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第798回 2007/05/31(木)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「熊曾国」=「日向国」ではない。


 「日向」についていくつか問題がある。

 古事記の「国生み」神話は筑紫島は四つの国からなるとし、 次の四つの国名をあげている。(…の後は「亦の名」)

筑紫島(全九州)
 ①筑紫国………白日別
 ②豊国…………豊日別
 ③肥国…………建日向日豊久士比泥別
 ④熊曾国………建日別

 森教授が「日向国はその西部が東シナ海に面しており、 南九州全体に及んでいた。」と言っているが、それはこの ④を「日向国」とみなしたからだろう。ではこの④を 「日向」と呼ぶようになったの何時ごろからだろうか。 またこの④をそっくり「日向国」とする根拠は何だろうか。

 もう一つ「日向」の読みの問題がある。
 「記紀」では「ひむか」と訓読されている。それに対して 「続日本紀」では一貫して「ひゅうが」と訓読されている。 ではいつから「ひむか」が「ひゅうが」に変わったのだろう か。また、特に「ひむか」について、そのように訓読する根拠 はなんだろうか。

 森教授が「和銅6年(713)に大隅郡・噌於(そお)郡な どの四郡を日向国から割いて大隅国ができた。」と書いている のは「続日本紀」の記事による。その後で「それと前後し て、薩摩国が分置された。」と書いているがその年か明らかに されていない。「続日本紀」の713年前後を調べてみた。 薩摩国が分置された記事はない。そこで「続日本紀」から 九州の行政区分に関係する記事を抜き出してみた。 (講談社学術文庫版の現代語訳を用いている。訳者・宇治谷猛)

698(文武天皇2)年3月9日
 筑前国の宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三等身 以上の親族を続けて任用することを許す。

700(文武天皇4)年6月3日
 薩末(さつま)の比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はつ)・衣評(えのこおり) の督(かみ)の衣君県(えにきみあがた)・同じく助督(すけ) の衣君弖自美(てじみ)、また肝衝(きもつき)の難波、 これに従う肥人(くまひと)らが武器を持って、さきに 朝廷から派遣された覔国使(くにまぎのつかい)の 刑部真木(おきかべのまき)らをおどして、物を奪おう とした。そこで筑紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と 同じように処罰させた。

702(大宝2)年2月1日
 初めて新律を天下に頒布した。

702(大宝2)年4月15日
 筑紫七国と越後国に命じて、釆女・兵衛(とねり)を選び 任命し、貢進させた。ただし、陸奥国は除外した。

702(大宝2)年8月1日
 薩摩と多褹(たね)は王化に服さず、政令に逆っ ていたので、兵を遣わして征討し、戸口を調査して常駐の宮 人を置いた。

702(大宝2)年10月3日
 これより先、薩摩の隼人を征討する時、大宰府管内の九神社に祈祷したが、実 にその神威のお蔭で、荒ぶる賊を平定することが出来た。 そこで幣帛を奉って、祈願成就に報いることとした。
 唱更(しょうこう)の国司ら〈分注。今の薩摩国の国司〉が 言上した。「国内の要害の地に、柵を建て、守備兵を置いて守 ろうと思います」と。これを許した。

 702(大宝2)年10月3日の記事から、薩摩国を一時は唱更国 と呼んでいたように言う人がいる。訳者の宇治谷さんも「国司ら」 の後に「今の薩摩国の国司」という注をつけている。「国司ら」 と複数になっているのに、これはおかしい。「唱更」が 「辺境を守る役」という意味だから、これは薩摩を警戒・監視 する薩摩周辺の国の「国司ら」と考えるのが自然だろう。

706(慶雲3)年7月28日
 大宰府から「管内の九国と三嶋は日照りと大風で、樹木が 抜き倒され穀物を損いました」と言上した。そこで使いを遣わして巡察させ、甚しい被災者 の調と徭役を免除した。

709(和銅2)年5月5日
 筑前国宗形郡の大領で、外従五位下の宗形朝臣等抒に外 従五位上を授けた。

709(和銅2)年6月20日
 筑前国御笠郡の大領である正七位下の宗形部堅牛に、益城 連の姓を賜い、同国嶋郡の少領で従七位下の中臣部加比に、 中臣志斐連の姓を賜わった。

709(和銅2)年6月28日
天皇は勅を下し、大宰府の帥より以下、品官に至るまで事力 の人数を減らした。ただし薩摩・多禰両国の国司と国師 の僧らは半減の扱いから除く。

709(和銅2)年10月26日
薩摩国の隼人の郡司以下188人が、朝廷に参内した。

710(和銅3)年
 正月1日 天皇は大極殿に出御して、朝賀を 受けられた。薩摩の隼人と蝦夷らも参列した。

710(和銅3)年 正月29日
 日向の隼人の曽君細麻呂が、地方の粗野な習俗を改めさせようと人々を導き、徳化に馴れ従わせることに努めたので、詔を下して外従五位下を授けた。

713(和銅6)年3月19日
 日向国から肝坏・贈於・大隅・姶?(ころもへん+羅、あいら) の四郡を割いて、初めて大隅国を設けた。

 706(慶雲3)年7月28日の記事の「九国」について宇治谷さんは
(筑紫・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隈・薩摩)
と補足している。ここでは九州(九つの国)の国名がそろって いる。これについて疑問が二つある。

 一つは、宇治谷氏が「筑紫」としているところ。
 これはやはり「筑前」とすべきだ。698(文武天皇2)年3月9日、 709(和銅2)年5月5日、709(和銅2)年6月20日など、 全て「筑前」が使われている。702(大宝2)年4月15日の記事に あるように「筑紫」は九州全体の意味で使われている。 ヤマト王権では「古事記」の「国生み」神話での誤解をそのまま 踏襲して使ってきていて、それが定着してしまったという わけだ。

 二つ目。九国とは確かにその九国でいいのか。
 706(慶雲3)年7月28日の記事は大隈国が分置されるより 7年も前の記事だ。また、それより4年前の702(大宝2)年4月 15日の記事では「筑紫七国」となっている。これらをどう考え たらよいのか。戦後歴史学会が「記紀」に対したように、 「記録者のミスだ。頭が混乱していたのさ。」と済ますして よいだろうか。そうはいかないだろう。リアルタイムに記録 されていった朝廷公認の史書だ。大方の学者も「続日本紀」 は信頼できると言っている。

 分かりやすく簡略化した年表を作ってみる。

700年6月3日 薩末(さつま)の騒擾。
702年2月1日 大宝律令頒布。
702年4月15日 筑紫七国。
702年8月1日 薩摩と種子島、服さず。
702年10月3日 薩摩の隼人を征討。
706年7月28日 大宰府の管内の九国。
709年6月28日 薩摩・多禰両国の国司と国師…
709年10月26日 薩摩国の隼人、朝廷に参内。
710年正月1日 朝賀に薩摩の隼人と蝦夷らも参列。
710年正月29日 日向の隼人の曽君細麻呂が…
713年3月19日 大隈国が分置。

 大宝律令が発布される前後の時代、薩摩や種子島では まだ大和朝廷の支配力は完全なものではないということが うかがえる。薩摩は702年の征討でやっと服従したようだ。 709年には朝廷に参内した。そして、710年の朝賀のトップ 記事は薩摩と蝦夷の参列だ。長年の難事が 片付いて朝廷あげて祝ったに違いない。

 それよりも薩摩と種子島を薩摩国・多禰国とはっきりと 国扱いしている点に注意したい。薩摩が分置される記事が ないのは、八世紀はじめ、薩摩は既に国だったからにほかな らない。

 しかし702年の段階では薩摩はまだヤマト王権に完全には 服していない。律令の行政区分は「筑紫七国」だった。 つまりこの七国とは
「筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向」
と考えざるを得ない。しかし、日向の領域に薩摩は入ってい ない。

 従って706年の「大宰府の管内の九国」は
「筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・多禰」
ということになる。

 その後824(天長元)年に、多禰国は大隈国に併合された。 以来、現在まで伝えられている九州(九つの国)
「筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隈・薩摩」
となった。
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