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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。

470 「良心の自由」とは何か(3)
二つの「不可侵性」
2006年4月9日(日)


 前述のような迷路は現行の憲法内のみでの理解・註釈をする必然的な帰結であり、『いったん巨視的見地に立てば一目瞭然の理解を一挙に獲得することが出来る』と古田さんは『日本国憲法作製の思想の分析的理解』を試みる。

 その立場の大前提は次の2点である。

第一
 日本国憲法は英文の方が原文的意義をもった点が少なくないこと。
第二
 この第19条、第20条は当時の占領軍政部G・H・Qにとって特に力点の置
かれた部分の一つであると思われること。
 これは新憲法成立の政治的歴史的背景であるポツダム宣言に明言されている。

第10条 言論・宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし。

 第一の項からは「良心」はやはり'conscience'の原語から世界史的に
理解すべきだということになる。
 第二の項からは、「良心(conscience)の自由」は当然第20条に含まれるにかかわらず、特に第19条にも書かれた理由を考察することができるとし、古田さんは第19条と第20条の述語の違いに注目する。

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する
第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

「侵してはならない」
 ここに大きな意味がある。旧欽定憲法の屋台骨の第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」と対応する。新憲法では、まず第2条で「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として」とあり、第2条、第19条以外では次の三カ所で使われている。

第15条 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。
第21条 通信の秘密は、これを侵してはならない。
第29九条 財産権は、これを侵してはならない。


 ここで注意すべきは、世界立法史上、基本的人権、つまり自然法としての人間の自由権は、その立法史上の淵源の位置に「良心の自由」を見出すということです。
 だから、第19条の「良心の自由……侵してはならない」は「思想の自由……侵してはならない」の一部として独自の意義を解消してしまうべきものでなく(昭和24・12・5第4特別部の東京高裁判例のように単なる「道徳的判断」を指すような位置に矮小化することは、とりもなおさず独自の意義を解消することです)、むしろ新憲法中の「不可侵」性をになう基本的人権中の淵源的中核として、旧憲法の天皇の不可侵性、言いかえれば、天皇信仰(天皇統治の神聖国家帰依)の不可侵性に対決する重大な意義をになっているもので、新憲法の中核的生命と言わねばなりません。

 ここには法的には米英的近代法体系の基本概念よりする、天皇神権的明治憲法体系への批判が横たわっています。とすれば、この新憲法の第19条の「不可侵」性は決して偶然でなく、むしろこれなくしては新憲法の意義の中心的部分が失われるものと、米英的近代法体系の上に立つ者(占領軍側)からは見えたに相違ありません。

 この点、明治憲法に一応「信教の自由」が認められつつも、〝安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル″限りであったこと、そしてその「臣民タルノ義務」の核心が天皇の神聖「不可侵」信仰にあったことを想起し、そのため、旧憲法条文上の「信教の自由承認」が本質的に潰滅に帰した歴史的事実に思い至れば、新憲法が第20条での「信教の自由の保障」のみに安心できず、第19条に「良心の自由」の「不可侵」を置いたことの歴史的、心理的理由とその意義はあまりに明瞭であると言わねばなりません。


 この欽定憲法と新憲法との「不可侵性」の対比の必然性を、古田さんは当時のアメリカにおける日本研究の様相から論証している。

 次に古田さんは「憲法内部から見ると不透明だが外から見ると透明に見えるという『魔術鏡的性格』は、一体何にもとづくのだろうか。」と問う。


 「良心の自由」という言葉がまだ熟していないような ― そういう近代化の伝統をもたない、現代日本の基底的非近代性がその原図だ、と言うのが一番通りのいい説明かもしれませんが、それならば日本が基底的に近代化すればするほど、この言葉 ― 「良心の自由」は日本国民にとってわかりやすくなってゆくでしょうか。
 そういう見地を保証するような論証を求めても、残念ながらそれが未来への楽天的予想にもとづく他、何の論証ももたぬことは到底おおいかくすことはできません。

 しかし、わたし達はこの魔術鏡の表裏の姿を注意深く観察し、分析することによって、事柄の思いもかけぬ真相に気づくようになるでしょう。その手がかりはアメリカとヨーロッパにおける'Leberty of conscience'の素性を刻明に客観的に批判的に洗い上げてみることです。
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