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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第640回 2006/10/22(日)

『柄谷行人著「世界共和国へ」を読む』(6)
「史的唯物論への疑問」への疑問



 「世界共和国へ」を通読したとき、いくつかの疑問点はありながら全体して 共感したし新たな認識も多々得るところがあったので、精読してみようと思 いたってシリーズのテーマとして取り上げることにした。そのとき、 そのいくつかの疑問点はとりあえずおいておいて、横道に入ることを避けるつもりだった。 そうしても全体を読みすすめるのに支障はないと思っていた。

 例えば、前々回(10月16日)の「19世紀の構図」でアソシエーショ二ズム(D) にマルクスを入れていることに疑問があったが、柄谷さんがその理由を述べてい る部分をあえて取り上げなかった。そこで引用した文に『初期マルクスや プルードンを復活させる運動、つまり「リバタリアン社会主義」が出てきた』と あったので、ここでは「マルクス=初期マルクス」ということで納得することに した。

 さて、前回で「序」が終わり、今回から「第Ⅰ部 交換様式」に入るわけですが、 その入り口ではたと立ち止まってしまった。今度の疑問点はよく吟味しておかなけ れば、これからの読解に混乱が起きそうに思える。詳しく検討しなければならな いようです。「第Ⅰ部」の冒頭の一節を全文引用する。


史的唯物論への疑問

 資本とネーションと国家について考えるとき、 私が参照したいのはマルクスで す。というのは、マルクスだけがそれらに関して、包括的な把握を示したからで す。しかし、すでに述べたように、そこには国家やネーションに関する認識上の 欠落があります。たとえば、マルクスはつぎのように書いています。


 わたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単につぎの ように公式化することができる。人間は、その生活の社会的生産において、一定 の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生 産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくつており、これ が現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造 がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応してい る。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。(『経済学批判』序言、武田隆夫 ほか訳)


 このような見方は、のちにエンゲルス以下のマルクス主義者によって 「史的唯物論」と呼ばれています。ここで問題がある のは、国家を、文学や哲学その他と同じようなもので あるかのように「上部構造」においたこと です。しかし、国家が経済的な下部構造の上にある上部構造 だというような見方は、近代資本主義国家以後にしか成立しません。それ以前に おいては、国家(政治)と経済とに、はっきりした区別はありえないのです。

 たとえば、原始社会(部族的共同体)においては、 そもそも国家がなく、 したがって、経済的な構造と政治的な構造の区別はありません。また、「東 洋的国家」においても、国家装置(軍・官僚・警察機構など)は、経済的な 意味での支配階級の上にあるものではない。皇帝・王とそれを支える官僚層 全体が、まさに経済的な意味での支配階級なのです。


 このくだりでは強調文字(赤字)のところが疑問点です。

 「資本=ネーション=国家」という概念が提出されたとき、ここでいう「国家」 を「国家権力」と解釈して読み進んできた。ところがここでは 文脈から明らかに「法律的、政治的上部構造」を「国家」としている。さらにその後では 「国家(政府)」と国家を「政治権力の執行機関」という意味で使っている。 これでは、当然「法律的、政治的上部構造」というマルクスの考えが問題になってしまう。 私は「共同幻想としての国家」あるいは「政治的国家」は「文学や哲学その他」と同じ 「上部構造」と考えるので、「法律的、政治的上部構造」という言葉に何の違和ももた ない。

 したがって、「法律的、政治的上部構造」が「近代資本主義国家以後にしか成立しない」 ということにも、その後の近代資本主義国家以前の国家(国家の起源の問題も含めて)に ついての説明にも、私は納得できない。

 上に見たような「国家」という概念についての混乱を放置したままではこれ以上 「世界共和国へ」を読みすすめることはできないと判断した。国家についてはすでに「国家について」と「統治形態論 民主主義とは何か」と 2回テーマにしている。しかし、今度はもっと総括的な国家論を勉強しておかな くてはならないようだ。
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