FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
599 唯物論哲学 対 観念論哲学(21)
こども 対 大博士
2006年9月6日(水)


(このシリーズの最終回です。お手本は最初の ①「哲学入門」 に戻りました。)

 身近に中学生ぐらいの子どもがいたら、質問してみてください。

「君のお父さんお母さんは、君がまだ生まれない以前に、この世のなかに生き ていたでしょうか?」

 こどもは何でそんな質問をするのか、怪訝そうな顔をするにちがいない。 そしてたぶん次のように答えるのではないだろうか。

「どのお父さんお母さんだって自分のこどもがまだ生まれない以前もこ の世のなかに生きていたことなんて、あたりまえじゃん!」

 こどもにはお父さんやお母さんからおしえられたり、他人のありさまを 見て確信している認識がある。ところがこの答に異を唱える大哲学者がい た。教授とか博士とかいう立派な肩書をもったえらい大先生です。文化勲 章ももらっている。この大博士は次のように述べている。

「歴史的実在の世界というのは、我々が行為によって物を見ると共に、そこ から生れる世界、即ち行為的直観の世界である。……我々が視覚的に物と いっているものは、眼の運動によって形作られたものである。」(西田幾 多郎『哲学論文集第二』)

 つまりこの大博士は、そのこどもがが見ることによってお父さんやお母さんが 生まれたのであって、もしこどもが見なければ、お父さんお母さんのからだ は実在してはいないと言っている。

 この学説に対して、こどもが実生活から得た認識を捨てきれずになお次の ように主張する。

「お父さんお母さんはぼくが見ようと見まいと実際にいるし、ぼくが何も 知らない赤ん坊のときにも、まだ生まれない前にもいたのだ」

 すると大博士は「あなたは自分の見たままをそのままうけいれていま す。それはまちがいですよ。それは素朴実在論です。」と教えてくれるに ちがいない。西田博士は「唯物論はこどもの哲学」だと嘲笑している。

 わたしたちの父母がわたしたちの生まれる以前に存在したいう認識 にとどまっているだけなら、確かにそれは素朴実在論であり「こどもの 哲学」です。しかし、その認識には「わたしたちの精神のはたらきから独立 してこの世界がある」という「おとなの唯物論」つまり「科学的な唯物論」 につながる認識を含んでいる。西田哲学は「見ることなしには世界はない」 という逆の立場に立っている。

 わたしたちの父母がわたしたちの生まれる以前に存在したとするなら、わた したちの精神のはたらきから独立して物があることを承認するのです。夜ねて いるときでもこの世の中が存在していると考えるなら、現にわたしたちの知ら ないところでいろいろな事件が起こっていると考えるなら、やはりこの精神か ら独立した物の存在を認めるのです。

 「腹はへらないと思えば、空腹ではなくなるか?」これは「眼をつぶれば お父さんお母さんは存在しなくなるか?」という質問と共通したものを含ん でいます。「勝つ勝つと思っていれば必ず勝つ」これは「見ることによって 実在の世界が生まれる」という説と同じ立場です。哲学の本はチンプンカンの 寝言をならべているように見えますが、実にこういう身ぢかな問題やもっとも らしい主張につながっているのです。

 こういう主張を信じた日本人が、いまは(敗戦直後のこと…仁平)、着るも のもなく街路をハダカで歩いているのです。


 そうそう、西田哲学はかって「日本の天皇は人間ではない」ということを証明 していた。改めてエンゲルスの次の言葉を噛みしめておこう。

「最初の素朴なみかたは、概して後の時代の形而上学的なみかたよりもヨ リ正しい」

 そういえば、裸の王様を「裸だ!」とはっきりと指摘できたのはこども だった。「あしながおじさん」の女子大学生ジュデイ・アポットさんもこ う言っている。

「あたしたちが今習っているうちで一ばんむずかしくってイヤなのは哲学よ  ― 明日はショオペソハウエルの哲学よ。教授は、あたしたちが哲学のほ かにもいろんな学課を習っているということなんかまるっきり考えていない らしいのよ。へンテコな老いぼれのアヒルよ。雲の中へ頭をつっこんでフワ フワあるきまわって、時々かたい地面にぶつかってはビックリしたような 顔をして目をパチパチさせているのよ。……教授は教室へ出る合間には、物 質は真に存在するものであるか、あるいはまた物質が存在すると自分が考え ているにすぎないのかどうかということをしきりと考えながらくらしている のよ。
 物質が存在するかしないか、そんなことは仕立物をしているあの娘に聞け ばすぐわかるわ!物質が存在するから、苦労も心配もあるんだわねえ?」

 往々にしてひとは透きとおって底まで見える池より、底の見えない濁った池を深いと思 い違いする。観念論哲学はとっても難解で深遠なことを誇りにしているようです。 しかしそれは見せかけの深遠さです。

 私(たち)は見せかけの深遠さ、見せかけの平等、見せかけの正義、見せかけの 自由…等々を見破るためには自然成長的に身につけさせられたものから 常に脱皮し続けなければならない。最後に引用する次の文は、まともな労働組合 がほんの一握りしかないない今、その再生のための原点を示していると私は思う。 もちろん、労働組合だけの問題ではない。私は「労働者」を「被支配階級」と 読みかえて読んだ。

 いま、わたしたちの生活している世の中は、新聞雑誌ラジオ映画その他その 他、サギ師の言葉でみちみちています。「子供」たちはただでさえそれに圧倒 され、それをうけいれがちです。たとえ自分が多くのことを眼で見、その見た ままをすなおにうけいれるにしても、そこから直ちに「サギ師をつかまえる」 という実践的な結論はでてきません。「子供」にはやはり「学校」が必要で す。

 労働組合は「労働者の学校」といわれます。労働組合の一員としての実践 は、たしかに偉大な教育です。しかし、ただ自分の行動によって学ぶにとど まり、よい「教師」とよい「教科書」とをもたなければ、「かしこいがゆえ にあやまる」危険をのがれることはむずかしいでしょう。理論は実践におい てつくられるという原理を一面的に度はずれにとりあげて、先駆者が彼の 実践からうみだしてわたしたちにのこした貴重な理論的遺産から学ぶことを 忘れると、労働運動の指導者はハダカの王様になるでしょう。わたしたちの 偉大な教師はいいました。

「純労働者運動というものは、自分自身で独立したイデオロギーをつくりあ げることができるし、事実またこれをつくりあげていると思っている。そこ にこそ、深刻な誤謬がある。…… われわれの任務は、自然成長性とたたかう ことにある。 ……労働者階級は自然成長的に社会主義におもむくと、しばし ばいわれる。……もしその理論にしてこの自然成長性の前に屈服しなかった ならば、もしその理論にしてこの自然成長性を克服するならば、労働者は非 常に容易に社会主義理論を自分のものにする。……しかし、きわめて広く流 布された(そしてもっとも多種多様なかたちをとって蘇ってくるところの) ブルジョア・イデオロギーは、それにもかかわらず、自然成長的に、特に労 働者を圧倒し去るものだ。」(レーニン『何をなすべきか』)

スポンサーサイト