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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第693回 2006/12/28(木)

唯物史観と国家論の方法(15)
「ブリュメール十八日」(1)


「伝統的政治観念の復古的再生」については、「ブリュメール十八日」に次のような 記述がある。

『人間は自分で自分の歴史をつくる。しかし人間は、自由自在に自分でかってに選んだ 事情のもとで歴史をつくるのではなくて、あるがままの、与えられた、過去からうけつ いだ事情のもとでつくるのである。』

『あらゆる死んだ世代の伝統が、生きている人間の頭のうえに悪魔のようにのしかかっ ている。そこで、人間は、自分自身と周囲の事物とを変革する仕事、これまでにまだ なかったものをつくりだす仕事に熱中してくるように見えるちょうどそのときに、ま さにそういう革命的危機の時期に、気づかわしげに過去の亡霊を呼びだしてその助け を求め、その名まえや、戦いの合言葉や、衣装を借りうけて、そういう由緒ある衣装を うけ、そういう借りもののせりふを使って、世界史の新しい場面を演じるのである』

 いまこの国の支配階層とその幇間知識人どもには、未来を切り拓くような新たな 思想・イデオロギーを構想する能力はない。それゆえに、彼らがおしすすめている変革には 「過去の亡霊を呼びだしてその助けを求め」る以外に思想的・イデオロギー的方法はな い。いくら新ししがっていても、その変革は反動的変革でしかある得ない。

 上記のマルクスの言葉を敷衍して、滝村さんは次のように論述している。


 マルクスがいみじくも「あらゆる死んだ世代の伝統が、生きている人間の頭のうえに 悪魔のようにのしかかってくる」と記した、伝統的な観念的・思想的Machtによる 「生きている人間」への思想的・イデオロギー的な支配・呪縛という形式を通じて、 実際には前者はもっぱら後者の現実的都合、正確には諸階級・階層に包摂・組織された 現実的諸個人の、経済的また政治的利害に立脚した現実的必要によって、呼起され運用 され、また廃止される運命にある。つまりは大きく左右・決定されるのである。

 従って、<生きている人間>が革命的変革期においてさえ、古ぼけた政治的権威や大 義名分という名の<亡霊>に助けを求めたり、伝統的な諸思想・諸観念の衣装を借りう けたり、まとったり、それらにまつわる借りもののせりふを借用したりすることによって、 結果的には、古ぼけた政治的諸観念・思想が、政治の思想史的流転と激動における 伝統的な連続的継承性という形態をとって現出する場合があったとしたら、その現実的 根拠はもっぱら次にある。

 すなわち、かかる伝統的な思想的・観念的Machtは、<生きている人間>、とりもなおさ ず政治的党派・政治的権力として躍り出た諸階級・階層が、自らの経済的・政治的利害に 最もよく対応した新しい政治的理念を創出することによって、国民的共感を獲得できる 思想的・イデオロギー的能力を欠落ないし不必要としている場合に、自己の党派的・階 級的利害を政治的に貫徹させるに必要な、しかも最も手っとり早くて有効な観念的武器 としての性格を客観的に附与されて登場する、という一事である。

 その恰好の歴史的事例の一つがスペイン革命であった。そしてもう一つの留意すべき 事例が「ブリュメール十八日」のボナパルトの覇権達成だった。この「ブリュメール十 八日」は「唯物史観の方法的見地」によればどう読み解かれるかが、『柄谷行人著「世 界共和国へ」を読む』からこの横道に入ったきっかけだった。丁度1ヶ月前になる。
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