FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
462 市民的不服従(1)
2006年4月1日(土)


 昨日、「教育基本法・憲法の改悪をとめよう!3・31全国集会」に参加しました。都教委包囲首都圏ネットワーク」の渡部さんの報告記事が、早くも[anti-hkm]ML に配信されていましたので、それを掲示板「メールの輪」に転載しました。また

レイバーネット日本


で当日の写真を見ることができます。

 なお、昨日(3月31日)は、都教委による新たな弾圧処分が出されました。その中で、増田都子さんには分限免職というとんでもない処分が出されました。また、根津公子さんには定職3ヶ月。
 増田さんのコメント。「要するに犯罪都教委の真実を暴露する教育をする者は、恐すぎておいておけない、ということでしょう。今後、更に、断固として闘いますので、ぜひ、ご支援ご協力ください!」
 根津さんも、もちろん、続闘を表明しています。



 「君が代を歌え」という職務命令に従わない行動を、アナーキストにならって、私は「非暴力直接行動」と評価してきた。
 上述の集会で呼びかけ人のお一人の三宅晶子さんは挨拶の中でその行動を「良心的不服従」と言って、賛同と敬意を表明していた。

 『ロールズ』に「市民的不服従」の正当化の議論が載っている。もちろん、私は「非暴力直接行動」=「良心的不服従」=「市民的不服従」と理解している。今回は『ロールズ』の「市民的不服従」の部分を読んでみる。

1955年
 アラバマ州モントゴメリで黒人女性ローザ・パークスさんが市内のバスで白人専用の座席に座り続けて逮捕された。この事件をきっかけに大規模なバス・ボイコット闘争が1年間にわたって繰り広げられた。(56年に連邦最高裁は路線バスの人種分離に対して違憲判決を出した。)

 1960年
 ノースカロライナ州グリーンズポロ。食堂における黒人差別に抗議して自然発生的に「座り込み」闘争が行われた。

 1963年
 奴隷解放宣言百周年。黒人の公民権運動がおおいに盛り上がる一方、南部では保守派の白人による公民権運動家の暗殺、黒人教会の爆破などのテロ行為があいつぐ。
 5月
 バーミングハム闘争。
 8月
 ワシントンで二十五万人の大デモ。マーティン・ルーサー・キング牧師が「私には夢がある」と繰り返す名演説を残している。
 11月
 テキサス州ダラス。公民権運動の支持に動いていたケネディ大統領暗殺される。

 このような黒人による市民的不服従の大衆運動に後押しされるように、 1963年5月、「法と哲学」を共通テーマとするニューヨーク大学哲学シンポジウムが開かれた。その第一部会・「法と倫理」の発題者としてロールズは「法律上の責務とフェアプレイの義務」という題で発表をしている。その中で「順法の責務の道徳的根拠」をおよそ次のように論じた。

 立憲民主制のもとでは「正義にもとる制度や法」をも遵守する道徳的責務がある。社会を構成している個人がその社会生活において社会から恩恵を得ている限りにおいて他の社会構成者に負っている責務(フェアプレイの義務)がその道徳的根拠である。(このくだりはとても分かりにくいので端的にまとめなおした。たぶん趣旨は曲げていないと思う。)


 まったく納得しがたい。立憲民主制のもとでは多数派が制度や法を定める主導権をを握っている。その制度や法が「正義にもとる」場合でも、それの遵守を少数者にも押し付けるのはまさに正義にもとる抑圧でしかない。

 これは当然多くの批判にさらさた。川本さんはそのうちの二つを紹介している。

ミルトン・R・コンヴィッツの批判。


 ロールズの発題を「法に対する服従とフェアプレイの義務とが必然的に両立する」という主旨だと受けとめ、これを次の三点から痛烈に批判している。
(1)
 遵法義務の基礎にフェアプレイの義務があると考えるにしても、それをロールズのように歴史的制約を背負った「立憲民主制」にのみ結びつけるのは、イデオロギーとしては可能だが哲学的には無理がある。ソクラテスの言行を引くまでもなく、フェアプレイの義務は社会生活のもっと深いところに根を下ろしている。
(2)
 ロールズは、しかるべき手続きをふんでいるが正義にもとるとみなされる政府の法令に対してなされる行動 ― つまり「市民的不服従」を考察への対象からあえて外している。
(3)
 市民的不服従はフェアプレイの義務を踏みにじるようなものではなく、反対にその義務そのものの正しさを立証する行動として理解される必要がある(「市民政府への抵抗」を説いたアメリカの文学者ヘンリー・D・ソーロウやインド独立運動の父マハトマ・ガンディーが例に挙げられている)。



神学者ジョン・C・マレーの批判。
 ロールズが持ち出した「フェアプレイの義務」それ自体を問題として、これが義務であるとする彼の説明がじゅうぶんな説得力を持っていないと難じた。
 結局ロールズは「順法の責務の道徳的根拠」については「説明上のいくつかの難点と過度の縮約」があることを認めざるをえなかった。

 ミルトン・R・コンヴィッツさんとかヘンリー・D・ソーロウさんとかジョン・C・マレーさんとか知らない人ばかりだけど、さしあたって必要ないので改めて調べない。

スポンサーサイト