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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
420 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(72)
日出ずる処の天子(3) ― 九州年号(1)
2006年1月13日(金)


 かねて古田さんの文庫本以外の著書を求めて大きな書店を三店歩いたが、どこにもない。
 先日、神保町に行く機会があって久しぶりに古書店をのぞいてみた。4冊探し出した。そのちの 1冊「日本古代新史」(新泉社)を資料をして追加する。
 続いて古田さんはイ妥国の統治形態(兄弟統治)・律令(なんと、ヤマト王権の専売特許ではなかった!)・「泰王国」の所在地・「附庸」(イ妥国伝中の用語)の解明などへと論を進めているが、それらは割愛して、多利思北孤が「天子」を自称していることから説き起こしている「年号」問題を取り上げておこう。これは、聖徳太子関係のもう一つの「定説=虚偽」を解明するための一つの鍵となる。

 従来年号もヤマト王権の専売特許とされてきた。しかし「九州年号」と呼ばれているものがあった。これにも学者たちは見てみぬ振りをしてきたし、従って教科書もこれにはまったく触れない。
 ヤマト王権では「年号」は何時から始まっているのか。「日本史年表」から拾ってみる。

大化元年(645)~5年
白雉元年(650)~5年

ずっと飛んで

朱鳥元年(686)(元年だけで終わる)

また飛んで

大宝元年(701)

 「大宝」以降、現在まで続けられている。

 それでは「九州年号」と呼ばれている年号はどうか。次の表のように伝えられている。

九州年号対比表
(△は「日本書紀」に出現するのもの)
九州年号

 多利思北孤と年号についての古田さんの論述を読んでみる。


 多利思北孤と九州年号、この両者の結びつきは、いわば必然性をもつ。なぜなら少なくとも後漢代以来、天子と年号はワン・セットの概念であり、年号なしの天子などありえない。周辺の国にはその年号をもちいる――「正朔を奉じ」ていたのだ。これが東アジア世界の常識である。
 倭の五王が中国内部の称号体系を熟知し、それに依拠した上で、ユニークな新称号を考案し、それを自称し、中国側の追認をえていたことは第二巻にのべた(「六国諸軍事…:倭王)。
 これに対して多利思北孤の場合、自分の称号を中国側に追認してもらおうとはしなかった。しないどころか、中国側と対等の「天子」を称した。見事な対等性の主張である。
 しかし、それはひるがえって考えれば、最高度の模倣、模倣の極致だ。なぜなら、それまでは、絶えず中国朝廷の模倣を志しながら、この一点だけは模倣しなかった。否、模倣しえなかったからである。その一点に、今や到達したのだ。とすれば、前漢の文帝(後元元年=前163)以来、九百年近い長年月、延々と年号は作られてきた。それが天子のメモワール、大義名分の原点だった。

 しかるにせっかく「天子」を自称した多利息北孤が、天子のしるしたる「年号」だけは作り忘れたのか。考えられない。従来の「多利思北孤=近畿天皇家の王者」説の論者、すなわち、わたし以外のすべての学者は、この背理に対して、いつもかたくなに目をつぶってきたのである。

 しかもこの背理を裏づける問題がある。すでにのべた新羅の年号問題だ。『三国史記』新羅本紀によれば、

  ①新羅年号の成立 建元元年(536) ― 法興王
  ②新羅年号の廃止 太和四年(650) ― 真徳王

であり、この間、115年の間、自前の「年号」を用いていた。そしてこの新羅が「倭国」と国交を結んでいたことは、よく知られている。玄界灘の一衣帯水の両国だから、当然のことだ。『隋書』イ妥国伝に、

 新羅・百済・皆イ妥を以て大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬仰し、恒に通使・往来す。

とある通りだ。
 したがってその「イ妥国」側が〝新羅王、年号を有す〟の事実を知らなかったはずはない。そして多利思北孤の時代は、右の新羅年号使用期間の真只中だったのである。その真只中で、「天子」を自称した多利思北孤だ。彼が「年号をもたなかった」、そのような状況は、すでにのべた通り、むしろ到底考えられない。わたしにはそう思われる。


 この九州年号にたいして「偽作説」が根強くある。年号が天皇家以外にあるはずがないという、またしてもイデオロギー(虚偽意識)からする難癖である。しかし、何よりもそれらが長い間使われていた実例が数多くあるのだから「偽作説」にしがみついていても仕方あるまい。
 次回はその実例のいくつかを見てみよう。
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