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513 認識論と矛盾論(4)
唯物弁証法による認識論
2006年5月29日(月)


 三浦さんが説く認識論のうち「真理と誤謬」の関係に的を絞ってその概略をまとめてみる。
 まず真理とは何か。
 現実の世界と正しく照応している認識を<真理>という。どんな観念論者でも自分が存在していることや自分が人間であることは疑わないだろう。そのとき、その認識は対象である自分との照応において真理と呼ばれる。

 「なんだ、当たり前のことじゃないか。」という感想が聞こえそうだが、もしそう思った人は唯物論的な思考に慣れているからで、「真理」という概念をこのようには考えない人の方がむしろ多いのではないかと思う。
 例えば『「真理」という言葉は、数学的真理とか物理的真理とかのことで、絶対的真理というような意味で用いられるものである。』という俗説がある。こういう理解と上のように定義した<真理>とはどう違うのだろうか。

 現実の世界と正しく照応している認識が真理だから、真理はア・プリオリに頭のなかにまず成立するわけでもないし、認識それ自体が真理と呼ばれる資格があるわけでもない。真理はあくまで、客体との関係において論じられなければならない。

 なによりもまず、統一された全体としての現実の世界がある。私たちはまず現実の中での活動を通して、その現実の世界のいろいろな個々の部分についての認識を得ていく。その認識には真理もあれば誤謬もある。誤謬を真理と思い違いをしていれば誤りであるが、それを誤謬と知っていれば正しい認識であり、有用である。

 また、個々の認識は現実の無限の世界の一部分のそれであり、さらに認識の主体である私たち自身の有限性に規定されて、それぞれの限界や制約を持っている。しかし私たちはそれらのさまざまな認識を観念的に結合し、個々の認識の限界を超えた新しい認識を得る。この新しい認識が真理であるか否かは結合の仕方いかんにかかっていて、個々の認識が真理でもそれを統一したものが真理とはかぎらない。ときには真理が誤謬に転化する。

 このような認識作用の過程をへながら、われわれの認識は体系化されていく。正しく体系化されたものをわれわれは科学と呼ぶ。哲学もやがては単なる解釈学から脱して、科学になるべきものと期待される。

 この体系的な認識は歴史を経るにしたがって現実的な世界のあり方にますます近接していく(ときには後退させてしまう者もあり、実際にはジクザクした進み方になる。)けれども、最終的には完結することはあり得ない。現実の無限の世界のあり方と認識の有限なあり方との間には常に矛盾が存在するのが当然である。しかし、だからこそ科学としての体系は常に発展進歩するわけである。

 数学的真理や物理的真理は絶対的真理だろうか。エンゲルスは「反デューリング論」でボイルの法則を取り上げて説明しているが、私は数学で説明してみよう。
 平面の幾何学では「三角形の内角の和は180°である」という認識は真理だが、球面の幾何学では三角形の内角の和は180°より大きくなり、その認識は誤謬となる。こういう意味で私たちの得る真理を相対的真理という。「三角形の内角の和は180°である」という認識が絶対的真理と言い得るのは「平面」という条件下にのみである。「絶対的真理」とはこういう意味である。

 上の例から「真理が誤謬に転化」するのは「認識の限界」を逸脱することによるのが分かる。二つの逸脱がある。
 一つは、 「対象のもつ限界を無視して、その限界を超えたところにまで認識の在り方を逸脱させる」誤謬。
 もう一つは「対象や認識のもっている限界を絶対化して、それらは超えられぬのだと逸脱させる」誤謬。

 相対的真理を定義すると「正しさの中にわずかではあるが修正の余地のある誤謬を含んでいる認識」と言えようか。
 また、弁証法的な思考においては、相対的真理の対立物として相対的誤謬という概念も重要である。相対的誤謬とは「正しいものよりも、修正の余地のあるものの方がずっと多く含まれている」認識をさす。

 『相対的真理の総和が絶対的真理になる。』と思っている人も多いのではないだろうか。あにはからんや、「絶対的真理」というのは狭い条件下の真理なのだった。
 あるい形而上学者が頭からひねり出した閉ざされて硬直した体系を「絶対的真理」と呼ぶ人もいる。「究極の決定的真理」を約束したデューリング氏がその典型である。デューリングはエンゲルスの「反デューリング論」によって完璧に論破されたが、「デューリング氏」の再生産はいまだにやまない。
 ほとんどの宗教も「絶対的真理」を競い合っている。この場合は、真理がア・プリオリに頭のなかにまず成立している。

 ではデューリング氏の壮大な体系や宗教の理論は「絶対的誤謬」か。いな、それらは相対的誤謬である。いくらかは真理を含んでいるから、それらは容易には滅びない。誤謬は「常に観念を客体との関わりにおいてとらえながら物事を考え」ていくことによって止揚していくほかはない。
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512 認識論と矛盾論(3)
真理と誤謬
2006年5月28日(日)


 『ディーツゲンの著書には言葉づかいに不正確なところがあり、また理論としてもところどころに混乱があった。マルクスはディーツゲンの著作の原稿をみてそのことを認め、レーニンも具体的にそれらを指摘しているのだが、彼の偉大さを決して否定しはしなかったのである。』
 なぜか。と三浦さんは問うている。
 三浦さんは次のような例をあげている。

 算数の応用問題を10題、宿題としてあたえられた生徒が2人いる。一人は独力で解いたが、二題だけあやまった答を出した。80点である。いま一人の生徒は全然解きかたがわからなかったが、父親に解きかたを教えてもらって、全部正確な答を出した。100点である。結果としては、後者の生徒がヨリ正しい解答を示している。だから、彼のほうがすぐれた生徒である。

 すぐ異論が出るだろう。
 正しい答が多いか少ないかという外面的・現象的な点だけで優劣を比べると誤ることがある。この例の場合は自力で解いたのかどうかという観点から見れば明らかに80点の方の生徒が優れていよう。

 学者の業績や著作も同じである。著作にのべられた真理が多いか少ないかという、外面的・現象的な面をとりあげただけではその優劣は測れない。


 著作は手が機械的にうごいてつくられたものではない。そこには頭脳の 媒介がある。著作にのべられた真理は、現実の世界からくみとってこられたものであるから、著作と現実の世界のあいだには頭脳を媒介とした結びつきがある。真理が多ければ、それだけ現実の世界との結びつきも大きいことはたしかである。しかしそれは、著作者の頭脳が自力で現実からくみとって来たか、それとも他の者の頭脳がくみとったものをもらい受けたかと、直接の関係をもつものではない。ところが、学者としての優劣はこの自力か他力かに関係してくる。



 至極もっともなことだ。前回引用した「資本論・「第2版の後書」の文章の少し前のところに次のような記述がある。


 このようにして、資本主義的生産様式の対立的性格が、フランスやイギリスにおいてすでに歴史的闘争によって露呈され、人目をそばだたせるにいたった後に、ドイツでも、この生産様式は、成熟していつた。他方では、ドイツのプロレタリア階級は、すでにドイツのブルジョア階級よりはるかに決然たる理論的階級意識をもっていた。したがって、経済のブルジョア的科学がここに成立しえそうに思われたとたんに、それは再び不可能になってしまっていた。
 このような事情のもとで、ブルジョア経済学の代弁者たちは二つの隊伍に分かれた。一方の人々、すなわち利巧で金儲け好きで実際的な人々は、俗流経済学的弁護論のもっとも浅薄な、したがってもっともよく成功した代表者であるバスティアの旗のまわりに群がった。その科学の教授的品位をほこる他の人々は、ジョン・ステユアート・ミルに追従して、調和しうべからざるものを調和しょうと試みている。ドイツ人は、ブルジョア経済学の古典時代におけると同じように、その衰退の時代においても、まだ単なる生徒、受売りや追随者にすぎず、外国の卸商からもらってくる小行商人にすぎなかった。



 まるで欧米の学者の受け売りにかまけているだけの学者が多いこの国の現状を描いているようだ。

 また同じ趣旨のことを三浦さんが言っている。『いまの哲学者は、いったい独力で何を発見したであろうか? もしマルクスが現存していたら、「驚嘆に値いする」と賞められるような、立派な研究でも持ち合わせているのであろうか? ディーツゲンは、なめし皮工場の労働者であった。高等教育も受けなかったし、哲学の研究とても仕事の合間に行われたものであった。いまの哲学者は最高の教育を受け、研究によって生活している知識人である。それにもかかわらず、現に学問的にディーツゲンから後退してさえいるではないか。』と。

 さて本筋に戻るろう。
 著作は人間の主体的活動の産物だから、著作の優劣を論じるのであれば産物だけを取り上げるのではなく、活動そのものを検討しなければならない、ということだった。このことから得られる結論は次のようになる。

 一定の主体的条件においては「著作にのべられた真理の多少と学者としての優劣は一致する」という認識は正しいが、ある主体的条件においてはその認識は誤謬となる。

 この結論を論理的に一般化すると唯物弁証法の認識論となる。まず三浦さんが引用しているディーツゲンの論述を読んでみよう。


 真理はある一定の条件のもとにおいてのみ真理であって、ある条件のもとでは、誤謬がかえって真理となる。太陽は輝くということは、真実な知識である。ただし空が曇っておらぬことを前提としてである。まっすぐな棒は、水の流れに突っ込めば曲がるということも、もし視覚上の真理ということに限るなら、右に劣らぬほど真理である。……誤謬が真理とことなる点は、誤謬はそれがあらわしている一定の事実に対して、感覚的経験が保証する以上にヨリ広い、ヨリ一般的な存在を度はずれに認めるところにある。誤謬の本質は、逸脱ということである。ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。(1896年)



 同じ問題をエンゲルスは『反デューリング論』で次のように論じている。


 真理と誤謬とは、両極的な対立において運動するすべての思惟規定と同じく、まさに極めて限定された領域に対してのみ、絶対的な妥当性をもつ。われわれが真理と誤謬との対立を、右に述べた狭い領域以外に適用するや否や、この対立は相対的となり、従ってまた、正確な科学的な表現の仕方のためには役に立たなくなる。しかるにもしわれわれが、この対立を絶対的 に妥当なものとしてかの領域以外に適用しようと試みるならば、われわれはいよいよ破局に陥る。すなわち対立物の両極はその反対物に変り、真理が誤謬となって誤謬が真理となる。(1877年)



 このディーツゲンやエンゲルスの論述と凡百(観念論者や俗流唯物論者の)の認識論との際立った違いは誤謬の扱い方にある。誤謬に満ちた認識論の誤謬の根源は、皮肉にも、誤謬を真理と切り離して誤謬の分析を試みようとしない点にある。
511 認識論と矛盾論(2)
唯物弁証法の発見者
2006年5月27日(土)


 自らあきれもし後ろめたい気持ちでもいるが、私はどの分野でも「チョッとかじっただけ」が多い。たぶん多くの誤解曲解をしているだろうな、と危惧をいつも持っている。その誤解曲解は現在の自らの内実の表象であって如何ともしがたい、が、自らの内実を豊かにすることによって誤解曲解を解消する努力はしようと思う。
 いまさら殊勝なことを言っちゃって! とチャチャが入りそうだけど、やり通せるかどうか心もとないが、「資本論」(岩波文庫版)を読み始めた。冒頭「第1版の序文」の次に「第2版の後書」が掲載されている。この「後書」は示唆に富んだ内容の濃いものだ。その「後書」の中に記憶の片隅に追いやられていた名前を発見した。


 ドイツのブルジョア階級の博学な代表者たちと博学でない代弁者たちは、私の以前の諸著についてやりとげたと同じように、『資本論』をまず黙殺しようと試みた。この戦術がもはや時勢に向かないようになったと見るや、彼らは、私のこの書を批判するという口実で、「ブルジョア的意識を鎮静させるために」処方を書いた。だが、労働者新聞紙上には ― 例えば『人民国家(フオルクスシユタート)』紙上のヨゼフ・ディーツゲンの諸論文を見よ ― 傑れた戦士を見出した。彼らはこの人々にたいして、今日までまだ回答を与えていない。



 この発見がうれしかったのであえて記録したわけだが、またこの発見が三浦さんの次の著書を思い出させてくれた。
 ここから、資料として前提書のほかに「認識と言語の理論第1部」(剄草書房)と「弁証法・いかに学ぶべきか」(季節社)を加える。

 さて、「弁証法・いかに学ぶべきか」は「唯物弁証法は、誰が発見したのだろうか?」という問で書き始められている。哲学者たちは誰でも「マルクスとエンゲルス」と答えるに違いないと三浦さんは言う。しかしエンゲルスの「フォイエルバッハ論」には次のように書かれている。


この唯物弁証法は、爾来われわれのもっともよい道具となり、もっとも鋭利な武器となっているが、この唯物弁証法はわれわれだけが発見したのでなく、注目すべきことには、われわれから独立に、否、へーゲルとさえ関係なしに、ドイツの一労働者ヨゼフ・ディーツゲンによって発見されたのであった。



 さらにマルクスやレーニンもヨゼフ・ディーツゲンを賞賛している。
マルクス
『一労働者の独力の思惟になるものとしては、賛嘆に値いする思想をふくんでいる。』
レーニン
『独力で弁証法的唯物論を発見した、この労働者哲学者の中には、幾多の偉大なものがある。』

三浦さん自身も「ヨゼフ・ディーツゲンはわたしの教師である。わたしはそれを誇りとする。」と絶賛している。三浦さんもディーツゲンと同様、独学者である。なお三浦さんは1989年に亡くなられた。

 さて、レーニンはそのノートや論文にしばしばディーツゲンを記録しているが、ソ連の学者も日本の学者もそれらの文章を引用するとき、ディーツゲンという名だけを抹殺しているという。

 マルクスの「資本論」を無視しようとしたドイツのブルジョア学者やディーツゲンを無視している学者たちの心性の機微は、古田さんを無視し続けている日本の古代学者たちのそれと同じではないかと私は思う。そういえば吉本隆明さんもアカデミックな学者たちには無視され続けている。

 三浦さんは言う。


 マルクス・エンゲルス・レーニンの評価が正しいのか、それともいまの哲学者の態度が正しいのか?
 マルクス・エンゲルス・レーニンはなれ合いの仲間ぼめをやったのか、それともいまの哲学者が、ディーツゲンを理解する能力をもっていないのか?
 レーニン以後、哲学者によってディーツゲンが「死んだ犬」のように扱われているこの事実は、深くつきつめていく必要があると思う。一体どこに原因があって、この評価のくいちがいがうまれてきたかをたぐっていくと、学者はいかに評価すべきか・学問する者の態度はいかにあるべきかという、わたしたちにとって根本的な問題につながっていると考えられるからである。



 実はこの「根本的な問題」についての三浦さんの論考に唯物弁証法の「認識論」の基本的な考え方が書かれている。それを入り口として「認識論」の世界に入っていこうと思う。
510 認識論と矛盾論(1)
レーニンの神格化
2006年5月26日(金)


 吉本さんがレーニンのマルクス曲解を2点あげていた。(第502回、第503回)そして、レーニンのロシア革命が反ユートピアに終わるほかなかったのは、レーニンをはじめロシア共産党の成員に人間としての弱点があったからではなく、理念とその遂行にはじめから誤りがあったからだ、と言っていた。
 ソ連におけるスターリンによる「粛清」という惨劇は、スターリンが冷酷無比で残虐な性格をしていたからではない。日本赤軍による「総括」という惨劇も、彼らの性格に重大な欠陥があったからではない。いずれもその思想を支えている「理論」あるいは「理念」にその淵源を求めなければならない。
 重大な誤謬を含んだ「理論」はさほどに恐ろしい。こうした事件に対して当事者たちの性格のせいにして済ます論者ばかりがマスコミをにぎわすが、全く浅薄としか言いようがない。そのような浅薄な理論からは未来への希望は何にも生まれない。

 ここで「第489回」で書いたことにつながる。
『ロシア革命がスターリン主義へと堕落していく根源的な要因はレーニンにあった。一つは理論上の誤謬である。「レーニン矛盾論の誤謬」が「欠落の理論」を生み、「粛清の論理」へとつながる。これは三浦つとむさんが「レーニンから疑え」でつとに指摘していることだ。この問題は稿を改めて取り上げたい。』

というわけで、今回から三浦つとむ著「レーニンから疑え」(芳賀書店1964年 なんと 42年も前の本だ!)所収の同名の章を読んでいくことにする。

 レーニンが1909年に公刊した「唯物論と経験批判論」に対する三浦さんの評価から入ろう。


当時のレーニンの哲学研究はまだ十分ではなかった。ゴリキーあての手紙にも、「私たちは単純なマルクス主義者です。哲学はよく読んでいません。」とのべられているが、マルクスおよびエンゲルスの著作にもられた哲学思想を十分にくみとるだけの条件を持っていなかったにももかかわらず、同志たちが観念論にまどわされているのを知って、マルクス主義擁護のために立ち上ったのである。ところが官許マルクス主義にあっては、レーニンのこの本はマルクスおよびエンゲルスをさらに前進させたものとして聖書あつかいされている。ソ連の哲学者はつぎのようにのべている。

「レーニンは、客観的に存在する世界の反映論としての弁証法的唯物論の認識論を全面的にしあげた。彼は、認識の歴史的発展過程の複雑な弁証法的性格を示し、絶対的真理と相対的真理の弁証法の基礎をきづいた。」(『哲学教程』)

 事実はこのような信仰的解釈とまったく反対なのである。レーニンは決して「全面的」にしあげていないばかりでなく、後退させているのであり、絶対的真理と相対的真理の弁証法の基礎をきづいたのもエンゲルスであって、レーニンはそれを修正してしまっているのである。



 三浦さんはソ連で体系化されていったマルクス主義を「官許マルクス主義」と呼んで、マルクスとエンゲルスの思想を正しく継承発展させた思想と区別している。
 ここでは2点のことが問題にされている。一つはレーニンの認識論がエンゲルスのそれを修正(後退)させたものであることであり、もう一つは、それにもかかわらずレーニンの理論が聖書扱いされ、そのレーニンその人を神格化してしまったことである。
 第2点については、スターリンがレーニンの神格化に果たした役割とその手法を、三浦さんは次のように記述している。


 このレーニンの神格化には、スターリンが一役買っていた。彼は自分が「レーニンの弟子」であることを、そのもっともすぐれた弟子であることを、一枚看板にしたのである。革命運動におけるレーニンの同志たちが、哲学的論文を書いたとき、レーニンと肩をならべるだけのものを書けなかったことは事実であるが、彼らがレーニンを神格化しなかったこともまた事実である。スターリンは、彼らの哲学的論文にあやまりがあったことと、彼らがレーニンを神格化しなかったことを意識的にむすびつけ、彼らは「反レーニン的」だと攻撃した。レーニンの哲学活動を過大評価しないことと、彼の革命運動への功績を高く評価することとは別の問題である。けれどもソ連の国民が革命の指導者としてのレーニンを崇拝している中で、この「反レーニン的」というレッテルをはることは、「反革命的」ないし「反ソ的」と受けとられるようなムードを生み出していく。スターリンは、かつてのレーニンの同志たちを「反レーニン的」だとよぶ一方、自らを「レーニンの弟子」だとよぶことによって、国民が一方を「反革命的」分子、他方を「革命的」指導者だと拡大解釈するようにしむけ、そこから粛清へと持っていったように思われる。



 「レーニンの弟子」を自認するスターリンは誤謬に満ちたレーニンの認識論をそのまま受け継ぎ、それが粛清を遂行する理論的支柱の役割を果たした。
第1点目の問題、粛清の論理的支柱となったレーニンの認識論がこの稿のテーマであり、それをこれから詳しく読み解いていくことになる。
509 吉本隆明の「ユートピア論」(8)
「システム」を開く
2006年5月25日(木)


 山岸会会員の話から引き出された二つの特徴は、一般社会に囲まれたあらゆるユートピアの特徴として一般化できる。それを吉本さんは次のように言い直している。

(1)
 欲望を叶えられる者とその欲望を求めて手に入れてくる者とは別人で分離されている。

(2)
 一般成員はどんな仕事にたすきわるのも自由だが、ユートピアの経営に直接関わることに無関係の位置に置かれる。

 このような高度な管理システムをどこかに含む組織集団(国家、社会、あるいは部分社会)を『擬似ユートピア』と吉本さんは呼んでいる。そして『わたくしの乏しい知見からは、この擬似性を免れている高度社会は現在まで存在していない。』という。

 ではこの擬似性を回避するのにどのような処方箋がありえるか。


 管理社会の首脳の側面から考えると現在の高度管理に異論をもち、自己の発想、現役割、もしかすると収入と支出の自由と規模から考えて自己修正した管理システムを実現しようとする首脳など存在しないといえるかもしれない。わたしもはじめそう考えてもはやどんな修正意見も先細りになってゆくし、反対や改善にまわることはあり得ないとおもえた。絶望するほかないとおもえた。



 ここでは吉本さんは、現在の状況とは無関係に理想の社会を描くことではなく、上記(1)(2)の二つの枠組みを前提とした場合の処方箋を問題にしているようである。


 どうすればこの擬似性を免れるか。わたしなりにぎりぎりのところまで考えてみた。なぜなら管理システムの高度化は今後電子装置、交通装置の発達と情報科学者たちの無自覚な寄与や関与によって加速加重をかけられることは疑いないからだ。
 科学のもつ中立性は押しとどめることはできないし、またこの科学の中立性は人間の倫理性とは無関係に、どんな資本主義の競争にも社会主義の独裁にも利用され得るからである。率直にいって現在の擬似ユートピアを超える方法は皆無ではないかという絶望感に襲われる。しかしこの絶望感、言い換えれば科学のもつ中立性こそは、また大きな利点であることが見出される。それは絶望の希望ともいうべきものだ。



 科学技術の高度化と併行してますます高度化する管理システムは避けられないという点が、(1)(2)を前提とする一つの理由のようである。


 大なり小なり政治的(つまり社会集団的)理念と論理に関わりをもつ思想ははじめから開かれていなければ「ユートピア」社会を作り得ない。別の言い方をすれば、一般社会のもつ雑種性の自由度と管理システムより優れた管理社会を作り得なければ何の意味もない。つまりは開かれても引き入れる利点をもたないならばどんな口先の当たりがよくても意味をもたない。



 「開かれた社会」とか「国家を開く」とかいう言い方で使かわれている「開く」という言葉は吉本ユートピア論の最も重要なキーワードだ。一般成員の無記名投票によって管理首脳をいつでもリコールできる仕組みを備えることを「開く」といっていたと思う。しかしここでは管理システムを運営する上での理念が問題になっている。開かれた上にさらに『引き入れる利点』を備えるのには何が必要かと問うている。


 管理される者の利益、自由度、志向性、意志をいつも最優先に置くこと。言い換えれば管理制度がそのために必要である当のことを第一義とすることだ。そうでなければ当の管理社会は廃棄されるか改善きれる以外に意味をもたない。
 たった一つの希望とは、繰り返しになるが次のような原則だ。

「すべての管理システムをもっている国家、社会、部分社会は管理される者の利害、健康、自由を最優先すること。これに反する管理システムは破棄されるか、または修正されること。」

 管理者やその下僚は、管理される者の利害得失にたいして等価以上の支払いを求めないこと。言い換えれば管理首脳群と下僚がそれ以上の利得を得たいときは(つまり等価以上の利益を得たいときは)別途の方法によること。



 現存の国家で真に「管理される者の利害、健康、自由を最優先」している国家はもちろんない。せいぜいよくても「管理される者の利害、健康、自由を最優先」している振りはしている。そうでなくては権力を維持できないからそうしている。

 『管理される者の利害得失にたいして等価以上の支払いを求めないこと。』という文が分かりにくい。私は「公務員の給料は一般大衆の給料をうわまわらない。」と同じ意と読んだがどうだろうか。
 『管理者やその下僚』とは、言うまでもなく国家の場合は「政府と官僚」を指す。ここで述べられている理念はコンミューン国家あるいはリバータリアン社会主義社会の要件の一つである。しかしここでは『管理者やその下僚』が固定化されていることを前提としているようだ。したがってこのシステムは階層的である。コンミューン国家あるいはリバータリアン社会主義社会とはこの点で異なる。現状の枠組みとは関わりなく言えば、当番だから仕方なしに『管理者やその下僚』をやろう、というのが理想だ。これも実はどこかで吉本さんが言っていた事だった。

508 吉本隆明の「ユートピア論」(7)
閉じた「ユートピア」
2006年5月24日(水)


 この山岸会会員の話から、私はすぐ「待遇のいい監獄」というイメージを思い浮かべた。

 吉本さんは根本的な特色を2点取り出している。

(1)
『管理組織の首脳がこのユートピアの成立のために会員の等価労働など求めておらず、自己財産かまたは別途利潤を用いていることだ。山岸会の場合、養鶏と卵の販売などが伝わっている。』

 私は「山岸会」という組織があることは知っていたが、その内容については全く知らなかった。インターネットで調べてみたが、なんと山岸会の生産物(たぶん農業の)の年間売り上げは240億円(1991年度)とあった。
 また会員からの財産提供もあるようだ。1996年に「総額2億6000万円余りの財産返還を求める裁判」を提訴した人がいる。

(2)
『労働作業を求めても、欲求を充たしても、会員がそれを方法として習熟し、自分がいつでも組織首脳やその下僚にとって代わる主体的可能性を教えることはない(係りと欲求会員の完全な分離)。』

 山岸会はその組織についての理念を次のように述べているが、その理念は実行されていないことになる。

『会の組織といっても、同じ目的を持った会員同士が自発的に活動を行い、一人でやってもよいのですが、個々別々にやっても効果が薄いから、提携したり協力したり、互いの異なる考えを忌憚なく話し合って(研鑽)一致点を見いだしながら活動を行う上意下達的な組織ではありません。
 ですから本部といっても、意志決定機関ではなく、会員間の意見調整のための連絡機関であったり、個々の実践活動を支援するための世話をする補助的な実務機関であるという性格をもっています。』

 『一般社会に囲まれた閉ユートピア』は山岸会のような方法以外では成立しない、と吉本さんは指摘している。


 欲求はどんなものも叶うが、自分が金銭を手にしてその欲求を遂げることはできない(しない)。それはユートピアの外界を見聞させて、その汚れに染まらせたくないからではない。「役割」を分担させたいからだ。そういうことになる。この「分離」は、外側の一般社会を雑種社会とみなしその内側に「ユートピア」とみなした「社会」や「国家」を作ろうとするすべての管理システムを含む「社会」に当てはまる。
 けれどはじめから一般社会から閉じられた「ユートピア」は成り立たない。それはレーニンのロシア革命のように主宰者主権(集団)の利益を最優先する反ユートピアに終わるほか理路がないからだ。レーニンをはじめロシア共産党の成員が個人利益を優先する弱さをもっていたからではない。つまり人間とはそんなものだからではない。理念とその遂行にはじめから誤りがあったからだ。

 これは深刻な問題を提起する。何となればわたしの考察ではこの山岸会の方式は、現在あらゆる管理社会(「国家」)、部分社会のモデルになっていることがすぐにわかったからだ。大は「国家」(「社会」)から小は思考、宗教、教育の自由化、ユートピア化にいたるまで、大なり小なりこの方式の模倣だといえる。
 例えば管理首脳が下僚を意のままに動かせる「鉛の兵隊」に仕立てれば、すぐにファシズムやスターリン主義に変貌するし、嘘と競争とを激化すれば資本主義の政治に変貌する。これを防ぐ方法は管理制度を変える以外にない。



 「資本主義の政治」を「嘘と競争との激化」というのは、ずばり、核心をとらえていて面白い。

 山岸会では独自の教育機関(学校)も設立している。しかし、これについても「児童生徒への虐待の事実」があり「子どもの人権侵害」が問題にされているようだ。
507 吉本隆明の「ユートピア論」(6)
山岸会
2006年5月22日(月)


(今回から使用する資料は、再び「中学生のための社会科」です。)
 「第461 自由社会(3月26日)」の最後の文を次のように結んだ。

 アナーキズムはヒエラルキー型の政府を否定する。しかし政府に替わる管理システムは必要だ。その管理システムは、「政府レベル」に限らずいろいろなレベルの組織に必要とされるし、現行の政府とは全く異なる性質のシステムだから「政府」と呼ぶのはよそう。端的に「管理システム」と呼ぶことにする。

 今回からこれを引き継いだテーマに移る。上記のことを吉本さんの言葉を借りて言うと次のようになる。


 管理システム・装置は不要なのではない。管理されている者の優先性に反しない限り(つまり使用することか便利な限り)、使用すべきものとおもえる。素朴な原始帰りは、個人としての個人の好みの問題に帰着してしまう。それは個人にとっては自由なものだが、社会としての個人の問題とはなり得ない。


 さすがに、言及すべきことに遺漏がない。
 人間のあり方を「個人としての個人」「性としての個人」「社会としての個人」(観念の問題としては「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」と言っていることに対応する)という三つの基軸で考えていく吉本理論からは当然のことだが、管理システムを全く不要とするような考え(通俗的な意味でのアナーキーな状態)は、「素朴な原始帰り」でしかなく、「個人の好みの問題」としての意味しかない。「管理システム」の問題はあくまで「社会としての個人」の問題である。

 「(管理システムは)使用することか便利な限り使用すべきもの」だということを「国家」に敷衍して言えば、『事務的にあったほうがいいんだという限りにおいて、国家はあったほうがいい』(「社会主義国家体制の崩壊と一般大衆の理念」より)ということになる。

 理想の管理システムのあり方を探っていくことが今回からのテーマだが、その場合、産業経済構成の変化のほかにマルクスの時代にはなかったもう一つ重要な無視できない要素がある。『専門的な情報科学者、電子的な交通装置の技術、装置の進歩』による「管理システムの高度化」である。この現状を踏まえて、現在の社会を「高度管理社会」と、吉本さんは呼んでいる。この高度管理社会が人間の精神に及ぼしている弊害と実際に起こっている精神上の障害について吉本さんは言及しているが、今はそれは割愛する。(いつか稿を改めて取り上げたい。)  さて、吉本さんは、ユートピアと喧伝されている「山岸会」の管理システムを検討することから論述を始めている。


 数年前、偶然に伝説されていたユートピア山岸会の会員と出会って話を聞く機会があった。これはいい機会だとおもって、聞いてみたい関心のあるところをたずねてみた。その肝要なところを記してみる。わたしが知っているのは山岸会がまわりを一般社会に囲まれたユートピアだということだけだった。
質問(吉本)
 もし会員のなかの若い女性が現在の優れた流行の服装(例えばそれしか知らないからコム・デ・ギャルソン)を着てみたいと望んだらどうするのか。

答(山岸会の会員)
 もちろん係りが望み通りのものを求めて着てもらう。欲求はすべて叶えられる。

(わたしはゼイタグ品だからダメという答えを予想していた。)

質問(吉本)
 それぞれの会員はユートピアに叶うためにどんな等価労働をしているのか。

答(山岸会の会員)
 自分の得意な労働をすればよい。掃除が得意な者は掃除、洗濯の好きな者は洗濯、大工仕事の得意な者は大工といった具合だ。

(それでは等価労働にならないのではないか。たぶん経済的に成り立つには主催者は別の等価源が要るはずだ。)

質問(吉本)
 もし会員の子弟が特殊な分野の勉強がしたくて一般社会にしか教えてくれる先生や専門家がいないので、そこで勉強したいといったらどうするのか。

答(山岸会の会員)
 そんな子はいませんよ。

(なぜという疑問を感じたが、会員も反対の意味で疑問を感じたらしい。)

質問(吉本)
 自分の欲しいものは自身で購入したいからその額のお金を渡してもらって買いに行きたいと求められたらそうしていいのか。

答(山岸会の会員)
 係りがいて要求通りのものを必ず購入してくれるのだから不必要です。

(わたしは一般社会に囲まれたユートピアにとってこれは重大なカギだなと感じた。)



 余分な感想を一つ。
 (例えばそれしか知らないからコム・デ・ギャルソン)のくだりに私はチョッとニヤッとしてしまった。理由は二つある。
 一つは私も「コム・デ・ギャルソン」しか知らないこと。私の場合はその言葉を知っているだけで、その中身は知らない。しかもその言葉を知ったのは吉本さんの文章からだった。
 その文章が理由の二つ目である。それは「反核運動」(19842年)をめぐって行われた埴谷雄高さんとの論争であった。その論争の中の一つのエピソード。吉本さんが「コム・デ・ギャルソン」を着て「ノンノ」という雑誌(この雑誌の存在も私は知らなかった)の表紙に載ったことを埴谷さんが非難したのだった。面白い論争(野次馬的面白さだけではなく、本質的な問題を含んでいるという意味でも面白い)だったのを思い出した。
506 吉本隆明の「ユートピア論」(5)
私有と国家管理の問題
2006年5月21日(日)


 「社会主義のモデル」の④についての吉本さんの考えをもう少し詳しくたどってみたい。

 ソ連の崩壊、中国の市場原理の導入などを根拠に、社会主義国家は資本主義国家に敗北した、あるいは資本主義国家が社会主義国家に勝利したという言説が流布している。現在の時代を逆行するような反動的な趨勢はそのよう言説と無関係ではないだろう。
 なぜコイズミやイシハラのような反動が我がもの顔にまかり通ってしまっているのか。右からのものであれ左からのものであれ、社会主義国家は資本主義国家に敗北したという言説に、何を基準にして敗北や勝利を判定しているのか、その「基準」への問いが欠けているからだ。

 一般大衆の生を、その経済的にあるいは文化的にあるいはまた思想的に、どれだけ解放したか。吉本さんの基準はこのようである。私(たち)も理想の社会のイメージもこの基準によって追ってきた。
 この基準から見れば、現存の国家では、社会主義国家より資本主義国家の方がよりましである。「今のところよりましである」ということで、それ以上でもそれ以下でもない。この「基準」をまったく考慮せずに、「資本主義の勝利」だけをことさら言あげしているだけの言説が反動を許している。「反動」とはこの「基準」にてらして反動なのだ。

 吉本さんによる「社会主義のモデル」の④もこうした観点から考えるとき、よりはっきりと了解することができる。

④私有では労働者・大衆・市民の障害や不利益になる「生産の手段」にかぎり、「社会的な共有」とすること

 産業経済機構の国家管理あるいは公共管理が社会主義の必須の条件のように言われている。また先進的な資本主義国家でもすでにその30%~40%が国家管理下にあるという。この点においても社会主義国家と資本主義国家の差は縮まってきているわけだが、どちらも「価値法則を揚棄した社会」という理想のイメージからは違った方向に進んでいるとしか言えない。
 「社会主義国家体制の崩壊と一般大衆の理念」(「マルクス―読みかえの方法」所収)で、吉本さんはこのことを詳述しているのでそれを引用する。(なお、このインタビューは1990年6月に行われた。)


 一般論でいえば、資本主義が勝利したって意味がないけれども、社会主義が一般大衆の解放闘争において世界史的に敗北したとはおもってますね。
 市場原理というふうにみていきますと、もともと、ゴルバチョフでも資本主義の市場に代わっているのが国家の官僚機構だというだけで、別段そんなにちがったものだとおもわないんです。

 問題にしてみているのはそういうことじゃなくて、主として生産手段なんです。生産手段の私有化と国有化あるいは公有化というのがあるでしょう。
 レーニン以降の社会主義国は何をしてきたかというと、国有と公有、あるいは共同所有、コルホーズ,ソホーズというようなものが、先験的に作られねばならないという理念です。だけどぼくのかんがえている社会主義の理念というのはそうじゃなくて、個々の大衆にとって私有であるよりも有利であるという生産手段についてだけ、公有化するというのが大前提だとおもうんです。

 それと関連することで根柢的にいえることは、土地所有というのは私有であるほうがつごう悪いというところだけ、公有でありさえすればいいとおもうんです。あとは私有でいい。私有のほうがよければ私有でいいというのが社会主義の大前提だとおもうんです。私有をみとめればもちろん必然的に市場原理が導入されますね。だから市場原理云々とみるんじゃなくて、私有と国有・公有をどういうふうにかんがえるかというのが基本的な問題で、私的所有のほうが基本になるので、私的所有だったら個々の大衆にとって損である、利益にならないという場合に公有とか部分的な社会所有にすればいいというふうにおもいます。

 つまり、何が社会主義の原理なのかというと、国有あるいは公有が原理じゃないんですね。個々の民衆がどう解放されるかというのが原理なんで、そのほうが都合がよければ私有のほうがいい。究極の理念からいえば全部が私有になって、相矛盾しなければそれが一番いいのです。それが理想の状態、コミュニズムですから。だから市場原理をどこまで導入するか、部分的にどう導入するか、全面的に導入するかというのは、かくべつぼくには資本主義にかえることを意味してるとはおもえないんです。



 何時ごろからだろうか、「左翼」をカタカナ書きで「サヨク」と表記して冷笑する風潮がはびこっている。
 マルクスの思想についても、リバータリアン社会主義(アナーキズムと言ってもよい。)についての、あるいはロールズの思想についても、私はどれもチョッとかじった程度なので、自分をマルクス主義者とか、アナーキストとか、ロールズ主義者(なんていうのはないかな?)とか、とても規定することはできない。いや一般にも、そんな規定はことさら必要ないだろう。しかし、私は「左翼」の一員だとは思っている。私の「左翼」の定義はこうである。

 軸足を一般大衆の「人間解放=自由」のための道筋に置いていること。

 では「右翼」とは? おのずと明らかだろう。
505 吉本隆明の「ユートピア論」(4)
徒労感に耐えるという課題
2006年5月20日(土)


 「価値法則のない社会」は「賃労働のない社会」と言い換えてもいいだろう。もっと言えば「『人間疎外』を止揚した社会」。

 「第503回 5月18日」でコンミューン国家(あるいはリバータリアン社会主義)の要件を4項目あげたが「価値法則のない社会」では当然その一つ「公務員の給料は一般大衆の給料をうわまわらない。」は不要となる。コンミューン国家よりさらに理想的な社会像になる。その真の社会主義のモデルとして吉本さんがあげている要件を別の著書「超西欧的まで」(弓立社)から抜き出してみる。

社会主義のモデル
①賃労働が存在しないこと
②労働者・大衆・市民がじぶんたち相互の直接の合意で、直接に動員できないような軍隊や武装弾圧力をもたないこと
③国家は、存在しているかぎりは、労働者・大衆・市民にたいしていつも開かれていること。いいかえれば、いつでも無記名の直接の票決でリコールできる装置をもっていること
④私有では労働者・大衆・市民の障害や不利益になる「生産の手段」にかぎり、「社会的な共有」とすること

 ③で「国家は、存在しているかぎりは」と保留条件をつけているが、もちろん、いずれ「国家は死滅しなければならない」。それが最終的な理想だ。

 現実の国家はこの理想の社会像からはますます遠ざかっている。まさに『無力感、徒労感、孤立感』が高じるばかりだ。しかし、理想なくしては現実を変えることができないのも真だ。このことをめぐっての吉本さんの論述を抜き出してみよう。少し長くなります。


 現在、資本主義も社会主義も区別なしに進んでいって、集中された富が再び大衆に還元される方法が、いずれにせよ両社会体制が共通にとろうとしている方法だとすれば、いまの世界の体制をおおすじに肯定しながら部分的に異議申し立てをしたり修正を加えていく以外にないというかんがえもあるでしょう。

 また、理想の原型を描くのはムダだから、どちらの体制もとっていく共通の考え方へむかって少しでもよくこしらえることのできるイメージをつくるのが具体的かつ現実的であって、それ以外に無力感を克服することはできないという考え方もあるとおもいます。

 現在のこういった状況のつかまえ方は、大ぎっぱであれば誰も似たりよったりです。ただ、それに対して理想のイメージの原型をどのように構築するか、あるいは理想のイメージの原型に近づかせるために部分的に補修していくことのほうが重大なのか、という岐路に立つとき、はじめてぼくは、現在の思想の状況的なきつさを体験する気がするんです。自分はどのようにそれを耐えるのか、あるいはどこまで耐えてイメージを明瞭にしなければならないのか、ということがいちばん切実な課題になっているんですね。

 (理想の未来国家は)近代民族国家のいくつかの柱を全部否定的にチェックする装置をかんがえた国家だとおもいます。
 こうしたコミューン型のイメージは、現在まで、社会主義国家でも資本主義国家でも実現されていません。これらの国家はむしろ現在、近代民族国家のイメージ内で軍備拡張や権力集中に精をだしている現状です。理想国家としてのコミューン型国家のイメージは、実現されるべきイメージとして固執する価値はあるとおもっています。

 ただ、これに固執することは、現在も個人が単独に頭の中で描きうるだけの現状ですね。どこかの国が、そのコミューン型国家にむかうというキザシはいまのところありません。どこをみても軍隊を増やそうという国ばかりだし、あちこちで小さな戦争をやっているし、人間を国家が管理するところまできていて、やりきれない気持ちはつのるばかりです。でもぼく自身は、描くに値するイメージだとおもっています。観念の中で描こうが、孤立しようが描くに値するイメージです。

 さらにまたぼくは、もっとちがう国家のイメージをつくらなければならないのではないかとおもいます。それは現在の資本主義国にも社会主義国にも追従するものではなく、なおかつ古典近代期にマルクスがかんがえたものともちがって、現在の産業構造の共同体のイメージをふまえられたうえでかんがえられてしかるべきであるとおもいます。それにはまず、各人が知識としてそのイメージをつくりあげる意思が必要でしょう。なぜかというと、マルクスがかんがえたコミューン型の国家は理想だとはおもいますが、あまりに世界の趨勢とかけ離れすぎており、コミューン型国家は、もともと不可能だったのではないかという疑問すら生ずる現状だからです。
 ですから、コミューン型国家は固執するに値するけれども、まったくのユートピアかもしれない。もっとちがう国家のイメージを生みだす必要があるというモチーフは相当重要なことだとかんがえています。

 コミューン型国家の柱のひとつである、軍隊および警察のような抑圧機関はやめるべきであるというイメージは固執するに値するとおもいます。それはたんに守るということだけでなく、要求するに値するものだとおもいます。社会主義国にむかっても資本主義国にむかっても軍隊と抑圧機関の撤廃は要求しなければならない課題だとおもいます。そして、こうした要求をつきつけていく場合、一個の知識人であれ大衆であれ、やはり世界に対して孤立していくことは避け難い運命のようにおもわれます。それと同時に、ある意味ではまったく現実離れしているということになるかもしれないことが前提としてなければならない。したがって、知識が立たされる岐路にいつでも立たされることになるけれども、理想のイメージを退かずに指し示し、そう発言できる権利を保有しておくことが本来的な知識の課題であるともいえるでしょう。



 知識人とは何か。不可避の知的課題を担ってしまった者を知識人という。たしか吉本さんの定義はこのようだった。不可避でもなんでもないことで知識を売り物にして得意になっているエセ知識人がごまんといる。こういう手合いを知的スノッブという。
 私(たち)は知識人からさまざまな知見や示唆や人生の糧を受け取り、それなりに知識人に対して敬意を持っている。が、だれが不可避の課題を闘っている知識人でだれが知的スノッブにすぎないのか、見誤らないようにしたい。


504 吉本隆明の「ユートピア論」(3)
現在のもっとも根本的な問題は何か
2006年5月18日(木)


 「現存する資本主義国家と社会主義国家の違いがなくなってきている」ということは、一つは、産業経済社会への国家の介入の度合いが同じになってきている点に現れている。それはますます接近していくだろうと、吉本さんは論じている。この点について吉本さんは他の著書で詳しく論述しているが、ここでは深く立ち入らない。インタビュー「未来国家のキーワード」からの引用にとどめる。


これらの体制の経済社会をつかまえるばあいの共通のイメージは、企業や産業の共同体、あるいは株式会社組織が高度になって巨大化し、それぞれ独立した国家のようなシステムをもって運営していること、それから経済共同体が運営上危機にひんしたとき、国家が介入してそのピンチを援助したり規制したりすることなんです。
 もうひとつ、独立王国的に企業体がなっていくと、ちょうど政府機関のように、頭脳部みたいなものもあれば手足みたいなものもある。このメカニズムは資本主義であれ社会主義であれ変わっていない。つまり同じ問題に当面しているんですね。

 マルクスやエンゲルスがかんがえた、資本主義の興隆期のように富や権力は資本家に集中するというよりも、現在では国家や産業の管理システムに集中していっているとみたほうがいい様相がでてきました。富の集中が個人や特定の階級に独占的に集積していくことは大きな規模で行われず、それよりシステム自体の方へ富が集約され、そこで管理されている。

 すると、近代資本主義社会の興隆期にえがかれたイメージとはちがった問題がでてきていることになります。つまり、資本主義と社会主義を区別するポイントが、制度のメカニズムの点だけからいうとなくなっていきます。そこにいまの問題があるとおもいます。またそこをつかまえきれないかぎり、これからの社会のイメージはつかめないだろうとかんがえます。



 この現在の社会主義国家と資本主義国家がが向かっている方向に、もちろん、理想の国家は望めない。富(剰余価値)を集積するものが国家であれ企業であれ、その配分がより平等となっていくとしても、それは「マルクスがその原型として描いた社会主義」とは異なる。理想の社会とは『価値法則の揚棄された社会』だと、吉本さんは言う。


 この理想として描かれる価値法則のない社会のイメージは、現在、資本主義国と社会主義国が共にたどっていっている様相とギャップがひらいていく一方です。そうすると理想の社会の原型を描くこと自体が空疎な無力な孤独な徒労ではないかという問題がでてきます。これは、社会的な問題についても、文化現象の中で個人の内面がどうあるかということは無力ではないのか、という問題としてあらわれます。こういう無力感、徒労感、孤立感に耐えてもなおかつ理想社会のイメージを描かなくてはならないのか。ほんとうをいえば、このことだけが現在の問題だとおもいます。

503 吉本隆明の「ユートピア論」(2)
「プロレタリア独裁」の意味
2006年5月18日(木)


 レーニンのマルクスからの逸脱を、吉本さんはもう一つあげている。「プロレタリア独裁」である。
 『理想の未来国家としてイメージを提出されている唯一のもの』として、吉本さんはコンミューン国家を取り上げている。シリーズ「ロシア革命の真相」(第485回~第498回)でその実践例を見てきたが、その国家の基本的な骨格を箇条書きにすると次のようだろうか。

☆軍隊とか警察のような武力・暴力・抑圧機関を撤廃する。
☆管理システム(政府)の構成員(公務員)はいつでも大衆によってリコールすることができる。
☆公務員の給料は一般大衆の給料をうわまわらない。
☆生産手段・生産物は労働者・農民の自主管理にゆだねられる。

 これはいわゆる「国家」(近代民族国家)とは全く違うものであり、コミューン国家という呼び方は矛盾した呼び方になるが、いまはそれは置くことにする。

 さて、マルクスは資本主義から共産主義に行く過程にプロレタリア独裁というのは必須だと言っているが、これを吉本さんは『そのプロレタリア独裁ということと、コミューン型国家への国家の移行ということとはイコールだ』という理解の仕方をしている。それに対してレーニンは「コミューン型国家への国家の移行」をしようとはしないで、「プロレタリア独裁」の不可避性だけを肥大化してしまった。コミューン国家を試みたマフノ運動をレーニンが圧殺してしまったことも私(たち)は「ロシア革命の真相」でみてきた。


 そういうコミューン型国家へ近代国家というものを転換させるには、プロ独裁というのが必要なんだと(マルクスは)いっているので、だからコミューン型国家の形成ということとプロ独裁ということとはイコールだとぼくは理解しているわけです。

 ところがレーニンは、そういう志向性はあったんでしょうが、ちっともコミューン型国家に転換させないで、それでプロ独裁ということを文字通りにこれは不可避なんだというふうにうけとっているから、もうプロレタリアの前衛集団による大圧制ということになっちゃったんで、プロ独裁ということを、片一方だけで、つまり強圧・強制力という意味あいだけで理解しているというのはまったくナンセンスだとおもう。だけどレーニンはそうしちゃったんだから、そこで問題がこじれてしまっているわけですね。



 ロシア・マルクス主義が犯したマルクス曲解のせいで「プロレタリア独裁」と言う概念も、一般に流布されている通俗的な意味では、極悪非道は専制君主の独裁のようなものと、ひどく誤解されたものになってしまっている。そうではなくて、「プロレタリア独裁=コンミューン型国家の形成」と理解すべきだと、吉本さんが強調している。
 <アジア的>という問題も、『(<アジア的>な)感性とか意識構造とか、 …そういうものがのこっている国家ではコミューン型国家への転換が、しやすいのであるか、しにくいのであるか。しやすいとすればどこであって、しにくいとすればどこなのか、それはヨーロッパ国家とどう要素が遠うかということをはっきりさせるべき』問題として「コンミューン型国家」と関連させせて考えられている。

 ところで、この「コンミューン型国家の形成=プロレタリア独裁」ということを、マルクスの時代とは全く異なる現在の経済的・社会的状況下で考える場合、どういう問題点があるだろうか。

 まず、「プロレタリア」と言う概念。マルクスは資本主義社会の隆盛期の真っ只中で、生産手段を持たずに賃労働をしている労働者、疎外され搾取されている人間を「プロレタリア」と呼んだ。このときマルクスはこの言葉を「もっとも発達した資本主義」を典型として使っていたのか、あるいはもっと一般的に無条件の概念として使っていたのか、と言う疑問点を挙げて、吉本さんは次のように述べている。


 いまだったら、飢えて生活の再生産すら不可能であるような貧困から、先進資本主義国の労働者みたいに、たとえば日本のばあいに、平均の貯蓄額が400万円ぐらいあって、90%が中産階級意識をもっている、そういうプロレタリアートもいる。この格差というのは、これからもっと資本主義が発達していけば広がりますよね。そういったことを全部ひっくるめた上で、普遍概念としてプロレタリアートということばが使われたのか、それとも、もっとも先進的な資本主義国だけを扱うというふうにかんがえられていたのか。そのへんどうなっていたのかなという問題が、ぼくのなかにありましてね。

 プロレタリアートという概念は、これはもはや使っても使わなくてもいいんじゃないか。これからますますそうなっていくんじゃないかとおもうわけです。だからプロレタリアートということばのなかで、確かに貧困で明日も飢えるかもしれない人間というのが第三世界とかアジアにはいるわけですが、それとは別に、もっと豊かなイメージで描かなければならないプロレタリアートというのがいて、その広がりをどうとらえるかが問題になってくる。プロレタリア独裁というのが問題になるとすれば、そこだとぼくはかんがえているんです。



 つまり。現在の経済や産業や社会の構造は、「プロレタリア」という単一の概念ではとらきれなくなっていると言っていると思う。資本主義は、マルクスの時代には予想もできなかった段階に入っているという認識が吉本さんにはある。吉本さんはそれを「超資本主義」と呼んでいる。またそれは、管理システムとして、現存する資本主義国家と社会主義国家の違いがなくなってきているという点にも現れているという。
502 吉本隆明の「ユートピア論」(1)
<アジア的>ということ
2006年5月17日(水)


 吉本さんのマルクス理解は初期の頃から一貫して明瞭だ。「マルクスの思想」と「マルクス主義」を峻別している。
 「マルクス主義」とは、「マルクスの思想」をロシア的に(レーニン~スターリンと)展開したものをさし、「ロシア・マルクス主義」あるいは「スターリン主義」と呼んでいる。このマルクス主義に対しては一貫して激しく鋭い批判をしてきている。

 「マルクスの思想」については『今のところ異議を申し立てるところはない。』『優れたものは優れたものとして…それを信じる以外にない。』と手放しの評価をしているが、もちろん『(異議を申し立てるところが)もし見つかったなら、そこは否定すべきであるし、批判すべきであり、それは当然なんだ』という留保付である。そして、スターリン主義の弱点の特質は、実はマルクスの<アジア的>という概念の展開の不十分さに根ざしているのではないかと、最近の問題意識を提起している。

 マルクス思想のその弱点の淵源を吉本さんは、マルクスが「ヨーロッパの近代思想=世界思想」という前提の枠内で思想を展開していた点に求めている。古田さんがマルクスの宗教批判の弱点(第481回 参照)を、マルクスが「キリスト教単性社会」という枠組みを出られなかったところに見ていたことと重なる。


 アジアとかアフリカの問題については、マルクスの展開の仕方は不十分であるとおもっているわけです。マルクスは、…、あくまでもヨーロッパの近代思想の延長線に立ってかんがえを展開していますから、マルクスが<アジア的>というふうにいわざるを得なかった概念というのは、マルクスの中では割合に明瞭にあったとおもうんですが、その展開の仕方はとても不十分だったとぼくは理解しています。共同体論としても、あるいは共同体的所有という問題としても、もっとはっきりさせなければいけない。その中に全部、ロシアの問題も、アフリカの問題もはいってくるだろうとおもうんです。
 そうすると何が根本的な問題なのかというと、…、18世紀以降、西欧の近代思想イコール世界思想であるというふうにいえるから西欧近代思想が世界思想なんで、たとえば18八世紀以前の西欧思想は、西欧思想というだけで世界思想ではないというところに、<アジア的>という概念が世界的な意味でたどれるのではないか。ぼく自身はそう理解します。



 吉本さんは<アジア的>という概念を何よりもまず「共同体論とし
て、あるいは共同体的所有という問題として」重視している。インタービューアーの高橋さんの次の発言から、それをもうすこし詳しく汲み取っておこう。


 吉本さんは前に「アジア的なものについて」と題された講演をされて、<アジア的>なものの中に、ある意味では人類史の理想的なものというのが孕まれている、それと同時に、非常に迷蒙な部分もまたあり、この迷蒙な部分については徹底的に解除されなければいけないとおっしゃっている。これは吉本さんがずっと解明されてきた<天皇制>の問題とも関わってくるとおもうんですが。
 <アジア的>なものの中で救済すべき人類史の理想的な部分というものと、迷蒙として徹底的に解除すべき部分というものが、弁別した上でひとつの歴史概念として取り出し得るのかどうかというのが、ちょっとひっかかるところなんです。私はむしろ吉本さんが迷蒙といわれた部分も含めて<アジア的>なものの思考とか、文化とか、共同体の組まれ方というのは成り立っているんじゃないか、その辺のことを、先ほどの問題との絡みでお聞かせいただければとおもうのですが。



 <アジア的>共同体の組まれ方、さらに言えば<アジア的>所有=共同体所有が理想の共同体のあり方として、どう生かせることができるのか否か、という点が焦点となる。ロシア・マルクス主義がこの点において、一つの踏み外しをしたと、吉本さんは見ている。


 それからいま、高橋さんのおっしゃった<アジア的>ということなんですが、それはどこでかんがえているかというと、これはロシアのマルクス主義が、あるいはレーニンがといってもいいのですが、共同体所有という問題を先験化しすぎた。つまりレーニンは、共同体所有というものを生産手段の社会化とか、もっとひどい場合には国有化といっていますが、そういうことを資本主義から社会主義へ移行する場合に、疑問の余地ない前提のように理解している。けれどもこれはマルクスの思想の曲解だろうとぼく自身はおもうわけです。

 そのばあいの生産手段の社会的な所有というものが、共同体における個々のメンバーにとって利益である限りにおいて、共同体所有とか<アジア的>所有というのは、復元し得る余地があるということで、前提なんかではちっともない。マルクスも前提だというふうにはいってないとおもいます。

 だからぼくは、<アジア的>共同体の組み方とかが弱点だけじゃなく利点として、つまり迷蒙だけじゃなくて、開明的なものとして蘇生できるとすればどこまでできるか、どういうふうにできるかという原則が重要なのだとおもいます。その原則は、個々の成員にとって利益である限りでだけ生産手段は社会化されなければいけない、そこだろうとかんがえています。もっといいますと、レーニンが社会主義イコール生産手段の社会化あるいは国有化というふうに理解しているのはまちがいだとおもいます。



 「社会主義イコール生産手段の社会化あるいは国有化」というレーニンの誤謬が、反発するにしろ賛同するにしろ、そのまま通俗的な社会主義理解となって多くの人をとらえている。この弊害は大きい。
 またもうひとつ指摘しておくと、「共同体における個々のメンバーにとって利益である限りにおいて」という大原則は、アプローチの仕方の違いはあれ、ロールズの「正義の原理」に通じていると思う。
501 ロシア革命の真相:番外編(4)
アナーキズムという曙光
2006年5月15日(月)


 前回の引用文でパルさんは『新たな自由の獲得や社会の変革の実現は、容易なことでは成就しないだろう。それが可能かどうか、正直なところ私にはわからない。』と半ば絶望的な見解を述べていたが、また次のように未来への希望も語っている。


 ある労働者が私に問いかけてきたことがある。お前さんたちはアナキズムの勝利を日頃から口にしているけれども、歴史のなかでアナキストというのはいつだって敗北を余儀なくされてきたのではなかったか、というわけだ。
 ポリシエヴィキとは違って、われわれの願いは目の前の権力闘争に「勝利」を収めることではない。われわれは、ユートピアの実現を追い求めているのだ。たとえてみれば、水平線のようなものだ。ひとつの成果が達成できても、すぐさま新たな目標がはるか彼方にまた立ち現われてくる。

 8時間労働の達成には膨大な量の血が流されねばならなかったが、ともかく8時間労働もアナキストの尽力もあって獲得された重要な成果のひとつだ。弾圧を被りながらも、社会正義と友愛に基づく新しい世界の構築へ向かってわれわれが歩みを進めてきた点は、誰にも否定できないだろう。われわれの営みは宗教ではないけれども、われわれの革命への信条にはある意味で宗教にも似た一面がある。この信条がなければ、アナキストではない。

 アナキズム的な社会主義は、歴史を前進させる風のようなものだ。今日や明日にもアナキズムに勝利がもたらされるということはない。社会は常に公正を追求し続けている。先に水平線になぞらえたように、その限りでアナキズムに完結はない。

 アナキズムはいわゆる「理論」ではない。それはいわば精神に内在する力であり、歴史のなかで生起する自然の営みだ。不正がある限り、その不正を追及し、公正とは何かを問い続ける必要があるだろう。アナキズムというのは、より公正でより人間的なそうした企てのひとつの表現なのだ。混迷を深める現代にあって、なかでも麻薬に手を出しアルコールに溺れる若者たちの世代に、アナキズムは精神的な支柱を提供しうるかもしれない。



 人間解放(抑圧者と被抑圧者ともどもの)のための思潮の主流は、良きにつけ悪しきにつけ、マルクス主義だった。しかしマルクス主義はさらなる人間抑圧しか生み出さなかった。
 いま私はアナーキズムという運動に未来への曙光を見ている。だが、私が誤解していたように、アナーキズムは大多数の人にいまだに誤解され続けているように思う。アナーキズムがいわゆるマスコミにまともに取り上げられることはほとんどなかったと言ってよいだろう。多くの人(私もその一人)にとってアナーキズムに耳目を傾ける機会がなかったのだ。

 さて、そのマルクス主義について、パルさんは次のように言っている。


 今日、誰がマルクス主義を擁護するだろう?
 そんな人間は誰もいない。理由は簡単だ。マルクス主義というのは、19世紀半ばの特定の経済状況のもとに、その経済状況に合わせて生み出された理論であり、すでに効力を失って久しいからだ。マルクス主義では、21世紀のわれわれを取り巻く現象を説明できない。



 ここで私はまた一つ横道に入ることになった。「マルクス主義」とともに「マルクスの思想」をも反故にすることはできないのではないか。

テーマ
 現在の課題としてマルクスの思想はどのように継承されるべきか、あるいは破棄されるべきか。その上で現在の状況を踏まえて、はたして実現を追い求めるに値する「ユートピア」はありえるのか。

 そこで次回から

吉本隆明著「マルクス―読みかえの方法」(1995年、深夜叢書社)所収の
同名の論考(インタビューの記録、聞き手=高橋順一)と
「未来国家のキーワード」(聞き手=「潮」編集部)

を読むことにする。
 実はこの本、「つんどく」したままのものだった。購入10年後の再発見・再会ということになる。思いがけないところで紐解くことになった。無駄な購入ではなかった。とてもうれしい気分だ。

501 ロシア革命の真相:番外編(3)
現在は全体主義の時代だ
2006年5月14日(日)



 1936年のスペインに現出した革命は、東―ヨーロッパ― と 南―就中モロッコ―の二つの方向に拡大する可能性を内包していた。だからこそ、モロッコに執着する人民戦線のフランスも、保守党のイギリスも、ファシズムのイタリアも、ナチズムのドイツも、スターリン主義のロシアも、ヨーロッパ諸国はみなそろってスペイン革命の圧殺にかかったのだった。20世紀は1936年で終わった。私はそう確信している。あの年、過去は一掃され、捨て去られた。



 かくしてスペインはフランコの独裁国家となった。全世界を全体主義国家が席巻する。スターリンのソ連、ヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリア、天皇制による圧制国家日本。
 現在、そのどれもが敗北して姿を消したかのようだが、その亡霊が再び勢いを盛り返し始めている。私は日本以外の状況に全く疎いが、全体主義への傾斜を急速に転がり始めているのは、たぶん、日本だけではないだろう。パルさんは現在のアメリカも全体主義国家だと言い切っている。


 全体主義の勝利は、現代を生きるわれわれの創造的・批判的な精神を根底から破壊してしまった。新たな自由の獲得や社会の変革の実現は、容易なことでは成就しないだろう。それが可能かどうか、正直なところ私にはわからない。
 以来、政治的にも経済的にも自由主義は敗北し、全体主義の時代が到来したのだということができる。なるほど、確かにナチズムは崩壊した。だが、ヒトラーが推奨した国家システムは実質的にスターリンのもとで完成を見る。敗北したのはヒトラーだけではない。英米の自由主義も敗れ去ったのだった。ソ連が消滅して今では唯一の超大国となったアメリカが看板に掲げる「民主主義」とやらは、むろん虚構の域を出ない。世界は全体主義の圧力に呻吟している。

 「9・11」以降われわれの眼前で生起している事態には際立って深刻なものがある。アフガニスタン関連の報道は、そのほぼすべてがアメリカの全体主義の主導のもとに、もっぱらその自己正当化の目的のためにのみなされている。いずれ、スペインやイタリアからも大量の若い兵力がヨーロッパを遠く離れた戦場に投入されねばならない日がやって来ないとも限らない。すべては全体主義国家アメリカの利益に奉仕するために、だ。何とも馬鹿げたことではないか。



 この対話が行われた日付は2001年12月となっている。2003年3月にアメリカはイラクへの侵攻を開始した。スペインやイタリアの兵士も駆り出されている。パルさんの危惧は現実となっていった。

 ここで一つ思い出したことがある。

『自由経済の中心であり、いざとなれば身を賭して民主主義を守る米国である。』

 あきれて開いた口がふさがらなかった。若宮啓文という朝日新聞の記者の「平和と繁栄をどう創る」という論文(4月23日付朝刊)の一節だ。こんな平板で皮相なアメリカ理解をもとに国際政治問題を論じている。この人、肩書きは論説主幹だそうだ。「朝日」という自称進歩派新聞の論調全体の知的レベルを示す象徴的な文章だ。
500 ロシア革命の真相:番外編(2)
ロシアとスペインを結ぶ2本の糸
2006年5月13日(土)


 ロシア革命とスペイン革命を結ぶ糸が2本ある。スターリンという毒蜘蛛が吐き出した忌まわしくどす黒い糸。闇の中に封じ込まれているが、リバータリアンを結ぶ希望の糸。

黒い糸
 ボルシェヴィキ(ソ連)がスペインにおいても「革命の裏切り者」の役割を担ったことはよく知られている。もうずいぶん昔になるが、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を歯軋りしながら読んだことを思い出した。

 さて、米田さんとバスさんの間で、スペイン革命を取材したソ連の二人の記者の運命が語られている。
 ソ連の記者たちは本国の厳重な検閲体制のもとでスペインの情勢を報じなければならなかった。が、そうしたなかでもスターリンは、スペインへ行って真の革命の実態を目の当たりにしてしまった記者の存在を恐れた。「プラウダ」紙の特派員ミハイル・コリツォフはソ連に召喚された上、スターリンによって粛清されてしまう。そして同じ時期に、やはりスペインを見た「イズヴエスチヤ」紙の特派員で作家のイリヤ・エレンプルグはスターリン独裁下を生き延びている。

 二人の記者の運命を分けたものが何であるかは、この対話では触れられていないので分からないが、スペインの「真の革命」を目の当たりにしてしまったために抹殺されたのは、もちろん、コリツォフだけではなかっただろう。スペインで起こっていた「革命」への視点は闇に葬られていった。

希望の糸
 パスさんの証言。


 コリツオフもエレンプルグも、ソ連の厳重な検閲体制のもとでスペインの情勢を報じなければならなかった。私は1936年のスペインで本当は何があったのかを、一切の制約なしに書いた。あのとき、スペインでは本当は何が起こっていたのか? ほとんどの歴史家たちが無視してきたことを、つまり「革命」の真実を、『ドゥルーティ』という書物を通じて描いてみせたのだ。歴史家たちはおおむね「戦争」のありさまを伝えてきたが、「革命」にはほとんど言及していない。もっともなことではある。革命を実行したのは、われわれアナキストだったのだから。

 ソヴエト・ロシアではアナキストは徹底的な迫害にさらされており、その大半が殺されていた。アナキストには「頭の狂った連中」だとか、「匪賊」といった勝手な烙印が押されてもいた。だが、同時代にありながらも特異な歴史的環境のもとに、スペインではアナキズムがプロレタリアートの圧倒的多数の支持を獲得していたのだった。ポリシュヴイキのロシアでは徹底的に蔑まれていたアナキズムが、だ。

 スペイン革命が連合主義の原理に則り、労働者自主管理の営みを通じて提起した最も重要な点のひとつは、最も有力な集団を構成していたにもかかわらず、スペインのアナキストたちが決して独裁には走らず、革命のさなかにあってもなお他の政治勢力の意向を尊重したこと、他の政治集団の意志の表明を妨げなかったことにある。この点は幾重にも強調しておきたい。



 スペインでも「労働者自主管理」を根幹とした自由社会の建設が試みられていた。これをパスさんは「連合主義の原理」といっているが、「リバータリアン社会主義」と全く同意であることは明らかだ。「真のロシア革命」と「真のスペイン革命」が結ばれるのは必然だ。


米田
 労働者民主主義への回帰を求めた1921年のクロンシュタットの水兵の反乱の鎮圧をもって、ロシア革命の精神は死に絶えた、と評する見解もあります。しかも、その反乱の鎮圧を指揮したのが他でもないトロッキーであったわけですね。その彼も、最後はメキシコで暗殺される。革命を見た人間、いや革命の死をも見てしまった人間は、こうしてほとんど抹殺されていきました。

 20年代の半ば、パリに亡命していたドゥルーデイと友人のアスカーソが、やはりポリシエヴィキのロシアを追われていたウクライナのアナキスト、ネストル・マフノをその安宿に訪ねるくだりは、『スペイン革命のなかのドゥルーティ』のなかでも非常に印象的な場面です。

アベル・パス
 あのころのパリは、世界中からの亡命者たちの坩堝だった。なかには、ファシズムの台頭を嫌ってムッソリーニのイタリアを逃れたアナキスト、カミッロ・ベルネリもいた。1920年代のスペインにはイタリアの独裁者の亜流であるプリモ・デ・リベーラが君臨していたから、もちろんピレネーの南からやって来た亡命者も多かった。そんなスペインのアナキストたちの間では、裏切られたロシア革命の生き残りとして、グリヤイ・ポーレにコミューンを築いた不屈のゲリラ戦士、あのネストル・マフノは半ば伝説的な存在だった。ドゥルーティとアスカーソのふたりがそんなマフノに会いたがっていたというのも、もっともなことだろう。



 ドゥルーティとアスカーソはマフノに会えたのだろうか。米田さんが次のように語っている。


 ドゥルーティらと対面したおり、マフノはレーニンとトロッキーの前にポリシエヴィキのロシアでは自分たちは屈したものの、イベリア半島ではアナキズムが勝利する可能性がある。機会に恵まれれば自分もスペインへ行って武器を取るのにやぶさかではない、と語っています。残念ながらマフノの死によって、その夢は実現されずに終わりますが、ウクライナのアナキストの姿勢には、敗れてなお盛んな、既存の社会秩序・資本主義体制への徹底した抗戦の意味が込められていたように見受けられます。

499 ロシア革命の真相:番外編(1)
<革命>への情熱
2006年5月12日(金)


(『「良心の自由」とは何か』に戻る予定でしたが、またまた気まぐれ、もう一つ横道に入ります。)

 店頭でパラパラ眺めただけで、未知の人の本を買うことはほとんどない。本との出会いを語る本に出合って、そのほとんどない事をした。

米田綱路著「はじまりはいつも本」(パロル舎)

 さまざまな本の著者との対話(インタビュー)を集めた本で、この本との出会いを幹に、さらに未知の著者、未知の本、未知の問題との出会いの枝が期待できそうだ。これがこの本を衝動買いをした理由だった。この絶望的な状況の中で少しでも多くの曙光と出会いたい。たぶん、私は明るく絶望するための慰藉を求めている。

 最終章近く「<革命>への情熱」という項目があった。目下の関心事の一つなので、それから読み始めた。なんと、ほんの少しだけど、パリのマフノ氏の消息に触れることができた。全体とても刺激的な対話で、いろいろと考えさせられること、示唆を受けることだあった。紹介しようと思う。

 アベル・パスという人の著書『スペイン革命のなかのドゥルーティ』(渡辺雅哉訳、れんが書房新社、2001年)をはさんでの、米田さんとアベル・パスさんとの対話だ。どちらも未知の人だったので、まずその略歴から。

米田綱路
1969年奈良県生まれ。
大阪大学文学部美学科、同大学院言語文化研究科修士課程修了。
「日本経済新聞」記者、書籍編集者を経で2000から03年まで週刊書評紙「図書新聞」編集長。現在、同紙スタッフ・ライター。
20世紀ロシア・ドイツを中心とする精神史を書きつぐ。編著に
 『語りの記憶・書物の精神史』(社会評論杜2000年)
 『抵抗者たち証言・戦後史の現場から』(講談社、2004年)
がある。

アベル・パス
本名デイエゴ・カマーチョ。
 1921年、スペイン・アンダルシア東部、アルメリアの貧しい日雇い農の家に生まれ、バルセローナに育つ。
 紡績工場の見習いとなった35年、14歳でアナルコサンディカリスト労組CNT (全国労働連合)とリバタリアン青年団に加入。
 36年7月に始まった内戦は、後の人生を大きく左右する決定的な経験だった。フランコ軍がカタルーニヤを制圧する直前の39年1月、多くの同胞に混じって辛くもフランスに脱出。
 42年、スペイン国内のリバタリアン運動への合流を決意し密かにピレネーを越えたが、同年末にバルセローナで逮捕され、以後のおよそ10年間をフランコ体制下の獄中に失った。
 53年の出獄後、改めてフランスへ亡命。フランコ死後の77年、スペインへの帰還を果たす。


 アベル・パスさんが自ら語る言葉で、その人となりや生き方や執筆姿勢を知っておこう。

「1936年を語る証言者」としての自負。


 当事者や証言者の語る内容は、自ずと記憶の改竄の危うさを免れない。
 その点、私は幸運だったと思う。一般のスペイン人を呪縛したフランコ体制への恐怖を肌身に感じることがまったくなかったのだから。フランコ軍がバルセローナへ突入する直前の1939年初頭にいったんフランスに逃れた後、私は 42年にスペインに潜入したところを逮捕・収監された。獄中では自分を偽る必要も、アナキストであることを隠す必要もなかった。ところが、巷では誰もが「自由」を失うことへの恐れから独裁に迎合し、フランシスコ・フランコが並べ立てた「うそ」を「真実」として受け入れる以外に生き延びる術はなかったのだ。自分はそんな不安とはおよそ無線だった。独裁者が国民に植えつけた恐怖心から自由に、1936年を語りうる証言者というのは決して多くはない。この私は、そんな数少ない人間のなかの一人だと自負している。



 この国の民衆が『「うそ」を「真実」として受け入れる以外に生き延びる術はなかった』悲劇的な時代から開放されてからまだ60年ほどで、またもやそのような状況を作りつつある。2度目は喜劇だ。

アベル・パルさんの『「歴史家」ではない歴史家』という自己規定。


 自分は言われるような「歴史家」だとは思っていない。アカデミズムの「歴史家」は、象牙の塔のなかで史料や書物をひもといてはあれこれと解釈をほどこし、思案しているらしいが、あんな環境のもとで生み出されているものは歴史ではない。過去を再構成し、歴史を本当の意味で把握する仕事は、アカデミズムの連中には不可能だ。

 本当の「歴史家」の名に値する人間であれば、すべてに通じていなければならないだろう。最初の『ドゥルーティ』を書き上げるまでに10年の歳月を費やしたが、私は正規の教育はほとんど受けていない。11歳から2年ばかり、初等学校に通った覚えがあるだけだ。だから、いわゆる「歴史家」たちのように基礎的な学問的訓練を受けているわけではない。
 たとえば、『ドゥルーティ』を書き進めるうちに、経済の問題を扱う必要に出くわしたことがある。しかし、経済の細かなことなど自分は何も知らない。まったくの素人だった。そこで、いっとき執筆を中断したうえで、経済書を相手にしばし格闘しなければならなかった。そんな作業の繰り返しが、私の本の中身に厚みを与えている。心血を注いで完成させた『ドゥルーティ』は、ただの評伝ではないつもりだ。
 ついでに言い添えておけば、スペインのアナキストはほとんどみなそろって独学だった。なにせ家計を助けるために、われわれは物心のつくころにはもう働きに出なければならなかったのだから。

 歴史叙述に挑もうという者には、対象への充分な愛着がなければならない。アカデミズムは「客観性」を旨とするが、干からびた文書の束が常に何ごとかを語り、真実を学んでいるというものでもないだろう。ありていに言えば、自分はその手の「客観性」には関心がない。まったく逆だ。絶えず情熱を傾けて私はタイプライターを打ち続け、『ドゥルーティ』を書いたのだ。



 象牙の塔に立てこもっているだけの学者の愚劣さはいやというほど見せ付けられてきた。どういうわけか、私が今までの出会ってきた信頼にたる知識人には独学者が多い。
498 ロシア革命の真相(15)
第三革命:「マフノ運動」(5)
2006年5月11日(木)


 マフノ運動を支えた思想(以下、マフノ主義よ呼ぶことにする。)とその実践について、もう少し詳しい記述(アナーキズム「FAQ」の)を読んでこのシリーズを終わることにする。

マフノ主義の基本的姿勢
 労働者と農民の自由は彼等自身のものであり、どの政治団体からもどんな制限も受けるものでない。自分たちに適しており望ましいと思うように行動し、自分たちの組織を作り、生活の全面でお互いに合意しあうこと、これら全ては労働者や農民自身に任せればよい。マフノ主義者にできるのは支援することと、相談にのることだけだ。どんな状況下でも、彼等を支配することはできないし、そんなことを望んではいけない。
 従って、マフノ主義者は自分たちが解放した町と都市に政府を樹立することはなかった。自由ソヴィエトを創設し、労働者・農民がそれを運営した。

アレクサンドロフスクの例
 マフノ主義者はこの都市を解放すると、即座に労働者に会議に参加するように呼びかけた。労働者がこの都市の生活を組織し、自分たち自身の力と自身の組織で工場の機能を編成するように提案された。
 最初の会議の後、すぐに次の会議が行われた。労働者による自主管理の原則に従って生活を組織するときの問題点が吟味され、労働者大衆によって活発に議論された。労働者大衆は皆、自主管理の考えを最大の熱意を持って歓迎した。
 鉄道労働者が第一歩を踏み出した。彼等は、この地方の鉄道ネットワークを組織する責任を持った委員会を組織した。この段階から、アレクサンドロフスクの民衆たちは、自主管理の諸機関を創設するという問題に組織的に目を向け始めた。

 アレクサンドロフスクにおいて、ボルシェヴィキはマフノ主義者に互いの活動範囲について提案してきた。ボルシェヴィキのレヴコム(革命委員会)が政治的業務を担当し、マフノ主義者は軍事業務を担当すればよい、という提案である。マフノはこの提案に対して次のような辛辣な批判を投げ返している。

『労働者に奴等の意向を押し付けるなんてやめて、もっとまともな仕事をしに行ったらどうだ。』

 同時に、マフノ主義者は自由農業コミューンを組織した。農業コミューンは数は多くなく、少数の人々だけの参画だったが、最も素晴らしかったことは、貧しい農民だけでこうしたコミューンを作っていたことだった。マフノ主義者は農民にいかなる圧力も加えず、自由コミューンの思想を宣伝することだけに自分の役割を限定していた。

ボルシェヴィキの干渉
 このように、マフノ主義者は革命の発展・軍事活動・社会政策に関する議論に全住民が参加するようにした。彼等は、政治的・社会的問題だけでなく自由ソヴィエト・労組・コミューンといったことを論じるために、労働者・兵士・農民の代理人たちの会議を何度となく開催した。

 1919年4月にアレクサンドロフスクの農民・労働者・反政府活動家が第三回地方会議を開催しようとしたとき、あるいは1919年6月にいくつかの地方で臨時会議を開催しようとしたとき、ボルシェヴィキはこれらの会議を反革命だと決め付け、法律に違反しているとして集会を禁止しようとした。
 マフノ主義者は、これらの会議を開催することでボルシェヴィキに応じ、次のように問うていた。

『数人の自称革命家が作った法律など、自称革命家よりももっと革命的な民衆全体を追放できるようにする法律など、存在しうるのか?』

『革命が防衛しなければならないのは誰の利益なのか?党の利益か?それとも、自分の血で革命を動かしている民衆の利益なのか?』

 マフノ自身は次のように述べていた。

『自分たち自身の根拠で会議を招集し、自分たちの事柄を議論することは、労働者と農民が持つ不可侵の権利であり、革命によって勝ち取られた権利だと思う。』

 さらに、マフノ主義者は言論・思想・出版・政治結社の自由という自由社会の原理を十全に採用した。マフノ主義者が占拠した全ての都市や町で、彼等は、あらゆる禁止事項を撤廃し、ボルシェヴィキ政府によって報道機関と政治組織に課せられていたあらゆる制限を破棄し始めた。
 マフノ主義者が自由ソヴィエトに課した唯一の制限は『民衆に対する独裁を強制しようとする「革命委員会」の形成を禁止する』ことであった。
 つまりマフノ主義者はボルシェヴィキによるソビエト改悪を拒否し、代りに『権威や独断的法律のない、労働者の自由で完全に独立したソビエト制』を提案したのだ。彼等は次のように宣言した。

『労働者自身が、自分のソヴィエトを自由に選ばねばならない。ソヴィエトは労働者自身の意志と願望を実行するのである。つまり、支配するソヴィエトではなく、<行政上の>ソヴィエトなのである。』

 マフノ運動が目指した自由社会は、所詮は実現不可能な「ユートピア」に過ぎないだろうか。

 「アナーキズムFAQ」は労働者による自由のための闘いを次のように列挙している。私(たち)の知らない闘いがまだまだあるに違いない。

パリ=コミューン(1871)
ヘイマーケット事件(1886)
イギリスにおけるサンジカリスト叛乱(1910-1914)
メキシコ革命(1911-1917)
イギリスにおける職場代表制(ショップ=スチュワード)運動(1917-21)
ロシア革命(1917)
ドイツ革命(1919-21)
スペイン革命(1931)
ハンガリー動乱(1956)
キューバ革命(1959)
1960年代後半の「就労拒否」闘争(特に1969年イタリアの「熱い秋」)
ポルトガル革命(1974)
英国の炭鉱ストライキ(1984-85)
英国の人頭税反対闘争(1988-92)
フランスの1986年と1995年のストライキ
80年代と90年代のイタリアのCOBAS運動
21世紀初頭のアルゼンチン叛乱における民衆集会と自主管理型職場占拠

『革命と大衆闘争は「虐げられた者の祝祭」である。その時に、普通の人々が、自分のために行動し始め、自分自身と世界の両方を変え始めるのだ。』
497 ロシア革命の真相(14)
第三革命:「マフノ運動」(4)
2006年5月10日(水)


 マフノ運動がどのようにしてつぶされていったのかを追ってみる。
 最強の反革命軍=デニキン軍はイギリスやフランスの連合軍から多くの武器弾薬タンク等を支給されて、新たに大攻勢に打って出た。マフノ軍は弾薬に欠乏していた。マフノはそれをモスクワ政府に要求していたが、モスクワからはなんの返事もなかった。白軍はウクライナをほしいままに蹂躙した。

 それに乗じて、トロツキーの赤軍がマフノを攻め始めた。

 マフノ軍は白軍と赤軍との挟撃を受けて、ガリシア方面にまで退却した。数千の農民家族がその財産と牛馬とを携えて、マフノ軍のあとに従った。この大移住軍は、900㎞余りの戦線の間を不断に戦闘を続けながら4ヶ月の間さまよい歩いた。

 2重の裏切者グリゴリエフの白軍は1万ほどの勢力を持っていて、ウクライナの諸都市を占領していた。そしてグリゴリエフはその勢いをもって、またもマフノと結びつこうとした。
 1919年7月、アレキサンドリアに近いセントヴォ村で、革命的パルチザンの大会が開かれた。マフノはグリゴリエフをその大会に招いた。そしてその席上、マフノはグリゴリエフの反革命的罪悪をあばいて、自らの手でグリゴリエフを銃殺してしまう。

 1919年9月26日、マフノ軍はそのあとを追ってきたデニキン軍とペレゴノフカ村で一大決戦を試みた。その決戦でデニキン軍の砲兵主力と前衛隊を壊滅し、その本隊を無力化した。

 1920年1月までにマフノ軍はウクライナのデニキン軍をまったく独力で打ち破った。

 するとボルシェヴィキ軍はふたたびウクライナに侵入して、マフノ軍に戦いを仕掛けた。しかしその間に、またしても反革命のポーランド軍とウランゲル軍とが起ち上がった。マフノ軍はまたまた白軍と赤軍との間に挟まれた。

 ボルシェヴィキ軍はいたるところでウランゲル軍に敗北した。メリトポル、アレキサンドロフスク、ベルディアンスク、シニエルニコヴォ等の諸都市を占領され、ドネツ河畔の全石炭鉱区を脅かされるまでにいたった。その結果マフノ軍に和睦を申しこんだ。

 マフノ軍がその全力をつくしてクリミヤの奥深くにまで転戦し、ウランゲル軍を完全に打ち破った時、モスクワ政府は三たびまたマフノに赤軍の大軍を向けた。

 1921年の夏、マフノは数個師団の赤軍騎兵にとりかこまれてルーマニアの国境にまで追われ、ルーマニア政府のために武装解除されて投獄された。危うくモスクワ政府に引き渡されようとしたが、1922年の春ルーマニアをのがれ出た。しかしこんどはポーランドの官憲に捕えられてしまう。

 ソヴィエト政府は、マフノを強盗殺人の刑事犯人として、ポーランド政府にその引渡しを執拗に迫った。それが受け入れられないと手をかえて、マフノの同志と称するスパイを送り、マフノがポーランドに革命を起こす陰謀を企てていたという密告をさせた。

 『そして近くマフノはこのいわゆる陰謀罪の被告として裁判されようとしている。』という文で、大杉さんのマフノの事績を紹介する記事は終わっている。
496 ロシア革命の真相(13)
第三革命:「マフノ運動」(3)
2006年5月9日(火)


 ソヴィエトの権力を簒奪して中央集権独裁を布石していたボルシェヴィキ政府がマフノ運動と相容れないのは明らかだ。ボルシェヴィキ政府軍(赤軍)とマフノ軍はともに反革命軍(白軍)や外国軍と戦ていたが、協力関係はなかった。
 しかし、反革命のデニキン軍の脅威が大きくなった1919年2月にマフノは、ウクライナには入ってきたボルシェヴィキ赤軍の申し入れを受け、初めて共同戦線を組むことにした。マフノ軍は今まで続けてきた南方戦線を受け持った。
 ボルシェヴィキ政府は、マフノ軍の協力を乞いながら、その条件である軍需品の供給を充分に果たそうとしなかった。

 ところで、ペトリュウナ反革命軍が壊滅したとき、グリゴリエフという将軍が配下の兵と武器とを携えてボルシェヴィキ軍に投降していた。ボルシェヴィキ政府はグリゴリエフにルーマニア戦線につくことを命じたが、それに応じないでグリゴリエフは再び反革命の旗をあげた。これがボルシェヴィキ政府のマフノ軍に対する恐れを増幅させた。マフノ軍とグリゴリエフ軍の接近を恐れたのだ。マフノ軍が白軍と手を結ぶなどありうるはずがない。ボルシェヴィキの猜疑心はそのような自明なことまで見誤らせる。

 しかしボルシェビキ政府がマフノを恐れる最大の理由はそれではない。マフノはボルシェヴィキと共同戦線は組んだが、社会革命についてのその思想は少しも変えなかった。マフノ運動は依然として着実にその成果を上げつつ進行していた。


 その民衆は労農階級の社会的独立の原則の上に立って、モスクワ政府が派遣したその代表者の権威を少しも認めなかった。彼らは彼ら自身が組織した機関のほかの何ものにも責任をもたなかった。彼らには彼ら自身の地方ソヴィエトがあり、数県にわたる全地方の革命委員会があり、またソヴィエト連合の大会もあった。現に彼らがその独立を始めて以来、1919年1月、2月、4月の三たびこの大会が催された。
 モスクワ政府は民衆のこの自主自治を許すことができなかった。「労働者の解放は労働者自身の仕事でなければならない」というマルクスの言葉は、また「ソヴィエトにいっさいの権力を」というレーニンの言葉は、もともと国家主義のマルキシズムの真赤な嘘なのだ。マルキシズムは民衆が自分で自分の運命を創っていくことを決して許すものではない。



 1919年5月5日、共和国防御委員会特別使節カメネフらがマフノ運動の中心グウライポリエ村にやってきて、ただちにそこのソヴィエト連合の解散を要求した。マフノもソヴィエトの委員たちもまた農村の代表者たちも、このような要求は革命労働者の権利侵害であるとして、カメネフらと討議することすら拒否した。

 もしも、と言ってもせんかたないことだけれど、もしもボルシェヴィキ政府がマフノ運動に学んで、「真の」ソヴィエト連邦へと革命の方向を正しく修正していたら、と思わずにいられない。
 ボルシェヴィキが「国家の死滅」へのステップを踏み出さなかった思想的な淵源を、吉本(隆明)さんはレーニンの『唯物論と経験批判論』の理念哲学にあると指摘して次のように述べている。


 レーニンのこの理念哲学はロシア革命政府が支配権を確立した後、ただちに事務処理機関と人員も残してレーニン政府の支配権を解体する手続きを踏まなかった理念的根拠である。ましてやスターリンに至っては、社会国家主義としてファシズムの国家社会主義との双生児にまで転落した。世界的にも国内的にも資本主義的な金融産業制度をどう国家主義に結びつけるかの遠いだけしか残らなかった。(吉本隆明「中学生のための社会科」)



 多分ブレスト=リトウスク条約締結のとき(1918年)にボルシェヴィキ政府の支配権は確立した。その時点で『ただちに事務処理機関と人員も残してレーニン政府の支配権を解体する手続きを踏』むべきだった。つまり「国家を死滅」させる手続きの第一歩を踏む出すべきだったのだ。
495 ロシア革命の真相(12)
第三革命:「マフノ運動」(2)
2006年5月8日(月)


 マフノ軍の活躍を追いながら、マフノ運動が遂行した社会革命はどのような社会システムを目指していたのかをみていこう。

 マフノが率いていた軍(パルチザン)は反革命軍(いわゆる白軍)や近隣列国の干渉(ロシアへの侵入軍)と最もよく戦った軍であった。マフノ軍はさらにボルシェヴィキ政府とも戦わねばならなかった。ここでもボルシェビキ政府の狡猾にして卑劣な「犯罪的愚鈍」を見ることになるだろう。

 大杉さんはネストル・マフノの事績を「マフノはことし(1923)33の一青年だ。」と書きはじめている。マフノの誕生日は1888年10月26日。大杉さんのこの論文の執筆月日は1923年8月10日となっている。マフノは35歳だったようだ。いずれにしても「マフノ将軍」という呼称から受ける印象とは違い、まだ青年だった。
 1921年にはマフノはすでにウクライナを追われてルーマニア獄中にあった。1922年にはルーマニアからポーランドに逃れたが、そこでも捕縛・投獄されている。つまり、大杉さんがこの論文を執筆しているとき、マフノはポーランドの獄中にあった。その後の経緯は詳らかでないが、マフノは1934年7月25日パリで病死したという。

 この稿は大杉さんを語る場ではないが、この年の大杉さんのことを書きとめておく。
 大杉さんはヨーロッパへ密出国していたが、5月パリ郊外で演説中に逮捕され、フランスを追放されて7月に帰国。そのときのヨーロッパ旅行中に入手した資料をもとに「無政府主義将軍」を書いたのだろう。
 この年の8月に長男をもうけている。マフノにちなんでネストルと名づけた。薄幸の子で1年後に病死している。
 9月1日に関東大震災が起こる。9月16日、弟への見舞いの帰路、同行した伊藤野枝さんと甥の橘宗一くんともども憲兵隊に拘引・虐殺された。大杉さん38歳、野枝さん28歳、宗一くん6歳だった。

 さて、マフノは貧しい農民の子として生まれた。7歳の頃から農家の手伝い、小作人などをして働いた。受けた教育は小学校1年間だけだった。

 1907年
 18歳。無政府主義テロリストとして憲兵と数名の警察官とを暗殺し、捕えられて終身懲役の刑に処せられる。獄中では歴史や自然科学や政治学や文学などを熱心に独学した。

1917年3月1日
 2月革命による政治犯の釈放でに出獄する。
 釈放後すぐその郷里グウライポリエ村で地方ソヴィエトや労働組合を組織して、農民や労働者の間で働いた。
 夏には、地主からその土地を奪いとる農民の革命運動の中心となった。

 1918年
 ドイツ軍とオーストリア軍がウクライナを占領した時、6人の同志と一緒に、武器をとってそれと戦いながら、タガンログやロストウやツアリスティンの各地を走り回った。
 6月、グウライポリエに帰り、そこにパルチザン軍を組織。ボルシェヴィキ政府との間の条約のもとにウクライナに軍政を布いていたオーストリア軍や、スコロバドスキーの反革命軍をおおいに悩ませた。


 このパルチザン軍は、かくして反革命軍や外国軍と頑強に戦いながら、また猛烈に地主らとも戦った。そして瞬く間に、地主どもの数百の家を襲い、また数千の敵軍を倒した。マフノの大胆不敵と、その神出鬼没の行動と、その軍略的才能とは、敵軍の非常な恐れと憎しみとを加えるとともに、ウクライナの民衆には非常な喜びと力とを与えた。
 マフノ軍のこの先例と成功とはさらに各地の小パルチザン軍を続出させて、僅か7人の小団体から出発したものがその年の暮にはもう4、5千人の大軍隊となった。そしてマフノは総大将と仰がれて、ウクライナ南部一帯の反逆農民をそのもとに集めた。



 ドイツ・オーストリアの侵入軍、スコロバドスキーの反革命軍、それに代わって起こったペトリュウナの反革命軍。マフノ軍は、それらを次々に撃破。そしてついに最大の敵・デニキンの反革命軍と対峙する。


 このデニキン軍との戦いには、戦線が百ヴェルストあまりにひろがった。そしてマフノはその全線にわたって、あらゆる機会を捕えて、農民と労働者との地方的自治を説き、その自由ソヴィエトが各地独立してその経済的および社会的生活をみずから組織することを勧めた。

 マフノのこの宣伝はマフノ軍の戦線のいたるところに採用されて、それがウクライナの農民労働者の大衆の一大運動となった。マフノはそれらの農民労働者からバティコ・マフノ[父マフノ]と呼ばれ、マフノ自身もまたしばしばこの名を用いた。そして民衆のこの大運動はマフノビチナの名によってウクライナ以外にまでも知られはじめた。

 マフノビチナの行われるところには、まず各村に、自由に選挙されるソヴィエトが組織された。そしてこのソヴィエトがその村のいっさいの生活を決定した。地主の土地は没収されて、農民の間に分配された。農民はあるいは一人一人に、あるいは共同に、その土地を耕した。

 ドン河付近にいるコサック兵がこの農民の生活を妨げそうな勢いになると、マフノビチナの村々は大会を開いて、各村から若干名ずつのパルチザンを動員する。動員された農民はマフノ軍のもとに集まる。そしてその危険が過ぎると、また各村に帰ってその平和な仕事につく。かくしてマフノ軍の大部分は農民によって組織され、その糧食は農村から支給された。

494 ロシア革命の真相(11)
第三革命:「マフノ運動」(1)
2006年5月7日(日)


 官許ロシア革命史を鵜呑みにしていた(あるいは今でも鵜呑みにしている人が多数派かもしれない)人たちの一般的な見識では、ボルシェヴィキが遂行した革命(実際は反革命)に対しては代案はあり得なかったことになっている。しかしその代案(真の革命)を遂行していた農民・労働者たちが、ロシア革命の真っ只中にいたのだ。その「真の革命」は、その革命を担った人たちが運動の中で育て上げたひとりの傑出した人物の名を冠して「マフノ運動」と呼ばれている。

 まず自称無謬の主義・思想つまりイデオロギーがあって、それを民衆に強制しようとする愚、ボルシェヴィキの「犯罪的愚鈍」にロシアの民衆はおおきな犠牲を強いられたが、それは貴重な反面教師ではあった。
 最初に主義・思想があるのではない。民衆の自主的・自立的な活動が新しい思想の萌芽を用意するのだ。マフノ運動は期せずしてあたかも、リバータリアン社会主義を髣髴とさせる共同体創出の試みであった。資本主義と国家を廃絶した後の、最も理想的なシステムが形成されつつあった。ここには私(たち)が学ぶに値する多くの示唆があり、私(たち)に豊かなイマジネーションを与えてくれる。

(ここからは「アナーキズムFAQ」のほかに、大杉栄さんの論文「無政府主義将軍 ネストル・マフノ(1923年8月)」を用いる。)

 ロシアの民衆の自然的・自主的な活動から始まったロシア革命に多くの政治党派が群がってきた。本来は民衆に属すべき権力を簒奪して、自分の党派の独裁を手に入れ民衆の上に君臨するために。大杉さんはロシア革命進行中にすでにそのことをしっかりと見抜いていた。大杉さんはマフノ運動(大杉さんは原語の通り「マフノビチナ」と呼んでいる。)の本質を次のように記述している。


 ある者は民主主義の名のもとに、ある者は社会主義の名のもとに、ある者は共産主義の名のもとに、ある者は民族自決主義の名のもとに、ある者は帝政復興の名のもとに、ある者はまたこれらのあらゆる牛馬どもを同じ一つの秣桶の中に集めるという名のもとに、いずれもみな掠奪者を解放するのだと広言しつつ容赦なく民衆を圧迫し、動員し、劫掠し、攻撃し、銃殺し、また村落を焼き払う。そしてついに、この強盗放火殺人の犯罪人どもの中で一番狡猾でそして一番凶暴なやつらがクレムリンの王座に坐りこんで、無産階級の独裁の名のもとに、いったん解放された労働者や農民をふたたびまた前にもました奴隷状態に蹴落として、完全にロシア革命を圧殺してしまった。これがいわゆるロシア革命なのだ。ボルシェヴィキ革命なのだ。
 けれどもこの強盗放火殺人の犯罪人どもがお互いに、また民衆に対して、その凶行をほしいままにしている間に、ロシアの民衆はただそれに利用され、またそれを甘受していたのだろうか。
 決してそうじゃない。ロシアのあちこちで、この犯罪人どもに対する民衆の自衛運動が組織され、ことに中央ロシアやシベリアやウクライナでは、民衆のこの自衛運動が革命的一揆の形となって現われた。そしてそのもっとも強大な運動がマフノビチナであったのだ。

 由来ロシアの中でも一番自由を愛するといわれていたウクライナの民衆は、いったん彼らが破り棄てた鎖をふたたび彼らにゆわいつけようとするところの、あらゆる国家主義的権威に反逆して立った。彼らは自由を求めたのだ。そして自己保存の本能と、革命のいっさいの獲得物を維持していきたい熱望と、どんな権威にも対する憎しみと蔑みとが、彼らを駆ってこの反権威主義的闘争に、無政府主義的闘争に走らしめたのだ。



 大杉さんのボルシェヴィキに対する激しい怒りが伝わってくる。この論文が書かれた前の年1922年に「チェカ」は「国家保安局(ゲー・ペー・ウー)」へと、さらに暴虐な国家「犯罪」組織に昇格?している。ボルシェヴィキ政府によるアナーキストなどへの弾圧はさらに猖獗を極めていった。
493 ロシア革命の真相(10)
第三革命:「クロンシュタットの蜂起」(3)
2006年5月6日(土)


 クロンシュタットのバルテイク艦隊所属の水兵たちはペトログーラドのこの事件に大きな関心を寄せ、事の成り行きをたいへん憂慮していた。彼等はペトログラードの労働者たちに委員を送って、その事件の調査を開始した。彼等はペトログラードの労働者たち次のように告げた。

『若し諸君が、ポルシエヴィキの主張するように、反革命であるならば、我々は諸君に反対する。しかしもし諸君の要求が正当であるならば、我々は諸君と行動を共にする。』

 3月1日、クロンシュタットのヤコルニイ・スクエアで、バルテイク艦隊の第一第二戦列艦隊が公会が主催した。約1万6千の水兵と赤軍の兵卒と労働者がその会合に集まった。その会ではクロンシュタット・ソヴィエトの執行委員長である共産党のヴァシリエフが司会した。ロシア社会主義ソヴィエト聯合共和国政府の大統領カリニンとバルテイク艦隊高級委員クヅミンがこの会合に出席した。クロンシュタットの兵士たちは彼らを軍隊式の敬礼や軍楽隊や軍旗等を以て迎へている。兵士たちはポルシェヴィキ政府に対して敬意と好意を示したのだった。

 ペトログラードへ送られた水兵たちの委員からの報告があった。それはクロンシュタットの兵士たちが最も恐れていた事実を明らかにした。大会はポルシェヴィキ政府がペトログラード労働者の穏健な要求を血醒い威嚇を以て鎮圧した事を知って憤慨した。そしてかの有名な15項目の決議を採択した。その中の最も重要な3項目は次のようなものだった。

『今日のソヴィエトは労働者と農民との意志を表はしていない事実から見て、直ちに無記名投票で選挙をしなおす事。』

『労働者や農民や、無政府主義者や社会主義諸左党のために、言論や出版を自由にする事。』

『社会主義諸党のあらゆる政治犯人、及び労働運動や農民運動に関して投獄された労働着や農民や赤軍兵や水兵等を釈放する事。』

 大会は、この決議を、カリニンとヴァシリエフの二つの反対の声があったほかには、満場一致で可決した。そしてペトログラードの労働者に委員を送って、ペトログラードとクロンシュタットとの共同の要求についての合議を提案しようとした。30人より成るこの委員はペトログラードに到着するとすぐ、ポルシェヴィキによって逮捕されてしまったこれはクロンシュタットの兵士たちに対して政府が行った最初の弾圧であった。その委員たちがどう扱かわれたのか、不明だった。

 3月2日、すなわちクロンシュタット大会の翌朝、、ポルシェヴィキ政府はレーニンとトロツキイとの連名で布告を出した。その布告はクロンシュタットの運動をポルシェヴィキ政府に対する武装一揆であると宣告していた。そして同時に、クロンシュタットの兵士たちに反革命の徒いう烙印を押して、虚偽と歪曲だらけの情報を流して、自分たちの正当性を世界的に宜伝し始めた。  ポルシェヴィキ政府は、3月7日をクロンシュタット攻撃の日と決めた。多くの共産党員たちすらそんな暴挙がまかり通るとは信じなかった。それほど無茶な、奇怪な事であった。が、すでに3月7日にトロツキイは『雉のやうにお前等を撃ち殺すぞ』とクロンシュタットの兵士たちに言い送っていたのだ。

 アナキストたちがポルシェヴィキをその本来の務めに翻意させようと最後の努力をした。クロンシュタットの水兵や労働者は『ロシアの革命的花』と言われるほど革命に対する功績が大きかった。その水兵や労働者が虐殺されようとしている。アナキストたちは防禦委員会に強く抗議し、クロンシュタットと話し合うようにというという趣旨の文書を送った。が、それは無視されてしまったようだ。

 かってケレンスキイ(臨時政府)の追手の手から防禦委員会の委員長ズイノビエフを救ったのはクロンシュタットの労働者たちだった。その彼が今、恩人たちの死刑執行者となった。

 3月7日の夕方6時45分、轟々たる砲声がペトログラードの街々に響いた。トロツキイがクロンシュタットへの砲撃を開始した。10日間の激戦の末クロンシュタットは圧殺された。約1万4千人が虐殺された。
 なんというひどく醜悪な皮肉だろうか。3月18日、ポルシェヴィキはパリ=コミューン祭を催して、それと同時に彼等のクロンシュタットに対する勝利を祝ったのだ。

 官許ロシア革命史はロシア共産党(ボルシェヴィキ)を革命の偉大な遂行者と言う。しかし「真の」ロシア革命史ではロシア共産党の名の上には『革命の裏切者』と書かれている。

492 ロシア革命の真相(9)
第三革命:「クロンシュタットの蜂起」(2)
2006年5月5日(金)


1921年2月
 内戦が終結に向かっていた。長い間苦しんできた民衆は、ポルシェヴィキが戦時を理由に行ってきた圧迫と威嚇をやめて、国内の経済的再建に尽くすことを期待していた。労働者たちもまたその荒廃した土地を再建するために熱心に相協力して、精力的な努力を尽さうとしていた。
 しかし、ポルシェヴィキは相変わらずその圧迫と威嚇と軍国化との政策を続けた。ポルシェヴィキは革命を救ふことよりもその政権を維持する事に腐心していた。ポルシェヴィキの農民や労働者に対する中央集権的政策と官僚的態度が、国民を困窮と疾苦との極に至らしめた最大の要因であった。
 ペトログラドの労働者等が、先づ第一に声を上げた。
 ペトログラドの多くの工場と製造場とは閉塞され、労働者は文字通りに餓え死せんばかりの状況だった。ペトログラドの労働者は、此の状況について相談しようとして集会を催した。だがその集合はポルシェヴィキ政府によって禁止された。その政府の方策は労働者の強い反発を呼び起こした。さらに多くの集会が催されたが、皆な同じ結果に終った。
 ポルシェヴィキは世界の資本主義とはあらゆる妥協をしたが、自国のプロレタリアには何の譲歩をもしなかったのだ。

2月24日
 労働者たちは起ち上がった。ストライキが宣言され、多くの地区でストライキが行われた。
 これに対して政府は、労働者等と話し合いをする代わりに『ペトログラドで一番憎まれてゐる男のズイノビエフ』を委員長とする「防禦委員会」を組織し、労働者たちの鎮圧を謀った。
 同じ日の朝、ポルシェヴィキは士官学校の学生等を派遣して、ベトログラドの労働者街・ヴァシレフスキイ・オストロフの労働着たちを逐ひ散らした。

2月25日
 ヴァシレフスキイ・オストロフの労働者たちは、海軍工廠やガレルナアのドックを訪問して、政府の残虐な圧迫に対してともに抗議するよう、そこの労働者に訴えた。そして行はれた労働者たちのデモは、武装した兵隊によって解散された。

2月26日
 ペトログラド・ソヴィエトの会合で、防禦委員会のー員であり又共和国革命軍隊ソヴィエトの一員であるラシエヰッチは、ストライキ参加者等を犯罪者呼ばわりして、トルボチユニイ工場の閉鎖を提議した。ペトログラド・ソヴィエトの執行委員(ズイノピエフ等)は此の提案を容れ、労働者たちは工場から締出され、その糧道を断たれた。文字通りに餓え死にすべく街頭に投り出されたのだ。

 このような政府の専制的対応が労働者を激せしめて政府に反抗させた。その間に政府は、諸方の多数の軍隊やその最も信頼する戦線の共産党軍をベトログラドに集中した。労働者たちの正当な要求を武力で圧しつぶしてしまったのだった。

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 今これを書きながら私は、4月30日に渋谷で起こった小さなデモに対する大きな弾圧のことを思い重ねています。これをマスコミは全く報道していません。私は一昨日[anti-hkm]MLで初めて知りました。それを転載します。


 4月30日午後、東京・原宿の神宮前穏田区民会館にて百余名が参集し、昨年に引き続いて「自由と生存のためのメーデー06」を開催しました。集会は、フリーターなどプレカリアート(不安定な雇用を強いられしものたち)、社会的に差別、選別、排除されしものたちの訴えを集めました。

「自由と生存のためのメーデー06」http://www.geocities.jp/precari5/

 しかし、私たちの訴えを踏みにじるように、集会後のデモで3名不当逮捕の異様な弾圧がなされました。
 今回の弾圧は、ただ単にサウンドデモを暴力的につぶす狙いにかぎらず、立川反戦ビラまき・あいつぐポスティングにたいする弾圧に続き、街頭における示威行動、表現の自由や権利全般をさらに激しく規制していく意図を示すものです。
 生きるとは、自らの考えや意見を表明し、意思表示していくことです。その意味で今回の弾圧は、生きることを貶め、人々の生存権を蹂躙し、実に息苦しい世の中へと歪めていくものです。
 メーデー弾圧を許さない、広範な声を集めましょう。

★デモ申請時と矛盾する不当な逮捕、トラックの強奪
 午後5時、会場からデモに出発する前に、警察は先頭のサウンドカーの「アンプを操作したら逮捕する」などと恫喝を加え、デモの出発そのものを阻みました。もともと事前のデモ申請時においては、原宿警察は主催者側に対して、デモ時に音楽を流すことや、先導のトラックにDJや機材固定の補助者などが乗ることを認めていました。しかし、公安・私服警察と機動隊は、デモ申請時の事実を反故にして、最初から逮捕を露骨に狙ってきたのです。
 5時半ごろ、デモ出発時からたった数百メートルの時点で、警察・機動隊はデモ参加者に殴る・蹴るの暴行をはたらき、トラックの荷台に乱入し、DJを引きずり下ろして、道路交通法違反の容疑で逮捕したのです。この時、警察・機動隊の乱暴狼藉を止めさせ、DJを守ろうとした参加者1名に頭部負傷の暴行を加え、原宿署が公務執行妨害の容疑で逮捕しました。
 また、機動隊がサウンドカーを取り囲み、むりやりトラックを強奪しました。

★バルーンの強奪と不当逮捕
 さらに午後6時過ぎに、デモ隊が渋谷ハチ公前交差点を過ぎようとしたときのことです。MAYDAYの垂れ幕をたらした赤いバルーンが風に流されて水平近くになった時点で、公安警察が後方にヒモを引きちぎり、バルーンを強奪しました。
 このとき、バルーンを取り戻そうとしたデモ参加者が、最後尾で推進規制をかけ続ける機動隊の盾の向こう側へと奪われ、一瞬で盾がとじられ、暴行され、渋谷署によって逮捕されました。

★原宿署も渋谷署も差し入れすら拒否
 デモ終了後、デモ参加者は、3名の不当逮捕にたいする救援活動を開始し、仲間が勾留されている原宿署ついで渋谷署に抗議・激励のため向かいました。ところが、これまでにないこととして、警察署は何の法的根拠もないまま生活必需品の差し入れすら拒否する人権無視を押し通したのです。

★救援運動への広範なご支援を
 救援運動によって、5月1日午後、警察に強奪されていたサウンドカーやDJ機材を取り戻すことができ、また2日には1名を奪い返すことができました。しかし、2名は不当にも勾留が決定され、依然として身柄を拘束されています。暴虐な弾圧にたいし、ぜひ抗議声明をあげて下さい。メーデー救援会の活動へのご支援よろしくお願いします。

2006年5月2日(火) メーデー救援会(http://mayday2006.jugem.jp/)



 掲示板「メールの輪」に抗議声明文を転載しておきます。
491 ロシア革命の真相(8)
第三革命:「クロンシュタットの蜂起」(1)
2006年5月4日(木)


 パリ=コミューンが敗北したもう一つ重要な要因がある。経済革命の不在である。
 『人間開放』を目指すなら政治的開放とともに経済的解放が必須である。コミューンは『人間による人間の搾取を廃止する』ために、『連帯責任を持った協同組織を通じて労働者を組織する』べきであった。しかしパリ=コミューンは、全ての労働現場を協同組合に改組する(つまり資本を収用すること)ことも、協同組合がお互いの経済活動を支援し調整するための協同組織を作ることもなかった。
『彼等はまず第一にコミューンを強化しようとして、社会革命を後回しにした。ところが、先に進む唯一の方法は、社会革命によってコミューンを強化することだったのだ!』

 「FAQ」の筆者はパリ=コミューンから三つの教訓を引き出している。

第1
 分権型コミューン連邦は自由社会に必須の政治形態である。

第2
 コミューンより上位の政府が必要な理由などないのと同様、コミューン内部の政府が必要な理由はどこにもない。コンミューンは自由に協力し合う自治集会と産業集会の連合に基づかねばならない。

第3
 政治革命と経済革命を社会革命へと統合することが決定的に重要である。

 これはまさしくリバータリアン社会主義の要項だ。ロシア革命において、ボルシェヴィキの圧倒的暴圧にもかかわらず、この社会革命を果敢に実行したのが「クロンシュタットの蜂起」と「マフノ主義運動」だった。

 「クロンシュタットの蜂起」は「真の」社会主義を求めた普通の人々の大規模な蜂起だった。ヴォーリンは「知られざる革命」で次のように述べている。

『クロンシュタットは、民衆があらゆる拘束から自分自身を解放し、社会革命を実行しようとする全く初めての独自の試みだった。これは労働者大衆が自身で直接行ったのだ。政治的羊飼い、つまり指導者や助言者などいなかったのである。これは、第三革命、社会革命への第一歩だったのだ。』

 ボルシェヴィキはこの第三革命を反革命と決め付けて武力攻撃で粉砕した。アレキサンダー・バークマンは『革命の裏切り者』(世界文庫版「大杉栄全集」所収)を次のように書き始めている。


 ブルジユワ政府と資本主義とは有らゆる革命運動の隠れもない敵である。進歩した労働者は、ブルジユワ政府や資本主義を、さう云ふものとして知ってゐる。又、さう云ふものとして、それと戦ってゐる。たとへば、パリ・コムユンの徒は、彼等がそれに対して謀叛して立った其の武断的支配者から、正義も慈悲も期待する事の出来ない事を知ってゐた。しかし、みづから革命的と呼ぶ政党が、無産階級の名の下に発言するする事を敢てする政府が、其の無産階級の正義と自由との叫びを血の海の中に溺れさせて了ふと云ふ事は、有らゆる歴史の中の最も著しい裏切りの罪である。そして猶、社会的正義のための民衆の勇敢な企てを反革命であると罵るのは、人類の永久に忘れる事の出来ないであらう大罪である。
 私は今クロンスタットの事を話してゐるのだ。クロンスタットは実にロシアのパリ・コムユンであった。クレムリンはヴェルサイユの役を勤めた。レニンは其のティエルであった。トロツキイは其のガリフエであった。



 上提書『革命の裏切り者』を用いて、「クロンスタットの蜂起」のあらましをたどってみよう。
490 ロシア革命の真相(7)
国家の死滅
2006年5月3日(水)


 古田さんはレーニンの『国家と革命』から「キリスト教が国教の地位をえたのちは、キリスト教徒が、民主主義的、革命的精神をもった原始キリスト教の『素朴な考え』を『わすれ』てしまった」という一文を引用していた。(「第481 4月23日」参照)この文を本来の文脈に戻し、次のようにもう一度引用している。


 その前文は有名な国家死滅論(プロレタリアの権力奪取後の状態)を述べ、その死滅しはじめた国家の最大の特徴として次のように描いているのです。

「この点でとくに注目すべきものは、マルクスが強調しているコンミューンのとった措置、すなわち、あらゆる交際費や官吏の金銭上の特権の廃止、すべての国家公務員の俸給の『労働者なみの賃金』の水準への引下げである。……ところが、ほかならぬこのとくに明瞭な、― 国家間題についてはおそらくもっとも重要な点で、マルクスの教訓がもっとも重要な点で、マルクスの教訓がもっともわすれられているのである! 通俗的な注釈書― それは無数にあるが― には、このことについてなにも述べていない。時代おくれの『素朴な考え』としてこのことを黙殺するのが『慣例』である、キリスト教が国教の地位をえたのちは、キリスト教徒が、民主主義的、革命的精神をもった原始キリスト教の『素朴な考え』を『わすれ』てしまったように…」



 レーニンは専門家(もちろん官僚を含む)と労働者との賃金格差の縮小に努めた。その結果、ロシア革命の前には20対1だった専門家と労働者との賃金格差は 1919年には5対1となり、レーニンの死後(1924年)も格差はちぢまって1930年ころには 4対1から3対1くらいになってた。
 ところが1931年、スターリンはこの賃金のありかたは悪平等で劃一的だと攻撃し、資本制社会と同じような極端な職階制と累進出来高払別を採用した。その結果、スターリンが死んだ頃(1953年)の賃金格差は20対1と、革命前の状態に逆行してしまった。(「レーニンから疑え」による。)
 専門家と労働者との賃金格差の縮小は「国家の死滅」のための重要なステップである。レーニンは確かに賃金格差の縮小には努めていた。しかし肝心かなめの大前提「コンミューン」思想を無視して中央集権型政府を作ってしまった。パリ=コミューンは、コミューン内部で国家を廃絶せずに代議制政府を維持したため、それに苦しめられることになったのだ。その教訓を学んでいない。レーニンは死の床でスターリンの危険性を憂慮していたというが、その危険性はレーニン自身が用意してしまっていたのだ。
 パリ=コミューンの挫折を振り返っておこう。「アナキズムFAQ」から引用する。


 パリ=コミューンは、普仏戦争でフランスがプロシャに敗北した後に作られた。フランス政府は、パリ国民軍の大砲が市民の手に落ちるのを恐れ、それを取り返すべく政府軍を派遣しようとした。コミューンに参加したルイズ=ミシェルは次のように回想する。『ヴェルサイユの政府軍兵士たちが大砲を掌握しようとしているのを知ると、モンマルトルの男女は驚くべき機動力を発揮して丘に群がった。丘に登った人々は自分が死ぬと確信していたが、犠牲になる覚悟をしていたのだった。』兵士たちは、野次を浴びせる群衆に発砲することを拒否し、銃口を上官に向けた。それは3月18日のことだった。こうしてコミューンが始まり、『人々が目覚めた。3月18日は、王党派か、外国人か、民衆か、いずれかのものになり得た。そして、民衆のものになったのだ。』

 パリ国民軍が呼びかけた自由選挙で、パリ市民はコミューン評議会を選出した。評議会ではジャコバン派と共和派が多数を占め、社会主義者(その多くはブランキスト ―権威主義的社会主義者― と、アナキストのプルードン支持者だった)は少数であった。評議会はパリの自治を宣言し、フランスをコミューン(つまり地域社会)の連邦として再生させようとした。コミューンの内部で、選出された評議員はリコール可能で、報酬は労働者の平均賃金と同じであった。その上、評議員たちには、自分を選出してくれた市民のところに戻って報告する義務があり、それを実行しない者は罷免されることになっていた。

(中略)

 しかし、パリ=コミューンは『国家の伝統・代議制政府の伝統と決別』せず、『その独立と自由連合を宣言することでコミューンが着手したはずの、簡単なものから高度なものへの組織化を、コミューン内部で到達させようとはしなかったのである。このことが、やがてコミューン評議会が『官僚的形式主義で身動きできなくなる』という惨事を引き起こし、『大衆と継続的に接触することで生じる感性』を失うことににもなった。『革命の中心勢力 ―民衆― から隔たることで無力になり、それ自体も民衆の発意を無効にしてしまったのである。』



 国家に自然死はない。国家は死滅せしめなければならない。国家に引導を渡して、文字通りの(真の)ソヴィエト連邦(コミューン連邦)を形成するために、レーニンが賃金格差の縮小以前にまっさきにやるべきはことは政府の解体であった。
489 ロシア革命の真相(6)
レーニンの誤謬
2006年5月2日(火)


 古田さんは「神の運命」でスターリンの個人崇拝を生んだ原因を四つあげている。

第1
 ツァー体制に対するソヴェト体制の圧倒的勝利。
第2
 ソヴェト体制内に沈澱した前ソヴェト的傾向(農民のツァー信仰)。
第3
 敵意を以てソ同盟をとりまく(軍事的にも文化的にもより強力だった)帝国主義列強の三面包囲と、それに対する同盟内部のヒステリー現象 ― 自己内部を戦闘的に明瞭(クリアー)に純粋(ピユアー)にするための異端分子(帝国主義の手先)粛清裁判。(これについては、「第472回 4月13日」で詳論を引用した。)
第4 「欠落の理論」と「抵抗体の欠落」

「欠落の理論」、「抵抗体の欠落」とはそれぞれ次のこと指す。

 『いったんマルクシズムがソヴェト同盟内で「国教化」すると、理論的に資本主義内部におけるような意味での「プロレタリア階級」はいなくなり、したがって唯一の現実的な抵抗体は理論的に消滅した。』

 『原始キリスト教(イエス)の弾圧への抵抗力は直接個人の人間の内面に求められ、それの論理化として、「神の前にある個人の内面」が権力への不屈の拠り所となったのに対して、(ロシア革命では)こうした個人の内面の独自の「民主的」「革命的」権威を欠落した。その「欠落の理論」がスターリン体制の「批判の欠落」という現実と結合した。』

 第1~第3の項は、たしかに個人崇拝と粛清を生む要因の一つではあったが、その根源的な理由ではないと、私は思う。第1~第3の項がなかったとしても個人崇拝と粛清は避けられなかっただろう。根源的な要因は第4の項である。

 「抵抗体の欠落」はマルクスの宗教批判の不徹底さに原因がある、というのが古田さんの論旨だった。(「第481 4月23日」参照)この問題から、古田さんは次のような教訓を引き出している。


 ソヴェト同盟の偉大な実験にとっての最大の課題の一つは、資本主義的自己疎外から解放された、現実的な「総体」としての「不屈の人民」の概念と共に、(その単なる分有としての個人でなく)「いきいきした一個の人間」「それ自身完結した小宇宙としての権威をもつ、いきいきした個体」「不屈の本源的自由の大地に立つ個人」の概念を(ブルジョア個人主義との峻別の上で)建設し得るか否かの問題です。



 さて、私が詳しく取り上げたいのは「欠落の理論」だ。
 古田さんはレーニンを「マルクスの最大の継承者」あるいは「頑強なマルクスの祖述者」と言い、全面的に否定しているスターリンとは違う評価を与えている。
 しかし、レーニンはマルクスの「誤謬に満ちた」継承者だった、と私は言いたい。ロシア革命がスターリン主義へと堕落していく根源的な要因はレーニンにあった。一つは理論上の誤謬である。「レーニン矛盾論の誤謬」が「欠落の理論」を生み、「粛清の論理」へとつながる。これは三浦つとむさんが「レーニンから疑え」でつとに指摘していることだ。この問題は稿を改めて取り上げたい。
 ここではもう一つの誤謬、実践上の最大の誤謬「国家を死滅せしめなかった」問題を取り上げていく。

488 ロシア革命の真相(5)

アナーキズム 対 ボルシェヴィキ(3)

2006年5月1日(月)





 1918年4月、ボルシェヴィキはアナキストに対する弾圧を始めた。

 1918年4月12日、チェカ(1917年12月にレーニンが創設した秘密警察)がモス
クワのアナキストセンターを攻撃した。続いて他の都市のアナキストもその
後すぐに攻撃された。アナキストの投獄・銃殺は1922年においてもなお続い
ていると、その惨状を訴えた当時の檄文(エマ・ゴールドマン、アレキサン
ダー・ベルクマン、アレキサンダー・シャピロ連名)は伝えている。



 大衆に最も強い支持を受けている目の上のタンコブの抹殺と同時
に、ボルシェヴィキは、自分たちが守っていると公言している大衆の自由を
制限し始めた。民主的ソヴィエト・言論の自由・敵対する政治政党や政治団体・
仕事場や大地での自主管理、これら全てが「社会主義」の名の下に破壊された。
レーニン主義支持者の大部分はボルシェヴィキの権威主義を非難したが、1918年5月末
に内戦が始まると弾圧か加速し、ボルシェヴィキはあらゆる方面の反対者を組織
的に弾圧した。権力を握ればその「独裁」を行使すると公言していた正にその
「独裁」の主体たるべき階級のストライキや抗議行動をも弾圧したのだった。



 内部にいる者にとっては、ボルシェヴィキが権力を掌握して数カ月で革命は
死んだ。内戦開始(1918年5月末)以前の数ヶ月間で、ボルシェヴィキの「労
働者の国家」は、他の国家と同じように、労働者階級に対する権力となり、労
働者とは縁もゆかりもなくなり、少数者支配(この場合は党による支配)の道
具となった。

 外の世界に対しては、「真の社会主義」の基盤を組織的に破壊してしまった
ボルシェヴィキとUSSR(ソヴィエト社会主義共和国連邦 )が「社会主義」
を標榜するようになった。ボルシェヴィキの「社会主義」は次のような「犯
罪的愚鈍」によって成り立っていた。



ソヴィエトを国家機構に変換すること。

ソヴィエト権力を政党権力に取り替えること。

工場委員会の土台を破壊すること。

軍隊と仕事場の民主主義を排除すること。

政治的敵対者と労働者の抗議行動を弾圧すること。



 ボルシェヴィキは労働者階級を労働者階級自身の革命から効果的に排除した
のである。権力を持ったボルシェヴキは、バクーニンの予言の通り、『プロレ
タリア階級の独裁』を共産党指導部による『プロレタリア階級に対する独裁』
に変質してしまったのだ。スターリン主義への道筋は必然であった。



 1921年、クロンシュタットの蜂起とウクライナのマフノ主義運動を粉砕する
ことで「真の社会主義」にとどめを刺し、ボルシェヴィキはソヴィエトの征服
を完成した。(「クロンシュタットの蜂起」と「マフノ主義運動」については
後ほど取り上げる予定でいる。)

 このようにして独裁者になったボルシェヴィキがやってのけた労働者・農民
へのおぞましい蛮行の一端を書き留めておこう。




 此の数ヶ月続いた旅行の豊富な経験を詳細に述べることは、到底此の論文の
よくする所ではない。私はそれを、いづれ、十分にそして完全に、出来るだけ
公平にやって見たいと思ってゐる。が、ここで私は、私がペトログラドやモス
クワで聞いた事や、クロボトキンが私に話した一切の事は、私が種々なる旅行
の間に、即ち最初はウクライナに次ぎには北部ロシアにそして最後には西部ロ
シアに見た事と較べると、殆んど何んでもない事だと云ふ事を極力語勢を強め
て云って置きたい。さう云ふのは悲しい事だが、しかしそれは総て本当なのだ。
実際、もつと多くそしてもつとひどい事があったのだ。そして今まだ繰いてあ
るのだ。



 (ボルシェヴィキのラアツヴョルストカ(強制徴発)は、最悪の皇帝政治も決
して及ばなかった程の事をしてゐるのだ。革命政府が、よしそれがマルクシス
トであるとは云へ、こんなにひどい残忍と野蛮な復讐とに堕落し得たと云ふ事
は、全く信すべからざる事のやうに思へた。復讐―これだけで農民に対するボ
ルシェヴィキの気違ひじみた政策を十分に云ひ現はしてゐる。ラアツヴョルス
トカ―食物の強制徴発は無茶苦茶に行はれた。



 全村々が荒らされて、其の住民がゐなくなって了つた。私は男の成年が全く
ゐなくなって了つた村々を見た。男は皆な銃殺されて、女と十四歳以下の男の
子とだけが残ってゐた。

 他の村々では男は一人づつ鞭打たれて、そして其の年齢には構はずに皆な強
制的に軍隊に入れて了つた。

 或る村々では、男は『懲罰隊の共産主義者』等を幾度も経験し、後に、山や
森の中に逃げとんで、そこで謂はゆる『グリインス』(草賊)となってボルシ
ェヴィキに対する復讐の容赦のない.パルチザン的戦闘に従つた。

 私は食物徴発のために最後の麦粉までも持って行かれ、又農民等が次ぎの種蒔
きの用意に取って置いた種子までも持って行かれた村々を見た。法律できめられ
た課税以外に、牛や馬も取られ最後の家禽や毛布やぼろぼろに裂けた枕までも
取られて、其の村々は乾いた骨のやうに裸になって了つた。全村々がボルシェ
ヴィキの懲罰隊の砲兵によって、或は懲罰のために、或は近隣の農民へ恐怖的
見せしめのために、全滅させられて丁つた。



 私は『共産主義』と云ふ言葉が、民衆の心には秘密警察や、不正不義や、圧迫
や、暴行と同意義になったのを見た。共産主義者と云ふ名は、都会では一般に、
そして農村ではどこででも、深い永続きのする、猛烈な憎しみを以て憎まれて
ゐる。それは瞞された希望と殉難とから生れた、恐ろしい程に激しい憎悪だ。



 ボルシェヴィキの此の農民『政策』は革命の死の鐘のやうに響く。クロボトキンが其の手紙の中
や又は来訪者に繰返し繰返し力説した所の、『ボルシェヴィキは、革命はどんな風にやってはいけな
いかを、世界に示した』と云ふ言葉の如何に正しかったかよ。
(アレキサンダー・ベルクマン「クロポトキンを思う」 世界文庫版大杉栄全集2所収)