2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第696回 2006/12/31(日)

『柄谷行人著「世界共和国へ」を読む』(21)
商業資本から産業資本へ


 絶対主義王権の時代に商品交換の原理が支配的となり、やがて都市の商工業の 担い手であった商工中間階級(ブルジョアジー)が経済的な支配階級を形成していった。  商人資本は、基本的には遠隔地との交易により、その間の価値体系の差異から 剰余価値を得ている。それは重商主義と呼ばれている。諸国間が貿易によって抗争した 時代だった。そして17世紀に、オランダが世界商業・マニュファクチュア・海外植民地 においても頂点に立った。しかし、ここからは「産業資本主義」は起きなかった。 それは先ずイギリスに生じた。

 産業資本主義がなぜイギリスで始まったのか、それを柄谷さんはマルクスの「資本論」 を援用しながら論じている。その柄谷さんの論考を要約する。

 マルクスは生産資本を生産過程の面からだけ見るのではなく、流通過程にも焦点 をあて、産業資本を商業資本の変形とと考えた。


 したがって、資本は、流通から生まれることはできないのであり、しかも流通を離れて 生まれることもできないのである。資本は、流通のなかで生まれざるをえないと同時に、 流通のなかで生まれてはならないのだ。……貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する 法則を基礎にして展開されるべきであり、したがって等価の交換がその出発点と見なされ る。まだ資本家の幼虫にすぎぬわが貨幣所有者は、商品をその価値で買い、その価値で売 るが、しかもこの過程の終りには、彼が投じたよりも多くの価値を引き出さねばならない。 彼が蝶に成長するのは、流通部面においてでなければならず、また流通部面においてであ ってはならない。これが問題の条件である。さあロードス島だ、さあ跳べ。(「資本論」第 一巻)
「流通のなかで生まれざるをえないと同時に、流通のなかで生まれてはならない」とか 「流通部面においてでなければならず、また流通部面においてであってはならない」とか、 これはどういう意味だろうか。この文節には「注」がある。それによると「資本形成 は、商品価格が商品価値に等しいばあいにでも可能でなければならない。」という意で あると書かれている。この意味は柄谷さんの説明でより明らかになる。

 まず、『商人資本の蓄積過程は、貨幣→商品→貨幣+α、つまり、M-C-M'(M+⊿M) として表示』されることを確認しておこう。


 このアンチノミー(二律背反)は、つぎのように考えれば解決されます。それは M-C-M’という流通過程において、特殊な商品を見いだすことです。その商品とは、 それを用いることが生産過程であるような商品、つまり労働力です。

 くわしくいうと、産業資本は、商人資本のようにたんに商品を買って売るのではなく、 みずから生産設備を用意し原料を買い、そして労働者を雇用して、生産した商品(C)を 売るわけです。そこで、産業資本の価値増殖過程は、

M-C…P…C'-M'
(つまり、貨幣-商品(生産手段・原料・労働力)…生産過程…商品-貨幣+α)

という公式で示されます。商人資本との違いは、このCの部分の一部である、労働力とい う商品にあります。産業資本の価値増殖をもたらすのは、このような商品です。


 つまり、産業資本は生産手段をもたず労働力以外に売るものをもたないプロレタリアを 搾取することによって剰余価値を得る。しかしその労働力は貸労働でなければならない。 奴隷制や農奴制のもとでは産業資本主義は発達していない。労働力を売るプロレタリアは、 同時に労働力を売って得た賃金で生産物を買う消費者でなければならない。イギリスで 産業資本主義が生まれた秘密のそこにある。


 イギリスで産業資本主義が起こったのは、商人とギルド的な職人がいた都市では なく、農村の近傍に形成された新しい都市=市場です。そこに、農村からプロレタリア がつぎつぎに入ってきた。そこで、「産業家が商人となって、直接に大規横に商業のた めに生産する」ということがありえたのです。そして、プロレタリア自身がその生産物 を買い消費した。各地にできたそうした自律的な市場圏がつながって、国内市場が作り 出されたわけです。

 単純化していえば、商人資本が外国(遠隔地)に向かっていたのに対して、産業資本 は国内に遠隔地を見つけた。そして、それがまさに生産=消費するプロレタリアであった ということです。
 
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第695回 2006/12/30(土)

唯物史観と国家論の方法(17)
ヨーロッパ革命の本質


 以上みてきたように、スペインあるいはフランスのブルジョアジーはその 政治的未成熟ゆえに軍事的専制権力に敗北していった。マルクスはこのことをスペインあるいは フランスの特殊性として済ますのではなく、階級的権力闘争の必然的帰結という唯物史 観の一般的な歴史的論理からとらえている。

 それは1848年のフランス革命から始まる10年間の西ヨーロッパ世界において、とくに フランスのボナパルト、ドイツのビスマルクの登場にその典型が見出される。それは、1854年 以来のスペイン第四次革命においても現出した。

   このような「都市ブルジョア革命」の失敗を、マルクスは一般的な歴史論理的見地から 把握した。そのマルクスによる歴史的概観を引用しながら、滝村さんは次のように まとめている。


『一方には、近代的商工業があり、その本来の首領たち、中間階級は、軍事的専制政治を 嫌っている。他方では、彼らがまさにこの専制政治にたいする戦いを開始すると、近代的 労働組織の産物である労働者がみずから割り込んできて、勝利の成果にたいする彼らの 正当な分けまえを要求する。このように自分たちの意に反して押しつけられる同盟の諸結 果に恐れをなして、中間階級は、恐ろしい専制主義の砲列の保謹下へまたもやひっこむの である。これこそ、ヨーロッパの常備軍の秘密であり、そうでなければ常備軍なるものは 将来の歴史家にとって不可解なものとなろう。ヨーロヅパの中間階級は、このようにして 彼らの嫌う政治的権力に降服し、近代的商工業の諸利点と、それに基礎をおく社会関係と を放棄するか、それとも、社会の生産諸力の近代的組織がその初期の段階においてもっぱ ら一階級にだけ付与してきた特権を捨てるか、そのいずれかを選ばなければならないこと を、悟らされている。スベインからさえこうした教訓をあたえられるとは、瞠目すべきで あると同時に、思いがけないことであった。』

 明らかな如くマルクスは、経済的・社会的にはすでに主要かつ支配的な階級権力として 登場している商工中間階級(ブルジョアジー)が、政治的な階級権力としては、その本来 的な敵手たるプロレタリアートが恰も自己の影の如くにすでに見え隠れしている事情も あって、いぜん旧貴族階級の掌中にある統治権力やその近代社会全体に対する反動的な いし復古的再編成としての性格をもち軍事的専制権力に屈服せざるをえなかったとするの である。

 なお、かかる西ヨーロッパ世界を歴史的舞台として打ち立てられた、マルクスの<近代 国家-市民社会>形成に関わる一般的な歴史論理的解明は、その二年後の1858年11月、 エンゲルスの手になる小文「1858年におけるヨーロッパ」においても、そのまま継 承・踏襲されている。因みに曰く、

『1848年の噴火が、驚愕した自由主義的中間階級の眼前に、政治的・社会的解放のために たたかう武装した労働者階級という巨大な妖怪を突如として出現させたとき、直接的な政 治権力よりも自分たちの資本の安全な所有をはるかに重要と考える中間階級は、この権力 と、かつて自分たちがそのためにたたかったすべての自由とを、プロレタリア革命の鎮圧 を確保するために犠牲に供したのであった。中間階級は、自分は政治的未成年者で、国事 の運営には不向きであると宣言して、軍事的・官僚的専政に黙従した。』

(中略)

 さればこそマルクスは、「1812年憲法」において現出したかかる古制・旧制また古法典 の復古的援用を、一方では確かに<古法典の復製>と指摘しつつも、他方ではそれが、 現実的に形成・発展しつつある近代的市民社会の歴史的方向性に大きく規定されて、それ に上から実践的に対応すべく適応させられるという形態をとって必然化された、とする唯 物史観による方法的把握を附加しているわけである。因みに曰く、

『1812年憲法は、古法典の複製であるが、フランス革命の精神で読まれ、近代社会の要求 に適応させられたものであるというのが真実である』と。

何というすばらしい章句であろうか!


(「唯物史観と国家論の方法」を終わります。)
第694回 2006/12/29(金)

唯物史観と国家論の方法(16)
「ブリュメール十八日」(2)


 『プリュメール十八日』でマルクスは、ボナパルトの政権掌握の直接の原動力はナポレ オン一世期に形成された「ナポレオン的観念」、つまり「ナポレオンという名まえをもつ 男が自分たちにすべての栄光をとりもどしてくれるだろう、という奇跡信仰」の復古的 再生であったとしている。しかし、それは根本的原動力ではない。その根本的原動力と して、二月革命以来の民主共和政(第二共和政)下で展開された諸階級・階層間の 経済的・政治的利害対立にもとづく激烈な階級闘争の帰趨を分析している。それを 滝村さんは次のように解説している。


 すなわちボナパルトは、一方では主に「分割地農民」を階級的基盤に直接的に選出さ れた共和制下、大統領-執行権力を牙城とし、他方では、その特殊な地位が可能とする 議会内政治的諸党派間の不和・対立・抗争の巧妙な利用によって、第三権力の中枢、正 確には大革命以来の相次ぐ外戦と階級闘争に対する内・外政治的秩序維持と、商業ととく に産業における資本制的生産様式の構造的展開が要請する社会・経済政策の積極的かつ 多面的遂行(社会的・経済的秩序維持)の必要から、驚く程(例えば英・米に比して) 中央集権的に集中された軍事・官僚機構として強化され強大化していた、第三権力の 中枢を、実に雑多な分子(上は没落王党派の金融貴族から下はルソペン・プロレタリアに 到る)から速成的にかき集めたボナパルト党派を先導して、掌担することに成功した。


 ボナパルト党派の中心的役割を担った「分割地農民」は、二月革命以来のブルジョア ジーの独裁のもとで、資本の直接的支配(高利貸付・抵当債務)と国家的支配(苛酷 な強制・租税)によって無惨なまでに痛めつけられていた。それが「分割地農民」が 「ナポレオン的観念」をボナパルトを大統領に選出することによって再生させて いった社会経済的な要因であった。しかし、それを黙認せざるを得ない事情が支配階級 (ブルジョア諸層)側にもあった。


 ブルジョア諸層は、商業ブルジョアジーも、その金融貴族的部分も、産業ブルジョア ジーも、要するに彼らの直接の政治的代理人たる議会内党派・「秩序党」が、ボナパルト にけしかけられて小ブルジョアジーの議会内政治的代理人たる「山岳党」を壊滅させた のはいいとしても、その後、一方におけるボナパルト―執行権力との政治的対立と イザコザ、他方における階級的な共通敵の消滅によって必然化された内部的不和・対立 と元の政治的諸分派への解体の過程をみて、二月革命以来の長い革命的危機をつねに学 んだ政治的対立・抗争・変転、つまりは落ち着きのない政情不安が一向に改善されそう にもないことに、当初はうんざりし、次にはすっかり腹を立てて、ついには自己の政治 的代理人に見切りをつけ、彼らを実質的には見殺しにした。

 彼らは、相次ぐ政情不安は被支配階級に対する首尾よい経済的搾取をさえ不可能に するとして、ふがいない自己の政治的代理人が肝心なときに不和・抗争している今と なっては、ボナパルトの「強力政府」による安定的な政治的秩序維持を、何よりも 自己の経済的利害のために望んだのである。換言するならは、彼らは、ボナパルト (党派)への間接的支配で今後何とかやっていく他ないと、観念せざるをえなかった わけである。これは一体何を意味するか?

 ブルジョア諸層は、議会党を通じて直接的に支配する、本来なら彼らの排他的な階 級的独裁にとって最も好便であるはずの、民主共和政体の廃棄に、いやいやながらも 同調せざるをえず、少なくともボナパルト―執行権力によるその積極的破壊、すなわ ち「秩序党」の政治的圧殺を帰結せしめる、ボナパルト―執行権力による特異な軍事 的専制政体創出への政治的改革に、消極的支持ないし黙許を与えざるをえなかった。 ということは、ブルジョアジーの統治階級としての敗北の宣明であり、政治的支配階 級としての未成熟を遺憾なく露呈したものであった。

第693回 2006/12/28(木)

唯物史観と国家論の方法(15)
「ブリュメール十八日」(1)


「伝統的政治観念の復古的再生」については、「ブリュメール十八日」に次のような 記述がある。

『人間は自分で自分の歴史をつくる。しかし人間は、自由自在に自分でかってに選んだ 事情のもとで歴史をつくるのではなくて、あるがままの、与えられた、過去からうけつ いだ事情のもとでつくるのである。』

『あらゆる死んだ世代の伝統が、生きている人間の頭のうえに悪魔のようにのしかかっ ている。そこで、人間は、自分自身と周囲の事物とを変革する仕事、これまでにまだ なかったものをつくりだす仕事に熱中してくるように見えるちょうどそのときに、ま さにそういう革命的危機の時期に、気づかわしげに過去の亡霊を呼びだしてその助け を求め、その名まえや、戦いの合言葉や、衣装を借りうけて、そういう由緒ある衣装を うけ、そういう借りもののせりふを使って、世界史の新しい場面を演じるのである』

 いまこの国の支配階層とその幇間知識人どもには、未来を切り拓くような新たな 思想・イデオロギーを構想する能力はない。それゆえに、彼らがおしすすめている変革には 「過去の亡霊を呼びだしてその助けを求め」る以外に思想的・イデオロギー的方法はな い。いくら新ししがっていても、その変革は反動的変革でしかある得ない。

 上記のマルクスの言葉を敷衍して、滝村さんは次のように論述している。


 マルクスがいみじくも「あらゆる死んだ世代の伝統が、生きている人間の頭のうえに 悪魔のようにのしかかってくる」と記した、伝統的な観念的・思想的Machtによる 「生きている人間」への思想的・イデオロギー的な支配・呪縛という形式を通じて、 実際には前者はもっぱら後者の現実的都合、正確には諸階級・階層に包摂・組織された 現実的諸個人の、経済的また政治的利害に立脚した現実的必要によって、呼起され運用 され、また廃止される運命にある。つまりは大きく左右・決定されるのである。

 従って、<生きている人間>が革命的変革期においてさえ、古ぼけた政治的権威や大 義名分という名の<亡霊>に助けを求めたり、伝統的な諸思想・諸観念の衣装を借りう けたり、まとったり、それらにまつわる借りもののせりふを借用したりすることによって、 結果的には、古ぼけた政治的諸観念・思想が、政治の思想史的流転と激動における 伝統的な連続的継承性という形態をとって現出する場合があったとしたら、その現実的 根拠はもっぱら次にある。

 すなわち、かかる伝統的な思想的・観念的Machtは、<生きている人間>、とりもなおさ ず政治的党派・政治的権力として躍り出た諸階級・階層が、自らの経済的・政治的利害に 最もよく対応した新しい政治的理念を創出することによって、国民的共感を獲得できる 思想的・イデオロギー的能力を欠落ないし不必要としている場合に、自己の党派的・階 級的利害を政治的に貫徹させるに必要な、しかも最も手っとり早くて有効な観念的武器 としての性格を客観的に附与されて登場する、という一事である。

 その恰好の歴史的事例の一つがスペイン革命であった。そしてもう一つの留意すべき 事例が「ブリュメール十八日」のボナパルトの覇権達成だった。この「ブリュメール十 八日」は「唯物史観の方法的見地」によればどう読み解かれるかが、『柄谷行人著「世 界共和国へ」を読む』からこの横道に入ったきっかけだった。丁度1ヶ月前になる。
第692回 2006/12/27(水)

唯物史観と国家論の方法(14)
伝統的政治観念の復古的再生(2)


 このスペイン革命における「伝統的政治観念の復古的再生」を、滝村さんは「マルクス の唯物史観の方法的見地」から次のように解説している。


 新しい統治形態の確定に対する伝統的な法制(古制・旧制)またそれにまつわる古法 典や各種観念・思想・イデオロギーの直接的規定性の問題は、社会の生きた発展如何、 何よりも生産諸力の発展段階によって大きく規定された諸階級・階層的権力の社会的存 立条件が必然化せしめる、その現実的また観念的・政治的利害の上での敵対的矛盾に 立脚した諸階級・階層間の闘争の発展如何、とくにときどきの第三権力を直接巻き込 んだ政治的支配権をめぐっての政治闘争の発展形態如何との、大きな媒介的関連におい てのみ把握できる。

 すなわちかかる諸階級権力間の政治闘争の規模と徹底性の如何、とりもなおさず 支配階級・被支配階級それぞれにおける政治的権力構成の如何と、とくに被支配階級 の側におけるそれを直接規定する政治思想的・イデオロギー的自己変革の徹底性の如 何〔補註〕が、結局のところ、第三権力に結集した支配階級全体の政治的権力の伝統 的主導性の存立・興廃と、それに直接まつわる古制・旧制また各種政治・法制的観念・ 思想の復古的再生・伝統的継承か、それらすべての一挙的改廃かの如何を、大きく 決定するといってよい。


 ここの〔補註〕は、現在この国において進行中の被支配階級の際限のない政治的 な後退が一体何処に起因するのかを見極めるうえで、たいへん参考になる。これも全文 掲載する。


 ここでとくに被支配階級の側といった理由について一言しておきたい。

 支配階級内部における諸階層・諸分派は、日頃被支配階級からの各種収奪物の分配 如何をめぐってときに血みどろの抗争をくり返しているが、革命的危機に際しては、 彼らの被支配階級全体に対する共同支配体制それ自体の崩壊への危機意識と恐怖感から、 日頃の抗争を一時棚上げにして、即座に政治的権力として参集・同盟・結集する。 すなわち現実的な経済的利害に立脚した直接の政治的権力としての結集・構成という 点で、被支配階級のそれに比すれば、はるかに容易かつスムーズしかも強力に進展する。

 これにひきかえ被支配階級の諸層の場合には、生産様式の如何に、根本的な基礎をもつ 政治的・社会的抑圧体制全体を、根本的に転覆しなければ現実的に解放されないにもかか わらず、直接には、それぞれ相異なる社会的存立条件が規定する現実的利害から、階級 闘争に足を踏み出す他ないからである。従って、その政治的権 力構成の成否は、 思想的・イデオロギー的自己変革の如何と表裏をなした、ラディカルな政治的階級意識 の獲得にもとづく、統一的な政治的理念を樹立できるか否かに大きく左右される。


 私(たち)がこのホームページですすめてきている国家や市民社会についての原理的理論的把握が 「思想的・イデオロギー的自己変革」のための極めて重要な一試行であることは 言うまでもない。

 さて、上述のような「唯物史観の方法的見地」は、「明治維新」以後の「天皇制」の問題を 解明する上でも必須の方法的理論的見地であるだろう。「近代天皇制国家」を、 滝村さんはおおよそ次のように把握している。


 (「天皇制と国家の理論」を構成するにあたっての)理論的主眼は、近代天皇制国家を、アジア的デスポティズムとしての古代天皇制の統治形態と国教が、 近代社会的発展にもとづくより根本的かつ直接的な要請に対応した、近代国家的活動 (とくに社会・経済政策の遂行)の一貫した組織的遂行を可能とすべく新たな合理的 形態で復古された、近代的デスポティズムとして把握する点にある。従って帝国憲 法は、復古されたアジア的統治形態理念としての天皇制イデオロギーの根本精神から、 主にプロシャ流近代立憲的専制国家とその制度的理念を、可能な限り大々的に採用した ものであると把握していた。
 『アジア的国家と革命』には、いま読んでいる論稿の次に、「北一輝・吉野作造と 近代天皇制国家」という論稿が続いている。機会があったら、これも取り上げてみたい。



今日の話題

(お休みです。)

第691回 2006/12/26(火)

唯物史観と国家論の方法(13)
伝統的政治観念の復古的再生(1)


 「1812年憲法」に見られるスペイン的独自性は、「スペイン絶対君 主制」=「アジア的統治形態」成立以前の封建王制時代における国制・法典の新しい 近代的形態における復古的再興にあると、マルクスは言っている。その主要な事項を 5点、滝村さんはマルクスの叙述から摘出している。

第1点:「反乱の権利」について
 「一般に1793年のジャコバン憲法の最も大胆な新機軸のひとつとみなされているが、 諸君はこの同じ権利に、ソブラルベの古法典のなかで出会うのである。そこではそれは 『団結の特権』……とよばれている。諸君はそれを、カスティリャ旧憲法のなかにも見 いだす」

第2点:議会による国王の立法権の制約
 「ソブラルベの法典によれば、国王はあらかじめ議会の同意を得なければ、講和も宣 戦も条約締結もできない」
 「議会の構成員7名から成る常任委員会は、立法機関の閉会のあいだ憲法の厳格な遵守 を監視する任を負うものであるが、これは、古くアラゴンで設立されたもので、君主国 内の主要な議会が単一の議会に統合されたときにカスティリャに導入されたのである。 フランスの侵入の時期までも、同じような制度がナバラ王国にまだ存在していた」

第3点:国王の唯一の枢密会議=「国政会議」について
 「議会が国王に提出する120名の名簿から、議会が俸給を支払う国政会議が構成される ことについて言えば、― 1812年憲法のこの異常な創造物は、スペイン君主国のすべて の時期に宮廷党がふるった致命的な勢力を思い出すことによって暗示をうけたのである。 国政会議は宮廷党の代用品としてもくろまれた」

第4点:議会から国務大臣・国政全議員及び王室官職者等が排除されている点について
 「議員に国王の側からの栄典も官職も受領することを禁じていることと同様、一見した ところ、1791年憲法から借りてきたもので、1812年憲法の認める近代的な三権分立から 当然生じたもののようにみえる」。
 しかし実際には、「われわれは、カスティリャの旧憲法のなかでその先例にぶつかる だけでなく、いろいろな時代に人民が立ち上がって、王から栄典や官職を受領した議員た ちを暗殺したことを知っている」

第5点:議会による摂政の任命権について
 「14世紀に成年に達していない王が多かった期間、カスティリャの旧議会によりたえず 行使されていた」

 そしてマルクスは「上述の諸事実から十分に示されるとおり、王権の注意ぶかい制限 ― 1812年憲法の 最も顕著な特徴 ― は、別の見方をすれば、ゴドイの軽蔑すべき専制政治の生々しい 胸の悪くなるような追憶……によって十分に説明されるものであるが、その起源をスペ インの古法典にもっていたのである」と、結論づけている。
第690回 2006/12/25(月)

唯物史観と国家論の方法(12)
「1812年憲法」(続き)


 続いて滝村さんは「1812年憲法」についてのマルクスの「かなり詳細な紹介と周到な分 析」を検討している。しかしこの部分については、後に続く論述につながる要点を概観 するにとどめる。

 「1812年憲法」は、新たに結集した政治的権力が、スペインにおいて形成されつつあった 近代的市民社会に上から積極的対応しようと試みたものであり、近代的憲法としての 側面を備えてはいる。

 まず、<裁判権>一般と区別される<司法権>の独立が明示されていて、その根底には 三権分立思想が明らかに見て取れる。また、地方政治体制の規定においても、都市及び自治体の 行政的機関の構成員や州代表者会議も、すべて総選挙時に選出される。さらに租税は、 近代的統一租税としての規定と、近代的関税以外の城内関税の撤廃が明記された。 軍制においては近代的国家構成員による一般的国民軍役制を設け「国民民兵隊の軍団 が結成されるものとする」とある。

 これは、すでに崩壊し始めていた旧い封建的社会制度に対する近代的市民社会形成の ための根本的変革を促進するところとなった。マルクスは次のように述べている。

「議会が、スペイン国家のこの新構想を作成したとき、このような近代的な政治憲法が 古い社会制度とまったく両立できないであろうことに気がついていたのはもちろんで、 そのため、議会は、市民社会における体質変更を目的とした一連の法令を公布した。」

「議会は異端審問を廃止した。それは領主裁判権を撤廃した。また、それとともに領主た ちの排他的・禁止的・略奪的な封建的諸特権、たとえば狩猟、漁撈、森林、水車などにつ いての特権を、代価を支払って獲得されたもので補償されるべきであったものを除いて、 撤廃した。議会は、王国全土にわたって十分の一税を廃止し、祭祀をつかさどるのに必要 でない聖職受禄者すべての任命を中止し、修道院の撤廃とその財産の収用にとりか かった。」

 しかし、これまでに見てきたような「スペイン革命」の特質が必然的に統治形態のう えに反映される。そこには旧体制の遺物が否応なく混入していて、近代的憲法としてはきわめて不徹底 なものであった。

 第一に選挙制度は、「聖堂区選挙、地区選挙、州選挙の三級を経なければならない」 「間接選挙」であった。また、州総督任命権は国王にあった。
 そして最も問題なのは、議会が立法上の実権を掌握するものと規定していながら、 他方では、「国政会議」という国王の「枢密会議」となんら違わない遺制を存続せし めていた点である。しかもこの「国政会議」は「いっさいの重要な事項についての意見を国王に 上奏」するばかりか、「教権的および司法的官職につくべき者」への官職任命権を掌 握するものとされている。これでは近代的憲法の一要件である<司法権>の独立自体 がまったくの名目的なもとなりかねない。

 この最後の<司法権>についての不徹底さについて、滝村さんはさらに次のように述べ いている。


 われわれはここでマルクスが、1848年のプロイセン絶対王政による反革命的政治改革を 端的に象徴する「裁判所の絶対主義的改造の最初の徴候」をとらえて、「裁判官が従属的 な立場におかれれば、ブルジョア的司法そのものが政府に従属するようになる。すなわ ち、ブルジョア法そのものが、官吏の恣意に席を譲る」(「プロイセンの反革命とプロイ センの裁判官」)と記したことを想起すべきであろう。


 上記のような危惧は日本の<司法権>にも当てはまるのではないか。「司法そのもの が政府に従属」していると思わざるを得ない事例にこと欠かない。それは法制上の問題 なのか、あるいは個々の裁判官の思想・イデオロギー上の問題なのか。この問題も、 「<三権分立>とは何か」という問題としていずれ取り上げたい問題である。



今日の話題

「余人に代えがたい」芸術家の作品鑑賞

 きっこの日記 で紹介されている芸術作品の対比がとても楽しめるので、まだ未見のかたのために お伝えしたい。

「余人に代えがたい」お方の作品
http://shikishima.cool.ne.jp/artist/isihara/2004dance_of_spirits.jpg

天才アイ氏の作品
http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/gallery/gallery.htm

第689回 2006/12/23(土)

唯物史観と国家論の方法(11)
「1812年憲法」


 今回から「(2)唯物史観と統治形態」に入る。ここでは統治形態の確定のための 政治的・法制的な表現、つまり「憲法」が中心テーマに取り上げられている。ここでは 、いやがうえにも、現在この国で進行中の「憲法改悪」の問題を重ねて考えざるを 得ないだろう。たぶん私(たち)にとっては絶望的な状況認識に至るとしても。

 まず次の叙述をしっかりと噛みしめなければなるまい。


 一般に新憲法の確定は、激烈に相抗争する諸階級権力間の政治的権力関係の大勢、 すなわち政治的支配権の帰趨がほぼ確立した時点で、闘争により変動した社会の階級 的勢力の如何に大きく対応した統治形態、すなわち第三権力の組織的形態及び国民構 成員としての新たな法制的確定が必要とされたことにより生じる。別のところでマ ルクスはこれを、さらに周到に、

「従来憲法というものは、社会の変革過程がある休止点に達し、新しく形づくられた 階級関係が確立してしまい、支配階級内で抗争する諸分派がある妥協を見つけて、それ により彼ら相互間の闘争をつづけながらも同時に、疲労しきった人民大衆を闘争から 締め出しておけるようになった場合に、はじめて作成され採用されたのであった」 (「フランスにおける階級闘争」)

と記している。


 「今日の話題」で国会での法制定の歴史を概観した。その歴史をたどりながら、私は 改めて愕然とし、暗澹たる思いを禁じえなかった。それは被支配階級の完全な敗北の歴史 ではないか!

 60年安保闘争時には30万人の人民大衆が国会を包囲した。時の首相・岸はその人民大衆 に恐怖して、自衛隊の出動を考えたという。教育基本法改悪は安保改定以上の重要問題だ と思うが、国会前に集まったのは、多いときでも4000人ほどに過ぎなかった。憲法改悪が 強行されるような状況になっても、現時点の人民大衆の力量はその程度に始終するのでは ないかと危惧される。まさに『疲労しきった人民大衆を闘争から締め出しておけるように なった』状態であり、『政治的支配権の帰趨がほぼ確立した時点』ではないだろうか。 もちろん、そうであったとしても闘いは継承していかなければならない。

 さて、スペイン革命に戻る。
 スペイン第一次革命(1808年~1814四年)では、スペイン全土がフランス軍に 占領されていた最中(1810年~1813年)に、臨時に召集された「議会」によって、 「1812年新憲法」が発布された。さきのマルクスの論述からみれば、いまだ革命と 反革命の抗争の真っ最中のこの憲法制定は時期尚早に思えるが、滝村さんはこれに ついて次のように述べている。


 逆にいうならば、旧支配階級全体と大きく客観的な階級的・党派的関連をもち、新たな、雑居的にして 速成的またすこぶる可動的な政治的諸分派は、この時点ですでに、「革命的」ないし 「反革命的」な政治過程における指導権を掌握し、さらにそれを一層強化・確立すべく、 崩壊した古い社会体制に代る、旧支配階級の少なからぬ出血・犠牲と裏腹の各種近代的 諸改革の断行を含めた、新たな体制的再編成つまりは反動的再興への、統一的政治理念 の提示を必要とするに到ったものと思われる。もっともこの「1812年憲法」は、1813年 総選挙での保守派の勝利と、ユリオ将軍の軍事的支持を背景として復古したフェルナン ド七世によって、1814年あっさり廃棄される運命にあったのであるが。

 しかし、この憲法は、その後、第二次革命(1820年~1823年まで)においても、さら に第三次革命(1834年~1843年)の最中の1836年にも、復活・再現されようとしたと いう。してみるとこの「1812年憲法」は、スペインの旧支配階級(端的には王侯・官 職貴族・聖職者・大土地所有者等)とその所属的構成要素としての商工中間階級上層 (正確には前者に寄生・癒着することによって経済的利害を同じくし、前者と同様の 特権的身分として安堵されることによって、政治理念的にも前者に屈服した限りでの 上層ブルジョア)が、革命的危機に陥った場合、政治理念的に許容できる最大限度の 政治的改革綱領としての性格をもっていたことになる。マルクスがその紹介と分析に 多くをさいていたとしても、一向に不思議ではないわけである。

第688回 2006/12/22(金)

唯物史観と国家論の方法(10)
スペイン革命における軍隊


 スペイン革命が結局は反革命に帰着していった大きな要因に、<軍隊>への依存という 陥穽があった。


 <国民大衆>一般から切り離された革命的都市住民、政治理念的には自由主義的ブルジ ョア諸層は、前者から見殺しにされればされる分だけ<軍隊>へ、すなわち軍の専制的支 配者(将軍)へ依拠せざるをえなくなる。これによって、元来<国民大衆>一般から遊離 していた軍隊の直接の独立性のうえに、さらに政治的主導性が客観的に附与されることに なり、その強大な政治的権力はますます強化されていく。

 しかも、かかる革命の軍事的専制の傾向は、「都市ブルジョア革命」の敗北による反革 命的旋回に伴なって、一層拍車をかけられる。因みにマルクスは、かかる傾向の必然性 を、例えば第二次革命に即して、こう解析している。

「このようにして国民大衆から切り離された革命的な都市の住民は、それゆえ、大公、 農村の聖職者、修道院権力、およびこれら社会の古くさくなった要素すべてを代表して いた王冠と闘争するにあたって、まったく軍とその指揮官たちにたよる以外になかった のである。このようにして軍が横奪した革命陣営内での立場そのものは、軍が大衆から 遊離していたこととあいまって、軍を、それを利用する人たちにとっては危険な道具、 それが撃つべき敵にたいしては危害のない道具たらしめたのである」

 そして別の小文「スペインの革命 - ギリシアとトルコ」では、一九世紀初頭以 来の一連のスペイン革命運動が、きまって右の如き直接の軍事的性格、すなわち軍部的 革命としての性格を全的に附与されて登場する他なかった原因を、実に的確に概括して いる。

「今〔一九〕世紀初頭以来のスペインの革命運動は、北部諸州を周期的に騒がせた州や 地方の特権擁護の運動を除けば、目立って似かよった様相を示している。宮廷の陰謀は すべて軍の反乱をともない、これはきまって都市のプロヌンシャミエント【革命宣言…… 註〕をひきおこしたのである。この現象には、二つの原因がある。
 第一にわれわれの知るとおり、近代的な意味で国家と呼ばれているものには、国民の 生活がまったく州別になっているために、軍隊というかたち以外に宮廷に反対して国民 を体現するものが存在しないのである。
 第二に、スペインの特殊事情と半島戦争は、スペイン民族の活力のすべてが軍隊にし か集中できない諸条件をつくりだしたのである。それで、二度しかなかった国民的な示 威運動(1912年と1822年との)は、ともに軍に端を発したのである。また、それで、国民 の活動的部分に、軍をあらゆる国民的決起の当然の道具とみなす習慣がつけられてきて いるのである。しかし、1830年から1854年までの困難な時期に、スペインの諸都市は、 軍が、国民の大業に服務しつづけるどころか、宮廷の軍事的後見をねらう野心家どもの 競争の道具に変えられたことを知るようになった」

 かくてマルクスは、後年の小文「スペインにおける革命」で、以上の歴史論的解明の すべてをふまえて、一連のスペイン革命における軍部的革命としての性格を必然たらし めた諸要因の統一的解析として、次の如き総括的見地を提示するに到る。

「なぜ軍隊がスペインの諸革命であのように顕著な役割を果たしたかという理由は、ほん の二、三のことばで語ることができる。
 軍制区制という古い制度、それは管区司令官たちをそれぞれの州のパシャとした。
 フランスにたいする独立戦争、それは軍隊を国家防衛の主要な道具としただけでなく、 スペインにおける最初の革命的組織、革命的行動の中心とした。
 1814-1819年の諸陰謀、それらはすべて軍隊に源を発した。
 1833-1840年の王朝戦争、そこでは双方ともに軍隊が決定的要因となっていた。  自由主義的ブルジョアジーの孤立、それは彼らに田舎の聖職者と農民とにたいして軍隊 の銃剣を使用せざるをえないようにした。自由主義者が農民にたいして銃剣を使ったのと 同じように、クリスティナとその宮廷党とは自由主義者にたいして銃剣を使用せざるをえ なかった。
 これらすべての前例から生じた伝統。
 以上が、スペインにおける革命に軍部革命の性格を、そして軍隊にプレトリアン的性 格(皇帝直属の親衛兵のこと……註)をおびさせた原因であった。
 1854年まで、革命はつねに軍隊に始まっており、そのときまでは、革命のさまざまな 現われには、それらを始めた軍人たちの階級の差異以外に、どのような差異のしるしも 表面に見られなかった。1954年においてさえも、最初の刺激は依然軍隊から出たのであった 」

 かかる歴史的論究をふまえるならば、第一次革命の反革命的結末が、すでに地方的小 デスボットとしての政治的・軍事的実力を確立していた、エリオ将軍をはじめとする 軍事的指揮者による、前国王カルロス四世の太子フェルナンド(七世)の国王としての 奉戴・承認として現われたこと。また、これを基礎とした1813年の総選挙での旧支配階 級・保守派の勝利によって、軍事的専制君主・フェルナンド七世による<アジア的デス ポティズム>の復古的再生と、次章でとりあげる「1812年憲法」の廃棄、革命的な政治 指導者の根こそぎ的一掃が断行されるに到った必然性も明らかとなろう。

第687回 2006/12/21(木)

唯物史観と国家論の方法(9)
革命と反革命のアジア的形態(2)



 かかる革命的政治権力形成の圧倒的立ち遅れを裏返していえば、支配階級の総体的強靭 さであり、さらにそれを可能としたアジア的構造の頑強さを意味している。実際、支配階 級にとって、国民を各地方的統治権力(小デスポッ卜)傘下の農村共同体に相互的連絡を 欠如させて分断・閉塞せしめ、それによって彼らを古い伝統的な地方的利害と偏見・精 神・信仰にしばりつけておくためには、アジア的構造程、恰好の道具は他にあるまい。

 しかし「革命的少数派」が、「古い民衆信仰の国民的偏見」を、一掃・克服するための 思想的・イデオロギー的闘争と大衆教育を放棄したとなれば、新しい<中央的-地方的> 統治機構の中枢に、それまで冷飯を喰わされていた旧支配階級内部の人々が、他ならぬ人 民自身によって選出されるという形態をとって登場・進出したり、従来のオリエント風の 儀礼が新たな中央官制の一環として採用・継承されたり、「王室会議」の如き旧国家機構 の名目的最高機関が、形式上「中央会議」と対峙する最高中央官制として復古的に継承さ れても、一向に不思議ではない。むしろ不可避的でさえあったろう。因みにマルクスは、 これらの点についても、実に周到な報告と観察を提示している。実にすばらしい記述でも あるので、そのいちいちを紹介しておきたい。


 「会議(「州会議」のこと……註)は普通選挙によって選ばれた。しかし、『下層階級 の熱意そのものは、服従というかたちで発現した』。彼らは、ふつう彼らより生まれつき 身分の上の者たち、すなわち聖職者とごくわずかな中間階級の名士がそのあとにつづいて いる、州の貴族と準貴族だけを選んだ。人民は、侵入者にたいする抵抗の指導に参加しよ うとせず、むりやり上流階級をその抵抗に引きいれるということにだけ彼らの創意をかた むけた。それほど、彼らは自分たち自身の弱さを知っていたのである。……こうして、 会議は、従前の地位のために選出された、革命的指導者とはおよそかけはなれた人々で、 いっぱいになった。
 他方、人民は、これら官庁機関を任命するとき、その権限を制限することも、その任期 を一定にすることも考えなかった。」

 「これらの州会議…‥は、このたびは、革命で頭角を現わした者のかわりに、スペイン の大公、高僧、カスティリャの称号保持者、元大臣、文武の高官を『中央』会議に送った。 スペイン革命は、その手はじめにおいて、適法でありりっぱな身分でありつづけようと努 力したことによって、失敗したのである。」


 「これらの会議(「州会議」のこと……註)がそれぞれに発した人民への呼びかけは、 長い昏睡状態から突如としてゆり起こされて電撃によって熱病的活動状態に高められた 一国民の英雄的な勇気をあますところなく示しているが、同時に、シスモンディをして スペイン文学に東洋的(オリエンタル)という形容詞をつけさせたような、あの仰々しい 大言壮語、あの道化と高言とのまざりあった文体やあの大げさな誇張につきまとわれてい た。それらは、また、スペイン気質の子供じみた虚栄心をも見せていた。たとえは、会議 の議員は殿下という称号を用い、きらびやかな制服をまとっていたのである。」

 「因襲的な名望と真の偉大さとを混同し、いつも自分の肩書をだらだらと数えたてて 名乗りでる、カルデロンの戯曲にでてくる傲慢な主人公たちと同じように、会議 (「中央会読」のこと……註)はまず第一に、彼らの高くなった地位にふさわしい名誉と 勲章を法令で定める仕事にとりかかった。彼らの議長は『殿下』、他の議員は『閣下』 という尊称を受け、会議総体には『陛下』という敬称が定められた。議員たちは、将軍の 制服に似た滑稽な制服を採用し、胸に二つの世界(新旧両世界)をあらわす徽章をかざ り、お手盛りで一二万レアルの年俸を可決した。」


 「有害なスペインの官僚位階制度の頂点には、カスティリャの王室会議があった。 それは、ドン・ファン家とエンリケ家との騒乱時代に出現し、フェリぺ二世により宗教 裁判所のすぐれた補足物と認められて強化されたが、災厄の多かったその時勢とその 後無力な国王がつづいたことによって力を増し、まったく不相応な権限を強奪して手中に 集め、最高法廷としてそれがもつ諸権能に、スペイン全王国の立法者および行政長官の 諸機能をつけくわえるにいたった。
……そのためそれは、革命にとってはけっして妥協 できない、革命のほうがそれによって一掃される羽目にならぬよう革命の側が一掃しな ければならない権力であった。
……しかし中央会議は、その結成の日にまことにばかなことをした。それは、王室会議 に成立を通告し、それにたいする王室会議の忠誠宣誓を要求し、さらにそれを受け取った あとで同じ形式の宣誓を王国内の他の政治機関すべてに発送するであろうと通告したので あった。
……中央会議は、その最初の大失策にもあきたらず、合同会議 ― 王室会議と、昔 あった王直属の諸参議会のその他の残骸一切とを合同させたもの ― を創設して王 室会議を復活させるほど暗愚であった。こうして中央会議は、反革命のためにみずから すすんで一つの中央権力を創設した。」

第686回 2006/12/20(水)

唯物史観と国家論の方法(8)
革命と反革命のアジア的形態(1)


 私の貧弱な読書経験のうちでも、マルクスの「ブリュメール十八日」に言及している論稿に 何度かお目にかかることがあった。しかし、実は今テーマになっている「革命の スペイン」については、私はその存在すら知らなかった。滝村さんは、今取り上げている 論稿の最後を次の一文で締めくくっている。

『このようにみてくるならば、「革命のスペイン」が一般にはまったく知られていない ことのうちに、実はマルクスの唯物史観の歪曲と無理解の長い歴史が横たわっているので ある。』

 滝村さんの壮大な国家論構築の営みは、その「歪曲と無理解の長い歴史」への挑戦であり、 マルクスの正当な復権の試みであるだろう。

 さて前回では、スペイン革命が最終的には反革命の形態をとり、結局はアジア的国家構成の 再生的復古に帰着していった跡をたどった。マルクスは次のように言っている。

『全体としてこの運動は、革命的であるよりもむしろ反革命的であるようにみえた。 フランスからのスペイン独立を宣言したという点では民族的であったが、それは同時に、 「人望ある」フェルナンド七世をジョゼフ・ボナパルトに対置したという点で王朝的で あり、古い制度や慣習や法律をナポレオンの合理的革新に対置したという点で反動的で あり、「神聖な宗教」をフランス無神論とよばれていたもの、あるいはローマ教会の 格外の特権の破壊に対置したという点で迷信的・狂信的であった』

『フランスにたいしておこなわれた独立戦争は、すべて、反動とまじりあった再興という 特性を共通におびているが、その度合いがスペインほどいちじるしいところはどこにもな かった』

 次に、スペイン革命がそのように不徹底に始終したのはなぜか、その具体的な分析が 行われている。この部分を私は、日本の明治維新、さらには現時点の政治的な動向や さまざまな問題を重ねながら読んだ。原文のままの引用をする。


 それは直接には、近代社会としての一応の物質的条件を生み出すまでに発展していた 「海港、商業都市および一部の諸州主都の住民」を構成母胎とし、彼らの上層・中層の 教養ある部分すなわち著述家、医者、弁護士また司祭等の自由主義的政治理念によって、 先導されていた「革命的少数派」が、アジア的国家構成の崩壊に伴なう国民的抵抗・独立 戦争遂行を中心とする一連の政治過程で政治的主導権を極めて安易に掌握しようとして、 「古い民衆信仰の国民的偏見」に基礎をおく伝統的な復古的精神に身を委ねてしまったこ とに象徴される。

 この点に対するマルクス一流の鋭い解析は、何としてもしかと記憶にとどめておかね ばならない。曰く、

「祖国の共同防衛だけが問題であったあいだは、国民的政党を構成していた二大要素は、 完全に一体となっていた。彼らの対立は彼らが議会で、そこで起草されることになって いた新憲法という戦場で、相会するまで、現われなかった。革命的少数派は、人民の愛 国精神をあおるために古い民衆信仰の国民対偏見に訴えることをためらいはしなかった。 この諸戦術は、国民的抵抗の当面の目的には役だつようにみえたであろうが、古い社会 の保守勢力が革命派の本来の究極的計画にたいして自己を守る目的で、この同じ偏見と 民衆感情とのかげに立てこもる時がやってくるや、この少数派にとって致命的なものと ならないわけにはいかなかった」

 要するに、社会階級的な実体としては革命的都市の住民よりなり、政治理念的には自 由主義的ブルジョアジーと規定さるべき「革命的少数派」は、政治的動乱期には反革命 的ないし反動的な政治党派として登場してくる、旧来の支配階級の保守的政治党派と全 く同様の方法で、政治的主導権を掌握しようとしたのである。

 だが、革命的党派は、旧来の支配階級と同様の方法で、政治的支配権を確立すること はできない。それはただ、革命の徹底的な方向性(歴史的必然性)を周到に予見・ 把握し、政治・社会変革のトータルビジョンの創出を前提とした、古い社会を根柢から 一掃するにふさわしい革命的精神とイデオロギーによって、国民を、第三権力を基軸と する支配階級の強大な政治的権力にとって代る、強力な一大革命的政治権力として組織 することによってのみ可能となる。

 しかもときのスペインの「国民的政党の大多数派をなしていた」、「農民、内陸の 小都市の住民、法服をまとった乞食坊主やまとっていない乞食坊主の大軍」が、「すべて 宗教的・政治的偏見に根ぶかくとりつかれ」ていたとしたら、かかる国民的大衆組織化に おける、革命的情熱と政治的理念による徹底的な思想・イデオロギー闘争を通じた、大衆 的政治・思想教育の意義は、とりわけ銘記さるべきであったろう。もとよりかかる国民の 革命的政治権力としての組織化が、個々の歴史的・民族的な諸条件の如何によって、 多種多様な形態をとらざるをえないこととは別に、これは国家体制の如何を問わず、 革命的党派がとるべき根本原則に他ならない。

 従って、スベインの「革命的少数派」が採用した一見柔軟な「諸戦術」は、実は革命 の根本原則に対する背反としての性格をもっていたわけである。

〔この種の原則的背反は、よくあることである。例えばもっぱら選挙目当に、つまり ブルジョア独裁の政治的代理人たる既成の「保守的」ないし「革新的」な議会政党 と全く同様の方法で政権にありつこうとして、領土問題で極右的な強硬発言をして人民の 素朴な愛国心に迎合しようとした、どこかの「共産党」を想起すればよい。〕
 

 滝村さんのこの論文が書かれたのは1977年ごろと思われる。その年に日本共産党は 千島返還をめぐってソ連共産党と激しい応酬をしていた。最後の〔 〕内の文章が 書かれた背景を知るための手がかりとして、念のため。
第685回 2006/12/19(火)

『国家意志』とは何か(4)
「資本の意志」と「経済的権力」


謬見3
(1)
『市民社会が国家によって「総括」されるのは、ただ市民社会の運動する主体である 資本が、労働力および土地を包摂しえず、それらが、その実体的根拠に基づいて外部 に設定され、その間に階級闘争や対立関係を想定したために、市民社会内部で「総括」 されえないことによっていた』

(2)
『原理論は、まさに市民社会に対応する意識が形成されているならば、すなわち市民 社会が、本質としての資本主義=階級関係に過不足なく対応するものとするならば、 市民社会的意識・イデオロギーを「法規範」にまで高める必要がないことを示す。 だが、同時に市民社会はそれとは<不対応>の意識を生み出さざるをえない存在なの である。したがってこうした<不対応>、市民社会から<ずれ>た意識、イデオロギーが 形成されるとき、市民社会イデオロギーの法的規範への普遍化が要請されることになる。 しかし問題はあくまでもイデオロギーの領域のことであり、とりわけ被支配階級たる労 働者階級の主観に関することであって、そのことは明らかに原理論の領域を越える問題 である』

 とても分かりにくい文章だ。私なりの解釈で言い直してみる。

(1)
『市民社会の形成発展の主体である資本は、労働力や土地を自らの自由になるものとして 包摂できないため、諸階級・諸階層との階級闘争や対立関係を想定せざるを得なかった。つまり、 市民社会の中だけで市民社会を「統括」することができなかった。それゆえに市民社会を「統括」 する国家(第三権力)を必要とした。』

(2)
『原理論(「宇野経済学」の)によれば、市民社会の本質としての資本主義=階 級関係をそのまま受け入れる非敵対的な(<対応>した)市民社会的意識・イデオロギーならば、それを「法規範」として 定立する必要はない。しかし、市民社会はその本質とは敵対的な(<不対応>な<ずれ>た) 市民社会的意識・イデオロギーを生む必然性を持っている。特に労働者階級の主観にもとづくイデオロギーがそれ である。そのような敵対的な市民社会的意識・イデオロギーに対処するために、 非敵対的な市民社会的意識・イデオロギーを普遍的な法的規範として定立することが要請される。 しかしそれはイデオロギーの問題であり、原理論とはまた別の問題である。』

   鎌倉・中村氏のこの論述を滝村さんは、他の部分も引用しながら、次のように解説し ている。


 「基盤」としての「資本主義社会」は、どういうわけか全く判然としないが、その 「階級的本質」とは不対応の敵対的な思想・イデオロギーを、「あらゆる領域の中から 生」み出し、ここにかかるイデオロギー的幻想領域を直接実体的に抱え込むことに よって、「資本主義社会」との「ずれ」をもった「市民社会lが生まれる。かくて 「市民社会」は、

「市民社会は、資本主義社会において必然的に形成される物神的外観=仮観なので ある」
「市民社会が所詮階級関係の本質の隠蔽形態」
「基盤における階級関係の隠蔽形態である市民社会J

等と規定されることになる。そして、かかる「資本主義社会」の幻想的・イデオロギー的 隠蔽形態としての、「市民社会」に基礎づけられてはじめて、「法治国家」が成立すると されている。


 まがりなりにも「滝村国家論」をいくらか学んできた私(たち)にも鎌倉・中村両氏の 理論の理論的な不備・欠陥がいよいよ明瞭となってくる。滝村さんは、 「疑問点1・2」と「謬論1・2・3」を総合して、次のように総括している。


 まず第一に「資本主義社会」から「市民社会」への論理的転成を媒介する、思想・イデ オロギーの形成を主体的に担うものこそ、「とりわけ被支配階級たる労働者階級の主観に 関すること」とされ、この意味でそれは国家的支配の存立とくに国家意志形成を大きく 支え、また直接的に規定すべき根本問題として位置づけられる。先の第一疑問点とそれ に関わる謬論は、ここから必然化されたものである。

 第二に、直接に「階級的本質」を把持することによって、自律的独立を完備している のは、あくまで「基盤」としての「資本主義社会」である。従って、「市民社会的イデ オロギー」を幻想的・イデオロギー的土台として形成された「法的規範」は、それ自体 形式的かつ普遍的ないわば純粋観念の如き存在であって、直接「階級的性格」をもたな い。かくて「法的規範」は、直接に「階級的本質」を把持した「資本主義社会」を大き く形式的に維持することによってはじめて、媒介された階級性を実現するにすぎないと いう、先の謬論に連なっていく。


 なぜこのような謬論が出てくるのか。宇野経済学の原理論を絶対的な前提としていて、 それをそのまま国家論上の原理論としてしまっているからであると、滝村さんは指摘し ている。


 両氏にあっては、宇野経済学で狭義にとらえられた「資本主義社会」が、「市民社 会」と機械的に切断されて解釈されている。これは、「資本主義社会」における直接 の階級的搾取関係から、意志の問題をそっくり抜き取ることによって必然化されたも のであって、つきつめていけば、宇野経済学における唯物史観の実質的不在に突きあ たる。換言すればそれは、唯物史観に独自の原理的・方法的位相を全く無視すること によって、実質上それを経済学に解消(解体)させてしまった点に基因する。

 しかし両氏を含めて宇野経済学の発想に立つ人々は、一体全体資本制的搾取が、 <資本の意志>への労働者の服従という、規範としての<意志>を軸とした意志の 支配=従属関係の創出を媒介としないで、現実的に可能とでも考えているのだろうか?

 然り、資本制的搾取とは、現実的には資本家による労働者へ の現実的支配としてのみ 存在するのであって、<資本の意志>を必須的媒介とした労働者に対する経済的支配と いう点で、そこには経済的権力が成立している。さればこそマルクスも『資本論』 で、かかる<資本の意志>による組織化とそこでの経済権力について再三言及しているわ けだ。この点とくに両氏の根本的再考を乞うものである。

 政治的事象も経済的事象も、歴史的・社会的事象としての一般性をもっている。 従って、政治学・経済学としての原理的解明においては、<世界史>の発展史観を 方法的土台とした一般的な社会構成理論としての唯物史観を、方法上縦横に駆使・運用 しなければならぬ。くどいようだが、唯物史観を原理的・方法的前提としなければなら ない点においてのみ、政治学と経済学とは方法的共通性をもっているのである。 従って、国家論の理論的追究と体系的構成にあたって、徹頭徹尾原理的・方法的に 依拠すべきは<唯物史観>である。間違っても経済学とくに『資本論』の宇野弘蔵的 解釈としての宇野経済学の方法的発想ではありえない。

第684回 2006/12/18(月)

『国家意志』とは何か(3)
国家支配の存立を可能にしているのは何か。


謬見1
『被支配階級は、なぜ支配階級の意志を普遍的な「共同利害」と幻想してしまうのか』


 このような見地が意味を持つのは『国家的支配の実現諸形態に関わる問題』としてで あって、『国家的支配の本質論とくに規範論に関わる問題』ではあり得ない。例えば、 このような発想を敷衍すると次のような見解に結びつこう。

『国家支配は、被支配階級が支配階級の意志を社会全体の「共同利害」にもとづく普遍的な意志と 幻想し錯覚してしまうからこそ可能であり成立している』

 これは国家支配の本質論的見地からは謬見というほかない。そして、このような謬見は 『法的規範に関する最も基礎的無理解が前提となっている。』と、滝村さんは言う。


 まず銘記さるべきは、支配階級も被支配階級も社会の構成員である以上、社会全体の 秩序維持に関わる普遍的な法的規範としての国家意志に服従するよう強制されている点 である。すなわち法的規範への服従を強制されているという点では、支配階級も被支配 階級もない。ひとたび国家意志として観念的に対象化されれば、<悪法も法なり>として 強制され強引に貫徹されるのである。

 従って国家的支配の存立を本質論的に把えるならば、国家意志が国民的諸階級・階層 から意志の服従を獲得することによって、国家意志が社会全体にすみずみまで貫徹され ていること、この意味で国家意志を基軸とした国民的諸階級・階層全体との、意志の体 系的な支配=従属関係が実現されていることを示している。

 換言するならば国家的支配、すなわち国家意志による国民的諸階級・階層からの意志の 獲得が、強制的に断行されようが、両氏がいう<被支配階級の幻想と錯覚>といった純然 たるイデオロギー的同化によって達成されようが、それらは国家的支配の実現諸形態に 関わる問題であって、国家的支配の本質論的存立に関わる問題ではありえない。


謬見2
『いかに「法」を作成し、その中に階級的意志を反映させたとしても、「法」自体には 階級性はない』


『こうして国家形式としての法治国家が形成されるのだが、それ自体は何ら階級的性格を 有するものではない。なぜならば、それは第一に、それが市民社会として被支配階級にも 共通する現実的基盤を有しており、第二に、法とは普遍性そのもののことであるからであ る。しかしこの形式を守護し、遵守すること自体が資本主義社会における支配階級を保存 し、その支配を永久化する機能を果たすものである』

 このような見解は、私にもはっきりと謬見であると判断できる。国家意志形成や その展開の現実過程から得られる経験知の見地からでも、このような見解を認めることは できない。こうした謬見に対する滝村さんの理論的な補正は次のようである。


 両氏は一体、大きくは公法・私法区分において体系化された一般的諸法や関連個別 的諸法、またそれらに直接依拠した形で現実化される<政策>としての国家意志の展 開等、そのどれでもよいが、これらの国家意志形成が内的に孕む壮大な歴史的ドラマ を、一度でも追究してみたことがあるのだろうか?

 まず、不断の相互的対立と抗争にあけくれる支配階級の意志が、総資本的意志として 大きく一般的に集約され強力に押し出される過程自体、多くの場合内部的自主調整が不 可能で、有力政治家や高級官僚の直接的関与を必要としている。それらを通じて、支配 階級内部での対立・抗争の制御と調整が、ときどきの階層的力関係に応じていわば暫定 的に確定される。そして、かく形成された総資本的意志が、国家意志としての実質的転 成を実現する過程には、さらに被支配的な諸階級・階層の意志や、幻想上の「国民的 一般意志」としての<世論>が、複雑かつ多様にからみ合って規定してくる。

 確かに、主に一般的<法律>形態をとった国家意志には、ときどきの総資本的意志を 中心とした諸階級・階層的意志が、それ自体としてではなく、まずその背後にひそむ政 治的・社会経済的秩序維持に関わる高度の一般的性格においてとらえられ、次で<法律> 特有の形式的論理にもとづく抽象化が施されたうえで、反映されている。しかしこれは、 出来した特殊的・個別的事態への第三権力による普遍的な一般的対処としての 必要からのことであり、あくまで<統治>の技術的便宜と形式にもとづくものでしか ない。法的規範形態をとった国家意志の、歴史的・階級的所産としての根本性格を、少 しも否定するものではありえない。

 さればこそ法的規範は、歴史的・社会的諸条件の変化とともに、とくに諸階級・階層的 力関係の変化に伴なう階級的特殊利害の変化と要求によって、たえざる新たな立法とそれ に伴なう既成の法体系の形式的整備(関連個別的諸法の修正・廃棄等)を、否応なしに強 制されるのである。

第683回 2006/12/17(日)

『国家意志』とは何か(2)
総資本意志


疑問2
 総資本的意志とは何であり、それは何故どのようにして国家意志として押し出されてくるのか。

 現在世界中に害悪を撒き散らしている「新自由主義」とは、資本主義の本性をむき出し に押し出だしてきた反動的な旧態然とした資本主義イデオロギーにほかならない。 何に対する反動か。

 共産主義国家の誕生にともなって、それとの対抗のため、先進資本主義諸国は国民の 支持を保持するためにの経済的福祉的優遇政策をとり始めた。その結果、不充分とはい え、共産主義諸国がなしえなかった福祉国家としての体裁を形成した。しかし共産主義 国家の消滅によりその反動が始まった。そのわずかばかりの経済的福祉的優遇政策を回 収し始めたのだ。「新自由主義」などと衣装を凝らしているが、資本主義本来の本性をむき 出してきたにすぎない。

 さて、資本主義は自由競争のもとでなけれは死滅する。ブルジョアジーは不断に相互 的対立と抗争をくり返している。その当然の帰結として、産業上の覇権と集中化が行わ れる。同業種間で始まった業種ごとの地域的な結集は全国的連合へと進展し、さらに あらゆる業種・部門における産業上の有機的関連と中央集権化を必然化する。また ブルジョアジーは、全国的に階級的結集し組織化されたプロレタリアートとの闘争に 対処する必要もある。ブルジョアジー全体としての「階級的共通利害」のうえからも 産業上の中央集権化が強力に促進され、統一社会的レヴェルでの資本の有機的連合 と中央集権的な統一的組織化が達成される。日本では日本経済団体連合会(経団連)と 経済同友会がある。

 総資本意志とは、上記のようなブルジョアジーの統一的組織が打ち出してくるブルジョアジー階級 の統一的な一般的意志のことである。「御手洗ビジョン」は、もちろん、御手洗個 人の意見表明であろうはずがない。それは総資本意志の宣言にほかならない。


 近代市民社会は、資本制的生産様式にもとづいて形成されている。従って、かかるブル ジョアジー全体の階級的結集と中央集権的組織化にもとづいて形成された総資本的意志は、 資本制的生産様式全体に関わるものとして市民社会全体に関わり、この意味で直接に <政治的性格>を把持している。

 しかしブルジョアジーは、現実的にはあくまで個々の資本家として、傘下の企業労働者 を経済的に支配(それも法制的には「商品所有者」同士の契約にもとづいて)できるだけ で、かかる総資本的意志を、プロレタリアートはじめ国民的請階級・階層の全体に直接 押しつけ、服従させることはできない。

 これはたんに、そのための物理的・強制手段をもっていないといった単純な問題ではな い。ブルジョアジーは<近代>以前の支配階級とは根本的に異なり、あくまで経済的支配 階級なのであり、社会全体の形式的秩序維持のための政治的手段を直接もたず、従って 政治的な統治階級としては直接構成されていないからである。これこそまさに<近代>に おける<国家>と<市民社会>との構造的分離・二重化の核心的問題であり、より端的に は支配階級における<政治的>部分と<社会・経済的>部分との社会的分業が、はじめて 統一社会的規模で形成されたことを意味している。

 かくて総資本的意志は、社会全体の形式的秩序維持に関わる各種法的規範形態をとった 国家意志として、特殊に転成されねばならないのである。

第681回 2006/12/13(水)

『国家意志』とは何か(1)
被支配階級の意志と国家意志


( 2016年11月9日に再掲載した『「今日の話題」+「滝村国家論」』で取り上げた「国家意志」についての疑問点を解明することがこのシリーズ目的です。)

 国家意志は法的規範形態をとって押し出される。そのとき、実質的には支配階級の意志が強力に 貫徹される。では被支配階級の意志が反映されることはないのだろうか。

被支配階級の意志が、国家意志形成において部分的にでも反映さ れるとすれば、それは原則上、各種公共土木事業や社会福祉また国民的諸階級・階層へ の各種経済的保護・育成等の、社会・経済政策に関わる経済的国家意志に限定される。

 例えば労働三法は、市民社会における労働者の<必要労働>の法的保障、すなわち 国家的レヴェルにおける保障である。資本制的生産様式内部の資本家による労働者の <剰余労働>の搾取には、家族を含めた労働者の労働力維持・再生産に関わる <必要労働>の保障が前提となっている。従ってこの種の立法は、ブルジョアジーの 社会的存立条件としての資本制的生産様式に敵対し、それを根本から脅す性格をもた ない。それどころかプロレタリアートとの階級闘争を、利害調整の可能な「商品所有 者」同士の、純然たる経済的対立のレヴェルに制御することによって、のっぴきなら ない観念的な政治闘争への転化を防護する、有力な武器として役立つ。

 『階級闘争』。今ではほとんど死語になってしまっただろうか。この言葉を軸に 論じる論者を「時代錯誤」と嘲笑する「識者」のしたり顔が見える。ソ連の崩壊に慌 てふためいてマルクスという貴重な理論的財産まで捨ててしまったサヨク日和見「識者」 の。思わく通りに労働組合を骨抜きにしてほくそ笑んでいる支配階級のウヨク幇間 「識者」たちの。
 しかしどっこい、階級対立はなんら解決してはいない。そんなことは現実を一瞥す れば明らかじゃないか。『階級闘争』が時代錯誤であろうはずがない。

 さて、労働三法のように被支配階級の意志が部分的にでも社会・経済的国家意志 へと反映されている場合があるが、それは資本制的生産様式を維持するためにも必要 であり、経済的支配階級(ブルジョアジー)にとっても役立つからにほかならない。

 このような被支配階級の意志の国家意志への反映はどのようにして可能だったのか。 それはあくまで階級闘争を通じてである。階級闘争を通して支配階級にその意志を押し つけることによって成立した。この意味で労働三法は、階級闘争の歴史的所産と位置づけ られる。

 階級闘争は、もちろん、労働組合による直接行動だけで貫徹できるわけではない。 それを根本的原動力としつつも、多くの場合直接には、<世論>という幻想上の 「国民的一般意志」による強力な観念的圧力が必要不可欠である。

 では世論は誰が創るのか。
 国労が元気な頃、国労のストを他の労働者が迷惑がっているさまをマスコミが盛んに 流布していた。このときの労働者は「一般市民」に変身している。私が現役の頃、 都立高校でも重要問題に対してはストを組んだが、このときは保護者からの批判 という形でのマスコミからの圧力が盛んだった。今度は「一般市民」が保護者の 顔をする。そしてどの場合でも、マスコミは決まって「両論併記」でごまかし、 はっきりとした権力批判を打ち出さない。思えばマスコミのこの体質も、いわゆる 一般市民のすが目ぶりも今に始まったことではない。しかし、このマスコミと 一般市民、このヌエのような二要素が世論形成の要をなしている。

 この<世論>という幻想上の「国民的一般意志」による強力な観念的圧力があって初めて、 『議会内有力政治家と政府-執行機関中枢による高度の政治的判断』が行われ、被支配 階級の意志は立法化される。

 法制学では<公法>・<私法>という概念がある。滝村さんもそれを次のように定義 して用いている。
 <私法>とは『社会・経済政策に関わる法的規範』であり、『社会全体の 政治的秩序維持に関わる法的規範』が<公法>である。つまり、<公法>とし て押し出されるのは『ときどきの生産様式の全体つまり直接の階級的支配体制を、大き く外面的に束ねる<政治的支配>に直擦関わる性格の国家意志』である。

 これまでの論述は『被支配階級の意志は<私法>においては部分的に反映されるこ とがある』とまとめられる。では<公法>においてはどうなのか。滝村さんは 被支配階級の意志の反映は<公法>おいては『原則上不可能である』と言っている。


 このことは、政治・外交に関わる国家意志の最高的裁可・決定権のあり方や、大衆的 政治闘争の激化を厳しく禁圧した各種治安立法をみれば一目瞭然であろう。

 最近の例をあげれば、政治上の例としては強引な教育三法の改悪(2001年)がある。また、 外交上の例では、世論の圧倒的反対を押し切って行われた「自衛隊のイラク派兵」が すぐ思い出される。

 いま行われている教育基本法「改悪」に対する闘いは、被支配階級の意志を<公法>にも 反映させるための闘いであり、その「改悪」を阻止できれば、画期的な勝利ということが できる。被支配階級の意志の反映は<公法>おいては『原則上不可能である』と滝村さんは 言うが、今行われている闘いには可能性がおおいにある。今が正念場の差し迫った 事態でになっているが、その阻止のためにはもっと広範な直接行動とそれをてこにした 圧倒的な世論の盛り上がりが必要不可欠だ。
第679回 2006/12/11(月)

唯物史観と国家論の方法(8)
アジア的国家の形成・崩壊・再生


 アジア的国家について、簡単にまとめておく。

 アジア国家とは、<原始的>な共同体的構成が分解する以前の自給自足的な完結性を もった村落的規模の諸共同体がつくる農耕共同体世界において、支配共同体が他共同 体を直接個別的に束ねた<祭祀的・貢納的・軍役的)な従属共同体支配体制が形成・発 展したものである。従って、それは、形成的な段階と完成的な段階との二つの構成段階に 大別することができる。
 前者は、従属共同体支配者が安堵的王・侯として地方的統治権力を保持している 多分にルーズにしてラフな<祭祀・貢納・軍役〉体制である。
 一般的統治・軍事・徴税(財政)の三権において、各種地方的統治権カが支配共同体の 直属的機関としての転成したとき、アジア的国家は制度的に完成されたことになる。 この後者の個別歴史的典型は中国の、特に隋・唐以降の歴代王朝である。
 いわゆる<オリエント的>国家は、世界史的国家としては<アジア的>国家に一括さ れるものであり、すべて前者の段階に属するといえる。

 「スペイン絶対王政」は、根本的には経済社会的基底における国民的規模での社会的 分業と交通関係が未発展であり、地方的統治権力の独立的性格が強く、不安定なモザイ ク的国家体制という点で、<オリエソト的>なアジア国家ということができる。

 さて、「中央会議」は、近代国家の完成的に発展した第三権力と比べれば、 形式的で名目的な第三権力にすぎないと見える。しかし、内・外からの国家的秩序全体 に直接関わる諸問題への実践的対処を通じて、新しい政治的・経済的支配階級としての 共通利害が形成され、まがりなりにも観念的・イデオロギー的に認識される政治的・ 国家的理念が形成される客観的な制度的条件が創出されたことを意味する。言い換えれば、 これは、<外的国家>構成という現実的必要から<共同体-間-第三権力>が先行的 に形成され、それが<共同体-内-第三権力>へと国家的支配が完成的に発展していく 一般性を示している。

 しかし、スペインは<オリエソト的>なアジア国家構成からの段階的な脱却の兆しを 示しはしたが、それは近代的国家への転成とはならず、<革命的>あるいは<反革命的> な姿態をとりながら、新たな形態でのアジア的国家の再生的復古という基本的性格を 継承するほかなかった。

 以上のことをマルクスの叙述で確認してみよう。


 「フランス軍が1809年末にガリシアから撤退するにいたったあと、わが侯爵、中央 会議委員は、コルニャ市にはいり、公権力をすべて一身に集め、蜂起とともに数を増 した地区会議を弾圧し、そのかわりに軍総督を任命したり、これら会議の議員たちを 迫害するとおどしたり、実際に愛国者を迫害したり、侵略者に加担してきた者たちす べてに最高の親切さを発揮したりして、その他すべての点でも有事で無能で移り気な 愚物であることを証明した。いったい、ガリシアの地区会議と州会議は、どういう 不行届をしでかしていたのか? それらは、階級や人物による除外例のない一般徴兵 を命じた。それらは、資本家と地主に税金を課した。それらは、公吏の給料を引き下 げた。それらは、宗教団体にたいして、その金庫内にある収入金を会議の自由にさせ るように命令した。一言でいえば、それらは革命的な諸方策をとったのである。」

 「バレンシア州では、民衆が自分たち自身と自分たちで選んだ指導者たちだけで事 をはこんでいたあいだは新しい展望がひらけてくるようにみえたが、そこでも革命的精 神は、中央政府の勢力によって打ち破られた。中央会議は、この州をドン・ホセ・カル ロなる人物の統率下におくだけでは満足せず、『自分たち自身の』委員としてラバソラ 男爵を派遣した。この男爵は、いくつかの上部からの命令に反抗したかどで州会議を 非難して、州会議の法令を破棄した。その法令によって、司教座聖堂参事会員、聖職 禄受領者および騎士修道会員の空席の補充は賢明にも中止され、その収入は軍病院の 費用にあてられていたのである。このため、中央会議と.バレンシア州会議とのあいだ に激しい抗争が起った。このため、のちになって、バレンシア州は、シュシェ元帥の 自由主義的政治下で無活動におちいることとなった。このため、この州は、帰国して きたフェルナンド七世を、当時の革命政府に反対して国王として宜言することに熱意 をみせることになったのである。」

 「将軍たちは将軍たちで、当然のことながら中央政府に参加したり、それと争った り、それにたいして陰謀をたくらんだりして、いつも自分たちの剣の分銅で政治の天 秤を左右していた。それで、のちには母国のための戦役で敗北を喫すれば喫するほど 中央会議の信頼を獲得したようにみえるクェスタのごときは、まず手はじめに王室 会議と共謀して中央会議のレオン州代表を逮捕したのであった。中央会議の一員で あったモルラ将軍のごときは、マドリードをフランス軍に明け渡しておいてから、 ボナバルト側の陣営に寝返った。同じく中央会議の一員であった気取り屋のロメリヤ ス侯は大ぼら吹きのフランシスコ・パラフォクス、悪党のモンティホ、騒擾好きの セビリャ会議とともに、中央会議にたいして謀反を起こした。カスクニョス、プラケ、 ラ・ビスバル(オバンネル家のひとり)という将軍たちは、議会時代につぎつぎと 摂政として登場し謀反を起こしたし、またバレンシアの軍管区司令官ドン・ハビエル ニリオは、とうとうスペインをフェルナンド七世のお慈悲の手に引き渡した。」

第678回 2006/12/10(日)

唯物史観と国家論の方法(7)
スペイン革命の特質


 19世紀初頭以来の数次にわたる一連のスペイン革命の過程を通じても、スペインにおけ るアジア的政治社会構成は、その都度表面上(形式制度上)はさまざまな形態上の変化を 生みつつも、いぜん基本的には継承・把持されていった。このことを、前回と同様に、 マルクスを引用しながらすすめている滝村さんの詳しい論述で追っていこう。


 マルクスは、右の如き<アジア的>国家構成を歴史的舞台とした、「スペイン革命」の 勃発とその特質、すなわち革命の政治過程の特質を、鮮明に描き出している。そこでは 何よりもナポレオン(一世)によるスペイン征服を契幾として、速成的に 構成された「革命的」ないし「反革命的」な<中央的-地方的>政治権力の、形成・ 発展・衰退・変質の歴史過程が、理論的に検討されている。

 まず、かかる<中央的-地方的>政治権力形成は、<王権>すなわちデスポティック な<中央-地方的>統治権力に結集した上級貴族層が、ナポレオンによるスベイン統治に 屈服したことに発する。すなわち彼らは、民族的・国民的抵抗を組織することを放棄する ことによって、

「中産階級と民衆とにたいする支配権をまったく失った」

ばかりか、その多くは、

「怒り心頭に発した民衆の犠牲となって倒」

され、さらに

「いたるところで、既存の官庁が廃止された」。

 他方、形骸化された中央権力(政府)は、フェルナンド七世が

「ナポレオンの召喚に応じてマドリードを去」

るやいなや、形式上存在した

「ドン・アソトニョ親王を議長とする国政最高会議」

は、あっという間もなく消滅してしまった。かくて、

「中央政府は存在しなくなり、蜂起諸都市はそれぞれ自分たちの会議を結成した。 それは、州主都の会議によって統轄されていた。これらの州会議は、いわばじつに 多くの独立政府をなしていて、それぞれ自己の軍隊を編成していた」。

 しかし、かかる新しい、蜂起した諸都市住民を主体とする地方的政治権力は、 多分に名目的な最高権力として、「セピリャの最高会議」の存在を承認していた。 すなわち

「あのように突然に生まれでた州会議(フンタ)は、互いにまったく独立していたが、 ごくわずかで漠然とした程度にではあったが、ある程度の支配権を、セビリャの最高 会議(フンタ)に認めていた。この都市は、マドリードが外国人の手中にあったあい だ、スペインの首都とみなされていたのである。こうして、きわめて無政府的な種類 の連邦政府が樹立されたのであるが、この政府は、対立する利害関係や地域的な嫉妬 や競い合っている勢力の相互の衝突によって、軍事命令に統一をもたらし作戦行動を 結合するのにむしろじゃまな道具と化した」。

 かくて皮肉なことに、

「諸州会議のあいだに権力が分けられていたため、スペインは、ナポレオン麾下の フランス軍の侵入の第一撃から救われた。権力の分散によって、その国の防御力が 増されただけでなく、侵入者が攻撃をかけるべき目標を見失わされたからであった。 フランス軍は、スベインの抵抗の中心がどこにもないとともに、どこにでもあるこ とを発見して、まったく仰天したのである」。

 だが、かかる名目上の支配権をもった「最高会議」と、地方的統治権力としての 「州会議」との極めてルーズな政治的権力構成は、やがて、フランス軍に対する 軍事的統一・諸外国との外交とくに同盟条約の締結・植民地からの貢納の受領・祭祀 的統一等々の主に外的国家構成上の必要から、「州会議」に直接基礎をおきつつも、 ある程度の実質をもった第三権力としての中央権力(中央政府)を、創出せざるをえ なくなった。因みに

「軍事運動の統合が緊急の必要となっていたこと、ネーメン河、オーデル河の沿岸、 また、バルト海海岸から集められた常勝軍の先頭に、ナポレオンがまもなく再度姿を 見せるであろうことが確実であったこと、大ブリテンやその他の外国と同盟条約を 締結するための、またスペイン領アメリカと連絡をたもち、そこからの貢納を受け 取るための中央政庁がなかったこと、フランス中央政権がブルゴスに存在している こと、また〔外国の〕祭壇にたいして〔自国の〕祭壇をきずく必要があったこと  - これらの事情がすべて重なりあい、その結果セビリャ会議は、不承不承では あれ、不明確な、むしろ名目上だけの、その最高権力を放棄し、いくつかの州会議に たいし、二名ずつの代表をそれぞれの母体から選出して、その会議をもって中央 会議を構成するよう提案しなければならなくなった。一方、諸州会議は、『中央政府に当然服従すべきものであるが』、当該地域の内部 行政の権利は、そのまま付与されてくることとなったのである」。

 相変らず見事な歴史的叙述であろう。マルクスの個別歴史的論究の見事さは、豊富な 資料の集積と検討を前提として、事実的レヴェルで再構成された実相を、何よりも一般的 な歴史的論理に即して把握してくるところにある。


 スペイン革命に見られた「セビリャ会議」から「中央会議」への名目的最高権力の移行は 、基本的には、<アジア的>統治形態に特有のルーズな<中央的-地方的>政治権力が新し い形態で復古したという権力論的進展を示している。滝村さんはこのことをさらに詳しく 論じている。(次回へ)
第677回 2006/12/09(土)

唯物史観と国家論の方法(6)
「スペイン絶対君主制」の特異性


 「スペイン革命」の舞台となる「スペイン絶対君主制」はヨーロッパの他の絶対君主制 とはおもむきをことにする。滝村さんはその問題をマルクスの「革命のスペイン」を 引用しながらたどっている。以下その論考をそのまま掲載します。(ただし読みやすく するために、段落変えなどをしている。)


 マルクスは、中世後期以降の簡単な歴史的概説の後で、

「すべての封建諸国家のなかで最初に、しかも最も純粋なかたちで、絶対君主制が成立し た、まさにその国で、中央集権化が一度も根をおろすことができなかったという現象を、 どう説明すべきなのか?」(以下マルクスからの引用はすべて『マル・エン全集第10巻』より)

という設問を自ら発して、こう答える。

「これに答えるのは、むずかしいことではない。争い合っていた封建階級 - 貴族と都 市市民 - の没落に踵を接して、大君主国がいたるところに樹立され形成されたのは 16世紀のことであった。しかしヨーロッパの他の大国家では、絶対君主制が、文明開化の 中心として、社会統一の創立者として、姿を現わしているのである。そこでは絶対君主制 は実験室であり、そのなかで社会の諸要素が混合され作用させられて、その結果、諸都市 が、中世の地域的な独立と主権とを中間階級の全般的統治と市民社会の共同支配とにとり かえることができるようにしたのである。「スペインでは、逆に、貴族が最も有害な特権を失わずに衰退してしまった一方、諸都市 は近代的な意義を身につけずに中世的権力を失ったのである」

 かかる中世的社会構成の特異な変質を基礎にして、

「絶対君主制が樹立されてから以後、諸都市はたえず衰微していくという状態にあって 生きのびてきているにすぎない。……(中略)……都市の商業および工業の面での生活 が衰退していくにつれて、国内の交易はまれになり、諸州の住民たちの往来はよりまば らになり、交通手段はなおざりにされ、大街道はしだいに荒れはてるようになった。こうして、スペインの地方生活、州と自治共同体の独立、つまり、本来この国の地勢 にもとづくものであるが、歴史的には各州がムーア人の支配から解放をかちとって独立 の小国家を形成したときの個々のやり方によって発展させられた社会の多様性 - こ れは、国民活動の源泉を枯渇させた経済的変革によって、いまや最終的に強化され確定 された」

 こうしてマルクスは、「スベイン絶対君主制」が、西欧絶対君主制の如くついに一度 も中央集権化されなかった歴史的根因を、封建的貴族と都市の中世的衰退により近代的 な統一的経済圏形成への道が大きく閉ざされて、地方的割拠の現実的基礎が固定された 点に求める。何となれば、

「国民的規模での分業および国内の交易の多様化から生じてくる共通利害の成長」

こそ、近代的中央集権化すなわち

「一元的行政組織と一般法の原則をつくりだすことのできる真の基礎」

だからである。
 かくして、

「スペインの絶対君主制は、ヨーロッパの絶対君主制一般と表面だけは似かよっているが、 むしろアジア的統治形態と同一の部類に入れるべきもの」

とされる。すなわち、経済社会的基底における国民的規模での交通関係の圧倒的欠如から くる、各種地方的共同体の自給自足的な独立的割拠に、より直接的に対応して軍事・徴税 ・裁判の三権を掌握する強大な独立的地方権力のうえに、中央権力としての王権が多分に 名義的な第三権力として君臨する、<アジア的>ないし<オリエント的>な統治形態を、 この「スペイン絶対君主制」のうちにもみることができるからである。これをマルクス 自身の実に見事な全体的かつ具体的な把捉をもって示せば、

「スペインは、トルコと同様、名目上の主権者をいただく、悪政下の諸共和国の集合体 にとどまった。専制政治は、副王や総督が一般法を勝手気ままに解釈するのにしたがっ て、各州でまちまちな性格をもつものとなった。しかし、政府は専制的ではあったが、 各州が異なった法律や慣習、異なった貨幣、異なった色の州旗、異なった税制をもちつ づけることを妨げなかった。東洋的専制政治(アジア的デスポティズム……註)は、自 己の利害に直接に対立したときにだけ地方自治を攻撃したが、自治制度が何かするとい う責務を自分の肩からとりのぞいてくれ、平素の行政の手間をはぶいてくれるあいだは、 喜んでその存続を許したのである」

第676回 2006/12/07(木)

唯物史観と国家論の方法(5)
マルクス『革命のスペイン』の意義


 『「世界共和国へ」を読む』を中断した「第669回 国家の本質 2006/11/28」 の最後の題材はマルクスの『ルイ・ボナパルトのプリュメール十八日のクーデター』だった。 そこで柄谷さんは『プリュメール十八日』を「国家機構の自立は、ボナパルトが議会を こえた皇帝として自立することによってのみ可能だったのです。……ボナパルトは略取し たものを再分配しているだけなのに、それが「贈与」として受けとめられている。そのた め、彼はすべての階級に贈与するような超越者、すなわち皇帝として表象されます。し かし、この過程は、国家機構による略取-再分配というメカニズムが、贈与-返礼とい う互酬の表象の下で機能するようになることを意味しているのです。」と解読しているが、 ここは<近代的国家>の本質をしっかりと正面にすえた論述とはほど遠い。柄谷さんの メインテーマの「交換様式」による説明という要請のせいか、いささか牽強付会のきらいがる。

 「第669回 国家の本質 2006/11/28」では、この『プリュメール十八日』に見られるよう な統治形態を滝村さんは『「例外的」統治形態』と呼んでいること指摘するにとどめたが、 「滝村国家論」によれば『プリュメール十八日』はどのように解読されるだろうか。 「滝村 国家論」の一つの応用問題として、それを紹介してこのシリーズを終わることに する。

 ということで、『アジア的国家と革命』所収「2.アジア的国家における革命と反革命」の該当部分の論考を 読み始めたところ、この章は一部分だけを切り読みするのではものたりないと思った。この 国の近代国家誕生つまり「明治維新」の理論的解明ばかりか、現在の政治状況を読み解くため の示唆がそこここにある。ということで続いて、「2.アジア的国家における革命と反革命」 を精読することにした。

 この章は「唯物史観とマルクス『革命のスペイン』」という副題が付けられている。 これは『「世界共和国へ」を読む』との関連で言うと、柄谷さんが「西ヨーロッパにおい て商品交換の原理が支配的になるのは絶対主義王権の時代です。」と言っていることに 通じる。すなわち、「絶対主義王権」の唯物史観による解明ということになる。

 一般にマルクスの歴史的論考としては『フランスにおける階級闘争』・『ルイ・ボナパ ルトのプリュメール十八日』・『フラソスの内乱』の〝フランス三部作″が有名だが、 滝村さんは『革命のスペイン』をマルクスの歴史的論究のなかでも出色のものと位置 づけている。


 少なくとも唯物史観との原理的=方法的関連から、個別歴史的事 例を統一的に解明した歴史的論考としての出来栄えからいって、前三者とりわけ『プリュ メール十八日』に比してさえ、少しも遜色がないように思う。それは如何なる意味でか?


 唯物史観は何よりも歴史的・社会的事象の一般的本質論の確立とその構造論的具体化 、つまり当該事象の原理的解明に必須の一般的方法として構成されたものであるが、 『唯物史観の発展史観それ自体に他ならぬ個別歴史的発展の世界史としての方法的抽象 が前提となっている』のであるから、唯物史観は個別歴史的世界の追究においても有効 な方法であると、滝村さんは言う。


 それでは個別歴史的解明において、唯物史観は如何なる有効性をもつか?

 それは個別実証史的成果を前提とした理論的解明において、唯物論的見地と世界史的論 理構成との必須の論理的=方法的追究を可能とする。すなわち当該個別歴史的世界が、如 何なる世界史的発展段階に属するかの、一般歴史理論的追究を媒介することによって、 個別歴史的特質を大きく浮びあがらせることができるからである。われわれはかかる 唯物史観による個別歴史的解明の典型ないし完璧な適用を、まさに『革命のスペイン』に みることができる。
 




今日の話題

沖縄知事選・もう一人の候補者

 東京新聞(11月24日)の「本音のコラム」で吉田司さんが「琉球独立」と題して 今回の沖縄知事選挙を取り上げていた。「<経済>か<基地>か」という一般の論調を 突き破って、三人目の候補者「琉球独立党」の屋良朝助氏に焦点を当てている。


 沖縄県知事選は沖縄電力会長などを務めた元副知事の仲井真弘多氏が、 <米軍基地反対>の糸数慶子氏を制した。完全失業率7・8%もの経済閉塞の中で 「経済の自立なくして沖縄の自立なし」という仲井真氏の訴えが受け入れられたとの メディア評が一般的だ。

 しかし<経済>が<基地>に勝つのは最近の沖縄ではおなじみの政治図式で珍しく もない。問題は<経済>の中身だ―それが基地に伴う収入やその見返りの経済振興 策への依存という本土パラサイト体制が変わらぬ限り、<経済>は逆に沖縄の精神を 蚕食するだろう。事実、敗軍の将・糸数氏はこう語っている。

「長いものに巻かれろみたいな生き方にウチナーンチュ(沖縄の人)は慣らされてし まった」

 そこで興味深いのが、<経済><基地>のワンパターン図式を破り《沖縄独立》を 訴えて数は少ないが6200票余を獲得した第三の候補者「琉球独立党」の屋良朝助氏だ。

 屋良氏とは今夏、新宿のトーク・ライブで対論した。沖縄と日本は利害対立だと主張 する。

「東シナ海の石油、天然ガスは沖縄が独立すれば沖縄国民一人当たり四億円の財産で、 日本本土に所有権はない。逆に沖縄県のままだと石油は日本全体のもの、沖縄人には ほとんど利益がない」

 そう、これは資源ナショナリズムを武器にした、新たな沖縄メンタル・ムーブメント の登場なのである。


 南国と島嶼の利点を生かした農業と漁業の新興をはかり、『沖縄国民一人当たり四億 円の財産』を奪い返し、『岡留式「脱基地・産業振興プラン」』を組み込んでいく。 沖縄は社会・経済的に充分に自立できるじゃないか。
第674回 2006/12/05(火)

唯物史観と国家論の方法(3)
<近代的国家>の支配形態


 <近代的国家>にいたって国家的支配が完成的に発展したとはどういうことか。

第三権力の完成
 それは、<社会の体制的秩序維持としての第三権力>の特質がはじめて全的に 開花した形態で現出した、ということである。つまり、国家は支配的階級権力から 相対的に分離することによって、形式上、支配階級と被支配階級との二大階級権力の上に 君臨する<第三権力>として登場している。ここでは国家意志は、被支配階級の意 志はもとより、少くとも形式上は支配階級の意志とさえ区別され、<社会の体制的秩 序維持>にかかわる一般的な法的規範として、その本来の特質である幻想的な形態を 完成させている。

下部構造
 もちろんこのような形態が完成するためには社会経済的な前提がある。いわゆる下部構 造の成熟を必要とした。つまり、交通関係と社会的分業の全面的かつ多様な発展によって 有機的に統一された<近代的>市民社会の形成が必須の条件であった。そして、それは 支配階級と被支配階級の二大階級権力の存立という形態に収斂していく。

特殊利害と共通利害
 社会の諸階級・階層への分裂は、諸階級・階層の<特殊利害>と統一社会的 な<国民的共通利害>との構造的分裂を必然化する。従って、一方において 直接に現実的な<国民的共通利害>が、 各種公共事業・福祉事業等の<社会・経済政策>として押し出されるとともに、 他方では支配階級を中心とした諸階級・階層の<特殊利害>が、<政治的>であれ <社会・経済的>であれ、幻想上の「国民的共通利害」 という形態をとった国家意志として強引に押し出される。

政治的国家と社会・経済的国家
 第三権力が支配的階級権力から形式上分離し独立化する基礎には、支配階級を中心 とする国民的諸階級・階層の、政治的階級<権力>形成と経済的階級<権力>形成との、 構造的分離・ニ重化が前提となっている。従って第三権力の諸活動も、社会の <政治的>秩巌維持と<社会・経済的>秩序維持という内的性格上の区別が生ずる。 つまり原理的に、国家を<政治的国家>と<社会・経済的国家>とに区別して把握する ことが必要となる。同時にこれは、<社会の体制的秩序維持>に関わる一般的法規範 も<公法>・<私法>という区分に発展的に分化する必然性を示している。

司法権の分離
 第三権力は、直接には<近代市民社会>形態をとった国民的規模の有機的な経済的 統一体を現実的土台とすることによってはじめて自らを一元的統治組織として完成せしめ 、<社会の体制的秩序維持>に任ずることになった。そして、この第三権力の一元的統 治組織としての完成は、直接には実定的な一般的法規範を前提とすることによって、 第三権力自身をもその法規範による処罰対象から免罪しない<司法権>を原理的に分離 する。つまり、第三権力の一般的な組織的・制度的構成原理である<三権的分化>を 確立するにいたった。
第673回 2006/12/04(月)

唯物史観と国家論の方法(3)
<近代>以前の国家の支配形態


 前回みた方法論の根底的な特質をまとめると次のように言える。

 <近代国家>の原理的解明とは、近代国家をその直接の歴史性において問題とする のではなく、あくまで完成的に発展した国家的支配としての 一般性において理論的に追究することである。従って、その原理的作業には、 <近代>に向ってより完成的に発展しつつある<アジア的>・<古代的>・<中世的>等 の、未熟な<世界史的国家>に対する理論的把握を欠くことはできない。つまり、国家論の 原理的解明には<世界史>の発展史観が直接に原理上の<科学>的方法として繰り込まれる ことが必要不可欠である。

 次に滝村さんは、<世界史>の発展史観を方法上の根幹とした社会的事象の原理的解 明の実際の例として、国家の原理的把握の概略を論述している。これまでに取り上げて きた関連記事と重複する部分が多いが、逆にこれまでの総まとめという意味で、滝村さ んの論述を追ってみる。

 <アジア的>・<古代的>・<中世的>などの<世界史的国家>については シリーズ『国家の起源と本質』で個々にその国家的支配の形態を取り上げているので、 ここでは、「<近代>以前の国家」ということで、それらのまとめとして概観する。

  <近代>以前の国家的支配は、支配共同体または共同体支配者という形態をとった 支配的階級権力が直接に第三権力を構成している。従って、支配的階級意志が直 接に国家意志として君臨している点で、すべて共通している。

 ちなみに、柄谷さんはこのことを「経済的な構造と政治的な構造の区別はありませ ん。」と考えて、近代資本主義国家以前では「国家が経済的な下部構造の上にある 上部構造」というマルクスの理論は成り立たないと断じたのだった。しかし、 上部構造と下部構造の関係は「下部構造が上部構造を規定する」と読み取るべきだと 、私は考える。そのことは<近代>以前の国家については次のように解明される。

 第三権力が未だ支配的階級権力から相対的に分離するまでに到っていない、つまり <社会の体制的秩序維持に任ずる第三権力>という国家の本質的構造を発展的に分化 していないと言う意味で、<近代>以前の国家は「完成されざる未熟な歴史的 国家」なのである。そしてこれは、社会・経済的基底における各種の単位的共同体 (村落ないし都市)を軸にした地域的社会が、多かれ少なかれ自給自足的な割拠的独 立性を把持していて、未だ統一的かつ有機的な国民的経済圏を形成していない、言い 換えると近代的社会のような国民的・統一社会的規模での生産関係を形成するまでに 到っていない点に、現実的な基礎がある。

 以上のような理由で、諸階級・階層の<特殊利害>と<国民的共通利害>との構造 的分裂はみられない。従ってまた、直接に現実的な <国民的共通利害>と幻想的な「国民的共通利害」 という形態をとった<政治的>・<社会・経済的>国家意志の構造的発展はいまだ見 られない。とくに後者の<社会・経済政策>において顕著である。これは経済的な支配階級が 同時に政治的支配階級であるという支配形態の当然の帰結である。

 これを法的規範という国家意志の面から見ると次のように言える。
 <公法>・<私法>の発展的分化にいたるまで一般的諸法の形成と発展はみられ ない。つまり、第三権力は、中央権力自身も含めて、独立割拠的な地域社会に君臨する 半ば独立的な各地域的統治権力によって担われていて、不断の対立・抗争を をしながらの相互重畳的な形態で分掌される他なかった。言い換えると、 一般的諸法の構造的展開を前提とした一元的統治組織の実質的不在、ということになる。

 また司法権についてみると次のようになる。
 支配的階級意志が直接に国家意志として君臨する体制下では、法的規範とし ての国家意志は、実定的な一般的法規範としての本来的性格を充分に発展させるこ とができない。そこで第三権力の直接の組織的・制度的構成における<三権的分化>、 とくに<司法権>の独立化が原理上不可能となる。従って、中央的・地方的の諸権を 問わず、それらはすべて法制的にはとくに刑事裁判権形態をとった専制的統治権力と して現出する他ない。

 またさらに租税については次のようである。
 多くの場合半ば独立的な地域的統治権カとして押し出される支配共同体 または共同体支配者形態をとった支配的階級権力が、直接に第三権力を構成する以上、 観念的な政治的支配権に関わる<租税>とくに地租と、現実的な経済的所有権に関わる <地代>とが、未分化の混淆的形態で現われる。地租は多かれ少なかれ地代形態を とって現出する他ないのである。
第672回 2006/12/03(日)

詩をどうぞ(28)
あめゆじゆとてちてけんじや


 久しぶりに「詩」を取り上げます。

 宮沢賢治の絶唱「永訣の朝」は高校の教科書にも取り上げられていることもあり、 多くの方がご存知の詩だと思います。そして「あめゆじゆとてちてけんじや」がその詩に 四度も繰り返されている妹トシの賢治への呼びかけの言葉であることも。

 唐突にも何故この詩を取り上げることになったのかは後ほど述べることにして、まずは 「永訣の朝」を全編、改めて読んでみます。


  永訣の朝


けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)*
うすあかくいつそう陰惨いんざんな雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜じゆんさいのもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀たうわん
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛さうえんいろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系にさうけいをたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)*
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて*
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ


 註
*あめゆきとつてきてください
*あたしはあたしでひとりいきます
*またひとにうまれてくるときは
 こんなにじぶんのことばかりで
 くるしまないやうにうまれてきます



 朝日新聞土曜版be(12月2日付)の「愛の旅人」という連載記事が「詩人の妹の 恋と修羅」という表題で賢治とトシを取り上げていた。その記事の中に私の注意を 惹いたことが二つあった。

 一つは「あめゆじゆとてちてけんじや」というリフレーンを「雨雪=みぞれ=をとってき てください、賢治兄さん」と解釈していることだった。これが私の三十数年前の記憶を 呼び起こした。

 上の註(この註は賢治自身が付けた所謂「原註」です)に「あめゆきとつてきてくだ さい」とあるので「けんじや」を「~してください」という意に解釈されてきた。これを 「賢さん」という兄への呼びかけだと新説を出したのは詩人の山本太郎さんです。 三十数年前、この説に触れて私がこの詩から受ける感動は一層深くなった。

 このことを酒の肴として私は知人の国語の高校教師に話してみた。 大いに興味を持つのではないかと思ったのだが、歯牙にもかけてもらえなかった。たぶん、 現在でも高校の授業などでは原註どおりに扱っているのではないか。

 その新説による解釈に思いもかけず新聞紙上でお目にかかった。もしかするとそれは 「定説」として認められてきているのかな、と思ったりした。

 私はこの説とどこで出合ったのか、調べてみた。私は山本太郎さんご自身の 文章を読んだように記憶していたが、違っていた。「ユリイカ 1970年7月臨時増刊 宮 沢賢治」所収のエッセイ『「無声慟哭」三部作』(会田綱雄)だった。


 ところで、この(あめゆじゅとてちてけんじゃ)という方言の意味を、ぼくは賢治 の原註によって(あめゆきとってきてください)とばかり思いこんでいた。ところが、 前記の『宮沢賢治詩集』で、山本君の註を見て、あッと思った。山本君の註は、こうだ。

 あめゆきとってきてください。賢さ。トシは兄のことを「けんじゃ」と呼んでいた。

 〝けんじゃ″が賢治の愛称だとすれば(あめゆじゅとてちてけんじゃ)のもつニュアン スは恐ろしいほど濃密になる。しかも、この言葉は、前半27行のなかで、4度もくりかえ されているのだ。山本君の註が正しいとすれば ― ぼぐはほとんどそれを信じているが、い まそれを確定する時間がないので、こういう言い方しかできない ― 賢治の原註には 明らかに省略があって、それはこの言葉にみなぎるとし子の情感を、結果として薄めてし まったといえるだろう。


 当時(三十数年前)は「前記の『宮沢賢治詩集』」で確かめる気は全くなかったようだ。 改めて「前記」を調べたら、旺文社文庫版『宮沢賢治詩集』だった。私は所持していない。


 さて、「詩人の妹の恋と修羅」で注意を惹かれた二点目は次の一文だった。

『15年4月、東京・目白の日本女子大学校に入学。トシはそこで、あらゆる宗教を究極の ところで一体化し、宇宙と自己の合一を求める成瀬仁蔵校長の「帰一思想」に出会い共 鳴する。』

 この短い文章だけで、成瀬氏の「帰一思想」が私の宗教観と通ずるところがあると 思ったのだった。

 「あらゆる宗教を究極のところで一体化」したものというと、私(たち)のいう 普遍宗教にあたる。宗教を倫理ととらえるとき、普遍宗教への道はありうべき新しい 倫理の創造ということになる。それに対して、「宇宙と自己の合一」という言葉にこめら れている意味合いは、宗教の根底的教義の面での普遍性ということだろうか。

 成瀬仁蔵氏も「帰一思想」も初めて知った。少し詳しく知りたいと思い、前提書 (ユリイカ)に関係記事がないかと調べた。堀尾青史氏執筆の「宮沢トシ・その生涯と 書簡」に次のような記述があった。


 大正5年(1916)19歳、本科一年生。本科生になってトシも熱心に学業に打ちこんだ と思う。

 この時期は女子大創立者である校長成瀬仁蔵の晩年(1919年3月4日没)に当り、その 信念と理想はいよいよ充溢していた。女子大は国家主義的な良妻賢母養成には反対で、 「第一に女子を人として教育するという点でも、単に男女平等の見地を主張するのでな く、深く宗教的見地から、自覚あり信念ある人格としての教養を目ざしている」の であって、その宗教的見地というものを引用要約すると次のようになる。

 ― 吾々は時にキリスト教徒であり、時に神道家であり、人道教 徒であり、倫理運動家であり、しかも真のキリスト教信徒であると 同時に真の仏教信者である。沢山の信仰が融合して一つのものにな らない以上は、完全な確信にはならない。私の信仰内容をロゴスと 呼ぶことにする。ロゴスを道とかことばとか訳するがつまりはエッ センシャル・ライフ本質的生命である。緊密な意志であり、完き人 格である。この意志、この人格の上にすべての人の共同ができる。 すべての人の共同のできる力、また堅固な自分の確信となる力が、 自分の内になくてはならぬ。そのためには一つの誠というより外に ない純真な態度にならなくてはならぬ。 ― 

といい、すべての宗教を融合した全一的信仰を説いたわけだが、たまたまここにまこ とということばが使われていることに注意しておきたい。

 先駆者というものは多分に人間的魅力がある。成瀬校長に接した人は、わが国は じめての女子大学創立者、強烈な信念、実篤な人柄、質素な生活に感激したようであ る。(中略)トシも学部へ上り、訓話を聞く機会が多くなった。賢治宛て書簡に、 その尊敬の念があらわされている。


   「賢治の熱烈な法華経信仰」と「トシが信奉した普遍宗教的思想」と言う視点で、 賢治とトシの精神的な関係を考える興味は今はおく。

 「第542回 新新宗教批判(9)普遍宗教 2006年7月3日」で、私は次のように書いた。

 私には信仰すべき宗教はないが、宗教的な感性はある。自然の一部として大自 然と感応する「こころ」と言ったらよいだろうか。日本語には適当な言葉がな い。……まだよく熟していない理念なので、極私的にそれを「ポエジー」と呼んでい る。

 成瀬氏の「ロゴス」には「緊密な意志」とか「完き人格」とか、先験的な 「当為」という倫理的な意味が込められている。私がいう「ポエジー」は、自 ずから大自然と感応する「生命」の根源という意味合いであり、倫理的な意味は全 くない。その「感応」とは、命の喜びであったり畏れや敬虔な感情であったり、時に は怒りや悲しみや嘆きや不条理への抗議であったりもするだろう。大本はそこから 導き出されるものとしても、私にとっては、倫理はそれ以後の「人間」の問題とし てある。
第671回 2006/12/02(金)

唯物史観と国家論の方法(2)
<世界史>とは何か。


 政治学や経済学のような社会科学と個別実証史学とでは、その対象が異なるように、 おのずとその方法も異なる。

 個別実証史学はあくまで個別歴史的世界の直接的<事実>としての社会事象を 対象としている。そして、その個別歴史的世界の統一的な実相を再構成することがその 学的使命である。それは、もちろん理論的考察も必要とするが、主として資史料の 発掘・収集・集成というような個別歴史に密着した直接的<事実>の探索と確定が その方法となる。

 これに対して、社会科学は社会事象一般を対象とする。しかし、社会事象一般というの ものがそれ自体として直接的な形態で存在するわけではない。個別地実証史学によって 提出されたさまざまな個別歴史的世界の具体的な歴史的事象を正面にすえて、その 現象的諸形態の個別性や特殊性を捨象し、その背後に横たわる一般的性格や内的な構造 的関連を論理的に追究することになる。そのようにして、社会事象一般の本質論を一般 的理論あるいは法則として構成し定立することが社会科学の使命である。これは自然科 学と同様の方法であり、社会事象一般を探求する学問が社会<科学>と呼ばれるゆえん である。

 個別歴史的事象を一般的な社会的事象として扱うという高度な論理的抽象のためには 、個別実証史学とは異なる位相の特別な方法論を必要とする。その要請に真っ向から対応 することができる方法論こそ、マルクスの唯物史観にほかならない。そして、その唯物史観 における歴史観として<世界史>という概念が重要な土台をなす。滝村さんは次のように 述べている。


 ところがかかる唯物史観の存立に直接関わる根本の方法的把握が、マルクス主義・非 マルクス主義を問わず、これまで私以外の誰によっても主張されたことがないのであ る。

(中略)

 形式的にはヘーゲルから継承したマルクスの<世界史>なる概念とは、いわゆる直接 の時代的世界性、つまり時々の時代として現象する場所的・空間的な意味での世界性を 意味するのでもなければ、また、個別歴史の機械的な集合ないし総体としての世界性を 指すのでもない。

 あくまで時代的世界の推移を数世紀という巨視的な射程において観察して、時々の 時代的世界の尖瑞をゆく、あるいはその尖端に躍り出た諸民族が、経済・政治・文化の 統一的な様式において、従前支配的だったそれを質的に凌駕する現実的可能性を把持す ることによって君臨するに到ったとき、この新たに到来せる統一的様式をその根抵的な 原理すなわち高度の一般的論理において抽象・把握するところに成立する概念である。

 マルクスはかかる社会構成の<世界史的>発展を、とくに基底的な経済的社会構成に 即して、

『大ざっぱにいって、経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、 封建的、および近代的ブルジョア的生産様式をあげることができる。ブルジョア的生産 諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個 人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のもの である』(『経済学批判』序言)

 と定式化したわけである。

 従って問題の核心は、ヘーゲルそしてマルクスにおいて、何故かかる個別歴史の <世界史的>論理構成といった、高度の一般的な歴史理論的把握と抽象が必然化された かにある。

 すでに指摘しておいた如く、個別実証史学の方法的特質は、個別歴史の統一的な時代 的再構成に収赦される、直接の<事実>的追究と確定にある。従って個別歴史に対する かかる高度の一般的な歴史理論的抽象は、個別実証史学が直接方法的に必要とするもの ではありえない。然り、唯物史観における<世界史>の発展史観は、個別実証史学の 直接的方法として提起されたものではない。それは何よりも社会科学の原理的・一般理 論的解明における必須の方法的見地として導入され、構成されたものに他ならなかった。 換言するならばそれは、歴史的事象に対する直接の実証的追究の方法ではなく、歴史的 事象に対する一般的な社会的事象としての、高度の原理的解明の方法として確立された ものである。私は先に、社会的事象は直接には個別歴史的事象としてのみ存在するので あるから、社会科学の原理的解明のためには、かかる歴史的世界の只中に突入しなけれ ばならないと記したが、<世界史>の発展史観こそ、まさに、直接の歴史的事象を一般 的な社会的事象としてとり扱う際に必須の、科学的方法に他ならない。

 というのは、政治的また経済的な社会的事象は、直接には人間社会の歴史的発展、 従ってとりもなおさず<アジア的>・<古代的>・<中世的>・<近代的>な<世界 史的>発展段階を通じて、その本来的性格に対応した内的諸契機を全面的に開花発展 せしめる。従って、当該事象の内的諸契機がその本質的性格に対応して最も完成され た姿態で登場してくる、<近代的>な形態を正面に据えての原理的解明に際しては、 その背後の過程的形態として、<アジア的>・<古代的>・<中世的>段階での諸形 態を、つねに必須の前提的考察の対象として方法的に組み込んでおかねばならない。

 マルクスが『資本論』の執筆過程で『資本主義的生産に先行する諸形態』の如き、 <近代>以前の<世界史的>な経済的社会構成に直接関わる諸形態を、膨大な個別歴史 的資史料をふまえて自ら論理的に構成しなければならなかったのも、まさにかかる原浬 的解明に伴なう必須の方法的要請であった。

 また、われわれがヘーゲルやマルクスと全く同様に、人間社会の個別歴史的展開に 伴なって時々の時代的世界に君臨した支配的かつ(支配的故に)一般的な社会構成を、 高度の論理的な独立的完結性において、他ならぬ<世界史的>社会構成として把握す ること、つまりは個別歴史の<世界史的>論理構成を、典型的な社会的事象の原理的 ないし一般理論的解明における、必須の科学的方法として把握し構成しなければなら ないのも、かかる意味においてである。


 <近代的国家>に先行する<アジア的>・<古代的>・<中世的>という<歴史的 国家>段階での諸形態を組み込んでいない国家論が皮相で平板な単なる思弁にならな らざるを得ないことがよく理解できる。