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417 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(69)

6世紀から7世紀へ

2006年1月3日(火)


 6世紀後半は適切な資料を欠く。古田さんは無念の思いを吐露している。しかし「頼むべき史料が乏しい。遺憾ながら、これが実状なのである。歴史学では、遺存史料の有無という限界をほしいままに超えることは許されない。」とし、「わたしたちは想像しすぎてはならないで
あろう。」と自戒しつつ、6世紀から7世紀への時代の推移を論考している。

 時代推移をはかる上での必要事項が含まれるので、史料欠損の実情をみておく。

 まず中国史書。
 その時期の中国史書は『梁書』『陳書』だが、『梁書』の天監元年(502)の記事(武帝が倭王武に授号した記事)以後、倭国関係の記事がまったくない。このことについて古田さんは次のように述べている。


 これはもちろん、倭国との交渉がなかったわけではない。右の二書とも、梁・陳とつづいた南朝が、北朝の隋によって滅ぼされたあと、隋を継いだ唐朝の中で作られた。当然「陳→隋」間の文書継受は万全ではなかった。焼け残り、散逸し残った史料だけが使用された。そこには、不幸にも、倭の史料はすでに失われていたのである。

 北朝系の『魏書』『周書』『北斉書』等には、もちろん倭国の記事はない。



 つぎに『三国史記』。ここにも六世紀の倭国記事がない。

 日本側の史料。
 『古事記』。それまでに豊富にあった説話が6世紀の記録では姿を消す。
 『日本書紀』には豊富な記事がある。しかし「古事記」に記載がない以上、「記紀の説話を対比して、いずれがより原初的な説話であるかを問う」という古田さんの方法論はここでは禁じられていることになる。

 『日本書紀』には豊富な記事がある。しかし、その史書の史料性格上、〝そこにあるから、それは事実だ″というわけにはいかないのである。何しろ、他(たとえば九州王朝)の史料を切り取ってきて、適宜、自由な時代の、自由な個所に挿入する、そういうやり方をしているのだから、その史料性の確認のしょうがない。これが原則だ。したがって、史実を求める限り、そこにあっても、容易には使えないのである。

 (事実、そこにのべられている大量の朝鮮半島関係記事は、九州王朝関係の史料を切り取ってきて、あたかも、近畿天皇家のもとの記事であるかのように、換骨奪胎して使用しているという可能性が高い。)



 ところが例外があった。『三国遺事』の中に、この時期の朝鮮半島と倭国(日本)との関係を示す記事が一つあった。古田さんはそれを基点に6世紀後半の状況を推論している。

融天師彗星歌(新羅、真平王代<579~631>)
第五、居烈郎、第六、実処郎、一に突処郎に作る。第七、宝同郎等、三花の徒、楓岳に遊ばんと欲す。彗星の心大星を犯す有り。郎徒、之を疑い、其の行を罷(や)めんと欲す。時に天師、歌を作り、之を歌う。「星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反(かえ)
りて福慶を成(な)さん」と。大王歓喜す。郎を遣わして岳に遊ばしむ。(『三国遺事』巻五)

(大意)
 居烈郎・実処郎(あるいは突処郎)・宝同郎等、三人は、楓岳に遊ぼうとした。すると、天空で、彗星(ほうき星)が心大星(二十八宿の一。心宿。さそり座の中央付近)を犯しているのを見た。
 三人はこれを地上におこるべき異変(凶事)の前兆とし、行をやめようとした。
 その時融天師は、歌を作って、歌った。「星が異変を生じ、すぐ滅(き)えようとしている。これは、日本兵が本国に還る、という前兆だ。我が国(新羅)にとって、かえって福慶を成すだろう」と。これを聞いて、大王(真平王)は歓喜し、再び三人を岳に遊ばしめた。

 右の説話の背後には、日本兵の長期侵略によって、新羅王も、一般の人士も、憂患の中に歳月をすごしてきた、その実情がうかがわれる。
 四世紀後半、すでに新羅王は倭人の国境侵犯を高句麗の好太王に訴えていた。その対立は、本質的に何等改善されていなかったかのようである。

 もっとも、大きな変化があった。

 第一。
 新羅の真興王23年(562)、「任那の官家」が滅亡してより、倭国は朝鮮半島側における重要拠点を失った。当然、今まで以上に、倭国は対新羅紛争に深入りすることとなったであろう。そして、いわゆる任那回復という以上に、新羅領内への侵入、長期占領、すなわち侵略を継続していたのではないか。そのように思わせる一種のなまなましさを、右の史料はもっていた。

 第二。
 禎明3年(589)、陳は滅亡した。隋に滅ぼされたのである。これはこの真平王の時代だった。その結果、バランスは崩れた。
 今まで、少なくとも朝鮮半島南半部は、南朝陳側の支配下、その大義名分の旗の下におかれていた。倭王は、その南朝の天子のもとで、「使持節・都督・六国諸軍事……」を称してきた。しかし今は、その名分を失ったのである。そのため、日本兵は退去したのであろうか。そしてその予兆を、早くも融天師は察知した。右は、そういう説話なのであろうか。それとも、名分の歯止めを失った両国は、さらに抜きさしならぬ対立へと突入していったのであろうか。

 いずれとも分らない。乏しい史料をもとに、わたしたちは想像しすぎてはならないであろう。 史上の結果論から見れば、近視的には前者、遠視的には後者だったように思われる。なぜなら、次に現われる『隋書』タイ(ニンベン+妥。以後「イ妥」という合成文字で代替する。)
国伝のしめすところ、「新羅→倭」間の抗争のあとは見出しがたい。それは七世紀初頭だ。しかしそのあと、七世紀後半、両国はそれぞれ、唐と百済と連合し、決定的な戦闘状態(白村江の戦い)に突入することとなったからである。


 もちろん、「白村江の戦い」を闘ったのは「九州王朝」である。次回から『隋書』イ妥国伝を解読することになる。

 なお、上記史料では「倭国」を「日本」と呼んでいるが、このことについて古田さんは次のようにコメントしている。

 倭国〈九州王朝〉は本来、「日本」とも自称していたようである。この点、のちに「倭国」〈九州王朝〉と「日本」〈近畿天皇家〉と別称された時代(『旧唐書』倭国伝・日本伝)とは、時期を異にしているようである(後述)



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