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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
446 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(5)
言葉のうらおもて(1)
2006年3月6日(月)


 「知」をなりわいにしている人たちの「知」には、それなりの敬意を払うのにやぶさかではない。しかし、それだけに皮相な俗論を開陳されるのはやりきれない。頭のどこかから、「はてなマーク」と「びっくりマーク」と「がっかりマーク」がいくつも飛び出してくる。
 立川昭二という歴史家が朝日新聞の「こころの風景」というコラムを担当している。2,3回前の記事で34年前の「あさま山荘事件」を取り上げていた。最後に次のように締めくくっている。


 あのような自己中心的な若者をつくった土壌は、今日もかたちを変えてこの国に残っているように思えてならない。



 「あさま山荘事件」に関わった若者たちを「自己中心的な若者」だという。ことの本質をまったく見ていない評語だ。氏がどのような若者を今日の「自己中心的な若者」と考えているのか分からないが、例えば私は、このくだりを読みながら、その代表としていま話題の「ホリエモン」を思い浮かべた。
 私の認識では「あさま山荘事件」の若者たちの理論には大きな過誤があったかもしれないが、「自己中心」とはほど遠い。今日の「自己中心的な若者」とはどんな線でも結びつけようがない。「月とスッポン」だろう。

 さて、「正義論/自由論」にお世話になっているが、「はてなマーク」と「びっくりマーク」と「がっかりマーク」が飛び出したところが2ヶ所あった。

 一つはロールズの国家論について述べている次の個所。


ロールズの「原初状態」のもとでは、宗教国家は存在しえない。誰もその選択の道をとることができないからだ。複数の価値、複数の宗教、そしてまた無神論者も生きることができるのが、ロールズの正議論の社会である。
 この基本的な自由への平等の権利を認めあうことを、「原初状態」のなかで契約したのだ。国家とは、この自由の条件を保証する存在であって、それ自体がなんらかの宗教、思想をかかげているものではない。
 実は、ここにはロールズの重大な国家論の問題があらわれている。彼にとって、国家はさまざまな価値や思想をもった者たちの連合体なのだ。国家そのものは、この自由の連合体の保証人であるにすぎない。宗教国家がそこでは存在しえないように、民族への忠誠を求めるような民族国家も存在しえない。多民族国家や多人種国家において、一つの人種へ の忠誠を求めることは、自由の条件への侵害である。そこでは、平等な自由への権利は侵害されている。
 しかし、それは過激な自由主義者たちのように、無政府主義へとつながるものではない。政府は存在するのだ。ただその政府は、自由の条件を裏書きする存在であって、それ自身が、なんらかの思想、宗教を主張する存在ではない。



 何に引っかかったかというと、「それは過激な自由主義者たちのように、無政府主義へとつながるものではない。」というところ。アナーキズムを「過激」と評している点と「アナーキズム=無政府主義」という認識が、私にはきわめて皮相で通俗的な見解に思える。
 現在のブルジョア国家の基本理念「民主主義」はそれまでの為政者=王侯貴族にとっては「過激な」思想だった。それと同じ意味でならアナーキズムは「過激」と言っていいだろう。

 「アナーキー」という言葉の語源は「ギリシア語」で、「An-archy=支配者がいない」という意味だ。アナーキズムは「支配-被支配」というヒエラルキーを基盤とする組織に反対している。アナーキズムの政治思想においても「政府は存在するのだ。」しかしそれはブルジョア国家の政府とは似ても似つかないものだろう。したがって「政府」=「ブルジョア国家の政府」と限定するなら「アナーキズム=無政府主義」と言ってよい。
 私はアナーキズムにますます強く引かれている。

 ここで私にもうひとつの課題ができた。
 アナーキズム、特にその「相互扶助論」とロールズの「正義論」との同一点や相違点を考えるという課題。ロールズの「正義論」を直接読んでみようと思い立った理由の一つだった。

 「正義論/自由論」で引っかかったもう一つの点。
 ロールズの正義論はあらゆる宗教にたいして「寛容」である。では「不寛容」な宗教に対しても「寛容」なのだろうか、と言う問題が起こる。土屋さんは「オーム真理教事件」を取り上げている。

(次回に続く)

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