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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
519 認識論と矛盾論(9)
毛沢東矛盾論はさらに後退する
2006年6月9日(金)


 矛盾における闘争は絶対的だというレーニンの規定はスターリン、毛沢東へと受けつがれていった。
スターリン
「それらの対立物間の闘争、古いものと新しいものとのあいだの闘争、死滅してゆくものと生れ出るものとのあいだの闘争、生命を終りつつあるものと発展しつつあるものとのあいだの闘争が、発展過程の内的内容、量的変化の質的変化への転化の内的内容をなすものである。」

 このスターリンの言説を三浦さんは、馬蹄形磁石をとりあげて、次のように揶揄している。
『なるほどプラスとマイナスの二つの極が統一されているなと思う人もあるであろう。しかしつぎの瞬間には、この二つの極がいったいどこで闘争しているのが、二つの極のどちらが新しくどちらが古いのかと、首をひねる人もいるにちがいない。』

毛沢東
「戦争における攻守、進退、勝敗はみんな矛盾した現象である。その一方がなくなれば他方もなくなる。」

 三浦さんは言う。
『戦争は、敵との間に行われる。いうまでもなくこれは敵対的矛盾であり、そこには生命をかけての闘争が展開する。しかし旅行者が航空機で飛ぶときにも、大阪へ進み大阪へ近づくことは同時に東京から退き東京から遠ざかることであって、これも一つの矛盾である。この矛盾のどこに闘争があるのであろうか。ここで進むと退くのとどちららが新しくどちらが古いのであろうか。レーニンのノートはもちろんであるが、スターリンも毛沢東もソ連の学者たちも、このような問題には触れようとしない。』

 レーニンが「同一」という概念を「おそらく、より正しくいえば『統一』か?」と、おぼろげながらその相違を感じていた正しい弁証法への糸口はあとかたもなくなっている。

毛沢東
「同一性、統一性、一致性、相互浸透、相互貫通、相互依拠(あるいは依存)、相互連関もしくは相互作用というこれらのことばは、すべて同じことを意味している」
「すべての矛盾する諸側面は、みな、一定の条件によって、不同一性をそなえているので、矛盾とよばれる。しかし、また同一性をもそなえているので、たがいにつながりあっている。レーニンが、弁証法とは『対立物がいかにして同一でありうるのか』を研究することだといったのは、このような状態をさしているのである。どうして同一でありうるのか? たがいに存在の条件をなしているからである。これが同一性のもつ第一の意味である。」

 真理が誤謬となり、誤謬が真理となる相互転換は「認識の限界」を逸脱することによって起こる。レーニン→スターリン→毛沢東と受け継がれた矛盾論の誤りは非敵対的矛盾と敵対的矛盾の違いを無視していっしょくたに扱ってしまったところにある。
 いいかえると

対立物の統一

 ① 直接的統一(同一)
 ② 媒介的統一(不可離)

 という「統一」の構造を理解せず、「同一」が常識的な意味の差別(不同一)に対する「同一」という意味に解釈されてしまったところにある。

 「同一」と「不可離」の違いを分かりやすく説明している文章を引用する。チョッと長いです。


 弁証法における同一性とは、毛沢東のいうような「ブルジョアジーがなければプロレタリアートがない。プロレタリアートがなければブルジョアジーもない。」というような、「たがいに存在の条件をなしている」むすびつきをさすのではない。これは対立物の不可離性である。マルクスもいうようにこの不可離的な統一の媒介運動が直接的同一性をつくり出すのであって、たとえばプロレタリアートがプロレタリアートとしての立場を椎持しながらも、銀行に預金したり株を買ったりして利子や配当という形態で剰余価値の分配にあづかり、ブルブョアジーとしての萌芽を自分自身に持つことが、プロレタリアートであると同時にブルジョアジーであるという矛盾を自分自身に負うことが、対立物の直接的統一すなわち同一性なのである。これがさらにすすんで、工場で働くのをやめ、自分の財産を預金や株のかたちで金融資本や産業資本に提供し、利子や配当だけで生活するようになれば、完全に労働者の搾取に生活を依存する小ブルジョアへの転化が完了したわけである。

 毛沢東はつづけていう。
「事柄は、矛盾の双方がたがいに依存しあっているだけに終るのではない。もっと重要な点は、やはり、矛盾している事物がたがいに転化しあうという点にある。これは、事物の内部にある矛盾の二つの側面が、一定の条件のために、それぞれ自己と反対の側に転化し、自己と対立する側面のしめている地位に転化してゆくことを意味する。これが矛盾の同一性のもつ第二の意味である。」

 こうして毛沢東は、矛盾の単なる一形態でしかない同一性に、相互転化を押しこむだけでなく、さらに地位の転化をさえ押しこんでしまう。正しい意味での同一性における相互転化は、いまみたようなプロレタリアートがブルジョアジーになったり、あるいは反対に競争の結果苦しくなった小工場の持ち主が自分も大工場へ働きに出かけるというかたちでプロレタリアートとしての萌芽を自分自身に持ち、やがて小工場がつぶれて完全にプロレタリアートへの転化が完了するという、それだけのことである。

 毛沢東のいう「被支配者であったプロレタリアートが、革命を通じて支配者に転化し、もともと支配者であったブルジョアジーが、被支配者に転化し、たがいに相手が元来しめていた地位に転化してゆく」問題は、権力の獲得という、上部構造をめぐる複雑な媒介関係において展開するものであって、正しい意味での同一性における相互転化とは別の問題である。

 正しい意味での同一性を理解するならば、敵との対立における媒介関係が、直接的統一として「敵であると同時に同志でもある」ような人間をつくり出すことも、理解できるわけである。警察や裁判所や諸官庁にいる革命政党の党員は、敵に奉仕しながら革命運動のために働いているという、同一性をそなえている。ブルジョア出版社が『資本論』を出版することは、革命運動にとって大きな利益であると同時に、その出版社に利潤をもたらす意味で資本家にとっての利益でもあるという、同一性をつくり出す。

 敵かそれとも同志かという、あれかこれかの形而上学で割り切ることはできないということを、現実の対立物の相互浸透が、同一性がわれわれに教えてくれるのである。正しい意味での同一性の無理解は、敵かそれとも同志かという形而上学におちいりやすいこと、同一性の成立を直ちに反対物への転化と解釈しやすいことに注意しなければならない。



 間違った矛盾論が「粛清の論理」へとつながっていく論理的構造が見えてきた。
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