れの果ては銀行型教育しか教育を 知らない。

 私は鈍才だけれども知的羞恥心はある。詭弁と知ってい て詭弁を弄するほど知的退廃はしていない。

 あっ、もしかすると銀行型教育の秀才は詭弁を詭弁と 認識していないのかもしれない。つまり、記憶量は並外 れているいるが、論理的な思考力に欠陥があるのかも知 れないな。
第813回 2007/06/23(土)

今日の話題

「君が代解雇裁判」オソマツ判決の詭弁(1)

 君が代解雇裁判の判決言い渡し法廷。
 裁判官は「原告の請求を棄却する」と述べるやいなや、 逃げるように退廷した。その間おおよそ10秒。原告はじめ 多くの人が時間をやりくりして法廷に参加しているのに、 何たる無礼。ただただ驚き呆れる情景だ。その判決内容も これ以上は悪くなりようがないほどのオソマツなものだった。 裁判長の名は佐村浩之。

が、場数を踏んできた弁護士さんはこれが大方の裁判官の 実態だという。

 裁判所も所詮はブルジョア民主主義を支える一機関に過ぎない。 と言ってしまえば身も蓋もないが、この国の裁判の実態をみれば そういわざるを得ない。公害関係の裁判などでは被害者よりの 判決がないではないが、行政訴訟では行政権力に 媚びた行政追認の判決のオンパレードだ。

 裁判とは、慎重に事実関係を調べ、客観的証拠をもとに、 憲法の理念と条文に照らして判決を決めるものと、私 (たち)は思っている。もし裁判官がそのように正しい 裁判理解のもとで正しい手続きを踏んで判決すれば、 9.21難波判決のような判決が当たり前になるはずだ。 当たり前のはずの難波判決が稀有のものとなっているの が現状だ。

 以下は、前回確認した反「日の丸・君が代の強制」裁判の本 質的な意義、つまりこどもの成長発達=学習権(憲法26条)、 教師の教育の自由(憲法23条,改定前教育基 本法10条)、思想・良心・信教の自由(憲法19条,20条) などの問題点に関わる部分に絞って判決文を見ていくことに する。

 まず、9.23通達をめぐっての事実認定については、まるで 難波判決の文を盗用したかのように、全く同じ認定がなされて いる。しかし、前提が同じなのに結論が正反対になってしまう のはどうしてだろう。

 難波判決は憲法理念にもとづいて構成されており、全体の 論理的構成を崩すことのできない硬性の判決内容となってい る。それに対して佐村オソマツ判決は、はじめに偏見と予断 による結論ありきで、その結論に向けてつじつまを合わせを するために、十名の原告それぞれの真摯な訴えは全て 貶めて、さまざまな詭弁・強弁を弄することになる。

 この佐村オソマツ判決は、さらにオソマツなことに、 事実関係を直視して自分の頭で考えるのではなく、最も肝心な ところがほとんど都(被告)側の主張の盗作文で成り立ってい る。特に、結審土壇場で都(被告)側が提出(原告側の反論を 封じるための戦術か)した屁理屈をそのまま盗用しているという。

 また判例の引用についても「初めに結論ありき」が見え見え で、一つは2.27最高裁オソマツ判決の、しかも最もオソマツな 部分を使っている。旭川学テ判決のうち「不当な支配」につい ての部分を引用しているが、これは故意の誤読をしている。

 以下、そこで使われている詭弁・盗用を抜き出してみよう。


 全原告らの感情,信念,信条は,それぞれの人生体験, 我が国の過去についての歴史認識や職業意識などにより個々の 全原告につきそれぞれ多元的に形成されたものであり,これ らは社会生活上の信念を形成しているとみられるから,このよ うな精神活動それ自体を公権力が否定したり,精神活動それ 自体に着目して,その内容の表明を求めたりすることは, 憲法19条が保障する思想及び良心の自由を侵害するものとし て許されないことはいうまでもない。

 本件につきみると,全原告らが教育公務員として参加した 学校行事である卒業式において,国旗に向かって起立し, 国歌を斉唱することを拒否することは,全原告らにとって は,上記のような社会生活上の信念に基づく一つの選択で はあり得るものの,一般的には,これと不可分に結び付く ものではないから,本件職務命令が全原告らの上記のよ うな精神活動それ自体を否定するものとはいえない。

 上の引用文の全体の論理は、前段で肯定しておいて、「しかしながら」 と後段ではより低レベルの屁理屈をつけて前段の主張を 否定するという「相殺法」と呼ばれている詭弁の典型である。

 そして後段の屁理屈は、強調(赤字)部分である。これは 2.27オソマツ判決の

『上告人のピアノ伴奏拒否は、上告人にとっては思想・良心 に基づくものであろうが、一般的にはこれ(思想・良心)と 結びつくものではない』

を盗用している論理だが、この論法は「部分より全体におよぼす誤り」 の一種であり、これも詭弁の一つである。この詭弁を用いた 文章はきまって

「…とはいえない。」
「…とは限らない。」

とまぎらわしい言葉でもっともらしく思える終わり方をする。  2.27判決の文を例にして少し分析してみる。

①「ある音楽教師たちは君が代のピアノ伴奏は思想・良心に 反し苦痛である。」
②「別のより多くのある音楽教師たちは(=「一般には」)君が代 のピアノ伴奏は思想・良心に反しないか苦痛ではない。」
従って
③「①の音楽教師が君が代のピアノ伴奏は思想・良心に反し 苦痛であるとはいえない。」

 抽象化すると次のようになる。

①「あるA₁はBである。」
②「あるA₂はBではない。」
従って
「A₁もBであるとはいえない。」

 「A=A₁∪A₂」なのに「A=A₂」というすり替え(詐術) を行っている。「A₁=φ(空集合)」としている。 はからずも少数者を排除あるいは抹消する思想が露呈している。 この詭弁は何度も使われる。例えば

『そして,国旗に向かって起立し,国歌を斉唱すること自体 は,一般的には内心の精神活動と不可分に結び付くものとま ではいえないことを勘案すると,本件職務命令は国旗・国歌 条項により全原告らが指導の責務を負う事項につき,儀式・ 式典における儀礼的な行為を命ずる 限りでこれを具体化し たものとみるのが相当である。

 「…とはいえない」「…とは限らない。」に当たるあいまい 叙述はここでは「限りで…相当である。」という表現になっている。

 ちなみに2.27判決でただ一人正しい論理を貫いていた藤田 裁判官の少数意見は次のようであった。

『本件における真の問題は、‥入学式においてピアノ伴奏を することは、自らの信条に照らし上告人にとって極めて苦痛 のことであり、それにもかかわらずこれを強制することが許 されるかどうかという点にこそある』

 「憲法の下での平等」から決して少数者を排除したり抹消 したりしない。これこそ憲法の理念に則った正しい思考で ある。
第813回 2007/06/22(金)

今日の話題

反「日の丸・君が代の強制」訴訟の意義

 昨日(6月21日)の東京「君が代」裁判で私は傍聴券抽 選待ちの行列にウヨさんを4名目撃しました。一人は30歳代の 普通の明るいスーツを着た角刈りでずんぐりとした体格の兄 貴分らしい男。あとの三人は20代前半ぐらいの青年で、着 慣れない黒いスーツに身を包み額や眉にそりを入れて目を いからしていた。少しおくれて40代ぐらいのごく普通の紳士 が二人加わった。先に来ていたウヨさんとは目礼程度の挨拶を しただけで、その二人は本を読んだり手帳をめくったりしてい た。さしずめ顧問弁護士といったところだろうか。待ち時間が 退屈なのでつまらぬ観察をしてしまった。その人たちが傍聴券を 手に入れたかどうかは詳らかではない。

 私は初めて抽選に当たった。税金で雇われている被告側弁護団 を観察してやろうと、被告側の一番前に座った。残念なことに 、邪悪な番犬ツラをしているわけではなかった。

 今日も口頭弁論をしたのは原告側だけだった。被告 側は、口頭弁論などしなくとも裁判官は珍タロウの意に沿う 判決を用意しているはずだと安心しているのかなあと、これは 2.27最高栽オソマツ判決や昨日の東京地裁オソマツ判決 (明日取り上げる予定です。)で疑心暗鬼になっている私の 心の片隅によぎった疑念だった。

 一連の反「日の丸・君が代の強制」裁判(10件くらいあるだろ うか。原告の総数は860名以上になるという。)の意義の重要さは あまり広くしられていないように思う。まずマスコミにその認識が ない。だからマスコミは判決が出されたときだけ、その事実を 報道するだけで深い追求はしない。(9.21難波判決のときは 例外で大きく取り上げた。)従って一般の人たちの関心事と はならないでいる。

 今回の原告側の弁論は、オソマツ判決を批判しながら、この裁判の 意義について裁判官の憲法の番人としての良心に強く訴えるもの となっていた。その弁論を私はメモしなかったので(オッチョコチョイな ことに筆記用具を忘れていた。)、それに変えて、原告側傍聴者に 配布された『傍聴ハンドブック』から原告側訴状冒頭の「本件 訴訟の概要と意義」の要約を掲載することにしよう。


 本件では子どもの成長発達=学習権(憲法26条)を豊かに 保障するために不可欠な教師の教育の自由(憲法23条,改定 前教育基本法10条)とともに,とりわけ原告らの思想・良心 ・信教の自由(憲法19条,20条)が最も基本的な問題として 取上げられている。

 思想・良心・信教の自由は,自らの行為や態度を自律的に 決定する個人にとっての最高の決定基準であり,個人の尊厳 に直結する自由なのであり,民主主義の根幹をなすものと言 わなければならない。もしこの決定を他者が行ない,自分は ただそれに従うだけということになれば,もはや「自由かつ 独立の人格」(1976年5月21日の旭川学力テスト事件に関する 最高裁大法廷判決)とは言えない。したがって,公立学校の 教師についても,当然にこれらの自由,すなわち個人の尊厳 が保護され,尊重されなければならない。

 ことに今日の学校には,自由と民主主義への教育が要請さ れる。改定前の教育基本法前文はもちろんのこと,改定後の 同法前文においても,「憲法の精神にのっとり,わが国の未 来を切り拓く教育」を謳っている。ここで「憲法の精神にの っとり」とあるのは,教育を通じて憲法的価値を子どもに伝 えることを意味しており,したがって憲法13条にのっとり 「すべて国民は個人として尊重される」ことを教育の場で実 現すること,別言すれば個人の尊厳を重視する教育を行なう ことを要請したものにほかならない。

 教師の思想・良心・信教の自由が,とりわけ卒業式などの 儀式の際のように子どもたちの面前で侵害され,個人の尊厳 が蹂躙されるようでは,自由と民主主義への教育が不可能と なることは明らかである。したがって,教師に対しても不起 立・不斉唱の自由が認められなければならない。

 我が国ではサンフランシスコ講和条約以降,教育の国家統 制が強化され,とくに東京都では10・23通達以降,卒業式等 における日の丸・君が代の強制により教師の教育の自由が全 面的に剥奪され,とりわけ教師の思想・良心・信教の自由ま でが侵害されるに至っている。学校における日の丸・君が代 の強制は,国民全体に対する強制のいわば尖兵に位置づけら れているというほかはない。もし当局が学校における強制に 成功すれば,それを突破口として国民全体への強制が勢いを 増すことになる。その意味で,教師の思想・良心・信教の自 由を護る本件訴訟は,格段にその社会的意義を高めている。

 したがって,教師の教育の自由,及びとりわけ教師の思想 ・良心・信教の自由を真に我が国に定着させることが,その ままに国民全体のこれらの精神の自由を確立することにつな がるのである。ここに,この訴訟の最大の意義がある。

 折りしも国会では、教育基本法改悪に続いて、教育三法 (学校教育法改悪・地方教育行政法・教員免許法)の改悪 も強行採決された。その主な問題点を整理すると

①義務教育の目標として「国と郷土を愛する態度」を明記
 国家への忠誠・奉仕の強要へとつながるだろう。

②副校長、主幹教諭、指導教諭の新設
 学校を上意下達のピラミット型組織に改変し、学校への支配・管理 の強化を目指している。

③緊急時における文部科学相への指示権の付与
 教育の国家統制への道を大きく開いた。

④終身制の教員免許を有効期間10年とする免許更新制
 真の教育・課題提起型教育を目指す教師が排除され、銀行 型ヒラメ教師ばかりになるだろう。

(銀行型教育と課題提起型教育については次の記事を参照してください。)

銀行型教育
課題提起型教育

 この国の支配階級が教育をどうしようとしているのかが、 いよいよ明らかになってきた。しかし、これらの悪法は 実践において無効化することもできるし、再改正することも できる。そのためには最後の砦、現憲法を実効あるものと しなければならない。今こそ憲法を生かす実践が望まれる。 それが全ての大前提になる。一連の反「日の丸・君が代の 強制」裁判の意義は、まさにここにある。

 「戦争は教室から始まる。」
 肝に銘じるべきだろう。
第812回 2007/06/21(木)

今日の話題

ニュースの読み方・土屋公献弁護士の場合

 昨日、『「君が代」解雇裁判』の判決言い渡し公判に行って きた。これについては、今日も『東京「君が代」裁判』の第2 回口頭弁論傍聴に行く予定なので、明日まとめようと思って いる。

 ところで、朝鮮総連本部の売却問題に総連の代理人として 関与したことを理由に土屋公献弁護士がネット上でバッシング を受けている。まるで異なる土俵からのウヨのバッシングは 付き合ってもただ不毛なだけなので、無視して置けばよい。 しかし、土屋さんが9条ネットの共同代表者であることに 関連して、同じ土俵からの「共同代表者を降りろ」という 合唱には異議を唱えたい。

 マスゴミが垂れ流すニュースを鵜呑みにしてはいけない。 上記の問題はニュースの読み方の格好の例題をなす。 「反戦な家づくり」 さんによるニュースの背景全体を透徹した見事な論述に、 私は全面的に賛成する。味読の価値がある。
不定期便810 第810回 2007/06/19(火)

「真説・古代史」補充編

古代史略年表


 古田さんから得た知識をもとに年表を作ってみた。 これから、新知識を得るごとに追加訂正をしていこうと思う。

古代史年表

 史料・金石文などで年代を確認できるものについてはそれを ( )で示した。
年代記載のないものは推定です。


年代 中国 朝鮮 銅矛文化圏
九州王朝
銅鐸文化圏
ヤマト王権
BC4th 戦国時代 青銅器文化始
BC3th 秦(221-206) 鋳造鉄器伝播    
BC2th 前漢(202-)   国ゆずり・天孫降臨「天国→筑前」  
  漢・朝鮮に4郡設置(BC108-107) 錬鉄鍛造品 朝鮮からの渡来者多数  
BC1th   高句麗国成立 橿日宮の女王の筑紫統一「筑前→筑後」  
BC1th-AD1th     前つ君の「九州一円統一」  
BC1th-AD1th     「九州→淡路島以西」平定  
AD1th 後漢(25-)   漢から委奴(ゐど)の国王に金印授与される(AD57)  
AD1th-AD2th       イワレヒコ東侵開始
AD3th 三国時代
魏(220-265)
    イワレヒコの末裔AD3th末ごろまでヤマト盆地の一豪族として地歩を固める(216)
      邪馬壱国卑弥呼・魏に朝貢(240)
  西晋(265-316)
この頃、三国志成る
三韓時代 壱与・西晋に朝貢(266) ミマキイリビコ(崇神)、ヤマト盆地より出撃・銅鐸国簒奪開始
AD3th-AD4th     イクメイリビコ(垂仁)沙本城の戦い・銅鐸国滅亡
AD4th 西晋滅亡(316)     オホタラヒコ(景行)・ヤマトタケル・ワカタラシヒコ(成務)
  東晋(317-420) 百済・肖古王(346-374)   タラシナカツヒコ(仲哀)・オキナガタラシヒメ(神功皇后)
    新羅・奈勿王(356-401)   ホンダ(応神)ここまで「古事記」中巻
AD4th-AD5th 高句麗・好太王(391-412) 倭王・讃(396-421)東晋に使者(413) オオサザキ(仁徳)・イザホワケ(履中)
AD5th 南北朝
 南宋(420-)
 北魏(439-)
この頃、後漢書成る
   倭王・珍(425-438)宋に朝貢(438) ミツハワケ(反正)・ヲアサヅマワクゴ(允恭)
      倭王・済(443-460)宋に朝貢(443)倭王・済(443-460)宋に朝貢(443) アナホ(安康)・ワカタケ(雄略)
      倭王・興(462-477) タケシロクニオシワカ(清寧)・イワヲケ(顕宗)
AD6th     倭王・武( 478-519)宋に上表文(478) オケ(仁賢)・ワカサザキ(武烈)
      継体のクーデターで筑紫の王・磐井暗殺される(528) ヲホド(継体)(507-531)
AD6th-AD7th 隋(589-618)   俀国の王タリシホコ(日出ずるところの天子)遣隋使・国書を送る(607) 聖徳太子摂政(593-622)
AD7th 唐(618-)     推古・遣唐使を送る(630)
    白村江の戦い・百済滅亡(663) 倭国衰退  
AD7th-AD8th 則天武后(690-705) 新羅統一(676-) 倭国滅亡
AD8th 唐、ヤマト王権を日本国として承認     この年より日本国(701)


 いままでは主として銅矛文化圏で栄えた北九州王朝について の論考を読んできた。上の年表で分かるように銅鐸文化圏の知識が 欠けている。次回から銅鐸文化圏について調べることにする。

第809回 2007/06/18(月)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「思邦歌」古田さんの解読


 岩波版日本古典文学大系の
(1)「古事記」
(2)「日本書紀」
(3)「古代歌謡集」

① 愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も

② 大和は 國のま秀らま
  畳づく 青垣山
  籠れる、大和しうるわし

③ 命の 全けむ人は
  畳薦 平群の山の
  白橿が枝を 髻華に挿せ この子

 古田さんはこの「思邦歌」をどのように解読して いるだろうか。

 ①はどこで歌われたとしても通用する内容であり、 問題となる点はない。

 ②はどうだろうか。問題は2点ある。
 「夜摩苔(ヤマト)」(原文)に対し、(1)(2)は「倭」、 (3)は「大和」と表記しているが、いずれもためらわず 近畿の「大和」と解して疑わない。

 「ヤマト」という地名は他にもある。筑後の 「山門郡」は「大和」と邪馬壹国の所在をめぐって空しい 争いをしているので有名な所だ。しかし、「ヤマト」もう一つ 筑前にもある。中・近世には、福岡市の西、旧早良(さわら) 郡の地に「山門郷」があった。現在、地下鉄に「下山門」と いう駅名がある。室見川の下流の姪の浜近辺であり、あの 「弥生の黄金地帯」の真っ只中である。

 〝中・近世文書”の中にある地名がどこまでさかのぼれ るかという問題や、「苔」(乙類)と「門」(甲類)の上 代音韻上の問題にも、古田さんは目配りしているが、 「この点は、一応保留しておこう」として論を進めている。 つまり、「ヤマト」を近畿・筑後・筑前のどこに比定する のが妥当かを判断するためには、表現全体の中で考えるべ きだという主旨である。

 古田さんは次に「マホラマ」を取り上げる。(2)は 卜部兼右本(鎌倉時代から伝わるとされている)を底本 としていて、「マホラマ」の原文は「摩倍邏摩」となって いる。

古田さんによると、熱田本(14世紀)・北野本(14世紀)では、 「摩倍邏摩」であり、後代写本の伊勢本(15世紀)・内閣文 庫本(16~7世紀)では「摩保邏摩」となっているという。 つまり「14~5世紀」の間の時期に、「倍→保」という「原文 改定」が行われている。江戸時代の国学以降、後代写本 の「摩保邏摩」を使って「マホラマ」と読んでいる。そして 「秀」「場」といったイメージで理解し、「近畿大和こそ、 日本国の中心の秀れた地」の意味に解釈してきたのであった。

 「摩保邏摩」なら「マホラマ」と読むことになるが、 「摩倍邏摩」を「マホラマ」と読むのは無理、これは 「マヘラマ」だ。

 前回紹介したように(2)の(3)の日本書紀版歌謡も 「摩倍邏摩」をも「マホラマ」と読んでいて、その意味を 「ホ」=「秀」一字だけ負わせている。しかし、その解釈 は「改定」以前の原文「マヘラマ」には通用しない。古田 さんは改定」以前の原文「マヘラマ」の意味を探ることに なる。

 先頭の「マ」は「真」であり、美称の接頭語。「へラマ」 は鳥類の脇の下の毛。『つまり、鳥の心臓の近くだけれど、 「脇」にある、柔らかい毛を呼ぶ称だ。決して「中心」と いう意味ではない』。古田さんはその解読の根拠を挙げて いる。

〔倭名類聚抄、羽族部、鳥体、倍羅磨〕日本私記云、倍羅麼、 師説、鳥乃和岐乃之多乃介乎為倍羅麼也、云云、今謂俣呂 羽、訛化。(諸橋、『大漢和辞典』)

 これによると、古事記の「本呂婆」=「ホロバ」は「へラマ」 の「訛化」であり、理路は一貫している。

 次は③の歌の意味。これは古田さんの文章をそのまま引用する。

 ここでは、「平群(へぐり)」の地が、この遠征の帰着点 である、として歌われている。これは明白だ。その上、そこ は「白橿が枝」を挿す、といった、神聖なる儀礼の行わるべ き聖地のように見なして、歌われている。

 確かに、近畿大和に「平群」は、ある。西北辺、大阪府に 近い位置。大和の中では、かなり辺鄙(へんぴ)な、はしっ こ。ここに橿原や三輪山や飛鳥のように、「中心的聖地」が あった、という形跡は見えぬ。その上、「景行天皇」がこの 地から出発した、などという記載も、一切存在しない。それ なのに、なぜ、「大遠征の終着地」が「大和の平群」なので あろうか。不審だ。従来の国学者も、言語学者も、歴史学者 も、解き明かしえなかった。

 ところが、筑紫の場合。これが解ける。あの吉武高木こそ、 「平群」の地なのだ。この点は、『和名抄』にも、明記され、 中・近世にも、平群郷が存在した。あの山門郷と並んで。

 その「筑前の平群」が、先にのべたように、「最古の三種 の宝物(神器)」の出土墓域だった。「二種」や「一種」が それをとり巻いていた。そしてその東、50メートルのところ、 そこには「宮殿群」の跡が出土した。

 今は、地下に〝眠って″いた「三種の宝物」も、その被葬 者(墓の中の主人公)の生前には、この宮殿の中で、新しき 権力のシンボルとして、この「三種の宝物」がかかげられ、 被支配者たち、各層の群衆は、これを仰ぎ見ていた、あるい は見させられていたこと、およそ疑いえぬところではあるま いか。

 「新しき」といったのは、「天孫降臨」という名の侵入と 支配の樹立、その直後の時代だからである。古き時代とは、 板付の縄文・弥生前期水田の文明であった。

 この「新しき主人公」が没し、木棺に埋葬された。これが 吉武高木の中心墓だ。そして隣の「宮殿」は、「神殿」とな り、「平群の地」は、倭国の中心をなす、輝ける聖地となっ た。九州王朝の聖地だ。倭王の中心の聖地である。

 このように、歴史への認識を確かにしたとき、あの「景行 天皇」、実は「前つ君」と呼ばれる、倭国の王者が九州の 東南、日向の国で歌ったところは、直裁に理解できる。

 大遠征の終了を、神前に報告すべきところ、それは平群な る、吉武高木の聖地であった。その創業の王、倭国の初代王 の墓前に参り、その王が筑前の一角に印した「新権力の樹立」 が、今回の九州一円の平定によって、磐石の基礎を築きえた こと、それを報告するのである。そしてその王が生前、居し たもうた宮殿、今は神殿の前で、「大遠征終結」の宣言を行 う。その日を、彼は夢見ているのである。詩人にして英雄、 その時代である。

 この筑紫の地は、もと「白日別」と呼ばれた〈『古事記』 国生み神話〉。ここの「白橿」も、これと同類の「白」では あるまいか(今、福岡市に白木原がある)。

 このように、室見川中流の平群の地が、この第三歌の対象 であるとするとき、第二歌の謎も解けよう。

 室見川下流の「やまと」(山門郷)の地は、この平群と いう中心地(心臓部)の「脇」に当る、よき地だ、といって いるのである。不審はない。おそらく、出発のとき、平群の 聖地に詣でてより、河口の「やまと」の地から、九州全土平 定をめざす遠征軍は、自己の「侵略」の拡大のため、出発し たのではあるまいか。その日のことを、筑前の王者は、人々 に思い出させようとしているのである。遠征に疲れた兵士た ちの士気を鼓舞しようとしたのだ。

 以上のように、「大和の平群」では、皆目意味不明だった ところが、いったん「筑紫の平群」を原点にするとき、つぎ つぎに疑点が解消してゆく、その「解読の醍醐味」を、わた しはかみしめていたのである。

 この研究経験は示した。わたしが本書で行った「景行天皇 の九州大遠征」分析が、正当であった、という事実を、それ はまた、示している。〝『日本書紀』の記事は、九州王朝の 史実(の歴史記載)からの転用(盗用)をふくむ″。この命 題が偽りでなかったことを証明しているのである。すなわち、 「九州王朝」という、歴史上の命題の正当性、それを裏づけ ているのである。
第808回 2007/06/17(日)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「思邦歌」の従来の解釈


 いま、岩波版日本古典文学大系の
(1)「古事記」
(2)「日本書紀」
(3)「古代歌謡集」
の三種の「思邦歌」を眺めている。

 前回掲載したように、(1)では三つの歌をそれぞれ独立 した歌として扱っている。(2)では(1)とは違う順になって いて、全体で三連一組の詩の形になっている。どちらが古形 (もとの形)なのか。私は判断の決め手をもたないが、 景行紀の九州討伐譚が日本旧紀からの盗用であることを考 えると、もともとは(2)の形だったのではないだろうか。 前回では(1)と(2)の訓読を転記したので、今回は (3)の日本書紀からの訓読を転載して、それを眺めながら論を 進めていこう。(それぞれ定本が違っていて、少しずつ異 なるところがある。)

① 愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も

② 大和は 國のま秀らま
  畳づく 青垣山
  籠れる、大和しうるわし

③ 命の 全けむ人は
  畳薦 平群の山の
  白橿が枝を 髻華に挿せ この子

 (1)(2)(3)とも、もちろんのこと、ヤマトタケルや オシロワケ(景行天皇)が創作した歌などという解 釈はしていない。当時流布されていた歌謡をそれぞれの 物語の中に挿入したものと考えている。

 ではその歌の意味を従来はどのように解していたのか。 (1)(2)(3)の頭注を総合すると次のようである。 (口語訳は(2)による。)

① ああ我が家の方から雲がわいて流れてくることよ。

 雲が立つことは、その下に人間の生活があることを示す。 親しい人をしのぶときに、雲だけでも立てと歌う例が万葉に ある。

② 大和は最もすぐれた国。
  青青とした山が重なって、
  垣のように包んでいる大和の国は立派で美しい。

 独立の国ぼめ歌で、国見の儀礼の寿歌か。

③ 生命力のあふれた人たちは、
  この平群の山の
  白橿の枝を髻華として髪に挿せ。この子よ。

(1)の解説
 この歌も伝説に即すれば、命の無事な部下に対して、帰 郷後の生の悦楽を希望した歌となるが、独立した歌として 見ると、長寿を祈る民謡と解することができる。

(2)の解説
 歌垣の民謡で、若者たちに青春を無為に過ごさぬように 訓す老人の歌であろう。

 次に、「思邦歌」のなかで難解とされている言葉、 ②の「マホラマ」をどう 解しているか。

(1)原文「麻本呂婆」=訓読「マホロバ」
  「マ」=接頭語、「ホ」=「秀」、 「ロバ」=確実性を示す接尾語「ラマ」

(2)原文「摩倍邏摩」=訓読「マホラマ」
  「マ」=「真」、「ホ」=「秀」、「ラ」=状態を示す 接尾語、「マ」=「場」

(3)原文「摩倍邏摩」=訓読「マホラマ」
  「ラマ」=接尾語 「ラ」と「ロ」は相通、 「マ」と「バ」の相通((1)の「マホロバ」と同じ意である ことを主張している。)

 要するに、なんとかつじつまを合わせようと試みているが、 いずれも恣意的は解釈でしかない。

 次に「白橿(熊白檮)が枝を 髻華に挿せ」の意味について はどうか。

(1)
 生命の樹と信ぜられていた樫の葉を髪に挿すのは長寿を ねがう類似呪術である。

(3)
 木の花や葉を髪にさして、植物の生命力を人体に感染させ る呪術。後には単なる装飾となり、造花なども用いる。

(2)では巻末の補注で②の歌全体を詳しく解説している。全 文転載しておこう。

 マソケムは全ケムの意。完全であろうの意。生命力の完全 であるとは、若くて生命力に満ちている意。若者を称える表 現。

 畳薦はタタんだコモ。幾重にも重ねる意で、へグリのへ (重に通じる)を導く修飾語。へグリは、今の奈良県生駒郡 平群村一帯。

 橿は、橿原の地名などにもあるように、当時多くあった木。 大樹となり神聖視された。

 ウズはカザシ、植物を頭髪にさすもの。植物の生長の呪力を 人間に感染させるもの。

 此ノ子は、近くにいる若者に呼びかけた語。

 この歌本来は、若者の春の野遊びなどで、老人が歌って、 生命ある若者を称え、また自ら老年に近づくことを嘆く歌で あろう。

 (2)の補注を定説とみなしてよいだろう。長寿や健康を願う 「おまじない」と解している。
第807回 2007/06/16(土)

今日の話題

予防訴訟控訴審第1回口頭弁論詳報

  大岡みなみ(池添徳明)さんが

身辺雑記

で予防訴訟の控訴審・第1回口頭弁論を詳細に報じています。 さすがジャーナリスト、必要にして十分な記事内容です。被 控訴人側の代理人(弁護士)の弁論内容だけでなく、 担当裁判官の過去における訴訟指揮もまとめてその人となりを 報じています。以下にその記事を転載します。


 教員側代理人の加藤文也弁護士は、「一審判決は膨大な証拠を詳細に検討した上で、都教委の通達を違憲・違法と判断した。判決は多くの国民に支持されており、社説や世論調査などの新聞報道からも明らかだ。都側の控訴理由は理由がなく、控訴は棄却されるべきだ」と陳述した。続いて教員側の山中真人弁護士は、「日の丸・君が代の評価を争っているのではなく、裁量のない卒業式を強制するといった都教委の強制の是非を争っている」と述べるとともに、一審判決を否定する石原都知事の発言や判決後の都教委の対応を批判した。

 最後に、教員側の澤藤統一郎弁護士は、「憲法訴訟としての重みを理解してほしい。行政権力は教育の内容に立ち入ることが許されるのかが問われている。上告されれば最高裁大法廷で憲法判断が下されることになるが、最高裁の判断をリードするような審理を要望する」と締めくくり、東京高裁(都築弘裁判長)に対し、憲法と良心に忠実な姿勢で判決を言い渡すように求めた。東京高裁の3人の裁判官の胸に、果たしてどこまでこの訴えが響いただろうか。

 ちなみに、この法廷の右陪席(ナンバー2)は園部秀穂という裁判官だが、この人物は東京地裁八王子支部の裁判長時代にかなり強権的な訴訟指揮をしている(司法改革のページの記事「Tシャツ着用で退廷命令」参照)ほか、強制連行された中国人労働者が多数死傷した「花岡事件」の損害賠償請求訴訟でも、審理を一方的に打ち切る訴訟指揮をして、裁判官忌避の申し立てをされている。「花岡事件」の二審で、日中間の戦後補償訴訟で初めて和解を成立させた東京高裁の新村正人裁判長とは対照的だ(単行本「裁判官Who's Who/首都圏編」参照)。本件の都築弘裁判長は、現場の裁判官生活よりも司法行政職が長い人物。いわゆる法務エリート。

 都側の弁護団は、一審では数人だったのが控訴審から19人に増強された。「危機感の表れではないか。これまでと違って相当真剣になっている」と関係者は指摘している。


 「憲法と良心に忠実な姿勢で判決を言い渡すように求めた」 澤藤さんの弁論はこの裁判の本質を鋭く突いたもので、たい へん格調高いものでした。裁判官に同様な格調の高い判決を 期待したいが、その経歴を見ると行政権力ベッタリの 判決になる不安をぬぐいきれない。裁判官が「憲法と良心に忠実 な姿勢」を取らざるを得なくなるようなプレッシャーを、 公判を通して与え続ける必要があります。常にあふれるほどの 傍聴希望者が集うこと、そしてマスコミの関心を喚起すること が大きなプレッシャーの一つとなるでしょう。
第806回 2007/06/15(金)

「真説・古代史」補充編

(お休みです。)



今日の話題

予防訴訟控訴審に右翼があらわれた。

 昨日(6月14日)、予防訴訟(国歌斉唱義務不存在確認等請 求訴訟)の控訴審・第1回法廷(東京高裁)を傍聴しにいった。 実は傍聴抽選には外れてしまったのだが、未練がましく裁判所前で うろうろしていたら、幸運にも被控訴人団の方から被控訴人団 用の余った傍聴券をいただくことができた。ご好意ありがとう。

 さて、「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちの戦列の端っこに くっついて、今まで足を踏み入れたことのない裁判所に何度か いくことになったが、今回は今までになかった異変事が あった。傍聴抽選を待っている列の中に、一見してその場の雰囲気 にまったく合わない十数名の黒っぽいスーツの一団が加わってきた のだ。5,60歳ほどの小柄で小太りのあばたづらのボスらしき 御仁以外は2,30代の青年だった。一瞬ホニャニャラ団かと 思ったが、裁判傍聴のためにおめかしをしてきたのだろうか、 そのスーツ姿が着慣れていないようでなんとなくぎこちない。 そういうところから判断するとやっぱり右翼さんだろう。 最も最近はホニャニャラ団と右翼の区別はしにくくなっている ので、どちらとも取れる。例えば右翼「日本青年社」は指定広域 暴力団住吉会系の団体であり、「拉致被害者を救う会」の 主要構成員だといわれている。

 この予防訴訟に現れたコワモテ集団はなにものなのか。 2,3人が傍聴券を当てたようで、公判終了後、裁判所前の 広場で円陣を組んで報告会らしきことをやっていたらしい。 それを目撃した人の話しによると、公判時に控訴人(都側) 席にいた一人がその中で挨拶していたという。まさか都の職員 ということはないだろうから、弁護士だろうか。いずれにし ても控訴人(都)側の支援者という形になっている。もしも チンタロウの臭い息が掛かっているとしたら、これはスキャン ダルになるな。

 右翼が街宣という暴力に訴えるのではなく裁判に訴える ようになったとしたのならそれはそれで悪いことではないが、 そのうち動員数を増やしてきて一般傍聴人を妨害するのでは ないかという危惧はある。単なる杞憂で終わればよいのだが。

 さて、公判の方。都側は準備書面を提出しただけで、 口頭弁論はまったくしなかった。被控訴人側は3人の弁護士が 都側が主張する控訴理由に対する反論の概略を弁論した。 (少し詳しく書こうと思っていたのだが、入手した資料と メモをバスの中に置き忘れたしまった。情けない。)

 それを聞いた限りでは、都側には9・21難波判決の判決理由 を切り崩すような論理はひとかけらもない。即控訴棄却が妥当 だと思うが、さて、憲法の番人としての裁判所の存在理由が 問われているこの控訴審を、裁判官はどう裁くだろうか。

 ところで、9・21難波判決のとき、私は抽選に外れてこの 画期的な判決を直接聞くことができなったが、その判決の、 臨場感あふれる判決瞬間の報告とともに、判決内容に対する 適切な法的解説をしている文章に出合ったので、そのホーム ページの紹介も兼ねて、予防訴訟の復習をしておこうと思う。以下は

法学館憲法研究所

からの転載です。


2006年9月21日、東京地裁において、「君が代」予防訴訟に対する判決が言い渡されました。この裁判は、都立高校の教職員が、卒業式などの行事において、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことの確認等を求めた裁判です。

判決言い渡しということもあって、大勢の傍聴希望者が集まり、49枚の傍聴券に対し、希望者は250名を超えました。抽選の結果、私は外れてしまいましたが、原告団のご好意で傍聴券をいただき、法廷で判決を傍聴することができました。

午後1時半になり、裁判官が入廷し、いよいよ言い渡しです。裁判長が「判決を言い渡します」と言って、原告の名前を読み上げ始めました。すぐに主文を言わないため、法廷には緊張感が走ります。401名の原告のうち、32名の名前を読み上げ、この32名を「退職者」、残りを「在職者」と呼ぶ、と裁判長は述べました。この瞬間、私は、“「退職者」について訴えを却下し、「在職者」に対しては請求棄却か!?”つまり、敗訴判決か、と思いました。

しかし裁判長は、在職者について、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことを確認する」と述べました。ここで勝訴判決とわかり、法廷がどよめきました。続いて、在職者に対し、「国旗に向かって起立しないこと及び国歌を斉唱しないことを理由として、いかなる処分をしてはならない」とし、処分差し止め請求も認容しました。ここで法廷には大きな拍手が沸き起こりましたが、すぐに「静粛に!」という注意が入りました。主文の言い渡しの途中でしたが、原告や弁護団は涙を流し始めており、中にはガッツポーズをする弁護士もいました。

続いて、音楽教員について、ピアノ伴奏についても義務がないこと、および伴奏拒否に対して処分をしてはならないとしました。さらに、退職者も含め、すべての原告に対する賠償金として、一人当たり3万円の支払いを命じました。主文各項目を読み上げるたびに、法廷のあちこちで、「よし!」「やった!」といった声が上がる一方で、被告席に座っている都側代理人の表情はどんどん曇っていきました。

続いて、判決理由です。裁判所は、争点として、(1)義務不存在確認の訴えおよび処分差し止めの訴えが適法かどうか、(2)国歌斉唱義務・ピアノ伴奏義務があるか、およびそれを命ずる通達が違法かどうか、(3)賠償請求の是非の3つをあげ、順に裁判所の判断を示しました。

(1)については、不起立に対して、戒告、減給、停職などの懲戒処分を受けること、再発防止研修の受講を命じられること、退職後の再雇用が拒否されることが確実であると推認することができ、起立やピアノ伴奏についての職務命令を拒否するか、自己の信念に反して従うかの岐路に立たされる、と指摘しました。そして、職務命令が違法であれば、侵害される権利が思想良心の自由に関わるものであり、事後救済になじまない権利であるなどとして、義務不存在確認の訴えおよび処分差し止めの訴えの適法性を認めました。

(2)について、まず、日の丸・君が代が、戦時中に皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことは否定しがたい事実であって、国民の間で宗教的・政治的に見て価値中立的なものと認められるに至っていないと指摘しました。それゆえ、卒業式等で国旗掲揚・国歌斉唱に反対するものも少なからずおり、このような世界観・主義・主張を持つ者の思想・良心の自由も、公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値するとして、教職員に対し、国歌斉唱すること等を義務付けることは、思想良心の自由の制約になるとしました。

被告らは、国歌斉唱・ピアノ伴奏は外部的行為であって、内心領域における精神活動まで制約するものではないと主張していました。しかし裁判所は、内心の精神活動と外部的行為とは密接な関係にあり、切り離すことはできず、国旗に向かって起立したくない、国歌斉唱したくないといった思想・良心をもつ教職員にこれらを命ずることは、思想・良心の自由を侵害しているとしました。

そして裁判所は、思想・良心の自由も公共の福祉に反する場合には、必要かつ最小限度の制約に服するとして、教職員らに対する国歌斉唱等の義務付けが、必要最小限度の制約かどうかを、(i)学習指導要領の国旗・国歌条項に基づく義務について、(ii)いわゆる10.23通達(国歌斉唱等を義務付けた、2003年10月23日に出された通達)に基づく義務について、(iii)校長の職務命令による義務について、それぞれ検討しました。

(i)学習指導要領について、裁判所は法的拘束力を認めましたが、あくまで教育の機会均等・全国的な一定の水準の維持のための大綱的基準であるとしました。それゆえ、大綱的基準を超え、教職員に対し、一方的な一定の理念や観念を生徒に教え込むことを強制する場合は、教育基本法10条1項が禁止する「不当な支配」に該当するとしました。そして、学習指導要領の国旗・国歌条項は、卒業式などにおける国旗・国歌の取扱いを一義的に決めておらず、国歌斉唱等の義務を負わせるものではないとしました。

(ii)10.23通達については、国旗掲揚・国歌斉唱の実施方法につき、各学校の裁量を認める余地がないほど一義的な内容になっていることを認定し、通達に違反した教職員に対し、懲戒処分をしていることなどから、国歌斉唱等の強制があるとしました。そして、これらは教育の自主性を侵害し、教職員に対し一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育基本法10条1項が禁止する「不当な支配」であって、違法であり、国歌斉唱等を義務付けることは、公共の福祉の観点から許されている制約とはいえない、としました。そして、10.23通達やそれに関する都教委の指導等は教育基本法10条に反し、憲法19条の自由に対する必要最小限度の制約を越える、としました。

(iii)校長の職務命令について、原則として教職員は従わねばならないが、重大かつ明白な違法があれば、従う義務はないとしました。そして、国歌斉唱等について、思想・良心の自由に基づき、これらの行為を拒否する自由を有するとしました。また、不起立によって式典の進行や国歌斉唱を妨害することはないこと、ピアノ伴奏拒否に対しても代替手段があることを指摘しました。その上で、憲法は相反する世界観・主義・主張を持つ者に対しても相互の理解を求めているとして、いわば“寛容の精神”を被告らに求め、国歌斉唱等の義務を否定し、国歌斉唱等の義務付けは、憲法19条に違反すると断じました。

(3)国家賠償の是非について、国歌斉唱等の義務がないにもかかわらず、違法な通達・職務命令により、自身の信条に従うか、不利益を避け起立するかで悩んだこと、あるいは自身の信条を曲げ起立したことに対して、精神的損害が認められるとして、3万円の損害賠償請求を命じました。

最後に裁判所は、いわゆる“愛国心”の涵養などのために、式典において国歌斉唱等を行なうことは有意義だとしつつ、強制してまで斉唱させることは、少数者の思想良心の自由を侵害し、行き過ぎた措置であると述べ、判決言い渡しを終えました。

裁判官が退廷するにあたって、弁護団・傍聴席は全員起立し、拍手で裁判官たちを見送りました。その後、法廷内のあちこちで、歓声が上がり、原告・弁護団らが、抱き合ったり握手したりする姿が見られました。本当に感動的な法廷でした。

午後6時からは、星陵会館で判決報告集会が開かれ、大勢の原告・支援者らが集い、勝訴判決の喜びを分かち合いました。また、この判決をきっかけに、「君が代」強制反対・教育基本法「改正」反対の運動につなげていくことの重要性が確認されました。

原告全面勝訴という判決は、非常に素晴らしいものでした。判決理由も、原告側の主張、すなわち、憲法学界の通説に従った論理構成であり、とてもしっかりしたものです。

判決は、指導要領の法的拘束力を認めつつ、大綱的基準にとどまるものであり、それを逸脱する場合には教育基本法第10条が禁止する「不当な支配」に該当するという判断枠組みを示しました。これは、最高裁が旭川学力テスト判決・伝習館事件判決等で示した枠組みに合致します。その中で、通達が指導要領の解釈を誤っており、違法であるとしています。その意味では、控訴審でも破棄されにくい論理構成をとっているといえます。教育基本法10条が、行政による教育への過度の介入に対する防波堤となることを示した点でも評価されます。

また内心の自由とそれに基づく外部的行為の密接な関係性を認め、君が代斉唱の拒否は、思想・良心の自由で保障される行為であると判断した点も評価できます。被告側は、外部的行為の制約にとどまり、内心の自由まで制約するものではないとの論理を立てていましたが、それを明快に斥けたのです。しかも、外部的行為に対する制約は、必要かつ最小限度でなければならないという基準を示しました。この点も、従来の判例では、精神的自由に対する制約が、たんに「合理的」かどうかで判断される(つまり、必要最小限度のものでなくても、人権制約が許容される)傾向が強かったことから見て、高く評価されます。憲法学説の理論構成にも合致しています。

それから、判決文では用いられていない言葉ですが、多数者に対して「寛容の精神」を求めたことです。判決は、「君が代」斉唱時に少数のものが着席することに対して多数者が感じるであろう「不快感」によって、原告らの基本的人権を制約することは相当ではないとしました。これは、多数者に対して、少数者への「寛容の精神」を要求したものと読むことができます。この点は、原告側(特に弁護団長である尾山宏弁護士)が、訴訟を通じて強調していた点です。少数者への「寛容の精神」こそ、人権保障にとって重要なものですから、裁判所がこれを認めたのは非常に高く評価されるでしょう。

さらに判決は、式典などにおいて国旗掲揚・国歌斉唱を行なうこと自体は、いわゆる「愛国心」の涵養や、「日本人としてのアイデンティティ」を育てるために有意義なものだと述べており、都教委などの姿勢にも一定の配慮を見せています。私自身は、「君が代」斉唱等が「愛国心」の涵養にとって有意義とは思いませんが、こうした裁判所の配慮は、判決の妥当性をより強めるものであると思います。

奥平康弘氏(東京大学名誉教授)は、その著書『憲法の想像力』の中で、憲法を「未完のプロジェクト」として、その実現を目指して、市民が日々憲法を実践していくことが重要だと述べています。この訴訟は、原告・弁護団が憲法を実践して、その一部を実現したものだと思います。

敗訴判決を「1%も予想していなかった」という都側は控訴の方針だと伝えられています。法学館憲法研究所では、引き続きこの事件をレポートしていきたいと思っています。

第805回 2007/06/14(木)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:二つの「平群」


 前回は、吉武高木遺跡の宮殿群跡の史料としての重要性を 検討するための関連事項をまとてきたが、もう一つ付け加え たい。

 前回、ニニギの山陵をめぐる古田さんの文を引用したが、 その出だしはこうだった。

『「日向」は「ひなた」。高祖山連峯に日向山・日向峠があ り、日向川が東流して室見川に合流している。その合流点に 吉武高木がある。平群の地である。』

 古田さんは「吉武高木」を「平群の地」と呼んでいる。 これに対して、『エッ、「へぐり」って奈良県じゃないの?』 と疑問をもった人が多いのではないか。私も「平群」といえば 奈良県と思い浮かべるし、福岡県にも「平群」という地名が あることは思いも及ばなかった。そう、「平群」という地名で 私がすぐ思い出したのは記紀歌謡の「思邦歌(くにしのびうた)」 と薄田泣菫の詩「ああ大和にしあらましかば」だった。

 「思邦歌」は、古事記(景行記)では、ヤマトタケルが 長い東国遠征を終えて大和近く(三重県)まで帰り着いた ときに歌った歌とされている。

 それより、幸行(い)でまして、能煩野(のぼの)に到り ましし時、國を思ひて歌ひたまひしく、

 倭は 國のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し うるわし

とうたひたまひき。また歌ひたまひしく、

命の 全けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に 挿せその子

とうたひたまひき。この歌は國思(しの)ひ歌なり。また歌 ひたまひしく、

 愛(は)しけやし 吾家(わきえ)の方よ 雲居立ち来も

とうたひたまひき。こは片歌なり。

 ところが日本書紀(景行紀)ではオシロワケ(景行天皇)が 歌ったことになっている。熊襲討伐を終えて日向国に再度立ち 寄り、その地を日向(ヒムカ)と命名したときに歌ったとさ れている。

是の日に、野中の大石(おほかしは)に陟(のぼ)りまして、 京都(みやこ)を憶(しの)びたまひて曰(のたま)はく、

 愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も
 倭は 國のまほらま 畳づく 青垣 山籠れる、倭し麗し
 命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 白橿が枝を 髻華(うず)に挿せ 此の子

是を思邦歌(くにしのびうた)と謂う。


 「歌ひたまふ」とか「曰はく」と表現しているが、流行歌を 歌ったりラップしたりしたわけではなく、あくまでも歌を創作 したというように書かれている。

 真の創作者はどちらで、どちらが盗作者なのだろうか。 景行紀が筑紫の王・前つ君の遠征譚を盗作したものであることを 既に知っている人には言わずもがなの問だった。

 では前つ君の歌だとしたら、この歌はどんな意味になるのだ ろうか。その答えは次回ということにして、チョッと一息入 れます。

 私が詩に関心を持ち始めたのは晩く、22・3歳のころでした。 病床での無聊を慰めるのがきっかけでした。気に入った詩を暗 誦したものでした。薄田泣菫の「ああ大和にしあらましかば」 もそのときに覚えた詩です。しかし今ではすんなりとはでてきま せん。思いがけず思い出して懐かしかったので、本をひもとい て改めて書き留めてみました。初出は1905(明治38)年で、近 代詩草創期の傑作のひとつと言えるでしょう。

ああ大和にしあらましかば   薄田泣菫

ああ、大和にしあらましかば、
いま神無月、
うは葉散り透く神無備(かみなび)の森の小路を、
あかつき露(づゆ)に髪ぬれて往きこそかよへ、
斑鳩へ。平群(へぐり)のおほ野、高草の
黄金の海とゆらゆる日、
塵居の窓のうは白み、日ざしの淡(あは)に、
いにし代の珍(うづ)の御経(みきやう)の黄金文字、
百済緒琴(くだらをごと)に、斎(いは)ひ瓮(べ)に、彩画(だみゑ)の壁に
見ぞ恍(ほ)くる柱がくれのたたずまひ、
常花(とこばな)かざす藝の宮、斎殿深(いみどのふか)に、
焚きくゆる香ぞ、さながらの八塩折(やしほをり)
美酒(うまき)の甕(みか)のまよはしに、
さこそは酔はめ。

新墾路(にひばりみち)の切畑(きりばた)に、
赤ら橘葉がくれに、ほのめく日なか、
そことも知らぬ静歌(しづうた)の美(うま)し音色に、
目移しの、ふとこそ見まし、黄鶲(きびたき)の
あり樹の枝に、矮人(ちひさご)の楽人(あそびを)めきし
戯(ざ)ればみを。尾羽身(をばみ)がろさのともすれば、
葉の漂ひとひるがへり、
籬(ませ)に、木の間に、──これやまた、野の法子児(ほふしご)の
化(け)のものか、夕寺深(ゆふでらふか)に声(こわ)ぶりの、
読経や、──今か、静(しづ)こころ
そぞろありきの在り人の
魂にしも沁み入らめ。

日は木がくれて、諸びとら
ゆるにきしめく夢殿の夕庭寒(さむ)に、
そそ走(ばし)りゆく乾反葉(ひそりば)の
白膠木(ぬるで)、榎(え)、楝(あふち)、名こそあれ、葉広(はびろ)菩提樹、
道ゆきのさざめき、諳(そら)に聞きほくる
石廻廊(いしわたどの)のたたずまひ、振りさけ見れば、
高塔(あららぎ)や、九輪(くりん)の錆に入日かげ、
花に照り添ふ夕ながめ、
さながら、緇衣(しえ)の裾ながに地に曳きはへし、
そのかみの学生(がくしやう)めきし浮歩(うけあゆ)み、――
ああ大和にしあらましかば、
今日神無月、日のゆふべ、
聖(ひじり)ごころの暫しをも、
知らましを、身に。
第804回 2007/06/13(水)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:ニニギの山陵はどこか


 古田さんの記紀神話の解読は遅くとも1975年ごろにはほと んど完成していた。そしてその理論の正当性は、既にそれま でに明らかになっていた考古学上の事実が裏打ちしていた。 1992年の吉武高木遺跡での宮殿群跡の発見は、古田理論の 正当性をさらに決定的なものとした。

 吉武高木遺跡の宮殿群跡は何を物語っているのか。それを 読み取るための関連事項をまとめてみる。

 古田さんの解読によれば

天孫降臨の地

『竺紫(ちくし)の日向(ヒナタ)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ) に天降りましき』(古事記)
すなわち
『博多湾岸と糸島郡との間、高祖山を中心とする連山』
である。この比定地域の地図を掲載しておこう。

降臨の地



 次にニニギの山稜の比定。

「筑紫の日向の可愛(此を埃と言ふ。)之山陵に葬る」(日本書紀)

 森教授はこの一文を引用して、はなから日向(ヒュウガ)= 宮崎県と考え、「可愛」という地の検討はしようともしない。 多分、宮崎県にも熊本県にもそれらしい地名が見当たらない ので知らん振りをしたのだろう。古田さんの解読を読んでみ よう。上の地図を見ながら読むとよく納得できよう。


 「日向」は「ひなた」。高祖山連峯に日向山・日向峠があ り、日向川が東流して室見川に合流している。その合流点に 吉武高木がある。平群の地である。

 「可愛」は「かはあひ」。〝川合い″の義であろう。「向 う町」を「向日町」(京都府。現在は市)、新堀(にひほり)」 を「日暮里(にっぽり)」(東京都)と書くような、佳字表 記である(書経・大禹謨、左氏・襄王等に「可愛(愛す可 し。)」の用例がある。従来「可愛」「埃」を「え」と読ん できたのは、非。「愛」「埃」ともに、「あい」である。 佳字表記の原則は、〝音が似ていて、佳字であること″だ。 同一音の必要はない)。

 ここでは、室見川と日向川との合流点であるから、「日向 の川合ひ」だ。

 「山陵」の「山」が、今年(1993)の二月に解けた。吉備 (岡山県)の造山・作山古墳は、いずれも「つくりやま」と 読む。すなわち、〝人工造成の古墳″を「やま」と呼んでい るのである。

 一方、吉武高木の弥生墓は、現在は水田の下から治水工事 のさいに出現した。けれども本来、その上に「墳丘墓」の あったこと、近所の樋渡遺跡の例で判明している。この 「墳丘墓」が、古代日本語では「やま」。自然の山地に限ら ないのである。

 このように考えてくると、従来(わたしにとっても)関門 となっていた「山陵」の一語が解けた。ために、吉武高木と いう弥生の王墓をもって、「ニニギノミコトの陵墓」と見な すべき障害は、全く存在しなくなったのである。

 以上のように、この吉武高木は、百パーセント、もし遠慮 していっても、九十パーセント、「ニニギの墓」と、わたし は考えている。「日向川の合流点」など、この平群の地を除 いて、他に全くないからだ。

 次の地図が吉武高木遺跡の拡大図だ。

吉武高木


 図の表題部分に(早良王墓とその時代)と書かれているが、 これも九州王朝を認めまいとする頑迷なイデオロギー(虚偽意識) のなせる業である。これについて古田さんも苦言を呈している。


 だが、一言する。このような「倭国の中心・始源の王墓」 に対し、これを「早良国王墓」などと呼び、あたかも一地方 豪族の墓であるかに呼び、そのように標示したならば、 (それが公共機関であろうと、大学などの当事者であろうと )やがて次代の嘲笑の的となるであろう。各関係者の方々の 慎重な配慮を要望したい。

 さてもう一つ、古田さんによる「邪馬国 (ヤマイチコク)」の比定を取り上げる。(以下は『古代史の未来』による。 詳しく知りたい方は朝日文庫『「邪馬台国」はなかった』を お読みください。)

 古田さんが「邪馬国」は誤りで「邪馬国」 と表記するのが正しいことを論証したのは1969のことだった。 原文(紹興本・紹煕本などの三国志。南宋本版)を丹念に読み 取ることで得た結論だった。

 「邪馬壹国」を「邪馬臺国」としたのは松下見林(1637~1703) であり、倭人伝を天皇家と結びつけるために近畿の「ヤマト」 に合わせるための改竄だった。この改竄が何の疑いを もたれずに流布してしまった。新井白石(1657~1725)は 松下見林の対抗して「ヤマト」を九州の「山門」(福岡県) に当てている。以来「ヤマト」をめぐってご当地争いが連綿 と繰る返されている。

 さて、古田さんは「邪馬壹国」という原文に戻した上で、 およそ次のような理路で「邪馬壹国」を博多湾岸とその周辺 に比定した。

 これまでの論者は「ヤマト」(大和、あるいは山門)と いう目的地をまず決めておき、そのあと自説の都合に合わせ て「魏志倭人伝」を改竄してきた。例えばそこに至る行路に ついて『「南」は「東」の誤り』とか『「一ヶ月」は「一日」 の間違い』とか、つじつまを合わせるために原文を勝手に変更して 恥じなかった。古田さんはこうした「目的地先決め」の手法 自体を破棄する。つまり「ヤマイチ」探しなどをやらない。

 古田さんはあくまで原文表記の通りに丹念に倭人伝が表記している 行路をたどる。その到達点が博多湾岸とその周辺であった。

 そして、その地はまさに「弥生期の最貴重物の集中出土地」 に当たっていた。考古学もその地を指し示している。

 その地帯を古田さんは「弥生の黄金地帯」と呼んでいる。 この黄金地帯については 「金印」と「黄金地帯」 で詳しく取り上げた。ここではその地図を掲載しておこう。

弥生王墓


絹の分布

第803回 2007/06/12(火)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:新資料による森教授批判


 私のホームページを訪れてくださる方々がどのような 話題に興味をお持ちなのか、FC2のアクセス解析を利用して 時々調べている。それが時には思わぬ資料に導いてくれる。

 今日は森教授の「出雲の国と大和の国」という文章(講演録 らしい)に出合った。これを最後まで読むと「目次へ」という 誘導があるのでアクセスしたところ、全体は 『銅鐸と日本文化』 という表題の記録で、その中の一章だった。出所は 『財団法人 愛知県教育サービスセンター「県民大学叢書 56」』であった。

 予定を変更して今日はそれを題材にしよう。さしあたって 「はじめに」と最初の2章「加茂岩倉遺跡」「出雲の国と大和 の国」を読んだ。この講演は加茂岩倉遺跡が発見された年の 翌年1997年に行われたようだ。森教授が『日本神話の考古学』 の執筆を終えたのが1993年、その4年後ということになる。

 さて、「出雲の国と大和の国」の章で森教授は学者の研究 姿勢について言及している。

 NHKの番組で銅鐸を4月に取り上げていました。やはり 大和を特別扱いして説明していましたが、出雲の国は50個、 大和の国はわずか16個です。しかも16個の中には奈良時 代に出たことが記録に載っているだけで現存しないものも入 れてあります。だから現在残っている銅鐸の数は更に減りま す。それから奈良県は昔もっと多かったのだが、それが開墾 で壊されたのではないかと言う人がいます。それも当たらな いでしょう。なぜかというと桜井市纏向(まきむく)遺跡か ら出た、小指の先の爪ぐらいのかけらも16個の中に入って います。それは奈良時代の運河跡から出たのですが、そうい う壊れて銅鐸のおそらく50分の1ぐらいの、小指の先ぐら いになったものも入れて16個です。 時々考古学者で事実の前に先入観を もっている人がいます けれども、考古学というのは事実の学問です。

 「事実の前に先入観をもっている人」を戒めているが、 ご自身はその人の中に入らないのだろうか。前回引用した 文章の次の部分とどう整合性が取れるのだろうか。

 考古学的な根拠は少ないけれども、……政府は1874年 (明治7)に、三陵のすべてを鹿児島県内に政治決定して いる。このことは、『延喜式』とはくい違うが、神話に あらわれた地名を重視するかぎり、やむをえない結論のように思える。

 「政治決定」に対して「やむをえない結論」などと妥協する 姿勢には「考古学というのは事実の学問」という自負のかけらも ない。

 森教授はさらに次のように述べる。
 今度の出雲の銅鐸が単に出雲のすごさの一端を示しただけ ではなくて、やはり大和を過大評価していたことを分からせ たのです。例えば邪馬台国の問題にしてもさまざまな研究の 結果、邪馬台国は大和しかないというように証明できたらい いのです。そうではなくて最初から邪馬台国という国は大和 以外にないと思い込んでいる学者がかなりおりますが、それ は空しいことです。だから出雲の銅鐸は非常に大きな意味が あります。

 理性的でしごく真っ当な意見が開陳されている。しかしこ こで述べられている戒めもご自分には及ばぬらしい。こんな ことも言っている。

 出雲は今回の銅鐸の発見でやはりすごいなと思います。 これについて、興味のおありの方は朝日新聞社から数年前に 発行しました「日本神話の考古学」という私がかなりの自信 をもって書いた本がありますので、参考にしてください。 従来は神話については考古学者は手を出さなかったのです。 神話を扱うと科学者ではないととられるからです。しかし、 神話は古代人が書いた非常に重要な文化遺産であるのは事実 です。それに誰も手を出さないのは安全は安全であるけれど も、ある意味では学問的こわがりです。それで私が60歳を 超えた頃、神話を自分の頭で消化してやろうと思って、雑誌 に連載したのをまとめて出したのが「日本神話の考古学」で す。
 『日本神話の考古学』は「かなりの自信をもって書いた本」 だそうだが、「事実の前に先入観を」もって書いていること には相変わらず頓着しない。

 「さまざまな研究の結果、」この国の支配権力はヤマト王権 「しかないというように証明できたらいいのです。最初から」 この国の支配権力はヤマト王権「以外にないとと思い込んで いる学者がかなりおりますが、それは空しいことです。」
そうではないでしょうか、森教授。

 しかし森教授は次のような認識も持っている。

 弥生時代の鏡は佐賀県とか福岡県からたくさん出ています。 特に福岡県では2百枚は十分出ています。弥生時代の九州はす ごいです。だから、奈良県は弥生時代は並の土地で、前方後 円墳が出来る頃から急にすごさがわいてきます。

 この知見が断片的な知見のままに留まってそれ以上に発展 しないで、やはりヤマト王権一元主義に侵された誤まった認 識、不正確な叙述に陥ってしまう。
 ただし、それが永久に続くかというとそうではないです。 奈良の都の途中からガタガタになって、もう奈良には都を置 ける土地ではありませんと言って京都に行ってしまうのです。 大和が、交通とか経済とかで本当にすごい所であれば何も平 安遷都する必要はありません。長い目で見たら、大和が、勢 力の中心であったのは、西暦4世紀から8世紀の終わりまで の、4百年間の出来事です。その4百年間の出来事を考古学 者はちょっとオーバーに頭の中にインプットしすぎているの です。

 ここでは「大和」とは奈良県のことであり、たかだたヤマト 王権の中枢があった場所の移動について述べているのだが、 いつの間にかニュアンスは「ヤマト王権=全国の支配者」に なっている。

 紀元前2世紀ごろから7世紀末ごろまで九州にはヤマト王 権をはるかにしのぐ一大勢力があり、その支配権は淡路島付 近にまで及んでいた。だから「西暦4世紀から7世紀の終わ りまでの3百年間は、大和は近畿地方の一豪族に過ぎず、 大和が日本国の勢力の中心であったのは、西暦8世紀の百 年間の出来事です。」と言うべきである。 「その百年間の出来事を」森教授は 「ちょっとオーバーに頭の中にインプットしすぎているの です。」

 ところで、森教授が『日本神話の考古学』を執筆中の1992年に 森教授の天孫降臨から神代三稜までの理論を完膚無きまでに 反古にしてしまうような考古学上の大発見があった。福岡県 の吉武高木遺跡での宮殿群跡の発掘である。『日本神話の 考古学』をいまだに自信作と言っているところをみると、森教授は この発見の重要さが分かっていないか、あるいは無視をして いるといわざるを得ない。「考古学というのは事実の学問」 と言っているけれども、その学問的事実を無視しては宝の持 ち腐れだね。(次回に続く。)
第802回 2007/06/11(月)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「神代三陵」を南九州に求める愚


 森教授は第9章で「神代三陵」を取り上げている。イワレヒコ の祖と言われている神代三代(ニニギ・ヒコホホデミ・ウガヤフキアエズ) の舞台をあくまで南九州と決めつけているため、その陵墓を 取り上げれば当然、森教授のとまどいはいよいよ深くなる。 まずそのとまどいに耳傾けてみよう。

 『紀』には、〝神代″の三人のミコトたちについて、それ ぞれ名前のついた陵に葬ったとする記事がある。ニニギノ尊 を例にとると

「筑紫の日向の可愛(埃・え)の山陵に葬る」

とある。だが、いわゆる東征(東遷)以後の大和の天皇たち が、何かの重要事件にさいして、日向にあるはずの 〝神代 三陵″に使者を派遣したという記事や、陵の修理や管理に ついての記事はまったくない。

 景行天皇の場合、『紀』では自ら九州に遠征をしたとい う設定になっていて、日向国では高屋宮(たかやのみや)と いう行宮(あんぐう)を作ったことになっている。高屋とい うのは、ヒコホホデミノ尊を葬った「日向の高屋山上陵」の 地名にあらわれている高屋のことであるとみてよかろう。 だが物語のうえで、景行が神話のうえでの祖先の陵に詣でた 話にはなっていない。

 そればかりではない。平安時代前期にまとめられた 『延喜式』にも、注目を要する記録がある。『延喜式』は、 律令政府の運営上欠くことのできない慣習や規則を細かく 記録した書物であるが、その二十一巻に諸陵寮の記録を含ん でおり、神代三陵の記事がある。諸陵寮の冒頭には、日向 埃山陵をはじめとする陵を列記し、そのいずれにも「日向 国にある。陵戸なし」と書いている。

 『延喜式』では、一般に陵名のあとに所在地などを示して いる。たとえばイワレヒコ(神武)の場合は、

 (1)大和国高市郡にある、
 (2)兆域(ちよういき)は東西一町南北二町、
 (3)守戸は五烟

 と詳細な記述がある。このような一般的な記載法に比べる と、神代三陵については、国名はあるけれども(1)のよう な郡名がない。実際の陵墓の範囲や広さを示す(2)の記載 がない。さらに天皇家にとって重要な先祖であるにもかかわ らず、(3)の管理をする者の存在が認められない。

 これらから考えると、実際に該当する古墳があった可能性 は少ないように感じられる。

 事実、『延喜式』でもこれらの神代三陵については、山城 国葛野(かどの)郡(現・京都市上京区)にある田邑陵 (たむら・文徳天皇陵)の南原で祭るよう決められていた。 その祭場の広さは東西・南北とも一町(約100メートル)で、 奈良時代や平安時代の陵墓の兆域に比べるとたいへん狭い。

 それだけではなく、これらの三陵が「日向国にある」とす る点にも問題がある。いうまでもなく、ここでの日向国とは 大隅や薩摩は含んでおらず、宮崎県のことである。考古学的 な根拠は少ないけれども、主として地名や信仰によりながら、 それまで宮崎県内にも神代三陵の候補地はあったにもかかわ らず、政府は1874年(明治7)に、三陵のすべてを鹿児島 県内に政治決定している。このことは、『延喜式』とはくい 違うが、神話にあらわれた地名を重視するかぎり、やむをえな い結論のように思える。

 このように整理してくると、問題点はかなり明らかになって くる。前章で述べたことであるけれども、八世紀以前には日 向国は大隅や薩摩の地を含んでいた。しかし、いわゆる神名 帳の部分をはじめ、『延喜式』の全体の扱いでは、薩摩国と大 隅国を日向国から分けて記述している。だから、実際に当時、 神代三陵なるものがあったのであれば、『延喜式』では薩 摩国にあると書いているはずであった。神代三陵が日向国に あるというのは、たぶんに精神的な存在であったからであろ う。

 十世紀の段階でも、南九州にあるはずの神代三陵は、個々 の場所が明確に掌握されていたのではなく、平安京近くの 真原岡(まはらのおか)の田邑陵から遠く拝み見るという 習慣があったことが知られるのである。どうして大和朝廷が 神代三陵について関心を示さなかったのか、そこに何らかの 史実が潜んでいるのか、それとも古代日本人の先祖観に関連 するのか、これについては、さらに考察を深める必要がある。

 『さらに考察を深める必要がある。』と言っているので 期待してその後を読んでみると、例によって古墳期の遺跡・ 遺物に薀蓄を傾けていく。しかし、その薀蓄だけでは神話の 解読の出来ようはずがない。自ら提起した疑問には何一つ 解決を与えず終わっている。

 上で指摘されているような決定的な疑問点が出てきたら、 大前提の「神代三代の舞台は日向」を疑うのが最も真っ当な 考え方だと思うが、森教授の思考はそのようには動かない。 大先生に対してはなはだ礼を失した言い方になるが、その頑 迷さは蒙昧の域に達している。イデオロギー(虚偽意識)に 囚われた時におちいる陥穽の恐ろしさを改めて思う。もって 他山の石としよう。

 次回は上の引用文から引き出せる問題をいくつか取り上げ ることにする。
第801回 2007/06/06(水)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:日向(ひゅうが)は辺境の地だった。


 「ニニギが降臨した場所は日向」、この誤まった「定説」を 大前提に森教授の「天孫降臨」神話の解説は始まった。 そのためにさまざまな不都合・矛盾が続出する。その 不都合・矛盾はすべて「定説」論者の間で長く論じられてき たものが、誰も明解な解答を出すことはできなかった。 理論スタートの大前提が誤まっているのだから、正しい解答 のあろうずがない。

 しかし、その大前提(定説)を疑うところから始めて、 古田さんはそれらの問題のほとんどを解明している。 森教授の議論はそれを無視して旧来の問題を蒸し返している だけだ。森教授がそれらの問題をどのように処理しているの か、その処方の一端を見てみよう。

 前回に引用した文章に続けて森教授は次のように書いて いる。

 奈良時代には、噌唹君多理支佐(たりしさ)という隼人(はやと) の豪族がいた。噌唹君は曽乃君とも曽君とも書 かれている。天平12年(740)に板櫃川(いたぴつ、今 日の北九州市)を戦場とした藤原広嗣と律令政府軍との戦い にさいして政府軍に寝返り、政府軍を勝利に導いた重要人物 として登場する。今日も鹿児島県に曽於郡があるけれども、 古代の郡域は姶良(あいら)郡の東半と現在の曽於郡の 北半などだといわれ、多少範囲は異なっている。その範囲は 大隅半島の北半部、志布志湾から鹿児島湾におよぶ地域の 豪族と推定される。

 奈良時代に戦争を左右するほどの豪族を生み出していたわ けだが、それ以前から勢力のあった土地で、ヤマトタケル (日本式尊)が討ったとする物語のある〝熊襲″についても、 熊本県人吉盆地の免田(めんだ)町を中心としたクマ (球磨)と、大隅半島のソを合わせた地域名とみる説があり、 私も支持している。『紀』では景行天皇が九州の諸地域を 服属させる戦いの旅を続けたとき、強大な相手として襲の 国があらわれている。だから、天孫降臨にさいしてソの 地名が最初に登場するのは、辺境という先入観を別にすれば、 とくに不思議ではない。

 これは日向国が神話の舞台としてはあまりにも辺境に過ぎる という定説論者たちが抱いている疑念に対する解答である。

景行の九州遠征説話がヤマト王権本来の説話ではなく、 「日本旧紀」から剽窃し日本書紀に挿入されたものであるという 点はここではおこう。要するに論旨は、日向国が「辺境」という評価は先入観であり、熊襲という 一大勢力の地だから天孫降臨の地として少しも遜色はない、 ということである。

 森教授は考古学者なのに、どうして下図のような考古学上の 事実に目をつぶってしまうのだろうか。ヤマト一元主義を守るために、 自分の専門分野の成果が目に入らなくなってしまったのか。 あるいは故意に無視しているのか。

九州の銅器分布
 この図を見れば、どう言い繕っても神話が指し示している 時代の日向国は辺境である。どう考えたって、日向国が「アマクニ」が「オオクニ」から強奪した 国でもなく、ニニギが派遣された国でもないことは 明らかじゃないか。森教授が捨てなければならない先入観は 「天孫降臨の地は日向国」である。

 上の引用文から、森教授が採用している理論構成上の手法を 指摘することができる。それは神話の時代のはるか後の奈良 時代の文献や銘文をを中心にして論を進める。その物的証拠 として考古学上の遺跡遺物を用いるが、主として古墳時代の もである。博学ぶりをおおいに発揮して、文献・銘文・遺跡 ・遺物は絢爛たるものだが、それゆえに議論はあちらこち らに飛躍する。アカデミシャン特有の衒学的目くらまし論 法である。肝心のテーマ(「記紀」神話を読み解く)につ いては結局なにほどのことも付け加えられない。先ほども 言ったように、問題を蒸し返しているだけである。 続きを読んでみよう。

 ニニギノ尊は襲の高千穂峯から膂宍(そじし)の空国 (むなくに)を通って吾田の長屋の笠狭碕に至った。ここで も二つの重要な問題がある。

 まず、膂宍の空国については「荒れてやせた不毛の地」と 注釈をつけている書物が多い。しかし、民俗学者の谷川健一 氏が宮崎県の椎葉村で猪狩りをする山人から採集した話では、 「ソジシというのは、鹿や猪の背中の肉をさすが、そこは霜 降り肉のようにきめがこまかく、脂肪も多くないので、もっ とも美味である」と述べ、うまい肉がそのまま不毛というイメ ージに結びつくかどうかについて疑問を投げかけている (「椎葉村で採集したソジシという言葉について」『古代学 研究』78号、1975年)。
 「膂宍の空国」を「荒れてやせた不毛の地」と解釈したのは 本居宣長であり、その後この解釈に定説論者は苦しんでいる。 ニニギが行く土地が「荒れてやせた不毛の地」では格好がつか ないのだ。でも説明の仕様がなく切羽詰ったからといって、 「ソジシ」が美味な肉の意だから必ずしも「不毛というイ メージ」には結びつかないとは、まさに苦し紛れの噴飯もの ではないか。

 このあと森教授は、もう一つの問題として「吾田という土 地について」論じている。そこで言いたがっていることは二つ ある。

 一つは、近畿地方の古墳期副葬品(腕輪)と鹿児島県で出土した 弥生時代の遺物が類似していることから、「吾田地方と近畿の 大王との間に何らかのつながりがあったことは事実とみてよか ろう。」と言う。二つの地域の出土品の類似性など 何通りでも指摘できるのではないだろうか。

 さらに阿多隼人、大隅隼人、薩摩隼人の勢力や行動 範囲を論じている。そして、弥生時代から古墳時代にかけ て淀川の河口に「大隅島」というのがあったことを指摘して、 その「大隅島」を「近畿地方各地に分住している隼人集団の要 的な根拠地」とみなしている。「吾田」とヤマト王権をなん としても結び付けずにおくものか、という執念を燃やしている 。そしてついに最も言いたいことにたどり着く。


 二つ目は、山幸彦を海神の宮に送り届けるさいに用いた 無目龍である。

 『延喜式』の隼人司の条によれば、隼人は さまざまな竹製品を製作していることが知られる。隼人と 竹の関係は道具の製作にとどまらず、信仰や文学にも及ん でいる。日本でもっとも古い小説といわれる『竹取物語』は、 今日、竹薮の続く南山城が舞台だとする見方が有力である。 南山城はすでにいろいろな機会に述べたように、南九州から の隼人の移住地の一つであり、ここには大隅隼人が多いが、 阿多隼人の存在も正倉院文書(隼人計帳)にうかがうことが できる。まだ深く追究はしていないけれども、月にたいする 信仰とともに、『竹取物語』の原型も南九州から南山城へと もたらされたのではないかという予測を、私はたてている。

 いずれにしても、「隼人ならば目のつまった竹龍が作れる」 という認識が九州に限らず近畿の人びとにもあったのであろう。

 つまり「海幸彦・山幸彦」の説話の舞台もどうしても 南九州に持ってこなければならないのだ。

 さらにもう一つ、最後の一文では「海幸彦・山幸彦」 の説話は近畿で「造作」されたということを暗に主張して いる。

 ずいぶんと手の込んだ理論を展開しているが、ご苦労なこ とです。少なくとも私にとっては全く説得力がない。 あくまでも「記紀」原文の表記のルールに従って、「記紀」 そのものを解読する古田さんの理論と読み比べるとき、その 正否はおのずと明らかだ。 念のため、既述の関連記事を提示しておこう。

天孫降臨の地

アマテラスの生誕地
「韓(から)国」問題
「韓(から)国」問題(続き)
「大国」と「空国」
第800回 2007/06/02(土)





「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:九州王朝の形成史概観


 筑紫(九州王朝)の王・前つ君の九州平定説話 (日本書紀の景行紀)

「熊襲」とはどこか(6)
「熊襲」とはどこか(7)

に現れる国名を時系列として図式化すると下のようにまとめる ことができる。

九州


 図(1)は九州東南部の討伐に出立したときの前つ君の 支配領域である。これと敵対する熊襲国がもう一つの勢力を なしていた。図(2)である。

 説話は討伐の過程で前つ君が命名したという形で地名説話 を配置している。古田さんはそれを二種類に分けてまとめて いる

①碩田(おおきた)国(大分)・阿蘇国・御木国(三池郡)・八女国(八女市)

②日向(ひむか)国・火国(肥)

 ①は、例えば「筑紫後国の御木」と表記されるように小区域 の地名であるのに対して、②はまさに国名説話にほかならない。

 図(2)に「火の国」が加わわって図(3)となる。これが 古事記が提示している地図「筑紫国・豊国・肥国・熊曾国」 とピッタリ一致する。つまり、古事記が提示する政治地図は 「国生み」神話の時代とははるかに遠い新しい時代のもの である。

 ところで、「火の国」の国名説話は九州平定説話の後半に 現れる。「熊襲とはどこか(7)」で読解されているように、 後半の九州西岸を巡る説話は「討伐」ではなく「巡狩」 (動詞として「巡狩す」とあり「めぐりみそなわす」と訓読 されている。要するに王の視察のこと)なのだから、 「火の国」は討伐出立の時にはすでに「前つ君」の勢力下に あったと考えられる。従って、古田さんは『新しく成立した 「火国」がさらに付加された形』といっているが、「改めて 命名された」という意と考え、図(1)(2)にも「火の国」 を書き加えてもよいと、私は思う。

 熊襲を平定して討伐軍が日向に戻ったところで、 「日向国」の命名説話が語られる。こちらは新しい征服地 に対する命名だ。図(3)にこの「日向国」が加わって図(4) となる。

 この地図の「熊襲」が「薩摩国」と「多禰国」という二国 扱いされたものが、 『「熊曾国」=「日向国」ではない。』 で検討したあの「続日本紀」の706年の記事の 「大宰府の管内の九国」=「筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・ 肥後・日向・薩摩・多禰」にほかならない。

 古田さんは言及していないが、ここで私は一つの仮説を 付け加えたくなった。

 図(4)のような政治地図が完成された時代に、 九州王朝の傍流であるイワレヒコ兄弟の祖たちが「日向国」の総督 のような役割で日向に派遣されて、その地方の実質的な支配 者となった。天孫降臨よりはるか後のことである。
第799回 2007/06/01(金)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「襲」=「噌於」も無根拠の定説


 森教授の記述の中で大隈国の分置の年がはっきりと書かれて いるのに対して薩摩の分国の年が曖昧にされているのに疑問を 感じて「続日本紀」を調べてみた結果、学者さんというのはけっこう 杜撰な言説を垂れ流すものだなあ、と改めて知った。史料の杜撰な 扱い以前に、弥生時代の神話解釈の論拠を「続日本紀」に 求めようとすること自体がピントはずれなのだけどね。

 「襲(そ)」という土地の比定の論拠にも同じような 杜撰さがみられる。これについての森教授の主張を改めて引用する。

 『紀』では、ニニギノ尊が地上に着いたのは日向のなかでも 襲という土地とされている。襲は曽とも書き、奈良時代になっ て地名を二字で表現すること(たとえば泉が和泉、津が摂津) が流行するにつれて、先ほどの郡名にみたような二字表記 (噌於・噌唹)になったと推定される。

 天孫降臨の地を日向とするためには「襲」=「噌於」である ことが要請される。これはその論拠を示す文だが、ここで私は 「地名を二字で表現することが流行する」に引っかかった。 律令を徹底させようとしている時代に勝手に地名表記を変える なんてことが「流行する」なんてありえるのだろうか。それに 森教授があげている例では、「泉」→「和泉」はいいとしても、 「津」→「摂津」は漢字表記を変えたのではなく地名そのもの を変えている。

 この問題についての解答が、やはり「続日本紀」にあった。

713(和銅6)年5月2日
 畿内と七道諸国の郡・郷の名称は、好い字をえらんでつけよ。


 流行ではなく、朝廷からの命令があったのだ。たぶん、律令制の 徹底普及のために全国の地名を漢字表記で決定しておく必要が あったからだろう。「好い字をつけよ」とは「名称を言い変えよ」 ではなく「従来の名称に漢字を割り当てよ」という意だろう。 全国で名称そのものを変えてしまったら、それはそれぞれの地域 の歴史を塗りかえることでもあり、その混乱ははかりしれまい。

 「津」→「摂津」は国名の変化だ。国名は安易に変えるこ とはできまい。上の命令も「郡・郷の名称」と言っている。
 この国名の変化はズーットさかのぼって、天武天皇 (672年~686年)のときである。津国に難波津を管理する 摂津職が置かれたために摂津国という国名がつけられたと いう。(創拓社「日本地名ルーツ辞典」による)
 まるで時代が違う。

 「泉」→「和泉」は好い字「和」を付け加えただけで 「いずみ」という地名は変わらない。これは上の命令に 合いそうだが、しかしこれも国名だ。
 河内国から3郡を分けて泉国を分置したのは757(天平宝字元) 年である。「泉」→「和泉」の変化はそれ以後のことだから、 「津」→「摂津」より約100年も後のことになる。

 「地名を二字で表現することが流行する」という根拠は まったくのデタラメだった。それに、もしあの命令によって 変えられた地名があったとしても「二字」の地名とは限らない。 命令に「二字」なんて指定はない。

 では「襲」→「噌於」はどうか。

 「日本地名ルーツ辞典」は『元来「襲」という一字の地名 だったが、地名を佳字二字で表すようにという政府の命令で 「噌唹」にしたに過ぎない』と解説している。

 ヤマト王権一元主義の宿痾は深い。こんなところにも病が 広がっている。例の命令で説明しようとしているが「佳字二字 で表す」などと、本来命令にない「二字」を付け加えるという詐術を 行っている。「噌」は「やかましい」という意で「唹」は「笑い声」という意。 つまり「噌唹」は「やかましい笑い声」という意になる。これがなぜ 「佳字」なのか、私にはさっぱり分からない。

 また、「噌於」が文献に始めて現れたのは大隈国分置の記事でそれは 713年3月19日であり、例の命令は713年5月2日であることには 目をつぶっている。「襲」→「噌於」という漢字表記の変化が もしあったとしても、例の命令以前のことなのだ。それに これは漢字の付け替えではなく、名称の変化である。

 以上、ヤマト王権一元論者は「襲」→「噌於」という変化 があったという定説について何の根拠も示し得ていない。 それは単なる希望的推定に過ぎない。

 では「襲」とは一体どこなのだろうか。この問題は、 古事記の「筑紫国・豊国・肥国・熊曾国」という地図が 何処から出てきたのか、また日向国は上の地図の何処に 位置づけられるのか、という問題と密接に関係する。 そしてこの問題は「真説古代史:熊襲はどこか(1)~(7)」で 既に九分どおり解明されている。その古田理論を古事記 が提示している地図に焦点を当てて総括することによって その解明は完成するだろう。特に

「熊襲」とはどこか(6)
「熊襲」とはどこか(7)

 で論証したことがその論拠となる。


今日の話題

(お休みです。)