FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
544 新新宗教批判(11)
統一教会の教義
2006年7月6日(木)


 統一教会の教義書「原理講論」は統一教会の公式サイトで全文読むことが できる。一通り読んでみようかと思ったが大変な量である。時間がもったい ないと思い直した。今まで通り吉本さんの信頼すべき解読をたどることにする。

 「原理講論」には『独特に解釈されたキリスト教の「神」と「被造物」の 世界の関わりや、その関わりを支配する原理が述べられている。』吉本さんはそれを 個条書きにしてまとめている。

----------------------------------
(1)
 わたしたちの被造物の世界は、神を中心にして、神の創造目的のままに動い たり、とまったりしている一つの完全な有機体である。その性相的な存在が神 で、形状的な存在が被造物世界である。
 おなじように人間は心を中心にして動いたりとまったりしている存在である。 そして存在するものは性相と形態をもっている。

(2)
 存在するものは、じぶんの内部でも、他の存在とのあいだでも、陽性と陰性 のふたつの性相が相対的関係をむすぶことで、はじめて存在といえる。
 たとえば物質は素粒子からできているが、素粒子は陽性、陰性、または陽性と 陰性の中和によって中性を帯びている。
 植物は雄しべと雌しべとから生れる。動物も人間もおなじだ。そして男性に は女性性相が潜在し、女性には男性性相が潜在する。また人間の心と体はそれ ぞれ性相と形状に当っている。

(3)
 人間の良心はある主体にたいしたとき生れた対象で、その主体と対象との関 わりは授受の作用として行われる。そして良心の主体は神である。

(4)この主体と対象との授受作用は、ふたたび両者を合体させ、それがまた神 の対象になる。
 主体と対象、そのふたつの合性体が残りのものを対象として三対象の基準 をつくり、これが正を中心として四位基台をつくる。これが神・夫婦・その 夫婦が産んだ子女の三段階で完成されるからぜんぶで十二対象になっている。 -----------------------------

 ここまでのところで、すでに統一教会が、神を中心においた男女の結びつき を、合同結婚式のように儀礼化し、重要とみなしている理由がわかる。つまり 陽性と陰性の結合で被造物の世界ができているという理念を、教義の根本にし ているからだ。だがこれはいかにもお粗末な通俗科学の認識だ。別の言い方を すればキリスト教的な世界観と東洋の陰陽二元説のごった煮といったものだ。 「陽イオンと陰イオンが結合してある物質を形成する」とか「電離した陽イオ ンや陰イオンが、各々陽子と電子との結合によって形成されているように」と いった、工業高校の生徒でも間違えないような出鱈目な概念で、物質の成り立 ちが説明されていて困惑してしまう。しかもこの種の科学的な間違いが教義の 根本的な部分の陰陽二元論になっているのだ。

 天理教の創設時代には教祖は科学に煩わされることがなかった。科学が解明し てきた真理などもとより知るところではないから、科学とはかかわりなしに 教義を捏造した。
 しかし新新宗教の教祖たちはなまじっか科学を知っているから全く無視できない。 科学との整合性がずんぶんと気になっているに違いない。しかし、科学的な思考方法 とは対極的な思考方法ででっち上げる観念世界が科学と整合するわけがない。 したがって行き着く先は「どんなに科学が進んでも科学では割り切れない不思議な現 象はたくさんあるのだ。」と居直ることになる。
 それでもなお科学が気になるのか、科学のかけらのない教義を掲げながら「幸福の 科学」と「科学」を標榜する宗教がある。かとおもえば統一教会の教義のよう に、科学を盗用したのはいいがまたくの誤解だらけの知識だったりする。
 創価学会も科学がおおいに気になっているようだ。創価学会の言説も直接読んだこと がないから梅原猛さんの「創価学会の哲学的宗教的批判」から引用すると、『科 学と宗教は矛盾しない、迷信を信じるキリスト教や他の仏教は科学と矛盾する が、日蓮正宗創価学会だけは矛盾しないと、呪文のようにつぶやいている』そ うだ。

 あるいは信者の中に科学者がいることを指摘して、宗教は科学を超える真理を 極めているとする主張もよく聞く。これに対して、例えば三浦つとむさんは 気持ちよくすげない。『「人は何のために生まれて来るのか」という疑問』 から一節を引用しよう。

 私の住んでいる清瀬には、空気がよくて結核療養所がある(私が家を建てたこ ろは、清瀬にいると云うと結核だと誤解されたりした。)関係であろうが、キリ スト教の教会がいくつも存在している。教会関係の人びとが、しばしばわが家の 玄関のチャイムを鳴らして、「この世界はどうなっていくかという、おためにな る話を申上げるためにお伺いしたのですが……」などと、片手に薄い雑誌を持っ て信仰のすすめに訪れて来る。「私は科学者なので、神さまなんか必要がありま せんよ。」と断ったら、「ご存知ないかも知れませんが、大科学者であるニュー トンやアインシュタインも深く神を信仰しておられたのですよ。」とおいでなす った。この例は新興宗教で愛用しているが、キリスト教も勧誘に使っているのか と思いながら、「ヨーロッパの人間は迷信深いから、あの人たちもそんなことに なったが、私は迷信が大きらいなのでね。」と云っておひきとりいただいた。神 様の押売は日用品の押売とちがって、むこうがまじめにやって来るだけに相手し にくい。

 私は三浦さんほどすげなくできないので宗教の押し売りが来ると「もうすでに 信じているものがあるので間に合っています。」と言ってお引取りいただいてい る。もちろん私が信じているのは宗教ではない。

 今回はまるで連想ゲームをやっているみたいだ。
 宗教と科学の関係でニュートンとアインシュタインはよく引き合いに出される ようだ。このことでもう一つ思い出した文章がある。田川健三著『宗教とは 何か』の中に「知の歴史」という観点から、キリスト教単一世界における近代合 理主義と宗教との相克・共犯の歴史を分析している文章ある。その一節。

 だから、歴史的には、たまに限られた地域と期間においては例外的に、近代合 理主義や科学主義が宗教を邪魔物扱いにして抹殺しようとしたけれども、それも しばらく続くと、近代合理主義そのものを維持していく上にそれでは都合が悪 い、ということに気がついて、宗教弾圧をやめるものだし、まして全体の流れと しては、両者はむしろ共存関係にあった。近代合理主義の克服を看板にかかげた 宗教が、それを看板にかかげたが故に、かえって近代合理主義と共存共栄の関係 をつくることができたのである。

 むろん、近代合理主義の克服という課題そのものが虚妄なのではない。その看板 を宗教に担わせたから、かえって、克服さるべきものと克服の課題であるはずの ものが助けあって共存しはじめたのである。ニュートンだのアインシュタインだ の、やや落ちるが湯川秀樹だのという「優秀な」自然科学者が、実に安っぽく愚 劣に宗教を崇拝し、宗教を持ち上げる発言をくり返した理由はそこにある。

スポンサーサイト