2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
487 ロシア革命の真相(4)
アナーキズム 対 ボルシェヴィキ(2)
2006年4月30日(日)


 ボルシェヴィキがどのように変節していったのか。いや変節ではない。リバータリアンの衣を脱ぎ捨てて、その本来の「犯罪的愚鈍」(大杉栄全集「クロポトキンを思う」)の姿をあらわにしていった。その「犯罪的愚鈍」の姿を追おう。

 「全ての権力をソヴィエトへ」というスローガンのソヴィエトとは、アナキストにとっては正に文字通り「任務を命じられたリコール可能な代理人を基礎とし、直接的に社会を運営する労働者階級の組織」を意味していた。
 それに対してボルシェヴィキにとってこのスローガンは、ソヴィエトの上にボルシェヴィキ政府を作り出す手段でしかなかった。

 『アナキストが宣言したように「権力」が本当にソヴィエトに属すのならば、それがボルシェヴィキ党に属すことなどあり得ず、ボルシェヴィキが想像しているようにボルシェヴィキ党に属すのであれば、ソヴィエトに属すことなどあり得ないのである。』

 1918年の春と夏のソヴィエト選挙ではボルシェビキは大敗した。しかしボルシェヴィキの軍隊が、大抵、そうした地方選挙の結果を転覆してしまった。
 たとえばペトログラードの選挙。1918年3月に終わる任期中、政府はペトログラード=ソヴィエトの総選挙を絶えず延期していた。明らかに、政府は野党が票を多く獲得することを恐れていたのだ。
 ペトログラードでの選挙の結果、ボルシェビキはそれまで掌中に収めていたソヴィエトの過半数を失った。しかしなおも最大の政党であり続けていた。選挙はほとんど無意味なものになっていた。

『ボルシェヴィキが圧倒的な強さを持っていた労組・地区ソヴィエト・工場委員会・地区労働者会議・赤軍部隊・海軍部隊にかなりの数の代表がおかれ、ボルシェヴィキの勝利が保証されていた』

 つまりボルシェヴィキは、自分たちの代理人でソヴィエトを圧倒することで、ソヴィエトが持つ民主的性質の土台を崩したのである。ソヴィエトで拒否されそうになって、ボルシェヴィキは自分たちにとって「ソヴィエト権力」は党の権力なのだということを示したのである。権力の座に留まるために、ボルシェヴィキはソヴィエトを破壊せねばならなかった。そして、破壊したのだ。ソヴィエトシステムは、名前だけの「ソヴィエト」にされた。

 「生産の労働者管理」についてもボルシェヴィキはその本来の意味を捻じ曲げていった。
 アナキストと労働者工場委員会はそれを『工場委員会の連合を通じた労働者による生産管理それ自体(つまり賃労働の廃絶)』と考えていた。
 レーニンは『労働者管理』を単に『資本家よりも優れた、普遍的で包括的な労働者管理』と見なしていた。
 レーニン(ボルシェヴィキ)の提案は徹底的に国家主義で中央集権主義だったのだ。それに対して、工場委員会の実践は本質的に現場主義で自律的だったのである。

『労働者組織が(ボスよりも)効果的な管理を行うことができるならば、労働者組織はあらゆる生産を請け負うこともできる。その場合、民間産業の撤廃を即座に漸次的に行い、それを集団的産業に置き換えることができるだろう。従って、アナキストは、「生産の管理」という曖昧で不明瞭なスローガンを拒否したのである。アナキストが支持したのは集団的生産組織による民間産業の――漸次的だが即時の――収用であった。』

『ソヴィエト権力の最初の数ヶ月間で三度、(工場)委員会の指導者たちは自分たちのモデルを現実のものにしようとした。それぞれの地点で、党指導部は彼等の発言を封じた。その結果、経営権限と管理権限の双方を、中央当局に従属し中央当局が作り出した様々な国家機関に与えることになったのである。』

 結局レーニンは、1918年4月に(国家が上から指名した経営者を使った)「独裁的」権力で身を固めた「ワンマン経営」に賛同し、それを導入したのだった。

 1918年以来、アナキストはボルシェヴィキ独裁下のロシアを「国家資本主義」の国と呼ぶようになた。個々の資本家(経済的支配者)はいなくなったが、個々の資本家が行っているのと同じ役割をソヴィエト国家官僚制が果たしているからである。(「国家資本主義」という言葉を、私は大杉栄の論文で初めて知った。大杉栄の造語かと思っていたが、もっと普遍的な用語だった。)

 さらに、軍隊組織(赤軍)の変貌。
 1918年3月、ブレスト-リトフスク講和(ドイツ・オーストリアとの講和)の後に軍事コミッショナーに任命されたトロツキーは、すぐに赤軍を再編成した。それまで廃止されていた不服従に対する死刑が復活した。さらに段階的に、将校には、特別な敬称・別個の兵舎といった特権を持つようになった。将校の選挙を含む民主的組織形態は、すぐさま撤廃された。
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486 ロシア革命の真相(3)
10月革命
2006年4月29日(土)



 スローガン『全ての権力をソヴィエトへ』を掲げて勢力を伸ばしていたボリシェヴィキに対して、メンシェヴィキと社会革命党は臨時政府に6人の閣僚を出していた。ボリシェヴィキは臨時政府不支持を基本方針の一つとしていたので、当然、ボリシェヴィキとメンシェヴィキ・社会革命党との対立は深まっていった。(以下の日付はロシア暦)


7月3~4日 七月事件
 ペトログラードで約40万人の労働者・兵士が「全ての権力をソヴィエトへ」をスローガンに掲げて武装デモ。臨時政府はこれを鎮圧、ボリシェヴィキへの弾圧を強める。レーニン、再び亡命(フィンランド)。

7月7日
社会革命党のケレンスキーが臨時政府の首相となる。

9月5日
 モスクワ=ソヴィエトでボリシェヴィキ勝利。

9月20日
 ペトログラード=ソヴィエト、トロッキーを議長に選出。

10月7日
 レーニンがペトログラードに戻る。

10月10日
 レーニン、武装蜂起を主張。党中央委員会が採択。

10月13日
 ペトログラード=ソヴィエト内に軍事革命委員会が組織される。

10月24日 10月革命
 ボリシェヴィキ、武装蜂起。

10月25日
 全ロシア=ソヴィエト大会。メンシェヴィキ・社会革命党、武装蜂起に反対して脱退。

10月26日
 全ロシア=ソヴィエト大会、「平和に関する布告」・「土地に関する布告」を採択。人民委員会議(ソヴィエト政府)成立。議長にレーニン、外務委員にトロッキーを選出。


 2月革命が労働者大衆を主体とした下からの革命であったのに対して、10月革命はいわばボルシェヴィキによるクーデターであった。しかしアナキストは 10月革命でボルシェヴィキと共に行動した。なぜなら、ボルシェヴィキはその国家主義イデオロギーを隠してソヴィエトを支持していたからである。

『アナキストは現実に、10 月革命におけるボルシェビキの無名の同盟パートナーだった』([サミュエル=ファーバー「Before Stalinism」)

 しかし、ボルシェヴィキが権力を握ると事態は一変した。アナキストもボルシェヴィキも多くの場合同じスローガンを使っていたが、その間には重大な違いがあった。

『アナキストの口と筆から出るスローガンは誠実で具体的だった。なぜなら、アナキストの原則に一致し、そうした原則に完全に合致した行動を呼びかけていたからである。だが、ボルシェヴィキの場合、同じスローガンは、リバータリアンのスローガンとは全く異なる現実的解決策を隠しており、スローガンが表現していると思われる思想とは一致していなかったのである。』(ヴォーリン「知られざる革命」)

 10月革命は二つの意味があったということになる。
 一つは社会革命に参加した労働者大衆とアナキストの10月。労働者と農民の10月は、平等と自主管理の名において寄生階級の権力を廃止することである。
 もう一つは、社会革命を推進する労働者大衆から権力を奪い、革命の十全な発展を裏切り、革命の息の根を止めた政治政党・ボルシェヴィキの10月。ボルシェヴィキの10月は、党による権力略取であり、大衆を支配するための「国家社会主義」の導入である。

486 ロシア革命の真相(2)
アナーキズム 対 ボルシェヴィキ(1)
2006年4月28日(金)


 労働者と農民の自主的な活動のプロセスには、多くの政治政党と政治組織が関わりそれぞれの役割を果たしていた。特に活動的だったのはアナキスト・ロシア社会民主労働党(メンシェヴィキとボルシェヴィキ)・社会革命党(農民を支持基盤にした大衆主義政党)だった。

 アナキストはこの運動に参加し、あらゆる自主管理の傾向に賛同し、臨時政府を転覆することを強く主張していた。革命を純粋に政治的なものから経済的・社会的なものへと変換することが必要だと主張していたのだ。レーニンが国外追放から戻ってくるまで、革命をこうした路線で考えていた政治組織はアナキストだけだった。

 1917年4月、ロシアに戻ったレーニンはただちに、いわゆる「四月テーゼ」を発表した。それは二つの柱からなる。一つは第一次世界大戦を継続している臨時政府を支持しないこと、二つ目は労働者と農民によるソヴィエト共和国の樹立であった。
 当初、「四月テーゼ」にはボルシェヴィキ内でも反対があったが、レーニンはそれを党の基本方針として採択させることに成功する。『全ての権力をソヴィエトへ』 というスローガンを掲げて、革命を前進させていくことになった。

 アナキストは、工場委員会を中心とする生産の労働者自主管理運動において特に活動的だった。アナキストは、労働者と農民が有産階級を収用し、あらゆる形態の政府を廃絶し、自分たちの階級組織――ソヴィエト・工場委員会・協同組合など――を使って社会を下から再組織するように主張していた。『全ての権力をソヴィエトへ』というスローガンはアナキストの闘争の方向とも一致していた。いや、このスローガンはむしろ、アナキストの活動の影響によるものだったといえる。

 『全ての権力をソヴィエトへ』。このスローガンは、ボルシェヴィキにとっては、それまでのロシア社会民主労働党の立場からの分岐を意味していた。この方向転換によりボルシェヴィキは、直接行動を擁護し、大衆の急進的行動を支援し、それまでにアナキストが主張してきた様々な政策を支持したのである。このことによってボルシェヴィキは大衆の支持を勝ち取っていき、ソヴィエトと工場委員会の選挙で多くの票を勝ち取るようになった。  以上のような、アナーキズムとボルシェヴィキの関係には多くの証言がある。いくつか掲載しよう。

『ボルシェヴィキは、それまでアナキストが特に繰り返し表明していたスローガンを掲げ始めた。』(「知られざる革命」)

『ボルシェヴィキが声高に述べていたアナキストのモットーは、確実に結果を出していた。大衆はボルシェヴィキの旗を信頼したのだった。』(バークマン「アナーキズムとは何か」)

『一般大衆レベルでは、特に(ペトログラードの)守備隊とクロンシュタットの海軍基地の中では、ボルシェヴィキとアナキストの区別は事実上ほとんどなかった。無政府共産主義者とボルシェヴィキは、無学で元気がなく不満を抱えた同じ人口層の人々から支持を得ようと争っていた。そして事実はといえば、1917年の夏に、無政府共産主義者は、幾つかの重要な工場と連隊で享受していた支持と共に、紛れもなく出来事の方向性に影響を与えるだけの力を持っていたのだった。実際、アナキストのアピールは、幾つかの工場と軍隊においては、ボルシェヴィキ自体の行動に影響を与えるのに充分なほど大きかったのである。

 実際、一人の主導的ボルシェヴィキ党員は、1917年6月に(アナキストの影響力の高まりに対して)次のように述べていた。「自分たちをアナキストから引き離すことは、自分たちを大衆から引き離すことになってしまいかねない。」と』(アレクサンダー・ラビノビッチ「1917年7月蜂起の研究」)
485 ロシア革命の真相(1)
2月革命
2006年4月27日(木)


(このシリーズは「第461 自由社会(3月26日)」のつづきのつもりです。)

 「ロシア革命?何をいまさら!」という声が聞こえそうだ。しかし未来を語るのには過去の誤謬を徹底的に追及することが必要だ。そして私はロシア革命の経緯をほとんど知らない。改めて勉強したい。「自由社会」を目指して始まったであろう革命が、どうしてあんなにも無残な粛清と抑圧に満ち満ちた国家をつくってしまったのだろうか。それを知りたいと思う。その誤謬の対岸にあり得べき「自由社会」の姿が見えるかもしれない。それは、虚偽と誤謬に満ちたこの国の未来を考えるうえでもなにほどか資するところがあるものと思う。

 まず、ロシア革命の経緯を、アナキストの目を通して概観しておこう。(以下は「FAQ」による。)

 一般には、ロシア革命はレーニンが率いるボルシェビキ党が主導し、やがてロシア全土をボルシェヴィキの制圧下に置いたと見なされている。

 歴史は勝者によって、勝者の都合のよいように書かれる。官製の歴史(ロシア革命のそれを「官許ロシア革命史」と呼ぶことにする。)を鵜呑みにすると大きな過ちを犯すことになる。ロシア革命の真相もそうだ。
 ロシア革命は当初、普通の人々が自由を求めて闘った下からの大衆運動であった。多くの思想潮流が存在し、数百万という労働者(都市や町の労働者だけでなく農民も)が自由社会を目指していた。アナキストの一人であるヴォーリンはそれを「知られざる革命」と呼んでいる。
 だが、そうした希望と夢はボルシェヴィキの独裁下(レーニン後にスターリン)で粉砕されてしまったのである。その経緯を追ってみる。

 官許ロシア革命史の説明では、「知られざる革命」は、せいぜい、労働者の自律的活動を賞賛している程度であり、それも党の路線と一致している時だけのことであった。党の路線からそれるやいなや、徹底的に労働者の活動を非難している。さらにあくどいことに、大衆運動・大衆闘争を前衛党の活動の背景に過ぎないと表現している。そしてやがては残虐な大弾圧に転じる。

 アナキストはロシア革命は社会革命の典型例ととらえている。そこでは、労働者の自主活動が重要な役目を果たしていた。ソヴィエトや工場委員会などの階級組織によって、ロシア大衆は、階級に支配されたヒエラルキー型国家主義体制の社会から、自由・平等・連帯に基づいた社会への変換を目指していた。革命の最初の数ヶ月は、まさに次のバクーニンの青写真を着実に現実化する過程であった。

『未来の社会組織は、労働者の自由提携や自由連合によってもっぱら下から上へと作られねばならない。当初は組合で、そしてコミューン・地方・全国へ、最後に、国際的で全世界的な大連合へと。』

 ロシア革命の発端、2月革命の概略は次のようである。(日付はロシア暦)

1917年2月
 皇帝打倒の発端は大衆の直接行動だった。ペトログラードの女性たちがパン騒動を引き起こした。
2月18日
 ペトログラードのプチロフ工場の労働者がストを行う。
2月22日までに、ストは他の工場にも広がった。二日後には20万人の労働者がストライキを行い、2月25日までにストライキは実質的に全面的なものになっていた。 2月25日
 抗議者と軍隊との間で初めて流血をともなう衝突があった。
2月27日
 この日がターニングポイントだった。いくつかの中隊が革命的大衆の側に付き、他の部隊を蹴散らしたのだった。このため、政府は強制手段を失い、皇帝は退位し、臨時政府が樹立される。

 労働者大衆のこの自発的な運動に、全ての政治政党は完全に立ち遅れて、置いてきぼりにされた観があった。もちろん、ボルシェヴィキも例外ではない。
 ボルシェヴィキのペトログラード組織は、このツアー(皇帝)体制を打倒する運命を担った革命発端の直前には、ストライキの呼びかけに反対していた。しかし労働者大衆はボルシェヴィキの「命令」を無視し、ストライキを続行した。革命は下からの直接行動の流れの中で実行されていたのである。労働者大衆がボルシェヴィキの指導に従っていたとすれば、ロシア革命が生じていたかどうかは疑わしい。

 労働者大衆の自発的な運動はさらに進展していった。仕事場・街路・大地で。
 大衆は封建主義を政治的に廃絶するだけでは充分ではないと徐々に確信するようになっていた。封建的搾取が経済面に存続している限り、帝政を打倒したところで本当の変化はなかった。だから、労働者は仕事場を、農民は大地を奪取し始めたのだ。ロシア中で、普通の人々が自分たちの組織・労働組合・協同組合・職場委員会・評議会(ロシア語ではソヴィエト)を作り始めた。当初、こうした組織はリコール可能な代理人を持ち、相互に連合するというアナキズムのやり方で組織されていた。

 この労働者の活動から、一般論としても、望ましい「管理システム」の重要な条件の一つが抽出できる。
 自由社会でも何らかの管理システムは必要だ。しかし、それはヒエラルキーを基盤にしたものではありえない。それは「リコール可能な代理人」によって運営されなければならない。

484 「良心の自由」とは何か(15)
ソヴェト共和国憲法における「良心の自由」
2006年4月26日(水)


1936年ソヴェト社会主義共和国同盟憲法第124条
 「市民に、良心の自由を保障するために、ソ同盟における教会は国家から、学校は教会から分離される。宗教的礼拝の自由および反宗教的宣伝の自由はすべての市民に対してみとめられる」

 「1918年ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国憲法第13条」と何が違っているのか。「真の(現実の)」という文言が消えている。「宗教的宣伝の自由」が「宗教的礼拝の自由」にすりかえられている。
 「礼拝〈worship〉の自由」はロックによって用いられて以来、ヨーロッパ・アメリカの近代立法ではもっぱら'liberty of conscience and worship'という表現で用いられてきた。(「第469回」)その良心〈conscience〉を分離して外形的な宗教行為である「宗教的礼拝の自由」だけを「反宗教的宣伝の自由」と対比している。この対句はアンバランスであり、とてもすわりが悪い。この点について古田さんは次のように論述している。


 宗教がその本性として「自信教人信」(親鸞の好んだ表現 ― 〝自ら信じ人をして信ぜしむ″)を含むことは宗教のイロバです。つまり「宗教的宣伝の自由」なしに「良心の自由」「信教の自由」は考えられないわけです(日本の封建時代の初期においてさえ、弾圧が加えられたのは専ら〝教入信″すなわち〝宗教的宣伝の自由″に対してであって、親鸞が〝宗教的礼拝の自由″にとどまって満足していたならば、流罪や迫害の運命と本源的自由の強靭さを必要としなかったに違いありません)。
 それがここでは「宗教的礼拝の自由」という形式的な表現に変えられます。この「礼拝」の意義をいかに解するにしろ、「反宗教的宣伝」との均衡が破壊されていることは疑えません。自負に満ちた「真の(現実の)」という形容詞がけずられねばならなかったのももっともです。
 ここにいかにさまざまの「現実的」理由をならべても、なおかつその奥に右の趣旨の横たわるのを見のがすことは到底できません。

 前にあげたマルクスの根本論理はくずれ去っているのです。しかも、遺憾なことにマルクスにとって「宗教の批判」は「いっさいの批判の前提」なのですから、「いっさいの批判の前提がくずれた」(甘く見ても傷ついた)こともその論理的帰結です。



 この後、スターリン体制の批判と、その拠ってきたる源泉がマルクスの宗教批判の不徹底性(キリスト教単性社会内視点から脱することができなかった)にあるとの論証が続くが、この問題は次回から項を改めて論じたい。
 その課題を済ませたら『「良心の自由」とは何か』に戻り、次は日本の近代社会における「信仰の自由」を取り上げることになる。
 なお、上記引用文で親鸞が登場しているが、古田さんのメインワークは親鸞の研究のようだ。先日久しぶりに神保町の古書店をのぞいていて、古田さんの親鸞の研究書にぶつかった。「親鸞―人と思想」「親鸞思想」「わたしひとりの親鸞」(明石書店)の三部作で合計約2000ページの大作だ。

 「第481回」で、古田さんのイエス観を紹介したが、実はあれは「親鸞の歴史的個性の比較史学的考察―対権力者観に於けるイエスとの対照―」という論文の結論部分だった。その論文が上記の「親鸞思想」に所収されている。親鸞とイエスを対照する意義を述べている冒頭部分は古田さんの親鸞観の要約として格好な資料だと思う。吉本隆明さんの親鸞観との共通点が見られるなど、興味が湧く。後々利用する機会が出てくるかもしれない。それを掲載しておく。


 この論文において叙述せられるところは、わたしが親鸞の対権力者観について追求した論文「親鸞『消息文』の解釈について-服部・赤松両説の再検討」において論証せられえたところを前提としている。今、その論点とするところを列挙すれば、

(1) 弥陀の絶対性を徹底化する事によって、皇室その他いっさいの地上の権力者の権威を相対化し・その自立的価値を否認した。

(2) したがって、権力者は、弥陀の権威と念仏者に、帰依恭敬すべしとなす国家の護法思想というべき理念を有した。

(3) しかるに、弥陀の予言せる末法説の徹底的理解によって、権力者が念仏者を迫害弾圧する事こそ、此の世の露わなる事実なりとして、当為背反の現実に何ら幻想を抱かなかった。

(4) このような末法の権力者のあさましき当為背反の迫害に対し、念仏者は、さからわず憐れみの念仏をもって、転倒錯乱せる彼ら-皇室・鎌倉幕府・領主・地頭・名主ら全系列の権力者-のために折れという要請を、弾圧さるる門弟らに与えた。

(5) 右を要するに、権力者の不法に対する仮借無き非難弾劾と共に、その弾圧迫害者に積極的に与える憐れみとが、鋭い対照をなしている。

 ここには、後世本願寺教団(蓮如をその理論的完成者とする)の対権力妥協および権力聖化と、あざやかな対照を示す原始念仏集団の推進者としての、親鸞の健康にして強靭な純粋性、本源性が貫かれていると言えよう。
 しかしながら、ここに示された親鸞の思想的態度の、必要にして充分な歴史的個性的理解、さらには、その原初的宗教思想としての意義を把握するためには、普遍的な広い視野からする比較史学的考察を与えねばならない。そのためにわたしは、宗教思想的特性において、重大な類似点及び差違点を含むと考えられるイエスの対権力者観との対比を企てた。その理由は

(1) いまだ充分な意味での教団を構成せざる、原初的純粋性を有する宗教思想としての共通性。

(2) 宗教的権威および信仰の絶対性と、地上権力者との鋭い対置による本源的な価値批判という共通性。

(3) いずれも権力者よりの弾圧迫害を蒙りつつ、それに対して示す弾力性に富む態度。

 右のごときが比較の必要性を示唆するのであるが、その比較学の学的可能性 ―特に方法論上― は如何、という点こそ重大であろう。

(1)従来のごとく、鎌倉新仏教を宗教改革となすごとき安易な類比は、もちろん方法的厳密性を有しないが、石母田氏らの言われるごとき西欧古代末期のキリスト教と比較すべし、との立言も、両者の社会的史的差違より直ちに肯定し能わぬところである。(異時代思想比較可能のゆえに)

(2) 徹底した方法論的批判をもってすれば、類似した時代が問題なのでなく、かえって、比較すべき両者の歴史的社会的個性的差違を学的に検討し分別しつつ比較するか否か、にその比較史学としての学的成立の成否がかかっているものとすべきである。

 かかる観点より、ここにあえてイエスをとりあげるのであるが、なお緊要なる問題点が存する。それは、イエス思想取り扱い上の史料的信憑性の問題である。西欧キリスト教史学史上無限に繰り返されて来たこの間題につき、わたしのとる態度は簡明である。すなわち、いわゆる史的イエスを問題とするのでなく、福音書記述のイエス思想の統一的理解という立場をとるからである。その中にいわゆる史的イエスが何パーセント含まれているかいないか、は学的厳密性において論証しえないが、少なくとも福音書記述者の意識(特に共観福音書が原始キリスト教の時代に属することは定説である)を示しているという点では、確然たる史学的意義を有することは争えないであろう。なお共観福音書中特にマタイ伝を中心に論証を進めていったのは、該書において特にわたしの目指すごとき原初的対権力者態度が緩和されている、となす説が存するゆえ、その書においてさえあざやかにわたしの論点が論証せられうることを示し、かかる理解が共観福音書に共有せられるべきものなるを明らかにせんとする用意に出たものにほかならない。

483 「良心の自由」とは何か(14)
ソヴェト共和国憲法における「良心の自由」
2006年4月25日(火)


 古田さんの論述に戻ろう。

 バウアーは「公民として解放されるためには…、一般に人間が宗教を廃棄することを要求」(「ユダヤ人問題によせて」)する。この主張は人間に宗教を必要とせざるを得なくさせている政治的・社会的条件を無視したものであり、逆立ちをした主張である。これに対してマルクスは、人間に宗教を必要とせざるを得なくさせている政治的・社会的条件をこそ廃棄しなければならない、と主張する。


 宗教を「悩んでいる者のため息」「自分の状態についての幻想」とみなしたマルクスは……「幻想を必要とするような状態」を廃止すること、すなわち地上への批判、地上への武器の批判、人間が人間を搾取する国家の廃止によってのみ、「理性的になった人間らしく考え、ふるまい、自分の現実をかたちづくる」人間の誕生がはじまり、宗教という「幻想上の太陽」は消えてゆく、というのです。したがって水蒸気のある間は虹は消えないし、そのこと自身まことに道理あることであり、それは徹底的に自由に存在することが保障されねばならない、というわけです。北アメリカ諸州は別として、多くのヨーロッパの国々(ことにドイツ)は十分な「信教の自由」の存しないことこそ後進性の証拠であり、北アメリカの如くまで進歩させることによって、宗教の「幻想」としての意義は純粋に、示されることになろう、というのがマルクスの力説したところでした。

(中略)

 この帰結を最も典型的に、言わば科学的な美しさで表明したのが晩年の「資本論」の次の文章です。

 「現実的世界の宗教的反射は、総じて実践的な日常生活が人々に対し、かれらの相互間および対自然のすき透るような、理性的な諸連関を日常的に表示する場合にのみ、消滅しうるのである。社会的生活過程すなわち物質的生活過程の姿態は、それが、自由に社会を構成する人々との産物としてかれらの意識的な計画的統制のもとに立つ場合のみ、その神秘的な霞の衣をぬぎすてる。だがそのためには、社会の物質的基礎が、あるいは、それ自身がまた長い苦難にみちた発展史の自然発生的産物である一連の実在的諸条件が必要とされている。」



 このマルクスの主張を、マルクスの忠実な継承者レーニンが『完璧な法的表現』としてソヴェト共和国憲法のなかに定着した。
1918年ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国憲法第十三条
 「良心の真の自由を勤労者に保障するために、教会は国家から、学校は教会から分離され、宗教的宣伝と反宗教的宣伝の自由が全市民にみとめられる」

 今まで見てきたように、これまでのキリスト教単性社会における「信教の自由」は「神の支配下の良心」の自由、つまり旧教と新教のどちらをも認めようというものにすぎなかった。それに対して、ここでは「良心の真の自由」(<真の>は<現実の>とも訳される)が宣言されている。したがって「宗教的宣伝の自由」ばかりでなく「反宗教的宣伝の自由」も当然認められなければならない。ここで言う「反宗教」とは「反キリスト教」という意であり、キリスト教以外の宗教と、もちろん無宗教・無神論をも含んだ概念である。

 ところが、この憲法上に初めて出現した「良心の真の自由」はスターリンによって後退させられてしまう。
482 「良心の自由」とは何か(13)
イエスとは何者か
2006年4月24日(月)


 真のマルクス主義者はマルクス一人である、とよく言われる。その伝で言えば、真のキリスト教者はイエス一人であり、そのイエスが切り開いた宗教は「反アへンとしての宗教」である。また同様に真の仏教徒は釈迦一人であり釈迦の宗教も「反アへンとしての宗教」に他ならなかった。
 田川健三著「イエスという男―逆説的反抗者の生と死」(三一書房)の冒頭の一節を引用する。


 イエスはキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である。歴史の中には常に何人かの先駆者が存在する。イエスはその一人だった。おそらく、最も徹底した先駆者の一人だった。そして歴史の先駆者はその時代の、またそれに続く時代の歴史によって、まず抹殺されようとする。これは当然のことである。先駆者はその時代を拒否する。歴史の進むべきかなたを、自覚的にか直感的にか、先取りするということは、当然、歴史の現状を拒否することである。現状に対する厳しい拒否の精神が未来を変化させる。従って、歴史の先駆者は、その同時代の、またそれに続く歴史によって、まず抹殺されようとする。
 こうして抹殺された先駆者は多かったことだろう。我々がその存在を知らない、というだけなのだ。抹殺されたから、歴史の記録には残っていない。歴史の記録に生き残った者が偉大なのではない。あとかたもなく消されていった多くの人々こそが、歴史をその本質において担った者である。
 しかしまた、抹殺されずに思い出が残った者もある。その者の先駆者としての性格が非常に強烈であった場合には。そしてまた、何らかの偶然がその者の記憶を後世に残すように働いた場合には。

 けれどもこのように歴史が先駆者の思い出を抹殺しきれずに残してしまった場合には、今度は逆に、かかえこもうとする。キリスト教がイエスを教祖にしたのは、そういうことなのだ。
 イエスは殺された男だ。ある意味では、単純明快に殺されたのだ。その反逆の精神を時代の支配者は殺す必要があったからだ。こうして、歴史はイエスを抹殺したと思った。しかし、そのあとを完全に消し去ることはできなかった。それで、今度はかかえこんで骨ぬきにしようとした。そしてそれは、ー応見事に成功してしまった。

 体制への反逆児が、暗殺されたり、抑圧による貧困の中で死んでいったりしたあと、体制は、その人物を偉人として誉めあげることによって、自分の秩序の中に組みこんでしまう。マルクスが社会科の教科書にのった時、もはやマルクスではなくなる、ということだ。こうしてイエスも、死んだあとで教祖になった。抹殺とかかえこみは、だから、本来同じ趣旨のものである。キリスト教は、イエスの抹殺を継続するかかえこみであって、決して、先駆者イエスの先駆性を後に成就した、というものではない。イエスは相変らず成就されずに、先駆者として残り続けている。



 一般に、イエスが活動した時代から新約聖書の主要な文書(福音書)が成立するまで「原始キリスト教」と呼んでいるようだ。「マルコ伝」はイエスの死後20年ほど後に成立している。その30~40年後に「マタイ伝」と「ルカ伝」が書かれている。
 「マルコ伝」が『原始キリスト教の主流に対してはっきり批判的視点をうちだしている』のに対して、「マタイ伝」と「ルカ伝」は正統的教会の権威を備えた正典的福音書を目指してまとめられたものだという。
 諸学派の教会が自らの権威を求めてイエスの業績や言葉を歪曲・改竄し始めたときから、たぶん、原始キリスト教は「支配者の宗教」へと変貌し始めた。
 「被支配者の宗教」として、イエスが闘った敵は何だったか。政治的支配者(ローマ帝国とその傀儡)であり、宗教的権威(ユダヤ教支配体制)であり、土地や産業に寄生した富者(社会的経済的搾取構造)であった。イエスの言動に対する時の支配者の恐怖と憎悪は計り知れぬほどであっただろう。

 上程書の最終節から引用する。


 結局、イエス受難劇の中で歴史的にもっとも確かな事実は、十字架につけて殺された、という点である。処刑される者がみずから十字架の横木をかついで刑場まで人々の見ている中を歩かされたというのも、ローマ人による十字架刑の慣習にあることだから、当然イエスの場合もそうだっただろう。その時イエスが自分でかつぐことができなくなり、たまたま居あわせたクレネ(キユレネ)の人シモンなる人物がかわりにかつがされた、というのも事実だろう。夜に逮捕され、「裁判」を受け、朝まで好きなように拷問されれば、いかにイエスが頑健でも、重い十字架をかついで歩き通す体力は残っていなかっただろう。
 十字架というのは残酷な死刑である。「十字架の死は、キケロによれば、最も残酷で最も恐しい死刑である。処刑される者が同情される場合には、脛骨が折られたり、脇を槍で突いたりして、苦痛の時を短くしてやる。そうでない場合は、不幸な処刑者は何時間も、あるいはしばしば何日間もの間苦痛にさらされて十字架にはりつけられていなければならない。そのあげくにようやく、衰弱、窒息、鬱血、心臓破裂、虚脱、あるいは何らかのショックによって死ぬ。だがその間ずっと、十字架にかけられた者は、おのれにおそいかかる猛獣、猛禽にまったく無力にさらされ続ける。おのれの傷口にとまる畑や虻を避けることさえできない。要するに、十字架刑は古代の裁判制度が発明したこの上もなく極悪非道な事柄である。」(E・シュタウファー、『エルサレムとローマ』)

 イエスはすでに弱っていたせいか、手足を釘づけにされた流血と苦痛だけでも長時間は耐えられず、半日ほどで死んでいる。わざわざ脛骨を折ってやるまでもなかった。ただ、死んだことの確認のために槍で脇腹を突きさされただけだという(ヨハネ19・24)。
 苦痛の時間が短かかったことが僅かな救いであったと言うべきか。弾圧されて殺される時は、ひたすら悲惨である。むごたらしく流された血と、ただの肉塊になってみにくく散らばるまでの極度の苦痛のみある。
 弾圧の死に希望があるとすれば、その死にいたるまでの当人の活動と、その死の意義を生かそうとする後の人々の活動にしかない。死そのものは、あくまでも悲惨な、闇から闇へと葬られるための出来事でしかない。だから、イエスの死の出来事にイエスの活動の意味を見出そうとするのは間違っている。断末魔の極度な苦しみはあくまでも断末魔の苦しみなのであって、弾圧の打撃におのれの肉体がついえていく苦痛の瞬間以外の何ものでもない。その一瞬におのれが生きかつ活動してきたすべての事柄の意味がこめられる、などということはありえない。
 断末魔の中でイエスは叫んだ、

「我が神、我が神、何ぞ我を見捨て給いし」(マルコ15・34)

 それはそうだろう。近代の無神論者が、神による絶対の正義など存在しないということをよく知りつつ、少しでも多くの人間の正義を願って活動し、おのれを犠牲にして死んでいった、というのとは話が違う。その場合でさえ、客観的に見ればその人の死は無駄ではなく、その人自身も、神が正義を保証してくれるなどということはあてにせず、ただ歴史の未来を信じて自分の一かけらの生命を捨てていったにせよ、断末魔の苦痛においては、もしかするとおのれの努力はまったく無駄であったのかと、絶望的な感情にもとらわれよう。ましてや古代人イエスは、神を信じていた。自分が生命を賭して貫いてきた活動は神の側の正義だと確信していた。おそらくイエスも、おのれの逮捕、処刑に際して神がみずから出馬して、奇跡的におのれを救ってくれるだろう、などと考えるほど甘かったわけではなかろうが、やはりこのように弾圧され、無惨な死にさらされれば、いったい神は本当に正義の側に立つのだろうか、と懐疑に陥らざるを得なかっただろう。いや、その程度の懐疑なら、すでに何度もくり返し通過してきているはずだ。ここにあるのはもはや懐疑でなく、絶望である。神は俺を見捨てやがった。

 そう言って叫んだ時、その瞬間に残ったのは、無惨な死だけであった。その瞬間のイエスの心を思う時、懐然としない者はいないだろう。
 このあまりに赤裸々な断末魔の死に慄然と対面するのを避けるため、解釈者はイエスからこの言葉すらも奪おうとしてきた。

(中略)

 こうして受難物語の語り手も、後世の解釈者も、断末魔のイエスのあまりに無惨な意識に対面して慄然とするのを避けようとした。そういう解釈者の意識の中で、イエスは「復活」させられる。その次には、イエスの死の意味づけがはじまる。ついには、イエスという救済者は十字架の死によって世の人々を救うために此の世に来たのだ、と言われるようになる。イエスは十字架にかかって死ぬために生きた、というわけだ。

 そうではない。イエスのあのような生と活動の結末として、あのような死があった、ということだ。あのようにすさまじく生きたから、あのようにすさまじい死にいたり着いた。いやむしろ、あのようにすさまじい死が予期されているにもかかわらず、敢えてそれを回避せずに生きぬいた、ということか。イエスの死に希望があるとしたら、死そのものの中にではなく、その死にいたるまで生きかつ活動し続けた姿の中にある。



 ただただ畏敬し戦慄するほかない凄まじい人生だ。
 権力は、どんな権力も醜悪である。権力の維持・保全の歴史は自由を求めるものたちへの残虐な弾圧の歴史である。権力によって抹殺されてきた多くの崇高な精神をもった偉大な人物たちを思う。

 最近、鎌田慧著「大杉栄 自由への疾走」を読んだ。大杉栄も崇高な精神をもった偉大な人物だと思う。



481 「良心の自由」とは何か(12)
マルクスの宗教批判の限界
2006年4月23日(日)


 記紀の神話・説話の神々をみずみずしい人間として蘇らせる古田古代史の底流に「アイスキュロス→ゲーテ→マルクス」と継承されてきたのと同じ人間観が脈打っているのを、私は感得した。前回の副題を「マルクスから古田さんへ」とした所以だった。
 さて、『若きマルクスはゲーテ的人間観を「積極的人間主義」として哲学化し、その上に立ってかくも「一挙に」「見事に」「いっさいの宗教批判」を終えてしまったのですが、実はそのことで重大な問題を置き去りにしてしまった』と、古田さんの論述は進む。

 マルクスの取り上げている宗教はあくまでもキリスト教単性社会のそれである。マルクスが「宗教は民衆のアヘン」と切り捨て宗教批判は終わったとしたとき、それはキリスト教単性社会の本質的一面に対する適切な批判ではあったが、同時にそれ以上のものではなかった。

 「人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない」のなら、人間がそれぞれの時期のそれぞれの地域で創ったものによって、人間は何を得、何を失ったか、その各時代・地域での分析こそが真にリアルな、科学的な宗教批判となるはずである。そこでは当然、「アへンとしての宗教」ばかりではなく、「疑似アへンとしての宗教」「非アへンとしての宗教」「反アへンとしての宗教」などが見出されるだろう。


 結論を要約しましょう。マルクスが「人間が宗教を作った」ことの確認を根本として、「いっさいの宗教批判は完了」したと宣言したにもかかわらず、実は、その同一の地点から、「いっさいの宗教批判が出発」したに過ぎないのです。
 ヨーロッパ単性社会の真只中において「宗教裁判」「魔女裁判」で純化された支配の神の重圧を哲学的にはらい捨てることは、長い歴史的苦渋の道程を経た大事業だったに違いありません(フォイエルバッハはその宗教批判の故に大学の教職を追放され、晩年の孤独と苦渋へ追いこまれます。バウアーも宗教批判で大学を追われ、そのためマルクスも大学の教職への望みを絶たれ、ロンドンの窮迫生活への第一歩を踏み出しています)。
 そのように長く強く人間精神を縛りつけ、苦渋させてきた「絶対神」を人間の被造物と見なす認識の獲得が、マルクスに宗教批判の完了という自負に満ちた言葉を吐かせたのですが、その地点こそ論理的に真の宗教批判の展開への戸口だったのです。

 こういうマルクスの追求の論理的未成熟は、彼がヨーロッパ単性社会の最大の批判者でありながらも、ついにその単性社会の歴史的刻印をまぬかれ得なかったことを示しています。そしてその論理的未成熟、未徹底がマルクシズム自体に深く鋭い「影の部分」(欠除部分)を投げかけることになったことは後に述べる通りです。
 けれども実は、他ならぬ、マルクスの最大の継承者レーニンが鋭い直観力で半ば無意識にこのことをかぎつけていましたが、彼は残念ながらそこに止まっているのです。



 古田さんはレーニンの『国家と革命』から一文を引用している。
「キリスト教が国教の地位をえたのちは、キリスト教徒が、民主主義的、革命的精神をもった原始キリスト教の『素朴な考え』を『わすれ』てしまった」

 しかし、レーニンは、マルクスの『「宗教アへン説」が限定的有効性をもってはいても、すべての宗教がアへンであるとはなし得ないこと、すなわち「いっさいの宗教批判の完了」説の否定』まで進むことはなかった。『残念ながらそこに止まっ』たままであった。

 レーニンが言う『民主主義的、革命的精神をもった』宗教とは一体なんだろうか。
 「人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない」のであり、「人間精神の宗教的表現が宗教的精神である」(「ユダヤ人問題によせて」)以上、その時代の階級的対立の中で被支配者の側からのイデオロギーとして、革命的、民主的な性格をそなえた宗教も当然ありえる。マルクスが言うところの「宗教」がキリスト教単性社会の「支配の宗教」であったのに対して、レーニンは原始キリスト教を「被支配の宗教」あるいは「支配弾圧下の宗教」ととらえていた。

 それでは「被支配の宗教」=原始キリスト教はいかに「革命的」「民主的」だったのか。古田さんは次のようにまとめている。


(A)
 神の全能性よりする対人的平等性は基本的真理であるが、神の王国に到らんが為に不可避な「凡てのものを捨てて我に従え」との厳しい要諦のために、かえって神の王国に入ることは「富める者」に不利に、「貧しき者」に有利にならざるを得ない。むしろ現実的に物質の「富める者」の可能性は至難であり、物質の「貧乏人達」こそ神の国に近き者、祝福せられたものであった。(「富める者の神の国に入るはラクダの針の穴を入るより難し」という″ラクダの論理″がその端的な表明である。ここでは「富める者」を「心の富める者」と解する後世〈国教化、単性化した〉キリスト教の理解〈すりかえ、歪曲〉と全く異なる姿があざやかにあらわれている)。

(B)
 世の諸々の繁栄 ― 凡ての富と権力とは悪魔に属するものであり、それらとの訣別にこそ「神だけに奉仕」する所以があった(「神と富とに兼ね仕えうること能わず」という時の″富″とは、世俗の「生活物質」のことではなく、権力とむすびついた巨大私有財産そのもののことであった。そしてその所有者達にイエスが与えた名前が「敵」(=神の敵。悪魔に属する者)であった)。

(C)
 しかし、此等権力者に正面から、反抗したり、武力的抵抗をすべきでなく、今は彼等の外面的要請にも「彼等を蹟かせざらんために」従うべきであった(ここで外面的要請とは租税をローマ権力者に収納させられることを指す)。

(D)
 しかし、この世の終末の日(地上の王国の破滅の日)はイエスの弟子達がイスラエルをまだ巡り終らぬうちに(すぐ近い将来に)来るはずであるが、その日には彼等悪魔のものたる「敵」、権力者・富者達はことごとく亡び破滅し去るであろう。そして同時にそのような救済史的「時」の到来と共に救済の神の国が現実にありありと実現するであろう。

(E)
 かかる「将来」(真近に迫っている破滅の運命)を知らず、あさましくも今我等を迫害している「敵」、権力者・富者・迫害者に彼等(その日を知る者)は、今は抵抗せず、かえって彼等「汝の敵」を愛し、彼等の為に祈るべきである(汝等は彼等の迫害に屈せず、恐怖せず、自信に満ちて、この〝今″ を純乎たる愛に生きるべきである)。

 以上が、「被支配者の宗教」であった原始キリスト教時代のイエスの対権力者観の骨格です。



480 「良心の自由」とは何か(11)
戦闘的反神論(3)マルクスから古田さんへ
2006年4月21日(金)


(マルクスを引用しながらの古田さんの論述を抄出する。以下は全て古田さんの文章です。)

「ドイツにとって宗教の批判は本質的におわっている。そして宗教の批判こそいっさいの批判の前提なのである」

 これはマルクスの「ヘーゲル法哲学批判」の冒頭の句です。宗教批判が「いっさいの批判」の前提だという言葉は、日本のマルクシストにとって十分の重昧をもって把握せられ得ない言葉なのではないでしょうか。むしろ彼等にとっては「宗教」など真面目にあつかう気もしないくらい、その無意味さが当然のことで、「いっさいの批判」の中の最もたやすい部分であり、「いっさいの批判」の後には当然けしとんでしまうもののように感ぜられるのではないでしょうか。

 しかし、マルクスにとっては、宗教批判の前提に「いっさいの批判」があるのではなく、「いっさいの批判」の前提に宗教批判があったのです(無論「前提」とは単に時間的に論理的先行するという意味にとどまらず、後者の基盤をなしているという認識を含んでいます)。

 しかし今までのこの論究の考察を経て来た私たちにはヨーロッパがいかに執拗にキリスト教単性社会であったか、そして今もありつづけているかという認識、そしてそういう単性社会の内面(神の支配する良心)がいかに苛酷な宗教執拗な粛清で明瞭(クリアー)に純粋(ピユアー)にされて来たかという認識からして、このマルクスの表現は十分の重みで受けとられることができるでしょう。

 つまり、ここで言う「宗教」は、中世ローマ・カトリックの宗教であり、また宗教改革後の分裂が「信教の自由」という名の宗派の妥協によって縫合されて来た、ヨーロッパ近世-近代キリスト教単性社会の宗教なのです。

「宗教上の不幸は、一つには実際の不幸のあらわれであり、一つには実際の不幸にたいする抗議である。宗教はなやんでいる者のため息であり、また心ない世界の心情であるとともに精神のない状態の精神である。それは、民衆のアへンである。……だから宗教の批判はいずれは、宗教を後光にいただく苦しいこの世の批判にならずにはいられないものである。……だから、天上への批判は地上への批判にかわり、宗教への批判は法律への批判に、神学への批判は政治への批判に、かわるのである。」

 この格調高い文章が冒頭の句の後にあらわれるのですが、この有名な宗教阿片説 - 天上批判の根本をなすのは、「反宗教的批判の根本は、人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない、ということである。」とされるように、「人間」という概念です。この文章は一段と華麗なイメージを展開させます。

「批判は、鎖についていた空想的な花をむしりとったが、それは、人間が幻想もない鎖を背負うようにというためでなく、むしろ、人間が鎖をふりすて、いきいきとした花をつみとるようにというためである。」

 この表現はあきらかにギリシャのプロメテウス神話から来ています。天上のゼウスへの批判によって鎖にしぱられたプロメテウスです。事実マルクスはこの文章のあとの方にも、「ギリシャの神々は、アイスキュロスの『しばられたプロメテウス』の中で傷ついてすでに悲劇的に死んだ」として引用しているのです。

(次に古田さんは、ニーチェと同様に、ゲーテの『プロメートイスの歌』の再修練を引用している。ただし、ご自身で訳しておられる。第477回(4月18日)で西尾幹ニ訳と大山定一訳のそれを掲載したが、それらと比べるのも一興かも。)

ここにおれはしっかりと坐(すわ)って
人間どもを形づくる、
おれの面(つら)がまえに似せて。
おれと同じように、
苦悩し、泣き叫び、
生命(いのち)を享楽し、歓喜にむせび、
決してお前を尊敬せぬ――
そんな種族(やつら)に形づくる。
この、
おれのような、
人間どもに。

情熱的で明確な構成の中にこそ若きゲーテのシュトウルム・ウント・ドゥランクの精神が脈打っているのですが、この荒々しい生命に満ちた詩の思想的背景は、強力に支配する神々の存在を前提にして、その神々に対する「戦闘的反神諭」とも言うべきものです。

 マルクスがヘーゲル批判の論文(「ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判」)で人間を「受苦的」であり、「情熱的」なものと規定するのを見る時、彼の人間観がいかにシュトウルム・ウント・ドゥランク的、ゲーテ的なものであったかがはっきりと示されています。しかも、これがヘーゲル批判の根拠となっているのです。ヘーゲルの壮大な体系の中では、生きた人間が絶対精神の重荷の下で青ざめていること、それをヘーゲル学徒マルクスに見ぬかせたのは、実にゲーテ的な、みずみずしい人間観の泉だったのです。
479 イシハラ・イデオロギー
2006年4月20日(木)


 昨日、マルクスの文章を引用した。そのとき『歴史というものは徹底的であって…』というくだりで、現在の日本の危うい状況を重ねて読んでいた。
 大日本帝国は愚劣なイデオロギーに引きずられて奈落に落ちて一度死んだ。アジア(もちろん日本を含めて)の人民に悲惨で膨大な犠牲を強いて、悲劇的に。日本の人民がその過去の亡霊に再び絡めとられようとしている。もしもその愚かな道を切り捨てられなければ、この国はもう一度死ぬ。その時の死は、その二度目の死は喜劇的というほかない。
 マルクスの深い思想と比べようもない醜悪なイデオロギーを、イシハラが相変わらず得意になってしゃべりまくっている。自公の教育基本法改悪の合意内容を批判して言う。

「国に対する本当の愛着が生まれる教育をしていない。歴史の教育が間違っている。関心がなければ愛着が出るわけがない。自分のじいさんばあさんが命をかけて戦った大戦争があったということを知らない(学生がいる)。平和の毒に耽溺していた私たちの責任ですよ。近現代史すら子どもたちに教えない」

 俺たちのじいさんばあさんは「命をかけて戦った」のではない。否応もなく駆り出されて戦わされ殺されたのだ。「平和の毒に耽溺して」正しい近現代史を学んだことのない脳天気な太陽族が、あわてて学んだ教科書が『その本質を別の本質の外観のもとに包み隠そうとしたり、偽善や詭弁に救いを求めたり』している扶桑社版の教科書じゃ、大日本帝国に恋い焦がれるようなイデオローグになるほかあるまい。正しい近現代史を学んだことのないから、自分が目の仇にしている北朝鮮が大日本帝国のミニチュア版だということすら分からないオッチョコチョイだ、イシハラは。

「国会議員たちが今頃慌てて教育基本法変える、『愛国心という言葉よくないから祖国愛にしろ』とか、そんな小手先で物事変わるわけじゃない。『必ず入学式で日の丸掲げて君が代歌え』って、それはそれで必要だが、一つの手がかりで、本質はそんなことではない」

 イシハラが言う「本質」とは何だ。
 不当な教育支配のたくらみをおしすすめてきたイシハラの忠実なイヌども(都教委)が今度は都立高校の学校長に「 職員会議(成績会議等も含む)において、「挙手」「採決」等の方法を用いて職員の意向を確認するような運営は不適切であり行わないこと」というとんでもない通達を出してきた。着々と大日本帝国時代の学校に近づいている。
 これまでの不当な教育支配のための施策をたどれば、イシハラが言う「本質」は自ずと明らかだ。一度死んだイデオロギーを担ぎ出しただけじゃないか。国民は国家に従順に隷属していればよいということ以外にイシハラのイデオロギーにどんな本質があるというのか。

 上記のイシハラのおしゃべりは「公立学校長を対象にした都教育委員会の教育施策連絡会」でのことだという。校長連中はイシハラのおしゃべりもイヌどもの通達もありがたく押し頂いているだけなのか。イヌのまたイヌじゃ、もう教育者ではない。たんなる「権力の意向伝達ロボット」だ。

 下品なイシハラに関わると、なんだか、こちらまで下品になってしまう。ここら辺でよしておこう。

 と、パソコンから離れて新聞に目を通していたら、イシハラと同類の愚劣な国会議員どもが自公合意の教育基本法「改悪案」をさらに醜悪なものにしようと、自民党議員を対象に、「修正要求」のための署名活動を始めたという記事が目にとまった。その「修正要求」は次の通りだ。


 国を愛する「態度を養う」を「心を養う」に改める。

 「君が代」をイヤイヤ歌ったり、歌っている振りをするのはけしからん。「態度を養う」だけではそういう不心者が絶えない。問題は「こころ」ですよ。心から改心してまごころを込めて歌うような「心を養う」ことが肝要だ。――というわけだ。


 道徳心の育成につながる「宗教的情操の涵養」を「宗教教育」の項に明記する。

 道徳心など持ち合わせていない連中にかぎって他者には道徳心を要求したがる。しかも空疎な徳目道徳を。
 だいたい、この連中はどのような「宗教教育」を想定しているんだ。すぐ思いつくのは「靖国神 社」をシンボルとする「エセ神道」 だ。あるいは安部晋三が心酔している「慧光塾」か、 はたまた「幸福の科学」か。支配階層には「幸福の科学」の信者の少なくないと聞く。 いずれにしても、全国民を「アヘン」中毒者にしたいらしい。
 「エセ神道」や「新興宗教」についてはいま連載中の『「良心の自由」とは何か』でいず れ取り上げる予定だ。


 「教育は、不当な支配に服することなく」を「教育行政は」に改め、「不当な支配」を受ける対象が教員ではなく行政であることを明確にする。

 初期の自民党案に明記されていた。大方の失笑を買ってすごすごと引っ込めたのかと思っていたが、せっかく思いついたすばらしいアイデアだという思い切なのだろう、どうにもあきらめきれないらしい。
 これによると、イシハラとそのイヌたちがやっていることが「正当」で、教職員と生徒との討議や合意を基本に行ってきた戦後の学校運営は「教育の不当な支配」というわけだ。イシハラとそのイヌたちは教育基本法違反を指摘されると、「教育基本法はいずれ変わるんだ」とうそぶくらしい。

 ああ、議会制民主主義は、ほんとうにすばらしい!!


478 「良心の自由」とは何か(10)
戦闘的反神論(2)ゲーテからマルクスへ
2006年4月19日(水)


 ゲーテがアイスキュロスから『正義を求めてやまない深い衝動』『勇猛果敢な「単独者」のはかりしれない苦悩』を読み取ってそれを詩的結晶として定着した。
 その結晶から今度はマルクスが、そこに『内在している論理を抽き出し、強固な形を与え、見事に哲学化』する。その原型を、古田さんは「ヘーゲル法哲学批判序説」から読み取っていく。

 古田さんは「ヘーゲル法哲学批判序説」から要所々々を引用しながら論述を進めているが、マルクスのこの有名な論文の冒頭部分(とその関連部分)を丸ごと書き出しておこう。(何よりも自分のための作業です。)

 なお、古田さんは日高晋訳の「マルクス・エンゲルス選集第1巻」(新潮社)を用いているが、私はその本を持ちあわせていないので岩波文庫版(城塚登訳)を利用する。また原文は強調を表す傍点がたくさん付けられている。それは「強調文字」で表すことで代える。また読み易いように段落間に空行を入れた。


 ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもう果されているのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提なのである。

 誤謬の天国的な祭壇とかまどのための祈りが論破されたからには、その巻添えをくって誤謬の現世的な存在も危くされている。天国という空想的現実のなかに超人を探し求めて、ただ自分自身の反映だけしか見いださなかった人間は、自分の真の現実性を探求する場合、また探究せざるをえない場合に、ただ自分自身の仮象だけを、ただ非人間だけを見いだそうなどという気にはもはやなれないであろう。

 反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない、ということにある。しかも宗教は、自分自身をまだ自分のものとしていない人間か、または一度は自分のものとしてもまた喪失してしまった人間か、いずれかの人間の自己意識であり自己感情なのである。しかし人間というものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない。人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である。この国家、この社会的結合が倒錯した世界であるがゆえに、倒錯した世界意識である宗教を生みだすのである。宗教は、この世界の一般的理論であり、それの百科全書的要綱であり、それの通俗的なかたちをとった論理学であり、それの唯心論的な、体面にかかわる問題であり、それの熱狂で
あり、それの道徳的承認であり、それの儀式ぱった補完であり、それの慰めと正当化との一般的根拠である。宗教は、人間的本質が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したものである。それゆえ、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。

宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。

 民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって、宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷〔現世〕への批判の萌しをはらんでいる。

 批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがってまた自分の現実の太陽を中心として動くためである。宗教は、人間が自分自身を中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動くところの幻想的太陽にすぎない。

 それゆえ、真理の彼岸が消えうせた以上、さらに此岸の真理を確立することが、歴史の課題である。人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己疎外の仮面をはぐことが、何よりまず、歴史に奉仕する哲学の課題である。こうして、天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判法への批判に、神学への批判政治への批判に変化する。

(中略)

 現在のドイツの体制は一つの時代錯誤であり、一般に認められた諸原則にたいする明白な矛盾であり、衆目にさらされた旧体制の空しさなのであるが、それでもなお自分では、みずからが信頼にたると思いこみ、そして世間に対し同じように思いこむことを要求している。

 もしもドイツの現体制が自分固有の本質を信頼しているのならば、その本質を別の本質の外観のもとに包み隠そうとしたり、偽善や詭弁に救いを求めたりするであろうか? 近代の旧体制は、もはや、本物の主役たちがすでに死んでしまっている世界秩序の道化役者でしかない。歴史というものは徹底的であって、古い形
態を墓へと運んでいくときに、多くの段階を通過していく。一つの世界史的形態の最後の段階は、それの喜劇である。ギリシアの神々は、アイスキュロスの「縛られたプロメテ」のなかですでに一度傷つき悲劇的に死んだのであったが、ルキアノスの「対話篇」のなかでもう一度喜劇的に死なねばならなかった。なぜ歴史はこのように進行するのか? それは人類が明るく朗らかにその過去と訣別するためである。このような明るく朗らかな歴史的解決を、われわれはドイツの政治的諸勢力にも要求する。

(中略)

 批判の武器はもちろん武器の批判にとって代わることはできず、物質的な力は物質的な力によって倒されねばならぬ。しかし理論もまた.それが大衆をつかむやいなや、物質的な力となる。理論は、それが人間に即して論証をおこなうやいなや、大衆をつかみうるものとなるのであり、理論がラディカル〔根本的〕になるやいなや、それは人間に即しての論証となる。

 ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である。ドイツの理論がラディカリズムである明白な証明、したがってその理論の実践的エネルギーの明白な証明は、その理論が宗教の決定的な、積極的な揚棄から出発したところにある。宗教の批判は、人間が人間にとって最高の存在であるという教えでもって終る。したがって、人間が貶しめられ、隷属させられ、見捨てられ、蔑視された存在となっているような一切の諸関係 ― 畜犬税の提案にさいして、或るフランス人が「あわれな犬よ、おまえたちを人間並みにしようというのだ!」と叫んだ言葉でもっともみごとに描きだされているような諸関係 ― をくつがえせという無条件的命令をもって終わるのである。


 力強く美しい思想であり、言葉である。書き写しながら、改めて深い感動が湧き上がってくる。ロシア・マルクス主義は死んでもマルクスは健在である。
477 「良心の自由」とは何か(9)
戦闘的反神論(1)アイスキュロスからゲーテへ
2006年4月18日(火)


 マルクスの哲学における「無神論」はただ単に「神は無い」ということに留まらない。生き生きとした現実的・地上的な「真の人間」からの神(権力・権威)への挑戦という意義を持つ。その意味で「無神論」ではなく「反神論」というのがふさわしい。古田さんはマルクスの「無神論」を「戦闘的反神論」と呼んでいる。
 一般に西洋哲学史ではマルクスは「ヘーゲル→フォイエルバッハ→マルクス」という系譜で解説されている。これに対して古田さんは『マルクスの哲学の根底が「非哲学的」なゲーテ的人間観にあり、そのみずみずしさこそが真にドイツ観念論への批判となりえたこと』が重要だとし、『西洋哲学史内的マルクス理解ではなく、西洋思想史(精神史)内的マルクス理解』を提唱している。その観点からするマルクスの系譜は「アイスキュロス→ゲーテ→マルクス」であるという。とても斬新な視点で私には大変興味深い。
 さらに古田さんが結ぶ「アイスキュロス→ゲーテ」の道筋をニーチェも論じていたのを思い出して私の興味はさらに深まった。「シュトゥルム・ウント・ドゥランク」(Sturm und Drang 疾風怒涛)と呼ばれる時代の真っ只中にあった若き日のゲーテ(28歳)の詩作品「プロメートイスの歌」が、これもまた若き日の古田さん(32歳)・ニーチェ(28歳)・マルクス(27歳)を引き寄せている。本筋からは余分ごとになるが、古田さんとニーチェとの対比も面白い。チョッと寄り道してみる。

 まず、古田さんがまとめた解説でプロメテウス(「プロメートイス」はドイツ語読み)の悲劇をおさらいしておこう。


 このアイスキュロスの悲劇(「縛られたプロメテウス」)の中で、プロメテウスは大地(女神テミス)の子として描かれています。

 第一に至高神ゼウスの没落の日を知っていること、第二に人間に知慧の火を与えたこと、第三に人間たちに自分の末期を待ち設けるのをやめさせてやったこと、第四に(人間の)目に見えぬ希望を与えてやったこと、によってゼウスの怒りを買い、その配下たる「権力と暴力」の神によって、スキユティアの荒野の岩の上に鎖でつながれるわけです。しかし不屈の精神を以て神々のおどしに恐怖せず、やがてまきおこる天地の震動、崩壊の中に奈落に沈んでゆくという壮大な悲劇です。



 ギリシャ神話(オリンポス)の神々に迫害されていた巨人神話の神々は先住民の神々である。アイスキュロスの壮大な悲劇「縛られたプロメテウス」の主人公は巨人族の一人であり、その伝説は迫害者であるオリンポスの神々への反逆の物語である。ニーチェは「プロメテウス伝説は、アリアン系民族全体の根源的財産」(「世界の名著ニーチェ」・中央公論社所収・西尾幹ニ訳「悲劇の誕生」)だと言っている。
 ニーチェが描く「アイスキュロス→ゲーテ」の道筋は次のようだ。
 ソフォクレスが描いた「オイディプスの悲劇」の「受動性の栄光」に対して、アイスキュロスが描く「プロメテウスの悲劇」を「能動性の栄光」と、ニーチェは呼んでいる。そして続けて言う。


 「この作品(「縛られたプロメテウス」)で思想家アイスキュロスが語らなければならなかったこと、しかしながら詩人としてのアイスキュロスが比喩的な形象でわずかにわれわれに予感させるにとどめていること、これを若き日のゲーテは、彼の作品『プロメートイス』の大胆不敵なことばによって、あらわにわれわれに開いて見せる。
いな、われはここに坐し
わが像にかたどりて
人間を創る、
苦しむも 泣くも
たのしむも 喜ぶも
なんじを顧みざることも
われにひとしき種族、
わがともがらの人間を。

 巨人の域へと高まって行く人間は、みずから自分の文化を戦い取り、神々を強制して、自分と同盟を結ばせる。このような人間はおのれ独自の英知によって、神々の存在と条件とをおのれの手中に握っているからである。
 あのプロメテウスの詩は根本思想からみてまざれもなく不敬の讃歌であるが、しかし、あの詩の中でもっとも驚嘆すべき点は、正義を求めてやまないアイスキュロス的な深い衝動であろう。一方には、勇猛果敢な「単独者」のはかりしれない苦悩がある。他方には、神々の危難があり、神々の黄昏を予感させずにはおかない。これら二つの苦悩の世界を和解させ、形而上的融合へと押しやる力―これが、アイスキュロスの世界観の焦点と主題とをきわめて強力に示唆するものである。アイスキュロスは、神々や人間という二つの世界のさらにその上に、永遠の正義として運命女神(モイラ) が君臨するのを見ていたのだ。



 最後の一文はいかにもニーチェらしい。やがてニーチェ思想のキーワードの一つとして登場する「運命愛」を示唆している。

 引用文中の詩はゲーテの詩『プロメートイスの歌』の最後の一連である。世界古典文学全集50「ゲーテ」大山定一訳(筑摩書房)からその全編を掲載しておこう。(「ツォイス」は「ゼウス」のドイツ語読み)



プロメートイスの歌

おまえの空を
灰いろの雲でおおえ
ツォイスよ
あざみの花をむしる子どものように
山嶺や樫の木に
おまえの飄風(ひょうふう)をなげつけるがよい
しかし おれの大地に
おれの作った小屋に
おれの竈(かまど)に
一切おまえは手をふれてはならぬ
おまえはおれの竈の火を
妬んでいるのだ

太陽のもとに 神々よ
おれはおまえほどあわれな存在を知らぬ
おまえはおまえの権威を
祈祷の吐息や
生けにえの捧げものによって
わずかに支えているにすぎぬ
不憫な子どもや乞食どもがなければ
その日から おまえは飢えて死なねばならぬのだ

がんぜない子どものころ
おれはおれのあわれな眼を
遥かな空におくった
天上にはおれの真実な訴えをきく耳があり
苦しむものにいつも味方する
おれのような高貴な心があると思っていた

暴力者の恣意から そもそも
おれを救ったのは誰か
死と奴隷から そもそも
おれを解放したのは誰か
聖なる火にもえる心よ
すべてはおのれ自身の行為にほかならぬのだ
だのに おれは
たわいなくだまされて
いつまでも切ない感謝を
天上のねむれる神々にささげていた

おれがおまえを崇める? 何のために?
おまえは打ちくだかれた人間の苦しみを
癒やしたことがあるか
悲しみなげく人間の涙を
かつて一度すら拭ったことがあるか
おれを一匹の男にしあげたのは
おれの主 そしておまえの主―
およそ一切の生きものの主である
全能の「時」と
永遠の「運命」のちからではなかったか

はかなく理想の夢がやぶれたからといって
おれが人生を呪い
砂漠に去らねばならぬと
強いておまえは妄想するのか

おれはここにいる
おれのすがたに似せて
人間をつくる
おれとおなじ種族をつくる
なやむことも 泣くことも
たのしむことも 歓喜することも
おまえを崇めぬことも
すべてがおれと同様の人間をつくる


476 「良心の自由」とは何か(8)
欧米の憲法における「信仰の自由」
2006年4月17日(月)


 「自由について(1)(2)」(第138回-2005年12月30日~第139回-12月31日)で私は、マルクスの「ユダヤ人問題によせて」から欧米各国の宣言や憲法における「自由」について条項を取り上げた。古田さんもそれを取り上げている。それらを今回は「キリスト教単性社会」という視点で読むことになる。

 「ペンシルヴァニア州憲法」第9条、第3項
「すべての人間は、その良心のすすめに従って全能の神を崇拝する不滅の権利を自然から受けとったのである。そして何びとといえども、その意に反して何らかの祭祀または勤行に従ったり、それらを創始したり、それらを支持したりすることを、法律によって強制されることはできない。人間的権威は、それがいかなるもの、いかなる場合でも、良心の問題に干渉したり、精神の力を支配してはならない。」

 ヴァージニア権利章典(1776年)、第16条
「宗教、あるいは創造主に対する礼拝およびその様式は、武力や暴力によってではなく、ただ理性と信念によってのみ指示されうるものである。それ故、すべて人は良心の命ずるところにしたがって、自由に宗教を信仰する平等の権利を有する。お互いに、他に対してはキリスト教的忍耐、愛情および慈悲をはたすことはすべての人の義務である。」

 合衆国憲法修正10ヵ条の修正第1条(1791年、現在も有効)
「連邦議会は、国教の樹立を規定し、もしくは宗教の自由な礼拝を禁止する法律を制定してはならない。」

 (マルクスは)こういう北アメリカの自由諸州で「宗教の国家にたいする関係は、その特質をもって純粋にあらわれることができる」と言い、「政治的解放が十分におこなわれた国でさえも、宗教が存在しているばかりでなく、はつらつとして力強く存在していることがわかる」としているのです(「ユダヤ人問題によせて」)が、ここに「純粋にあらわれ」ているのは、マルクスが考えたように「信教の自由」そのものではなくして、実はあくまでキリスト教単性国家内の〝信教の自由″に他ならないのです。

 さらに言えば、「信仰の自由」とはキリスト教内での「礼拝(の仕方)の自由」に他ならない。
 こうしたキリスト教単性社会内の思考から一歩踏み出した、というより踏み出 さざるを得なかったのはフランスだった。

 「1946年第4共和国憲法」の前文
「フランスは、海外の人民と種族、宗教の差別なしに権利および義務の平等に基礎を置く連合を形成する。

「1958年フランス共和国憲法」第2条
「フランスは、不可分の非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である。
フランスは出生、人種または宗教の差別なくすべての市民に対し法律の前の平等を保障する。
フランスはすべての信条を尊重する。」

しかしこの場合も『真の必要にして十分な〝信教の自由″』というわけではなかった。


 ここでは「神の面前で」という、フランス代々の憲法、宣言のきまり文句は消えて、代りに「非宗教的」という言葉があざやかに表われます。
 これはこの憲法がド・ゴール氏によって「共和国に結合する意思を表明する海外領土に対し、その民主的進化を目的として案出され」た(前文)ことにもとづきます。つまり、フランスは「国内であるアルジェリア」にもっぱら回教徒であるアルジェリア現住民を有しているという事情に他なりません。

 ですから、「非宗教的」となったのはド・ゴール氏の頭脳ではなく、フランス固有の領土たるヨーロッパ内のフランスでもなく、もっぱらアルジェリアとの関連において言われているのです。

 この場合、形式的には、多宗教間の〝信教の自由″が当然ゆきつくべき「非宗教性」が定義されながら、実質は、地理的、人種的の相互不侵触性によって従前と何等の変更を見ていない点が特徴的です。



 キリスト教単性社会にとって、もう一つの厄介な問題がある。
 1848年のフランス革命では「神を信ずる者も信じない者も」一致して闘った。その革命後に成立した1848年憲法の前文には

「神の面前で、およびフランス人民の名において、国民議会は、つぎのように声明する」

という文言がある。「神の面前で」という決まり文句に続いて置かれた「フランス人民の名において」には「神を信ずる者も信じない者も」とのニュアンスを読み取れる。
 「キリスト教単性社会にとって、もう一つの厄介な問題がある。」とは「無神論」の問題である。



475 あきれたもんだぜ、この学者!
2006年4月16日(日)


「第460回」(自由な意志力-3月25日)で吉本隆明さんの

(1)「中学生のための社会科」

という著書にふれた。そのとき、「これまでの吉本さんの営為の集大成という感がある。ただし難解と定評のころのものとはうって変わって、難しい問題を平易な言葉で実に分かりやすく書いている。中学生にも分かるように書くことを理想にしていた吉本さんの渾身の一冊というべきだ。想定した読者は中学生であっても決して程度を落としたり手抜きをしていない。」と紹介したが、今度は少しその内容に触れてみる。構成は3章からなる。

第1章 言葉と情感
第2章 老齢とは何か
第3章 国家と社会の寓話

 第1章が「自己幻想」で第3章が「共同幻想」を扱っているとみなせる。そうすると第2章は「対幻想」ということになるのが筋だが、第2章の内容は吉本さん自らの老齢と老齢ゆえの罹病を素材にしていて、「性としての個人」を直接題材にしてはいないので、一見「対幻想」という章立てではないと思える。しかし、その章を縦に貫いているテーマは「個人としての個人」と「社会集団としての個人」の接点なので、第1章と第3章を結ぶ章としての役割は明白だ。ということで一応人間の全幻想領域を論じた教科書ということになろう。
 なお、この著書に続いて

(2)「13歳は二度あるか」

という「中学生のための社会科」の補充・補足といった趣の本が出ている。
 また、中学生を想定したものではないが、「中学生のための社会科」の第2章とも言うべき「対幻想」を詳論した本がこの3月に出版されている。

(3)「家族のゆくえ」

 (1)(2)(3)で吉本理論を一通り概観できることになる。

 なぜまた吉本さんの中学生向けの本を取り上げたかというと、中学生のための社会科の教科書という観点からは「吉本教科書」に欠けている分野の一つ「歴史」の格好の「教科書」を読んだので、紹介したくなったのだった。

(4)小熊英二著「日本という国」

 この本も中学生(以上)を想定して書かれている。総ルビではないが、ふんだんにルビが振ってあって小学生にでも読めそうだ。しかし吉本さんの本と同様に、決して程度を落としたり手抜きをしていない。内容は豊富だ。
 日本の近現代史から、「大日本帝国」と現在の「日本国」という2度の建国の経緯をたどりながらそれぞれの問題点を鋭く摘出している。
 「大日本帝国」の場合は学制の整備の経緯を基軸に論じている。このHPの「第253」(日本のナショナリズム(6)明治期の大衆教化=小学校教育と軍隊教育-2005年4月25日)で書いたことと重なる内容で面白く読んだ。ここで新しいことを一つ知った。
 「義務教育」は「Compulsory Education」の翻訳語で、明治時代には「強迫教育」と訳されていたという。日本の教育にピッタリの訳だと納得してしまう。今は高校まで「強迫教育」になってきている。
 「日本国」の場合は再軍備の経緯を基軸にしている。これはずばりこのHPの「再軍備はどのように行われてきたのか」(第200回-2005年3月1日~第206回- 2005年3月6日)のテーマだった。実に簡潔に分かりやすく解説している。

 ところで、掲示板「メールの輪」にとてもかわいい投稿があった。


君が代について - 匿名
2006/04/03(Mon) 21:29

僕は中学二年生なのですが、僕の意見を聞いて頂けませんか?
先日、僕の中学では卒業式が執り行われました。プログラムの中に国歌斉唱もあったのですが、別に何らトラブルもなく、形式通りに国歌斉唱が行われました。僕には中国や韓国から来た友達がいて、その人達にも聞いてみたのですが「別に気にしてないし、違和感もない」と言っていました。本当の事です。僕の考えなのですが、「日の丸、君が代」に反対しているのは、ほんの少しの人ではないでしょうか。別に「反対、反対」と騒いで不和の種を巻かなくてもいいと思います。なんでわざわざ喧嘩しようとするんでしょう。中学生の僕からは、反対派の人達が他の国との友好を妨げているようにしか見えません。
長くなってすいません。以上です。



 私のHPをのぞきに来るのだから、さまざまな問題を真面目に考えている中学生なのだろう。私が中学生だったときはガキ大将で遊びほうけていた。それと比べてとても感心してしまう。さらにうんと勉強して、親・兄弟・学校・マスコミなどから植えつけられてきた知識やものの見方や考え方を検討し直して本当の自分のものを見つけてほしいと思う。その際、お墨付きの検定教科書のようなものだけではだめで、私の知り合いの中学生だったら、例えば上記の(1)~(4)のような本を薦めてみたいと思った。

 やっと今日のテーマ。
 一昨日、自民党と公明党が教育基本法改悪の目玉の一つ「愛国心」を巡っての密議で合意に達したとの新聞報道(朝日)があった。その合意文は次の通り。

『伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと』

 裏の思惑も妥協の経緯も根底にある貧相な思想・精神も丸見えの、なんとひどい文章だ。
 これに対する感想を求められて3人の識者がコメントを寄せている。その中の一つにつくづくあきれ果てた。他の二人に対して、全く別の国に生きているような皮相な認識を披瀝している。


民主主義の時代、危険はない
 中嶋嶺雄・国際教養大学長の話

 自分も委員の中央教育審議会が答申を出してから3年もたち、国を愛するという表現が「言葉遊び」になり、政治的な妥協の産物になったのは残念だ。
 「愛国心」はファシズムの時代なら危険だが、現在のように民主主義と個人主義が貫徹している社会では、使ってもまったく問題はない。1920年代に、米国の社会学者も「愛国心は郷土愛から出てくる健全な発露だ」と言っていた。一方、「他国を尊重し」という表現もあり、真の意味での異文化理解につなげるべきだと思う。
 ただ、根本の議論は教育をどうするかであるべきだ。政治レベルで教育の荒廃、とくに高等教育の危機をどこまで本気で直すつもりがあるのかを見守りたい。



 自分も委員の一人だった中央教育審議会の答申通りに「愛国心」を表面に据えよといっている。そして「愛国心」という言葉は「現在のように民主主義と個人主義が貫徹している社会では、使ってもまったく問題はない。」だとさ。どっからこんな脳天気な現状認識が出てくるんだ?
 さらに「愛国心は郷土愛から出てくる健全な発露だ」などという俗論を言うのに80年も前の「米国の社会学者」の権威でその正当性を補強しようとするなど全くの噴飯ものだ。いやいかにも「学者」らしいというべきか。
 この人、現代中国学が専門だ。友人からもらったものだが、この人の若い頃の著書を2冊持っている。この人、まだ三十代の新進気鋭のころ、多くのバカ知識人が「文化大革命」を喝采してはしゃいでいる中で、「文化大革命」の正体を見抜いて冷静で気骨のある論陣を張っっていた。そうした人がどうして自国についてはこのような惨めで皮相な現状認識しかできないバカ知識人になってしまったのだ。たぶん、「大学長」だとか「中央教育審議会の委員」とかを歴任して権力の中枢に近づいたために、権力への阿諛追従の習い性を身につけてしまったのだろう。いわゆる「御用学者」の典型だ。
 このような中学生なみの「教科書民主主義」にいかれた頭には、(1)~(4)のような良書がよい気付け薬になるだろう。
474 「良心の自由」とは何か(7)
キリスト教単性社会
2006年4月15日(土)


 一般に宗教裁判とは異端審問という名目で行われたもの全てを指す。すぐに思いつく事例にガリレオ・ガリレイ等の科学者に対する裁判がある。聖書の説く世界観(天動説)と異なる研究成果(地動説)が糾問されている。ガリレオに対する第1回目の裁判は1616年であった。なお、ガリレオ以前に、ジョルダノ・ブルーノ(イタリアの宗教家、哲学者)がその無限宇宙論を異端とされ、1600年に火あぶりの刑に処せられている。
 また、カトリックとプロテスタントとの抗争(宗教改革)の過程で行われた凄惨な異端審問がある。「魔女裁判」がキリスト教に先行する土着の宗教に対する弾圧なのに対して、これはキリスト教の中での異端(分派)狩りということになる。中でも1562年から始まったフランスでの宗教戦争では、15 72年にカトリック側がプロテスタント側のおよそ4000人を大量虐殺したという事件(セント・バーソロミューの大虐殺)があった。この宗教戦争は1598年のナントの勅令(アンリ四世)によって終結している。そのナントの勅令に次の条項がある。

第6条
 余が臣民の間に騒乱、紛議のいかなる動機も残きぬため、余は改革派信徒が、余に服する王国のすべての都市において、なんら審問・誅求・迫害されることなく、生活し、居住することを認める。
 彼らは、事、宗教に関してその信仰に反する行為を強いられることなく、また本勅令の規定に従う限り、彼らの住まわんと欲する住居、居住地内において、その信仰のゆえに追求せられることもない。

 「信仰の自由」の宣言であるが、あくまでもキリスト教内のことである。「魔女」やキリスト教以外の自由には何も触れていない。「宗教の自由」ではなく「宗派の自由」である。

 さて、「信仰の自由」の古典的典拠となっている「寛容についての書簡」をロックが発表したのは1689年だった。大がかりな魔女狩りの最後の時期(1660年~1680年)が終わり、異教はすっかり狩りつくされていた。古田さんは『異教が狩り尽くされ、異教的な臭気すら殺されたキリスト教』の神のみを唯一の神とする社会を『キリスト教単性社会』と呼んでいる。

 その書簡の中でロックは「信仰の基本事項に関する異端や公共の秩序を乱すもの」だから「許すべきではない」として「寛容の対象から除外すべきもの」を4項目あげている。

l 国家に危害を加えるもの
2 他の宗教に対して不寛容なもの
3 外国の権力への服従を主張するもの
4 神の存在を否定するもの

 「1」でいう「国家」は「イギリス教会の首長たるイギリス国王にひきいられる国家」である。
 「2」はピューリタン(プロテスタント)派の傾向への戒めであり、
 「3」は英国に圧力を加えつづけて来たローマ・カトリック教会への牽制である。
 「4」の「神」とは「キリスト教の神」である。ここで否定しているのはキリスト教以外の異教である。(もちろん無神論者をも含んでいよう。)

 つまりロックが言う「寛容」とは「イギリス教会の首長の支配下における各派の容認」という意味である。ロックの「信仰の自由」はキリスト教単性社会内のそれであり、やはり「宗教の自由」ではなく「宗派の自由」にすぎなかった。

 『異教・異端の徹底的粛清によって合一されたキリスト教単性社会』という暗黙の前提は、1949年に制定されたドイツ連邦共和国基本法にまでも真直ぐに貫流していると、古田さんは指摘している。


 神および人間にたいする責任を自覚し、その国民的・国家的統一を維持し、かつ合一されたヨーロッパにおける同権の一員として、……ドイツ国民は、過渡期について国家生活に新秩序をあたえるために、その憲法制定権力にもとづき、このドイツ連邦共和国基本法を決定した。(前文の冒頭)

 日本などの非西欧世界では「諸宗教の自由」の明々白々の侵害でしかあり得ない、この表現が、ここでは 「信教の自由=神の中の宗派の自由」の明々白々の根拠とされているのです。

473 「良心の自由」とは何か(6)
魔女裁判(3)
2006年4月14日(金)


 以上の2つの見地からは、なぜ「魔男」ではなく圧倒的に「魔女」だったのか、という疑問には答えられない。第3の見地が必須である。
 私(たち)が「魔女」という言葉から喚起されるイメージは、例えばシェークスピアの「マクベス」の冒頭に登場するあの薄気味悪い、大釜で得体の知れない麻薬らしいものを煮立てている老女だ。だが魔女裁判で魔女とされた女性たちはそれとは似つかない。上品なご婦人もいれば、いたいけな少女もいる。これはどうしたことだろうか。

 古田さんは古代ゲルマン族の宗教とその歴史から、「魔女」の本質的意味を次のように読み解いている。「良心の自由」あるいは「信仰の自由」の意味を読み解くための重要な手がかりになる部分なので、少し長いがそのまま引用する。


 古代ゲルマン諸族のブルグンドの説話にもとづく「ニーベルンゲンの歌」において、魔法・魔術が決して薄気味悪い、怪奇をものでなく、古代的種族の宝物の守護者の役割を果たしていること、つまり古代的種族の精神的中枢としてあらわされていることを思い起こします。
 このように、キリスト教から見た魔法はゲルマン諸族の民族宗教的所産そのものであったことが示唆されています。
 「彼らは、女には神聖にして予言者なる或るものが内在していると考え、而してそれゆえに、女の言を斥け、或はその答を軽んずることをしない。我々は大ウエスパスィアーヌス帝の当時、〔ゲルマーニアの〕多くの人々から永い間神と崇められたウェレダを見たことがある。しかし彼らはその以前にも、アウリーニア、およびその他、おおくの女を崇拝したのである」

 これはタキトウスの『ゲルマーニア』(八)(岩波文庫)にしるすところです。田中秀央・泉井久之助氏の註するところによれば、ウェレダはゲルマンのバターウィー族で神として尊崇せられた女予言者で、常にリッぺ河(ライン河の一支流〉畔の塔上に棲み、ここより予言を伝え、対ローマ抗戦の命令を下していたとせられます。彼女はローマに生け捕りにされ、さらし者としてローマに送られたとあります。
 が、ストラポーン(前1~後1世紀、ローマ時代のギリシア人歴史家・地誌家)の『地理書』にもキンブリー族の女予言者の話が伝えられているところを見ても、幾度ローマに送られ、さらし者にされ見せしめにされても、彼女等は次々とゲルマン社会の中から産出せられていたと思われます。

 事実、ウェレダ(Velaeda)の「Vel-」はゲルマン語でもケルト語でも「見る」を意味し、前者のアングロサクソン語Wlitan「見る」、後者のコーンウル語gweled「見る」の基本となっています。つまりウェレタとはSeher-S eer「予見者・予言者」(女性)の意味の普通名詞なのです。

 当時のゲルマン社会は「その(姦通の)処罰は立ちどころに執行せられ、その夫に一任されている。夫は妻の髪を切り去って、これを裸にし、その近親の目前においてこれを家より逐い出し、鞭を揮って村中を追いまわす」(『ゲルマーニア』岩波文庫)というように、もはや完全に男子専制社会を呈していますが、女子尊重という母系制の遺風は血縁意識、民族宗教的風習の中に根強く根をおろしていたようです。また、宗教信仰の面で、ゲルマーニア神話の神々 ― ヘルクレース、マールスなど ― やエジプト神話の神々 ― イースィスなど ― 等、異国より流入した信仰が多神教的に混在していますが、それらと融合して、それらを背景として古来の女予言者達が活躍していたものと思われます。

 諸宗教の混合宗教として有名なマニ教異端の一派カタリ派への弾圧を通して宗教裁判の正統性が確立した(11~12世紀)という史実が興味深く思い起こされます。
 そしてヨーロッパにおける宗教裁判の中に魔女裁判が特異の位置を占めることが理解せられます。そしてそのいわゆる魔女裁判で九割を魔女が占める ―  10%は魔男でした ― という女性優位(?)も理解せられます。

 福音書(共観福音書)の中のマリアはわが子イエスの仕事の意義も理解できず、おろおろと心配する、無知の女(イエスも母親に対し、冷淡なつっぱなした態度で対しています)として描かれているのに、段々崇高な光をあてられはじめ、ことにヨーロッパ・ゲルマン諸族の中において聖母としての未曾有の位置を獲得していった事情と表裏をなすのが魔女だったわけです。

 15世紀未、スペインの国家的組織の中に設けられた宗教裁判所長官はユダヤ人、イスラム教徒迫害を任務とした(16世紀以降は新教徒迫害)ことでわかるように、回教圏の三面包囲をうけたヨーロッパ・キリスト教社会は外に対しては回教徒の恐怖に対抗してキリスト教を守ると同時に、自己の内部粛清としてヨーロッパ内の異教・異端へのヒステリックな迫害、粛清裁判を幾世紀にもわたってつづけ、内には純粋な、キリスト教権力への絶対服従に満たされ、外に対しては戦闘的なキリスト教専制社会を形成し得たのです。

 つまりヨーロッパ内部ではもはや「キリストの神」以外の神々はすべて形式的にも質的にも駆逐され、憎悪で焼かれてしまったのです(サンタクロースのようにキリストへの忠実無害な従僕に変身転向した民族神のみがわずかに生きのびることを許されています)。

472 「良心の自由」とは何か(5)
魔女裁判(2)
2006年4月13日(木)

魔女裁判の現実的社会的意義は何だったのか。『サラセン世界の三面包囲下にあるヨーロッパ』というイスラム教対キリスト教という問題がその第二の見地である。

(1)
 1270年の十字軍の敗北的終結の5年後、トゥールーズで最初の魔女焚殺が行われている。以後、宗教裁判・魔女裁判が確立していく。
(2)
 スレイマン一世の中欧侵入後の十六世紀末から一世紀間に最も大がかりな魔女狩りが行われている。
(3)
 最も宗教裁判の盛んだったイベリア半島がヨーロッパで最もながらく回教世界であった地域だった。逆に、宗教裁判がほとんど全く行われなかったスカンジナビア半島が回教世界の三面包囲から最も遠い地点にあった。
(4)
 711年にイスラム教徒がジブラルタルを占領して以来、イスラム教世界とキリスト教世界との長い攻防が続く。その間、キリスト教世界が回教世界に勝利したとされる事件もあるが、それはイスラム世界の脅威の決定的打破でなかった。(肝心のキリスト教の聖地イエルサレムが1917年まで結局キリスト教世界の手に奪還せられなかった。)
(5)
 イスラム教世界は中世・近世初頭のヨーロッパに対して文化的にも優越していた。ヨーロッパ近世・近代のギリシャ復帰、自然科学の発展は直接の古代復帰でなく、サラセン文化内のギリシャ、自然科学発展を媒介して継承したものである。
(6)
 宗教の自由に関しても、イスラム教世界は一種の政策的寛容に達していた。キリスト教世界のような野蛮酷烈な宗教裁判でなく、異教徒に対して寛容をもって臨んでいる。例えば、北アフリカではその慣例の中でキリスト教への勝利が達成せられていった。

 以上のように、あらゆる面で優越していて強力であったイスラム教世界にとりまかれた、文化的にも軍事的にもより劣ったキリスト教世界の支配者たち(ローマ法王や諸国王など)の深刻な恐怖心の生んだヒステリー現象、それが魔女裁判だった。

 続いて、古田さんは次のように述べている。


 この点、わたし達は近い経験を見ています。それはロシア革命後のソヴェト体制内部のスターリン独裁と苛烈な粛清裁判です。それを解く一つの鍵が全世界の帝国主義諸国――少なくともこの段階では文化的・軍事的に圧倒的により強大であった国々――の包囲下の社会主義国という情勢から来たことは今ではよく知られています。絶えずねらわれ、三面を包囲されている、いつ帝国主義武力の侵入があるかもしれぬ、という恐怖心は、スターリンの個人的独裁下の強力軍事体制、そのための思想統一、スターリニズムという戦闘的「精神の核」の形成の要請を生み、そのために苛烈な異端への粛清がヒステリカルに連鎖的に遂行されたのです。

471 「良心の自由」とは何か(4)
魔女裁判(1)
2006年4月12日(水)


「魔女の秤」
 あらかじめ被疑者の体重を予想する。実際にはかってみて予想体重と一致するか、それ以上の場合は潔白が承認され、それより下の場合は、魔女と認定される。
「水審判」
 女を縛って水に入れ、水中に沈んだら潔白、浮かんだならば魔女として判定される。

 日本の古代には盟神探湯(くがたち)という正邪判定法があった。それと同種であり、どちらかというと古代的観念の所産だ。私たちにはまったくの迷妄としか思えないが、『一般的な「権威ある」魔女判定法とされ、実際の法廷で使用せられていたもの』だという。

 古田さんはもう一つ、つぎのような判定法を紹介している。

「魔女刺し」
 みんなの見ている前で衣服を頭の上にまくしあげて腰まで裸にし、からだに針を刺さすという拷問。
 こした拷問で自己を魔女と認める自白を強要し、しかも自白しないことがまた魔女の証拠であるとする。
 あるいは、拷問で糾問されても「泣かないこと」が魔女の証拠であると同時に「泣くこと」も魔女が自己を魔女でないかのように見せる詐術とした。

 結局は一度「魔女」という嫌疑をかけられたら「魔女」と判定される以外にない。古田さんは『魔女であるかどうかよりも、魔女というレッテルをはられた犠牲者の存在がいかに社会的必要物だったかを示しています。』と指摘している。

 魔女裁判による犠牲者はどのくらいいたのだろうか。

 ドイツの一地方に任命された審問官はさして長くない、自分の任期のうちに、数百人の魔女を発見し、審問し、処刑したことを刻明に冷静に報告してる。

 『魔神崇拝論』の著者ニコラ・レミ(1530~1563年)も大審院で15年の在任中に約900人の魔女に処刑を宣告したと報告している(平均一週間に一人以上)。

 『これらは決して異例ではなく、全ヨーロッパ各地の通例の状況の一例に過ぎない』という。

 ではなぜかくも不条理で残酷な宗教裁判が行われねばならなかったのか。その現実的社会的意義は何だったのか。
 まず第一に考えられるのは『ローマ法王を頂点とする中世的封建的ヒエラルヒーの強制的圧力』『人民を恐怖心でしめつけることによって階級社会を強力に維持する裁判』というとらえ方であろう。この見地は欠くことのできぬ必要な要件であるが、この裁判の歴史的性格を理解するにはこの見地からだけの説明では十分ではない、と古田さんは言い、この見地だけからは説明しきれない魔女裁判の歴史的な経緯を指摘している。

(1)この裁判が中世ヨーロッパ内で地域的に濃淡の存すること、特にスカンジナビア半島ではほとんど皆無に近かった。逆に近世的先進地域イベリア半島で最も盛んであった。
(2)魔女裁判が猖獗を極めたのは、8世紀以前の封建制度形成期や、9~13 世紀の封建制度完成期(10~13世紀が法王極盛期)でなく、13世紀を起点として17世紀に至る近世期にあたっている。
 中で最も大規模な魔女狩りが行われたのは17世紀全期間。1590~1610年、 1625~1635年、1660~1680年の三期にわたり、約10万人の魔女が焼き殺されている。
 魔女裁判による最後の処刑は1781年、完全消滅は1834年。

 このような蒙昧な裁判がつい百数十年前まで行われていたとは、驚きだ。私(たち)は「中世は暗黒時代」という間違った歴史観を刷り込まれている。その先入観が根強いので、魔女裁判のような極悪非道な人権無視の権力行使は中世の出来事だと、つい思いがちだ。中世が一般に言われるような暗黒時代ではなかったことは、たとえば網野善彦さんの諸研究がそれを証明している。

 さらに次のような事実も第一の立場だけでは不十分であることを示している。

 「魔女」に擬せられたのはどのような階層の女性かというと


ヴュルツブルクの司教管区にある被処刑人名簿によると、火刑になった者の身分は「小刀研ぎ師」や「橋門の見張番の女」といった、貧しい階級の者と共に、「洋服屋の太った妻」「パン屋の妻」「収税吏の妻」から「シュルツ博士の幼女」「太った貴族の女」に至るまで各階級に対しはなはだ「博愛的」な一面を有するのも、階級主義的見地のみからは尽くせぬ要素を感じさせます。



 「ところで、魔男」(?)というのはいなかったのか。いたそうだ。ただし全体の10%ぐらいだという。

470 「良心の自由」とは何か(3)
二つの「不可侵性」
2006年4月9日(日)


 前述のような迷路は現行の憲法内のみでの理解・註釈をする必然的な帰結であり、『いったん巨視的見地に立てば一目瞭然の理解を一挙に獲得することが出来る』と古田さんは『日本国憲法作製の思想の分析的理解』を試みる。

 その立場の大前提は次の2点である。

第一
 日本国憲法は英文の方が原文的意義をもった点が少なくないこと。
第二
 この第19条、第20条は当時の占領軍政部G・H・Qにとって特に力点の置
かれた部分の一つであると思われること。
 これは新憲法成立の政治的歴史的背景であるポツダム宣言に明言されている。

第10条 言論・宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし。

 第一の項からは「良心」はやはり'conscience'の原語から世界史的に
理解すべきだということになる。
 第二の項からは、「良心(conscience)の自由」は当然第20条に含まれるにかかわらず、特に第19条にも書かれた理由を考察することができるとし、古田さんは第19条と第20条の述語の違いに注目する。

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する
第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

「侵してはならない」
 ここに大きな意味がある。旧欽定憲法の屋台骨の第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」と対応する。新憲法では、まず第2条で「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として」とあり、第2条、第19条以外では次の三カ所で使われている。

第15条 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。
第21条 通信の秘密は、これを侵してはならない。
第29九条 財産権は、これを侵してはならない。


 ここで注意すべきは、世界立法史上、基本的人権、つまり自然法としての人間の自由権は、その立法史上の淵源の位置に「良心の自由」を見出すということです。
 だから、第19条の「良心の自由……侵してはならない」は「思想の自由……侵してはならない」の一部として独自の意義を解消してしまうべきものでなく(昭和24・12・5第4特別部の東京高裁判例のように単なる「道徳的判断」を指すような位置に矮小化することは、とりもなおさず独自の意義を解消することです)、むしろ新憲法中の「不可侵」性をになう基本的人権中の淵源的中核として、旧憲法の天皇の不可侵性、言いかえれば、天皇信仰(天皇統治の神聖国家帰依)の不可侵性に対決する重大な意義をになっているもので、新憲法の中核的生命と言わねばなりません。

 ここには法的には米英的近代法体系の基本概念よりする、天皇神権的明治憲法体系への批判が横たわっています。とすれば、この新憲法の第19条の「不可侵」性は決して偶然でなく、むしろこれなくしては新憲法の意義の中心的部分が失われるものと、米英的近代法体系の上に立つ者(占領軍側)からは見えたに相違ありません。

 この点、明治憲法に一応「信教の自由」が認められつつも、〝安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル″限りであったこと、そしてその「臣民タルノ義務」の核心が天皇の神聖「不可侵」信仰にあったことを想起し、そのため、旧憲法条文上の「信教の自由承認」が本質的に潰滅に帰した歴史的事実に思い至れば、新憲法が第20条での「信教の自由の保障」のみに安心できず、第19条に「良心の自由」の「不可侵」を置いたことの歴史的、心理的理由とその意義はあまりに明瞭であると言わねばなりません。


 この欽定憲法と新憲法との「不可侵性」の対比の必然性を、古田さんは当時のアメリカにおける日本研究の様相から論証している。

 次に古田さんは「憲法内部から見ると不透明だが外から見ると透明に見えるという『魔術鏡的性格』は、一体何にもとづくのだろうか。」と問う。


 「良心の自由」という言葉がまだ熟していないような ― そういう近代化の伝統をもたない、現代日本の基底的非近代性がその原図だ、と言うのが一番通りのいい説明かもしれませんが、それならば日本が基底的に近代化すればするほど、この言葉 ― 「良心の自由」は日本国民にとってわかりやすくなってゆくでしょうか。
 そういう見地を保証するような論証を求めても、残念ながらそれが未来への楽天的予想にもとづく他、何の論証ももたぬことは到底おおいかくすことはできません。

 しかし、わたし達はこの魔術鏡の表裏の姿を注意深く観察し、分析することによって、事柄の思いもかけぬ真相に気づくようになるでしょう。その手がかりはアメリカとヨーロッパにおける'Leberty of conscience'の素性を刻明に客観的に批判的に洗い上げてみることです。
469 「良心の自由」とは何か(2)
憲法第19条
2006年4月9日(日)


 北海道の美唄市立中央小学校の卒業式では教員に「不起立」をさせないために、教員には椅子を用意せずに立たせたまま式を行ったという。こんな事を得々として行って権力に阿諛追従する校長のなんという醜悪さ!、滑稽さ!
 しかしこんなことがまかり通ってしまうほどこの国の民主主義は瀕死の状態にある。自分で自分の首を絞めている権力への阿諛追従者が多数派を占めている。
 本題に入る。(以下断りがない限り引用文は『神の運命』からのものである。また傍点を振って強調をしている語は太字で替えた。)

 古田さんの議論は憲法19条の吟味から始まる。

 第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 この条文の内の「良心の自由」という言葉は『一般の日本国民にとって決して熟した表現ではありませんし、むしろ、よく考えてみればますますはっきりしなくなるような、単語のつらなり方です。』と指摘している。
 「良心」を広辞苑は次のように解説している。

『何が自分にとって善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪を退ける個人の道徳意識。』

 そして「良心の自由」という項を置いて次のように言う。

『自分の良心に反する信念や行動を強制されないこと。多くの国の憲法で保障されている。』

 「多くの国の憲法で保障されている」はずの「良心の自由」がなぜ日本国憲法ではしっくりしないのだろうか。裁判の判例や憲法学説はこの「良心の自由」どう解釈しているのか、見てみる。主に三通りの解釈がある。

第1 最も一般的な判例上の解釈。
 条文の「思想及び良心の自由」は「<思想の自由>と<良心の自由>」と二つの事項が並立としたもの読むのが文法的には正しい。しかしこれを「<思想及び良心>の自由」と読み、「良心」は「思想」の一部分で、思想と良心は程度の差異に過ぎず、<思想及び良心>は「思想」と同じ意味になるとしている。
例 東京高等裁判所判決昭和24・12・5第4特別部
 「良心の自由とは思想の自由のうちその遺徳的判断に属する部分を指していうのであって広い意味での思想の自由の中に含まれる」

 すっきりしない部分を「見てみぬ振り」をしたことになる。これですっきりはしたが、「それなら、初めから<思想の自由>と簡潔に言えばよいではないか」という疑問が残る。

 この第1の解釈は『実際的な適用の場としての判例』には利便さを提供するが、一字一句を厳密に解釈する憲法学者には納得できないだろう。


第2 憲法学者の解釈
 条文を常識どおり「<思想の自由>と<良心の自由>」と読んで、その違いを次のように解釈する。
「思想とは人があることを思うこと」「良心とは人が是非辧別をなす本性により特定の事実について右の判断をなすこと」をいう。
 これに対して古田さんは次のようにコメントしている。


 「思うこと」が思想で「判断する」ことが良心、そういった良心の意味は少なくとも現在までの日本国民の辞書にはない語意ですが、その上、そういう「良心」の「自由」となると、世界法制史上に類を見ない珍奇な立法となり…



 古田さんは、佐々木惣一著『日本国憲法論』(有斐閣)から引用している。私の手元にある佐藤功著「日本国憲法概説」(学陽書房)は第1の解釈と第2の解釈のどちらをも立てようとした苦心惨憺たる解釈をしている。

 「思想」の自由と「良心」の自由との区別については、思想の自由はいわば論理的に何を正しいと考えるかの判断についての自由であり、良心の自由はいわば倫理的に何を正しいと考えるかの判断についての自由であるということができる。また良心の自由は、思想のうちその道徳的判断に属する部分であり、さらに根底的な部分であるともいえるであろう。しかし、両者の関係は密接不可分であって、その境界はつけ難く、特に両者を厳密に区別する必要はないというべきであろう。


 「思想」は「論理的判断」であり、「良心」は「倫理的判断」で「思想のうちその道徳的判断に属する部分」だという。ますます混迷を深めていると言わざるを得ない。


第3 英語の‘conscience'の訳語として解釈する。
 ヨーロッパ・アメリカの近代立法に見られる'conscience'はもっぱら 'liberty of conscience and worship'という表現で用いられている。この表現はロックを嚆矢とする。(1690年"Letters concerning toleration")
 ここでは、『良心〈conscience〉というのは外形的な宗教行為たる「礼拝」〈worship〉に対立する「内心の信仰」という意味』になる。田中耕太郎はこの立場で「良心の自由」を解釈しようとしている。
 この伝統的な用法で「良心の自由」を解釈すると、むしろそれは「信仰の自由」と言った方がぴったりということになる。これなら世界的用例に従った解釈であり、意味はすっきりとするが、日本国憲法内の整合性からは全くすっきりしない。なぜならそれは次の第20条と重複することになってはなはだ奇妙なことになる。

第20条 ①信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
②何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
468 「良心の自由」とは何か(1)
宗教の壁を越えるために
2006年4月8日(土)

 古田さんの公正で誠意にあふれた知的姿勢と、その理論の緻密で強固な論理性にすっかり魅せられてしまった。古田さんをもっと早く知るべきだった。最近そのことをつくづく悔やんでいる。
 いま新刊書店で手に入る古田さんの著書は朝日文庫の5冊(古代は輝いていた三部作・盗まれた神話・「邪馬台国」はなかった)だけのようだ。私はそれ以外の本を古書店で探し出している。その中に毛色の変わった一冊がある。

『神の運命―歴史の導くところへ』(明石書店、1996年刊)

 中心の論文は「近代法の論理と宗教の運命」で「三十代のはじめ、一気に物した小篇」だという。1964年に発表されている。これに出版時に書き下ろした序説「宗教の壁と人間の未来」と終章「古代の倫理と神話の未来」を加えて一冊としている。

 通読して、私が自らの課題の一つとしていた「宗教の明暗」を考える上で格好の一冊であると思った。改めて精読しようと思う。内容が豊かなので、私の読み方もいろいろな枝道に分け入ったり戻ったりしながらの長い道のりになることが予想される。たぶん、今追いかけている他のテーマにも立ち寄ることになると思う。煩をいとわず気長にやっていこう。

 序説や終章も興味深い話題に満ちているが、まずは本体の論文を読んでいく。この論文のテーマを古田さんは序説の最後のところで次のように述べている。


 かって、イエスを「マリアの不義による私生児」とののしり、バイブルの中のイエスの事績を「架空」化して笑いものとする。そのような所業が流行したこともありました。18~19世紀の「啓蒙主義」の時代です。
 否、最近まで、ソ連時代には、その種の「反宗教宣伝」が公の機関で行われていました。
 しかし、こんなものは「児戯」です。幼稚です。だからこそ「ソ連邦の解体」と共に、消滅し去ったのです。
 このような一種幼稚な「宗教批判」とは全く別の場所で、わたしは「宗教が人類に対しもった役割」の分析と批判が重要だと考えています。
 宗教は、人類の生んだ至宝です。魂の痕跡です。限りなく貴重なものです。
(中略)

 けれども反面、宗教は人類に対し、多大の損害をもたらしつつあります。
 最近の、日本における某新興教団のことはいわずもがな、イスラエルでも、ユーゴでも、英国とアイルランドでも、宗教の「恵み」より「害」を痛感する。それは地球上の多くの人々のもつこころではないでしょうか。
 「ベルリンの壁」は崩壊したけれど、このような「宗教の壁」を人類は乗り越えられるか。「克日」ならぬ、このような「克教」に成功するかどうか、これこそ21世紀の人類にとって、不可避の課題ではないでしょうか。



 古田さんは、この問題意識は「わたしの人生を一貫してきた」ものであり、「この問題に正面から深く鎮静したい」と述べている。古田さんの専門の研究テーマは「親鸞」だという。
 ところで、ブッシュのイラク侵略も宗教の「害」の一つだ。ブッシュを操っているのはキリスト教原理主義だという。

田中宇の国際ニュース解説(http://tanakanews.com/)

によると

「聖書には、イスラエルと反キリスト勢力との最終戦争(ハルマゲドン)が起きるとき、ローマ時代に昇天したキリストが再び地上に降臨し、至福の時代をもたらしてくれるという預言が書かれているが、この預言を早く実現するため、イスラエルの拡大や、中東での最終戦争を誘発しているキリスト教原理主義の勢力が、アメリカ政界で強い力を持ち、ブッシュ政権を動かしている」

という。
 ブッシュはキリスト教原理主義の熱心な信者だそうだし、ブッシュの背後にキリスト教原理主義の勢力があることは確かだろう。しかし、ハルマゲドンを早く実現するために政治政策が決定されているという点にはチョッと首を傾げたくなる。もし本当にこのようなばかげた思い込みを軸に人類の現代史が紡がれているとしたら、全くやりきれない話だ。世界最強のならずもの国家がオウム真理教と同じ妄想にとり憑かれている?!

467 「金印」と「黄金地帯」
2006年4月6日(木)


 前回引用文中の
『弥生の「黄金地帯」を、第三の従属国としての「奴(な)国」などではなく、第一の倭国、その中心領域として認めないかぎり、』

というくだりは、古田古代史になじみがないと分からない文ではないかと気になった。『古代史の未来』からもう二節引用する。(シリーズ「真説古代史」と重複する部分があるかもしれない。ご容赦を。)

 志賀島の金印に刻まれた文字「漢委奴国王」の読み方は「漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王」というのが定説だ。私も学校でそのように教わり、「ワノナノコクオウ・ワノナノコクオウ」とお経みたいに暗記したことが思い出される。いや今でもそのように教え続けられている。ところがどっこい、この定説も誤りであることを古田さんが解明している。第二部の1「金印」を全文引用する。(より詳しくは朝日文庫『「風土記」にいた卑弥呼』を参照)


 天明4年(1784)志賀島(福岡県)から発見された金印には「漢委奴国王」の五字が刻まれていた。後漢書倭伝の中で、光武帝が建武中元2年(57)に授与したとされるものである。この印文に対する理解の仕方が、日本の古代史像を真実(リアル)に把握するか否かの決定的な分かれ道をなす。
 中国の印文表記法は次のようだ。

 (A)授与者(中国の天子)― (B)被授与者(配下)
(中国の内外各層により、金印・銀印・銅印を分かつ)

 いずれも「二段」表記であり〝中間者″の介在はありえない。したがって、この印文の正しい解読は「漢の委奴(ゐど)の国王」である(「委奴」は光武帝のライバルであった「匈奴」に対する造語。〝従順な部族″の意)。
 つまり、従来の読解「漢の委(わ)の奴(な)の国王」はまったくの誤読である。中国の印文において、このような「三段」読みの国名はない。「漢匈奴悪適尸逐王」(大谷大学現蔵)という例があるが、「悪適尸逐(あくてきしちく)」は部族称号であって国名ではない。そのうえ「銅印」(もしくは金メッキ)であって「金印」ではない。
 金印の「三段」読みなど、まったくのルール違反だ。にもかかわらず、わが国の古代史学の定説派は、こぞってこのルール違反の道路を運行しつづけてきたのである。

 もしこの「奴国」が金印授与国であったとしたら、三国志の魂志倭人伝に二回も出現する奴国の記事中に、その旨の特記がない事実は理解不可能と言わねばならない。
 右の奴国(第一回出現)は、倭国中、第三の大国(第一位は邪馬壱国(女王国)。第二位は投馬国。戸数が各七・五・二万)である。にもかかわらず博多湾岸を「奴国」としたため、それ以上の出土物(三種の神器・絹など。後述)のあるべき女王国(いわゆる「邪馬台国」)を求めて、定説論者たちは永遠の流浪の旅に出ることになった。
 しかしその到着点などあるはずがない。なぜなら、日本列島の弥生期において、金器・銅器・ガラス器、そして絹など、当代最高の器物が集中出土すること、当地域(博多湾岸とその周辺)に匹敵しうる地帯は絶無だからである。神殿・宮殿なども同じだ。

 平成五年、私は学術論文をもって学会にこの点を問うたが、応答はない。



 次は第二部の4「黄金地帯」


 今まで繰り返し触れてきた「弥生の黄金地帯」の分布を要約しょう。

A 倭人伝の記述内容に「鏡」や「勾玉」や「刀」があり、この倭国が「三種の神器」を権力シンボルとする国家であったことは疑えない。その「三種の神器」を出土する弥生の王墓は「博多湾とその周辺」に限定されている。
①吉武高木(博多)・三雲(前原)・須玖岡本(春日)・井原(前原)・平原(前原)
②草浦里(光州)・良洞里(金海)
 すなわち、倭国の中心領域はこの「黄金地帯」以外にはないのである(草浦里は吉武高木とならぶ早い時期、金海は「イ方製鏡」を含む遅い時期、いずれも弥生時代)。

B 倭人伝中、最も重要視され、詳述されているのは錦(飾り絹)である。弥生の絹は「博多湾とその周辺」というこの「黄金地帯」にほぼ限られている(島原市三会村が唯一の例外だったが、近年、近畿でも一ヵ所出土)。この黄金地帯を〝第三の大国″としての「奴国」に当てた定説派は、逃れ道なき袋小路の中にいる。

C 弥生時代が「銅器の時代」であることは周知である。その「銅器の鋳型」もまた、この「黄金地帯」に最も集中している。

D ガラスは当時の貴品だ。その「ガラスの勾玉の鋳型」も、この「黄金地帯」において最大である。さらに、ガラスの璧(へき)は天子の配下の「諸侯」のシンボル物だが、三雲(前原)・須玖岡本(春日)・峰(朝倉)と「黄金地帯」に集中し、ここを取り巻いている(峰は再利用品)。

E 三国志の韓伝によると、「鉄」は弥生の貨幣だ。これもまた、筑前中城(博多・朝倉・前原)という「黄金地帯」に集中している。

 倭人伝の「邪馬台国当て」を競い、日本列島各地を〝御当地″としていた時代はすでに去った。自分の読解し、比定した当の女王国が、右のような「出土分布図」と対応しているかどうか、その検証が必要だ。それが現在の学問水準を示す。
 もし「邪馬台国はどこか、まだわからない」と主張する人があれば、その人は必ず〝日本列島各地、各所のいずれにも、右のような出土分布図が存在する″ことを示さなければならぬ。それが義務だ。教科書もまた、学問に基づくならば、同じである。



 最近「邪馬台国論争」(佐伯有清著、岩波新書)という本が出たことを新聞広告で知った。本屋でぱらぱら内容を点検して、購入をやめた。相変わらず「流浪の旅」をさまよっている学者しか取り上げていない。邪馬台国論争にも見事な一石(朝日文庫『「邪馬台国」はなかった』)を投じている古田さんを完全に無視した駄本である。この本の著者も学者としての誠実さを欠いている。日本古代史学会は一体いつまで面子にこだわり続けるのか。
466 「君が代」は九州王朝の賛歌
2006年4月5日(水)


 関心が四方八方に分散していて話題があちこちに飛んでいます。ご容赦を。

 「君が代」の歌詞は古今和歌集からとられたというのが定説になっている。巻第七「賀の歌」の冒頭の歌で

「わがきみは千世にやちよに さゞれいしのいはほとなりてこけのむすまで」

となっている。「題知らず」「読み人知らず」とあり、明らかに民衆の間に流布していた歌だ。しかし私はその初句が「君が代」でないのが気になっていた。いつ誰が書き換えたのだろうか。

 「君が代」の歌詞の出所については次のような説があり、私はこちらの方が正しいと思う。ついでなので現在の「君が代」が一般に広められていったいきさつを概観しておく。

 明治のはじめに日本に軍楽隊をつくろうとしたとき、大山巌がひごろ愛唱していた薩摩歌の一節を歌詞としてしめし、軍楽隊を指導していたイギリス人フェントンに作曲させたのが初代の「君が代」だ。軍歌だった。
 しかし、フェントンの曲は日本人になじまず、1876年(明9)11月3日の天長節を最後に演奏が中止さる。その後、1980年になって、海軍省から宮内省式部寮に、軍楽にふさわしい作曲をしてほしいとの依頼があって、現在の林広守作曲のものができ、同年の天長節に演奏された。
 したがって、「君が代」は国歌ではなく、正式には軍楽である。1893年(明26)になって、文部省告示によって小学校儀式唱歌用としてこの「君が代」が採用されたが、そのばあいも国歌ではなく、「古歌、林広守作曲」として採用された。(参考資料「教育反動-その歴史と思想-」)

 「第213 文部省唱歌事始(2005年3月15日)」で紹介した「君が代」はさしずめ第三の「君が代」というところか。

 余談ひとつ。
 「君が代」の歌詞を選んだ大山は幼名を岩太郎いい、後に弥介と改名している。そして最後は「さざれ石」が「いわほ」となるように「巌」と改名した。ハハハ…

 さて、私の関心は「君が代」の歌詞が薩摩歌の一節だったという点にある。
 「題知らず」「読み人知らず」として古今和歌集に採録された歌は相当古くから愛唱されていたのではないか。それはいろいろな形で庶民の間に流布されていたと考えられる。こんなことを漠然と考えていたところ、びっくり仰天なことを知った。以下は、古田武彦著「古代史の未来」の「第二部の5:君が代」の全文である。


  1990年、興味深い発見に遭遇した。「君が代」の成立をめぐる問題である。「君が代」の歌詞は、福岡県の福岡市と前原市、すなわち「博多湾岸とその周辺」の中の地名・神社名・祭神名から成り立っていることが判明したのだ。
A 「千代」―福岡市福岡県庁付近(千代町。海岸部は「千代の松原」)
B 「さざれ石」―前原市細石神社(三雲遺跡の裏)
C 「いわほ」―前原市井原(いわら)遺跡(三雲遺跡とならんで著名)
D 「苔のむすまで」―苔牟須売神(こけむすめのかみ。志摩町、桜谷神社の祭神)

 ここで、若干の注記が必要だ。
a 「八千代」は「千代」の美称。
b 「いわほ」は岩穂。岩が語幹、穂(あるいは秀)は接尾辞。「いわら」は岩羅。早良が沢羅、磯良が磯羅であるのと同じ。「羅」は接尾辞。「そら」「うら」「むら」等。古代日本語の原型のひとつ。

 一方、志賀海神杜(福岡市)の「山ほめ祭」では「君が代」が〝地歌″ 〝風俗歌″として述べられる(「歌われる」わけではない)。その言詞(禰宜〈ねぎ〉による)には、

「あれはや、あれこそは、我君の、めしの、みふねかや」

という言葉が登場する。「我君」は対岸の「千代」(博多湾岸)からこちら(志賀島)へ渡ってこられる。― そういう設定の台詞の一節である。船が渡るのは博多湾。「我君」とは筑紫の君なのである。

 つまり、「三種の神器」の分布する博多湾岸、弥生の「黄金地帯」に連綿と伝統してきた行事、その中に「君が代」の歌詞があった。その歌詞は、その「黄金地帯」内の地名や神社名や祭神名を〝連ね合わせ″て作られていた。これは偶然だろうか?
 否、必然だ。弥生の「黄金地帯」を、第三の従属国としての「奴(な)国」などではなく、第一の倭国、その中心領域として認めないかぎり、「君が代」は、口には丸暗記で暗唱できても、歴史の心からは遥かに遠いのである。



 「君が代」は、はるか古代から今に至るまで祭り歌として唱え続けられてきた九州王朝の賛歌だという。大山巌が愛唱していたという薩摩歌も、たぶんこの賛歌の流れに連なるのではないだろうか、と私は想像している。
 上記の言詞では「我君」とあり「君が代」ではない。薩摩歌で「君が代」になったのだろうか。
 古事記・日本書紀が九州王朝の神話・説話を多く剽窃・改竄・接ぎ木している(「真説古代史」参照)が、現代の天皇の誉め歌も、もとは九州王朝のものだったとは、何たる皮肉!もっともこの場合は、意図的な選択ではなく偶然の結果ではあるが、なんという皮肉だろうか。はからずも、天皇家はいまだに本流・九州王朝の威光から逃れられないでいるということになる。

465 「惻隠の情」とは何か
2006年4月4日(火)


 藤原正彦著「国家の品格」がベストセラーだそうだ。
 私はへそ曲がりでベストセラーには食指が動かない。特に評論関係のものには、どうせ耳目に入りやすい俗説が説かれているんだろう、という偏見を頑なにまもっている。
 「国家の品格」も読んでみようとは思わない。大体その表題からして、たぶん「国家」と「国(社会)」をごっちゃにした議論だろうな、と推測してしまう。などと思っていたら 4月3日付朝日新聞「今日の論点・国家の品格とは何か」で藤原さんが『「惻隠の情」を広めよう』という題で「国家の品格」を論じていた。その論点から一つだけ取り上げてみる。
 藤原さんは『経済至上主義や市場原理主義』によって『日本だけでなく世界全体もめちゃくちゃになってしまうだろう。』と憂慮して次のように言う。


 こんな世界の中で、日本はどうすべきか。私は、経済的豊かさをある程度犠牲にしてでも「品格ある国家」を目指すべきだと考えている。そのためにも、新渡戸稲造の「武士道」の精神を復活させることが大切だ。戦前は軍国主義、戦後は経済至上主義によりすっかり武士道精神が廃れ、これに伴い国家の品格も失墜してしまった。これをもう一度取り戻すのだ。

 武士道には、慈愛、誠実、正義や勇気、名誉や卑怯を憎む心などが盛り込まれているが、中核をなすのが「側隠の情」だ。つまり、弱者、敗者、虐げられた者への思いやりであり、共感と涙である。

 このような日本人の深い知恵を世界に向けて発信することこそ、荒廃した世界が最も望んでいるのではないか。



 『慈愛、誠実、正義や勇気、名誉や卑怯を憎む心』や『弱者、敗者、虐げられた者への思いやり、共感と涙』=「側隠の情」に異論があるのではない。その持ち上げ方に胡散臭さを感じている。
 それらの「心」や「情」は市井の片隅にごく普通に生きている大衆の日常においてはごく当たり前にみられるものだ。そしてそれらの「心」や「情」は何も日本人の専売特許ではなかろう。なぜことさらに「武士道」を持ち出さなければならないのか。いまにも「日本人の美しい心」とリンクしそうだ。
 それに何よりも「心」とか「情」だとかは「国家」の属性ではない。それは「国家」の問題ではなく個人の倫理の問題だ。『経済至上主義や市場原理主義』と対比すべき事柄ではない。
 前々回の『ロールズ』からの引用文中に「正義感覚」という言葉があった。「市民的不服従」の正当化の重要な拠点の一つとして用いられている。『ロールズ』では「正義感覚」を次のように解説している。


 私たちが「私憤」(他者の不正がもたらした危害に対する直接の反応)や「公憤」(他者の不正によって別の他者がこうむる危害を見た私たちの反応)を感じたり、友情や相互信頼のような絆を保てるのは、道徳的人格性の基本的側面である「正義感覚の能力」のゆえなのだ。

 この「正義感覚」は、しかもたんに書物の上だけの概念ではなかった。その感覚こそ同時代のアメリカで燃え上がった市民たちの抵抗運動の”共鳴盤〟の役目を果たしたものである。



 ここで言われている「正義感覚」は「惻隠の情」と呼ばれているものとどう違うだろうか。新渡戸稲造の「武士道」を読んでいないので断定はできないが、藤原さんの説くところからは、私には違いが見つからない。
464 ここまできた都教委の狂気
2006年4月2日(日)


 [anti-hkm]MLに増田さんの分限免職についてのご本人のメッセージが配信されました。掲示板「メールの輪」に掲載しようとしましたが、長すぎると拒否されました。ここに掲載します。
 なお、増田さんの実践の何がこのような厳しい弾圧を受けているのか、「第83回・2004年11月5日」「第86回・2004年11月8日」「第87回・2004年11月9日」で記事にしました。合わせてご覧ください。
 「従順に従う生徒」を望んでいるイシハラ一派は、「考える生徒」を育てる授業を忌み嫌う。思えば大日本帝国下の教育弾圧は「綴り方教育」をまず槍玉に挙げています。

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皆さんへ。(転送歓迎)
被処分者の会近藤です。

 昨日は、卒業式での処分が発令されました。高校28名、義務制3名、障害児学校2名、計33名です。
 処分発令抗議・該当者支援行動、総決起集会、記者会見、3.31全国集会・国会デモと遅くまでお疲れ様でした。詳しい報告は後刻いたします。

 増田さんは、昨日13時40分に処分発令で水道橋に呼び出されていましたが、顔を見せませんでした。「どうなったのかな?」と思っていたら「全国集会」の最中に「分限免職」の情報が入り、驚き怒っていました。

 午前1時に家に帰ったら増田都子さん(九段中、都研修センターで強制「缶詰」研修中)からのメールが届いていました。何と増田さんが、「分限免職」となりました。断じて許すことができません。増田さんのメールを転送します。奇っ怪なる「処分理由」をお読み下さい。人ごとではありません。

以下、転送します。

<転送、大歓迎>
 今後、更に、断固として闘いますので、ぜひ、ご支援ご協力ください!
 以下に、その「理由」なるモノを載せますが、犯罪都教委が言う「誹謗」「不適切」とは、正常な判断力を持つ人の日本語では「批判」ということですので、そこは「批判」と翻訳してお読みいただけると、「処分理由」の真実が理解できるでしょう。
 要するに犯罪都教委の真実を暴露する教育をする者は、恐すぎておいておけない、ということでしょう!?

<犯罪都教委が言う「クビ」の理由>
 上記の者は平成9年当時勤務していた東京都足立区立第十六中学校において授業を行った際、紙上討論と称する自作プリントに当時の同校生徒の保護者を誹謗する内落を掲載したこと及び同校生徒に配布する印刷物を同校管理職の許可を得ることなく配布したことにより、平成10年11月l7日に、信用失墜行為及び職璃命令違反を理由として、東京都教育委員会から、l月間給料の10分の1を減ずる処分を受け、また、同校PTA会員名簿及び同校の封筒を使用して、当時同校生徒の保護者との係争中の裁判に関する自己の一方的な主張を記載した文書を当時の同校生徒の保護者全員にあてて郵送したことにより、平成11年7月28日に、信用失墜行為を理由として、東京都教育委員会から、1月間給料の10分の1を滅ずる処分を受け、上記処分を受けた等の理由により、同年9月1日に、東京都教育委員会から、指導法の改善、教育公務員としての資質向上等を図ることを目的として、平成12年3月31日まで、東京都立教育研究所において長期研修を行うことを命ぜられ、同年4月1日に足立区教育委員会から、平成18年3月31日まで、同教育研究所において同様の内容の長期研修を行うことを命ぜられ、同年4月1目に、同教育委員会から、平成14年3月31費まで、東京都教職員研修センターにおいて同様の内容の長期研修を行うことを命ぜられた。

 このように、上記の者は、約2年7か月間にわたる研修を受講したにもかかわらず、平成17年6月下旬ころから同年7月上旬ころまでの間、特定の個人等を誹謗する不適切な教材を、千代田区立九段中学校において、同校生徒に配布して授業を行ったことにより同年8月30日に、信用失墜行為を理由として、東京都教育委員会から戒告処分を受けた。

 また、上記の者は、千代田区教育委員会から、上記処分を受けた等の理由により、平成17年9月1日に、同区立学校教諭としての同区の教育目標・方針の認識等を目的とした研修を、同教育委員会において同月16日まで行うことを命じられたが、上記処分を受けたことの反省が見られない等、十分研修の成果があがらなかった。

 また、上記の者は、同月20日に、同教育委員会から、学習指導の改善及び教育公務員としての資質向上等を目的とした研修を、東京都教職員研修センターにおいて平成18年3月31日まで行うことを命じられたが、同日午前9時ころ、同センターにおいて、研修ガイダンスを受けた際、持参した抗議文を読み始め、同センター企画課長から延べ3回にわたり止めるよう指示されたにもかかわらず、約2分間同文書を読むという抗議を行い、また、同日から12月9目までの間、研修内容の説明及び講義の際、裁判の資料にするなどと言って録音行為を始めたため、研修担当者から止めるよう再三指示されたにもかかわらず、延べ12回にわたり録音行為を行い、さらに、平成17年9月22日午前9時30分ころから同日午前11時5o分ころまで、同センターにおいて、研修時間中であるにもかかわらず、同センター所長あての抗議文を作成するなど、不適切な行為を繰り返した。

 また、上記の者は、同研修を命じられた期間中である同年11月7日、豊島区立勤労福祉会館で開催された集会において、千代田区立九段中学校長から千代田区教育委員会にあてた文書が、同校生徒の保護者にかかる情報が記載された文書であるにもかかわらず、文書に記載された同保護者の了解を事前に得ることなく同文書を配布し、また、同集会において、上記の者が執行委員長の地位にある団体が発行し同保護者を誹謗した内容が記載されているビラを、同集会において上記文書と併せて配布するなど、同保護者を誹謗するという不適切な行為を繰り返し行った。

  また上記の者は、平成17年9月20日から、平成18年3月3l日まで、東京都教職員研修センターにおいて、学習指導法を改善すること、教育公務員としての資質向上に関すること等を目的とした研修を命じられたが、上記処分を受けたことに対し、自己の正当性を主張するのみで反省等がみられず、また、研修講師等に対して不適切な言動を繰り返す等、研修の成果はあがらなかった。

 上記の者は、平成10年から2度の懲戒処分を受け、平成11年9月1日から平成 14年3月31日の2年7カ月にわたり、学習指導法の改善等を目的とした研修を受講し、さらに平成17年9月20日から平成18年3月31日までの約6カ月にわたる研修を受講してもなお、教育公務員として不適切な独善的行為等を繰り返しており、今回の研修中におけるこれらの行為、研修結果等を総合的に判断すれば教育公務員としてはもとより、公務員としての自覚や責任観が着しく欠如し、その職に必要な適格性に欠くものであり、地方公務員法第28条第1項第3号の規定に該当する。

 よって、上記の処分を行うものである。



◎抗議先
▼都民の声総合窓口(東京都生活文化局広報広聴部都民の声課都民の声係)
 〒163-8001 東京都新宿区西新宿2-8-1 東京都庁第一本庁舎3階南側
 TEL:03-5320-7741(総括ライン)
 または03-5388-3144(提言・要望ライン)
 FAX:03-5388-1233
 koe@metro.tokyo.jp
 http://www.metro.tokyo.jp/POLICY/TOMIN/iken.htm

▼教育委員会都民の声窓口(東京都教育庁総務部教育情報課広聴担当)
 〒163-8001 東京都新宿区西新宿2-8-1 東京都庁第ニ本庁舎30階南側
 TEL:03-5320-6733(直通)
 または03-5321-1111(内線53-178)
 FAX:03-5388-1726
 S9000004@section.metro.tokyo.jp
 http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/mail.html

▼東京都教育委員会教育長・中村正彦
▼東京都教育委員会委員長・木村孟
 〒163-8001 東京都新宿区西新宿2-8-1 東京都庁第ニ本庁舎30階北側
 TEL:03-5320-6701(直通)
 または03-5321-1111(内線53-001)
 FAX:03-5388-1725(教育庁総務部教育政策室)

▼教育庁指導部指導企画課
 TEL:03-5320-6836(直通)
 FAX:03-5388-1733
 S9000020@section.metro.tokyo.jp
 http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2006/03/20g3e100.htm
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 それにしても何とも酷いお役人文章だな。

463 市民的不服従(2)
2006年4月2日(日)


1964年
 公民権法成立。すべての公共施設における人種差別を禁じる。
 しかし、黒人の実質的平等は実現されず、翌年には公民権デモが組織されさた。
 9月
 カリフォルニア州立大学バークレー校で、18の学生団体からなる共闘組織 FSM(フリー・スピーチ・ムーヴメント)が当局による政治活動の制限に抗議して「反乱」を起こす。
 これが全国の大学に飛び火。また北爆開始にともなう反戦ティーチインや徴兵カード焼却といった市民的不服従のベトナム反戦運動も、65年から本格的な動きを見せるようになっていった。
1966年
 黒人の自立・武装自衛を説く「ブラック・パワー」路線がSNCC(学生非暴力調整委員会)によって首唱される。
 以上のような時代背景のもと、1966年9月、アメリカ政治学会の大会でロールズはおおよそ次のような「市民的不服従の正当化」を報告する。川本さんの要約は次のようだ。


 はじめに「市民的不服従が正当化される場合、それは多数派の〈正義感覚〉に訴えて、異議が申し立てられている措置の再考を促し、反対者たちの確固たる意見では社会的協力の諸条件が尊重されていないことを警告する、という政治的行為として通常は理解しうる」と明言した彼は、再び「正義にもとる法を遵守することの根拠」をとりあげる。だがその節のおわりでは「もし多数派の制定する法規が不正義の一定限度を越えていると判断できる場合なら、市民たちは市民的不服従を考慮してもよかろう」という留保を加えて、不服従の位置づけと正当化とに向かう。
 彼が不服従の運動を正当化する三つの条件に挙げるのは、

(1)通常の異議申し立てをしているにもかかわらず、相当期間にわたり意図的な不正義のもとにおかれていること。
(2)その不正義が平等な市民の諸自由に対する明白な侵害であること。
(3)同様の場合に同じような異議申し立てをすることが一般におこなわれたとしても、受容可能な結果がもたらされること。

 以上であり、さらに戦術上の問題として、不服従の権利行使は合理的であってかつ異議申し立て者の目的を促進すべく無理なく計画されたものでなければならない、という条件を補足している。



 翻訳のせいか、あるいは原文そのものの晦渋か、なんともまわりくどく分かりにくい文章だ。とくに「反対者たちの確固たる意見では社会的協力の諸条件が尊重されていない」の部分は私には読解できない。その部分は無視して読むことにする。
 実はこの報告が公刊されたのは3年後の1969年だった。その3年間には次のような激しい市民的不服従が展開された。

1967年
 7月
 死者41名を出したデトロイトでの黒人蜂起
 10月
 ペンタゴン前に十万人を結集したベトナム反戦の大デモンストレーション
1968年
 4月
 不服従運動のシンボル的存在であったキング牧師暗殺される。
 6月
 小児科医ベンジャミン・スポックらベトナム反戦運動活動家に対する有罪判決
 8月
 シカゴの民主党全国大会の会場周辺で、反戦・平和を訴えるデモ隊と警官隊とが衝突(翌7人の被告が「騒擾防止法」違反容疑で取り調べを受け、いわゆる「シカゴ・セブン」の冤罪事件として世人の注視するところとなった)。
 11月
 「法と秩序」回復を謳った共和党リチャード・M・ニクソンが第三十七代大統領に当選。

 これらの動向を踏まえて、ロールズは「市民的不服従の正当化」の公刊の際、最終節に二つの段落を加筆されたという。川本さんは「学会発表後の時代のうねりを反映してか、いつになく歯切れがいい。」と言い添えて、次のように要約している。


 憲法についての連邦最高裁の見解が、もし永続的な評価を得ようとするものであるならば、人びとにその健全さを納得させなければならない。訴えの最終審は、連邦最高裁でも連邦議会でも大統 領でもなく、選挙民全体なのである。市民的不服従を続ける者はじっさい、この選挙民全体に訴えかける。‥‥‥分裂・抗争の危険を完全に回避する方法など存在しない。だが、正当な市民的不服従が国内の平和を脅かしていると思われるような場合でも、その責任は異議を申し立てているがわにあるというよりもむしろ、そうした敵対を正当化するような権威や権力の濫用をおこなっている人びとのほうにこそある。



 このもの言いは実によく分かるし、わが意にもかなっている。やがて「正義論」を打ち出すロールズの面目躍如たるところがある。ただ、「正当な市民的不服従」というときの「正当」が問題だ。先の引用文の「三つの条件」がその正当性の根拠ということなのだろう。


462 市民的不服従(1)
2006年4月1日(土)


 昨日、「教育基本法・憲法の改悪をとめよう!3・31全国集会」に参加しました。都教委包囲首都圏ネットワーク」の渡部さんの報告記事が、早くも[anti-hkm]ML に配信されていましたので、それを掲示板「メールの輪」に転載しました。また

レイバーネット日本


で当日の写真を見ることができます。

 なお、昨日(3月31日)は、都教委による新たな弾圧処分が出されました。その中で、増田都子さんには分限免職というとんでもない処分が出されました。また、根津公子さんには定職3ヶ月。
 増田さんのコメント。「要するに犯罪都教委の真実を暴露する教育をする者は、恐すぎておいておけない、ということでしょう。今後、更に、断固として闘いますので、ぜひ、ご支援ご協力ください!」
 根津さんも、もちろん、続闘を表明しています。



 「君が代を歌え」という職務命令に従わない行動を、アナーキストにならって、私は「非暴力直接行動」と評価してきた。
 上述の集会で呼びかけ人のお一人の三宅晶子さんは挨拶の中でその行動を「良心的不服従」と言って、賛同と敬意を表明していた。

 『ロールズ』に「市民的不服従」の正当化の議論が載っている。もちろん、私は「非暴力直接行動」=「良心的不服従」=「市民的不服従」と理解している。今回は『ロールズ』の「市民的不服従」の部分を読んでみる。

1955年
 アラバマ州モントゴメリで黒人女性ローザ・パークスさんが市内のバスで白人専用の座席に座り続けて逮捕された。この事件をきっかけに大規模なバス・ボイコット闘争が1年間にわたって繰り広げられた。(56年に連邦最高裁は路線バスの人種分離に対して違憲判決を出した。)

 1960年
 ノースカロライナ州グリーンズポロ。食堂における黒人差別に抗議して自然発生的に「座り込み」闘争が行われた。

 1963年
 奴隷解放宣言百周年。黒人の公民権運動がおおいに盛り上がる一方、南部では保守派の白人による公民権運動家の暗殺、黒人教会の爆破などのテロ行為があいつぐ。
 5月
 バーミングハム闘争。
 8月
 ワシントンで二十五万人の大デモ。マーティン・ルーサー・キング牧師が「私には夢がある」と繰り返す名演説を残している。
 11月
 テキサス州ダラス。公民権運動の支持に動いていたケネディ大統領暗殺される。

 このような黒人による市民的不服従の大衆運動に後押しされるように、 1963年5月、「法と哲学」を共通テーマとするニューヨーク大学哲学シンポジウムが開かれた。その第一部会・「法と倫理」の発題者としてロールズは「法律上の責務とフェアプレイの義務」という題で発表をしている。その中で「順法の責務の道徳的根拠」をおよそ次のように論じた。

 立憲民主制のもとでは「正義にもとる制度や法」をも遵守する道徳的責務がある。社会を構成している個人がその社会生活において社会から恩恵を得ている限りにおいて他の社会構成者に負っている責務(フェアプレイの義務)がその道徳的根拠である。(このくだりはとても分かりにくいので端的にまとめなおした。たぶん趣旨は曲げていないと思う。)


 まったく納得しがたい。立憲民主制のもとでは多数派が制度や法を定める主導権をを握っている。その制度や法が「正義にもとる」場合でも、それの遵守を少数者にも押し付けるのはまさに正義にもとる抑圧でしかない。

 これは当然多くの批判にさらさた。川本さんはそのうちの二つを紹介している。

ミルトン・R・コンヴィッツの批判。


 ロールズの発題を「法に対する服従とフェアプレイの義務とが必然的に両立する」という主旨だと受けとめ、これを次の三点から痛烈に批判している。
(1)
 遵法義務の基礎にフェアプレイの義務があると考えるにしても、それをロールズのように歴史的制約を背負った「立憲民主制」にのみ結びつけるのは、イデオロギーとしては可能だが哲学的には無理がある。ソクラテスの言行を引くまでもなく、フェアプレイの義務は社会生活のもっと深いところに根を下ろしている。
(2)
 ロールズは、しかるべき手続きをふんでいるが正義にもとるとみなされる政府の法令に対してなされる行動 ― つまり「市民的不服従」を考察への対象からあえて外している。
(3)
 市民的不服従はフェアプレイの義務を踏みにじるようなものではなく、反対にその義務そのものの正しさを立証する行動として理解される必要がある(「市民政府への抵抗」を説いたアメリカの文学者ヘンリー・D・ソーロウやインド独立運動の父マハトマ・ガンディーが例に挙げられている)。



神学者ジョン・C・マレーの批判。
 ロールズが持ち出した「フェアプレイの義務」それ自体を問題として、これが義務であるとする彼の説明がじゅうぶんな説得力を持っていないと難じた。
 結局ロールズは「順法の責務の道徳的根拠」については「説明上のいくつかの難点と過度の縮約」があることを認めざるをえなかった。

 ミルトン・R・コンヴィッツさんとかヘンリー・D・ソーロウさんとかジョン・C・マレーさんとか知らない人ばかりだけど、さしあたって必要ないので改めて調べない。