2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
「ほんとうの考え・うその考え」―宮沢賢治の実験(8)
宗派を超えた神


 シリーズ「ほんとうの考え・うその考え」の最終回になりました。

 ヨブが直面した「自然・宗教・倫理の対決」、シモーヌ・ヴェイユが凝視した「深淵で距てられた 匿名の領域」、そして賢治が希求した「<ほんとうの考え>と<うその考え>を見分ける実験」。 この三者が提示している問題に共通しているのは、それぞれの信仰の「流れからは み出していくもの」、つまり「宗派を超えた神」のありかです。


 これはたとえば宮沢賢治を、日蓮宗から見れば、日蓮宗信者ということに なるが、宮沢賢治自身は日蓮信仰とか法華経信仰とかでは当てはまらない部 分があります。そういう当てはまらない部分が宮沢賢治の文学のなかに流れ ているわけです。その流れていくものをつかまえて、もしそこに信仰が象徴 されているとすれば、それは法華経や大乗仏教が述べている教義をはみ出し たところで、なお宗教的なものがあると理解しないと、とても理解できない とおもいます。

 良寛にも同様のことがいえます。良寛は十年間修行して曹洞宗の師家の印 可をうけている人だったわけです。しかし曹洞禅の流れのなかに良寛をいれ ようとしてもはみ出してしまうものがあります。宮沢賢治が倫理ではみ出した とおなじように、「常不軽菩薩品」のいうところの個所で、はみ出してしまう わけです。良寛は誰に会っても、子どもにも村の人にも礼拝するの です。そういう仕方のところで良寛は曹洞禅をはみ出してしまったわけです。 当然師匠の死後、 寺を継ぐべき資格がある人だったが、本山から住職が来て、じぶんは寺を出て、 修行しながら郷里の越後へ帰って、隠遁生活をすることになるわけです。そこ で、はみ出したものは文学のかたちをとるわけです。


 三者の信仰はそのはみ出したところから「宗派を超えた神」への道筋を突き 詰めようと自らを追い詰めていった。賢治についての論述を、吉本さんは次の ように締めくくっている。


 宮沢賢治の作品を読むと、その宗教とは、日蓮信仰だとか法華経信仰、あるい は仏教とか限定できないもっとちがう宗教なんだという気がします。その間題が 宮沢賢治が文学と宗教の問題でかんがえた最終的な問題であり、特異な問題で あるような気がします。

 「マリヴロンと少女」でいえば、マリヴロンと少女がおなじように、「あなた は芸術家」で「わたしは生活者」とか、「あなたは宗教家」で「わたしはそう じゃない」というふうに、マリヴロンの見え方と少女の見え方とは、おなじもの を見ながら、その見え方がどうしてもちがっちゃうことはありうるとおもいま す。

 これは宮沢賢治が 「銀河鉄道の夜」のなかでさかんにジョバンニに言 わしているところです。それは「神と名づけるかどうかはべつとして、それぞ れの人はそれぞれの神をもっている」わけです。青年とかほるの姉弟はキリス ト教の信仰をもっている。ジョバンニはそうは言っていないが(たぶん宮沢 賢治は法華経の信仰の切符をもっているんだと言わせたかった)、そういう 信仰をもっている。それぞれの人はそれぞれの神をもち、おまえの神が<ほ んとう>なのか、おれの神が<ほんとう>なのか、なかなか解決がつかない。 神が宗派の信仰であるかぎりは解決がつくわけがない。もちろん宗派という 観点は宗教だけにかぎらない。あらゆる理念にまで拡張して、理念の宗派、 あるいは思想の宗派でもおなじなんですが、そういうことをかんがえて争って も、解決はつきません。

 現在のところできる可能なことはなんだろうかとかんがえてみますと、宮沢 賢治は、「宗派の神を信じている人のほうが、その宗派の神を信じていない人 よりも下位にあるんだということを信じている人が保てたら、神はなんだかい まのところわからないとしでも、それができたら、たぶん一歩だけ解決に近づ くんじゃないか」とかんがえた最後のところのようにおもわれます。

 わたしたちは現実の世界ではそういう人を見つけることがなかなかできない。 思想でもおなじで、じぶんのもっている思想であれ、信じている思想であれ、 かんがえてきた思想がいいとおもっています。他の人もじぶんのそれをいいと おもっているから、そこで対立もおこるわけです。じぶんの思想をもっている 人、あるいは信仰をもっている人は、もっていない人よりも上位にあるとおも わない信仰者、思想者は誰もいないわけです。

 宮沢賢治によれば、それはちがうんで、あらゆる宗派の神を超えた神、ある いは宗派の思想を超えた思想に到達できる方法があるんじゃないかということ を説いているのです。そこが宮沢賢治の童話とか詩が文学、芸術であって宗教 じゃないといいながら、なおかつ宗教的情念として受けとることも読むことも できるところです。このことが、どこか作品のなかから宗教的なものが匂って くる理由です。そこが宮沢賢治の到達したところのような気がします。

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