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565 「創価学会」とは何か。(7)
「創価教育学会」から「創価学会」へ
2006年7月31日(月)


 牧口は収監中(1944年10月)にただ一人残っていた男子、三男の洋三を失った。中国での戦病死 だった。牧口自身もその年の11月に病監で獄死した。享年73歳。洋三の死が相当な ショックだったのだろう。
 牧口の死はいわゆる殉教だ。宗教教団では殉教した指導者は神格化されるのが普通だが、 そのようなことは行われなかった。創価教育学会が教育団体の要素をまだ根強く持っていた ためだろう。つまり牧口はあくまでも教祖ではなく教育研究団体の指導者だった。

 牧口が治安維持法違反で逮捕されたとき、創価教育学会の主な幹部も逮捕されている。 には、彼も逮捕されている。ほとんどの幹部たちはほどなく転向して釈放されたが、 戸田城聖と矢島周平の二人が信仰を貫いて1年7ヶ月あまりを拘置所に収監された。 後に牧口は第2代会長に、矢島は第2代理事長となる。

 敗戦直前に保釈された戸田は、敗戦の翌年1946年3月に創価教育学会を創価 学会と改称する。この改称は教育団体ではなく宗教団体なのだという宣言とも 受け取れる。東京拘置所に収監中に戸田が体験下とされる一種の宗教体験が その決断の大きな理由の一つだったと思われる。その体験を創価学会公式ホーム ページでは次のように述べている。
『獄中にあった戸田は1944年(昭和19年)の元朝から、毎日1万遍の唱題(南無妙 法蓮華経と唱えること)に励み、法華経全巻を読み進めていきました。
 法華経を3回繰り返し読み、4回目に入ったとき、一つの壁に突き当たりまし た。それは法華経の序説(開経)にあたる無量義経徳行品第一の一節でした。 「其の身は有に非ず亦無に非ず因に非ず縁に非ず自他に非ず……」と34の 「非ず」が並んでいる個所です。 「其の身」が仏の身を指していることは理解 できましたが、34もの否定が何を表現しているのか分かりませんでした。“この 文は何を意味しているのか” ――戸田は深く悩み、唱題しては思索し抜く中、 3月のある日、「仏とは生命である。自分の命にあり、また宇宙の中にもある、 宇宙生命の一実体である」と直観したのです。
 その後も法華経を読み続けるなかで、戸田は、仏から末法の広宣流布を託さ れた「地涌の菩薩」の一人であるとの使命を深く自覚するとともに、生涯を広 宣流布に捧げる決意を定めたのです。』

 この体験は、のちに「獄中の悟達」と呼ばれるようになる。この体験がその後に 戸田が展開することになる「生命論」の基盤になったとされている。

 しかし「獄中の悟達」ついては島田さんは次のように疑義を呈している。

 ただし戸田自身は「私は二百万べんの題目も近くなって、不可思議の境涯を、 御本仏の慈悲によって体得したのであった。その後、取り調べと唱題と、読めな かった法華経が読めるようになった法悦とで毎日暮らしたのであった」と述べ ているにすぎない。
 獄中の悟達にあたるような記述は、彼の著作として1957年に妙悟空の筆名で 刊行された『人間革命』に出てくるだけである。まとまった著作のない戸田が、 小説を書き上げることができたとは思えず、獄中の悟達は、小説を代作した人 間の創作であった可能性がある。

 戸田城聖については深入りせずに、ここから梅原さんの「生命論」批判に戻ろ うと思っていたが、この戸田という人がかなり面白い人物なのでもう少し戸田に ついても、主に牧口との関係を軸にその略歴をまとめてみたい。もちろん体なる ヤジ馬的な興味ではない。「創価教育学会」から「創価学会」へと改称は単なる 改称であるわけはなく、そのとき教団の基本的な理念も変わったはずである。 その変化の要因と内実を探る意味がある。
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564 「創価学会」とは何か。(6)
教育団体から宗教団体へ
2006年7月30日(日)


 1940年に牧口が会長に就任したころから創価教育学会は教育団体から宗教団体 へと変貌していった。「創価教育学会規的要項」では活動の目的を「本会は日蓮正宗に伝わる無上最大の生活法たる三大秘法に基き、教育・宗教・ 生活法の革新を計り、忠孝の大道を明らかにし、以て国家及び国民の幸福を進 めるを目的とす」としている。

 また会員の結束と拡大を図る方法として「生活革新実験証明座談会」と呼ばれる方法を 採用し、それを重視した。これは会員が少人数で集まって、信仰をもつことで得た利益や法罰の 事例を報告しあう座談会である。この座談会は今日の創価学会にも受け継がれ、 きわめて重要な意味をもっている。

 機関誌においても、安産が多いことや死相が美しいこと、牧口の指導で酒好き がやんだことや、他の宗教を信仰していたがために病気になった事例などが紹介 されていたという。これはもう現世利益で信者を釣り上げる仏教教団となんら変わらない。

 1942年11月 第五回総会(神田の一ツ橋教育会館で開催)
 折伏の効果が顕著に現れる。参加者600名。会員数は4000名に及んでいる ことが報告された。支部も、東京に16支部、地方に12支部を数えるまでにい たった。

 さて、牧口は1943年に「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ 事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者」(治安維持法第七条)と して逮捕起訴された。創価教育学会は勢力を拡大しつつあったが、牧口は日蓮 正宗の一門徒にすぎない。またその学会は「忠孝の大道を明らかにし」と うたっている。何故逮捕されるに至ったのだろうか。

 戦時体制のもとで宗教団体への統制や規制が強化されていった。国家による 宗教統制政策として押し進められていた日蓮正宗と日蓮宗の合同に牧口は反対 した。

 日蓮正宗には「謗法払(ほうぼうばらい)」という、いわば入信儀式のような ものがある。入信に際して他宗教や他宗派の本尊や神札、神棚、祠、経典、護符 などを取り除いて焼き払うことになっている。牧口はその教えに従って伊勢神宮 が配布した皇太神宮の神札「神宮大麻(たいま)」を拝むことを拒否し、 さらにはそれを焼却させた。

 しかし牧口の理論ではこれは「神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項」ではなく、 むしろ「天皇崇拝を純化確立」するものであった。この辺の事情については、 島田さんの文章をそのまま引用する。

 しかし牧口は、戦前の体制のもとで、宗教にあらずとして一般の宗教とは区別 された「敬神崇祖」の道を、日蓮仏法に背く謗法としてすべて否定したわけでは ない。第五回総会での全員座談会において、牧口は、靖国神社へ参拝する意義を 説き、それがご利益を得るためのものではなく、感謝のこころをあらわすもので ある点を強調した。現在の創価学会は、首相の靖国神社参拝に反対の姿勢をとっ ているが、それは牧口以来一貫しているとは言えないのである。

 さらに牧口は、天照大神や代々の天皇に対して、「感謝し奉る」と言い、昭和 天皇を現人神として認めた上で、「吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るの が、純忠だと信ずる」とさえ述べている。では、なぜ神宮大麻を拝むことを拒否 するかと言えば、それは、天皇とともに天照大神を祀ることは二元的になり、天 皇に帰一したことにならないからだというのである。

 牧口は、現人神としての天皇を崇拝するという当時の風潮を否定しておらず、 むしろ純粋な天皇崇拝を確立するために、神宮大麻を焼却したのだった。彼は、 その行為が皇室を冒涜するものになるとは考えなかった。ところが、日蓮正宗 の宗門の側では、牧口らを本山に呼び、神宮大麻を受け入れることを勧め、創 価教育学会員の大石寺への参詣を禁止したが、牧口はその勧告を受け入れなかっ た。


 このくだりで私は宗教者の戦争責任ということを考えざるを得なかった。もちろん それは宗教界に限らない。言論界・文学界・芸術界・教育界・宗教界…要するに 国中上げて国家権力になびいていったのだ。そしてどの分野でも多くの身過ぎ世 過ぎには敏い愚物が、その戦争責任を曖昧にしたまま、180度転回した戦後の状況にも、 うまく便乗して生き残った。天皇教もほとんど無傷で「平和」の仮面をかぶって 残った。いままた同種の愚物どもが一斉に回れ右をして、仮面の下の天皇教再興 を熱烈に望んでいる。冷静沈着な思考を持続して流れに棹さそうとするまともな 人のなんという少なさよ。
 と、ついまた愚痴が出てしまった。が、元気出していこうか!!
563 「創価学会」とは何か。(5)
牧口と日蓮正宗
2006年7月29日(土)


 創価学会の創立者の牧口にも、それを引き継いでいった戸田・池田にも、 分裂症やパラノイアの症候を思わせるような神がかりな宗教体験はない。この 点がいわゆる新新宗教と大きく異なる。いわゆる教祖はいないのだ。牧口の仏 教への接近はごく普通の信者と変わらない。

 牧口は、創価教育学会創設の2年前1928(昭和5)年(牧口57歳)に、 日蓮正宗の末寺、池袋・常在寺大石講の幹部であった三谷素啓という人物と 出会っている。このときから日蓮正宗の信仰をもつようになったと言われているが、 三谷素啓とはすぐに袂をわかち、創価教育学会発足直後の1931年からは、日蓮正 宗の僧侶であった堀米泰栄から直接日蓮正宗の教義を学ぶようになる。さらに 1936年には、日蓮正宗の法主であった堀日亨(にちこう)を招いて「富士宗学要 集講習会」を開いている。また大石寺でも講習会を開くようになる。

 牧口が日蓮正宗に入信したのは何故だろう。このことについて本人は何も 語っていない。
 牧口には定職がなく経済的に苦しかった時期がある。また入信の前後に家族の 不幸が続いている。1924年には次男を亡くなり、1929年には四男が、翌年には長 男が亡くなっている。いずれも結核であったと推測されている。この貧苦と病苦 の境遇が牧口のこころを日蓮正宗へと導いていったのかもしれない。
 しかし、「貧苦と病苦の境遇」がもとで宗教に傾斜していったのなら、入信する 教団は日蓮正宗に限らないだろう。日蓮正宗を選んだ理由があろう。

 牧口は札幌の北海道尋常師範学校に学んでいる。札幌は、内村鑑三 ・新渡戸稲造などキリスト者を生んだ札幌農学校もあり、キリスト教プロテスタ ントの伝道の拠点であった。牧口自身、「苦学力行の青年期に敬愛し親近した師 友は、大概基督教徒であった」(『創価教育学体系梗概』)と述べている。
 キリスト教に親しんでいた牧口が、貧苦や病苦に瀕した際に日蓮正宗の信仰に 救いを求めたのには次のような時代背景がある。
 その時代に、日蓮宗の元僧侶田中智学が「国柱会」という国家主義の宗教団体 を組織していた。その教団は一世を風靡していて「日蓮主義」が流行していた。 牧口も、1916年頃、鷺谷の国柱会館で催された田中の講演会に何度か参加してい た。しかし、必ずしも田中の主張には全面的に賛同はできなかったようだ。 牧口が国柱会の会員になることはなかったが、こうした時代背景が牧口を日蓮正 宗に向かわせたもう一つの理由と考えられる。

 余談になるが「国柱会」という宗教団体の名を私は宮沢賢治の評伝や研究論文で お目にかかって知っていた。宮沢賢治は両親をも改心させようとした熱心な日蓮宗 信徒だった。一方、賢治は化学に造詣が深く、詩や童話などその作品にはその影響が 濃厚である。賢治の中で科学と宗教がどのように折り合いをつけていたのか、私は 大きな関心を持っている。これを次回のテーマにしようかな、と思っている。

 以上みてきたように牧口が宗教へと傾斜していく素地はたしかにあった。牧口 は創価教育学会の機関誌のなかで、「所詮宗教革命によって心の根底から建て直 さなければ、一切人事の混乱は永久に治すべからず」と述べるようにまでなる。 やがて日蓮正宗の教義をもとに独自の宗教思想として「法罰論」を展開する。
 この法罰論については梅原さんは言及していないので島田さんの解説を引用す る。

 法罰論については、1937年に刊行された『創価教育法の科学的超宗教的実 験証明』という、かなり際どいタイトルがつけられた本のなかで展開されてい る。牧口は、自らの信奉する日蓮仏法には、利的価値、つまりは功徳を生じさ せる力が備わっていることを強調した上で、日蓮仏法を包含して新たに登場す る超宗教には、「制裁的威力」が備わっていなければならないと説いている。 つまり、悪人を罰するくらいの力をもっていない神には、善を保護する力など なく、罰するだけの力があるかどうかを、宗教の価値の基準として用いるべき だというのである。

 要するに、価値のある宗教は、それを信仰する者に利益をもたらし、逆に、 その信仰に逆らう者には罰を下すものでなければならないと考えられたわけで ある。戦後の創価学会は、現世利益の実現を約束し、あわせて法罰論を強調するこ とで、急速に拡大していくことになる。


 ところで創価教育学会はどのくらいの規模の団体だったのだろうか。

1935年(『創価教育学体系梗概』が刊行された年)
 会の顧問には柳田国男をはじめ11人の著名人が名を連ねていたが、牧口を研究 所長とする研究部に所属する教師はわずか三十名だった。

1936年中ごろの時点
 創価教育学会刊行の雑誌(「新教」や「教育創造」)に掲載された名簿によれ ば
顧問12名、特別賛助会員15名、創価教育学研究所員10名、創価教育学研究員 13名、東京正会員22名、地方会員25名。

 牧口は法罰論を「伝家の宝刀」と呼んでいて、それを折伏のための武器とし て折伏による会員増加を図った。会員は漸増して

1939年12月
 麻布の菊水亭で創価教育学会の事実上の第一回総会では数十名が参加。

1940年10月
 九段の軍人会館(現在の九段会館)で第二回総会では全部で300名の参加者。 この総会で、牧口は会長に就任した。

562 「創価学会」とは何か。(4)
梅原さんの牧口「価値論」批判
2006年7月28日(金)


 新カント派→左右田の影響を受けて構築されていった牧口の価値論は、新カン ト派の理想主義と全く違った功利主義の価値論になっていった。牧口は自力で 独創的な思想を思索していった点では評価できる。しかし、「利」を最重要な 価値とする功利主義が人類が目指すべき理想世界の指導原理にはなり得ないこと を、私(たち)はすでにロールズの「正義論」において学んでいる。(「第440 回 2月19日」参照)

 梅原さんの批判を読んでみる。

 創価学会が言うように、この価値論が現在の世界の指導原理になるかどうかを 問う時、私は多くの疑問を感ぜざるを得ないのである。この点を明らかにするた めに、私自身の価値論を明らかにする必要があろうが、創価学会批判を目的とす るこの論文では、唯二つの疑点を指摘するにとどめるよりほかはない。

 真を価値の座からしりぞける牧口の理論は、実践的な結果として、真の価値を それ自身として求める人生態度を否定するということになる。創価学会ではしき りに空理空論にふける学者への攻撃がなされるが、利を尊ぶ創価学会は一見空 論に見えるものがいかに人間生活を変え、いかに人間の幸福を増進せしめるか ということに対してあまりに近視眼的であるかに見える。この態度は後に論ず るように彼らの宗教的ドグマを真理追求の精神によってあくまでも問いつめて いく理論的徹底さを許さない原因ともなろうが、今後人類はあくまでも科学的 な真理にもとづいて出来るだけ理性的に戦争をさけ、人類全体を平和と繁栄の 方向に持って行くという方向をたどらねばならない以上、価値の座から真を引 きおろした創価学会の価値学説は世界の指導原理として好ましくないものと言 わねばなるまい。

 同時に、美を部分的生命に関係する価値とする牧口の価値論においては、美は すなわち快であり、美、快は利よりも一段低い価値とされるが、私は美と快は 違い、しかも美は決して部分的な生命の価値と考えるべきものでもなく、ある 場合には利以上に全生命的な対象にたいする関係の仕方になりうると思う。牧 口は利及び社会的利である善にあまりに執着し過ぎるけれども、私は現在まで 人類はあまりにも善の価値に執着し過ぎ、現在逆に美と真の価値を強調する必 要があるように思うが、このことについてはまた後にふれたい。

 さて、以上みてきたように宗教色の見られなかった牧口の「創価教育学会」は どのようにして宗教教団へと変貌して言ったのだろうか。梅原さんは、牧口の「価 値論」と第2代会長・戸田城聖によって解釈された日蓮の「生命論」との教会内 での扱われ方の変遷から、そのおおまかな変貌をあとづけている。

 戸田城聖監修の第三版『折伏教典』では第二章として、生命論の次にあった 価値論が、池田大作監修の第四版では総論の終りの第十四章に移されている。 このような変化は創価学会の思想が牧口から戸田へ、哲学から宗教へと移りつ つあることであり、したがってその批判も価値論より生命論、宗教論に批判の 中心点を置かねばならないかのようである。

 第2代会長戸田のときに宗教へと大きく傾斜して第三代会長池田で牧口の哲学は 宗教の背後へと退けられていった様相がはっきりと分かる。ここから梅原さんの 論考は創価学会の「生命論」の批判にはいるが、それはしばらく後にまわして、 宗教との関わりを軸に「牧口→戸田」=「創価教育学会→創価学会」という変遷 の過程をを少し詳しくたどっておくことにする。
561 「創価学会」とは何か。(3)
牧口常三郎の「価値論」
2006年7月27日(木)


 左右田の価値論を要約すると
① 真、善、美という価値に「経済的価値=利の価値」を加えたうえ、さらに
② 全ての価値の間には「位階秩序」はないとした。
③ また価値には「文化価値として客観的に実現された側面」の他にもう一つ 「個人が積極的に新しい価値を作って行く」という「創造者価値」という側面 があるとし、「創造者価値」という概念を付け加えた。

 この左右田の価値論を牧口はどう変えていったか。
(1) 「真善美」という価値から「真」を除外し、「利」を付け加えて「善利美」 とした。
(2) 利を中心に価値の「位階秩序」を再構成した。
(3) 創立した団体の名称「創価教育学会」に見られるように、「創造者価値」を 「創価」という概念として継承した。

 (1)について梅原さんは次のように詳しく分析している。

 まず牧口が真を価値の表から落すのは次のような理由による。

 真は価値ではない。なぜなら価値は人間と物体との関係をあらわし、した がってそれは人間の側と、物体の側の二つの条件に相対的に左右される。しかし 真理は客観的な物の認識に属し、それは主体の意志によって左右されない。主体 と客体の関係をあらわす評価作用と、客体そのものの研究である認識作用は全く 異なった能力であり、したがって認識作用に属する真を評価作用に属する価値に 包摂するのは間違いだというのである。

「真理とは実在及び其の相互間の関係現象を客観した質的同等の概念で、価値 とは実在及び其の相互関係現象の影響性に動かされたる主体の反応量によって、 対象の関係力を測定した結果を云うのである。……故に真理は人にも時代にも 環境にも関係なく不変であるが、価値は人と対象との関係性であるから人によ り時代により環境によって変化することは当然である」(『価値論』 11頁)。

 この認識と評価、価値と真理の牧口の区別は、彼や創価学会の信者が思う程、 独創的なものではない。大正時代に日本で最も多く読まれた哲学概論であり、 牧口が愛読したであろうヴィンデルバントの『哲学概論』に次のような言葉があ る。

「かのアリストテレスは哲学を分けて理論的方面と実践的方面となしたが、之は 現今に至るまで広く用いられて来た。そこで今我等はここに論ぜんとする対象を ば知識の問題と生命の問題、即ち実在問題と価値問題或は理論と実践 ― 近 頃の言葉では価値 ― 問題とに分って論じた方が最も良いと思ふ」(ヴィンデ ルバント『哲学概論』松原完訳26頁)。

 この言葉のようにヴィンデルバントは『哲学概論』を第一篇、理論問題、第二篇、価値 問題に分けるが、彼が強調しようとしたのは、このように理論と価値、認識と評 価とは全くはなれた二つのジャンルではなく、互に密接に関係するものであると いうことであった。この存在と価値、認識と評価とを結びつけるものがむしろ真 なる実在という観念であった。真なる実在という観念は一面において存在の問 題、認識の問題であると同時に他面において「人間精神の価値規定」であり 「理想の実体化」であり、ようするに価値の価値たるものでもあった。

 牧口はヴィンデルバントとは逆にこうした二重の世界を峻別することに急であ り、異なるものの二重的性格を認めようとしないのである。
(中略)

 むしろ真なる価値への否定はもっと別な所に根拠があろう。

「重ねて例をいえば、お米はどのようにして作るかという方程式を知ることは、 真理の概念の問題であって、お米を売買する、お米を食べる問題とは別であり、 作り方をいくら知っていても、満腹にはならないのである」(『折伏教典』、 第4版、255頁)。

 この『折伏教典』の言葉は表面上の理由はともあれ、真を価値からはずした 牧口常三郎の隠れた動機を物語っているように思われる。学者は価値として真 を求める。しかし民衆の腹はそれだけではいっこうにふくれぬではないか。こ の真の価値の否定は、民衆の幸福と直接につながらない真理を追求している当 時の日本の学問にたいする牧口の批判から生れたものであろう。

 このように真を価値の座からはずす牧口は真のかわりに利を加え、利をむし ろ価値の中心におくのである。牧口が利を価値の中心においたのは理論的には 左右田喜一郎の経済哲学の影響であろう。


 いまだ宗教色のない段階での理論だが、昭和初期の日本の庶民特に農村の疲弊 が牧口に「利」を最重要視せしめたといえそうだ。後に宗教団体に変貌するとき、 この経済的貧困という物質的な「欠乏(感)」を取り込む性質の宗教となる必然 性が牧口の価値論の中にすでにあった。

 (2)についての梅原さんの詳論は次のようである。

 彼(牧口)によれば美という価値は結局快感価値であり、われわれは自分の肉 体の一部の快感にうったえてあるものを好き嫌いと言う。それは結局外界に対し て、われわれの一部が反応する価値である。外界に対してわれわれの全生命が 反応する価値は利の価値であり、利の価値こそわれわれと物との関係の基本であ り、その関係を増進されることこそわれわれと物との関係を緊密にすることであ る。善という価値も結局社会的利であり、社会的利をのぞいて善そのものがある わけではない。彼による新しい価値の表は次のようになる。

一、美的価値=部分的生命に関する感覚的価値
二、利的価値=全人的生命に関する個体的価値
三、善的価値=団体的生命に関する社会的価値(『価値論』125頁)

 牧口の価値論は、結局左右田によって権利回復させられた利の価値を中心とす る、左右田によって否定された価値の位階秩序の再編成であったであろうが、こ の辺に銀行家の立場から利を説く左右田の思想と、庶民の立場から利を説く牧口 の価値論との違いがあろう。

 昭和6年に書かれた牧口の実践的に切迫した調子の序文が示すように、庶民の一人であった牧口は民衆の求めているものを如実に 知っていたのである。腹のすいた民衆にはまず米が、メシが、パンが必要なの だ。そのためには利が価値の中心となり、すべての民衆が利を得る社会を作るこ とが善でなくてはならぬと言うのであろう。

 こうした現実主義の立場から彼はまた聖の価値を価値の概念からのぞくのであ る。彼は宗教は生活の基本原理を与えるものであり、生活の基本原理は美、利、 善の価値の追求に他ならず、このような価値をはなれて聖なる価値があるのでは ないと言う。この牧口の聖なる価値の否定は結局、彼の現世主義が、この世から 超越した、神の恐怖と恩寵を示す概念である「聖なるもの」、という概念を拒否 したからであろう。

560 「創価学会」とは何か。(2)
左右田喜一郎の「価値論」
2006年7月26日(水)


 梅原さんの牧口「価値論」批判はかなり長いが、創価学会の「生命論」と並んで 創価学会の教義批判の要になる理論なので、煩をいとわず、丁寧に読んでいくこと にする。

 さて新カント派では、価値を真善美という三つの価値を基本にして考える。 牧口はこのうちの「真」を落とし、新たに「利」を加えた。すなわち美利善 という三つの価値を基本にして考えた。さらに牧口は美利善という価値を 一直線に同じ段階に並ぶ価値とは考えず、三つの価値は三段階の位階秩序 を構成すると考えた。この牧口の理論を詳しく分析する前に、牧口に大 きな影響を与えたと思われる左右田喜一郎の価値論を見てみよう。

 牧口が利を価値の中心においたのは理論的には左右田喜一郎の経済哲学の影響 であろうが、この新カント派の価値論から牧口の価値への移行に左右田の価値論 を入れて考えると、その辺の関係が一層はっきりする。

 左右田喜一郎に『価値の体系』という論文がある。この論文は左右田の新カン ト派を中心としたヨーロッパの価値論への批判でもあったし、また同時に彼の 独自な経済哲学への方法叙説でもあった。彼はここで、従来のヨーロッパ哲学 が価値の位階づけを無批判に行なった、つまりヨーロッパ哲学ではおもに真、 善、美が最高の価値とされ、しかもその真、善、美の間にも例えばへーゲルは 真を、カントは善を、シェリングは美を最高価値としたように価値の位階づけ が行なわれているが、これはまちがいである。価値には本来先天的な位階づけ は存在せず、どの価値も平等だというのである。

 「余は此の如き意味に於て凡ゆる考へ得べき社会的文化的生活及び其の論理 的基礎たる文化価値の上に何等の意義に於てもWertordnug(価値秩序)を発見 することを得ない。論者が立し得べしと信ずる上下の段階は、亦全く同じ生活 様式及び価値につきて、其の反対の階段を考ふることも同一理由により立証し 得ることを示すは、即ち此等の諸様式及び諸価値の間に只相関倚属の乍併相互 に独立せる関係の存在することを明瞭に示すのみである」(『文化価値と極限 概念』120頁)。  すべての価値の平等化を説く左右田の中には、明らかに大正デモクラシーの 思想があろう。すべての価値が平等であるとしたなら、経済行為も倫理行為も 同じ価値を持ち、一商店の店員が小切手に署名する行為と、一国の帝王がその 詔書に署名するのと同じ価値をもつということになる。

 ここで、特に経済的価値が、真、善、美という価値と同じ段階に高められてい ることに注意する必要がある。銀行頭取左右田喜一郎にとって彼がそれに属する 銀行家達が、学者や芸術家達と同じ価値を追求しているという理論ははなはだ好 ましい理論であったに違いない。しかもこの価値の同一性の理論を説くこの論文 において左右田は創造者価値なるものを説いている。

 価値には二つの側面がある。一つは文化価値として客観的に実現された側面で あり、もう一つは創造者価値として個人が積極的に新しい価値を作って行く側面 である。両者は一見相矛盾するように見え、文化創造者である天才はその時代の 客観的価値観と矛盾するように見えるが、実は両者は相まって存在し、両者の統 一がわれわれの目標になるというのである。

 この左右田の創造者価値の理論は、あるいは左右田の論敵、西田のポイエシス の理論の影響により作られたものではないかと思われるが、牧口は左右田から、 この創造価値の理論を暗示されたのであろう。しかし、この創造価値の理論を 牧口は彼なりに全く変えてしまったのである。

559 「創価学会」とは何か。(1)
牧口常三郎と「新カント派」
2006年7月25日(火)


 国政選挙のたびにまるで記憶にない中学校時代の同窓を名乗る人物から公明党 への投票の依頼電話がかかってきていた。ほとんど忘れていた教え子がやってき たこともある。そんなもので私の考えが変わるわけがない。またそんな人と論争 しても仕方ないのでただ生返事を返していた。しかしコイズミの自衛隊イラク 派兵に公明党が同意した後の選挙の依頼電話のときは強い口調で批判してやっ た。以来電話はない。それにしても、この人たちは創価学会の何に惹かれている のだろうか。

 創価学会について私が知っているのは、強引でしつこい「折伏」によって 巨大化してきた怪しげな教団ということと、公明党との関係が「政教分離」の 原則に反しているようだということぐらいだ。だから最近、創価学会の「マス ゲーム」の映像(「第545回」参照)を見てその異常さに本当にびっくりした。 創価学会の本質を知る必要を感じた。

 創価学会が関わってきた犯罪行為や教団のカルト性をただ糾弾をするのでは なく、創価学会・公明党の成り立ちや本質を客観的に分析している本を探してみた。

島田裕己著「創価学会」(新潮新書)

を選んだ。以下断りがない限り、この本から得た情報です。

 創価学会の創立者は牧口常三郎は小学校の校長を歴任した教育者であった。 牧口が1930(昭和5)年に創立した団体の名称は「創価教育学会」といい、これは宗教 団体ではない。会則要項の第二条でこの会の目的を「本会は創価教育学体系 を中心に教育学の研究と優良なる教育者の養成とをなし、国家教育の改善を 計るを以て目的とす」と記している。会則には宗教的な活動については何も 書かれていない。

 ではこの会はどのような思想を基本理念としていたのだろうか。「創価教 育」という独特な名称がその理念を示していよう。その根底には新カント派 の「価値論」を下敷きにした牧口独特の「価値論」があった。このことにつ いては梅原猛さんの「創価学会の哲学的宗教的批判」(「美と宗教の発見」 所収)を読むことにする。

 まず、日本哲学界における新カント派の位置とその浸透状況。

 価値論は日本の哲学界の潮流から見れば、新カント派という名前とむすびつ き、大正時代、日本の哲学界を風靡し、大正時代が終り、実存哲学とマルキシ ズムが流行するとともに「価値から存在へ」の合言葉のもとに忘れられていっ た、かつての哲学的問題であるかにみえる。西洋哲学の輸入に懸命であった明 治以後の日本の哲学界は、西洋、とくにドイツの哲学界の流行にはなはだ敏感 であり、ドイツで新カソト派がはやれば日本でも新カソト派がはやり、ドイツ で生の哲学が出現すれば日本でも生の哲学の講義が行なわれ、ドイツで実存主 義が流行すれば日本でも実存主義が流行するという風であった。

 ヴィンデルバント、リッケルトを代表者とするドイツ哲学の主流は、昭和2 年(1927年)のハイデッガーの「存在と時間』の出現とともに実存哲学にとっ てかわられるが、日本においても新カント派を熱心に読んだ多くの哲学者たち は、ドイツ哲学の潮流の変化とともにいつの間にか実存哲学を愛する哲学者に かわっていった。

 こうした風潮にあってあくまで新カント派の立場にたちつつ、しかも独自な 経済哲学を作り出したのは左右田喜一郎であろう。左右田銀行の頭取でもあり 日本のブルジョワ哲学の代表者であった左右田喜一郎はリッケルト的な新カン ト派の立場から、大正15年、アカデミックな哲学の代表者西田幾多郎に論戦を しかけたが、それに答えるというより強引な自説の主張をした西田の反批判に 反撥する前に自己の銀行のパニックにあい、その心労のあまりか47歳をもって 死んだ。この左右田の死とともに新カント派ならびに価値論は過去のものとな り、もはや二度と日本の哲学界の中心問題とならなかったかに見える。

 哲学界においてはたしかにそうであった。しかし左右田によって進められた 価値論は学界とは別な所で、左右田の影響を受けつつ独自な価値論を作り出し た牧口常三郎によって日本の民衆の中に浸透し、いまや巨大な文化的あるいは 政治的現象の源泉となったのである。

 このように考えると私は哲学というものの不思議な伝播力、影響力に驚かざ るを得ないが、問題は新カント派から左右田を通じて牧口に到り、価値論はい かに変貌したかということであろう。

558 新新宗教批判(24)
新新宗教に永続性はない。
2006年7月24日(月)


 吉本さんの論考に戻ろう。「新新宗教は明日を生き延びられるか」の第2章。


 まず、新新宗教が多くの人に受け入れられている理由を、「宗教は倫理の問 題」だという面から次のように分析している。

 常人にはおよびがたい修行をしないでも、易しい道をたどればいいというの が中世の新宗教の教祖である法然、親鸞の言い方でした。じぶんは修行もし、 仏典も読破した結果、それをやってもしようがないとかんがえたわけです。よ うするに宗教は倫理の問題であり、ヴィジョン、イメージを思い浮かべられる ようになるまでの修行をすることではない、と浄土の教祖たちはかんがえまし た。浄土へゆく、生死を超えるのは念仏だけでいい、それが鎌倉時代の新仏教 の教祖たちがかんがえたことです。

 ところが、いまの新新宗教の教祖たちは、麻原さんも含めてすべて逆のかた ちをとっています。つまり、人間が世間でいう善悪に主眼をおくようないい生 き方はどこに基準を求めていいのかわからない。それならば、生死を超えるこ とができるような修行をする。そうなることが人間のいちばんの重要な倫理で あり、またいちばんの幸福であるという結論になっているとおもいます。これ ら新新宗教の教祖たちは一様に、その現世的な倫理の混乱、混迷を逆転しよう として、何か超人的なこと、超能力的なことを体験の根幹に据えて、人々の幸 福とは何か、そのための方法を編み出そうとしています。それが現在の新新宗 教のいちばんの特徴になっているようにおもいます。

 現在は、現実における倫理、善悪の基準、あるいは基準そのものを信ずるこ とがとても危なくなり、しかもいままでの倫理を超えるにはどうしたらいいか ということがよくわからない、という情況にあるとおもいます。
 それにたいして新新宗教は、一種の超人性、超能力性と、それを基にした幸 福感を与えられることを教義として人々を惹きつけ、また、それがある程度、 受け入れられているのではないでしょうか。


 人を宗教に惹き付ける根本的な精神上の機制を吉本さんは「欠乏(感)」に求め ている。しかし天理教のような土俗宗教に根ざした新興宗教の場合と新新宗教の 場合とでは「欠乏(感)」の質が全く異なる。天理教が生まれた時代の場合は経済 的貧困という物質的な「欠乏(感)」が主だったのに対して、現在の「欠乏 (感)」は主として「現実における倫理、善悪の基準、あるいは基準そのもの を信ずることがとても危な」いというような精神的な「欠乏(感)」である。
 いまは、どういう考え方を基に倫理をつくるのかをかんがえねばならない段 階にきています。しかし、欠乏感(物質的な…仁平註)が決定性を失ってし まった地域で、倫理感をいかにつくるのかについて徹底的にアプローチする 考えは、残念ですがまだ生まれておらず、人々はそれを模索している段階にと どまっています。

 すくなくともいちばんはっきりしているのは、マルクスの考え方です。マル クスの考え方では、第一次産業である農業、林業、漁業などと、第二次産業で ある製造業、工業とが対立している段階までの分析は『資本論』でなされてい ます。現在の先進的な地域では、その段階を過ぎてしまい、サービス業や流通 業など第三次産業に労働者の大部分は移ってしまいました。こうした段階で は、欠乏を主体とした論理とか倫理が通用しなくなり、危なくなってきたと かんがえています。そして新しい、これまでとはちがう倫理をつくりあげてい かなければならない、模索しなければならない段階にきています。

 こういう模索の段階では、現在の新新宗教が一時的な倫理の代用品をしてい るのではないでしょうか。しかし、それは短絡的な間に合わせにとどまり、恒 久的な救済にはならないだろうことは、とてもはっきりしているようにおもい ます。

 ただ、短絡的ではありますが、新新宗教は間に合わせの役割を現在果たして おり、われわれがきちんと社会を、経済を、人間の精神の働きを、さらには文 化を分析して新たな倫理を導いてこられなければ、最終的な解決にはなりませ ん。日本でいえば、九割九分の人が明日食う米がないという物質的な欠乏感か ら抜け出たときが、一種の結節点、カタストロフィーのようにおもいますし、 それはわりあい近いとおもっています。

 そこまでのあいだには当然、どういう倫理ならば適用できるか、また通用す るか、さらにはそれ以上の段階に通用するかについてはかんがえられていなけ ればならず、社会分析もなされていなければならないとおもいます。そのとき に通用するだけの論理、倫理、それから自然諸科学、人文科学をつくりあげて いなければならないはずだとおもわれます。そこがおおきな課題になるのでは ないでしょうか。


 ここで「宗教批判の始まり」と題した「第531回 6月21日」に円還したこと になる。そのとき引用したマルクスの言葉を再録しよう。

「現実的世界の宗教的反映は、総じて、実践的な日常生活の諸関係が人びとに 対し、彼らの相互間および対自然のすきとおるような・理性的な・諸連関を日 常的に表示する場合にのみ、消滅しうるのである。」(マルクス『資本論』)

 さて吉本さんは次のようにこの論考を締めくくっている。

 それができないあいだは、たとえ間に合わせであっても、新新宗教はー定の 役割を果たしつづけるのではないかとおもうのです。それを霊感商法だからけ しからん程度で片づけるのはよくないので、なぜ批判すべきなのか、きちんと 要点を押さえ切らなければならないはずです。ぼくはいまの新新宗教は永続的 に耐えられるとはとうていおもえず、どうしてもそれに耐えうるだけの本格的 な考え方が、それぞれの分野でつくられなければなりません。

 それができなければ、現在の新新宗教を超えた、あるいは否定したというこ とは言えません。それは難しいことですが、とても重要な課題だとおもいま す。いずれは解決を迫られる問題であり、それまでにきちんと対応しなければ そのときに戸惑うだけだと言えるのではないでしょうか。


 これで「新新宗教批判」を終わります。現在、社会的にも政治的にも最も大きな 影響力を持っている「創価学会」も取り上げたかったが、現在の創価学会は 新新宗教とは異質の集団になっていて、「新新宗教批判」というテーマの中で 取り扱うのには適切ではないと判断した。稿を改めます。
557 新新宗教批判(23)
宗教は倫理の問題である。
2006年7月23日(日)


 「第542回 7月3日」で私は次のように書いた。

 全ての宗教を包含する「普遍宗教」というものがあるとすれば、その宗教の 神は自然にほかならないのではないか。地上から浮遊してさまよい続けた挙句、 霊(こころ)は本来のあるべきところ、この地上に戻ってくる。神秘めかした 言説を一片なりとも必要としない。

 ではその普遍宗教の教義は何なのか。

 どの新新宗教も、その教義のばからしさに拘わらず、「良いことも言っているじゃな いか」という「まともな部分」がある。その部分の説教は通俗的な道徳であったり 愛であったり自由や平等や公正さであったりする。しかしそれらのほとんどは 既成宗教からの抽出・合成をしたものである。既成宗教はすでに現代社会の根 源的問題の解決にはなんらの貢献もなしえない。古田さんの言葉を借りれば、 「立ったまま枯れている」。新新宗教のどんなありがたいご託宣も既成宗教 の枠組みを超えるものではない。

 普遍宗教の教義は諸宗教の「まともな部分」をすべて含んだ上でさらにそれ らを超えるものでなければならない。それはいいかえれば、現在の根源的な問 題に真正面から向き合うことができる「倫理」、人類が現状の「どうしようも ないドウツブ」から抜け出て、大自然と調和した「まともなドウブツ」となる ための「倫理」にほかならない。新しい倫理の創出が現在のラジカルな課題と なる。

 今までに取り上げてきた人たち、たとえば吉本さんや古田さんのさまざまな 論考もその底流には「新しい倫理の創出」というモチーフがあると思う。また ロールズの「正義論」もそのような観点から読むことができよう。
 私の狭い視界に入ってこないだけで、このほかにももっとたくさんの人が 新しい倫理創出のための真摯な営みを積み上げているに違いない。

 柄谷行人さんの「倫理21」(平凡社)がすぐ思い出された。カントの哲学に 依拠しながら新しい倫理の創出を試みている。「あとがき」の日付は「1999年11 月」とある。この書名にはたぶん「21世紀を迎えるにあたって、新しい時代に 堪えられる倫理創出の試み」という自負が含まれている。
 柄谷さんは最近「世界共和国へ」(岩波新書)という著書を上梓した。その 中の「普遍宗教」という章の最後に、「倫理21」の概略を述べている文章があ る。それを引用する。(ただし柄谷さんのいう「普遍宗教」は、私が言う「普 遍宗教」とは違い、キリスト教・イスラム教・仏教などのいわゆる「世界宗 教」を指している。)

 しかし、ここで強調しておきたいのは、普遍宗教は社会運動を生み出したと はいえ、それ自体はけっして政治的・経済的な運動ではなかったということで す。一九世紀の社会主義者にはイエスを社会主義者と見る人たちが少なくなか った。カウツキーも原始キリスト教を社会主義運動としてとらえています。仏 教に関しても似たようなことがいわれます。だが、そのような考えは事実に反 しているといわねばなりません。普遍宗教がもたらしたのは、自由の互酬性 (相互性)という倫理的な理念です。それが政治・経済的平等を含意するにい たったとはいえ、後者が至上目的ではなかった、ということを忘れてはならな いのです。

 カントは、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」という格 率を、普遍的な道徳法則として見いだしました。「目的として扱う」とは、自 由な存在として扱うということです。自分が自由な存在であることが、他者を 手段にしてしまうことであってはならない。すなわち、カントが普遍的な道徳 法則として見いだしたのは、まさに自由の相互性なのです。そして、この場 合、「他者」は、生きている者だけではなく、死者およびまだ生まれていない 未来の他者をふくみます。たとえば、私たちが環境を破壊した上で経済的繁栄 を獲得する場合、それは未来の他者を犠牲にすること、つまり、たんに「手 段」として扱うことになります。

 自由の相互性をこのように理解するならば、それが資本主義と国家に対する 批判をはらむことは当然です。あとでのべるように、カントは抽象的な道徳 論にとどまらず、生産者協同組合や国際連合について考えたのです。しかし、 ここで強調しておきたいのは、カント的な倫理が普遍宗教に由来していると いうことです。カント自身がそうしたように、宗教を批判してもよいし、また 批判すべきですが、そのことが、宗教によって開示された倫理=交換様式を 否定してしまうことになってはなりません。


 「普遍宗教がもたらした自由の互酬性(相互性)」という概念の理解には、 それを論じている部分を読む必要があるが、ここでは「なんとなく分かるよ」と 読みすごしても全体の趣旨は理解できると思うので、いまは深入りしない。 (成り行きによっては柄谷さんの著書を取り上げることになるかもしれませ ん。)
556 新新宗教批判(22)
「日出づる国、災い近し」・吉本さんの読解
2006年7月22日(土)


 『日出づる国、災い近し』には、次のようなことが麻原彰晃の思想と思い込みに したがって記述されたり、弟子たちとの会話によって語られている。

(1)麻原彰晃の考える「予言」の概念
(2)それから得られる世界最終戦争は必ず起るという確信
(3)その戦争が核兵器や細菌兵器や毒ガス兵器、レーザー兵器などの戦いに なるという説教
(4)その最終戦争後の世界はどんなものが生き残り、どんな世界になるのか

 ここにはヨーガの修業者としての面影はほとんど消えてしまって、第三次世界 戦争が核兵器その他高次の科学兵器により不可避に戦われるという思い込みに 基づいて語られ、弟子たちとの問答でその戦争の実態が予想されたりして、数 年まえ反核文士がやっていた核ミサイルの性能やその配置についての素人の馬 鹿話が、こんどは宗教信仰者によって再現されたと同然になっている。

 麻原彰晃とオウム真理教の幹部たちが、なぜヨーガの修業について語るかわ りに、素人の床屋政談や軍談を語るようになってしまったかについて、この本 にもいくらかのヒントは潜在しているような気がする。それを言ってみたい。

 第一原因は、麻原彰晃が「予言」という概念を、ヨーガの修練から得た心身 相関の領域についての鋭敏な(超鋭敏といってもいい)察知力の表白というと ころから、

(1)
 他の予言書(ノストラダムスの予言、『新約聖書』の黙示録、仏教の 『輪廻転生譚』など)の内容を摂取しようとして、その混合を試みてみよう としたことだ。そのために西洋星占術の概念まで受け入れている。
(2)
 社会現象が蓄積された事象の構造を洞察することによって社会動向について の「予言」が可能だとかんがえたこと。
(3)
 精神以外のさまざまな事象を経験的に類推することで「予言」ができるとか んがえたこと。

 麻原彰晃や幹部がこういったことの研究や勉強を重ねたところは努力家、勉強 家ということになるだろうが、それが独りでに政治的動向や社会的な矛盾の分 析でも、じぶんを「予言」者だと思い込ませることになったとおもえる。

 麻原彰晃が思い込んだように、社会現象や政治現象や国際関係の矛盾や、 その爆発的な集約点である戦争の生起についても「予言」することはできる だろうが、それには麻原彰晃がヨーガの修練に費やしたとおなじだけの修練 がいる。それぞれの分野についてそれが必要なことは明瞭なことだ。たとえば 円高やアメリカ経済やヨーロッパ世界についてのこの本の言及は知識人の床屋 政談の域を出ていない。また最終戦争が不可避だという「予言」も、『新約聖 書』やノストラダムスの予言などの解釈と、じぶんの主観的な願望との兼合い からつくられている。残念ながら現在までのところ星座の配置と政治・社 会の動向を必然として繋ぎ合わせる織り目の在り処は、どんな意味でも見つ けられそうもない。思い込みと信念の確信や直観の恣意さを出ることはない。

 麻原彰晃はこの「予言」概念の拡張に基づいて、核などの科学兵器や細菌 兵器や化学薬物兵器について、主な弟子たちに分担をきめて調査研究をもと めたことが、この本の問答のところからわかってくる。

尊師
 要するに人工衛星からマイクロ波を発信して、そしてこの地上のある点に おいて プラズマが発生するということだね。

ティローパ
 はい。現に世界中で、正体不明の、人体から発火する現象などが起こって います。盛んに人知れず実験がなされているのだと思います。

尊師
 そういう、人が燃える現象とかいうのは実験だと考えたらいいんだね。 これにつ いてはどうだ、マンジュシュリー。

マンジュシュリー・ミトラ
 そうですね、確かに何らかの実験だと思いますが、マイクロ波の場合の 問題は、波長の関係で、あまりスポットを小さく絞れないという問題があり ますね。
(後略)             (第二章 最終戦争で使われる兵器の項)

 こんな問答が延々とつづく。こんなことを調べろと指示した師匠も師匠だ が、弟子も弟子だ。この程度のことは調査のうちに入ってこない。ただ怪し げな本から集められた怪しげな情報だというだけで、いくらやってもおなじ だ。理工系の学生上がりなのだから、こんなことはいくら調べても無意味だか ら、やらない方がいいのではないかと「尊師」に直言するのが科学的態度では ないのか。だがこの本をみると「尊師」の方はこういう弟子たちの報告を寄せ 集めて、最終戦争なるもののイメージを固めていることがわかる。いいか えれば拡張された「予言」を支える柱に使われて真面目な妄言をつくり上げる 材料になっている。

 人間の生涯が現在、おおよそ百年足らずとして、それ以上の年数にわたる 「予言」など無意味だし、生きることのモチーフをそれ以上の年数でかんが えるのも無意味だ、というのが俗世の生の理念だ。

 麻原彰晃をはじめオウム真理教は、未開、原始の時代にオセアニア、印度、 東南アジア、東アジアの沿海地域と島嶼に拡がっていた「輪廻転生」(生れ かわり、死にかわり)の思想と因果応報の思想を、信仰と修練の基底におい ている。したがって理念の枠も生命の完結もつくるのが難しくなる。旧仏教 の禅やオウム真理教のヨーガの修練はどうかんがえても、いいかえれば生死 をこえるイメージの創出修業とかんがえても、人間の倫理的人格の高度化と かんがえても、身体にまつわるイメージの内観法の修練にその本質があると いっていい。そうすると麻原彰晃が「予言」ということを身体にまつわる内 観法から、外在的な天変地異、社会現象、政治現象、その矛盾の集約点とし ての戦争の発生にまで拡張しようとしたところに、すでにいかがわしさが入 り込む原因があったというべきだ。そのために『新約聖書』の黙示録やノス トラダムスの予言文書や「マラキ」や「シャンバラ」の予言集などが、すべ て最終戦争を暗示しているという学習が、じぶんの体感と混融されていった といえるのではなかろうか。

 最終戦争という概念は、いずれにせよ宗教家が現世を跳躍し、否定して、隔 絶した理想の信仰社会を思い描くかぎり、その象徴としてかならず現われるイ メージだといっても過言ではない。何故なら一挙に旧い俗世界が消滅し、理想 世界があとにのこるという理念は最終戦争という概念で、象徴的に解決される からだ。麻原彰晃の弟子たちも、最終戦争後の世界のイメージをそんなふう に描いている。

ヴィマラ
 ある一人の王が勝利者として存在する。その周りに刻印を押された者たちが 生き残るという、そういう状態をわたしはイメージします。

クリシュナナンダ
 物質を重視する観念からすべての人々が逃れられる、そのような社会が来る と思います。

ティローパ
 「精神的に豊かな世界」ができる。

マンジュシュリー・ミトラ
 大戦後は「神に選ばれた者のみが生き残る」。

導師
 「いかなることがおきても弟子と共に生きのびる」。第三次大戦後の地球は 「自然と魂が融合した状態、また科学が意識とは・生・老・病・死とは何かを 解明する」社会だ。

 こう並べてみるとなかなか宗教的には真っ当なことがいわれているようで、 エコロジストや反文明主義者は左右を問わずこのなかに包括されることにな る。宗教や、理念が宗教性を帯びると、みんなこんなことになってくる。あと には「予言」を「成就する」ことと「予言」が「成就される」こととの時間 的な錯合と融合の必然が、病理の領域を実現してしまうかどうかの問題だけ がのこる。

555 新新宗教批判(21)
「亡国日本の悲しみ」・吉本さんの読解
2006年7月21日(金)


 今回から、吉本隆明著『消費のなかの芸―ベストセラーを読む』所収 『麻原彰晃「亡国日本の悲しみ」「日出ず国、災い近し」』を読みます。 以下は吉本さんの文章そのままの引用です。(ただし、読みやすいように重 複内容の省略や行挿入や行変えをしました。)私の感想は入れません。

 まず『亡国日本の悲しみ』 からとりあげてみる。
 この本のモチーフはおおきく二つあるとおもう。

 ひとつはオウム真理教を批判したり、誹謗したり、弾圧しようとしている方 面にたいする論争の言葉を集めたものだ。
 もうひとつはほかの予言書や『新約聖書』の黙示録的な予言や、麻原彰晃が そんな予言や占星術の勉強をとり集め、じぶんの冥想から得た予言と混合させ た主張だ。

 この本がとてもユーモラスで珍らしいのは、わたしなどがたびたび渦中に あってやってきた政治や社会や文学についての論争の陰惨さとまったく違っ て、「地獄」に堕ちるとか「地獄」が待っているとか「神の怒り」が爆発する とかいうのが、究極の批判の言葉であり、また「前世」がどうで「来世」が どうなると決めつけることが最大の悪口になっている点だ。わたしならこん なことをいわれても吹き出して、ほんとかね?とおもうだけだが、宗教者には 大へんなレッテルなのかもしれない。これはわたしに似た現世の知識的俗物が 「裏切り者」「スパイ」「反動」などと世界の共産党筋からレッテルを貼られ ると、じぶんの生涯は終りだとしょげかえった時代があったように、新宗教関 係ではいまも「地獄」に堕ちるとか、「前世」や「来世」が虫けらだみたいに 罵られると、ショックな時代なのかもしれない。この本の麻原彰晃の吐いてい る悪口を、いくつかアレンヂして挙げてみる。


○国家権力もそれに支配されたマスコミも、一時的に現世の利益を得ても、 その後に地獄が待っている。マスコミは来世では動物界に転生する。

○完全な禁欲出家修行者を不当に逮捕しつづけると、神々の怒りを爆発させ る。

○「幸福の科学」の主宰・大川隆法は前世でわたしの弟子だった。天法金丹の 法の開祖はじぶんだといいふらして、無間地獄に堕ちた。

○大川隆法は一生前は「四国のたぬき」だった。死後は無間地獄に堕ちる。

○江川紹子(反オウムのジャーナリスト)は来世に「非常に美しい犬」に生れ かわる。

○被害者の会の弁護団の一人、滝本弁護士は消化器を病み、死ぬだろう。

○「サンデー毎日」の元編集長・牧太郎は脳出血、右半身マヒ、失語症の報い を受けた。


 まだあるがざっとこんなものだ。大川隆法が一生前は「四国のたぬき」だっ たとか、江川紹子は来世は「非常に美しい犬」だというのなど、愉しいレッテ ルで、おもわず吹き出したくなる。共産党筋やシンパの男たちもこういうのを マネした方がいいとおもう。

 この本にはもうひとつ「予言」として第三次世界大戦(核攻撃、地震兵器で 日本は沈没、解体されるというヴィジョンを見たといっている)は必ず起ると 確信されている。そしてその後、日本をどう立ち上がらせるか、「これがわた しとわたしの弟子たちの大乗の修行、つまり救済活動の一つのポイントなので す。」と麻原彰晃は述べる。

 わたしのような俗世を生きる凡俗から見ると、途方もない馬鹿話だが、書か れている文体のせき込み方は、真面目で重々しく、麻原彰晃自身は、完全にそ の妄言の軌道に潰りきっていることがわかる。

 わたしにはつまらない予言書や時勢書から植えつけられた偏見で、ヨーガの 修行者としての修練をべつにすれば、つまらぬ軍事専門家や政論家の雑知識を 寄せ集めて作られた常識を、「人々が煩悩的な生き方を好み、人間の悪業が頂 点に達した現代は、まさに破滅に向かって一直線にひた走る最悪の時代であ る」という現状認識についての信念と組み合わせたものに過ぎないとおもえ る。一個の世界認識や現実判断力を獲得するにも、麻原彰晃自身がヨーガに費 やしたとおなじきびしい修練や労苦を必要とするものだということを忘れて、 宗教家のつまらぬ床屋政談をやっている。ここには悲劇的な麻原彰晃の姿があ るだけで、物悲しさに誘われる。

 この本ですこしでも宗教的だとおもえるところは二つだけだ。
 ひとつは「人間」という状態は、本質的でなく、常のない存在で、肉体のな かに意識が宿っている不安定な中間状態にあるものだ。だから眠るだけでも意 識は肉体から離れようとするし、気絶すると離れてしまうといっている。
 もうひとつは宗教的な修練には閉鎖社会を作った方がいいのだと言いきって いる。
 こんなところは馬鹿話というまえに麻原彰晃の仏教徒としての言いまわしだ から仕方がないとおもえてくる。

554 新新宗教批判(20)
何がサリン事件を誘発したのか。
2006年7月20日(木)


(三泊四日の楽しい楽しい入院生活を送ってきました。今日は短文です。)

 さて、『「生死を超える」は面白い』の結びの一文。

 もうこのくらいのところで、わたしが興味ぶかくて仕方がなかったこの本の 中心部はつきている。もしかするとオウム真理教の中心部もこのヨーガの修練 による「死と転生」のイメージの産出や、産出された「死と転生」のあとの世 界(死後のイメージの世界)を自在に作り出し、自在に遊行する心的体験にあ るのかもしれない。わたしの興味と関心を改めて箇条書きにするとつぎのよう になるとおもう。

(1)
 未開や原始の時代にはオセアニアや西南アジアや北アジアの種族にとって普 通の実体験の世界で、現在のこの地域では痕跡しか残っていない心的な体験の 世界を、ヨーガの修練で産出するのが、著者たちの信仰の中心ではないのかと おもえる。

(2)
 わたしの関心にひき寄せれば、この著者が生み出し、記述している肉体や感 覚の体験は、分裂病者が無意識の強迫から作り出している体感や感覚異常の体 験の世界を積極的に自在に作ることができていることを意味するのではない か。

(3)  ヨーガの修練で臨死の体験のイメージ、死後の体験のイメージ、そこから子 宮や卵子のなかに入り込んでふたたび転生したというイメージを、連続した プロセスとして産出できることが、生と死を超えた永生という理念を作る根拠 になっている。

(4)  浄土教以前にあった仏教各派の修行が何をやっていたのかが、この本の記述 でとてもよく理解できる気がする。

 何はともあれ、これほど如実に微細にヨーガの修練の過程を記述した本にお 目にかかったことがないから、わたしにはきわめて貴重な本だった。


 「生死を超える」はひたすらヨーガによる自己啓発を説いていて、ここから はサリン事件を誘発するどんなきっかけも見られない。その手がかりを探し出 せるとしたら麻原彰晃の他の著書「亡国日本の悲しみ」と「日出づる国、災い 近し」しかない。
 一事に優れているものが他の分野では全くの愚者になる例は枚挙にいとま ない。優れている一事もない私は全てにおいて愚者だが、愚者だと自認してい る分だけ賢いと自分を慰めている。
 麻原彰晃も、ヨーガの修行者として優れていても、ヨーガの世界から一歩外に出ると、 からっきしだめな愚者となる。上記の二書はそのことを如実に示している。しかし、 この二書を単なるバカ話と笑い捨てることは正しくない。なぜなら、同じようなバカ話 を基本理念とした宗教集団が国際政治の動向と深く関わっているふしがあるの だから。
553 新新宗教批判(19)
シャカの実像
2006年7月17日(月)


 イエスの実像が後世の教会によって改竄されていった(「第482 イエス とは何者か」参照)ように、現在流布されている釈迦像も後世の仏教教団 によって改竄されたものだ。

 古田武彦さんがとらえるシャカの実像は次のようである。『わたしひとりの 親鸞』からの長い引用になる。注釈抜きで該当部分を全文そのまま引用する。

真実の釈迦

 さて、このような実在のイエスは、果たして「アヘン」公売人なのでしょう か。「否!」わたしには率直にそう思われます。
 なぜなら、権力のために民衆にアヘンをすすめる狡猾な公売人たち、彼等は 必ずそれにふさわしい報酬をうけるはずです。居心地よいポスト、快適な生 活、悪くない身分の保証。それらです。
 しかし、イエスに与えられたのは屈辱の死でした。この事実こそ、百の弁舌 にもまして、彼が「アヘン」公売人ではない。その逆。民衆を覚醒させる人、 すなわち権力にとって危険な人物だったことを余すところなく証明しているの です。

 実は、このヨハネ伝と同じ立場にあるもの、それが仏教のいわゆる大乗経典 なのです。
 仏教の根本経典とされる中阿含経などの原初的な史料は、釈迦入滅後間もな く(第一回「結集(けつじゅう)」は弟子たちによって。第二・第三回「結集」 は、それぞれ百年後。)成立していますが、ここでは釈迦はなんら超能力をも たぬ〝普通の人間″です。

 最後は、暑いインドの夏の日の行路で、のどがかわいてガンジス河の支流の 水を飲み、そのあと腹が痛み出し、苦しんだ末、死をむかえるのです。その病 状は真実(リアル)で、痢病か疫病か、何らかの細菌に感染した模様です。 (キノコの食あたり、とも言われます。)
 そしてうろたえ悲しむ弟子たちに対して、〝何も憂えることはない。わたし がかねがね言ってきた通り、(カルマ) (人間にとっての真理)によって生きよ。″とさとしたと言います。
 ここでは釈迦は決してどんな難病でもなおす、といった超能力の持主ではあ りません。自分自身が細菌の力にたおれるのですから。釈迦は、現代のわたし たちに比べて、衛生学上の知識にとぼしかったこと、それをわたしは疑うこと ができません。

 わたしは大学時代― 十九歳の頃でした。 ―仏教史の山田龍城(りゆうじ ょう)さんからこの話を聞き、その釈迦の死の〝尋常さ″〝人間らしさ″にか えって深い感銘を覚えました。
 たとえ一小部族であったにしても、その支配階層に生まれながら、その身分 をなげうち、あたりまえのひとりの人間として、あたりまえの真理を平等に認 識することを説いた、そのような釈迦の生涯。その真の勇敢さにわたしは脱帽 せざるをえません。

 これに対し、釈迦の死後数百年以上あとに成立した大乗経典となると、全く 性格を異にします。ここでは例によって釈迦は永遠の古えより永遠の未来まで 実在しとおす超能力の主であり、さまざまの奇跡も自由自在に行います。その 上、おびただしい説法を行い、無限の文学的比喩をまきちらす異能の天才でも あります。またあらゆる難病をなおすのも、意のまま、というわけです。とて も腹痛などに悩まされそうにもありません。

 わたしたち日本人になじみ深い法華経や大無量寿経、観無量寿経、般若経等 々。つまり、日蓮や親鸞や道元たちが傾倒しつくしていた経典の数々はすべて このたぐいなのです。これらが現実にこの地上に生きた釈迦その人の〝夢にだに見ざる説法″の数 々であることは、疑うよしもありません。第一、釈迦その人が死んで数百年以 上あとに、これらの経典は成立しているのですから。

 〝いや、しかし、ここにこそ釈迦の真精神が語られている。″そう主張する 人があっても、もちろんその人の自由です。ちょうど、ヨハネ伝がイエスの真 精神の表現だ、と主張する人々がいるのと、それは同じでしょうから。

 けれども実際は、大乗経典の釈迦と阿含経といった根本経典に語られている 実在の釈迦とは、かなりその様相がちがいます。
 まず、前者はとてもおしゃべりです。冗舌と言いたいほど。これに対し、後 者は素朴で、決して前者のようには多弁とは言えぬながら、人間の本来の健康 さといったものが叙述の中にキラキラと真珠のように輝いています。
 それに前者は、多く奇跡の名人だのに、後者はそんなものに、〝野心″をも やしません。あたりまえの人間として生き、そして死んでゆく、そういう人間 の姿にだけ関心をもっているかのようです。
 その上― わたしにとって興味深いことですが ―前者の多くは死後の世界 に興味をもち、その死後の世界の浄土なるものへの〝予約″にせいを出してい ます。ちょうど時には腕ききの保険勧誘員のようにさえ、わたしには見えるこ とがあります。これに対し、後者は、そんなものに関心をもちません。ただこ の世界を支配する通常の道理をたがわず見つめ、それによって生き、それによ って死ぬことを尊しとするだけです。

 わたしには、このような釈迦こそ、愛すべき人生の先達と見えるのです。 〝人間にもこんな人物がいた。″ もし人類が亡び去った日にも、あとから来 る〝名も知らぬ次の生物″に、こう書き残したい、とさえ、わたしには思われ るのです。

 さて、このような釈迦は「アヘン」公売人だったのでしょうか。わたしには どうしてもそうは見えません。もし彼がそのような人物であったなら、何も父 祖の故城をはなれることなく、その世俗の権威を十二分に利用しつつ、民衆に むかって〝有難いお説教″をしていればそれでよかったのですから。そうすれ ば、ガンジス河の支流のほとりで七転八倒して苦しんで、弟子たちに見守られ つつ、死にたえてゆく。そういった最後とは、またちがった一生になっていた のではないでしょうか。(後代の経典は、この釈迦の最後をも、次々と美々し く飾り立てようとしていますが、これも当代の事実とはかかわりがありません。)

 やはり、釈迦は、人々に〝眠りから目覚める″ことをすすめた人、「反アヘ ン」の公売人だった。わたしにはそう思えるのです。

552 新新宗教批判(18)
超人にされたシャカ
2006年7月16日(日)


 ヨーガ修行の第三ステージを麻原彰晃は「夢見のヨーガ」と呼んでいる。 桐山靖雄の解説では第4段階となっている。

アナハタ・チャクラ(胸腺・心臓・肺臓を制御する。)
 他心通の力があらわれてきて、他人の心が手にとるように分るようになると 同時に、他人の心を自由に動かす力が出てくる。

 つづいて、目に見えぬものの高い心(聖霊、神霊、主導霊と表現する)と心を 交流することができるようになる。自分にとって不可解な、理解できぬことなど を、天地にみちた、すぐれた心、智恵のエネルギーに同化してそこから聞くこと ができる。つまり、人の肉体はほろびても、その人の持っていた心のエネルギー はこの空間に痕跡をとどめているので、このチャクラでその心の波動と同じ波動 になれば、その心が持っていたすべてのもの、意識も、知能もみな自分と同化し て自分のものになるということである。そういう意味で、このチャクラに十分熟 達すると、霊界(四次元)の世界と交流の道がひらけるのである。

 大川隆法のパラノイア症候が描く「霊界」との交流と重なってくる。
 麻原彰晃の体験談は次のようである。

第三 「夢見のヨーガ」
アナハタ・チァクラ(みぞおちのところの霊的なセンター)への精神集中の修練 がやってくる。著者のいうところによればこの段階で「この世」とちがうべつの 世界を創り出し、そこで遊ぶことができるようになる。その創られた世界では、 触れることも、見ることも、聞くことも、匂うことも、味わうことも、またか んがえることもできると書かれている。そして著者はこういう実体験とおなじ 如実な感覚体験がこの創られた世界でできることが逆に「この世」も無常なイ メージにすぎないのではないかと感じさせる根拠になるという興味ぶかいヨーガ 体験観を述べている。

 吉本さんのコメント

 わたしは麻原彰晃のこの述懐を読みながら二つのことを連想した。ひとつは 『古事記』の初期神話やアイヌ神話にある「あの世」は「この世」と対称的で そっくりおなじ世界になっていて、死者はおなじ暮らしをしているというイメ ージだ。もうひとつは現在作られるいちばん高次な映像体験であるバーチャル ・イメージの世界だ。そこでは映像の世界に自分が入り込んで、触れることも、 見ることも、聞くことも体験できる感じになる。わたしはこの未開、原始の世 界と超現在の世界の両方に通底したイメージ体験は、著者が記述しているアナ ハタ・チァクラの体験と関係があるとおもった。

 次は桐山解説では第5のヴイシユダー・チャクラ。

ヴイシユダー・チャクラ(甲状腺・上皮小体=副甲状腺・唾液腺)
 超人的な聴力がそなわる。実際に、このチャクラが使えるようになると、 それまで全く聞こえていなかったある音響を聞くことができるようになる。 これは私自身の体験であるが、その音がどんな音であるかは、ここでは伏せ ておく。
(中略)
 また、いろいろな声を開く。主導霊の声をはっきり耳にするようになる。
 ヨーガ・スートラにある「あらゆる生きものの叫び声の意味がわかる」という 能力が身にそなわる。仏教の天耳通(てんにつう)である。
 また、このチャクラは、頭部、上肢(両腕)及び胸部の筋肉運動に深い関係 を持つ。

 麻原体験談。

第四 「幻身のヨーガ」
 ヴィシュッダ・チァクラ(のどぼとけの霊的センター)を開発するための 精神集中によって、時間や空間を超えた場所に移動できる。ある人が渋谷の バス停で著者を見かけたが、その時刻この段階の三昧をやりすぎて気絶して いたという経験を述べている。顔や体つきが瞬間的に変ってしまうことがあ る。

 このチャクラでは桐山解説と麻原体験談は全く異なるものになっている。 麻原の体験談の方は「時間や空間を超えた場所に移動できる。」などとバカ話の 領域に入っていく。「霊」の存在を信じている人はこのバカ話も信じてしまう のだだろうか。

 吉本さんのコメント。

 ここの記述も役の行者の伝説みたいで興味ぶかい。民間伝承にあるこの種の 説話は著者のヨーガ体験観からすれば「普通の人間」が時として偶然こんな体 験に出会ったり、未開の心性では普通にありうることだったことを暗示してい る気がする。
第五 「光のヨーガ」
 アージュニァー・チァクラ(眉間の霊的センター)に精神を集中する段階が やってくる。巨大な球体光のなかに自分が溶け込んだ感じになる。頭頂と心臓 から二本の赤紫色の光が出て、この球体光と結ばれる。中心の透明な部分に 細かい点が無数にうごいていて一粒一粒が情報の塊で、中心の点は宇宙レベル の情報、外側にゆくほど個人レベルの情報になる。他人から予言を頼まれたと きはここで情報を得ると著者は記している。
 そのうちにアージュニァー・チァクラが崩壊して、常時この光の世界にいら れるようになって、〈光のヨーガ〉が完成する。

この「光のヨーガ」は桐山解説では第六段階となっている。

アジナー・チャクラ(脳下垂体)
 異常な透視力を持つようになる。ヨーガ・スートラにある「心の発現にそ なわる光をあてることによって、どんなに微細なものでも、人目につかぬと ころにかくされているものでも、はるか遠くにあるものでも知ることができ る」という能力である。
 テレパシー能力が生ずる。ヨーガ・スートラにいう〝大脱身″が可能にな るのはこのチャクラである。
 このチャクラは、また、命令のチャクラ、願望成就のチャクラ、自在力の チャクラともいわれ、熟達すると、自然に命令してこれを自在に動かし、自 由に支配することができるようになる。すなわち、八種の自在力をそなえる ようになる。
 八種の自在力とは、次の八種である。
 1 身体を極限まで小さくして、岩などを自由に通り抜ける力
 2 からだを大空にいっぱいになるほど大きくする力
 3 蓮の糸や綿くずよりも軽くなる力
 4 望みのままに、月にでも指をふれることができる力
 5 自分の意志するままに、どんなことがらでも実現できる力
 6 世界を創造し、支配する力
 7 万物を自分の意のままに従わせる力
 8 大地のように身を重くすることのできる力、あるいは、自分の意欲の 対象を必らず手に入れることのできる力

 おやまあまあ、西遊記の主人公・孫悟空なみの超人になるというわけだ。 というより、西遊記の作者がヨーガの教書を下敷きにして孫悟空を創造した のだろう。

 吉本さんが取り上げなかったのか、麻原彰晃が最終段階のチャクラを修得でき なかったので書かなかったのか、いずれかは分からないが桐山解説ではもう 一つ最終段階のチャクラがある。ついでなので転載しておく。

サバスララ・チャクラ(松果腺・松果体・視床下部)
 頭のなかの光明といわれるチャクラである。梵の座、梵の裂け目という 頭蓋骨の接合するところの真下に位置する。梵の座、梵の裂け目とは、梵すなわち 聖なるもの、と一体になる場所という意味である。
 このチャクラを目ざめさせると、この部位に光明があらわれて、燦然とかが やく。頭のなかの光明である。
 このチャクラはすべてのチャクラを統合してこれを自由に制御する。すべて のチャクラを自由に制御することができるようになると、彼は次第に変身す る。昆虫が全身を覆うかたい表皮を次第に溶かし、しなやかな、しかし丈夫な 羽翼を自然に身につけて、空飛ぶ蝶に変態するごとく、彼はヒトからべつな 生物に変身する。三次元生物のホモ・サピエンスから四次元生物の超・ヒト、 ホモ・エクセレンスに変身する。ヨーガでは、これを聖なるものと一体にな る、と形容した。このチャクラを、聖霊が宿り、聖霊と交流するところで あるといっている。
 このチャクラを完成した修行者を、超人、大師、救済者、と呼ぶ。超人は、 物質世界を超越し、時間と空間の制限を受けない。ヨーガ・スートラにある ように、自由に自分の肉体を消失させ、一瞬のうちにヒマラヤの奥地から東 京に飛来し、一刹那のうちにヨーロッパへ去る。彼は、四次元世界の時間 と空間の秘密を体得しているのである。二次元(平面)世界の生物にとって、 三次元(立体)世界の生物の行動はナゾとしか思えぬように、三次元生物 のわれわれには、四次元世界に住む超人の動きは全く理解できない。
 インドでは、仏陀が超人であるとして、このチャクラの完成者であること を、形を以て示している。

 頭のテッペンに大きなマゲがついたような仏像があるが、それが最終段階のチャクラを 完成したことを示すその形だという。これはマゲではなく肉留といい、頭骨が 発達して盛りあがったものであるという。

仏陀
 修行中のシャカの頭骨はこのように盛りあがりを見せず、普通の人とおなじ 頭蓋をしている。修行を完成して仏陀に変身したとき、シャカの頭骨はそのよ うな形に変化したのだという。

どうやらシャカがこの段階に到達した最初で最後の超人ということらしい

551 新新宗教批判(17)
ヨーガにおける臨死体験
2006年7月15日(土)


 麻原彰晃がヨーガの修練によって生み出した臨死のイメージは次のようである。

(1)
 死の直前になると感覚器官が働かなくなる。まず音がきこえなくなることから はじまって、嗅覚も味覚も触覚もつぎつぎ弱まってゆく。生がまだあるうち身体 を構成している要素(地・水・火・風の要素)が分解されて自性(じしょう)に 還元される。肉体が地の要素に分解されると自分の体がぶよぶよになる感じにな る。この過程では、黒と黄色のまざった色がみえる。

 つぎに血液や体液が水の要素に分解される。鼻汁が出たり体がむくんだりす る。血液の流れも止まった感じになる。水に映る白い月の色のイメージがパッ、 パッときらめく。

 つぎに体温が火の要素に分解されてゆく。下腹部から冷えてきて、その冷たさ が背中を伝わって全身に広がっていく。自分の体が鉄になった感じになる。この 過程では朱色がみえる。

 終りに呼吸が風の要素に分解される。息苦しくなり、生命への執着がつのり、 死ぬのが怖いと痛切に感じる。じぶんの魂が青緑色をみている。呼吸がせわし くなり、最後の息を吐き出して、死んでしまう。


(2)
 死んだあとにも、すこしのあいだ魂が心臓のところに止まっている。天から 真っ白な光がおりてくる。この光は魂に甘味を感じさせる。この光は父親の精 液の象徴にあたる。

 つぎにへそのあたりから赤黒いエネルギーが上昇していく。これは母親の経 血の象徴にあたる。白い光と赤黒いエネルギーはアナハタ・チァクラ(みぞお ちのところの霊的センター)の内側に吸収されてゆく。著者の解釈ではこの過 程では両親から受けついだ遺伝的な要素が分解されて自性に還元される過程に あたっている。

 もうひとつ誕生のときすでにもっていた前世からの要素がある。これが分解 されなくてはならない。天から真黒い光でできた一本の道がおりてきて、やは りアナハタ・チァクラに吸収されてゆく。


(3)  つぎは死後の世界へ魂が行く。最初にまぶしい透明光が射し込んでくる。そこ にとび込めれば無色界に行くが、これは生前に修行をつんだものだけしか行けな い。そこに生れかわれば光の身体をもち、何千億年も生きられる。ここは仏教 で法界と呼ばれるところだ。著者はしばしばそこに訪れることがあると述べてい る。

 この光は、半日か一日つづくがこの光にとび込めなかった魂には、つぎの 光が射してくる。透明に近い白銀光でここにとび込めれば色界に生れかわれる。 仏教で報界と呼ばれているところだ。ここの食べ物は光、衣服も光でできてい る。やはり生前功徳をつんだ魂だけが行けるといっていい。

 この白銀光が消えると、美しい赤紫色の光が射してくる。この世界は、変化 身(魂身)の住む応界で、弥勒菩薩のいる兜率(とそつ)天がその世界の中心 になっている。釈迦もここから現世におりてきた。チベットのダライ・ラマも そうだ。この本の著者(麻原彰晃)もそうだとじぶんでいっている。著者がヒ マラヤ山中で修行をしているとき、挫けそうになるとパールヴァティー女神が 応界から、赤紫色の光線に乗って励ましに来たと述べている。

「普通の人間」は応界にも行けないから、つぎの光を待って、光から具象的な イリュージョンの世界になり、魂はじぶんに合った世界へとび込んでいくことに なる。死んでから四十九日目が最後の世界で、とび込んだあと、吸い込まれるよ うに落下してゆく。たいていの場合、性交のヴィジョンがみえ、無意識にそこへ とび込んでしまう。すると落ちてとまったところが子宮であったり、卵の中で あったりする。だから四十九日後には新しい世界に転生していることになる。
 死後一日目から次元が落ちていって、人間界は四十三日目くらいまでだ。四十 五日くらいになると動物界で、最後の四十九日は、地獄に生れかわることになる。

 以下、この麻原彰晃が記述した臨死体験のイメージに対する吉本さんの コメントを追ってみる。

 さすがにヨーガのすぐれた修練者らしく、この本の麻原彰晃の臨死体験の記述 は微細で、徹底的で、如実で、しかも最後に魂が性交の場面にとび込んで転生す る経路が内側から記述されていて貴重な興味ぶかいものになっている。もちろん この臨死体験の記述には、わかちがたく著者の信仰する原始仏教の理念と世界観 が混融している。


 当然のことながら、それぞれが信じている理念や世界観によって違ったイメー ジが形成されることになる。私(たち)のような「普通の人間」にも臨死 体験というものがあるのだとすればどのようなものとなるのだろうか。
 だが著者があっさり触れただけのわたしたち「普通の人間」の臨死体験の記述 が、もっと微細で具象的に内在化されていたら、もっと貴重だったろう。なぜな ら、「普通の人間」に臨死体験が存在し得るとすれば「死ねば死にきり自然は水 際立っている」とおもっているにもかかわらず、臨死体験のイメージが不可避的 にやってくるに違いないからだ。


 「死ねば死にきり自然は水際立っている」という言葉は、生死の問題に対する 吉本さんの基本的な立場を表している言葉で、吉本さんは好んでよく使う。 たしか高村光太郎の言葉だったかと思う。
 しかしながらヨーガ修行者としても麻原彰晃の臨死の記述は「普通の人間」に もなかなかに物珍しく貴重だ。そして興味ぶかい記述になっている。この本を読 んでいるとヨーガの肉体的な修練が、なぜ仏教の世界観である生死を超える理念 をつくるところにたどりつくかが、一個のヨーガ修熟者の記述を介して「普通の 人間」にも実感的にわからせるところがある。この記述は貴重なものというべき だ。


 続いて麻原彰晃は「死と転生」のプロセスの修練の体験を通じて、つぎのような認識 に達したと述べている。

①死後の世界の存在を確認できる。
②転生の秘密を知る。
③功徳(よいカルマ)と修行の必要性を理解する。
④功徳と修行以外が無力であることを知る。
⑤すると、この世のすべてが幻影だと感じるようになる。
⑥そのことから執着がなくなり、解脱への布石になる。

 これを吉本さんは『「普通の人間」の言葉でいい変えてみる』と次のように 書き換えている。

①死後の世界の存在のイメージがつくれる。
②転生のイメージを子宮にとび込むまでつなげられる。
③功徳(よいカルマ)と修行以外には、死後の世界のイメージをよくできる手 だてがない。
④死後の世界の存在というイメージを放棄しないかぎり、功徳と修行以外に人間のす ることは何もない。
⑤死後の世界の存在というイメージを確信するかぎり、現世は幻影と感ずるのは当然 だといえる。
⑥死後の解脱に最高の価値を与えるかぎり、ほかのことに執着がなくなるのもまた当 然だ。

 ここで吉本さんは『「普通の人間」の言葉』でのいい変えと言っているが、 むしろ私としては、常に現実との照応に基づいて物事を認識するという「科 学的」な立場からのいい変えといいたい。つまりヨーガの修行などによって 得られる意識の変容は、あくまでも意識や身体機能の減衰状態における幻覚であり「イメージ」の体験であることを改 めて強調したい。

 わたしたちはこの著書の「死と転生のプロセス」にたいする如実な体験と理念 の記述から、世々の仏教の僧侶たちの修行や生死観が、大なり小なり著者の記述 しているようなことだったのかと納得し「そうか、こういうことか」と手にとる ようにわかる気がしてくる。そして「なあんだ」と軽くかんがえるか「たいした ものだ」と重くかんがえるかは、それぞれの感じ方ということになるとおもう。
550 新新宗教批判(16)
ヨーガの修行者としての麻原彰晃
2006年7月14日(金)


 麻原彰晃が極悪非道な犯罪を犯したからといって、そのヨーガの修行者としての力量を侮る ことはできない。ただやみくもに否定するのではなく、何が多くの若者を惹きつけている のかを知ることが肝要だ。ヨーガの修行によってどのような幻覚が得られるのか。吉本さん の『「生死を超える」は面白い』を読んでいく。

 仏教で言う〈信仰〉とは何か。人生はすべて〈苦〉でありこの〈苦〉から解脱したいと いう強い思いが〈信仰〉であり、信仰が生れると〈修行〉して人生の〈苦〉から解脱しようと かんがえるようになり、修行に入る。これは仏教各派に共通の根本理念である。しかしその 修行方法は仏教の各派ですこしずつ違ってくる。オウム真理教はヨーガの修行法を取り入れ た。麻原彰晃の「生死を超える」を『わたしはこれほど如実で微細なヨーガの解脱体験を 書いた本を読んだことがなかったので、興味がつきず想像をめぐらすところがおおかった。』 と吉本さんは評価している。

 ところで麻原彰晃のヨーガ修行の説明には「チャクラ」という言葉が出てくる。実は私は この言葉には以前に出会ったことがある。私は若い頃密教に興味を持ち桐山靖雄という宗教 家の著書「密教―超能力の秘密」を読んだ。密教の修行がどうして超能力を生むのかを現代 生物学や解剖学の成果を駆使して、一応(ヽヽ)科学的に解説してい る。面白く読んだし、あり得る事だと信じていた。(私の生物学や解剖学の知識は 大変貧弱なので丸め込まれていたのかもしれない。)
 この桐山靖雄は後に阿含宗という新新宗教を立ち上げた。「星祭り」と称して護摩を焚き 祈祷をするようになった。しかも護摩壇(ごまだん)は火を使わず桐山の念力で点火すると いう。なんとバカバカしい。この段階で私の興味は失せた。最近では密教占星術による占い やカウンセリングもやっているという。さらにバカバカしい。
 しかしヨーガの修行によって心身に何らかの変容が起こることは確かだ。この考えは今で も変わらない。だから麻原彰晃がヨーガの修行で何を得たのか、興味がある。

 ところで、麻原彰晃は一時阿含宗に入信していたそうだ。桐山靖雄の目指す方向と相容れな くなって脱退したという。たぶん、あくまでも密教の修行を目指す麻原彰晃には護摩焚く祈祷 など邪道と思えたのではないか。
 ともあれ、桐山靖雄のチャクラに対する解説も適時利用することにする。

 まずチャクラとたなにか。古代ヨーガではヒトのからだのなかには七つの「力の湧き出る 泉」があるとする。その場所をチャクラという。ヨーガの修行はその「泉」を自由に制御するこ とを目指している。

 さて、麻原彰晃が体験した修行は次のようである。

第一 「熱のヨーガ」
 スヴァディスターナ・チァクラ(下腹部にある霊的なエネルギーのセンター)に 精神を集中することで、下腹部に強い熱が発生し、その熱が背骨を伝わって上がってゆく。 すると背中全体が熱くなって、ひどい寒冷でも平気になり、また精力は絶倫になる。

 桐山靖雄の解説では第1番目のチャクラはムラダーク・チャクラと呼んでいる。その制御 する内分泌線あるいは内臓は「性腺・腎臓」としている。スヴァディスターナ・チァクラは 第二のチャクラで「副腎・膵臓」がその制御の対象であるとなっている。どちらが忠実に古 代ヨーガを受け継いでいるのか、なんて細かいことは今はこだわらないでおこう。
この修行による効用を桐山靖雄は次のように解説している。

『体力が異常に増進して、普通人の三~五倍の勢力(エネルギー)を持つようになる。三日、四日の徹夜く らい平気になる。-切の病気を受けつけず、健康体そのものとなる。病弱だった者は、その 悪いところがみな癒ってしまぅのだ。このチャクラにSamyamaを集中したとき瀕死の病人で も床を蹴って立ち上るだろう。男女ともに実際の年令より10才以上若くなる。そのかわり、 強烈な性欲と生殖力を持つようになるので、そのエネルギーを、オージャスという知能のエ ネルギーに変える方法をあわせ教える。』

 ここまで言われると眉唾ものだなと思ってしまうが、麻原彰晃の記述と共通はしている。

第二
 マニプーラ・チァクラ(へそのあたりにある霊的なエネルギーのセンター)に精神を集中 する。

 このチャクラは桐山説では第3にあたる。対象は「太陽神経叢・副腎・膵臓・脾臓・胃・ 肝臓」となっている。いわゆる「おなか」と呼ばれている部分の内臓だ。
 恥ずかしながら太陽神経叢というのを知らなかった。調べました。「みぞおち辺り、胃の 裏側で腹部大動脈に沿って存在する自律神経の束。ちょうど太陽のように四方八方に広がっ ている様子からこのように呼ばれている。」

 この修行の効用は
『体内の組織を知ることができる。体内の組織を知ることができるというのは、ただ知ると いうことだけではなく、からだの組織を自由にコントロールすることができるということで ある。それも、自分のからだだけではなく、他人のからだも自由にコントロールする力を持 つから、人の病気なども即座に癒やしてしまうのである。』

『このチャクラは、五気のうちの「サマーナの気」に属するものであるから、「サマーナ気を 克服するならば、身体から火焔を発することができる。』

『クンダリニー密教(ヨーガ)の奥儀書には、「定(じょう)に入って目を閉じている とき、このチャクラから、黄色味を帯びた白熱の火焔が水蒸気のように立ちのぼるのが見え、 また、道を行くとき、同じ色をした火焔に腰から腹部のあたりがつつまれているのが見える。 うすい煙か霧のように見えることもある」と記されている。』

 麻原彰晃はこの段階で「死と転生のプロセス」を何回も体験したという。これを吉本さんは 『一般に臨死体験と呼んでいるものを、微細に徹底的なところまで自分の体験として述べてい る。』ととらえて、大変な関心を示している。

 わたしは以前に、瀕死の体験をして回復した人たちの手記を集めてみたことがあった。 またほかの著者(たとえばE・キューブラー・ロスのような)が集めた臨死から生還した 体験の記録を読んだこともある。いまでもその種の臨死体験の記録は集められたり、論じ られたり(たとえば立花隆のような)している。これらには共通の体験的イメージが語ら れているが、どれも布きれ一枚を隔てたようなぼんやりしたあいまいさがつきまとう。こ の本で麻原彰晃が、ヨーガの第二段階マニプーラ・チァクラ (へその霊的なセンター) に 精神を集中したとき体験した「死と転生のプロセス」 の記述を読んで、さすがに宗教者の 修練らしく、いままで読みえた臨死体験の記述のなかでは、かつてない鮮明な細部の体験 イメージが描かれていて、感服した。もちろん麻原彰晃のばあいはヨーガの修練によって 臨死のイメージの状態を生み出しているわけだ。
549 新新宗教批判(15)
オウム―サリン事件は全仏教の問題だ。
2006年7月13日(木)


 今回からオウム真理教を取り上げる。
 オウム真理教については「第448 3月910日」~「第454 3月17日」で一度 取り上げた。そのときのモチーフは『オウム真理教事件を前にして、なお「正義の 原理」は有効か。』という観点からオウム真理教事件が私たちに突きつけた問題 を考えることだった。今回はオウム真理教の教義を検討することがテーマである。

 さて、オウム真理教は教祖・麻原彰晃が裁判中で東京拘置所に収監されている。 そして今麻原はその拘置所で廃人同様の状態だという。(そのような状態になった のは東京拘置所で麻原が薬づけにされたためだという情報がある。) オウム真理教は壊滅した。それでもなおオウム真理教の教義を取り上げる意味が あるだろうか。

 教祖を失った教団は上祐史浩を新たな指導者として教団名も「アーレフ」と 変えて、細々ながらなお活動を続けている。上祐は「菩薩=慈愛の救済者」であり 「マイトレーヤ正大師」と称号している。教義がどのように改変されているか 詳らかでないが、信者はオーム真理教時代と同じような修行を積んでいるよう だ。若者をとらえてきた教義はなお生きている。
 また、オウム―サリン事件はどの宗教教団(特に仏教の)も引き起こす可能性のある 宗教の負の側面を如実に示している。しかし、オウム―サリン事件をもって 他山の石となした教団は皆無だったようだ。オウム真理教が陥った陥穽からど の宗教も無縁ではないはずだ。その陥穽とは何なのか。
 このようなわけで、オウム真理教の教義を検討することは決して無意味なこと ではないと思う。

 天理教の教義は中山みきが更年期の神憑り症候になってつくりだしたものであり、 幸福の科学の教義は持続的なパラノイアに特有な誇大妄想に大川隆法とりつかれて つくりしたものであった。それに対して麻原彰晃は密教的な過酷な修行(ヨーガ)で得たイメージを もとに教義をつくりだしている。その点では全く仏教(原始仏教)的である。

 次の吉本さん文章はサリン事件の犯行がオウム真理教によるものと断定できない 時点でのものである。「もしオウム真理教と結びつけるとしますと」と慎重な言い 方で書き始めている。(まだ起訴以前から容疑者を犯人扱いして言論的暴力を振るって 憚らない最近のマスコミは見習うといい。)

 これを、もしオウム真理教と結びつけるとしますと、何処に関係があるんだと いうことになります。僕が理解しているヨーガは一種の瞑想法でして、瞑想法に よって、医学用語を使えば幻覚を作り出す。それから色彩を作り出す、光を作り 出すというふうにして行き着く所は仏教全体のイデオロギーと同じで、つまり 如何に修錬して死を作り出すかということが、ある程度大きな意味を持つと思 います。つまりヨーガは究極するところ、死を人工的に作れるところまで修練 をする。瞑想法によってそこまで持っていくことが、とても重要だということ があります。

 そういうふうに死を人工的に修練によって作れるようになりますと、あらゆ る仏教がそうであるように、死後の世界は在るという理屈になります。ちゃん とイメージできるんだから実在するという理屈になります。そうして実在の死 の世界、あるいは死後の世界に自由に、というか人工的にいつでも行けるとい うことになります。そういうことが要するに仏教の持っている無常観の基礎、 根本になっているわけです。つまり生であっても死であっても、同じように同 じイメージで同じ手触りで同じ見え方で見えるし、体験できるんだから、生と 死は同じじゃないかという観点になります。

 それは、やっぱりある意味で死を軽んじることになりそうです。ヒューマニ ズムと違ってアンチヒューマニズムと言いますか、死は何でもないことなんだ と思いやすい傾向が出来あがります。これは仏教の全部がそうで、仏教の修鎌 は全部そんなもんだと僕は思います。ですからオウム真理教がサリン事件と関 係があるとすれば、この行為でもって少なくとも鎌倉時代以前までの日本にお ける仏教の修練の仕方が全部否定される要素と結びつきうることがはっきり したと思います。いつだって殺戮と結びつけられるんだよ。それくらい死は 軽いものなんだよっていう、その意味ではあらゆる仏教における僧侶の修行は、 全部「無化」されたと解釈できると思います。つまり、それだけの大きな意味 があると思います。(「わが情況的オウム論―より普遍的倫理へ」より)


 この後で吉本さんは「もしオウムがサリン事件と関係あるとして、わずかに 仏教の内に潰減を免れているのは、日本における浄土教の系統だけだと思いま す。」といっている。「それはなぜか」と問うことにも大きな意義があると 思うが、今はおく。(成り行きではこの問題を取り上げる機会が出てくるかもし れない。)
548 新新宗教批判(14)
日本は統一教会に支配されている?(2)
2006年7月12日(水)


 日本の支配層を構成する者たちのほとんどは天皇教信者かその支持者とみ てまず間違いあるない。
 では天皇教信者であって同時に統一教会信者であるような者はその二つの信 仰心をどのように処理しているのだろうか。両立不可能なこの二つの宗教の折り 合いをつけるのにはさぞ苦労することだろう。小森義峯という法学博士殿のご 高説を伺おう。

『神武天皇が、建国に際し、橿原(かしはら)の宮で宣べ給うた言葉の中に 「八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)とせむことまたよからずや」 というのがある。「あめのした」とは、地球上ということである。つまり、こ の言葉の意味は、「地球上の全人類が一つの家の中に住む親子兄弟のように仲 よく暮らしてゆこうではないか」ということである。「八紘一宇」は、日本の 建国の精神であると同時に、神道の根本理念である。(中略)それは、統一教会 の創始者・文鮮明師の理想とされる世界の諸宗教の融和ないし統一とその根底に おいて一致するものである、と私は考える。』

 奈良盆地の一角にかろうじて東是(魚偏がつく)国(とうていこく)侵略の 拠点を手に入れただけで建国とは笑わせる。またそのときのイワレヒコの念頭 にあった「あめのした」を「地球上の全人類」という近代に確立した概念で粉飾 するとは恐れ入る。(「第353回 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(6) 『記・紀』の中の東是国」参照)
 記紀をご都合主義的に誤読するからこのような苦しい茶番理論を創らなければ ならなくなる。

 ブルジョア民主主義国家の支配層は人民の労働力が生み出す富をがっぽりと 収奪できる体制を維持強化するのに都合のよい思想や宗教は何でも利用する。

  資本主義体制は、奴隷性の一種であるから、この体制を維持していくことを 利益としている人々は、たとえきわめて賢明であってもその利害関係の影響 を受けて、体制を合理化し永遠化するような思想や理論に心をひかれたり、 体制に対する科学的な批判に耳を覆ったりしがちである。さらに進んでは、 非科学的な理論をつくり出し普及することに努力する。

 このような意味で、階級的矛盾に対する制約・規定を理解することは重要 である。しかしこれは、体制側の主張ないし理論はすべて非科学的であると か、大衆を偽瞞するための宣伝には一変の真理もないとか、いうことを意味 するものでもない。主義 も理論も頭の中だけで創造されるものではなく、現 実の反映および先走りとして成立するものであるから、どんなに歪められた どんなに空想的な主張や理論でもそこには現実が何らかのかたちで取り上げ られており、真理を含んでいるわけである。(三浦つとむ「言語と認識の 理論」より)


 なるほど、上記の法学博士殿のご高説にも「地球上の全人類が一つの家の中 に住む親子兄弟のように仲よく暮らしてゆこうではないか」という好ましい理念が 含まれている。ただし惜しむらくは「階級的矛盾に対する制約・規定」に対する 理解が決定的に欠けているまのて、「地球上の全人類」にとってはますます 階級的矛盾を深くするものでしかなくちっともためにならない。

 さて、統一教会ヨイショリストに目を通していて気づいたことがもう二つある。 一つは肩書きのことで、特に政治家や官僚の肩書きが全て「元」つきである。現役 時代は、やはり後ろめたくはばかる気持ちがあるのだろう、表面きって統一教会との関わりは 伏せているわけだ。
 もう一つはそのコメントの中身で、統一教会の教義に触れているものは少なく しかもその底は浅い。全体には共産主義への恐怖と敵意がみちみちていて、半数 以上のコメントは統一教会の下部組織・国際勝共連合の活動への共感・賛辞であ る。

 現役隠しと勝共連合を結ぶと

『週刊現代』(99.2.27号)の特集記事

が生き生きとしてくる。

 文鮮明は勝共連合に『まず秘書として食い込め。食い込んだら議員の秘密を 握れ。次に自らが議員になれ』という指示を出ているそうだ。勝共連合が 派遣する秘書の給与は勝共連合持ちで議員にとっては美味いエサだ。その秘書に 弱みを握られた議員は統一教会の下僕となる。あなおそろしや。

547 新新宗教批判(13)
日本は統一教会に支配されている?
2006年7月11日(火)



岸信介(元首相、大勲位菊花大綬章)
福田赳夫(元首相、大勲位菊花大綬章)
中曽根康弘(元首相、財団法人世界平和研究所会長、大勲位菊花大綬章)
松下正寿(元立教大総長、Ph.D、弁護士、元参議院議員、「文鮮明・人と思想」著者)
福田信之(元筑波大学長、理学博士、「文鮮明師と金日成主席」著者)
金山政英(元駐大韓民国・特命全権大使、元日韓文化交流協会会長)結婚式祝辞
加藤武徳(元自治大臣、弁護士、剣道範士・全日本剣道連盟顧問、勲一等)
景山哲夫(元近畿大学長、経済学博士)
郷司浩平(日本生産性本部名誉会長、元経済同友会代表幹事)
西堀栄三郎(元日本山岳会会長、第一次南極越冬隊隊長、理学博士)
小牧久時(フランス国際大名誉教授、農学博士、平和運動家)
清水馨八郎(千葉大名誉教授、理学博士、「世紀のプロジェクト」著者)
助野健太郎(聖心女子大名誉教授、キリスト教史学専攻、現皇后陛下の恩師)
鈴木一(元出入国管理庁長官、元宮内庁侍従次長、元鈴木貫太郎総理秘書官)
安藤豊禄(元小野田セメント社長、勲一等、韓国修交勲章興仁賞受賞)
飯田正一(北大名誉教授・医学博士、薬理学専攻)
池田和義(大阪大名誉教授・理学博士、「神と万有と詩の世界」著者) 
石橋一弥(元文部大臣・元自民党憲法調査会長)
伊藤行(元鹿児島大教授)
井上茂信(外交評論家・元産経新聞ワシントン支局長、「ゴルバチョフと文鮮明師」著者)
井上順理(鳥取大名誉教授、兵庫教育大名誉教授、文学博士、倫理学専攻)
今村和男(元防衛大教授、システム分析学専攻、国際科学振興財団専務理事)
入江通雅(青山学院大名誉教授、国際政治学専攻、元NHKニュース解説担当)
内田一臣(元海上幕僚長、元海将、自衛隊援護協会理事長)
植田利喜造(元筑波大教授、理学博士、生物学専攻)
江藤隆美(元総務庁長官、元建設大臣、元運輸大臣)
榎一雄(東大名誉教授、文学博士、東洋史専攻、元東洋文庫理事長)
大鹿譲(大阪工大教授、量子力学専攻)
岡田實(元大阪大学長、工学博士、金属工学専攻、勲一等)
岡嵜格(元東京地検特捜部長、元法務大臣秘書課長、元大阪高検検事長、弁護士)
加藤栄一(筑波大名誉教授、元自治省参事官)
加藤弘(東大名誉教授、工学博士、船舶工学専攻)
亀岡高夫(元農林水産大臣、元建設大臣)
亀川正東(琉球大名誉教授、文学博士、日本ペンクラブ名誉会員)
河部利夫(東京外大名誉教授、東京国際大名誉教授、文学博士)
気賀健三(慶大名誉教授、経済学博士)
木屋隆安(元時事通信社・社会部長、中外ニュース主筆)
工藤重忠(元桐蔭女子短大学長、憲法学会常任理事、法学博士)
黒坂富治(富山大名誉教授、音楽家・作曲家)
伍堂輝雄(元日本航空会長、元東京空港交通社長)
小森義峯(元憲法学会理事長、元国士舘大教授、法学博士、伊勢神宮評議員)
小山福松(元中京大学長、商学専攻)
近藤正栄(神奈川大教授、神学・英文学専攻、「神主義への道」著者)
桜井一(上武大元教授、単立シャローム第一公会牧師)
桜田淳子(女優、日本レコード大賞、日本アカデミー賞助演女優賞受賞)
佐々保雄(北大名誉教授、理学博士、地質学専攻、「日韓トンネルプロジェクト」監修)
佐藤正二郎(元広島大教授、音楽家・作曲家、元広島交響楽団常任指揮者)
慈雲(宗教法人妙法山貫首、霊能者、画家、スリランカ国立コロンボ大名誉教授)
東海林孝正(九州共立大教授、経営学専攻)
白井浩司(慶大名誉教授、フランス文学専攻)
菅原喜重郎(元衆議院議員、世界平和超宗教超国家連合共同議長)
杉田一次(元陸上幕僚長、日本郷友連盟名誉会長、元陸将、元東久邇宮内閣秘書官)
鈴木瞭五郎(元航空総隊司令官、元空将、元川崎重工顧問)
副島宏(元九州学院大教授、航空工学専攻、F1開発者)
田井友季子(作家・日本ペンクラブ会員、「神の代辯者」著者)
高田源清(九大名誉教授、元西日本短大学長、法学博士、法律学専攻)
高橋磐郎(筑波大名誉教授、数学専攻)
高橋賞(関東学院大名誉教授・元学長、工学博士、機械工学専攻)
高橋正和(国士館大教授、哲学専攻)
谷藤正三(元北海道開発庁事務次官、元建設省都市局長、日大教授、工学博士)
近松良之(元筑波大教授、養護施設ひかりの子学園園長)
築山治三郎(京都府立大名誉教授)
徳田敦子(バドミントン元世界チャンピョン)
中西武雄(東北大名誉教授、農学博士、農芸化学専攻)
中村信一(日本基督和協教会・牧師、画家、ロシア大主教・宗教最高勲章受賞)
那須聖(外交評論家、元毎日新聞ニューヨーク支局長、「牢獄の救世主」著者)
西俣昭雄(亜細亜大教授)
西山廣宣(曹洞宗大満寺住職)
二宮信親(元月曜評論社社長、元読売新聞社出版局長、元ラジオ日本・常務取締役)
野間繁(明治大名誉教授)
長谷川太郎(福岡工大元学長、山形大名誉教授、工学博士、電波工学専攻)
服部比佐治(元駐ヴァチカン大使、元駐イスラエル大使、元防衛庁参事官)
濱田敏郎(慶大名誉教授、元日本図書館協会理事長)
林健太郎(元東大学長、元参議院議員、元国際留学生協会会長)
一松信(京大名誉教授、理学博士、数学専攻)
弘津恭輔(元総理府総務副長官、元警察大学校長、元公安調査庁第一部長)
福尾券一(名古屋工大名誉教授、理学博士、鉱物学専攻)
福見正子(伏見稲荷大社・因島土生教会長)
法眼晋作(元外務省顧問、元外務省欧亜局長、元国際協力事業団総裁、勲一等)
細川隆一郎(政治評論家、元毎日新聞編集局長)
堀江正夫(元参議院議員、日本郷友連盟会長、英霊にこたえる会会長)
松井七郎(同志社大名誉教授、元ロックフェラー財団特別研究員、労働法専攻)
三原朝雄(元防衛庁長官、元文部大臣、元総理府総務長官、勲一等)
峯 弘(メノナイト教会牧師、元釧路短大講師、新自然塾塾長)
箕輪登(元郵政大臣、元衆議院安全保障特別委員会委員長、医学博士)
三村寛子(スーパー・メディテーション指導家、こども環境教育研究所長)
宮内俊之(元伊藤忠商事理事、元アラビア石油副社長)
武藤宗英(身延山久遠寺・報恩閣住職)
武藤正行(国士舘大客員教授、元海軍兵学校教授、元東和大教授、日本思想史専攻)
両角宗晴(信州大名誉教授、工学博士、機械工学専攻)
山口彦之(東大名誉教授、農学博士、世界平和教授アカデミー代表理事)
山崎仁(横浜商科大教授、関東学院大元副学長、元大蔵事務官、流通経済学専攻)
吉江誠一(元陸上幕僚長、元陸将、元国家国務員共済組合連合会・常任理事)
吉田康彦(元国連本部主任広報官、元NHKジュネーヴ支局長、大阪経済法科大教授)
嘉村祐一(元青山学院大教授)
吉本千禎(北大名誉教授、医学博士、医学工学専攻)
渡辺久義(京大名誉教授、創造デザイン学会代表、英文学・哲学専攻) 
 「第543回」で統一教会の公式サイトから桜田淳子の信仰告白を転載した。 それは<文鮮明師と統一運動に賛同する方々>というコーナーにあった。 上の97名のリストはそのコーナーを飾っているお方たちだ。ありったけの 肩書きを添えて統一教会はいかにも得意顔だ。

 吉本さんが『一芸にすぐれているということはその芸についてだけ賢いとい うことで、すべてに賢いことを意味しないなと改めて感じていた。』と言っていたが、 このことはもちろん芸能人の専売特許ではない。上記リストのうち半数以上が学者だ。
 もちろん全員が桜田淳子のような熱心な信者というわけではないだろう。裏社会で 「持ちつ持たれつ」の関係にあり、その利権を手放すまいとヨイショしているだけと 思われるお方も多い。政治家の場合はたぶん裏金(政治資金)欲しさのおべんちゃら なのだろう。

 このリストは(順不同、ご芳名敬称略)と注釈しているが、最初の5名は特別扱い だ。その後は50音順に配列されている。妖怪一族のジイさまがトップの栄に浴して いる。このジイさまが何を言っているか聞いてみよう。

『統一教会と私の奇しき因縁は、(東京・渋谷区の)南平台で隣り合わせで住ん でおりました若い青年たち、正体はよくわからないけれども、日曜日ごとに礼 拝をされて、賛美歌の声が聞こえてくる。(中略)そうしたら、笹川(良一)君 が統一教会に共鳴してこの運動の強化を念願して、(中略)あれは私が蔭ながら 発展を期待している純真な青年の諸君で、将来、日本のこの混乱の中に、それを 救うべき大きな使命を持っている青年だと私は期待している。(中略)そういう 話を聞き、お隣りでもありましたので、聖日の礼拝の後に参りまして、お話した ことがありました。(中略)きわめて情熱のこもったお話を聞きまして、非常に 頼もしく私は考えたのです。』

 笹川という裏社会の怪物がジイさまと統一教会を取り結んだようだ。笹川が共 鳴したという運動はもちろん「原理運動」であり「純真な青年の諸君」とは 「勝共連合」の尖兵たちである。

 福田赳夫はどのようにヨイショしているか。

『アジアに偉大な指導者現わる。その名は“文鮮明”である。私はこのことを伺い まして久しいのでありますが、今日は待ちに待ったその文鮮明先生と席を同じく し、かつ、ただいま文先生のご高邁なご教示にあずかりまして、本当に今日は いい日だなあ、いい晩だなあと、気が晴れ晴れとしたような気がいたします。 (中略)今日は私が常々考えておった政治原理、そういうものを綺麗に整理さ せていただいたという気がするのであります(帝国ホテル「希望の日」晩餐会、 文鮮明師講演後のスピーチより)。』

今自民党総裁レースの有力候補として妖怪の孫・アベと福田赳夫の息子・福田康夫 が取りざたされているが、なんのことはない、どちらも統一教会の手の内にある。

 ナカソネのヨイショ振りはこうだ。 『共産主義が崩壊した今日、自由民主主義もさまざまな問題を抱えているのでご ざいます。真の良識に歴史的に裏付けられなければ、衆愚政治に陥っていくの であります。このような時、宗教的精神に基づいて世界文化体育大典が盛大に 開催される意義は、極めて大と考えるのであります。開催国大韓民国は私が日 本国首相として、戦後初めて公式訪問した地でございます。今、私たちに必要 なものは広大なる心と道徳的勇気ではないでしょうか。皆様、民族問題や宗教 の対立を越えて、人類の理想に向かって邁進してまいりましょう(統一教会・ 3万組国際合同結婚式における祝辞)。』

 アベが国際合同結婚式に祝電を送ったなどカワイイものだ。堂々と出席して 祝辞を述べている。このときのマスコミは全くの知らん振りを決め込んでいた のかしら。

 松下正寿と福田信之という学者はそれぞれ「文鮮明・人と思想」「文鮮明師と 金日成主席」という著書をものしている。統一教会の宣伝マンとして高く評価さ れているのだろう。それぞれ次のようなコメントが掲載されている。

『私は文先生の高い霊性や、『統一原理』の真理性に共鳴するのは勿論であるが、 その経営能力の卓抜さに最も敬意を表するものである。(中略)統一教会には 青年が多く、活気に溢れている。文先生の高い霊性から出発して、宗教をはじ め政治、経済、文化の分野においても驚くべき実績をあげている。』

『文師の主張は単なる自己主張ではなく、神の主張の代弁である。そこに天運が 働き、滅びるように見えても、ますますその統一運動は世界的に発展している。』

 政治家のヨイショと違って、「霊性」だの「神」だのという宗教色が表面にす えられたコメントになっている。信者としてのめりこんでいるようだ。ちなみに 統一教会の正式名称は「世界基督教統一心霊協会」という。

546 新新宗教批判(12)
統一教会の教義(2)
2006年7月8日(土)


 『原理講論』によれば、神がよろこぶ人間の善い行為は三つあり、それを 「祝福」とよんでいる。

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第一の祝福
 個性を完成すること。
第二の祝福
 アダムとエバ(神を信じている男女ということ)が夫婦になり 合性一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくる こと。
第三の祝福
 万物の世界(被造世界)に対する人間の主管性を完成すること。
-------------------------------

 第一と第二は「統一教会の教義(1)」で紹介した教義からすれば当然の こととわかる。第三の祝福については吉本さんは次のように註釈している。

『この教会の創造原理では、神が人間を主管しているように人間は神の創造性を まねて、万物世界(被造世界)を主管する期間がつづくことになり、この期間 を統一教会の内部では「間接主管圏」とよんでいる。この圏内にいる期間には 神は人間を直接に主管してはならない。「神は人間が自ら完成したのち直接主 管する」というのは創造原理だからと述べている。現在まで人間がどんなに堕 落していても神が干渉しないのはそのためだという理窟がつけられている。 ついでに統一教会がいう堕落は、どんなことが原因だとかんがえるかといえば、「淫行」だという。人間(の女)は、もともと神 を中心とした愛で、善なる子女を繁殖しなければいけないのに、実際はサタン を中心にした不倫の愛をもって悪の子女を生み殖やしている。これはただの 「淫行」だということになる。そして天使とエバ(人間の女)との淫行による 堕落が霊的堕落で、エバ(人間の女)とアダム(人間の男)との淫行が内的堕 落だということになっている。』

『統一教会はイエス・キリストの復活と再臨について独特の解釈をくだしてい る。人間は老衰すればその肉体は土に帰るように創造されている。いったん土 に帰った肉体がもとに復活することはない。「霊人体」だけが霊界に行って永 遠に生きるので、これは再び肉体をもつ必要もない。
 ゆえに、復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管 圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、 その過程的な現象を意味するのである。』

『ところで霊界の霊人たちの助力を受けている地上人たちは、すべて霊人たちが 復活し再臨した者のことだ。わたしたちが知っている死んだ著名人が憑いたと称 する近ごろの新興宗教の、ごまんといる教祖たちはみんな霊人たちの再臨者だと いうことになる。ところでこれらの群小の再臨者はイエス・キリストの再臨者に 統一されることになる。イエス・キリストの再臨者は誰かといえば、統一教会の 教祖、文鮮明だそうだ。』

『「ヨハネの黙示録」の七章二~四には、ひとりの天使が生きた神の刻印を もって、太陽の出る東の方角から上ってきて、十四万四千人に刻印が押される と記してある。イエス・キリストの再臨が東の方の国々にあることは、はっき り示されている。この東方の国というのは韓国・日本・中国の三つのことだ。 日本は過去に韓国を属領化して、韓国のキリスト教を過酷に迫害した。また 中国は共産主義の国になった。この二つの国はどれもサタン側の国家だ。した がってイエス・キリストが再臨する東方とは韓国のほかにはない。韓国が イエス・キリスト再臨の国になれば、韓国の民族が第三のイスラエル選民だと いうことになる。第一の選民は旧約のアプラハムの子孫のイスラエル人だった。 第二の選民はイスラエル選民から異端として追われて復活したイエス・キリス トを信仰するキリスト教徒たちだ。だが第三のイスラエル選民はキリスト教から 迫害され異端視された韓国の民衆だ。そしてそのためには「四十日サタン分立 基台」を立てなくてはならない。この「四」の数字にあたる年数(四十年)、 サタン側の国家である日本から属領にされて苦難を受けた韓国民族と国家には 第三のイスラエル選民としての資格が具わっている。韓国はかくして神のもっと も寵愛する第一線であるとともに、三八度線を境にしてサタンの国と接してい る第一線でもあることになる。韓国にイエス・キリストが再臨することは、仏 教では弥勒仏、儒教では真人、天道教では崔水雲、「鄭鑑録」では正道令があ らわれるというように、宗教によってそれぞれ違う形で伝承されてきた。それ らはイエス・キリストの再臨である文鮮明の出現を宗派の言葉で予言した ものだといえる。そして文鮮明を教祖とする統一教会は、これら韓国のたくさ んの宗教はもちろんのこと、世界中の宗教をとりあつめて統一する課題をに なっている。そのばあい韓国語が神に選ばれた世界共通語になる。』

 吉本さんのコメント。

 何という夜郎自大な馬鹿話だ。阿呆らしくて聞いていられないと誰しもおもう に違いない。それが常人の神経というものだろう。だが思い込みや信じ込みの世 界にとっぷり浸ってしまえば、夜郎自大話ほど強固な内閉の壁をつくりやすい。 それが、人倫の世界なのだ。

 つい半世紀まえまで、日本国や日本人は八紘一宇などという阿呆なスローガン に浸り込んでいた。またつい先頃まで世界中の知識人はロシアを民衆に寵愛され た天国とおもい、スターリンを偉大なマルクス主義の教祖と崇めて、批判の声ひ とつあげず、何をしでかしても屁理窟をつけて擁護の言説をふりまわしてきた。

 人間はどんな賢くもなれるかわりに、どんな愚かにもなれる魂をもった存在だ といえる。賢さも愚かさも出現の度合や品質として同一なもので、賢い人は愚か でないとおもわない方がいいし、愚かな人は賢くないときめない方が、さしあた り人間へのいい洞察といえる。

 わたしはテレビの映像ですっきりした悪びれない顔で統一教会の合同結婚式に 参加したいと語っている桜田淳子や山崎浩子の表情を視ながら、一芸にすぐれて いるということはその芸についてだけ賢いということで、すべてに賢いことを意 味しないなと改めて感じていた。でも同時にアナウンサーやインタビュアーや解 説者は、統一教会を信仰してないということについてのみ賢いだけで、ほかのこ とに賢いわけではないよともおもっていた。

 それじゃ、おまえはどうだと問われれば、わたしは現在まで愚かさと失敗の 連続だったよ、たぶんこれからもね、と答えるほかない。人間というのはひどい もんだねえ、と改めて実感せざるを得なかった。

545 北朝鮮ミサイル発射騒動
いいサイト、いろいろ紹介
2006年7月7日(金)


 このホームページを始めたきっかけはイシハラの民主教育攻撃だった。そのとき ホームページの基本的な性格をどのようにしようか考えた。日々起こる事件を取り 上げるホームページやブログはもう十分というほどあるだろう。それらのホームペ ージ以上のものを書く力量も情報量もない私がそのようなホームページを立ち上げた ところでほとんど意味がないだろう。なら、自分の勉強もかねて、ものの見方考え方 の根底となる本質的な問題を取り上げようと考えた。他人の言葉を追っているだけの ようなものだけど、いくらかは意味あるものになっているだろうか。

 しかし、時々もっか進行中の問題を取り上げたくなることがある。
 マスコミのバカ騒ぎがあまりにもひどすぎるので、今進行中の北朝鮮のミサイ ル発射問題にひとこと言いたくなった。
 今私はテレビニュースはほとんど見ないのでテレビでのことは分からないが、相変わらず の低俗ぶりなのだろうな、と推測している。新聞の記事では、私が見つけた冷静な発言は ただ一つだった。東京新聞の「こちら特報部」の中の次の一文。

『ある北朝鮮の研究者は「日米が撃ったら大変なことになるぞ、撃てるもんなら 撃ってみろと脅すから、北朝鮮は撃ってみただけ。日本政府の反応は通常の外交 では考えられない騒ぎぶりだ」と首をかしげる。』

 これがまっとうな見方だ。この立場を敷衍して何か書こうかと思い、さらに資料 をインターネットで探してみた。是非多くの人に知らせたいまともな意見があり ました。これ以上付け加えることはない。やはり私ごどきが立言する必要はなかった。

 それぞれにいいサイトなので、目的のサイトにたどり着くまでに出会ったサイトを 紹介します。

まず

http://www.parody-times.com/マッド・アマノのパロディタイムズ

の中の「怒りの投稿」という掲示板に「以下きくちゆみさんのHPより引用」という投稿記事が 始まりでした。「きくちみゆき」と検索して

きくちゆみのブログとポッドキャスト

にヒットしました。そのサイトに「ヘンリー・オーツの独り言」に引用されていました、と紹介 があり

ヘンリー・オーツの独り言

では、「高木善之ブログ日記」からです、とありました。

高木善之ブログ日記

 「高木善之ブログ日記」から全文引用します。

朝から、いやなニュースでしたね。テレビでも新聞でも、異口同音「挑発、脅威、言語道断、許せない」との論調ですね。

私は、別の懸念を感じています。

一国の軍事訓練に対して、世界が騒ぎますか。一国の軍事訓練はその国の主権であり他の国は干渉できません。ミサイルを持っている国は発射実験をします。日本も太平洋上で発射実験をしています。アメリカも太平洋上で発射実験をしています。日米合同の海洋上での軍事訓練もしています。

今回の北朝鮮のミサイル発射実験は、そんなに異例で危険でいけないことでしょうか。発射のコースを見れば明らかですが、日本に向けて発射したわけでもありません。明らかに軍事訓練(発射実験)の範囲内です。

むしろ、大騒ぎすることで、危機感、不安を作り出そうとする意図が感じられます。経済制裁をすることで、国際的緊張を高め、危機感や不安を煽り、日米軍事同盟を強化したり、軍備費の大幅アップしたり、憲法改正(改悪)への傾斜の方が心配です。

過去の大きな戦争の影には、必ず、意図的な情報操作がありました。政治問題、国際問題は、報道に依存してしまいますが、次の視点を忘れないことが大切です。

・煽られないこと、流されないこと、迎合しないこと
・冷静でいること
・自分の視点、自分の考えを持つこと

[22] 高木善之 (2006/07/06(Thu) 00:10:18)

 おまけがあります。「ヘンリー・オーツの独り言」に「きっこの日記」へのラブコール記事が ありました。私2ヵ月ほど前から「きっこの日記」には毎日目を通しています。

きっこの日記

 さらに「ヘンリー・オーツの独り言」で、きっこさんのブログのことを知りました。きっこさんは ブログも公開しているんですね。そのブログのオッカナイ映像が紹介されていました。

「きっこのブログ」「本日の爆笑映像♪」

 私は気分が悪くなりました。レトリックではなく、本当に気分が悪くなりました。人間はどうしようもないドウツブだなあと、つくづく思いました。

 創価学会に対してもただ悪事をあげつらっているだけではだめです。理論で立つ蒙昧は理論的に粉砕しなければ死滅しません。


544 新新宗教批判(11)
統一教会の教義
2006年7月6日(木)


 統一教会の教義書「原理講論」は統一教会の公式サイトで全文読むことが できる。一通り読んでみようかと思ったが大変な量である。時間がもったい ないと思い直した。今まで通り吉本さんの信頼すべき解読をたどることにする。

 「原理講論」には『独特に解釈されたキリスト教の「神」と「被造物」の 世界の関わりや、その関わりを支配する原理が述べられている。』吉本さんはそれを 個条書きにしてまとめている。

----------------------------------
(1)
 わたしたちの被造物の世界は、神を中心にして、神の創造目的のままに動い たり、とまったりしている一つの完全な有機体である。その性相的な存在が神 で、形状的な存在が被造物世界である。
 おなじように人間は心を中心にして動いたりとまったりしている存在である。 そして存在するものは性相と形態をもっている。

(2)
 存在するものは、じぶんの内部でも、他の存在とのあいだでも、陽性と陰性 のふたつの性相が相対的関係をむすぶことで、はじめて存在といえる。
 たとえば物質は素粒子からできているが、素粒子は陽性、陰性、または陽性と 陰性の中和によって中性を帯びている。
 植物は雄しべと雌しべとから生れる。動物も人間もおなじだ。そして男性に は女性性相が潜在し、女性には男性性相が潜在する。また人間の心と体はそれ ぞれ性相と形状に当っている。

(3)
 人間の良心はある主体にたいしたとき生れた対象で、その主体と対象との関 わりは授受の作用として行われる。そして良心の主体は神である。

(4)この主体と対象との授受作用は、ふたたび両者を合体させ、それがまた神 の対象になる。
 主体と対象、そのふたつの合性体が残りのものを対象として三対象の基準 をつくり、これが正を中心として四位基台をつくる。これが神・夫婦・その 夫婦が産んだ子女の三段階で完成されるからぜんぶで十二対象になっている。 -----------------------------

 ここまでのところで、すでに統一教会が、神を中心においた男女の結びつき を、合同結婚式のように儀礼化し、重要とみなしている理由がわかる。つまり 陽性と陰性の結合で被造物の世界ができているという理念を、教義の根本にし ているからだ。だがこれはいかにもお粗末な通俗科学の認識だ。別の言い方を すればキリスト教的な世界観と東洋の陰陽二元説のごった煮といったものだ。 「陽イオンと陰イオンが結合してある物質を形成する」とか「電離した陽イオ ンや陰イオンが、各々陽子と電子との結合によって形成されているように」と いった、工業高校の生徒でも間違えないような出鱈目な概念で、物質の成り立 ちが説明されていて困惑してしまう。しかもこの種の科学的な間違いが教義の 根本的な部分の陰陽二元論になっているのだ。

 天理教の創設時代には教祖は科学に煩わされることがなかった。科学が解明し てきた真理などもとより知るところではないから、科学とはかかわりなしに 教義を捏造した。
 しかし新新宗教の教祖たちはなまじっか科学を知っているから全く無視できない。 科学との整合性がずんぶんと気になっているに違いない。しかし、科学的な思考方法 とは対極的な思考方法ででっち上げる観念世界が科学と整合するわけがない。 したがって行き着く先は「どんなに科学が進んでも科学では割り切れない不思議な現 象はたくさんあるのだ。」と居直ることになる。
 それでもなお科学が気になるのか、科学のかけらのない教義を掲げながら「幸福の 科学」と「科学」を標榜する宗教がある。かとおもえば統一教会の教義のよう に、科学を盗用したのはいいがまたくの誤解だらけの知識だったりする。
 創価学会も科学がおおいに気になっているようだ。創価学会の言説も直接読んだこと がないから梅原猛さんの「創価学会の哲学的宗教的批判」から引用すると、『科 学と宗教は矛盾しない、迷信を信じるキリスト教や他の仏教は科学と矛盾する が、日蓮正宗創価学会だけは矛盾しないと、呪文のようにつぶやいている』そ うだ。

 あるいは信者の中に科学者がいることを指摘して、宗教は科学を超える真理を 極めているとする主張もよく聞く。これに対して、例えば三浦つとむさんは 気持ちよくすげない。『「人は何のために生まれて来るのか」という疑問』 から一節を引用しよう。

 私の住んでいる清瀬には、空気がよくて結核療養所がある(私が家を建てたこ ろは、清瀬にいると云うと結核だと誤解されたりした。)関係であろうが、キリ スト教の教会がいくつも存在している。教会関係の人びとが、しばしばわが家の 玄関のチャイムを鳴らして、「この世界はどうなっていくかという、おためにな る話を申上げるためにお伺いしたのですが……」などと、片手に薄い雑誌を持っ て信仰のすすめに訪れて来る。「私は科学者なので、神さまなんか必要がありま せんよ。」と断ったら、「ご存知ないかも知れませんが、大科学者であるニュー トンやアインシュタインも深く神を信仰しておられたのですよ。」とおいでなす った。この例は新興宗教で愛用しているが、キリスト教も勧誘に使っているのか と思いながら、「ヨーロッパの人間は迷信深いから、あの人たちもそんなことに なったが、私は迷信が大きらいなのでね。」と云っておひきとりいただいた。神 様の押売は日用品の押売とちがって、むこうがまじめにやって来るだけに相手し にくい。

 私は三浦さんほどすげなくできないので宗教の押し売りが来ると「もうすでに 信じているものがあるので間に合っています。」と言ってお引取りいただいてい る。もちろん私が信じているのは宗教ではない。

 今回はまるで連想ゲームをやっているみたいだ。
 宗教と科学の関係でニュートンとアインシュタインはよく引き合いに出される ようだ。このことでもう一つ思い出した文章がある。田川健三著『宗教とは 何か』の中に「知の歴史」という観点から、キリスト教単一世界における近代合 理主義と宗教との相克・共犯の歴史を分析している文章ある。その一節。

 だから、歴史的には、たまに限られた地域と期間においては例外的に、近代合 理主義や科学主義が宗教を邪魔物扱いにして抹殺しようとしたけれども、それも しばらく続くと、近代合理主義そのものを維持していく上にそれでは都合が悪 い、ということに気がついて、宗教弾圧をやめるものだし、まして全体の流れと しては、両者はむしろ共存関係にあった。近代合理主義の克服を看板にかかげた 宗教が、それを看板にかかげたが故に、かえって近代合理主義と共存共栄の関係 をつくることができたのである。

 むろん、近代合理主義の克服という課題そのものが虚妄なのではない。その看板 を宗教に担わせたから、かえって、克服さるべきものと克服の課題であるはずの ものが助けあって共存しはじめたのである。ニュートンだのアインシュタインだ の、やや落ちるが湯川秀樹だのという「優秀な」自然科学者が、実に安っぽく愚 劣に宗教を崇拝し、宗教を持ち上げる発言をくり返した理由はそこにある。

543 新新宗教批判(10)
いまテレビが低俗な理由
2006年7月5日(水)


 今回から「統一教会」を取り上げる。

 コイズミ・イシハラと並んで私が最も忌み嫌う政治家・岸妖怪一族の末裔アベが 統一教会の合同結婚式に祝電を送ったというニュースが最近あった。妖怪一族と 統一教会の関わりは相当深いらしい。全記事をそのまま鵜呑みにはできないが、 次のサイトに詳しい。

安倍晋三を首相にすると…

 統一教会がひろく知れわたったのは1992年の合同結婚式がきっかけだった。 アイドル歌手・女優の桜田淳子ともと新体操の日本ナンバーワン・山崎浩子が 合同結婚式に参加し、マスコミが大騒ぎをしたのだった。

 統一教会の公式サイトに桜田淳子の信仰告白が記録されていた。

『姉が20歳の頃に統一教会に入りました。当時、私は秋田にいて13歳でしたが、 統一教会はとにかく悪い噂の渦中にあり、そのために、親と姉とのもめごとを 見てきましたので、私も「何でそこまで・・・」と、統一教会や姉を先入観を もって見るようになっていました。私が芸能界に入って15歳の時に、姉も東京 に出てきてくれ、一緒に生活するようになりました。悪いイメージを持って接 してきた姉ではありますが、その姉のアドバイスの一言一言に、いちいち納得 できるものがあったのです。それで姉のやっていることは間違っていないんだ な、と思うようになりました。だから私は強制的にではなく、自ら「ちょっと 耳を貸してみようかしら」と思って、この統一教会の教理である「統一原理」 に触れたんです。それは序論から始まって膨大な理論立ったものがあるのです が、その3日間の講義を受けまして、これが本当に真理であると思いました。 以来、私が芸能界でやっていく上で、これが精神的バックボーンになってきた ことは間違いないんです。』

 少年の犯罪やオウム真理教事件などの時と同様、こうしたセンセーショナルな 事件に対するマスコミの報道姿勢は、現象面ばかりを追っかけまわして大衆を 扇動することにかまける。事件の根底にある実相や核心に迫るようは真摯な報道 ・解説はほとんど見られない。このことはセンセーショナルな事件のときだけではない。 日々の政治や社会問題に対しても同様である。
 テレビは、下劣でつまらないおしゃべるや下品で醜悪なパフォーマンスだらけ の低俗番組が多いから低俗なのではない。そのような番組は泡のようなもので、 すぐ消えて跡形もなくなるだろう。テレビを低俗なメディアにしている最も大 きな元凶は事あるごとにしゃしゃり出てくる解説者や識者の低俗さなのだ。

 さて、吉本さんの『「原理講論」の世界』は1992年の大騒ぎのときに書かれた。このときの テレビの報道について次のように書いている。

 これはなぜか韓国人の日本人にたいする植民地時代からの憎悪と、日本人の 韓国人にたいする潜在的な侮蔑感を微妙に刺激するように働いた。さらにもう ひとつの印象は、桜田淳子や山崎浩子のような、専門の分野で優れた能力を もっているとみなされる人たちが、生活者としては意外なほどころりと思い込 みやすい脆さをもっているということだ。そしてどこまでが本当なのか、実相 はどうか、さっぱりわからぬというのが実感だった。

 テレビ報道のアナウンサーや、登場した解説者もまた、はかない印象を視聴 者にあたえた。こういった人たちは、誰ひとりとして統一教会はどんな理念や 原理をもったキリスト教団体で、どこが駄目なのか、どこが吸引力をもつのか を解説しなかった。そしてただやみくもに合同結婚式は野蛮・未開で、本人の 意志に反しようが嫌だろうがかまわずに男・女のカップルを強制し、また信者 になると霊感商法で安い物品を法外な値段で売りつけて資金をあつめる義務が あると宣伝した。これは何らかの度合で事実かもしれない。しかし売りつけら れる方に信心がなければ、そんなことは成り立つはずがない。どんな信心なの かを確かめたり、問いただしたりする解説は、いっさいテレビ画像にのせよう としない。これでは、ただデマをひろげるだけで、統一教会の実体に肉薄する ことができるわけはない。


 これが吉本さんを統一教会の教義の分析に向かわせたモチーフである。 「膨大な理論立ったもので本当に真理であると」桜田淳子に思い込ませた 「統一原理」とはどんな教義なのか。
542 新新宗教批判(9)
普遍宗教
2006年7月3日(月)


 教祖が語るバカばなしにかかわらず、『超常的な宗教体験を信用する』人たちを 引き付けるける要素を、吉本さんはもう一つ抽出している。それは超常的な宗教体験 のなかに普遍的な心的体験が潜在しているからだ、と言う。
 それは仏教でいう輪廻転生(生れかわりの無限循環)ということだ。これは 偶然に瀕死の体験をして蘇生した人や、修練によって人工的に瀕死体験を造れ た人(ヨーガ・瞑想・座禅・台密)が、じぶんがじぶんの肉体を離れた幻覚を 造ることができるところに根拠をもっている。そして高橋信次の『心の発見― 神理篇』をみると、度重なる心臓停止の体験からこの幻覚をみて、そこから新 宗教をはじめたことがわかるし、大川隆法は瀕死体験ではないが、憑依のもう ろうとした入眼状態で高橋信次から語りかけてくる幻聴を聞いて死後の神霊の 存在と、肉体とは分離している神霊の独在を信じ、そこから宗教活動に入った ことがわかる。この体験から大川隆法は独特な神(仏)観に到っている。

「神とは、私たち以外の別のところにある他者ではなく、私たちを存在せしめ ているところのひとつの高次の意識体なのです」

「私たちは、自分自身が神の一部であり、神の自己表現の一端をになっている ことに、誇りと自信をもつべきなのです」

 こういうまともに取り扱うに値する高橋―大川系統の独特の神(仏)観に到 達している。この神(仏)観は仏教の通俗化にはちがいないが、輪廻転生を実 体化している新興宗教のすべての教義に共通する神(仏)観としては、もっと も高度な表現になっている。その鍵は、あるひとつの次元の存在は、それより 高次元の霊に統御されて存在するという大川隆法の理念にあるとおもう。


 ここで吉本さんが取り上げている「まともに取り扱うに値する」神(仏)観に 至るのに「輪廻転生」や「あるひとつの次元の存在は、それより高次元の霊に統 御されて存在する」という理念は無関係だと、私は思う。

 大川隆法の神(仏)観の「神」を「自然」と置き換えて少し言い直してみる。

「自然とは、私たち以外の別のところにある他者ではなく、私たちを存在せしめ ているところのひとつの高次の摂理なのです」

「私たちは、自分自身が自然の一部であり、自然の自己表現の一端をになってい ることに、生き方や思想の根拠を置くべきなのです」

 これはもう宗教的な理念ではなく科学的な理念だ。全ての宗教を包含する「普遍 宗教」というものがあるとすれば、その宗教の神は自然にほかならないのではない か。地上から浮遊してさまよい続けた挙句、霊(こころ)は本来のあるべきとこ ろ、この地上に戻ってくる。神秘めかした言説を一片なりとも必要としない。

 私には信仰すべき宗教はないが、宗教的な感性はある。自然の一部として大自 然と感応する「こころ」と言ったらよいだろうか。日本語には適当な言葉がな い。仏教でいう「仏性」?宗教のたなごころの中で思考を停止するわけにはい かない。あるいは「もののあわれ」?本居宣長の手垢がつきすぎている。
 まだよく熟していない理念なので、極私的にそれを「ポエジー」と呼んでい る。「ポエム」が生まれるみなもとと言う意味合いで「ポエジー」。

 古田武彦さんの著書「わたしひとり親鸞」(明石書店)に書名と同名の論考があ る。その最終章『わたしの「信仰告白」』に、私の理念は共鳴する。私がいう「ポ エジー」と同じことを語っていると思う。

 最後に、わたしの「信仰告白」をのべさせていただきます。

 わたしはどこから生まれてきたか。むろん直接には父母からです。祖先から えんえんと血統をうけついでわたしに至ったわけですから、また未来も子孫に 血統を伝えてゆくことでしょう。
 その上、〝血を同じゅうする″親戚・縁者をたぐつてゆけば、それだけ〝血 をついだ〟祖先の数もふえ、従って〝血を伝える″子孫も多いことでしょう。 (わたしたちが普通、「祖先」と言っているのは、いわゆる男系に限られ、真 に生物学的な意味で、つまり「すべての血の上の祖先」ではないことは、ご承 知の通りです。)

 さらに目を拡げれば、アジア・モンゴリアン全体、いや人類全体が「親戚・縁 者」であることは、〝他の動物の視点″から見れば、自明の事実です。

 けれども、今の視点は、こんなせせこましい話ではありません。もっと巨視 的なものです。
 なぜなら、人間は自己を成り立たせるのに、水や植物や他の動物、それらを 〝使って″います。すなわちそれらもわたしたちと同根なのです。そしてその 水や植物は大自然の中から生い出でたものにまちがいありません。従ってわた したちは正確に見つめれば見つめるほど、大自然と同根であることを疑うこと はできません。この「大自然」とは、生物か無生物か。そのいずれでもない、 それらを生み出した淵源です。ですからわたしたちは、やがてそれに再び帰し 去ってゆく。これは自明のことです。

 この帰しゆく先の大自然を何と呼びましょうか。それは〝名づけがたいもの″ なのですから、逆に言えば、何と呼ぼうと各自の自由です。  〝大いなるもの″〝真実なるもの″〝母なるもの″ こういったイメージが わたしにあります。

 そこで「大真実」とか、「大母(たいも)」とか、という名前を〝作って″み ました。
 これは〝名を作った″だけであって、わたしが大自然、すなわちこの大宇宙を 作ったものでないことは明白です。
 大宇宙がわたしを作ったのです。いったんわたしを作った以上、誰かが ―  たとえば地上の権力者が ― わたしを〝気に入らない″といって消してみたと しても、大宇宙は何たびでも〝わたし″を作るでしょう。この〝わたし″の存 在に一片の真実がふくまれている限り。
 悪罵も、嘲笑も、無視も、大母の描いた、この〝筋書き″を消すわけにはいか ないでしょう。

 わたしは自分を何もたいそうな者だとは思いません。うわべは平凡、内面は 愚劣。無恥において無上の者です。
 といっても幸いに、案ずることはないようです。このようにどうしようもない わたしでさえ、やがてある日、大母のもとへ帰り至れること、それは他の何ごと よりも確実、疑いようもないことなのですから。

541 新新宗教批判(8)
「幸福の科学」の基本教義
2006年7月2日(日)


 身体と意識(こころ)を分離して別個のものとする相対的誤謬を絶対的真理であると 大前提してしまえば、意識の世界についてはまことしやかにどのようなバカ話でも 創ることが可能だ。言い直せば、その大前提は際限なき逸脱を呼び起こし全くの 誤謬の深みにはまり込んでしまう可能性を孕んでいる。
 前回私は、バカばなしを真に受けてのめりこんでしまう「平常者」が絶えない ことを不思議だと書いたが、なんら不思議なことではなかった。それらの「平常者」 は「身体と意識(こころ)を分離して別個のものとする相対的誤謬を絶対的真理 」とみなしている点でバカばなしを創りだすものと同類なのだ。

 さて、「幸福の科学」の教義の核心は何か。
 宗教の信仰の対象(本尊)は阿弥陀仏であったり法華経であったり親神であったり 、教祖以外の絶対者あるいは絶対精神であったりするのが一般的だ。ところが 「幸福の科学」の信仰の対象は大川隆法自身だというから恐れ入る。

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主エル・カンターレ──かつて、インドに釈尊として、ギリシャにヘルメスと して生まれ、人類を導かれてきた御存在です。その意識の御本体が今、幸福の科 学の大川隆法総裁として地に降りられ、全人類を救うために、仏法真理を説かれ ています。
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 「幸福の科学」の基本教義は何かというと次のように述べている。

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  幸福の科学の基本教義は、「正しき心の探究」と、その具体化である 「幸福の原理」としての「現代の四正道」です。この「現代の四正道」は、 「愛」「知」「反省」「発展」の四つの原理からなります。「人を愛しなさ い」という教えです。現代人の苦しみの多くは、「他の人々からの愛や評価 がほしい」と思いながら満たされない苦しみです。ここから脱却するために は、自ら人々に愛を与えることが大切です。仏法真理の知識を学び、仏の心 を知るということです。

 さらに、単に知識として学ぶだけではなく、その仏法真理の知識を、職場 や家庭などでの実体験を通して「智慧」に変えていくことが大切です。釈尊 の「八正道」の教えを現代的に再構築したものです。反省によって心を浄化 することで、悪しき霊的な影響から離れることができます。過半数の人々が 悪霊の影響を受けている現在、非常に大切な教えです。大乗仏教の本領であ り、ヘルメス的な発展・繁栄思想の復活です。自分の幸福が「全世界の幸福」 につながる生き方を通して、「成功」という積極的幸福、発展的幸福を実現 し、ユートピア建設への道を開く教えです。
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 どうやら「愛」がそのキーワードであり、「四正道」とか「八正道」とか の仏教教義の概念を理論の正当性の論拠にしているようだ。しかし上記の 「幸福の科学」の公式サイトから転載した説明は、ただただ奥深くありがた い教えであると粉飾することに急で、肝心なところが曖昧で私にはよく分 からない。つまり「愛」を説くのにどうして「四正道」とか「八正道」とか 必要なのかがさっぱりわからない。「分からなければ本を買え。」とのご託宣か しら。本を買うのはおことわりして、吉本さんの読解を聞いてみよう。

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 大川隆法は高橋信次が天台宗の止観からつくりあげた「八正道」をじぶんが こしらえた「愛」の段階説と組み合わせて、実行すべき指針をつくり、それを 「幸福の科学」の教義としている。

 「八正道」というのは

(1)正しく見ること(正見)
(2)正しく語ること(正語)
(3)正しく愛すこと(正業)
(4)正しく生きること(正命)
(5)正しく思うこと(正思)
(6)正しくすすむこと(正進)
(7)正しく念ずること(正念)
(8)正しく悟ること(正定)

のことで、これにそれぞれ「愛」の段階を割りあてている。

一、正見、正語は、親子、男女、隣人のような人と人とのあいだの愛に 対応する。
二、正業、正命は、人を生かし導く愛に対応する。
三、正思、正進は、おたがいに神の子どうしとして許し、つつむ愛に対応 する。
四、正念、正定は、神仏のひとつになった悟りの境地の愛に対応する。
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 そしてこの愛の段階にも対応するのが、前回に説明した「n次元世界」という 仕組みなっている。

 ここで吉本さんの総合的な評価を聞いてみよう。

 まるで子供だましのようにつくられた霊の段階秩序は、スエーデンボルグの 霊的な世界のいかがわしさとおなじように、いかがわしいといえばそれまでの ことになる。でもよくもここまで風呂敷をひろげ大宗教から霊視者やUFOを見た ものまでの神秘意識を包み込んだものだと感心する。

 天台宗の仏教やキリスト教の「愛」をもとにして、UFOに乗ってほかの宇宙の 宇宙人と出会って平和な至福観を説かれたといった類の言説や、ある日突然に 一時的なヒステリー性の健忘に陥り、それからあと超常的な霊能力をもつよう になったといった類の体験まで、まんべんなく包み込んで段階説のどこかには め込んで調合してしまっている。

 全体的なムードとしていえば温和な(大川隆法は「中道」という言葉をつか っている)幸福感をどこまでも精神が保ってゆけるものだという教説をつくり あげている。

 大川隆法のように実在する物質の形態の概念も、精神や人間のあいだの精神の 関係も倫理も一緒くたにして「次元」をこしらえてしまうと、幼稚で子供じみ て感じられるが、根本の原則は肉体とこれを支配している意識・魂とは次元の ちがう別個に分離できる存在だという認識に根ざしている。高橋信次の『心の 発見―神理篇』をみるとそれがとてもよくわかる。高橋信次によれば意識・魂 の中心が「心」だとかんがえられている。そしてこの「心」は大宇宙の支配者 である神仏の意識と通じあって、「あの世」と「この現象界」を輪廻転生しつ づけてきた不死の存在で、そのゆえに過去世の想念、本能、感情、智性、理性、 意志、先天的な善悪の業をみんな蓄積してもっていることになる。こういう考 え方の秘密はどこにあるかといえば、高橋信次が、はじめに意識・魂を肉体と 別個のものと分離したところからきている。そして意識、魂の核である「心」 は自在に過去世も現世もあの世も転生しつづけているとみなされている。この 根本的な認識を承認してしまえば、大川隆法のようにどんな次元の世界もつく りあげることができることになる。

 高橋信次と大川隆法に共通している認識の特徴は、大宇宙の支配者である 神仏の意識に道を通じているどんな宗教も言説も、ひとしく神理に叶うものと していて、宗教に偏らない点だ。つまりどんな宗教も言説も、この神理に叶 えば、あるいは叶うところだけを視てゆけば、批判や排斥の対象にはならな い。肯定的に包み込もうとしている。高橋信次ではあまり目立たないが大川隆 法ではこれをどんな宗教でもやりようによってはとり込めるような体系につく りあげてしまっている。浅薄ないい加減な理解しかないが、そんなことは問 わない人士にとっては、決してほかの宗派宗教を誹謗したりしないで、当り のよい言葉でどんな宗派や宗教や超常的な関心も表面の形の類似で、大川隆 法の次元世界のなかにはめ込まれることになる。この特徴は文章のムードと しては、なかなか気持ちがいいものだ。


 『決してほかの宗派宗教を誹謗したりしない』温和な全体的ムード が『浅薄ないい加減な理解しかないが、そんなことは問わない人士』を 引き付けるひとつの要素になっていると、吉本さんは分析している。
540 新新宗教批判(7)
パラノイアの症候例
2006年7月1日(土)


今回から「幸福の科学」を取り上げる。

 新興宗教を本を買ってまで調べようという気は起こらない。今は便利になった。 インターネットのサイトから調べることができる。天理教の世界図式や天地創造説 やお説教はすべて天理教の公式サイトに公開されていた。統一教会の公式サイト では公刊された全ての教義書がそっくりまるごと公開されている。しかし「幸福 の科学」の公式サイトには教義の「いいことも言うじゃないか」という部分の概略 だけで「ばかばかしい」部分は一言も掲載されていない。教祖のパラノイアの症候が 改善されてきて「ばかばかしい」部分を恥ずかしいと思い直したわけでもないだ ろう。「幸福の科学」では教祖の著作物を何冊か読まないと入団できない仕組みに なっているそうだから、そのためかもしれない。前回で天理教を「道徳宗教」と呼んだ が、「幸福の科学」はさしあたって「出版営利宗教」と呼ぼうか。

 というわけで、以下の「幸福の科学」の教義はすべて吉本さんが引用したものの 孫引きである。

 まず、大川隆法が体験した「神がかり」を吉本さんは次のようにまとめている。
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 1981年1月高橋信次の『心の発見―神理篇』を読みすすんでいるとき、胸が大 きく動悸し、体が前後にこきざみに揺れる状態を体験する。それから高橋信次 が説いている神理を、じぶんは以前から知っていたという心の既視感におそわ れる。

 おなじ3月23日に、幻聴で話しかけられる感じがして、カードと鉛筆を 用意すると憑依状態で「イイシラセ」と繰り返して書記している。 「おまえは、なにものか」とたずねると「ニッコウ」と自働的に署名する。 日蓮宗の日興上人のことだ。そのあと日蓮からの幻聴がきこえる。

 6月のある夜、こんどは高橋信次からという幻聴がやってきて「大川隆法よ。 今日、私は、おまえの使命をあかすために来た。おまえは今後、おおいなる救 世の法を説いて、人類を救わねばならないのだ」と告げる。

 おなじ6月に郷里からやってきた父親(善川三朗・「幸福の科学」顧問)のいるま えで、イエス・キリストからのお告げが幻聴としてやって来る。

 それ以後、大川隆法はじぶんが呼ぶと天上界のあらゆる霊が出て来るように なったと書いている。そして1986年6月に、日蓮、イエス・キリスト、天之御中 主之命、天照大神、モーゼ、高橋信次などの霊が降下して、会社勤めをやめて 神理伝道に生涯をかけよと託宣が下って、宗教法人「幸福の科学」(91年、宗 教法人承認)を設立するようになったと書いている。
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 ここで登場する高橋信次 (1927年9月21日 - 1976年6月25日)はGLA(God Light Association) という新興宗教の教祖だそうだ。真のメシアだと騒いでいた(騒いでいる)人たちが いた(いる)。まあ、初めて知る新興宗教がいっぱいあるなあ!

 さて、上記の大川隆法の「神がかり」についての吉本さんのコメント。

 わたしたち平常人の解釈では、大川隆法のこの体験はじぶんの音声にたいし てじぶんが解釈し造形したとおりの、日蓮やイエス・キリストや天之御中主之命(あめのみなか ぬしのみこと・この神は存在性をもたない)や天照大神やモーゼや高橋信次の 言葉が憑依したという以外の意味をもたない。

 またなぜこうも次元の違う人物や架空の存在の霊が降下してくるのかといえ ば、そのときどきに読んだ著書や神話や聖書などで印象がつよく刻印されたもの が託宣に現れるものだという理解になる。また天台智顗(ちぎ)や高橋信次は 特異的に択ばれているが、これは大川隆法が日蓮から日蓮の傾倒した智顗に遡っ たものだし、高橋信次は直接に「幸福の科学」の教義をつくるのに基本になった 師にあたるからだということになろう。


 宗教を取り付かれたように勉強していたことが推測できる。一種の「オタク」 だったのだろう。
 この憑依状態の体験をきっかけに大川隆法は持続的なパラノイアに特有な誇大妄想に取り 付かれる。たとえばこんな具合である。
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 いまから一千数百年前に、天台智顗が、中国の天台山で一念三千論を説いてい たのですが、そのとき、霊天上界において、彼を指導していたのは、実は、ほか ならぬこの私でした。

 私は、私の指導霊であるイエス・キリストと、愛について、よく話しをするこ とがあります。

 右にあげたことばは、いまから二千年近いむかしに、イエス・キリストが、 ナザレの地で語っていた愛の話の復元です。現在、イエスが私を指導している ように、当時は、私が天上界からイエスを指導していたからこそ、私は、彼の ことばを知っているです。
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 麻原彰晃が著書「亡国日本の悲しみ」で張り合っていた。曰く、『「幸福の科学」の 主宰・大川隆法は前世で私の弟子だった。天法金丹の法の開祖はじぶんだといいふらして、 無間地獄に堕ちた。』『大川隆法は一生前は「四国のたぬき」だった。死後は 無間地獄に堕ちる。』

 次に大川隆法の世界図式はもっと荒唐無稽だ。

 ユークリッド幾何学では実在の世界を「空間」として抽象してそれを3つの 座標軸(タテ・ヨコ・タカサ)を使って数式化する。これを3次元ユークリッド 空間と言う。そこで一般に実在の世界を「三次元世界」と呼びならわしている。
 これをさらに抽象して一般化すれば、n次元ユークリッド空間の数学ということに なる。
 物理では3次元空間に時間という第4の座標軸を加えて4次元ユークリッド空間 として物体の運動を表現する。

 大川隆法は、この4次元世界の「時間」を通って鎌倉時代のヒトと同じ場所で 出会えるとのたまう。
 ずいぶんむかしのこと、「タイムマシン」という連続テレビドラマを楽しく見たことがあ る。昨夜「戦国自衛隊」という最近の映画をテレビで見た。そういえば「バック・トウ・ザ・フ ィーチャー」という映画もあった。視聴者は「もしも歴史」の面白さを楽しんでいる。 時間を行き来することができるなどと本気で信じてみている人はまずいないだろう。 (将来科学が進歩すればそのようなことが可能になると思っている人は、あるいは いるかも知れない。)

 大川隆法のバカばなしのふろしきはまだまだ広がる。
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4次元世界+「精神」=5次元世界
 人間が物質的な肉体ではなく「精神」であることに目覚めたものの住む世界。 のことだ。

5次元世界+「神知識」=6次元世界

6次元世界+「利他」=7次元世界
 愛をもち他者に「奉仕」できるものの往ける世界。

7次元世界+「慈悲」=8次元世界
 太陽のような愛の世界。

9次元世界
 そのうえに「宇宙」の太陽系のほかの星団の霊界のことも知り、大宇宙の進化 という方向のうえで、地球系の霊団を指導している世界的宗教の人格神や根本神 の世界のことをさす。

10次元世界以上になると地上の実在の関係をもった人霊ではなく「三体の意 識」だけの存在の世界だ。その三体とは
   大日意識(地球生物の積極意志をつかさどる)
   月意識(消極的な女性的な面をつかさどる)
   地球意識(地球の生命体としての意識をつかさどる)
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 パラノイアの症候としてこのような誇大妄想のバカばなしが生まれるのは なんら不思議なことではない。不思議なのはこれを真に受けて恐れ入ってしまい のめりこんでしまう「平常者」が絶えないことである。