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430 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(81)
白村江の戦(4)
2006年1月31日(火)


 「白村江の戦」後のヤポネシアの状況はどうなったか。古田さんの記述を要約する。
 倭国の総帥・筑紫君薩夜麻は捕われた。権力と共に権威をも失ってしまった。
 上毛野君稚子は騎下のおびただしい将兵と共に消息を絶った。。上毛野君はかつて武蔵の国造の任命をめぐってヤマト王権と任命権を争ったほどの関東の大王だ。(安閑紀、元年閏12月)。
 ヤマト王権に対して上に立つ、あるいは並び立つ存在は、実質上消え去ったのに対して、ヤマト王権の中枢は無傷のまま残った。斉明天皇は九州で病没したが、権力の実質はすでに中大兄皇子(天智)や藤原鎌足の手にあった。
 また、ヤマト王権の勢力の浸透した近隣領域も実勢力を温存したまま終戦を迎えた。例えば、駿河の国造系の豪族とされる廬原君臣の軍一万の到着前に、「白村江の戦」は起こっている。また、備中の国(吉備)の兵二万は、斉明の病没を理由に戦場に赴いていない。それは、当時皇太子であった天智天皇の命によったという。(「備中国風土記」)

 上記のような状況を裏付づける記事が「日本書紀・天智紀」にある。664年(天智3年)、「白村江の敗戦」直後の記事だ。

 春二月、己卯朔、丁亥、天皇、大皇弟(大海人皇子、天武天皇)に命じて、冠位階名を増換し、及び氏上(うぢのかみ)・民部・家部等の事を宣す。
 其の冠は二十六階有り。大織(しき)・小職・大縫(ぶう)・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上、大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建(こん)・小建、是を二十六階とす。
 前の花を改めて錦と曰ふ。

 もしもヤマト王権が「白村江の戦」の総帥だとしたら、敗戦直後のこのはしゃぎようは異状だ。これを古田さんは「世にも不思議な物語」と言っている。(日本古代新史)
 「法隆寺の中の九州王朝」から、古田さんの詳述を書き出そう。



 絢爛たるものだ。前の、推古朝の「冠位十二階」が、九州王朝(倭国)の「冠位十二階」の準用とおぼしき姿をもっていたのに比べると、その豪華なる序列の施行は、空前の盛事といっていい。

 ところが何と、これが白村江の惨敗の記事(天智2年9月)の直後なのである。その間、 わずか4カ月。
 おびただしい将兵は異国の白村江に、その空しき屍をさらし、いまだその骨すら朽ちやらぬとき、筑紫の君のような(たとえ彼を天皇家の配下とみなしてみたとしても)、主要人物すら捕囚の身にあえいでいるとき、いわんや多くの将兵は、その生死さえ定かでないとき、もし、近畿天皇家が、この戦の開戦の発動者であったとしたら、この時期に、こんなきらびやかな、まるで祝典行事のようなものが、できるわけがない。

 不幸にも、わたしたちにも、経験がある。昭和20年8月、広島・長崎とつづいた原爆投下のあと、敗戦の15日をむかえた。わたしは18歳を過ぎたばかりのときだった。
 では、その4カ月あと、昭和20年の1月、わたしは何をしていたか。広島の廃墟の中をさまようていた。生きているか、死んでしまったか、行方も知れぬ友人や知人を求めて空しくさまようていた。広島の一角に、生きのびるためだけに朝を迎え、夕を送っていた。とても、にぎにぎしい祝典気分ではなかった。その一点においては、廃墟の中の一つのごみのように生きのびていたわたしと、政府当局のお歴々と、どれほどの差があるものでもなかったであろう。むしろ開戦責任をもつ当局者にとって、その悲痛さは、わたしたち庶民とは、また別段のきびしさがあったことであろう。

 このような経験からかんがえても、近畿天皇家主導の白村江の戦という命題と、天智3年2月の「二十六階」制定記事とは、氷炭相いれぬものだ。だのに、従来の史学は、戦前も戦後も、両命題を共に肯定してきた。
 戦前の史学では、この白村江の敗戦にふれることが少なかった。しかし、戦後の史学では、当然ながら、この大事件は、あるべき位置に復活した。ために、右の矛盾は顕在しているにもかかわらず、それに背を向けたままで、今日に至っている。しかし、もはやその欺罔は万人の目のまえに明らかにされたのである。

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429 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(80)
白村江の戦(3)
2006年1月29日(日)


 「日本書紀」は「白村江の戦」をどのように記録しているか。
 『旧唐書』『三国史記』によれば「白村江の戦」は662年に戦われた。天智元年に当たる。しかし日本書紀は天智2年(663)8月としている。こんな大事件なのに一年のずれがある。関係記事を、古田さんは次のように抄録している。

663年(天智2年)
(A)3月
 前将軍、上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)・間人連大蓋(ましとのむらじおはふた)、中将軍、巨勢神前臣訳語(こせのかむさきのおみをさ)・三輪君根麻呂(ねまろ)、後将軍、阿部引田臣比邏夫(ひけたのおみひらぶ)、大宅臣鎌柄(かまつか)を遣はし、二万七千人を率て新羅を打たしむ。

(B)6月
 前将軍、上毛野君稚子等、新羅の沙鼻岐奴江(さびきめえ)、二城を取る。

(C)8月
13日
 是に、百済、賊(新羅)の計る所を知り、諸将に謂ひて曰く、「今聞く、大日本国の救将、廬原(いほはら)君臣、健児万余を率ゐて、正に海を越えて至らむ。願はくは、諸将軍等は預(あらかじ)め図るべし。我自ら往きて白村(はくすき)に待ち饗(あ)へむ」と。
17日
 戊戌、賊将、州柔(つぬ)に至り、其の王城を繞(かこ)む、大唐の軍将、戦船一百七十艘を率ゐ、白村江に陣烈す。
27日
 戊申、日本の船師・初めて至る者、大唐の船師と合戦す。日本不利にして退く。大唐陣を堅くして守る。
28日
 己酉、日本の諸将、百済王と、気象を観ずして、相謂ひて曰く、「我等、先を争はば、彼応(まさ)に自(おのづか)ら退くべし」と。更に、日本の乱伍の中軍の卒を率ゐ、進んで大唐の堅陣の軍を打つ。大唐、便ち左右より船を爽(はさ)んで繞戦(じょうせん)す。須臾(しゅゆ)の際、官軍敗続す。水に赴いて溺死する者衆(おほ)し。艫軸(へとも)、廻旋するを得ず。……其の時、百済王豊璋、数人と船に乗り、高麗に逃げ去る。

 この記事に対する古田さんの論述は次の通りである。


 「前・中・後軍」の陣立ての中で、「上毛野君稚子」が筆頭にあげられてある。第二巻の好太王碑のところでのべたように、王と王子等が先頭に立って戦う慣例から見ると、この人物のもつ役割は大きい、と見ねばならぬ。
 しかし、右の(A)(B)の記事の以後、彼の名は一切現われない(この六将軍のうち、「巨勢神前臣・三輪君根麻呂・大宅臣鎌柄」の三人も同様、他に現われない。これに対し、「間人達大蓋・阿部引田臣比邏夫」のみは、あとに出現する。前者は、天武4年4月に「小錦中」を与えられ、後者は、その前後、活躍したこと著名。斉明期には「筑紫大宰帥」だったようである。 ―『続日本紀』養老4年正月27日条)。


 次いで、古田さんは次の「持統紀」の記事に着目する。

(D)690年(持統4年)10月
 乙丑、軍丁、筑後国の上陽郡(かみつやめのこおり)の人、大伴部博麻(おおともべのはかま)に詔して曰く「天豊財量目足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇(斉明天皇)の七年(661)、百済を救ふ役に、汝は唐軍の為に虜とせらる。天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(天智天皇)三年(664)に?(およ)びて、土師(はじの)連富杼(ほど)・氷連老(おゆ)・筑紫君薩夜麻(さちやま)・弓削連元宝(がんほう)の児、四人、唐人の計る所を奏聞せむと思欲(おも)へども、衣粮無きに縁(よ)りて、達する能はざるを憂ふ……」


「筑紫君薩夜麻」が唐側の捕虜となっている。おそらく白江の敗戦のとき(もしくはその前後)であろう。ところが、戦いの時点には、この人物の名は一切出現しない。
 出現するのは、天智10年(671)11月、「沙門道久・韓嶋勝裟婆(すぐりさば)・布師首磐(ぬのしおといわ) 」と共に、捕囚生活から釈放されて帰ってきた記事がはじめてだ。妙な話である。
 その帰国の秘密の裏側には、(D)にしめされた大伴部博麻が、みずからの身を奴隷に売って、彼等の帰国の資を得るという献身の美が存在したのであった。

 では、この「筑紫君」が、捕囚された経緯は何か。『日本書紀』は、明白にそれをカットしているから知りえない。知りえないけれど、分ることは、一に、先の「前・中・後軍」の中に入っていないこと。入っていれば、1六将軍以上」の存在であることだ。そして先ほどもふれたように、「王」が陣頭に立つ。これが東夷の国々の武勇の伝統であった。好太王碑にも『三国史記』にも、点々とそれはしめされていた。倭王済の父子も、同じ運命を辿っていたようである。

 以上の考察からすれば、答は次のようだ。
 (一)筑紫君薩夜麻(天智10年11月項では、薩野馬の卑字)は、対唐戦に参加していた。
 (二)「前・中・後軍」の三軍の上にあり、これを陣頭で統率していた。

 すなわち、右の帰結は次のようだ。――"(A)の三軍派遣の主語は、本来「筑紫の君」であった″ と。
 以上のように理解するとき、この記事は、中国や朝鮮半島側の史書と一致するのである。



428 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(79)
白村江の戦(2)
2006年1月29日(日)


 「白村江の戦」を「旧唐書」の「百済伝」と「帝紀」で読んでみる。
 。
660年(顕慶5年)
 百済の僧、道?、旧将、福信、衆を率いて周留城に拠り、以て叛す。使を遣わして倭国に往かしめ、故王子、扶余豊を迎え、立てて王と為す。(百済伝)

(イ)八月庚辰、蘇定方等、討ちて百済を平らげ、其の王、扶余義慈を面縛す。
(ロ)十一月戊戌朔、?国公、蘇定方、百済王、扶余義慈、太子隆等五十八人を献じ、則天門に俘とし、責(せき)して之を宥(ゆる)す。(帝紀)

 百済の将・福信の策戦により王位についた「扶余豊」とは、倭国で人質生活を送っていた王子である。
 これに対し、唐側が擁立していた百済王は「扶余隆」という。上の記事で福信を「旧将」と呼び、扶余豊を「故王子」と呼んでいるのは、その時点では彼等は百済の正規な将でも、現役の王子でもなかった、という唐側の立場を表明していることになる。

662年(龍朔2年)
 (7月、扶余豊)又使を遣わして高麗及び倭国に往かしめ、兵を請いて以て官軍を拒(ふせ)がしむ。

仁軌(帯方州刺史、劉仁軌)、扶余豊之衆に白江之口に遇い、四戦皆捷つ。其の舟四百艘を焚き、賊衆大潰す。扶余豊、身を脱して走る。偽王子、扶余忠勝・忠志等、士女及び倭衆を率いて並びに降る。百済の諸城、皆復(また)帰順す。孫仁師(左威衛将軍)と劉仁願(郎将)等と、振旅して還る。(百済伝)

 いわゆる「白村江の戦」である。唐側が連戦連勝したことを伝えている。しかし「旧唐書・帝紀」には「白村江の戦い」の記事がない。これについて古田さんは次のように論述している。


 ことは、本質的に、上の(イ)(ロ)の事件であり、顕慶五年という「白江の戦の二年前」に、すでに、終結していたのである。
 では、二年後の「白江の戦」とは何か。〝百済の叛徒を倭国や高句麗が救援した。それを新しい百済王の扶余隆と共に、これを討滅した″。いわゆる残敵掃討戦にすぎないのである。
 そして〝叛徒を支援した、高句麗は新羅に、倭国は日本によって、滅ぼされ、併呑され、消滅した″。さらに新百済も、新羅に併呑された。
以上が、東アジアの中心国たる大唐の目から見た、戦後処理であった。



427 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(78)
白村江(はくすきのえ)の戦(1)
2006年1月27日(金)



 618年、中国では禅譲という形で隋王朝が滅亡し唐王朝が成立した。
 「日出ずる処の天子」が隋と対等に付き合おうとして煬帝の不興を買ったのに対して、ヤマト王権は唐にたいしてひたすら朝貢外交に始終し良好な関係を維持していた。このあたりの事情を古田さんは「日本書紀・舒明紀」と「旧唐書・倭国日本伝」の記事から読み解いている。
 まず、「舒明紀」の記事。

(1)(舒明2年=630)秋八月癸巳朔丁酉、大仁犬上君三田耜(みたすき)・大仁薬師恵日(くすしゑにち)を以て大唐に遣はす。

(2)(舒明4年=632)秋八月、大唐、高表仁を遣はして三田耜を送らしむ。

(3)(同4年10月)便(すなは)ち高表仁等に告げて曰く「天子の命ずる所の使、天皇の朝(みかど)に到ると聞き、之を迎へしむ」と。
 時に高表仁対(こた)へて曰く「風寒き日に、船艘を飾り整へ、以て迎へ賜ふ、歓愧(くわんき)す」と。

(4)(舒明5年=633)春正月己卯朔甲辰、大唐の客、高表仁等、国に帰る。

 次は「旧唐書・倭国日本伝」の記事。

(A)貞観五年、使を遣わして万物を献ず。太宗その道の遠きを衿(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに斉せしむるなし。
 また新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いてこれを撫せしむ。表仁、綏遠(すいえん)の才なく、王子と礼を争い、朝命を宜(の)べずして還る。

 貞観五年は西暦で631年に当たる。つまり(A)は(1)と(2)の間に入ることになり、全てをヤマト王権と唐との外交記事と考えると時間の誤差が生じる。さらにそれ以上に(A)と(3)との外交の実態の決定的な相違点が大きな問題となる。

 (A)の記事について岩波文庫版は『礼を争ったことは、日本の記録にないが、当時の実状としてありそうなことである。』と注記している。このようにして「決定的な相違点」の解明を試みる学者はいない。古田さんを除いては。

 「近畿天皇家一元主義」(従来の古代学に対する古田さんの評語)を止揚した古田さんの論述は次のようである。



 (1)~(4)のように、両者ともきわめて仲むつまじいままで、帰国に至っている。
 これに反し(A)の場合、「王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」というわれている。史書としては異例のことに属しよう。

 これも考えてみれば、当然のことかもしれぬ。なぜなら、多利思北孤は、みずから「日出づる処の天子」を称していた。それが訂正された形跡はない。裴世清は口頭外交をもって、事態の悪化を回避したにすぎぬ。
 したがって、まともに、両者が自己の格式(ともに天子)を主張すれば、大唐の使者と倭王と、相対するときの座の取り方一つで、衝突することであろう。そしてそれは原理上、和する可能性はない。

 なぜなら、たとえば魏使と卑弥呼の対面の場合、必ず、魏帝の代理人たる魏使が上座、卑弥呼が下座であったことと思われる。
 この点、大唐の使者(高表仁)もまた、それを要求し、倭国側は対等(天子同士)を要求するとすれば、高表仁が倭王に会う前に(前段階に王子と会ったさい)、すでに位取りをめぐる紛争が生じることは自明だ。高表仁は、四角四面に大唐の立場を主張し、倭国の王子側の大義名分論とおりあうことができなかったのではあるまいか。

 この点、舒明の方は逆だ。「天子→天皇」だ。これは前者が優位、後者が劣位なのである。推古時代、「皇帝→天皇」であって、しかも朝貢の語が使われていた。推古側も、これを容認して返報している。おそらく舒明時代も、これと同じ態度だったであろう。高表仁はここに、和すべき相手を見出したはずである。

 要するに、近畿天皇家の使者は、九州王朝の使者の配下(地方の雄者、分流)として、同時に、あるいは前後して、大唐と交流した。しかし、両者の姿勢は、大唐側から見て、決定的にちがっていた。一方は、戦うべき相手、他方は和すべき相手だったのである。
 大唐側は、ただ漠然と決戦に突入したのではない。相手の内側を見定め、戦中と戦後への手を打っていた。少なくとも、手を定めていたのではあるまいか。
 裴世清・高表仁と、相次ぐ近畿天皇家との交流は、そのための下見、あるいは根まわしだったのではあるまいか。

 なお、右のように考えると、一つの不審が生ずるかもしれぬ。〝大唐と近畿天皇家との交流が『旧唐書』には現われていないことになるではないか″と。
 しかし、実はこの点は不審でも何でもない。なぜなら中国としては、「夷蛮」の各国主のみならず、配下の各豪族とも、幾多交流の歴史をもつ。たとえば、匈奴の単于との交流のみならず、各配下の単于とも直接交流が存した。けれども、その一つ一つがすべて匈奴伝に書かれるわけではない。むしろ、代表の単于との国交のみを記し、他は省略する。その方が原則なのである。

 さて、倭国の場合。七世紀代では、中国側が日本列島代表の王者と見なしていたのは、九州王朝、すなわち倭国の王者だった。「東西五月行、南北三月行」といった表現が、それを物語っている。
 したがって他(近畿天皇家以外にも、吉備や毛野や出雲など)の権力者も、それぞれ中国との交流を求めたであろう。中国も、礼(上下関係)さえ守れば、こばむところではなかった。しかし、それらは正史に必ずしも記載さるべきものではないのである。



 上記文中、「一方は、戦うべき相手、他方は和すべき相手だったのである。大唐側は、ただ漠然と決戦に突入したのではない。相手の内側を見定め、戦中と戦後への手を打っていた。」とあるが、ここで言う決戦とはいわゆる「白村江の戦い」である。この戦いを戦ったのは九州王朝であり、九州王朝は徹底的な敗北を喫した。九州王朝がその覇権をヤマト王権に奪われることになる直接の原因である。
426 詩をどうぞ(23)
2006年1月24日(火)


 「天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史」をお休みします。
 1月21日、「まもろう憲法!ゆるすな教育基本法の改悪を!1.21東京集会」に参加しました。あの降りしきる雪にもかかわらず、参加者は約2千名とのことでした。
 合唱・楽器の演奏・コントなど楽しいイヴェントも盛り込んだ充実した集会でした。

1・21集会


 オープニングの「ぞうれっしゃ合同合唱団」による合唱「ぞうれっしゃがやってきた」は熟年者から4,5歳ぐらいの子どもまでの約150名による大合唱でした。
 戦時中に、食糧不足のためか、あるいは空襲で破壊された檻から猛獣が逃れるたときの危険性を想定したからか、動物園の動物たちが殺されました。「ぞうれっしゃがやってきた」にはその話が歌いこまれていました。可愛らしい子どもの歌声を聞きながら、私は岩田宏さんの詩を思い出していました。そこで今日は久しぶりの「詩をどうぞ」ということにした次第です。

1・21合唱






動物の受難    岩田 宏

あおぞらのふかいところに
きらきらひかるヒコーキ一機
するとサイレンがウウウウウウ
人はあわててけものをころす
けものにころされないうちに
なさけぶかく用心ぶかく

 ちょうど十八年前のはなし

熊がおやつをたべて死ぬ
おやつのなかには硝酸ストリキニーネ
満腹して死ぬ


 さよなら よごれた水と藁束
 たべて 甘えて とじこめられて
 それがわたしのくらしだった


ライオンが朝ごはんで死ぬ
朝ごほんには硝酸ストリキニーネ
満腹し死ぬ


 さよなら よごれた水と藁束
 たべて 甘えて とじこめられて
 それがわたしのくらしだった


象はなんにもたべなかった
三十日 四十日
はらペこで死ぬ


 さよなら よごれた水と藁束……


虎は晩めしをたべて死ぬ
晩めしにも硝酸ストリキニーネ
満腹して死ぬ


 さよなら よごれた水と……


ニシキヘビはお夜食で死ぬ
お夜食には硝酸ストリキニーネ
まんぷくして死ぬ


 さよなら よごれた……


ちょうど十八年前のはなし

なさけぶかく用心ぶかく
けものにころされないうちに
人はあわててけものをころす
するとサイレンがウウウウウウ
きらきらひかるヒコーキ一機
あおぞらのふかいところに。


 岩田さんの作品にも、私の好きな詩がたくさんあります。もう一編。





 住所とギョウザ

 大森区馬込町東四ノ三〇
 大森区馬込町束四ノ三〇
 二度でも三度でも
 腕章はめたおとなに答えた
 迷子のおれ ちっちやなつぶ
 夕日が消えるすこし前に
 坂の下からななめに
 リイ君がのぼってきた
 おれは上から降りて行った
 ほそい目で はずかしそうに笑うから
 おれはリイ君が好きだった
 リイ君おれが好きだったか
 夕日が消えたたそがれのなかで
 おれたちは風や帆前船や
 雪のふらない南洋のはなしした
 そしたらみんなが走ってきて
 綿あめのように集まって
 飛行機みたいにみんな叫んだ
 くさい くさい 朝鮮 くさい
 おれすぐリイ君から離れて
 口ばくばくさせて叫ぶふりした
 くさい くさい 朝鮮 くさい


 今それを思いだすたびに
 おれは一皿五十円の
 よなかのギョウザ屋に駈けこんで
 なるたけいっぱいニンニク詰めてもらって
 たべちまうんだ
 二皿でも三皿でも
 二皿でも三皿でも!



 コイズミ・イシハラを代表とする蒙昧愚劣な為政者らが、ありもしない脅威を言い立てて、反中国・反朝鮮を煽り、偏狭なナショナリズムの復活を目論んでいます。そして、その扇動にうかうかと乗っかってしまう忠良なる臣民がじわじわと増え続けています。この忠良なる臣民らは、かって徒党を組んで在日朝鮮人を虐殺したように、時には為政者の意図以上に残虐な行為をたやすく実行してしまう恐ろしい存在です。
 しかし、そうした危険な激情に成長していく愚昧さは決して特異なものではないでしょう。私たちの日常生活のどこかに潜んでいるに違いありません。そのような愚昧さを、私たちも共有してはいないでしょうか。



425 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(77)
日出ずる処の天子(8) ― 法隆寺の中の九州王朝(3)
2006年1月22日(日)


 九州王朝の倭王・多利思北孤(=日出づる処の天子)がイ妥国伝に登場するのは 開皇20年(600)~大業4年(608)である。一方、法隆寺釈迦三尊の光背銘に刻印された 九州元号・法興は591年~622年に当たる。「上宮法皇=多利思北孤」だ。

 イ妥国伝が伝える多利思北孤に関する記述は、光背銘の「上宮法皇」をめぐる記載内容と よく対応している。以下、古田さんの論述を掲載しよう。


 多利思北孤は「日出づる処の天子」をもって自称すると共に、

 出でて政を聴くに跏趺して坐す。

とあるように、仏法の威儀たる結伽趺坐の姿をもって政務を聴いた、という。峻厳なる仏法 統治を志していたものと見られる。
 これに対し、釈迦三尊もまた、中央の釈迦像のみは、結伽趺坐の姿で作られている。仏像 として当然であるかとも見えようが、両脇侍が立像である点、また尺寸王身で作られたとい う釈迦像は、平常の「上宮法皇」の姿を摸したもの、と見られる点、見のがしがたい一致と いわねばならぬ。


 多利思北孤は、隋に使者を派遣し、次のように言わせていた。

 大業三年(607、煬帝)、其の王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。
 使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて 沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。

 このときの使者が持参した国書、それが例の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致 す、志無きや、云々」の文辞をふくむものだった。その上、多利思北孤は「沙門数十人」を送り、 仏法を学ばせているのであるから、仏法を篤く信じた王者であったことは、十 分に察しえよう。

 したがって相手(隋の煬帝)に対して「海西の菩薩天子」と呼びかけたとき、みずからも 「海東の菩薩天子」という自負をもっていたと見なすこと、それはおそらく不当ではないで あろう。
 とすれば、その「菩薩天子」とは、すなわち〝仏法に帰依した天子″の謂いに他ならぬ。 それは〝結伽趺坐して政務を聴いた天子″たる多利思北孤にふさわしき自負である。
 これと、光背銘中の「法皇」の称号、それは全く内実を同じくすることを、わたしたち  は知るのである。


 さらに、多利思北孤は、煬帝に対し、

 重興仏法(重ねて仏法を興す)

と、使者に言わせている。「重ねて」というのは、〝ふたたび″の意だ。煬帝をもって、〝第 二回目″に仏法を興隆させた天子、と見なしているのだ。では、〝第一回目″は。もちろん、 多利思北孤自身だ。みずからが仏法を興したことを前提にした上での発言なのである。
 では、「仏法を興す」という言葉を一個の熟語とすれば、それは何か。当然「法興」の一 語だ。

 以上、在位期間、「上宮」「法興」と、いずれも、光背銘とイ妥国伝と、中心人物の性格が本 質的に対応し、一致していることが知られよう。

 これによって意外にも、「多利思北孤(九州の王者)=上宮法皇」 の帰結にわたしたちは 到着せざるをえないのである。

424 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(76)
日出ずる処の天子(7) ― 法隆寺の中の九州王朝(2)
2006年1月20日(木)


「上宮法皇=聖徳太子」という定説を誤りとする論拠をまとめてみる。

第一点・「法興」という年号
 これは「倭国年号」であって、ヤマト王権のものではない。

第ニ点・「法皇」という称号。
 前回引用の日本書紀の記事では「厩戸皇子と曰す。」の後に、後世の呼称と思われる 聖徳太子に対する称号が三種類書き添えられている。

 更(また)は名けで豊耳聡聖徳といふ。或いは豊聡耳法大王と名く。或い法主王と 云す。

 聖徳太子は終生天子となったことはないのだから当然「法皇」とは呼ばない。 あくまでも「大王」あるいは「王」である。

第三点・「上宮」の意味。
 定説が「上宮法皇=聖徳太子」と断じている最大の論拠「上宮」について、 古田さんは次のように論述している。

 聖徳太子における「上宮」の名は、奈良県桜井市に残る「ウエノミヤ」の字 地名がこれに当るとされている。ところが、阿蘇山にも「上宮」(山頂にあった というもの)「下宮」(現、阿蘇神社)があり、大分県の英彦山南辺にも上宮山 があり、太宰府裏の竃門神社に「上宮」(山頂)「中宮」(中腹)「下宮」 (山麓)があるなど、その例はおびただしい。

 したがって「上宮」の二字をもって、「聖徳太子にあやまりなし」と信ずるのは、 「関白」とあれば、すべて「豊臣秀吉」と盲信する類の理解法ではあるまいか。 平安や室町期の文献にも、関白の頻出すること、当然だ。

 その上、この光背銘の「上宮」と聖徳太子の「上宮」には、重大な差違がある。 なぜなら、この「上宮法皇」の方は、この「上宮」で死んだ。この銘文がひっきょ うして死亡記事であり、その中心人物に関する在地名、もしくは在処名が、この 「上宮」の一語しか出現していないのであるから、そのように判断するしか、道はない。  しかるに、聖徳太子はこれに反する。推古紀の、

(推古九年)春二月、皇太子、初めて宮室を斑鳩に興す。

の一文が明示するように、以後、太子は斑鳩の地(現、法隆寺近辺)に住み、ここ で没したのである。 (推古二十九年)春二月、己丑朔、癸巳、半夜、厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨ず。

と明記されてあって、疑うべきところはない。要するに「上宮太子」の名は、そこに 住んでいた頃の名が、一種の固有名詞化して残った、あるいは使われたものであって、〝聖徳太子 は、上宮で死んだ″というテーマの表現ではないこと、当然である。

 このように考えてみれば、この「上宮」の一字をもって、「聖徳太子」と同一人物視 することの、いかに皮相の見方にすぎぬかが知られよう。



第四点・没年月日の矛盾。
 銘文の上宮法皇は法興32年(622)の2月22日に没している。
 これに対し聖徳太子は推古29年(621)の2月5日)に没したと「日本書紀」は 伝えている。到底、同一人物ではありえない。

 この矛盾を「定説」はどのように言い逃れているのか。例によって「日本書紀」 の記録を誤りだとする。これについての古田さんの批判は次のようだ。

 しかし、静思してみると、これは不可解である。なぜなら、この没年の時期は 『日本書紀』成立の養老4年(720)から、わずか百年前だ。その百年の間に、 聖徳太子の正しい没年月日が全く失われてしまったのであろうか。
 しかも、『日本書紀』が一人の迂闊な歴史家による草々の間の叙述なら、まだよ い。さに非ず。近畿天皇家のフル・メンバーを動員し、舎人親王を中心として成立し た正史だ。大和を中心とする貴族や学者たちのすべてが、この高名な太子の正しい没 年月日を忘れ去っていたのであろうか。

 それだけではない。この正史は、作られたあと、ひっそりと、何人かの机底に眠っ ていたのではない。逆に、近畿天皇家内の人士の間で、あるいは前で、さかんに講読 の行われたこと、すでに諸研究の明らかにしているごとくだ。

 とすれば、聖徳太子の乳母や知人、その葬儀に立ち会うた家々の人々、その子供や 孫が、この正史の講読の席に参じたはずだ。その中の誰一人、この没年月日の錯乱に 気づかなかったのであろうか。信じがたい。

 第一、その百年の間、聖徳太子の命日に、誰一人、この著名な太子をまつることす らしなかったのであろうか。『日本書紀』中において、聖徳太子は―天皇を除いて― 最大のスターとすらいえよう。これに比肩しうる者としては、わずかに日本武尊を 数えうるのみであろう。
 ところがこちらはわずか百年前。全員忘却の霧に埋もれるにはあまりにも短かす ぎる。この判断は果たして不当だろうか。

 このように考えてみれば、やはり『書紀』の伝える聖徳太子の没年月日は正しい、 とせねばならぬ。一般的な『書紀』不信論の問題と、これを混交してはならぬ。なぜ なら、確かに『書紀』という史書には、遺憾ながらあまりにも欺瞞が多い。盗用と おぼしき部分も決して少なくない。けれども、それらはすべて、あくまで天皇家の ためという明確な目標をもつ欺瞞である。無目的に、ただ執筆者の好みで史実を 漫然と書き歪めた、などということをわたしは信ずることができない。多数の貴族・ 学者たちの共同著作であるという点、正史であるという点、いずれから見ても、それ は不可能である。とすれば、やはり、聖徳太子の没年月日は『書紀』の記す通り、 推古二十九年二月五日である。わたしはそのように考えるほかはないのである。


第五点・推古天皇の不在。
 古田さんの論述。
 この光背銘が聖徳太子に関するものに非ざることを決定的に立証するもの、それ はこの光背銘における推古天皇の不在だ。聖徳太子がナンバー・ツーであった生前 はもとより、没後の今(癸未年=623=推古31年)作られる釈迦三尊は、当然推古 天皇下、それもそのお膝元で作られたはずだ。それなのに、その推古天皇らしき存在が、名はおろか、 影も形も見えていない。この一事をもってしても、本来、この光背銘を推古朝下の 飛鳥仏と見なすことは、牽強付会に非ずんば、到底無理だったのではあるまいか。

では、「上宮法皇」とは誰なのか。
423 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(75)
日出ずる処の天子(6) ― 法隆寺の中の九州王朝(1)
2006年1月18日(水)


 「法隆寺の中の九州王朝」。朝日文庫の「古代は輝いていた・第三部」の書名である。古田古代史を概観すること目的で始めたこのシリーズもまもなく終点に到着する。
 法隆寺の本尊・釈迦三尊は飛鳥時代の代表作とされてきた。この「定説」を疑ったものは、かって一人もいない。しかし古田さんはこれをきっぱりと否定する。
 『この仏像は飛鳥仏などではない。世にいわれているように、聖徳太子に関するものでは、全くない』、と。

 このように断定する根拠は、くだんの釈迦三尊の光背に刻まれた196字の銘文の中にある。その銘文に対する古田さんの論証は詳細にして堅固、約40ページにわたって展開されている。例によって、詳細は直接読んでいただく事にして、そのあらましだけを紹介する。

 まず、法隆寺本尊・釈迦三尊の光背銘文を、古田さんによる読み下し文で全文読んでみる。古田さんは前文を十段に分けて読み下している。


①法興元三十一年、歳次辛巳(621)十二月、鬼前太后崩ず。
②明年(622)正月二十二日、上宮法皇、枕病して?(よ)からず。
  (「?」は「余」の下に「心」という漢字)

③干食王后、仍(よ)りて以て労疾し、並びに床に著(つ)く。

④時に王后・王子等、及び諸臣と与(とも)に、深く愁毒を懐(いだ)き、共に相発願す。

⑤「仰いで三宝に依り、当(まさ)に釈像を造るべし。尺寸の王身、比の願力を蒙り、病いを転じ、寿を延べ、世間に安住せんことを。若し是れ定業(じようごう)にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇らんことを」と。

⑥二月二十一日、癸酉、王后、即世す。

⑦翌日、法皇、登遐す。

⑧癸未年(623)、三月中、願の如く、釈迦尊像并びに挟侍及び荘厳の具を敬造し竟(おわ)る。

⑨斯の徴福に乗ずる、信道の知識、現在安穏にして、生を出で死に入り、三主に随奉し、三宝を紹降し、遂に彼岸(原文では「土」+「岸」)を共にせん。六道に普遍する、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣かん。

⑲使司馬・鞍首・止利仏師、造る。



 「上宮法皇」とは何者か。さまざまな史料の用語例を例示しながら古田さんは次のように解読している。
 まず「上宮」。
 「上宮・下宮」とか「上宮・中宮・下宮」といったように、宮殿が一個以上ある場合に慣用される呼び名である。「上宮」は普通名詞だが、この仏像の最初の安坐地では「上宮」の一言でいずこを指すか、共通理解されていたと思われる。

 次にこの人物を取り巻く者に使われている用語。
 全て「単なる権力者の中の一員ではなく、至上の権力者」=「天子」に対するものだ。「太后」は〝天子の母″、「王后」は〝王の正夫人、皇后″、「法皇」〝仏法に帰依した天子″、そして「諸臣」も当然「帝」や「天子」に対する術語である。

 すなわち「上宮法皇」とは、『上宮を本殿としている仏法に帰依した天子』の呼び名である。

 「定説」はこの「上宮法皇」を聖徳太子とする。論拠は、四人の王子の誕生を記述した「用明紀」の次のくだりのようだ。


其の一を厩戸皇子と曰す。是の皇子、初め上宮(かみつみや)に居しき。後に斑鳩に移りたまふ。


 「上宮」について、岩波古典文学大系『日本書紀』は次のような注を書いている。


推古紀・帝説に、用明天皇が太子を愛して(池辺)宮南の上殿に居住させたとあり、これによって上宮太子の名号を生じた。上宮は平安末期写の宮内庁本や釈紀秘訓等にカムツミヤと訓むが、記伝は十市郡上宮村の地名によりウへノミヤと訓むべきものとする。その所在は池辺宮に近い桜井市上之宮であろう。

422 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(74)
日出ずる処の天子(5) ― 九州年号(3)
2006年1月15日(日)


 前々回に掲載した九州年号表の中の「吉貴」には「喜楽―端正―始哭(始大) ―法興」という別系列のものがある。このうちの「法興」は「伊予風土記」に現れている。
 さて、『日本書紀・敏達紀』に次の記事がある。


(敏達13年=584)是歳(ことし) 、蘇我馬子宿禰、其の仏像二躯を請ひ、鞍部村主(すぐり)司馬連等・池辺直氷田を遣はして、四方に使(つかい)して、修行者を訪(と)ひ覓(もと)む。是に於て、唯播磨国に於て憎の還俗する者を得。名は高麗の恵便(ゑべん)。大臣乃ち以て師と為す。……
是に由りて、馬子宿禰・池辺氷田・司馬達等、仏法を深信し、修行懈(おこた)らず。馬子宿禰、亦、石川の宅に於て、仏殿を修治す。仏法の初、弦(これ)より作(おこ)れり。


 ヤマト王権の本拠地・飛鳥の仏教文化が播磨仏教から伝播されたことを伝えている。古田さんはこの記事から次のような問題を引き出している。


 このような伝播状況から見るとき、わたしたちは、同じ蘇我氏が六世紀末葉から七世紀初頭にかけて飛鳥の地に建築した一大寺院、飛鳥寺、その別名たる法興寺の名について、深刻なる認識に到達する。それは、九州年号の「法興」にもとづくものではないか、と。
 この「法興」の年号は、九州年号に属している。とすれば、播磨なる「明要寺」と同じく、この「法興寺」もまた九州年号にもとづく寺号(別号)ではないか。そういう従来の仏教史家の夢想だもしなかった問題が浮かび上る。

 この間題は、九州年号=倭国年号に関する最深の個所へと、わたしたちを否応なくおもむかせる。それは法隆寺釈迦三尊の光背銘に関する問題だ。それは、金石文の中の九州年号という、問題の決め手となるべき深所だ。


 あの特異な仏像「法隆寺釈迦三尊」の光背銘に登場する「上宮法皇」、定説はこれを「聖徳太子」としている。この「定説」が聖徳太子に関わるもう一つの「虚偽」である。次回は「法隆寺釈迦三尊の光背銘」の解読を読む。
421 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(73)
日出ずる処の天子(4) ― 九州年号(2)
2006年1月14日(土)


 九州年号、正確には倭国年号というべきか。
 倭国年号が実在したことを如実に示す証拠が「続日本紀」にある。聖武天皇の神亀元年(724)の記録。古田さんの口語訳で読んでみる。


 (神亀元年の)冬十月丁亥朔。治部省が奏言した。
 京(みやこ)や諸国の僧尼を登録させた、その名籍をしらべてみるに、或は、入道した、もとの経緯(いきさつ)に関し、その披陳状に申しのべるところがハッキリしないものがあります。或は、その僧尼の名前は「綱帳」にはあっても、かえって「官籍」の方には脱落しているものもあります。或は顔かたちで、ほくろをしるしながらも、一致していないものもあります。
 以上、すべて千百二十二人。「格式」(「律令格式」の内の実施細目)に准じあてはめて、「公験」(公的な許可状)を給わるべきでありますけれども、いかに処分していいか、分りません。(聖武天皇の)お裁きを伏してお聴きしたいと思いますと。

 (聖武天皇の)詔報(返事の詔勅)に曰く、

 (僧尼の披陳状によれば)『白鳳以来』『朱雀以前』とか、のべているけれども、それらの「年代」ははるかに遠いことであり、(当の僧尼に)尋ね問うてみても、ハッキリさせにくい。
 また所司の方で記注しているところも、粗略の点が多い。(だから、過去の経緯は問わず)新たに見名(現在の名籍)を一定して、それによって公験を与えるようにと。


 この記録に対する古田さんの分析を「日本古代新史」から書き出してみる。 (この著書は「古代は輝いていた」三部作のダイジェスト版にあたる。古田古代史の概略を知るというこのHPの目的にはこの著書が便利だ。より詳しい論証を検討したい場合は「古代は輝いていた」三部作を読んでください。)
 まず「年代」という語が〝帝王の治世″をしめしていることを確認して次のように論述している。


 さて、ここで聖武天皇の詔勅が「年代」といっているのは、当然ながら〝「白鳳」や「朱雀」といった年号が使われた、その当の「治世」″のことを指している。少なくとも、ふくんでいる。それは文脈上当然だ。
 ところが、白鳳・朱雀とも前回の表に見るように七世紀の後半だ。八世紀初頭に当る聖武天皇の神亀元年(724)から見て、けっして〝時間的にはるか昔のこと″ではない。
 すなわち、これはただの「時間」ではない。「空間」もふくんでいる。大いにふくんでいる。〝この「白鳳」とか「朱雀」とかいう年号は、わたしたちの王朝で作ったものではないから、今わたし たちが調べようとしてもなかなか事の実態をつかみにくい″そういっているのだ。

 考えてもみよう。神亀元年といえば、日本書紀の成立した養老四年(720)の四年あとだ。つまり、聖武天皇の机の上には、できたてのほやほやの日本書紀がおかれていたはずである。その正史には、「白鳳」という年号も、「朱雀」という年号もない。まったくない。この事実を正視すれば、この二年号が、〝天皇家の年号でない″ことは、およそ自明の事実なのである。他に考えようはない。


 だが天皇制イデオロギーに呪縛されている学者はまたしてもこじつけの説を掲げる。日本書紀には「白雉」「朱鳥」なら登場する。これと結びつけて「白鳳=白雉」「朱雀=朱鳥」なのだと主張する。


 率直に考えてみれば、これはいかにも不当だ。なぜなら「白雉」ならきじ   おおとり 「白雉」、「朱鳥」なら「朱鳥」と、ハッキリ書けばいいのであって、その「雉(きじ)」を「鳳(おおとり)」に〝昇格″させたり、「雀」を「鳥」へと〝一般化″すべき理由などどこにもない。
 ことに、日本書紀を公布した直後だ。その正史にない「年号」を、もし天皇自身が使って詔報を出すとしたら、一種、混乱をきたすだけであって、一利もない。知れ切ったことだ。
 そうではない。だからこそ、〝日本書紀にない年号など、使うな″。そういっているのだ。すなわち、裏返せば「日本書紀にない年号」が、それまでは実際に使われていたのである。


 倭国年号が実用されていた痕跡が九州とその周辺の寺院・神社などに残っている。古田さんが挙げられている例。

①貴楽弐(二)年創立 (欽明期)
 (福岡県)御井郡東鯵坂両村、若宮大菩薩(久留米史料叢書、第七集)
②白鳳十八年創立(天武期)
 (熊本県)玉名郡内田手永、↑津原村、飛尾大明神、春鏡社〈肥後国誌〉

③知僧三年創立(欽明期)
 (佐賀県)與賀淀姫大明神(肥前古跡縁起)

④定居元年(推古期)
 (山口県)佐波郡・西佐波令、仮屋村、福宝寺・百済の琳聖の渡来。〈防長風土注進案〉


 九州年号は九州周辺だけで使われていたのではない。近畿の中でも九州年号が実用されていた例として、古田さんは兵庫県神戸市の丹生(たんじょう)山明要(みょうよう)寺をあげて言う。


 この「明要」は九州年号だ。文亀三年(1503)に、沙門祐賢が「勧進」(寺の普請のための募金)を求めてしるした公的な書状が丹生山明要寺文書として残されている。その中に、この寺の創立は、

明要元年、辛酉、三月三日

のことだとのべている。この「辛酉」という干支は、先の九州年号表の中の「明要元年」とピッタリ合っている。まがうかたもない九州年号だ。


420 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(72)
日出ずる処の天子(3) ― 九州年号(1)
2006年1月13日(金)


 かねて古田さんの文庫本以外の著書を求めて大きな書店を三店歩いたが、どこにもない。
 先日、神保町に行く機会があって久しぶりに古書店をのぞいてみた。4冊探し出した。そのちの 1冊「日本古代新史」(新泉社)を資料をして追加する。
 続いて古田さんはイ妥国の統治形態(兄弟統治)・律令(なんと、ヤマト王権の専売特許ではなかった!)・「泰王国」の所在地・「附庸」(イ妥国伝中の用語)の解明などへと論を進めているが、それらは割愛して、多利思北孤が「天子」を自称していることから説き起こしている「年号」問題を取り上げておこう。これは、聖徳太子関係のもう一つの「定説=虚偽」を解明するための一つの鍵となる。

 従来年号もヤマト王権の専売特許とされてきた。しかし「九州年号」と呼ばれているものがあった。これにも学者たちは見てみぬ振りをしてきたし、従って教科書もこれにはまったく触れない。
 ヤマト王権では「年号」は何時から始まっているのか。「日本史年表」から拾ってみる。

大化元年(645)~5年
白雉元年(650)~5年

ずっと飛んで

朱鳥元年(686)(元年だけで終わる)

また飛んで

大宝元年(701)

 「大宝」以降、現在まで続けられている。

 それでは「九州年号」と呼ばれている年号はどうか。次の表のように伝えられている。

九州年号対比表
(△は「日本書紀」に出現するのもの)
九州年号

 多利思北孤と年号についての古田さんの論述を読んでみる。


 多利思北孤と九州年号、この両者の結びつきは、いわば必然性をもつ。なぜなら少なくとも後漢代以来、天子と年号はワン・セットの概念であり、年号なしの天子などありえない。周辺の国にはその年号をもちいる――「正朔を奉じ」ていたのだ。これが東アジア世界の常識である。
 倭の五王が中国内部の称号体系を熟知し、それに依拠した上で、ユニークな新称号を考案し、それを自称し、中国側の追認をえていたことは第二巻にのべた(「六国諸軍事…:倭王)。
 これに対して多利思北孤の場合、自分の称号を中国側に追認してもらおうとはしなかった。しないどころか、中国側と対等の「天子」を称した。見事な対等性の主張である。
 しかし、それはひるがえって考えれば、最高度の模倣、模倣の極致だ。なぜなら、それまでは、絶えず中国朝廷の模倣を志しながら、この一点だけは模倣しなかった。否、模倣しえなかったからである。その一点に、今や到達したのだ。とすれば、前漢の文帝(後元元年=前163)以来、九百年近い長年月、延々と年号は作られてきた。それが天子のメモワール、大義名分の原点だった。

 しかるにせっかく「天子」を自称した多利息北孤が、天子のしるしたる「年号」だけは作り忘れたのか。考えられない。従来の「多利思北孤=近畿天皇家の王者」説の論者、すなわち、わたし以外のすべての学者は、この背理に対して、いつもかたくなに目をつぶってきたのである。

 しかもこの背理を裏づける問題がある。すでにのべた新羅の年号問題だ。『三国史記』新羅本紀によれば、

  ①新羅年号の成立 建元元年(536) ― 法興王
  ②新羅年号の廃止 太和四年(650) ― 真徳王

であり、この間、115年の間、自前の「年号」を用いていた。そしてこの新羅が「倭国」と国交を結んでいたことは、よく知られている。玄界灘の一衣帯水の両国だから、当然のことだ。『隋書』イ妥国伝に、

 新羅・百済・皆イ妥を以て大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬仰し、恒に通使・往来す。

とある通りだ。
 したがってその「イ妥国」側が〝新羅王、年号を有す〟の事実を知らなかったはずはない。そして多利思北孤の時代は、右の新羅年号使用期間の真只中だったのである。その真只中で、「天子」を自称した多利思北孤だ。彼が「年号をもたなかった」、そのような状況は、すでにのべた通り、むしろ到底考えられない。わたしにはそう思われる。


 この九州年号にたいして「偽作説」が根強くある。年号が天皇家以外にあるはずがないという、またしてもイデオロギー(虚偽意識)からする難癖である。しかし、何よりもそれらが長い間使われていた実例が数多くあるのだから「偽作説」にしがみついていても仕方あるまい。
 次回はその実例のいくつかを見てみよう。
419 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(71)
日出ずる処の天子(2)
2006年1月11日(水)


 600年、この「イ妥国」から隋(文帝)に使者がやって来る。


 開皇二十年、イ妥王あり。姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩?弥と号す。使を遣わし闕に詣る。
(?の文字は「奚」+「隹」、漢和辞典で調べたら、「鶏」の正字だそうだ。音読みは「ケイ」。以後「鶏」で代用する。)


 この王の「姓」と「字」をを古田さんはそれぞれ「アメ」・「タリシホコ」と読んでいる。号の方はその「読み」を示していない。
 「岩波文庫版」では「字」の「北」を「比」と勝手に変えている。(原文の写真が古田さんの著書にも「岩波文庫版」にも載っているがどう見ても「比」とは見えない、「北」だ。)そして次のような苦しいこじ付けを行っている。「定説」の論証とも言えぬ論証の常套手段の典型を示すものとして紹介する。


 タリシヒコ(足彦、帯彦)か。第一、これは男性のよびかたで女帝の推古天皇(豊御食炊屋姫トヨミケカシキヤヒメ)の音をうつしたと思われぬから、つぎの舒明天皇(息長足日広額オキナガタラシヒヒロヌカ)と混同した。第二、この時の使者を小野妹子とし、その出自は孝昭天皇の皇子天帯彦国押人命(アメノタリシヒコクニオシヒトノミコト)であるから、これと混同した。私見では天皇の諱に足彦というのが多いから、阿毎・多利思比孤は天足彦で一般天皇の称号であろう。


 ヤマト王権と結びつけるためにどうしても「北」は「比」でなければならない。「ヒコ(彦)」でなければヤマト王権の王に比定できない。
 「号」について「岩波文庫版」は次のように解説している。

 オホキミ(大君)、あるいはアメキミ(天君)であろうか。松下見林は推古天皇の諱の訛伝とするが、どうであろうか。

 虚偽の大前提をもとにしては、どのように論を進めても虚偽の結論しかえられない。
 古田さんの考察は次のようだ。


 「多利思北孤」という名前について考えてみよう。
 これは「垂りし矛」の意ではあるまいか。充ち足りた筑紫矛の王者として、ふさわしい名前であろう。あの「天日矛」などと同類の名である。
 これは当然ながら、男性の名である。ことに注意すべき点、それはこの漢字表記だ。「利」は天下の民を益すること、また仏教語としても使われうる佳字だ。「北」は天子の座、「孤」は天子や諸侯の自称だ。いずれをとっても佳字だ。

(中略)

 このように見てみると、この表記は中国側の表記ではない。「天子」を自称した多利思北孤側の表記だ。これはなぜか。
 わたしには、その答は一つしかないと思われる。それは国書の自署名である。

 このような理解は、従来の記紀から外国史料を見る立場の論者からは、あるいは意想外に見えよう。しかしながら、わたしの依拠する〝同時代史料(中国側史料)から後代史料(記紀)を見る″という立場からは当然なのである。
 その同時代史料である『隋書』には、倭国の多利思北孤が隋の煬帝のもとに国書を送ってきたことがしるされている。有名な、

  日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや……

の一文は、この国書にあったのだ。
 とすれば、その国書に、差出人たる本人(倭王)の自署名があったのは、当然だ。わたしたちでも、自署名なしの手紙など出しはしない。まして国家間の国書だ。〝うっかり自署名を忘れて出した″などということは考えられないであろう。



 現在残された史料の範囲では推定レベルの結論しか得られないが、同じ推論でも古田さんの方が真実性がある。古田さんが解明してきた全古代史の中に置けばなおさらである。
 この「多利思北孤」が自署名だとすれば、「多利思北孤=聖徳太子」であるわけがない。聖徳太子が「タシリホコ」を名乗った記録など、もちろん皆無だ。
418 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(70)
日出ずる処の天子(1)
2006年1月8日(日)


 教えられたままにほとんど疑うことのなかった「定説」の数々が、古田さんによって、虚偽であったことを知った。その中で私が最も驚かされた「定説=虚偽」は「日出ずる処の天子=聖徳太子」である。もう一つ、それと関連する「定説=虚偽」がある。「遣隋使=小野妹子」。実はヤマト王権は遣隋使など派遣していない。
 もっとも聖徳太子が「天子」を自称していることには疑問はあった。聖徳太子は天子になったことはない。その当時の天子は推古天皇で、聖徳太子はその輔弼に過ぎない。
 私は高校で教えられた通り、教科書の記述をそのまま鵜呑みにしてきた。教科書は「定説」の論拠(出典)を示さないが、暗黙のうちに学者を信じていた。
 その出典(「隋書」イ妥国伝)を知った今、直接それ(岩波文庫版)を読んでみた。一読、素人の私にも「日出ずる処の天子=聖徳太子」という定説に対して無数の疑問符が次々と湧き上がってくる。

 岩波文庫版では「イ妥」をすべて「倭」と訂正?している。史書を勝手に訂正?してしまうこの習性は度し難い。その「原文読み下し文」や「口語訳」に於いても、その解説や註には「AはBの誤りであろう」とか「~ではあるまいか」とか「~とでも解すべきか」とか、なんとも歯切れの悪い解説・註が続く。すべて「日出ずる処の天子=聖徳太子」という「定説」に縛られているためである。この定説を捨てるや否や、全てが明々白々となる。

 さて、316年の西晋の滅亡以来、南北対立を続けてきた中国は隋(文帝)によって統一された。隋王朝(文帝・煬帝(ようだい)・恭帝の三代)は581年~618年のわずか 37年間だが、『「隋書」イ妥国伝』が語るところは質的に豊かだ。

 イ妥国とはどこか。「イ妥国伝」は次のように書き始められている。


 イ妥国は百済・新羅の東南に在り。水陸三千里、大海の中に於いて、山島に依って居る。魏の時、訳を中国に通ずるもの三十余国、皆自ら王と称す。……其の地勢は東高くして西下り、邪靡椎に都す、則ち魏志の所謂邪馬臺なる者なり。古より云う、「楽浪郡境及び帯方郡を去ること並びに一万二千里にして、会稽の東に在り、?耳(たんじ)と相近し」と。


 『「隋書」イ妥国伝』が伝える「イ妥国」とは3世紀以来の「卑弥呼の国」と同じだと言っている。またその地理風土の説明では次のような件がある。


 阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って祷祭を行う。
 明年(大業4=608)、上(隋の煬帝)、文林郎裴清を遣わしてイ妥国に使せしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南、?羅(たんら)国を望む。都斯麻(つしま)国を経るに、?(はる)かに大海の中に在り。又、東、一支国に至る。又、竹斯(ちくし)国に至る。又、東、秦王国に至る。其の人、華夏に同じ。以て夷洲と為すも、疑いて明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東、皆イ妥に附庸す。


 近畿地方の地理説明は皆無だ。
 古田さんは克明に論証をしているが、私には上の文だけ充分だ。この「イ妥国」の治者はヤマト王権ではなく九州王朝であることを確信する。

417 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(69)

6世紀から7世紀へ

2006年1月3日(火)


 6世紀後半は適切な資料を欠く。古田さんは無念の思いを吐露している。しかし「頼むべき史料が乏しい。遺憾ながら、これが実状なのである。歴史学では、遺存史料の有無という限界をほしいままに超えることは許されない。」とし、「わたしたちは想像しすぎてはならないで
あろう。」と自戒しつつ、6世紀から7世紀への時代の推移を論考している。

 時代推移をはかる上での必要事項が含まれるので、史料欠損の実情をみておく。

 まず中国史書。
 その時期の中国史書は『梁書』『陳書』だが、『梁書』の天監元年(502)の記事(武帝が倭王武に授号した記事)以後、倭国関係の記事がまったくない。このことについて古田さんは次のように述べている。


 これはもちろん、倭国との交渉がなかったわけではない。右の二書とも、梁・陳とつづいた南朝が、北朝の隋によって滅ぼされたあと、隋を継いだ唐朝の中で作られた。当然「陳→隋」間の文書継受は万全ではなかった。焼け残り、散逸し残った史料だけが使用された。そこには、不幸にも、倭の史料はすでに失われていたのである。

 北朝系の『魏書』『周書』『北斉書』等には、もちろん倭国の記事はない。



 つぎに『三国史記』。ここにも六世紀の倭国記事がない。

 日本側の史料。
 『古事記』。それまでに豊富にあった説話が6世紀の記録では姿を消す。
 『日本書紀』には豊富な記事がある。しかし「古事記」に記載がない以上、「記紀の説話を対比して、いずれがより原初的な説話であるかを問う」という古田さんの方法論はここでは禁じられていることになる。

 『日本書紀』には豊富な記事がある。しかし、その史書の史料性格上、〝そこにあるから、それは事実だ″というわけにはいかないのである。何しろ、他(たとえば九州王朝)の史料を切り取ってきて、適宜、自由な時代の、自由な個所に挿入する、そういうやり方をしているのだから、その史料性の確認のしょうがない。これが原則だ。したがって、史実を求める限り、そこにあっても、容易には使えないのである。

 (事実、そこにのべられている大量の朝鮮半島関係記事は、九州王朝関係の史料を切り取ってきて、あたかも、近畿天皇家のもとの記事であるかのように、換骨奪胎して使用しているという可能性が高い。)



 ところが例外があった。『三国遺事』の中に、この時期の朝鮮半島と倭国(日本)との関係を示す記事が一つあった。古田さんはそれを基点に6世紀後半の状況を推論している。

融天師彗星歌(新羅、真平王代<579~631>)
第五、居烈郎、第六、実処郎、一に突処郎に作る。第七、宝同郎等、三花の徒、楓岳に遊ばんと欲す。彗星の心大星を犯す有り。郎徒、之を疑い、其の行を罷(や)めんと欲す。時に天師、歌を作り、之を歌う。「星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反(かえ)
りて福慶を成(な)さん」と。大王歓喜す。郎を遣わして岳に遊ばしむ。(『三国遺事』巻五)

(大意)
 居烈郎・実処郎(あるいは突処郎)・宝同郎等、三人は、楓岳に遊ぼうとした。すると、天空で、彗星(ほうき星)が心大星(二十八宿の一。心宿。さそり座の中央付近)を犯しているのを見た。
 三人はこれを地上におこるべき異変(凶事)の前兆とし、行をやめようとした。
 その時融天師は、歌を作って、歌った。「星が異変を生じ、すぐ滅(き)えようとしている。これは、日本兵が本国に還る、という前兆だ。我が国(新羅)にとって、かえって福慶を成すだろう」と。これを聞いて、大王(真平王)は歓喜し、再び三人を岳に遊ばしめた。

 右の説話の背後には、日本兵の長期侵略によって、新羅王も、一般の人士も、憂患の中に歳月をすごしてきた、その実情がうかがわれる。
 四世紀後半、すでに新羅王は倭人の国境侵犯を高句麗の好太王に訴えていた。その対立は、本質的に何等改善されていなかったかのようである。

 もっとも、大きな変化があった。

 第一。
 新羅の真興王23年(562)、「任那の官家」が滅亡してより、倭国は朝鮮半島側における重要拠点を失った。当然、今まで以上に、倭国は対新羅紛争に深入りすることとなったであろう。そして、いわゆる任那回復という以上に、新羅領内への侵入、長期占領、すなわち侵略を継続していたのではないか。そのように思わせる一種のなまなましさを、右の史料はもっていた。

 第二。
 禎明3年(589)、陳は滅亡した。隋に滅ぼされたのである。これはこの真平王の時代だった。その結果、バランスは崩れた。
 今まで、少なくとも朝鮮半島南半部は、南朝陳側の支配下、その大義名分の旗の下におかれていた。倭王は、その南朝の天子のもとで、「使持節・都督・六国諸軍事……」を称してきた。しかし今は、その名分を失ったのである。そのため、日本兵は退去したのであろうか。そしてその予兆を、早くも融天師は察知した。右は、そういう説話なのであろうか。それとも、名分の歯止めを失った両国は、さらに抜きさしならぬ対立へと突入していったのであろうか。

 いずれとも分らない。乏しい史料をもとに、わたしたちは想像しすぎてはならないであろう。 史上の結果論から見れば、近視的には前者、遠視的には後者だったように思われる。なぜなら、次に現われる『隋書』タイ(ニンベン+妥。以後「イ妥」という合成文字で代替する。)
国伝のしめすところ、「新羅→倭」間の抗争のあとは見出しがたい。それは七世紀初頭だ。しかしそのあと、七世紀後半、両国はそれぞれ、唐と百済と連合し、決定的な戦闘状態(白村江の戦い)に突入することとなったからである。


 もちろん、「白村江の戦い」を闘ったのは「九州王朝」である。次回から『隋書』イ妥国伝を解読することになる。

 なお、上記史料では「倭国」を「日本」と呼んでいるが、このことについて古田さんは次のようにコメントしている。

 倭国〈九州王朝〉は本来、「日本」とも自称していたようである。この点、のちに「倭国」〈九州王朝〉と「日本」〈近畿天皇家〉と別称された時代(『旧唐書』倭国伝・日本伝)とは、時期を異にしているようである(後述)