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419 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(71)
日出ずる処の天子(2)
2006年1月11日(水)


 600年、この「イ妥国」から隋(文帝)に使者がやって来る。


 開皇二十年、イ妥王あり。姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩?弥と号す。使を遣わし闕に詣る。
(?の文字は「奚」+「隹」、漢和辞典で調べたら、「鶏」の正字だそうだ。音読みは「ケイ」。以後「鶏」で代用する。)


 この王の「姓」と「字」をを古田さんはそれぞれ「アメ」・「タリシホコ」と読んでいる。号の方はその「読み」を示していない。
 「岩波文庫版」では「字」の「北」を「比」と勝手に変えている。(原文の写真が古田さんの著書にも「岩波文庫版」にも載っているがどう見ても「比」とは見えない、「北」だ。)そして次のような苦しいこじ付けを行っている。「定説」の論証とも言えぬ論証の常套手段の典型を示すものとして紹介する。


 タリシヒコ(足彦、帯彦)か。第一、これは男性のよびかたで女帝の推古天皇(豊御食炊屋姫トヨミケカシキヤヒメ)の音をうつしたと思われぬから、つぎの舒明天皇(息長足日広額オキナガタラシヒヒロヌカ)と混同した。第二、この時の使者を小野妹子とし、その出自は孝昭天皇の皇子天帯彦国押人命(アメノタリシヒコクニオシヒトノミコト)であるから、これと混同した。私見では天皇の諱に足彦というのが多いから、阿毎・多利思比孤は天足彦で一般天皇の称号であろう。


 ヤマト王権と結びつけるためにどうしても「北」は「比」でなければならない。「ヒコ(彦)」でなければヤマト王権の王に比定できない。
 「号」について「岩波文庫版」は次のように解説している。

 オホキミ(大君)、あるいはアメキミ(天君)であろうか。松下見林は推古天皇の諱の訛伝とするが、どうであろうか。

 虚偽の大前提をもとにしては、どのように論を進めても虚偽の結論しかえられない。
 古田さんの考察は次のようだ。


 「多利思北孤」という名前について考えてみよう。
 これは「垂りし矛」の意ではあるまいか。充ち足りた筑紫矛の王者として、ふさわしい名前であろう。あの「天日矛」などと同類の名である。
 これは当然ながら、男性の名である。ことに注意すべき点、それはこの漢字表記だ。「利」は天下の民を益すること、また仏教語としても使われうる佳字だ。「北」は天子の座、「孤」は天子や諸侯の自称だ。いずれをとっても佳字だ。

(中略)

 このように見てみると、この表記は中国側の表記ではない。「天子」を自称した多利思北孤側の表記だ。これはなぜか。
 わたしには、その答は一つしかないと思われる。それは国書の自署名である。

 このような理解は、従来の記紀から外国史料を見る立場の論者からは、あるいは意想外に見えよう。しかしながら、わたしの依拠する〝同時代史料(中国側史料)から後代史料(記紀)を見る″という立場からは当然なのである。
 その同時代史料である『隋書』には、倭国の多利思北孤が隋の煬帝のもとに国書を送ってきたことがしるされている。有名な、

  日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや……

の一文は、この国書にあったのだ。
 とすれば、その国書に、差出人たる本人(倭王)の自署名があったのは、当然だ。わたしたちでも、自署名なしの手紙など出しはしない。まして国家間の国書だ。〝うっかり自署名を忘れて出した″などということは考えられないであろう。



 現在残された史料の範囲では推定レベルの結論しか得られないが、同じ推論でも古田さんの方が真実性がある。古田さんが解明してきた全古代史の中に置けばなおさらである。
 この「多利思北孤」が自署名だとすれば、「多利思北孤=聖徳太子」であるわけがない。聖徳太子が「タシリホコ」を名乗った記録など、もちろん皆無だ。
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