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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
「ほんとうの考え・うその考え」―宮沢賢治の実験(7)
宗教と科学


 このシリーズの序論に当たる『600回』で引用した「銀河鉄道の夜」の一節を再録する。


みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれ どもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。そ れからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつか ないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんた うの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も 化学と同じやうになる。


 ブルガニロ博士は、どんな勉強が「ほんとうの勉強」なのかも「実験の方法」 とはどんな方法なのかも、何も言っていない。ここから賢治は最後の最後にひっかった 問題「宗教と科学」に入っていった。

 これ(「宗教と科学」の問題)はあまりうまく解けないままに終わったんだろ うとおもいます。

 というのは仏教、とくに日蓮なんかの古典的な仏教では、前世とそれから現在 と未来、つまり死後の世界との連続性という考え方なしには成り立たないところ があります。そこでは科学者としてその世界観じたいにたいして引っかかったと ころだろうとおもいます。その近くまでいくんですが、科学的にいって、どうし ても死んだ後の世界があって、そこに魂がいくという考え方を是認することがむ ずかしい。先ほどの言葉でいえば、もし「ほんとうの考え」と「うその考え」と を分けることができる実験の方法さえきまれば解決するでしょうが、それはどう したらいいのかわからない。ただ解けないというんじゃなくて、糸口はじぶん なりにつけてはみたんだけど、そこで完全に解けたというふうに言えないところ で終わったとおもいます。

 「その実験の方法さえきまれば」という言葉はとても重要で、それは日蓮も 言わなかったし、もちろん最澄も智も言わなかったことで、宮沢賢治だけが 言った言葉です。もちろん宮沢賢治だけが近代西欧の科学をちゃんと体験し身 につけているわけですから、その間題意識をもったのは当然なんです。しかし 宮沢賢治の宗教者としての特徴を単なる法華経信仰者あるいは日蓮宗信仰者か らはみ出させる要素があるとすれば、そこのところだとおもいます。

 それならば、その実験の方法とはなんなのか、なにを構想して言ったのかは わかりません。その言葉の経緯といいますか、文脈からいけば、ふたつしか意 味がとれないわけです。

 そういう実験ができるような装置を、機械という意味だけじゃなくて、形而 上学的な意味も含めて装置という言葉を使えば、そういう装置をつくればいい。 たとえば、これは比喩として聞いてくださったほうがいいわけですが、その装置 をつくって、そこにどんな考えもみんな入れてボタンを押したら、「おまえの 考えは三割はほんとうだけど七割はうそだ」と出てきた。そういう装置をつく ることなのか、そうじゃなければ、じぶん自身をそういう装置にしてしまう。 宮沢賢治の言葉でいえば、一心に勉強して、じぶん自身を「ほんとうの考え」 と「うその考え」を分ける装置にしてしまうか、そのどちらかしかありえない わけです。たぶんそのどちらかのイメージをもちながら、宮沢賢治はそういう 言い方をしたんだとおもいます。


 「宗教と科学」についての吉本さんの論述はここで終わっている。以下は私の 蛇足です。

 思想の体系化はそのような「装置」への誘惑なのかもしれない。また大方の思想家 ・哲学者・宗教家は自分自身がそのような「装置」だと自負しているようだ。 2流・3流のものほど自分の考えの中に「ウソの考え」があるかもしれないなどどいう 謙虚さを欠く。特に権力の御用学者(全て2流・3流のイデオローグ)は度し難い。

 もちろん、いまだかって「ほんとうの考え」と「うその考え」をきちんと分け られる「装置」はない。ただ「ほんとうの考え」と「うその考え」をある程度 分ける基準はあると思う。その基準は「あらゆる宗派・思想を超えた倫理」。 しかしこれもいまだ手探りの段階にある。

世界がぜんたい
幸福にならないうちは
個人の幸福は
あり得ない

 この賢治の詩句には嘲笑や反撥が予想される。
 嘲笑は「なんとも青臭い空想家だな」というところか。こういう手合いは 人が理想をもつことの重要さを解せない。ジョン・レノンの「イマジン」も 嘲笑するだろう。
 谷川俊太郎さんがこんなことを書いている。(「ユリイカ1977年9月号」所収 「四つのイメージ」より)


 余りにもまっとうなその言いかたに、一時期私は烈しい反撥を感じた。 それじゃ個人の幸福は永遠にあり得ないじゃないか! 世界なんて糞食 らえ、俺はひとりで幸福になってみせる!
 そうして私は「幸福な男」という詩を書いた。

 幸福な男は気障っぽい
 幸福な男には話題がない
 幸福な男は仲間はずれ
 幸福な男はひとりぽっち

 そう書いた私はしかし、やっぱり幸福だったとも思えない。


 この賢治の詩句は賢治の「最高の倫理」を表現していると思う。そしてこれ がいまだに(あるいは永久に)理想でしかないことを知るゆえに賢治は 「唾し はぎしりゆききする」修羅となる。

 
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