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第798回 2007/05/31(木)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「熊曾国」=「日向国」ではない。


 「日向」についていくつか問題がある。

 古事記の「国生み」神話は筑紫島は四つの国からなるとし、 次の四つの国名をあげている。(…の後は「亦の名」)

筑紫島(全九州)
 ①筑紫国………白日別
 ②豊国…………豊日別
 ③肥国…………建日向日豊久士比泥別
 ④熊曾国………建日別

 森教授が「日向国はその西部が東シナ海に面しており、 南九州全体に及んでいた。」と言っているが、それはこの ④を「日向国」とみなしたからだろう。ではこの④を 「日向」と呼ぶようになったの何時ごろからだろうか。 またこの④をそっくり「日向国」とする根拠は何だろうか。

 もう一つ「日向」の読みの問題がある。
 「記紀」では「ひむか」と訓読されている。それに対して 「続日本紀」では一貫して「ひゅうが」と訓読されている。 ではいつから「ひむか」が「ひゅうが」に変わったのだろう か。また、特に「ひむか」について、そのように訓読する根拠 はなんだろうか。

 森教授が「和銅6年(713)に大隅郡・噌於(そお)郡な どの四郡を日向国から割いて大隅国ができた。」と書いている のは「続日本紀」の記事による。その後で「それと前後し て、薩摩国が分置された。」と書いているがその年か明らかに されていない。「続日本紀」の713年前後を調べてみた。 薩摩国が分置された記事はない。そこで「続日本紀」から 九州の行政区分に関係する記事を抜き出してみた。 (講談社学術文庫版の現代語訳を用いている。訳者・宇治谷猛)

698(文武天皇2)年3月9日
 筑前国の宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三等身 以上の親族を続けて任用することを許す。

700(文武天皇4)年6月3日
 薩末(さつま)の比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はつ)・衣評(えのこおり) の督(かみ)の衣君県(えにきみあがた)・同じく助督(すけ) の衣君弖自美(てじみ)、また肝衝(きもつき)の難波、 これに従う肥人(くまひと)らが武器を持って、さきに 朝廷から派遣された覔国使(くにまぎのつかい)の 刑部真木(おきかべのまき)らをおどして、物を奪おう とした。そこで筑紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と 同じように処罰させた。

702(大宝2)年2月1日
 初めて新律を天下に頒布した。

702(大宝2)年4月15日
 筑紫七国と越後国に命じて、釆女・兵衛(とねり)を選び 任命し、貢進させた。ただし、陸奥国は除外した。

702(大宝2)年8月1日
 薩摩と多褹(たね)は王化に服さず、政令に逆っ ていたので、兵を遣わして征討し、戸口を調査して常駐の宮 人を置いた。

702(大宝2)年10月3日
 これより先、薩摩の隼人を征討する時、大宰府管内の九神社に祈祷したが、実 にその神威のお蔭で、荒ぶる賊を平定することが出来た。 そこで幣帛を奉って、祈願成就に報いることとした。
 唱更(しょうこう)の国司ら〈分注。今の薩摩国の国司〉が 言上した。「国内の要害の地に、柵を建て、守備兵を置いて守 ろうと思います」と。これを許した。

 702(大宝2)年10月3日の記事から、薩摩国を一時は唱更国 と呼んでいたように言う人がいる。訳者の宇治谷さんも「国司ら」 の後に「今の薩摩国の国司」という注をつけている。「国司ら」 と複数になっているのに、これはおかしい。「唱更」が 「辺境を守る役」という意味だから、これは薩摩を警戒・監視 する薩摩周辺の国の「国司ら」と考えるのが自然だろう。

706(慶雲3)年7月28日
 大宰府から「管内の九国と三嶋は日照りと大風で、樹木が 抜き倒され穀物を損いました」と言上した。そこで使いを遣わして巡察させ、甚しい被災者 の調と徭役を免除した。

709(和銅2)年5月5日
 筑前国宗形郡の大領で、外従五位下の宗形朝臣等抒に外 従五位上を授けた。

709(和銅2)年6月20日
 筑前国御笠郡の大領である正七位下の宗形部堅牛に、益城 連の姓を賜い、同国嶋郡の少領で従七位下の中臣部加比に、 中臣志斐連の姓を賜わった。

709(和銅2)年6月28日
天皇は勅を下し、大宰府の帥より以下、品官に至るまで事力 の人数を減らした。ただし薩摩・多禰両国の国司と国師 の僧らは半減の扱いから除く。

709(和銅2)年10月26日
薩摩国の隼人の郡司以下188人が、朝廷に参内した。

710(和銅3)年
 正月1日 天皇は大極殿に出御して、朝賀を 受けられた。薩摩の隼人と蝦夷らも参列した。

710(和銅3)年 正月29日
 日向の隼人の曽君細麻呂が、地方の粗野な習俗を改めさせようと人々を導き、徳化に馴れ従わせることに努めたので、詔を下して外従五位下を授けた。

713(和銅6)年3月19日
 日向国から肝坏・贈於・大隅・姶?(ころもへん+羅、あいら) の四郡を割いて、初めて大隅国を設けた。

 706(慶雲3)年7月28日の記事の「九国」について宇治谷さんは
(筑紫・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隈・薩摩)
と補足している。ここでは九州(九つの国)の国名がそろって いる。これについて疑問が二つある。

 一つは、宇治谷氏が「筑紫」としているところ。
 これはやはり「筑前」とすべきだ。698(文武天皇2)年3月9日、 709(和銅2)年5月5日、709(和銅2)年6月20日など、 全て「筑前」が使われている。702(大宝2)年4月15日の記事に あるように「筑紫」は九州全体の意味で使われている。 ヤマト王権では「古事記」の「国生み」神話での誤解をそのまま 踏襲して使ってきていて、それが定着してしまったという わけだ。

 二つ目。九国とは確かにその九国でいいのか。
 706(慶雲3)年7月28日の記事は大隈国が分置されるより 7年も前の記事だ。また、それより4年前の702(大宝2)年4月 15日の記事では「筑紫七国」となっている。これらをどう考え たらよいのか。戦後歴史学会が「記紀」に対したように、 「記録者のミスだ。頭が混乱していたのさ。」と済ますして よいだろうか。そうはいかないだろう。リアルタイムに記録 されていった朝廷公認の史書だ。大方の学者も「続日本紀」 は信頼できると言っている。

 分かりやすく簡略化した年表を作ってみる。

700年6月3日 薩末(さつま)の騒擾。
702年2月1日 大宝律令頒布。
702年4月15日 筑紫七国。
702年8月1日 薩摩と種子島、服さず。
702年10月3日 薩摩の隼人を征討。
706年7月28日 大宰府の管内の九国。
709年6月28日 薩摩・多禰両国の国司と国師…
709年10月26日 薩摩国の隼人、朝廷に参内。
710年正月1日 朝賀に薩摩の隼人と蝦夷らも参列。
710年正月29日 日向の隼人の曽君細麻呂が…
713年3月19日 大隈国が分置。

 大宝律令が発布される前後の時代、薩摩や種子島では まだ大和朝廷の支配力は完全なものではないということが うかがえる。薩摩は702年の征討でやっと服従したようだ。 709年には朝廷に参内した。そして、710年の朝賀のトップ 記事は薩摩と蝦夷の参列だ。長年の難事が 片付いて朝廷あげて祝ったに違いない。

 それよりも薩摩と種子島を薩摩国・多禰国とはっきりと 国扱いしている点に注意したい。薩摩が分置される記事が ないのは、八世紀はじめ、薩摩は既に国だったからにほかな らない。

 しかし702年の段階では薩摩はまだヤマト王権に完全には 服していない。律令の行政区分は「筑紫七国」だった。 つまりこの七国とは
「筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向」
と考えざるを得ない。しかし、日向の領域に薩摩は入ってい ない。

 従って706年の「大宰府の管内の九国」は
「筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・多禰」
ということになる。

 その後824(天長元)年に、多禰国は大隈国に併合された。 以来、現在まで伝えられている九州(九つの国)
「筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隈・薩摩」
となった。
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第797回 2007/05/29(火)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:天孫降臨の地


 森教授は天孫降臨の地について次のように述べている。 (第8章「海幸・山幸と隼人地域」)

 高天原勢力は、軍事力を背景に大国主命にたいして国譲り を実行させたのであるから、神話の展開では次に天孫二二ギ ノ尊が出雲へ降る話になりそうなものである。つまり、高天 原勢力がニニギノ尊を〝葦原中国の主(君主)″にしようと して、いわゆる〝天孫降臨″が実現する。であるのに、どう したわけか〝降臨″した土地が出雲ではなく南九州なのであ る。

 そればかりか、国譲り神話以後、出雲にたいしては、天皇 自らが移住した伝えがないことはもとより、訪れたという話 もまったくない。出雲は、そのような土地になるのである。

 神話の流れのなかに歴史の展開を見いだそうとすることは、 現代流の考えなのかもしれない。

 ここには四つの誤まった先入観が絡み合っている。

(1)「葦原中国(あしはらのなかつくに)」は出雲(島根県)である。
(2)「高天原」は天上にある空想上の領域であり、どこか現実の地域に比定 できない。あるいは比定する必要はない。
(3)「国譲り」(実際は武力による略取)を受けたのはヤマト王権(天皇家) である。
(4)ニニギが天下る地はヤマト王権発祥の地とされる 南九州(日向)でなければならない。

 (3)(4)はヤマト王権一元主義者の「信仰」に属する。 論証なしで固執している。いや、「記・紀」の神話からは論 証のしようがないのだ。なにせ、南九州は「記紀」神話の舞 台としては全く疎遠の地なのだから。考古学上の遺跡の貧弱 さもそれを裏付けている。それなのに「天孫降臨」だけは神 話の舞台からはほど遠い南九州で演じさせようという。単な る物語としてだっておかしな展開だ、と常識が首をかしげる。 ここで(2)が絡まってくる。天上からの天下りだからどこ にでも天下れる、常識は不要だ、と。

 誤まった先入観をもとに論じておいて、「神話の流れのなかに 歴史の展開を見いだそうとすること現代流の考えなのかもしれない。」 と、戦後歴史学会のタブーを破ってせっかく神話を取り上げ たのだが、それに懐疑的になってしまう。これは『私は「1+1=3」と信じているが、この本は 「1+1=2」と言っている。この本は信じられない。』 というのに等しい。

 これに対して私(たち)は「神話の流れのなかに歴史の 展開」が明らかに読み取れるという立場をとる。もちろん、 歴史上の個々の細部の事実がわかるということではない。 あくまでも歴史の大きな展開が読み取れるということである。

 この確信は古田さんの諸著作に出会って得られたものである。 適切な史料批判と厳密な方法論にもとづく「記紀」の読解の 結果と考古学・地質学・地理学上の事実との合致により、古田 さんの論考の妥当性は否定すべきもない。

 もとより、この古田理論への信頼が「信仰」になってしま わぬように心しなければなるまい。ヤマト一元主義の轍を踏 んではならない。そのためには古田理論を反(あるいは非) 古田理論と、直接自分で対比してみる必要がある。森教授の 著書を読み始めた理由の一つはそこにある。

 (1)と(2)について、古田さんの論考を振り返ってみ よう。

 古田さんは森教授が一顧だにしない出雲の五神を取り上げている。 その五神とは「大年神の神裔」(神代記、大国主神)とされている 次の神々である。

①大国御魂(みたま)神
②韓(から)神
③曾富理(そとり)神
④白日(しらひ)神
⑤聖(ひじり)神

 この五神の神名についての古田さんの分析は

最古の政治地図「オオクニ」(1)

で詳記した。結論だけ再録すると

① 大国(出雲)
② ①から見て北の韓国、
③④⑤ 南の博多湾岸とその周辺



 これが全体として出雲神話が描く日本列島西北部の、 その時代の「政治地図」だ。原点はオオクニで、オオクニ の勢力範囲を表している。

 そして、この「政治地図」で中央の部分の海域がスッポリ と抜け落ちているが、これがアマクニ、森教授の言う「高天原」 の勢力範囲だ。詳しくは

「アマクニ」はどこか(1)
「アマクニ」はどこか(2)

で取り上げた。

 アマクニが国譲りを迫った「葦原中国」は③④⑤であり、 ニニギはアマクニからそこに天下った。とてもリアルだ。 高天原を天上に置いたり、ニニギを南九州にまで連れて行く 必要は全くない。

 (3)(4)がとんでもない見当違いであること はもう明らかだが、この誤解にはもう一つの要因が絡み合って いる。それは

ヤマト王権一元論の迷妄の深さ

で明らかにした「国生み」神話における古事記の「誤解」を そのまま受け継いだ

(5)「筑紫島=九州全体」

という誤解である。

 森教授は冒頭に引用した文に続けて、次のように述べている。

 ニニギノ尊が高天原から降った土地は、日向の襲の高千穂 峯になっている。

 日向といえばすぐに太平洋に面した宮崎県を思い浮かべる けれども、和銅6年(713)に大隅郡・噌於(そお)郡などの 四郡を日向国から割いて大隅国ができた。それと前後して、 薩摩国が分置された。だから、8世紀以前には、日向国はそ の西部が東シナ海に面しており、南九州全体に及んでいた。 〝日向神話″というときの〝日向″は、今日の宮崎県だけ ではないのである。

 『紀』では、ニニギノ尊が地上に着いたのは日向のなかでも 襲という土地とされている。襲は曽とも書き、奈良時代になっ て地名を二字で表現すること(たとえば泉が和泉、津が摂津) が流行するにつれて、先ほどの郡名にみたような二字表記 (噌於・噌唹)になったと推定される。

 次回はこのくだりを検討してみよう。
第796回 2007/05/24(木)

「真説・古代史」補充編

戦後古代史学の欺瞞ぶり


「日本神話の考古学」の第Ⅰ部「国生みとイザナミの死」を 読んだ段階で、森教授を「ヤマト王権一元主義者」と断じ たが、実は「ヤマト王権一元主義」者には大きく2種類ある。

 一つはいわゆる「皇国史観」者である。太古の昔から ヤマト王権が日本列島の支配者であるという妄想に取り付かれて いる。神話も含めて全てを記述どおりに受け取るのが、この 部類の論者の「記紀」に対する基本姿勢だ。ただし、「記」 と「紀」とで食い違う部分についてはヤマト王権を美化礼賛 できる方を選ぶ。科学的な手続きなど微塵もない。まさに イデオロギー(虚偽意識)と呼ぶのがふさわしい。大日本帝 国の滅亡後は影をひそめていたが、長期反動政権のもとで 徐々に復活をとげ、いまそのゾンビが大量によみがえってき た。インチキ歴史教科書まで作るまでになった。

 もう一つは戦後歴史学会の「定説」に立脚する論者である。 「記紀」にはその編者たちの「造作」が加えられており、信用 できないとする。特にその神代と初期10代の天皇は全くの虚構 だと言う。これらの人を「定説論者」と呼ぼう。

 定説論者のアキレス腱は、どの天皇から実在と認めるに しても、「それ以前はどうだったの?」という問にまともに 答えられない点にある。さすがに、その天皇のときに突然 ヤマト王権が誕生した、なんてバカなことを答える人はも ちろんいない。

 定説論者は、一応科学的であることを自認しているから、 考古学の成果を援用して理論を構成することになる。 古墳時代以前(縄文時代・弥生時代)の遺跡・遺物で ヤマト王権のものと断定できるものはない。 しかし、近畿地方の巨大古墳群がヤマト王権の構築したも であることは疑い得ない事実だ。ここから、定説論者は 遅くとも古墳時代にはヤマト王権が日本列島における支配 を確立していたという「定説」を大前提とした。したがって、 「記紀神話」を解読しようとする時にも定説論者は古墳時代の 事蹟にたよろうとする。

 しかし、「古墳時代にはヤマト王権が日本列島における支配権 を確立していた」という大前提(定説)そのものが、考古学 的事実の都合のよい取捨選択、一種の詐術によって成り 立っている。このことを、古田さんの論考をたよりに、詳し く検討してみたい。

 その「定説」の論拠は一言で言えば「近畿地方の古墳群ほ どのものは他に存在しないから」ということである。この論拠 を古田さんは四つの面から検討している。

(1)古墳の大きさの問題

 小さい古墳の所有者より大きい古墳の所有者の方が勝る。 後者が前者を支配しているという判断らしい。常識的に 考えてもなんら科学的な根拠のない馬鹿らしい推論だ。 古墳の大きさという事実から言えることは、ヤマト王権が たかだか近畿地方の一大勢力であったということだけだ。

 事実、吉備の巨大古墳は近畿における天皇陵古墳の大多 数よりもさらに巨大である。造山(つくりやま)の前方後円 墳は全長約300mで、大きさでは全国4位である。定説論者は この事実には知らん振りをしている。

 前方後円墳から円墳に目を移してみる。関東埼玉 (さきたま)古墳群中の丸墓山古墳は直径約100mの大円墳で ある。定説論者の論法を使うと、この地の王者は少なくとも 日本列島内の同時代円墳群の全ての被葬者に対して支配権を 確立していた、となる。こんな主張には誰も歯牙にもかけな いだろう。

(2)古墳の形(墳形)の問題

 前方後円墳はヤマト王権に由来し、他の地方(九州から関東ま で)にそれが現われるのはヤマト王権の支配がその地方にまで 及んだ証拠である。これが定説論者の論理だ。

 しかし、文化や技術の伝播と政治的な支配・従属関係とは 必ずしも照応しない、というのがまともな判断だろう。 例えば上の定説論者の論理を円墳に適用するとどうなるか。

 円墳は中国や朝鮮半島に源流することは明らかだ。 それが古墳時代に日本列島にも現われたということは、 その時代の日本列島には中国や朝鮮半島からの支配が及ん でいた。

 以上要するに「はじめに結論ありき」で、前方後円墳だけを取り上げてヤ マト王権による支配権確立の証拠としている。

(3)副葬品の問題

 古墳からはいわゆる三種の神器セット(鏡・剣・勾玉)が副葬品として 出土している。もちろん近畿の古墳群から出土している。 天皇陵とされている未発掘の古墳にもおそらく立派なものが 副葬されていることだろう。

 しかしこの副葬品は近畿地方の専売特許ではない。九州 でも近畿古墳期のものと同様のものが出土して いる。しかも弥生期の王墓から出土している。古田さんが 「弥生の黄金地帯」と呼んでいる北九州(博多湾とその周辺) つまり筑紫の王墓郡である。

 筑紫においては弥生期→古墳期へと三種の神器の 伝承が当然行われたであろう。そして、近畿には弥生 期の遺跡からのものはな いのだから、「弥生筑紫→古墳近畿」あるい「古墳筑紫→古墳 近畿」という伝播があったと考えるのが理の当然だろう。 つまり、古田さんが「記紀」の解読で明らかにした「筑紫が 本流でありヤマト王権は分流あるいは傍流」という結論を 考古学も支持していることになる。

 定説論者はこれに対し、近畿→九州という伝播であり、 古墳時代においてはすでに近畿が九州を支配していた、と 主張する。北九州における弥生期の考古学的遺物を無視して、 アクロバット思考をしている。「はじめに結論ありき」が知 性を曇らせている。

(4)関連出土品(埴輪・石人・石馬等)の問題

 埴輪は「出雲→筑紫」という伝播と「吉備→近畿」という 伝播があることが、最近の有力な説になっているようだ。

 出雲と吉備の関係については古田さんは『どちらが古いと も、にわかに決しかねるようであるけれども、これはむしろ 同一圏ともいってよいのかもしれぬ。』と言い、次のように続けている。

 すなわち、埴輪は中国地方が淵源であり、東西に伝播した もののようである。

 そのさい、注意しておきたいことがある。「出雲→筑紫」 の伝播は、両地の古くからの密接な関係からも、容易に理解 できよう。では、「吉備→大和(近畿)」は。

 この間題につ いて、考古学上の事実としては、吉備淵源説をとる学者 (たとえば近藤義郎氏など)も、なぜ、その方向の伝播が 生じたのか? この問いには答ええなかった。答えうる道 があらかじめ閉されていたのである。なぜか。

 これもまた「はじめに結論ありき」という足かせのせいである。 今度の結論(定説)は神武説話の否定である。ヤマト王権は 初めからヤマトにあり、しかも権力の中心であるとする立場から は、「吉備→大和」という考古学上の伝播事実を謎とする ほかない。

 「神武記」が伝えるところによると、イワレヒコたち は宇佐や安芸などに立ち寄りながら、その後吉備に8年と どまっている。そこがヤマト侵略前の最後逗留地だった。

 これを神話的な粉飾を取り去って考えると、イワレヒコ たちは宇佐や安芸の権力者たちの信任を得ながら 東進し、最終的に吉備の権力者のゴーサインを得て大阪湾へ と侵入していった。古田さんは吉備での8年を「単なる給 油期間のごとく考えてはなるまい。」と言う。「吉備水軍 がイワレヒコたちの軍船の実力主体を占めていたはず である。」そしてその最後の進発基地が吉備だったので ある。古田さんは次のようにまとめている。

 もし、この「神武東侵」が史実だったとすれば - 当然、 大和や近畿一帯に吉備の影響が色濃く現われるべきだ。

 これに反して、もし、その痕跡がなければ、「神武東侵」 はやはり架空の造り話だったことになろう。

 では、考古学上の事実は。
 先にのべたように、吉備→大和→近畿一円の伝播の跡を、 色濃く広汎に宿しているのである。

 近畿天皇家のスポンサーとしての吉備 - この命題に 立つとき、造山古墳や、作山古墳といった吉備の巨大古墳 が、近畿における天皇陵古墳の大多数よりもさらに巨大で あること、この事実も、何の不思議もなく理解しうるであ ろう。近畿の天皇家にとって、吉備の権力者は、足を向け ては寝られない存在だったのであるから。

 記紀説話を架空とした上での、近畿天皇家中心主義-こ のイデオロギーのくつわをはめられた戦後考古学者たち、 そして戦後古代史学者たち。彼等は、吉備には近畿にも勝 る巨大古墳あり、の事実は百も知りながら、これに対して 適切な解明を与ええぬままに、この三十数年をすごしてき ていたのではないだろうか。

 筑紫には弥生時代から三種の神器があった、という事実にも 見ぬ振りをしている。定説論者の理論的根拠も虚偽に満ち ている。まさにその理論はイデオロギー(虚偽意識)というべ きである。皇国史観と定説史観は「ヤマト王権一元主義」と いう同じメタルの裏と表をなしている。
 イデオロギーは容易に宗教に転成する。宗教の信者には 他に耳を貸すことは背信であり、タブーである。 「三セズ」(採択せず・論争せず・相手にせず)を決め込 むほかない。


今日の話題

(お休みです。)

第795回 2007/05/21(月)

「真説・古代史」補充編

(お休みです。)



今日の話題

「三角合併」解禁がもたらすもの

 最近の新聞の経済欄の見出しでは「TOB」とか「敵対的買収」 とか「三角合併」とかいう言葉が毎日のように目に付く。これは ポチ・コイズミによる構造改革の結果、苛烈になった資本家 同士の暗闘であり、労働者の奴隷化の進行と無関係ではない というぐらいは、見出しだけでほとんど本文を読まない私にも分かるが、 いまいち理解が不十分だった。それを、またしてもロナルド・ ドーアさんに教えられた。以下は20日付「東京新聞」(朝刊) のロナルド・ドーアさん寄稿の『時代を読む・三角合併解禁 後の日本企業』による。

 まず、今月1日に解禁された「三角合併」とは何かというと、

『日本に子会社を持っている外国の大企業が、自分の株式を 対価として日本の企業を買い取ること』

であり、その子会社はペーパーカンパニーでもよいという。 この制度の制定に際しては激しい対立があった。

『ハードルを高くして、なるべく外国企業による敵対的買収 を抑止しようとした経団連』対『ハードルをより低くするこ とを求めた在日米国商工会議所および官僚・政治家の「改革 派」』

 結局は後者が勝ったということになる。その結果を喜ぶ者 たちが三種類あるとドーアさんはは分析している。

①更に大儲けを予想できる金融業に携わる人
②経済効率イコール投資の利回りと、高い資本収益率を最大 の価値と考える市場原理主義者
③アメリカさんを怒らせて、日米友好関係を害することは 最大の罪悪だと思っている政治家。

 逆に、これを憂えるべきことと考える人もいる。その理由は 次のようだ。

『経営者・一般従業員の協力体制を保ち、割に平等主義的な 働き甲斐のある従来の日本企業を、米国型の弱肉強食的な企 業へ変質させる「改革」の名による制度改悪だ』

 ドーアさんはそのように考えるお一人なのだが、この「改革」 に強く反対していた経団連を次のように皮肉っている。

『このような観点から、経団連が手続きを難しくするように運 動したのか、それとも、改革論者が野次るように、「競争に対 処する自信がなくて、びくびくして身を守ろうとしているだけ の話」なのか知らないが』

 日本の労働者にとっては確実に好ましいことではない、と言って 次のように述べている。


 理由は複雑だが、大体こうである。株主資本収益率(RO E)というのは株主の資本に対する利益の比率で、大まかに 企業が株主にどれだけサービスをしているかの指標に使わ れる。

 米国の大企業は平均16%で、日本の大企業(資本金十億円 以上の企業)は、1990年代は10%以下で、最近、人件費の圧縮 も手伝って(従業員一人当たりの給料を最近の五年間で6%カ ットして)利益を増大させて、2005年には12%まで上がった。 しかし、米国との差は依然として大きい。まだ、米国より 従業員を大事にしている方である。

 今日の朝刊に「配当6兆円 最高更新 一部上場企業の半数、増配」 と言う記事があり、次のように報じている。

 企業の合併・買収(M&A)が急増する中で、株主への利 益還元姿勢を強めて高株価を維持、買収防衛につなげたいと の狙いもあるようだ。ただ配当水準は米企業より依然として 低く、株主からの還元圧力は続きそうだ。

 純利益のうち配当金の割合を示す配当性向も23.5%と 前期の21.7%から上昇。配当を増やす企業は最終的に 654社(06年3月期実績)を上回り総額も六兆円を超えると 見込まれ、ここ五年間の増加基調が鮮明となった。

 ドーアさんが使っている「株主資本収益率(ROE)」と 上の記事の「配当性向」とは違う指標のようだが、いずれを 採っても顕著な株主優遇の傾向が示されていることに違いは ない。そしてそれは、賃金カット・残業代未払い・厚生費の 圧縮など、労働者の労働条件の劣悪化と連動していることは 言うまでもない。

 同じ今日の朝刊に、働く若者らが労働条件改善などを訴 える「全国青年大集会2007」が昨日(20日)、東京・明治 公園で開かれたとう報道があった。主催者発表で3300人が 参加したという。写真が添付されていたが、その中に、 新しい闘う労働組合とひそかに期待している「ユニオン」 の旗も見られた。

 その集会で、低賃金で長時間働く派遣労働者やフリーター、人手 不足と過密労働に悩む介護・看護職の窮状が報告された。新聞が とりあげている報告を記録してみる。

都内の印刷会社で営業職として働く男性(26)
この5年、月に約100時間の残業代が一切、支払われていない 。会社側に残業代の支払いを交渉したいが、社内に(団体交 渉権を持つ)組合はない。最近加入した外部の個人加入の組 合を通じて交渉を考えている。

福岡県から参加した配送業の武内在賢さん(26)
 牛丼チェーンの食材配達など、午前5時から深夜まで働く が、月収は17万円前後。残業代は払われず、休みも「月に3 日あればいい。上司に訴えれば、辞めろと言われるだけだ。」

派遣会社に登録し、倉庫の仕分け作業などをしている都内の 女性(25)
 月収は多くて12万円。当日になって突然、「今日は仕事がな い」と言って帰されることもある。正社員になりたいが、 「探しても探しても採用されない」と嘆く。

財政破たんした北海道夕張市の男性(25)
 友人からのカンパなどを得て参加した。昨年6月、勤めて いた警備会社で雇用契約の更新ができず、今年3月から パートで働きはじめた菓子工場の月収は9万円弱。休みは 不定だ。街に正社員で働ける場は少なく、仕方なしに景気の いい都会に行ってしまった人は多いという。

アルバイトの男性(24)
 都内のネットカフェでの暮らしが2年続く。当初はアパート の更新料が払えず、軽い気持ちだったが「住所がないとバイト も限定される。(普通の生活から)落ちるのは簡単だが、は い上がるのは至難」と嘆く。「所持金は2万円。病気をした ら終わり。賃貸契約の敷金や礼金の分割を認めてほしい」と 訴えた。

 ドーアさんは企業のアメリカ化がますます進行して、 労働者がさらにひどい搾取にさらされるようになる ことを警告している。

 株価はいろいろな思惑によって動くのだが、大まかにそのR OEを反映する。平均的な米国企業の収益率が同規模の日本の 平均的企業より25%高ければ、日本企業の株価が25%安いは ずで、米国の経営者の目で見れば、買いやすい。買って、 人件費などを圧縮し、米国並みの収益率を出すようにすれば、 かなりの儲けを見込む事ができる。

 喜ぶのは金融業の人たちだと冒頭に書いたが、M&A活動の 促進で一番儲かるのは、売買される企業の企業価値を計算し て、ブローカーとして活躍する証券会社である。「経済の 金融化」 - つまりモノづくりや商業に携わっている人の 存在が軽くなり、カネづくりの人々が幅を利かす世の中にな ること - は、大いにM&A活動によって促進される。

 金融化現象が一番進んでいるアメリカでは、アビス(AlVIS)という会社がよい例 だ。レンタカー・ビジネスの草分けとして戦後生まれてから、 実に17回売買されている。そのつど、証券会社が売買価格の 3、4%のうまい汁を吸ってきた。米国全企業の利益額におけ る金融業のシェアが、50年代の10%から、70年代の20% へ、今世紀に入って更に40%に拡大してきていることは驚 くにあたらないだろう。

 日本がますます深く入ろうとしている道はそれである。

 アメリカの金融資本が日本資産の食い荒らしをはじめている。
第794回 2007/05/20(日)

「真説・古代史」補充編

(お休みです。)



今日の話題

ヒトを縛る自民党新憲法案

 サイトの紹介です。

 『アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名 事 務局』のホームページが充実しています。

憲法改悪、教育基本法改悪反対!

 そのホームページの記事の中に、憲法改悪自民党案をマンガ入りで 解説しているものがあります。そのPDFファイルをダウン ロードできます。

第793回 2007/05/18(金)

「真説・古代史」補充編

(お休みです。)



今日の話題

愚者と守銭奴が支配する「美しい国」日本

 昨日(5月17日)の東京新聞(朝刊)に2006年度の厚生労 働省による労災の統計結果が報じられていた。まとめると 次のようだ。

①仕事のストレスなどによる精神障害での労災
申請数:819人(過去最多)、前年度比24.8%増
認定数:205人(過去最多)、前年度比61.4%増
 認定数のうち、過労自殺(未遂も含む):66人(過去最多)

②過労が原因の脳・心臓疾患
申請数:938人(過去最多)
認定:355人
 認定数のうち、過労死147人

 ①のケースを年代別・職種別にみると

年代別 30代:83人(約4割)
    20代:38人

職種別 専門技術職:60人
    事務職  :34人

 記事は①の主原因について
「ノルマ達成のために長時間労働を強いられる実態が背景に あり、業務の負荷が高い若年層が、職場でサポートを得られ ないまま孤立する事例も目立つという。」
と報じている。

 また②については、ほとんどが長期間の過重労働を原因と して認定されている。一ヶ月平均の残業時間は最も多いのは 80~100時間で106人、160時間以上というのも26人だった。
 年代別では一番多いのが50代の141人、次が40代の104人 だった。

 これが新自由主義経済政策=労働者奴隷化政策の結果で ある。ポチ・コイズミは「構造改革は痛みをともなう」と ほざいたが、その痛みは全て労働者に押し付けられている。 ポチを引き継いだ狆ゾウも、経済的支配層と結託して 国民を支配の対象としか考えられない愚者である。「人間 の解放」という崇高な理想や倫理を理解する能力はまった くない。かくして資本という吸血鬼は、初期資本主義の頃 以上に労働者の血を搾り取ってますますブクブクと醜く 太っていく。

 1998年以来、年間の「自殺者3万人以上」が続いている。 それも記録しておこう。(警察庁統計資料による)

1998年 32863人
2997年 33048人
2001年 31957人
2002年 31042人
2003年 32143人
2004年 34427人
2005年 32325人
2006年 32552人

 平均毎日90人前後の人が自殺している。ちなみに、1997年 は24391人であった。これとて毎日六十数人の自殺者である。 明日はわが身かもしれない。なんと美しい国ではないか。

 これらの統計結果に接して、1週間ほど前に記録しておいた論文 を思い出した。愚者と守銭奴というクソに群がる糞バエどもの ごますり言説ばかりが垂れ流されている言論状況の中で、現実を正確に 見据え問題点を的確に押さえた出色の論文だ。 東京新聞の「ワークス」というコラムに掲載された元雇用審議会会長・ 高梨昌(あきら)さんの『「労働ビッグバン」を問う』 。全文を掲載する。


破壊された「働く環境」

 このワークス欄の初回に執筆の機会を得てから6年たった が、この間にますます日本の「労働の世界」は荒涼たる焼け 野原にされてしまった。

 この直接的原因は、長期不況下で進められたリストラと 称する企業合理化の嵐であるが、これを加速させたのは、
「構造改革なくして景気回復なし」
「構造改革には痛み(失業)が伴う」
というスローガンのもとで政府が推進した各種規制の緩和・撤 廃である。

 「労働の世界」では
①総額人件費の削減・縮小を図る賃下げ
②賃金差別を生む成果主義賃金
③サービス残業と長時間労働…。

 また「雇用」では
①相対的に高賃金で雇用が安定していた正社員の採用抑制 と「希望退職」という名の事実上の強制退職
②低賃金で雇用が不安定なパート・契約社員の採用増
③派遣請負システムの活用など非正規労働者の大幅増加…

という状況が定着してしまった。極言すれば、〝なりふり 構わない″手段で企業経営の合理化が進められてきたので ある。

 こうした「力は正義」といわんばかりの優勝劣敗、弱肉 強食の結果が「労働の世界」を〝焼け野原″化させてしま った、といえる。

 政府は、これら一連の産業界の不況克服策を抑制せず、 結果として生じた「痛み」の解消を図ることもなく、文字 通り自由放任。逆に、それらを促進させる雇用・解雇を自 由に行える「労働市場流動化政策」を推し進めてきた。つ まり「金融ビッグバン」に続く「労働ビッグバン」による 労働規制の緩和・撤廃を打ち出した。

 その結果は明らかである。戦後日本の政労使、労働研究 者が英知を結集して築いてきた「労働環境」が破壊されて しまったのである。経済成長をリードしてきた長期雇用慣 行や労使関係にしろ、解雇を抑制し失業を予防する政府の 継続雇用政策にしろ、すべてがご破算の対象となった。

 労働組合も「冬の時代」を迎えた。パート・派遣など非 正規の未組織労働者の激増による組織率低下で、交渉力は 弱体化し、年々の春闘も「ゼロ回答」で経営に押し切られ るほど後退してしまった。

 こうして産業界と政府が強行した「労働ビッグバン」は 何をもたらしたか。過当競争による労働環境下では必ず発 生する無断欠勤、早期の自発的退職者の増加など労働規律 (モラール)の弛緩と労働能率の低下…。さらには欠陥商 品など品質悪化、事故隠しの頻発といった事態も目立ちだ し、これら労働者の一種の〝反乱″によって企業そのも のの存立基盤が危殆(きたい)に瀕してきている。

 これは、労働組合の抵抗運動である「組織的怠業」戦術 ではないが、孤立した個々の労働者の非組織的「怠業」と いう〝能率低下行動″として顕在化したもので、フリータ ー、ホームレス、ニートの増加をも生み出した。

 労働組合運動が抑圧され、禁止されていた第二次世界大 戦中でも、軍需産業などで過酷な労働環境への抵抗運動が 起きていた。それは「オシャカ戦術」といわれ、不良品を 作るなど職場の労働規律の弛緩を生み、飛べない飛行機 や、動かない戦車が生産されて軍需生産力が失われた。こ れが敗戦を呼ぶ一つの引き金になったとさえ、いわれてい るのである。

 この歴史的な教訓に学ぶべきである。

 そして最後に
『連載ではこれまで述べてきたような「労働ビッグバン」 の問題点を、さらに検証し、次回以降は、今後実施すべ き、対策について貝体的に提言していきたい。』
とあった。続きを期待したい。

 なお現在の労働問題をグローバルにとらえたロナルド・ドーア (英ロンドン大学政治経済学院名誉客員)さん論文を 一ヶ月ほど前に紹介した。関連記事として再度紹介しておこう。

今日の話題:『万国の労働者よ、団結せよ』
第780回 2007/05/16(水)

「真説・古代史」補充編

(お休みです。)



今日の話題

狆ゾウ傀儡政権の本性

 軍事力までちらつかせて沖縄の自然と住民とその良心を圧殺 しようとしている「美しい国」日本。レイムダック大統領ブッ シュに忠誠を尽くして迷走する狆ゾウ傀儡政権の本性が露出し てきた。ナショナリストを自認するウヨさんたちよ、あなた 方はアメリカンナショナリストなのですね。これがあなた方 の「美しい日本」ですか。

辺野古の闘い(写真集)

 辺野古で闘っている平良夏芽からの緊急メッセージを[an ti-hkm]MLから転載します。


○----- 辺野古浜通信/緊急 -----○

 キャンプシュアブ内の施設局の建物に明かりがついていま す。タイムス 夕刊によると、辺野古漁港内に作業ヤードを 作るそうです。

 早朝の強行 が予想されます。午前4時に辺野古に集まって 下さい。 〓平良夏芽〓

○------ 辺野古浜通信24 -------○

 明日はいよいよ調査機材の設置が始まります。 辺野古漁港 に作業ヤードが作られようとしています。辺野古に来てくだ さい。たくさん来てください。急いできてください。 多くの 人に呼びかけてください。

 私も自衛隊が出動があまりにも馬鹿げているし、怖いので このことを日本中に発信してきました。 けれど、自衛隊が 来ようが来まいが今の辺野古には関係ありません。 地元 報道によると明日、調査着手の予定です。

 これは圧倒的な力による市民の排除であることには変わりあ りません。70年にわたって戦時下に於かれている沖縄島を癒 しの島というベールに 包み、アメリカに言いように支配され ている日本島を美しい国という偽りにつつみ、平和を求める 市民を虫けらのように叩きつぶしにかかることが、市民の意 思を代行する機関(日本政府)のすることでしょうか?

 私は明日が来るのが怖くてたまりません。どうか助けてく ださい。

 自衛隊についての情報は、今日昼、HPに書き込んだとおり です。 以下採録します。

「海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」が紀伊半島沖で待機して いることが 確認されました。行動として非常に不自然なもの を感じていました。もしかすると米軍再編特措法の国会審議・ 通過を待っているのではないかという情報があります。この 法案が成立してしまえば憲法を含む各法律や、自治体の権限 をも越える力が発動されてしまいます。事前調査に自衛隊が 関わるとみていましたが、ここに来て最悪のシナリオが浮か び上がって来たことになります。つまり「アセス無しでいき なり工事着手」という事態が十分起こりえることになるので す。防衛省」の「市民の安全を考えて自衛隊を導入し、粛々 と作業を進めている」というような言い分も想像出来ます。 「ぶんご」の出動は海上自衛隊司令部の命令ではなく、防衛 施設局の要請に応えて一部隊が動いたということらしいので、 今回引き返すにしても「一部隊」の責任として簡単に片付け られてしまうこともありえます。いずれにしても施設局は 明日作業強行の予定ですので、辺野古では阻止行動の準備を 整えています。このことを皆に知らせ、是非駆けつけてくだ さい。また米軍再編特措法含めてここ1~2週間ぐらいで事態 が最悪の方法に向かう可能性が十分にあります。注意深く 情報をみて、辺野古に注目してください。」

 この日米安全保障条約に基づく米軍再編関連特措法が憲法 より上位の法律であり、自衛隊を使うこと、ただでさえ不十 分なアセス調査さえぶっ飛ばして埋め立てを始めることがで きるなどとは知りませんでした。 今日も、沖縄にはいない はずの海上自衛隊のヘリが飛来し、いつもはこちらを飛ば ない陸上自衛隊のヘリが頭上を旋回していました。

 陸上でも4年前の初めての市民による、非暴力による、 座り込みによって中止された作業ヤード建設がまた始まりま す。 座るだけです。誰でもできます。とにかく沢山の人が必 要です。 行けない方は、誰か派遣してください。

 4年前は防衛施設局の事務所と共に米軍基地内、キャンプ シュワブ内に 設置した作業ヤードを再びこちらに持ってくる と言うことは、相当な決意です。今度は逮捕者を出して 「過激」な印象をつくり、徐々に味方に付けつつある地元 マスコミと一緒に、一気に建設へと進めるつもりかも知れま せん。

 最後に、このところ辺野古には少しずつ、この長い座り込 みに参加した人たちが戻ってきてくれたことが唯一の救いで す。それでもまだ、人が足りません。たすけてください。

辺野古からの緊急情報

沖縄タイムズ

 「きっこの日記」にも辺野古からたくさんの悲痛な声が 届けられています。

まだ戦時下の沖縄
第791回 2007/05/15(火)

「真説・古代史」補充編

(お休みです。)



今日の話題

権力をもった愚者ほど怖いものはない。


 権力をもった愚者ほど怖いものはない。現時点でのその愚者とは、沈タ ロウ・狆ゾウのチンバカ大将である。

 参議院での仇を衆議院解散で討つという憲法違反の郵政選挙で 騙し取った議席で狆ゾウはやりたい放題だ。憲法改悪手続法が 、民主党の裏切りにも助けられてあっさりを成立してしまった。



 そのうえさらに、解釈改憲で集団自衛権を行使できるようにしよう とたくらんでいる。在日米軍再編成も着々と進めている。その最前線 に立たされているのが辺野古だ。私がこのホームページで辺野古 の闘いをはじめて紹介したのはホームページ開設まもなくの 2004年9月だったが、辺野古の闘いはその4年前から始まって いた。その後も辺野古の闘いを繰り返し取り上げてきたが、 過酷な長期戦を闘っている人たちに……情けないが、いつも 言うべき言葉が見つからない。

 60年アンポ闘争のとき、国会を取り巻く連日の激しいデモに 恐怖した岸珍介は自衛隊を出動させようとした。しかし、時の 防衛庁長官・赤城宗徳が出動要請を拒否したためその愚行は回避 された。軍隊の銃口は常に自国民に向けられていると知るべきだ。

 珍介に心酔する孫・狆ゾウは、辺野古での堅い反対運動に 業を煮やして、海上自衛隊の掃海母船「ぶんご」を差し向け たという情報があった。その後の情報では、さすがにまずい と思ったのか、どうやら引き返したようだ。狆ゾウも軍隊の 銃口を自国民に向けることも自分の権限だと思い込んでいるらしい。 そういえば「私は権力の頂点にいる」と得意そうにほざいて いた。

辺野湖からのメッセージ

「ジュゴンとオバァ」(TV番組)

 今日配信された「このサイトは革命だ!」 が、「憲法改悪手続き法」の本質とその成立を許した国会 情勢の適切な分析をしている。たいへん参考になるので転載 しておく。なお上田哲さんのホームページは
“1億総記者”『世論力テレビ』
です。


◆護憲派の混乱◆

 07年5月14日。憲法改正の国民投票法案は参議院本会 議を何の不協和音もなく通過。05年9月、衆院に憲法調査 特別委が設置され、国民投票制についての調査が41時間。 06年5月、衆院に与党議員提案されて58時間、参院で53時 間の審議で今日“円満に”自民、公明の賛成122票、これに 民主の渡辺秀央が1票。民主、共産、社民、国民新党の反対 99票で成立した。

 私はこれを「60年ぶり、現憲法の立法趣旨の変更」とみ る。不戦憲法はついに60年、曲がり角を回った。暗い気持 ちの1日である。

▽明確な政治ステップ

 自民、公明が「憲法は改正を否定していない。九十六条の 明記をみればむしろ遅きに失した当然の手続法の整備である」 と言うのは彼らの正当性の根拠である。果たしてそうか。 結論を先に言えば、この国民投票法の成立は明確な政治ス テップの1段階なのであって決して一般的な改憲を想定する 手続法制のステップではない。

 いわゆる護憲派はこの視点を明確に出来ず、無惨に混乱し てしまった。護憲派と見られている朝日は、与党が衆院を単 独採決した直後の4月14日、社説で「国民投票法案が対決 路線の中で打ち切られたのは不幸なことだ。この法案つくり は出来るだけ幅広い政党のコンセンサスを作って進めるべき だ。少なくとも野党第一党の賛成を得ることが望ましかった」 と書いたが、今、参院での成立の後、さらに不見識を露呈す ることになった。

 ご贔屓筋の評論家今井一氏を登場させて(14日夕刊) 「成立した法案は我々の考えもある程度反映されている。 外国と比較しても常識的な内容と言える」と言わせる。

「九条の会」の呼びかけ人の一人、鶴見俊輔氏も法案反対の 声を抑えてきたのだそうだ。「改憲反対が多数ならめでたい こと。負けても改憲反対の実情を歴史にさらす勇気を 持ちたい」と言うのが今日の感想。呼びかけ人の中では戦争 をしない国にするよう訴える勉強会を開く案も出ていると いう。「負けるとは限らない。やるだけやる、と絶望はし ない」そうだ。

 頼りないではないか。これはつまり、相手の政治ステップ を一歩進められたことを認めるのであって、無抵抗で見守る べき無色の手続法ではなかったのだ。絶望はしないというこ と自体、絶望を言っているように感じる。

 いよいよ、九条改憲が国民投票に掛けられる時になれば、 断固としてそれを許さぬ過半数を確保しなければならない のは当たり前のことに過ぎない。「首にあいくちを突きつけ られたら断固戦うが、突きつけられるまでは相手の自由」 と聞こえてならぬ。相手の殺意が分かっているのだから、 なぜあいくちを奪おうとしないのか。

 尤も、主戦護憲派のほうも「護憲、護憲」というだけでは 運動にならなかった。旧態依然、そこを抜け出せない。憲法 の永世中立宣言を具体的政策にして九条改憲の意図を粉砕す べきだった。その怠慢はあえて同罪と言っておきたい。

▽ 立法趣旨

 この法案が無色の手続法ではなく明確な政治ステップであ ることを見誤ったのは、憲法九十六条の読み誤りにある。 第九章「改正」第九十六条は次のように規定している。

「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成 で、国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なけ ればならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定 める選挙の際行われる投票において、その過半数を賛成を必 要とする」

 憲法もいわゆる不磨の大典でなく改正規定があるのは当然だが、 これは厳格な高いハードルといわねばならない。いわゆる硬性 憲法である。

 他国にも例えばオランダのように我が国よりさらに硬性な 規定のものもあるが、その改正手続がどれほど硬性憲法であ るか軟性であるかは憲法自身の立法趣旨によるものである。

 敗戦後、思い切った戦争放棄を決意した新憲法がその理念を 貫くため、高いハードルを課した意味がここに込められてい る。改正手続を明示したから、出来るだけ速やかに改正を急げ と言う意思ではない。あえて、改憲の国民投票法を整備しない ことも憲法の望むところであった。少なくとも戦後民主主義の 国民は改憲を志向せず、国会もまたその法制を進める行動に 出ることがなかったのは、国民にも国会にも憲法の立法趣旨 への理解が存在していたからである。

▽ 三分の二

 戦後の殆どの期間、政権を独占してきた自民党が、その結 党時以来一貫して、改憲を党是と掲げながら、その挙にでな かったのは、焦点となる九条改憲発議に必要な議席の三分の 二を得られなかった理由に尽きる。保守政権を持って三分の 二を制することは可能でも、三分の二以上が九条改憲に一致 することが出来たのは小選挙区制による結果である。初めて 自・公・民に差違はない。

 列強の比肩する大軍備、MB参加、在日米軍再編成、防衛 省昇格、イラク派兵、集団自衛権行使、武器輸出三原則の解 禁など世論はほとんど抵抗無く、憲法は空洞化した。

 これは与件である。自民政権の長い狙いは九条改憲に一致 する三分の二の確保であった。それがついに実現した。 ここに安倍内閣の登場となった。戦後最も戦前回帰派であり、 しかも九条改憲に一致する三分の二を背負う幼稚な使命感が みなぎる未熟さである。

 保守本流意識の高揚を促す戦後六十年史観は安倍に 「改憲は私の任期で政治課題に」と言わしめた。

 すでに自民党改憲案は九条改憲を焦点とすることを明らか にしている。九条改憲の国民投票法制定は明確に政治ステッ プであり、九十六条に言う一般的改憲手続論として理解すべ きではない。投票年齢の18才切り下げ、最低投票率制の 無視、マスコミ規制など民主主義諸制度無視の暴走である。

 この事情は、安倍政権が政権を賭ける危険を冒してもあえ て改憲発議~国民投票に打って出る可能性をみなければなら ない。

 加えて、三分の二は教育改革を言い、モラルを説く驕慢に も至っている。格差の正当化医療・年金制度の崩壊を強権で 押さえ込む政治風土は裁判の権力迎合にも現れている。

 付け足せば、法案の衆院での採決の直前まで、国民投票法 案の合意を詰めていた民主党が、突然、投票の対象を一般重 要国事に拡大せよと迫ったのは、参院選対策のみに走る党略 より、われら本来の国民投票制度の提案を剽窃するもので公 党としての矜持を疑うものである。

 このような政権が「戦後レジュウムの脱却」を言う容易な らざる事態に対して、今こそ民主主義勢力の覚醒が求められ る。ワケ知りげな手続論の有害を捨てるべきだ。「9条護れ」 だけでなく平和政策の構築に叡智を集める時である。

 主敵は三分の二である。

  区切り用模様

区切り用模様
「真説・古代史」補充編

厚顔無恥の三「セズ」古代史学会


 次に森教授は『黄泉の国の世界』と題して、 「イザナギ・イザナミの死」を取り上げている。特に
①イザナミの葬られた「墓」

②「膿わき蛆たかる」という死体の描写
に注目している。

 私(たち)の問題意識からは末梢的な問題なのだが、森教授 には重要なモチーフがあるらしい。それを探ってみる。


 イザナミが葬られた場所についての記述は2種類ある。

「紀伊の国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗(くにひと)、 この神の魂を祭るには、花の時には亦花を以って祭る。また 鼓・吹(ふえ)・幡旗(はた)を用て、歌い舞いて祭る。」 (『紀』の一書第5)

「近江の多賀神社出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬 りき。」(『記』)

 このくだりの「一書」は実に第11まである。その中で 「一書第5」の記述は他のどの一書とも全く異質である。 「紀伊の国」が『記紀』神話の舞台外であることを すでに知っている私(たち)には、神話解読のための資料としては 「一書第5」が埒外のものであることは明々白々なことだ。 しかし森教授にとってはヤマト王権一元主義を補強するための 重要な一文のようだ。でも、その解説は次のように歯切れが悪い。 私には論旨が理解できない。


 『記』ではイザナミの葬地を出雲国と伯伎国との境の比婆 の山に葬ったとある。出雲と紀伊の熊野とについては、出雲 にも熊野大社(島根県八束郡八雲村)があったり、『紀』の 出雲神話のなかで熊野諸手船(もろたぶね)があらわれたり、 さまざまな共通点があるけれども、このイザナミの葬地が 『記』と『紀』で出雲と熊野に分かれているのも、そのよう な例の一つに考えてよかろう。


 イザナギがイザナミとの約束を破って覗き見たときの イザナミの姿には次の3通りの描写がある。

「蛆たかれころろきて、頭には大雷(いかずち)居り…(以下身体のいろいろの 部分に計8柱の雷神が続く)」(『記』)

「膿わき蛆たかる」(『紀』一書第6)

「脹満(は)れ太高(たた)へり。上に八色(やくさ) の雷公有り。」(『紀』一書第9)

 このうち「膿わき蛆たかる」と言う描写に森教授はこだわる。 この生々しい描写は、実際に腐乱した死体を目撃したものの手によ るものだという。そして古代人がどういう機会に腐乱した死体を 目撃できるのかを、古墳の埋葬方法を検討しながら考察してい く。

 なんと大げさな、と私は思う。今は腐乱した死体を見る可能性が るのは変死体事件を担当する刑事や検死官ぐらいだろうが、古代では いくらでもその機会があっただろうと思う。山野に放置された 戦争の犠牲者の「水浸く屍」や「草生す屍」、あるいは野垂れ死にした 追放者や放浪者の死体などを目にする機会はいくらでもあっただ ろう。あるいは野山で出会う獣の死体からでも「膿わき蛆たか る」人の腐乱体は容易に想像できよう。

 森教授にはそんは常識的な判断は問題にもならないようだ。 考古学の成果をあれこれ渉猟して古墳時代後半に多く見られる「横穴 式石室」を突き止める。


 横穴式石室の特色の一つは、出入ロをもっていて死者 の世界である石室に現世の人間が入ることができること、 数体から十数体の死者を安置していること、それも同時の 埋葬ではなく数十年の間に追葬を繰り返したものであること、 などを指摘した上で次のように結論する。


 藤ノ木古墳のような立派な石室では家形石棺に葬る場合も あるが、全体としては数は少なく、大半の死者は木棺に納め られた。しかも、前期古墳のように頑丈な木棺ではなく、 今日のミカン箱を立派にした程度の薄板を使っているから、 数年で棺が朽ち果て、石室内に入ると内部の遺骸の変化の状 況がいやおうなしに目撃されることになる。目撃するだけで はなく、白骨化した遺骸を動かすとなると、さらに生々しい 観察を体験的に強いられるわけである。イザナミのあの遺骸 の変化の描写は、この時期の体験が語られているとみてよか ろう。

 だれもが疑問なくやり過ごすところに目をつける独創は 認めるが、どうにもピントがずれている。しかし、どうしても 『記紀』神話と古墳時代とを結びつけずにはおかない、とい う執念はひしひしと感じられる。

 それでも最後には神話の世界にちょっとだけ近づいている。


 『出雲国風土記』には、出雲郡宇賀郷の北の海浜に 「黄泉の穴」があるという有名な文章があって、猪目洞窟 がその候補とされている。このように、イザナミの葬地が あると『記・紀』で述べている熊野地方と出雲地方には、 どちらにも海岸の洞窟を利用した墓がある。いままでは、 私はイザナミの遺骸の変化についての体験は横穴式石室で の知識であったとみていたけれども、海岸洞窟の墓をも 射程にいれる必要が浮かんできた。

 森教授の論述にはもう一つ問題がある。古事記・日本書紀本文・ 日本書紀一書から恣意的に都合のよい部分を引用して同資格の 資料として区別なしに利用している。つまり、史料批判を欠く。 いいかえると、史料性格を区別した上での方法論がない。 しかし「一書」に対しては全く無頓着というわけではない。 日本書紀一書からの引用にあたって次のように述べている。

 『日本書紀』は、歴史書としてはきわめて特色のある書物で ある。とくに〝神代”の部分では、異説・異伝があればそれを 一書の形で収録しており、ときには第十一の一書とよばれる ように、多くの異説・異伝を収めている。通常、官撰の歴史書 の場合は、このような異説・異伝のたぐいは編者によって取 捨選択されて一つの形になっている。どうして多くの異説や 異伝をそのまま載せたのだろうか。

 これについては、具体的な研究の出現が待たれる。なお、 以下ではわずらわしさを避けるために、何番目の一書である かについては区別しないことにする。

 古田さん以前には、かって誰一人として「一書」を明快に 論じたものがなかった。その古田説のあらましは

真説・古代史(7)「日本書紀」がいう「一書」とはなにか
真説・古代史(8)「古事記」対「日本書紀」

で紹介した。

この古田さんの論文を一顧だにせずに「具体的な研究の出現 が待たれる。」とはあきれたものいいだ。「定説」を守るた めに(一体何故、何から守るのだ?)、すべての古田説を 「採択せず」「論争せず」「相手にせず」という方針で無視 し続ける古代史学会の知的品格の欠如はみっともない。
第789回 2007/05/13(日)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:考古学者の「神話オンチ」ぶり


 「大八洲」問題だけで「日本神話の考古学」は終わりにしよ うと思っていたが、読むほどにますます呆れるばかりなので、 続けることにした。今回からその呆れるばかりの理論に敬意を 表して「森教授」と呼ぶことにする。

 考古学会での権威者の一人である森教授の古代史に関する 著書は、たぶんヤマト王権一元主義に立脚した立論の頂点に位 置する、のかどうか知らないが、少なくともヤマト王権一元 主義者が無視し得ない存在であるだろう。新たに出版される 古代史関係の本のほとんどが今なおヤマト王権一元主義の 「定説」の見当はずれの補強あるいはその焼き直しに過ぎない。そこで 森教授の著書をその代表に見立てて、「定説」にもたれかかっ ている理論の知的怠慢ぶりあるいは学的詐術ぶりを明らかに していこう。

 吉備国の一部に過ぎない吉備児島が大八洲の一つとして扱わ れているという疑問点を解決する森教授の手法をを見てみよう。

 まず1986年から発掘された大量の奈良時代の木簡を取り上げる。 「調」納入を記録した木簡から、吉備国が行政区画として備 前・備中・備後と細分されていたこと、その頃小豆島は吉備 児島に編入されていたこと、さらに『紀』の記事も資料に加えて、 児島郡が屯倉としても海上交通の拠点としても重要だったこ となどを論じている。考古学者としての知見であり、ここに は問題はない。問題は次のような論のすすめ方にある。

『平城京木簡によって、八世紀ごろには小豆島も吉備児島に 編入されていたことは明らかになったが、それを奈良時代よ りさかのぼらせて、古墳時代にもそうであったかどうかをも う少し検討しょう。』

 古墳時代にも児島が重要な拠点であったのなら、「大八洲」 に児島か入っているのも納得ができると言いたげだ。つまり ここには、暗黙のうちに神話の時代上限は古墳時代である ことが主張されている。まったくの「神話オンチ」と言わざるを えない。

 そして、前方後円墳や後期古墳の有無と税体系(住民の掌 握の仕方・程度)の関連を論じて次のように結論する。

『瀬戸内海の島々のなかには、政府によって住民の末端まで が把握された場合のある傾向がうかがえる。また、周防大島に も前方後円墳が見られず、いくつかの後期古墳があるだけと いう点も吉備児島に共通している。どうやら国生み神話にあら われた洲(島)のうち、瀬戸内海の三つの巨島は海上交通の 拠点というだけでなく、住民、とくに成人男子を末端まで掌 握していたことで、有事にさいして水手(かこ)などに動員 できたのであろう。仁徳記には、児島の人たちが難波 の海で水取司(もいとりのつかさ)の船を漕いでいた情景が 語られている。古代国家にとって重要な土地の意味の一端を 垣間見ることができたと思う。』

 よって「大八洲」に周防大島や吉備児島が入っているのも 不思議ではない、というわけだ。

 ヤマト王権一元主義に立つ限り、ヤマト王権の支配権確立 が考古学的にはっきりと示される古墳時代をさらにさかのぼる ことなど考えられないのだろう。そしてさらに、古墳時代の ヤマト王権の支配権はたかだか近畿地方だけに過ぎず、倭国は なお九州王朝の覇権下にあったことなど、とてもとても認めら れない「たわごと」なのだろう。
第788回 2007/05/11(金)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「両児島」はどこか。


 『記』が律令体制での国を重視しているという主旨の 文に続けて森さんは言う。


『記』では越洲が見られないことと、知訶島(ちかのしま)や 両児島(ふたごのしま)が大八島国に続けて生まれた土地とし てあらわれている。この知訶島は五島列島の小値賀島(おじか しま)かその近辺の島で、律令時代には遠き値嘉(ちか)が統 治の及ぶ西端の土地として意識されていた(『延喜式』陰陽 寮)。その意味では、国際的な統治感覚で重要となる土地で ある。両児島についても五島列島内に求める私見を述べたこ とがある。

 『記』では「大八島」の後に六つの島生まれているが、森さ んはその内最後の二つを取り上げている。前々回に提示した 『紀』の森製「大八洲」地図にもその二島が書き込まれている。 引用文にあるように律令時代のヤマト王権の統治地域の西端を 示すのが目的のようだ。

 両児島を五島列島内に比定した理由が述べられていないが、 五島列島内に「男女群島」というのがあるのでそれを当てている と思われる。岩波文庫版『古事記』の注も岩波日本古典文学大系版 『古事記』の注もともに知訶島・両児島を五島列島に比定して いる。いわゆる定説なのだろう。

 両児島を五島列島内の島とする定説には不審点があると、古田 さんは「両児島」探求を始める。その経緯は次のようだった。

 「神代記」の「国生み」の説話では各島に「亦の名」と いう言い方で、もう一つの呼び名が記載されている。

『かく言ひ竟へて御合して、生める子は、淡道の穂の狭別島。 次に伊予の二名島を生みき。この島は、身一つにして面四つ あり。面毎に名あり。故、伊予国は愛比売(えひめ)と謂ひ、 讃岐国は飯依比古(いひよりひこ)と謂ひ、粟国は大宜都比 売(おほげつひめ)と謂ひ、土左国は建依別(たけよりわけ) と謂ふ。次に隠岐の三子島を生みき。亦の名は天之忍許呂 別(あめのおしころわけ)。次に筑紫島を生みき。この島も また、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫国は 白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊国は豊日別(とよひわけ) と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよく じひねわけ)と謂ひ、熊曾国は建日別(たけひわけ)と謂ふ。 次に伊伎島を生みき。亦の名は天比登都柱(あめひとつばし ら)と謂ふ。次に津島を生みき。亦の名は天之狭手依比売 (あめのさでよりひめ)と謂ふ。次に佐渡島を生みき。次に に大倭豊秋津島を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別 (あまつみそらとよあきづねわけ)と謂ふ。故、この八島を 先に生めるによりて、大八島国と謂ふ。然ありて後、還りま す時、吉備児島を生みき。亦の名は建日方別(たけひかた わけ)と謂ふ。次に小豆(あづき)島を生みき。亦の名は大野手比売 と謂ふ。攻に大島を生みき。亦の名は大多麻流別(おほたま るわけ)と謂ふ。次に女(ひめ)島を生みき。亦の名は天一根(あめ のひとつね)と謂ふ。次に知訶島を生みき。亦の名は天之 忍男(あめのおしを)と謂ふ。次に両児島を生みき。亦の 名は天両屋(あめふたや)と謂ふ。』

 整理すると

①淡道之穂之狭別島
②伊予之二名島…愛比売・飯依比古・大宜都比売・建依別
③億伎之三子島…天之忍許呂別
④筑紫島…………白日別・豊日別・建日向日豊久士比泥別・建日別
⑤伊伎島…………天比登都柱
⑥津島……………天之狭手依比売
⑦佐渡島
⑧大倭豊秋津島…天御虚空豊秋津根別

吉備児島…………建日方別
小豆島……………大野手比売
大島………………大多麻流別
女島………………天一根
知訶島……………天之忍男
両児島……………天両屋

この「亦の名」は学者たちを悩ませてきたが、適切な解答を 提出した人はかってはいなかった。古田さんが最初の解答者 だった。その古田さんの解読のあらましを 真説・古代史(39)アマクニ」はどこか(1)、 で紹介した。次の地図はそのときに用いた「亦の名」地図であ る。



 その「亦の名」の考察の過程から「両児島」が浮上してきた。 真説・古代史(40)アマクニ」はどこか(2) で紹介したが、そのときは「詳しい論証は省き、結論部分 を転載」した。その省いていた「論証」を改めて読んでみるこ とにする。古田さんの『記紀』の解読の方法は定説に寄りかかったも のでもないし、あらかじめ持っている自説に都合のよい部分だ けを取り上げたりするものでもないし、単なる思いつきでもな い。「原文全体の表記のルールにのっとって問題の一つ一つの 部分を解読する。」という方法論を貫いている。このことはも う充分に確認してきたことだが、そのことをここでも また確認することになるだろう。

 「両児島」(「亦の名」は「天両屋」)=「「男女群島」と いう定説は古く貝原益軒にまでさかのぼるようだ。岩波日本古 典文学大系『古事記』の注には次のようにある。

「貝原益軒の扶桑記勝に『五島の南に女島男島とてちひさき 島二あり。是唐船紅毛船のとほる海路なり。五島よりも四十 八里、薩摩よりも四十八里ありて五島につけり。』とある女 島・男島、即ち男女群島のことであろうと思われる。」

 これに対して古田さんは三つの不審点をあげて、次のように 論じている。


第一
 この五島列島も「知訶島、亦の名、天之忍男」としてあがって いる。これに接近しすぎている。

第二
 「両児島」といい、亦の名を「天両屋」という以上、この 島は〝二つの島が対になって″いなければならぬ。それが明 白な特徴のはずだ。しかるに、これは「男女諸島」と今呼ば れているように、男島、女島だけではない。その両島の間に クロキ島、寄島、ハナクリ島と、少なくとも三つの島が介在 している。つまり〝五島が並んだ”形だ。この点、 「両児島」という名称にふさわしくない。これはやはり、 ほぼ〝二つきり”という印象の島でなければいけないのでは なかろうか。

第三
 ここに並べられた、この島以外の島々は、いずれも皆相当に 重要な島々だ。伊伎・津島・隠伎之三子島・知訶島(五島列 島)はもとより、女島も、印象的な美しい島だ(わたしは初 春の晴れきった日、空からこの全島を一望のもとに見おろし た経験がある。あっと息をのむほど美しかった。その印象が 忘れがたい)。

 これに対し、この男女諸島。貝原益軒のいうように、中国 船やオランダ船などが長崎への往来にたちよった島かもしれ ぬ。そしてその美しさがその人々を慰めたかもしれぬ。しか し、それはずっと後、益軒の江戸時代のことだ。はるか古代、 朝鮮半島経由で中国と往来していた時代、この島の重要性が あった、とは、なにかうなずきかねるのだ。

 しかも、大切なことがある。それはこの島が国生みの 〝最後″に書かれている点だ。イザナギ・イザナミはオノ ゴロ島に降り立ち、東端の淡路島からはじめて、点々と西 の方へと国生みしつつ帰ってきた。主要な国々を生み終った ところで、つぎの句がはさまれている。

「故、此の八島を先に生むに因りて、大八嶋国と謂ふ。然る 後、還り坐せし時‥‥‥」

 そしてさらに吉備児島をはじめとして次々と国生みし、そ の最後(知訶島のあと)に、この両児島(天両屋)を生むの だ。つまり、イザナギ・イザナミにとって出発点付近に 〝還ってきた″最後の島だ。その点、きわめて重大な島なの である。

 北九州市の北の海中に「男島・女島」という対になった島がある。 これは二つきりの島だから「第二」の疑問点は解消するが、 「第三」の〝特別の重要性をもつ島″という要件を満たさない。 その「第二」「第三」の条件をともに満たす島があった。 沖ノ島だ。

 沖ノ島を「両児島」=「天両屋」に比定する妥当性 についてはすでに 真説・古代史(41)「アマクニ」の聖地「天の岩屋」 で論証した。

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「神代紀(記)」が語っている時代は何時か。


 日本書紀本文の「大八洲」は次のようであった。

①淡路洲
②大日本豊秋津洲
③伊予二名洲
④筑紫洲
⑤双子の億岐洲と佐渡洲
⑥越洲
⑦大洲
⑧吉備子洲

 これに対して、古事記の「大八島」は次の通りである。

①淡道之穂之狭別島
②伊予之二名島
③億伎之三子島
④筑紫島
⑤伊伎島
⑥津島
⑦佐渡島
⑧大倭豊秋津島

 古事記の「大八島」と日本書紀本文の「大八洲」の違いにつ いて森さんは次のように書いている。

 『記』では律令体制での国に扱われている土地を重視して いるのにたいし、『紀』では吉備子洲や大洲のように、律令 体制では国より下位の郡になる土地をも重視していることが、 まずうかがえる。

 ずいぶんと奇異なことをおっしゃる。どのように 見比べても『記』では律令体制での国に扱われている土地 を重視しているという判断は私には出てこない。古事記の 「億伎(隠岐)之三子島・佐渡島」が日本書紀では双子として 一つ扱いされ、その一島分と「伊伎(壱岐)島・津(対馬) 島」のかわりに「越洲・大洲・吉備子洲」が置かれている。 つまり両者の違いは「伊伎(壱岐)島・津(対馬) 島」対「越洲・大洲・吉備子洲」である。地域比定を森説の 通りとしても「越の国」の分だけ「大八洲」の方が「国」が 多い。「大洲」の比定として古田説の方(つまり「大洲」= 「出雲」)が正しいとすれば(私は古田説を正しいと考える)、 なおさらである。

 どうしてこんな的外れな判断が出てくるのだろうか。 どうやら記紀神話は律令体制が整った後に創作されたと 考えているらしい。さらに、その創作に用いた素材(集団的 記憶も含めて)というう点では、最も古くさかのぼっても古 墳前期(4世紀)を想定しているようだ。これから何度も指摘す ることになると思うが、このように推断する根拠は随所に現れ てくる。

 こうした神話時代に対する年代比定のとんでもないカン違い の淵源は、もちろん、「ヤマト王権一元主義」というイデオロ ギーにある。こうしたトンチンカンな年代比定も『今の考古学 者や教科書は、「神話・伝承オンチ」「記紀神話オンチ」「風 土記神話オンチ」』という古田さんの慨嘆の理由のひとつだろ う。

(以上のことについては真説・古代史(38)始原の国家 を参照してください。)
第787回 2007/05/07(月)

「真説・古代史」補充編

ヤマト王権一元論の迷妄の深さ


 改めて、『紀』本文の「大八洲」をその順序通り並べてみる。

①淡路洲
②大日本豊秋津洲
③伊予二名洲
④筑紫洲
⑤双子の億岐洲と佐渡洲
⑥越洲
⑦大洲
⑧吉備子洲

 さて、森さんは、「…洲」を全て「…シマ」と読み、実際に も「島」と考えたので、④「筑紫洲」は「九州島」 (「全域かどうかは別として」という保留条件はつけている が)でなければならなかった。したがって当然、③伊予二名洲 は「四国島」でなければならない。「九州島」・「四国島」 と森さんはあえてこのように呼んでいる。

 森さんほどの考古学者が「鬼界カルデラ」の大噴火のこと を知らないとは考えがたいが、たとえ知っていたとしても、 ④「筑紫洲」の比定の要件としてそれを考慮しようという 考えは全く浮かばなかったに違いない。「大八洲」の比定に 際して、森さんには否定することなど、いや再考することす ら及びもつかない磐石の公理がそのような発想を不可能にし ている。その公理とは、ここヤポネシア列島では神話が創ら れた時代も含めて、ヤマト王権(近畿天皇家)が唯一絶対の 支配者であったという定説(妄想)である。それは 「国生み神話にあらわれている古代人、とくに大和の支配層の 人たちの価値観」というような文言に端的に現れている。

 この立場からは、「島」という原則に外れていても、 ②大日本豊秋津洲は「近畿の主要部(畿内)」とせざるを得 ない。そして「畿内」が島でないことにはほおかぶりを決め 込んでいる。ヤマト王権の本拠地は別格とでも言うのだろう か。あるいは⑦や⑧を論じるところで「本州島と地続き」と いう文言があるので、「大日本豊秋津洲」=「本州 島」というトンデモ拡大解釈で納得しているのかもしれない。

 さて、「①淡路洲」と「⑤双子の億岐洲と佐渡洲」に現在の 隠岐島と佐渡島を当てるのは誰にも依存はないだろう。しかし、 「⑦大洲」に瀬戸内海の周防大島(屋代島)を当てているが、 この「大島」は他の島々と比べてあまりにも小さすぎる。 全くのこじつけでしかないと、私には思われる。

 ⑧吉備子洲は岡山県の「児島半島」としている。児島半島は、 干拓事業が本格化する江戸初期までは大きな島であったし、 「吉備の」と指定区域が示されているので、①・⑤と同様 にこれ以外の比定はありえない。

 最後に「⑥越洲」をどのように「島」にこじつけるのだろう か。⑧と同様、能登半島が古代には島だったという希望的解釈を する論者もいるという。しかし、地質学はつれなかった。 地質学者の調査によると、島であった可能性があるのは第三間 氷期(15万~5万年前)以前のことであり、それ以後に島で あった可能性は全くないという。

 全てが「島」でなければならない見地に立つ森さんは次のよ うに苦渋の解釈を提出している。

『⑥は越(こし)(古志)であって、古代の地域呼称としては たいへん広大で、福井県東部(越前)にはじまり、石川、富山、 新潟、山形の諸県、さらに時代によっては秋田県の南部まで含 む大地域である。もちろん今日の地図では、近畿とは地続きで あるが、これもこれからしばしば述べるように、古代には船で 行けるところは途中が地続きでも、洲(島)として意識され るときがあった。』

 「しばしば述べ」ても「古代には船で行けるところは途中が地続 きでも、洲(島)として意識されるときがあった。」に対する 論証はない。古代人の意識を憶測しただけの解釈であり、私に は全く納得できない。またこの引用文の中の「近畿とは地続き であるが、」という文言には、神話を近畿中心に考える発想と「大 日本豊秋津洲」=「本州島」と考えていることが、再び表明 されている。

 森さんの「大八洲」説を改めてまとめておく。

①淡路洲………………淡路島
②大日本豊秋津洲……畿内(本州島)
③伊予二名洲…………四国島
④筑紫洲………………九州島
⑤億岐洲・佐渡洲……隠岐諸島・佐渡島
⑥越洲…………………越の国
⑦大洲…………………周防大島
⑧吉備子洲……………児島半島

 この比定が妥当であることの証左として、森さんは次のよう な一貫性があることを主張している。

『このように国生み神話では、豊かにして広大な農耕地の 広がる平野単位ではなく、ひとまず豊秋津洲を別にすると海 上交通によって結ばれ海上交通の拠点となった洲(島)を対 象にしていることは明らかである。』

 これまでにも指摘してきたように、森さんの比定にはいく つもの矛盾や問題点があるが、森さん自身か提出している問 題点・疑問点を抽出してみよう。

(1)
 ⑤双子の億岐洲と佐渡洲と⑥越洲とは海上交通を重視しての 日本海地域であるが、出雲世界が含まれていないことを奇妙に感じる。

(2)
 ⑦大洲と⑧吉備子洲は瀬戸内海のうちでも、……どうして この二つの島だけが扱われ、現代の地域区分の中国地方その ものが登場しないのかが奇妙さをつのらせる。

(3)
 太平洋側の中部地方以東があらわれないのはともかくとし て、西日本でも古代の有力な土地であった吉備や出雲の主要 部が除かれているのは、どうしてであろうか。

(4)
 吉備全体ではなく、そのごく一部にすぎない吉備子洲(児島) が大八洲国の一つとして扱われていることに注目してよかろう。



 (3)からはヤマト王権一元論の虚妄性に気づくべきなのだが、 「奇妙だ」とつぶやくだけで森さんの思考は止まってしまう。 「中部地方以東があらわれないのはともかくとして」ではなく 「中部地方以東があらわれないのは」とても重要な矛盾点なの に。「中部地方以東」を欠いてはヤマト王権(畿内)は中心点 ではありえないことになる。ヤマト王権一元論を疑うことがま ともな論理と言うべきだ。

 (1)は最も重要な問題点だ。筑紫とともに記紀神話の最重要 舞台である出雲を欠いては、それこそこの後は話にならない。

 森さんは「地続きでも、洲(島)として意識され」たとし て「⑥越洲」だけは「越の国」のこととしたが、実は初めか ら「洲」を「クニ」と読めば「地続きでも、…」というよう な苦しい言い訳は不要なのだった。そしてこれが古田さんの 解読の決め手であった。つまり全ての「洲」を「クニ」と読む。 この一点で上記の全ての問題点や矛盾が全て解決する。 このルールに従った古田さんによる「オオヤクニ」の比定は 次のようになる。(詳しくは
「神代紀」の解読(3) ― 「大八州」はどこか
「神代紀」の解読(4) ― 大日本豊秋津洲
でどうぞ)

①淡路洲………………淡路のクニ
②大日本豊秋津洲……豊のアキツクニ
③伊予二名洲…………伊予のフタナクニ
④筑紫洲………………筑紫のクニ
⑤億岐洲・佐渡洲……隠岐のクニ・佐渡のクニ
⑥越洲…………………越のクニ
⑦大洲…………………オオクニ
⑧吉備子洲……………吉備の子クニ

 これらの「クニ」は大きく2つに分けられる。

 第一グループは「④⑥⑦」で大地域を示している。第二 グループは 「AのB」というように二段で呼ばれる小地域である。(①、⑤ は大地域を表記せずとも分かる著名な島なので「A」の部分が 省かれている。)

 当然この「国生み神話」の中心は第一グループであり、 それは記紀神話の主要舞台と一致し、さらにそれが ヤマト王権以前の政治地図であることをも示している。

 ここで『真説・古代史(5)』で提示した下の図と、前回 の「図B-図A」を合わせて見てみると、古田さんの「オオヤ クニ」の比定の妥当性を考古学・地質学が保障していることが 明白である。


 つまり、「オオヤクニ」は「銅剣・銅矛・銅戈圏」を示して いて、淡路島はその瀬戸内海における東限である。 「国生み神話」は「銅矛圏」の王者・九州王朝の神話であることを まざまざと示している。はたして、国生みの道具は「天の沼矛」 であった。


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第786回 2007/05/04(金)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:考古学が指し差すところ


 シュリーマンのトロイ遺跡の発見は神話の記述と考古学の成 果が一致したことを示した。つまり、神話は歴史的事実をもと にして描かれていることを明らかにした。このことはギリシャ 神話に限ることだろうか。

 そんなはずはない。人間は全くの白紙状態からは何の想像も生み出す ことはできない。どんな荒唐無稽なフィクションも何らかの体 験がもとになっている。もちろんここでいう体験とは実生活に おける現実の体験に限らない。他者からの伝聞や映画・ドラマ ・読書などによる見聞や追体験も含めた意味の体験を意味する。

 そして神話の場合は全くの荒唐無稽ではありえない。氏族 あるいは部族の集団的記憶にマッチするという正当性がなけれ ば、その集団の物語として受け入れられないし、広く流布する はずもない。当然その集団の歴史的な事実をふまえたものでな ければならない。ならば逆に考古学の中にも神話の痕跡が 現れるのも当然なことだろう。

 記紀の神話の解読も考古学(時には地質学も)との一致に よってこそ、その正当性が保証される。しかし、多くの考古 学者は記紀や風土記や伝承には無頓着のようだ。古田さんは 『今の考古学者や教科書は、「神話・伝承オンチ」「記紀神 話オンチ」「風土記神話オンチ」』 (「古代史の未来」より)と手厳しい。

 では逆に、『記紀』の神話から歴史を掘り起こしている古田 さんの古代史は考古学や地質学と一致するのだろうか。 『天皇制の基盤を撃つ―真説・古代史』ではこの点については 詳しくは触れなかったので、改めて補充しようと思う。

 もう一つこれを機会に、考古学者による神話解読、という よりはアカデミズムという呪縛の中での思考の典型として、 森浩一さんの『日本神話の考古学』を読むことにする。 そして、森さんの解読と古田さんの解読との対比を通して、 古代史の真実をより深く掘り下げることを試みたい。

 まず、『大八洲(おおやしま)』の問題から。

 次の図はともに日本書紀の本文に現れる地名を地図上に比定 したもので、上が古田さん、下が森さんによるものだ。





 まずすぐに気がつく大きな違いの一つは「筑紫洲」だ。 古田さんが福岡県(網掛け部分)とするのに対して、森さんは 九州全体としている。それぞれがそのように比定する論理的根 拠を比べる前に、考古学・地質学上の事実を指摘しておきたい。

 1975年頃から鹿児島県で縄文時代草創期の遺跡が次々と発掘 されてきている。そのうちの2例を挙げてみる。

1975年 栫ノ原(かこいのはら)遺跡
 炉跡(ろあと)、集石(しゅうせき)、煙道付き炉穴 (えんどうつきろあな(連穴土坑(れんけつどこう))など の遺構や、隆帯文(りゅうたいもん)土器が約1000点、石鏃 (せきぞく)、磨製石斧(ませいせきふ)(磨いてある石斧) などが発見された。この遺跡は南九州を代表する縄文時代 草創期の遺跡として、1997年に国の史跡に指定された。

1990年 掃除山(そうじやま)遺跡
 桜島が噴出した薩摩火山灰(約11,500年前) 層の下から、大量の遺物とともに2軒の竪穴住居跡や屋外炉、 蒸し焼き調理場(集石)や燻製(くんせい)施設(炉穴(ろ けつ))など種々の調理場の整った集落が発見された。旧石 器時代が終わり、縄文時代が始まった直後の鹿児島の地には、 すでに定住のきざしが見える集落が誕生していたことが判明 した。

 縄文文化は「東高西低」という従来の常識を覆すとともに、 鹿児島にはすでに縄文時代草創期に定住集落圏があったことを 示している。

(以下「古代史の未来」による。)

 また、掃除山遺跡は桜島の噴出した薩摩火山灰層の下から 発掘されたとあるが、それより以前約12,000年前に、西日本 全域に大きな被害をもたらした大噴火があった。鬼界カルデ ラと呼ばれている硫黄島の噴火である。鹿児島県東部や宮崎 県の人たちは、そのときの火山灰を「アカホヤ火山灰」と呼 んでいる。

 その火山研究の結果、次の地図Aのような「アカホヤ火山灰」 による被害の程度が明らかになった。 (町田洋氏による地図。「縄文文化の先進地!鹿児島」で新東 晃一氏が引用)



 鬼界カルデラを中心とする卵形の部分は火砕流により住民が 即時に全員死亡した地域。次の鹿児島県北部-高 知県足摺岬を結ぶ線の範囲内は30cm以上の火山灰が積もった地域 で壊滅状態。次の実線は20cm線であり、20cm~30cmの範囲での 生死の確率は5割ほどであった。その実線の外側、20cm以下の 地域では死者を出すほどの被害はほとんどなかった。

 次の地図Bは鹿児島での最近の発掘調査も加えた「アカホヤ 火山灰降灰以前の縄文土器分布図」(新東晃一氏による)である。



 地図Bの実線部分内の地域から地図Aの火山灰20cm以上の範囲の 地域を除いてみてください。「B-A」。これは「アカホヤ火山灰」の被害を ほとんど受けずに、縄文文化をそのまま継承できた地域というこ とになる。

九州……長崎県、佐賀県、福岡県
中国地方……山口県(2/3ほど)、島根県、鳥取県(西半分ほど)

 それぞれ筑紫(福岡県)・出雲(島根県)を中心とした地域で ある。そう、記紀神話の舞台だ。古事記の神話に出てくる地名の 頻度は一位が出雲で、二位が筑紫。日本書紀ではその逆となって いる。これに「アカホヤ火山灰」による被害が半壊ぐらいで 生き伸びた地域を加えると、「大八洲」の舞台ということに なる。

 記紀神話は弥生文化の所産だから、上の事実は同時に、 縄文文化の長い蓄積のうえに弥生文化が花開いたことをも 示している。

 さて、考古学・地質学は「筑紫洲」が九州全域ではなく、 福岡県であることを指し示している。


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第785回 2007/05/01(火)

「真説・古代史」補充編

オノゴロ島はどこか(2)


 オノゴロ島を能古(のこの)島と断じる論証を追う。

 『その島に天降りまして』、つまりイザナギ・イザナミは「天国」 から離れてこの島へやってきた。だから、当然この島は「天国」では ない。しかも途中の経過地はない。だから、「天国」の海域に近接し ている地点である。すなわち、筑紫か出雲か韓地、この三領域の中の どこか、ということになる。

 『記・紀』はともに、「AのBのC」といった地名表記のルールを厳格 に守っている。だから、そのルールに厳格に従って、大領域(A)、中 領域(B)などをきめていき、当の地点(C)を比定することができる。 その際、その地点に現存の地名があるか、または『和名抄』の中の地 名に該当するものがあれば、その比定は適切だと言える。

 ただし、「日本旧記」(日本書紀でいう「一書」)の記述では、その本拠地 筑紫の中の地名には(A)の「筑紫の…」は省略されている。同じように 近畿のヤマト王権によって作られた文書ではその限りではない。

 例えば「日本旧記」で「日向の高千穂の…」と言うときの「日向」 は筑紫の「ひむか」であるし、日本書紀の本文にある「因りて日向の吾平 の山の上(ほとり)の陵に葬る。」(神代紀)と言うときの「日向」 は「ひゅうが」(宮崎県)を指す。神武紀では「長じて日向国 の吾田邑の吾平津媛を娶る」と明解である。

 すると「出雲のオノゴロ島」「韓地のオノゴロ島」との記述は全くなく、 全てが単に「オノゴロ島」と書かれていることから、オノコロ島は 筑紫にあることになる。

 イザナギは、黄泉国から「筑紫の日向の橘の小戸」へ帰ってくる。 とすると、イザナミが黄泉国へ行ったとき、それを迫ってイザナギも 黄泉国へ行ったが、その出発点(オノゴロ島)もまた「筑紫の日向の 橘の小戸」つまり博多湾岸である。つまり、「オノゴロ島」は博多 湾内にある島だ。とすると、それは金印で有名な志賀島 か「能古(のこの)島」どちらかということになる。

 つぎに「オノゴロ島」という地名の成り立ちを考えてみる。

 「オ」は地名接頭辞、「ロ」は地名接尾辞である。すなわち、固 有の地名部分は「ノコノ島」である。

 たとえば、博多湾外〔西北〕に「小呂島」がある。沖ノ島には 「御前」という磯がある。この地域にも「オ…」という接頭辞は数多 い。また、「末盧国」は「松浦」だとすると、この場合の「ロ」も また、地名接尾辞であると考えられる。

 以上より、「オノゴロ島」に比定さるべきものは「ノコノ島」で あるという結論に至る。