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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
529 「良心の自由」とは何か(23)
現在の日本の精神状況(2)
2006年6月19日(月)

 次に引用する文章は、「信仰の自由」から「信仰からの自由」へと徹底化の 過程で現れる精神状況の中間的な諸特徴のを分析したものだが、これは『社会的には シュタイン氏の予見した「階級対立の激化=緩和剤の喪失」の過程』の分析でも ある。
 古田さんのこの論考が書かれたのは1964年だから、大日本帝国の敗戦後 約15年、現時点からは約40年前ということになる。この時間的パースペクティブ を念頭に置いた上で読んでいきたい。
(1)
 政治家、僧侶(牧師)、資本家(紳士)たち上流階級、指導者層は国民一般と の精神的紐帯を欠きます。国家理性と主権者(国民)との媒介者たる政治家がか えって国民から一般的に軽侮の目を以て見られるという、(世間周知の)現象 も、実はこの点に一つの基礎をもっているのです。「国会」という広大を舞台 の上に政治家個々の矮小さがバラバラに目立つことになるのです。国家理性が 両者を結びつけ、定着させる役割を十分に果たしていないのです。そのため、 政治家は国家理性との関連において自己の矮小さを救うことができないのです (この点、重大な難局に立ってしばしば「神」に呼びかけて国民に訴える西欧 政治家、「人民の意志」にかけて、国民に誓う共産圏政治家の慣例には十分の 意味が含まれているわけです)。

 政治家たちの矮小さを見せつけられる毎に政治家への侮蔑が高じる。これは 私の精神状況でもあり、ピタリ言い当てられてしまっていると思う。個人の精 神状況は時代の精神状況と無縁ではありえないと思い知らされる。

 また『重大な難局に立ってしばしば「神」に呼びかけて国民に訴える西欧 政治家』といえば、誰もがすぐ「テロとの戦い」を声高に叫んだときのブッシュを 思い浮かべるだろう。

(2)
 一般的な倫理の「浮遊現象」が生じます。倫理はその歴史的発生が示すよう に、「共通の宗教」「単性化された国家理性」の根から伸び立った茎です。そ の根が欠除された以上、倫理は国民一般の共有する形をとり得ません。だから、 一方の国民からは「反倫理」に見えないものが、他の国民からはまさに、「反 倫理」と見えるという現象が一般化されます。ことに老人・大人達が青年の 「遺徳的無軌道」を嘆き、指導者層が「国民道徳の退廃」への対策をヒステリ カルに痛感するという形が日常化します。しかもその際、その老人、大人、指 導者達自身、説くべき倫理(の内実)への自信喪失に満たされているのも特徴 をなしています。

 今国会での、テレビ中継がないときの「教育基本法改悪」の委員会審議では 委員たちの本音が誰はばかることなくいい気に飛び出していたと、「赤旗(日曜 版6月18日号)」が報じていた。いくつか抜粋する。

『6月2日午前、委員会に教育勅語の現代訳を配布して、質問に立ったのは民主 党の大畠章宏議員です。「いまの社会を見ると、こういう基本的な考え方がど こか薄れ始めている」。これに呼応した安倍晋三官房長官は「(教育勅語に は)大変すばらしい理念が書いてある」と答えました。』

『「敗戦後遺症というような発想を教育界から取り除いていかないと前向きの 議論ができない」と質問したのは元文科相の町村信孝議員。「愛国心」が身に つくようにと「教育である以上、教え育てる、どこかでしっかりとたたき込む という部分もなければ先に進めない」と、「たたき込む」を繰り返しました。 (5月24日)』

『民主党議員も呼応しました。「戦前から戦後にかけて『国体の護持』という 言葉がある」と質問したのは、同党の山口壮議員です(5月26日)。「日本が 日本であり続けることを『国体の護持』という。民主党の案に『日本を愛す る心』を入れたのは、まさに日本が日本であり続けること、国体の護持にある 意味でつながっていく」と。』

 このような一度死んだ時代錯誤の擬似思想にしがみついている連中を愚かと言うべきか、 あるいはこうした連中を選んでいる国民を愚かと言うべきか。いずれにせよ『説くべき倫 理(の内実)への自信喪失』の裏返された表出である。

(3)
 国民の一般感情は無宗教性となり、ことに知識階級(近代国家の中の「近代 的階級」)の中に「宗教への軽侮」は恒常化します。したがってマルクシズム なども、その「戦闘的無神論」はむしろ「常識的」なものとして受け入れられ ることになります。
したがってマルクシズムへの出入りが容易になりやすい一側面を提供していま す(戦前の「転向」の隆盛!)。
 しかし、この点はこういう「安易さ」として表われるだけでなく、支配階級 への支持の「安易さ」をも意味することになります。

 この知識人階級の軽薄さも私(たち)はこの40年間にさんざん見せつけられて きている。特にソ連の崩壊後の惨状は目を覆いたくなるほどだ。そして今、反動 化の激しい動きに対して声を上げたり、行動を起こしたりしている知識人のなん と少ないことか。権力にこびている知識人のなんと多いことか。真に「知識人」とい える人は少なく、あとはもう「痴識人」だ。
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