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第789回 2007/05/13(日)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:考古学者の「神話オンチ」ぶり


 「大八洲」問題だけで「日本神話の考古学」は終わりにしよ うと思っていたが、読むほどにますます呆れるばかりなので、 続けることにした。今回からその呆れるばかりの理論に敬意を 表して「森教授」と呼ぶことにする。

 考古学会での権威者の一人である森教授の古代史に関する 著書は、たぶんヤマト王権一元主義に立脚した立論の頂点に位 置する、のかどうか知らないが、少なくともヤマト王権一元 主義者が無視し得ない存在であるだろう。新たに出版される 古代史関係の本のほとんどが今なおヤマト王権一元主義の 「定説」の見当はずれの補強あるいはその焼き直しに過ぎない。そこで 森教授の著書をその代表に見立てて、「定説」にもたれかかっ ている理論の知的怠慢ぶりあるいは学的詐術ぶりを明らかに していこう。

 吉備国の一部に過ぎない吉備児島が大八洲の一つとして扱わ れているという疑問点を解決する森教授の手法をを見てみよう。

 まず1986年から発掘された大量の奈良時代の木簡を取り上げる。 「調」納入を記録した木簡から、吉備国が行政区画として備 前・備中・備後と細分されていたこと、その頃小豆島は吉備 児島に編入されていたこと、さらに『紀』の記事も資料に加えて、 児島郡が屯倉としても海上交通の拠点としても重要だったこ となどを論じている。考古学者としての知見であり、ここに は問題はない。問題は次のような論のすすめ方にある。

『平城京木簡によって、八世紀ごろには小豆島も吉備児島に 編入されていたことは明らかになったが、それを奈良時代よ りさかのぼらせて、古墳時代にもそうであったかどうかをも う少し検討しょう。』

 古墳時代にも児島が重要な拠点であったのなら、「大八洲」 に児島か入っているのも納得ができると言いたげだ。つまり ここには、暗黙のうちに神話の時代上限は古墳時代である ことが主張されている。まったくの「神話オンチ」と言わざるを えない。

 そして、前方後円墳や後期古墳の有無と税体系(住民の掌 握の仕方・程度)の関連を論じて次のように結論する。

『瀬戸内海の島々のなかには、政府によって住民の末端まで が把握された場合のある傾向がうかがえる。また、周防大島に も前方後円墳が見られず、いくつかの後期古墳があるだけと いう点も吉備児島に共通している。どうやら国生み神話にあら われた洲(島)のうち、瀬戸内海の三つの巨島は海上交通の 拠点というだけでなく、住民、とくに成人男子を末端まで掌 握していたことで、有事にさいして水手(かこ)などに動員 できたのであろう。仁徳記には、児島の人たちが難波 の海で水取司(もいとりのつかさ)の船を漕いでいた情景が 語られている。古代国家にとって重要な土地の意味の一端を 垣間見ることができたと思う。』

 よって「大八洲」に周防大島や吉備児島が入っているのも 不思議ではない、というわけだ。

 ヤマト王権一元主義に立つ限り、ヤマト王権の支配権確立 が考古学的にはっきりと示される古墳時代をさらにさかのぼる ことなど考えられないのだろう。そしてさらに、古墳時代の ヤマト王権の支配権はたかだか近畿地方だけに過ぎず、倭国は なお九州王朝の覇権下にあったことなど、とてもとても認めら れない「たわごと」なのだろう。
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