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423 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(75)
日出ずる処の天子(6) ― 法隆寺の中の九州王朝(1)
2006年1月18日(水)


 「法隆寺の中の九州王朝」。朝日文庫の「古代は輝いていた・第三部」の書名である。古田古代史を概観すること目的で始めたこのシリーズもまもなく終点に到着する。
 法隆寺の本尊・釈迦三尊は飛鳥時代の代表作とされてきた。この「定説」を疑ったものは、かって一人もいない。しかし古田さんはこれをきっぱりと否定する。
 『この仏像は飛鳥仏などではない。世にいわれているように、聖徳太子に関するものでは、全くない』、と。

 このように断定する根拠は、くだんの釈迦三尊の光背に刻まれた196字の銘文の中にある。その銘文に対する古田さんの論証は詳細にして堅固、約40ページにわたって展開されている。例によって、詳細は直接読んでいただく事にして、そのあらましだけを紹介する。

 まず、法隆寺本尊・釈迦三尊の光背銘文を、古田さんによる読み下し文で全文読んでみる。古田さんは前文を十段に分けて読み下している。


①法興元三十一年、歳次辛巳(621)十二月、鬼前太后崩ず。
②明年(622)正月二十二日、上宮法皇、枕病して?(よ)からず。
  (「?」は「余」の下に「心」という漢字)

③干食王后、仍(よ)りて以て労疾し、並びに床に著(つ)く。

④時に王后・王子等、及び諸臣と与(とも)に、深く愁毒を懐(いだ)き、共に相発願す。

⑤「仰いで三宝に依り、当(まさ)に釈像を造るべし。尺寸の王身、比の願力を蒙り、病いを転じ、寿を延べ、世間に安住せんことを。若し是れ定業(じようごう)にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇らんことを」と。

⑥二月二十一日、癸酉、王后、即世す。

⑦翌日、法皇、登遐す。

⑧癸未年(623)、三月中、願の如く、釈迦尊像并びに挟侍及び荘厳の具を敬造し竟(おわ)る。

⑨斯の徴福に乗ずる、信道の知識、現在安穏にして、生を出で死に入り、三主に随奉し、三宝を紹降し、遂に彼岸(原文では「土」+「岸」)を共にせん。六道に普遍する、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣かん。

⑲使司馬・鞍首・止利仏師、造る。



 「上宮法皇」とは何者か。さまざまな史料の用語例を例示しながら古田さんは次のように解読している。
 まず「上宮」。
 「上宮・下宮」とか「上宮・中宮・下宮」といったように、宮殿が一個以上ある場合に慣用される呼び名である。「上宮」は普通名詞だが、この仏像の最初の安坐地では「上宮」の一言でいずこを指すか、共通理解されていたと思われる。

 次にこの人物を取り巻く者に使われている用語。
 全て「単なる権力者の中の一員ではなく、至上の権力者」=「天子」に対するものだ。「太后」は〝天子の母″、「王后」は〝王の正夫人、皇后″、「法皇」〝仏法に帰依した天子″、そして「諸臣」も当然「帝」や「天子」に対する術語である。

 すなわち「上宮法皇」とは、『上宮を本殿としている仏法に帰依した天子』の呼び名である。

 「定説」はこの「上宮法皇」を聖徳太子とする。論拠は、四人の王子の誕生を記述した「用明紀」の次のくだりのようだ。


其の一を厩戸皇子と曰す。是の皇子、初め上宮(かみつみや)に居しき。後に斑鳩に移りたまふ。


 「上宮」について、岩波古典文学大系『日本書紀』は次のような注を書いている。


推古紀・帝説に、用明天皇が太子を愛して(池辺)宮南の上殿に居住させたとあり、これによって上宮太子の名号を生じた。上宮は平安末期写の宮内庁本や釈紀秘訓等にカムツミヤと訓むが、記伝は十市郡上宮村の地名によりウへノミヤと訓むべきものとする。その所在は池辺宮に近い桜井市上之宮であろう。

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