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第788回 2007/05/11(金)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「両児島」はどこか。


 『記』が律令体制での国を重視しているという主旨の 文に続けて森さんは言う。


『記』では越洲が見られないことと、知訶島(ちかのしま)や 両児島(ふたごのしま)が大八島国に続けて生まれた土地とし てあらわれている。この知訶島は五島列島の小値賀島(おじか しま)かその近辺の島で、律令時代には遠き値嘉(ちか)が統 治の及ぶ西端の土地として意識されていた(『延喜式』陰陽 寮)。その意味では、国際的な統治感覚で重要となる土地で ある。両児島についても五島列島内に求める私見を述べたこ とがある。

 『記』では「大八島」の後に六つの島生まれているが、森さ んはその内最後の二つを取り上げている。前々回に提示した 『紀』の森製「大八洲」地図にもその二島が書き込まれている。 引用文にあるように律令時代のヤマト王権の統治地域の西端を 示すのが目的のようだ。

 両児島を五島列島内に比定した理由が述べられていないが、 五島列島内に「男女群島」というのがあるのでそれを当てている と思われる。岩波文庫版『古事記』の注も岩波日本古典文学大系版 『古事記』の注もともに知訶島・両児島を五島列島に比定して いる。いわゆる定説なのだろう。

 両児島を五島列島内の島とする定説には不審点があると、古田 さんは「両児島」探求を始める。その経緯は次のようだった。

 「神代記」の「国生み」の説話では各島に「亦の名」と いう言い方で、もう一つの呼び名が記載されている。

『かく言ひ竟へて御合して、生める子は、淡道の穂の狭別島。 次に伊予の二名島を生みき。この島は、身一つにして面四つ あり。面毎に名あり。故、伊予国は愛比売(えひめ)と謂ひ、 讃岐国は飯依比古(いひよりひこ)と謂ひ、粟国は大宜都比 売(おほげつひめ)と謂ひ、土左国は建依別(たけよりわけ) と謂ふ。次に隠岐の三子島を生みき。亦の名は天之忍許呂 別(あめのおしころわけ)。次に筑紫島を生みき。この島も また、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫国は 白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊国は豊日別(とよひわけ) と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよく じひねわけ)と謂ひ、熊曾国は建日別(たけひわけ)と謂ふ。 次に伊伎島を生みき。亦の名は天比登都柱(あめひとつばし ら)と謂ふ。次に津島を生みき。亦の名は天之狭手依比売 (あめのさでよりひめ)と謂ふ。次に佐渡島を生みき。次に に大倭豊秋津島を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別 (あまつみそらとよあきづねわけ)と謂ふ。故、この八島を 先に生めるによりて、大八島国と謂ふ。然ありて後、還りま す時、吉備児島を生みき。亦の名は建日方別(たけひかた わけ)と謂ふ。次に小豆(あづき)島を生みき。亦の名は大野手比売 と謂ふ。攻に大島を生みき。亦の名は大多麻流別(おほたま るわけ)と謂ふ。次に女(ひめ)島を生みき。亦の名は天一根(あめ のひとつね)と謂ふ。次に知訶島を生みき。亦の名は天之 忍男(あめのおしを)と謂ふ。次に両児島を生みき。亦の 名は天両屋(あめふたや)と謂ふ。』

 整理すると

①淡道之穂之狭別島
②伊予之二名島…愛比売・飯依比古・大宜都比売・建依別
③億伎之三子島…天之忍許呂別
④筑紫島…………白日別・豊日別・建日向日豊久士比泥別・建日別
⑤伊伎島…………天比登都柱
⑥津島……………天之狭手依比売
⑦佐渡島
⑧大倭豊秋津島…天御虚空豊秋津根別

吉備児島…………建日方別
小豆島……………大野手比売
大島………………大多麻流別
女島………………天一根
知訶島……………天之忍男
両児島……………天両屋

この「亦の名」は学者たちを悩ませてきたが、適切な解答を 提出した人はかってはいなかった。古田さんが最初の解答者 だった。その古田さんの解読のあらましを 真説・古代史(39)アマクニ」はどこか(1)、 で紹介した。次の地図はそのときに用いた「亦の名」地図であ る。



 その「亦の名」の考察の過程から「両児島」が浮上してきた。 真説・古代史(40)アマクニ」はどこか(2) で紹介したが、そのときは「詳しい論証は省き、結論部分 を転載」した。その省いていた「論証」を改めて読んでみるこ とにする。古田さんの『記紀』の解読の方法は定説に寄りかかったも のでもないし、あらかじめ持っている自説に都合のよい部分だ けを取り上げたりするものでもないし、単なる思いつきでもな い。「原文全体の表記のルールにのっとって問題の一つ一つの 部分を解読する。」という方法論を貫いている。このことはも う充分に確認してきたことだが、そのことをここでも また確認することになるだろう。

 「両児島」(「亦の名」は「天両屋」)=「「男女群島」と いう定説は古く貝原益軒にまでさかのぼるようだ。岩波日本古 典文学大系『古事記』の注には次のようにある。

「貝原益軒の扶桑記勝に『五島の南に女島男島とてちひさき 島二あり。是唐船紅毛船のとほる海路なり。五島よりも四十 八里、薩摩よりも四十八里ありて五島につけり。』とある女 島・男島、即ち男女群島のことであろうと思われる。」

 これに対して古田さんは三つの不審点をあげて、次のように 論じている。


第一
 この五島列島も「知訶島、亦の名、天之忍男」としてあがって いる。これに接近しすぎている。

第二
 「両児島」といい、亦の名を「天両屋」という以上、この 島は〝二つの島が対になって″いなければならぬ。それが明 白な特徴のはずだ。しかるに、これは「男女諸島」と今呼ば れているように、男島、女島だけではない。その両島の間に クロキ島、寄島、ハナクリ島と、少なくとも三つの島が介在 している。つまり〝五島が並んだ”形だ。この点、 「両児島」という名称にふさわしくない。これはやはり、 ほぼ〝二つきり”という印象の島でなければいけないのでは なかろうか。

第三
 ここに並べられた、この島以外の島々は、いずれも皆相当に 重要な島々だ。伊伎・津島・隠伎之三子島・知訶島(五島列 島)はもとより、女島も、印象的な美しい島だ(わたしは初 春の晴れきった日、空からこの全島を一望のもとに見おろし た経験がある。あっと息をのむほど美しかった。その印象が 忘れがたい)。

 これに対し、この男女諸島。貝原益軒のいうように、中国 船やオランダ船などが長崎への往来にたちよった島かもしれ ぬ。そしてその美しさがその人々を慰めたかもしれぬ。しか し、それはずっと後、益軒の江戸時代のことだ。はるか古代、 朝鮮半島経由で中国と往来していた時代、この島の重要性が あった、とは、なにかうなずきかねるのだ。

 しかも、大切なことがある。それはこの島が国生みの 〝最後″に書かれている点だ。イザナギ・イザナミはオノ ゴロ島に降り立ち、東端の淡路島からはじめて、点々と西 の方へと国生みしつつ帰ってきた。主要な国々を生み終った ところで、つぎの句がはさまれている。

「故、此の八島を先に生むに因りて、大八嶋国と謂ふ。然る 後、還り坐せし時‥‥‥」

 そしてさらに吉備児島をはじめとして次々と国生みし、そ の最後(知訶島のあと)に、この両児島(天両屋)を生むの だ。つまり、イザナギ・イザナミにとって出発点付近に 〝還ってきた″最後の島だ。その点、きわめて重大な島なの である。

 北九州市の北の海中に「男島・女島」という対になった島がある。 これは二つきりの島だから「第二」の疑問点は解消するが、 「第三」の〝特別の重要性をもつ島″という要件を満たさない。 その「第二」「第三」の条件をともに満たす島があった。 沖ノ島だ。

 沖ノ島を「両児島」=「天両屋」に比定する妥当性 についてはすでに 真説・古代史(41)「アマクニ」の聖地「天の岩屋」 で論証した。

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