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第796回 2007/05/24(木)

「真説・古代史」補充編

戦後古代史学の欺瞞ぶり


「日本神話の考古学」の第Ⅰ部「国生みとイザナミの死」を 読んだ段階で、森教授を「ヤマト王権一元主義者」と断じ たが、実は「ヤマト王権一元主義」者には大きく2種類ある。

 一つはいわゆる「皇国史観」者である。太古の昔から ヤマト王権が日本列島の支配者であるという妄想に取り付かれて いる。神話も含めて全てを記述どおりに受け取るのが、この 部類の論者の「記紀」に対する基本姿勢だ。ただし、「記」 と「紀」とで食い違う部分についてはヤマト王権を美化礼賛 できる方を選ぶ。科学的な手続きなど微塵もない。まさに イデオロギー(虚偽意識)と呼ぶのがふさわしい。大日本帝 国の滅亡後は影をひそめていたが、長期反動政権のもとで 徐々に復活をとげ、いまそのゾンビが大量によみがえってき た。インチキ歴史教科書まで作るまでになった。

 もう一つは戦後歴史学会の「定説」に立脚する論者である。 「記紀」にはその編者たちの「造作」が加えられており、信用 できないとする。特にその神代と初期10代の天皇は全くの虚構 だと言う。これらの人を「定説論者」と呼ぼう。

 定説論者のアキレス腱は、どの天皇から実在と認めるに しても、「それ以前はどうだったの?」という問にまともに 答えられない点にある。さすがに、その天皇のときに突然 ヤマト王権が誕生した、なんてバカなことを答える人はも ちろんいない。

 定説論者は、一応科学的であることを自認しているから、 考古学の成果を援用して理論を構成することになる。 古墳時代以前(縄文時代・弥生時代)の遺跡・遺物で ヤマト王権のものと断定できるものはない。 しかし、近畿地方の巨大古墳群がヤマト王権の構築したも であることは疑い得ない事実だ。ここから、定説論者は 遅くとも古墳時代にはヤマト王権が日本列島における支配 を確立していたという「定説」を大前提とした。したがって、 「記紀神話」を解読しようとする時にも定説論者は古墳時代の 事蹟にたよろうとする。

 しかし、「古墳時代にはヤマト王権が日本列島における支配権 を確立していた」という大前提(定説)そのものが、考古学 的事実の都合のよい取捨選択、一種の詐術によって成り 立っている。このことを、古田さんの論考をたよりに、詳し く検討してみたい。

 その「定説」の論拠は一言で言えば「近畿地方の古墳群ほ どのものは他に存在しないから」ということである。この論拠 を古田さんは四つの面から検討している。

(1)古墳の大きさの問題

 小さい古墳の所有者より大きい古墳の所有者の方が勝る。 後者が前者を支配しているという判断らしい。常識的に 考えてもなんら科学的な根拠のない馬鹿らしい推論だ。 古墳の大きさという事実から言えることは、ヤマト王権が たかだか近畿地方の一大勢力であったということだけだ。

 事実、吉備の巨大古墳は近畿における天皇陵古墳の大多 数よりもさらに巨大である。造山(つくりやま)の前方後円 墳は全長約300mで、大きさでは全国4位である。定説論者は この事実には知らん振りをしている。

 前方後円墳から円墳に目を移してみる。関東埼玉 (さきたま)古墳群中の丸墓山古墳は直径約100mの大円墳で ある。定説論者の論法を使うと、この地の王者は少なくとも 日本列島内の同時代円墳群の全ての被葬者に対して支配権を 確立していた、となる。こんな主張には誰も歯牙にもかけな いだろう。

(2)古墳の形(墳形)の問題

 前方後円墳はヤマト王権に由来し、他の地方(九州から関東ま で)にそれが現われるのはヤマト王権の支配がその地方にまで 及んだ証拠である。これが定説論者の論理だ。

 しかし、文化や技術の伝播と政治的な支配・従属関係とは 必ずしも照応しない、というのがまともな判断だろう。 例えば上の定説論者の論理を円墳に適用するとどうなるか。

 円墳は中国や朝鮮半島に源流することは明らかだ。 それが古墳時代に日本列島にも現われたということは、 その時代の日本列島には中国や朝鮮半島からの支配が及ん でいた。

 以上要するに「はじめに結論ありき」で、前方後円墳だけを取り上げてヤ マト王権による支配権確立の証拠としている。

(3)副葬品の問題

 古墳からはいわゆる三種の神器セット(鏡・剣・勾玉)が副葬品として 出土している。もちろん近畿の古墳群から出土している。 天皇陵とされている未発掘の古墳にもおそらく立派なものが 副葬されていることだろう。

 しかしこの副葬品は近畿地方の専売特許ではない。九州 でも近畿古墳期のものと同様のものが出土して いる。しかも弥生期の王墓から出土している。古田さんが 「弥生の黄金地帯」と呼んでいる北九州(博多湾とその周辺) つまり筑紫の王墓郡である。

 筑紫においては弥生期→古墳期へと三種の神器の 伝承が当然行われたであろう。そして、近畿には弥生 期の遺跡からのものはな いのだから、「弥生筑紫→古墳近畿」あるい「古墳筑紫→古墳 近畿」という伝播があったと考えるのが理の当然だろう。 つまり、古田さんが「記紀」の解読で明らかにした「筑紫が 本流でありヤマト王権は分流あるいは傍流」という結論を 考古学も支持していることになる。

 定説論者はこれに対し、近畿→九州という伝播であり、 古墳時代においてはすでに近畿が九州を支配していた、と 主張する。北九州における弥生期の考古学的遺物を無視して、 アクロバット思考をしている。「はじめに結論ありき」が知 性を曇らせている。

(4)関連出土品(埴輪・石人・石馬等)の問題

 埴輪は「出雲→筑紫」という伝播と「吉備→近畿」という 伝播があることが、最近の有力な説になっているようだ。

 出雲と吉備の関係については古田さんは『どちらが古いと も、にわかに決しかねるようであるけれども、これはむしろ 同一圏ともいってよいのかもしれぬ。』と言い、次のように続けている。

 すなわち、埴輪は中国地方が淵源であり、東西に伝播した もののようである。

 そのさい、注意しておきたいことがある。「出雲→筑紫」 の伝播は、両地の古くからの密接な関係からも、容易に理解 できよう。では、「吉備→大和(近畿)」は。

 この間題につ いて、考古学上の事実としては、吉備淵源説をとる学者 (たとえば近藤義郎氏など)も、なぜ、その方向の伝播が 生じたのか? この問いには答ええなかった。答えうる道 があらかじめ閉されていたのである。なぜか。

 これもまた「はじめに結論ありき」という足かせのせいである。 今度の結論(定説)は神武説話の否定である。ヤマト王権は 初めからヤマトにあり、しかも権力の中心であるとする立場から は、「吉備→大和」という考古学上の伝播事実を謎とする ほかない。

 「神武記」が伝えるところによると、イワレヒコたち は宇佐や安芸などに立ち寄りながら、その後吉備に8年と どまっている。そこがヤマト侵略前の最後逗留地だった。

 これを神話的な粉飾を取り去って考えると、イワレヒコ たちは宇佐や安芸の権力者たちの信任を得ながら 東進し、最終的に吉備の権力者のゴーサインを得て大阪湾へ と侵入していった。古田さんは吉備での8年を「単なる給 油期間のごとく考えてはなるまい。」と言う。「吉備水軍 がイワレヒコたちの軍船の実力主体を占めていたはず である。」そしてその最後の進発基地が吉備だったので ある。古田さんは次のようにまとめている。

 もし、この「神武東侵」が史実だったとすれば - 当然、 大和や近畿一帯に吉備の影響が色濃く現われるべきだ。

 これに反して、もし、その痕跡がなければ、「神武東侵」 はやはり架空の造り話だったことになろう。

 では、考古学上の事実は。
 先にのべたように、吉備→大和→近畿一円の伝播の跡を、 色濃く広汎に宿しているのである。

 近畿天皇家のスポンサーとしての吉備 - この命題に 立つとき、造山古墳や、作山古墳といった吉備の巨大古墳 が、近畿における天皇陵古墳の大多数よりもさらに巨大で あること、この事実も、何の不思議もなく理解しうるであ ろう。近畿の天皇家にとって、吉備の権力者は、足を向け ては寝られない存在だったのであるから。

 記紀説話を架空とした上での、近畿天皇家中心主義-こ のイデオロギーのくつわをはめられた戦後考古学者たち、 そして戦後古代史学者たち。彼等は、吉備には近畿にも勝 る巨大古墳あり、の事実は百も知りながら、これに対して 適切な解明を与ええぬままに、この三十数年をすごしてき ていたのではないだろうか。

 筑紫には弥生時代から三種の神器があった、という事実にも 見ぬ振りをしている。定説論者の理論的根拠も虚偽に満ち ている。まさにその理論はイデオロギー(虚偽意識)というべ きである。皇国史観と定説史観は「ヤマト王権一元主義」と いう同じメタルの裏と表をなしている。
 イデオロギーは容易に宗教に転成する。宗教の信者には 他に耳を貸すことは背信であり、タブーである。 「三セズ」(採択せず・論争せず・相手にせず)を決め込 むほかない。


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