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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
527 「良心の自由」とは何か(21)
思想的座標軸の欠落(2)
2006年6月17日(土)


 学校教育を通して天皇教の布教は着実に成果を上げていった。しかし『明治 の識者の中に存した、思想座標軸の欠落の自覚(あるいは潜在意識)』は埋められよ うはずはなく『「国家教」が遂に「日常化」され』ることはなかった。

 古田さんは明治、大正、昭和の識者の記した言葉をたどっている。

 1891年、教育勅語謄本に拝礼を「軽く会釈する程度の敬意」ですませた 内村鑑三の行為は「不敬」にあたると事件化され、内村は職を追われた。その 内村鑑三が、1900(明治33)年、次のように語っている。

 「神道や『国家教』なるものの、宗教としてはほとんど何らの価値なきことは、私 の申すまでもないことであります。さりとて、今の日本の上流階級の人のように、 全く無宗教なるは私のとても堪えられないところでございます。」 (「宗教座談」『内村鑑三信仰著作全集・著作篇第三巻』)

 次は芥川龍之介の「手巾」の一節、1916(大正5)年の長谷川謹造先生の所懐。

「日本の文明は最近五十年間に、物質的方面ではかなり顕著な進歩を示してい る。が、精神的には殆ど、これと云う程の進歩も認める事が出来ない。否、む しろ、或意味では、堕落している。では、現代に於ける思想家の急務として、 この堕落を救済する途を講ずるのには、どうしたらいいのであろうか。」

 次は丸山真男、1957(昭和32)年発表の「日本の思想」から。

「一言でいうと実もふたもないことになってしまうが、つまりこれはあらゆる 時代の観念や思想に否応なく相互連関性を与え、すべての思想的立場がそれと の関係で ―否定を通じてでも― 自己を歴史的に位置づけるような中核ある いは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった、ということだ。 私達はこうした自分の置かれた位置をただ悲嘆したり美化したりしないで、ま ずその現実を見すえて、そこから出発するほかはなかろう。」

 丸山氏の言う思想的座標軸とは、その最大のモデルがヨーロッパ精神史を 貫流する、キリスト教の伝統に他ならないことは、それが氏の数々の論文に 一貫した基本(或いは潜在)イメージとなっていることからも、知ることが できますし、それに対するキリスト教的座標軸の欠除態として日本思想史を 照明する時、氏の分析のメスは最も鋭く冴えわたるのですが、その基本視点 は必ずしも氏の先見・独創ではなく、大正五年、謹造先生も、基本的には、 まさに同じ発想を示すのです。

「先生は、これを日本固有の武士道による外はないと論断した。武士道なる ものは、決して偏狭なる島国民の遺徳を以て目せらるべきものでない。かえっ てその中には、欧米各国の基督教的精神と、一致すべきものさえある。」

 さすがに帝国大学法科教授謹造先生は単純に「武士道」を過去からの連続と して讃美するのでなく、かえってその断絶と空白、現代(明治~大正初期)の 思想的座標軸の欠除状態(憂うべき堕落!)が先生をして「軸の探究」の思考 にふけらせたのです。
 だから、先生の武士道提唱の背後には寛容なる大陸国民の道徳としての「基 督教的精神」の伝統が一種のあこがれ、ないしモデルとして存在し、それに比 肩すべきものとして、日本固有の「武士道」が日本思想史の倉庫から再発見さ れるのです(先生はやがて訪問婦人の挙止に、私的に連続され来たり、今も 「生きた武士道の」「現証」を見て、驚喜することになります)。


 芥川がいささか揶揄的に描いている「武士道」の『日本思想史の倉庫』から の謹造先生による再発見は、もちろん新渡戸稲造の「武士道―日本の魂」 (1899年)を下敷きにしたものだろう。

 近頃、藤原正彦先生が「武士道」を『日本思想史の倉庫』から再々発見している そうだ。この先生にも多分『明治の識者の中に存した、思想座標軸の欠落の自覚 (あるいは潜在意識)、さらに「国家教」が遂に「日常化」されなかったことの 認識が存在』しているのだろう。たとえ陳腐であっても、その苦闘の結果たどり 着いた「武士道」と、好意的に評価しようか。
 しかしこの先生のベストセラー本のせいか、サッカーの日本代表選手を 「サムライ」と呼び、中身がないままに「サムライ」が一人歩きしている軽薄さを 「武士道」の代々の発見者稲造先生、謹造先生、正彦先生はどんな顔で見ているだ ろうか。たぶん苦虫を噛み潰している。

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