2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
461 自由社会
2006年3月26日(日)


 アナーキストはどのような社会を構想しているのか。アナーキストにもいろんな派があるが、最大公約数的に次のように言ってよいだろうか。
 アナーキズムにのっとった社会を自由社会と呼ぶ。しかし、アナーキストは自由社会の青写真を描かない。アナーキズムはドグマではない、一つの活動なのだから。ただ自由社会が持っていなければならない一般的諸原理(枠組み)を示すだけである。一般的な諸原理とは自主参加・権力分散・自主管理・諸集団の自由連合等々である。具体的にどのように社会を構成していくのかという問題は、一般民衆がその叡智を集約して決めていく事柄なのだ。

「FQA」から引用する。


 自由社会の現実的枠組みと、それがどのように発展しそれ自体を形成するのかは、そうした社会に住んでいる人々やそうした社会を創り出そうとしている人々の欲望と願望に依存しているのである。このため、アナキストは、共通の問題を管理するために、地域と仕事場における大衆集会、そして、下からの集会連合の二つが必要だと強調する。アナーキーを創り出すことができるのは、大衆の能動的参加だけなのだ。
 マラテスタの言葉を借りれば、自由社会は『民衆集会で採択され、自発的に参加したり正規に委託された諸集団と個々人が実行する諸決定』に基づくであろう。『革命の成功が』依存するのは、『実際の課題に取り組む発意と能力を持った多くの個人である。共通の大義を少数者の手に任せず、代表者が必要な場合は、特定の使命と限定期間だけ委任する、こうしたことに大衆を慣れさせることによってなのである。』

 この自主管理が基礎になって、自由社会は、社会内部に生活している人々が創り出す新社会と共に変化し、発展するであろう。

 忘れてはならないことだが、自由社会がどのように始まるのかは大雑把に推論できるかも知れないが、長期的にどのように発展するのかは予測できない。社会革命は一つのプロセスの始まりでしかない。このプロセスは、我々にはどのようなものになるか予測もつかない別種の社会をすぐに導くであろう。

 不幸にして、我々は、希望する最終地点ではなく、現在自分たちがいる地点からスタートしなければならないのだ!この社会こそ我々が変化させるものである以上、ここでの議論は、当然、現在の社会を反映するものとなるだろう。



 アナーキズムはヒエラルキー型の政府を否定する。しかし政府に替わる管理システムは必要だ。その管理システムは、「政府レベル」に限らずいろいろなレベルの組織に必要とされるし、現行の政府とは全く異なる性質のシステムだから「政府」と呼ぶのはよそう。端的に「管理システム」と呼ぶことにする。
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460 自由な意志力
2006年3月25日(土)


 アナーキズムは「自由な意志をによる思考と行動の自由を尊重」する。では自由な意志を基盤とした社会システムはどのようなものになるのか。
 最近出版されている吉本(隆明)さんの本はこれまでの吉本さんの営為の集大成という感がある。ただし難解と定評のころのものとはうって変わって、難しい問題を平易な言葉で実に分かりやすく書いている。
 そのうちの一冊の書名は「中学生のための社会科」という。中学生にも分かるように書くことを理想にしていた吉本さんの渾身の一冊というべきだ。想定した読者は中学生であっても決して程度を落としたり手抜きをしていない。書名に「中学生のための」という言葉を加えたのは、むしろ吉本さんの自負の表れではないかと、私は思っている。

 その本の第三章「国家と社会の寓話」に『「自由な意志力」とは何か』という一節がある。「自由な意志力」がどのような集団性を可能にするか。二つの実例をあげている。
 一つは島尾敏雄の小説から受けた感銘を深い共感ををもって紹介している。


 奄美大島の人間魚雷の基地隊長である島尾敏雄が人間魚雷を格納する海岸の洞穴を拡張する命令を部下に伝える。だが部下は動こうとしない。明日にでも出撃命令が下れば出撃して再び生きて帰還することはない。部下は洞穴を拡張する作業などやる気が起こらないのが当然で、隊長の命令は無視される。島尾隊長は部下を非難することなく、黙って自分だけがシャベルを持って洞穴を拡げる作業をはじめる。
 島尾隊長には命令に応じない部下を非難する気分など少しもないし、部下たちも自分の生命を賭けた「自由な意志カ」で、命令に服従して島尾隊長を援けることもしない。これは明日出撃して再び生きて帰還できないかもしれない生死の境で、島尾隊長と部下の集団が「自由な意志カ」だけで信頼し合っている瞬間の振舞いだといえる。つまらない優劣も差別もないし、不信のあげくの相互非難もない。「自由な意志カ」を発揮し合った者どうしのあいだに成立している集団性なのだ。

 わたしにはこれ以外に個人と「国家」と「社会」を貫いて歪曲されない「自由」は考えられない。集団や公共によって禁圧や制約を受ける自由などあり得ない。もちろんその逆もおなじだ。



 もう一つはご自身の学生時代の体験談である。


 わたしは戦中派と呼ばれる世代に属している。戦中派というのは太平洋戦争期に青春であった世代の俗称だ。そこでもう一つ戦争期のことに触れてみたい。それは「国家」と「社会」が神聖天皇制のもと、総力で軍国主義に傾き、人によってはファシズムと呼んでいる時代のことであった。
 わたしは工科の学生で学業半分、あとの半分は工場動員、農村手伝い、川原の石運び、田んぼの暗渠排水工事、そのほか勤労奉仕と呼ばれる無償の奉仕に動員されていた。お国のため、社会公共のためというのが政府筋から流れてくる第一義の課題だった。わたしたち個人個人は真剣だったが、疲れて作業したくないときも怠けて遊びたいときも家郷に帰りたいときもある。わたしたちのうちの誰かはいつも作業に精を出さないで、いい加減で、他のみんなが作業に出かけたときも誰かは遊びに出かけていた、などとはじめはいわゆる公共心と個人の都合のはざまで非難のし合い、相互不信の諍いが絶えなかった。

 しかし最後に到達したのは、他人でも自分でも、怠けたいとき、体を動かして奉仕する作業をやりたくないとき、遊びたいとき、非難も弁解もせずにそれを許容し、その欠落は黙って他人の分までやってしまうこと。自分が怠けたり作業を休んで家郷に帰っても他の者が黙って自分の分までやり、非難がましい言動は一切しないこと。そのような相互理解と個人の本音の怠惰を赦す暗黙の了解が学生どうしのあいだで成立したとき、わたしたちは公共奉仕を無理解、無体に強制する軍国主義のやり方を超えたとおもった。これは必然的に部下が休んで命令に従わないときの島尾隊長の態度と一致する。

 統率力のある指導者というのはファシズムであっても、ロシア=マルクス主義であってもダメな人物であるといっていい。そしてわたしたちが学生どうしでこの暗黙の相互理解に達したとき、軍国主義の命令に従いながら、確かにファシズムとロシア=マルクス主義を超えたということを信じて疑わない。「自由な意志力」以外のもので人間を従わせることができると妄想するすべての思想理念はダメだ。これはかなりの年月、本当は利己心に過ぎない「国家」「社会」「公共のため」の名目のもとに強制された経験と実感の果てに、わたしなどの世代が獲得した結論だといっていい。わたしはこれ以上の倫理的な判断に出会ったことがない。



 「アナーキー」という言葉は一般には「無秩序」と同義に誤解されている。しかし、何度も言うように「アナーキー」の原義は「支配者のいない状態」である。吉本さんが描き出した集団性はまさに「アナーキー」だと私は思う。
 イシハラによる「日の丸・君が代の強制」をきっかけにいくつかの市民集会に参加するようになったが、どの集会でもアナーキーな集団性が見てとれる。机いすを並べたり片付けたりなど、黙々として集会を手伝う人が必ずいる。「自由な意志」による参加者の集会なのだから、当たり前といえば当たり前の事だが……。

 「自由な意志による思考と行動の自由を尊重」する社会のシステムはどのようなものであるべきだろうか。社会全体を対象とする場合、たくさんの複雑な要素が加わる。小集団で見られるアナーキーな集団性がそのまま社会システムとしても可能であるかどうかは、今の私になんともいえない。しかしその理想的なあり方はイメージできる。

459 リバータリアン社会主義(2)
2006年3月24日(金)


An Anarchist FAQ(http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/index.html)
という英文サイトがある。私にとって格好の「アナーキズム入門書」となりそうだが、私の貧弱な英語力ではとても読みきれない。ところが、幸いにもこれを翻訳している人たちがいた。

アナーキ・イン・ニッポン(http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/index.html)


 以下アナーキズムについての記述の多くはここからの受け売りになる。「Anarchist FAQ」(以下、略して「FAQ」とする。)の作成者と翻訳者に敬意と感謝を込めて紹介しておく。

 さて「リバータリアン党」は、アナキストは「リバータリアン」の看板を盗んだという。「リバータリアン思想」に「社会主義」という「反リバータリアン」思想を結びつけて「社会主義」思想を受け入れ易くしようとしている、とアナーキストを非難している。

 これに対して「FAQ」は言う。
 アナキストは自らの思想を表現するために、1850年代から「リバータリアン」という言葉を「リバータリアン社会主義者」を短縮したものと、つまり「アナキスト」の同義語として使っている。そして、北米の右派リバータリアン(「FAQ」では「the pro-free market right」と呼んでいる。)とアナーキズムが言うリバータリアンとは本質的に異なる。どう異なるのか。

 前回述べたように右も左もおおかたは、「社会主義」を国家所有と国家による生産手段の管理であると誤解している。
 生産手段を国家が所有し管理してもそれは「資本」の本質は変わらない。国家が労働者を雇用したからといって「賃金労働」の本質も変わらない。アナキストは、資本の国家所有は全く社会主義的ではない、と認識している。それは『資本主義に反対する傾向ではなく、資本主義内部の傾向なのである。』
 「賃金奴隷の終焉」を目的とする社会主義にとって、国有化は、国家官僚を除いて、全ての人をプロレタリアにしてしまったことにすぎない。ソ連がそうであったように、国有化はすぐさま国家統制と官僚階級の特権を生み出す。官僚階級は、旧体制の支配者たち以上に労働者を搾取し、抑圧する。

 アナーキストがいう社会主義は次のようである。
 真の社会主義社会は労働者による生産手段・労働・生産物の自主管理を基盤にしたものである。これは、階級なき反権威・反権力社会を意味している。そこでは民衆が、個人としても集団の一員としても、自分自身に関わることを自分自身で管理する。つまり、労働も含めて人生を全面にわたって自主管理する。したがって真の社会主義が個人の思想・行動の自由を支持するのは必然である。
 真の社会主義者は、リバータリアンでなければならない。個人の自由を尊重するのならば、その自由を制限する権力の不平等に反対しなければならない。リバータリアン社会主義という言葉になんら矛盾はない。

 以上、「FAQ」による「リバータリアン社会主義」の定義は次のようになる。
 『 自由な意志による思考と行動の自由を尊重し、生産者が政治権力と生産手段・流通手段の両方を所有する社会システムを目指す思想。』

458 リバータリアン社会主義(1)
2006年3月22日(水)

 アナーキズムは自由・平等・自主・公正・正義・寛容などに価値を置く。では、同じ価値観を基盤とする他の思想とアナーキズムとを隔てるものは何か。それはアナーキーの語源が示している。「アナーキー」=「支配者や君主がいない状態」
 現時点では国家に限らず、政党・官庁・軍・会社・宗教団体・大学など、集団・団体のほとんどはピラミッド型の構造で形成されていて、そのトップに権力が集中するように組織されている。このような人間関係を「ヒエラルキー」という。アナーキズムはそのヒエラルキーに内在する権力関係が人間を抑圧する諸悪の根源と考える。アナーキズムが目指しているのはそのヒエラルキーの棄揚に他ならない。

 「正義論」では単一のアイデンティティによらない共同体、「アイデンティティという閉ざされた観念から自由になった者たちが形成する共同体」を望ましい共同体としている(第437回参照)。これに「ヒエラルキーの棄揚」という条件を付け加えるとアナーキズムのめざす共同体ということになる。
 アナーキズムが提供している共同体についてのこの理想は、ばかばかしい空想事と大抵は一蹴されるのが落ちだ。しかしこれは単なる絵空事だろうか。いずれ検討することになるだろう。

 さて、リバータリアン。
 リバータリアンにも右派と左派があるようだ。アメリカ合衆国で三番目に大きな政党と言われてリバータリアン党は1971年の結成されている。明らかに右派リバータリアンの党だが、この党はどのような政治思想を基盤にしているのだろうか。

 インターネットで「リバータリアン」で検索したらヒットナンバーワンに

「リバータリアン保守思想20の特色」(http://kyuuri3.hp.infoseek.co.jp/20.htm)

という記事があった。その記事があげている特色の2番目に

『アナーキズムと紙一重である。政府や国家を可能な限り否定する。あるいは、最小限国家(夜警国家)論に立つ。国家は外交と国防と犯罪取締りだけを行えばいい。それも最小限度に。』

とあったが、ここでもアナーキズムは相当に誤解されている。13番目の説明がとても分かりやすく、その政治思想を鮮やかにイメージできる。

『わかりやすく言えば、西部劇のヒーロー、ジョン・ウェインのイメージを描くとよい。あるいはクリント・イーストウッドの、悪をたたきのめす強い男のイメージである。個人的英雄主義。西部のカウボーイのマッチョ主義。西部開拓農民(パイオニア)の独立独歩の精神、自己責任主義。人の助けを借りずに、自分と家族だけで真面目に働いて生活してゆく。』

 これが「リバータリアン」だとすると「アナーキズムと紙一重」とはとても言いがたい。「リバータリアン社会主義」とはとんでもなく矛盾した言葉ということになる。実際、おもに右派リバータリアンからアナーキストに対して、言葉の剽窃だというクレームが出されているらしい。これに対するアナーキズム側からの反論をみてみよう。

457 ロールズとアナーキズム
2006年3月21日(火)


 「第443回」で紹介した川本隆史著『ロールズ』(講談社)。まだ読書中なのだが、その中で特に私の関心を引いた文章をネタにいろいろ考えてみる。
 まず「プロローグ」から。(「プロローグ」は川本さんによるロールズへの架空のインタビューの形で書かれている。)


ロールズ
 (『正義論』は)今でこそリベラリズムの経典のように祭り上げられたり、逆にろくに読んだ形跡もない教条的な痛罵にもさらされていますが、1970年代の初頭は社会主義の文脈で読まれることもあったのです。国家主導型の社会主義ではなくリベラルな社会主義なら、『正義論』の社会構想を実現することは可能でしょうし。

川本
 「リベラルな社会主義」でも「財産所有の分散に基づくデモクラシー」でも正義の二原理を満たすことができる、というのがジャックの持論でしたよね。社会主義が破産した以上「リベラル・デモクラシー」しか体制の選択肢は残っていないなどと言い張る論客たちからは、煮えきらない態度だと文句をつけられるスタンスでしょう。



 「国家主導型の社会主義」は双生児である。吉本(隆明)さんはそれを「国家社会主義」(ヒットラーのファシズム)と「社会国家主義」(ソ連のマルクス主義)と呼び分けている。ともに社会主義を騙った社会主義にあらざる「社会主義」だ。「国家主導型の社会主義」なんて矛盾もはなはだしい。もう80年ほども前、大杉(栄)さんはソ連を「国家資本主義」と呼んでいる。大杉さんによればそれは社会主義ですらない。
 「社会主義は破産した」などとしたり顔でのたまうものたちは、「国家社会主義」や「社会国家主義」のことを社会主義と思い込んでいるらしい。どっこい社会主義はなお発展中である。

 「マルクス主義は死んだ」という物言いも同じだ。「マルクス主義」は死んでもマルクスの思想はなお健在だ。上記の架空のインタビューでロールズも言っている。『マルクスの資本主義批判は民主主義の伝統の重要な一部をなすものと判断しています。それなのに天安門事件、ベルリンの壁崩壊と続いた1989年以降、彼の思想を真剣に受け止めとようとしない嘆かわしい風潮が広まっています。』  さて上の引用文中の「リベラルな社会主義」に私は注意を引かれた。アナーキズムを「リバタリアン社会主義」とも言う。
 また「財産所有の分散に基づくデモクラシー」というのは、詳しい説明がないので推測の域をでないが、 アナーキズムが言うところの「生産手段と生産物の労働者による自主管理」と同じではないかと考えられる。 土屋さんの「正義論/自由論」を読んでいるときにロールズの思想とアナーキズムとの近親性を感じていたが、それがますますはっきりしてきたと思う。

 「社会主義は破産した」とか「マルクス主義は死んだ」というしたり顔は「イデオロギーの終焉」という言い方で現れることがある。「イデオロギー」とは「共産主義」あるいは「マルクス主義」のことだという勝手な解釈による物言いだ。

 「イデオロギー」に私は「虚偽意識」というルビを振っている。
 自分の労働や生活を通して自分で得た社会や経済や文化などについての考えを思想という。それに対して、マスコミや学校教育などを通して身につけさせられた、本来は自分のものではないよそよそしいはずのドグマ(教条)をイデオロギーと言う。イデオロギーとは所有した思想ではなくドグマに所有されてしまった意識のことだ。

 先に私は「どっこい社会主義はなお発展中である。」と書いたが、真の思想は流動・進化・発展する状況に応じて変化・発展する。社会が発展したり変化したりすれば、思想もまた発展し変化する。それに対しイデオロギーは、信仰している硬直したドグマであっていつも現実を、つまりは生身の人間を無視する。信仰しているイデオロギーに合うように無理やり現実や人間を変えようとする。硬直したイデオロギーが不正義や不自由や不公正や不寛容の、つまりは圧政の根源となる。そして、ほとんどのイデオロギーは支配階層の利益にかなっている。けだし、日の丸・君が代を強制したがる天皇教国家主義は硬直したイデオロギーの典型だ。

456 「共謀罪」が成立?
2006年3月20日(日)


 「第65回(私も非国民です。)2004年10月18日」の記事で、「共謀罪」反対を掲げて国会前でのハンストによる抗議をする人たちの紹介をしました。
 結局そのときの特別国会ではその法案は成立せず継続審議になりました。自公与党は国民の多くの反対の抗議や声を無視できなかったのでしょう。
 しかし、権力側にとってこんなにおいしい法律を簡単にあきらめるはずがありません。民主党を取り込むための修正案をもって、24日にも衆議院法務委員会で審議入りしそうだという情勢です。

 「共謀罪」がどんな法律なのか、改めて学習しようと思います。いまは法案そのものを読む煩はとりません。次のサイトの解説を掲載します。

「共謀罪って・・なんだ?」(http://kyobo.syuriken.jp/)


 これは、実際には何もしなくても、団体が「犯罪」の相談をしただけで罪に問うという法案です。
 「それって、犯罪なんかを計画する人を捕まえる法律でしょ?私たちには関係ないんじゃない?」そう思われる方も多いと思います。でも、ここで言う「団体」は、犯罪組織に限られていません。そのため、私たちが労働組合や宗教団体、会社やサークルなどの友人と話したことも、「犯罪」とされるおそれがあります。共謀罪の対象となる犯罪は600以上もあります。
 たとえば次のような身近な例もありえます。
 ・ご近所で、マンション建設反対のために座り込みの相談をすれば、「威力業務妨害」の共謀罪の疑い
 ・会社の税金を軽くする方法はないかと相談すれば、「脱税」の共謀罪の疑い
 ・入会するまで人を帰さずにおこうとサークルで相談すれば、「逮捕・監禁」の共謀罪の疑い
 このような例が「共謀罪には当たらない」と読み取れる文面は、法案のどこにもありません。

 ところで、警察は、団体が犯罪の相談をしたことをどうやって知るのでしょう。
 法案には、自首を促す規定があり、それが密告の奨励につながりかねないといわれています。けれども、自首を待つだけですむでしょうか。
 おそらく、いままでは例外的にしか認められなかった電話やメール、会話の「盗聴・監視」が広く求められるでしょう。わたしたちの日常生活が監視されることになるかもしれません。

 また、相談をしたことがわかったとしても、どんなときに合意に達したといえるのでしょう。
 条文にはその判断基準が示されていません。これでは、判断は警察や裁判所の胸算用にゆだねられてしまうことになります。

 政府は、国会での審議で、捜査方法についても、犯罪成立の判断基準についても、明確な答弁を避けています。それでいて、いったん「やる」と合意をしたら、あとで「やめる」と決めても共謀罪は成立する、というのです。

 この法律が成立したら、ふつうの市民も共謀罪の疑いでいつ警察に捜査されるかわかりません。人前で自由にものを言うことも、集まってなにかをすることも、安心してできなくなるかもしれません。



 大日本帝国時代の「治安維持法」以上の悪法です。
 大日本帝国時代には「不敬罪」を摘発すべく電車や映画館に移動警官という私服刑事がうろちょろして虎視眈々と獲物を狙っていたということです。市民同士の密告も多くあったそうです。(「第67回」・2004年10月20日)
 「共謀罪」が成立すれば「共謀罪」専門の「移動警官」が設置されるのではないか。これが単なる杞憂であってくれればよいのですが……
 今国会では修正案が上程されているということですが、法律の実質はどう変わったのでしょうか。これも上記サイトの解説を読むことにします。


 2006年2月15日の各新聞紙上で、与党が民主党に対して共謀罪法案の修正案を提示して協議を求めたことが報道されました。
 新聞報道では「対象を(暴力団などの)組織的犯罪集団に限ることを明記」「客観的な準備行為を要件に加える」といった説明がされていますが、その説明から受ける印象と提示された修正案の内容には大きな隔たりがあります。

 「民主党の主張に配慮した形」という報道もありましたが、この修正案は与党議員が主張した内容の一部を盛り込んだにすぎません。与党議員の中には条約の趣旨を反映するため越境性を要件に盛り込むべきと主張した議員もいたのですが、その意見は反映されていません。

 「組織的犯罪集団」というと、暴力団のようなプロの犯罪集団が思い浮かびますが、修正案の文面では団体の定義が未だ明確でないため、もっとずっと広範囲の団体に網がかかるおそれがあります。
 また、対象となる犯罪は今までどおり600を越えるものとなっていますし、密告の奨励になると指摘されている自首減免の制度も手付かずのままです。



 上の文中に「条約の趣旨を反映するため」とあるのは、この法律が日本も署名した「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」(国連国際組織犯罪条約)を受けて提案された法律だからです。
 なお、より詳しくは次のサイトで知ることができます。

自由法曹団のサイト(http://www.jlaf.jp/iken/2004/iken_20040115_02.html)
455 進歩がないですね、大国民さん。
2006年3月19日(日)


 一年前(第225回・2005年3月28日)、「大真面目に狂気の請願」と題して「大東亜戦争」中の大人たちの狂気振りを、その当時の「請願」を通して振り返ってみました。そこでは私は次のようなことを書きました。
 『大日本帝国の大人の国民を「大国民」と呼ぶことにします。
 少国民たちは国定教科書によってしっかりと練成されました。一方、大国民たちの教科書はラジオ・新聞などのマスコミです。大国民たちが狂気のイデオロギー(虚偽意識)に絡め取られていく様相を、その末期症状の段階を診断することによって検証してみようと思います。現今のマスコミもほとんどが権力をまともに批判できない体たらくです。中には大政翼賛化して権力のちょうちん持ちに成り下がっているメディアもあります。よりソフトな手口ではありますが、現在の国民も巧みに国家主義の方向に導かれつつある現在、そのイデオロギー(虚偽意識)に対する免疫をつくるためにも「大国民」を振り返ることは意義あることと考えます。

 国家権力のプロパガンダがもう既に狂気の沙汰でした。その狂気のプロパガンダ用語をキーワードにして空疎なイデオロギー(虚偽意識)に酔っています。つい吹き出してしまうようなものもありますが、全体には読んでいるうちにゾゾッと寒気がしてきます。
 これは決して過去だけの問題ではありません。現在だって、例えば「君が代を声量豊かに歌わせることに関する請願」とか「国民の祝日において日の丸の掲揚を義務付けることに関する請願」とかを大真面目に提出すような手合いはごまんといるのではないでしょうか。あるいはもうそのような請願が県や市町村レベルでは出されているかもしれません。』

 次の記事は「大東亜戦争」中の出来事ではありません。今年1月のことです。

 1月18日、鎌倉市教育委員会が「入学式・卒業式で児童生徒に国歌を斉唱させるよう求める請願」を採択しました。提出したのは「鎌倉市の学校教育を考える会」という団体です。請願理由として、学校名まであげて、次のようなことを列記しています。

伴奏のテープが流されただけで児童生徒の斉唱なし(2校)
歌声がほとんど聞こえず(6校)
2~3割しか歌っていない(6校)

 このように『正気のままで(ヽヽヽヽヽヽ)狂気』になれるのはどのような人たちなのでしょう。
 「第225回・大真面目に狂気の投書(2005年3月29日)」では私は次のように書きました。

 『これらの投書をした人たちはどういう階層の人たちだったのでしょうか。
 「政府のPR誌」など読まないし、自分の考えを文章にすることもない圧倒的多数の一般的な大衆がこれほど狂っていたとは思えません。自らの無関心が凶暴な圧制を許し、その圧制に正面切った抵抗はせず、首をすくめて嵐が通り過ぎるのを待つほか術をもたない人たちです。しかし、例えば「第67回」(2004年10月20日)や「第78回」(2004年10月31日)で紹介したような生活思想がその一般的な大衆の本音ではないでしょうか。この面従腹背への批判は今はおきます。ただし、私も大衆の一人ですし、単純に非難・裁断すれば済む問題ではないとだけは言っておきたいと思います。

 ともあれ上記の投書者たちのように狂気を積極的に担った者の多くはやはり「神官、僧侶、予備・退役軍人(在郷軍人)、町内会・青壮年団等各種報国団体役員・国民学校教師たち」だったのではないかと推測します。そしてこれらの人たちがいわゆる知識人たちの言説の影響を受けて、それをさらに過激な言説にして「忠誠競争」に奔走しているのだと思います。「大国民」の次には当時の「知識人」の言説を検証する必要がありそうです。』

 「神官、僧侶、予備・退役軍人(在郷軍人)、町内会・青壮年団等各種報国団体役員・国民学校教師たち」。このような人たちを「自分の考えを文章にすることもない圧倒的多数の一般的な大衆」と区別して、私は「擬似知識人」あるいは「亜知識人」と呼んでいます。一番熱心に権力のお先棒を担ぐ人たちです。

 私は自分を「擬似知識人」であると自己認識しています。しかし「被支配者」であるという当たり前といえば当たり前の確固とした(?)自己認識もあり、その立場で少しは自己研鑽をしてきましたので権力の阿諛追従者に落ちぶれずにすんでいます。

 次のような団体はまさに狂気におちいった「擬似知識人」の見本です。もちろんご本人たちは狂気ゆえに自らを狂気とは認識しえません。

 団体名:地域教育懇談会「東京都教育研究連盟」
 2月11日に、東京虎ノ門・日本財団会議所で結成大会を挙行。メンバーとして教職員だけではなく、校長・副校長、学識経験者、保護者や一般都民、教育委員、行政関係者などを対象にしています。

 その基本理念は「美しい日本人の心を育てる」だそうです。空疎な言葉に酔っている空疎な精神。いい加減うんざりしてきますね。

 発起人と来賓を記録しておきましょう。そのメンバーを見れば、もうこの団体について多くを語る必要はないでしょう。

発起人
持田浩志 文京区立誠之小学校校長
 国立市での「日の丸」掲揚をめぐる教職員の大量処分時(2000年)の指導課長
吉野勇次 世田谷区立船橋小学校長
川島信雄 国立市立国立第二小学校校長
河合明雄 新宿区立四谷中学校長
齊藤 進 荒川区立尾久八幡中学校長
今井文男 国立市立国立第一中学校長
長澤直臣 東京都立日比谷高等学校長
坂本悟郎 東京都立港養護学校長
三苫由起雄東京都立高島養護学校長
石井昌浩 前国立市教育長・拓殖大学客員教授
 国立市での「日の丸」掲揚をめぐる教職員の大量処分時(2000年)の教育長

来賓
東京都選出国会議員 自民党 萩生田光一
首都大学東京学長 西澤潤一
東京都教育委員会教育長 中村正彦
全日本教職員連盟委員長 三好祐司

講演
東京都教育委員 米長邦雄

454 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(13)
オウム真理教事件について(7)
2006年3月17日(金)


 「歎異抄」の有名な二つの文言。
『善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。』

 俗に「悪人正機説」と呼ばれている。

『なにごとも、こゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき 業緑(ごふえん)なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし。』

 こちらは「契機論」と言う。

 麻原彰晃は自らの宗教による世界観・倫理観を語る気配を全く見せない。サリンによる無差別殺傷の背後にある「契機」はついにはっきり見えぬまま裁判は終わりそうだ。しかしサリン事件がこの社会に突きつけた問題は残る。
 吉本さんの問題意識を追ってみる。


 無関係、無差別の殺人が成り立つ契機は、いまのところどこにもみえてこないんです。うかうかと想像力を働かせればなにかいえそうなんだけど、いってしまうと全部不正確でもどかしい感じが残ります。オウムの問題は、ある意味で契機自体が浮遊した現代の社会的段階がもろにかぶさっているともいえます。善と悪が明瞭にならず、フワフワしているような情況があるわけです。
 僕はオウム・サリン事件からずいぶん多くを学びました。
 親鸞が「善人なおもて……」というのは、こちらの琴線にひっかかってくる鮮明で深い言葉です。これは一種のアイロニーというか、反語なんですね。こういうことによって、親鸞は善悪の奥行きを鮮明に浮かびあがらせています。
 僕が感じたのは、親鸞というのは本気で極悪非道の人間のほうが浄土にいきやすいと考えていたんじゃないか、そういう解釈の仕方がオウム事件を通して僕のなかに生まれてきました。

 極悪非道というのはなにかというと、目にみえないかたちで善を包括している悪が極悪非道で、目にみえるだけで奥はなにもないというのがただの悪じゃないか。極悪非道というのは、要するに悪のなかに善が潜在的に含まれていて、庶民の社会でいう悪にはそれだけの含みはないと、親鸞は本気で思ってたんじゃないか。

(中略)

 市民社会にあいまいなまま流布されている善悪観をはみ出すのは確実ですが、そのはみだしが極悪のなかで浄土により近い善だという、人間性に対する理解を親鸞はもっていたのかなという実感が出てきました。ただ悪をした、善をしたというならなにもいらないのですか、極悪をするためにはどこかに潜在的に善へいける要素が合まれるんじゃないかと、親鸞はそう人間を理解したのではないでしょうか。



 オウム・サリン事件をきっかけに吉本さんの親鸞理解に大きな変化がきざしていることがうかがえる。極悪非道のなかに潜在的に善へとつながる要素が含まれるという人間理解を親鸞がもっていたのではないか、というところへ踏み込んでいる。もちろん、親鸞を語りながら吉本さん自身の内部で起こっている思想の展開を語っていると思う。ここのところが激しいバッシングを呼び起こした個所なのだろう。
 「歎異抄」を通り一遍に読んだだけの私の親鸞理解からはとても大きくはみ出した言説で、私はまだよく理解できないでいる。ただ同じモチーフが、宗教思想の問題ではなく現代的な倫理の問題として語られるとき、私(たち)の課題へと確かに重なってくる。


 阪神大震災と、オウム真理教とサリン事件を結びつけるとすればこの二つの東西の事件で、僕らの呑気な生活感覚は、一挙に縮められた、崖っぷちの所まで持っていかれたという感じを持ちました。それくらい重要な問題だと考えています。
 そうすると、「これは本当は何を意味しているのか」ということは、これから様々なことが分かってきたら、本格的に解いていかないといけないはずです。朧げな予感で、阪神大震災とサリンの事件をいうとすれば、とても大きな影響力と衝撃力を持っていて、後々これからの問題に長く尾を引いていくだろうと思います。ある意味で戦後五十年の平穏さ平和性を、一挙に荒れ狂う波の中に放り込んだことと同じ大きな意味を持っています。これの影響は、これから出てきましょうし、また、これからよく分析し、確かめて、自分らの進路を決めていかなければ駄目じゃないかと思うのです。
 そういう意味では、大変な事件で、マス・コミや、その影響で一般的に市民社会に流布されている善悪観から見ますと、とてつもない無差別無関係凶悪な殺傷事件ということで片付けられそうです。しかし、僕らが善悪の倫理を考えるとすれば、我々は現在まで通用している倫理は、多分、高度の資本主義消費社会においては疑わしくなった前触れ状態にあるということです。市民社会の枠内の倫理として善悪と言われていたものは、もっと「普遍的な倫理は何なのか」という問題に立ち向かっていかないと、これから後の社会の動向に対して、通用しないんじゃないかと僕は思います。

 その普遍的な善悪へ向う倫理のモチーフに対していまの市民社会の善悪の枠内でやられている非難は、一面ではもっともなことでしょうが、他の一面では小っぽけな、従来に捕われた枠内の規模しかない善悪で、善悪の問題は本当は、もっと普遍化して、拡大していかないと、これからの社会的な成り行きに耐えられないんじゃないでしょうか。
 僕がサリン事件とオウム真理教と結びつけるとすれば、市民社会における善悪という所で無差別無関係の人に対する殺人ということで、殺傷の次元を一挙に新しい次元の殺傷に持っていった事件ということになります。また、市民社会の規模の善悪だけで済むかという問題になってくると、善悪の倫理性を普遍的な善悪の問題にまで、どういうふうに拡大していけば、実りがあるのかという所へもっていかないと、対応できないでしょう。その二つの善悪の問題。つまり、普遍性にまで拡大されてゆく善悪の規模と市民社会的善悪の規模と、その両極を踏まえた上で、オウム真理教とサリン事件の問題を考えてきましたし、これからもするだろうと思います。これは、社会的常識から言うと、それに反する所があるかもしれません。しかしその辺の常識にとどまるのなら、僕らの思想の存在する根拠はないので、たんに法律の責任にしかならないでしょう。僕らは思想の問題をよく踏まえて「倫理はどう普遍化して行けば、これから後の社会の進展に対応できるか」という所まで考えなきゃいけない。これは、僕の基本的な考え方です。オウム真理教をサリンによって結びつけられている事件は、僕なんかには、いちばん重要な観点を作る課題なわけです。



 「普遍的な善悪」の問題を、「誰もが持っている人間性の闇」の問題と同義だと、私は考えている。その「人間性の闇」をも包括したもっと普遍的な倫理というモチーフを、吉本さんは自らの課題としている。どちらかというと文学に似つかわしいモチーフといえる。
 ところで親鸞は、人は「業縁」がなければ一人とて殺せないが「業縁」があれば百人でも千人でも殺してしまうものだ、と言っている。この「業縁=契機」とはなんだろう?「契機」をつくるのは1歳未満までの間に形成される「無意識」だと、吉本さんは別のところ(「超『20世紀論』」)で言っている。人間精神の「無意識」の領域が「人間性の闇」の淵源だという。仏教ではこれを「業」と言ってきた。
しかし「無意識」だけでは「業縁」は生まれない。「縁」という他者との関係がもう一つの要因としてある。これは吉本思想のキーワードの一つである「関係の絶対性」のことではないかと、ふと思った。単なる思い付きだから、いまは深入りしない。

 「オウム真理教事件について」が、思いかけず、ずいぶん長くなってしまいました。しかも「正義論」のモチーフからはずいぶん離れてしまったようです。一応今回でこのシリーズを終わります。

453 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(12)
オウム真理教事件について(5)
2006年3月16日(木)


 サリンによる無差別殺戮という事件の本質をどうとらえるか。その違いが、もろもろの宗教家・知識人・一般の新聞投書者たちからの激しいバッシングの対象となった。
 吉本さんの見解を読んでみよう。


 何度でもはっきりさせなくてはならないが、わたし(たち)が許しがたいとおもって関心をもっているのは、どんな者たちによってなされても(もちろん国家=政府によってなされても)サリンを発生させることで無辜の民衆を無差別に殺傷した行為と、そのサリン行為に含まれた殺傷次元の高度化(たとえばふつうの爆弾と原子爆弾の相違のような)ということだけなのだ。
(「超資本主義」より)



 この発言に対して「それなら敵対している人間だったら殺傷してもいいのか。」といった言葉尻をとらえるような幼稚な非難もあったようだが、まともに文章を読めば、そんな益体もない非難が出てくる余地はない。
 吉本さんが「殺傷行為の高度化」といっていることが、たぶん大方の理解を拒んだようだ。このことを吉本さんは次のように詳しく論述している。「余裕のない日本を考える」から引用する。


 いままで、敵対する国家のあいだに戦争が起こって武力衝突の結果、直接に戦闘員が死傷することはたくさんあった。またそれに巻きこまれて非戦闘員が殺傷されることもあった。いわゆる国家間戦争の武器の役割がそうだった。



 思えば支配者どもの歴史はそのような殺戮の連続であった。その殺戮を是認あるいは正当化しておいて「一人の命は地球よりも重い。」などといういうことをいけしゃしゃと御託宣して恥じないやからがよくいる。毎日世界のどこかで国家による殺戮を行っている人類の現段階では、そのような物言いは罪の深い虚偽である。
 ところで、吉本さんはサリンや原子爆弾のような無差別殺傷兵器による殺傷は、これまでの殺傷とは本質的に違うと言う。


 だがこんどの松本サリン事件、とくに、東京の地下鉄サリン事件は、国家間の戦争でもないし、敵対している人間や勢力の争いでもない、まったく関わりのないただの無辜な民衆を承知のうえで殺害している。これはサリンという猛毒性の気化物質の無差別な拡がり方から起こる無差別な殺傷力がつかわれたからだ。それと一緒に、(人間を人間が殺そうとする)動機や理由に、かつて無い意味をつけくわえた。もちろん結果だけからみれば殺傷行為に変わりない。だがある事柄に関わっていないし、関わる気持ちさえももっていない者が殺傷されることがはじめから見込まれていて、天災とおなじ不意打ちの行為を意味している。言いかえれば殺傷行為をする人間(または集団組織)はゼロであるように雲隠れしながら、ほんとは「人間」全部を殺傷し、抹殺しようとするモチーフをもった行為だと見倣してよいことになる。これはたとえば狂気の人間が、機関銃を乱射したり、車の中で放火したりして無差別に狙いを定め、その結果なんの関わりもなく偶然そこに居合わせた人間を殺傷してしまったというのと同じようにみえて、実はまったくモチーフの次元が違っている。もちろん人が人を殺傷するというのは、どんな場合でもよくないに違いない。だがそれはサリン(や原子爆弾)による殺傷とはまったく次元が違うことだ。
 敵対している人間を殺傷する行為は、口で言い争うことからはじまって、腕力沙汰になって傷つけ合うという喧嘩の延長線で考えられることだ。サリン(や原子爆弾)による殺傷は、まったく次元の違う殺傷行為だと、言いたいわけだ。同じように人間を殺傷するのだから、結果は同じじゃないかという考え方を、とるべきでないとおもう。次元が違う殺傷だということが重要だ。なぜかというとサリン(や原子爆弾)は、無限に多様な殺傷行為に道を開く糸口をつけることになるからだ。

 人類はやがて人間どうしの殺傷を止めるところから始まって、すべての殺傷行為を止めるのが理想だ、という「理想」というイメージを、阻止してしまうことになる。松本サリン事件・地下鉄サリン事件は、わたしたちに無限に多様な殺傷行為がありうることを示唆して、衝撃とやりきれない絶望感を与えてしまった。これは重大に考えて考えすぎることはないとおもう。



 市民社会に流布している一般的な善悪観をはみ出してしまった悪だと言う。したがってこれまでの善悪観に則って裁いてことたれりと済ますことのできない問題をはんでいる。土屋さんは「組織的になされた大衆殺戮に対して法律的対処をしながら、同時に、この社会の自由の原則を放棄しない。」と言っているが、たぶん「正義論」の枠内では収まらない問題だ。あるいはまったくの別問題だというべきか。人間を救済するはずの宗教(国家という宗教も含めて)にともすると凝縮して現れる人間精神の闇を深く考察することを、この問題は要求している。

 吉本さんの言説は、これまたバッシングの対象の一つとなった親鸞の「悪人正機」に関わる論考へと進んでいく。


453 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(11)
オウム真理教事件について(5)
2006年3月15日(水)


 吉本さんは麻原彰晃の何を高く評価しているのか。麻原彰晃が「生死を超える」という著書で、仏教の修行の内実を白日の下にさらしていることを評価している。「世紀末ニュースを解読する」から、その部分を、これも全文引用する。


 『生死を超える』という本の前半は麻原彰晃がヨガの修行者として経過した段階が実感的に書かれているので、実際に体験したことだとわかります。ヨガの修行者としてはそうとうのステージにあるのだということがわかります。これは仏教的修行がなにかを明らかにしていると思います。
 たとえはチベットの『死者の書』などには仏教でいう死後遊行のことが神秘めかして書かれています。彼は『生死を超える』でそのことを実感を込めて明らかにしています。こういうことをすれば死後の世界に接触できる、死んだあとにそこにいけるといっているんです。死後の世界は幻覚なんですが、そのように修練の体験を語っています。この本は僧侶の修行史と出家の修行史のなかで一つの場所を占める書物だと僕は思います。人によってはそうはいわないでしょうが、僕はそう思います。

 最澄も空海も自分がどんな修行をしたかについて、はっきりいえばいいのにいっていないわけです。ただ麻原彰晃がここで解き明かしていることを読めば、仏教の修行がいかなるものかがわかります。

 仏教が、死を恐れることはないという根拠は、修行により死後の世界にいけるからだということです。信仰者は、そういう修行をしている高僧がいうんだから極楽往生できるんだと信じてきたわけです。死後の世界はこうあるんだという死後遊行のところまでいったから、高僧は一般の信者に死は怖くないと説いているわけです。こういうことはそうとうはっきりした見解をもっていないとやれません。神秘めかしておいたほうが偉くみえるわけですから、そこまでは旧仏教はやらないのが普通です。

 麻原彰晃がそこまでやったということは、自分自身に対する自信や自負もあるのでしょうが、既成の仏教的なものや市民社会の上にある国家や政府に対する否定がそうとう徹底していることを意味していると思います。



 ここで吉本さんはヨーガの修行者としての麻原を「評価」しているだけである。また「評価」しているだけで「肯定」しているわけではない。むしろ吉本さんは難行苦行による解脱ということを根底にした仏教を否定している。だから、そのような仏教を否定することから考え抜かれた親鸞の思想を、吉本さんは考究し続けている。
 実はその親鸞の思想と関連する事柄の論述がまた、もろもろの宗教家・知識人・一般の新聞投書者たちからの激しいバッシングの対象となった。
452 今朝のニュースから
チョッと寄り道します。
2006年3月14日(火)


 この頃、「寛容」あるいは「不寛容」という言葉がよく目にとまる。偶然だろうか。支配層とその阿諛追従者どもの不寛容がいよいよ狷獗を極めるにいたったことの反映ではないか。
 今朝の朝日新聞のコラム「伝える言葉」の大江健三郎さんの言葉から。


 日本人がいかに寛容の精神ということに未熟であるか。なによりも人間らしいということを根本におく、という態度から、いかにしばしば逸脱するか。そして機械にでもなったように、いかに人々が、はやりの社会思潮にガラガラ動かされるか……

(中略)

 戦後四年目の一月、渡辺一夫と中野重治は、往復書簡をかわしました。(―また始まった! と渡辺さんが最初の嘆声を発せられたのが、この年あたりだったかも知れません。)まず渡辺さんのエッセイに感銘を示しつつ、中野さんがこう書かれるのは、真面目な懸念に発してのことだったはず。

 《とかくペシミスティックなところへ引かれるのは、これは年齢、あるいはわたしたちの年齢のものの経験のせいでしょうか。しかしくどくもいえば、もっとも浅はかなオプティミストたちが戦争をしかけたがっている以上、わたしたちペシミストは断乎として進まねばならぬと思いますい》

 作家中野重治もフランス文学者渡辺一夫も、生涯をつうじて引きさがることはしませんでした。しかしいま、かれらが対抗しようとした勢いは、政治、経済、国際関係そして文化を(つまりは教育も)おおっていいます。なお中野さん渡辺さんが生きていられたなら、どういう言葉を発せられるか?私がこのコラムで書いた多くは、その声に耳をすませてのことでしに。



 同じ新聞の社会面に、精神未熟の都知事と同じく未熟な揶揄追従者らの度重なる愚考が報ぜられていた。


君が代斉唱 生徒起立「徹底を」 都教委 都立高校長に通達
 卒業式や入学式での「君が代」の起立斉唱を巡り、東京都教育委員会は13日、「生徒への指導を教職員に徹底するよう」命ずる通達を都立高校長らに出した。11日にあった都立高の卒業式で、生徒の大半が起立しなかったことを受けた処置。職務命令にあたる「通達」が出たことで、国歌斉唱時に起立を望まない生徒に対し、学校側からより厳しい指導が行われることになる。(中略) 今回の通達で、生徒の不起立についても、教員を懲戒処分する可能性が高まったことになる。



 続いて小さな見出しで次の記事が続く。


不起立教員 停職lカ月

 1月にあった学校の創立30周年記念式典で、国歌斉唱時に起立しなかったとして、東京都教育委員会は13日、都立調布養護学校の女性教員(56)を1カ月の停職処分にした。この教員の不起立を巡る処分は4回目で、都教委は「処分を加重した」としている。



 行政権力によるこんな暴挙がまかり通っている。大日本帝国時代と同じではないか。情けない国だ。いや情けない国民だ、と言おう。もちろん私もその一人だ。

 [anti-hkm]MLに<「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」並びに「都教委包囲首都圏ネットワーク」の渡部(千葉高教組)>さんの次のようなメールが届いていた。


 本日(3月13日)、周年行事で4回目の不起立を貫いた河原井さんに対する都教委の処分が発令されました。
 処分は3月13日より停職1ケ月です。これからの卒・入学式を含む年度末から年度初めにかけての期間です。
 根拠法は「地方公務員法」第29条第1項第1号、第2号及び第3号で、<職務命令違反>と<信用失墜行為>です。

 しかし、基本的人権を踏みにじる<職務命令>そのものが明らかな憲法違反であり、また、教育基本法が禁ずる「不当な支配」です。

 河原井さんこそ、処分の脅しにも屈せず、身をもって憲法を守り、教育基本法を守り、子どもたちを守り、教育に対する<信用>を守っているのです。

 すでに福岡地裁では、減給さえやりすぎ、という判決が出ています。にもかかわらず、このような無法な処分を繰り返す都教委は、自分たちがやっていることを客観視することさえできなくなっているのです。
 頭を冷して考えれば誰にも分かることです。正気の沙汰とは思えません。彼らはいずれ厳しく裁かれなければなりません。

 河原井さんは今朝、自分の考えと立場について、職場の教職員に訴えた上で、処分発令場所である水道橋の産業技術教育センターにきました。
 河原井さんを支援する都高教の被処分者たちや労働者・市民が約50人くらい集まりまり、処分に抗議しました。

 河原井さんは「今回の静かな『不起立』は教員としての良心、教育労働者としての誇りです」、「処分ではなく対話を切望しています」と言っています。すでに勝負はついています。

 にもかかわらず、本日(13日)、都教委は臨時の校長連絡会を開き、さらに「新たな通達」を出したようです。教員の生徒への指導義務をさらに強化する内容のものと考えられます。

 彼らの暴走は自己破滅に至るまで、とどまるところを知らないようです。



(このあとに卒業式での闘いの報告記事が続きますが、それは掲示板「メールの輪」の方に転載しました。)

451 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(10)
オウム真理教事件について(4)
2006年3月13日(月)


 宗教教団はオウム真理教に対して「同じ宗教教団として寛容」であるべきだ、と吉本さんが言うのは、どの教団もオウム真理教が陥った陥穽から無縁ではないからだ。オウム真理教の轍を踏まないための思想的な営為が不可欠だと言っていると思う。その陥穽のありどころを吉本さんは次のように述べている。


 わたしはヨーガ行者としての麻原彰晃も、それを修得しようとして「出家」した信者も、マスコミやマスコミ登場の知識人士がいうほど幼稚な、しかも凶悪な人間たちだとはおもっていない。それにもかかわらずサリンを地下鉄に発生させて無辜の民衆を殺傷した容疑が、麻原彰晃やオウム真理教の信者と結びつく嫌疑の渦中にあるとすれば、生の世界と死後の世界を等価に存在する実体とみなす仏教的な世界観が、ラジカルな小思想家(宗教者)によって荷われた場合の「死」の軽視に由来するかもしれぬと、さしあたり言っておくほかない。平安末期から中世初頭の混乱した世相と支配者の交替の時期にも、そんなことがあった。中世の新宗教と教祖たちはそんな混乱の中で出発したのだ。そして「死」に突入したラジカルな小思想家(宗教者)は『一言芳談抄』に衝撃的なエピグラムをのこして消えた。



 吉本さんのこの観点は宗教者への批判にとどまらない。すべての思想的営為あるいは理念が同じ問題を問われている。その批判のある部分は私(たち)への批判でもある。
 天下国家を論じるだけが思想ではない。大状況のみならず、私たちの日常的な小状況にも適切に一貫した対処がきない思想など思想の名に値しない。国家の問題から市井の一人としての生き方にいたるまで、吉本思想は一貫している。次の引用文はそうした吉本思想の面目躍如たるところがある。傾聴に値すると思うので、長い引用をする。


 言うまでもないことだが、「国家」は市民社会との関係を緊密に持つことで、国法(憲法)を教義とする拡張された「宗教」だと見倣すことができるものだ。原則的にいえば宗教が宗教の上に立つことはできないという原理によって、宗教の自由、信教の自由が保障されなくてはならない。そしてこの自由は、どんな宗教を信ずるのも自由だというほかに、国家=政府からの宗教の自由を意味している。
 「国家」という「宗教」が、何はともあれ市民社会の上に立ちたい願望のあげくに一定の共同幻想(規範)を造りあげているように、どんな宗教も市民社会を超越したい欲求と、個々の市民の内面(こころのなか)に規範(戒律)をうち立てたい願望を持っているものだ。「国家」という「宗教」やそれ以外の宗教は、その超越的な部分で、市民社会の規範を超えた部分を必ず形成している。別の言い方をすれば、市民社会の善意の慣行に違反する可能性をいつでももっているものだ。

 たとえば市民社会の市民が、誰も生命を失いたいとも思わず、戦争をしたいともかんがえないのに、国法を介して市民を戦争に介入させ、生命を殺害させるような悪をなすことができる。もちろんそのためには村山内閣がやったように自衛隊は合憲であると宣明して、海外派遣を正当化し、犠牲の死者を出しても、新開、テレビなどの報道を通じて政府による殺人だと言わないような言論の下ごしらえをして、善良な市民のマインド・コントロールを巧みに済ましてしまうことになっている。
 また市民社会の日常では、母親が幼ない自分の子どもを殺害して愛人の男とかけ落ちしたり、父親が登校拒否の子どもや家庭内暴力の子どもを虐待したり、殺害したり、またその逆に登校拒否児や家庭内暴力の子どもが、父親や母親に傷害を与えたり、殺害したりすることも茶飯事のように行われている。



 吉本さんはヨーガ行者としての麻原彰晃を高く評価している。この点でもろもろの宗教家・知識人・一般の新聞投書者たちから激しいバッシングを受けた。次はそれらに対する吉本さんの応答である。


 わたしは市民主義にたいし終始批判的だが、市民一般に批判的であったことはない。新聞に投書などする人たちはどんな人たちか測り難いが、たぶん、市民から市民主義に移行する過程にある人のように受けとめている。だから市民主義に移行している部分の理念にだけ批判的にならざるをえないが、きみたちの仲良くしていて立派な市民だと思っている隣人や隣人の子が、家庭内暴力を苦にして子どもを殺害したり、逆に親が子どもから殺されてしまったとする。そうなったとき、きみたちはその隣人を手の平を返すように殺人者呼ばわりし、その家族にたいし隣に住んでもらいたくない、出てゆけとデモでもするのだろうか。わたしならそんな馬鹿な振舞いはできない。あの隣人もその子どももいい人だったが、そこまで追い詰められてしまった。気の毒だと言うとおもう。なぜかといえば、善なる人が情況によって悪を犯すこともあれば、他人や近親を殺害することも、ありうるからだ。わたしの人間認識ではこの可能性は人間性(ヒューマニティ)のなかに包括されるもので、例外などあり得ないとおもう。
オウム真理教の教祖の宗教家としての力量を評価するということは、仲良くしていた隣人が家庭内暴力の息子を殺しでも、あの人はいい立派な人だったというのとおなじだ。これを殺人者だとして排斥すれば済むなどという考えは、検事や裁判官が法を適用する場合以外には通用しないとわたしなら考える。このことに気づかない阿呆は、マス・コミのふりまく市民主義の宣伝にかぶれた市民だけだとわたしはおもっている。もちろん新聞やテレビなどマス・コミ関係者やそこに登場する知識人士のオウム―サリン事件にたいするいけしゃあしゃあとした論議をきいていると心の底からだめな人たちだという気がする。

 何となれば国家=政府の存在と遣り方を絶対善として疑わず、いわばその傘の下で、じぶんたちがオウム真理教の連中と別人種のような顔をしているからだ。理念的にいえば国家=政府という首部から決められた秩序を至上の宗教としている箸にも棒にもかからない連中だとしか思えない。そして文学的にいえば人間性(ヒューマニティ)の闇を見ることができない盲目の人士にすぎないというほかない。



 隣人が犯してしまった殺傷事件に対して、私たちはどうふるまうだろうか。「きみたちはその隣人を手の平を返すように殺人者呼ばわりし、その家族にたいし隣に住んでもらいたくない、出てゆけとデモでもするのだろうか。わたしならそんな馬鹿な振舞いはできない。」と吉本さんは言う。「正義の原理」による判断もきっとそのようになるのではないか。ここで私は麻原彰晃の子女の入学拒否事件をもう一度思い出す。

 先週からNHKで始まった「繋がれた明日」(土曜午後10:15)というドラマを見ている。誤って殺人を犯した青年が仮釈放で社会に復帰しようとするが、周囲のさまざまな偏見と悪意にそれを阻まれる。この国の市民あるいは市民社会の未熟さに激しい憤りとやりきれなさを感じながらみている。その未熟さは私自身の中にもある。激しい憤りとやりきれなさは私自身への憤りとやりきれなさでもある。

450 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(9)
オウム真理教事件について(3)
2006年3月12日(日)


 一般論として、宗教(普遍化して理念と言ってもよい)についての吉本さんの見解は次のようである。


 宗教はすべて迷妄だといいたいところがわたしにはあるが、じつは迷妄な個所は、理念(イデオロギー)としてあらわれている。また理念は政治的であれ社会的であれ迷妄だといいたいところだが、理念の迷妄は個人としても集団としても宗教性としてもあらわれている。これが世界の現在の思想的本質であるかぎり、わたしたちは宗教の存在も理念の存在も認めるほかないとおもう。
(「サンサーラ」1995年11月号「情況との対話」より)



 宗教は迷妄だと否定してまったく問題外とすることもできるが、現在の人類の思想的到達点においては宗教も、その他の政治的・社会的・倫理的理念などとともに、思想上の問題としてその存在を認めるほかないと言っている。
 なお吉本さんは「理念」に「イデオロギー」というルビを振っている。私は「虚偽意識」という語を「イデオロギー」というルビを振って用いている。つまり理念の「迷妄」な部分を私は「虚偽意識」と言ってきた。

 この宗教と理念のアポリアが現段階での最大の思想的課題だということになる。浅間山荘事件を頂点とする「連合赤軍」一連の事件の問題もここで取り上げようとしている問題と別物ではない。上の引用文と同じことを次のようにも言っている。


 宗教のなかの迷妄的な部分が理念的になってしまうのと同じように、理念的であるはずの思想は必ずその迷妄的な部分が宗教的になってしまいます。反核を大声でいいたてている文士も同じです。
 僕は本質的にいえば宗教も理念も両方とも否定したいと思っていますが、現在のところ世界中の宗教や社会の理念はこのことから免れていません。免れているやつは世界中にだれもいないんです。
 そういう段階だということを認めた上でいいますが、入り方と出方がきちっとしてない集団は、理念としても宗教としても成り立たないと思います。集団として宗教や政治をやるなら、そのことをきちっとしておかないと、迷妄な部分がひっかかってきて、ヤクザの組と同じように入るときは盃ごと、出るときは指を詰めろとか生かしておけない、リンチだということになります。実際、オウムも世界の左翼の連中もそれらしきことをやってきたわけです。それを免れることができないのが、現在の世界の段階だというより仕方ないんです。
(「世紀末ニュースを解読する」より)



 このアポリアをだれもが免れていないという認識が、たぶん吉本さんとその他の論者との間の、論点の大きな齟齬となっている。このような認識を欠いたものには、結局は連合赤軍事件やオウム真理教事件の本質は見えないし、その言説も対処も皮相で通俗的なものにならざるを得ない。


 宗教団体、特に仏教各派がなにをいっているかというと、オウム真理教は凶悪、劣悪な集団であって、とても宗教と呼べるようなものではない、これは特別であり、宗教団体自体は悪くないのだから、宗教法人法の改定には反対であるという言い方です。ただ一つの宗派も、宗教がまっ正直に、まっすぐに突っ走れば、そこには危険な要素があり得るんだ、法的には犯罪にいく可能性だってんあるんだ、同じ宗教教団として寛容でありたいという言い方をした団体はひとつもありません。どこもオウムのようにきついところまで追いつめられたことはないのですが、その宗教教義は自分たちとは無縁であると片付けています。
 これは僕にいわせれば、宗教家として失格であると思います。特に仏教徒として失格です。アイツは特別に悪いんで、俺のところとは違うんだという言い方は宗教家としては全然なっていないと思います。



 この引用文で言われていることは「正義の原理」を貫いている論理とほとんど同じだと私は思う。「正義の原理」によれば「同じ宗教教団として寛容でありたい」という姿勢が最も妥当なものということになるだろう。

 マスコミを賑わしたいわゆる識者たちの言説もすべて、上の宗教者たちの域をでるものではなかった。

449 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(8)
オウム真理教事件について(2)
2006年3月9日(木)

 オウム真理教事件についての土屋さんの論述は次のように続く。


 オウム真理教事件については、いかなる極論も自由の原則を歪めることになるだろう。吉本隆明のように、大衆の殺戮を結果的に引き起こしてしまう行為を、むしろ宗教の真実性を示すものとして容認するようなことは、この自由社会の原則からはまったく受け入れることはできない。そこには、宗教を特権化する「エリート主義」が歴然としている。
(中略)
 宗教そのものについて論じる準備は私にはない。しかし、その私の貧弱な知識のかぎりにおいても、オウム真理教が修行としてやってきたことは、日本の仏教がやってきたことのコピーであった。オウム真理教の修行を否定するならば、日本の仏教の過去もまた否定しなければならない。
 私たちは、オウム事件に怒りを覚えたとしても、理性を失って驚いてはならないのだと思う。組織的になされた大衆殺戮に対して法律的対処をしながら、同時に、この社会の自由の原則を放棄しない。それが、自由社会の原則そのものである。この原則をこえでしまえば、いつでも、私たちは、肯定するにせよ否定するにせよ、両極で宗教を特権化して、自由社会の基盤を掘り崩してしまうのだ。



 この吉本隆明さんへの批判に対して「はてなマーク」と「びっくりマーク」と「がっかりマーク」がいくつも飛び出してきた。
 私は吉本さんの発言を注視し、その著作のほとんどを読んできた。オウム真理教事件についての論述を含む著書を、手元にあるものから取り出してみたら6冊あった。どれにも「大衆の殺戮を結果的に引き起こしてしまう行為を、むしろ宗教の真実性を示すものとして容認する」ような論文はない。また、吉本さんのよって立つ基盤は「エリート主義」からはまったく無縁な地点にある。
 土屋さんは吉本さんの発言をチャンと読んだのかしらと疑ってしまう。読んだ上での評言だとしたら、まったくの誤読としか言いようがない。また「オウム真理教が修行としてやってきたことは、日本の仏教がやってきたことのコピーであった。」という見識は何処から得たのだろうか。麻原彰晃の著書を検討したうえでこのような見識をはっきりと打ち出した識者を、私は吉本さん以外に知らない。その知見は宗教への深い造詣に裏打ちされている。土屋さんの著書からいろいろご教示を受けているのだけれど、ここでは知的誠実さという点でいささか疑念を感じている。

 ことばを覚え始めた頃の子どもはことばを倒置して覚えることがよくある。たとえば「バンザイ」を「ザンバイ」と言ったりする。「ドウブツ」は「ドウツブ」となる。私はこの「ドウツブ」を愛用している。たとえばカミさんとの会話で私はよく使う。「人間とは自然を逸脱したドウツブの謂いだ」とか「人間はどうしようもないドウツブだね」とか。

 人間と言うドウツブの逸脱の方向やその程度はさまざまあるが、人間をドウツブたらしめている最たるものは宗教の創出だと思う。宗教は紛れもなく人類がはぐくんできた文化の重要な一要素であるが、人を蒙昧にするアヘンでもある。「正義の原理」はあらゆる宗教(一般的に共同幻想といってよい)の存在を認めるが、あらゆる宗教(共同幻想)が可能性として孕んでいる不寛容が「正義の原理」の普遍化を拒む。
 あるいは次のように言ってもよい。いま人類の最重要課題は全ての人を生かしめるような新しい倫理の創出ではないかと私は思っている。それは人間が「ドウツブ」を超えたもっと高い精神性をもった「ドウツブ」とは別の存在になることを意味するだろう。そしてそれはまた人類が宗教を棄揚することを意味する。

 17世紀末の市民革命で人民が獲得した自由について論ずる中でマルクスは言う。

 「人間は宗教から解放されたのではなく、宗教の自由を得たのである。」(「ユダヤ人問題によせて」)

 「人間は宗教から開放されなければならない」と言っている。吉本さんの言い方で言うと「あらゆる共同幻想は死滅すべきである」ということだ。

 オウム真理教事件を前にして、なお「正義の原理」は有効か。オウム真理教事件とはなんだったのか。オウム真理教事件が私たちに突きつけた問題について、吉本さんの論述を読んでみることにする。

448 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(7)
オウム真理教事件について(1)
2006年3月9日(木)


 評伝「ロールズ 正義の原理」(第443回で提示)では「正義論」を概観するための抄訳が掲載されている。不寛容者に対する対処の項はより分かりやすく書かれているので改めて掲載する。


 次に寛容の原理。
 これは、近代国家をスムーズに運営するための手段ないし建て前として要求されるものではない。道徳的・宗教的自由は、あくまでも平等な自由という原理から導き出される(第三四節 寛容と共同の利益)。
 寛容原理を食い物にして不寛容な宗派・団体がのさばり、ついには寛容な人びとが抑圧される。そうした逆説的な事態を避けるためだからといって、不寛容派の自由を否定するのもよろしくない。むしろ連中にも自由を認めておけば、その自由が不寛容な人びとの心中に「平等な自由」への信念を徐々に培ってくれるだろう。いずれにせよ、私たちはそうした迂路に賭けるしかあるまい(第一二五節 不寛容派に対する寛容)。



 「正義論」は政治哲学の研究書だが、ここではむしろ倫理の書というおもむきである。社会に「正義の原理」があまねく浸透する過程としてなら、このような「迂路」しかありえないだろう。
 オウム真理教事件を、土屋さんは次のように論じている。


 法律はけっして個別な事例にだけ適用されるものではない。一つの判断の成立は、その判断が将来にわたっても採用されることを意味している。慎重さは、当然に要求される。
 ここでは、具体的な事件に深く入り込むことはしない。オウム真理教のことを、子細に論じることはしない。しかし、ロールズの条件設定を前提にしたとき、私たちが、オウム真理教に対して、どのように対処すべきであるかは、かなりのところで確認することはでき そうだ。
 不寛容な者を否定するかどうかの条件は、市民の自由の条件の重大な危機のうちにこそあり、オウム真理教という宗教の存在自身を、条件にすることはできない。つまり、松本サリン事件、坂本弁護士一家殺害事件、地下鉄サリン事件という、一連の事件の現象において、オウム真理教は裁かれるべきであるが、その信仰を条件にして裁かれるべきではない。ましてや、現実に基本法(憲法)と市民の生命への危険が認められなくなった時点で、遡及的に「破壊活動防止法」を適用したことについては、ロールズ的原則はこれを否定するだろう。
 自由な制度がもつ本来的な安定性への信頼を失うべきではない、とロールズはいう。異端者の存在をも許容する強さを、自由社会はもっていなければならない、とロールズはいうのだ。



 「正義の原理」からは当然の主張であり、私もこの主張をうべなう。しかし残念ながら現実の社会はこの主張が実行されるほどにはまだ成熟していない。
 2年前に麻原彰晃の三女が、合格したにもかかわらずに和光大学への入学を拒否された。三女さんは裁判に訴えていたが、「入学拒否は違法」という判決を得て勝訴している。この 2月のことである。
 にもかかわらず、今度は次男が合格した中学(春日部共栄中学)への入学を拒否された。3月 2日の報道である。

 では現在、未成熟なのは社会だけだろうか。

 宗教の教義や思想の内容を裁くことが大日本帝国時代には大手を振るってまかり通っていた。小林多喜二や大杉栄のように、裁判さえなく虐殺された人もいた。
 ここで、この1月の「横浜事件」の再審の判決が思い出される。横浜地裁松尾昭一裁判長は、「治安維持法が廃止されたことなどを根拠に、無罪か有罪か判断せずに裁判の手続きを打ち切る形式的な判決(免訴)」をしている。これに対して、弁護団長の森川金寿さんは次のように言っている。

 「非常に残念。日本の司法はこの程度なのかと落胆した。人権に配慮したとは到底言えない、歯切れの悪い判決だ」

 さて、オウム真理教事件の無差別殺戮は裁判で裁かれるべきだが、この事件はそれだけで済ますことのできない大きな問題を孕んでいる。「正義論」の問題としてではなく、宗教の問題として。

447 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(6)
不寛容なものへの対処
2006年3月7日(火)


 「正義の原理」のもとに成り立つ社会では宗教の教義の内容は問題ではない。いかなる宗教もその社会のうちに存続することを認める。
 もしこの「正義の原理」を否定する不寛容な宗教があったならどうするのか。オウム真理教事件を想定すれば問題はより鮮明だろう。また問題は宗教 に限らな い。「不寛容な個人」でもよい。例えば私はイシハラを想定している。

 「正義の原理」によって立つ立場からは不寛容者の教義や思想には介入しないが、「この社会の正義の原理を認め、 自分たちの存在が認められているように、他の存在も認めること」を要求することになる。しかしこの要求によって不寛容な者たちが寛容へと改心するとはとてもありえない。その程度では改心するはずもないほど固陋だから不寛容なのだから。

 この問題に対するロールズの考えは次のようである。


 「原初状態」において、いかなる場合であろうと、自分の存在を保証する権利は誰にもあるのだから、自分の生が危険になってまで、寛容の原理に立つことはできない。
 しかし、ロールズは、そのことをいうために、相当に繊細な条件を設定している。その繊細な条件は、現実のまえで、はたして有効であるか否かを疑わせるものであるが、私たちが、自由の原理に立つ以上は、その織細な条件を確認しておくことが必要である。
 彼は、こういっている。

 正義にかなう基本法が存在するのであるから、すべての市民にはそれを擁護すべき正義の生来の義務がある。われわれは他者が正義にもとる行為をしようと思っている時でさえ、この義務を免除されることはない。(免除されるためには)より緊急な条件が必要とされる。つまり、われわれ自身の合法的利益にかなりの危険がなければならない。かくて、正義にかなう市民たちは、自由それ自体と彼ら自身の自由とが危険にさらされるのでないかぎり、市民の平等な自由すべてを備えている基本法を守ろうと努力すべきである。人々は、「原初状態」において自分が認める原理によって確立される権利を尊重するように要求されるから、市民は、不寛容な宗派に、他者の自由を尊重するように、当然強制することができる。だが、基本法それ自体が安全に守られている時には、不寛容な宗派の自由を否定すべきいかなる理由もない。

 私たちは、思想、信条、宗教の違いによって、その人間を排除しない。それは、「無知のヴェール」のもとでの選択が条件づけていることであった。この原則は、いかに不寛容な人間に対してであっても、維持しなければならない。むしろ、私たちは、平等な自由の原理のもとでは、不寛容な人間の存在も認めることによって、不寛容な者自身が、その正義の原理を承認するようになることを、期待する。
つまり、どこまでいったら不寛容な者を否定するのかは、結局、自由の条件、自己保存の権利が、どこまでいったら危機にあるということになるのかを決めなければ、決断することはできない。
 きわめて具体的で繊細な条件の設定が必要なのだ。



 なんとも歯切れの悪い言説だが、要するに基本法(憲法)に基づいて判断すべきと言っているようだから、穏当といえば穏当な結論だろう。
 また、しかし、だ。「日の丸君が代の強制」問題に引きつけてみると。
 「自由それ自体と彼ら自身の自由とが危険にさらされ」ている状況を基本法(憲法)にてらして、「他者の自由を尊重するように強制すること」ができると言っても事はそう簡単ではない。「自由が危険にさらされている」とだれが判定し、だれが不寛容者(イシハラ)に「他者の自由を尊重するように」強制するのか。裁判に訴えるほかないということになる。
 ところが再三いうように、私は日本の裁判官のほとんどを信用していない。「法の番人」ではなく、「権力の番犬」に成り下がっている。そのように判断せざるを得ない事例は枚挙にいとまない。「日の丸君が代の強制」関係の訴訟に限っても、すでに判決が出された裁判では原告側の敗訴が続いている。それでもいじましいことに、もしかしたらという期待と希望をまだ全部は失ってはいない。

446 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(5)
言葉のうらおもて(1)
2006年3月6日(月)


 「知」をなりわいにしている人たちの「知」には、それなりの敬意を払うのにやぶさかではない。しかし、それだけに皮相な俗論を開陳されるのはやりきれない。頭のどこかから、「はてなマーク」と「びっくりマーク」と「がっかりマーク」がいくつも飛び出してくる。
 立川昭二という歴史家が朝日新聞の「こころの風景」というコラムを担当している。2,3回前の記事で34年前の「あさま山荘事件」を取り上げていた。最後に次のように締めくくっている。


 あのような自己中心的な若者をつくった土壌は、今日もかたちを変えてこの国に残っているように思えてならない。



 「あさま山荘事件」に関わった若者たちを「自己中心的な若者」だという。ことの本質をまったく見ていない評語だ。氏がどのような若者を今日の「自己中心的な若者」と考えているのか分からないが、例えば私は、このくだりを読みながら、その代表としていま話題の「ホリエモン」を思い浮かべた。
 私の認識では「あさま山荘事件」の若者たちの理論には大きな過誤があったかもしれないが、「自己中心」とはほど遠い。今日の「自己中心的な若者」とはどんな線でも結びつけようがない。「月とスッポン」だろう。

 さて、「正義論/自由論」にお世話になっているが、「はてなマーク」と「びっくりマーク」と「がっかりマーク」が飛び出したところが2ヶ所あった。

 一つはロールズの国家論について述べている次の個所。


ロールズの「原初状態」のもとでは、宗教国家は存在しえない。誰もその選択の道をとることができないからだ。複数の価値、複数の宗教、そしてまた無神論者も生きることができるのが、ロールズの正議論の社会である。
 この基本的な自由への平等の権利を認めあうことを、「原初状態」のなかで契約したのだ。国家とは、この自由の条件を保証する存在であって、それ自体がなんらかの宗教、思想をかかげているものではない。
 実は、ここにはロールズの重大な国家論の問題があらわれている。彼にとって、国家はさまざまな価値や思想をもった者たちの連合体なのだ。国家そのものは、この自由の連合体の保証人であるにすぎない。宗教国家がそこでは存在しえないように、民族への忠誠を求めるような民族国家も存在しえない。多民族国家や多人種国家において、一つの人種へ の忠誠を求めることは、自由の条件への侵害である。そこでは、平等な自由への権利は侵害されている。
 しかし、それは過激な自由主義者たちのように、無政府主義へとつながるものではない。政府は存在するのだ。ただその政府は、自由の条件を裏書きする存在であって、それ自身が、なんらかの思想、宗教を主張する存在ではない。



 何に引っかかったかというと、「それは過激な自由主義者たちのように、無政府主義へとつながるものではない。」というところ。アナーキズムを「過激」と評している点と「アナーキズム=無政府主義」という認識が、私にはきわめて皮相で通俗的な見解に思える。
 現在のブルジョア国家の基本理念「民主主義」はそれまでの為政者=王侯貴族にとっては「過激な」思想だった。それと同じ意味でならアナーキズムは「過激」と言っていいだろう。

 「アナーキー」という言葉の語源は「ギリシア語」で、「An-archy=支配者がいない」という意味だ。アナーキズムは「支配-被支配」というヒエラルキーを基盤とする組織に反対している。アナーキズムの政治思想においても「政府は存在するのだ。」しかしそれはブルジョア国家の政府とは似ても似つかないものだろう。したがって「政府」=「ブルジョア国家の政府」と限定するなら「アナーキズム=無政府主義」と言ってよい。
 私はアナーキズムにますます強く引かれている。

 ここで私にもうひとつの課題ができた。
 アナーキズム、特にその「相互扶助論」とロールズの「正義論」との同一点や相違点を考えるという課題。ロールズの「正義論」を直接読んでみようと思い立った理由の一つだった。

 「正義論/自由論」で引っかかったもう一つの点。
 ロールズの正義論はあらゆる宗教にたいして「寛容」である。では「不寛容」な宗教に対しても「寛容」なのだろうか、と言う問題が起こる。土屋さんは「オーム真理教事件」を取り上げている。

(次回に続く)

445 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(4)
同性愛(2)
2006年3月1日(月)


 私たち日本人は、たぶん、同性愛を犯罪とは思わない。趣向の問題と思っている。しかしヨーロッパでは同性愛はかっては犯罪であったという。例えばイギリスでは 19世紀中ごろではその最高刑は死刑だった。土屋さんは当時の「ピロリー」というおぞましい公開死刑の新聞記事を紹介している。


 たとえば、ロンドンで「さらし刑」がある日には、朝早くから五千人をこす見物人が集まってくる。特に、魚河岸で働く女性が多かった。この見物人たちにかこまれながら、「同性愛」で告発された男は、町中を引きまわされ、広場にさらされた。首には首かせがかけられている。見物人は、そこで売られている、テームズ河からひろってきた犬や猫の死骸を買って、それを同性愛の男に投げつけるのだ。それだけではない。石を投げたり、殴打することは黙認されていた。
 「顎は割られ、眼は潰され、ほとんど気を失って、そのまま首かせで首がしまって死んでしまう」のだ。そう当時の新聞は書いている。



 同性愛が「犯罪」から「趣味」の問題へと正当化されるのには、多くの思想家の自由をめぐる言説を必要とした。ロック、ミル、ベンサムという思想の継承発展を土屋さんはたどっているが、それは割愛する。
イギリスで同性愛が完全に合法化されたのは、なんと、1967年だという。なぜこれほどまでに同性愛に対する禁忌が根深いのか、たぶん宗教上の問題だろう。

 映画「フィラデルフィア」。証人台に立った解雇者が原告側弁護人から解雇の真の理由を厳しく問い詰められる法廷場面がある。同性愛に対する憎悪の感情を隠せなくなりそうな場面で「旧約や新約にも…」と言いかける。その後の言葉は弁護人のたたみかける質問でかき消されるが、同性愛を忌み嫌う自分の感情の正当性を聖書に求めようとしたのだろう。

 宗教が果たしてきたこのような役回りに触れるとき、「宗教はアヘンである」というマルクスの言葉を私は肯う。勿論それが宗教の一面に過ぎず、多くの人には宗教が人生の支柱になっていることは承知している。しかし私の中には本質的に「宗教は迷妄」という認識が根強くある。その自分の認識を検証するためにも「宗教とは何か」という課題がずーっと念頭にあった。いずれ取り上げたいと思っている。

 さて、土屋さんはベンサムの次の文章を引用している。


 テーブルの快楽の場合は、プロテスタントは禁じられた食物を食べでもけっしてそれを道徳の問題とはしなかった。人々は健康を害しない程度に過食を戒めながら口の喜びにつかえたのだ。プロテスタントもカトリックもこの非合法の快楽(同性愛)が実際にどんな害になるかをたずねることもなく古くからの禁制にしたがったのである。



 同性愛は「性の趣味」の問題にすぎず、食卓の問題と同様、性の問題にも公権力は介入すべきではないと言っている。
 「正義の原理」にそって言えば次のようになる。


 問われているのは、「生きることの多様性」である。どう生きるかは、私たちが決める。教育も福祉も、本来的には生きることの多様性を基盤にしている。文部省や厚生省のマニュアルで決まるものではない。ドラッカーならば、教育と福祉に、政府は資金を提供しても、実際の運営は、外部に委託すべきである、ということになる。現場の独創性、柔軟さ、多様性こそが、教育と福祉の活力になる。 それは、私たちの私的な世界でも同じである。誰を愛するかまで、社会が口を出すことはできない。ましてや、誰を愛したかを理由にして、平等な自由への権利を制限することはできない。



 イシハラらには「正義の原理」を理解する精神と能力が決定的に欠けてる。

 「予防訴訟」は3月20日に最終弁論が行われて結審すると言う。せめて裁判官には「正義の原理」を理解する高邁な精神と能力を持っていてほしいと願っているが、はたしてどうだろうか。